海上史論文室
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○研究ノート
16世紀「倭寇」を構成する人間集団に関する考察−倭と日本人の問題を中心に−
(2003年3月脱稿)


○解題○


 自分で書いたのを自分で解題するってのも妙なものですけど…いきなり読むと部外の方には何がなにやら理解不能、と思いますので簡単にこの「研究ノート」の趣旨と狙いを簡単に書いておきます。
 
 本文は正式な論文というわけではなく、僕が所属する大学院ゼミの「研究プロジェクト」の成果を一冊の冊子にまとめねばならず、「各自何か書け」というお達しが出たため速攻で(といっても三ヶ月ぐらいバタバタやって執筆じたいは一ヶ月)仕上げた「研究ノート」です。文量はだいたい四百字詰め原稿用紙50枚というところでしょう。速攻で書くという至上命題のために、僕が選んだテーマはとりあえず手っ取り早く書けそうな、「倭寇と日本人」の問題でした。

 中学・高校の日本史教科書のレベルで出てくる話なのでご存知の方も多いでしょうが、「倭寇」と言いましてもその構成員は日本人ばかりではありませんでした。一般によく流布している「常識」としましては14世紀の「前期倭寇」には日本人が多く、16世紀の「後期倭寇」には中国人が多かった、というものがあります。しかしこのところ「前期倭寇」に関しては実際には高麗・朝鮮人が多かった、あるいは民族的に区分けできない「境界に生きる人々=マージナルマン」がその主力だった、といった意見が出てきてかなり有力になってきていたのです。
 ですが、こうした学界動向に対して、特に朝鮮史研究者の側から「反撃」もありました。これについては文中に書いてあるんですが、結論から言いますれば「前期倭寇はやはり日本人主体の集団だった」という主張です。もちろんこうした「反撃」の意見は地道な調査・研究や史料解釈の違いなどに基づいたしっかりしたものなのではありますけど、どうも読んでいて「民族混合状態なんてありえない」ってな前提姿勢が感じられて僕などにはかなり違和感があったのですね。

 そこで僕は自分が研究してきた「後期倭寇」の方に目をやってみました。こちらは「大半が中国人であった」というのはもう大量の史料に裏づけされたもはや動かしがたい事実として固まっています。しかし、しかしなんですね。やっぱり良く見りゃそこには日本人の姿があるわけなんですよ。ここに僕は「後期倭寇においての民族混合状態」というのを改めて考えてみたい、そのダシに(笑)「後期倭寇における日本人」の問題に焦点を当ててみようと思ったわけです。

 しかしそこまで来てぶつかった問題があります。史料中に「日本人」なんて出てくるんかいな?ということなんです。膨大な後期倭寇に関する史料をだいたい目を通していると自負している僕ですが、「日本人」という表現にお目にかかることはめったにありませんでした。そう、だいたい「倭」って書かれてるんですね。しかも「倭」のふりしてる「偽倭」なんてのもいるからホンモノの日本人は「真倭」ってわざわざ書いているぐらいで。
 では「倭」と史料中に出てくる連中はそのまま「日本人」と扱っていいいのか…というとこれがまた大問題なんですね。前期倭寇・朝鮮半島方面に関する研究ではありますが、村井章介さんが『中世倭人伝』で提起した「倭と日本はイコールではない」という見解がありまして、これが僕に重くのしかかりました。実は後期倭寇・中国沿岸方面の話もよく追いかけていくと、同様の「倭」と「日本」の区別の問題があったのです。ならいっそ後期倭寇における「倭」と「日本」の問題を考えるってことでいこうじゃないか、と方針が決まりました。

 まぁ以上のようなバタバタした経緯で方針を決め、締め切りに追われてこのHPの各種レギュラー連載も放り出して書き上げられたのがこの「研究ノート」です。各種レギュラー連載を犠牲にして完成した以上、この研究ノートはHPに公開するのが筋であろう、という妙な気持ちもありまして(ちゃんと関係者に断りは入れてますけどね)、ここに原文のまま公開することにいたしました。


