葉麻(ようま)
嘉靖大倭寇中の大物首領の一人だが、その正体がはなはだ不透明な人物でもある。まずその名前の表記が「葉麻(倭変事略・嘉靖東南平倭通録など)」「葉明(籌海図編など)」「麻葉(明史など)」と史料ごとに異なっていて統一されていない。このため「麻生(あそう)の誤伝で日本人では」という見解もあったりしたのだが、『三朝平攘録』は「麻葉すなわち葉明は桐郷(浙江の都市)の出身で塩商人から海寇となった」と記しているので中国人と考えた方が良さそうである。ここでは一番信用を置いている地域密着型史料に従って「葉麻」としておく。「明史」など後世の著作で「麻葉」とあるのはこれの誤写が原因だろう。
塩商人から海上活動に走った経歴は王直とも通じるが、これを記す『三朝平攘録』は王直と死命を共にする友だったとも書いている。しかしこれは同姓の葉宗満と混同した可能性が高いと私はみている。

葉麻の行動が最初に確認されるのは嘉靖33年(1554)4月に倭寇集団が浙江の袁花鎮を襲った際である。このとき葉麻の名前は史料中に出てこないが、葉麻の妻となっていた祝婦という女性が袁花鎮で略取されていることからこれが推測できる。
翌嘉靖34年から葉麻に率いられた集団は浙江・直隷の各地を寇掠し、陳東等と共に川沙窪(せんさあ)に拠点を構えた。葉麻(葉明)について、『籌海図編』は「驍勇善戦、諸酋に冠たり」と記し、その勇猛ぶりを伝えている。その集団には筑前・和泉・肥前・薩摩・紀伊・博多・豊後などの人間が多く含まれていたという(『籌海図編』)。さらに嘉靖35年に入ると葉麻は陳東とともに徐海のもとに合流し、柘林(しゃりん)を拠点に数万の倭寇集団を形成する。しかし徐海が胡宗賢の誘いを受けて投降の姿勢を見せ始めたあたりから、彼らの間に対立が始まる。

なかでも葉麻と徐海の対立には祝婦という女性の存在もからんでいる。祝婦は先に書いたように嘉靖33年に葉麻に略取されその妻となっていたのだが、故郷を懐かしむ彼女を哀れんだ葉麻は彼女を故郷に送り返してやっている。これを知った徐海が「じゃあ俺がもらってやろう」などと言ったために葉麻が激怒し、その武勇を恐れた徐海は作り笑いでその場をごまかした。葉麻は徐海が本当に祝婦を我がものにしてはと懸念して、わざわざ部下をやって祝婦を連れ戻させている。このエピソードは『倭変事略』に小説的に描かれているが、当時良く知られた事だったらしく、他の史料にも「葉麻は一女子をめぐって徐海と争った」という記事が出てくる。

葉麻は徐海・陳東とともに乍浦に入るが、ここで徐海は総督・胡宗賢の離間策に乗って7月3日に葉麻を酒宴に招き、これを捕縛した。官軍に突き出された葉麻は「徐海の計に落ちるとは口惜しい。ここにいたっては徐海はもうだめだ。俺はあいつらがやってきて一緒に死ぬのを待つとしよう」と言ったという。その後の彼についての記事はないが、徐海滅亡後に陳東ともども処刑されたものと思われる。

主な資料
鄭若曽「籌海図編」
采九徳「倭変事略」
「三朝平攘録」
「嘉靖東南平倭通録」
「明史」日本伝

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