しりとり歴史人物館
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第12回
大江戸ミッション・インポッシブルなスパイ大作戦
間宮林蔵倫宗
まみやりんぞうともむね
(1780?−1844、日本)
 

間宮林蔵といえばこの肖像画ですが、日本画家・松岡映丘が1910年(明治43)に描いた想像肖像画。あくまでイメージです。
こちらは林蔵の報告書「東韃紀行」に描かれた林蔵自身の姿。恐らく本人のスケッチをもとに画家が描いたもので実際の姿をかなり反映してると思われます。


◆はじめに


 さて、今回は日本人ならかなりの確率で知っている人物です。江戸時代にカラフト(樺太)が島であることを確認した探検家、ということでほぼ確実に歴史の授業で習いますからね。しかしその知名度の割にどういう人生を送った人なのか、ほとんど知られていない人でもあります。そういう「知ってるようで知らない人」をとりあげるのがこのコーナーの趣向でもありまして、この人物を選んだわけです。
間宮林蔵記念館 それともう一つ、彼を選んだより大きな理由として、僕の同郷人だから、というのがあります。まったくの同郷というわけでもないですが同じ小貝川のほとりで育ってますし、彼の実家までは僕の家から車で十数分程度で着いてしまう近さ。すいぶん前のことですが、北の果ての宗谷岬を旅して彼の銅像に出くわしたときは「おお!こんなところで同郷人に!」と妙な懐かしさを覚えたこともあります。それくらい出身地がご近所なので今回は直接取材旅行も敢行できました(笑)。右の写真が彼の郷里にある記念館の前に立つ間宮林蔵像です。

 ところで「間宮林蔵」のあとに「倫宗(ともむね)」ってつくのは何?とお思いでしょうが、実はこの「倫宗」が彼の正式の名前、「諱(いみな)」というやつなんです。昔の武士階級はみんなこの「諱」を持っているんですがあらたまった場で使うもので日常的にはほとんど使われず、日常の名乗りは「林蔵」のような通り名で済ますため、歴史上の有名人でもそちらで呼ばれる人が多くいます(例えば「坂本龍馬」)。ここであえて「諱」つきにしましたのは、そうしないと日本歴史人物の多くが「う」で終わってしまい、「しりとり」がやりにくくなる恐れがあるためです(笑)。


◆筑波と小貝にはぐくまれて

移築された林蔵生家 間宮林蔵が生まれたのは常陸国筑波郡上平柳村。現在の茨城県つくばみらい市の「上平柳」、小貝川のほとりの集落です。生年については安永4年(1775)と安永9年(1780)の2説がありますが、後者が有力とみられています。父親は庄兵衛、母親はクマといい、この地で代々農家をしていた家ですが、先祖は武士であったといい「間宮」の名字を名乗り続けていました。林蔵の生家は現在つくばみらい市の「間宮林蔵記念館」の敷地内に移築されてほぼ当時のままの状態で保存されています(左写真)。その生家を見る限りでもいたって平均的な百姓の家であったようで、父親の庄兵衛は家計の足しに箍(たが)職人もしていました。

 明治後期になってから取材された林蔵伝説(まだ生前の彼を知る人がギリギリ存命だった段階です)によるとこの両親の間にはなかなか子が授からず、近くの月読神社に十年祈り続けてようやく生まれたのが林蔵であったといいます。林蔵は子供の時から利発で知られ、9歳の時には竹竿で樹木の高さや川の深さ、道路の遠近などを計測する趣味があったとも伝わります。それはちと出来過ぎな話ではありますが、13歳の時に村人たちと筑波山詣でに行き、夜中に宿から一人で行方をくらまして村人たちが大騒ぎ、夜が明けてからひょっこり戻って来て「筑波山頂にある『立身の窟(いわや)』で将来出世できるようにと徹夜で祈って来た」とこともなげに言ったという逸話は実際に間宮一族の間で語り草とされていたようです。

 林蔵少年には天性の数学的才能があった、という逸話もあります。あるとき工事にやって来た役人が算盤で計算をしていますと、それを見た林蔵少年が笑います。怒った役人が「笑うのなら、お前が計算してみろ」と言いますと、林蔵はまだ算術を習っていなかったにも関わらずおおよその見当でズバリの数字を言い当て、役人は大いに恥じ入ったといいます。その後14歳で近所の蛯原(えびはら)庄右衛門なる先生に初めて算術を習いますが、この先生がまず初めに「二一天作の五」(割り算九九の一つ)と言いますと、それを聞いただけで林蔵は「それは百を二分して五十になるということですか」とあっさり理解したという話も伝わります。後年の編纂物に出てくる逸話なので100%の信用はしがたいのですが、林蔵少年が数学的才能で周囲から神童扱いされていたこと自体は事実だと思われます。

 林蔵の生家からすぐ近くの小貝川に「岡堰(おかぜき)」があります。江戸時代の初めにこの地の用水確保のために建設され、以後度重なる改修を経て今日も存在する堰ですが、林蔵の少年時代にも幕府による改修工事が行われていました。この工事の折に林蔵少年が何か優れた献策をしたらしく、工事にあたっていた幕府の普請役人にその才能を見出されます(彼の人生の出発点となる劇的な場面ですが残念ながらどういう献策をしたのかエピソードは伝わりません)。直後に林蔵は江戸に出て、幕府の役人として各地の測量にあたっていた村上島之允という人物の弟子となるので、恐らく岡堰で林蔵少年を見出したのも島之允だったのだとみられています。(右下写真は現在の岡堰に立てられた林蔵銅像)

岡堰に立つ林蔵像 田舎の百姓の小せがれがいきなり幕府の役人(まだ助手扱いだけど)、正真正銘の武士身分に大抜擢されたのですから、林蔵少年はよほど異彩を放った存在だったということでしょう。身分のうるさいこの時代にあっては異例のことですが、後年林蔵と関わりになる技術畑の人たちには多く見られるケースでもあります。もともと間宮姓を名乗っていた実家ですが、正式に武士身分になるにあたっては普通の百姓の出身では不都合であったようで、いったん隣村の名家・飯沼甚兵衛の養子となり、「倫宗(ともむね)」という諱を名乗ることになります。この「ともむね」という諱ですが、「林蔵」→「りんそう」→「倫宗」という語呂合わせでつけたもので、後年林蔵のことを「倫蔵」と書いている人もいます。

 明確な時期は不明ながら、林蔵は十代後半に江戸に出て村上島之允に弟子入りし、その助手として各地に行動を共にしつつ測量や地理の知識を習得してゆくことになります。この師匠の村上島之允という人物もなかなかの怪物で、伊勢出身で地理に詳しく「日に三十里(約120km)を歩き、それを十日二十日続けても疲れない」という健脚であることを老中・松平定信に買われて抜擢されたと伝わります。実は日に三十里どころか四十五里(約180km)進んだとか、さらには六十・七十里(約240〜280km!)も歩いてしまったとかいくらなんでもオーバーな話も伝わっている人で、本州各地はもちろん大島・八丈島など離島も歩いて回っています。こんな師匠に助手としてついてまわったんですからイヤでも林蔵も鍛え上げられてしまい、のちのちこれが彼のバケモノじみた健脚を生むことになったようです。


◆蝦夷地―「日本」の最前線へ

 林蔵が村上島之允の弟子として修行したのはおよそ十年間。この間、北方では日本とロシアの接触・交渉が一定の緊張をはらみつつ始まっていました。
 日本とロシアの初接触は安永7年(1778)のこと。ロシア人たちの南下に対し、田沼意次時代の江戸幕府は初めて北方に探検隊を派遣、当時は全く不明といってよかった蝦夷地以北の地理調査を行い、林蔵の大先輩である最上徳内(この人も農家出身で数学の才能で見出されている)らが千島列島をクナシリ、エトロフ、さらにウルップ島まで北上しています。やがて寛政4年(1792)にラクスマン率いるロシアからの初公式使節団が根室に来航し、漂流者・大黒屋光太夫を送還するついでに幕府に通商を求めてきました。幕府はこれをやんわりと断りつつ最上徳内、近藤重蔵らの探検隊を繰り返し派遣してカラフト南部、クナシリ島、エトロフ島を探索して「日本領」に固めてゆき、ロシアもウルップ島に植民地を築いて日本側と対峙しました。
 寛政10年(1789)には林蔵の師・村上島之允も近藤重蔵に従ってクナシリ島に渡っており、林蔵はその翌年寛政11年(1799)に島之允に従って初めて蝦夷地の土を踏みます。この年幕府はそれまで松前藩に任せていた東蝦夷地を幕府直轄とし、島之允・林蔵らの任務も東蝦夷の調査にありました。

