海上史史料室
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◎ 鄭舜功『日本一鑑』窮河話海・流逋の条(その2)




 嘉靖甲寅(33年=1554年)、賊首・徐海が再び倭を誘って直隷・浙江に入寇した(注1)。賊首・呉徳宣も倭を誘って柘林に拠点を構えた(注2)。蕭顕は倭を誘って嘉定を襲撃した(注3)。王阿八が倭を誘って蘇州を襲撃した(注4)。劉鑑が倭を誘って常熟を襲撃した(注5)。許二・許四も番夷を引き込んで広東を荒らした。

(注1)徐海がこの年に入寇したと明記しているのは『日本一鑑』のみで、後述の徐海割注にも見えるが詳しい内容は一切書かれていない。(注2)の史料にある「徐碧渓」が実は徐海のことなのかもしれない。

(注2)呉徳宣については『籌海図編』直隷倭変紀・嘉靖33年4月の「王直が呉徳宣・徐碧渓らと柘林に拠点を構えた」という記事中に名が見える。ただし一緒に名を連ねている「徐碧渓」とは徐銓のことであり、この時期徐銓は王直と別行動をとり広東に赴いていたので明らかに誤り。『籌海図編』は王直を倭寇の首謀者と断定するための政治的粉飾が多々あり、呉徳宣を王直の直属の配下のように書いてあるのをそのまま信じることは出来ない。なお、柘林とはその後しばしば徐海らが拠点を構えた沿岸の地であり、ここでいう徐碧渓とは実はその甥徐海を指している可能性が高い。

(注3)蕭顕が嘉定を攻撃したのは他史料によれば嘉靖33年正月。前年から長江河口の南沙に半年ほど立てこもり、正月に官軍の隙を突いて脱出してそのまま嘉定を攻撃している。

(注4)王阿八については詳細不明だが、『籌海図編』直隷倭変紀では嘉靖33年4月に蘇州を攻撃した賊の首領の名が「阿八王」と書かれている。また筆者は未確認だが「王亜八」と書いたテキストも存在するらしい。この時期広東で活動した「何亜八」なる賊首もいるが…

(注5)劉鑑も詳細不明の賊首で、『籌海図編』直隷倭変紀で嘉靖33年4月の常熟攻撃の首領として名が挙がっている。



 乙卯の年(34年=1555年)、倭寇の活動が激化した。工部侍郎・趙文華は勅命を奉じ、東海の神を祭って官軍を起こし賊を討とうとした。巡按浙江監察御史・胡宗憲はこのとき毒剤を使って倭寇を王江で毒殺した(注1)。夏四月辛卯に(臣・舜功が)勅命を奉じて日本国に説得に赴いた(注2)。賊首・許二が広東海上から王濡(すなわち汝賢、王直の甥である)、徐洪(徐海の弟)を同行して日本に行き、それぞれ王直、徐海、沈門らと会おうとした。許四はひそかに家族を連れ出して許二の船が帰ってくるのを待って共に倭へ行こうとした(注3)。賊首・林碧川が倭を誘って直隷・浙江に入寇した(注4)。一枝も倭を誘って入寇し、湖墅の民居二万七千余家を焼き払った(注5)
(一枝は一名を阿九という。先年に連れ去られて海へと下った。王直が彼を得て自分の義児としたが、その後一枝は普陀山に逃げ込んだ。僧の明懐が彼を得て従者とし、その名を真其と変えさせて共に各地を渡り歩き、宜興の善権寺に寄寓したこともあった。嘉靖壬子(31年=1552年)、再び普陀山に帰ったが、たまたま王直らがそこに参詣して焼香しており、彼が阿九であることに気付いた。そこでまた一緒に海に下ることとなった。
 明年癸丑(32年=1553年)、沿岸の水軍が王直を捕らえようと激しく追跡してきたので、一枝もまた王直に同行して日本に逃げ去ることとなった。それからしばらくして、一枝は王直の財物を盗み出して島原に逃げ隠れた。やがて財物も使い果たして困っていたところ、徐海が入寇して利益を挙げたことを聞いた。ここに至って一枝は倭を誘って直隷・浙江に入寇し、湖墅の民居二万七千余家を焼き払い、また日本へと戻った。
 丁巳の年(36年=1557年)、王直は招諭を受けて明に行こうとした時、一枝の行方を突き止めて、一緒に招諭に従わせた。王直が官軍に投降すると、一枝は船団の指導者となった。
 明年戊午(37年=1558年)、舟山に立てこもって抵抗した。冬十一月に福建海上の五嶼へと走り去り、倭寇と共に沿海を荒らしたが、海兵によって撲殺された)
(注6)

(注1)趙文華については「海市」の注および「海上史人名録」参照。ここで初めて官軍側に登場する胡宗賢はこの趙文華と結んで張経・李天寵らを陥れ総督の地位に上り、対倭寇戦の司令官におさまった。胡宗賢が対倭寇戦で毒薬を用いたことは複数の史料に出てくるが、王江の戦い(1555年4月)の時であったかは断定できない。王江の戦いは本来張経の功績なのだが胡宗賢・趙文華が報告をねじまげて功を横取りした事実があるからだ。

(注2)『日本一鑑』の著者である鄭舜功は、このほんの一時期だけ倭寇対策にあたっていた総督・楊宜の命を受けて日本に渡っている。

(注3)許二(ここでは許楠)が王直の甥・王汝賢と徐海の弟・徐洪を伴って日本に行き、沈門らに会った経緯は本文後述にも詳しい。許兄弟は王直・徐海と同じ徽州歙県出身なので、官憲に人質にとられるのを恐れて自分たちおよび王直・徐海の家族とを日本に連れて行くつもりだったのだろう。

