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あさくら〜あしかがただふゆのはは

朝倉(あさくら)氏
  もともと但馬の日下部氏にルーツをもち、その支流が但馬国養父郡朝倉荘に入ったことから朝倉氏を称した。南北朝動乱期に広景が越前守護・斯波氏に従って越前に入り、その有力家臣として越前守護代をつとめるようになった。戦国時代に入ると主筋の斯波氏を追い出して越前守護となり、一乗谷を根拠地に北陸の戦国大名として勢いをもった。天下統一を進める織田信長と衝突、近江の浅井氏と共にこれに対抗したが天正元年(1573)に一乗谷を攻め落とされ滅亡した。
(注:広景以前の系譜は判然としない)
日下部佐晴 ─朝倉宗高 ─高清 ┬高景 広景 高景 氏景 ─貞景



└安高 八木



朝倉氏景 あさくら・うじかげ 1339(暦応2/延元4)-1405(応永11)
親族 父:朝倉高景 
子:朝倉貞景
官職 美作守
生 涯
―越前朝倉三代目―

 朝倉高景(初名正景)の子で「孫次郎」の呼び名がある。越前守護・斯波氏に仕える守護代の三代目である。
 朝倉氏の系図類や軍記などで正平10年(文和4、1355)の南朝軍との京都攻防戦で父・正景と共に東寺で奮戦し、足利尊氏から父に「高」、子に「氏」の字が与えられたと伝えるものがあるが、斯波高経配下である朝倉氏はこのとき南朝軍側で戦っていたのであって(「太平記」にも父・高景らしき人物が登場している)、敵である尊氏から賞されるはずがない。これは『太平記』に登場していることをもとに後世朝倉氏の箔付けのために捏造された可能性が高い。この翌年に斯波高経は幕府に帰順している。
 康安元年(正平16、1361)9月、幕府の執事で猛将として知られた細川清氏が失脚し守護国の若狭へと逃亡した。このとき越前から斯波氏頼の軍勢が清氏追討に出陣し、その先陣として「朝倉某」なる者が敦賀に布陣した。これを知った清氏はわずか8人の部下を敦賀に送りこんで民家に火を放ってときの声をあげさせた。驚いた朝倉は「清氏が大軍で攻めて来た!」と勘違いして撤退してしまう(「太平記」巻36)。「朝倉某」とあるだけで名前は書かれていないが、巻33に出てくる斯波氏頼配下の「朝倉下野守」が高景のこととみられるので、これは当時まだ若かった氏景のことなのではなかろうか。
 こののち貞治5年(正平21、1366)に斯波高経は失脚して越前に逃げ帰ることになるが、家臣であるはずの朝倉氏は高経とは距離を置いて幕府の指示に従い、実質的な越前守護として領地問題などを取り扱っている。だが斯波氏が幕府に復帰すると関係は復活したようで、明徳2年(元中8、1391)12月に「明徳の乱」が起こると朝倉勢も斯波軍の一翼を担って参加している(「明徳記」)。ただ翌明徳3年(1392)の足利義満による相国寺供養に参列した人々のリスト『相国寺供養記』では斯波氏の他の重臣たちの名が載る一方で朝倉氏景の姿はなく、斯波氏からかなり独立した存在と見られていたのではないかとの推測がある。
 応永11年(1405)12月28日に享年六十六歳で死去。法名を「大功宗勲」というが、これは摂津での戦いの功績により足利義満から「大功」の号を授かったと朝倉氏の系図「日下部系図」が伝えている。もっともこれもどこまで信用できるか不明である。

参考文献
『福井県史』通史編2中世ほか

朝倉高景 あさくら・たかかげ 1314(正和3)-1372(応安5/文中元)
親族 父:朝倉広景 
子:朝倉氏景
官職 下野守・遠江守
生 涯
―越前朝倉二代目―

 朝倉広景の子で彦三郎、あるいは彦四郎の呼び名がある。越前守護・斯波氏に仕える守護代で、もともとは「正景」と名乗っていたとされる。
 正平10年(文和4、1355)に足利直冬率いる南朝軍が京に迫ると、もともと足利直義一党であった主君の斯波高経は直冬に呼応して越前から京へと攻め込んだ。朝倉正景もこれに付き従ったとみられ、『太平記』では2月15日の戦闘で斯波氏頼(高経の子)の配下の「朝倉下野守」が五十騎を率いて猛将の細川清氏らの軍を相手に果敢に戦い、氏頼が「朝倉を討たすな、つづけ」と出撃する描写があって、これが正景であると推測される。
 なお、後年作成された朝倉家の系図史料類に基づくのか、ネット上ではこの日の戦いで朝倉正景が東寺南門で奮戦して足利尊氏から「高」の字を与えられ母衣に「朝倉弾正左衛門尉高景」と大書されたとの逸話がよく紹介されているが、この時の正景は尊氏の敵軍にいたはずであって、絶対にあり得ない話である。結局彼がいつから「高景」と名乗ったかは判然としない。
 翌延文元年(正平11、1356)に斯波高経は尊氏の呼び掛けに応じて幕府に投降、二代将軍足利義詮の時代に権勢をふるった。だが貞治3年(正平19、1364)、朝倉高景が越前の興福寺領・河口荘を横領したため興福寺が斯波高経に抗議、春日大社の神木をかついで京の斯波邸に投げ込むという挙に出た。これが遠因の一つとなって2年後の貞治5年(正平21、1366)に斯波高経は失脚して越前に逃げ帰ることになる。ところがこのとき朝倉高景は高経から距離を置き、足利義詮から御教書を受けて自ら事実上の越前守護としてふるまった形跡がある。宇坂・棗・東郷・坂南本郷・河南下郷・木部島・中野郷の七カ所の地頭職を認められたのもこのときと見られ、朝倉氏の越前における地位を固めることになった。
 応安5年(文中元、1372)5月2日に享年五十九歳で病没。法名は「徳巌宗祐」という。

朝倉広景 あさくら・ひろかげ 1255(建長7)-1352(文和元/正平7)
親族 父:朝倉高景? 
子:朝倉高景(旧名正景)
官職 美作守
生 涯
―大長寿の越前朝倉初代―

 但馬朝倉の地にあったが、元弘3年(正慶2、1333)4月に足利高氏が丹波国篠村で討幕の兵を挙げた際に馳せ参じたと見られる(伝えられる生年が正しければ、この時すでに80近い大変な高齢である)。足利一門の斯波氏と何らかの縁があったらしく、越前守護となった斯波高経に従って越前入りし、高経と共に南朝の新田義貞と戦った。『太平記』巻21では義貞が戦死したのち、その弟の脇屋義助との戦いの記述で斯波軍の中に「浅倉」の名がみえるが、これはさすがに息子の高景かもしれない。その後朝倉氏は恩賞として黒丸城を与えられ、ここを居城とすることになる。
 文和元年(正平7、1352)2月29日に没。享年九十八。一世紀近い当時としては桁外れの長命であった。

足利(あしかが)氏
 清和源氏。源義家の三男・源義国が下野国足利荘に入り、義国の二男・義康がその所領を引き継いで足利氏の祖となった。本来は新田氏の弟分の血筋なのだが、源頼朝の挙兵に協力したことから新田氏に差をつけて重んじられ、頼朝直系が絶えた後は清和源氏における最高の名門とされ、将軍候補とも見なされるようになる。鎌倉時代にあっては事実上北条氏に次ぐナンバー2の存在で、北条氏と縁組を重ねて重んじられつつ警戒もされていた。また全国に所領を広げ、三河を中心に吉良・今川・細川・斯波・畠山・仁木など、後に名門となる多くの分家を生み出した。
 足利尊氏の時に後醍醐天皇に協力して北条氏を打倒し、さらに後醍醐の建武政権も打倒して室町幕府を創設、足利家は将軍位および鎌倉公方など地方政権の首長を世襲することになった。室町幕府滅亡後は鎌倉公方の流れをくむ大名・喜連川氏と阿波の平島公方の系統のみが残り、現在は平島公方の子孫が足利氏の祭祀を引き継いでいる。


源義家 ┬義親 ─為義 ─義朝 ─頼朝








└義国 ┬義重 新田
┌実国→仁木





尊満


├義康 ┬義清
─義実
┴義季→細川





義持


└季邦 ├義長 ┌義純 畠山



┌安芸守
├義嗣



└義兼 ┼義助 桃井 ┌満氏 吉良
高義 ┴源琳 千寿王 ├義教




└義氏 ┬長氏─── ┴国氏 今川
竹若 柏庭清祖 ├法尊





├義継─── 吉良

直冬 義満── ┴義昭





├泰氏─── ┬家氏 斯波
尊氏 義詮── 満詮 満兼





└新田政義室 ├義顕 渋川
├聖王 └廷用宗器 ├満直






├頼氏 家時 貞氏 基氏── 氏満── ┼満隆






├頼茂 石塔
├英仲法俊
└満貞






├公深 一色
├鶴王 ┌冬氏── ┬義尊






├義弁 上野
└了清 ├等珊 └義将






├賢宝 小俣
直義 如意丸 ├等章






└基氏 加古

直冬── ┴宝山乾珍

足利氏満 あしかが・うじみつ 1359(延文4/正平14)-1398(応永5)
親族 父:足利基氏 母:畠山家国の娘(清渓尼)
正室:北条(常葉)時茂の娘 側室:新田政氏の娘
子:足利満兼、足利満直、足利満隆、足利満貞
官職 左馬頭・左兵衛督
位階 従五位下→従四位下
幕府 鎌倉公方(第2代)
生 涯
―第二代鎌倉公方―

 初代鎌倉公方・足利基氏の嫡男で、足利尊氏の孫にあたる。母親は畠山国清の妹で(別の女性という説もある)、幼名は「金王丸」といった。
 貞治6年(正平22、1367)4月26日に父・基氏が28歳の若さで死去した。このとき嫡子の金王丸はまだ数えで9歳。基氏の相談役でもあった高僧・義堂周信が後ろ盾に立って鎌倉公方の地位を金王丸に継承させ、京からは幕府の宿老・佐々木道誉が派遣されて来て関東の代替わりの処理にあたっている。この年の暮れには二代将軍・足利義詮も死去して三代目の足利義満が引き継いだ。金王丸と義満は一歳違いのいとこ同士(義満が一つ上)で、偶然にも共に幼くして父を失い君主の地位に就かねばならなかった。
 翌応安元年(正平23、1368)に武蔵で「平一揆」(武蔵平氏系武士団)の反乱が起こり、京に出かけていた関東管領の上杉憲顕が引き返して平定に当たり、金王丸自身も武蔵河越まで出陣した。この年9月に上杉憲顕が死去し、その子・能憲と甥の朝房が関東管領を引き継いで「両上杉」として金王丸を補佐した。幼い金王丸が鎌倉公方となることには生母(清渓尼)も不安はあったようで、たびたび義堂周信に会って金王丸の教育係を依頼、義堂はこれに応えて氏満の帝王教育にあたった。

 応安2年(正平24、1369)11月21日に金王丸は11歳で元服し、将軍義満の一字を受けて「氏満」と名乗った。翌応安3年(建徳元、1370)には南朝の新田勢の残党が武蔵に進出したため、氏満は自ら武蔵国本田(埼玉県)まで出陣している。
 応安6年(文中2、1373)11月6日に15歳となった氏満は従五位下・左馬頭に叙せられ、公式文書にサインをする「判始」を行っているが、実際に彼が花押を記した文書はその数年後から確認されており、政治会議の場である評定への出席も永和元年(天授元、1375)6月からであるといい、公式な政治活動の開始はもう少し遅れたようである。
 永和4年(天授4、1378)4月に関東管領・上杉能憲が死去し、その弟の上杉憲春が管領職を継いだ。

―将軍職への野心―

 父・基氏の代で、すでに鎌倉公方は京都の将軍に対する対抗意識があり、時として不穏な噂も流れた。その意識は氏満にも引き継がれ、兄弟関係から従兄弟関係になったことでよりいっそう高まったらしい。
 康暦元年(天授5、1379)2月、畿内では管領・細川頼之に反感を抱く斯波義将佐々木高秀土岐頼康ら有力武将が軍を率いて不穏な動きを見せ、義満は本国に帰ってしまった佐々木・土岐に対する追討を発令した。すると氏満はこれに応じて土岐氏を討つため軍を派遣する動きを見せた。実際に上杉憲方を大将とする軍が派遣されるが、これは結局伊豆三島で引き返すことになる。
 その軍勢出陣直前の3月7日、関東管領の上杉憲春が自害する。これは氏満が斯波義将らの誘いに応じて軍事行動を起こし、義満にとってかわって将軍となる野心を抱いたところ、憲春がそれを死をもって諌めたものと見られている。明確な証拠はないが、当時その風評が広がったことは事実で、氏満が義満に対して野心がないことを示す自筆の告文を出したという話もあるし(「鎌倉大草子」)、翌康暦2年(天授6、1380)に義満が義堂周信を京に呼び寄せてしつこく氏満の叛意の有無を問いただしたという事実もある(義堂は「流言を信じるな」と答えている)。また「康暦」改元はその年の3月22日に行われたのに鎌倉では閏4月になっても「永和」年号を使用していて、これも氏満が義満に対抗する意向の表れではないかと見られている。

 康暦2年2月28日に氏満は従四位下・左兵衛督に昇進した。憲春亡き後の関東管領職は上杉憲方が引き継ぎ、憲方は義満の意向を強く受けて、ともすれば暴走する氏満を牽制する役割を担った。
 この年、下野の小山義政が同国の宇都宮基綱を攻めて戦死させるという事件が起き、6月1日に氏満は小山追討の命を発し、自らも出陣した。小山義政は9月にいったん降伏するが本心からではないと見た氏満は義満に連絡して将軍の名による追討令を求め、翌永徳元年(弘和元、1382)2月に再び小山攻撃にとりかかる。このとき小山氏に呼応した新田一族の蜂起もあり、一進一退の攻防が続いたが、小山氏の拠点・鷺城が陥落したことで12月に小山義政は出家して子の若犬丸に家を継がせ、若犬丸は氏満のもとへ出頭・降参した。
 ところがそのすぐ翌年の永徳2年(弘和2、1383)に小山義政は再び叛き、氏満はまたも出陣して4月13日に義政を自害に追い込んだ。関東の武士の間では名族・小山氏に同情する声も少なくなかったが、氏満はあくまで強硬姿勢を示し、鎌倉公方の権威を高めようとしたようである。
 小山若犬丸は奥州へ逃れ、至徳3年(元中3、1386)に再び挙兵して小山にたてこもり、氏満に抵抗した。この「小山氏の乱」は結局あと十年も続くこととなる。

 嘉慶2年(元中5、1388) 9月、このころ各地を遊覧していた義満は遠く駿河まで足をのばし、富士見物を楽しんだ。しかしこれは鎌倉公方・氏満に対する牽制のデモンストレーションであったという見方が一般的である。
 明徳2年(元中8、1391)12月、山名一族が義満の挑発にのって反乱を起こした(明徳の乱)。このときも氏満は義満を支援すると称して出兵の動きを見せているが、これもまた山名一族から呼びかけがあって将軍職を狙う野心があったのではと見られている。結局一日で乱の決着がついたため出兵は中止されたが、この直後に義満が陸奥・出羽の両国、すなわち東北地方全域を鎌倉公方の直轄とすることを認めており、これは氏満に対する懐柔策であったらしい。
 奥州を直轄下においた氏満は応永3年(1396)2月に陸奥白河まで出陣し、小山若犬丸を支援していた田村氏を破り、若犬丸をほぼ再起不能に追い込んで7月に鎌倉に凱旋した。若犬丸は翌年正月に逃亡先の会津で自殺、その遺児たちは鎌倉に送られて処刑され、名族小山氏は滅亡するに至った。

