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◆今週の記事

◆新年あけまして新政権

 皆様、あけましておめでとうございます。いやぁ、2025ですよ。ますます一昔前のSFみたいな年代に突き進んでおりますが、思いのほか世の中は見た目に変化がないようで。もちろん、IT関係の進歩は著しいし、一昨年あたりから「AI」が本格的に進化してきて、それこそ人類の危機になるかもしれないなんてSFな話が現実に出てきた李している昨今で。

 さて昨年は個人的に後半からえらく多忙になってしまい、この「史点」も含めてロクに自サイトの更新ができない状態になってしまった。9月ごろに途中まで書いていたんだけどアップする機会を失い、以後、あれやこれやの大ニュースを横目にしながら、とうとう年越しになってしまった。正月はさすがに休みなのでこうして書き始めたわけなんだけど、とりあえず昨年中の話で、やはり触れておかないと、というものを簡単にとりあげていきたい。


 まずわが国では昨年9月に、新しい内閣総理大臣が誕生した。9月に行われた自民党総裁選に岸田文雄首相は立候補せず、多人数乱立の中から第一回投票で次点、決選投票で逆転した石破茂氏が勝利、直後の10月1日に第102代内閣総理大臣に就任した。石破氏はこれまでにも何度か総裁選に立候補していて、特に2012年の総裁選では第一回投票で1位だったのに決選投票で安倍晋三元首相に逆転負け、党内非主流派として冷や飯食いが続いた過去もあった。苦節ウン十年にして、今度は安倍氏の後継者を自負する高市早苗氏を逆転で破っての悲願達成だった。
 そしてその直後(総理就任から8日後で最短記録だった)に衆議院を解散、総選挙が実施された。石破氏自体の知名度・人気はそこそこあったのだけど、なにせ自民党は安倍派を中心とする裏金問題で批判を浴びたばかり、おまけに選挙中にその裏金疑惑候補を公認しなかったはずなのに裏金的に資金援助したりしたことが発覚したりしていたもんだから、フタを開けてみれば自民・公明の与党は過半数割れの敗北となってしまった。それでも石破首相の責任を問う声は与党内でもそう大きくはならず、石破さんは特別国会で再び首相に指名され、無事年越しをして記録的に短命な内閣にはならずに済んでいる。少数与党になったことで国民民主党を取り込もうとしたり、大連立の構想をちらつかせたりと苦しい運営が続いているけど。
 ともあれ、このところの日本の政治動向は、社会科講師としては中学三年の公民、政治分野をちょうど習うタイミングで展開されたので、中学三年生にとってはいいリアルタイム学習にはなったのではないかな。
 そうそう、石破総理決定直後、日本保守党の百田尚樹代表が「人口最小の鳥取県から総理が出る」ことについて揶揄する発言をしてたりしたが、そもそも過去の総理大臣で人口の少ない県から出た人なんていくらでもいる。多くの総理を出した山口県だって人口はかなり少ない方だ。


 そして11月にはこの年最大の政治イベントであるアメリカ大統領選が実施された。ご存じの通り、終わってみればドナルド=トランプの再選。いわゆる「もしトラ」が現実となってしまったわけだ、バイデン大統領の高齢問題、トランプ暗殺未遂事件などでトランプ優勢に傾いていたところへ、バイデン降板、カマラ=ハリス副大統領が出馬という異例の事態にもなったが、結局は旋風も一時のもので、フタを開けてみれば「激戦州」を全てトランプがおさえてしまう「圧勝」で終わった。まぁ票の数ではそれほどの差ではない、という話もあるんだが、数%でも動きを変えれば結果がガラッと変わっちゃうからなぁ。僕はとにかくトランプだけは勘弁という立場で見ていたが、ハリス陣営の選挙戦に不安を感じたのは大物芸能人を動員して派手にアピールするやり方で、それってヒラリー=クリントンの時と同じじゃん、と思ったものだ。トランプだって明らかにセレブさんなんだけど、本人が上品ではないせいか庶民受けするところがあるのは確かなんだよな。

 トランプ氏が共和党の大統領候補にまたなってしまった時点で、「もしトラ」つまり再選は一気に現実味を帯びていた。だいたい共和党内での候補者選が最初からトランプ優勢のまま推移していて、共和党内でもトランプ氏に逆らうことが難しい状況になっていた。共和党がいろいろ変になってきているのはここ三十年くらい言われていることではあるが、トランプ人気の熱狂に煽られてほとんど独裁状態になっているようにも見えた。
 そもそもだが、2020年の大統領選で一貫して敗北を認めず、。その結果支持者による議事堂襲撃という前代未聞の事態まで起きてしまい、その時点で僕もトランプ氏が歴代大統領でも最悪の評価を下されると確信したし、ましてやまた大統領に返り咲くなどとは思えなかった。歴史あるアメリカ民主主義の根幹を揺るがすことまでしたんだから弾劾も当然だと(後述するが韓国でいまそれが起きている)思ったのだが、政治的配慮で弾劾もされず、結局あの時点ではまさかと思われていた返り咲きを果たしてしまった。

