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◎ 鄭舜功『日本一鑑』窮河話海・海市の条



○解題○


 鄭舜功は広東・新安の出身だが無位無官で詳細が全く不明の人物である。嘉靖34年(1555)に倭寇対策にあたった総督・楊宜の命を受け日本に渡り、主に豊後に2年間滞在したと思われ、多くの情報を得て帰国した。しかし楊宜がすでに任を解かれており、鄭舜功も全く功績を認められず無断渡航の罪に問われたほどであった。『日本一鑑』は嘉靖40年代になって彼が自らの功績を訴えることを主目的に書かれた書物だが、日本について地理・言語・風俗など自ら取材した豊富な体験をもとに詳細に記述しており、外国人が戦国日本について記した重要な同時代資料として後世注目されることとなった。
 ここで現代日本語訳で紹介するのはそのうち日明間の密貿易の実態について記した「海市」の条である。あくまで貿易関係にテーマを絞った文章だが、「嘉靖大倭寇」の重大な要素であり、嘉靖倭寇史に登場する海商・海賊ら人間群像の行動について他資料には見られない興味深い記述を多く含んでいる。海賊活動についても記した「流逋」と合わせ読むことで嘉靖倭寇史の詳細な事情を知ることが出来る。



○訳文について

※原文はまったく段落も区切りも無い文章だが、読みやすさを考えて適当な長さで訳文を切り、訳注を半角赤字で間に挟む形式にした。
※文中に(青色)で示した部分は原文の本文に割り込んで半角で書かれている「割注」の部分である。
※(黒字)は訳者が字の説明・意味の解説等のために付け加えたもの。
※訳に自信があるわけでもないので、念のため原文へのリンクを文末に用意した。




「海市」

 私が見るところ、日本の夷が海を渡り中国に交易に来たことについては、『漢書』に「夷・タン(さんずい+亶)の二州の夷が時おり会稽に至り交易している」と書かれているのが初出である(注1)。『唐書』の光啓己酉(889年)の記事には「東海の島々の中に邪古・波和・多尼の三小王の国がある。北は新羅を隔て、西北に百済、西南は越州(中国南部)と直結し、糸や綿、珍しい品物がある」と伝えている(注2)
 宋の雍熙甲申(984年)には、日本の僧・「然(ちょうねん)が入朝し、台州寧海県の商人・鄭存徳の船で帰国している(注3)。元豊戊午(1078年)の明州からの報告で、日本の太宰府が通訳僧の仲回を遣わし、渡海商人の孫忠に同行させ入朝してきたことが伝えられている。乾道己丑(1169年)には、初めて明州の綱首(貿易商人)の船でやって来て貢物を差し出した。
 元の至元丁丑(1277年)、日本は商人を遣わし、金を持って来て銅銭と交易しようとしたので詔を出してこれを許した。大徳戊戌(1298年)、僧の寧一山という者が商船に乗って使者としてやって来たが追い返した。至大の初め(1308年)、元が日本商船の来航を招くと翌年の己酉(1309年)、彼らはこれに従って慶元路に来て交易を行った。しかしその結果に不満を抱き、ついに儀門および天寧寺の館を焼き払って去ってしまった。
 明の洪武辛亥(4年=1371年)、福建・興化衛の指揮の李興と李春が、ひそかに人を遣わして海に出し、密貿易を行っていた。洪武帝は都督府の臣に命じて厳重に処罰させた。
 洪武丙辰(9年=1376年)、日本人・藤八郎が交易のためにやって来て、弓馬・刀甲・硫黄の類を献じたが、これは却下した(注4)。伏して考えるに、国法には倭商と交易を禁じる条項があるが、ただ朝貢の使者が持ってきた貨物については人々に交易を許していたのである。
 

(注1) 『漢書』地理志。鄭舜功は「夷州」「タン州」を日本と解釈しているが、台湾とみなす説もあり断定は出来ない。

(注2) 『新唐書』東夷伝。邪古・波和・多尼が何を指すのか定説は無いが、「屋久島」「隼人」「種子島」とみなし現在の鹿児島県諸島部を指していると考える意見が合理的か。

(注3) 「然は藤原氏の出身の僧。984年に宋に渡って皇帝に謁見、日本は64代にわたって皇室が続き文武諸官もみな世襲であると述べて皇帝を羨ましがらせた。五台山清涼寺で学び多くの経典をもって987年に帰国。京都清涼寺の開基とされる。

(注4) 明『太祖実録』洪武九年五月壬午に記録がある。ここでは仮に「藤」としたが原文では「くさかんむり」が無い。『実録』の記事によると藤八郎は南京にやって来て品物を献上したが、彼が一商人に過ぎないため明側は受け取らず、遠路をねぎらう意味で白金を下賜している。藤八郎は以前南京に来た高宮山の僧・霊枢(詳細不明)から預かった馬二匹も献上しており、明側はこれは受け取りお返しに絹織物を藤八郎を通して霊枢に下賜している。