 寛政12年(1800)9月、箱館で幕府の「御用雇」をつとめていた21歳の林蔵は、第二の師というべき重要な人物とめぐりあいます。ほかでもない、あの伊能忠敬です。このとき忠敬は56歳、彼の生涯の事業となる日本全国実測地図の作成にとりかかり、その第一歩として蝦夷地に渡っていたのです。このときの忠敬の日記では村上島之允に会ったことは書いてますがまだ下っ端の若造だった林蔵については何も記していません。しかしこのとき二人が運命的な出会いをしていたことは確実で、林蔵は忠敬から測量術を学び、後年深い師弟関係を結ぶことになります
 その後数年間、林蔵は幕府の役人として東蝦夷地各地からクナシリ、エトロフまで調査・測量あるいは道路建設に従事、さすが技術屋らしく有能な活躍ぶりを見せています。そして文化4年(1807)3月、ちょうど日本の最前線エトロフ島に赴任していた林蔵は日露間の軍事衝突というキナ臭い事件に巻き込まれることになります。

シャナ工芸関連地図 そもそもことの発端は文化元年(1804)にレザノフ率いるロシア使節団が長崎に来航し(この時も漂流者を送還してきた)、再び日本に通商を求めて来て、さんざん待たされたあげく拒絶されたことにあります。怒ったレザノフは日本を軍事的に脅して通商を開かせようと独断で決め、部下のフヴォストフらにオホーツク海周縁の日本居留地各地を襲撃するよう命じます。フヴォストフらは文化3年(1806)9月にまずカラフト南部クシュンの松前藩番所を攻撃、翌文化4年(1807)4月23日にエトロフ島に上陸してナイホの番所を襲撃、さらに4月29日に会所(交易所)が設置され津軽藩・南部藩の守備兵200名が配置されていたシャナに襲いかかりました。
 このシャナにたまたま間宮林蔵がいたのです。このシャナでの戦闘については現場にいた久保田見達という医師が『北地日記』という詳細な記録を残していて、この中で林蔵の印象的な言動がいくつも書かれています。以下、それに基づいて戦闘の状況をたどってみましょう。

 数日前にロシア兵がナイホを襲ったことはすぐに伝わり、シャナも攻撃される可能性ありということでこの地の責任者である箱館奉行調役下役元締の戸田又太夫は軍議を開きます。ここで久保田見達は積極的にこちらから攻撃しようと主張しましたが、もともと消極的だった戸田は会所内にたてこもって相手の様子を見る策をとります。見達が怒っていると林蔵が「とても用いられることではないから立腹なさるな」となだめたといいます。そんな林蔵も実のところ血気盛んだったようで、未明の午前三時ごろに起き出して提灯を手に見回りをし、布団にくるまって寝ている見達らに「皆さん暖かくしてお寝入りとは、ああ、なげかわしい」と笑ってイヤミを言ったり(見達が「寝るのも御奉公だ」と言い返すと一応納得したそうですが)、翌朝に見達が林蔵に兵糧の支度を押し付けようとすると「台所にすっこんで飯の世話をするなどいやだ」と拒絶したりしてます。

 さて昼過ぎになってロシア船がついにシャナの沖合に現れ、ロシア兵たちが上陸してきました。このとき林蔵は興奮してしまったのか「ただいま異国人上陸す、いかがなされますか!」と会所の門を出たり入ったりして狂ったように叫んだ、と見達は記しています。上陸してきたロシア兵を攻撃しようと林蔵は主張しましたが、南部藩の大砲係は「五人や十人上陸したところで大したことはない」などと言って撃とうとしません。林蔵は怒って「このこと、ご老中に申し上げますぞ」と騒ぎましたが、総指揮官の戸田又太夫は戦闘になるとは予想しなかったらしく使者をロシア側に送ります。しかしロシア側はこの使者に発砲して足に負傷させ、さらに攻撃を加えてきました。
 こうなっては日本側も戦うほかありませんが、何しろ長く太平の続いた江戸時代、武士だって戦闘経験のある者はゼロ。強がっていた南部藩の大砲係はすぐに逃げ出してしまい、やむなく見達が大砲を撃とうとしたらなんと弾丸と砲口が合わない(爆)。さらに陣屋に据え付けられていた大筒もただ枠にはめられているだけで射撃なんかもともとできない状態。日本側はすっかり戦意喪失して会所の中にひきこもり、戸田ら責任者たちは会議を開いて一戦もしないうちに「全員退去」(早い話が逃亡)の決断を下してしまいます。
 この会議に遅れてやってきた林蔵は「退却」の結論を聞いて激怒。そして「私は退却の相談を聞いていなかった、という証文を書いてほしい」と言い出します。つまりこの退却が後日責任問題になると冷徹に見越し、自分が責任を問われることのないよう証拠の文書を出せ、と要求したわけです。見達以外の人がまとめた記録ではなんと林蔵は事前に「退却は我々(戸田ら)が決めたことでそなたの臆病によるものではない」と書かれた戸田ら名義の証文を自分で用意していて、「これに印形(サイン)しろ」と要求したという話もあります。この非常事態のなかでこういうことをする人というのも珍しいですが、百姓身分からようやくここまで出世したのにこんなことでつまづくわけにはいかない、という強い意志を感じます。しかし絶対嫌われますよねぇ、こういう性格って(笑)。結局証文は書いてもらえなかったのですが、ここで積極的に主張しておいたことが実際に後日林蔵に有利にはたらくことになります。
 なお、見達の目撃談以外の情報なので確実性はないのですが、ロシア船がシャナ沖合にやってきて大砲を撃った際、林蔵が「あれは空砲で、敵意がないことを示す外交儀礼だ」と知識を披露してしまい、おかげで使者を出して撃たれることになってしまった、とする資料も存在します。これが事実とすると林蔵にも少なからず責任があるように思えますが…。

 さてシャナ守備隊は総退却となりますが、指揮官の戸田は責任の重さに耐えきれなくなったか山越えの途中で自殺してしまいます。彼らは結局エトロフ島からも引き上げることになりますが、林蔵はアイヌ語が出来ることもあって他の数名と共に一時エトロフ島に残り、あとから箱館まで引き返しています。
 当然ながら幕府はこのシャナ事件の責任追及をしました。林蔵もこの年の暮れに江戸まで呼び出され尋問を受けています。しかし彼の身分上責任を負うほどの立場ではなかったこと、先述のように退却に強く反対をアピールしたことが目撃者から証言されて、まったくおとがめなしで済みました。しかし情けない敗走の事実は覆いがたく、林蔵は恥ずかしくて知人のところへも顔を出せず、非常に悔しい思いをしたと後日人に語っています。
 それから間もなく、この汚名を晴らす絶好のチャンスがやってきました。幕府がカラフトへ探検隊を派遣することになり、その一人に林蔵が抜擢されたのです。そもそも林蔵はエトロフから箱館に引き上げた直後に「ロシア国内に潜入したい」との上申書を提出していて、これが抜擢の一つの理由にはなっていたようです。林蔵としては敗戦の汚名を晴らすには、そのぐらいの大冒険をする必要があったのでしょう。


◆カラフト第一次探検

 北方の緊張は幕府にこの地方の情報を正確に知る必要を痛感させました。そこでクローズアップされてきたのが「カラフト」です。すでにその南部については最上徳内らにより探検されいくつか日本の番所も設置されていましたが、そこから北についてはどうなってるのか全く分からない。ロシア人も南下して来てるらしいが、大陸の清朝の勢力が伸びて来てるという話もあり、この方面の知識はかなり漠然としていました。