 応永5年(1398)秋ごろから氏満は病に倒れ、この年11月4日、関東管領の上杉朝宗を枕頭に呼んで政治上のことなどを遺言してから息を引き取った。享年39歳。9歳で父の跡を継いでから30年に及ぶ治世であった。
 鎌倉公方の京都将軍に対する対抗意識は次代の満兼、さらにその次の持氏へと引き継がれ、さらに強まって行くことになる。

参考文献
田辺久子「関東公方足利氏四代・基氏・氏満・満兼・持氏」(吉川弘文館)ほか
歴史小説では 足利義満を主役とする平岩弓枝「獅子の座」などで義満のライバルとして言及されていることがある。上杉憲春の諌死事件が取り上げられることが多い。
漫画では 小学館版「少年少女日本の歴史」で、康暦の政変後の全国情勢を説明する個所で1カットだけ登場、康暦の政変時に軍事的に動こうとしたことが説明されている。

足利家時 あしかが・いえとき 1260(文応元)?-1284(弘安7)?
親族 父:足利頼氏 母:上杉重房の娘  
正室:北条(常葉)時茂の娘 側室:新田政氏の娘
子:足利貞氏
官職 式部丞・伊予守
位階 従五位下
幕府 播磨守護
生 涯
―謎の死を遂げた尊氏の祖父―

 鎌倉時代の足利家の当主で足利尊氏の祖父にあたる。代々北条氏と縁組した足利家としては珍しく上杉氏の女性を母にもつ(この点は尊氏も共通する)。そのため当初は家督を継ぐ予定がなかったのだろうか、足利家代々の「氏」の字を名乗っていない。父の頼氏は病弱であったか早死にしたかしたらしく(彼の没年は不明確である)、家時は少なくとも7歳の時には家督を継いでいたことが下文(くだしぶみ)の存在によって知られる。もっとも成人までは叔父の足利家氏(斯波氏の祖)が代理を務めていたようである。

 これといった事跡を残していないが、彼の名を有名にしているのはなんといっても「置文」の存在である。これは今川了俊「難太平記」に記しているもので、足利家には「七代のちの孫に生まれ変わって天下を取る」との源義家がしたためた置文があり、七代目にあたる家時は自分がその宿願を果たせぬことを嘆いて自害、「我は命を縮めて三代の孫に天下をとらせたまえ」と願う置文を残したという逸話である。はたして三代目の孫の尊氏が「天下をとった」ことになり、今川了俊はこの置文を尊氏・直義とともに実際に見たと記している。ただし了俊の記述では尊氏・直義が「今天下を取ることただこの発願なり」と発言したとなっており、了俊の年齢からしても足利兄弟が幕府をひらいて「天下をとった」後になってこの置文を見たものと読み取れ、尊氏・直義がはじめからこの置文の存在を知っていたのかどうか疑問も感じる。そもそも話ができすぎているのでその存在自体が捏造との疑いもあるが、家時が当時の執事・高師氏にあてた書状を見て感激した、とつづる足利直義の手紙(高師秋宛て書状、観応元年=1350ごろと推定)が実在しており、家時がなんらかの文章を残していたことは事実と思われる。

 家時がいつ死去したのか、自害したかどうかも実際には定かではない。「三河滝山寺記録」は弘安7年(1284)、「鑁阿寺位牌」は延慶2年(1309)、「足利系図」は文保元年(1317)と全くまちまちの没年を記しており、一番遅い説をとると孫の尊氏が成長している段階で自害したことになる。安達泰盛が討たれる「霜月騒動」が弘安8年(1285)に起こっており、家時がなんらかの形で反北条運動に関わりをもち(事実として足利一門の斯波氏・吉良氏で討たれた者はいる)、その結果追い詰められて(あくまで精神的に、かもしれない)自害することになったとみる弘安7年説が今のところ有力視されている。

 墓は報国寺にあったらしく、孫の直義の書状や今川了俊にも「報国寺殿」と呼ばれている。

参考文献
佐藤進一「南北朝の動乱」
「足利尊氏のすべて」「ピクトリアル足利尊氏」の奥富敬之氏の文章ほか
大河ドラマ「太平記」 子・貞氏の回想という形で家時の切腹シーンが2回出てきた(演・小形竹松)。その場面には執事・高師氏とまだ幼い貞氏が立ち会っている。家時の置文は高氏が一門の前で反北条決起を表明した場面で全文が読み上げられた。
その他の映像作品 大河ドラマ「北条時宗」では内山昂輝俊藤光利がその少年時代を演じ、アヴァンタイトルのドラマ部分で幼少時の足利高氏(演・三觜要介)が家時の置文を北条時宗の妻・覚山尼(演・十朱幸代)に見せてしまうというとんでもないシーンもあった。
歴史小説では 直接的に登場することはあまりないが置文の一件で名前だけはよく言及される。
漫画では やはり直接的な登場はないが、尊氏が「回想」する形で家時が描かれる場合がある。集英社の学習漫画「日本の歴史」の最初のバージョンでは中先代の乱鎮圧に赴く尊氏の脳裏に切腹直前の家時の姿が浮かぶカットがある。桜井和生原作・たかださだお画の「劇画・足利尊氏」の冒頭で家時の切腹シーンが描かれている。

足利貞氏 あしかが・さだうじ 1273(文永10)-1331(元弘元)
親族 父:足利家時 母:北条(常葉)時茂の娘 正室:北条顕時の娘(釈迦堂殿) 側室:上杉清子 
子:足利高義・足利尊氏・足利直義
官職 讃岐守
位階 従五位下→贈従三位
幕府 三河・上総守護
生 涯
―ほとんど目立たぬ尊氏の父―

 足利家時の子で足利尊氏の父。父・家時が問題の「置文」を残して自害したのが弘安7年(1284)という説をとると、そのとき貞氏はまだ少年であったと推測される。北条(金沢)顕時娘(釈迦堂殿)を正室に迎え、長子・高義をもうけているが、この高義は早世したとされるだけでまったく謎に包まれている。この正室も早く亡くなったのか記録がほとんどなく、側室の上杉清子が事実上の正室扱いとなっている。清子との間に次男の又太郎、のちの高氏(尊氏)が生まれたのは嘉元3年(1305)、貞氏が33歳の時である。翌年にはやはり清子との間に三男の直義が生まれている(一年遅くする見解あり)

 尊卑分脈によれば応長元年(1311)に出家して義観と号したとあり、これは得宗・北条貞時の死去に殉じたものと思われるが、正安3年(1301)に貞時の出家に従って出家したとする説もある。父・家時の自害にもみえるように足利家は清和源氏の名門・武家の棟梁とみなされ潜在的な反北条の名族といえたが、貞氏の代は基本的に北条一族と友好的な関係の維持に努めたようで、元亨3年(1323)10月の北条貞時十三回忌の法要では北条一族と共に法華経法師品を書写し、捧物30貫と共に贈進、進物として銭200貫文を送りっており、その記録では「足利殿」として北条一門同様の扱いを受けている。そして後継者の高氏の正室に北条(赤橋)家の登子を迎え、関係をより強固とした。その一方でいつか北条を打倒しようと野心を抱き妻の実家である上杉家の人々だけにはひそかに相談をしていたともいう(今川了俊『難太平記』)

 政治的動向はあまり伝わらないが、嘉元の乱(1305)の折には罪人・海老名秀綱を預かる役目を務め、元弘の変発覚直後(元弘元年6月)には首謀者の一人として鎌倉に連行された忠円僧正を自邸に預かったことが「太平記」に記されている。なお、古典「太平記」に足利貞氏の名が現れるのはこの箇所のみである。
 後醍醐天皇が笠置山に挙兵した直後の元弘元年(1331)9月5日に死去した。その直後に高氏は畿内への出陣を命じられ、これが高氏が反北条の意思を固める原因となったと「太平記」は記す(ただし「太平記」は貞氏の死を高氏が実際に挙兵する直前に移している)。なお、貞氏はその死の前年まで足利家当主として家政を仕切っていることが確認でき、結局その死まで足利家家督を高氏に譲らなかったようである。

 鎌倉の浄妙寺に葬られ、後年「浄妙寺殿」と呼ばれる。浄妙寺には貞氏の墓と伝えられる宝筐院塔があるが、「明徳三年(1392)」の銘があるため貞氏の墓かどうかはかなり疑問。貞氏の位牌の実物はこの寺に保存されている。

参考文献
新人物往来社「足利尊氏のすべて」「北条高時のすべて」ほか
大河ドラマ「太平記」 主人公の父ということでドラマ序盤を支える重要な役どころとして緒形拳が演じ、時に優しく時に厳しい父親として渋い存在感を見せていた。父・家時自害の無念と源氏の棟梁のプライドとで熱い思いを胸に秘めつつ、平和裏の幕府の立て直しを模索して北条氏との友好関係を維持しようとする現実家として描かれた。正室の北条(金沢)顕時の娘とは性格不一致(?)か正室の方が精神を病んだかで別居している設定になっており、貞氏が金沢貞顕(貞氏正室の兄)の屋敷を訪ねるとその正室の遊び呆ける姿をかいま見て溜息をつくという描写もあった。貞顕が「すでに貴殿には上杉どのが家の女房としておられたのだ。こうなることは見えていた」と語るセリフもあった。この正室との間に生まれた高義については全く言及されていない。離婚状態とはいえ義兄となる金沢貞顕(演・児玉清)とは互いに信頼の厚い友人関係に描かれた。一方で動乱の予兆も感じ取って早い段階で楠木氏に目をつけたり、高氏の隠し子の存在を高氏の知らぬ間にキャッチしてひそかに保護するなど情報収集にたけた当主という側面も描かれた。
歴史小説では 尊氏の父であるが、逸話がほとんど伝わらないため小説でもあまり登場しない。吉川英治「私本太平記」でも病弱の設定でほんの少ししか登場していない。新田次郎「新田義貞」では義貞の初恋の女性を側室に迎えたり義貞を見下した態度で扱うなど悪役めいているが、その死に際して高氏に同じ源氏嫡流の新田と協力するよう遺言し、実は義貞を高く評価していたことが明らかになる。
漫画では 意外に登場が多い。臨終に際して高氏に足利家の宿願を語る場面がほとんどだが、桜井和生原作・たかださだお画の「劇画・足利尊氏」は尊氏の青春ドラマということもあってしばしば登場し、ドラ息子な高氏を厳しくしつける教育パパぶりを発揮していた。湯口聖子「風の墓標」では直義に家時の置文を見せる場面でチラリと顔を見せており、珍しく史実どおり出家姿になっている。
河部真道『バンデット』では赤松円心や後醍醐とタメをはれるほどの非情で大迫力のキャラクターに描かれ、これまでにない貞氏像となった。嫡男の高義を死んだことにして追放した設定で、その高義が爆薬を使った北条打倒計画を練ると最初はそれに賛同しながら高義の抹殺を図り、爆死(?)したかのような描写がなされた。

足利千寿王 あしかが・せんじゅおう 1351(観応2、正平6)-1355(文和4、正平10)
親族 父:足利義詮 母:渋川幸子
兄弟:柏庭清祖・足利義満・足利満詮・廷用宗器
生 涯
―夭折した義詮の長男―

 足利義詮の長男。「千寿王丸」とも。母は義詮の正室・渋川幸子。観応2年(正平6、1351)7月27日に生まれ、世継ぎと期待されて父と同じく「千寿王」と名付けられた。光厳上皇からもその誕生を祝って太刀が贈られている(「園太暦」)。将軍・足利尊氏にとっては初孫であった。
 しかし文和4年(正平10、1355)7月に病で重態となり、18日からその快癒を祈って尊氏と義詮は東寺・清水寺・西大寺、さらに尊氏の護持僧である賢俊に祈祷をさせている。だがその甲斐なく7月22日に千寿王は5歳で夭折した(「賢俊僧正日記」「東寺百合文書」等)
 以後、渋川幸子は子に恵まれず、義詮は紀良子を側室に迎えて、良子が足利義満を産むことになる。

足利尊氏 あしかが・たかうじ 1305(嘉元3)-1358(延文3/正平13)
親族 父:足利貞氏 母:上杉清子 正室:北条(赤橋)登子 側室:越前局・加古基氏の娘 兄弟:足利高義(兄)・足利直義(弟) 
子女:足利直冬・竹若・足利義詮・足利基氏・女子4人?(女子はいずれも夭折)
官職 治部大輔・左兵衛督・武蔵守・権大納言・征夷大将軍・贈左大臣
位階 従五位下→従四位下→従三位→従二位→正二位→贈従一位
建武の新政 武蔵・常陸・下総守護
幕府 上総・三河守護(鎌倉幕府)、室町幕府初代将軍
生 涯
 通名は又太郎、初名は高氏。清和源氏の名門・足利家に生まれ、鎌倉幕府・建武政権を相次いで打倒し、南北朝動乱を生き抜いて室町幕府を創設した武将。その生涯は南北朝動乱前半史そのものといっていい。

―誕生〜青春期―

  足利貞氏の次男として嘉元3年(1305)に生まれ、幼名・通名は又太郎と名づけられたとされる。母は側室であった上杉清子で、出生地については鎌倉とするのが定説となっているが、清子の実家・上杉家の領地である丹波・綾部で生まれたとの伝説もある(上杉清子の項目を参照)。彼より前に貞氏の正室・釈迦堂殿(北条顕時の娘)が生んだ異母兄・高義がいるとされるが、早世したとされるだけで事情はほとんど不明である。尊氏の通名「又太郎」もそれに関して複雑な経緯を表しているのかも知れない。今川了俊『難太平記』は尊氏が生まれて産湯をつかっていた時、山鳩が二羽飛んできて、一羽が尊氏の肩に、一羽が柄杓の柄に止まる奇瑞があり、北条氏の天下のうちは警戒を恐れて公にされなかったと伝えている。母の清子はすぐ翌年(異説あり)に弟・直義を生んだ。

 元服の時期は不明だが、得宗・北条高時の諱を受けて「高氏」と名乗った。元応元年(1319)10月10日に従五位下・治部大輔に任じられているので、このときが元服だったと思われる。しかし『足利系図』によればすぐ翌年の元応2年(1320)9月5日に治部大輔を辞したとある。これが何を意味するのかは分からない。これに先立って死んだ兄の高義は貞氏から家督を譲られていた形跡がある一方で、その死後貞氏が家政をとりしきって終生尊氏に家督を譲らなかったことから、貞氏は高義の遺児に相続させるつもりでいたとの推測もある。若き日の高氏は非常に不安定な立場だったとも考えられるのだ。
 恐らく嘉暦2年(1327)ごろに北条家・赤橋流の姫・登子と結婚して足利・北条両家の絆を強め、高氏自身も足利家後継者の地位を固めているが、それと同時期に「越前局」という女性のもとに「忍んで一夜通い」(「太平記」)、のちの足利直冬をもうけている。高氏はこの子を長く自らの子と認めなかったとされ、鎌倉の東勝寺に喝食(かっしょく)として預けていたと伝えられる。他に加古基氏(足利一門)の娘に竹若という男児を産ませているがこれも伊豆に預けており、いずれも北条氏から迎えた正室・登子に配慮した措置だった可能性もある。直冬と竹若の出生順は明白ではないが、「太平記」が竹若を「長子」と明記していることから竹若・直冬の順であったとみられる。登子との間には元徳2年(1330)に千寿王(のちの足利義詮)が生まれている。