(注4)林碧川は『籌海図編』寇踪分合始末図譜ではトウ文俊・沈南山と同グループにまとめられ、日本の楊哥(呼子?)に拠点を置いたとされ、陳思盻との関わりも示唆されている。この年、嘉靖34年に沈南山および日本人・烏魯美他郎らと入寇し、9月に海上で捕らえられた。

(注5)湖墅とは滸墅のことで太湖北岸の地。『嘉靖東南平倭通録』の嘉靖34年5月〜7月の記事でこの地に倭寇の襲撃があったことが確認できるが、その首領の名は記していない。

(注6)この「一枝割注」は「徐海割注」と並んで「流逋」文中でひときわ印象に残る。王直の義児・王一枝の名はこの史料以外には全く見えないが、鄭舜功は彼の数奇な生涯を詳細に記している。一枝が王直のもとから逃亡を繰り返し、財物を盗んで島原に隠れたなどと記述が具体的なのは鄭舜功が日本滞在時に彼の情報を得ていた可能性を感じさせる。王直がその投降時にわざわざ一枝の消息をつかんで同行させ、王直が官軍に捕われると一枝が船団の指導者(原文:船頭)になったという話は王直集団のあり方を考える上で重要である。



 また五十二人の賊の集団が起こり、初め邱洋から上陸し、曹娥江を渡り、郷紳の御史・銭鯨が彼らに殺害された。さらに紹興に走り、蕭山を過ぎ、銭塘江を渡り、富陽に入り、厳州に奔り、徽州を通って寧国・太平を経由し、南京にまで迫り、ここで把総・朱嚢と蒋陞が戦死した。賊は常州などの地方を越えて蘇州の木涜にまで至り、ここで都御史・曹邦輔が自ら兵を率いて彼らを討ち滅ぼした(注1)
 この時、工部右侍郎・趙文華が東南地方の平定を図って広く乱を静めるための意見を求めた。すると密貿易をしている者たちが「必ず王直に海上貿易を管理させるようにすることです。そうすれば乱は静まるでしょう」と告げた(注2)。そこで使者(注3)を送って王直を招いた。
 そのころ許二の船は日本に到達し京泊の津に泊まった。そして王濡を王直のもとに送って会わせ、徐洪を徐海に会わせ、自らは沈門と高洲で会った(注4)。許二は帰りに小琉球(台湾?)に立ち寄り、島の木を盗んだために島民によって殺されてしまった。

(注1)嘉靖34年(1555年)6〜8月にわずか52人の倭寇が浙江から直隷にかけて、まさに「大暴走」を行ったことは他の史料でも詳しく記されている。『嘉靖東南平通録』は人数を「百余」とするが、いずれにしても船一隻に乗れる程度の少人数部隊であったことは間違いない。

(注2)この部分、ほぼ同意の文が「海市」の条にある。王直に貿易を管理させることが倭寇の乱を静める事になる、という意見があったことは官軍側では鄭舜功のみが記すところだが、王直自身の上疏文にも同じ意見が書かれている。

(注3)名前の明記が無いが、蒋洲・陳可願のこと。

(注4)京泊の津は現在の鹿児島県川内市内の港で古来より日中間の交易拠点の一つだった。許二が沈門に会ったという高洲とは大隅の国の「高須」のことで現在の鹿児島県鹿屋市内。