 トランプ氏当人は今も2020年の大統領選を不正と主張していて、議事堂襲撃の実行者たちについても「英雄行為」として恩赦を与えて事実上正当化してしまった。この人で一番怖いのはこういう「無理を通せば道理が引っ込む」を地で行くところで、今度の選挙でも結果は明白な勝利とはいえ開票初期段階で民主党が勝った州について早くも「不正」を主張していたくらい。とにかく負けを認めず言い張ればいい、というのを押し通す人が大統領になっちゃっている、ということが怖いのだ。過去の歴代大統領が聖人君子ばかりだったとはもちろん言わないが、それにしても彼は逸脱が激しすぎるのではないかと。今後の大統領選でも負けた方が負けを認めずゴネ続けて押し通し、内乱状態になる可能性はいっそう高くなった気がする。
 正式な就任前から、またぞろグリーンランド購入やらパナマ運河の権利奪還とか、「メキシコ湾」を「アメリカ湾」に変更するとか(この話は日本海と東海、ペルシャ湾とアラビア湾論争などと通じるものがあるが)、次々とブチあげ、しかも毎度毎度の「関税!」連呼だけでなく軍事力の行使も「排除しない」とまで口にしている。どこまで本気なのか分からないのもトランプ氏の特徴の一つだが、これらのことってそれこそ「実力で現状変更する」ってやつでは。関税を武器に使う点や領土獲得意欲など19世紀的な外交・政治観なんじゃないかと言ってる人もいたな。実際、トランプ大統領は19世紀最後の大統領で高い関税政策やハワイ併合・米西戦争で知られるウィリアム=マッキンリーを尊敬しているとされ、彼の名にちなんだ北米最高峰でオバマ政権時代に先住民の呼び名「デナリ」に変更された山を「マッキンリー山」に戻している。

 新政権の人事でもあれやこれや言われているが、テスラ会長のイーロン=マスク氏が官僚機構を破壊だか何かをするための「効率化省」長官に起用され、彼自身も自らの傘下にあるX(ツイッター)上で連日のように主張を展開、最近ではイギリス国王チャールズ3世に議会の解散を要請したとか、冗談ではあるが英仏海峡に「ジョージ・ワシントン海峡」と命名したり、ヨーロッパ各国の極右系政党と接近したり、ロシアのプーチン大統領にも定期的に連絡をとっているとか、活発な活動を見せていて、もはやアメリカにとどまらず世界的に影響を与えかねない影の実力者になりつつある。彼の宇宙開発とかは面白いと思っていたんだが、このところの突拍子のないハイテンションな言動を見ていると、どうも今後ロクなことにならないとしか思えない(変な言い方だが007だのルパン三世だのに出てくる悪役に似てきた)。ある意味、トランプ大統領より厄介のような…というか、この二人、今は蜜月だけど早晩ケンカし始めたりするんじゃないか。

 トランプ再選を、民主主義手続きの中から生まれたヒトラーのナチス政権との比較をして警戒する声も一部にある(マスク氏がナチス風敬礼をしたんじゃないかとの指摘もあった)。僕もその手の懸念を抱かないではないが、さすがに大統領を三期やっちゃうように憲法改正するのは無理筋すぎるし、そもそもトランプさん、いくら元気でもご高齢なので4年キチンとやれるかどうか。どの大統領でも二期目の4年間は次がないという時間制限もあるのでどんどん力を失い大したことができない、と言われている。だから結局大したことにはならんのじゃないか、という期待もある。まぁ逆に時間がないから焦ってあれこれやっちゃうこともありうるし、トランプ氏の後継者にもっとひどいのが出てくるってこともありうる(「下には下がある」って何度も書いてますけどね)。

