足利尊氏 | あしかが・たかうじ | 1305(嘉元3)-1358(延文3/正平13) |
親族 | 父:足利貞氏 母:上杉清子 正室:北条(赤橋)登子 側室:越前局・加古基氏の娘 兄弟:足利高義(兄)・足利直義(弟)
子女:足利直冬・竹若・足利義詮・足利基氏・女子4人?(女子はいずれも夭折) |
官職 | 治部大輔・左兵衛督・武蔵守・権大納言・征夷大将軍・贈左大臣 |
位階 | 従五位下→従四位下→従三位→従二位→正二位→贈従一位 |
建武の新政 | 武蔵・常陸・下総守護 |
幕府 | 上総・三河守護(鎌倉幕府)、室町幕府初代将軍 |
生 涯 |
通名は又太郎、初名は高氏。清和源氏の名門・足利家に生まれ、鎌倉幕府・建武政権を相次いで打倒し、南北朝動乱を生き抜いて室町幕府を創設した武将。その生涯は南北朝動乱前半史そのものといっていい。
―誕生〜青春期―
足利貞氏の次男として嘉元3年(1305)に生まれ、幼名・通名は又太郎と名づけられたとされる。母は側室であった上杉清子で、出生地については鎌倉とするのが定説となっているが、清子の実家・上杉家の領地である丹波・綾部で生まれたとの伝説もある(上杉清子の項目を参照)。彼より前に貞氏の正室・釈迦堂殿(北条顕時の娘)が生んだ異母兄・高義がいるとされるが、早世したとされるだけで事情はほとんど不明である。尊氏の通名「又太郎」もそれに関して複雑な経緯を表しているのかも知れない。今川了俊『難太平記』は尊氏が生まれて産湯をつかっていた時、山鳩が二羽飛んできて、一羽が尊氏の肩に、一羽が柄杓の柄に止まる奇瑞があり、北条氏の天下のうちは警戒を恐れて公にされなかったと伝えている。母の清子はすぐ翌年(異説あり)に弟・直義を生んだ。
元服の時期は不明だが、得宗・北条高時の諱を受けて「高氏」と名乗った。元応元年(1319)10月10日に従五位下・治部大輔に任じられているので、このときが元服だったと思われる。しかし『足利系図』によればすぐ翌年の元応2年(1320)9月5日に治部大輔を辞したとある。これが何を意味するのかは分からない。これに先立って死んだ兄の高義は貞氏から家督を譲られていた形跡がある一方で、その死後貞氏が家政をとりしきって終生尊氏に家督を譲らなかったことから、貞氏は高義の遺児に相続させるつもりでいたとの推測もある。若き日の高氏は非常に不安定な立場だったとも考えられるのだ。
恐らく嘉暦2年(1327)ごろに北条家・赤橋流の姫・登子と結婚して足利・北条両家の絆を強め、高氏自身も足利家後継者の地位を固めているが、それと同時期に「越前局」という女性のもとに「忍んで一夜通い」(「太平記」)、のちの足利直冬をもうけている。高氏はこの子を長く自らの子と認めなかったとされ、鎌倉の東勝寺に喝食(かっしょく)として預けていたと伝えられる。他に加古基氏(足利一門)の娘に竹若という男児を産ませているがこれも伊豆に預けており、いずれも北条氏から迎えた正室・登子に配慮した措置だった可能性もある。直冬と竹若の出生順は明白ではないが、「太平記」が竹若を「長子」と明記していることから竹若・直冬の順であったとみられる。登子との間には元徳2年(1330)に千寿王(のちの足利義詮)が生まれている。
動乱が起こる以前の高氏の事跡としては、和歌における熱心な活動が知られる。嘉暦元年(1326)に成立した勅撰和歌集「続拾遺集」に「かきすつる 藻屑なりとも この度は かへらでとまれ 和歌の浦波」(「わたくしが書き捨てた藻屑のような和歌ですが今度こそ入選してほしいものだ」という意に掛け言葉が使われている)の一首が入選している。この歌の内容からそれ以前の勅撰和歌集「続千載集」(元応元年=1319)に応募、落選していることが推測され、高氏が少年時代から和歌の道にいそしんでいたことが分かる。その後も高氏は二条為世・為冬周辺の歌壇で活動したとみえ、動乱を間近に控えた元弘元年(1331)に成立した私選集「臨永集」には「述懐の心を」と題して「これのみや 身の思ひ出と なりぬらん 名をかけそめし 和歌の浦浪」(和歌の世界で多少名を知られたことだけが一生の思い出だ)という高氏の歌が載る。当時27歳の高氏はその後の自身の激動の人生を全く予期していなかったのだ(尊氏の和歌事情については小川剛生『武士はなぜ歌を詠むか・鎌倉将軍から戦国大名まで』で一章を割いて論じられている)。
―鎌倉幕府の打倒―
元弘元年(1331)9月5日に父・貞氏が病死した。おりしも後醍醐天皇が笠置山に挙兵し、「元弘の乱」が勃発した直後である。幕府は父の喪も明けぬ高氏に畿内への出陣を命じ、高氏はこれを恨んで反北条の決意を固めたと「太平記」は記す(ただし「太平記」は貞氏の死を実際の挙兵の直前に移している)。笠置落城後、幕府軍は楠木正成が抵抗を続ける赤坂城への攻略に向かっており、高氏も赤坂城での正成の奮戦を目撃したことにしている作品がいくつかあるが、このとき高氏が伊賀方面へ進駐して兵の乱暴を禁じる命令書が残っており、実際には赤坂城の戦いには参加しなかったと推測される。伊賀は楠木一族との関係が深く「悪党」の本場であったため尊氏はその掃討を命じられていたのではないかとの説もある(新井孝重「黒田悪党たちの中世」など)。大河ドラマ「太平記」もこの説をとり、ここで高氏と正成が遭遇するフィクションが加えられていた。
笠置・赤坂の落城でいったん高氏は京に引き揚げたが、持明院統の花園上皇の日記によると、幕府軍の首脳たちが持明院統派の皇族や公家たちに挨拶している中で高氏だけはさっさと鎌倉へひきあげてしまい、やや不評を買った気配がある。
元弘3年(正慶2、1333)、楠木正成・護良親王らの反幕府活動が再発し、隠岐に流されていた後醍醐天皇も脱出、情勢は一気に緊迫化し、3月に高氏にふたたび出陣の命が下る。このときすでに倒幕の決意を固めていた高氏は家族も連れて出陣しようとしたが、幕府は妻子を人質として鎌倉に残すよう命じた。執権・赤橋守時の妹婿で一門扱いでもある高氏に対して異例の措置と思われるが、やはり足利家が疑惑の目でみられていたということだろう。「太平記」では弟・直義が迷う高氏を励まして妻子を人質に残しつつ挙兵の決意を固めたことになっている。一方、今川了俊「難太平記」は母方の伯父・上杉憲房が家時以来の宿願を高氏に伝えてかねて挙兵をうながしており、三河国八橋まで進軍した時に白い衣の女が現われ「ご子孫悪事なくば七代守るべし」と告げる「不思議」があったため高氏がここで意を決し、三河で一門に挙兵の意思を告げたことになっている。3月27日に北条一門の名越高家と前後して鎌倉を出陣した高氏は、4月16日に京都に入った。この途上で佐々木道誉と倒幕の密談をしたとする史料(やはり佐々木家のもの)もある。