 嘉靖丙辰(35年=1556年)、賊首・徐海が三たび倭を誘って浙江・直隷に入寇した。賊首・陳東と共に桐郷を包囲し、沈荘に拠点を構えた。都御史・胡宗賢は計略をもって彼らを四散させた。
(徐海はすなわち明山である。虎ホウ(足包)寺の僧となり、法名は普浄といった(注1) 嘉靖辛亥(30年=1551年)、海は叔父の徐銓が倭を誘って列港で交易していることを聞き、列港に行ってこれに会い、日本へ同行した。日本の夷は初めて徐海を見て「中華の僧だ」と言って活仏のように敬い、多くの施しを行った。徐海はその収入によって大船を建造することが出来た。
 明年壬子(31年=1552年)、徐海は倭を誘い交易のためと称して列港に行った。時に徐銓と王直は海道の檄を奉じて港を出て賊を捕らえて官憲に送りつけていた。その間に徐海の船の倭はたびたび潜かに港を出て接済の貨船
(注2) を襲って掠奪した。掠奪にあった者がそのまま列港に着くと、また掠奪をした倭に出くわしたので、気がつかないふりをしてこっそりと尾行し、それが徐海の船の倭であることを知った。そこで王直にそれを報告した。王直は「我らは港を出て賊を捕らえていた。それが港の中に賊がいようとは思わなかったわ」と言って徐海を戒めた。徐海は怒って王直を殺そうとしたが、徐銓も徐海を戒めたので思いとどまった(注3)。徐海は再び日本に行った。
 甲寅の年(33年=1554年)、徐海は倭を誘って明にやって来た。明年乙卯(34年=1555年)には大いに寇掠をほしいままにした。この時、崇徳で妓女の王翠翹・王緑妹ら(注4)を捕らえて去って行った。彼の弟・洪(注5)が広東から許二の船に乗って倭に至り、徐海に会って叔父の徐銓が広東の官軍に滅ぼされたことを告げた。
 明年丙辰(35年=1556年)、徐海は種子島の夷・助才門すなわち助五郎
(注6)、薩摩の夥長掃部(注7)、日向の彦太郎、和泉の細屋(注8) など合計五・六万の人員・船十余艘を糾合し、広東に行って徐銓の仇討ちをしようとしたが、それを聞いた商人たちは「浙江の交易の門は閉ざされてしまっている。今また彼らが広東に行けば、我らの商売はあがったりになってしまうぞ。あいつが去った時を狙って、ひっとらえて官憲に送り、交易の門が閉ざされるのを免れようではないか」と話し合った(注9)徐海はそれを聞いて恐れを抱き、遂に広東には赴かず、直隷・浙江へ向かった。船団は大洋を航行中に多くが漂流・沈没してしまい、徐海は二万余を率いて陳東・葉明と合流し直隷・浙江地方をほしいままに荒らしまわり、陳東と共に桐郷を包囲した。
 都御史・胡宗賢は民間人の何子実の探索によって、徐海の情報を得た。また何子寔
(注10) に民間人の祝麟・陸鳳・陸喬を連れて来させて指揮に任じ、千戸・賛画を人質として徐海の拠点に行かせて交換で徐海の弟の徐洪を得て、桐郷の包囲を解かせた。さらに中書・羅龍文を人質として徐海の拠点に送り込み、徐海の投降の期日を決めさせた。そして期日に先立って兵を連れて平湖に入り、工部侍郎・趙文華、都御史・胡宗賢と阮鶚、御史・趙孔昭に面会に来させた。この時、趙文華は「お前は反逆を犯した者であるがもともと中国の生民である。どうして島民を引き込んで地方に害をもたらしたのか。本来なら許さず斬首に処すところだがお前の投降の一念は良しとすべきである。今は特にお前を許して梁荘に謹慎し、私が朝廷に奏請して返事が来るまで待つがよい。もし落ち着くことなく一木一草でも動きを見せたら、私が自ら六軍を率いて天命を奉じて討伐し、決して許さぬであろう」と言い渡した(注11)
 この時徐海が反逆の気配を見せたので趙文華はそれを覚って徐海に酒を与え毒殺しようとした。しかし胡宗賢が羅龍文を徐海の拠点に密偵として潜り込ませたので中止した。徐海は既に退いて沈荘に拠点を移しており、胡宗賢は童華(注12) を徐海の参謀として以前から徐海の拠点に潜り込ませて羅龍文と共に徐海に帰順を説かせた。すべて徐海の望むように羅龍文と童華は従い、胡宗賢に必ず彼を許してくれるように言うと伝えた。また童華・汪泰・何子実らを徐海に内通させ陳東を捕らえた。また何子実に管懋光らと協力させ葉明を捕らえさせた。そして羅龍文・童華の計略により徐海を陥れ、その一党を四散させた。全て準備が整ったところで夜に何子実らに旗を掲げて官軍を導かせ、徐海の拠点を掃討した。このとき王翠翹・王録妹を捕虜とし、徐海を溺れさせた。徐洪らは都に送られ処刑された)

(注1)虎ホウ寺は杭州にあった寺で、徐海はここでの僧侶時代に色町へ出かけてトラブルを起こしたり、羅龍文と遭遇したりといった逸話も伝えられている。

(注2)「接済」とは沿海の住民が貿易船に近づき、日用品などの物資の交易を行うこと。

(注3)徐海が海賊行為を行った時に王直が官軍の要請で出港していたというのは「海市」「流逋」同年の記事にある「七倭賊を捕らえた」とあるものを指すと思われる。同時代史料で徐海と王直はしばしば同じ一味とされるが、両者が激しく対立したとするこの事件を記しているのは鄭舜功のみである。これも鄭舜功が日本に渡航した際に得た情報かもしれない。

(注4)徐海に捕われその妻となった妓女の王翠翹・王緑妹について鄭舜功はわずかに言及するのみだが、『紀勦徐海記事本末』『倭変事略』などは彼女たちについて詳しく記述している。当時すでに彼女らが有名であったこと、彼女らの逸話が直後から伝説化していることの現れであろう。

(注5)徐海の弟・徐洪については『三朝平攘録』に詳しい記事があり、彼が「徐二将軍」と呼ばれたこと、無錫で布工をして暮らしていたことなどを記している。しかし『三朝平攘録』は徐洪が胡宗賢の招きを受けて説得のために徐海の陣営に行かされ、兄弟で「二十年ぶりの再会」を泣いて喜びあったと記しており、『日本一鑑』の記述と矛盾する。史料の信用度は『日本一鑑』の方が高いかと思われるが…。

(注6)「種子島の助才門」が王直と関係を持つ「博多津の倭の助才門」と同一人物という見解もあるが、鄭舜功が「助五郎」という別名を記していることからも別人とみなすべきであろう。

(注7)「薩摩夥長掃部」をどう読むべきか。続く「日向彦太郎」「和泉細屋」の読みからすれば「夥長掃部」で一つの名前と見なせるが、「夥」は「仲間」であり「夥長」でそのリーダーと見なすことも出来る。「掃部」は日本の官名の「かもん」であることは間違いないが、当時の薩摩に該当者がいるのか判然としない。徐海と連合した陳東について「薩摩州君之弟掌書記酋也」とする史料があり薩摩=島津氏の関係者が徐海集団に関わっていた可能性は高い。

(注8)「日向の彦太郎」は他の史料には登場せず、全くの未詳。「和泉の細屋」は恐らく堺の商人であろう。

(注9)ここで徐海の広東行きを妨害しようとした「商人たち」(原文「商輩」)は文脈からすれば中国人の密貿易業者であると思われ、恐らくは王直につながる人々であったかと思われる。

