海上史事件簿その八
海上の激闘
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嘉靖27年(1548)4月、浙江海上の密貿易の一大拠点であった双嶼港は官軍の攻撃によって壊滅、李光頭・許棟といった巨頭たちも捕らえられました。このため彼らの配下にあった密貿易業者らは拠点と主を失い、新たな指導者を求めました。そんな彼らの多くが次期指導者として仰いだのが王直その人でした。
この時期の状況については沿岸の防衛にあたっていた軍人の一人である万表が『海寇議』という意見書の中で詳しくつづっています。万表は双嶼壊滅ののち「汪五峰、名は直、これもまた徽州人である。もと許二の部下で管櫃(財務担当)だった」と王直の登場を紹介し、「素(もと)より沈機勇略あり、人多くこれに服す」
と記しています。「沈機勇略」とは、考え深く、機知に富み、勇ましく、策略に長けるということで、まさに多くの人が彼に付き従うのも無理はないリーダーとして優れた資質を持っていたと書いているわけです。この『海寇議』じたいは王直を危険視しこれを討伐すべしという趣旨の意見書なのですが、そんな官軍軍人の立場からも王直が人望を集めるに足る人物であると見なされていたとは確実です。事実上の「王直伝」でもある『籌海図編』擒獲王直の条にも海に出る以前の王直について「少(わか)くして落魄し、任侠の気あり。壮じるに及んで智略多し。善(よ)く施し与え、故(ゆえ)をもって人これを宗す」
と記しており、やはり任侠精神と知略に富み、なおかつ人によく施しをすることで人々の人望を集めていたことが知られます。敵である官軍側にすらこんな評価をされる彼ですから、双嶼港滅亡後に行き場を失った密貿易業者たちの多くが王直のもとに結集したのは自然な流れであったでしょう。
前章にも書きましたように双嶼攻撃時に王直がそこにいたかどうかは不明です。ただ『日本一鑑』海市の記事によると王直とその盟友の徐銓
が双嶼滅亡と同じ年の嘉靖27年に日本から浙江海上の東方の島にある馬跡潭(ばせきたん)という土地にやって来て交易をしていたとの記述があり、渡航時期は季節風によってまず一年一度と限られていることからすると、最初から双嶼を目指さずに別の場所で交易しようと渡海してきた可能性をうかがわせます。またこのころすでに王直・徐銓らは五島に拠点を置いていたと思われ(王直の号「五峰」は五島から来ていると考えられるため)許棟らと別行動をとっていた可能性もあります。
さて「その六」の最後で触れましたが、以前から双嶼港とは別に横港というところに拠点を構えて密貿易にたずさわっていた陳思盻(ちんしけい)という男がおりました。彼の実際の名は「陳思ハン[目分=つぶらな目]」であったらしく「陳思ハン[サンズイに半]
」と表記する資料もあります。どうやら広東の出身らしいという以外詳しいことは全く分からない人物ですが、李光頭・許棟らとは無関係に別の拠点を持ち別の集団を率いていたということは、かなりの指導力を持つ人物ではあったのでしょう。『日本一鑑』によればこの双嶼滅亡の年(嘉靖27年)、「陳思盻が倭を誘って来て大衢山(だいくさん)に泊し、商売と称しながら実際には揚子江(長江)の船を襲っていた」という記事があります。大衢山というのは舟山群島の中でも東に位置する島で、陳思盻らがここを中継点にして日本と明の間を行き来していたことをうかがわせます。そして彼らが表向きは貿易活動を装いつつ実際には海賊活動をしていた、というのも注目点です。
翌嘉靖28年=1549年はあのイエズス会のフランシスコ=ザビエルが鹿児島にやって来て日本に初めてキリスト教を伝えたことでも歴史上記憶される年です。そしてこのザビエルの来日には実は「倭寇」が深く関わっていますので、ここに簡単に触れておきましょう。
ザビエルが日本に向かうキッカケになったのはマラッカでヤジロウ(あるいはアンジロウ)
なる日本人と出会ったことでした。ヤジロウは鹿児島の武士であったらしく殺人を犯したために逃亡、流れ流れてマラッカにいたのです。日本からマラッカへのルートはまさに王直らのような海賊・海商たちの密貿易活動のルートに他なりません。そしてどうやらこのヤジロウ自身も「倭寇」そのものであった可能性が高いのです。ちなみに例のメンデス=ピントは自著『東洋遍歴記』でヤジロウが日本から脱出するのをピント自身が手助けしたとする記述をしておりますが、ヤジロウはその手紙の中でピントについて一言も言及しておりません(笑)。