4月27日、共に出陣していた名越高家が久我縄手での赤松軍との戦いで戦死すると、酒盛りしながらそれを待って高氏の軍は領地である丹波・篠村へと移動を始めた。この27日付を最古とする高氏の密書が各地の武士に発せられていたことが確認されており、この中で高氏はすでに後醍醐の綸旨を受けていると表明し味方に馳せ参じるよう催促している。高氏の呼びかけに応じて多くの武士が馳せ参じ、たちまち二万の軍勢にふくれあがったという。4月29日に篠村八幡宮で高氏は願文(現存するが偽作説もある)を捧げ、倒幕の挙兵を宣言、逆に六波羅探題を攻略するべく京都へと進撃した。5月7日に六波羅は陥落、翌8日には上野で新田義貞が討幕の挙兵をしており、これも高氏と事前に示し合わせていたものとみる見解もある。このとき千寿王は高氏寝返りの知らせが届く前に鎌倉を脱出して新田軍に合流したが、伊豆にいた竹若は叔父の覚遍と共に西へ向け逃亡の途中に幕府方に発見され、殺害されてしまっている。
―建武政権への反旗―
後醍醐天皇が京へ帰還すると高氏は勲功第一とされ、北条氏がつとめた武蔵守の官位と多くの所領、そして後醍醐の諱「尊治」の一字を与えられ、以後「尊氏」と名乗ることになった。しかし後醍醐入京以前から尊氏は京に奉行所を構えて軍政を敷き、早くも武家の棟梁であるかのように振舞っていて、当人も征夷大将軍に任じられるのが当然と考えていたフシがある。だがそれは天皇親政を目指す後醍醐のいれるところではなく、やはり尊氏を警戒する護良親王を征夷大将軍に任じて尊氏に対抗させている。後醍醐の新政府(建武政権)に尊氏は上杉憲房や高師直といった腹心を雑訴決断所に勤めさせているが本人は一定の距離を置いており、人々は「尊氏なし」とささやきあったと「梅松論」は伝える。1333年10月の義良親王・北畠顕家による奥州将軍府の設置は足利勢力に対する牽制策であったと言われ、それに続く12月の成良親王・足利直義の鎌倉将軍府の設置は足利側の巻き返しであったとされる。
建武元年(1334)には護良親王と尊氏の対立が激化、護良は何度か尊氏暗殺を試みるが失敗する。これに対し尊氏は後醍醐の寵妃・阿野廉子を通して護良に反逆の疑いありと讒言し逮捕にいたらしめた、とするのが「太平記」の語るストーリーだが、実際には護良の背後には後醍醐自身の意思があり、それを尊氏に追及された後醍醐が保身のために護良を切り捨てた、とみる見解が有力である。この年10月に捕縛された護良は翌月には直義のいる鎌倉へと送られ、幽閉される。
翌建武2年(1335)7月、諏訪で高時の遺児・北条時行が挙兵、建武政権に不満をもっていた武士層を糾合して大軍となり、一挙に22日には鎌倉を攻め落とした(中先代の乱)。敗れた直義は混乱の中で護良親王を暗殺、成良親王を都へ送り返して自らは足利の拠点である三河国にとどまった。この時点で直義が東国に足利独立政権を築く構想をもっていたとする見解もある(佐藤進一「南北朝の動乱」)。直後に尊氏は後醍醐に時行討伐のための出陣と共に征夷大将軍・総追捕使の地位を要求、これは明らかに幕府再建を意味するもので、直義と尊氏の間で連絡・合意があったものと考えられる。後醍醐はこれを拒絶したが尊氏は無視して8月2日に出陣、慌てた後醍醐は「征東将軍」の称号を尊氏に後追いで授けた。尊氏の出陣に建武政権に不満をもつ多くの武士が馳せ参じ、尊氏は三河で直義と合流すると関東へと進撃、破竹の勢いで19日には鎌倉を奪回する。そしてそのまま鎌倉にとどまり、事実上建武政権から離脱して東国武家政権を樹立する。尊氏は「将軍」として合戦に参加した武士たちへの恩賞の処置を行い、新田領までも勝手に恩賞として与えてしまったため義貞との対立を深めていくが、尊氏はあくまでも後醍醐天皇と争うつもりはなく源頼朝の例にならって東国武家政権の既成事実化を図るつもりであったようだ。実際、京への帰還命令が下ると尊氏はこれに応じようとし、直義らに押しとどめられている。
しかし直義が各地へ発した軍勢催促状や護良親王殺害の事実が暴露されると、11月に後醍醐は尊氏の討伐を新田義貞に命じた。新田軍の出陣を聞いた尊氏は「天皇にさからう意思はない」としてわずかな側近とともに浄光明寺に引きこもってしまう。直義らが新田軍を迎え撃ったが主将なき足利軍は東海道の各所で連敗、一気に箱根まで後退を余儀なくされた。一時は髻(もとどり)を切って出家遁世を決意した尊氏だったが、この危機にいたって「直義が死んでは自分が生きていても無益である」(梅松論)として翻意し(太平記は直義が作った偽の綸旨にだまされたとする)12月8日に鎌倉を出陣、尊氏自らの出馬を聞いた武将たちの寝返りが続出してたちまち形勢は逆転、箱根・竹ノ下の戦いで新田軍を撃破する。この戦いで官軍にいた公家・二条為冬が戦死したが、為冬は尊氏の「朋友」(おそらく和歌を通じて)であったといい、尊氏はその首を見て深く悲しんだという(梅松論)。
―西走東奔―
新田軍を撃破した足利軍は、鎌倉に戻るか京都へ進むか議論の末、京都目指して西進と決定する。年が明けた建武3年(延元元、1336)1月11日には足利軍は官軍側の防衛線を突破して京都へと入った。ところがその直後に足利軍の後を追って奥州から駆け付けた北畠顕家の軍勢が京に到着、激しい市街戦が展開され、1月27日に足利軍は京を捨てて丹波へとのがれる。2月に摂津・兵庫に移って態勢を立て直したが、打出浜・豊島河原の戦いであいついで敗北し、2月12日、ついに尊氏は兵庫から船に乗って西へと逃走した。しかしこの間に赤松円心の献策により光厳上皇の院宣をえる工作を進め、「元弘没収地返付令」を発布して土地をすべて建武新政以前の状態に戻すことを表明するという布石を打ち、このことが「武士たちが勝った官軍を捨てて敗れた足利軍についていく」と楠木正成が嘆いた現象を引き起こしている。
