海上史論文室
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16世紀「倭寇」を構成する人間集団に関する考察−倭と日本人の問題を中心に−
(その3)


(3)後期倭寇における「倭」と「日本」


(a)「倭」について

 ここまで挙げた例にもすでに見られるが、明側の史料においても「倭」と「日本」は様々な局面で登場し、微妙な使い分けがなされていることが見出される。

 まず「倭」「倭寇」という語の使われ方について考えてみたい。先にも触れたように「倭」一字はある人間集団を指し、「日本」のような国名とは扱いが異なる。そのため古来よりのちの日本を指して「倭国」と呼んだが、唐代に「日本」国号が定まり歴代正史の外国伝でも「日本」が定着していきながらも明代の『籌海図編』はその巻二に「倭国事略」の表題で日本情報を綴っており、『明実録』の倭寇関連記事は明初以来の一連の「倭寇」の活動を記述するにあたって確実にその主語に「倭」もしくは「倭寇」の語を使用している。「倭寇」なる集団を構成する大多数が明出身者に他ならないことをしばしば指摘し詳細な資料を提供している『嘉靖東南平倭通録』『倭変事略』といった地域史料も、そもそもその表題に「倭」の字を使用している。

 かつて石原道博氏は『明実録』などの正史や官撰のものが一貫して「倭」の語を使い、民間・地域レベルのものが「賊」の字を多く使うことに注目してそこに政治的粉飾のある可能性を指摘していたが(17) 、確かに地域レベルの史料において個々の集団について「流賊」「新至之賊」「沙上賊」「南沙賊」「柘林賊」といったように「賊」という表現を用いているものの、騒乱全体に関するものでは「平倭」「禦倭」「倭患」「倭変」といった表現を普通に使用しており、「倭寇松江」のように「倭」を主語として登場させそのあと「賊」と呼ぶケースもまま見受けられる。おおむねある集団を総体として呼ぶとき、あるいは明白に真倭である個人を指す場合(『倭変事略』で徐海の使者として「老倭」が登場する。また『日本一鑑』に「博多津倭助才門」があるが、これは「博多津の倭・助才門」であろう)に「倭」を用い、やや細かく具体的な集団を指す場合に「賊」を用いる傾向もあるが、「倭」と「賊」の使い分けに特に明確な意図はないようにも感じられる。

 ここまでに引いた史料でも何度か出てくるが、明白な日本人については「真倭」とわざわざ表現する。この「真倭」の使い方で興味深いのが『太倉州志』(民国八年刊本)巻四十兵防中・紀兵に見える嘉靖三十一年秋に呉淞所・七鴉港・崇明沙を攻略した「倭」についての記事である。そこでは、

  官兵二賊を獲る。乃ち中国の亡人なり。七鴉民楊氏、倭十余人を執らえるも、亦、惟 だ婦女四五のみ真倭たり。

 と見える。ここでは「真倭」は四五人の女性のみで「倭」の中に「真倭」でない者が圧倒的多数であったことが明白である。この記事に出てくる「真倭」の女性たちについてはすでに石原道博氏が「おそらく虜掠、ないし売買されたものであろう」と推測しており、筆者もそれに同意するが、むしろここでは彼女達「真倭」以外の者をやはり「倭」として一括していることに注目したい。とくに集団全体を対称にしたものだけではなく個々の人間達についても、官兵に捕らえられた二人の「中国亡人(国外へ出た明人を指す)」は「賊」と記されるが、同じく「中国亡人」であったと思われる楊氏に捕らえられた十余人についてはっきりと「倭」と記しているのである。この集団は結局官軍に投降して自らの来歴を明らかにしており、船主はキョウ[龍+共]十八といい倭と通販して朝鮮に漂流しそこで朝鮮人の攻撃を受けて逃れ、ここに流れ着いたもので決して寇を為すために上陸したわけではないと主張している。キョウ十八は『日本一鑑』にも記されている人物で王直などと同様日明間の密貿易に携わっていた者とみられるのでここにおける供述はおおむね真実と見ていいだろう。

 なお、この記事と対応するのが『世宗実録』嘉靖三十一年九月戊戌の「江洋の盗、黄永忠・キョウ十八等を捕得す」 という記事だが、どちらかといえば海寇・流賊を全て「倭」でまとめがちな傾向がある『実録』は彼らを「倭」とは表現していない。また同じ事件を記した『江南経略』崇明県倭患事跡も彼らを「賊」と記すのみである。従ってこの『太倉州志』における「倭」の使用例が一般的なものであるかどうかやや疑問も残るが、「倭」が「真倭」のみを指す言葉ではなかった一つの例証にはなるのではなかろうか。

