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ふさ〜ふなだよしまさ

ふさ
NHK大河ドラマ「太平記」に登場する架空人物(演:青木雪絵)。第23回と第24回のみの登場で、京・二条河原の市で藤夜叉らと共に物売りをしている。妙と棗は第26回にも登場しているが、房だけは再登場しない。

伏見天皇ふしみ・てんのう1265(文永2)-1317(文保元)
親族父:後深草天皇 母:洞院愔子
兄弟:久明親王・貴子内親王・姈子内親王(後宇多妃)・性仁法親王・久子内親王ほか
中宮:西園寺鏱子 妃:五辻経子・洞院季子・洞院英子ほか
子:後伏見天皇・花園天皇・恵助法親王・寛性法親王・尊円法親王・尊凞法親王・璹子内親王・誉子内親王・延子内親王ほか
立太子1275(建治元)11月
在位1287年(弘安10)10月〜1298年(永仁6)7月
生 涯
―「持明院統」の二代目―

 名は「熙仁(ひろひと)」といい、後深草天皇洞院実雄の娘・愔子の間に文永2年(1265)4月23日に生まれた。この時点で父の後深草は23歳ながら弟の亀山天皇に譲位した上皇であり、両親に疎まれて不遇な立場にあった。文永5年(1268)には次の天皇となる皇太子に亀山の子・世仁親王(後宇多天皇)が立てられ、後深草は我が子・熙仁への皇位継承が危うくなった。文永11年(1274)には後宇多天皇が即位して亀山の院政となったが、翌建治元年(1275)4月に怒った後深草が上皇尊号の辞退と出家の意志を示して幕府にはたらきかけ、執権・北条時宗の介入により11月に9歳の熙仁を後宇多の皇太子に立てることに成功する。これが南北朝分裂まで続く「両統迭立」の端緒となった。
 
 二度の元寇ののち、北条時宗が若くして死に、霜月騒動で幕府に政変が起こると、幕府は亀山上皇の院政を警戒するようになり、亀山側(大覚寺統)から後深草側(持明院統)への政権交代を迫った。弘安10年(1287)10月、後宇多が譲位して伏見天皇が即位、その父である後深草が「治天」として院政を開始することとなった。正応2年(1289)4月には伏見の皇子・胤仁親王(後伏見天皇)を皇太子に立てて後深草系での皇位継承を固め、持明院統の優勢が続く。

 正応3年(1290)2月に後深草は出家・引退し、伏見天皇による親政となった。その直後の3月、浅原為頼という武士が息子二人と共に二条富小路の里内裏に乱入した。彼らは伏見天皇の所在を女官に問いただしてその命を狙おうとしたが、その女官が機転を利かせて違う場所を教えて彼らをそちらに向かわせ、その隙に伏見は三種の神器と皇室所有の管弦二つを抱えて脱出した。浅原為頼らは伏見を発見できないまま失敗を悟って宮中で自害して果てた。この事件の背後に皇位継承に不満を抱く亀山法皇がいるとの疑惑ももちあがったが、当人も否定したし幕府も深くは追求せずうやむやに終わることとなる。

 永仁6年(1298)3月、歌人として知られ、伏見の腹心として権勢を持つようになっていた京極為兼が幕府によって捕えられ、佐渡に流刑になるという事件が起きた。真相は不明だが、関東申次(幕府と朝廷の連絡役)の西園寺実兼と対立して陥れられたとも、幕府を打倒する計画をめぐらしていた疑いをもたれたとも言われる。伏見は為兼から「夢の中に縁戚の宇都宮景綱が現れ、天皇に逆らう不忠者はみな追討すべきと言っていた」と不思議な夢の話を聞かされた、と日記にわざわざ書き記しており、このことも伏見と為兼が幕府に反感を抱いていた証左とする意見もある。
 為兼の流刑は当然伏見の、そして持明院統の立場を悪くした。その直後の7月に伏見は息子の後伏見天皇に譲位し、「治天」として院政を開始したが、持明院統の天皇が二代続いたことを大覚寺統の亀山・後宇多が問題視して幕府にはたらきかけたため、幕府は今度は大覚寺統側の主張を容れて後宇多の皇子・邦治親王(後二条天皇)を後伏見の皇太子とした。そして二年ほどのちの正安3年(1301)正月に後伏見から後二条への譲位が行われ、後二条の皇太子には伏見の子である富仁親王(花園天皇)が立てられて、「両統迭立」の原則は幕府の意向もあってますます固定化されてゆく。