              
 はじめに

 「倭寇」という語は学術用語としてだけではなく一般にも広く定着し、すこぶる認知度の高い歴史用語である。この語における「倭」というのが「日本」を指し、「倭寇」とは日本を拠点として朝鮮半島・中国大陸の沿岸を対象に行われた海賊活動のことを指す、というのも一般に広く普及した知識であると思われる。それは中学・高校の歴史教科書・授業現場において日本の室町時代のトピックの一つとしてこの「倭寇」の問題がとりあげられ、例えば室町幕府の行った「勘合貿易」が明からの倭寇対策要求と呼応していたこと、「勘合符」の必要理由が「倭寇と区別するため」としばしば解説されたこと、などによるところも大きく、そうした「倭寇」の名とイメージは意外に広く浸透している。

 しかし一歩その「倭寇」の内実に踏み込むと、その存在そのものの性格ゆえに記録史料は決して多くはなく被害者側・鎮圧側からの記録のみのため多くの不明点があり、具体的なイメージを思い描くことは容易なことではない。近年の日本の歴史教育においては学界の研究動向も反映して、“倭寇”といっても日本人ばかりではなく前期(14世紀)においては朝鮮人、後期(16世紀)においては中国人も多く参加しており倭寇とは多民族的な存在であったと説明することも一般的になっているが、先ごろの韓国との「歴史教科諸問題」において、韓国側からの教科書記述訂正要求の中にこの倭寇の多民族性に関する疑義が含まれていたことは、今日においてなお続く「倭寇」イメージの捉えがたさを図らずも表した事件であったようにも思える。

 「倭」という言葉は『漢書』東夷伝に早くも見え、人偏であり一文字で表記される(「倭人」とも表記する)ことから国名ではなく種族・民族を意味する語ととらえることができる。その「倭」の住む地域であるから日本列島は「倭国」と呼ばれ、七世紀後半に「日本」国号が確立するまでそれは続いた。しかし「日本」なる名称が出現してもなお、「倭」という呼称は朝鮮半島、中国大陸において人々に使われ続け、中世における「倭寇」の時代までごく普通の言葉としてその生命を保つことになる。そしてその中世において「倭」という語と「日本」という語の間には微妙な「重複」と「ずれ」が存在し、これが後世における「倭寇」観をめぐる議論にまでつながっているように感じられる。

 本稿は16世紀のいわゆる「後期倭寇」について考察するものであるが、その前提として14世紀を中心とする「前期倭寇」の民族構成問題にもやはり触れておかねばならない。その参加者の大半が中国人であったとほぼ疑問の余地なく見なされている「後期倭寇」よりも、「前期倭寇」はその実態をとらえることが難しいために議論も多く考察も様々に深められてきている経緯があるからである。


 (1)「前期倭寇」に関する研究動向について

 かつては「前期倭寇」についてはその構成員の大半を対馬・壱岐・九州方面の「日本人」とみる見解が強く、一部に現地の高麗人(朝鮮人)の協力・参加がみられたという指摘がなされる程度であった。この見解に大きな改変を迫ることになったのが1980年代後半からの、田中健夫、高橋公明、村井章介ら各氏による一連の「倭寇・倭人」研究である。田中氏は朝鮮側史料に「倭寇」とされたもののなかに実は「禾尺(牛馬屠殺・皮革業)・才人(芸能民)」と呼ばれた朝鮮(高麗)人のなかの被差別民が偽装したものが含まれていたと指摘するものがあること、また朝鮮王朝世宗期(15世紀半ば)に判中枢院事・李順蒙の「前朝の季、倭寇興行し、民の生を聊んぜず。然るにその間の倭人は一二に過ぎずして、本国の民の避けて倭服を著け党を成し乱を作す」という発言があること、また史料にみえる「倭寇」の人員の尋常ならざる多さと回数、そして多数の騎馬まで擁する規模の大きさなども考慮して、これら「倭寇」が実は日本人と朝鮮人の連合、あるいは朝鮮人のみの集団であったとの見解を示した(1) 。高橋公明氏もほぼ同時期に済州島等の海民が「倭寇」活動に加わっていった可能性を指摘し、「倭寇」の活動が「国境をまたぐ地域」に展開された国家の枠組みを越えた性格のものであったことを強調した(2) 。さらに村井章介氏は「倭寇」の担い手となった「倭人」を「倭語」「倭服」といった独自の文化をもつ「日本」とはまた別の人間集団として明確に区別し、彼らを境界に生きる人々=「マージナルマン」という概念でとらえ、「倭寇」の本質は国籍や民族を超えた人間集団であるとして、そこに日本人・朝鮮人といった分別は本来意味をなさないと主張した(3)