(注10)この部分、「何子實」の誤記か。なお、「何子実」についても他に史料に名はなく、『日本一鑑』のこの徐海割注にのみ登場する。

(注11)徐海投降にいたる経緯はおおむね他史料とも一致する。趙文華が徐海に垂れた訓戒も台詞は異なるがほぼ同じような場面が『倭変事略』などにも見える。

(注12)童華は「海市」にも登場し、葉宗満らと同行したり、徐海と以前に何らかの関係があり、それで胡宗賢に徐海対策に利用されたことなどが記されている。ここで「参謀」と訳した原文は「法眷」となっている。



 この年、賊首・呉定と韓朝仕(初め王直の部下となっていた)(注1)が、徐海が入寇して利益があったことを聞き、ここにいたって倭を誘って入寇したがその後の消息は分からない。賊首・周一(注2)は倭を誘って慈谿を襲った。賊首・許リョウ(注3)は月港を襲った。朝鮮がさらわれた人々を送還してきた。
 冬十二月庚子に、日本の西海修理大夫・六国刺史・豊後土守の源義鎮(注4)が僧の清授を船に乗せて使者として送ってきた。これより先に無官であるわたくし鄭舜功が使者として日本に赴いており、この時になって返答の使者が国典を乞うために送られることとなり、私はこれと同行して帰国し法に従わせようとしたのである。

(注1)呉定・韓朝仕については他史料に記載がなく全く不明。鄭舜功の情報を信じるなら以前王直集団に属していたと思われるが、この時期には離脱していたと考えられる。

(注2)『籌海図編』浙江倭変紀の嘉靖35年5月の記事に慈谿を襲って官軍に捕われた賊首に「周乙」という者がおり、これと同一人物であろう。

(注3)許朝光の養父・許棟か。

(注4)豊後の領主でありキリシタン大名として名高い大友宗麟のこと(彼の官位は「修理太夫」だった)。彼が鄭舜功に同行させる形で僧の清授を明に派遣したことは『世宗実録』にも胡宗賢の報告中に見える。



 嘉靖丁巳(36年=1557年)の春正月辛巳、賊首・許四が家族と共に汀コウ(章+エ+貝)に隠れて許二の船の帰還を待ち、それに載って日本へ行こうとしていた。この時、無官のわたくし鄭舜功が日本に使者として赴いた帰りに汀コウを経由し、許四の消息を探り出した。そして彼を招諭したが従わなかったので捕らえて総督の軍門に送った。許四の仲間に軍門で働く者がおり許四の罪が軽くなるように工作したため、許四は死刑は免れて湖広の鎮渓衛に終身の兵役刑となった(注1)
(許四とはすなわち許梓である。その兄の許二・許三が先に海に下って外国に通じ、大宣・マラッカで交易を行っていた。その後、許四が兄の許一と共にこれに合流した。嘉靖庚子(19年=1540年)、初めてポルトガル人を誘って浙江海域に往来し、双嶼港に停泊して密貿易を行った。たびたびポルトガル人らから異国の商品を借りて寧波・紹興の人々に売り、商品を交易して借りを償却した(注2) 海辺の遊民たちは禁制の品があるのを見てそれを奪い取った。ここに遊民たちは調子に乗って小船に乗り込んで沿海を襲撃し人を殺傷した。被害を受けた家は許一・許二が自分達を騙して海に下ったとして海道に訴え、副使の張一厚が自ら兵を率いて許一らを捕らえようとしたが敗北した。これ以後異国船が双嶼に常に停泊するようになった。
 ほどなく許一が捕らえられ
(注3) 、許三は行方不明となった。許二と許四は番人から商品を借り売りしており、十に一つも弁償が出来なかった。番人らが帰ってきて怒ったので、許四は一計を案じて部下を直隷の蘇州・松江などの地方に送り、人々を密貿易に誘って商品を集めさせ双嶼に行かせた。彼らがやってくると、許二と許四は密かに番人をけしかけて商品を略奪させ、うわべでは誘った人々を慰めて弁償を行うことを認めた。人々はどうすることもできず、自前で商品を集めた者はあきらめて立ち去り、借金をして商品を集めた者は敢えて帰ろうとせず、許四に従って日本に渡り埋め合わせをしてから帰ることにした。日本の京泊の津に至り、被害にあった人々は番人が略奪を行ったことを島主に告げた。島主は「番人は中国に交易に行って中国の人や財物を略奪したという。今彼らは我が国に交易に来ており、やはり狼藉を起こす怖れがある」と言ってただちに番人たちを殺し、薪や食料などを許四に与えて華人たちを送り帰らせた。許四は番人の商品を失った上に番人の商人たちをも失ったことを思い、あえて双嶼には向かわず、沈門・林剪らと福建・浙江地方を襲撃するようになった。(許四は)林剪を彭享に行かせて賊を誘い入れ入寇した。このとき許二は許一と許三が行方知れずとなり許四も帰ってこず、番人からの借金も返せず自らの食にも事欠いたため、遂に朱リョウらと共に番人を引き入れて福建・浙江地方の沿海を略奪するようになった。
 明年丁未(26年=1547年)、林剪が彭享から賊衆を誘い入れて船七十余艘に乗り込み、浙江海上に至って許二・許四と合流して一群となり、沿海地方を襲撃した。文正公・謝遷の邸宅もこのために焼き尽くされた。備倭把総指揮・白濬、千戸・周聚、巡検・楊英は昌国の海上に哨戒に出ていたところを許ニ・朱リョウらに捕らえられてしまい、指揮・呉璋は総旗・王雷に身代金の千二百金を持たせて行かせ、彼らを取り返した。これに味を占めた許四らは沿海の金持ちを連れ去っては重い身代金を求めるようになった。地方の騒動を巡按浙監察御史・王九澤が朝廷に奏上したので、朝廷は都御史・朱ガンに兵を整えて許ニ・許四を討伐するよう命じた。
 明年戊申(27年=1548年)に命令は実行に移され、軍門は賞金をかけて「許ニ・許四の一名につき賞銀一千両および万戸侯の官を与える」と触れ回った。許ニ・許四は西洋へ逃れ、双嶼港はふさがれた。ただ賊首・朱リョウは番人と共に浙江海上に舞い戻り、太湖の洞庭山に入寇して大いに利益を得た。そして部下達と共に番人を謀殺してただちに沿海から離れた。
 甲寅の年(33年=1554年)、許ニ・許四は再び番人を誘って広東を襲撃した。ここで沈門がすでに家族を連れて日本に移住したことを聞き
(注4) 、許ニは許四に潜かに家族を連れてこさせ、自らは先に日本に行って沈門らに会い、それから広東に戻って来て許四と示し合わせて家族を連れて日本へ行くことにした。かくして許ニは王濡・徐洪と共に日本へ渡り、それぞれ王直・徐海に会わせ、許ニ自身は沈門に高洲で会った。帰りに小琉球を経由したが、ここで島の木を盗んだために許二は島民に殺されてしまった。許四は家族を連れて汀コウに身を隠して許ニの船が帰ってくるのを待ったが、丁巳の年(36年=1557年)にわたくし鄭舜功が日本に使者として赴いた帰りにコウ州を経て許四の消息を探り出し、招諭して正道に帰るよう命じたが従わなかったので捕らえて総督の軍門に送りつけた。しかし許四の仲間で以前から軍門の中で働いていた者がおり(注5)、彼のために取り計らったため許四は湖広の鎮渓衛に終身の兵役刑となった。
 私が考えるに、許四は海洋に乱を起こした者であり、罪は非常に重い。また招諭に従わおうとしなかったのだ。生け捕りにして軍門に送ったというのにそれを軽々しく流刑で済ましてしまうとは。賊の巨魁をこのように甘く扱っていては、その配下についてもやはり甘い扱いになってしまうだろう。これでは彼らをして外国の島に深く根を張らせ、尽きることのない災いの種を醸成することになってしまうではないか。)