 それと、個人的に興味をもって眺めているのが、いわゆる「Qアノン」日本版のトランプ信奉陰謀論信者たちの動向。この4年間、「アライアンス軍が世界で一斉に行動、権力者や官僚、大資産家らを逮捕・処刑、各国に戒厳令が敷かれ、大統領選の不正やフリーエネルギ0その他の事実が暴露される世界緊急放送が行われ、現行の金融システムは崩壊し量子金融システムと金本位制に移行して働かなくてもよい世界になる」という主張(これだけでも読んでてクラクラするだろうが、これは彼らの主張のほんの一部である)を「すぐに来る、すぐに来る」と延々と言い続けている人たちである。もちろんごくごく少数なのだが、ネットで見ていても熱烈に信じてる人が思いのほか祖mン在する。
 とうとうトランプ再選が実現したことで、彼らの意気も上がっているみたいだけど、「11月中」と言っていたのが何もないまま12月になり、「クリスマスには」「年内には」「元旦に」と「予定日が次々更新され、「正式就任と共に」と言っていたのも何事も起きずに通過。それでも全くあきらめず「2月になる」とか言ってる現状だが、さすがにオカシイと思い始めた人もいるにはいるようで、「トランプはDS側の人間では」との主張もチラホラ出ているのも確認している(実際、彼らが「DS側」と認定する条件ってトランプ氏にかなりあてはまる)。まぁ救われない人たちではある。



◆急に崩壊する政権

 上では昨年から今年にかけて生まれた政権についての話題だったが、今度は同時期に急に崩壊した政権について。

 12月8日、シリアの首都ダマスカスがいきなり反政府軍により攻め落とされたとの報道が流れ、間もなくバッシャール=アル・アサド大統領がロシアに亡命、二代半世紀にわたり同国を独裁してきたアサド政権が驚くほどあっさりと崩壊したことが明らかになった。
 「アサド政権」は1970年に軍人のハーフィズ=アル・アサドがシリアの実権を握ったことに始まる。アラブ諸国で独裁者の例は少なくないが、ここは王政ではないのに「世襲」を行ったところがユニークだった。しかし当初後継者になっていたハーフィズの長男は交通事故死し、ロンドンで眼科医をしていた次男のバッシャールが跡を継ぐことに。ハーフィズが30年の「君臨」の末に2000年に死去すると予定通りバッシャールが大統領を引き継ぎ、以来2024年末まで独裁体制を維持してきた。王政ではないが事実上の世襲君主制状態ということでは、北朝鮮と並び称される例である。ま、日本でも国会議員の多くがそんな状態になってるが。

 二代目アサド大統領はもともとイギリスに在住していたこともあり(妻もシリア系イギリス人の医師の娘)、父に比べて穏健な姿勢で、むしろ腐敗政治を一掃しようとしているとかで「ダマスカスの春」などと呼ばれてその治世に期待も寄せられたこともあったが、結局のところ独裁が続くにつれ体制維持のために反体制とみなした人々を弾圧するようになり、2010年末から始まったいわゆる「アラブの春」でアラブ各国の独裁体制が次々崩壊すると、シリア国内でも反アサド勢力が蜂起、アサド政権の圧政傾向はより強まったとされている。それでもロシアの後ろ盾もあり、シリアの内戦状態が深刻化していくなかでもアサド政権はここまで続き、報道を見聞きした限りでは、本当に直前まで、その崩壊の予兆すら感じさせないほど、一見盤石のように見えたのだ。

 しかし崩壊は本当にアッサリで、「どうもダマスカスが陥落しそうだ」という報道が流れて数日もしないうちに陥落は現実のものとなり、アサド大統領一家は後ろ盾のロシアへと亡命してしまった。それまでアサド政権を支えていた国軍もダマスカス防衛ではほとんど無抵抗だったとも言われ、これまでの長い独裁はなんだったんだ、と思うほどのあっけなさだった。後ろ盾だったロシアが対ウクライナ戦争の長期化でシリア支援に手が回奈落なった、という見方もある。そういやもう一方の実質世襲王政の北朝鮮の部隊まで借り手ウクライナ戦線に投入してるくらいだしな。
 アサド政権崩壊後、とりあえずダマスカスに入った反アサド各勢力により暫定政権が作られ、欧米の支持を得そうな新政権ができ、国外に逃れていた難民たちもどうにか帰国できそう…と希望的観測も出ているんだけど、あのシリア内戦のややこしい構図を思うと新政権がそう簡単に平和を保てるのかどうか。どうも「ダマスカス」と聞くと、映画「アラビアのロレンス」の終盤、ロレンス率いるアラブ軍がダマスカスを攻め落として新政権を樹立しようとするも、部族間の対立やら英仏の策謀やらで崩壊、みんな砂漠へ帰ってしまうという展開を連想してしまう。まぁ実際、シリアとか周辺の国々が現在存在してるのもあの時の英仏の策謀の結果だしなぁ。