 これらの前期倭寇研究の流れは現実の世界のグローバル・ボーダーレス化と呼応する形で進んだ、従来の国家・民族史や陸上中心史観の枠を超えようとする研究動向とあいまって起こってきたものであろう。しかしこれらの研究動向に対し朝鮮史研究者の立場から疑問を唱える見解を出したのが李領氏および浜中昇氏で、それぞれ1996年に相前後して発表した論文において田中氏、高橋氏、村井氏の主張する「倭寇」を民族混合、あるいは国家の枠組みを超えた存在であったとする見方に対する批判を行った(4) 。両氏は田中氏らの史料解釈や高麗末期の社会状況に対する理解の問題点を指摘して、朝鮮人による偽装の「倭寇」活動が存在したことは認めるものの日本人「倭寇」との連合や朝鮮人のみの集団が大半であったとみる田中氏の見解を否定し、かつ済州島などの海民の大規模な参加という高橋氏の意見も疑問視する。また村井氏の言う「倭」と「日本」の違いについても、朝鮮側による国家を意識した場合とそうでない場合(侮蔑的な意味合いが強い場合)との使い分け、または日本の九州地方と近畿地方の文化的な差異に過ぎないとし、「倭」と「日本」は実体としては同じであると主張した。両氏ははこれらの批判を述べた上でやはり「前期倭寇」は従来の見解どおり日本人を主力とした侵寇活動であったと改めて主張するのである。

 その主張には朝鮮史研究者ならではの地に足の着いた資料検証による鋭い指摘もあり、ともすれば抽象的・観念的な把握になりかねない「倭寇」観に対する警鐘として傾聴に値する点も多い。しかし一方で、筆者のように「後期倭寇」−実際に日本人と中国人の連合がみられ、しかも日本人は少数派だった−の実態を研究している立場からすれば、やや従来の日本人、高麗人(朝鮮人)といった枠組みにとらわれて従来型の先入観をもって史料解釈を行っておられようにも感じられる。例えば「倭寇」集団が渡海してきたとは考えにくいほどの規模と内容で襲来してくる点については官憲の報告者の誇大数字として処理したり、「倭寇」の擁する多数の船隻や馬についても略奪によって増加したものとして片付けてしまい、それが単なる略奪ではなく実際に活用されている可能性にあまり考慮をされていないように感じる。海民の問題についても、倭寇の主力は対馬・壱岐の「領主層」ととらえて「中世の朝鮮には日本の領主制に相当するものがない」の一言で済州島など朝鮮側の海民が大規模に倭寇に参加していくとは考えられないとしたり(浜中氏)、済州島と対馬の一体感があったとの意見に対する批判に支配者側の国家的・行政的な枠組みから済州島と対馬の扱いの違いを持ち出す、あるいは高麗人の倭寇参加説の大きな根拠となる「倭人は一二に過ぎず」の発言をした李順蒙を人格的に批判した当時の史料を引き合いに出してその発言を否定的に見るなど(李氏)、やはり「倭寇」および海民に対する理解が一面的であり、国境・民族を越えた枠組みの設定に対する否定的な態度にことさらに固執しておられるようにも感じられる。