尊氏は山陽道の要所要所に有力武将と軍勢を配置しつつ西へ向かい、備後・鞆で三宝院賢俊(日野資朝の弟)によりもたらされた光厳上皇の院宣を受け、「官軍」としての大義名分を得て九州へと向かった。この九州行きは「敗走」ではなく態勢立て直しのため戦略的なものだったとするのが有力ではあるが、尊氏は九州の強力な味方である少弐・大友・島津の三氏をあてにしていたようで九州上陸時にはわずか数百人しか率いていない。ところが尊氏を迎え撃つべく菊地武敏が素早く行動を起こし、少弐氏の拠点・太宰府を攻め落として、数万の大軍で尊氏らに襲いかかって来た。3月2日に筑前・博多湾の多々良浜で両軍は衝突したが、尊氏の敵のあまりの多さに敗北必至とみて戦意喪失、自害をしかけたが直義に励まされて思いとどまったと「太平記」は伝える。この菊地の大軍も実は大半が「模様眺め」で参陣した九州武士で、少弐頼尚と足利直義らの奮戦や一時の暴風の助けもあって形勢が足利有利に傾くと見るや寝返りが続出、足利軍は奇跡的な逆転勝利を得る。この多々良浜合戦の勝利により一挙に九州を制圧した尊氏は、早くも4月3日に博多を出発して東上を開始する。
5月5日に備後・鞆についた足利軍はここで海路を尊氏、陸路を直義と二手に分かれた。足利軍の東上に新田義貞は赤松円心のこもる白旗城包囲を解いて退却したが、このとき円心は新田軍が放置した旗印百余を尊氏のもとへ持参している。旗印の中にはもともと足利軍に加わって新田軍に寝返っていた武士のものも含まれていたが、これを見た尊氏は「一時の窮地をのがれようと義貞に属したその心は哀れである。彼らもやがてこちらの味方に来るだろう」と喜びの表情を見せたという(梅松論)。5月25日、足利軍の上陸をはばむべく兵庫に布陣した新田義貞・楠木正成らと「湊川の合戦」となり、足利軍は大軍の勢いのままに圧勝、新田義貞は京へと敗走し、楠木正成らは激闘の末に自刃した。このとき尊氏は正成の首を得て「公私ともに長く親しんだよしみを思えば哀れである」として河内の正成の遺族のもとに首を送ったと「太平記」は伝える。尊氏が正成と個人的に交友があったことを示唆する話はここにしかなくこの逸話の信憑性を疑う見解もあるが、尊氏が正成を以前から高く評価してその死を悼んだことは「梅松論」や書状からもうかがえる。
6月14日、尊氏は京都に入り光厳上皇を迎えて東寺に本陣を置いた。比叡山にたてこもった後醍醐天皇側との激しい戦闘が続くなか8月15日に光厳の弟・豊仁親王を新天皇(光明天皇)に即位させる。その二日後の8月17日、尊氏は清水寺に有名な願文を納めた。「この世は夢の如くに候」と変転の激しい世の成り行きを嘆じ、「早く遁世したい。今生の果報はすべて直義にあたえてほしい」と切々と訴えるこの願文はおよそ勝利側の総大将が書くものとは思えない内容で、尊氏の「遁世願望」がこの時期またも頭をもたげていたようだ。10月にひとまずの和議が成立して後醍醐は比叡山を降り、三種の神器は光明天皇側に引き渡され、11月7日に足利幕府の施政方針である「建武式目」が発表され、京都に新幕府が発足する。
ところが12月21日に花山院に軟禁されていた後醍醐が脱走、京は大騒ぎとなった。慌てて武装して馳せ参じた武将らを前に尊氏はちっとも驚いた様子を見せず、「先帝を花山院に軟禁するのも警備の手間が大変だし、北条のようにどこぞへ島流しにするわけにもいかず、困っていたところだ。今度の脱走はむしろ大儀の中の吉事である。きっと畿内のどこかにおられるのだろうが、あとはご本人の好きなようにどこへと落ちられればよい。運は天の定めるところで我らがどうこうできるものではない」と語り、武将たちを感嘆させたという(梅松論)。結果からいえばこれはかなり甘い観測と言わざるを得ないが、尊氏は後醍醐に個人的に親近感を持っており、これと全面対決は避け、自然消滅が望ましいと思っていたのかもしれない。
―南北朝動乱―
京を脱走した後醍醐は吉野に入り、自らが正統の天皇と主張(南朝の開始)、全国の南朝方に足利打倒を呼びかけた。奥州の北畠顕家、北陸の新田義貞がこれに呼応したが、建武5年(1338)のうちに相次いで敗死し、足利政権の天下はひとまず盤石になったかに見えた。源氏・武家の棟梁の地位を争った最大のライバルである新田義貞が戦死したのは建武5年閏7月で、その翌月8月11日に尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任命され、尊氏は名実ともに武家の棟梁となり、足利幕府を本格的に発足させる。尊氏は自らは将軍として武士をたばねる軍事面での指導者、限りなく象徴的な立場となり、実際の政務は弟の直義にゆだねた。見事なコンビネーションの二人三脚で天下取りを実現した兄弟ならではの権力分担・二頭体制だったが、これはやがて幕府内部の深刻な亀裂の要因となっていく。
暦応2年(延元4、1339)8月16日、後醍醐天皇が失意のうちに吉野で死去した。この訃報に尊氏が強い衝撃を受けたことは確かなようで、後醍醐没後12日目から服喪として幕府の政務を七日間停止させ、百箇日には尊氏自身が願文をしたため法要を営んでいる。この願文は現存しており、そのなかで尊氏は後醍醐の徳を型どおり称えつつ、「温柔の叡旨なお耳の底に留まり、攀慕の愁腸なお心端に尽き難し。恩恵窮まりなし。報謝なんぞおろそかにせん(その優しいお声は今も耳に残り、なごりを惜しんで悲しむ心は尽きることがありません。受けたご恩は多大であり、感謝をおろそかにするようなことはいたしません)」と記している。さらに夢窓疎石のすすめで光厳上皇の院宣を受ける形で後醍醐の霊をなぐさめる天竜寺を造営している。これらの行動は政治的なパフォーマンスや後醍醐の怨霊を実際に恐れての措置と見ることもできるが、尊氏自身が後醍醐個人を敬愛していた可能性は高く、それゆえに自身が後醍醐を失意の死に追いやったことに強い悔恨を覚えたのではないかとの見方も強い。天竜寺造営にあたってはその費用捻出のために元への貿易船(天竜寺船)を派遣しており(康永元年=1342)、足利幕府として最初の貿易・対外政策としても注目される。
康永元年(興国3、1342)12月に母・清子が死去した。その後楠木正行ら南朝軍の一時的攻勢もあったが高師直・師泰がこれを撃破、吉野を焼き払って南朝をほぼ壊滅に追い込んだ。同じころ直義の養子として元服した尊氏の実子・直冬も紀伊の南朝勢力を平定し武将としてデビューする。しかし政務を担当し朝廷・公家など旧勢力と共存をはかる直義派と、武功でのし上がり古い権威を認めずむしろ打破しようとする師直派の対立は次第に深刻化していった。