 徳治3年(1308)8月に後二条が急死し、花園が即位した。そしてその皇太子には大覚寺統から尊治親王(後醍醐天皇)が立てられる。伏見は再び院政を開始し、訴訟制度を整備するなど意欲的に取り組んでいる。正和2年(1313)に伏見は出家して法皇となり形式的には「治天」の地位を後伏見に譲ったが、実権はなお保持していた。また赦免されて佐渡から京に戻っていた京極為兼も伏見の側近として政界復帰し、両統対立に揺れた勅撰和歌集『玉葉和歌集』をこのころ完成させている。伏見自身も為兼の起こした斬新な歌風の「京極派」の歌人として活躍した。
 ところが正和4年(1315)12月、為兼が討幕計画を進めた疑いで六波羅探題に再び逮捕され、今度は土佐に配流されるという事件が起こる。またもや西園寺実兼による讒言だったとされるが、為兼の背後に伏見ありと疑われたのも事実で、伏見自身が「自分が幕府を軽んじているとの噂がある」と認め、「自分が即位できたのは幕府のおかげだ。どうしてそんな不義なことができようか」と弁明する起請文を幕府に送っている(息子の後伏見も同様に送った)。結局伏見自身に幕府の手が伸びることはなかったが、伏見もまたのちの後醍醐同様に討幕の陰謀をめぐらしていたのではないかとする説もある。

 文保元年(1317)9月3日に持明院殿で死去。享年53歳。幕府から疑いの目で見られる中での彼の死は持明院統に大きな打撃を与え、翌年花園から後醍醐への譲位、皇太子に大覚寺統の邦治親王を立てられるというかなり不利な状況に追い込まれてゆくこととなる。

参考文献
伊藤喜良「南北朝動乱と王権」(東京堂出版「教養の日本史」)
河内祥輔・新田一郎「天皇と中世の武家」(講談社「天皇の歴史」04)ほか

藤夜叉ふじやしゃ
 吉川英治『私本太平記』およびそれを原作とするNHK大河ドラマ「太平記」に登場する足利直冬の母となる白拍子。
 →足利直冬の母(あしかが・ただふゆのはは)を見よ。

藤原慶子ふじわら・けいし(よしこ?)1358(延文3/正平13)-1399(応永6)
親族父:安芸法眼 姉妹:藤原量子
夫:足利義満
子:足利義持・足利義教・入江殿聖仙
位階
従三位→贈従一位
生 涯
―二人の将軍の生母―

 三代将軍・足利義満の側室となり、四代将軍・足利義持および六代将軍・足利義教の生母となった女性。
 父は三宝院の坊官・安芸法眼で、時期は不明だが義満の側室となり、至徳3年(元中3、1386)2月12日に義満の嫡子となる義持を生んだ。このため多くいる義満の側室たちの中でも重い扱いを受け「北向殿」と呼ばれた(義満の生母・紀良子も同じ呼称)。応永元年(1394)6月13日には彼女にとって二人目の男子である義教を生み、この年の暮れには義満が将軍職を義持に譲ったため慶子は「将軍の生母」の地位を得ることとなった。応永4年(1397)には娘の入江殿聖仙を生んでいる。

 義満が新たな邸宅として建設した北山第に移ると、慶子は室町第にとどまった。将軍の生母だからと思われるが、あるいはこのころから義満との関係が疎遠になっていたかもしれない。
 慶子は応永6年(1399)5月8日夕刻に死去した。このとき42歳。東坊城秀長の日記『迎陽記』によれば前年より病んでいて体も衰えていたという。将軍生母ということで「従一位」が贈位され、空谷明応を戒師として「勝鬘院殿栄室慈蕃禅定尼」の法名が贈られた。義持も等持院にこもって母の菩提を弔ったが、義満は慶子の死にほとんど無反応であったらしく、彼女の死の翌日には赤松伊豆入道邸で酒を「大飲」したという(『迎陽記』)。このことを日記に記した東坊城秀長は「あのことをお悲しみではないのだろうか」と感想を加えている。6月23日に義持は等持院から戻ったが、この日も義満は北山第で盛大な酒宴を開いており、そのことを日記に記した秀長はここでも「希代のことなり」と驚きを記している。この一件あたりから義満と義持の父子関係はしっくりいかなくなったとの見方もある。
 なお、慶子の妹で「新中納言局」と呼ばれた藤原量子も義満の側室に加わっており、応永13年(1406)に量子が死去すると、義満は美濃国座倉郷を慶子および量子の菩提料所として等持院に寄進している。

