徐海(じょかい)
「嘉靖大倭寇」中、最大の賊首。王直と同じ徽州歙県の出身で、王直の腹心である徐銓の甥。幼くして杭州の寺に預けられ僧となっており、法名は普浄あるいは明山和尚と言う。このため彼を「徐明山」と記す資料もある。僧侶とはいっても長じるにつれ破戒僧の様相を呈し始め、色町に出入りして無頼とのケンカや、後に関わりを持つ羅龍文に遭遇したというエピソードを残している。

彼が海に出たのは、王直が陳思盻を滅ぼして海上を制覇した嘉靖30年(1551)である。僧侶の暮らしに飽きが来たらしく叔父の徐銓を頼って貿易拠点の烈港に出ている。徐銓は徐海を日本へ連れて行き、大隅に滞在した。彼を見た日本人が「明の生き仏さまが来た」と大歓迎し、彼のために船を一艘仕立てたという不思議な話もある。

翌嘉靖31年(1552)、徐海は新五郎ら日本人の部下を連れ、徐銓に従って明に向かった。そして烈港に入ったのだが、ここで一つの事件が起こる。王直と徐銓が官軍の依頼で海賊の討伐に出かけていたのだが、まさにこの時に徐海の部下の日本人が港を出て商船に海賊行為を働いたのである。被害にあった商船はそのまま烈港に入ったが、乗員が港の中で見覚えのある顔を見つけ、そしらぬふりで跡を付けて、それが徐海の部下であることを確認した。この事実はただちに王直に報告され、王直は徐海を呼びつけて「我らは港を出て賊を捕らえに行ったが、まさか港の中に賊がいるとは知らなかったわ!」と烈火のごとく怒ったという。これを素直に聞く徐海ではなく、怨んだ徐海は王直の殺害を画策する。危険を察した徐銓がこれを制して事なきを得たが、以後王直と徐銓の間は疎遠となっていく。

その後、徐銓は大隅に戻るが、ここで地元の商人に大金を借り、徐海をその質として置いていった。以後徐銓は広東の林国顕の義児となり、広東方面で活動する。徐海自身は薩摩・大隅の日本人を主力として浙江方面への侵攻活動を行うようになる。嘉靖34年(1555)、崇徳を攻略した徐海は妓女の王緑妹王翠翹の二人を得て自分の妻としている。このうち王翠翹は次第に徐海の愛情と信頼を得て、彼の周囲を取り仕切るようにまでなる。

寇掠から帰ってきた徐海は来日した弟の徐洪から叔父・徐銓の広東での死を知らされる。翌嘉靖35年(1556)、徐海は叔父の復讐のために広東への遠征を図るが、叔父に金を貸した日本商人らの圧力もあって従来通り浙江へと向かうこととなった。

徐海は腹心の辛五郎、薩摩の掃部、種子島の助五郎、日向の彦太郎、和泉の細屋らを引き連れて海を渡り、三月頃に大陸に上陸、柘林(しゃりん)に根拠地を構えた。ここに陳東葉麻らの率いる「倭寇」集団が連合し、二万の人間が徐海を盟主と仰ぐこととなる。徐海は占いに長けていたとも言われ、各都市の攻略も彼の占いによる指示に従って行われたともいう。
徐海は海塩、嘉興など各都市を攻略したが、4月21日の皀林での宗礼将軍率いる官軍との戦いで勝利を得ながらも重傷を負った。そのまま桐郷を包囲したが傷のために意気が上がらなかったようで、そこを総督・胡宗賢につけこまれる。胡宗賢は日本から帰国したばかりの陳可願を使者として徐海に官軍への降伏を呼びかけた。呼びかけに応じた徐海は桐郷の囲みを解き、陣地を構えて官軍と使者による交流を行うことになる。

胡宗賢は徐海と人質の交換を行う一方、徐海の愛人・王翠翹を官軍に内通させ、徐海と葉麻・陳東の間に離間策をしかけた。まんまとはまった徐海は葉麻・陳東を次々と捕らえて官軍に突き出す。やがて徐海は日本への帰還を断念して沈荘に拠点を構え、地元住民らを戦力として強制的に徴発するなどそこに居座る姿勢を示した。これに対し胡宗憲は陳東・葉麻らの残党を利用して徐海を包囲し、ついに奇襲攻撃をしかけた。
奇襲を受けた徐海は王緑妹・王翠翹の二人を連れて逃れたが、間もなく陳東の残党に追いつかれ、水に身を投げて自ら命を絶った(直接殺害されたとする資料もある)。副将の辛五郎も捕らわれ、徐海集団はここに壊滅した。

定番のフレーズだが、江南の親は言うことを聞かない子に「徐海が来るよ」と言って脅したという話まである。それ以外にも徐海については地方に数々の逸話・伝説が残っており、その倭寇史上における存在の大きさを物語っている。

主な資料
鄭若曽「籌海図編」
万表「海寇議」
鄭舜功「日本一鑑」
采九徳「倭変事略」
「嘉靖東南平倭通録」
「明史」日本伝・胡宗憲伝

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