ニュースな
2001年6月18日

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 ◆今週の記事

◆モーツァルト、トン死の真相?
 
 ウォルフガング=アマデウス=モーツァルトの名前は、少なくとも名前ぐらいは誰もがご存じだろう。作曲者の名前を知らなくても必ずその曲を一曲か二曲ぐらいは耳にしたことがあるはず。かの物理学者アインシュタインは「死とは何か」と聞かれて「モーツァルトが聞けなくなることだ」と答えたぐらいで、モーツァルトの生みだした音楽が世界に与えた影響は計り知れないものがある。僕個人の話になるが、ちょうど漫画を本格的にインクとペンで描きだした時期に小学校の音楽の時間に「アイネクライネナハトムジーク」をやたらに聞かされたために、この曲を聴くと条件反射で漫画を描きたくなると言う恐るべき刷り込みを残してしまった(笑)。ま、そんな個人的理由でもこの作曲家の凄さを思い知っているわけだ。

 モーツァルトは典型的な「天才」と言われる。わずか4才で最初の本格的な作曲を行って7才でシンフォニー、12才でオペラを書き、各地の王侯貴族の前で演奏を披露し「神童」ともてはやされ、「神童も大人になればただの人」という法則が全く当てはまらずにその才能を晩年まで発揮し続けた。その代わり「天才の早死に」という法則の典型的な例とはなってしまった。1791年12月5日にモーツァルトは35才の若さで急死している。年代見ればお分かりのように、ちょうどフランス革命が起きた少しあとという時期だ。
 このモーツァルトの急死が、実は彼の才能をねたんだ宮廷作曲家のサリエリによる毒殺だったのでは、という疑惑(サリエリは晩年実際にそう告白したことがあるといい、ベートーヴェンもそれを記しているそうで)をテーマにしたのがピーター=シェーファーの名作戯曲「アマデウス」。僕はミロス=フォアマン監督による映画版(1984年度米アカデミー作品賞)を観ているだけだが、まぁとにかく良くできたお話なんですよね。このドラマにおけるモーツァルトは下品で無礼で遊び人の若造だが神から与えられたとしか思えない天才に恵まれている。これにサリエリがその才能を誰よりも理解しつつ嫉妬するわけだ。「神はあの下品な男に天才を与え、私にはそれを理解するだけの才能しか与えてくださらなかった」と怨んだサリエリは神への復讐としてモーツァルトを殺すための計画を綿密に進めていく。未見の方のためにこれ以上は書かないが、あそこに出てくる「レクイエム」の作曲を依頼に来る謎の男の話は実際に元ネタがあり、モーツァルトの死はけっこうミステリーなんだとは承知しておいてもらいたい。だいたい遺体もどこに埋められたんだか分からないんだから…。

ネタが分からない人は「アマデウス」観てね で、本題。このモーツァルトの死について新説が発表されたのだ。なんとモーツァルトを殺したのは「トンカツ」だったというのだ!
 言い出したのは感染症の専門家であるアメリカはシアトルにあるピュージェットサウンド退役軍人医療センターに勤めるジャン=ハーシュマン博士。11日付けのアメリカの内科学会誌に8ページにわたって掲載されるとのことだが、そのなかで博士はモーツァルトの死に至る症状が、良く火を通さない豚肉を食べてかかる寄生虫症・旋毛虫症に酷似していると指摘しているそうで。また文献的証拠として彼が死の44日前に妻のコンスタンツェに送った手紙を挙げられている。なんでもその手紙には「何の匂いだろう? …ポークカツレツだ! 何ておいしそうなんだろう。君の健康を祝して食べよう」(CNN日本語版サイトの翻訳を拝借)という一節があるんだそうで、ちょうど旋毛虫症の潜伏期間は50日以内であることから、この手紙を書いたときに食べたトンカツが恐らくよく火が通ってなくてモーツァルトを死に追い込む結果になったという推理をしたわけだ。ま、その正否はともかく先週のナポレオンと言い、世の人は歴史ミステリネタが大好きですねぇ。
 
 「死とは、トンカツが食えなくなることである」(byモーツァルト)(←もちろんウソ)



◆「国共合作」の同窓会
 
 中国・新華社が6月9日付で報じたところによると、北京で黄埔軍官学校の創立77周年(ハンパな数だな。ラッキー7?)の記念式典が開かれたそうな。開催は中国側の「黄埔軍校同学会」と台湾側の「台湾中華四海同心会」という二つの同窓会の合同という形。もちろん北京で行われたわけだから中国側の意向がかなり強くはたらいているのは否めないだろうけどさ。この同窓会には中国・台湾の同校卒業生とその親族60人あまりが参加したという。