参考文献
臼井信義『足利義満』(吉川弘文館・人物叢書)
伊藤喜良『足利義持』(吉川弘文館・人物叢書)
小川剛生『足利義満・公武に君臨した室町将軍』(中公新書)

藤原量子ふじわら・りょうし(かずこ?)1369(応安2/正平24)-1406(応永13)
親族父:安芸法眼 姉妹:藤原慶子
夫:足利義満
子:男子・女子(大慈院聖紹?)
位階
贈従三位
生 涯
―姉妹そろって義満側室―

 三代将軍・足利義満の側室となった女性。父は三宝院の坊官・安芸法眼で、姉にやはり義満の側室となり、足利義持足利義教の生母となった藤原慶子がいる。なお「量子」という名はその死に際して贈位をする際につけられたもので、それまでの実名は不明である。当時の記録では「新中納言局」と呼ばれていたことが分かっている。
 姉に続いて義満の側室となったが、応永元年(1394)に男子を、応永3年(1396)に女子を生んでいることから(『迎陽記』)、姉の慶子と同時並行で深く寵愛されたことがうかがえる。量子が生んだ男子については全く不明で、あるいは夭折したのかもしれない。のちに大慈院の院主となって享徳2年に死去した義満の娘・聖紹が応永3年生まれと推定されるため、これが量子の生んだ女子とみられている。

 姉の慶子は義満と疎遠になり応永6年(1399)に死去したが、量子の方はその後も義満の寵愛を受け続けたらしく、応永13年(1406)5月には義満および広橋仲子(崇賢門院)日野康子(義満正室)喝食御所(義満の娘)らと共に明からの船を見物するため兵庫まで遊びに出かけている。
 しかしこの旅先で量子は病み、播州・室で5月15日に38歳で死去した。義満および義持は彼女を死を深く悲しみ、義満はその菩提を弔うために五旬の精進を行ったほか(慶子の時とは明らかに態度が違った)、美濃国座倉郷を等持院に寄進して姉の慶子ともどもその菩提を弔う料所としている。朝廷にもはたらきかけがあったようで、従三位が贈られ、この時に「量子」の名がつけられている。法名は「円照院殿勝林浄殊禅定尼」という。

参考文献
臼井信義『足利義満』(吉川弘文館・人物叢書)
小川剛生『足利義満・公武に君臨した室町将軍』(中公新書)

淵辺義博ふちのべ・よしひろ?-建武2(1335)?
官職伊賀守?
生 涯
―護良親王殺害の実行者―

 相模国淵辺(現・神奈川県相模原市淵野辺)の武士。詳しいことは不明だが今川了俊『難太平記』には「御年来の仁」とあり、長年足利氏に仕えた武士だったらしい。『太平記』では「伊賀守」とあるが実際に朝廷から任じられた官職名ではなく勝手に名乗ったいわゆる通名であろうと考えられる。

 建武2年(1335)7月、最後の得宗・北条高時の遺児・時行が北条残党勢力を率いて信濃から挙兵した(中先代の乱)。このとき北条を打倒した後醍醐天皇による建武の新政は破綻をきたしており、建武政権に不満を持つ武士たちを糾合した北条軍は怒涛の勢いで鎌倉に迫った。このとき鎌倉を守っていたのは足利尊氏の弟・直義だったが、相次ぐ敗戦に鎌倉の放棄を決断する。
 この前年、北条打倒の中心人物であり、建武政権下では尊氏と激しく対立した護良親王は父・後醍醐の指示で逮捕され、足利直義に身柄を預けられて鎌倉に幽閉されていた。直義はこの混乱を利用して護良親王の抹殺をはかり(一説に護良が北条勢力に担ぎ出されることを恐れたともいう)、腹心の部下であった淵辺義博を呼んで極秘に護良の暗殺を指示した。