 「真倭」という表現について言えば、官軍の兵士が「倭寇」と戦い、敵を捕獲・殺害した場合の論功行賞には「真倭」の首級を挙げた場合についての規定が存在した。『籌海図編』巻十一公賞罰の中には兵部尚書張時徹の賞功の例が引かれ、

  有名の真倭賊首一名顆を擒斬する者は三級を陞し、陞授を願わざる者は銀一百五十両 を賞す。真倭の従賊一名顆を獲る、ならびに陣亡する者は一級を陞し願わざる者は銀五十両を賞す。漢人の脅従賊二名顆を獲る者は署一級を陞授し願わざる者は銀二十両を賞す。

 とあり、「漢人の脅従」よりも「真倭」を擒斬した方がより高い功績と見なされていたことがうかがえる。また「真倭」の中にも「有名賊首」「従賊」の区別があることも知られる。

 実際にはその指導層から末端の参加者まで明出身者が圧倒的多数だった倭寇に対するに当たって「真倭」の敵の方がより重視される対象となっていたのはなぜだろうか。石原道博氏が著書『倭寇』で指摘したところの明官憲による政治的宣伝(自国内の反乱活動を異民族の侵入にすりかえるなど)の意図も感じられなくもないが、実際に「真倭」が強力な戦闘要員であったとの解釈も可能かもしれない。『籌海図編』巻二の「寇術」「倭奴の我に勝るは専ら術を以てなり。即ち其の術を以て其の人に還治す。必ずしも古の兵法を用いざるも勝たざるを蔑む。故にこれを誌す」として胡蝶陣などの「倭夷」独特の戦闘法を詳細に記し、実際に彼らがその戦闘力を恐れられていたことがうかがえる。


(b)「日本」について

 では「日本」については資料的にはどのように使用されているだろうか。「日本」という国名については地理的・政治的な場面においてほぼ今日のそれと同じ使用のされ方と言って良い。朝貢関係など外交場面においてはもちろんのこと、倭寇対策書である『籌海図編』の日本に関する地理・歴史記述部分は「倭国事略」と題を付しているものの文中では一貫して「日本」と表記され、実際に日本へ赴いた鄭舜功の手になる研究書もその題を『日本一鑑』としている。地域的な意味での「倭」字の使用は『後漢書』の記事に基づいて日本の旧名を「倭奴国」とすることが見受けられる程度で、この東海の彼方の島国を「日本」と呼ぶことはいたって当然のことであったと思われる。

 しかし「日本人」という表現を、倭寇関係の史料から見出すことは意外に難しい。「前期倭寇」に属する時期であるが、『太宗実録』永楽十五年(1417)十月乙酉に

  時に倭の将士を捕らえ寇数十を擒にして、京師に献ず。賊首に微(徴?)葛成二郎五郎なる者あり、これに訊くに、皆日本人なり。

 という記事があり、それを受けて群臣が、

  日本は数年職責を修めず、意は倭寇の阻む所と為る。今賊首すなわち其の国の人なり。 宣しくこれを誅して以ってその罪を正さん。

 と上奏したとある。この記事において捕らえた「倭」が全て「日本人」であったとわざわざ記し、そこでは「倭寇」と「日本人」の概念が部分的に重なりはするものの明らかに区別されていることは注目される。国家としての「日本」との通交を「倭寇」が阻んでいる、そしてその「倭寇」に実は「日本人」が含まれているから「日本」を罰するべきであるという群臣たちの意見も単に日本の国情に疎いゆえの誤認識という言葉では片付けられないものを含んでいると言えよう。このことは村井氏の指摘するように当時の「倭人」の中に様々な事情で「倭人」となっていた中国人・朝鮮人が少なからず含まれていたことを示す朝鮮側資料と呼応するところがあると言って良い。