 さて、77年前に創立されたという、この「黄埔軍官学校」って何なのかご存じだろうか。創立した人は誰かといえば、あの「中国革命の父」、孫文その人である。校長はその後継者となった蒋介石。政治部主任としては周恩来が入っていた。この「軍官学校」とはその名の通り軍人を養成するための学校なのだが、1924年というその創立時期に歴史的な意味がある。
 辛亥革命を成し遂げ清朝を倒した孫文だが、そのために清朝の軍人・袁世凱に「中華民国」の総統の地位を譲ってしまった。袁世凱はやがて独裁をほしいままにして皇帝の地位を狙い、孫文らを弾圧するようになる。孫文らは再び革命を起こすべく広東に拠点を構え、ここでこの「黄埔軍官学校」を創立し人材の要請を図ったわけだ。このとき孫文ら国民党はもう一つの革命勢力である中国共産党と手を組み(第一次国共合作)、この軍官学校に共産党系の人材も入学することになった。一時ここにベトナム共産党のホー=チ=ミンが入学していたこともあるという。

 孫文の死後、国民党を引き継いだ蒋介石は中国統一をめざして「北伐」を開始するが、上海クーデターから共産党との縁を切り、これとの内戦を開始した。その後「西安事件」で再び共産党との連合が成立し(第二次国共合作)、ともに日本軍と戦ったが、日本降伏後ふたたび内戦に突入。結局大陸は共産党が制覇し国民党は台湾に逃れて現在に至っているわけ。その国民党もついに昨年政権を失陥したわけだが…。
 今回の同窓会はこうした現代史の経緯で大陸・台湾に生き別れとなった「黄埔軍官学校」の卒業生達による初の合同同窓会ということになる。さすがに全員お年を召しており、中国側の「黄埔軍校同学会」の会長の李黙庵さん(同校の一期生だそうで)なんて御年97才。この李黙庵さんはこの同窓会に出席こそしなかったものの祝電を送っている。この内容がまたふるってるんだよな。
「内外の黄埔校友は孫中山先生(もちろん孫文のこと)の遺訓を忘れず、国家統一と民族独立のために身を捨てた黄埔の英雄たちのことを忘れず、祖国の平和統一と民族の振興のために職責を尽くし、努力奮闘せよ」
 この電文にも現れているが、このイベントでは盛んに「一つの中国」「台湾独立阻止」が強く叫ばれた。当然国民党から台湾政権の座を奪った、独立派とみなされる陳水偏総統あたりをかなり意識したものだ。ちかごろ「第三次国共合作」なんて言葉もチラホラするぐらいで、このイベントもかなり政治的な意味合いの濃い同窓会だと言えるだろう。

 このあと台湾から来たグループは南京にある孫文の墓「中山陵」に詣でたとのこと。僕も数年前ここに行ったんだよなぁ。恐らく20世紀の人間のものとしては世界最大のお墓だろう。詳しくは「月日は百代の過客」コーナーでね(長い間ストップしているが、ぼちぼち更新しようという気もあるので)



◆それでも中台は世界で競う
 
   さて、続いても中台関係ネタなんだけど、思わぬ舞台から話は始まる。近ごろ話題の東欧・マケドニアだ。
 マケドニアと言えばもとユーゴスラヴィア連邦の一国で今は独立しているが、この辺の国のご多分にもれず民族構成は単純ではなく、例のコソボ自治州との国境付近にアルバニア系の住民も多い。コソボではユーゴスラヴィアというよりセルビアからの分離独立を図るアルバニア系武装勢力が暴れているのは以前からよくネタにしているとおりだが、今年から国境を越えてマケドニア領内にまで武装勢力が出入りし始め、これを鎮圧しようとするマケドニア政府軍と戦闘を繰り広げ、またまた多くの難民を生みだしている。ホントにえーかげんにせーよ、と言いたくなる展開なのであるが。

 面白いことに(面白がっちゃいけませんが)このマケドニア「内戦」の陰で中国と台湾の外交的暗闘があったのだ。6月12日、マケドニア政府がそれまで外交関係を結んでいた台湾との国交を断絶し中国と国交を結ぶことを決定した、との報道が流れた。すでにこの動きは先月ぐらいから噂に上っており、台湾政府は先月末に外交部長(外相)をマケドニアに派遣してマケドニア政府に断交阻止を働きかけたがゲオルギエフスキ首相から「国内の反乱に対処するため中国の支持が必要」と突っぱねられてしまったという(「毎日新聞」の記事による)
 はて、なんで国内の「反乱」に対処するために中国と国交を結ばねばならないのだろうか?ここで思いだそう。中国は国連安保理の常任理事国であり「拒否権」をもつ五大国の一つであるということを。マケドニアのユーゴ国境地帯には「国連予防展開軍」なるものが駐留し、ユーゴスラヴィアの紛争が飛び火しないように見張っていたわけだが、この軍隊の駐留延長を中国が拒否権を発動して阻止してしまったのだ。そのため予防展開軍は国境付近から撤退し、アルバニア系武装組織の越境を許す結果になった側面があるのだ(あくまで側面で、これだけが原因とはいえないけど)。早い話が、台湾と国交を結んでいるマケドニアに対し中国が嫌がらせをしたわけですな。中国のご機嫌をとらないと国連の有効支援を得られない悟ったマケドニアは、国交を台湾から中国に切り替えることにしたわけだ。