 嘉靖甲午(13年=1534年)、給事中の陳出は琉球への使者となり、例にならって福建の港から出発した。その従者はみな福建人であった。いったん琉球に到着してしまうと、必ず風が変わるまで待って帰国しなければならない。このとき日本の僧師が琉球に留学しており、我が国の従者たちはこの僧が「日本と交易するといい」と言うのを聞いた。そこで従者たちはただちに商品を持って日本と交易しにゆき、大きな利益を得て帰国した。これを聞いた人々が次々と日本との密貿易を行うようになった。後に平戸島に密貿易に行った者があったが、島夷が商品に目がくらみ福建商人を殺してしまった。するとほどなく天から血の雨が降り、地からもまた血が吹き出した。島夷は災いが降りかかるのを恐れて商人たちを殺してしまったが、その亡霊が島主の夢に現れ、島主は病で寝込んでしまった。そこで廟を立てて彼らを祀ったところ、島はやっと穏やかになった。それ以来、密貿易商人が彼の地に着くと大いに礼をもってもてなされ、船の修理もしてもらえるようになり、島夷たちはそれを「貸し」と称した。このため密貿易商人は多くなり、福建の乱もしだいに始まるようになったのである(注1)

(注1) 筆者が知る限り、この逸話は『日本一鑑』海市にしか載っていない。平戸はのちに王直の拠点となった港町であるが、平戸に中国商人が集まるようになった由来を鄭舜功はこのような伝奇話で説明しているところが興味深い。


 そもそも広東の密貿易は掲陽県民の郭朝卿から始まる。初めは航海中に嵐にあってその国に漂着したものだったが、帰って来てからまた赴いて交易を行った(注1)
 浙江海域の密貿易は福建のトウ(登+おおざと)リョウ(けものへん+僚の右)から始まる。初め罪により按察司の獄に囚われていたが、嘉靖丙戌(5年=1526)に脱獄して海に下り、番夷を誘い入れて浙江海上の双嶼港で密貿易を行った。合澳の人・盧黄四等もこれと結託して密貿易を行った(注2)
 嘉靖庚子(19年=1540)にこれに続いて、許一(松)許二(楠)許三(棟)許四(梓)(注3)がポルトガル人(この夷は正徳年間に広東に交易にやって来たが、海道副使・王(欠字)はこれを追い払った。後に彼らはマラッカ国を占領して住み着くようになった。許一兄弟はマラッカに赴いて彼らの来航を招いたのである)を誘い入れ(注4)、次々と浙江海域にやって来て双嶼・大茅などの港で交易を行った。これより東南の災いの門が開かれることになったのである。

(注1) 広東の郭朝卿については『日本一鑑』のこの記事以外に言及が無く、詳細は不明。

(注2) 密貿易港・双嶼を築いた福建のトウリョウについては『日本一鑑』海市と流逋にのみ記述があり、他の資料にはその名が見えない。「リョウ」の字は他資料の「老」と同意と思われ、首領の尊称と思われる。罪により獄中にあったが脱獄したというのは大物の密貿易商人であった李光頭・許棟(許ニ)と同じ経歴で、以前から密貿易に従事していたことを予想させる。『籌海図編』寇踪分合始末図譜には双嶼港の主として福建の「金子老」の名が見えるが、これとトウリョウの関係は全く不明である。彼と結託したという盧黄四もここにしか名前が見えない。


(注3) 許兄弟の名前を鄭舜功は「松」「楠」「棟」「梓」の順で記しているが、このうちもっとも大物として他資料に出てくるのは王直の主でもある「許棟」で、これが「許ニ」であるとする資料が多く、『日本一鑑』の記述はこれと齟齬をきたすことになる。許棟は朱ガンによる双嶼掃討の折に逮捕されたと考えられるが、鄭舜功はその後も「許三」の活動を記しているので「楠」と「棟」を入れ違えて記してしまったものではないだろうか。許兄弟については「流逋」の条の許四の割注に詳しいのでそちらを参照。


(注4) 原文ではポルトガル人は「仏郎機(フランキ=イスラム教徒が西欧人を「フランク」と呼んだ事に由来)」と記される。広東への到達は正徳12年(1517)のことで、武力をちらつかせたために追い返されたのは事実だが、その後にマラッカを占領したとするのは誤り(ポルトガルのマラッカ占領は1511年)。



 嘉靖壬寅(21年=1542年)、寧波知府の曹誥は密貿易船が海寇を招いているとして、これと取引したり密航する者を大々的に捕縛したが、寧波の有力者たちが手を回して彼らを救いだしてしまった(注1)。曹誥は「今日もまた通番(外国との交易)を説く、明日もまた通番を説く。これはもう血が流れ地方を満たすまで止まらないだろう」と言った。
 明年癸卯(22年=1543年)、トウリョウらが福建沿海を荒らしまわった。浙江海域の海賊もまた発生した。海道副使・張一厚は許一・許二らが密貿易を行うために地方に海賊の害を及ぼしていると考え、兵を率いてこれを捕らえようとした。許一・許二らはこれを撃退して気を大きくし、ポルトガル人たちと双嶼港に拠点を構えた(注2)
 その部下である王直(本名はジョウ(金+星)、すなわち「五峰」である)(注3)、乙巳歳(24年=1545年)に日本に行って交易し(注4)、はじめて博多の助才門ら三人(注5)を誘い、双嶼に連れて来て交易を行った。翌年もまた日本に行き、その地との結びつきを強めるようになった。直隷・浙江の倭寇の害がここに始まることとなるのである。