 そして時間は前後するが、12月3日にはお隣の韓国で、大変な、というより、不可解きわまる政治状況が勃発した。
 その日の夜、確か11時過ぎだったと思うのだが、僕はネット上で新聞サイトを見ていて尹錫悦(ユン=ソンニョル)大統領が非常戒厳を発令」との見出しを見て、「ええっ!?」と仰天と同時に首をかしげた。「非常戒厳」というのがいわゆる「戒厳令」のことらしい、とは感じたのだが、どうにも唐突で現実感がなかったのだ。かつて、韓国hはおよそ民主的ではなく軍事政権も続いた時代があり、そのころに「戒厳令」が敷かれた例はあるのだが、1980年代後半からの民主化以来すでに30年以上、その手のことは起きていない。調べてみると1980年の全斗煥(チョン=ドゥファン)らの軍事政権により発令され、光州事件など市民虐殺事件を引き起こしたとき以来、実に44年ぶりの事態だった。ついでに言うと我が国ではあの「二・二六事件」が戒厳令の最後になるはず。

 「戒厳令」とは軍隊が治安維持を根拠に武力を用いての統治、要するに軍政をしくものだが、今回尹大統領がいきなりそんな非常措置に踏み切った理由は、正直なちょころいまだによく分からない。昨年春に行われた総選挙で与党が惨敗し、その結果議会で野党があれこれ突き上げ、大統領の親族の不正疑惑なども持ち出されて、政権運営が困難になってきていた、というのは確かなのだが、だからってかつての軍事政権みたいに「北に従属して国家を混乱させようとしている」と武力で野党や市民の政治活動を一切禁止してをねじ伏せる、ということが民主化から30年もたった現在に通用すると尹大統領は本気で思っていたのだろうか。一部報道で聞いたが尹大統領を支持する保守系のインフルエンサーがネット上で「先の選挙は不正」と陰謀論を拡散していて、尹大統領もこれを信じた、あるいは利用したんじゃないかとの見方もある。この辺、アメリカのトランプ大統領とその支持者たちに通じるところがあって怖いものがある。なお、元検事総長でもある尹大統領はソウル大法科学生時代に軍事政権を裁く模擬裁判で裁判長役をつとめ、当時戒厳令を敷いた首謀者たちに有罪判決を出していた、という皮肉な事実があって驚かされた。

 ともあれ12月3日の深夜にいきなり「非常戒厳」が宣布され、一部軍隊が議事堂に乱入したり、野党政治家たちの拘束に動いた。しかし反対する市民たちが押し寄せて軍隊とにらみ合う状況になったり、どうも軍部自体も急なことで統制が取れてなかった様子で、「大統領によるクーデター」は最初からバタついた。尹大統領を支える与党政治家たちもさすがに無茶だと反発し、結局この「非常戒厳」はわずか2時間半ほどであっさり撤回された。こんな結果になってしまったこともこの事態の訳の分からなさではある。
 その後、尹大統領は「国民に不安を与えた」と国民に謝罪メッセージを出したものの、まだ大統領職にとどまる姿勢だった。野党側は議会で弾劾決議をしようとしたが、3分の2以上をとらないといけない。それには与党議員から一部が造反する必要があり、一度目は与党側が欠席して弾劾は不発に。与党サイドとしては弾劾は避けたいが尹大統領当人には辞任してもらいたい、という気分もあったようだが、この辺りから尹大統領が俄然強気になってきて、とても辞める気配がなくなる。結局二度目の決議で弾劾は成立、さらには検察が大統領を内乱を画策した容疑で逮捕する、という方向へ向かった。

 隣の国から見ていてもよく分からなかったのが、この大統領逮捕に至る経過にもあった。年が明けてようやく逮捕状をとって捜査員が大統領官邸に向かったら官邸を守る警護隊が抵抗、検察側が引き上げざるを得ないという一幕には正直驚いた。ここまでの事態になっても大統領を守る責務に忠実…と言えばそうなんだが、正直もはや大統領の地位を保てるとは思えない状況で…
 この「史点」の執筆が遅れに遅れているうちにも事態はダラダラと続き、実際に逮捕が実現したのは1月19日のことだった。この時は官邸の警護隊も抵抗はしなかったが、尹大統領を熱心に支持する人々が逮捕状を発したソウル西部地方裁判所を襲撃して破壊活動をするという一幕はあtt。あ