ヤジロウによって日本に関心を持ったザビエルは「アワン」なる海賊の船に便乗して日本へと向かいました。「アワン」とは「阿王」のことであろうと思われ、「王」という姓の中国人海賊であると推測されています(まさか王直、ってことはありませんよ)。アワンは家族も同船させていたらしく航海中に彼の娘が病死したことなども記録されています。日本や朝鮮、中国などでしばしば資料中に現れる「船をもって家と為す者」、船上生活者のような人ではなかったかと僕は思うのですがどうでしょう。
鹿児島に着いたザビエルは早速布教活動を開始するのですが、その後間もなく彼を連れてきた張本人であるはずのヤジロウはザビエルのもとから姿を消します。ルイス=フロイスは『日本教会史』においてこの日本人初のキリスト教徒の消息について「バハンと呼ばれる海賊活動に参加して中国で戦死した」と記しています。「バハン」とは当時日本において倭寇活動そのものを指す言葉でした(「八幡」が語源とも言われるが確定できない)。
こうして見ていくと、ザビエルの来日はまさに当時の「倭寇的状況」のまっただなか、東南アジアから東アジアにいたる活発な貿易活動の流れに乗る形であったことがよく分かってきます。鹿児島での布教が今ひとつだったザビエルはやがて平戸に移動することになるのですが…それはなぜだったのか、いずれ触れる事になるでしょう。
このザビエル来日の年、王直は「倭を誘って長途で交易をした」と『日本一鑑』は記しています。長途(長塗)というのはやはり舟山群島の島の一つで、翌嘉靖29年(1550)にも王直はこの長途にやって来て交易を行っています。
ところが…どうやらこの長途という港、先述の陳思盻も利用していた港であったようなのです。『籌海図編』という史料には「寇踪分合始末図譜」という、主だった海賊たちの合流・分離・襲撃活動などを系図形式にまとめた便利なものがありまして、そこには陳思盻らについて次のように記しているのです。原文のまま掲載してみましょう。
ここには陳思盻について「長塗に屯した」とはっきり書いてあります。そしてこれと並べてトウ文俊・林碧川・沈南山
の三人が「日本の楊哥に屯した」とし、両者が、あるいは両者の一部が合流したような線が結んであります。陳思盻とトウ文俊ら三人との関係は明確ではありませんが、同じグループでくくられる深い関係であったのは間違いないでしょう。そしてここにある「楊哥」とは長崎県の呼子(よぶこ)であると推測され、陳思盻が「倭を誘った」のもここからではなかったかと思われるのです。
だとすれば、五島・平戸と長途を往来していた王直と、呼子と長途とを結んだ活動をしていた陳思盻とは、活動地域がかなり重なり合う間柄であったことが浮かび上がってきます。同じ長途を活動の場にしていたとすれば、王直と陳思盻はある段階まで友好あるいは共存の関係があった可能性も考えられるのですが…まぁこのあたり明白なことは言えません。
さて、この時期この海上に活動していた勢力は王直と陳思盻だけではありません。名が伝わらない者が多いのですが、いくつもの海賊・海商集団が乱立し、密貿易と襲撃活動をしつつ互いに競い合う状態が現出していました。
その中に盧七と沈九
という二人組が率いる集団があり、「倭」を誘い杭州湾内に入り込んで杭州など各地を襲撃、人や財物を略奪してまわっていました。これに手を焼いた浙江海道副使の丁湛は当時の海上において最大の軍事力を持つ存在になっていた王直に声をかけたのです。「賊を捕らえて献上すれば、しばらく私貿易を黙認してやろう」と。
嘉靖29年(1550)、王直は官憲からのこの呼びかけに応じて船団を動かしました。このとき盧七らは馬跡山(王直らも利用した馬跡潭のある島)に停泊していたらしく、王直船団はこれを攻撃して盧七らを捕らえ、その船団を壊滅させました。のち嘉靖36年に王直自身が記した上疏文にはこの時の戦闘について「賊船13隻を拿捕し、賊千余を殺し、賊党7名を生け捕りにして、さらわれていた女性二人を取り返した」と述べています。1000余人も殺したというのには誇張も感じますが、盧七らがそこそこ大きな勢力であったのは事実なのでしょう。この戦いで王直はライバルとなる勢力を一つつぶすと同時に官憲に対し大きな恩を売り、密貿易活動を黙認してもらうことになります。
官憲から密貿易の黙認を得た王直は、舟山群島の烈港(列港・瀝港とも書く)に自身の新たな拠点を築きました。ここは大陸にいっそう近く、また港付近の地形も複雑で潮流の変化もあって防衛に有利な港で、王直はここに以前の双嶼港のような貿易拠点を構えようと考えたようです。
しかしこのころから王直と陳思盻の間の激しい対立が表面化してきます。先ほど書いた王直と陳思盻が同じ長途港を利用する友好・共存段階があったかもしれない、という推理が正しければ、王直が勢力を拡大して自らの貿易拠点を得たことが両者の対立のきっかけだったかもしれません。