 動乱が起こる以前の高氏の事跡としては、和歌における熱心な活動が知られる。嘉暦元年(1326)に成立した勅撰和歌集「続拾遺集」「かきすつる 藻屑なりとも この度は かへらでとまれ 和歌の浦波」(「わたくしが書き捨てた藻屑のような和歌ですが今度こそ入選してほしいものだ」という意に掛け言葉が使われている)の一首が入選している。この歌の内容からそれ以前の勅撰和歌集「続千載集」(元応元年=1319)に応募、落選していることが推測され、高氏が少年時代から和歌の道にいそしんでいたことが分かる。その後も高氏は二条為世為冬周辺の歌壇で活動したとみえ、動乱を間近に控えた元弘元年(1331)に成立した私選集「臨永集」には「述懐の心を」と題して「これのみや 身の思ひ出と なりぬらん 名をかけそめし 和歌の浦浪」(和歌の世界で多少名を知られたことだけが一生の思い出だ)という高氏の歌が載る。当時27歳の高氏はその後の自身の激動の人生を全く予期していなかったのだ(尊氏の和歌事情については小川剛生『武士はなぜ歌を詠むか・鎌倉将軍から戦国大名まで』で一章を割いて論じられている)。 

―鎌倉幕府の打倒―

 元弘元年(1331)9月5日に父・貞氏が病死した。おりしも後醍醐天皇が笠置山に挙兵し、「元弘の乱」が勃発した直後である。幕府は父の喪も明けぬ高氏に畿内への出陣を命じ、高氏はこれを恨んで反北条の決意を固めたと「太平記」は記す(ただし「太平記」は貞氏の死を実際の挙兵の直前に移している)。笠置落城後、幕府軍は楠木正成が抵抗を続ける赤坂城への攻略に向かっており、高氏も赤坂城での正成の奮戦を目撃したことにしている作品がいくつかあるが、このとき高氏が伊賀方面へ進駐して兵の乱暴を禁じる命令書が残っており、実際には赤坂城の戦いには参加しなかったと推測される。伊賀は楠木一族との関係が深く「悪党」の本場であったため尊氏はその掃討を命じられていたのではないかとの説もある(新井孝重「黒田悪党たちの中世」など)。大河ドラマ「太平記」もこの説をとり、ここで高氏と正成が遭遇するフィクションが加えられていた。
 笠置・赤坂の落城でいったん高氏は京に引き揚げたが、持明院統の花園上皇の日記によると、幕府軍の首脳たちが持明院統派の皇族や公家たちに挨拶している中で高氏だけはさっさと鎌倉へひきあげてしまい、やや不評を買った気配がある。

 元弘3年(正慶2、1333)、楠木正成・護良親王らの反幕府活動が再発し、隠岐に流されていた後醍醐天皇も脱出、情勢は一気に緊迫化し、3月に高氏にふたたび出陣の命が下る。このときすでに倒幕の決意を固めていた高氏は家族も連れて出陣しようとしたが、幕府は妻子を人質として鎌倉に残すよう命じた。執権・赤橋守時の妹婿で一門扱いでもある高氏に対して異例の措置と思われるが、やはり足利家が疑惑の目でみられていたということだろう。「太平記」では弟・直義が迷う高氏を励まして妻子を人質に残しつつ挙兵の決意を固めたことになっている。一方、今川了俊「難太平記」は母方の伯父・上杉憲房が家時以来の宿願を高氏に伝えてかねて挙兵をうながしており、三河国八橋まで進軍した時に白い衣の女が現われ「ご子孫悪事なくば七代守るべし」と告げる「不思議」があったため高氏がここで意を決し、三河で一門に挙兵の意思を告げたことになっている。3月27日に北条一門の名越高家と前後して鎌倉を出陣した高氏は、4月16日に京都に入った。この途上で佐々木道誉と倒幕の密談をしたとする史料(やはり佐々木家のもの)もある。

 4月27日、共に出陣していた名越高家が久我縄手での赤松軍との戦いで戦死すると、酒盛りしながらそれを待って高氏の軍は領地である丹波・篠村へと移動を始めた。この27日付を最古とする高氏の密書が各地の武士に発せられていたことが確認されており、この中で高氏はすでに後醍醐の綸旨を受けていると表明し味方に馳せ参じるよう催促している。高氏の呼びかけに応じて多くの武士が馳せ参じ、たちまち二万の軍勢にふくれあがったという。4月29日に篠村八幡宮で高氏は願文(現存するが偽作説もある)を捧げ、倒幕の挙兵を宣言、逆に六波羅探題を攻略するべく京都へと進撃した。5月7日に六波羅は陥落、翌8日には上野で新田義貞が討幕の挙兵をしており、これも高氏と事前に示し合わせていたものとみる見解もある。このとき千寿王は高氏寝返りの知らせが届く前に鎌倉を脱出して新田軍に合流したが、伊豆にいた竹若は叔父の覚遍と共に西へ向け逃亡の途中に幕府方に発見され、殺害されてしまっている。

―建武政権への反旗―

  後醍醐天皇が京へ帰還すると高氏は勲功第一とされ、北条氏がつとめた武蔵守の官位と多くの所領、そして後醍醐の諱「尊治」の一字を与えられ、以後「尊氏」と名乗ることになった。しかし後醍醐入京以前から尊氏は京に奉行所を構えて軍政を敷き、早くも武家の棟梁であるかのように振舞っていて、当人も征夷大将軍に任じられるのが当然と考えていたフシがある。だがそれは天皇親政を目指す後醍醐のいれるところではなく、やはり尊氏を警戒する護良親王を征夷大将軍に任じて尊氏に対抗させている。後醍醐の新政府(建武政権)に尊氏は上杉憲房や高師直といった腹心を雑訴決断所に勤めさせているが本人は一定の距離を置いており、人々は「尊氏なし」とささやきあったと「梅松論」は伝える。1333年10月の義良親王北畠顕家による奥州将軍府の設置は足利勢力に対する牽制策であったと言われ、それに続く12月の成良親王・足利直義の鎌倉将軍府の設置は足利側の巻き返しであったとされる。

 建武元年(1334)には護良親王と尊氏の対立が激化、護良は何度か尊氏暗殺を試みるが失敗する。これに対し尊氏は後醍醐の寵妃・阿野廉子を通して護良に反逆の疑いありと讒言し逮捕にいたらしめた、とするのが「太平記」の語るストーリーだが、実際には護良の背後には後醍醐自身の意思があり、それを尊氏に追及された後醍醐が保身のために護良を切り捨てた、とみる見解が有力である。この年10月に捕縛された護良は翌月には直義のいる鎌倉へと送られ、幽閉される。

 翌建武2年(1335)7月、諏訪で高時の遺児・北条時行が挙兵、建武政権に不満をもっていた武士層を糾合して大軍となり、一挙に22日には鎌倉を攻め落とした(中先代の乱)。敗れた直義は混乱の中で護良親王を暗殺、成良親王を都へ送り返して自らは足利の拠点である三河国にとどまった。この時点で直義が東国に足利独立政権を築く構想をもっていたとする見解もある(佐藤進一「南北朝の動乱」)。直後に尊氏は後醍醐に時行討伐のための出陣と共に征夷大将軍・総追捕使の地位を要求、これは明らかに幕府再建を意味するもので、直義と尊氏の間で連絡・合意があったものと考えられる。後醍醐はこれを拒絶したが尊氏は無視して8月2日に出陣、慌てた後醍醐は「征東将軍」の称号を尊氏に後追いで授けた。尊氏の出陣に建武政権に不満をもつ多くの武士が馳せ参じ、尊氏は三河で直義と合流すると関東へと進撃、破竹の勢いで19日には鎌倉を奪回する。そしてそのまま鎌倉にとどまり、事実上建武政権から離脱して東国武家政権を樹立する。尊氏は「将軍」として合戦に参加した武士たちへの恩賞の処置を行い、新田領までも勝手に恩賞として与えてしまったため義貞との対立を深めていくが、尊氏はあくまでも後醍醐天皇と争うつもりはなく源頼朝の例にならって東国武家政権の既成事実化を図るつもりであったようだ。実際、京への帰還命令が下ると尊氏はこれに応じようとし、直義らに押しとどめられている。

 しかし直義が各地へ発した軍勢催促状や護良親王殺害の事実が暴露されると、11月に後醍醐は尊氏の討伐を新田義貞に命じた。新田軍の出陣を聞いた尊氏は「天皇にさからう意思はない」としてわずかな側近とともに浄光明寺に引きこもってしまう。直義らが新田軍を迎え撃ったが主将なき足利軍は東海道の各所で連敗、一気に箱根まで後退を余儀なくされた。一時は髻(もとどり)を切って出家遁世を決意した尊氏だったが、この危機にいたって「直義が死んでは自分が生きていても無益である」(梅松論)として翻意し(太平記は直義が作った偽の綸旨にだまされたとする)12月8日に鎌倉を出陣、尊氏自らの出馬を聞いた武将たちの寝返りが続出してたちまち形勢は逆転、箱根・竹ノ下の戦いで新田軍を撃破する。この戦いで官軍にいた公家・二条為冬が戦死したが、為冬は尊氏の「朋友」(おそらく和歌を通じて)であったといい、尊氏はその首を見て深く悲しんだという(梅松論)

―西走東奔―

 新田軍を撃破した足利軍は、鎌倉に戻るか京都へ進むか議論の末、京都目指して西進と決定する。年が明けた建武3年(延元元、1336)1月11日には足利軍は官軍側の防衛線を突破して京都へと入った。ところがその直後に足利軍の後を追って奥州から駆け付けた北畠顕家の軍勢が京に到着、激しい市街戦が展開され、1月27日に足利軍は京を捨てて丹波へとのがれる。2月に摂津・兵庫に移って態勢を立て直したが、打出浜・豊島河原の戦いであいついで敗北し、2月12日、ついに尊氏は兵庫から船に乗って西へと逃走した。しかしこの間に赤松円心の献策により光厳上皇の院宣をえる工作を進め、「元弘没収地返付令」を発布して土地をすべて建武新政以前の状態に戻すことを表明するという布石を打ち、このことが「武士たちが勝った官軍を捨てて敗れた足利軍についていく」と楠木正成が嘆いた現象を引き起こしている。

 尊氏は山陽道の要所要所に有力武将と軍勢を配置しつつ西へ向かい、備後・鞆で三宝院賢俊(日野資朝の弟)によりもたらされた光厳上皇の院宣を受け、「官軍」としての大義名分を得て九州へと向かった。この九州行きは「敗走」ではなく態勢立て直しのため戦略的なものだったとするのが有力ではあるが、尊氏は九州の強力な味方である少弐・大友・島津の三氏をあてにしていたようで九州上陸時にはわずか数百人しか率いていない。ところが尊氏を迎え撃つべく菊地武敏が素早く行動を起こし、少弐氏の拠点・太宰府を攻め落として、数万の大軍で尊氏らに襲いかかって来た。3月2日に筑前・博多湾の多々良浜で両軍は衝突したが、尊氏の敵のあまりの多さに敗北必至とみて戦意喪失、自害をしかけたが直義に励まされて思いとどまったと「太平記」は伝える。この菊地の大軍も実は大半が「模様眺め」で参陣した九州武士で、少弐頼尚と足利直義らの奮戦や一時の暴風の助けもあって形勢が足利有利に傾くと見るや寝返りが続出、足利軍は奇跡的な逆転勝利を得る。この多々良浜合戦の勝利により一挙に九州を制圧した尊氏は、早くも4月3日に博多を出発して東上を開始する。

 5月5日に備後・鞆についた足利軍はここで海路を尊氏、陸路を直義と二手に分かれた。足利軍の東上に新田義貞は赤松円心のこもる白旗城包囲を解いて退却したが、このとき円心は新田軍が放置した旗印百余を尊氏のもとへ持参している。旗印の中にはもともと足利軍に加わって新田軍に寝返っていた武士のものも含まれていたが、これを見た尊氏は「一時の窮地をのがれようと義貞に属したその心は哀れである。彼らもやがてこちらの味方に来るだろう」と喜びの表情を見せたという(梅松論)。5月25日、足利軍の上陸をはばむべく兵庫に布陣した新田義貞・楠木正成らと「湊川の合戦」となり、足利軍は大軍の勢いのままに圧勝、新田義貞は京へと敗走し、楠木正成らは激闘の末に自刃した。このとき尊氏は正成の首を得て「公私ともに長く親しんだよしみを思えば哀れである」として河内の正成の遺族のもとに首を送ったと「太平記」は伝える。尊氏が正成と個人的に交友があったことを示唆する話はここにしかなくこの逸話の信憑性を疑う見解もあるが、尊氏が正成を以前から高く評価してその死を悼んだことは「梅松論」や書状からもうかがえる。

 6月14日、尊氏は京都に入り光厳上皇を迎えて東寺に本陣を置いた。比叡山にたてこもった後醍醐天皇側との激しい戦闘が続くなか8月15日に光厳の弟・豊仁親王を新天皇(光明天皇)に即位させる。その二日後の8月17日、尊氏は清水寺に有名な願文を納めた。「この世は夢の如くに候」と変転の激しい世の成り行きを嘆じ、「早く遁世したい。今生の果報はすべて直義にあたえてほしい」と切々と訴えるこの願文はおよそ勝利側の総大将が書くものとは思えない内容で、尊氏の「遁世願望」がこの時期またも頭をもたげていたようだ。10月にひとまずの和議が成立して後醍醐は比叡山を降り、三種の神器は光明天皇側に引き渡され、11月7日に足利幕府の施政方針である「建武式目」が発表され、京都に新幕府が発足する。
 ところが12月21日に花山院に軟禁されていた後醍醐が脱走、京は大騒ぎとなった。慌てて武装して馳せ参じた武将らを前に尊氏はちっとも驚いた様子を見せず、「先帝を花山院に軟禁するのも警備の手間が大変だし、北条のようにどこぞへ島流しにするわけにもいかず、困っていたところだ。今度の脱走はむしろ大儀の中の吉事である。きっと畿内のどこかにおられるのだろうが、あとはご本人の好きなようにどこへと落ちられればよい。運は天の定めるところで我らがどうこうできるものではない」と語り、武将たちを感嘆させたという(梅松論)。結果からいえばこれはかなり甘い観測と言わざるを得ないが、尊氏は後醍醐に個人的に親近感を持っており、これと全面対決は避け、自然消滅が望ましいと思っていたのかもしれない。

―南北朝動乱―

 京を脱走した後醍醐は吉野に入り、自らが正統の天皇と主張(南朝の開始)、全国の南朝方に足利打倒を呼びかけた。奥州の北畠顕家、北陸の新田義貞がこれに呼応したが、建武5年(1338)のうちに相次いで敗死し、足利政権の天下はひとまず盤石になったかに見えた。源氏・武家の棟梁の地位を争った最大のライバルである新田義貞が戦死したのは建武5年閏7月で、その翌月8月11日に尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任命され、尊氏は名実ともに武家の棟梁となり、足利幕府を本格的に発足させる。尊氏は自らは将軍として武士をたばねる軍事面での指導者、限りなく象徴的な立場となり、実際の政務は弟の直義にゆだねた。見事なコンビネーションの二人三脚で天下取りを実現した兄弟ならではの権力分担・二頭体制だったが、これはやがて幕府内部の深刻な亀裂の要因となっていく。