(注1)「有力者」と訳した原文は「郷士夫」。中央官僚を出して地方に影響力を持ったいわゆる「郷紳」層のことを指す。密貿易の出資者にこうした郷紳層がおり、彼らが手を回して逮捕された密貿易業者をかばったり、取り締まる官吏を弾劾するなどしたことは事実で、双嶼を掃討して弾劾された都御史・朱ガンは彼らを「中国衣冠の盗」と呼んだ。

(注2)トウリョウが海賊行為を行い、そのためになぜか許一・許ニらが討伐を受け、これを返り討ちにしたことは「流逋」の条にも見える。『籌海図編』寇踪分合始末図譜はこれより先の1542年に金子老が福建に去り、翌1543年に李光頭と許棟が双嶼に入ったことを伝えるが、この時期、双嶼の支配をめぐり暗闘が繰り広げられていた可能性を感じさせる。


(注3)王直の「的名」を「ジョウ(金+星)」と伝えるのは『日本一鑑』のみだが、他の海賊・海商も多くがあだ名か号で呼ばれるところを見ると「直」もあだ名と考えるのが妥当だろう。王直については特に号の「五峰」で呼ぶことが多かったらしい。ここには詳しい言及が無いが王直が許兄弟と同郷の徽州人であり、許棟のもとで財務を預かる腹心であったことは他資料で詳しい。


(注4)王直が初めて日本に行った年について『籌海図編』は王直が許棟の指示を受け、嘉靖23年(1544)に日本から来た朝貢船の帰国(つまり翌年)に同行して日本に赴いたと記している。だとすればここにある「乙巳歳(24=1545)」に日本に行ったとする記述は信用度が高い。ただし王直の号を持つ「五峰」なる明人が1543年の種子島の鉄砲伝来劇で通訳をつとめたとする『鉄砲記』の記事も無視できない。


(注5)原文は「博多津倭助才門等三人」。中国の研究者が「博多津」「倭助」「才門」の三人と解した例があるが、「博多の港の倭の助才門ら三人」と解すべきであろう(他の二人が気になるが)。助才門は「助佐衛門」ではないかと言われているが確証はない。なお「流逋」の徐海割注に「種島助才門すなわち助五郎」なる日本人が出てくる。



 丙午の年(25年=1546年)、許二と許四は、許一と許三が事故に遭ったため(注1)に番人たち(注2) の商品を失い、これを弁償することもできなかった。そこで部下を直隷の蘇州・松江などの地方に送り込んで良民を騙して誘い、商品を買い集めさせ港へと来させた。許二・許四は裏で番人をそそのかしてこれを強奪させ、表では被害にあった人々を慰めて弁償をしたいと申し出た。このため被害にあった人々は許二・許四の謀略とは知らずにただ番人たちの強奪を怨んだ。自分の金で商品を買った者はすぐにあきらめて立ち去ったが、借金をしていた者は返済が出来ないと考えて帰ろうとせず、そのまま許四に同行して日本へ赴き償いを得てから帰ろうとした。舟は京泊の津(注3) に至り、騙された人々は番人が商品を強奪した事情を島主に告げた。島主は「異国の商人が中国で交易し、中国の人や品物を強奪したという。今彼らは我が国に交易に来ており、やはり狼藉をはたらくかも知れぬ」と言い、ただちに番人たちを殺し、薪や食料を許四に与えて華人らを送り帰らせた(注4)
 許四は初めに番夷の商品を紛失し、続いて番夷の商人の帰還をも失ったことを考えて、ついに双嶼にはあえて向かわず、沈門・林剪・許リョウ(注5)らと合流して、沿海の民家を襲撃するようになった。許二も兄弟の許一・許三が行方知れずとなり、許四も帰って来ず、失った番人の商品も弁償できなくなり、遂に朱リョウ・李光頭(注6)らと番人を誘い入れて福建・浙江地方を襲撃するようになった。


(注1)「流逋」の許四割注によれば許一は逮捕され、許三は行方知れずになったとある。しかし前述のように鄭舜功は「許二」と「許三」を入れ違いで考えていた可能性が高い。後の部分で鄭舜功は許二(楠)が台湾で島の木を盗んだために島民に殺されたと記しており、あるいはこれと混同したものか。

(注2)恐らくポルトガル人のことと思われるのだが、原文のまま「番人」としたのは南方から来る異民族全般に使う表現であるため慎重を期したもの。日本人はおおむね「夷」と表現されるし、その後の「島主」の台詞からも日本人で無いことは確かだろう。


(注3)「京泊(きょうどまり」は現在の鹿児島県川内市にあった港。古代より日中貿易の拠点の一つだった。


(注4)以上の話は多少表現が異なるがほぼ同じ内容が「流逋」の許四割注に見られる。ここでいう「島主」とは特定の島の支配者ではなく京泊の領主ということであろう。


(注5)沈門は『日本一鑑』海市・流逋の各所で名が記され、『潮州府志』征撫の林国顕の伝記に林国顕の同郷人として名が挙がっている。このためその次の「林剪」とは林国顕のことではないかとの推測もあるが確定はできない。許リョウも未確定だが許朝光、あるいはその養父の許棟(許二とは同姓同名の別人)か。