 また、当時は欧米諸国の船が世界中を回ってかなり正確な世界地図が作られつつあったのですが、地球上最後の不明地域が実はこのカラフト北部だったのです。中国では元の時代に満州から対岸のこの地まで支配をしていて、清の時代にも大陸の対岸に島が描かれた地図も作られています。しかしそれは「サハリン島」と認識されていて、日本の北の蝦夷地、そこからさらに北にある「カラフト」と同じものなのかどうか、世界で議論を呼んでいたのです。
 それどころかカラフトは実は半島で大陸の一部ではないかとの推測も有力で、1786年にフランスのラ=ペルーズ、1797年にイギリスのブロートン、そして1805年と1806年にはロシアのクルーゼンシュテルンがカラフト周辺を探検し、いずれも海峡を発見できずカラフトを陸続きの半島と判断していました。探検しておいてどうしてそんなことが分からないのかとお思いでしょうが、これらヨーロッパの探検隊は大きな外洋船で探索するため海底の浅い所は座礁の危険があるため進めず、しかもカラフトとの海峡はアムール川(黒竜江)の水が流れ込んでくるため真水の度合が高く、水深と塩分濃度を測っただけで「これは湾だ」と判断してしまったのです。また冬にはこの海峡は凍って歩いて渡ることが可能になるため現地の住民たちも島なのか半島なのかあまり気にもしていませんでした。この当時、カラフト周辺が地図にどのように書かれていたのか下に並べてみました。





1721年刊の「康煕図」のうち黒竜江口図。黒竜江河口の対岸にカラフトと思われる島が明記されているが名前は書かれていない。
1735年刊のデュ・アルド「シナ帝国全図」の「シナ韃靼全図」。サハリンとカラフトが別の島である。
1753年刊行のダンヴィル「アジア第3図」。サハリンは島だがカラフト南部が大陸の一部になってる。
1815年刊行のクルーゼンシュテルン「太平洋西北部海図」。かなり正確だがカラフトが半島になっている。


 人工衛星もないこの時代ですから、実際の地形がどういう形をしているのかは直接行って測量してみないとわかりません。しかし現地はアイヌ人さえ足を踏み入れることを恐れる地域で、相当な困難が予想されました。北方探検では大ベテランの最上徳内を派遣する案もあったようですが、すでに53歳となっていた上に身分的にも高くなっていて、万一探検先で外国勢力に捕まったりしたばあい国際問題になりかねません。そこでまだ 29歳と若くて元気で有能、かつ身分も低い林蔵が抜擢されることになります(師匠の伊能忠敬などの推薦との説あり)。ただし彼だけではなくもう一人、松田伝十郎という林蔵より11歳年上でやはりエトロフ島滞在経験のある人物も抜擢され、身分も彼の方が上なので林蔵はその従者という立場でカラフト探検に向かうことになります。

最上徳内 文化5年(1808)3月12日、林蔵は蝦夷地北端のソウヤ(宗谷)に到着、ここで先に来ていた伝十郎と共にカラフト探検の準備をします。この地には大先輩の最上徳内もいて、林蔵らに「アイヌ人に変装した方が怪しまれないでいい」とアドバイスをしましたが、結局アイヌ人らの意見もあって日本の役人姿のままでいくことになります。未踏地帯の樺太北部の探検は当然命がけで、伝十郎はそれまでついていた従者を現地に残し、林蔵も周囲の人に二度と戻れぬ覚悟も伝えています。一説に、林蔵はこの探検に先立って故郷に帰り、もしもの時にそなえて自らの墓を地元の寺に建てておいたといわれ、現在も彼の生家近くの専称寺に残る「林蔵の墓」はこのとき立てたものとも言います。

 一ヶ月ほどの準備ののち、伝十郎と林蔵はソウヤを出発、海を渡ってその日のうちにカラフト南端のシラヌシに入ります。ここで両者は二手に分かれ、伝十郎がカラフト西岸を、林蔵がカラフト東岸を進むことになります。カラフトの全体像を把握することが大きな目的でしたし、カラフトが島であれば海岸線をたどって両者がどこかで出会えるという作戦であるわけですが、カラフトが島か半島かの決め手となるのは明らかに西岸の探検で、東岸を行かされた林蔵は内心不満があったのではとの予想もあります。
 実際、松田伝十郎はカラフト西岸をどんどん北上し、6月19日に北緯51度55分のラッカという土地まで到達、対岸の大陸と黒竜江河口を目視して「カラフトは島」と確認、ここを日本と大陸の境界と見定めることになります(ですから日本人でこの海峡を最初に「確認」したのは松田の方なのです)。林蔵の方はアイヌの丸木舟を使って東岸を北上して北シレトコ半島のあたりまで進んだものの、荒波に阻まれてさらなる北上は断念、その場合はそうしようと事前に決めてあった通り西岸にまわって伝十郎のあとを追いました。6月20日にノテトという場所で林蔵はラッカから戻って来た伝十郎と再会することになります。

 ここで林蔵は伝十郎から海峡確認の話を聞きましたが、「自分も同じ場所まで行き、できればさらに北進したい」と言い出します。伝十郎には数人のアイヌ人やギリヤーク人(カラフト北部の先住民)の道案内が同行していましたが、林蔵に同行することを誰も承知せず、やむなく伝十郎が「迷惑ながら」と思いつつ(この表現は本人がちゃんと文章に書いている)林蔵に同行して再びラッカまで北上します。そしてラッカまで来たところで伝十郎は「ここから先へ行くなら、それは林蔵の手柄だ。ぜひ行きたまえ」と捨てゼリフともイヤミともとれる言葉を残して、自分はさっさと南へ引き返してしまいます。林蔵は言われた通りさらなる北上を目指しましたがやはり断念して引き返し伝十郎と合流、そのまま翌閏6月にシラヌシ、さらにソウヤへと戻ってカラフト探検を終えたのでした。

 このラッカのくだりでの林蔵の言動ですが、伝十郎が看破したように林蔵が「海峡確認の手柄」を自分のものにしようと躍起になっていたのは明らかでしょう。もともと東岸を担当させられたことにも不満を抱いていた気配があるというのはこの言動から予想されることで、もしかすると林蔵は最初から東岸を放り出して西岸を進む気満々だったのではないかとさえ思えます。これが身分社会の中での成り上がり者の、よく言えば上昇志向、悪く言えば意地汚さと言うんでしょうか、エトロフでの証文要求の一件でも見えるように、林蔵の日本人離れした自己主張の強さというやつです。伝十郎もわざわざイヤミを書き残しているぐらいで、やっぱり「ヤな奴」と思われてしまったのではないかと。
 このときは林蔵もさすがにこれ以上上司の機嫌を損ねても不都合と考えてひとまず引き返すことにしたとの見方もあります。実際このあとすぐに再度のカラフト探検に単独でチャレンジし、前回進むのを断念した所も割と楽に突破してるので、「次は俺一人で来よう」と腹を決めていったん戻ることにしたのではないかと。


◆カラフト第二次探検〜大陸へ
 
 閏6月にソウヤに戻った林蔵はここで今回の探検の報告書などをまとめると、翌7月にすぐさま第二次探検のためカラフトに戻ります。幕府から命じられた本来の探検目的は未踏破のカラフト東岸を調査することでしたが、林蔵は最初から西岸を北上します。やはりこのあたりにも林蔵が「海峡の確認」という「手柄」を強く意識していたことを感じさせます。
 アイヌの丸木舟チップを漕ぐためアイヌ人を六人雇うことにしましたが、探検の困難さとカラフト北部のギリヤーク人や大陸から来るサンタン人(山丹人)らの凶暴さに恐れをなしたアイヌ人たちはなかなか言うことを聞きません。どうにか説得して8月はじめに北上を開始しましたが、実際にサンタン人らの妨害にも遭い、難所続きで船での北上はなかなか難しく、アイヌ人たちの抵抗もあって北緯50度あたりを行ったり来たり。海が凍ってから歩いて北上しようとも考えたようですがそう都合よく結氷はしてくれず、やむな11月にくカラフト南部のトンナイまで引き返し、ここで越冬して春の再起を図ることになります。

