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2002年10月19日

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 ◆今週の記事

◆ネパール関連あれこれ

 ネパールといえば、昨年6月始めに起こった「国王一家皆殺し事件」が記憶に新しい。ビレンドラ国王から王妃・王女・親族など8名が王宮内で射殺され、しかもその犯人がディベンドラ皇太子その人であったというショッキングな事件だった。そのディベンドラ皇太子自身も自らの頭部を撃って自殺を図り、意識不明のうちに王位継承してそのまま亡くなってしまい、ビレンドラ国王の弟のギャネンドラ王子が新国王に即位するという展開になった。このギャネンドラという人があまり国民の評判のよくない守旧派であり、このギャネンドラさんの息子のパラス王子が現場にいながら無事だったことなどから、「ギャネンドラによる謀略説」までがささやかれたものだ(2001年6月11日付「史点」参照)
 その後この事件に関してはこれといった続報もなく、一年以上が経過した。ネパールから入ってくる話題と言えば「毛沢東主義派」のゲリラ軍がどこを襲撃した、あるいは政府軍がゲリラを掃討したという話ばかりで国王関係の話は少なくとも日本にはほとんど伝わってこなかった。それがここに来てチラホラと新情報が伝わってきた。それもあまり聞こえのよくない話題ばかりだ。

 10月4日、ネパールで政変が発生した。仕掛け人はほかならぬギャネンドラ国王本人。国王が突然強権を発動してデウバ 首相はじめ閣僚全員を解任、内閣を一時凍結して国王自らによる直接統治に乗り出したのだ。ネパールという国は現在のところ日本とよく似た立憲君主制、議会制民主主義の憲法を持っているが、こうなったのは1990年とつい最近のことで国王の政治介入の傾向がもともと強い国だったせいか、今回の国王の強権発動については容認する意見も多いらしい。デウバ政権は毛派ゲリラの掃討に実が挙がらず、汚職の進行も放置していたとされ、保守系マスコミや経済界では今回の国王の首相解任を評価する声が実際に高いようだ。その一方で弁護士やジャーナリストの協会は国王の行動を「憲法違反」と非難し、各政党も「立憲君主制・議会政党政治の弱体につながる」と非難している。ギャネンドラ国王は兄のビレンドラ国王と違って民主化に反対の意向を持っていたと言われているだけに警戒する声が出るのも無理の無いところ。
 そうした世論の動向をにらんでのことだろう、翌5日になってギャネンドラ国王はデウバ政権の閣僚で公共事業発注に絡んだ汚職の容疑があがっていた建設相および情報通信相を自宅軟禁に、そのほか内相をはじめとする元閣僚4人を監視下に置いたと言う。そしてこの日のうちに新内閣の発足をはかると当初発表していたのだが、結局これは紆余曲折の末11日にまでずれ込んだ。
 11日にロケンドラ=バハドル=チャンド元首相(63)が国王から新首相に任命され、国王が首相に対し「和平と秩序の再建、総選挙の実施に全力を挙げるように」と要請した、と発表された。しかし総選挙がいつ実施されるのか今のところ全く不透明という状況である。

 以下はこの間に集まってきたネパールがらみの周辺ばなし。
 時間をさかのぼって9月の1日。ベルギーのマルタ=アルブット消費者保護・保健・環境相が政府への不満をぶつける形で辞任した。この辞任がどうネパールにからむかといえば、ベルギーの南部、フランス語圏の地域政府が所有する自動小銃5500丁がネパールに売却されることが同国北部のオランダ語圏系のマスコミにすっぱ抜かれて国論を二分する論争に発展しており、連立与党(6党の連立だそうで)の中でも意見の対立が起こり、その結果のアルブット氏の辞任だったというわけだ。
 ややこしい話になってきたが、ベルギーの法律では紛争地域への武器輸出を「紛争を悪化させる」という理由で禁止している。現在ほとんど内戦とも思える状態のネパールへの武器売却はこの法律に抵触するとの見方が北部オランダ語圏や環境団体を中心に強いわけだ。しかし武器を売却する当事者の南部フランス語圏では「ネパール政府がテロリストと戦うのを援助するのであり、倫理的に正しい」と主張する政治家等がおり、当初秘密だった売却先をネパールと暴露したのが北部系のマスコミだったこともあって、話は法律論からベルギー国内の南北対立にまで火をつける形になっちまっているのだそうだ。
 ベルギーでは北部のオランダ語圏(フランドル地方)が経済的に豊かで、南部が経済的に低迷しているという状態だそうで(まさに「南北問題」である)、もともと言語的な対立がある素地も手伝ってともすればこんなことから対立が露呈してしまうものらしい。