 韓国は歴代大統領がロクな目に合わない、という例が続いている。民主化実現後も主に退任後に次期政権にあれこれ追及されるケースが多く、廬武鉉(ノ=ムヒョン)みたいに自殺してしまった例もあったし、朴槿恵(パク=クネ)のように在任中に弾劾・罷免・逮捕に至った例もある。今回の尹大統領は現役在任中に逮捕という韓国史上初の例となってしまった。それもこれも大統領という地位に権力が集中しているためとよく言われるが、ここ一か月半以上の流れを見ていると、大統領はいなくても(一応代行者は存在するが)国はそう混乱もせずにやってけるもんだなぁと思ったりもした。
 しかしさらによく分からないのが、尹大統領が逮捕された直後の世論調査では、与党の支持率が野党の支持率をしばらくぶりに逆転した、というニュースだ。ここまでの展開がバタバタ気味だったことや、最大野党の党首が次期大統領になることに不安の方が多いからとか説明されてるけど、ほんと、不可解なことばかりの隣国の騒動である(その後また支持率は逆転してたな)



◆ご長寿を全うした方々

 毎年そうだが、昨年も多くの著名人が亡くなった。個人的には鳥山明、楳図かずお。山藤章二といった漫画かさんや、山本弘、唐沢俊一といった「と学会」関係の人たちの訃報にいろいろ感慨を覚えるところがあった。この他にもさまざまな分野で活躍した「歴史的」な人たちが亡くなっているが、年末になってかなりの長寿の著名人が相次いで亡くなったのでそれを取り上げてみたい。


 ちと古い話題になるが昨年11月15日に、皇室の三笠宮家の家長である故・三笠宮崇仁親王妃百合子さんが亡くなった。101歳というご長寿で、夫である三笠宮崇仁親王も100歳の長寿で、いずれも神話時代を除いた確たる記録がある範囲では長い皇室の歴史でも最長寿記録を樹立している。
 百合子さんは1923年(大正12)に華族・高木子爵家の次女として生まれている。高木子爵家はもともと大阪南東部にあった「丹南藩」の藩主の家で、先祖は徳川家康に仕えて長久手の戦いで戦功を挙げたりしていて、いわゆる譜代大名になる。まぁ子爵というのは元大名家のランクとしては低い方にはなるが。
 百合子さんは1941年(昭和16)に女子学習院本科を卒業するが、その年の1月に10月に大正天皇の皇后である貞明皇太后から映画会に招待され、この時に大正天皇の第四皇子、つまり昭和天皇の末の弟である崇仁親王と初対面、これが実質的な「お見合い」であったとは当人もまったく気づかなかったという。間もなく貞明皇太后から結婚の話を持ち出され、突然のことにビックリして辞退しようとしたが皇太后から「若いんだから大丈夫」と言われ、押し切られたとか。当時の女性は十代で結婚が常識だったしねぇ。
 そしてその年の10月に婚約、成婚の儀式が行われ、結構慌ただしく二人は結婚した。あくまで推測だが、その年の暮れには太平洋戦争勃発という時期であり、軍人である三笠宮としても結婚関係は大急ぎで進める必要がったのかもしれない。

 そして太平洋戦争はどんどん敗色濃厚となり、1945年3月の東京大空襲では三笠宮夫妻の邸宅も全焼、百合子妃自身も娘を抱いて防空壕生活を余儀なくされている。そして無条件降伏が決まった8月14日には、三笠宮邸に戦争継続を主張する陸軍将校たちが押しかけ一触即発の激論になる場面もあったという。また三笠宮が皇居に向かおうとすると青年将校らに止められたが、この日の夜に戦争継続を意図した陸軍将校らによるクーデターを画策、宮城を一時占拠する「宮城事件」が起きていて、のちに百合子妃は「もしその時宮様がそこにいたら」と恐ろしく思ったという。

 戦後は三笠宮はオリエント歴史学者の道を歩み、百合子妃もその資料整理の手伝いもしたという。夫婦は3男2女の子宝に恵まれたが、長男の寛仁親王、次男の桂宮宣仁親王、三男の高円宮憲仁親王の男子三人はいずれも短命で先立たれてしまった。三笠宮家は一時皇族のなかでも男子が多い家系だったのだが、今は孫の世代の女性ばかりとなっている。
 2016年(平成28)10月に三笠宮崇仁親王が100歳で死去。この時点で百合子さんは93歳で、結果的に夫より少し長生きした。晩年はそれこそ健康問題を多く抱え、新型コロナにも感染しているが、報じられるところでは新聞・雑誌の多くに目を通し、テレビで野球観戦するのが楽しみという生活を送り、年齢の割にはお元気だったようだ。棺には趣味にしていた漢字パズルが副葬された、という話も晩年の暮らしぶりをしのばせる。