(注6)「朱リョウ」は『日本一鑑』の海市と流逋の各所でその名が見えるが他資料には見つからない。「李光頭」は逆に他資料で詳しい記述がある首領で、鄭舜功は彼についてあまり詳しい情報を得てなかったようである。



 明年丁未(26年=1547年)、胡霖(注1)らが倭夷を誘い入れて双嶼で交易した。そして林剪は彭享国(注2) に行き、そこから賊衆を誘い入れて来て、許二・許四らと合流して一群となり、福建・浙江を襲撃した。沿海地方の騒動を受け巡按浙江監察御史・楊九沢が朝廷に事態を奏上し、朝廷は都御史・朱ガン(糸丸)に命じ兵を整えて許二・許四らを征討させ浙江・福建の各地方を安らかにしようとした。
 明年戊申(27年=1548年)、朝廷の命令が実行に移され、軍門が賞金をかけた許二・許四は西洋へ逃げ去り、双嶼港はふさがれた(注3)。この時林コウ(王向)が倭夷稽天を誘って浙江海域で密貿易をしており、官軍に捕らえられた(注4)。また王直・徐銓(すなわち惟学、一名を「碧渓」という)も倭を誘って馬蹟山で密貿易をしていた(注5)。ただ陳思ハン(さんずい+半)は倭を誘って大衢山に来泊し、交易に名を借りて実は揚子江の船を襲っていた(注6)
 己酉(28年=1549年)の冬、王直らが倭を誘って長途で交易をした。

(注1)胡霖についてはこの記事以外に資料が無く、詳細は不明。

(注2)彭享国は現在のマレーシア、マレー半島東岸の港市国家。


(注3)朱ガンの指揮による双嶼港の掃討で、その巨頭であった李光頭・許棟(許二)らは捕縛、処刑された。しかし鄭舜功は許二(許楠)は西洋(東南アジア方面)へ逃れたとしており他資料と食い違っている。


(注4)「稽天」の名は朱ガン『甓余雑集』中に見える。それによれば彼は薩摩人で「林陸観」なる福建人に誘われて双嶼に来たものという。ここでいう「林コウ」が「林陸観」と同一人物かと思われる。


(注5)徐銓=徐惟学=徐碧渓は王直と同郷の腹心で、共に塩商に失敗して海に出て以来行動を共にしている。馬蹟山は浙江海上はるか東方の島で、双嶼掃討後に官軍を避けて交易の場とされたらしい。


(注6)陳思ハンは『籌海図編』や『海寇議』における「陳思盻」と同一人物。「盻」は「ハン(目半)」の別字であり、「つぶらな目」を意味する。広東の出身で双嶼とは別に拠点を構え早くから独立勢力であったらしい。大衢山は浙江海上東方の島の一つで、諸資料を付き合わせると陳思盻は長途、大衢山、横港など各所に根拠地を持っており、日本との交易ルートも握っていた可能性がある。



 明年庚戌(29年=1550年)、巡按広東監察御史・王紹元は、郷紳の一族が倭に通じて訴えを起こすとして建議し「海の利益はひとり郷紳らの手に帰してしまう。交易の権限を官府に属させねばならない」と述べた。このとき朝廷は「琉球・ジャワの諸族の地は大海を隔てており、いにしえより辺境を襲ったことはない。ただ日本一国のみがそうではなく、ただ祖訓に従ってそれらと同じように扱うべきではなかろう。いま御史・王紹元が市舶を開くことを求めてきたが、やはり慎重に考えねばならない」と議した。直隷・浙江・福建・広東の各種の官の会議をあわせて行ったところ、地方においては国課を損ねることなく有益であるとの結論も出て再び奏上が審議されたが、「御史王紹元は富国の構想を懐いたものではあるが未だ海賊の増加について見極めが出来ていない」としてこの意見はまた行われない事になった(注1)
 この年、徐銓らが倭を誘い入れて長途で共に交易をした。このとき盧七・沈九が倭を誘って入寇し、銭塘を襲撃した。浙江海道副使・丁湛は王直らに檄を送り「賊を捕らえて献じたらしばらく私貿易を許そう」と呼びかけた。王直は倭を脅して動員し、ただちに盧七らを捕らえて献じた(注2)
 明年辛亥(30年=1551年)、王直らの船は列港に泊した。そして陳思ハンらを捕らえて献じた(注3)。ただキョウ(龍+共)十八(一名は碧渓)だけは王直がこれを許し、共に密貿易を行わせた(注4)

(注1)この王紹元の私貿易公認に関する上奏の部分、解読しにくく意訳に近い形にした。地方における郷紳が後押しする密貿易の拡大とそれに伴う海寇の発生に対処する方策として明建国以来の国是である「海禁政策」を廃して私貿易を認め、市舶司を設けてそれらを公権力の管理下におく、という建議はこの時期しばしば見られ、結局は隆慶年間に実行されることとなる。