カラフト探検図」 翌文化6年(1809)正月に再び北上を開始、2月にウショロまで到達しますが、ここでどうしても北上をいやがるアイヌ人5人を帰らせて代わりに現地のアイヌ人5人を雇うドタバタがあって足止めされます。4月に前年も到達したノテトに入り、ここから先は大陸側のサンタン人が使う山靼船(さんたんせん)に乗り換え、ギリヤーク人の通訳も雇います。この大陸とカラフトの間の最も狭い海峡部分は冬は結氷してしまうためそれが解けるのを一ヶ月待ち、ようやく5月3日に山靼船でノテトを出発、海峡のカラフト側を北上して12日に海峡の出口にあたるナニオーという土地に到達します。ここから北は海が大きく広がり、カラフトが大陸と離れた島であることはほぼ完全に確定となりました。
 しかしまだカラフト東岸が未踏破だったので林蔵はそちらへまわろうとしましたが、現地人から東岸は海が荒く山靼船でも危険だと忠告され、同行のアイヌ人もいやがったため断念、やむなくノテトに引き返しました。このままでは手ぶらで帰るようなものだとでも思ったのか、林蔵はノテトのギリヤーク人酋長コーニの家で家事手伝いなどして厄介になりつつ、ノテト住民と親しくなってその風俗調査をしつつ、ロシアや清に関する情報を集めます。林蔵の書き記すところによればノテトの住民たちは女性の発言力が強く「男たちは奴隷のよう」と表現されるほどで、男たちは常に女たちのご機嫌をうかがい、なおかつ男同士で女をめぐって嫉妬のケンカを起こしやすく、林蔵も身の振り方に注意しなければならなかったようです。

 そんなころ、酋長コーニが清朝への進貢のため大陸は黒竜江(アムール川)沿いのデレンへ赴くことになります。それを聞いた林蔵は大胆にもそれに同行しようと考えます。普通のやり方では連れてってくれそうにないので、林蔵はかねて機嫌をとっておいた部族の女性たちを通じてコーニを説得させます。先述のように女性の発言力が強いことを利用したわけですが、林蔵も案外女性の扱いを心得ていたということかも。コーニは途中の危険をあれこれ主張して断ろうとしましたが、林蔵があくまで強く希望したのでついに折れました。林蔵はいよいよカラフトから海峡を越えて大陸に渡ることになったのです。

 さりげなく「大陸に渡る」と書きましたが、当時の日本にあってはおおごとです。当時の日本はご存じ鎖国政策のもと、漂流者でもない限り外国への渡航は原則禁止です。この当時に北方世界ではどこまでが日本領なのか微妙なところなので(これ以前清がすでにカラフトに女真文字の標柱を立て、林蔵たちもカラフト各地に日本の標柱を立てている)、カラフトへ来るまでなら国禁を犯したことにはなりませんが、海峡を越えればそこは明白に清の領土であり、しかもデレンには清の出先機関もあり役人もいるのです。林蔵のこの行動は明白に日本から「外国」に渡ることにほかなりません。しかも現地での独断行動。林蔵自身もその点を意識したことは著書『東靼地方紀行』でもチラリと書かれてはいます。
 もっとも彼は幕府から派遣された役人、事実上のスパイとして調査・探検に来ているわけで、越境を独断の国禁破りとして処断される可能性は小さかったのでしょう。そもそもここまで大胆なことができたのは、もともと幕府から現地の事情調査を命じられた際、場合によっては大陸に渡ることも黙認されていたためと思えます(「越境許可証を持つ男」というわけ(笑))
 しかしそれでも外国に行ったら最後どうなるか分かったものではないので、林蔵は出発前に念のためカラフト調査資料などは同行のアイヌ人に渡し、もし自分が帰らなかったら幕府に提出しておくようにと言い残しています。

 6月26日、コーニと林蔵らの一行は山靼船でノテトを出発しましたが、風向きの悪さと潮流の強さとで航海は難航、風待ちをした末にようやく7月2日になって海峡を渡りきり、大陸側のムシホーに到達します。ここから船を引いて峠を越え、川を下ってキジ湖に入り、そこからさらに黒竜江をさかのぼって目的地デレンに到達したのは7月11日のことでした。この途中でサンタン人の男たちに囲まれて抱き疲れたり頬ずりされたり全身をいじりまわされたりと、親愛のつもりなのかからかってるのか良く分からないアブナイ目にあったりもしています。

 このデレンには夏の二か月だけ設置される清朝政府の出張所「仮府」があり、黒竜江河口域周辺からカラフトにいたる地域の諸民族が清朝への朝貢と同時に交易を行うため集まる場所となっていました。林蔵が通ってきた途中の道でも様々な人々がデレンへと続々向かっており、ちょっとした「街道」の様相であったといいます。林蔵が到着した時でもデレンには500人ほどの人が集まっていて交易でにぎわっていました。林蔵はその模様も詳細に記録して後で幕府に報告したり個人的に証言したりしていますが、それらは中国側にも残っていない、当時の現地の様子を知る貴重な歴史記録となっています。
 デレンの仮府には満州からやって来た清朝の役人たちが来ていて、林蔵はコーニと共に彼らに面会しています。コーニは林蔵を「シャモ(和人)」と説明したようですが、よく話が通じなかったのか、清朝役人たちは林蔵を朝鮮人と思い込んだらしい。さすがの林蔵も彼らと会話をかわすことはできませんでしたが、東アジアの共通語というべき漢文でやりとりして意思の疎通をしています。このとき林蔵は日本の幕府がカラフトに進出していることや、ロシアが日本の交易書を攻撃したことなどを告げていますが、彼らは「そうか」とうなずくばかりで特に反応を見せず、林蔵は「大国らしのんびりぶり」にやや呆れたようです。相手の役人も林蔵の話が実のところよく分からなかったのかもしれませんけどね。

 林蔵たちがデレンにいたのはわずか7日間。その間に林蔵は少しばかり黒竜江をさかのぼって調査をしたりしています。7月17日にデレンを出発して帰路に就きますが、林蔵は黒竜江の流れるルートや、カラフトと大陸の間の海峡をよりしっかりと確認しようと考えてコーニの同意を得て黒竜江をその河口まで下ります。その途中で明の永楽11年(1413)に築かれた永寧寺の石碑を船の上から遠目に確認するなどしていまして、中国側でこの石碑を「再発見」するのは実にこれから80年も後だったりします。
 
 林蔵たちは8月2日に黒竜江河口に到達、そこから大陸沿岸を南下して、樺太との間の海峡のもっとも狭い地点を渡海してカラフトに渡り、8月8日に出発地のノテトに帰り着きました。そこから南へ向かう現地住民の船に便乗して南下、9月15日にシラヌシに到着、さらに9月28日にソウヤに渡り、11月には松前に帰り着きます。林蔵の北方大冒険はここでひとまず終わりました。
 林蔵はこの地に一年ほど滞在して体を休めつつ、幕府に報告するための探検記や地図の作成を行っています。この作業を助けてくれたのが林蔵の恩師・村上島之允の養子・村上貞助でした。なお、島之允は林蔵が北方探検している間の文化5年(1808)8月に江戸で死去しています。


◆ゴローニン事件と蝦夷地測量

 文化7年(1810)11月、林蔵は松前を発って江戸に向かいます。途中の二本松で現地の学者にカラフト探検の話をしたりしてまして、すでに林蔵の北方大冒険の情報は広く伝わっていたようです。翌年の1月に江戸に入った林蔵は幕府への報告書や地図の清書を進めますが、さすがに長旅の疲れが出たのか病の床に臥せることもありました。当時林蔵に会った人が証言を残していますが、林蔵は北方の極寒地での探検のために両手の指のほとんどが凍傷のために形を変えていたとも伝わります。

