海上史論文室
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16世紀「倭寇」を構成する人間集団に関する考察−倭と日本人の問題を中心に−
(その2)

                             
 (2)後期倭寇を構成する人間集団

 「後期倭寇」に参加した人間達の出身地については過去に先学による多くの考察がなされ、今さら特に新しい見解を提起できるほどの余地はないと言っていい。この問題についてはふるく石原道博氏が多数の史料を引いて詳細に論じているが(6) 、当時の明の官憲側が記録した史料にしばしばその構成員の内訳が具体的に記されており、「前期倭寇」のケースとは異なり充実した情報量でその実態を今日に伝えている。

 「後期倭寇」の構成員の内訳を示す史料で有名なものに『明史』日本伝の「大抵、真倭は十の三、従倭者は十の七」という記述があるが、これは『世宗実録』『嘉靖東南平倭通録』の「蓋し江南の海警、倭は十の三に居るも、中国の叛逆は十の七に居るなり」、徐階『世経堂集』再答倭情の「其の中、真倭は十分の三に過ぎず」といった各種の報告に基づくものと思われる。南京湖広道御史・屠仲律の「御倭五事疏」では「夷人は十の一、流人は十の二、寧・紹は十の五、ショウ[シ+章]・泉・福人が十の九。概ね倭夷を称すと雖も其の実多く編戸の斉民なり」 と述べ、その数字の振り分け方に疑問点が無くはないが、ともあれ「夷人」を一割とし「倭夷」と称される者達の多くが明に戸籍を持つ民衆であるとしている。また『倭変事略』の作者采九徳は四十数人の「賊」が海塩付近を襲った際、彼らのうちの何者かが廟壁に漢詩を残していったことを記して、

  鄭端簡公、倭奴の変を論じ、多く中国不逞の徒の衣冠失職の書生の志を得ざる如き者、 その中に投じて之が為に奸細し、之が為に郷導するに由るとす。この四十賊を観みるに 亦た能く題詠する者あり。則ち乱を倡える者はあに真倭の党なりや。厥の後、徐海・王直・毛烈ら並べて皆華人なり。信ず可し。

 と述べ、身近で具体的な事例から「倭寇」の中に「華人」が多く含まれていることを指摘した。ただし采九徳が文末に「可信矣」とわざわざ強調している所を見ると、当時の明の一般レベルでは「倭寇」の中に「華人」が含まれている、指導しているといった事実は広く浸透していなかったのかもしれない。またここにも見えるように彼ら「華人」が「倭」を「郷導」したという形で、あくまで侵攻の主体は「倭」なのであるとする表現は多くの史料に散見される。

 いずれにせよ「倭寇」と呼ばれる集団でありながらその中の「真倭」の数は多く見積もっても全体のせいぜい三割以下に過ぎない少数派であるとの見方が当時の倭寇対策者の間でも共有された認識であった。単に数的に少数派であるというだけでなく、倭寇集団のなかで「真倭」はあくまで従属的な存在に過ぎず、指導的立場にある者の多くが明の出身者であるということも明確に認識され、倭寇鎮圧の方策を立案するにあたって重大な要素として考慮されていた。先に引いた『明史』日本伝はじめいくつかの史料には倭寇に加わる明人について「従倭」あるいは「脅従」といった、彼らが「倭」に従属していたかのような表現が多くみられるが、鄭若曽『籌海図編』寇踪分合始末図譜などには王直・徐海らをはじめとする多くの明出身の「賊首」たちの名が列挙され、彼らが率いる集団の動向が詳細に記述される(一部に他資料と齟齬をきたす部分も含まれているが)一方で日本人の「賊首」の名はほとんど見出すことが出来ない。同じ『籌海図編』の公賞罰に「有名真倭賊首」を擒斬した場合の重賞規定が記されていることから名の知られた「真倭」の賊首もいたことはうかがえるが(これについては後述)、記録に残る実例は決して多くはない。

 明らかに日本人・真倭と思われる賊首として『籌海図編』等にみえる徐海の偏裨(副将)であったとされ「大隅島主の弟」とも記される辛五郎、「豊州酋」とされる周乙、『嘉靖東南平倭通録』等に現れる灘捨売、烏魯美他郎、『籌海図編』の嘉靖四十年五月の寧・温・台の捷の記事にある「倭酋」の五郎・如郎・健如郎らなどが挙げられるが、その多くが捕縛されたために名の残ったもので大集団の指導者であったとは認めにくいと思われる。

