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鄭舜功『日本一鑑』窮河話海・流逋の条(その1)
○解題○
鄭舜功については「海市」の解題を参照のこと。
ここで現代日本語訳で紹介する「流逋」とは「亡命者」の意味。この章では中国から国外に亡命した人間達が倭寇その他と結託して中国へ侵攻する活動についてまとめており、とくに嘉靖倭寇の群像に関して他史料に見られない詳細な記述が含まれる。なぜ鄭舜功がそれだけの情報を得られたのかは謎だが、あるいは鄭舜功自身がそうした種類の人間達に近い存在だったのではないかという推理もできる。また嘉靖倭寇にとどまらず、日明関係の通史ダイジェストのおもむきもあり、それもお楽しみいただきたい。
(補足:原文が長いため、ファイルは二つに分けてあります)
○訳文について
※原文はまったく段落も区切りも無い文章だが、読みやすさを考えて適当な長さで訳文を切り、訳注を半角赤字で間に挟む形式にした。
※文中に(青色)で示した部分は原文の本文に割り込んで半角で書かれている「割注」の部分である。
※(黒字)は訳者が字の説明・意味の解説等のために付け加えたもの。
※訳に自信があるわけでもないので、念のため原文へのリンクを文末に用意した。
「流逋」
私が考えるに、亡命者が倭を誘って入寇するということは以前の時代には考えられないことであった。。キン(勤のおおざと)県の監生・薛俊(注1)
が言うには「倭は魏・隋・唐・宋の時代以来、しばしば厚く朝貢し褒美の品を与えられたと言いながら、一方でしばしば辺境を侵していた」という。吏部侍郎・楊守(一字欠?)は「倭奴は唐から近代に至るまで朝貢の使節を送って来ているが、すでに中国の疥癬(皮膚病)となっている」と論じている(注2)。
『通鑑』(注3)に載るところによると元の至大戊申(1308年)、沿海に海賊への警戒が敷かれた。至大己酉(1309年)には慶元路に倭寇の攻撃があり、儀門及び天寧寺を焼き払った。これは実は招きに応じて交易に来た者たちだった。
元末には倭がしばしば入寇し、いちいち記録も無いほどだ。倭が明に入寇するようになったきっかけは元への入寇で味を占めたからである。そして必ずそこに亡命者が関わっていて彼等を導いていたのである(注4)。
(注1)薛俊は浙江・定海の出身で嘉靖期の人。最初の本格的な日本研究書である『日本考略』を執筆した。キン県とは寧波のこと。
(注2)未確認。
(注3)『通鑑』といえば『資治通鑑』だが、ここで引用しているのは『資治通鑑』の続編として宋・元時代を扱った『続資治通鑑綱目』か。
(注4)元末といえば日本では南北朝時代にあたり、朝鮮半島への、いわゆる「前期倭寇」の活発な活動があった時期。元末は混乱期であったため倭寇の襲撃の正確な記録が無かったものと思われる。元末の混乱期の群雄のうち浙江の方国珍・張士誠らは倭寇との関係があったと推測されている。
私が調べたところ、亡命者が倭を誘って入寇したのは洪武己酉の年(2年=1369年)に始まる。広東の賊首・鐘福全が倭を連れ込んで掠奪活動を行い、官軍により平定された(注1)。また倭が直隷を襲撃したので、洪武帝は臣下を派遣して東海の神を祭り、兵を出してこれを捕らえさせた(注2)。このためこの年と翌年に日本に向けて使者を派遣した(注3)。
辛亥の年(4年=1371年)になって、日本の王・良懐(注4)が使者を派遣し、明州・台州に倭寇にさらわれた男女七十余人を送り届けてきた。
明年壬子(5年=1372年)、またさらわれた沿海の男女七十八人を送り返してきた(注5)。
甲寅の年(7年=1374)、靖海侯・呉禎は沿海の衛の軍を率いて海に出て倭を追跡し、琉球の大洋にまで達して彼らを捕らえて都に送った(注6)。日本はまたもさらわれた沿海の民ら百九人を送り返してきた(注7)。