 もう一つ。こちらは歴史関連。
 ちょうど政変騒ぎで揺れていた10月8日にネパール国営英字紙「ライジング・ネパール」が伝えたネタだが、1940年にあのヒトラーが当時のネパール国王(ギャネンドラ国王の祖父) に送ったメルセデス・ベンツ1939年型1台が、ネパールの工科大学構内にボロボロの状態で放置されているとのこと。世界に三台しか残っていない貴重な車だそうなのだが、修理費が捻出できずそのまんまになってるとのこと。なんでまたヒトラーがネパール国王にベンツなんか贈ったのか理由は不明だそうだが、当時の国王は喜んで乗り回していたらしい。なお、これが同国に初めて導入された自動車だったとのことだ。



◆今年もノーベル賞の季節

 結局毎年この時期にはノーベル賞の話題を書いている気がする。もちろん理系の話はとんとわからないのでもっぱら平和賞関係の話ばかりだけど。
 日本では化学賞を受賞した「サラリーマン研究者」の田中耕一さんが、すっかり「時の人」になってしまった。今や「タマちゃん」に代わる国民的「癒し系」アイドルという観さえある(笑)。などと他に話題が移りそうになるとタマちゃんが姿を現すというパターンが続いているのは果たして偶然なのか(笑)。

 物議を醸すことも多いが、なんだかんだで注目されちゃうノーベル平和賞。一時「ブッシュ大統領」という悪い冗談としか思えない下馬評も流れたそうだが、「そこまでノーベル委員会はイカれていない」というコメントが委員から出ておりましたな(笑)。蓋を開ければ受賞者は元アメリカ大統領のカーター氏だった。その名を聞いたとき、多くの人が「ブッシュ政権に対する批判だな」ととったのも無理は無いところ。実際、ノーベル委員会のベルゲ委員長に対し記者から「これはブッシュ政権に対する平手打ちか」との質問が飛んだら同委員長は「そうだ」とあっさり答えていたそうで。これにはブッシュ政権のバウチャー国務省報道官も「そういう議論に参加したくないし、そのように受け止めていない」とコメントしてむくれていた。もちろんカーター元大統領が受賞したこと自体については高く評価し、祝福してはいる。

 カーター氏がアメリカ合衆国大統領を務めたのは1977年から1981年にかけて。前任者の共和党・フォード大統領がさらに前のニクソン 大統領の「ウォーターゲート事件」による辞任を受けて副大統領から昇格して引き継ぐなど余り印象がよくない中、カーター氏は民主党から清新なイメージを引っさげて登場、当選を果たし、「人権外交」と呼ばれる独特の外交政策を展開した。この「人権外交」というやつ、言ってみればアメリカがその国是に掲げる「人権」を守っているかどうかを基準に各国との付き合い方を決めるものだが、今のブッシュさんみたいに「軍事力による政権打倒も辞さず」なんて無茶なものではなく、基本的には経済援助を駆け引きの道具にして展開された。例えば南アフリカのアパルトヘイト政策などに対してはかなり厳しく当たったりもしていたという。
 また原則的にカーター外交は「平和外交」で、その最大の成果とされるのが1978年にエジプトとイスラエルが国交正常化を決めた「キャンプ・デービット合意」成立を仲介したこと。この合意によりイスラエルのベギンとエジプトのサダトの二人が平和賞ダブル受賞を決めたが(平和賞受賞者のリストを見ると、この手の「和平によるダブル受賞」のパターンは結構多い)、サダトは間もなく暗殺の悲劇に見舞われることとなった。それでも以後なんとかエジプトはアラブ諸国内の穏健派として中東情勢の歯止め役のような役割を担うこととなる。
 こちらでは成果を挙げたカーターさんだったが、1979年にイランでイスラム革命が勃発、アメリカが後押ししていたパフレヴィー王朝が打倒され、テヘランのアメリカ大使館も占拠されて大使館員が人質にとられるという事態になってしまう。カーターさんはあれこれ悩んだ末に特殊部隊による人質奪還作戦を敢行したが、これが大失敗。結局この失敗がカーターさんが大統領選で共和党レーガンに敗れて一期で身を引くことにつながったと言われている。

