許梓(きょし)
嘉靖期の海商で、双嶼港の主となった許棟の兄弟。許梓は「許四」とされる。南海貿易には許棟と許楠が先に赴いており、長男の許松と許梓は後からこれを頼って加わったものと思われる。

嘉靖22年以後、許棟と李光頭が双嶼港の主となると、許梓もその右腕として活躍したようである。しかし許松が逮捕され、商品も失って許楠らは窮地に陥った。そこで一計を案じ沿海の商人達を騙して商品を集めさせ、それらを借りのあったポルトガル人達に奪わせた(この事件には葉宗満も被害者として関わったらしい)。そしてその後は朱リョウら海賊と結んで沿海を荒らし回ったようである。これが結果として嘉靖27年(1548)の朱ガンによる双嶼港掃討を招くことになった。

双嶼港が壊滅し、許棟らが捕らえられた後も、許楠・許梓の活動は続いており、許棟の残党を糾合した王直とは別個の活動をしていたようである。
嘉靖33年(1554)、許楠・許梓の兄弟は広東に赴き、大物の海商である沈門(この人物と許兄弟の関係の詳細は全く不明である)が家族を連れて日本に亡命していることを知り、自分達も家族を日本へ連れていこうと考えた。そこで許梓が家族を連れだして広東で待機し、許楠が先に日本へ向かった。

しかしいつまで経っても許楠は広東に現れなかった。途中小琉球(台湾?)の島民に殺害されてしまったのである。やむなく許梓は家族を連れて隠れたが、嘉靖36年(1557)に日本調査から帰国した鄭舜功(『日本一鑑』の著者)に発見され捕らえられた。その後の処分ではかなり寛大な処置が執られ、湖広鎮渓衛への終身の戌刑(兵役に就かされる流罪の一種)となった。
主な資料
鄭舜功「日本一鑑」

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