洪武辛酉(14年=1381年)、姦臣・胡惟庸が…(注8)
洪武丁卯(20年=1387年)、昌国(すなわち今の舟山である)の姦民が以前倭に従って海賊を行ったことがあったので、彼らを移住させて寧波衛の兵卒とした(注9)。
洪武辛未(24年=1391年)、黄岩の賊首・張阿馬が沿岸で掠奪活動を行ったのでこれを討伐した(注10)。
洪武壬午(35年=1402年)(注11)、使者として東南の外国に赴き帰国した者が「さまざまな番夷が島々に隠れ住み、中国の軍民や無頼の者が密かにこれと結びついて海賊行為をしている」と語った。
(注1)洪武年間の広東に鐘福全・李夫人らの海賊が倭人と結びついて活動を行っていたことは『籌海図編』広東倭変紀にも記されているが、そこでは彼らの平定は洪武4年とある。
(注2)『籌海図編』直隷倭変紀によれば洪武2年2月に直隷地方に属する崇明(長江河口にある島)付近に倭寇の襲撃があり撃退されている。また『太祖実録』では同年正月に山東への倭寇襲撃があったことが記されている。
(注3)洪武2年に新王朝の成立の告知と倭寇対策を求めるため楊載らの使節が日本に派遣され、当時九州を支配していた南朝方の懐良親王(後醍醐天皇の皇子)と接触したが追い返されている。翌洪武3年には再度趙秩らの使節が派遣され、懐良はようやくこれを受け入れ「日本国王」となった。
(注4)日本王「良懐」とは懐良親王のこと。明側の史料では全て「良懐」で統一されている。単なる誤記とも考えにくく、あくまで推測だが明の冊封を受け「日本国王」扱いされることに引け目があった懐良が自分の名を逆さまにして署名していたのかもしれない。
(注5)『太祖実録』洪武5年5月戊辰に、倭寇にさらわれて日本に連行された男女七十八人が帰国した記事があるが、送り届けたのは「高麗」であるとされている。
(注6)『明史』呉禎伝に記述あり。呉禎は明建国期の武将で主に水軍で数々の功績を挙げた。
(注7)『太祖実録』洪武7年6月戊午に「日本国」が被虜者百九人を送還してきたことが記されている。この年、明には南朝(懐良親王)・北朝さらには島津氏が勝手に派遣した朝貢使節までが集中的に明に来てしまい、明側も大いに混乱する。
(注8)私が所有するテキスト(手書き写しの影印)はこの後の部分が一行分ほど欠けている。胡惟庸は洪武帝の重臣の一人だったが倭と結んでクーデターを起こそうとしたとの疑惑で逮捕・処刑され、これに連座して多くの官僚が粛清された。その経緯が書かれていたものと思われる。
(注9)浙江近海の舟山群島の住民が倭人と結んで海賊活動を行っていたのは事実のようで、これを警戒した洪武帝は舟山の住民を全て本土に強制移住させ、逆に沿海警備の兵卒とする措置をとった。
(注10)『太祖実録』洪武24年8月癸酉によれば張阿馬は浙江・黄岩県の無頼で、日本に潜入し倭寇と結んで海賊活動を行っていたが、この年捕らえられ斬首されたという。
(注11)実際には「洪武壬午=35年」なる年号は存在しない。洪武帝は洪武32年に死去し、孫が即位して「建文」年号を立てたが、その叔父の燕王(永楽帝)が「靖難の変」を起こして内乱のすえ帝位を奪い、1403年(癸未)を「永楽元年」とし「建文」は無かったことしてその前年を「洪武三十五年」とした。以後これが明朝の公式とされ鄭舜功もそれに従っているわけである。