 暦応2年(延元4、1339)8月16日、後醍醐天皇が失意のうちに吉野で死去した。この訃報に尊氏が強い衝撃を受けたことは確かなようで、後醍醐没後12日目から服喪として幕府の政務を七日間停止させ、百箇日には尊氏自身が願文をしたため法要を営んでいる。この願文は現存しており、そのなかで尊氏は後醍醐の徳を型どおり称えつつ、「温柔の叡旨なお耳の底に留まり、攀慕の愁腸なお心端に尽き難し。恩恵窮まりなし。報謝なんぞおろそかにせん(その優しいお声は今も耳に残り、なごりを惜しんで悲しむ心は尽きることがありません。受けたご恩は多大であり、感謝をおろそかにするようなことはいたしません)」と記している。さらに夢窓疎石のすすめで光厳上皇の院宣を受ける形で後醍醐の霊をなぐさめる天竜寺を造営している。これらの行動は政治的なパフォーマンスや後醍醐の怨霊を実際に恐れての措置と見ることもできるが、尊氏自身が後醍醐個人を敬愛していた可能性は高く、それゆえに自身が後醍醐を失意の死に追いやったことに強い悔恨を覚えたのではないかとの見方も強い。天竜寺造営にあたってはその費用捻出のために元への貿易船(天竜寺船)を派遣しており(康永元年=1342)、足利幕府として最初の貿易・対外政策としても注目される。

 康永元年(興国3、1342)12月に母・清子が死去した。その後楠木正行ら南朝軍の一時的攻勢もあったが高師直・師泰がこれを撃破、吉野を焼き払って南朝をほぼ壊滅に追い込んだ。同じころ直義の養子として元服した尊氏の実子・直冬も紀伊の南朝勢力を平定し武将としてデビューする。しかし政務を担当し朝廷・公家など旧勢力と共存をはかる直義派と、武功でのし上がり古い権威を認めずむしろ打破しようとする師直派の対立は次第に深刻化していった。
 その間に尊氏はといえば現実逃避なのか田楽見物にいそしんでおり、貞和5年(正平4、1349)6月に起こった四条河原の橋勧進の大田楽興 業での桟敷倒壊事故の時にも現場に居合わせている。「梅松論」によれば尊氏は直義に「お前は政治をする身なのだから、重々しくふるまえ。遊んだりして時間を浪費してはいけない。花見や紅葉狩りぐらいならともかく、物見遊山はほどほどにしろ。お前に重々しくしてもらえば、私は軽々とふるまって、武士たちにも良く接して慕われるようになるし、朝廷のためにもいいことだ」と言ったという。あまり信用されない後世の史料だが、あまりに田楽に熱中する尊氏を直義がいさめたところ「天下のことはすべてお前に任せている。何事も師直と相談して進めて私をわずらわすことはあるまい。自分はもう五十に近く、余生は遊んで暮らしたいのだ」と語ったという逸話が伝わる(江戸時代編纂の『続本朝通鑑』)

―観応の擾乱―

 その翌月、閏6月15日に直義らは尊氏に迫って師直を執事職から解任させた。7月に直義らはさらに師直の暗殺を謀ったが失敗、8月12日には師直一派が軍勢を集め直義打倒のクーデターを起こす。尊氏から手紙で来るよう言われた直義が尊氏邸に逃げ込むと師直軍はこれを包囲した。このとき尊氏は「家臣の手にかかるぐらいなら兄弟ともども自害しよう」とまで言ったが、結局直義が政務を降りることを表明して包囲は解かれた。この無血クーデターは実は尊氏と師直が直義を引退に追い込むための「芝居」であったとする説が当時からあり、事実として直義は引退・出家、鎌倉にいた尊氏の嫡男・義詮が政務担当となり尊氏の後継者の地位を確実にしていることから、それが真相とみる研究者が多い。

 翌観応元年(正平5、1350)10月、直義の養子・直冬が九州で勢力を強めていることを危惧した尊氏は自らこれを討つべく出陣した。その出陣の前日に京都で幽閉状態にあった直義が失踪、師直が捜索を求めたがなぜか尊氏は放置してそのまま出陣した(洞院公賢の日記に人々が尊氏の態度を不審がり、尊氏と師直が不和との噂が流れたことが書かれている)。直義は畠山国清細川顕氏石塔頼房桃井直常ら直義派の武将たちを糾合して南朝に降り、その綸旨を受ける形で京都を占領した。尊氏・師直は急いで京へ取って返し、京都をめぐって攻防を繰り広げたが、観応2年(正平6、1351)2月の摂津・打出浜の戦いで大敗、赤松氏の松岡城にこもって一時は自害を覚悟した。ここで尊氏の小姓の饗庭命鶴丸が直義と和睦交渉をすすめ、直義は師直・師泰兄弟の出家・引退を条件に和睦に応じた。師直兄弟はこれを受け入れ出家して投降したが、2月26日、武庫川で直義派の上杉能憲により暗殺されてしまう。この和睦の時に尊氏が直義に「師直が自分を殺そうとしている。和議成立後に師直を殺せ」と指示していたとする史料(江戸時代に編纂された「続本朝通鑑」)があるが、確証はない。

 事態は直義派の圧勝に終わったかにみえたが、ここで尊氏は奇怪な言動を見せ始める。京に戻ってからの交渉で尊氏は「自分の側で戦った武将たちの恩賞を先に行う」ことを直義に約束させ上機嫌になり、師直を暗殺した上杉能憲の死罪を主張して直義の説得により流罪に処したり、戦勝に意気上がる直義派の細川顕氏が自邸に訪ねてくると「降参人が何をしにきた」と追い返すなど、敗者とはとても思えぬ言動を見せるのだ。細川顕氏はこの尊氏の態度に「初めて恐怖の色をあらわした」と伝えられ、いつの間にか尊氏側に接近するようになっていく。

 7月、佐々木道誉と赤松則祐が南朝側に寝返ったとして尊氏・義詮はそれぞれ出陣した。これが京を東西から挟撃する作戦ではと恐れた直義らは京を脱出した。このとき古典「太平記」では京を出た直義軍がまた攻め込んでくるのではと恐れる義詮に対し尊氏が「運は天にあり。何も恐れる必要はない」といたって平静に短冊を手に和歌を詠んでいたと伝えている。10月に尊氏は南朝への降伏を決意、事実上北朝を見殺しにすることで敵を直義一派にしぼりこんだ(正平の一統)。この前に直義が南朝との考証に際して幕府存続を断固主張したのに対して尊氏はいたって柔軟に「元弘の乱以前の状態に戻す」の一言で和議をまとめているのは、これが一時的な講和にすぎないと分かっていたからでもあろう。南朝から直義討伐の綸旨を受けた尊氏は関東へ逃れた直義を追い各地で転戦、駿河国・薩埵山の合戦で直義軍をほぼ壊滅させ、鎌倉を攻め落として直義を捕えた。直義は翌文和元年(正平7、1352)2月26日に鎌倉の幽閉先で急死し、死因は「黄疸」と発表されたが、尊氏により毒殺されたとの見方が当時から有力。直義の命日がちょうど師直の一周忌にあたっていることもその根拠である。しかしその精神的打撃のためか、尊氏は直後に病に倒れて一時危篤状態になったと伝えられる。少なくともこのころから尊氏は病との長い闘いを始めていたようである。

―晩年―

 尊氏が関東へ出陣している間に「正平の一統」を実現した南朝軍は和議を一方的に破り、尊氏の留守を守る義詮の隙を突いて京都を急襲、南朝総帥の北畠親房は17年ぶりに京の土を踏んだ。同じころ関東でも宗良親王新田義宗・北条時行ら南朝軍による大攻勢が始まり、病から復帰した尊氏も苦戦を強いられ一時は鎌倉を奪い取られている。しかし南朝軍の勢いも一時のものに過ぎず、関東でも畿内でも間もなく足利軍が京・鎌倉を奪回した。南朝は北朝再建を阻止するため光厳・光明・崇光の三上皇を賀名生へと拉致したが、義詮らは出家の予定で寺にいた光厳の皇子・弥仁親王を神器なし、光厳の母を「治天」とする非常処置で新天皇に即位させた(後光厳天皇)
 その後文和2年(正平8、1353)6月に山名時氏が南朝に寝返って旧直義党や楠木正儀ら南朝軍と共に京都を奪取、尊氏はようやくこの年の7月に関東を去り、9月に美濃で義詮と合流して京都を奪回した。この年10月にも尊氏は重病に倒れて後光厳天皇や三男・基氏から平癒祈願を受けている。尊氏自身はもちこたえたが翌11月に身代わりのように娘の鶴王(母は登子)が病に倒れ、尊氏は娘の平癒を祈願したがかなわず、鶴王は夭折した。尊氏は以前洞院公賢にわざわざ「娘を“姫君”と呼んでよいかどうか」と問い合わせたこの娘の死を深く悲しみ、翌々年朝廷から「頼子」の名と崇光上皇女御(ということにする)の待遇、従一位の贈位を受けるなどいささか子煩悩な一面を見せている。

 このころ一方の子供である足利直冬は南朝に降り、九州から中国に進出して山名時氏や旧直義党に盟主としてかつぎだされようとしていた。義詮がこれを討とうとしたが尊氏は「兄弟の争いになっては人々が困るから尊氏自らが討伐する」(一色範光の島津道鑑宛書状より)と自ら出陣を決定したがこれがなかなか実行されないうちに(病身のためか)文和3年(正平9、1354)10月には直冬側が京へ進撃、翌年正月に山名時氏・石塔頼房・桃井直常らとともに尊氏らを追い払って入京した。尊氏はいったん比叡山に逃れてから態勢を立て直し、3月には直冬軍を京から追い出すことに成功する。
 直冬をひとまず撃退した尊氏は旧直義党に投降を呼びかけ、延文元年(正平11、1356)に越前守護の直義党の大物・斯波高経の投降を勝ち取った。南朝との和平交渉も進めていて、翌延文2年(正平12、1357)2月に南朝に拉致されていた光厳上皇ら北朝皇族達が京都に帰還しているのもその表れと言われる。南朝との和議は結局7月に決裂しているが、この尊氏晩年の約三年間はしばらくぶりに京都周辺で戦争のない穏やかな時期となっていた。この年尊氏はまたも重病となり、護持僧で「将軍門跡」と呼ばれた三宝院賢俊が「我が身に代えて」と平癒を祈願、まるでその望みをかなえるかのように尊氏は回復し、代わりに賢俊が死んだ。

 延文3年(正平13、1358)2月12日、突然北朝は足利直義に従二位の贈位を行った。近衛道嗣の日記によればこれは尊氏からの突然の要請によるもので「その故を知らず(理由不明)」とされ、「太平記」も「とうに出家し死去している者に贈位した例はない」と批判的に記している。歴史家の中にはこれは死期が迫ったことを悟った尊氏が自ら手にかけた直義に対する罪滅ぼしのつもりではなかったかと推測する向きもある。これに先立つ正月に天竜寺が火事で炎上しており、これも尊氏の心を苦しめたのではないかと言われる。
 だが九州において懐良親王率いる南朝軍、あるいは直冬党の活動が盛んで幕府は手も足も出ない状況にあり、尊氏は自ら遠征してこれを平定しようと決意した。出陣は3月8日と発表されたがその8日に21日に延期と発表され、結局義詮の諫めにより遠征そのものが中止となった。公表はされていないが尊氏の病状が悪化したためと思われ、4月22日には尊氏の重態が世間に知られるようになっている。そして4月30日、二条万里小路の邸宅において尊氏はついに息絶えた。享年54。このとき義詮の側室・紀良子の胎内には、南北朝動乱を終わらせる孫の義満が4ヶ月後の誕生を待っていた。
 尊氏の墓は京都・等持院にある。また遺髪は育った故郷である鎌倉の長寿寺に納められ、ここにも彼の墓がある。また誕生地との説もある丹波・綾部の安国寺にも母・清子と妻・登子と共に分骨された尊氏の墓がある。

―人物―

 その生涯のうちに天下統一を達成することはなかったが、室町幕府の創設者、南北朝動乱の一応の勝利者ということで時代の代表者であることは間違いない。とくに変転の激しい動乱の中で多くの群雄が非命に倒れる中で曲がりなりにも勝ち抜き生き抜いたことは彼の非凡さの証明といえるだろう。ただスタート時点ですでに「源氏の棟梁」扱いされている名門、鎌倉幕府・建武政権ともに実質ナンバー2の位置にいながらそれらを打倒するという天下取りの経緯、天下を取ってからも弟と争いそれを死に追いやる結果になるなど、一般受けがしにくい要素が多い人物であることは否めない。悲劇の英雄でもなく立身出世の苦労人でもなく、といって非情に徹した陰謀家でも天才的戦略家でもなさそうなところが「歴史英雄」ファンの食指を呼ばないのだろう。

 ほぼ同時代の成立であり広く親しまれた軍記物語「太平記」でも、登場回数は最多に近い重要キャラクターながら武将らしい華がない。何かというと自害を覚悟し、時には出家しようとひきこもるなど気弱な描写ばかりが目につくぐらいで尊氏の英雄らしいエピソードが皆無と言っていいのだ。また成立段階で室町幕府のチェックも入ったことで尊氏個人の描写が困難であったことも想像できる(その割に尊氏に都合の悪い話がちゃんと載っており、むしろそこに尊氏らの「おおらかさ」を見る意見もある)
 一方で足利方の視点から書かれた軍記物語「梅松論」は尊氏を英雄と称えることを主眼とするため尊氏個人に関する逸話が多い。ただそれも武将としてよりも「天下人にふさわしい大物」といった観点で、敵軍の旗印を見たときの逸話や後醍醐脱走時の発言など「おおらかさ」を伝える逸話が目立つ。そして末尾に夢窓疎石が語ったという以下の尊氏の三つの美点を載せる。
「第一に、心が強く、合戦中に命を捨てるような場面がたびたびありながらも、笑みを浮かべて恐怖の色をみせない」
「第二に、天性の慈悲の心をもち、人を憎むということがない。敵を許すことも多く、我が子に対するようである」
「第三に、心が広く物惜しみをしない。金銀も土石とひとしく見なし、武具や馬などを人々に与えるときには、相手の身分や財力に関係なく手に取るままに与えてしまう。八朔(八月一日)には人々の贈り物が数知れずあるけれども、みな人に与えてしまい夕方になると何も残っていなかったということだ」
 この夢窓疎石の尊氏評は竺雲等連も紹介していて「一は敵を見て恐れる心がない」「二は人に対して憎悪の心がない」「三は財についてけちくさい心がない」と簡潔にまとめており、さらに「酒宴の席でいかに酔おうとも一座の工夫をしなければ安眠することはない」とその心配りぶりにも言及している。夢窓は尊氏の厚い帰依を受けた立場であるし当時の最高権力者に関するコメントなので多少割り引いておく必要はあるが、尊氏に関して伝わる逸話はおおむねこれらの評価を裏付けている。「太平記」の伝えるやたらと自害未遂をする尊氏像のほうが誇張があると見た方がいいだろう(実際に自害したことは一度もないわけだし)。敵を許したことも確かに多く、敵を徹底的に滅ぼそうとしない詰めの甘さすら目立つ。後醍醐や正成など戦った相手に対してその死を大いに悼むこともあった(義貞は源氏の棟梁を争う相手のせいか例外らしい)。けちくささや財物への欲望が薄かったのは大大名の御曹司という育ちのせいだろうが、恩賞の大盤振る舞いは結果的に味方を増やし動乱を勝ち抜くことに結びついている。それが室町幕府の弱体化の一因とみなす評価もあるが、江戸幕府のような体制と単純に比較できるものではないし、義満・義持時代をみれば鎌倉幕府と比較してもずっと強い政権との見方もできる。

 そうした人好きのする豪快な性格の一方で、後醍醐に反逆するとき寺に引きこもって出家しかけたり、天下取りの勝利の直後に「この世は夢のごとし」と願文を書いて隠遁の意思を示したり、田楽にふけって「余生は遊んで暮らす」と発言したりと著しく消極的になる一面も確かにあった。かと思うと後醍醐の脱走を「手間が省けてよかった」と喜んだり観応の擾乱で負け戦のはずなのに勝利者のようにふるまうなど常人には理解しがたい言動も伝えられ、歴史家・佐藤進一は名著「南北朝の動乱」のなかで「躁鬱質だったのでは」と推測している(足利氏歴代に精神異常があるような表現は今となっては少々問題があるが)。こうした感情の起伏が激しく特異な性格の尊氏を、新し物好きの後醍醐が好んだのではないかとも佐藤進一は言っている。

