船田義昌 | ふなだ・よしまさ | ?-1336(建武3) |
親族 | 父:船田政綱? 兄弟:船田経政? |
生 涯 |
―新田義貞の有能な執事―
足利尊氏に高師直がいれば、新田義貞には船田義昌がいる。御家人クラスならば実務を取り仕切る執事職がいるのが普通で、後年の「家老」の立場にあたる。船田氏(舟田とも書く)は紀氏の流れをくむと考えられ、早い段階から新田氏に仕えてその執事職を代々務めていた。新田氏の菩提寺であった長楽寺修復のために義貞の父・朝兼が土地を売却した証文に「船田孫六入道政綱」の署名があり、これが義昌の父か兄ではないかと推測されている。
船田義昌が『太平記』に初登場するのは元弘3年(1333、正慶2)の初頭、楠木正成がこもる千早城を幕府軍がせめあぐねている戦場においてである。ちょうど京の大番役に出ていたため一族ともども参戦していた新田義貞は執事の「船田入道義昌」を呼び出して「世の中は天皇方に傾いているようだ。大塔宮(護良親王)から令旨をいただけないだろうか」と相談した。これを受けた義昌は「大塔宮はその辺りの山中に隠れているようですから、この義昌が手だてを考えて令旨をいただきましょう」と答えた。このとき護良に味方する「野伏」たちが山から出没して幕府軍を悩ませており、義昌は配下の兵士三十名をその野伏に変装させ、それを追いかけて合戦をしている芝居をした。これを見た本物の野伏たちが「見方が追われている」と勘違いして救援に来たところを捕まえ、事情を説明して放してやったところ、間もなく野伏たちが護良の令旨を持って来たという。義貞は喜び、仮病を使って戦場から離れて新田荘帰郷、挙兵の準備を始めることになる。
5月に新田荘に徴税のため黒沼彦四郎と出雲介親連の二人がやって来た。義貞はこの二人を捕えて黒沼を斬り、反北条の姿勢を鮮明にするが、出雲介親連(池田親連)については死を免じて幽閉した。足利・鑁阿寺に伝わる『新田足利両家系図』には親連は船田義昌と同族であり、義昌が助命を願ったためであるとの記述がある。池田氏が紀姓で、船田氏も紀姓の縁で親連と関わりがあったものらしい。この他にも足利高氏の子・千寿王(のちの義詮)を鎌倉から脱出させ新田荘で挙兵させた紀五左衛門など、新田荘周辺には紀姓の者が多かったようだ。
義貞が一族郎党を率いて鎌倉攻めを実行すると、義昌もその片腕として活躍した。鎌倉陥落後の残党掃討は義昌が指揮していたらしく『太平記』には義昌が登場する二つのエピソードがある。ひとつは北条一門の塩田道祐・俊時父子が自害したのち、その家臣の狩野重光が主人の鎧や太刀、財宝を奪って円覚寺に隠していたのを船田義昌が聞きつけ、ただちに重光の首をはねて由比が浜にさらしたというもの。もう一つは北条高時の長子・邦時をかくまっていた家臣の五大院宗繁(邦時の母の兄)が邦時の居場所を船田義昌に密告し、義昌は宗重の行為を不快に思いつつもその情報に従って邦時を捕えて首をはねたというものである。
―建武の乱に散る―
その後鎌倉をめぐって新田・足利両家の対立が起こるが、義貞は身を引いて京へ上った。義貞は建武政権で天皇の親衛隊というべき「武者所」の長官をつとめ、新田一族・郎党の多くが武者所に勤めた。義昌もこれに参加していたと思われるが、一方で義貞が守護をつとめる国々の事務も執事として勤めていたようで、越後国の目代を「船田入道」とする建武2年7月の文書が確認されている。