成祖文皇帝(永楽帝)は各国に使者を派遣して亡命者に対する勅諭をもたらした。その文には「善を好み不善を憎むのは人として同じ感情である。やむをえず不善をなした者も本心からのことではあるまい。お前達は或いは罪を問われ、或いは飢えと寒さに苦しんだために異国へと流れ落ち、そこで異国人たちと雑居し、遂に彼らと一緒に入寇して何とか生きながらえているのだろう。巡海の官軍は既に情け深い招撫をすることは出来ないから、更に明への侵害を加えてしまう。お前達は後悔の気持ちがありながらも自分ではどうすることもできないのであろう、朕はそれをとても哀れに思う。今、特に人を派遣して勅諭を送り届ける。異国に住む人はただちにそれぞれ本土に帰るように。明への入朝を求める者はこの勅諭に従って中国の人を送り返すように。彼の地に逃げ隠れていた者もみな前科を許すから、本業に戻って永く良民となるように。もしなおも遠隔の地にあることを頼みにしてしつこく気持ちを改めなければ、ただちに将軍に命じて兵を発し、全て皆殺しにしてしまうであろう。それから悔いても遅いぞ」と記されていた。
永楽癸未(1年=1403年)、錦衣衛(近衛兵)の臣が「福建から海賊若干名を送り届けてまいりました。法により市場で処刑すべきです」と奏上した。永楽帝は「朕は彼らに『不殺』をもって投降を許している。いま彼らを殺せば信用を失う。信用が失われれば以後投降する者の道をふさぐことになってしまう。彼ら全員の処刑を免じて辺境への流刑とするがよかろう」と言った。錦衣衛の臣は再び奏上して「海賊の中に女性が一人おりました。もともと彼らに連れ去られて、今はすでにその妻となっております。一緒に流刑にすることもないと思われますが」と言うと、帝は「もともと吾が良民が不幸にしてかどわかされたものだ。釈放して原籍に帰らせるがよい」と言った。
永楽甲申(2年=1404年)、倭が直隷・浙江地方を襲った。宦官の鄭和を使者として派遣し日本王を諭させた(注1)。
明年乙酉(3年=1405年)、日本の王・源道義(注2)が使者を派遣し、沿岸を荒らした倭寇を捕らえて献じてきた。永楽帝はその誠勤を喜び、使者を遣わし詔勅を与えて彼を褒めた。さらにその国の山を「寿安鎮国の山」に封じ、帝は自ら文を書いてその地に石碑を建てさせた。さらに白金などの品物を賜った(注3)。このとき福建都指揮・張鑑は兵を率いて倭を捕らえていたが、ひそかに賊の賄賂を受け取り、なおかつ兵を放って民の財産を掠奪させていた。しかし罪は流刑にとどまった。なぜそこまで寛大にしなければならなかったのだろうか。
丙戌の年(4年=1406年)、帝は海島の亡命者たちに勅諭を送った。その文には「お前達はもともとみな良民である。役人の暴虐のためにやむを得ず海島に逃げ込み、掠奪をすることでなんとか生きながらえているのだろう。流離・失業が長い年月に及んでも、天理・良心はいまだ汚れることがないはず。遠い故郷を思っても罪を恐れて帰国が出来ないのだろう。朕はここにそれ聞いて大いに憐れみ、特別に人を遣わして勅諭を与える。以前に犯した罪はことごとく許してやろう。例えて言えば春に氷が溶けていってしまうようなものだ。ただちに故郷に帰ってもとの仕事に復するがよい。疑いの心を持って後で悔いることがないように」とあった。この時、平江伯・陳セン(王+宣)が海運の船を率いて沙門島を通りかかったところ倭寇と遭遇し、随行の軍を率いて朝鮮との国境まで追跡して帰った。
永楽丁亥(5年=1407年)、日本王・源道義が使者を遣わし、捕らえた倭寇・道金らを献上した。帝は喜び、詔勅を与えてこれを褒めた。
明年戌子(6年=1408年)、(道義は)また使者を遣わして捕らえた海賊を献じて来た。帝は海賊を刑部に引き取らせ、宴をもよおしてその使者をもてなしその王に褒美を賜った。しかし道義が死ぬと、海賊がまたはびこるようになった(注4)。
永楽丁酉(15年=1417年)、倭寇対策の将官が海賊数十人を捕らえて都に送ってきた。賊の中に微葛成二郎五郎なる者がいて、尋問したところ日本人であった。群臣は「日本は数年のあいだ朝貢を怠っております。これは倭寇に阻まれているのではないかと思われたのですが、今この賊の指導者は日本人であります。こやつを処刑して日本の罪を正すべきでありましょう」と意見した。帝は「遠くにいる人々には刑罰をもって威嚇をするよりも、徳をもって懐かせるべきであろう。とりあえずその罪は許してやり、使者を派遣してその王に強く示してやるべきであろう」と言った。王の源義持はこれに応じて使者を派遣して国書を奉って謝罪し、初めのように朝貢するようになった(注5)。