 村井氏の「倭」「日本」の見解に対する浜中氏、李氏らの批判はいささか論点の「すれ違い」の気配が感じられなくはなかったが、「倭」と「日本」が史料上どのように使われ、またそれがどれほど実態を表していたのかはまだまだ疑問の余地を残しており、浜中氏・李氏の言うように「倭」「日本」は単なる地方差、場合によよる使い分けに過ぎず同一の実体であると見ることも十分可能であるとは思える。村井氏の言う「日本」とは別種の「倭」論、それを「環シナ海地域」と結びつけて考える見解は非常に魅力的であり、筆者も大いに刺激を受けた覚えがあるが、「倭」と「日本」の関係についてはまだ根拠の弱い部分を感じている。

 対象となる時代も地域も異なるが、16世紀おもに中国大陸沿岸に活動した「後期倭寇」においても「倭」および「日本人」の問題が存在する。前述のとおり「後期倭寇」については当時の数多くの記録により、その実態が中国人を構成員の大半とする半商半寇の集団であったとする見解がかなり早くから定着しており、少なくとも構成員の「民族」的実態にまつわる論争はほとんど起こる余地もなかったと言っていい。「後期倭寇」をめぐる議論は、これを中国沿岸部の密貿易活動を背景にした反乱活動の一種と見なすことで、中国国内問題あるいは貿易活動問題の中でその発生要因がなんであったのか、反乱の主体は何者であったのかをめぐるものがほとんどで、日本との関わりは必ずしも重大問題とは認識されてこなかったようにすら感じられる(5)

 しかしその彼らもまた「倭」と認識され、なおかつそこに少数派であったとはいえ「日本人」が明らかに存在していたことも忘れてはならない。そこには前期倭寇の議論でその有無をめぐってもっとも激しい対立点となっている「倭(あるいは日本人)」と現地の人間との連合という現象を明白に見出すことが出来る。後期倭寇における「倭」と「日本人」の問題を考察することは、前期倭寇における民族構成問題に一石を投じ、「倭寇」全体を通した新たな視点を提供しうるのではないかと考え、以下の考察を行う次第である。

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(1)田中健夫『倭寇−海の歴史』(教育社歴史新書、一九八二年)および「倭寇と東アジア通行圏」(『日本の社会史』一<列島内外の交通と国家>岩波書店、一九八七年)など。

(2)高橋公明「中世アジア海域における海民と交流−済州島を中心として」(『名古屋大学文学部研究論集』史学三三、一九八七年)など。

(3)村井章介『中世倭人伝』(岩波新書、一九九三年)など。ただし村井氏自身は高麗末期の「前期倭寇」に関しては田中健夫氏のような「日麗連合」「高麗人が大半」といった見方には慎重な姿勢をとり、「前期倭寇」以後の状況に倭人=マージナルマンを見いだしている。

(4)浜中昇「高麗末期倭寇集団の民族構成−近年の倭寇研究に寄せて−」(『歴史学研究』第六八五号、一九九六)、李領「高麗末期倭寇の構成員に関する一考察」(『韓日関係史研究』五、韓国玄音社、一九九六)および『倭寇と日麗関係史』(東京大学出版会、一九九九)の第五章「高麗末期倭寇の実像と展開」。李氏の著書に対する書評は関周一氏(『日本歴史』六三〇号、二〇〇〇)と橋本雄氏(『歴史学研究』第七五六号、二〇〇二)があり、それぞれ李氏の倭寇論について史料に出てこない可能性を全否定する姿勢や、同時期の中国海域方面への視野の欠如を指摘している。

(5)「後期倭寇」を巡る議論として代表的なものは、一九六〇年代に王直ら密貿易に関わる中小商人層が郷紳層などの搾取および海禁政策に反対して起こしたものと定義した片山誠二郎氏、それを批判し郷紳層との関わりを重視した佐久間重男氏の研究、王直の侵寇活動との関わりを否定し彼を平和的海商と位置づけた李献章氏の研究などがある。また「前期倭寇」と「後期倭寇」の連続面を奴隷貿易の観点から考察したものに相田洋氏の「奴隷貿易と倭寇」、前期後期を通した倭寇史料の整理・考察を行った鄭リョウ[木+梁]生氏の一連の研究(『明・日関係史の研究』雄山閣、一九八五)がある。