湯克寛(とうこくかん)
対倭寇戦で活躍した武将。ヒ(丕+おおざと)州衛の世襲の軍人の家に生まれた。長江の防衛に従事していた父の後を継いで都指揮僉事、ついで浙江参将となった。
嘉靖32年(1553)閏三月、浙江巡撫の王ヨの命令で王直の拠点である烈港を水軍で奇襲、兪大猷とコンビを組んで烈港掃討に成功したが、暴風の発生により王直は取り逃がした。翌月まで湯克寛は海上に王直を追跡して馬跡山でさらにこれを破ったが、やはり王直その人は取り逃がしてしまう。
その直後、江南地方各地に「大倭寇」の襲撃が始まり、湯克寛はその鎮圧に追われ各地に転戦する。5月に倭寇が海塩を包囲するとこれを守りきって撃退し、副総兵に任じられる。しかし賊首・蕭顕ら三百人の立てこもる崇明の南沙を攻撃した折は相手を甘く見て蕭顕の計略にはまって大敗。翌33年に南沙から出てきた倭寇を採陶港に撃破し、王ヨの推薦で浙西参将になったが11月に連敗し処分を受けてもいる。34年には総督・張経のもとで王江の戦いの勝利に貢献したが、その直後、張経と対立した趙文華の讒言にあって張経と共に逮捕され都に送られてしまう。幸い彼自身は命は助かって赦免され、兪大猷に従って広東方面で転戦し功績を挙げることで地位回復をはかることになった。
嘉靖40年代には海賊呉平、その後継者の曽一本らと相次いで戦っている。湯克寛は曽一本を一時投降させることに成功したが、曽一本がまもなく再び反乱を起こしたため再び弾劾される事態にもなった。
その後、戚継光と共に北方防衛に転任した。万暦四年(1576)、モンゴルの「炒蛮部」が古北口(北京北方)に侵入した際、湯克寛はこれを迎え撃つため出陣したが、伏兵に遭って戦死してしまった。
主な資料
「明史」湯克寛伝
「倭変事略」
「嘉靖東南平倭通録」
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