永楽戊戌(16年=1418年)、倭が金山衛を襲った。
明年己亥(17年=1419年)、鎮守遼東総兵官・劉江が倭寇を望海堝に殲滅した。ここにうちに向けては軍備を厳しく整え、外に向けては武器を廃棄することを厳禁した。かくして海賊はようやくおさまったのである(注6)。
(注1)西洋への大航海で名高い宦官の鄭和が日本へ赴いたとする記述は明代の日本関係の書物のいくつかに散見されるが、事実ではない。鄭和が赴いた各国の記述の直後に「日本」から始まる文があったため誤解が生じたのではないかと思われる。鄭舜功も何かの本の記述をそのまま引いてしまったものであろう。
(注2)「源道義」とはもちろん室町幕府三代将軍・足利義満のこと。義満は洪武帝にも二度使者を派遣したが空振りに終わり、建文帝の時代にようやく明との交渉を持ち、1402年に建文帝から「日本国王」に冊封された。折り返し靖難の変の推移を見守って建文帝・永楽帝の双方にあてた国書を用意した使者を派遣し、即位した永楽帝のもとにただちに駆けつけてその歓心を買っている。
(注3)義満が永楽2年に使者を派遣したことは事実だが、ここにある永楽帝が日本の山に命名を行い石碑まで建てさせたという話は、今のところ筆者は他史料では確認していない。
(注4)義満最後の使者は永楽6年(1408)5月に北京に入っており、その年の12月に義満の子・義持から義満の訃報を伝える使者が北京に到着している。しかし以後義持は朝貢関係を断絶し、このため再び倭寇が跳梁することになった。
(注5)この件については『太宗実録』永楽15年10月乙酉にほぼ同文がある。ここで興味深いのが群臣達が「日本」と「倭」を別個のものととらえ、「倭寇が日本の朝貢の邪魔をしてると思っていたら倭寇の首領が日本人だった」という事実に驚きを見せている点である。「微葛成二郎五郎」はどう読むべきか不明だが「二郎五郎」のように「郎」を二つ重ねる名前はこの時期の日本人に多々見られる。なお、義持が謝罪の使者を送ったという事実はなく、五代将軍・義教が再開するまで朝貢使派遣は行われなかった。
(注6)劉江が山東東方海上の望海堝で倭寇集団と戦い、これを殲滅したことは前期倭寇の終焉を象徴する一大事件として多くの史料で描かれている。それによればこの時の倭寇は二千人以上で、明軍は斬首742名、生け捕り857名もの大功を挙げたという。
宣徳の世(1426〜1436)には要領よく統御を行ったので東海は穏やかであった。
正統已未(4年=1439年)、賊首・畢善慶が隙に乗じて倭を誘って大嵩など各所を攻撃した。対応を誤った官員ら三十六人が刑に処された(注1)。
景泰乙亥(6年=1455年)、ケン(ぎょうにんべん+建)跳が攻撃を受けた。
成化丙戌(2年=1466年)、賊が朝貢と偽称してやって来て、また大いに大嵩を襲撃した(注2)。
私が考えるに、正統・景泰・成化の時には賊は時々発生はしたものの、兵を出せばただちに立ち去っており、内陸に深く侵攻して害をなすようなことは無かったのである。
嘉靖癸未(2年=1523年)、二つの倭同士が互いに殺し合い、地方を騒がせた。これは朝貢にやって来た倭であり、本来入寇のために来た賊ではない。これは担当者が処置を誤り、そのために乱を招いてしまったものである。倭たちは指揮・袁シン(王+進)を連行して去ってしまった。このとき罪を犯して逃げた鐘林と望古多羅という倭夷は朝鮮に漂着し、朝鮮国王・李懌がこの二人を捕らえ、首級三十およびさらわれた明人の汪漾ら八名と併せて送り届けてきた(注3)。