 指示を受けた義博は護良の幽閉場所に駆けつけ、殺害を実行した。『太平記』では義博の姿を見た護良はその意図を察して激しく抵抗し、結局暗闇の中で乱闘の末に刺され、首を取られたとする。義博が外へ出て首を見ると、護良の口には折れた刀の切っ先がくわえられていた。その凄まじさにおびえ、「このような首は主君に見せないものだ」と中国の故事をふまえて考えた義博は首を草むらの中に放り出してその場を立ち去ったとされる。以上はあくまで『太平記』のみが伝えることで、このあと中国故事を延々と語る入口として創作をした気配が強く、そのまま事実とは思えない。

 その後鎌倉を放棄して三河に逃れた直義は、京から出陣した尊氏と合流して北条軍に逆襲、鎌倉を奪還した。そしてそのまま尊氏が鎌倉に居座って建武政権からの離脱を明らかにしたため、後醍醐は新田義貞に尊氏追討を命じた。尊氏は後醍醐との直接対決をきらって寺にこもってしまい、やむなく直義らが軍を率いて新田軍を迎え撃った。しかし勢いは新田軍が勝っており直義らは敗北・撤退を続け、12月2日に駿河・手越河原で戦った。『難太平記』によるとこの戦いでも直義らは敗北し、一同戦死を覚悟するなか、「淵辺という御年来の仁」「まず私が討ち死にしてごらんにいれましょう」と言ってただ一騎で敵中に突入し、戦死した。しかし後に続く者はなく、今川範国が直義に「今は討ち死にする時ではない」と諫めて直義を退却させたという。ここで戦死した「淵辺」が護良を殺した義博当人であるかどうか確証はないが、直義のそばにあったことからその可能性は高い。

 『太平記』が伝える護良の壮絶な最期が印象的なためか淵辺義博にはいくつかの伝説が派生した。「実は義博は護良を殺さず逃亡させていた」という英雄生存伝説になって「実は大忠臣」ともてはやすものや、龍退治をしたというスケールの大きい伝説もある。
大河ドラマ「太平記」第30回に「淵辺伊賀守」として登場(演:佐々木敏)。直義に直接指示される場面はないが、細川和氏が一色右馬介に直義が暗殺を命じて「淵辺(「ふちのべ」と発音)がすでに向かった」と語る。義博は写経中の護良親王の前に無言のまま静かに現れ、その姿を見た護良はただちに自身の最期を悟る。ただ古典とは異なり、すでに世を捨てた心境の護良は抵抗もせず(愚痴のようなことは言う)静かに姿勢を正して義博に首を打たせる。
歴史小説では 護良親王を殺した当人ということで小説などで出てくる例は多い。吉川英治『私本太平記』では奥州出身の武士ということにされ(そう記す一書があるという)、直義から護良暗殺を指示され、実行後はしばらく出家して身を隠せと命じられる。殺害の模様は古典「太平記」とほぼ同じだが、その後自分のしたことに呆然としたまま投げやりな気分で直義の陣に合流、直後に追撃してきた北条軍と手越河原に戦って「難太平記」が記すような最期を遂げる(生存説などの異説も紹介する)。ただし上記のように「難太平記」が記す「手越河原の合戦」は北条軍ではなく新田軍相手のものとするのが正しい。
 変わりだねが林青悟『足利尊氏』で、義博は直義から「場合によっては処刑も可」という指示を受けて護良のもとへ行き、ちょうど北畠親房が送り込んだ奥州武士たちが護良を救出した直後に居合わせ、奥州武士たちもろとも護良を殺す展開になっている。
漫画作品では横山まさみち「コミック版太平記」の楠木正成編で護良の死の場面で登場している。吉川英治を参考にしたらしく、護良を殺害したあと精神的ショックを受け、直後に北条軍に自殺的な突入をして死んだことにされている。