伊能忠敬 林蔵の病が癒えたころ、以前面識のある伊能忠敬が九州測量の旅から江戸に帰ってきました。忠敬はこの年の11月にまた九州へ旅立つ予定で、それまでの間は測量データをもとにした地図作成に明け暮れる忙しい状況でしたが、林蔵はそんな忠敬のもとを足しげく訪れます。訪問の目的は忠敬から測量技術、特に天体観測による緯度測定の方法を教わるためでした。先のカラフト探検では緯度測定ができず地図作成でも万全ではなかったことが理由であったようですが、この半年ほどの交流で林蔵と忠敬は厚い師弟関係で結ばれることになります。

 伊能忠敬といえば50を過ぎてから測量術を学び、日本初の全国実測地図を作るため日本中を歩き回ったという、とんでもない人ですが、そんな忠敬にしても30歳も年下の頑強な冒険家・林蔵は大いに気に入ったようです。この年の11月に忠敬は郷里の下総国・佐原(現・香取市)に住む息子にあてた手紙の中で林蔵のことを「日本にまれなる大剛者」と呼び、林蔵が松前に行く途中で佐原に寄るのは難しそうなので、妻子を連れて江戸に来てほしい、ぜひ会わせたいい、という内容を記しています。
 のちに林蔵は忠敬から伝授された測量術により、忠敬が行けなかった蝦夷地北部の測量を行い、忠敬の全国地図作成の重要な補充役をつとめることとなります。

 上記の手紙にあるように、この年のうちに林蔵はまたも蝦夷地・松前へとおもむきました。おりしも、蝦夷地では日本とロシアの間で重大な外交問題が発生していました。「ゴローニン(ゴロウニン)事件」です。
 この文化8年(1811)の5月、千島列島南部を測量していたロシア軍艦ディアナ号の艦長ゴローニン海軍大尉が、補給を求めてクナシリ島に上陸したところを、日本側の守備隊により捕縛されました。ゴローニン自身は特に軍事目的で来たわけではなかったのですが、林蔵も体験したように4年前にロシア軍艦の攻撃を受けた日本側は強烈に警戒し、ほとんどだまし討ちの形でゴローニンを捕まえてしまったのです。ゴローニンの身柄は8月に松前まで運ばれ、ここで監禁され尋問を受けることとなります。
 ロシア側はゴローニン救出のために日本人漂流者を使ったり、商人・高田屋嘉兵衛の船を襲って彼ら一行を捕え、捕虜交換を図ろうとします。江戸幕府も事件をどう処理するか二転三転していて、特に江戸では断固釈放を拒否する強硬論が大勢でした。江戸にいた林蔵も意見を求められたようで、かつてロシアと戦闘を体験した林蔵だけにロシア側の意図を疑い、強硬論を主張して幕府に影響を与えていたようです。もっとも高田屋嘉兵衛が捕らわれるなど事態が拡大してくると、幕府もさすがにマズイと思ったようで、平和的解決を模索し始めます。林蔵が松前に派遣されたのは、こうした情勢のさなかでした。

 ゴローニンは松前に監禁されていたおよそ2年間の体験を『日本幽囚記』という本にまとめて後に出版、これが世界で読まれる貴重な記録となるわけですが、この中に間宮林蔵がしばしば登場します。文化9年(1812)2月に林蔵は監禁されているゴローニンのもとを初めて訪れ、以後ほとんど日参してくることとなります。
 はじめ林蔵は「壊血病の予防薬」としてレモンやミカンの汁や薬草などを持参してゴローニンのもとを訪れます。えらく親切に見えますが、それは真の目的のために相手の歓心を得ようとしてのことだとゴローニンはすぐに見抜きます。まもなく林蔵は西洋式の測量器具を持参してきて、ゴローニンたちに「経度測定術を教えろ」と要求します。伊能忠敬から緯度測定術を学んだばかりで、今度は経度を、と考えたらしいのですが、ゴローニンたちはそれを教えるには特別な換算表や道具が必要で、それがないから無理、と応じます。すると林蔵はえらく立腹して幕府の役人に問いたださせるぞと脅迫まがいのことまで口にしたといいます。

 測量術を教わることに失敗した林蔵でしたが、それでもゴローニンのもとに連日のように押しかけます。今度は自分のカラフトや千島列島での探検の「自慢話」を、自ら描いた絵まで使って朝から晩まで延々と話してゴローニンたちを辟易させたのです(笑)、さらにはクナシリ島でのロシア軍との戦闘体験まで語りだし、ここでも「大言壮語」を連発しています。ゴローニンは林蔵の学者・探検家としての才能は認めつつ「虚栄心の強い男」と評しています。
 こうした林蔵による連日の押しかけ問答は、ときに政治・外交問題にまで話が及んだといいます。どうも林蔵はゴローニンたちをロシアのスパイと疑っていたようで、その真意をさぐるために連日押しかけて話題をふっかけていたようにも見えます。ただし、ゴローニンによると険悪な雰囲気ばかりでもなく、林蔵が探検中に使った鍋を獄中に持ち込んでその場で料理を作ってふるまったり、器具を使って米から蒸留酒を作ってロシア人たちに飲ませ、水兵たちから好評を得たという逸話も記されています。まぁそれらも尋問のための手段の一つだったように見えますが…

 結局「ゴローニン事件」は、ロシア側との交渉の末にお互いの捕虜を釈放、交換し、先年の武力攻撃についてロシア側が釈明する形で平和的に解決となるのですが、林蔵は最後までロシア人への警戒を解かず、ゴローニンらの釈放に反対を主張し続けていました。このためゴローニンからは「大敵」とさえ呼ばれていましたが、林蔵はロシアとの戦闘の体験者であったこと、幕府の役人として北方の国境最前線をその足で歩いている人間だけにロシアに強い警戒心・敵対意識を抱いていたのだと思われます。

 この事件後、林蔵は蝦夷地のほぼ全域を数年がかりで探検して回っています。重要な目的は、伊能忠敬がやり残していた蝦夷地沿岸の測量と地図作成で、林蔵は忠敬と文通しつつ(忠敬によると林蔵は「偏人」=変人で、ろくに手紙をよこさず連絡はとりにくかったようですが)忠敬がすでに測量していた蝦夷地南部の補足測量を行ったほか、手つかずのままだった蝦夷地北部や周辺の島々、千島列島の一部の測量を行っています。沿岸部だけでなく石狩川や天塩川をさかのぼって内陸の探検も行っていて、30年ほど後に探検した松浦武四郎(「北海道」の名付け親として有名)はそれら内陸部で「むかし林蔵を案内した」というアイヌ人たちに遭遇して話を聞いています。
 こうした測量作業をほぼ終えて、文化14年(1817)に林蔵は江戸にもどっています。この年の4月に林蔵の父が死去しているので、それに合わせた可能性もあります。そして全国測量を終えて地図作成に励んでいた伊能忠敬のもとをしばしば訪れ、蝦夷地測量のデータを提供し、忠敬の全国地図作成の仕上げに協力しています。この年の秋に忠敬が佐原の娘にあてた手紙の中で「林蔵から卵をもらった」と記しているので、体調を崩していた忠敬を林蔵が気遣っていた様子もうかがえます。
 
 翌文政元年(1818)4月13日、伊能忠敬は亡くなります。林蔵も門人の一人としてその臨終に立ち会いましたが、翌月にはまた蝦夷地探索の任務に戻って江戸を離れています。忠敬と林蔵の測量を元にした『大日本沿海輿地全図』が完成するのは3年後の文政4年(1821)7月のことです。


◆外国船への対応とシーボルト事件

 ちょうど『大日本沿海輿地全図』が完成した年、ロシアとの緊張状態も緩和されたこともあって幕府は蝦夷地の直轄をやめ、松前藩に返還しました。これにともない林蔵が属していたい松前奉行所も廃止となり、林蔵は江戸にもどって勘定奉行に所属する「普請役」となります。今でいうなら財務省所属の調査員ということになりますが、もともと探検・調査をt杭とする林蔵なので、その方面での活躍を期待されての地位だったようです。
 少し間をおいて文政7年(1824)、林蔵は幕府の命を受けて房総半島から東北南部にかけての沿岸の視察・調査を往復で行っています。目的はこの頃急増していた外国船の接近についての実情調査でした。この時期、アメリカやイギリスなどの船が日本近海に数多くやって来て、なかには上陸して補給を求めたり、現地住民とトラブルになるケースも出ていました。こうした外国がらみの調査とくれば林蔵がうってつけ、ということだったのでしょう。なお、良く知られる「異国船打払令」、接近する外航船は大砲でおどして追い払え、という命令を幕府が出すのは翌文政8年(1825)のことです。
 