 同時代の証言者である今川了俊は「難太平記」のなかで「直義は政道に私がないから捨てがたく、尊氏は弓矢の将軍でさらに私曲がないからさらに捨てがたい」と述べ、尊氏が武人として、直義が政治家として優れていたと評している。この兄弟は見事なまでに対照的な性格で、双方の足りない部分を完璧に補完し合う理想的なコンビだった。つまり尊氏は政治能力については直義に劣っていたということだが、幕府設立後は政治権力をすべて直義に預けて自身は「余生を安穏に遊び暮らす」と身を引いてしまったのは自身の能力をよく自覚していたというべきだろう。それが結果的には決裂、対決へと至るわけだが、その原因が息子・義詮への溺愛だったのではないかと言われるあたり、情にもろいタイプで政治家向きでなかったのは確かだ。だが兄弟の対決は最終的に人望が集まった兄の方に軍配が上がる。

 では武人として戦争指揮能力はどうだったか。この評価はかなり難しい。中先代の乱で北条時行を討った時や、直義らを連破して東海道を進撃してきた新田義貞を箱根・竹之下で打ち破った時には、尊氏が出馬したとたんに形勢逆転、勝利を得ている。だがこれは彼の指揮能力というより「武家の棟梁」と目されるカリスマが士気に影響しているものと思われる。その後の建武の乱や観応の擾乱での京都攻防戦では大軍を擁しながら読みの甘さから敗北をくらっているケースが多く、正直なところあまり「いくさ上手」には見えない。逆に圧倒的に不利な数で戦った多々良浜合戦では捨て身の果敢な攻勢が寝返りを呼び込み勝利している。天下取りを決定づけた湊川の戦いは軍勢の数・士気ともに圧倒的に優勢な条件で戦っているので尊氏個人の能力評価にはあまり参考にならない。戦闘指揮の実績では執事の高師直の方が目に見える形で表しているのに比べるとやはり尊氏個人は指揮官としては平均値な人だったのではなかろうか。戦場では総大将の立場ながら前線に立って危険に身をさらすことも少なくなかったようだがそれは弟の直義や宿敵の義貞についても言え、当時の武士の大将のあり方としては特に目立つものではない。
 総じて言えば高貴な血筋を受け継いだ苦労を知らないお坊ちゃんであり、しばしば見通しが甘く敵対相手を徹底的につぶす非情さもない。特に目立つ才能があったわけではないが豪快な性格で人当たりがよく、ケチケチしないだけに人気はあった。いわゆる「将の将たる」タイプで自身はかつがれることで満足し、実務は能力のある者に任せておいたことは自身の分をよくわきまえていたと言える。

 尊氏の肖像は画像・木像が複数ある。有名な義詮の花押入りの「ザンバラ髪の騎馬武者像」が長らく尊氏肖像画と信じられ尊氏の「乱世の梟雄」イメージを決定づけてきたが、1980年代から疑問視され現在は尊氏像であることはほぼ否定されている。尊氏像として信頼できるもっとも古い肖像画は尾道の浄土寺にあるもので、やや丸顔で垂れ目ぎみ、鼻の大きい顔だちをしている。この顔立ちは足利将軍歴代の木像を納める京都・等持院にある尊氏木像とも一致する。また尊氏の死の翌年に原本が描かれ、江戸時代の忠実な模写が残る騎馬武者姿の「尊氏像」も顔立ちは浄土寺所蔵のものと似通っている。さらに神護寺にある「平重盛像」「源頼朝像」として有名な肖像画が実際は尊氏・直義兄弟を描いたものではないかとの説が近年有力視されており、「重盛像」は確かに浄土寺の画像や等持院木像と似てるといえば似た顔つきをしている。いずれも武将にしては穏やかでノンビリした人の良さそうな顔立ちで、伝えられる尊氏の性格をしのばせる。

―後世の評価―

 尊氏についてはどうしても後世の評価についての話題がつきまとう。江戸時代に徳川光圀が「大日本史」編纂にあたって朱子学的名分論に基づいて南朝正統論をとなえ、楠木正成を「忠臣」として称揚したことがきっかけとなり、尊王史観では尊氏を天皇に逆らった「逆賊」として批判的に扱うようになる。ただし「大日本史」自体は尊氏を器量の大きい人物と評価しているし、尊王史観に多大な影響を与えた頼山陽も尊氏を姦雄と評しながらもその立場に追いやった後醍醐の政治が悪いという見解もしている。だがこの傾向は幕末に近づくにつれ激しくなり、尊王の志士たちは正成を自らの理想として神格化し、同時に尊氏を最大の悪人として攻撃するようになった。幕末には等持院の尊氏・義詮・義満の木像の首を切ってさらしものにするという事件が起こっている。また講談のルーツである「太平記読み」で広く親しまれた「太平記」自体が南朝よりの姿勢で正成を称揚し尊氏をおとしめる傾向があったこともこうした評価に影響したと思われる。さらに木像事件にも言えることだが、足利将軍を徳川将軍に見立てて間接的に徳川幕府批判をしていたという面もある。

 明治に入ると正成はじめ南朝武将・公家の称揚が盛んとなるが、歴史研究や教育の現場では「南北朝」表記が普通に使われ、尊氏についても客観的な肯定的評価がなされていた。それが明治も末の「大逆事件」のあとで反政府系の運動家やマスコミが政府を揺さぶる目的で「国定歴史教科書に“南北朝”と書かれている!」と攻撃する「南北朝正閏論争」を引き起こし、その結果教科書執筆者が退官に追い込まれ、政府により「南朝正統」が公式見解とされ尊氏は「逆賊の最たる者」として徹底非難を浴びせられるようになる。この動きに対し歴史研究者の中には「南北朝対立は客観的事実だ」「正成が南朝の忠臣であるのと同じく尊氏も北朝の忠臣である」と抵抗を示した人も存在した。

 それでも大正から昭和初期まではある程度余裕があったのだろう。中島久万吉が足利尊氏作の木像をみた感想を俳句同人雑誌に書き、その中で尊氏を人間としてすぐれていると評価し、室町時代の再評価をしたのが大正10年(1921)のことだ。また昭和7年(1932)には直木三十五が歴史小説「足利尊氏」を雑誌「改造」に連載しており、その中で尊氏は人間的魅力をもつ人物として描かれた。
 しかしこの小説「足利尊氏」は検閲で大幅な削除を食らった末に連載中断に追い込まれた。翌昭和8年(1933)に商工大臣となっていた中島の「尊氏論」が10年もたってから雑誌「現代」に転載され昭和9年には大きな政治問題となる。南朝・菊地氏の子孫とされる菊地武夫貴族院議員は「乱臣賊子を礼賛するのか」と中島を非難、他の議員や右翼・マスコミまで同調して中島を大臣辞職に追い込んだ。この時期は満州事変・五・一五事件・国際連盟脱退と日本が国際的には孤立化・国内的には全体主義化を強めている時期で、おまけに「建武中興六百年」とかち合ったこともあり、南朝賛美の皇国史観と偏狭なナショナリズムが結びついていた。天皇機関説攻撃や国体明徴運動といった一連の動きと連動して「尊氏問題」も政治的に仕掛けられたものとみられる。こうした尊氏逆賊論は敗戦まで続いた。
 戦後になり皇国史観の反動から尊氏を偉大な政治家、民衆の味方ともてはやす評価も出たが、そうした極端な例はともかく尊氏を新時代を切り開いた代表者として再評価し、人間的な魅力(と同時に複雑怪奇な性格も)を論評する著作(高柳光寿『足利尊氏』が代表)も出た。一方で戦前そのままの価値観で尊氏悪人説を唱えるむきも長く存在していた。ただ戦後は南北朝時代そのものが不人気なので「尊氏論」自体が数えるほどしかないのが実情である。
 2008年に刊行された「足利尊氏のすべて」(新人物往来社)は現時点における尊氏論の集大成といっていい良作。特に尊氏関係の書籍・論文を網羅した参考文献一覧は必見である。

参考文献

櫻井彦・樋口州男・錦昭江「足利尊氏のすべて」(新人物往来社)
高柳光寿「足利尊氏」(春秋社)
佐藤進一「南北朝の動乱」(中央公論新社)
峰岸純夫「足利尊氏と直義・京の夢、鎌倉の夢」
ほか多数
大河ドラマ「太平記」 1991年の大河ドラマ「太平記」は吉川英治「私本太平記」を原作として尊氏を主人公にした初の南北朝大河ドラマとして製作され、真田広之が尊氏を演じた(少年時代は雨傘利幸)。性格付けはほぼ吉川英治準拠だが、吉川が描けなかった後半生、観応の擾乱もドラマ化され、尊氏の苦悩がいっそう印象的に描かれた。南北朝時代を扱った大河ドラマは以来これきりとなっているが、大河ドラマ通の間での評価は高く、歴代ベスト1に挙げる声も少なくない。ただ一年50回で片付けるには濃度が濃すぎる人生ということもあり、九州戦が完全カット、晩年の南朝との対決も大幅に縮小して描かれたきらいはあった。
アクション俳優出身の真田広之ということで、第一回の闘犬との乱闘、第3回の障害物越え乗馬、第6回の流鏑馬、第35回の伏せた馬に乗ったまま起き上がるシーンなど、主役自身が体を張ったノースタントアクションが多いのも特徴。
その他の映像・舞台  戦前ではそれこそ「悪役」の最たるもの、しかも天皇がらみとあってかえって登場しにくかったようだ。古い例では1922年の松竹キネマ「楠公桜井之駅」で片岡童十郎、1940年の日活映画「大楠公」(阪東妻三郎主演)遠山満が演じている。
 昭和3年(1928)に自由劇場で舞台「足利尊氏」が上演され、自由劇場の主催者市川左団次(二代目)が尊氏を演じたといいうのだが、時期が時期だけにどのような内容だったか興味深いところである。配役を見ると尊氏を再評価する内容のようにみえるが…

 戦後の昭和34年(1959)のTVドラマ「大楠公」では堀正夫古石孝明が尊氏を演じている。昭和41年(1966)のTVドラマ「怒涛日本史 足利尊氏」では神山繁が演じた。
 2001年の大河ドラマ「北条時宗」では語り手の時宗の未亡人・覚山尼が登場するアヴァンタイトル部分で少年時代の尊氏(演:三觜要介)が登場、「家時の置文」をあっさり覚山尼に見せて意見を聞くというとんでもない場面があった。
 戦後の舞台では1960年の「妖霊星」の市川段四郎、1961年および1969年の「幻影の城」の水島弘、1962年の「文士劇私本太平記」の中野実の例がある。
 大河前年に上演された舞台「流浪伝説」は後醍醐を主役とするもので、森山潤久(大河では細川和氏役)が尊氏を演じていた。寺山修二がTVドラマ用に書いた台本を下敷きにした遊行舎の舞台「中世悪党伝」(三部作)公演(2003-2005)では林正樹が尊氏を演じた(なお、同じ寺山のシナリオを下敷きにした「中世悪党伝」二部作も90年代に上演されてるが配役が不明)。2007年上演の劇団はなまる「YU-GEN乱舞〜建武に懸けた情熱〜」は尊氏(高氏)を主役とする舞台だが、配役未確認(主催者・作者自身だろうか?)