(注2)王直が官からの檄に応じて盧七らを討伐したことは、嘉靖36年に投降する際に王直自身が記した上疏文の中でも「賊船13隻を拿捕し、賊千余を殺し、賊党7名を生け捕りにして、さらわれていた女性二人を取り返した」と言及されている。


(注3)王直が陳思ハン(陳思盻)と戦い、これを壊滅させた経緯は万表『海寇議』に詳しい。ここでは陳思盻は捕らえられ献じたとあるが、実際には殺害している。その甥の陳四が捕らえられ献上されているのでそれと混同したものか。


(注4)キョウ十八は『世宗実録』嘉靖31年9月戊戌の記事に「江洋の盗」として逮捕されたことが出ており、『太倉州志』では日本に交易に行った帰りに朝鮮に漂着し、その後長江河口まで流れ着いたことが記されている。



 また翌年の壬子(31年=1552年)、王直らは七倭賊をとらえて献じた。この時、徐海が倭夷を誘って列港に泊し、表向きは交易と称して、裏では掠奪を働いていた(注1)。また別の倭船が来て交易を求めた。王直これと交易を行ったが交易をする品物が無く薪と米で支払い、遂に日本まで同行した。ときに巡按浙江監察御史・林応箕が沿海の不穏を朝廷に奏上し、朝廷は都御史・王ヨ(りっしんべん+予)に命じて浙江・福建地方の平定を命じた。
 明年癸丑(32年=1553)、葉宗満(すなわち碧川。一名は五龍)(注2)は倭夷を誘って浙江海域に交易にやってきたが、水軍がいることに驚き、あえて停泊はせずに広東の南澳へ赴いて交易を行った。福建・広東の倭寇の害はここに生じることとなる。
 このとき王十六らが倭を誘って黄岩県を襲って焼いた(注3)。参将の兪太猷と湯克寛は王直に命じて賊を捕らえて献上させようとしたが、賊はすでに去ったあとだった。そこで王直を「東南の禍本」と断じて兵を率いて列港に彼を襲撃した(注4)。追跡して長途、続いて馬蹟潭に至ったが、銃砲の響きが寝ていた竜を目覚めさせ、兵船は漂散してしまった。王直の船は停泊することもできず、ついに夏六月に風に乗って平戸へと逃げ去った(注5)

(注1)徐海は徐銓の甥。徐海が王直の意に反してひそかに海賊行為を行っていた経緯については「流逋」の条の徐海割注に詳しい。

(注2)葉宗満は『籌海図編』擒獲王直に王直の古くからの盟友の一人として挙げられ、福建・ショウ(さんずい+章)州の人であることが知られる。ここで記される「碧川」「五龍」という号は徐銓と王直の号「碧渓」「五峰」と対応するものか。彼についてはこの後の投降時の割注に詳しい。

(注3)王十六については他資料に名がなく詳細不明。「流逋」の記事によるとこの時彼は沈門・謝リョウ・許リョウ・曽堅らと共に活動していたとされる。しかし黄岩県を襲ったのはトウ文俊らであるとする資料もあり、真相は判然としない。

(注4)兪大猷らが当初王直に海賊の討伐を命じ、賊らが逃げ去ったことをもって王直を「東南の禍本」と断じた、とするのは鄭舜功のみが記すことだが重要な指摘である。「流逋」の徐海割注にある王直が徐海の海賊行為を厳しくとがめたという逸話と合わせ、少なくとも鄭舜功は王直を「禍本」とするのは濡れ衣であると考えていたようである。一方でこの時期万表は『海寇議』において黄岩県襲撃は王直一党によるものと確信を示している。

(注5)兪大猷らによる列(烈・瀝)港攻撃については『正気堂集』所収の兪大猷本人の文章でも詳しい経緯が分かる。ここにある「竜が目覚めた」というのは突然の嵐のことを指すが、これは兪大猷側の記述にも現れる(ただし嵐が起こったのは烈港とされる)。



 甲寅の年(33年=1554年)、ポルトガル人の船が広東沿岸に来航した。ここに周鸞という者がいて外国の商人と称していた。さらに番夷たちと共に他国の朝貢使節と偽って海道に嘘の届出をし、例に従った処置を求めた。副使の汪柏が交易を許したので、周鸞らは何度も小舟で番夷たちを誘い入れて商品を一緒に載せ、広東城下で交易し、さらに城内に入って貿易も行った(注1)
 また徐銓らは倭を誘って南澳で交易を行った。それからまた日本に行こうとしたが逆風にあって戻され柘林に停泊した。都御史・鮑象賢は東哨統兵官の黒孟陽に命じて水軍を統率させ、隙を見てこれを攻撃させた。徐銓は水に飛び込んで死に、残りも全て捕縛された(注2)

(注1)周鸞の名は『日本一鑑』の「海市」の記事にしか見えないが広東で活動する密貿易業者の一人であったらしい。彼の特徴は朝貢使節を装って「合法的」に交易を行うところで、ここでは「番夷」(ポルトガル人かもしれないが保留)と共同作戦をとっている。この後にも同様の手法でやや愉快な記述が出てくる。

