徐銓(じょせん)
嘉靖期海商の大物で、王直の長年の腹心。本名は徐惟学。「碧渓」と号した。王直と完全な同郷人で徽州歙県出身。初め塩商人を志して失敗した時から王直と行動を共にしており、以後長年にわたって王直のパートナーとしてしばしば資料中に登場する。
塩商として失敗したのち、葉宗満・謝和・方廷助らと出会い共に密貿易を開始、初め東南アジアへ向かい、のち日本へ向かった。このあたりは常に王直と行動を共にしているため詳細は省くが、王直の親友・腹心であり良き補佐役だったことがうかがえる。同郷人の巨頭・許棟の配下にあったと思われるが、嘉靖27年の官軍による双嶼攻撃で許棟らが捕らわれると、王直と共に残党の接収にあたった。その後王直に代わって日本から明への密貿易船を指揮したりしている。
嘉靖30年(1551)に王直がライバル陳思盻を滅ぼし海上を制覇すると、徐銓はその最大の腹心として一船団を任されるまでになり「徐碧渓」としてその名を知られるようになる。彼の配下の者達が寧波付近に堂々と上陸し、市街を闊歩していたことが資料中に出てくるほどで、地域の有力者や役人などにも強い影響力を持っていたと思われる。
しかし彼自身の勢力拡大はしだいに王直との間に亀裂を生じ始めていたらしい。博多・平戸など北九州を中心に交易ルートを持っていた王直に対し、徐銓は薩摩・大隅など南九州の商人らとの結びつきを強めていった。両交易ルートは強い対立関係にあり、自然に徐銓は王直集団からの独立傾向を強めていく。この傾向を強めるきっかけとなったのが嘉靖31年(1552)に起きた徐銓の甥・徐海による王直暗殺未遂事件である。これはあくまで徐海個人の暴発によるもので徐銓は徐海を説得して未然に防いだが、以後王直との関係が修復不能となった。徐銓は旗揚げ時からの仲間である方武(方廷助)とともに王直等と袂を分かつことになる。
南九州に戻った徐銓は徐海を大隅の商人に人質として引き渡し、代わりに多額の貿易資金を借用した。そして王直に対抗できる貿易ルートを築くべく、広東の海賊・林国顕と親子の契りを結びその配下に入った。
しかし翌嘉靖33年(1554)、広東沿岸で交易中、守備・黒孟陽の率いる官軍の急襲を受け、方武は捕らえられ徐銓は戦死した。彼の死は海に飛び込んでの溺死とされている。徐銓の死後、甥の徐海がその負債を返すために大規模な「倭寇」活動を行うことになる。
主な資料
鄭若曽「籌海図編」
万表「海寇議」
鄭舜功「日本一鑑」
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