 昭和39年(1964)の歌舞伎「私本太平記」では坂東三津五郎(八代目)が演じ、大河と同年の平成3年(1991)の歌舞伎「私本太平記 尊氏と正成」では市川団十郎(十二代目)が演じている。
 昭和58年(1983)のアニメ「まんが日本史」では第22〜25回にかけて登場、田中信夫が尊氏の声を演じた。
 1992年か93年ごろ、角川映画として森村誠一原作「太平記」を映画化、という発表がなされたことがある。プロデューサーの角川春樹がコカイン所持容疑で逮捕されてしまったためお流れになったが、渡辺謙が尊氏役に内定していたとの説がある。
 フジテレビが制作したバラエティ日本史番組では南北朝時代をプロレスに見立て、尊氏役をプロレスラーの高田延彦が演じている。
歴史小説では  尊氏を主人公とした最初の本格歴史小説は上記の直木三十五『足利尊氏』(1932)であると思われる。直木は前年に『楠木正成』を発表しており、『尊氏』はそれと対をなす構想であったようで、一部記述をそのまま流用した「ザッピング小説」となっている。父・貞氏の死から始まり尊氏(高氏)が遭遇する場面場面を飛び飛びに描いていく形式のこの小説では、尊氏は兵士を思いやり子煩悩(竹若の死に号泣する場面もある)な好人物として描かれ、建武政権に反逆していく過程も当人が望まないうちに状況が彼を追い込んでいく風に描かれている。しかし検閲で皇室がかかわる個所はザクザク削除されており、建武政権期では伏字だらけで筋が追えないほどになって、浄光明寺で偽の綸旨にだまされて出陣を決意する場面で唐突に終わっている。前の号で「次回最終回」の告知が出ていないので何らかの圧力で、あるいは直木自身が嫌気がさして、連載中断となったと思われる。この作品は直木三十五全集に収録されているが、単行本として発行されたことは現在に至るまでないらしい。
 鷲尾雨工の『吉野朝太平記』(1935)は楠木正儀を主人公にした小説で第2回直木賞を受賞しているが、ここでは時節柄南朝中心に描きつつも、敵の総大将である尊氏は死んだ後醍醐に対する悔恨に苦しむ少々優柔不断な人物といったところでそう悪くは描かれない。
 戦後になるとさすがに逆賊論は影をひそめるが、楠木正成を中心に描いた山岡荘八『新太平記』(1957)では尊氏は天皇を二人立てたことでかなり批判的に扱われている。一方で吉川英治は『私本太平記』(1959)を尊氏を主人公として描き、快男児的な青年から描き始めて、中盤からは天下をとる宿命を背負って時には悩み、時には油断ならぬ策士の一面も見せる複雑なキャラクターへと変貌させていった。吉川の体調のために物語は湊川合戦でほぼ終了、あとはあらすじで尊氏の死まで書いてしまうので消化不良になっている感も否めない。
 そのほかの作品としては、林青梧『足利尊氏』(1984)が尊氏を高く評価する立場から小説にまとめている。吉川英治の弟子として吉川に先駆けて習作として尊氏小説を書き『私本』も手伝っていた杉本苑子の『風の群像-小説足利尊氏』(1995)は尊氏の評価よりも彼個人のプライベートな苦悩を中心に南北朝群像劇にまとめている。一方で桜田晋也『足利高氏(文庫本は「尊氏」表記)』は題名からして戦前的価値観を漂わせ、内容的にも主人公の尊氏(本文中では「高氏」表記で統一)を徹底して悪人として糾弾する異例の作品となっている。新田次郎『新田義貞』は宿敵を主役としているだけに尊氏の描写もあまり好意的ではない。かなりの変わり種として、大河ドラマ放映時に便乗でスポーツ新聞に連載された峰隆一郎『足利尊氏・女太平記』は尊氏が次から次へと女性とやりまくるという「官能歴史小説」である。
 一時南北朝小説を量産した北方謙三は尊氏を主人公とすることはなかったものの各小説で随所に登場させており、いずれも日頃は茫洋として何を考えてるか分からないが、ここぞというところで力を発揮する複雑なキャラに描かれている。とくに佐々木道誉を主人公とする『道誉なり』(1995)は道誉の目から見た尊氏像が独特の魅力を放っている。
 賀名生岳『風歯』は歯科医の作者によって書かれた異色の短編で、医者・丹波兼康が尊氏の虫歯の治療をする物語。直義を毒殺したあとの尊氏は傲慢で猜疑心の強い権力者として描かれ、兼康の娘を人質にとるなど手段を選ばず、兼康の憎しみを買うことになるが、乱世を生きた男の孤独感や娘を溺愛する父親ぶりも描かれる。この小説は単行本化に際して続編が書かれ、主人公・兼康は佐々木道誉や北畠親房の治療まですることになる。
漫画作品では  学習漫画系には当然きちんと登場するが、多くは「騎馬武者像」のイメージでザンバラ髪の男くさいデザインにされている。伊東章夫や田中正雄による『足利尊氏』(いずれも学研)では主人公ということで端正な二枚目に描かれた。児童向けに学習指導要領で指定された歴史人物を紹介する「週刊マンガ日本史」(2009〜2010)では森ゆきなつが「足利尊氏」を担当し、魔王後醍醐に対して反旗を翻すロングヘアの若武者といういかにも少年漫画な展開になっていた。
 学習漫画以外のものは数少ないが、大河ドラマ放映時にいくつか便乗で作られていて、横山まさみち『太平記』全6巻がある。この作品は正成・尊氏・義貞の伝記を2巻ずつにまとめたものでそれぞれの視点から南北朝動乱(といっても建武政権崩壊までだが)を多角的に読むことができる。尊氏編は3・4巻で他の巻に比べるとさすがに急ぎ足。他では桜井和生・原作/たかださだお・画による『劇画足利尊氏』(日本文芸社)は尊氏が正成・義貞らと「大学の同級生」だったというハチャメチャな設定の熱血学園もの(笑)。同じ日本文芸社から出た十川誠志・原作/あきやま耕輝・画『劇画・楠木正成』は湊川合戦だけで一冊にまとめた異色作で、尊氏は登場するものの最後の最後まで顔を見せないでかえって存在感を高めるという映画的な演出がほどこされていた。吉川英治原作をダイジェストで劇画化した岡村賢二『私本太平記』では原作以上にワイルドな尊氏が主人公。
 少女漫画では湯口聖子『風の墓標』が北条氏滅亡をテーマにした長編で、直義が主人公の一人であるため尊氏が時々顔を出し、直冬の扱いや北条氏との関わりで少々冷たい印象のキャラになっている。
 やはり少女漫画の河村恵利「時代ロマンシリーズ」では直義を主役とする短編が3作あり、そこで描かれる尊氏は純朴でお人好しなキャラクターだが、いざとなると人をひきつけるリーダーシップを発揮する。
 同じく少女漫画系で市川ジュン『鬼国幻想』でも直義がメインキャラになっているため尊氏も登場、弟に比べて陽性でおおらかだがクールでもある性格に描かれた。
 少年漫画では沢田ひろふみ『山賊王』があり、高氏は体に運命の「星」をもつメインキャラクターの一人として活躍している。家族思いの熱血正義漢という感じが強いが、伏線なのか何を考えているか分からないキャラにも描かれている。漫画自体は鎌倉幕府滅亡で完結するが、他のキャラの「星」が消える中で高氏だけ星が消えず、さらに使命があることがにおわされている。
 河部真道『バンデット』でも高氏は重要キャラとして登場し、「戦嫌いだが戦好き」という複雑なキャラクターに設定され「戦のない世」を作ろうと考えている。六波羅探題陥落後、主人公の悪党「石」と高氏が対決する場面が物語のしめくくりとなったが、当初の構想ではもっと長いスパンでの対決が描かれるはずだったのだろう。
PCエンジンHu版 シナリオ1「鎌倉幕府の滅亡」で朝廷側武将で登場し、「騎馬4」のいまいちな能力。大河ドラマのゲーム版という扱いなので尊氏が主役らしいのだが尊氏が死んでもゲームオーバーにはならず、クリアすると死んだはずの尊氏を称えるエンディングになる。
PCエンジンCD版 北朝側プレーヤーキャラで、初登場時は統率95・戦闘93・忠誠99・婆沙羅15と特に大軍を率いると最強。ゲームのオープニングビジュアルでは尊氏の前半生をアニメ仕立てで見ることができる。声は平拳児
メガドライブ版 「足利帖」を選択するとプレイヤーキャラの一人として登場、能力は体力80・武力134・智力145・人徳97・攻撃力117。
SSボードゲーム版 当然武家方で身分は「総大将」で勢力地域は「全国」。合戦能力2・采配能力7で大軍指揮タイプ。ユニット裏は足利義詮。武家側プレイヤーは尊氏その人を「演じる」ことにもなる。

足利高義 あしかが・たかよし 生没年不詳
親族 父:足利貞氏 母:金沢顕時の娘(釈迦堂殿)
兄弟:足利尊氏、足利直義
子:足利某(安芸守)、源淋
官職 左馬助
生 涯
―謎多き尊氏の兄―

 足利貞氏の長男で足利尊氏の兄。『尊卑分脈』でもその存在が記されているが「左馬助 早世」とあるのみで、その生没年も経歴も全く不明である。母親は金沢顕時の娘(金沢貞顕の姉妹)である「釈迦堂殿」と呼ばれる女性で、彼女が貞氏の正室であり、その腹に生まれた高義はまぎれもなく貞氏の嫡男であった。尊氏・直義は貞氏の側室・上杉清子の生んだ子で、高義と尊氏の年齢差は少なくとも5歳以上、場合によっては十歳程度あったとみられている。
 「高義」の「高」の字は当然北条高時から与えられたものであろう。ただし足利家代々の通字「氏」が彼につかないのはなぜかという疑問は残るが、祖父の「家時」の例もあるのでありえないことではないのだろう。

 高義の活動を示す史料として、正和4年(1315)11月に「足利左馬助」が鶴岡八幡宮の僧・円重に供僧職を安堵していることが『鶴岡八幡宮寺供僧次第』で確認されている。父・貞氏は北条貞時の死去に殉じて応長元年(1311)に出家しており、このとき高義が足利家家督を継いだ可能性がある(貞氏はすでに40歳であり隠居はそう不自然でもない)。正和4年段階で足利惣領として活動していたとすると高義はその時点で少なくとも十代後半と思われ、また足利系図では「某 安芸守」(建武3=1336に奥州で戦死という)「源淋 田摩御坊」(僧になったのであろう)の二人の男児をもうけているとされている。そして文保2年(1318)9月17日付の文書で貞氏が再び家政に復帰していることが確認できるため、それまでに高義は死去していた、それも「早世」とはいえ20代には達していたのではないかと推測されるのである。

 高義の死から間もなく弟の高氏(尊氏)が元服しているが、貞氏が家政をとりしきり続け、結局死ぬまで家督は譲らなかった。このため貞氏は高義の遺児への家督継承を考えていたのでは、との推理もある。嘉暦2年(1327)ごろに高氏が北条一門の赤橋登子と結婚したことで高氏への継承が決まったとみられるが、高義の遺児たちについての系図の謎めいた書き方が気になる。
 茨城県下妻市にある円福寺は、もともと建武5年(延元元、1336)に下総国大方郡今里郷(結城郡八千代町)に創建されたが、「足利高義の発願」によるものとの伝承がある(円福寺ウェブサイトにも明記あり)。しかしこの時点では高義は死去していたはずであり、これもまた謎めいた伝承である。

参考文献
清水克行「足利尊氏の家族」(『足利尊氏のすべて』新人物往来社、所収)
歴史小説では 登場した例はほとんどないが、吉川英治「私本太平記」の序盤で足利高氏が身分を名乗る際に早世した兄・高義に触れる部分がある。
漫画作品では
河部真道「バンデット」に前半のみ登場する流れ者風の謎の男「猿冠者」の正体が、実は足利高義である。かつて北条打倒を計画するも父・貞氏に受け入れられず死んだことにして全国を旅していた設定で、作中で足利荘に帰って来て再び北条打倒の計画を進めるが、またも貞氏に殺されかかり、重傷を負って物語から退場してゆく。当初は再登場する予定で、単行本のおまけ漫画の中で親友の新田義貞に挙兵をけしかける様子が描かれている。

足利竹若 あしかが・たけわか ?-1333(正慶2/元弘3)
親族 父:足利高氏(尊氏) 母:加古基氏の娘
異母兄弟:足利直冬、足利義詮、足利基氏ほか
生 涯
―非業の死を遂げた尊氏の長男―

 足利高氏(尊氏)の長男。母は足利一門の加古六郎基氏の娘だが(「尊卑分脈」)、一門内でも決して高いランクの出ではない。高氏自身も嘉暦2年(1327)ごろに北条一門の赤橋登子と結婚するまではあくまで側室腹の庶子扱いに近かったらしく、元服して間もなく加古基氏の娘を妻に迎えることになったのだろう。竹若の生年は不明だが高氏の長男であることは間違いなく、足利直冬が生まれたと推測される嘉暦2年より以前である。また元服前とは言え伊豆脱出時に山伏に変装した(「太平記」)とされることから成長期の十代には達していたと考えられるので、1320〜1321年ごろの生まれではないかと推測される。

 竹若について分かることは、父・高氏が鎌倉幕府に反旗を翻したとき、伊豆国の走湯山権現(現・熱海市の伊豆山神社)に住んでいたことが知られるだけである。庶子とは言え大名・足利家の長男がそんなところにいたというのも不思議だが、恐らくはあとから正室にした赤橋登子への遠慮があったものとみられる。竹若の母については何も伝わらないが、この時点で離縁していたか、あるいは死去していたのかもしれない。この走湯山の密厳院の別当が竹若の母の兄・覚遍であり、彼が高氏に頼まれて竹若を引き取り育てていたのだろう。

 元弘3年(正慶2、1333)5月7日、鎌倉幕府から後醍醐天皇方に寝返った足利高氏が京の六波羅探題を攻撃し、これを攻め滅ぼした。その直前に鎌倉から嫡男(三男)の千寿王(足利義詮)が脱出しており、これとほぼ同時に竹若も伯父・覚遍に連れられて走湯山を離れた。このとき覚遍は稚児十三人を同行して竹若を紛れ込ませ、一同山伏姿に変装して高氏がいる京を目指した。ところが駿河国・浮嶋が原(沼津市付近の沼沢地)に来たところで、鎌倉から京に派遣され途中で六波羅陥落を知って引き返してきた長崎為基諏訪木工左衛門入道らと鉢合わせしてしまう。長崎・諏訪は相手が竹若と知って生け捕ろうとし、覚遍はもはやこれまでと馬上で切腹。長崎・諏訪は竹若を刺し殺し、他の稚児らも全員殺してその首をさらしものにしていったという(「太平記」)

 尊氏は自らの挙兵の犠牲となった竹若の非業の死を後々まで深く悲しんだ(これが直冬に対する態度と比較される)。建武4年(延元2、1337)7月に密厳院の別当となった隆舜に対して竹若と覚遍の後世供養を頼んだほか、駿河国宝樹院を竹若の菩提所と定めてその供養を行わせている。

参考文献
清水克行「足利尊氏の家族」(『足利尊氏のすべて』新人物往来社、所収)
大河ドラマ「太平記」 原作「私本太平記」では言及されるのだが、ドラマでは完全に存在が無視された。
歴史小説では 竹若について最も詳しく書くのは直木三十五「足利尊氏」であろう。昭和初期にあって尊氏の人間性に迫ろうとした野心作で、そのために庶子竹若についても大きく触れることになった。この小説では高氏が侍女に手をつけて生ませた子で登子に遠慮して伊豆に送ったという設定であるが、高氏は千寿王と同等に可愛がっている。伊豆脱出にあたっては竹若が母に別れを告げる描写もあり、非業の死の模様も詳細に描かれる。その後の部分の家臣たちのセリフ中で、竹若の死を知った高氏が一晩中泣きはらしたことが語られている。
漫画作品では
河部真道『バンデット』の足利荘のシーンで、北条との縁組が進められていることを話す高氏が「もう子もいるし」と言いながらあやしている幼児が明らかに竹若である。

足利直冬 あしかが・ただふゆ 1327(嘉暦2)?-1400(応永7)?
親族 父:足利尊氏 母:越前局 養父:足利直義 
子:足利冬氏・等珊・等章・乾桃・宝山乾珍
官職 宮内大輔→左兵衛佐、南朝の総追捕使
位階 従四位下
幕府 長門探題→鎮西探題
生 涯
 足利尊氏の実子だが庶子であるために認知されず、尊氏の弟・直義の養子となり、やがて実父尊氏を相手に戦うという数奇な運命をたどった武将である。

―謎の出生―

 「太平記」によれば母は「越前局」という女性で、尊氏がたった一夜だけ彼女のもとに忍んで関係をもった結果、直冬が生まれたという。越前局が何者であるかはまったく不明で、尊氏が直冬の認知をなかなかしなかったことから、かなり身分の低い女性なのではないかとみられている。直冬の誕生は嘉暦二年(1326)ごろと思われ(「足利家系図」「鎌倉大日記」)、これは尊氏が正室・登子と結婚した時期にも当たり、「太平記」が「継母(登子)の讒」があったと記していることから、直冬の不遇はその母の身分や「一夜の関係」という事情もさることながら北条氏の姫である正室への配慮もあったのではないかとも推測される。尊氏のもう一人の庶子である竹若(加古六郎の娘が生み、尊氏の長男と推定される)も伊豆に預けられていた。

 直冬の少年時代のことは「太平記」以外に史料がなく、「武蔵国東勝寺」で喝食(かっしょく=寺に預けられた少年)となっていたとされる。この「東勝寺」は鎌倉にある東勝寺と考えられ(京の人が鎌倉周辺も「武蔵」と認識するケースは他にもあった)、北条一門が集団自決した惨状を幼い直冬は目撃しているのではないかと想像する人もいる。ただ千寿王(義詮)が人質にとられて脱出、脱出に失敗した竹若が殺害されていることからすると直冬が北条氏の菩提寺に鎌倉陥落の瞬間までいたとは考えにくい(尊氏が認知した子ではないので問題にされなかったのかもしれないが)。なお『尊卑分脈』は直冬の幼名を「新熊野丸(いまくまのまる)」と記している。

 貞和元年(興国6、1345)ごろ、18歳になったと推定される直冬は元服して、円林という僧に連れられて京に上った。そして尊氏に父子の対面を求めたが尊氏はこれを拒否、やむなく直冬は当時学僧として名声のあった玄恵(「太平記」作者の一人と目されることがある)のもとに通うようになった。玄恵は直義ともつながりがあり(玄恵が「太平記」最初のバージョンを直義に聞かせた事実がある)、直冬の存在を直義に教えた。直義は「ならば自分が預かって、見どころがあるようなら兄に伝えよう」と言い、実際に直冬の人物を見込んだうえで兄にこの不遇な甥との対面を勧めたが尊氏の態度はかたくなで、一、二年は会おうとしなかった。そこで直義は実子がない自分の養子として引き取り、「直冬」と名乗らせることにした。なお、尊氏と登子の三人目の息子である光王(基氏)も一時直義の養子となっていたことが確認されている。
 直義の養子となった直後に直冬は「宮内大輔」の官位を授かったらしい。これは今川了俊『難太平記』のなかで「石見直冬慈恩寺殿、宮内大輔と申すころ」と表現していることで推測される。了俊によればその「直冬が宮内大輔だったころ」に直義は畠山直宗一色直氏、了俊らに「自身の家柄によって身を立てようなどとは決して思ってはならぬ。文の道をもって将軍をお助けし、自らの徳によって立身すべきである」と朝に夕に諭していたという。了俊のこの書き方からすると、直義は尊氏の実子とはいえ出生に問題のある直冬を念頭に置いてこの発言を繰り返したのではなかったか。 