その間に尊氏はといえば現実逃避なのか田楽見物にいそしんでおり、貞和5年(正平4、1349)6月に起こった四条河原の橋勧進の大田楽興 業での桟敷倒壊事故の時にも現場に居合わせている。「梅松論」によれば尊氏は直義に「お前は政治をする身なのだから、重々しくふるまえ。遊んだりして時間を浪費してはいけない。花見や紅葉狩りぐらいならともかく、物見遊山はほどほどにしろ。お前に重々しくしてもらえば、私は軽々とふるまって、武士たちにも良く接して慕われるようになるし、朝廷のためにもいいことだ」と言ったという。あまり信用されない後世の史料だが、あまりに田楽に熱中する尊氏を直義がいさめたところ「天下のことはすべてお前に任せている。何事も師直と相談して進めて私をわずらわすことはあるまい。自分はもう五十に近く、余生は遊んで暮らしたいのだ」と語ったという逸話が伝わる(江戸時代編纂の『続本朝通鑑』)。
―観応の擾乱―
その翌月、閏6月15日に直義らは尊氏に迫って師直を執事職から解任させた。7月に直義らはさらに師直の暗殺を謀ったが失敗、8月12日には師直一派が軍勢を集め直義打倒のクーデターを起こす。尊氏から手紙で来るよう言われた直義が尊氏邸に逃げ込むと師直軍はこれを包囲した。このとき尊氏は「家臣の手にかかるぐらいなら兄弟ともども自害しよう」とまで言ったが、結局直義が政務を降りることを表明して包囲は解かれた。この無血クーデターは実は尊氏と師直が直義を引退に追い込むための「芝居」であったとする説が当時からあり、事実として直義は引退・出家、鎌倉にいた尊氏の嫡男・義詮が政務担当となり尊氏の後継者の地位を確実にしていることから、それが真相とみる研究者が多い。
翌観応元年(正平5、1350)10月、直義の養子・直冬が九州で勢力を強めていることを危惧した尊氏は自らこれを討つべく出陣した。その出陣の前日に京都で幽閉状態にあった直義が失踪、師直が捜索を求めたがなぜか尊氏は放置してそのまま出陣した(洞院公賢の日記に人々が尊氏の態度を不審がり、尊氏と師直が不和との噂が流れたことが書かれている)。直義は畠山国清・細川顕氏・石塔頼房・桃井直常ら直義派の武将たちを糾合して南朝に降り、その綸旨を受ける形で京都を占領した。尊氏・師直は急いで京へ取って返し、京都をめぐって攻防を繰り広げたが、観応2年(正平6、1351)2月の摂津・打出浜の戦いで大敗、赤松氏の松岡城にこもって一時は自害を覚悟した。ここで尊氏の小姓の饗庭命鶴丸が直義と和睦交渉をすすめ、直義は師直・師泰兄弟の出家・引退を条件に和睦に応じた。師直兄弟はこれを受け入れ出家して投降したが、2月26日、武庫川で直義派の上杉能憲により暗殺されてしまう。この和睦の時に尊氏が直義に「師直が自分を殺そうとしている。和議成立後に師直を殺せ」と指示していたとする史料(江戸時代に編纂された「続本朝通鑑」)があるが、確証はない。
事態は直義派の圧勝に終わったかにみえたが、ここで尊氏は奇怪な言動を見せ始める。京に戻ってからの交渉で尊氏は「自分の側で戦った武将たちの恩賞を先に行う」ことを直義に約束させ上機嫌になり、師直を暗殺した上杉能憲の死罪を主張して直義の説得により流罪に処したり、戦勝に意気上がる直義派の細川顕氏が自邸に訪ねてくると「降参人が何をしにきた」と追い返すなど、敗者とはとても思えぬ言動を見せるのだ。細川顕氏はこの尊氏の態度に「初めて恐怖の色をあらわした」と伝えられ、いつの間にか尊氏側に接近するようになっていく。
7月、佐々木道誉と赤松則祐が南朝側に寝返ったとして尊氏・義詮はそれぞれ出陣した。これが京を東西から挟撃する作戦ではと恐れた直義らは京を脱出した。このとき古典「太平記」では京を出た直義軍がまた攻め込んでくるのではと恐れる義詮に対し尊氏が「運は天にあり。何も恐れる必要はない」といたって平静に短冊を手に和歌を詠んでいたと伝えている。10月に尊氏は南朝への降伏を決意、事実上北朝を見殺しにすることで敵を直義一派にしぼりこんだ(正平の一統)。この前に直義が南朝との考証に際して幕府存続を断固主張したのに対して尊氏はいたって柔軟に「元弘の乱以前の状態に戻す」の一言で和議をまとめているのは、これが一時的な講和にすぎないと分かっていたからでもあろう。南朝から直義討伐の綸旨を受けた尊氏は関東へ逃れた直義を追い各地で転戦、駿河国・薩埵山の合戦で直義軍をほぼ壊滅させ、鎌倉を攻め落として直義を捕えた。直義は翌文和元年(正平7、1352)2月26日に鎌倉の幽閉先で急死し、死因は「黄疸」と発表されたが、尊氏により毒殺されたとの見方が当時から有力。直義の命日がちょうど師直の一周忌にあたっていることもその根拠である。しかしその精神的打撃のためか、尊氏は直後に病に倒れて一時危篤状態になったと伝えられる。少なくともこのころから尊氏は病との長い闘いを始めていたようである。
―晩年―
尊氏が関東へ出陣している間に「正平の一統」を実現した南朝軍は和議を一方的に破り、尊氏の留守を守る義詮の隙を突いて京都を急襲、南朝総帥の北畠親房は17年ぶりに京の土を踏んだ。同じころ関東でも宗良親王・新田義宗・北条時行ら南朝軍による大攻勢が始まり、病から復帰した尊氏も苦戦を強いられ一時は鎌倉を奪い取られている。しかし南朝軍の勢いも一時のものに過ぎず、関東でも畿内でも間もなく足利軍が京・鎌倉を奪回した。南朝は北朝再建を阻止するため光厳・光明・崇光の三上皇を賀名生へと拉致したが、義詮らは出家の予定で寺にいた光厳の皇子・弥仁親王を神器なし、光厳の母を「治天」とする非常処置で新天皇に即位させた(後光厳天皇)。
その後文和2年(正平8、1353)6月に山名時氏が南朝に寝返って旧直義党や楠木正儀ら南朝軍と共に京都を奪取、尊氏はようやくこの年の7月に関東を去り、9月に美濃で義詮と合流して京都を奪回した。この年10月にも尊氏は重病に倒れて後光厳天皇や三男・基氏から平癒祈願を受けている。尊氏自身はもちこたえたが翌11月に身代わりのように娘の鶴王(母は登子)が病に倒れ、尊氏は娘の平癒を祈願したがかなわず、鶴王は夭折した。尊氏は以前洞院公賢にわざわざ「娘を“姫君”と呼んでよいかどうか」と問い合わせたこの娘の死を深く悲しみ、翌々年朝廷から「頼子」の名と崇光上皇女御(ということにする)の待遇、従一位の贈位を受けるなどいささか子煩悩な一面を見せている。
このころ一方の子供である足利直冬は南朝に降り、九州から中国に進出して山名時氏や旧直義党に盟主としてかつぎだされようとしていた。義詮がこれを討とうとしたが尊氏は「兄弟の争いになっては人々が困るから尊氏自らが討伐する」(一色範光の島津道鑑宛書状より)と自ら出陣を決定したがこれがなかなか実行されないうちに(病身のためか)文和3年(正平9、1354)10月には直冬側が京へ進撃、翌年正月に山名時氏・石塔頼房・桃井直常らとともに尊氏らを追い払って入京した。尊氏はいったん比叡山に逃れてから態勢を立て直し、3月には直冬軍を京から追い出すことに成功する。