(注2)徐銓が嘉靖33年に広東で黒孟陽率いる官軍の攻撃を受け死んだことは他の多くの資料にも記されている。『潮州府志』によれば徐銓はこのとき広東海賊の巨頭・林国顕の「義児」となっていたとされ、甥の徐海が王直と対立した事件を機に王直とは別行動をとるようになっていたと思われる。



 乙卯の年(34年=1555年)、ポルトガル人たちが倭夷を誘って広東沿海に来航した。周鸞らは倭人たちをポルトガル人に扮装させて、共に広東の賣マ(くさかんむり+麻)街で交易させ、かなり経ってから立ち去った。これ以来ポルトガル人たちは毎年のように倭を誘って広東に交易にやって来るようになった(注1)
 重罪を犯した姦民たちは海外の島に家を移して住み着き、深くその間に根を下ろして商売の名をかりて海賊の技を用い、素早く行ったり来たりしていた。東南の騒ぎを朝廷も憂慮していたが海賊の根拠地すらも分からない。ただ王直の存在を奇貨としたのである。
 この時、工部侍郎の趙文華(注2)は自ら願い出て勅命を奉じて東海の海神を祭りに来たが、倭寇の害を鎮めようにもその方策が分からない。そこで密貿易商にそれを尋ねた。すると密貿易商は「王直に管理させて海上貿易を行うことができれば、ただちに災いはやむでしょう」(注3)と答えた。そこで使者(注4)を送って王直を招くことにした。

(注1)日本人達をポルトガル人に扮装させる、という微笑ましい(?)周鸞たちの作戦だが、他資料にこの話は全く出てこない。広東にいたこともある鄭舜功が自ら目撃したところなのかもしれない。

(注2)趙文華は『明史』でも「佞臣(よこしまな臣下)」の項目で列伝が立てられているほど悪名高い。時の権勢家・厳嵩に接近し、オカルト好きな嘉靖帝に取り入って「海神を祭る」ために倭寇対策に関与することになった。『日本一鑑』では言及が無いが、張経など自分と合わない司令官たちを次々と謀略で陥れ、功績を横取りするなど横暴が目立った。


(注3)原文は「得王直主通海市則禍可息」。同じ部分が「流逋」では「必得王直主通海市乃可已乱」となっている。『籌海図編』の「擒獲王直」では胡宗賢が王直こそ倭寇の指揮者とみなして投降をさせるべく使者を送ったことになっているが明らかに不自然で、ここにあるように私貿易を公認すること、その管理を王直に行わせることが海上に平和をもたらすのだとする意見が実際にあったのだろう。密貿易関係者からこの声が出たことを記しているのは鄭舜功だけだが、王直自身も上疏文に同様の意見を書いている。


(注4)名を記していないが、蒋洲・陳可願のこと。


 明年丙辰(35年=1556年)、毛烈(王直の義児)と葉宗満が官軍の招きに応じて列港に来航した。都御史・胡宗賢は彼らに舟山に行って賊をとらえて献じるように命じた(注1)。また賛画・兪一鑑らを人質として毛烈・葉宗満の船に送り、入れ代わりに王濡(注2)・夏正(注3)・邵岳・童華(注4)・謝天与らを官軍の陣営に来させた。そこで毛烈と葉宗満に私貿易を許して立ち去らせた。
 時に南澳の倭夷が常に小舟に乗って、直接潮州の広済橋にやって来て品物を買っては南澳と往来していた。そこで胡宗賢は使者を派遣して南澳に至らせ、王宗道(すなわち清渓)(注5)・李貴顕(すなわち華山)に「家族を連れて官軍に投降し、自ら倭を送って帰国させ浙江の海に帰り、我が身を全うせよ」と招諭した。
 丁巳の年(36年=1557年)、招きに応じて来た朝貢使の徳陽ら(注6)の船一艘が舟山の馬墓港に停泊した。そして本山の道隆観に宿泊した。また招きに応じてやって来た毛烈・葉宗満・謝和(注7) ・王直らも交易に誘った倭人たち四百余艘とともに舟山の岑港に停泊した。時に趙文華は病気のために地位を去っており、胡宗憲が使者を送って彼らを招いたのである。また指揮・伍惟統を葉宗満の船に人質として送り、葉宗満も毛烈と相次いで官軍に投降した。毛烈はまた海に出て行ったが王直はそのまま軍門に降った。

(注1)蒋洲らの招諭を受けた王直が様子を見るために義子の毛烈(王ゴウ)と葉宗満らを先に明へ帰国させ、彼らが官軍に協力して舟山の海賊を討伐したことは『籌海図編』の「擒獲王直」にも見える。

(注2)王濡とは王直の甥・王汝賢のこと。


(注3)夏正はここでは王直の部下の一人として扱われているが『籌海図編』『倭変事略』では官軍側から王直側に送った人質に同名の人物がおり、『世宗実録』は「指揮夏正」とし、さらに『明史』胡宗賢伝によれば王直捕縛に怒った毛烈らにより支解(バラバラにする)されたとある。両者が同一人物であるのかは判然としない。


(注4)童華はこの「海市」の文中に何度か登場しているが、後述の葉宗満割注には彼が徐海と関係を持っていて官軍の徐海討滅に協力したことが記されている。徐海滅亡の顛末を記した『紀剿除徐海本末』の付録によれば徐海の妻・王翠翹と胡宗賢の連絡役をつとめたとある。