(注1)以下、許四=許梓についての詳しい割注が入る。内容は「海市」「流逋」の本文との重複も多いが、若干の追加情報がある。この部分は鄭舜功が、許四を捕らえた自らの功績をアピールする狙いも強く感じるが、許四から直接尋問して得た情報も含まれる可能性が高い。

(注2)「借りて…売り」と訳した部分は原文では「毎に番夷と番貨を寧紹人にシャ(貝余)出し、貨を易して償に抵てる」とある。「シャ出」とは「貸し売り」「掛売り」といった意味があるが、ここではその後に書かれたトラブルの記述から、まず許兄弟がポルトガル人から商品を預かり、それを浙江の商人に売って中国商品と交易し、それからポルトガル人に借りた分の代価を払う(あるいは中国商品を引き渡す)という形での密貿易が行われていたのではないかと解釈した。

(注3)許一(松)については他の部分では単に行方不明になったように書かれていたが、ここでは「捕らえられた」と明記している。ただし許一についての情報は鄭舜功しか書いておらず、許兄弟の長男が逮捕されたという記録は他の資料には見えない。

(注4)沈門については何度か言及があるが、ここでは「家族を連れて日本の高洲に移住していた」と具体的な情報を書いている。高洲は鄭舜功も訪れた地であり、倭寇に連れ去られた明人たちが奴隷として酷使・売買されている様子を目撃し、記録している。鄭舜功が沈門およびそれと関わる許兄弟について詳しく記しているのは実際に高洲で見聞した情報がもとになっているのかもしれない。また鄭舜功の記述から沈門が奴隷貿易に深く関与していたのではないかとの予想も出来る。

(注5)詳細は不明だが、童華のように密貿易に深く関わりながら官軍に投降してその人脈・知識を利用されていた者は少なくなかったようである。



 賊首・施宝円が倭を誘って浙江地方に入寇した。この時、海に出た官軍は王濡に命じてこれを捕らえさせた(注1)。また浙江に妖人・馬道士が謀叛をたくらんだので続けてこれも平定した(注2)
 日本の西海修理大夫・源義鎮が僧の徳陽を派遣して入貢を求めてきた。これより先に帰ってきた使者が日本に招諭し(注3) 、なおかつ王直も招いており、それに応じた動きであった。また招きに応じて謝和、葉宗満、毛烈、王直がそれぞれ船一艘に乗って岑港に停泊した。そして葉宗満・毛烈と王直とが相前後して官軍に投降したが、毛烈だけは再び海に下った。この年、朝鮮が倭寇にさらわれた人々を送還してきた。