 しかしカーター氏の本領発揮(?)は大統領を辞めたあとだった。レーガン、ブッシュ と12年続いた共和党政権は「強いアメリカ」をブチ上げ、またタイミングよくソ連など社会主義圏が崩壊して冷戦に勝利したが、その代わり今度は世界各地で民族・宗教が絡んだ地域紛争が頻発することとなる。こうした1990年以後の情勢の中でカーター氏は自ら「カーター・センター」を設立し、各地の紛争調停や途上国の衛生問題、人権や民主化促進の運動を進めていく。特に1994年に核疑惑問題で揺れていた北朝鮮に乗り込み、金日成主席と会談して危機を回避したことはこの人の名前を多くの人に思い出させた(実際、ご本人も受賞後のコメントでこの北朝鮮訪問を一番印象に残っていると語っていた)。このとき韓国の金永三大統領と南北首謀会談が実現する手はずになったが、直後に金日成が死去したためお流れになっちゃった、なんて展開もあったな。ただつい先日になって北朝鮮がその後も核開発をしていたことが判明したのでこの「お手柄」にややケチがつくことにもなっている。、
 これを皮切りにカーターさんはやたらあちこちに姿を現すことになる。ハイチに乗り込んで軍事政権と話し合いをつけたり、泥沼状態のボスニア・ヘルツェゴビナに入って和平仲介をしたり、ルワンダ・ウガンダ・ザイールといったアフリカ諸国で調停活動をしたり。そして今年5月にはキューバ危機(1962)以来アメリカとは断絶状態にあるキューバ(工作船こそ送ってこないがアメリカにとっては日本にとっての北朝鮮的存在と言える)を訪問、相変わらずキューバに対して経済封鎖を続けるアメリカ政府を批判する演説を行い、ブッシュ政権の怒りを買ってもいた。不確かな記憶なのだが、イラク攻撃に対しても批判的な発言をしていた覚えがある。
 そんなところへ今回の平和賞受賞である。こうした経緯を知っている誰もが「ブッシュ政権へのあてつけ」と受け取ったのも無理からぬところであるわけだ。ちょうど同じ日にアメリカ連邦議会はブッシュ大統領にイラク攻撃を容認する決議を通過させていたが、カーター氏は受賞直後の会見で「私なら反対票を投じた」とその姿勢を改めて明白にしていた。

 それでもなんでもブッシュ政権のイラク攻撃への方向性は変わらないみたい。もう話は「フセイン政権打倒後」に移っているらしく、戦後のイラク統治を、太平洋戦争後の日本占領をモデルにして検討中なんて報道も流れて(その後一つの案として検討されていることは公式に認めていた) 、日本人としては何やら複雑な気分にもなる。また、インドネシアのバリ島で200人前後の犠牲者を出す爆弾テロが発生し、どうやら「アル・カーイダ」が絡んでいると見られているが、この件についてもブッシュ政権はわざわざ「二正面作戦でいく」とか「イラク攻撃は対テロ戦争の一環」とコメントして何が何でもイラクを攻撃する姿勢を崩していない。
 さて、この「史点」記事が完成しないうちに「北朝鮮が核開発を続けていたことをアメリカ政府特使に認めた」 との衝撃的ニュースが流れてきたが、これに対するブッシュ政権の反応がなかなか興味深い。「大量破壊兵器を開発中」であることを理由にイラクへの武力行使、フセイン政権打倒に躍起になるブッシュ政権だが、北朝鮮に関しては北朝鮮側が認めてから発表までに妙に時間がかかっているし、開発どころか核兵器保有まで確実視していながらあくまで「外交的な解決を」との構えを示し、えらくおとなしい対応を示している(むしろ北朝鮮と外交関係を持っている西欧諸国が泡を食っていたぐらいだ)。「イラクと北朝鮮は別だ」と扱いの違いを明白に表明していたし、あのタカ派のラムズフェルド国防長官が北朝鮮の核開発について「この年になるとちょっとやそっとのことではビックリしない」などとずいぶんのん気な発言をしていた。
 やっぱりブッシュさんとしてはイラク攻撃・フセイン打倒が最優先課題であり、北朝鮮なんてあまり関心がない、というところなのかもしれない。イラクには石油があるが北朝鮮にはこれといった資源も無い。また北朝鮮にうかつに手を出すと中国との関係がややこしくなる(振り返ってみてもブッシュ政権ってこと中国が相手だと妙におとなしくなる傾向がある)、とか何とかで違う姿勢を見せているってことなのかも。
 