直冬をひとまず撃退した尊氏は旧直義党に投降を呼びかけ、延文元年(正平11、1356)に越前守護の直義党の大物・斯波高経の投降を勝ち取った。南朝との和平交渉も進めていて、翌延文2年(正平12、1357)2月に南朝に拉致されていた光厳上皇ら北朝皇族達が京都に帰還しているのもその表れと言われる。南朝との和議は結局7月に決裂しているが、この尊氏晩年の約三年間はしばらくぶりに京都周辺で戦争のない穏やかな時期となっていた。この年尊氏はまたも重病となり、護持僧で「将軍門跡」と呼ばれた三宝院賢俊が「我が身に代えて」と平癒を祈願、まるでその望みをかなえるかのように尊氏は回復し、代わりに賢俊が死んだ。
延文3年(正平13、1358)2月12日、突然北朝は足利直義に従二位の贈位を行った。近衛道嗣の日記によればこれは尊氏からの突然の要請によるもので「その故を知らず(理由不明)」とされ、「太平記」も「とうに出家し死去している者に贈位した例はない」と批判的に記している。歴史家の中にはこれは死期が迫ったことを悟った尊氏が自ら手にかけた直義に対する罪滅ぼしのつもりではなかったかと推測する向きもある。これに先立つ正月に天竜寺が火事で炎上しており、これも尊氏の心を苦しめたのではないかと言われる。
だが九州において懐良親王率いる南朝軍、あるいは直冬党の活動が盛んで幕府は手も足も出ない状況にあり、尊氏は自ら遠征してこれを平定しようと決意した。出陣は3月8日と発表されたがその8日に21日に延期と発表され、結局義詮の諫めにより遠征そのものが中止となった。公表はされていないが尊氏の病状が悪化したためと思われ、4月22日には尊氏の重態が世間に知られるようになっている。そして4月30日、二条万里小路の邸宅において尊氏はついに息絶えた。享年54。このとき義詮の側室・紀良子の胎内には、南北朝動乱を終わらせる孫の義満が4ヶ月後の誕生を待っていた。
尊氏の墓は京都・等持院にある。また遺髪は育った故郷である鎌倉の長寿寺に納められ、ここにも彼の墓がある。また誕生地との説もある丹波・綾部の安国寺にも母・清子と妻・登子と共に分骨された尊氏の墓がある。
―人物―
その生涯のうちに天下統一を達成することはなかったが、室町幕府の創設者、南北朝動乱の一応の勝利者ということで時代の代表者であることは間違いない。とくに変転の激しい動乱の中で多くの群雄が非命に倒れる中で曲がりなりにも勝ち抜き生き抜いたことは彼の非凡さの証明といえるだろう。ただスタート時点ですでに「源氏の棟梁」扱いされている名門、鎌倉幕府・建武政権ともに実質ナンバー2の位置にいながらそれらを打倒するという天下取りの経緯、天下を取ってからも弟と争いそれを死に追いやる結果になるなど、一般受けがしにくい要素が多い人物であることは否めない。悲劇の英雄でもなく立身出世の苦労人でもなく、といって非情に徹した陰謀家でも天才的戦略家でもなさそうなところが「歴史英雄」ファンの食指を呼ばないのだろう。
ほぼ同時代の成立であり広く親しまれた軍記物語「太平記」でも、登場回数は最多に近い重要キャラクターながら武将らしい華がない。何かというと自害を覚悟し、時には出家しようとひきこもるなど気弱な描写ばかりが目につくぐらいで尊氏の英雄らしいエピソードが皆無と言っていいのだ。また成立段階で室町幕府のチェックも入ったことで尊氏個人の描写が困難であったことも想像できる(その割に尊氏に都合の悪い話がちゃんと載っており、むしろそこに尊氏らの「おおらかさ」を見る意見もある)。
一方で足利方の視点から書かれた軍記物語「梅松論」は尊氏を英雄と称えることを主眼とするため尊氏個人に関する逸話が多い。ただそれも武将としてよりも「天下人にふさわしい大物」といった観点で、敵軍の旗印を見たときの逸話や後醍醐脱走時の発言など「おおらかさ」を伝える逸話が目立つ。そして末尾に夢窓疎石が語ったという以下の尊氏の三つの美点を載せる。
「第一に、心が強く、合戦中に命を捨てるような場面がたびたびありながらも、笑みを浮かべて恐怖の色をみせない」 「第二に、天性の慈悲の心をもち、人を憎むということがない。敵を許すことも多く、我が子に対するようである」 「第三に、心が広く物惜しみをしない。金銀も土石とひとしく見なし、武具や馬などを人々に与えるときには、相手の身分や財力に関係なく手に取るままに与えてしまう。八朔(八月一日)には人々の贈り物が数知れずあるけれども、みな人に与えてしまい夕方になると何も残っていなかったということだ」
この夢窓疎石の尊氏評は竺雲等連も紹介していて「一は敵を見て恐れる心がない」「二は人に対して憎悪の心がない」「三は財についてけちくさい心がない」と簡潔にまとめており、さらに「酒宴の席でいかに酔おうとも一座の工夫をしなければ安眠することはない」とその心配りぶりにも言及している。夢窓は尊氏の厚い帰依を受けた立場であるし当時の最高権力者に関するコメントなので多少割り引いておく必要はあるが、尊氏に関して伝わる逸話はおおむねこれらの評価を裏付けている。「太平記」の伝えるやたらと自害未遂をする尊氏像のほうが誇張があると見た方がいいだろう(実際に自害したことは一度もないわけだし)。敵を許したことも確かに多く、敵を徹底的に滅ぼそうとしない詰めの甘さすら目立つ。後醍醐や正成など戦った相手に対してその死を大いに悼むこともあった(義貞は源氏の棟梁を争う相手のせいか例外らしい)。けちくささや財物への欲望が薄かったのは大大名の御曹司という育ちのせいだろうが、恩賞の大盤振る舞いは結果的に味方を増やし動乱を勝ち抜くことに結びついている。それが室町幕府の弱体化の一因とみなす評価もあるが、江戸幕府のような体制と単純に比較できるものではないし、義満・義持時代をみれば鎌倉幕府と比較してもずっと強い政権との見方もできる。