 繰り返し述べたように、実態として「嘉靖大倭寇」における「倭寇」の構成員はその大多数が明の出身者であった。特にショウ州などを出身とする福建人が多かったことはしばしば記録中に見られるところで、名の知られた「賊首」でも王直配下の葉宗満や謝和、王清渓・洪沢珍らはいずれもショウ州などの福建出身者であった(7) 。指導者クラスだけではなく「倭寇」の戦力として参加していた末端レベルでもその数は多かったようで『倭変事略』の嘉靖三十三年の孟宗堰の戦いでは官軍のショウ州兵が「倭党中」のショウ州人たちと内通し、ために官軍が敗北したことが記されている(8) 。ショウ州月港は当時の福建における最大の密貿易拠点であり、この時期の「倭寇」に多くのショウ州人の姿があることは「嘉靖大倭寇」の大きな要因に活発な密貿易活動と海禁政策との軋轢があったと考えられていることと対応していると言えよう。

 先に引いた屠仲律の疏にも「寧・紹は十の五」とあるようにショウ州など福建人以外ではやはり密貿易の拠点に近かった寧波・紹興など浙江沿海部出身者の「倭寇」参加もみられたようである。王直の養子であった毛烈(海峰)はキン[勤の左+おおざと]県(寧波)の出身であったし、直接的に倭寇に関与したわけではないが、同じキン県出身で後に王直説得のため日本に赴いた陳可願はその出身地が「通番」の地であったがために倭寇の奸細と疑われて群衆の暴行を受けたあげく獄に繋がれたことがあった(9)

 王直自身はよく知られるように新安商人を生み出した徽州の出身であった。王直の旧主とされる許棟とその兄弟、王直と長く行動を共にしていた徐銓およびその甥の徐海など王直周辺の海商・海寇には徽州人人脈が目立ち、それ以外にも双嶼港掃討時に捕らわれた海商の中にも徽州人の名を見いだすことが出来る(10) 。ただ傾向として、徽州人は直接的な寇掠活動よりも密貿易活動、あるいは徐海に見られるように倭寇集団の指導的な立場にあった人間が多く、福建出身者が寇掠活動に直接的に関わっていることと対照を見せているようにも感じる。

 「嘉靖大倭寇」と呼ばれる倭寇活動は嘉靖三十一年から三十五年(1552〜1556)に特に江南を中心に吹き荒れたが、具体的にその内実を見ると、次第に参加者の数を増やし規模を急激に拡大していったことが史料的にうかがえる。例えば乾隆『松江府志』武備志・兵事には御史・徐宗魯が「倭変始末」を論じて、

  寇起こりて四年、初め十を以て計う、漸く数百数千の衆きに至る。今則ち聚りて幾万と為る。始め一方を寇し次に隣邑旁郡之間に沿い、猶お顧忌を懐く。今歳は則ち浙の東西・江の南北に満ちる。名は倭寇と雖も実はショウ泉寧紹の民の勾引して乱を為す。多くは客兵の附党・郷民の投入なり。

 と述べた。「寇起こりて四年」とあるから嘉靖三十四年か三十五年の発言であろう。初め数十人、やがて数百数千に及んだ「倭寇」の人員が突然数万に至ったことは『倭変事略』などの他史料でも見受けられる現象である。名は「倭寇」と呼ばれていたが実際には密貿易の拠点であるショウ州・泉州・寧波・紹興の人間が主体となって倭を「勾引」したものであると言う指摘も他史料と共通する点である。

 さらに徐宗魯の指摘で注目されるのは倭寇の規模の急激な拡大について「客兵の附党・郷民の投入」を挙げていることであろう。「客兵の附党」、すなわち他地域から倭寇鎮圧のために動員された兵士達の倭寇参入については他史料に直接的な記録は見いだせないが、先に触れた孟宗堰の戦いのようにショウ州人を多く含む倭寇にショウ州兵が内通したケースなどをみれば十分ありえた事態であろう。そして「郷民の投入」、すなわち在地(この場合江南地方)の住民の倭寇参加についてもそれを示唆する史料は多く、『倭変事略』などには多くの「奸細」が登場し、『嘉靖東南平倭通録』には「沙上賊」のうち数百の「倭」に塩徒数千が従ったという記事がある(11)