◆「雷オヤジ」は毒殺された?

 「地震、雷、火事、親父」などという言葉がその昔あったものだ。「怖いもの」の列挙なのであるが、最後の一つはかなり権威が失墜したなどと言われて久しい(笑)。
 
 ロシアの歴史上、「雷帝」の名を冠せられている帝王がいる。16世紀のツァーリ(皇帝)・イワン4世(在位1533〜1584)がその人だ。ロシアという国は13世紀にモンゴルのキプチャク=ハン国に征服され長いことその支配下にあったが、その下で功績を認められたイワン1世が最初のモスクワ大公となり、15世紀のモスクワ大公イワン3世 の時にモンゴル支配から自立して次第にロシア全域にその勢力を広げ「ツァーリ」の称号を使用するようになっていた。16世紀に登場したこのイワン4世は対抗する諸侯をねじ伏せてツァーリの権威を強化し、コサックを遠征させてシベリアへの進出を進めるなど、現在のロシアの原型を確定したと言ってもいいツァーリである。「雷帝」の異名の由来は、その諸侯をねじ伏せていった際にとった謀略・暗殺も辞さぬ恐怖政治、そして皇太子と口論の末ブン殴ってこれを殺してしまったなどというエピソードにある。

 確かにおっそろしいツァーリなのであるが、彼がその後のロシアを強国に仕立て上げた英君であるとの評価があるのも事実。また実際ロシア史における「名君」ってのはピョートル1世(大帝)エカチェリーナ2世みたいに「暴君」と紙一重の人が目に付く。そしてその延長線上にいるのがかのソ連の独裁者スターリン。このスターリン、イワン雷帝に崇敬の念を持っていたようで(自分自身とダブらせていたと思われる)、「戦艦ポチョムキン」で知られる伝説的映画監督エイゼンシュテイン にこのツァーリの伝記映画を撮らせている。エイゼンシュテインは注文に応じて「イワン雷帝・第一部」を製作、その中で民衆に支持され貴族など「抵抗勢力」と戦う雷帝を描き、スターリンの満足を得ることに成功する。ところが「第二部」でエイゼンシュテインは「雷帝」を秘密警察を使って恐怖政治を行い、疑心暗鬼にかられる孤独な独裁者として描き(明らかに誰かさんとダブらせていたのである!) 、スターリンの激怒を買うことになる。結局エイゼンシュテインは「第二部」を修正することを約束して「第三部」製作にとりかかることになるが、その直後に心臓発作で急死してしまい「イワン雷帝」は彼の遺作として未完のままに終わることになってしまった。後年発見されたメモなどによるとエイゼンシュテインは「第三部」においてさらなるスターリン批判姿勢を明白にし、イワン雷帝が自分が粛清した人々の名(エイゼンシュテインの知人で粛清にあった人と同名)をつぶやいて懺悔するシーンまで用意していたという。

