蒋洲(しょうしゅう)
王直説得のため日本に渡航した変わり種の一書生。寧波の人で、字は宗信という。もともと諸生(学生)として学問に励んでいたが、遊侠の徒と好んで交わり、客を招いては音楽や投壺(壺に矢を投げ入れるゲーム)、酒宴に興じて、終日飽きることが無かったという。このため幅広い人脈を持っていたようだが、どうもアウトロー系の知人が多かった気配が強い。

嘉靖32年(1553)にいわゆる「嘉靖大倭寇」の活動が始まり、明の官憲はこの対策に追われた。やがて総督となった胡宗賢は倭寇問題解決のために人材を集めていたが、都督の万表から「私と同じ里に「蒋生」という者がいる。彼は縦横の士(使者役・策士)だ」と推薦を受け、蒋洲を自分の陣営に招いたとされる(黄宗義「蒋洲伝」)。ところが「倭変事略」によれば蒋洲はこのとき「法を犯して投獄されていた」とあり、密貿易と深く関わっていて逮捕されたのではないかとも推測される。

蒋洲は胡宗賢の幕府に招かれ、その命によって王直説得のため日本へ渡航することになる。この時「海上の亡命者十余人」を釈放して一緒に日本へ遣わしたと前出の「蒋洲伝」にあるが、案外蒋洲自身もこの釈放組の一人だった可能性が高い。
嘉靖34年(1555)秋、蒋洲は正使となり副使に陳可願(かれもまた怪しげな要素をもつ人物である)をそえ、他に数名の海外亡命者を引き連れて日本へと渡った。まず五島についた蒋洲は王直の義児である毛烈(蒋洲と同じ寧波人である)に会い、彼を通して王直に面会した。蒋洲は王直の家族が胡宗賢に囚われたものの厚く遇されていることを伝え、王直に投降するよう説得した。これに従った王直はひとまず毛烈と葉宗満を先に明へ向かわせ、自らは蒋洲とともに豊後の大友宗麟のもとへと向かった。これは大内義長(宗麟の弟でそれまで「日本国王」だった大内氏に養子に入った)を「日本国王」に仕立てて朝貢使節の形式をとらせ、これを利用して王直らの私貿易を行おうというもくろみだったようだ。

嘉靖36年4月(1557)、蒋洲は大友氏の使者僧・徳陽を伴って日本を出発した。王直も別の船に乗って相前後して出発したようだが、これは朝鮮半島に漂着してしまうというアクシデントを起こし明への到着はかなり遅れることになった。予定どおりに寧波に現れた蒋洲と徳陽だったが、王直を伴ってこなかったこと、また大友氏の使節が勘合符をもっておらず正式な日本使節としては不備が多かったことから巡按の周斯順に疑惑を持たれてしまい、蒋洲は獄に投じられてしまった。その後王直逮捕にいたるまでの紆余曲折の過程で、蒋洲自身も弾劾されるなどなかなか処分が決まらず、およそ一年以上獄中に放っておかれたようである。

ようやく無罪放免となった蒋洲であるが、はるばる海を渡った功績も全く無に帰し、呆然自失の呈であったという。その後は北方の陣営に招かれて参謀をつとめたこともあったようだが、これといった働きを見せてはいない。

主な資料
「乾隆キン県志・人物」
黄宗義「南雷文約」蒋洲伝
鄭若曽「籌海図編」「江南経略」
采九徳「倭変事略」
「嘉靖東南平倭通録」

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