万表の『海寇議』に、「五峰(王直)はまさに思盻が自分を圧迫するのを嫌っていたところだった。なぜなら瀝港(烈港)の往来には必ず横港を経なければならず、その船団がしばしば襲撃され妨害されていたからである」との記述があります。横港とは陳思盻が主力の拠点にしていたとされる港で、陳思盻が王直の船団を執拗に攻撃・妨害していたことが分かります。この陳思盻側の激しい妨害は、日本-明間の密貿易ルートで両者が商売がたきの関係になったということも予想させます。
嘉靖30年(1551)、王船主(名前は不明。詳細不明の海賊に「王明」というのがいるので彼かもしれない)
という男が「番船20隻」を率いて浙江海上にやって来ました。「番船」というのが何を指すのか不明ですが、「番」と表現されるのはたいてい東南アジアなど南方なので王船主が福建・広東方面からやって来たことを予想させます。陳思盻も広東人らしいのでもともと関係ある人物だったのかもしれません。
この王船主を陳思盻は自ら出迎えに行き、両者の船団を合流させることを約束し合いました。こうした集団同士の合流はよくあることだったようですが、この時点での合流はやはり王直に対抗するために陳思盻が自勢力の拡大を図って王船主に呼びかけたものとみるのが自然でしょう。
しかし何を思ったのか…陳思盻はいきなりこの王船主を殺害し、その船団をまるごと奪い取ってしまいます。はじめからそのつもりだったのかどうかは分かりませんが、とにかく陳思盻は強引なやり方で船と人員を拡充することになったのです。
このやり方に不満を抱いたのは、当然ながら王船主の元部下達でした。彼らは表向き陳思盻に服従し、それぞれの船を港の入り口に配置して外郭の守りをすると見せて、ひそかに王直に内通します。彼らからの連絡を受けた王直はこれを機に陳思盻を打倒するべく行動を開始します。
この時の王直の行動は実に彼らしく念の入ったものでした。まず慈谿県に住む「積年の通番」とされ密貿易で王直と関わりが深かったらしい柴徳美なる人物に協力を仰ぎます。この人も詳細は分からないんですが、朱ガンによる取り締まりの時には一時福建に逃れていたと『海寇議』は記しており、またこの時柴徳美は王直の協力要請に応えて「家丁(使用人)数百人」を繰り出したとされますから、地元におけるかなりの有力者であったと考えられます。
それから王直は陳思盻打倒の計画を寧波府の役所に知らせ、官軍を出動させています。直接協力しろというのではなく、遠くから取り巻いて支援しろというものでした。もっとも王直自身の上疏文によると官軍側からの要請で王直が動いた事になっているんですが。
ここまで手を回した上、さらに陳思盻の船団の動きを把握し、彼の部下の多くが掠奪に出かけてまだ戻ってこないことを確認して王直は行動を起こします。
その日は――日付はいっさい分からないのですが――陳思盻の誕生日でした。陳思盻と部下達はそれを祝う宴を催しており、みんなで酒をあおって酔いつぶれていました。王直が念入りに計画を進める一方でこの無防備さはなんなんだろう、というほどの体たらくです。これも何か謀略にひっかかったのではないか…と思えるぐらい。まさにこの時を狙って王直は陳思盻を攻撃したのです。
外部からの王直船団の攻撃に呼応し、王船主の元部下たちも内側から陳思盻船団に攻撃をかけました。内外からの挟み撃ちにあって陳思盻らはひとたまりもなく敗れ、陳思盻は戦死し(誕生日が命日になったことになる)、その甥の陳四ら164名(王直自身が上疏文に具体的に記しているが『海寇議』は数十人とする)が捕獲され、大船7隻、小船20隻が焼き捨てられました。陳思盻の財物はことどごとく奪われ、とくに柴徳美が莫大な利益を得たと『海寇議』は記しています。
掠奪から帰ってきた陳思盻の部下達はもはや行き場も無く、ことごとく王直に降伏しました。これ以後浙江海上で活動する勢力はいずれも王直の傘下に入ることとなり、万表は『海寇議』に「海上ついに二賊なし」と記し、『籌海図編』擒獲王直の条も「これ以後は海上の勢力で王直の支配下に入らない者は自存することが出来なくなった。直の名は海舶に轟きわたった」と記しています。なんとなくアッサリやられてしまった感のある陳思盻ですが、これらの記述はかえって彼の存在がいかに大きかったかを物語るようにも思えます。
かくして海上を制覇した王直ですが、次章では彼の海上支配の体制を見ていきましょう。
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