 さて、今度はなんでマケドニアなんて国が台湾と国交を結んでいたのか考えてみよう。かつては中国を代表する正統政府として国連の五大国の一つだった台湾だが(今から思うとかなり無理があったな)、アメリカが「乗り換え」たために1971年に国連を追われた。そのため台湾と正式に国交を持つ国は大国・先進国ではほとんど無くなってしまい、いまや28カ国(マケドニア断交によりこの数になる)しか存在しない。その28カ国の内訳だが、中南米に14カ国(つい先日、陳総統がこの諸国を歴訪していた)、アフリカに8カ国、オセアニアに5カ国、ヨーロッパに1カ国(バチカン市国)となっている。
 バチカンは特殊な宗教国家だから脇に置いておくとして(ここも近々乗り換えるって噂もあるけど)、他の諸国は明かな共通項がある。そう、いずれも発展途上の貧乏国なのだ。実は台湾はその経済力を武器に積極的にこうした貧乏国に投資・援助して、その見返りに外交関係を結んでもらうという作戦を世界各地でとっているのだ。1999年には財政難のパプアニューギニアが資金援助につられて台湾と外交関係を結び、中国の圧力で二週間で撤回させられたこともある。最近だと昨年内戦騒動が起こったソロモン諸島との外交関係をめぐってやはり中台が争っている。
 マケドニアもそうしたケースで、ユーゴから独立したものの財政的に苦しいのに目をつけた台湾が経済援助をエサに外交関係を樹立したのだった。まぁこうしてみるとどっちもどっちと言うか。
 



◆世界最古の漆製品?
 
 漆(うるし)製品といえば日本の代表的な伝統工芸品だ。陶器は「チャイナ」、磁器は「コリア」、漆器は「ジャパン」というぐらいで。漆塗りからの発想で樹脂製のラッカーで塗装することを「ジャパニング」などと言うこともあるそうな。別に漆器が日本だけの専売特許というわけではないのだが、17,18世紀ごろから日本漆器の優秀さがヨーロッパで高く評価されたことがこうしたネーミングの由来となっている。
 漆器というのはウルシの樹液を木製品に塗って金属製品のような光沢を与えたものだが、当然ながらウルシの木が生息する東アジア地域(一部東南アジアも)にしかない工芸だ。これがいつどこで始まったのかについてはこれまでにもいろいろと議論があったらしい。我が家の百科事典(1968年版)をあたってみたらとりあえず中国の河南省から古いものが出ていること、東周時代の高度な工芸品が出てくることなどが書かれており、日本では青森県の縄文時代の遺跡から漆製品が出てくるのでこれまたかなり古くから作られていたようだとの話が載せられていた。なお文献的というか伝説上の最古のものとしてはあの倭建命(やまとたけるのみこと)が漆器を作らせたなんて話が紹介されていて、日本神話マニア(?)としては興味深いところだった。

 そんな記述から数十年、いろいろと発見はあったようで中国は長江河口域から7000年前の漆製品が発見され、これが現時点での最古の漆製品とされていた。そして今度は日本の北海道からこれをさらに2000年さかのぼる漆製品が発見されちゃったのであった。
 発掘されたのは北海道南茅部町垣ノ島B遺跡。同町教育委員会が発表したところによると、ここで発掘された墓の頭部遺体層の土(つまり骨は溶けて無くなっちゃってるわけ)とそこにあった漆片を、アメリカの研究機関に送り、炭素14年代測定をやってもらったところ、9000年前の縄文早期のものと判定されたのだそうだ。漆片は糸状のものに漆を塗った装飾品のものではなかったかと考えられているらしい。糸状のものに漆を塗るというのはかなりの技術であることから、さらに使用起源は遡るのではないかという研究者のコメントも出ていたな。

 土器も日本の東北地方から見つかったものが現時点で見つかっている世界最古のものであり、この頃の日本の東北・北海道地方ってなかなかに画期的な技術を持っていたんだなぁと改めて思わされる発見だ。もちろんホントにそんなに古いのかという疑問はつきまとうけどね(土器のほうも同様)。世界中どの人間も能力に差があるわけはないので条件さえそろえばいろいろと工夫を思いつくってことなんだろう。北海道ってことはやっぱりアイヌ人の祖先なのかとかいろいろと想像が膨らむ話ではある。


2001/6/18記

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