 なんだか話が映画ばなしに行ってしまったが、その「雷オヤジ」についてロシアの週刊誌が面白いネタを報じていた。
 イワン雷帝をはじめとするロシア歴代ツァーリはクレムリン内の墓所に遺骨などが残っているそうなのだが、クレムリンの史跡調査を行っているタチヤナ=パノワ氏らがこれら遺骨の鑑定を行ったところ、イワン雷帝の遺骨中に残留していたヒ素が許容量の2倍もあり、また水銀にいたっては許容量の32倍もあったことが判明したという。雷帝だけでなく、ブン殴られて死んだとされる皇太子イワン、雷帝の后アナスタシア、さらに雷帝のあとを継いで結局この血筋の最後のツァーリとなったフョードル帝(在位1584〜98)にまでヒ素と水銀の異常な残留が認められたと言うのだ。
 フョードルの場合ヒ素の残留量が許容量の10倍はあったことから「毒殺は明白である」とバノワ氏らは結論付け、雷帝とその息子についても「毒物を投与されていた、とする論拠は十分過ぎるほどだ」としている。

 この手の「毒殺説」はナポレオンなど歴史上多くの人物について語られているが(日本だと明治のお父さん孝明天皇に噂がありますな)、たいていどれも結局のところ決め手を欠くことが多い(ナポレオンについては「史点」連載中にも「証拠」の話題が出たことがあったなぁ)。今度の雷オヤジ周辺の毒殺説も「断定」はしかねる話なんじゃないかという気もするが…。



◆中断中こぼれネタ集

 結局例によって例のごとく、こうして更新中断中に書けなかった「こぼれネタ」をもったいないとばかりに集める企画をやってしまう。


◆伝説的名監督、100歳になっても…

 8月22日、ドイツの女性映画監督レニ=リーフェンシュタールさんが100歳の誕生日を迎えていた。この方、「まだ生きていたのか」と思っちゃうほどの歴史的映画監督(ただしドキュメンタリー映画の作家である)で、1936年のベルリン・オリンピックの記録映画「民族の祭典」「美の祭典」の二部作で映画史上にその名を不滅のものとして刻んでいる(なお、日本の東京オリンピックの記録映画は当初黒澤明がやるはずだったが降板し、代役で市川崑が製作してこれも日本記録映画史上の名作となっている)。しかしこのベルリン・オリンピックは良く知られているように当時のドイツ総統ヒトラー率いるナチス政権の大宣伝イベントとなり、この映画にしても監督自身の意図はどうあれナチスの宣伝を企図して製作されたものという性格は否めない。ヒトラー、そして名高いナチスの宣伝相・ゲッペルスは映画をプロパガンダの素材として大いに注目し、リーフェンシュタールの卓越した映像感覚をそれに利用しようとしたことは事実で、リーフェンシュタールにはナチスのニュルンベルク大会を記録した「意思の勝利」という代表作もある。
 「民族の祭典」「美の祭典」の「オリンピア二部作」についてはナチズムとは切り離してドキュメンタリー映画史上不朽の名作として高い評価を受け続けているが、リーフェンシュタール自身には「ナチスへの協力者」というレッテルがついて回り(ヒトラーの愛人だったとする説まであった)、戦後の一時、戦犯容疑で収容されたうえドイツ映画界からも事実上追放され、アフリカで写真家として活動するなどほとんど身を潜めるような生活を送っていた。その間も彼女自身は「自分の作品は別にナチズムを宣伝しようとする意図は無く、当時のドイツの実態を写しただけ」とか「ヒトラーに会ったのは人生最大の失敗だった」と発言し、ナチスとの政治的関わりやヒトラーとの関係を否定し続けてきた。そしてなんだかんだで100歳まで生き抜き、ドイツに戻って48年ぶりの新作映画にとりかかるなど、近年になって「復権」の動きも見られていた。