 時代が下って、16世紀の嘉靖大倭寇の発端の一つとも言うべき事件の記録の中に「日本人」の表現を見出すことが出来る。嘉靖二十七年(1548)の都御史・朱ガン[糸+丸]は密貿易の一大拠点となっていた寧波海上の双嶼港を攻撃してこれを壊滅させ、許棟・李光頭といった密貿易集団の指導者(後に台頭する王直の主人でもある)やポルトガル人・黒人など多くの人間を捕縛しその供述を詳細にとっているが(18) 、この中に「稽天」なる「日本倭夷」「倭賊」の供述も記録されている。この稽天と共に捕らえられた「新四郎」、斬首された芝澗の三人は「日本国東郷人」であるとされており、続く文の双嶼付近の住民で彼らを知る者を呼び出した上での尋問により「日本国薩摩州人」であることが知られる。ここで彼らを「日本人」ではなくわざわざ「日本倭夷」と表現していることも注目される。ここでは二つの供述が並んで記されているためやや真相がつかみにくいが、大筋で一致しているのは福建から薩摩にやってきた明の商人が薩摩の「国王」に明への密貿易を持ちかけ、彼らはその「国王」(彼ら自身は「我主君」と表現する)の命で明商人と共に双嶼へやって来た、という筋書きである。この話から察する限り、彼らは島津氏の家臣であった可能性が高いと思われる。またこの供述の中に「見在日本、倭人の上国を過ぎること有る無し。今に至りて船船倶におのおの本国の人を帯有す。前来の販番なお百数有り。倭人は後に来る船内に在りて未だ到らず」とあり、ここにも「倭人」の表現が登場する。『甓余雑集』に収められた多くの文においては日本出身者についてはおおむね「倭人」「倭夷」といった表現を用い、「日本」はあくまで国名・地名としての使用にとどまっている。一部の例外としてポルトガル人に雇われていた満咖喇人の沙哩麻喇の供述の中で彼らを騙した各地の商人の中に「日本人」という表現が出てくる箇所があるが、これはあくまで地名と密着させた使用例であると思われる。

 『倭変事略』は嘉靖三十年代の江南地方における「大倭寇」の被害を地域の視点から詳細に記録した史料であるが、その冒頭に「日本人」の表現が出てくる箇所がある。嘉靖三十二年四月二日、海塩付近の海岸に八・九丈の「一海船」が停泊し、それに乗る六十余の「賊」はみな「コン[髪+几]頭鳥音」で言語を通じなかった。明の官兵が押し寄せてきても彼らは動じず、「小木櫃」に書を置いて漢文で意思疎通を図ってきたが、そこには、

  吾日本人なり。吾が地より来たり、以て舵を失う。願わくは糧食を假り吾が舵を修せんことを。即返せば幸いにして吾逼ることなく、逼れば則ち我爾死生未だ判ぜざるなり。 
 
 とあった(19) 。間もなく彼らは官兵と戦闘に入って海塩周辺を荒らしまわり、「大倭寇」の端緒となる事件として記憶されることとなるのだが、「倭寇」側が「日本人」の表現を使っている珍しい例であるとも言える。むろん、この「日本人」たちが本当に全て「日本人」であったのかは大いに疑問があり、『倭変事略』も五月初めに彼らの仲間と思われる賊四十人が海塩周辺に出没したことを記す中で廟壁に漢詩を書き残していった者がいることに触れて「則ち乱を倡える者、あに真の倭党なりや」とこれが「華人」であった可能性を強く示唆し、徐海や王直など「倭寇」の指導者たちがみな華人であると述べるのである。だがその一方で最初に上陸した者達が言語を通ぜぬ「コン[髪+几]頭鳥音」であったと記しており、これが官兵を欺くための偽装であったとばかりも見なせないところがある。

 明側の倭寇史料における「日本人」表現については以上に挙げたケース程度しか見ることが出来ない。総じて言えば「日本」はあくまで国名・地域名であり、「日本人」とはあくまで「日本の人」として国名と密着させた表現であるに過ぎない。一方で「倭」は人そのものを表しており、「倭」は個々の「真倭=日本人」を指すケースも多いが、集団として表すときは必ずしも「真倭=日本人」のみの集団であるとは限らない。村井章介氏は朝鮮における「倭人」の定義を「対馬などから交易にやってくる海民を指すことばで、民族的には日本人でも朝鮮人でも日朝混血でもありえた」(20) としたが、同様のことは明においても言えたとみていいのではないだろうか。

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(17)石原道博前掲書、第三章「倭寇観の再検討(1)」88頁。

(18)『甓余雑集』巻二・議處夷賊以明典刑以消禍患事。

(19)采九徳『倭変事略』嘉靖三十二年四月。

(20)村井章介『中世日本の内と外』(筑摩書房、一九九九年)