 嘉靖戊午(37年=1558年)春二月、招来した毛烈と招来した倭の善妙らが船を捨てて岑港に立てこもった。このときやはり招来していた朝貢使の徳陽らは先に道隆観に宿泊していたが、ここにいたって善妙が彼を岑港に引き入れてしまい、ついに宿泊の建物を焼き払った。
 日本国に属する周防国が僧の龍善を派遣して入貢を求めてきた。これより先に使者を派遣して王直を招いており、それに応じてやって来たものであった。このとき都御史・胡宗賢は所用で舟山海上に出かけており、官は龍善を攻撃して殺してしまった。この時また逃げ去る者があった(注4)
 夏四月乙巳に義士の沈孟綱と胡福寧が日本王を諭しに行き、帰国して潮州海上にやって来たところ、官軍の弓兵らに陥れられ殺されてしまうという事件があった。これより先に無官のわたくし鄭舜功は日本に赴き豊後に至って彼らの情報を得ていた。沈孟綱・胡福寧は文書を持参して日本国王・源知仁を諭しに行き、その返信を得た。潮州に帰ってきて返信を闢望の巡検司・照ネン(馬念)に届けたが、弓兵らはこの返信を隠滅し彼らを獄に投じてしまった。その情報を得て軍門に知らせたが信じてもらえず、人をやって殺すのをやめさせようとしたが、すでに抹殺されてしまったあとだった(注5)
 秋七月、毛烈らは拠点を柯梅に移した。冬十一月になって拠点を捨て福建・広東方面へと逃げ去った。この年、洪澤珍(注6)が倭を誘って福建を襲った。


(注1)施宝円なる賊首については他史料では未確認。それを王直の甥・王濡が討伐したという記録も今のところ他史料では見かけない。

(注2)『世宗実録』嘉靖36年12月甲申に「妖人・馬祖師」なる者が幻術で人々を惑わし、反逆をたくらんだという記事がある。倭寇との直接的なつながりは無いかと思われるが、『実録』記事中の兵部の上奏では倭寇の害により地方が混乱したためこのような反乱が起きたという認識が示されており、ここで鄭舜功がわざわざこの事件を書き記したのも同様の認識に基づくものと思われる。

(注3)蒋洲・陳可願らのこと。なぜか鄭舜功は彼らの名前を一切記そうとしない。

(注4)周防国の使者とは大友宗麟の弟で大内氏の家名を継いだ大内義長の使者か。「源義鎮」こと大友宗麟と共に「源義長」こと大内義長が明に朝貢使節を派遣したことが『実録』その他の資料に見える。義長は「日本国王」の印を持ち勘合貿易を継続していた大内氏の後継者であり、明との交易を企図した兄・宗麟の意向で共同派遣の形をとった(当時義長はまだ少年であった)かと思われる。しかしこの使者派遣とほぼ同時期の弘治3年(1557年)の5月に義長は毛利元就の攻撃を受け自害している。この周防国の使者が官軍に殺害されたという話は他の史料には見えない。

(注5)この二人の「義士」の悲劇も鄭舜功のみが記すところ。

(注6)洪沢珍は福建ショウ州の出身で王直の部下の一人。王直の投降後、その配下の多くが彼の元に集ったというから重要な部下の一人だったのだろう。『世宗実録』『籌海図編』など多くの資料にその動向が記され、巨魁とみなされていたことがわかる。乾隆『海澄県志』叢談によれば彼はもともと日明間の貿易に従事しているだけで海賊行為は行わず、倭寇に連れ去られた人々を買い取って帰国させ徳のある人とみなされていたという。



 嘉靖乙未(38年=1559年)、賊首・毛烈が倭を誘って福建・直隷を襲った。別に起こった倭賊が南洋の三沙に立てこもり、ややあって北洋へと逃げ去った(注1)。そして先に北洋地方を犯していた倭賊と共に全て都御史(胡宗賢)により平定された。この時、呉淞・定海の兵が大きな反乱を起こした。
 冬十二月壬戌、王直が処刑された(注2)
(王直は本名をジョウ(金星)といい、すなわち五峰のことである(注3) 。初めは放浪するうち海に下った。庚子の年(19年=1540年)に許一・許ニ・許三・許四らと番夷を誘い入れて浙江海域で交易を行った。乙巳の年(24年=1545年)、日本に交易に赴き、初めて倭夷を誘って双嶼で交易を行い、東南に大きな災いの種をつくることとなった。その後庚戌(29年)・辛亥(30年)・壬子(31年)の年に至って、浙江海道が檄を送って王直に賊を捕らえさせ、これによって名声を得た。
 翌年、賊首・王十六らが倭を誘って黄岩県を焼き払った。参将・兪大猷と湯克寛は王直に命じて賊を捕らえ献じさせようとしたが、賊はすでに去ってしまった後だった。そこで王直を「東南の禍本」と決定して兵を率いて彼を列港に攻撃した。追って長途、次いで馬蹟潭に至ったところで砲声によって潜んでいた龍が呼び覚まされ兵船は漂散してしまい、王直はその隙に逃げ去った。兵士のうち馬蹟に上陸した者はすべて王直らの配下の倭たちよってことごとく殺されてしまった。直は日本へと逃れてゆき、その母と妻子は捕らえられて投獄された。王直の甥の王濡は広東に逃げ込み、許ニの船に乗って日本に行き、王直に会って家族が捕らえられたことを告げ、一族を全うしてくれるよう求めた。
 沿海の不穏な情勢は日々激しくなり、官憲は憂えたがなすすべが無く、ただ王直を奇貨としていた。このため軍門は王直の子の王澄
(注4) に血で手紙を書かせ、使者を送って王直を招いた。王直の甥の王濡は先に官軍のもとに至り、王直も毛烈・謝和・葉宗満らと相前後して投降しようとたが、王直は国法を畏れてすぐには服従しようとせず、葉宗満と毛烈は再び海に下った。軍門は夏正を送り込んで王直を諭し「お前がもし軍門に降れば、お前はお前自身と家族とを全うすることが出来るだろう。もし従わねば、再び鄭舜功を送って日本の王を諭し、お前を捕縛させ送還させるだろう。夏正の示諭に従って朝貢使を招いて交易するがよかろう」と伝えた。徳陽と善妙には「軍門が『もし王直を捕らえて官に送れば、お前たちが求めるようにお前たちに交易を許してやり、お前たちに恩賞を与えて帰してやろう。断るなら交易は許さず、また恩賞も無いぞ』と言っている」と伝えた。徳陽は善妙の所に行って「主君は二度も使者を派遣して中国に臣従を申し出た。皇帝に一度もまみえることが出来ぬまま手ぶらで帰っては、主君の面目が立つまい。王直を捕らえて官に送れば、思わぬ恩賞が手に入り、もしも皇帝への謁見が実現して我らが帰国すれば、主君の面目が立つというもの」と言って、王直を捕らえようとした。王直はこれを察知し、我が身の置き場が無いことを悟った。そして「私はもともと華人である。倭のやつらと命のやり取りなど出来るものか。それならいっそ自分の首を持って軍門に献じたほうがいい」と言い、ついに官軍に投降した。毛烈はとうとう戻ってこなかった(注5)
 私が考えるに、王直はもともと遊民であり、初めは利益を得ようと海に下った。だから酋長の号はなく頭目の称しか持たなかったのである。しかし庚戌・辛亥・壬子の年に官軍の檄を奉じて賊を捕らえ、そのために名声を得た。こうして彼が虚名を得たために、東南は実害をこうむることになったのである。また王直のような者は異国の島に居座って数を増やしており、今やどれほど多くいるか分からないほどである。尚書に云う、「その巨魁を滅ぼしてその配下が治まらない」と。久しく異国に居座る者への対処を全く決めることなく軍事力でこれを解決しようといては、どうして長治久安の道が為せるだろうか?(注6)