 ところが、である。この100歳の誕生日に、フランクフルト地方検察庁が彼女に対し「民衆扇動と死者に対する名誉毀損の容疑」 で捜査を開始したと発表したのだ。これは「ロマ民族」の団体「ロム」の訴えをうけたもの。「ロマ民族」とは東欧を中心にヨーロッパ各地に存在する「流浪の民族」などと言われる人々で、一昔前には「ジプシー」と呼ばれていた人たちのことだ。現在は「ジプシー」という呼び名は差別用語として使用しないのが普通。
 こういう人たちであるから民族優生論をとるナチスは当然彼らをユダヤ人同様の「劣等民族」として弾圧、強制収容所に押し込めるなどしていた。1940年から42年にかけてリーフェンシュタール監督は映画「低地」を製作し、こうした強制収容所に連れて来られていたロマ人120人を映画のエキストラに使用していた。そして撮影が終わると彼らを強制収容所に逆戻りさせた、少なくとも戻らせることに反対しなかった。そしてこれらのロマ人たちはそのまま強制収容所で死亡したものとされている。このこともリーフェンシュタール監督に対する「ナチス協力者」という非難の一要素となっていたようだ。
 騒ぎに火をつけたのは今年4月にリーフェンシュタール監督自身が新聞のインタビューで「戦後、「低地」に出演したロマ人の全員に私は再会した。彼らには何も起きていなかった」 と発言した、と報じられたこと。ロマ団体「ロム」はこの発言に「うそをついている」と猛反発。「ロム」によればこれらエキストラに駆り出されたロマ人たちは、そのほとんどが殺されたり悪条件に置かれるなどして収容所内で死亡したとされているのだ。リーフェンシュタール監督側は「生存についての談話は誤解が生んだもので、ナチスの迫害については残念に思っている」 とコメントしており、報道を通しての行き違いがあった可能性もあるが、ともあれ「ロム」は告訴に踏み切り、検察はナチス協力者やネオナチなどを対象にするものと同様の捜査に乗り出した、というわけだ。それでなくてもとかくの批判があるリーフェンシュタールならではの話という気もする。
 

◆アポロ宇宙飛行士の一撃

 「この一歩は一人の男にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな跳躍だ」と言って月への第一歩を踏み込んだのがアポロ11号のアームストロング船長。続いて「降りるどん」と言って降りたのがオルドリン飛行士だった。本気にしないように。
 このオルドリン飛行士もすでに72歳。このご老体がアポロ計画を扱ったTV映画の製作者をブン殴ったことが話題になっている(元ネタは9月12日付ロイター)。オルドリン氏が怒るのも無理の無いところで、このブン殴られた映画製作者バート=シブレル氏(37)が製作しているTV映画とは、「アポロ11号は全て作り事で、月着陸はおろか発射すら実際には行われていない」 という、宇宙関係陰謀論者の世界ではおなじみの主張をするものだったのである。この「月着陸は捏造」説は依然根強く主張する人がいて、あの手この手の論証(?)が行われていたりするのだが、その中には依然として「地球は丸くない」と主張するような人も含む聖書原理主義者みたいな人も含まれていたりする。こういう人たちとは一線を画するとは思うが、火星への有人探査で同じテーマを扱った映画が「カプリコン1」。未見の方は見てみると面白い。
 さて、オルドリン氏の弁護士の主張によれば、このシブレル氏がオルドリン氏を待ち伏せし、いきなりオルドリン氏を壁に押し付けて聖書を取り出して「聖書に手を置いて“私は月にはいっていない”と誓え」と要求したため、オルドリン氏はシブレル氏を「オンドリャー」とブン殴って逃げ(一部妄想補足)、警察を呼んだという。シブレル氏側は聖書を押し付けたことについては認めたものの「オルドリン氏に“本当に月へ行った”と誓ってもらおうとしたのだ」と主張しているのだが、まぁ大筋では変わりは無いわな。聖書がわざわざ出てくる辺り、このシブレル氏も宗教的背景があるんじゃないかという気もする。なお、このブン殴ったシーンはしっかりと録画されており、製作中のTV映画内でも使われる予定だとのこと。
 こんな騒ぎが報じられた直後、1969年にアポロ12号を月へ送り込んだサターン5型ロケットの三段目が地球を周回する軌道に乗っかっていることが判明した。この三段目はアポロ12号から切り離されたあと太陽を回る軌道に放り出されていたが、今年4月になって地球の引力につかまり、現在は一番遠いところで月軌道の二倍、一番近いところで地球と月の間に入るという楕円軌道を回っているとのこと。いわば「里帰り」をしちゃったわけだが、例のシブレル氏などはこれもデッチ上げと見なすんだろうなぁ。騒ぎの直後の報道だけに確実にそう取りそう。