(注1)この事件については『籌海図編』浙江倭変紀にほぼ同内容の記事があり、畢善慶は捕縛されたことが知られる。
(注2)やはり『籌海図編』浙江倭変紀に記事がある。それによれば夜に官軍は賊船のマストの明かりを目印にこれを包囲したが、賊らは実は海上の沙の上に明かりを置いて官軍を騙し、とっくに潮流に乗って逃げてしまっていたことが朝になって分かったという。
(注3)嘉靖2年に起こった「寧波の乱」のこと。細川氏と大内氏が仕立てた朝貢船が寧波でかち合って互いに正式な使節と称して譲らず、さらに寧波の役人が賄賂をとって細川側を正式としたため大内側が怒り乱に発展した。朝鮮に漂着した「鐘林」については「中林」とする史料もある。「望古多羅」は「もく太郎(「もく」の字は不明)」か。
倭寇と通じる者は福建のトウ(登+おおざと)リョウ(けものへん+僚の右)に始まる。初め罪により按察司の獄に囚われていたが、嘉靖丙戌(5年=1526年)に布政・査約を殺して逃亡して海に入り、番夷を誘い入れて浙江海域を往来し双嶼などの港に停泊した(注1)。
密貿易業者らは利益に目が無く、庚子の年(19年=1540年)になるとこれに続いて許一・許二・許三・許四らが密かに大宜・マラッカなどの国からポルトガル国の夷人を誘い入れ、次々と浙江海域にやって来てこれも双嶼・大茅などの港に停泊して大きな利益を上げた(注2)。東南の災いの門はここに開いたのである。
嘉靖癸卯(22年=1543年)、賊首トウリョウが福建沿海地方を襲撃し、浙江海域でも海賊が発生した。これは許一・許二の兄弟らが首謀者であり、このとき海道副使の張一厚は兵を率いて彼らを捕縛しようとしたが敗北してしまった。ここに許一・許二らは遂に異国の船を双嶼港に集めるようになった(注3)。
嘉靖乙巳(24年=1545年)、許一の部下の王直らが日本へ交易に行き、初めて博多の助才門ら三人を誘って双嶼港で交易を行った(注4)。直隷・浙江の倭の害はここに生じることになったのである。
(注1)福建のトウリョウについては「海市」にも記述があるが、彼が脱獄にあたって布政査約を殺害したことはここにしか書かれていない。
(注2)これもほぼ「海市」と同文。
(注3)トウリョウが福建で海賊行為を行い浙江でも海賊が発生したので、許兄弟らがその犯人と見なされて張一厚率いる官軍に攻撃され、これを撃退したことは「海市」にも見えるが、「流逋」での書き方はより許兄弟が実際に海賊活動を行ったようにとれる。
(注4)これも「海市」にほぼ同文があるが、王直を「許一の部下(許一夥伴)」と明記した史料はここだけである。多くの史料では王直は「許二=許棟」のもとで財務を担当したと伝えており、ここでなぜ許一のみを明記したのかは不明。王直が嘉靖24年に日本へ赴いたことは『籌海図編』寇踪分合始末図譜でも確認できる。
嘉靖丙午(25年=1546年)、許四は倭と交易をしてうまくいかず(注1)、双嶼に帰らずに賊首の沈門・林剪・許リョウ(注2)らの集団と一緒になって福建・浙江の沿岸を襲撃した。許二は兄弟の許一と許三が行方知れずとなり許四も帰って来ないので、賊首の朱リョウ・蘇リョウ・李光頭ら(注3)と一緒に番夷を仲間に引き入れ、福建・浙江の沿岸を襲撃するようになった。
明年丁未(26年=1547年)、賊首・林剪らが彭享の賊衆を誘い入れて来て、賊首許二・許四らと合流して一群を成し、福建・浙江地方を大いに荒らしまわった(注4)。文正公・謝遷の邸宅もその攻撃にあって焼き払われた(注5)
。備倭把総指揮の白濬、千戸の周聚、巡検の楊英らは昌国の沿海の哨戒に出動していたが、逆に許二・朱リョウらに捕らえられてしまった。指揮・呉璋は総旗・王雷に千二百金を身代金として許二らに送らせ、人質をとりかえした。賊はこの利益を得て、沿岸の富裕な民を連れ去っては多額の身代金を求めるようになった。地方の騒動を巡按浙江監察御史・楊九沢が朝廷に奏上したので、朝廷は都御史・朱ガン(糸丸)に命じて兵を動員して賊首許二を征伐させ、福建・浙江地方を静めさせることにした。