 12月19日には読売新聞グループのドン、「ナベツネ」のあだ名で知られた渡辺恒雄氏がとうとう98歳で亡くなった。親交が深かった中曽根康弘には及ばなかったが、かなりの長寿で、しかも最後の最後までかなり元気であったようだ。この人も一世紀近い人生はなかなかに激動であり歴史的だ。
 出身は現在の東京都杉並区、1926年、つまり大正15=昭和元年の生まれだ。開成中学から東京高等学校(つまり東大)へと進んだ秀才で、こんな時代に軍国主義には反発して開成時代に校長らを襲撃したとか、東大時代に軍事教練で教官の軍人に逆らったとか、武勇伝がいろいろある。徴兵されても本土決戦になったらとっとと米軍に降伏しようと決めていたとの逸話もあり、後年には首相の靖国神社参拝に強く反対していたりもする(それでいて中曽根と仲良しなのが不思議)。本人は哲学を志、のちに日本テレビのドンとなる氏家斉一郎と東大時代に親友となり、あの時代にあってなかなかフリーダムな青春を送っていたようだ。

 敗戦後はなんと日本共産党に入党。入党の動機を聞かれ「天皇制を打倒するため」と即答してむしろ聞き手を驚かせたという。しかし当時の共産党は戦後混乱に乗じて武力革命を企図しており、渡辺氏は水力発電所破壊の指示を受ける。「そんなことをしたら人民が苦しむのでは」と疑問をぶつけたら、指揮者に「人民が苦しんだ方が革命になりやすい」と答えられたことで党の方針に疑問を抱いた渡辺氏は間もなく離党、正確には当から除名処分を受けてしまう(氏家氏も彼につきあって入党・離党した)。その後共産党は武力革命方針は放棄することになるのだが、のちに保守系言論人になった人には意外と共産党入党の経歴をもつ人がいるんだよな。
 その後東大を出た渡辺氏は読売新聞に入社、逆に山中で武力闘争を計画していた共産党グループに潜入取材していて捕まり、スパイとして危うく殺されるところを後に作家となる高史明に救われた、という逸話もある。

 読売で政治記者となった渡辺氏は保守系政治家たちと深いパイプを築くことになる。政治記者というのは取材者と取材対象者の関係から事実上の親分子分の関係になってしまう例が多いようで、渡辺氏は自民党の大物・大野伴睦の腹心となって、一新聞記者の枠を超えて大野の手足として政界で暗躍するようになる。特に日韓の国交正常化交渉には自ら深く関与し、日韓基本条約をとりまとめたのは自分だと豪語していたような記憶もある。
 そういった政界との深い繋がりをバックに読売新聞社内での地位を高めていった渡辺氏は1991年に読売新聞社長となり、主筆として同紙の論調をリー、ドして独自の憲法改正案を発表したり、歴代総理に直に電話でアドバイスや注文をつけるなど(それもつい先日まで続いたそうで)、「新聞界のドン」「政界のフィクサー」などと呼ばれ、彼自身の強い個性もあって「ナベツネ」の名は広く浸透することになる。

 「ナベツネ」の印象を強く世間に与えたのは、やはりスポーツ分野においてだろう。プロ野球では「盟主」たる読売巨人軍のオーナーとして、徹底した巨人中心主義、FAを得たスター選手をごっそり巨人に集める一方でオリンピックへの選手供出は渋って「勝利至上主義はよくない」と社説に自ら書いたりしていた。なんといっても2004年の近鉄身売りに始まりプロ野球1リーグ構想騒動の際、それに反対する選手会のストライキの動きに「たかが選手が何を言う」と“迷言”を発してむしろ世論を敵に回して2リーグ維持の流れを作ったりもした。
 サッカーのJリーグ発足時にも、読売クラブ以来の伝統がある人気チーム「ヴェルディ川崎」をなんとしても「読売ヴェルディ」と読売グループ全体で呼称し続け、あげくに「ヴェルディ東京」にしてプロ野球における巨人と同じ位置づけにしようと画策、本拠地を調布市に移転するなどいろいろやっていた。結局それらは完全敗北に終わってしまうわけだけど。当時いしいひさいちがこうしたナベツネさんを漫画でさんざんからかって、「それいけ!ワンマンマン」なるナベツネ主役の漫画まで描いてしまったくらい(その単行本化をナベツネが許さなかったとの噂もある)
 そんなワンマンマンも、一世紀近くの生涯に幕を下ろした。ずいぶん前だが、渡辺氏がガンを患った直後、「若い時に唯物論を奉じた」つまり共産主義に共鳴した過去に触れて自身の死について思うところがあるといった発言をしていたことがあったが、ついに体調を崩していた昨年暮れに何を思っていたかな、と訃報を聞いてまず思ったものだ。