 こうした外国船のほとんどはクジラをとる船、つまり捕鯨船でした。当時の欧米諸国の捕鯨船は、クジラの体からとれる油、「鯨油」をとることが目的で、石油が実用化されていないこの時代にあって鯨油は貴重な燃料であり、巨大な利益をもたらすものでした。林蔵もそのことをよく承知していました。
 文政9年(1826)8月、林蔵は上司である勘定奉行・遠山景晋(「遠山の金さん」のモデル・景元の父)を通して老中に上申書を提出します。この中で林蔵は「接近する外国船(捕鯨船)は巨利を求めて来るのだから、利には利をもってすれば問題は一挙に解決します」と書き出し、「ロシア北東部やアメリカ属島のあたりにはクジラもたくさんいるし、他の海獣もいるがまだ知られていない。そっちに行けば巨大な利益があるぞと教えてやれば外国船はたちまちそっちへ行くでしょう。幕府の法律に触れることにはなりますが、この私が彼らの船に近づいて話をもちあけてみましょう」という大意の申し出をしたのです。大胆ではあるものの現実的な献策といっていいものだったのですが、さすがに外国船との直接交渉はダメ、ということでこの林蔵の提案は却下されてしまいました。
 このあとも林蔵は沿岸警備に関わり、文政10年(1827)には八丈島など伊豆諸島の視察も行っています。
 
シーボルト さて、林蔵が上記の上申書を老中に提出したのと同じ年、当時すでに日本で有名になっていた外国人が江戸にやって来ます。ドイツ人の医師・博物学者、フィリップ=フランツ=フォン=シーボルトです。シーボルトは日本研究を目的に(学術面だけでなく広義のスパイ活動でもあったようですが)文政6年(1823)にオランダ商館つき医師として長崎にやって来て、その医術で評判をとって長崎に「鳴滝塾」を開いて多くの蘭方医の教育にもあたり、たちまち有名人となってしまいます。このシーボルトが文政9年(1826)3月にオランダ商館長の江戸参府に同行して江戸にやって来ると、蘭学者を中心に多くの学者たちが彼に会おうと押し寄せました。林蔵の大先輩である最上徳内もシーボルトに面会していて、林蔵直筆のカラフトの地図をシーボルトにひそかに渡しています。ただし徳内はこの地図が公表されると問題になるので、書物などでの公表は25年待ってほしいとシーボルトに要求し、シーボルトはそれをきちんと守りました。この地図には徳内自身が「これは間宮林蔵が書いた精緻な地図である」という意味の言葉と共に自身の名をサインしていて、現物はオランダ・ライデンのシーボルト記念館に保存されています。

 徳内との面会を通して、シーボルトも間宮林蔵の名前とカラフト探検について知ることとなります。のちにシーボルトは帰国後に刊行した大著『日本』の中でカラフトが半島ではなく島であることを紹介し、地図中でその海峡に「Str Mamiya (Seto) 1808」と明記しました。「Str Mamiya」は「間宮海峡」、「Seto」は日本語で海峡を意味する「瀬戸」のこと、「1808」は林蔵がこの海峡を最初に確認した年を表しています。同地図では宗谷海峡は「Str de La Pérouse1787」と書いていて、この海峡を1787年に西洋人で初めて通過したラ・ペルーズにちなんだ表現をしており、間宮林蔵についても同じ扱いをしたわけです。
 こうしてシーボルトは林蔵の名を世界に伝えるとともに「間宮海峡」命名のきっかけを作ることになるのですが、この江戸参府の際に林蔵とも少なくとも一度は面会していたことがシーボルトの書簡から判明しているものの、深い親交を持ったというほどのことはなかったようです。その後の「シーボルト事件」の経緯を考えると、林蔵の側ではシーボルトをスパイと疑って(先述のようにあながち外れてはいません)探りを入れにいった、ということだったのかもしれません。

シーボルト「日本」 このときシーボルトに面会した人物の中に幕府の天文方・高橋景保がいました。景保は天文学者・地理学者として当時の日本における最高の地位にあり、伊能忠敬や間宮林蔵の測量をもとにした全国地図の作成の総監督ともいうべき立場にありました。探求心の強い景保が林蔵が探検していないカラフト北東部の海岸地形を正確に知りたいと思っていたところ、シーボルトからロシアの探検家・地理学者クルーゼンシュテルンの『世界周航記』を持参してきたのです。クルーゼンシュテルンはカラフト東部沿岸を探検していて同書にはその正確な地図があったのです(一方でカラフト西部の探検は不十分でカラフトを半島としていましたが)。この本の入手を景保は強く望み、『世界周航記』と引き換えに伊能忠敬による「大日本沿海輿地全図」や蝦夷地方面の地図を引き渡すことをシーボルトに約束します。しかし、こうした詳細な地図は国家の最高機密であり、これを外国人の手に渡すことは国禁に触れる行為でした。景保もシーボルトにあてた手紙の中で「これは極秘事項なのでご他言は無用です」と書いているのでその危険性は自覚していたはずです。

 文政11年(1828)3月、長崎のシーボルトから高橋景保あてに荷物が届きます。その中には間宮林蔵にあてた小包が含まれていて、林蔵はそれを受け取りましたが、自分では開かずに上司の勘定奉行のもとへそれを提出しました。なぜかといえば基本的に当時の日本では外国人との物品のやりとりは禁じられており、幕府の役人である林蔵としてはルールにのっとった行動でした。もちろん個人的にこっそり受け取ることはできたはずですが、もともと外国人に対して用心深い、あるいは警戒心のある林蔵だけにそうはしなかったのでしょう。
 勘定奉行で人々の立ち合いのもとで小包を開いたところ、シーボルトから林蔵にあてたオランダ語の手紙と贈り物の織物が入っていました。手紙の内容は林蔵の北方探検を称えて親交を結びたいと願い、蝦夷地の植物の押し花などを譲ってほしいという内容で、それ自体は特に問題になるようなものではありませんでした。しかし林蔵の提出によって天文方・高橋景保が外国人シーボルトと私的に通信していることが幕府の知るところとなり、景保周辺への調査が始められることとなります。そしてこの年の10月10日に景保は逮捕され、関係者も捕えられることとなります。これが世に言う「シーボルト事件」です。

 この事件で高橋景保は獄死、のちに斬罪の判決を受け、シーボルトは国外追放処分となります。もっともシーボルトは地図類を没収前に素早く模写して持ち帰っており、のちに著書『日本』のなかで伊能忠敬や間宮林蔵の測量による地図を世界に紹介することになります。先にも書きましたが、「マミヤノセト」として間宮海峡の名前を広めたのもシーボルトなのです。
 しかし当時、「シーボルト事件」は間宮林蔵の「密告」によって起こされたものだ、との風聞が学者たちの間で広がっていました。すでに林蔵が単純な探検家ではなく幕府の役人として特に外国との問題で眼を光らせる、当時の言葉で言うと「目付(めつけ)」「横目(よこめ)」などと表現される立場であることは公然のことでしたから、蘭学者の小関三英は後年の書状の中で林蔵がその立場から事件を暴露して景保を捕えさせたのだと書いています。また林蔵と景保が不仲で、林蔵がその私怨から景保を密告した、という見方も強くささやかれたようです。林蔵としてはそこまで言われるのは不本意だったでしょうが、「密告」とまでいかないまでも彼がシーボルトからの荷物を届け出たのが事件発覚の発端に違いない。このことで林蔵は当時はもちろん後年まで「シーボルト事件の密告者」の汚名がついてまわることになります。