そうした人好きのする豪快な性格の一方で、後醍醐に反逆するとき寺に引きこもって出家しかけたり、天下取りの勝利の直後に「この世は夢のごとし」と願文を書いて隠遁の意思を示したり、田楽にふけって「余生は遊んで暮らす」と発言したりと著しく消極的になる一面も確かにあった。かと思うと後醍醐の脱走を「手間が省けてよかった」と喜んだり観応の擾乱で負け戦のはずなのに勝利者のようにふるまうなど常人には理解しがたい言動も伝えられ、歴史家・佐藤進一は名著「南北朝の動乱」のなかで「躁鬱質だったのでは」と推測している(足利氏歴代に精神異常があるような表現は今となっては少々問題があるが)。こうした感情の起伏が激しく特異な性格の尊氏を、新し物好きの後醍醐が好んだのではないかとも佐藤進一は言っている。
同時代の証言者である今川了俊は「難太平記」のなかで「直義は政道に私がないから捨てがたく、尊氏は弓矢の将軍でさらに私曲がないからさらに捨てがたい」と述べ、尊氏が武人として、直義が政治家として優れていたと評している。この兄弟は見事なまでに対照的な性格で、双方の足りない部分を完璧に補完し合う理想的なコンビだった。つまり尊氏は政治能力については直義に劣っていたということだが、幕府設立後は政治権力をすべて直義に預けて自身は「余生を安穏に遊び暮らす」と身を引いてしまったのは自身の能力をよく自覚していたというべきだろう。それが結果的には決裂、対決へと至るわけだが、その原因が息子・義詮への溺愛だったのではないかと言われるあたり、情にもろいタイプで政治家向きでなかったのは確かだ。だが兄弟の対決は最終的に人望が集まった兄の方に軍配が上がる。
では武人として戦争指揮能力はどうだったか。この評価はかなり難しい。中先代の乱で北条時行を討った時や、直義らを連破して東海道を進撃してきた新田義貞を箱根・竹之下で打ち破った時には、尊氏が出馬したとたんに形勢逆転、勝利を得ている。だがこれは彼の指揮能力というより「武家の棟梁」と目されるカリスマが士気に影響しているものと思われる。その後の建武の乱や観応の擾乱での京都攻防戦では大軍を擁しながら読みの甘さから敗北をくらっているケースが多く、正直なところあまり「いくさ上手」には見えない。逆に圧倒的に不利な数で戦った多々良浜合戦では捨て身の果敢な攻勢が寝返りを呼び込み勝利している。天下取りを決定づけた湊川の戦いは軍勢の数・士気ともに圧倒的に優勢な条件で戦っているので尊氏個人の能力評価にはあまり参考にならない。戦闘指揮の実績では執事の高師直の方が目に見える形で表しているのに比べるとやはり尊氏個人は指揮官としては平均値な人だったのではなかろうか。戦場では総大将の立場ながら前線に立って危険に身をさらすことも少なくなかったようだがそれは弟の直義や宿敵の義貞についても言え、当時の武士の大将のあり方としては特に目立つものではない。
総じて言えば高貴な血筋を受け継いだ苦労を知らないお坊ちゃんであり、しばしば見通しが甘く敵対相手を徹底的につぶす非情さもない。特に目立つ才能があったわけではないが豪快な性格で人当たりがよく、ケチケチしないだけに人気はあった。いわゆる「将の将たる」タイプで自身はかつがれることで満足し、実務は能力のある者に任せておいたことは自身の分をよくわきまえていたと言える。
尊氏の肖像は画像・木像が複数ある。有名な義詮の花押入りの「ザンバラ髪の騎馬武者像」が長らく尊氏肖像画と信じられ尊氏の「乱世の梟雄」イメージを決定づけてきたが、1980年代から疑問視され現在は尊氏像であることはほぼ否定されている。尊氏像として信頼できるもっとも古い肖像画は尾道の浄土寺にあるもので、やや丸顔で垂れ目ぎみ、鼻の大きい顔だちをしている。この顔立ちは足利将軍歴代の木像を納める京都・等持院にある尊氏木像とも一致する。また尊氏の死の翌年に原本が描かれ、江戸時代の忠実な模写が残る騎馬武者姿の「尊氏像」も顔立ちは浄土寺所蔵のものと似通っている。さらに神護寺にある「平重盛像」「源頼朝像」として有名な肖像画が実際は尊氏・直義兄弟を描いたものではないかとの説が近年有力視されており、「重盛像」は確かに浄土寺の画像や等持院木像と似てるといえば似た顔つきをしている。いずれも武将にしては穏やかでノンビリした人の良さそうな顔立ちで、伝えられる尊氏の性格をしのばせる。
―後世の評価―
尊氏についてはどうしても後世の評価についての話題がつきまとう。江戸時代に徳川光圀が「大日本史」編纂にあたって朱子学的名分論に基づいて南朝正統論をとなえ、楠木正成を「忠臣」として称揚したことがきっかけとなり、尊王史観では尊氏を天皇に逆らった「逆賊」として批判的に扱うようになる。ただし「大日本史」自体は尊氏を器量の大きい人物と評価しているし、尊王史観に多大な影響を与えた頼山陽も尊氏を姦雄と評しながらもその立場に追いやった後醍醐の政治が悪いという見解もしている。だがこの傾向は幕末に近づくにつれ激しくなり、尊王の志士たちは正成を自らの理想として神格化し、同時に尊氏を最大の悪人として攻撃するようになった。幕末には等持院の尊氏・義詮・義満の木像の首を切ってさらしものにするという事件が起こっている。また講談のルーツである「太平記読み」で広く親しまれた「太平記」自体が南朝よりの姿勢で正成を称揚し尊氏をおとしめる傾向があったこともこうした評価に影響したと思われる。さらに木像事件にも言えることだが、足利将軍を徳川将軍に見立てて間接的に徳川幕府批判をしていたという面もある。
明治に入ると正成はじめ南朝武将・公家の称揚が盛んとなるが、歴史研究や教育の現場では「南北朝」表記が普通に使われ、尊氏についても客観的な肯定的評価がなされていた。それが明治も末の「大逆事件」のあとで反政府系の運動家やマスコミが政府を揺さぶる目的で「国定歴史教科書に“南北朝”と書かれている!」と攻撃する「南北朝正閏論争」を引き起こし、その結果教科書執筆者が退官に追い込まれ、政府により「南朝正統」が公式見解とされ尊氏は「逆賊の最たる者」として徹底非難を浴びせられるようになる。この動きに対し歴史研究者の中には「南北朝対立は客観的事実だ」「正成が南朝の忠臣であるのと同じく尊氏も北朝の忠臣である」と抵抗を示した人も存在した。
それでも大正から昭和初期まではある程度余裕があったのだろう。中島久万吉が足利尊氏作の木像をみた感想を俳句同人雑誌に書き、その中で尊氏を人間としてすぐれていると評価し、室町時代の再評価をしたのが大正10年(1921)のことだ。また昭和7年(1932)には直木三十五が歴史小説「足利尊氏」を雑誌「改造」に連載しており、その中で尊氏は人間的魅力をもつ人物として描かれた。