◆同時代人の「真筆」

 不思議なもので歴史ネタニュースでも妙にタイミングを合わせたように関連する話題が同時期に出ることが多い。
 京都市の東寺に所蔵されている「真言七祖像」は弘法大師こと空海が唐から持ち帰ったものとされ、国宝に指定されている貴重なものだが、この像に書かれている文字の作者が空海本人であると、9月19日に東寺から発表された。翌日から同寺で開催される企画展に合わせて赤外線写真などで確認した結果だとのこと。なお、僕が読んだ朝日新聞の記事だと『皇帝』が『帝皇』になっていたり『折』が『析』になっていたりする部分があるとかで「弘法も筆の誤りかもしれません」 という寺の職員のコメントが載っていたが、僕の漢文知識の限りでは別に誤りでもなんでもないような気がする。「帝皇」と書くときもあったはずだし、「析」は「折」の別字。そう書くときもありうる、という程度の話なんじゃないかな。まぁ例のことわざを引っ張り出したくて書いた話なんだろうけど。
 空海と同じ遣唐使で唐に渡り、帰国後に天台宗を開いたのが最澄。この二人、直接的に交流もあったのだがケンカもし、最澄の弟子が空海に鞍替えするなどあれこれドラマがある(映画だと北大路欣也主演の「空海」が詳しい。最澄役は加藤剛だった) 。空海の「真筆」発見に負けるなとばかり(?)、直後に最澄の「真筆」までが確認されてしまった。もっとも所蔵していたのは彼の拠点の比叡山ではなく空海のお寺である高野山金剛峰寺。最澄はケンカ別れする一時期、空海に密教を学んでおり、その灌頂(かんじょう)の儀式を終えたあと次の儀式の器具なの助成を当時の参議・藤原冬嗣に依頼する手紙が、今回国士舘大学の細貝宗広教授の調査で最澄の直筆と確認されたとのこと。なんでも最澄本人しか書けない書法上の特色があるのだそうだ。


◆墓は神聖にして犯すべからず!

 一年前に「蒼き狼の墓?」というネタを「史点」で書いたことがある(01年9月14日付)。あのモンゴル帝国の創設者チンギス=ハーン の墓を探す調査が進められている、という話だった。世界史上最大の帝国の始祖になっちゃった超有名人のこの人だが、当時のモンゴルの風習に従ってその埋葬地は徹底的に秘密にされ、彼の遺骸を運ぶ行列は途中で出くわした人を皆殺しにしていったと言われている。この逸話をモンゴル映画「チンギスハーン」がラストでなかなかうまく使っていたなぁ…と昨年も同じことを書いてますな(汗)。とにかくこの「チンギスハーンの墓」をアメリカの歴史学者ジョン=ウッズ教授らを中心とする調査チームが昨年から探していて、8月に「チンギス=ハーンの墓の可能性もある遺跡を発見した」と発表しちゃったりもしていた。
 その後続報が無かったので「はずしたな」と思ってはいたのだが、先日ひょっこり「続報」が入っていた。ただし発見情報ではなく、それどころかこの調査自体が暗礁に乗り上げてしまっているという話。多少予想はしていたのだが、「民族の英雄」の墓をその遺志に背いて発見し、あばくことにモンゴル人の間から批判の声があがっていたのだ。
 声を上げた中にはビャンバスレン元首相という有力政治家もいた。「調査隊の車が神聖な土地のうえを走りまわり、史跡である壁の近くに建造物をたてるなど、カネのために遺跡が汚された」(CNN日本語サイトの訳より)と訴える書簡を、元首相はバガバンディ 大統領に提出し、これを受けて8月に調査が一時中断に追い込まれることになった。この非難の中での「カネ」のことだが、ウッズ教授の調査チームはスポンサーから120万ドルほどの出資を受けており、チンギスハーンの墓が見つかったらそのドキュメンタリー映画を製作・公開することでスポンサーに利益を還元することになっていたのだ。単純に学術的とばかりも言い切れない側面が、チンギスハーンを神聖視するモンゴル人の怒りを買うところもあるのだろう。
 ところで昨年「発見」と報じられた遺跡だが、発掘した限りでは板石、動物の骨、人の頭蓋骨は発見されたものの「墓」とは認められず祭祀場の跡ではないかと判断されているようだ。ウッズ教授は「来年には調査を再開したい」と言っているそうだが、現時点ではめどがたたないとか。


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