兪大猷(ゆたいゆう)
嘉靖期の対倭寇戦で活躍し、明代を代表する名将の一人。晋江の出身で字は志輔。貧しい軍人(百戸)の家に生まれた。少年時代には読書を好み、易法や兵法を学んだという。やがて兵法だけでなく自らも撃剣を学び鍛え上げた。父親が亡くなるとその職を継ぎ、やがて武会試に合格して千戸に出世した。しかし当時の海賊の頻発について意見書を書いたことが上司の逆鱗に触れ、杖刑に処された挙げ句職を奪われてしまった。
その後南方、北方に戦争が起こるたびに売り込みに走り、ある時などある総督の前で兵事を論じて総督を感激させ、全軍を驚かせたという。その後海賊の討伐などに功績を挙げたため、広東の防衛に抜擢され総督・欧陽必進に重く用いられた。そこで当時のベトナム黎朝と対峙し、数々の功績を挙げている。

兪大猷が浙江の倭寇対策に赴任するのは嘉靖31年(1552)からである。当時の浙江海上では王直陳思盻を滅ぼして海上を制覇し、官憲とも渡りをつけて密貿易を大体的に行っていた。着任するやいなや兪大猷は王直を敵視した意見書を続々と出している。当時の海上には相変わらず海賊が活発に活動しており、王直自身もその討伐に当たっていたのだが、兪大猷は海賊の背後に王直の存在があるのではと疑っていた。一部の資料によれば、ある海賊の討伐を王直に命じたところ、王直が攻撃する前にその海賊が逃げ去ってしまったので、兪大猷らは「海賊の背後に王直あり」と判断したのだという。兪大猷等の意見を受けて総督・王ヨ[小予]は嘉靖34年(1553)に王直の根拠地・烈港の攻撃を命じた。兪大猷は湯克寛とともに烈港を急襲、王直の根拠地を壊滅させた。王直自身は暴風に紛れて脱出し、日本へと落ち延びた。兪大猷はこれを「海底に潜む龍が起きて船が転覆しかけた」と報告している。

烈港攻撃をきっかけに大規模な倭寇活動、いわゆる「嘉靖大倭寇」が勃発する。兪大猷は海に陸に各地で倭寇相手に奮戦している。さすがに勝ちばかりというわけにはいかず、時折致命的な敗北をして停俸(給料停止)や停職の罰を受けている。どうにか勝利を得ることで前の罪を免れるという繰り返しである。
この時期の兪大猷の戦場はほとんど舟山群島の海域である。これは彼の持論で「倭寇は上陸すると手が付けられないが、海上ではさほど強くはない」という理由による。嘉靖35年3月には浙江総兵官に任じられ、その年の暮れには舟山に立てこもった倭寇を大雪に乗じて包囲殲滅する戦功を挙げた。

嘉靖35年、胡宗憲が浙江の総督となり、倭寇対策の総指揮を執ることになったが、胡宗憲の方策は王直を呼び戻し、これに海上治安を任せることにあった。兪大猷はこれに断固反対し、以後胡宗憲と険悪な関係となる。
翌嘉靖36年(1557)11月、ついに王直の船団が浙江海上に現れた。兪大猷はこの時戚継光とともに、王直を包囲する形で海上に布陣した。王直は先年の烈港のこともあって兪大猷の存在をかなり恐れたという。結局王直は胡宗憲に投降するが、その義子・毛烈らが舟山に立てこもって抵抗したため、兪大猷はこれを攻撃した。しかし毛烈らの抵抗が思いのほか激しく兪大猷らは苦戦を強いられたため、朝廷は兪大猷・戚継光らを弾劾し一ヶ月以内に勝利を得なければ停職とするとした。慌てた兪大猷は翌年七月に毛烈らが海に出た所を攻撃して勝利を収めたが、結局残党らは福建・広東の各地に散り、兪・戚の両将はその掃討に年月を送ることとなる。この間にも胡宗憲との対立がしばしばで、一度は讒言から投獄の勅命が降ったこともある。
その後嘉靖40年代を福建・広東方面での倭寇討伐(首領は張レン[王連]・呉平・曽一本など)に戚継光・劉顕らと共に明け暮れた。万暦の初め(1573ごろ)に死去し、「武襄」とおくり名された。
兪大猷は明代を代表する武将であるが、同時に文才にも恵まれており、その著作・意見書・書簡などは「正気堂集」としてまとめられている。

主な資料
「明史」兪大猷伝
兪大猷「正気堂全集」
鄭若曽「籌海図編」

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