―武将としての成長―

 貞和4年(正平3、1348)4月、直義は盛んな勢いを見せていた紀伊の南朝勢力の討伐のために22歳の直冬を大将として派遣、初陣を飾らせることを決定した。この決定を伝える4月16日付の直義書状が一次史料における直冬の名の初見で、そこには「左兵衛佐直冬」と官位も記されている。この出陣は光厳上皇の院宣により発令されており、このとき従四位下・左兵衛佐に叙せられたものと思われる(以後、「佐殿(すけどの)」と呼ばれることが多い)。22日には直冬自身が戦勝祈願を祇園神社に申し入れ、このときの文書が彼自身の文書の最古のものとなる。「太平記」はこのとき尊氏がようやく「父子の号を許した」と伝えている。

 六月に紀伊へ出陣した直冬は各地を転戦、一時はかなりの激戦もまじえ、9月には紀伊の南朝勢をひとまず鎮圧して凱旋の途に就いた。「太平記」によれば初陣で勲功を挙げた直冬に対する人々の評価は大いに上がったが、尊氏のところへ出仕してみると仁木・細川といった足利一門でも2ランククラスの人々と同列の席に置かれたうえ、尊氏自らの賞賛はさして無かったという。この扱いに直冬がますます屈折したことは疑いなく、これを懸念した直義は翌貞和5年(正平4、1349)に手をまわして直冬を「長門探題」に任じ、中国地方を監督させるべく備後・鞆に派遣した。直冬が京を出発したのは4月11日だが、この年の閏六月から直義一派と高師直一派の対立がついに火を噴き、「観応の擾乱」へとつながっていく。直義が直冬を中国へ派遣したのはこうした情勢の中で直冬を安全圏に逃がす、あるいは外部に味方を作っておこうとする意図があったのかもしれない。

 この年の8月、高師直一派の軍勢がクーデターを起こし、尊氏邸に尊氏・直義を包囲、直義を失脚させた。このクーデターは尊氏と師直が合意の上で行った芝居とも言われており、失脚した直義の位置には尊氏の嫡男・義詮がつくことになった。養父の失脚を知った直冬は上京しようとしたが、師直派についていた播磨の赤松円心に阻まれる。直冬は養父救出のため独自に軍勢催促の指令を発し、このため尊氏は(あるいは師直は)直冬討伐の命令を発した。これに応じて9月13日に杉原又三郎が200余騎で鞆の直冬の宿所を襲撃、直冬は危ういところを河尻幸俊の船に飛び乗って助かり、そのまま河尻の本拠地のある肥後へと落ち延びていった。このとき直冬が「梓弓我こそあらめ引連れて 人にさへうき月を見せつる」(苦難にあうのは私だけでよかろうに、ついてくる他の人々にまで辛い月を見せてしまうことだ)と歌ったと「太平記」は語る。

 肥後に上陸した直冬は周辺豪族に軍勢催促の書状を送っており、そこでは「京都からの命を受けて」と自分の行動が尊氏の指示のもとに行われたように装っていた。これが偽りであることを知ってか知らずか肥後の武士たちの多くが直冬のもとに集まり、慌てた尊氏は「直冬には出家を命じている。捕まえて京へ送るように」という書状を九州の武士たちに発信した。両方の書状を受けた九州の武士たちはさぞ混乱したかと思えるが、「地方は地方で勝手にやる」という感覚が特に強い九州では直冬という「貴種」を旗頭にかつぎ、自身の勢力拡大に利用しようと図る武士も少なくなかった。またこの時期九州は尊氏から九州探題に任じられた一色範氏、南朝から「征西将軍」として送り込まれた懐良親王の勢力がせめぎ合っており、さら一色氏の下につくことを面白くなく思っていた少弐頼尚ら九州武士団の勢力があった。直冬は南朝勢力と連携して一色氏の排除に動き、直冬の勢いを見た少弐頼尚は観応元年(1350)9月に一色氏を追い出すために直冬側に寝返り、直冬を自分の娘の婿として迎え入れた。なお、この年から北朝では「観応」に改元となったが、直冬は尊氏・師直派を認めない立場から「貞和」年号を使い続け、九州ではそれぞれの所属ごとに「観応」「貞和」「正平」の年号が書状に記されるややこしい事態となる。

 少弐氏だけでなく大友氏も直冬に合流、直冬の威勢は九州のみならず中国地方にも拡大して、これを討伐に向かった高師泰も敗北する事態となった。尊氏は師直と共に自ら九州へ出陣したが、その直前に出家して軟禁状態にあった直義が京から失踪、直義派の武将たちと連携して南朝に投降した。驚いた尊氏・師直は京へ取って返したが摂津・打出浜の戦いで大敗し、降伏した師直・師泰は直義派の手により殺害された。直義は尊氏と和睦して幕政に復権し、直冬も討伐の対象から外され、観応2年(1351)2月に幕府から正式に「鎮西探題」に任じられ、直冬は「観応」年号を使用し始める。

―実父との対決―

 だが直冬の安泰も長くは続かなかった。一時手を組んだ南朝の懐良親王勢力との戦いが始まり、その苦戦が続くうちに7月に中央では尊氏・直義が再び決裂し、直義は京を離れて北陸さらに関東へと逃走した。尊氏は直義と共に九州の直冬の討伐せよとの命令を発し、10月には南朝と和睦した(正平の一統)。これに伴い尊氏派の一色範氏と懐良親王とが手を組んで直冬勢力の一掃にとりかかり、直冬一派はその二者を相手に各地で戦う苦しい立場となった。そして文和元年(正平7、1352)2月26日、関東で尊氏に敗れて軟禁されていた直義が急死。養父の急死、それも実父尊氏の手による毒殺との噂に直冬がどれだけ衝撃を受けたかは想像するほかはない。それと前後して南朝と尊氏が決裂、九州の武士たちもめまぐるしく離合集散を繰り広げたが、後ろ盾を失った直冬はジリジリと後退を余儀なくされ、一色範氏らの軍勢の攻撃の前にこの年の12月ついに拠点の大宰府を失陥、その直前に脱出して九州から中国・長門国へと逃亡した。その直前に直冬は生き残りを図って懐良・菊地武光と連携をさぐっており、直冬の九州脱出後に少弐頼尚も菊地氏と和睦して以後二心なしと誓い(それは間もなく頼尚自身により破られるが)、共同で一色範氏を破ることになる。

 長門へ逃れた直冬を後援したのは長門・周防を押さえる南朝方・大内弘世だった。ひとまず長門に腰を落ち着けた直冬は旧直義党を通して南朝に連絡を取り、文和2年(正平8、1353)5月に公式に南朝に投降し翌月には後村上天皇から総追捕使(全国の守護、征夷大将軍とほぼ同意)に任じ義詮討伐せよとの綸旨を得た。この間に山名時氏が南朝に寝返って一時京都を奪取するなど南朝側の攻勢があり、それと連動して直冬も長門から周防、石見へと移動した。このころ関東からようやく京に戻っていた尊氏は自ら直冬討伐を企図しているが、それは「義詮を出陣させると兄弟の争いになり人々が困るから」であったと記す一色範光の書状がある。なおその書状には直冬が一度尊氏への投降を申し出たが尊氏が許さなかったともあり、これが事実かどうかは判断が難しい。

 そして翌文和3年(正平9、1354)5月に直冬は南朝軍の総帥として石見を出発、山陰を平定しつつ京を目指した。10月に山名時氏・斯波高経石塔頼房桃井直常といった旧直義党を主力とする南朝軍がこれに呼応して京へ進撃、翌年正月にはついに京都を占領した。直冬は正月22日に5年8か月ぶりに京都の土を踏み、「太平記」はここで「直冬はこの七八年、継母の讒言によりあちこちを漂泊したが、多年の苦労も一時に報われ今や天下の武士となったのだ」と直冬の心境を察する表現をしている。三宝院所蔵の「雑日記」という史料にはこのとき直冬が詠んだ和歌として「今夜ただ我が世に出づる月ならば くもらぬ名こそあらまほしけれ」「くわんかう(還幸)と鳴くや吉野の山がらす かしらも白き面白の子や」の二首を記している。前者はついに勝利の栄光を得た我が身を思うものだが、後者には南朝天皇の京への「還幸」とカラスの鳴き声をひっかけ、ユーモラスでどこかからかいのニュアンスを込めた歌にもみえ、直冬独特の機知を感じさせると同時に冷めた目線をも感じさせる。

 正月29日、直冬は宿所にしていた東寺において戦勝祈願をした。その願文で直冬は、この戦いが戦乱に苦しむ人々を救うため義兵を挙げたものであるとし、九州から山陰を抜け京まで入れたのは神仏の加護のおかげと感謝した上で、「父である将軍は敵陣におられる。これに対して一歩を進めることは非常に心苦しいが、これはあくまで将軍の周囲の悪党どもを討伐するためである。反逆をくわだて自身のために義旗を挙げたものでは全くない」と書き、「時のまの命もよしや法のため 世のためならぬわが身なりせば(正義のためなら束の間の命でもよい、どうせ世のためにはならない我が身なのだから)」という和歌を添えている。士気を高めるための自己正当化にしてはかなり消極的な内容とも読め、直冬が実父を相手に戦うことに苦悩していたことをうかがわせる文章と和歌である。とくに和歌の方は養父・直義の「憂きながら人のためぞと思はずは 何を世にふる慰めにせん(人のためになると思わなければ、この憂き世を生きていくことはできない)」という和歌とも対応するように感じる。

 しかし間もなく尊氏・義詮は京都奪回の作戦を開始、2月6日に摂津国・神南で直冬派諸将と義詮らの軍勢が激突し、義詮が勝利した。8日には京都市街で尊氏と直冬の軍が直接衝突し、3月の初めまで激闘が続く。直冬は東寺においた本陣で指揮をとっていたらしく「太平記」には東寺の高櫓から戦況を見ていた直冬が、味方の赤松氏範が傷を負った家来の手を引いて戻って来たのを目にして、「戦場に取って返して味方を助けよ」と扇を何度も振って命じたという描写がある。3月12日に尊氏軍が東寺を攻め落として直冬軍は京から撤退した。「太平記」には直冬らは男山八幡宮に再結集して、ここで八幡神に供え物をして御託宣を聞いたところ、「たらちねの親の守りの神なれば この手向けをば受くるものかは」(親を守る神なので父を討つような子の供え物を受けるわけにはいかない)という託宣が下り、諸将は「これでは勝ち目がない」とそれぞれ自国へ引き揚げてしまったという逸話が載る。これはとても事実とは思われず兵糧の欠乏が大きかったのではとの見方もあるが、直冬自身に実父尊氏と戦うことに心理的負い目があったことを背景にした創作なのかもしれない。

―静かに消えゆく―

 京都を失陥し、味方も散り散りとなった直冬は石見に引き上げた。以後、石見や安芸で南朝方として細々と活動を続けてゆく。尊氏の実子であり、かつ直義の養子として一定の影響力を維持していたらしく、中国・四国の各地の南朝方に指示を送った書状が残っている。しかしそれも次第に断片的なものとなってゆため、影響力の低下は否めなかったようだ。延文3年(正平13、1358)4月30日、直冬の実父であり宿敵でもあった尊氏が54歳でこの世を去った。それを知った直冬がどのような思いを抱いたかは全く分からない。ただ直冬の書状に記された花押(サイン)を調べると尊氏の死の直後に大きな変化を見せることが指摘されており、なんらかの心境の変化があったのかもしれない。

 康安2年(正平17、1362)、山陰の山名時氏が備後に侵攻し、直冬はこれに呼応して久々に出陣している。その勢力は五百騎ほどであったという。「太平記」のみに伝わる逸話だが、備後に進出した直冬は北朝方の宮道山のもとへ禅僧を遣わし投降を呼びかけた。すると道山は「天下に南朝方がいなくなり、直冬殿に味方がまったくいなくなったところで『頼む』と言われたら引き受けたでしょうが、今は近隣の武士で直冬殿に味方する者も多く、当国に陣を敷いた上で『参れ』と言われては、かえって応じることはできませぬなぁ」と答え、そのまま先手を打って直冬の陣を攻撃した。直冬は一勝もすることなく敗退したため「直冬はいかなる神の罰にてか 宮にはさのみ怖じて逃ぐらん」(直冬は神罰でもくらったのかね、“宮”をそれほど恐れて逃げるとは)とからかう落首が掲げられたという。さりげなく挿入される逸話だが、直冬の地位の低下を生き生きと伝えている。

 翌年の貞治2年(正平18、1363)には中国における南朝二大勢力である大内弘世・山名時氏の二人が相次いで幕府に帰順した。直冬は有力な後見を失ったまま、南朝の「正平」年号を使った文書を細々と各地に送っている。確認される直冬の最後の書状は正平21年(貞治5、1366)12月8日付の吉川讃岐守(致世)宛のもので、以後、直冬の確実な消息はまったく途絶える。
 最後の書状からちょうど一年後の貞治6年(正平22、1367)12月7日、異母弟の第二代将軍・足利義詮が38歳の若さで死んだ。後を継いで第三代将軍となった義満の時代には幕府政治はようやく安定を見せ、南朝勢力の動きもごく微弱なものとなっていた。そのような情勢の中で直冬が出来ることは何もなく、消息がまったく知れないのも静かに余生を送っていたためだろう。一説に義満は伯父にあたる直冬の投降と地位の保障を認めたともされるが、それを示す確たる史料はない。
 直冬が目立たぬながらも平和な生活を送っていたのではないかと推測される理由に、彼の子供が五人も確認されることが挙げられる。嫡男は足利冬氏といい、母は「玉峰明金尼」、冬氏自身は「善福寺殿」とも呼ばれ、備中国井原荘に在住していたことが知られる。しかしそれ以外のことは生没年も含めて全く分からない。それ以外の4人の子は全て法名のみで伝わるので僧侶として生きたことが知られ、とくに末の子とされる宝山乾珍絶海中津の弟子となり相国寺・天竜寺の住持も務めたため記録がある。乾珍は応永元年(1395)に生れ嘉吉元年(1441)に死去していることが確認でき、一説に冬氏の子ともされるが直冬の晩年に生まれた子とするのが有力だ。

 直冬がその数奇な人生を終えた時期は判然としない。石見国で死んだとするのはどの史料も共通するものの、『足利家系図』(群書類従本)は至徳4年(元中4、1387)7月2日に74歳で死去と記すが、『国史実録』『鎌倉大日記』はその翌年(1388)の7月3日死去とする。しかし1387年ごろに74歳とすると1313年、つまり父・尊氏がまだ満8歳ごろに生まれたことになってしまい、これらの史料はあまりアテにならない。一方で『足利将軍家系図』(系図纂要所収)には応永7年(1400)3月11日に死去としており、上記の応永元年の生まれの宝山乾珍が実際に直冬の末子であれば応永年間まで生き延びていないとおかしい。これらの材料をミックスして嘉暦2年(1327)に生まれ、応永7年に74歳で死んだとみるのが一番妥当とされている。これが本当なら、直冬は確認される最後の書状からおよそ三十年以上にわたって石見の地で隠遁同様の生活を送っており、複数の妻や子に恵まれ67歳に孫のような末子をもうけ、甥の義満が南北朝を統一し室町幕府の全盛期を築きつつあるのを見届けてこの世を去ったことになる。その出生と同様に最期も判然としないのがいかにも彼らしい。上記の今川了俊が応永9年(1402)に完成させた『難太平記』のなかで直冬について「慈恩寺殿」と表現していることから没後にはそのように呼ばれていたようだ。