(注5)「王清渓」は『世宗実録』によれば福建・ショウ州の人で、王直が投降にあたって同行させた腹心の一人とされる。彼の名を「宗道」と記しているのは鄭舜功のみ。


(注6)「徳陽」は「豊後国王」たる大友宗麟が勘合貿易復活を企図して王直らに同行させ明に派遣した僧侶。


(注7)謝和は「謝老」とも呼ばれ、『籌海図編』所収の「擒獲王直」によれば徐銓・葉宗満・方武と共に王直旗揚げ時からの盟友の一人。この時も王直に同行していたことは「擒獲王直」にも見える。



 戊午の年(37年=1558年)、毛烈と謝和は倭夷・善妙(注1)らと岑港に上陸して立てこもった。そして徳陽もそこに引き込み、遂に店舗も焼き払った。このとき王宗道・李貴顕は日本から浙江海域に戻ってきたが、官軍の船団が隊列を整えているのを見て驚き、南澳へと向かった(注2)。ややあって毛烈は倭人たちと柯梅に拠点を移し、一年余り抵抗を続けたので、官軍の損害は莫大なものとなった。そこで包囲を解いたところ拠点を捨てて去って行った(注3)
 倭を誘った密貿易が始まった頃、総兵・兪太猷と副使・劉Zはただちにこれらを捕らえる速効策を主張したが、総兵・盧ドウ(金堂)及び自分(鄭舜功)の考えは偶然一致しており、あえて彼らを捕らえずに長久の策をなそうとした。それぞれの意見について軍門は共に認めず、寛大な処置によって彼らの手先どもを取り込み、交易を餌に軍門になびかせてお互いに利益を得ようとしたのだ。このために事態を悪化させたのである(注4)

(注1)詳細は不明だが大友宗麟が徳陽と前後して派遣した日本人の僧侶かと思われる。

(注2)王宗道と李貴顕が南澳に向かったことは他資料には見えない。王宗道が「王清渓」に間違いないとすれば「擒獲王直」では王直・葉宗満と共に官軍に投降しており、齟齬をきたす。


(注3)『嘉靖東南平倭通録』によれば柯梅で抵抗を続けていた毛烈らは嘉靖38年(1559)5月にここを引き払って南澳へ移動している。


(注4)この部分、かなり意訳。鄭舜功自身の密貿易対策論は「海市」の文末で示されるが、武力による弾圧にせよ私貿易の公認にせよ性急な対応には反対し、腰をすえた長期的な対応を求めていたかと思われる。


 戌午(37年=1558年)の春、葉宗満とその部下、謝二・董二(注1)らが倭を誘って交易に来た。官軍はこれを誘い入れて捕らえた。
(宗満はすなわち碧川、又は五龍と名乗った。先に双嶼で私貿易を行っていたが許二の党に騙されて日本に流落した(注2)。癸丑の年(32年=1553年)に初めて倭を誘って南澳で交易した(注3) 。丙辰の年(35年=1556年)、王直は私貿易を許す条件の招諭を受けたが、国法を恐れて決心がつきかね、毛烈を先に行かせようとした。烈はこれに難色を示して宗満に相談した。宗満は南澳に交易に行こうとしていたがこれは利益があっても名分がなく、烈に同行すれば名分も利益もあると考えた。宗満は童華と共に列港に来て交易を行った。時に徐海の乱があり、軍門は童華と徐海が知り合いであることを知り、兪一鑑を人質として送って彼を官軍の陣営に来させ、徐海の党を四散させた(注4) 。宗満は倭商を率いて舟山の倭賊を殺し、その後日本へと去った。丁巳の年(36年=1557年)、宗満は岑港に至り、軍門は伍惟統を人質に送って彼を軍門に至らせた。しかしまた放たれて海へと下った。戊午の年(37年=1558年)、軍門は兵を用いて宗満が帰国したところを待ち受けてこれを捕らえた。後に部下の謝二・董二が倭を誘って来航して朱光に停泊し、官軍はこれも誘い込んで捕らえた。庚申の年(39年=1560年)、宗満は鎮蕃衛に流刑となった)

(注1)『籌海図編』の「擒獲王直」に、蒋洲の日本への出発前に「倭酋董二」なる者が捕らえられたことが記されているが、ここにいる董二と同一人物であるとは断定しかねる。

(注2)この文中に出てきた嘉靖丙午(25年=1546)の許二・許四兄弟による謀略のことを指すか。


(注3)官軍による烈港掃討の直前、日本から浙江に赴いた葉宗満が水軍に驚いて南澳に向かったことが「海市」の嘉靖癸丑の部分で書かれていた。


(注4)童華の素性は不明だが、彼が徐海およびその妻・王翠翹と以前関わりがあり、それを官軍に利用されて徐海を滅亡に追いやった詳しい経緯は『紀剿除徐海本末』付録に書かれている。



