陳可願(ちんかがん)
蒋洲とともに王直説得のため日本に渡航した人物の一人。蒋洲も相当に怪しげな経歴であるが、この陳可願も負けてはいない。出身も蒋洲と同じ寧波である。

嘉靖32年(1553)4月、太倉(長江南岸の都市)を蕭顕率いる倭寇集団が襲撃した。ここを守っていたのは操江都御史の蔡克廉であったが、彼の幕僚にこの陳可願と蔡時宜(やはり寧波人)の二人がいた。この二人、もともと兵を談じることを得意として何人かの役人や軍人に知己があり、彼らの推薦で蔡克廉の参謀となったのだった。蔡克廉はいたく彼らを気に入って側に置いていたが、この二人は実際に戦闘となるとこれといった奇策も建てず、ただ堅く守ることのみを主張していた。

このことが太倉の住民に彼らに対する疑念を植え付ける原因となる。住民たちは「寧波の人間は倭人とのつきあいが多い。あいつらは二人とも寧波人じゃないか。あんな奴を用いるなんてどうかしてる」と言って陳可願らが「奸細(スパイ)」ではないかと疑ったのだった。そしてたまたま王直配下の人間が城の中に潜入して外の倭寇と内応しようとしていたのが発見されたため、陳可願らへの疑惑は頂点に達した。事態を恐れた二人は蔡克廉に随行して城を出ようとしたが、住民たちに捕まってよってたかって殴られ、ほとんど半殺しの状態にされた上、投獄されてしまう。
以上のことは鄭若曽の「江南経略」に記されていて、胡宗賢の幕僚である鄭若曽としてはぼかして書いているわけだが、どうもこの二人、実際に倭寇達と何らかの係わりを持っていたと考えるのが自然なようだ。

そのまま約三年間獄中にあったが、総督となった胡宗賢が王直説得のための人物を集めた際に蒋洲とともに釈放された。そして嘉靖34年(1555)秋に日本へと渡航することになる。陳可願は副使となり、蔡時宜も同行した。王直に面会したのち陳可願らは翌嘉靖35年(1556)に毛烈葉宗満らを伴って一足先に帰国している。
その後の彼らについては全く分からないが、「籌海図編」には陳可願が日本への渡航途中で目撃した離島の人々の生活の様子などが報告されている。

主な資料
鄭若曽「江南経略」「籌海図編」

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