船田経政ふなだ・つねまさ生没年不詳
親族父か兄弟:船田義昌?
官職長門守?
生 涯
―新田義貞の腹心として連戦―

 新田義貞の家臣。新田家の執事をつとめた船田義昌との関係は不明で、義昌の弟の可能性が高いと考えられる。「鎌倉・室町人名事典」の奥富敬之氏執筆のプロフィールによると「経匡ともいう。新田大島義員の三男。船田美作入道月霄の養子になり、武蔵舟田に住んだともいう」とあるが、他の研究書でこの話は出てこず、出典の信用度に疑問がある。

 『太平記』では建武2年(1335)に新田義貞が建武政権に離反した足利尊氏を討つべく京を出陣した際、率いる武士の中に「舟田入道(船田義昌)」に続いて「同長門守」の名がみえ、これが経政の史上における初登場。彼が実際に長門守に任じられていたのか、通称として名乗っていたのかは不明。
 箱根・竹之下の戦いで敗北した新田軍は足利軍に追われつつ京へ引き返し、翌建武3年(1336)正月には奥州から駆け付けた北畠顕家軍と合流して足利軍と激しい京都争奪戦を展開する。正月16日に顕家・義貞軍は足利方の拠点となっていた三井寺(園城寺)を攻め落とし、顕家はそのまま本営のある坂本へ引き返して、義貞もこれに続こうとした。
 このとき「舟田長門守経政」が義貞の馬を叩き、「戦の利というものは勝ちに乗った時に逃げる敵を追うほかはないと思われます。この戦いで討ち漏らされて馬や武具を捨てて命だけは助かろうと逃げた敵兵を追って京へ突入すれば、臆病神のついた兵たちに引っ張られて他の敵兵も隙を見せるでしょう。そこを我が軍が敵中に紛れ込んでこちらで火を放ち、あちらでときの声を上げてと自由自在に動き回れば、足利兄弟に接近して勝負をつけることもできましょう」と意見した。これを聞いた義貞は「わしもそう思っていたところだ。よくぞ申した」とその意見に従い、逃げる敵を追って京に突入し、一時尊氏らを慌てさせた。もっともその直後に足利軍の細川定禅の奮戦により新田軍は崩壊、執事の船田義昌以下重臣たちが戦死するはめになってしまう(以上の記述は『太平記』)

 その後いったんは足利軍を九州まで敗走させたが、5月には足利軍は勢力を立て直して東上、湊川の戦いで新田・楠木軍を破って京を再占領した。新田軍は後醍醐天皇と共に比叡山にたてこもり、攻めよせる足利軍と激しく戦った。6月20日の戦闘で負傷して撤退し損ねていた足利方の武将・高豊前守(師景?師久?)を船田経政の兵が捕虜とし、義貞の前に突き出して処刑させている。

 この年の10月に後醍醐は尊氏といったん和睦して比叡山を降り、義貞は恒良親王を奉じて北陸へと下った。そして越前・敦賀の要害・金ヶ崎城に立てこもったが、翌年3月に金ヶ崎城は高師泰らの猛攻の前に陥落する。落城の直前に義貞と弟の脇屋義助は金ヶ崎を脱出して杣山(そまやま)城に移っており、金ヶ崎に残っていた義貞の子・義顕はじめ多くの武士が自害するなか、経政は「まだ両大将は杣山におられる。我らのうち一人でも生き残ってお役に立ってこそ忠義というものではないか。全員自害してしまっては敵を助けるだけのことだ。さあ、ついてこい。なんとか隠れてみよう」と自害しようとする土岐阿波守栗生左衛門矢島七郎の三名を説得、海岸に手頃な岩穴を見つけてそこに三日三晩隠れていた。その後勢いを盛り返した義貞軍のなかに再び経政の名前がみえるので、無事に合流を果たしたことが分かる。

 義貞戦死直前の足羽城攻撃で船田経政が二番手で出撃し安居川を渡るが失敗して退却したことが『太平記』に見えるが、以後の消息は全く不明。故郷に帰って義貞の遺児・義宗の執事を務めたとの伝説もあるが、確かなことは分からない。