しかしこの小説「足利尊氏」は検閲で大幅な削除を食らった末に連載中断に追い込まれた。翌昭和8年(1933)に商工大臣となっていた中島の「尊氏論」が10年もたってから雑誌「現代」に転載され昭和9年には大きな政治問題となる。南朝・菊地氏の子孫とされる菊地武夫貴族院議員は「乱臣賊子を礼賛するのか」と中島を非難、他の議員や右翼・マスコミまで同調して中島を大臣辞職に追い込んだ。この時期は満州事変・五・一五事件・国際連盟脱退と日本が国際的には孤立化・国内的には全体主義化を強めている時期で、おまけに「建武中興六百年」とかち合ったこともあり、南朝賛美の皇国史観と偏狭なナショナリズムが結びついていた。天皇機関説攻撃や国体明徴運動といった一連の動きと連動して「尊氏問題」も政治的に仕掛けられたものとみられる。こうした尊氏逆賊論は敗戦まで続いた。
戦後になり皇国史観の反動から尊氏を偉大な政治家、民衆の味方ともてはやす評価も出たが、そうした極端な例はともかく尊氏を新時代を切り開いた代表者として再評価し、人間的な魅力(と同時に複雑怪奇な性格も)を論評する著作(高柳光寿『足利尊氏』が代表)も出た。一方で戦前そのままの価値観で尊氏悪人説を唱えるむきも長く存在していた。ただ戦後は南北朝時代そのものが不人気なので「尊氏論」自体が数えるほどしかないのが実情である。
2008年に刊行された「足利尊氏のすべて」(新人物往来社)は現時点における尊氏論の集大成といっていい良作。特に尊氏関係の書籍・論文を網羅した参考文献一覧は必見である。
参考文献
櫻井彦・樋口州男・錦昭江「足利尊氏のすべて」(新人物往来社)
高柳光寿「足利尊氏」(春秋社)
佐藤進一「南北朝の動乱」(中央公論新社)
峰岸純夫「足利尊氏と直義・京の夢、鎌倉の夢」
ほか多数 |
大河ドラマ「太平記」 | 1991年の大河ドラマ「太平記」は吉川英治「私本太平記」を原作として尊氏を主人公にした初の南北朝大河ドラマとして製作され、真田広之が尊氏を演じた(少年時代は雨傘利幸)。性格付けはほぼ吉川英治準拠だが、吉川が描けなかった後半生、観応の擾乱もドラマ化され、尊氏の苦悩がいっそう印象的に描かれた。南北朝時代を扱った大河ドラマは以来これきりとなっているが、大河ドラマ通の間での評価は高く、歴代ベスト1に挙げる声も少なくない。ただ一年50回で片付けるには濃度が濃すぎる人生ということもあり、九州戦が完全カット、晩年の南朝との対決も大幅に縮小して描かれたきらいはあった。
アクション俳優出身の真田広之ということで、第一回の闘犬との乱闘、第3回の障害物越え乗馬、第6回の流鏑馬、第35回の伏せた馬に乗ったまま起き上がるシーンなど、主役自身が体を張ったノースタントアクションが多いのも特徴。
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その他の映像・舞台 | 戦前ではそれこそ「悪役」の最たるもの、しかも天皇がらみとあってかえって登場しにくかったようだ。古い例では1922年の松竹キネマ「楠公桜井之駅」で片岡童十郎、1940年の日活映画「大楠公」(阪東妻三郎主演)で遠山満が演じている。
昭和3年(1928)に自由劇場で舞台「足利尊氏」が上演され、自由劇場の主催者市川左団次(二代目)が尊氏を演じたといいうのだが、時期が時期だけにどのような内容だったか興味深いところである。配役を見ると尊氏を再評価する内容のようにみえるが…
戦後の昭和34年(1959)のTVドラマ「大楠公」では堀正夫と古石孝明が尊氏を演じている。昭和41年(1966)のTVドラマ「怒涛日本史 足利尊氏」では神山繁が演じた。
2001年の大河ドラマ「北条時宗」では語り手の時宗の未亡人・覚山尼が登場するアヴァンタイトル部分で少年時代の尊氏(演:三觜要介)が登場、「家時の置文」をあっさり覚山尼に見せて意見を聞くというとんでもない場面があった。
戦後の舞台では1960年の「妖霊星」の市川段四郎、1961年および1969年の「幻影の城」の水島弘、1962年の「文士劇私本太平記」の中野実の例がある。
大河前年に上演された舞台「流浪伝説」は後醍醐を主役とするもので、森山潤久(大河では細川和氏役)が尊氏を演じていた。寺山修二がTVドラマ用に書いた台本を下敷きにした遊行舎の舞台「中世悪党伝」(三部作)公演(2003-2005)では林正樹が尊氏を演じた(なお、同じ寺山のシナリオを下敷きにした「中世悪党伝」二部作も90年代に上演されてるが配役が不明)。2007年上演の劇団はなまる「YU-GEN乱舞〜建武に懸けた情熱〜」は尊氏(高氏)を主役とする舞台だが、配役未確認(主催者・作者自身だろうか?)。
昭和39年(1964)の歌舞伎「私本太平記」では坂東三津五郎(八代目)が演じ、大河と同年の平成3年(1991)の歌舞伎「私本太平記 尊氏と正成」では市川団十郎(十二代目)が演じている。
昭和58年(1983)のアニメ「まんが日本史」では第22〜25回にかけて登場、田中信夫が尊氏の声を演じた。
1992年か93年ごろ、角川映画として森村誠一原作「太平記」を映画化、という発表がなされたことがある。プロデューサーの角川春樹がコカイン所持容疑で逮捕されてしまったためお流れになったが、渡辺謙が尊氏役に内定していたとの説がある。
フジテレビが制作したバラエティ日本史番組では南北朝時代をプロレスに見立て、尊氏役をプロレスラーの高田延彦が演じている。 |
歴史小説では | 尊氏を主人公とした最初の本格歴史小説は上記の直木三十五『足利尊氏』(1932)であると思われる。直木は前年に『楠木正成』を発表しており、『尊氏』はそれと対をなす構想であったようで、一部記述をそのまま流用した「ザッピング小説」となっている。父・貞氏の死から始まり尊氏(高氏)が遭遇する場面場面を飛び飛びに描いていく形式のこの小説では、尊氏は兵士を思いやり子煩悩(竹若の死に号泣する場面もある)な好人物として描かれ、建武政権に反逆していく過程も当人が望まないうちに状況が彼を追い込んでいく風に描かれている。しかし検閲で皇室がかかわる個所はザクザク削除されており、建武政権期では伏字だらけで筋が追えないほどになって、浄光明寺で偽の綸旨にだまされて出陣を決意する場面で唐突に終わっている。前の号で「次回最終回」の告知が出ていないので何らかの圧力で、あるいは直木自身が嫌気がさして、連載中断となったと思われる。この作品は直木三十五全集に収録されているが、単行本として発行されたことは現在に至るまでないらしい。