(注1)「南洋の三沙」とは長江河口の崇明附近の「沙」のひとつ。ここに倭寇の襲撃があり、長江北岸にまでその活動が及んだことは『世宗実録』『籌海図編』に詳しい。

(注2)王直の処分については長いこと結論が出ず、胡宗賢は本来彼を許して貿易を管理させようという考えだったかと思われるが、反対意見や胡宗賢に対する弾劾もあり、結局この時期に処刑が実行された。王直の処刑の模様については『倭変事略』が詳しく、かなり王直に同情した描写をしている。

(注3)王直の「的名」を「ジョウ(金+星)」と記しているのは鄭舜功のみ。「ジョウ」とは「さび」のことなので、石原道博氏は著書『倭寇』の中で「テイ(金+呈)」の誤りであろうと指摘している。

(注4)王直の子の名前を「澄」と明記しているのは鄭舜功のみで、血で手紙を書かせたなど他史料には見えない具体的描写をしている。『倭変事略』はその名を記さないが王直の処刑時に彼の息子が立会い、父子で涙の別れをする場面を印象的に記している。

(注5)王直投降の経緯がここで詳しく記されているが、鄭舜功独自の記述も多い。官軍側が大友宗麟が派遣した朝貢使らに王直を捕らえさせようと画策し、王直がこれを恐れて投降にいたったことは『世宗実録』にもうかがえる。

(注6)この末尾部分、難解のためかなり意訳。尚書からの引用部分の原文は「殲厥渠魁、脅従罔治」。鄭舜功の海寇対策は「海市」「流逋」の各所で示されているが、おおむね「対処療法」に対する批判であり、賊首たちを簡単に投降させることにも問答無用で処刑することにも批判的であったようである。


 嘉靖庚申(39年=1560年)、葉宗満の死刑を免じて鎮蕃衛・永遠軍に兵役刑とした。賊首・蕭雪峰、張l(注1)、さらに徐リョウ、王リョウ、許西池および謝リョウ(注2)がそろって福建・広東地方を襲撃した。これに対して浙江・直隷の軍門は広東の兵を戻らせたが、江西を通過した際に玉山・永豊などの県を焼き払った。この年、朝鮮が被虜人を送還してきた。

 嘉靖辛酉(40年=1561年)、賊首・陳思達が詔安を犯したのでこれを捕らえた(注3)

 嘉靖壬戌(41年=1562年)、南澳の賊首・洪リョウ(注4)が福建軍門の招諭を受け入れて投降したが、再び海に下ってしまった。また小洪リョウ(注5)、林リョウ、郭リョウ、魏リョウ、王東梁、徐北峰(すなわち徐元亮)(注6)ら新旧の賊船がともにそれぞれの船に略奪品を満載して去った。張lらが都督・兪大猷の計略で捕らえられるにいたって、その党は四散した。冬十二月、賊首・魏リョウ、郭リョウ、倭を誘って興化を攻め落とし、そこに拠点を構えた。

 嘉靖癸亥(42年=1563年)、南澳の賊首・許朝光(注7)が福建軍門の招諭を受け入れて投降し、彼を使って興化の賊を四散させた。しかし朝光は再び海に下り、南澳に屯集した。賊首・王伯宣(注8) が倭を誘って広東を襲い、官軍がこれを捕らえた。賊首・許朝光が倭に殺されかかって南澳を出たので、南澳は初めてふさがれた。官軍は遂に兵を配置してそこを守らせ、新たに来た倭賊の船は停泊することが出来なかった。しかし反乱兵がこれを導き東莞地方を襲撃した。反乱兵たちは広東省城に迫り雷州にまで達した。福建の兵もまた反乱を起こしたが、ともに平定され終息した。