参考文献
峰岸純夫「新田義貞」(吉川弘文館・人物叢書)
山本隆志「新田義貞」(ミネルヴァ日本評伝選)ほか
大河ドラマ「太平記」第39回で、杣山城にこもる義貞の前で北畠顕家軍の動向を報告している「船田政経」なる入道姿の武士が登場している。しかし演じているのは第24回で「船田入道(義昌)」を演じていた花王おさむで、義昌と経政を混同したものかと思われる。
PCエンジンCD版義昌と共に丹後若狭に登場する。初登場時の能力は統率59・戦闘71・忠誠77・婆沙羅34

船田政経ふなだ・まさつね
 NHK大河ドラマ「太平記」の第39回に登場する人物。新田義貞の家臣・船田経政の誤りと思われるが、義貞のセリフでも「まさつね」と呼ばれている。演じたのは花王おさむで、第24回では「船田入道」とクレジットされ、こちらは義貞の執事を務めた「船田義昌」のことである。

船田義昌ふなだ・よしまさ?-1336(建武3)
親族父:船田政綱? 兄弟:船田経政?
生 涯
―新田義貞の有能な執事―

 足利尊氏高師直がいれば、新田義貞には船田義昌がいる。御家人クラスならば実務を取り仕切る執事職がいるのが普通で、後年の「家老」の立場にあたる。船田氏(舟田とも書く)は紀氏の流れをくむと考えられ、早い段階から新田氏に仕えてその執事職を代々務めていた。新田氏の菩提寺であった長楽寺修復のために義貞の父・朝兼が土地を売却した証文に「船田孫六入道政綱」の署名があり、これが義昌の父か兄ではないかと推測されている。

 船田義昌が『太平記』に初登場するのは元弘3年(1333、正慶2)の初頭、楠木正成がこもる千早城を幕府軍がせめあぐねている戦場においてである。ちょうど京の大番役に出ていたため一族ともども参戦していた新田義貞は執事の「船田入道義昌」を呼び出して「世の中は天皇方に傾いているようだ。大塔宮(護良親王)から令旨をいただけないだろうか」と相談した。これを受けた義昌は「大塔宮はその辺りの山中に隠れているようですから、この義昌が手だてを考えて令旨をいただきましょう」と答えた。このとき護良に味方する「野伏」たちが山から出没して幕府軍を悩ませており、義昌は配下の兵士三十名をその野伏に変装させ、それを追いかけて合戦をしている芝居をした。これを見た本物の野伏たちが「見方が追われている」と勘違いして救援に来たところを捕まえ、事情を説明して放してやったところ、間もなく野伏たちが護良の令旨を持って来たという。義貞は喜び、仮病を使って戦場から離れて新田荘帰郷、挙兵の準備を始めることになる。

 5月に新田荘に徴税のため黒沼彦四郎出雲介親連の二人がやって来た。義貞はこの二人を捕えて黒沼を斬り、反北条の姿勢を鮮明にするが、出雲介親連(池田親連)については死を免じて幽閉した。足利・鑁阿寺に伝わる『新田足利両家系図』には親連は船田義昌と同族であり、義昌が助命を願ったためであるとの記述がある。池田氏が紀姓で、船田氏も紀姓の縁で親連と関わりがあったものらしい。この他にも足利高氏の子・千寿王(のちの義詮)を鎌倉から脱出させ新田荘で挙兵させた紀五左衛門など、新田荘周辺には紀姓の者が多かったようだ。

 義貞が一族郎党を率いて鎌倉攻めを実行すると、義昌もその片腕として活躍した。鎌倉陥落後の残党掃討は義昌が指揮していたらしく『太平記』には義昌が登場する二つのエピソードがある。ひとつは北条一門の塩田道祐俊時父子が自害したのち、その家臣の狩野重光が主人の鎧や太刀、財宝を奪って円覚寺に隠していたのを船田義昌が聞きつけ、ただちに重光の首をはねて由比が浜にさらしたというもの。もう一つは北条高時の長子・邦時をかくまっていた家臣の五大院宗繁(邦時の母の兄)が邦時の居場所を船田義昌に密告し、義昌は宗重の行為を不快に思いつつもその情報に従って邦時を捕えて首をはねたというものである。

―建武の乱に散る―

 その後鎌倉をめぐって新田・足利両家の対立が起こるが、義貞は身を引いて京へ上った。義貞は建武政権で天皇の親衛隊というべき「武者所」の長官をつとめ、新田一族・郎党の多くが武者所に勤めた。義昌もこれに参加していたと思われるが、一方で義貞が守護をつとめる国々の事務も執事として勤めていたようで、越後国の目代を「船田入道」とする建武2年7月の文書が確認されている。