建武2年(1335)8月に北条時行が挙兵する「中先代の乱」が起こり、足利尊氏はこれを討つべく無断で関東に出陣、そのまま建武政権からの離脱を明らかにした。尊氏追討のため義貞が大将となって派遣されることとなり、出陣にあたって義貞は義昌を京・三条高倉にある尊氏の宿所に向かわせ、出陣の縁起かつぎに鏑矢を三本射込み、宿所の中門の柱を切って落とすパフォーマンスを行っている。『太平記』では新田軍の戦闘の指揮を義貞と共に義昌がとっていた様子が描かれている。
怒涛の勢いで足利軍を撃破しつつ東海道を下った新田軍だったが、尊氏自身が出馬した箱根・竹之下の戦いで大敗、今度は尊氏に追われつつ東海道を西へ敗走する。この途中、天竜川で浮橋をかけて渡ったが、『太平記』によると義貞と義昌はほとんど最後に渡った。このとき何者かが浮橋の綱を切り離してしまい、一間ほど橋が切れてしまったが、義貞と義昌が手に手を取って一緒にジャンプして乗り越えたという。ただしこの天竜川の話は『梅松論』では趣向が変えられていてそこでは船田義昌は登場していない。
その後建武3年(1336)正月に足利軍はいったん新田軍を破って京を占領したが、義貞は奥州から駆け付けてきた北畠顕家の軍と合流して反撃に転じた。そして正月16日に行われた白河方面における激戦の中で新田軍は足利方の細川定禅の計略にかかって退却を余儀なくされ、このとき船田義昌ら新田軍の重鎮であった武将が多く戦死している(『太平記』)。
船田義昌の享年は不明だが、『太平記』初登場の時点で「入道」とされるので、義貞より一回りは年上だったのではないだろうか。『太平記』には他に「船田長門守経政」も活躍していて、その後も義貞を補佐しており、これが義昌の弟か息子と推測されている。
かつての新田荘の一部、群馬県桐生市新川(にっかわ)には義昌が再建したと伝えられる善昌寺(訓読みすると「よしまさ」)があり、この周辺が彼の領地であったことが推測される。この寺にはなぜか「義貞の首塚」なるものがあり、越前・藤島で戦死した義貞の首を家臣が故郷に持ち帰り、船田義昌がそれを受けとってここに供養させたという伝説があり、この伝説だと義昌は戦死していなかったことになる。
参考文献
峰岸純夫「新田義貞」(吉川弘文館・人物叢書)
山本隆志「新田義貞」(ミネルヴァ日本評伝選)ほか
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大河ドラマ「太平記」 | 第24回に登場(演:花王おさむ)。役名は「船田入道」で、鎌倉占領後の新田勢と足利勢のトラブルが描かれるなかで義貞の執事として登場、「船田入道に候」と名乗る。それきりと思っていたら、第39回で越前で戦う義貞の陣営に同じ入道姿で花王おさむに演じられ再登場している。ただしこちらの役名は「船田政経」で(経政の誤りか?)、製作側も混乱があったらしい。 |
歴史小説では | 義貞の執事なので小説類ではほぼ確実に登場するが、たいてい地味。義貞を主役とする新田次郎『新田義貞』ではさすがに出番が多く、義貞の懐刀として活躍している。 |
漫画作品では | 横山まさみち「コミック版太平記」の新田義貞編に登場。義貞の守役という設定になっており、少年時代から影のように付き従う忠実な家臣として描かれた。京都攻防戦での戦死シーンは義貞を身をもってかばう壮烈なもの。結局入道姿になることはなく、義貞の兄貴分的存在に描かれている。 |
PCエンジンCD版 | なぜか丹後若狭の国主として登場(金ヶ崎城を意識したか?)、義貞でプレイすると直接指示が出せる。初登場時の能力は統率71・戦闘82・忠誠90・婆沙羅23とかなり有能。 |
メガドライブ版 | 義貞参加の戦いにはたいてい登場。能力は体力75・武力92・智力108・人徳72・攻撃力71。 |