 そして年の暮れも押し迫った昨年12月29日には、第39代アメリカ合衆国大統領であるジミー=カーター氏がついに亡くなった。1924年生まれのちょうど100際、歴代アメリカ大統領経験者の長寿記録を更新し続けていた。
 カーター氏が大統領をつとめたのは1977年から1981年のこと。もう40年以上前の話で、実は僕が最初に名前を覚えたアメリカ大統領でもある。彼の前任者のフォードはさらに前任者のニクソンの副大統領だった人物で、ニクソンがウォーターゲート事件で辞任したため大統領に昇格していた。つまり大統領選挙を経ずに大統領になってたわけで(しかも副大統領になったのも前任副大統領が辞任しての昇格だった)、ウォーターゲートの後だけにかなりの不人気。一方のカーターはその名の通り地味ーな存在でろくに顔も知られないまま民主党の大統領候補になったが、選挙になってみるとそのクリーンで新鮮なイメージからフォードを序盤から圧倒、あっさりと大統領になってしまった。

 カーター政権を象徴する言葉が「人権外交」。要は大国アメリカをゴリゴリに押し出すのではなく、人権と平和を優先した外交姿勢といったところで、中東ではイスラエルとエジプトの和解など成果を挙げた部分もある。だがイラン革命とそれに続くアメリカ大使館占拠事件での対応で失敗、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議してモスクワ五輪のボイコットを実行するなど、保守派からは「弱腰外交」と批判され、1980年の大統領選挙で共和党候補のレーガンに敗れて、一期4年で大統領の地位を退くことになった。

 大統領任期中は地味ーな存在で終わってしまったが、カーター氏が脚光を浴びたのはむしろ退任後、それも冷戦終結後の90年代からだった。カーター氏は世界平和をめざす「カーターセンター」を設立し、北朝鮮の核開発疑惑をめぐり米朝間で緊張が起こると、大統領経験者として初めて北朝鮮を訪問、金日成主席と会談、ひとまず危機を回避することに成功する(もっとも北朝鮮は結局核兵器を保有してしまったが)。その後もアメリカと国交のないキューバを訪問してカストロ議長と会談したり、旧ユーゴ解体の紛争が続くボスニアにも現れて和平仲介をした。こうした活動が認められて2002年のノーベル平和賞を受賞している。

 それからさらに20年以上がたち、昨年に100歳を越えたとの報道を見てちょっと驚いたりもしていた。すでに最近はもう長くないことを公表して自宅で穏やかに暮らしていた。大統領経験者ということで年が明けてから国葬がとり行われ、生存している歴代大統領がそろって参列した。その一人であるトランプ氏はパナマ運河奪回を主張していて、同運河の権利をパナマに引き渡したカーター政権を批判してもいる。
 この国葬で、かつて大統領選を戦ったフォードの息子が弔辞を読む場面があった。なんでもかつてのライバル同士の二人は、互いに相手の葬式で弔辞を読む約束をしていてそれぞれ早くに文章が作ってあり、先に亡くなったフォードの葬儀でカーターが弔辞を読み、だいぶ時間が経ったがカーターの葬儀でフォードの息子が父の代わりに用意してあった弔辞を読んだとのこと。大統領選を争った相手同士のなかなかいい話である。



◆ウン十年目の節目に

 今年は2025年。最後に「5」のつく年は日本の敗戦からの節目の年となるわけで、今年はとうとう戦後80周年となる。そういや最近の日本製鉄によるUSスチール買収阻止騒動で、アメリカの某製鉄企業のCEOが「日本は1945年以来何も学んでない!」とアメリカ万歳を叫んでたな。
 また戦後80年ということは昭和で数えると昭和100年に当たる。100年さかのぼった1925年という年は政治面では25歳以上の全ての男子に選挙権を認めた「普通選挙法」と、悪名高い「治安維持法」が成立した年であり、日本で最初のラジオ放送開始ということで今年は「放送百年」という節目でもある。そんな年明けから某民放テレビ局が大変なことになっとりますな。
 最後が「5」の年ということでは、1985年の「日航機墜落事故」から40年目となる。あの事故自体が戦後史で強く記憶に残るものだが、僕はちょうどその日に父に連れられて谷川岳に登っていて、小説「クライマーズ・ハイ」を読むと(あるいはその映像化作品を見ると)物凄くシンクロしてしまうのだ。今年の8月12日にはまた節目の年としてメディアで想起されるのだろう。

