王ヨ[小予](おうよ)
嘉靖後期に対倭寇、対モンゴルの軍事にしばしば関わった官僚。字は民応、直隷太倉の出身。父の王倬も南京兵部右侍郎まで務めた官僚で、彼も嘉靖20年に科挙に合格して進士となり官僚の道を歩む事になった。

嘉靖29年(1550)にモンゴルのアルタン=ハンが明領内に侵入した際、王ヨは対策に尽力して嘉靖帝の歓心を得る。以後軍務に関わることが多くなり、嘉靖31年に浙江沿海の海寇活動が激しくなると浙江および福建の提督軍務・巡視を命じられた。王ヨは兪大猷湯克寛を参将に抜擢、投獄されていた盧ドウの釈放を要請して現場復帰させるなど軍官たちの配置を行い、嘉靖32年には王直の密貿易拠点である烈港を兪大猷・湯克寛に攻撃させこれを駆逐した。しかしこの烈港攻撃によって「大倭寇」を招くことにもなる。

翌嘉靖33年に王ヨが福建方面を視察している間に浙江方面に倭寇の大挙侵攻があり、官軍もしばしば敗れたため、王ヨも責任を問われ弾劾された。嘉靖帝は王ヨを気に入っていたためその罪は問わず、対倭寇戦の総司令官役は張経と交代することになった。ちょうどその頃北方でまたモンゴル軍の侵入があったため王ヨは再び北方防衛に戻ることになる。

その後の対モンゴル戦もかんばしくなく、しばしば敗戦したため王ヨは次第に嘉靖帝の信用を失って行く。しかも嘉靖帝のもとで権勢をほしいままにした厳嵩父子にも憎まれたためその立場はますます悪くなり、嘉靖38年2月のモンゴル軍の大侵攻を防げなかった責任を問われ、ついに投獄された。当初刑部(刑法律担当の役所)は王ヨを辺境への流刑にすべきとしたが、嘉靖帝は「諸将がみな斬刑になるというのに、司令官が軽い罪になるというのはおかしいではないか」と言い、自らの手で斬刑に書き換えてしまい、翌嘉靖39年(1560)に北京の西市で処刑された。

主な資料
「明史」王ヨ伝

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