明年戊申(27年=1548年)、朝廷の命令が軍門にもたらされ、「賊首許二・許四の一名を捕らえた者には銀一千両の賞金を与え、万戸侯の官職を与える」と公示させた。許二・許四は停泊することが出来ず東西の洋へと逃げ去り、双嶼港はやっとふさがれた(注6)。ただ賊首・朱リョウは番夷の人を引き連れて浙江海域に舞い戻り、太湖の洞庭山に侵攻して大きな利益を挙げた。それから番人らを謀殺し、朱リョウらはただちに沿岸から離れた(注7)。また陳思ハン(さんずい+半)が倭を誘って大衢山に拠点を置き、洋子江の船を襲っていた(注8)。
(注1)許四が交易に失敗して海賊に身を投じることになった経緯は「海市」の記事に詳しいのでそちらを参照。
(注2)沈門は広東・潮州の出身で『潮州府志』征撫の海賊・林国顕の伝記に同郷人として名が載っている。そのため彼に続けて名が書かれた「林剪」は林国顕のことではないかと疑われるが確証は無い。許リョウは恐らく許朝光の養父で広東人の許棟であろう。沈門・林国顕・許棟は全て潮州饒平県の出身であることも考慮すべき。
(注3)許二(鄭舜功は彼を「許楠」とする)が他の兄弟がいなくなったためにやむなく海賊に走った経緯は「海市」にもほぼ同文があるが、「蘇リョウ」はここにしか登場せず、名前以外の情報は全く無い。
(注4)これも「海市」にほぼ同文あり。「彭享」とはマレー半島東部の港市国家。
(注5)『世宗実録』嘉靖28年7月壬申にこれと対応する記事がある。実録で主犯を王直・徐海としているのは時期的に明らかに誤りだが、実は郷紳である謝家は密貿易の出資者になっており取引をめぐって密貿易商人たちとトラブルになっていたことが背景にあったらしい。謝家が「お前達を官憲に告げるぞ」と脅したため許二らは謝家の邸宅に夜襲をかけたというのである。
(注6)嘉靖27年4月に朱ガンによる双嶼掃討は実行された。双嶼港の主であった李光頭・許棟(許二)が捕縛されたが、鄭舜功は「許二(楠)」は逃亡したと伝えている。許兄弟について鄭舜功の記述と他史料には齟齬があるのだが、鄭舜功が誤解していた可能性が高い。
(注7)朱リョウが番夷を引き連れて太湖まで侵攻した、という話は他史料では全く見つからず、鄭舜功のみが記すところ。
(注8)陳思ハンは『籌海図編』『海寇議』が伝える王直のライバル・陳思盻と同一人物。彼については「海市」と完全に同じ記述しかない。
嘉靖己酉(28年=1549年)、福建・浙江地方はやや平穏だった。浙江海道副使・丁湛は備倭の各総兵官に「福建の兵船への支給はもう止めて、帰還させるように」と命令を伝えた。福建の兵士たちは帰って行ったが途中で食料が乏しくなり、民家に掠奪をはたらいた。福建海道副使の馮璋はその情報を得て、福建に到着した福建兵を捕らえて投獄した。まだ福建に着いていなかった兵士たちはそれを聞いて日本へと逃げ去ってしまった。ここにまた賊を増してしまうことになったのである(注1)。
嘉靖庚戌(29年=1550年)、賊首・盧七と沈九が倭を誘って銭塘江付近に突入して荒らしまわった。この時、王直も倭を誘って長途で密貿易をしており、官軍は檄を王直らに送り、賊を捕らえて献じるように依頼した。王直は倭を脅して盧七・沈九を捕らえ、官軍に献じた(注2)。
明年辛亥(30年=1551年)、(王直が)陳思ハンを捕らえて献じた(注3)。この時賊首・キョウ(龍+共)十八もまた倭夷を誘って直隷・浙江の沿岸を襲撃していた(注4)。