 建武2年(1335)8月に北条時行が挙兵する「中先代の乱」が起こり、足利尊氏はこれを討つべく無断で関東に出陣、そのまま建武政権からの離脱を明らかにした。尊氏追討のため義貞が大将となって派遣されることとなり、出陣にあたって義貞は義昌を京・三条高倉にある尊氏の宿所に向かわせ、出陣の縁起かつぎに鏑矢を三本射込み、宿所の中門の柱を切って落とすパフォーマンスを行っている。『太平記』では新田軍の戦闘の指揮を義貞と共に義昌がとっていた様子が描かれている。

 怒涛の勢いで足利軍を撃破しつつ東海道を下った新田軍だったが、尊氏自身が出馬した箱根・竹之下の戦いで大敗、今度は尊氏に追われつつ東海道を西へ敗走する。この途中、天竜川で浮橋をかけて渡ったが、『太平記』によると義貞と義昌はほとんど最後に渡った。このとき何者かが浮橋の綱を切り離してしまい、一間ほど橋が切れてしまったが、義貞と義昌が手に手を取って一緒にジャンプして乗り越えたという。ただしこの天竜川の話は『梅松論』では趣向が変えられていてそこでは船田義昌は登場していない。

 その後建武3年(1336)正月に足利軍はいったん新田軍を破って京を占領したが、義貞は奥州から駆け付けてきた北畠顕家の軍と合流して反撃に転じた。そして正月16日に行われた白河方面における激戦の中で新田軍は足利方の細川定禅の計略にかかって退却を余儀なくされ、このとき船田義昌ら新田軍の重鎮であった武将が多く戦死している(『太平記』)
 船田義昌の享年は不明だが、『太平記』初登場の時点で「入道」とされるので、義貞より一回りは年上だったのではないだろうか。『太平記』には他に「船田長門守経政」も活躍していて、その後も義貞を補佐しており、これが義昌の弟か息子と推測されている。

 かつての新田荘の一部、群馬県桐生市新川(にっかわ)には義昌が再建したと伝えられる善昌寺(訓読みすると「よしまさ」)があり、この周辺が彼の領地であったことが推測される。この寺にはなぜか「義貞の首塚」なるものがあり、越前・藤島で戦死した義貞の首を家臣が故郷に持ち帰り、船田義昌がそれを受けとってここに供養させたという伝説があり、この伝説だと義昌は戦死していなかったことになる。

参考文献
峰岸純夫「新田義貞」(吉川弘文館・人物叢書)
山本隆志「新田義貞」(ミネルヴァ日本評伝選)ほか
大河ドラマ「太平記」第24回に登場(演:花王おさむ)。役名は「船田入道」で、鎌倉占領後の新田勢と足利勢のトラブルが描かれるなかで義貞の執事として登場、「船田入道に候」と名乗る。それきりと思っていたら、第39回で越前で戦う義貞の陣営に同じ入道姿で花王おさむに演じられ再登場している。ただしこちらの役名は「船田政経」で(経政の誤りか?)、製作側も混乱があったらしい。
歴史小説では義貞の執事なので小説類ではほぼ確実に登場するが、たいてい地味。義貞を主役とする新田次郎『新田義貞』ではさすがに出番が多く、義貞の懐刀として活躍している。
漫画作品では横山まさみち「コミック版太平記」の新田義貞編に登場。義貞の守役という設定になっており、少年時代から影のように付き従う忠実な家臣として描かれた。京都攻防戦での戦死シーンは義貞を身をもってかばう壮烈なもの。結局入道姿になることはなく、義貞の兄貴分的存在に描かれている。
PCエンジンCD版なぜか丹後若狭の国主として登場(金ヶ崎城を意識したか?)、義貞でプレイすると直接指示が出せる。初登場時の能力は統率71・戦闘82・忠誠90・婆沙羅23とかなり有能。
メガドライブ版義貞参加の戦いにはたいてい登場。能力は体力75・武力92・智力108・人徳72・攻撃力71。 


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