劉顕(りゅうけん)
嘉靖期の倭寇と戦った猛将。南昌の出身で、生まれながらの怪力であったという。しかし若い頃は極貧の生活に苦しみ、祠に入って首をつろうとしたこともある。しかし死ねず(「明史」劉顕伝は「神これを護り死せず」と記す。何があったんだ?)、蜀(四川)に赴いて塾の先生みたいなことをしていたらしい。
劉顕の武勇が初めて発揮されたのは嘉靖34年(1555)のことである。ミャオ族が乱を起こし、これの討伐軍に志願した劉顕は自ら敵陣を陥れ、五十余人を殺害し酋長三人を虜とした。この活躍で彼は名を知られるようになり、ただちに倭寇対策に沿海へと赴任させられた。

倭寇が江北へ侵入した際、劉顕は着物一つを羽織り、部下四騎だけを率いて倭寇を誘った。敵が向かってくるとまず一人を斬り捨て、自分の乗馬に矢が当たると直ちに降りて矢を引き抜き、追ってくる敵を射殺した。そして敵の大軍が岡の所まで来るとそこに隠していた伏兵を飛びかからせ、大いに倭寇らを破ったという。
こんなのはほんの一例で劉顕にはこの手の自ら刀を振るう武勇譚が多い。「敵は多く、我は少ない。敵の首領をまず倒してしまえばいいのさ」と言っていたそうで、鎧も着けずに小柄な身体で敵陣に突入しては素早い動きで敵将を討ち取ったという。「敵はその刀を見るも、顕を見ず」と言われた凄腕で、特に二刀流を使ったことは注目される。また彼直属の兵士達は蜀出身であったらしい。

嘉靖の終わり頃にかけて劉顕は兪大猷戚継光らと共に沿岸各地で倭寇と戦っている。戦闘では功績を挙げる彼だが、役人仕事はまるでダメだったようで「明史」も「顕は将略ありとも官に居りて法度を守らず」と記している。そのため弾劾もしばしばであった。隆慶・万暦の時代になると沿岸から離れ、もっぱら四川や広西方面の少数民族の反乱鎮圧にあたった。万暦九年(1581)に死去した。彼の子の劉テイ[糸廷]も「劉大刀」とあだ名される親譲りの猛将で、各地で転戦し朝鮮で秀吉麾下の日本軍とも戦っている。

主な資料
「明史」劉顕伝

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