 特に『籌海図編』叙寇原に載る海道副使・譚綸の、

  往年倭寇、漁船を劫虜しせまりて党羽と為し既に其の船を得て以て声勢を張り、また其の人を駆って以て郷導を為す。蘇松の寇、半ば皆脅従・捕獲にして有贓は尤も竈戸多し。

 という発言に見られるように蘇州・松江方面を襲った倭寇はその半数が「脅従」「捕獲」された在地の漁民であったとみられる。ここに「有贓尤多」とされた竈戸とは漁民的性格を強く持つ製塩を生業とする住民であるが、譚綸の発言の前段にはこうした「竈丁」が「採弁」(食料としての魚や製塩の燃料となる柴などを採取に行く)と称して海禁下では違反とされた大船を造り密貿易を行っていることが指摘されており、これを禁じようとすると「大家の竈戸」が「国家必ず虧損を致す」と「浮議横生」したとある。こうした密貿易に深く関わっていたと思われる竈戸が倭寇と結びつくのは自然な成り行きであったとも思われ、果たして「脅従」「捕獲」によりやむなく参加したものであったかは大いに疑問であり(12) 、実際官憲の側でも彼らを倭寇に対する防衛に利用しようとの思惑も見せつつ同時にともすれば倭寇と一体化する存在ではないかと疑っている節がある(13) 。官軍に捕らえられた際に「自分は倭寇に捕らわれて脅されてやむなく従ったものだ」と供述することはままあったようで、記録中に「脅従」とあってもそれを全面的に信用することはできまい。

 以上、ショウ州・泉州・寧波・紹興などの密貿易に関わる地域の人間達、客兵、そして在地の各種勢力や竈戸・沙民といった海民的性格を強くもつ人々が「倭寇」に参加していた実態を追ってきた。それでもなお、彼らの活動が「倭」「倭寇」と称され、かつそこに少数派とはいえ真倭=日本人の参加があったことも無視できない事実である。

 実際に当時の倭寇対策を論じた総合的な書物である『籌海図編』をはじめ、倭寇問題を扱う上で日本研究は必須の要素であり、この時期中国史上でもまれにみるほど日本研究が進んだ。そしてその中で明側でも日本の事情をかなり具体的に把握し、「倭寇」に加わる日本人の分類をしていたことにも注目しておきたい。

 『籌海図編』巻二・倭国事略は、

  向の入寇は薩摩・肥後・長門三州の人の居ること多し。其の次は則ち大隅・筑前・筑後・博多・日向・摂摩・津州・紀伊・種島にして豊前・豊後・和泉の人亦た之に間有す。乃ち薩摩に商するに因りて附行する者なり。

 と、入寇する日本人たちの出身地を詳細に記している。特に薩摩が「倭寇」の主要な発進地と見られ、また実際にそうであったことは、王直が本拠地にしていた松浦(平戸)を「薩摩州」にあるものとの誤認がしばしば見られること、その王直自身が自分が関知せぬところで薩摩州の人間が入寇しているのだと主張していることなどにもうかがえる。

 薩摩人が積極的に倭寇活動に参加していた事情についてはイエズス会のルイス・フロイスが記した『日本史(日本教会史)』にも記述がある。フランシスコ・ザビエルに日本布教を決意させる大きな理由となったのがマラッカで薩摩人・ヤジロー(あるいはアンジロー)と遭遇したことであったことはよく知られているが、そのヤジローはザビエルを伴って薩摩に帰ったのち、ザビエルから離れて「バハン」と呼ばれた海賊活動に加わって大陸で戦死したとの伝聞をフロイスは記している。そこで薩摩人が「バハン」を行う事情が「非常に山が多くしたがって元来貧乏で食料品の供給を他に仰ぐよりほかに途がない」と説明している(14)

 先に引いた『籌海図編』巻二・倭国事略の入寇者の日本各地の出身地を列挙した文のあとには以下のような文がある。

  日本の民に貧有り富有り(15) 。淑有り慝有り(16) 。富にして淑なる者は或いは貢舶に 登りて来たり、或いは商舶に登りて来る。凡そ寇舶に在るは皆貧と悪を為す者なり。

 『籌海図編』は対倭寇の防衛を論じた軍事関係書であると同時に、当時としては最高の日本研究書でもあることを実感させる部分である。この箇所は恐らく日本に赴いた鄭舜功や蒋洲、陳可願らの直接の見聞や、捕虜となった日本人の尋問から得たと思われる日本事情が詳細に記され、「倭寇」が発生してくる要因が考察されている。それによれば「日本の民」にも富者と貧者があり、富者は交易(密貿易)に、貧者が「倭寇」活動に参加するものと見られていた。