  直冬が死んだと推測される年からおよそ40年がすぎた嘉吉元年(1441)、第六代将軍・足利義教が赤松満祐に暗殺される「嘉吉の変」が起こった。領国の播磨に立てこもった満祐は、名分を得るため直冬の孫で29歳になる足利義尊を旗頭にかつぎだしている。義尊は僧となっていたのを還俗させたものといい、直冬の嫡子・冬氏の子ではないかと言われている。このとき義尊の弟で「義将」という者もいて、備中で幕府の追討を受け殺害されている。間もなく幕府軍の攻撃を受け赤松満祐も自害して果て、義尊は脱出してしばらく消息不明となる。この年の暮れ、直冬の末子・宝山乾珍は甥たちの運命に心を痛めたか、寺の職を辞して間もなく亡くなっている(暗殺ではないかとみる向きもある)
 翌嘉吉2年(1442)3月に義尊は突然京都に現われて管領・畠山持国に保護を申し入れたが、持国は聞かず、配下に命じて義尊を殺させた。史料上で確認する限りでは直冬の子孫はここに絶えた。

―人物―

 まさに波乱万丈の数奇な生涯だが、直冬がどのような個性をもつ人物であったかをうかがわせる材料は少ない。その書状にみられる花押が直義の花押の変化と連動して変化すること、尊氏の死の直後にまた大きく変化することから「外からの影響を受けやすい、小心者でナイーブな性格の持ち主」と推測する意見がある(森茂暁『太平記の群像』)。ナイーブな性格は実父尊氏との戦いを前にしての少々弱気に見える願文にも表れているし、その出生と育ちの事情ゆえにかえって強烈なファザコンになったのではないかという憶測もある。また紀伊での初陣では戦功をあげているが敵前逃亡の多さや「太平記」に直冬の戦場での言動を批判的に描写する場面がいくつかあることから将の将たる器どころか一武将としても資質に欠けていたのではないかとする厳しい意見もある(瀬野精一郎『足利直冬』)

 上記の直冬の生涯で目を引くのは彼の作った和歌だ。「太平記」も九州へ落ち行く船の上で直冬が詠んだ和歌をわざわざ引用しており、直冬が京都を一時占領した時に詠んだ歌もよほど耳目を引いたのかしっかり日記史料に残されている。特に後者のものは独特な感性を発揮しており、和歌の一つも詠むのは当たり前だった南北朝群像の中でも異色の存在と言える。学んだ玄恵や養父・直義の影響なのか武将というより文人的性格の強い男だったのかも知れないし、その出自と立場の不安定さから世の中を冷めた目で見るところもあったのかもしれない。中年以降ほとんど隠遁状態なのもそれが本来の性格にあっていたからではないかとも思える。こうまとめていくと案外、実父・尊氏に似た所が多い。隠遁願望を抱き続けてとうとう果たせなかった尊氏に対して、晩年まで妻子に囲まれた長い隠遁生活を安穏に送ったらしい直冬のほうが幸福な人生だった…といえるかもしれない。

参考文献
瀬野精一郎著・人物叢書『足利直冬』
森茂暁『太平記の群像』ほか
大河ドラマ「太平記」 吉川英治の原作に従い幼名は「不知哉丸」とされ、母・藤夜叉とともに伊賀国で庶民の子として暮らし、鎌倉幕府滅亡後は京へ移り住んでここで直義と偶然遭遇する。中先代の乱のときに藤夜叉が不慮の死を遂げると鎌倉にくだり、尊氏の母・清子のはからいで寺に預けられることになった。ここまで第9回で赤子として初登場、第13回から第31回まで山崎雄一郎が少年時代の不知哉丸を熱演した。
 第39回で筒井道隆に交代、建武4年(1337)に京に上り、「武士になりたい」と尊氏にせがんで拒絶され、第40回で直義が養子として引き取り元服して「直冬」となる。以後原作ではダイジェストになった観応の擾乱の経過も詳しく描かれたため出番は多く、父へのコンプレックスと義詮への対抗心から戦いを起こす屈折したキャラクターとなり、最終回では一色右馬介の命をかけた説得を受け「所詮父上には勝てぬ」と撤退、武士であることもやめてしまうような描かれ方となった。
歴史小説では 天下人・尊氏の庶子にして数奇な一生を送った直冬だが、彼個人を主人公とした作品は今のところない。
 戦前に書かれた鷲尾雨工『吉野朝太平記』(1935)は楠木正儀を主人公とする歴史小説で、観応の擾乱を正儀の計略として描いており、正儀が自らの愛人を女スパイとして直冬の愛人に送り込む展開がある。なぜかこの作品では直冬の幼名が「竹若」となっており、作者が誤解していたものと思われる。
 吉川英治『私本太平記』は尊氏を主人公としその青春時代に大きく紙幅を費やしており、尊氏が白拍子・藤夜叉とたった一夜の関係により「不知哉丸(いざやまる)」という男児をもうける展開が詳しく描かれる。「不知哉丸」という名前は吉川英治のオリジナルで不知哉川という川の名前からとったといわれる。前半では藤夜叉ともども登場が多かったが建武政権期あたりからほとんど登場しなくなり、湊川合戦以降は吉川英治自身の体調のためあらすじを追うだけになったため、実子として認知され直義の養子となり、やがて尊氏と宿命の戦いをする過程はほぼダイジェストにすまされてしまった。さすがに直冬と尊氏の対決は物語の発端と結びつく終着点としてややページを割いて描かれ、尊氏が「困ったやつ!」とつぶやきつつ「『不逞の子…!』とは本心では罵れなかった。不逞な父は自分かもしれないのだ」と尊氏が「己の分身」でもある息子との戦いに苦しむ様子が書かれている。
 林青梧『足利尊氏』では直冬は北条高時から尊氏に与えられた愛妾の産んだ子で実は高時の子、という解釈をとっている。大胆な推理だが尊氏が断固として直冬を我が子と認知しないこと、北条氏の氏寺・東勝寺に預けられていることに合理的説明ができる。一方で杉本苑子『風の群像-小説足利尊氏』では「越前局」を淫乱な侍女とし、尊氏が彼女に弄ばれた結果直冬が生まれるとして、これまた尊氏の直冬に対する態度を説明する一つの推理だ。
 変わり種では田中文雄の伝奇小説『髑髏皇帝』がある。直冬・北条時行・楠木正行ら「太平記ジュニア世代」の三人が仲良く手を組んで後醍醐にとりついた蒙古兵の怨霊と戦うという異色極まる内容。。
漫画では 湯口聖子『風の墓標』(北条氏滅亡がテーマの長編)で「新熊野丸」と呼ばれた少年時代の直冬が可愛らしく登場、尊氏には冷たくされつつ登子には可愛がられている(その後かえって憎まれることになるが)。同じ作者による短編『北天の星』は直冬自身をテーマとしていて、直冬に思いを寄せる少弐頼尚の娘・胡桃(直冬の妻の妹)の目から見た直冬の京都占領と撤退のドラマが描かれる。「太平記」の伝える八幡宮の託宣の逸話を見事に生かした結末は必見。
市川ジュン「鬼国幻想」は阿野廉子の異母妹・緋和(架空人物)を主人公とする作品で、重要人物として直義が登場するため、「阿古丸」と呼ばれる少年時代の直冬がしばしば登場する。
PCエンジンHu版 シナリオ2「南北朝の動乱」で登場。1人プレイでは南朝を率いて直義を倒すことが目的となるため、敵ボスの息子の扱い。能力は騎馬2
PCエンジンCD版 北朝方の武将として1336年になると直義がいる国に元服して登場する。初登場時のデータは統率78・戦闘85・忠誠72・婆沙羅45
SSボードゲーム版 足利直義のユニット裏として登場。武家方で身分は「大将」クラス、勢力地域は「全国」。合戦能力1・采配能力5

足利直冬の妻 あしかが・ただふゆのつま 生没年不詳
親族 父:少弐頼尚 夫:足利直冬
生 涯
 詳しくは足利直冬の項目にあるが、直冬の妻が複数人いたことは確実。ここでは最初に正室として迎えられたと想像される少弐頼尚の娘について述べる。
 『太平記』には少弐頼尚が足利直冬を自らの勢力拡大のための旗がしらに担ぎ出し、彼を婿に迎えたとある。これは『太平記』にしか見えない話のため事実かどうか疑う意見もある。それ以外の詳細は一切不明で、直冬の嫡男・冬氏の生母「玉峰明金尼」が彼女なのかどうかも全く分からない。
大河ドラマ「太平記」 第46回に「直冬の花嫁」として登場する(演:苑村美月)。婚礼を祝う宴の席で直冬(演:筒井道隆)の横に控えているだけでセリフはない。
歴史小説では 鷲尾雨工の小説『吉野朝太平記』では「倫姫(りんひめ)」という名で登場する。
漫画では 湯口聖子の漫画「北天の星」は足利直冬をテーマとした短編作品で、少弐頼尚の娘で直冬の妻となる女性も登場する。ただし物語の主人公はその妹でひそかに直冬に恋する少女・胡桃であるため、直冬の妻の名前は分からない。

足利直冬の母 あしかが・ただふゆのはは 生没年不詳
親族 夫(?):足利尊氏 子:足利直冬
生 涯
―南北朝謎の一輪―

 『太平記』には「越前局(えちぜんのつぼね)」あるいは「越後局」とされ、若き日の足利尊氏がたった「一夜だけ忍んで」彼女と関係し、その結果のちの足利直冬を産んだと記されている。彼女に関する情報は『太平記』の直冬初登場の部分に記されたこれだけで、それ以外の資料は皆無で素性は全く不明である。直冬の生年ははっきりしないが、嘉暦2年(1327)ごろが有力とされている。だとすると尊氏と直冬の母が「一夜の関係」をもったのは嘉暦元年(1326)、尊氏が数えで22歳の時ということになる。
 尊氏はこの女性が産んだ男子の認知を長く拒み、東勝寺の喝食として預けたままでにしているので、一夜だけの関係で自身の子とは認め難いと思っていたのか、あるいは北条氏の正室・登子をはばかったかと推測される。結局弟の直義が養子に迎えるので「尊氏の子」と確定できる何か証拠があったのだろう。

 名門の有力御家人である尊氏がたった一夜だけ関係をもった相手、しかもその子がのちに一勢力の首領にまで成長しながらもその姿をいっさい見せていないことから、かなり身分の低い女性、あるいは白拍子のような女性だったのではという推測がある。だが一方で「越前局」という呼び名は一定の身分をもつ女性につくものであるため、実際に武家の娘レベルの女性だった、あるいは直冬の認知後に一定の身分を確保したという推理もある。いずれにせよ決定打はなく、青春期の尊氏を彩る謎の一輪の花である。
大河ドラマ「太平記」  吉川英治の原作に従い「藤夜叉」の名で登場する。演じたのは当時アイドルとして絶頂期にあった宮沢りえ(第1回の少女時代のみ尾羽千加子。ただし『私本』とは展開が大きく異なり、同じ孤児である「ましらの石」を交えた高氏との三角関係となり、前半は伊賀国で農家を、建武政権期は京に出てウナギ売りをしながら女手一つで不知哉丸(直冬)を育てる。一時石と共に土地を持って農業を営むが、不慮の事故により悲劇的な最期を遂げる。宮沢りえは序盤にややぎこちなさがあるが、母親となった中盤からは落ち着いた名演を見せ、演技面での出世作となった(藤夜叉が絡むフィクション展開に多く時間が割かれることに不評の声がないわけではないが)
 大河「太平記」の音楽(作曲:三枝成彰)は主要な登場人物にはそれぞれテーマ曲が用意されており、藤夜叉のテーマは「はかなくも美しく燃え」と題され、サントラCDに収録されている。
その他の映像・舞台 出ているようで意外に出ていない。1960年の舞台「妖霊星」で中村芳子が演じているという。
歴史小説では  「直冬の母」については古典「太平記」の記述自体がミステリアスであり、多くの作家の想像力をかきたててきた。
 なかでもこの女性をもっともイメージを膨らまして描いたのは吉川英治『私本太平記』だ。吉川は直冬の母を身分の低い白拍子に設定、実在した田楽舞・花夜叉の一座にいる「藤夜叉」という美女に仕立てた(当時田楽舞には「夜叉」という名が多かった)。若き日の尊氏(高氏)がかつて歌垣で抱いた女性とよく似ていたため、尊氏は酔った勢いで藤夜叉の処女を奪ってしまい、この一度の関係だけで「不知哉丸(いざやまる)」が生まれる。『私本太平記』の前半ではこの藤夜叉と不知哉丸母子の放浪が詳しく描かれ、藤夜叉が道誉に犯されて一度は自殺を図り、偶然吉田兼好に救われるという展開もある。尊氏が反北条の挙兵をする中盤以後はほとんど登場しなくなり、湊川の合戦のあとで忘れた頃に再登場、不知哉丸を尊氏の子と認知させて当人はその母として「越前局」の名を受けるが、いずこかへ姿を消してしまう。この小説は吉川の晩年の体調不良もあって湊川以降はダイジェストで済まされるため、彼女と直冬に関してもかなり構想倒れになった可能性もある。
 吉川英治の直弟子である杉本苑子は『風の群像・小説足利尊氏』で、「越前局」を足利家に仕えた淫乱な侍女に設定し、彼女がうぶな青年高氏を弄んだ結果として直冬が生まれ、彼女自身は足利家から追い出されて間もなく死んだことにされている。
 大胆なものは林青悟『足利尊氏』で、越前局はもともと北条高時の愛妾で、高時から高氏に下げ渡され、間もなく直冬が生まれたことになっている。つまり直冬は実は高時の子だったという解釈だ。
 田中文雄の歴史伝奇ホラー小説「髑髏皇帝」では、足利庄の炭焼きの娘「みつ」とされ、青年高氏が見染めて関係をもつが、自殺を図ったり神がかって不気味な祈祷を始めたりした末に消息を絶つ。
 竹内勇太郎「足利尊氏・天下を掴んだ男」では麻美という足利荘の少女として登場。ただし実は後醍醐一派のスパイだったというおまけつき。
 大河ドラマ放送時に便乗で発表された峰隆一郎の官能歴史小説「女太平記・足利尊氏」はでは「藤夜叉」の名前のまま登場し、尊氏との濡れ場を見せる。
漫画では  吉川英治の劇画化である岡村賢二「私本太平記」に藤夜叉として登場。連載の都合もあってスピーディーな展開になっているため高氏と関係をもったくだりはあっさり飛ばされ、あとで回想の1コマが描かれる。頭に大きな花の飾りをつけた漫画的キャラクターとなった。
 石ノ森章太郎「萬画・日本の歴史」の第19巻では、足利直冬初登場場面で回想として登場。海辺にたたずむ直冬が空を見上げるとそこに母の面影が浮かぶ。ナレーションでは若き日の尊氏との間にどのような関係があったかは分からないとしつつも、その姿は白拍子として描かれている。直冬が涙を流してそれを見ているところから、この時点ですでに他界している設定と思われる。
 沢田ひろふみ「山賊王」では「蜜樹(みつき)」という白拍子の美少女として登場(第4巻)。直冬の母になるのかどうか明確な描写はないが、足利高氏を「大切な殿方」と呼んで慕っていることからこれが直冬の母になることは確実。ただしその後まったく登場せず、結局触れずじまいのまま物語は完結してしまった。
PCエンジンCD版 尊氏でプレイするとナビゲーター役が藤夜叉になる。声優はかないみか。ゲーム開始時に「では、始めとうございます」と声をかけるほか、ランダムイベントで「たまにはお休みなさりませぬとお体にさわります」「つれないなされよう、あんまりでございます」」などと出現し、行動力(体力?)を減らされることがある。


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