壬子の年(31年=1552年)、日本の種子島の土官・古市長門守が「島の倭夷で唐人に脅されて従い中国を侵した者がおり、あわせて五人を斬首した」と報告してきた(注5)。この時、王直らは七倭賊を捕らえて献じた。賊首・徐海が倭を誘って浙江沿海地方に入寇した(注6)。これより浙江海上の倭寇の被害がしだいに増加していったのである。巡按浙江監察御史・林応箕が朝廷にこれを報告し、朝廷は都御史王ヨ(りっしんべん+予)に命じて福建・浙江地方を平定させる事にした。
明年癸丑(32年=1553年)、葉宗満が倭を誘って浙江海上に交易にやって来た。しかし水軍がいるのを見て驚いて停泊せず、広東の南澳に行って交易をした。福建・広東の倭の害がここに生じることになった(注7)。時に賊首・蕭顕らが倭を誘って上海県に入寇するということがあった(注8)
。賊首・王十六、沈門、謝リョウ、許リョウ、曽堅らも倭を誘って黄岩県を掠奪して焼いた。参将の兪太猷と湯克寛は王直に命じて黄岩で賊を捕らえて献じさせようとしたが、賊はすでに逃げた後だった。そこで王直を「東南の禍本」とみなすことに決し、兵を率いて王直を列港に攻撃した。追撃して長途に至り、さらに馬蹟潭にまで至ったが、銃砲の響きが眠っていた龍を目覚めさせて風と浪とが大いに起こり、兵船は漂い散ってしまった。王直の舟はどこにも停泊することが出来ず、夏六月になって風に乗って逃げ去り、平戸に向かった(注9)。
(注1)ここにいう福建兵は朱ガンが双嶼掃討の折に動員したもので、彼らの一部が福建に帰還せず海賊に加わってしまったという話は『海寇議』にもある。当時の官軍兵士の多くが非常に退廃していた上、倭寇の中にも多くの福建人が含まれていたため、兵士が倭寇と内通してしまうケースも少なくなかった。
(注2)王直が官軍の要請を受けて盧七・沈九を討伐したことは「海市」でも記されており、そこでは檄を出したのが浙江海道副使の丁湛であり、見返りに密貿易を黙認したことが明記されている。
(注3)王直が陳思ハン(=陳思盻)と戦い、これを壊滅させた経緯は万表の『海寇議』に詳しい。ここでは「海市」の記述と同じく王直が陳思ハンを捕らえたとしているが実際には殺害し、その甥陳四を捕らえて献じている。
(注4)キョウ十八については「海市」では王直が陳思ハン集団を壊滅させた直後にキョウ十八を許して共に交易を行ったという記述がある。「流逋」ではキョウ十八が海賊活動を行っていたことを明記しており、彼が王直と何らかの取引をした可能性を感じさせる。『世宗実録』嘉靖31年9月戊戌にはキョウ十八が「江洋の盗」と記され、『太倉州志』ではその年の春に朝鮮から長江河口の崇明に流れ着き捕らえられたことが記されている。
(注5)この件、他の史料では未確認なのだが、当時の種子島に「古市長門守」なる武士がいたのは事実。
(注6)王直が海賊を討伐している間に徐海が海賊行為を行い、王直に厳しく叱責された話はこの「流逋」の徐海の割注内に詳しい。
(注7)葉宗満が官軍の兵船に驚いて南澳に向かった話は「海市」にもほぼ同文で載る。
(注8)蕭顕については『籌海図編』の倭変紀や寇踪分合始末図譜に詳しく、「善戦多謀で王直も恐れてこれに譲った」と記される印象的な賊首である。この年に彼が上海を攻撃したのは事実だが、それは官軍による烈港攻撃が行われ王直が逃亡した後のことで、先に蕭顕が活動したために烈港攻撃が実施されたように記すのは鄭舜功の記憶違いか。
(注9)王十六らが黄岩を攻撃し、それを王直に討伐させようとしたらすでに逃げ去った後だったので、王直を彼らの首領とみなして官軍が烈港攻撃を行った。逃げる王直を追ううち龍が目覚めて…とする展開は「海市」にも記事があり、「流逋」の書き方のほうがやや詳しい。「海市」で「王十六ら」とした部分に沈門以下の実名が挙がっていることが注目される(このうち曽堅のみ他に登場する史料が無い)。この黄岩攻撃については万表『海寇議』は王直によるものと断じているが、鄭舜功は否定的でむしろ官軍側が誤解したものととらえていることがわかる。
(以下、「その2」に続く
)