 五島や平戸など北九州を拠点にしていた王直の集団は博多など「富者」と結びついて直接的な寇掠活動を行わなかった可能性があるのに対し、南九州に拠点を置いていた徐海の集団は比較的多くの日本人を含んだ集団を形成し、そこには多くの「貧者」が参加し激しい寇掠活動を行ったのではないかと整理されるところもある。むろん、この問題は単純に分類が可能なものではなく「倭寇」の諸集団についてはなお多くの考察が必要とされよう。

 「後期倭寇」に参加したさまざまな人間集団をみていくとき、そこには「中国人が多数」「日本人は一部」だのといった単純な内訳だけでは片づけられない、複雑な構成要素と背景事情があることが見えてくる。「後期倭寇」の議論もより詳細にその内実を再検討しなければならない部分も多いであろう。

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(6)石原道博『倭寇』(吉川弘文館、一九六四年)。

(7)『世宗実録』嘉靖三十六年十一月乙卯に「宗満号碧川、謝和号謝老、与王清渓皆ショウ州人」とあり、洪沢珍については『籌海図編』寇踪分合始末図譜に「福建積年通番巨寇」とある。

(8)『倭変事略』嘉靖三十三年の四月の記事。参戎廬ドウ[金+堂]がショウ州兵を率いて海塩に到来して徽商舎に宿った際、一ショウ兵が盗みを働いたため廬ドウがこれを斬刑に処したところ、軍中のショウ人がこれを怨んで賊と通じたという。「議する者謂う、孟家堰の役、戦の罪に非ず、ショウ兵の己を売るに由るなりと。倭党中にショウ人多く有る故なり」と記す。

(9)『江南経略』太倉州倭患事跡、嘉靖三十二年四月の記事。「時に蔡時宜・陳可願は善く兵を談じ、張公に通参す。(中略)然るに二人実は奇識無く、惟だ堅守の議を主とするのみ。公以て然りと為すも、士民奸細を為すを疑いて、キン人素より通番す、二人は皆キン人なりと謂う」

(10)『甓余雑集』巻二・捷報擒斬元兇蕩平巣穴以靖海道事に「徽州人方三橋」などの名前が見える。

(11)『嘉靖東南平倭通録』嘉靖三十三年四月の記事。「初め、通州河の役、賊兵僅かに百余人。塩徒及び脅従者千余人」

(12)朱ガン『計処海防竈船事』(明経世文編・巻206所収)に「海辺の柴滷は原より禁約無し。但だ海を以て家と為す徒の此に借りて名を為し出洋して賊に通じるを恐れる」「…海禁漸く弛み、馴れて竈戸はその本業を舎てて海利に趨るに致す。名は取柴と曰い塩課を補うと曰うも、実は則ち賊と市を為す。利は勢豪に帰す」「官兵の献俘、 民竈を孰れか分ければ必ず竈戸を択ぶ。而して之を縦せば、則ち将来勢豪の家、皆投じて竈戸と為らん」といった記述があり、「大倭寇」勃発直前の竈戸の密貿易への関与の実態が知られる。

(13)官軍が竈戸など漁民を防衛に利用しようとしていたことは『籌海図編』巻六・直隷事宜に「査得沿海民竃、原有採捕魚蝦、小船並不過海通番。且人船慣習不畏風涛。合行示諭沿海有船之家赴府報名給与照身牌面」とあることや『江南経略』にもその実力を「島夷」と匹敵するものと表現していることにもうかがえる。

(14)フロイス『日本史』第六章。なお、海寇発生の原因に「山岳地形」「食料の供給を他に仰ぐ」といった事情を挙げるのは明の福建方面に関する記述にも見られる。

(15)ここに割注として「摂摩・伊勢・若佐・博多の如きは其の人多く商を以て業と為す。其の地方街巷風景、宛も中華の富者の各数千家積貲有りて百万に至る者の如し。また和泉一州の如きは富者八万戸、皆居ながら貨殖を貲す」とある。

(16)同じく割注に「薩摩の鸚哥里の如きは方数千里、其の邑長安慶、能く其の民を軌めて一人として盗を為す人無し。また宮島の如きは人殺人を嗜まず不平の事有れば但だ神廟に罰銭を請う。また紀伊の頭陀僧三千八百房、専ら武芸殺人を習いて中国を犯さず」とある。