 
◆ 「隠密」として大活躍
 
 シーボルト事件発覚の翌年、文政12年(1829)に、林蔵はいきなり長崎に姿を現します。当時の出島オランダ商館長フィッセルが書き記すところによれば、フィッセルのために禁制品の画材を入手しに店にでかけた「日本人の友人」が、店の中で旅人姿の林蔵を目撃して仰天、大慌てでフィッセルのもとにやって来て、林蔵が隠密として長崎に調査に来るという噂があった、彼に関わると多くの人が不幸になる、と言って非常に恐れていた、案の定その友人も罪に問われてしまった、という一件があったそうです。シーボルト事件の翌年だけに長崎でも林蔵の名(悪名といっていい)がとどろいていたらしく、また林蔵もシーボルト事件に絡めての長崎調査だったと思われます。フィッセルは林蔵の長崎入りの目的を長崎でのオランダや中国との貿易を現地奉行がちゃんと管理してるのかどうか調べることにあったと書いています。

 この長崎行きを皮切りに、林蔵の「隠密」としての活動が本格化します。「隠密」というと幕府のスパイ、時代劇で忍者みたいに活動して情報収集しているイメージがありますが、忍者とまではいかなくても林蔵も相当な「スパイ大作戦」を展開しています。江戸時代の「幕藩体制」にあっては地方の大名の領地「藩」は幕府に従っているとはいえ独立国といってよく、その中へ潜入して情報収集を行うのはまさに「スパイ」に他ならず、当然命懸けの特殊活動でした。

 林蔵の隠密活動は数多く、仕事の内容が内容だけに実態不明のところも多いのですが、逸話がいくつか残されています。
 天保3年(1832)ごろ、林蔵は薩摩藩に潜入しています。薩摩藩は関ケ原以来諸藩の中でも特に独立性の強い大藩で、薩摩藩に潜入した多くの隠密が「帰らぬ人」となってしまい、行ったきり帰らぬ人のことを「薩摩飛脚」と呼んだほどです。林蔵はこの危険な薩摩潜入を実行したわけですが、林蔵はまず隣国の者になりすまして薩摩入りし、鹿児島城下の経師(きょうじ。屏風やふすまの修繕をする職人)の弟子となります。そこで仕事をしながら少なくとも一年以上は情報収集を行っています。
 なんで経師の弟子になったかといえば…そう、お分かりですね。ふすまや屏風の修繕といえば武士の屋敷、さらにはお城で仕事をする機会があるからです。あるときついに鹿児島城内に入る機会を得た林蔵は、城内の構造などをしっかり調べ上げてしまいました。
 林蔵が薩摩を離れたあとのことでしょうが、薩摩藩主(誰なのかは不明)が江戸に来た際、幕府の重役から鹿児島城内の構造について正確に聞かされビックリします。どういうわけかと聞くと、幕府の重役は笑って「城のどこそこのふすまをはがしてみなされ」と答えます。藩主が帰国後にさっそく言われたとおりにしてみると、ふすまの間に一枚の名刺がはさまってえいる。名刺には「大府(幕府のこと)探偵間宮某」と書かれていた…という逸話を水戸出身で明治まで活動した漢学者の小宮山南梁という人が書いているのですが、ちと面白すぎる話なので全面的には信用しかねます。ただ林蔵は藤田東湖を通じて水戸藩主・徳川斉昭と交流があり、水戸藩とは縁が深かったのは事実で、小宮山は間接的に薩摩潜入ばなしを聞いていた可能性はあります。

 林蔵の薩摩潜入の主たる目的は城の構造調査などではなく、薩摩藩公然の秘密である密貿易の調査にあったと思われます。薩摩へ向かう途中も北陸から山陰など各地を回っていた林蔵は日本海側での密貿易の情報をキャッチします。石見国・浜田藩(島根県浜田市)において、朝鮮近海の「竹島」に渡っての密貿易が行われている、という情報でした。
 天保元年(1830)ごろから、浜田藩の御用商人・会津屋八右衛門は当時日本で「竹島」と呼ばれていた現在の鬱陵島(ウルルンド)に渡って朝鮮、さらには清の人々と密貿易を行っていました。この密貿易はどんどん拡大し、南洋方面(東南アジア)まで広がったと伝わります。その利益は莫大で、浜田藩の幹部はこの密貿易を黙認、というより実質自ら関わって利益をあげ財政立て直しの材料にもしていました。浜田藩の藩主・松平康任は幕府の老中もつとめていたため、藩ぐるみの密貿易をしていてもそうそうバレない、あるいは強制捜査が行われにくい状況であったと思われます。

 林蔵は浜田藩にやって来たとき、外国産としか思えない木材を見かけたことから密貿易をかぎつけたと言われています。そして薩摩での隠密活動を終えた天保6年(1835)ごろに林蔵は浜田藩に入り、顔を汚しボロをまとって乞食に変装し、情報収集を行っています。乞食に変装しての情報収集なんてそれこそ時代劇みたいですが事実であったようで、あの渡辺崋山が聞いた話として書いているほか、林蔵自身もその体験を語っています。林蔵によると乞食に変装していても資金はいろいろと必要なので百両ほど隠し持つことにしていましたが、そんな大金を持ってる乞食もヘンなので古布にくるんで腰に巻き付けて隠していましたが物に当たって「ガタリ」と音をたててしまうので、大変気を使ったそうです。
 こうした苦労の末に密貿易の確証を得た林蔵は大阪町奉行の矢部定謙に連絡をとります。矢部自身も密偵を送ってさらなる調査をすすめ、翌天保7年(1836)6月についに事件を暴露し、会津屋らの逮捕に踏み切ります。この年の暮れに判決が下り、会津屋は斬罪、国家老らは切腹、藩主・松平康任も永年蟄居(永久謹慎処分)となりました。この密貿易事件を「竹島事件」といい、間宮林蔵の「功績」のひとつとされています。
 
 竹島事件が発覚した年、林蔵はまたまた隠密の旅に出て、三年ほど消息が知れなくなります。隠密活動だけに幕府の林蔵の上司でもその消息を知ることは難しかったようです。どこに行ったのかは分かりませんが、やはり密貿易など外国がらみの関係の調査に出かけていたものと推測されます。ようやく江戸にもどってきたのは文化9年(1838)のことで、林蔵はこの年すでに数えで59歳となっていました。この年まで現役の隠密であったことにも驚かされますが、さすがに体力の限界が来ていたようで、この年に林蔵は病床に臥せって、水戸藩の藤田東湖の見舞いを受けています。


◆静かなる晩年

 水戸藩の藤田東湖だけでなく、林蔵は当時の有名な学者や文化人たちの多くと交流がありました。特に林蔵の上司である勘定奉行の川路聖謨(かわじ・としあきら)は幕府にあって開明的・海外通の官僚で、林蔵のことを高く評価して「先生」と呼ぶほどで(川路は林蔵より二十歳ほど年下)、川路は自分の知人の中で林蔵と渡辺崋山の二人を奇才としてセットで賞賛していました。この川路を接点にして江川英龍や崋山ほか当時の蘭学者たちとも交流を持ったようです。
 もっともそうした蘭学者の一人である小関三英は兄にあてた手紙の中で「間宮林蔵が蘭学者たちを次々訪問しているが、これは地図などをひそかに所持していないか探っているのではないか。オランダの書物などがあったら隠しておいてほしい」などと書いているように、シーボルト事件の時のこともあるので林蔵を警戒する声があったのも事実です。

 林蔵は江戸・深川に家がありましたが、隠密生活のためにしばしば留守にしていました。文政9年に彼の家を訪ねた人の証言によると、林蔵の部屋の中は地図に埋もれていて、天球技と地球儀があるばかりで、それ以外はいたって質素な生活ぶりであったといいます。
 危険な隠密活動の報酬としてけっこう高給取りでしたから貧乏ではなかったのですが、着るものなどは一そろいしかなく、ファッションには無頓着。その一方で甲冑をコレクションする趣味があったり、ロシアやフランスの洋酒も集めていて、訪問者にふるまうという面もありました。