 それから10年後の1995年は、戦後50周年の節目であり、当時の村山富市首相(そうそう、この人も百歳を越えて健在だ)が先の大戦について明確に反省を述べる「村山談話」を発表した年である。この年の1月17日に阪神・淡路大震災が発生、僕自身は直接には体験していないものの、その日に大学まで出かけて周囲の人々と「怖いことだねぇ」と話していたのはよく覚えている。あれから30年もたっちゃったのだなぁ、と先日の追悼行事など眺めながら感慨にふけったものだ。
 そして同年の3月20日には「地下鉄サリン事件」が起きる。オウム真理教の信者らが東京都心の複数の地下鉄車両内で猛毒サリンを放ち、死者13人と負傷者数千人を出す惨事を起こした。僕はこの日、たまたま大学の合宿で箱根に旅していて、ホテルで朝起きたらテレビでこの異常事態の発生を知った。ホテルの売店の店員にその話をしたら、「オウム?」とその人がすぐに口にしたのをよく覚えている。

 その時点ですぐに多くの人がオウム真理教の仕業ではと思ったのは、その年の元旦の読売新聞で「サリンの残留物検出・山梨山ろく・「松本事件」直後」というスクープを出していたからだ。一応慎重な書きぶりではあったが、読めば前年6月に発生し真相が謎に包まれていた「松本サリン事件」に、オウム真理教の関与を強く示唆するものだと分かる内容だった。その直後に大きな動きがあったわけではないが、やがてオウムが敵対者と見なした人物への直接攻撃や拉致事件などを起こし、そのために教団への強制捜査が入ることになり、それを察知した教祖の麻原彰晃が警察の目をそらす目的で地下鉄でサリンをまく指示を出す、という流れになる。事件直前の時点で漠然とだがオウムがサリン事件と関わり、何かやばいことになってるような気配は一般人でも感じていたのだ。

 この読売の元旦スクープがどういう経緯で出たのか、ずっと気になっていたのだが、30周年が近づく昨年暮れにニュースサイトでその記事を書いた記者当人に経緯を取材した記事が出て、とても興味深く読ませてもらった。1994年秋ごろからマスコミ各社にオウムとサリンの関係を示唆する怪文書が流れていた事実があり、この記事もそれがきっかけだったのかな、と思っていたのだが、今回出た記事によると、その記者は主に警察庁での取材からオウムが松本サリン事件に関与していることを知ったようだ。

 松本サリン事件では、被害者で第一通報者の河野義行さんが当初犯人と疑われ、警察およびマスコミ(さらには一般市民)からひどい攻撃を受けたこともよく知られる。だがサリンという猛毒が個人レベルで作れるものではないことはその方面に詳しい人にはすぐ分かる話で、さらにはそんな危険なものを生産できる大がかりな設備と組織を持つものがいるというより危ない状況があると察する人は警察関係者でもいたようだ。今度の記事を読むと警察庁では秋までにはサリンとオウムの関係を察知していて、彼らが小型ヘリも所持していたことから、サリンを空中散布して何万人も殺せる能力があると警戒もしていた。またそれだけに慎重な対応が必要で、捜査員が山菜取りに扮して教団施設近くを調べたりもしていたという。

 読売の記者は警察庁関係からこの事実を知り、例の怪文書もあってマスコミの一部ではオウムとサリンの関係はある程度知られていたようだ。だがそれを記事にするとなるとやはり躊躇はあった。それをスクープしてオウムを刺激し、それこそサリンを散布されたりしては…という懸念はあったそうだ。それでも報道に踏み切り、事前に警察庁関係者にその旨を伝えると、反対されるどころか「一緒に戦いましょう」と言われた、という話も出ていた。
 のちの公判で分かったことだが、この元旦スクープを見た麻原は慌ててサリンの処分を命じている。のちに地下鉄サリン事件で使われたのは処分後にわずかに残っていたもので、それだけでもあれほどの被害が出たのだが、処分されてなかったらそれこそ万単位の死者が出ていた可能性もあった。元旦スクープは結果的ではあるが十数万人の命を救ったことになる、と記者当人も語っていた。

 地下鉄サリン事件の当日、僕は箱根から小田急で都内に戻ったが、終点の新宿駅で駅員たちが文字通り必死の形相で車両やホームの点検をして回っていた光景を今でもよく覚えている。それから一か月以上、テレビでは連日のように関連特番が流れ、よく通っていた新宿駅で不審物騒動があったりと身近に異常な状況が続いていた。その数年前には通っていた大学の学園祭でオウム真理教も幸福の科学なんかと一緒に教室借り手出し物をしたりしていたんだよな。そんな時代からもう30年もたってしまうのか…


2025/1/29の記事

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