鷲尾雨工の『吉野朝太平記』(1935)は楠木正儀を主人公にした小説で第2回直木賞を受賞しているが、ここでは時節柄南朝中心に描きつつも、敵の総大将である尊氏は死んだ後醍醐に対する悔恨に苦しむ少々優柔不断な人物といったところでそう悪くは描かれない。
戦後になるとさすがに逆賊論は影をひそめるが、楠木正成を中心に描いた山岡荘八『新太平記』(1957)では尊氏は天皇を二人立てたことでかなり批判的に扱われている。一方で吉川英治は『私本太平記』(1959)を尊氏を主人公として描き、快男児的な青年から描き始めて、中盤からは天下をとる宿命を背負って時には悩み、時には油断ならぬ策士の一面も見せる複雑なキャラクターへと変貌させていった。吉川の体調のために物語は湊川合戦でほぼ終了、あとはあらすじで尊氏の死まで書いてしまうので消化不良になっている感も否めない。
そのほかの作品としては、林青梧『足利尊氏』(1984)が尊氏を高く評価する立場から小説にまとめている。吉川英治の弟子として吉川に先駆けて習作として尊氏小説を書き『私本』も手伝っていた杉本苑子の『風の群像-小説足利尊氏』(1995)は尊氏の評価よりも彼個人のプライベートな苦悩を中心に南北朝群像劇にまとめている。一方で桜田晋也『足利高氏(文庫本は「尊氏」表記)』は題名からして戦前的価値観を漂わせ、内容的にも主人公の尊氏(本文中では「高氏」表記で統一)を徹底して悪人として糾弾する異例の作品となっている。新田次郎『新田義貞』は宿敵を主役としているだけに尊氏の描写もあまり好意的ではない。かなりの変わり種として、大河ドラマ放映時に便乗でスポーツ新聞に連載された峰隆一郎『足利尊氏・女太平記』は尊氏が次から次へと女性とやりまくるという「官能歴史小説」である。
一時南北朝小説を量産した北方謙三は尊氏を主人公とすることはなかったものの各小説で随所に登場させており、いずれも日頃は茫洋として何を考えてるか分からないが、ここぞというところで力を発揮する複雑なキャラに描かれている。とくに佐々木道誉を主人公とする『道誉なり』(1995)は道誉の目から見た尊氏像が独特の魅力を放っている。
賀名生岳『風歯』は歯科医の作者によって書かれた異色の短編で、医者・丹波兼康が尊氏の虫歯の治療をする物語。直義を毒殺したあとの尊氏は傲慢で猜疑心の強い権力者として描かれ、兼康の娘を人質にとるなど手段を選ばず、兼康の憎しみを買うことになるが、乱世を生きた男の孤独感や娘を溺愛する父親ぶりも描かれる。この小説は単行本化に際して続編が書かれ、主人公・兼康は佐々木道誉や北畠親房の治療まですることになる。 |
漫画作品では | 学習漫画系には当然きちんと登場するが、多くは「騎馬武者像」のイメージでザンバラ髪の男くさいデザインにされている。伊東章夫や田中正雄による『足利尊氏』(いずれも学研)では主人公ということで端正な二枚目に描かれた。児童向けに学習指導要領で指定された歴史人物を紹介する「週刊マンガ日本史」(2009〜2010)では森ゆきなつが「足利尊氏」を担当し、魔王後醍醐に対して反旗を翻すロングヘアの若武者といういかにも少年漫画な展開になっていた。
学習漫画以外のものは数少ないが、大河ドラマ放映時にいくつか便乗で作られていて、横山まさみち『太平記』全6巻がある。この作品は正成・尊氏・義貞の伝記を2巻ずつにまとめたものでそれぞれの視点から南北朝動乱(といっても建武政権崩壊までだが)を多角的に読むことができる。尊氏編は3・4巻で他の巻に比べるとさすがに急ぎ足。他では桜井和生・原作/たかださだお・画による『劇画足利尊氏』(日本文芸社)は尊氏が正成・義貞らと「大学の同級生」だったというハチャメチャな設定の熱血学園もの(笑)。同じ日本文芸社から出た十川誠志・原作/あきやま耕輝・画『劇画・楠木正成』は湊川合戦だけで一冊にまとめた異色作で、尊氏は登場するものの最後の最後まで顔を見せないでかえって存在感を高めるという映画的な演出がほどこされていた。吉川英治原作をダイジェストで劇画化した岡村賢二『私本太平記』では原作以上にワイルドな尊氏が主人公。
少女漫画では湯口聖子『風の墓標』が北条氏滅亡をテーマにした長編で、直義が主人公の一人であるため尊氏が時々顔を出し、直冬の扱いや北条氏との関わりで少々冷たい印象のキャラになっている。
やはり少女漫画の河村恵利「時代ロマンシリーズ」では直義を主役とする短編が3作あり、そこで描かれる尊氏は純朴でお人好しなキャラクターだが、いざとなると人をひきつけるリーダーシップを発揮する。
同じく少女漫画系で市川ジュン『鬼国幻想』でも直義がメインキャラになっているため尊氏も登場、弟に比べて陽性でおおらかだがクールでもある性格に描かれた。
少年漫画では沢田ひろふみ『山賊王』があり、高氏は体に運命の「星」をもつメインキャラクターの一人として活躍している。家族思いの熱血正義漢という感じが強いが、伏線なのか何を考えているか分からないキャラにも描かれている。漫画自体は鎌倉幕府滅亡で完結するが、他のキャラの「星」が消える中で高氏だけ星が消えず、さらに使命があることがにおわされている。
河部真道『バンデット』でも高氏は重要キャラとして登場し、「戦嫌いだが戦好き」という複雑なキャラクターに設定され「戦のない世」を作ろうと考えている。六波羅探題陥落後、主人公の悪党「石」と高氏が対決する場面が物語のしめくくりとなったが、当初の構想ではもっと長いスパンでの対決が描かれるはずだったのだろう。
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PCエンジンHu版 | シナリオ1「鎌倉幕府の滅亡」で朝廷側武将で登場し、「騎馬4」のいまいちな能力。大河ドラマのゲーム版という扱いなので尊氏が主役らしいのだが尊氏が死んでもゲームオーバーにはならず、クリアすると死んだはずの尊氏を称えるエンディングになる。 |
PCエンジンCD版 | 北朝側プレーヤーキャラで、初登場時は統率95・戦闘93・忠誠99・婆沙羅15と特に大軍を率いると最強。ゲームのオープニングビジュアルでは尊氏の前半生をアニメ仕立てで見ることができる。声は平拳児。 |
メガドライブ版 | 「足利帖」を選択するとプレイヤーキャラの一人として登場、能力は体力80・武力134・智力145・人徳97・攻撃力117。 |
SSボードゲーム版 | 当然武家方で身分は「総大将」で勢力地域は「全国」。合戦能力2・采配能力7で大軍指揮タイプ。ユニット裏は足利義詮。武家側プレイヤーは尊氏その人を「演じる」ことにもなる。 |