 知人の家にふらりとやって来ては夜まで語り明かし、夜遅くなると布団一枚を借りて部屋の隅で眠り、夏でも蚊帳を吊らず、冬でも火鉢を使わず、目を覚ますと時間を問わずさっさと自宅へ帰ってゆく。そんな仙人のような、悠々自適の生活をしていた、という話もあります。健康には気を使っていて、足がやわになってはいけないと夏は裸足で過ごし、体に害があるといって酢を料理に使わないという習慣も持っていました。

 そんな林蔵を高く評価していた川路ら上司たちは、林蔵の「跡継ぎ」の世話をしようとしました。つまり武士身分となった林蔵の「間宮家」を誰かに継がせ家を存続させようとしたわけです。しかし林蔵はこれを断っています。彼には息子はいませんでした。それなら親戚かあ養子をとって、という手もあるのですが、林蔵自身は「私はもともと百姓の生まれで、危険な任務も自分の力で切り抜けてきましたが、仮に息子がいても私の真似はできますまい。子孫の栄華など望みません」と言ったそうです(この話を記しているのが渡辺崋山だったりする)。結局、林蔵の思いとは別に彼の死後、林蔵の養子が立てられ士分の間宮家を引き継ぐことになるのですが。

 林蔵には息子どころか妻もなかった――とする当時の証言もあります。なにせ若い頃から探検や隠密ばかりして家に落ち着いてませんからね。ただ、郷里にある林蔵の墓に彼の妻とおぼしき女性の命日が彫られていることから、あるいは実家では林蔵の嫁をとっていて、実際の夫婦生活はほとんどなかった、という可能性もあります。
 また晩年には林蔵の家に女性が住み込んでいたことは確実です。その名は「りき」といい、自らの書状で「間宮内」と書いていることから、いわゆる「内妻」のようですが、「林蔵の家には雇婆(やといばば)がいるだけ」と書いている史料もあって、彼女が「妻」といえるほどの女性だったのか疑問もあります。伊能忠敬が実家にあてた書状のなかで同じ「りき」という名の女中の存在が書かれているので、あるいはその女性が伊能家からの紹介で晩年の林蔵の身の回りの世話をしていた、ということかもしれません。

 天保15年=弘化元年(1844)2月19日、その「りき」の書状をたずさえた使者が、林蔵の郷里の親戚・飯沼甚兵衛のもとを訪れました。この「りき」の書状は現存しており、その内容は「今日の七つ半時(午後5時)ごろに林蔵が急に倒れ、容態が悪いのでいろいろ手を尽くしたが回復する様子もなく非常に困っております。なにとぞこの手紙が届きましたら、すぐにこの者と一緒においでくさだい。お待ちしております。(…以下略…)二月十九日暮六つ(午後6時) 間宮内 利き」というものでした。急を知った甚兵衛らはただちに江戸・深川の林蔵宅へ駆けつけました。

 林蔵の容態は回復することなく、林蔵が倒れて「りき」が急報を出したその日から七日後の2月26日に林蔵は息を引き取りました。数えでは65歳の生涯でした(安永4年生まれ説だと70歳)
 林蔵の墓は二つ存在します。一つは深川の住まいの近く、現在の東京都江東区・本立院にあり、その旧墓地内に「間宮倫宗蕪崇之墓」と彫られた林蔵の墓だけが街中にポツンと残されています。現在はありませんが、関東大震災前まではそのそばに「りき」の墓と思われるものも残っていたそうです。
 もう一つは故郷の常陸国筑波郡上平柳村、現在のつくばみらい市の専称寺にあるもので、こちらは「間宮林蔵之墓」と彫られています。もっともこちらの墓は林蔵がまだ若く北方探検をしていていつ旅先で死ぬか分からないので、生前に立てておいたよと伝わるものです。林蔵の遺骨は分骨され二つの墓にそれぞれ納められてるそうですが、遺骨の大半が片方に、もう一方には歯だけという伝承を両方が持っていたりします。まぁ深川のほうの墓に遺骨があったという記録もあるそうなので、おもに骨はそっちにあるのではないかと。隠密といえども「死して屍拾う者なし」なんてことにはならなかったんだから幸運な方でしょう。

林蔵郷里の墓
深川の林蔵墓
郷里・つくばみらい市専称寺の墓。後世建てられた大きな記念碑の裏手にひっそりとあり、左側が林蔵墓で右は両親の墓。生前に立てたため命日が刻まれていない。側面に女性二人の命日が彫られていて、これが林蔵の「妻」ではないかとの推測がある。
江東区・深川にある林蔵の墓。かつて墓地の中にあったが現在は墓地が移転して林蔵の墓だけがぽつんと街中にある。


リンゾーくん 林蔵の死後、上司の勘定奉行たちが林蔵の遺志とは別に気を利かして、林蔵の死を隠したまま養子をとる手続きをしました(この時代、死後の養子相続は原則禁じられているため)。林蔵の功績が多大なものであるから、ということで老中がこれを許可し、どういう縁があったか分からないのですが札差(武士相手の金融業)の青柳家の次男・鉄次郎という少年が士分の間宮家を相続、間宮孝順と名乗りました。林蔵は生前に「自分の真似ができる息子はない」と言ってましたが、この間宮孝順は養子ながら林蔵の仕事を受けつぎ、カラフト探検を行ったり箱館奉行に属して蝦夷地での任務についたりして、明治の半ばまで生きています。郷里の百姓の間宮家の方は林蔵の叔父の子、つまり従兄弟の鉄三郎が継いで現在まで続いていて、林蔵の墓のある専称寺や移築された林蔵生家と資料館のある地域周辺は「間宮」姓の方が多く住んでいます。

 また近年になって浮上してきたものですが、林蔵が石狩川をさかのぼるなど蝦夷地内を探検して回っているうちにアイヌ人女性と結ばれ、娘をもうけていたという話があります。この娘の子孫が明治になって姓を名乗ることになった際、「間見谷(まみや)」と名乗っています。その子孫は現在もいて、林蔵の子孫であるという伝承を受け継いでいます。完全に裏付けがとれるものかは分かりませんが、本当だとすれば林蔵の血を受け継いだ子孫が今もいるということになるのです。


 林蔵の名はその生前から、まずゴローニンの『日本幽囚記』で、それからシーボルトの『日本』で世界的に知られるようになります。カラフトを半島と判断していたクルーゼンシュテルンはシーボルトから文献と地図でカラフトが島であり、大陸との間を「間宮海峡」と命名していることを聞かされて「日本人は私を負かした!(Les Japonais m'ont Vaincu!)」とフランス語で叫んだ、とシーボルト自身が書いています。

 ただ海峡の存在が広く知られたというわけでもないようで、シーボルトが最上徳内から渡された蝦夷地・樺太の詳細地図の公表を徳内との約束で1851年まで控えていたこともあり、世界の海図で海峡が明示されるのはだいぶ遅れました。ロシア側もこの海峡の存在をしばらく知らず、1849年にネヴェルスコイの探検で海峡を「発見」、1855年にクリミア戦争の余波でイギリス艦隊がロシア艦隊をこの海域に追い込んだ際、イギリス側は海峡の存在を知らなかったためにロシア艦隊にまんまと逃げられる、という事件があって、ようやく海峡の存在が世界的に知られたという流れです。1881年にフランスのルクリュが刊行した『万国全図』でようやく「間宮海峡」の名が明記されることになりましたが、今日では世界的には「タタール海峡(韃靼海峡)」と呼ぶのが一般的で、「間宮海峡」の名はほぼ日本人だけが使っている、というのが実態です。よく林蔵について「世界地図に名前が載った唯一の日本人」と言われちゃうことがありますが、現実にはそんなところということで。

 もちろん、だからといって彼の探検の評価が下がるわけでもありません。手柄への意欲は人一倍強い人だったようですが自分の名前を地図に残そうなんて意識はなかったと思うんですね。探検にしても隠密活動にしても他の人にはできそうもないミッション・インポッシブルな「お仕事」を次々とこなしてしまう「仕事人」ぶりに彼の最大の凄さがあるように僕は思います。
 


(2019/7/14)
次回は「ね」から始まる人物です。お楽しみに。

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