 また南澳は戊午の年(37年=1558)以前はみな交易を行う者ばかりだったが、戊午以後は海賊の拠点となってしまった。許朝光(注1)らはその地域に根城を構えている。倭は福建・広東を襲撃するとこの南澳に帰って来て奪ってきた品物や人間を持ち込む。許朝光らは大船を造っておいて賊衆らに売り、倭賊らは奪ってきた金銀をこれに積み込んで、彼らと交易して去って行った。
 嘉靖己未(38年=1559年)、巡按広東監察御史・潘李馴はポルトガル人が上陸して省城に至るのを禁止し、沿海での交易のみを認めた。
 今年(41=1562年ごろ?)、許朝光は船を造って倭賊に売った。倭賊らは船を買って乗ったがすぐに壊れてしまい、ついに許朝光を怨み、再び地方を襲撃しようと考えた。しかし官軍には勝てないと考えて許朝光を襲って商品と船を奪い取って日本に帰ろうと話し合い、遂に南澳に入って許朝光を殺そうとした。朝光はこれを防ぎきれず南澳を脱出した。倭賊らは舟に乗って去ってしまった。そこで官軍が南澳に入ったが、後に兵たちは兵糧を欠いてしまい、ちょうどそこへ新たな賊がやって来ると兵たちは賊を誘導して東莞地方を襲撃した。許朝光は都御史呉カク(確の木へん)芳の招諭に従って投降し、船を闢望海上に泊めたが。そもそも国法を恐れてのもので心から服従したわけではない(注2)
 最近また日本の夷がやって来たが、みな華人に引き込まれて島を離れた者であり、商売に名を借りているが実は海賊行為を行っているのである。そのためまれにいる商人の多くはポルトガル人の船に便乗して広東沿海に交易にやって来ている。今年「海王」を称するポルトガル人が広東の龍崖門で公認の交易をしていたが、三洲に密貿易をしている船があると聞いて自分の利益が損なわれると言い、それを龍高ノ引き入れて交易を行ってから去って行った。「海王」を称する者はいつも龍高フ地に居を構え、民がその害を嫌ってひそかに憂えていたので使者を送って追い払おうとしたが彼は居座って恐れもせず、その害は十年に及んでいる。また銅を買って大砲を鋳造していると聞くし、朝貢と称しながら何を企んでいるか分かったものではない。また「財主王」と称するポルトガル人もいてその横暴は「海王」にもまさり、同じ場所に居座っていて、その隠れた被害はおしはかることができない(注3)

(注1)許朝光は嘉靖末期に広東方面で活動した大物海賊の一人で、『虔台倭纂』によればもとは謝姓で、実父を殺した広東海賊の許棟(王直の主とは同姓同名の別人)に母子ともにひきとられその養子となったが長じて養父を殺しその船団を乗っ取ったことが知られる。その記事に許棟が日本と往来していたことが記されており、朝光も倭寇たちとの関係を持っていたのだろうが彼が造って船を倭寇たちに売っていたというのは鄭舜功のみが記すところ。

(注2)許朝光が倭人たちに殺されかかって南澳を離れて官軍に投降し、入れ代わりに南澳に入った官軍兵士が今度は倭寇と結んで掠奪を行った経緯は「流逋」にも見える。許朝光が一時官軍に投降していたことは『世宗実録』嘉靖42年4月庚申の条に「把総許朝光」が対倭寇戦に参加していることで確認できる。


(注3)ここに出てくる「海王」「財主王」と称するポルトガル人たちについては全く不明だが、彼らが居座ったという「龍崖」とは現在の澳門(マカオ)の古名である。ここにポルトガル人が本格的に住み着き始めたのは1560年ごろとされ、鄭舜功の記述も彼が実地に目撃したところを記したものであろう。



 今の対策を考えるに、広い心を持って担当者に任せ、ゆっくりと処置を進めて見えざる懸案を解消していくべきである。そうせずに急な事態をうけ、十年積もり積もった問題を論じずにその時の担当者に一時の責任を押し付けていては、誰が治海の任を願い出ようか。どうして災いをやませることができようか。伏して思うに我が祖宗の制には既に倭との交易の条項は無かった。ただ宜しく大いなる権威を明らかにして四方の夷に画一の法を永く守らせるべきとあり、これはなお有効であろう。なぜ交易を開いてこれを無駄にしなければならないのか。わたくし舜功はつまらぬ身でささいな労を念じたが、幸にして皇帝陛下の盛世にめぐりあい、あえて詐術は設けず、ただただ一人忠義を尽くし、災いの門をふさごうとし、一定の理を明らかにしようとしたのである。わたくし舜幼は年も若く学も少なく、文章を師ともしなかった。誠心誠意使者の任をつとめて国に報いようとした者である。皇帝陛下がわたくしの功績をよくご覧になられんことを(注1)

(注1)この箇所、難解のため訳に自信が無い。「海市」の条を締めくくるにあたり鄭舜功自身の論を展開しているが、つまるところ『日本一鑑』執筆の動機である彼の日本渡航の功績を認めて欲しいという強い願望がにじみ出ている。鄭舜功自身は私貿易の全面解禁には表向き反対の姿勢を示しているが、性急な対応をとらず長い目で見た対策をとれと訴える部分は実際に海外に渡り、密貿易の関係者と直接の接触があった彼ならではの現実論にも感じられる。

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