(注1)蕭雪峰と張lは『籌海図編』寇踪分合始末図譜に「嘉靖39年から名をあらわした」としてその動向が図示されている。張lはその後帝位を僭称し広東・福建方面で大規模な反乱を起こしたため、のちに編纂された他史料ではより詳しい記述がある。

(注2)許西池と謝老は共に『籌海図編』寇踪分合始末図譜に動向が図示されている。許西池を許朝光、謝老を謝和とそれぞれ同一人物とする意見もあるが、鄭舜功は両者を別人として扱っているように思える。

(注3)『籌海図編』福建倭変紀・嘉靖40年五月に陳思達が詔安を攻めたことが見える。

(注4)洪沢珍のこと。

(注5)『世宗実録』嘉靖42年9月丙申に見える洪沢珍の子・洪文宗か。

(注6)徐北峰=徐元亮は寧波の出身で、万表『海寇議』によれば王直の配下にあって徐銓・毛烈らと共に船団を任されていたとされ、腹心の一人であったことが分かる。しかしその行動の大半が不明で、『日本一鑑』のこの部分ぐらいしか記録が無い。その他の賊首については不明だが、林リョウは林道乾、魏リョウは魏朝義かもしれない。

(注7)許朝光の動向については「海市」にも詳しい。この時期官軍に投降して官軍側で戦うことになった許朝光だったが、その後は官軍と一線を画し海上に影響力を維持した。最終的に部下によって殺害されている。

(注8)王伯宣は張lの部下で、嘉靖41年に張lの奪回を図って失敗したことが記録にある。



 わたくしが考えるに、嘉靖以来、倭が中国に侵入し、男女を連れ去り、貨財を強奪し、その損害は測り知れない。現在の災いが収まらないのは、すべて内治がうまくいってないからである。許ニ・許四が海洋に乱を起こして東南の災いの元となり、これに続いて王直が倭を誘って双嶼で交易を行い、これが直隷・浙江の災いの元となった。また葉宗満が倭を誘って南澳で交易を行い、これが福建・広東の災いの元となった。王直は招諭を受け入れ投降して来たがあまりに遅れて来たのを理由に死刑に処した。これは適切な措置である。また葉宗満はその心を入れ変え投降したことで、死刑は免じて永遠軍に兵役刑としたのも妥当である。許四は招諭に従わず本来なら死刑を免じられぬ者であり、だから捕らえて軍門に送り届けたのだが、処刑は免じられ終身の兵役刑に処された。この三つの事情において法の処置は正当であったか不当であったか。小物の賊首たちを取り逃がしてしまうことになったので、そのために王宗道はすでに招諭を奉じて投降したがまた逃亡してしまった。洪リョウも既に招諭を受け入れていたが、これもまた海に下ってしまった。いま許朝光も招諭を受け入れてはいるが、なおも闢望の海上で船の楼櫓に居座って、心から帰順している様子はない。聞くところでは、以前に官軍が亡命者を招いたが、彼らの真心からの帰順は得られていないという。これらの亡命者は罪を畏れて投降しかねているのであり、彼らに対しては真心をもって対応し、寛大な処置で投降する道を開いておき、そして海上の騒乱を終息させる、これが妥当であろう。どうしてただ殺戮することばかりを良しとするであろうか。
 そもそも王直が帰順した時、浙江の郷紳たちに官位を授けるべきだと言う者がいた。巡按浙江監察御史・王本固は「賊となった者が官位を授けられては、人は書籍を読んで科挙に合格する必要もなく、賊になることで官位を得ようとしてしまうだろう」と言っている。今の許朝光についても官位を授けよという人がいる。まさに朝光のような輩で異国の島に居座っている者がはなはだ多いことを知らないのだ。もし彼らを真心から帰順させるべく長期的な対応をしないまま彼らを処しては、これらの輩が世を乱すもととなる怖れがある。先に誘われて来た夷の処置を誤り、ある者は殺されある者は逃亡した。また亡命者らは異国の島に居座って夷人たちの心を煽り、中国に向かって攻め込ませるため、春も秋も防備にあたらねばならなくなった。さらに官軍の兵たちの中には平民をみだりに殺したり、自ら略奪を行う者もいるのだ。これではいつになったら太平になるというのか。
 わたくし舜功が考えるに倭夷も詩書を尊んで習い、少しは礼儀をわきまえている。その最も敬われるのは大徳であり、もっとも恥とされるのは賊寇である。思うにわたくし舜功はむかし宣諭を奉じて日本に渡り、彼らの投降を実現させた。そのために方略を用い、詐術もいとわず、武功を拡充したが、必ず真心に根本を置いていた。どうして以前や現在の官吏らは、盗賊たちを助長し、彼らの憎みを買い、要領を得ない処置をして、根本的な対策を考えないのであろうか。孔子も言っている、「成事は説かず、遂事は諌めず、既往は咎めず」と。明智のある者であれば今は将来の災いを招かないようにするべきであろう。なお以下に古今の海寇の年代の略を記して世を憂う人々への参考としたい(注1)

(注1)文末にある論語からの引用は「もう起こってしまったことをあれこれ言っても仕方が無い(これからどうするかを考えるべき)」の意。このあと本文では歴代の海寇の略年表がつづられているが、ここまでの本文と重複するため割愛する。



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