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ほそかわ〜ほそかわもろうじ

細川(ほそかわ)氏
 清和源氏、足利氏の一門。足利義清の孫・実季が三河国細川郷を領したことに始まる。南北朝動乱では足利軍の主力として各地で戦い、一族で畿内や四国に多くの守護国を有するようになった。とくに細川頼之は足利義満を補佐する管領をつとめて南北朝動乱の終息に貢献し、以後細川氏は「三管領」の一角として室町幕府で重要な地位を占めた。戦国時代を経て本家(京兆家)は衰退したが、傍流の和泉上守護家は江戸時代に熊本藩主となり明治維新まで名門として存続し、その子孫には総理大臣も出るなど息の長い家柄となる。








清氏──正氏








和氏業氏










家氏











頼和











将氏











仁木頼夏

┌満国
┌持之─勝元 ─政元






頼春頼之──頼元┴満元
┴持元







頼有──頼長
─持有
→和泉上守護家







詮春──義之
満久
→阿波細川家







頼元基之─頼久
→和泉下守護家

足利義康┬義兼惣領



満之──┼頼重
─氏久
→備中守護家


└義清─義実┬実国仁木
信氏└満久






└義季
┬俊氏
┬公頼師氏氏春──満春
─満俊
→淡路守護家






頼貞顕氏繁氏









直俊業氏───満経
─持経
→奥州家





└義有
─義春
定禅










皇海





細川顕氏ほそかわ・あきうじ?-1352(文和元/正平7)
親族父:細川頼貞 兄弟:細川直俊・細川定禅・細川皇海 
子:細川繁氏・細川政氏 養子:細川業氏
官職兵部少輔、陸奥守
位階正五位下→従四位下(南朝)
幕府河内・和泉・讃岐守護、侍所頭人、引付頭人
生 涯
―幕府草創の功臣―

 細川頼貞(法名「義阿」)の子で通称は「小四郎」。足利一門・細川一族は足利尊氏の挙兵以来その主力部隊として活躍しているが、顕氏は元弘の乱以前の段階から高氏の意を受けて活動していたと思しい。それは『梅松論』にある記述で、「元弘以前に顕氏が兵をあげようとして北国から阿波(四国・現徳島県)へ行く途中に甲斐の恵林寺に立ち寄り、夢窓疎石に会ってその弟子となった」と書かれていることによる。この記述により足利一門と夢窓疎石の関わりのきっかけを作ったのが顕氏であること、そして顕氏がかなり早い段階から後に細川一族の拠点となる阿波に何らかのかかわりをもっていたこととが判明する。
 元弘の乱における顕氏の行動は分からない。だが細川家の兄弟や従兄弟たちがそろって高氏の周囲で活動しているので、恐らく顕氏もその中にいたものと考えられる。

 建武政権期にはしばらく尊氏とともに京にいたらしく、建武元年(1334)月に護良親王を鎌倉へ護送したのは「陸奥守顕氏」だったと「梅松論」は記す(ただし当時は「兵部少輔」だったはずで、「陸奥守」は後年の官職で書いたもの)。そのまま鎌倉に残った可能性もあるが、「梅松論」の書きぶりでは京に戻ったようにも見える。この翌年の建武2年(1335)7月に北条残党の蜂起「中先代の乱」が起こって一時関東が北条軍に制圧された時、顕氏の父・頼貞は湯治で相模国川村山にいて敵中に取り残され、顕氏から「ご無事で上洛なさってください」と迎えの使者が派遣されたとあるからだ。だが老父・頼貞は生き恥はさらしたくないとばかり、使者の目の前で自害してしまったという。

 この中先代の乱を鎮圧するべく尊氏は関東へと下り、鎌倉を奪回した。顕氏もこれに同行したと推測される。このあと足利氏は建武政権から離脱して追討される側となり、新田義貞の追討軍が東海道を下って来たとき、これを迎え撃った直義率いる軍勢の中に顕氏の名もあり(「太平記」)、弟の細川定禅もいたと思われる(「難太平記」)

 このあとの京都をめぐる攻防戦でも顕氏・定禅の兄弟は奮戦し、定禅は「鬼神」と恐れられたほか、顕氏も尊氏から恩賞として自筆の感状と共に錦の直垂を与えられている。その後尊氏が九州落ちした際には室ノ津の軍議で兄弟たちと共に四国に配置され、四国の武士たちを率いて各地に転戦することになる。
 顕氏は讃岐・土佐守護に任じられて四国勢を率いつつ、同時に河内・和泉の守護も兼ねて、この地方に根を張る楠木一族など南朝軍を相手に連戦している。建武4年(延元2、1337)には河内葛井寺(藤井寺)付近で南朝方と戦い、弟の直俊を戦死させている。暦応元年(延元3、1338)3月8日は奥州から大挙攻めのぼってきた北畠顕家軍と天王寺で激突して敗北するが、間もなく高師直の援軍を受けて巻き返し、5月には石津の戦いで顕家を戦死させた。

 この功績により暦応3年(興国元、1340)に幕府の侍所頭人に任じられ、康永3年(興国5、1344)にいったん辞するが貞和2年(正平元、1346)に再任されている。この年3月に山城国安国寺を参詣した尊氏・直義兄弟が、その帰り道に顕氏の屋敷をそろって訪問していて、顕氏が幕府内で重要な地位を占めていたことをうかがわせる。
 またこの間の暦応2年(1340)には大和国の国人・西阿が興福寺に逆らって南朝方につき、興福寺から幕府に討伐要請がくると、顕氏が出陣している。もっとも南朝の拠点に近い地方には手が出しにくかったのか、のらりくらりと作戦は遅れ、怒った興福寺衆徒が春日大社の神木をかつぎだして光厳上皇のいる六条殿に投げ込むという騒ぎが起きている。顕氏は翌年の7月までという大変な時間をかけて西阿を討伐し、ようやくこれを鎮圧、神木は8月に春日大社に戻った。

―直義の腹心武将として―

 だが貞和3年(正平2、1347)8月、楠木正行率いる南朝軍が活動を開始、これを鎮圧しようとした顕氏は機動性の高い楠木軍の前に惨敗を喫してしまう。京から山名時氏の援軍を仰いだがさらに敗北を重ね、とうとう11月に顕氏は京まで逃げ帰るはめになった。顕氏の失態を埋めたのは高師直・師泰の兄弟で、翌貞和4年(正平3、1348)正月に四条畷の戦いで楠木正行を戦死させ、勢いに乗って南朝の拠点・吉野に攻め込み、これを焼き払う大功を挙げた。この結果、顕氏は責任を問われて侍所を辞職、河内・和泉守護は師泰に奪われ、土佐守護も高一族の者に奪われ、讃岐一国の守護に転落してしまう。

 このころすでに顕氏は直義に接近してその腹心となっていたようで、この楠木正行との戦いは対立を深めつつあった直義派・師直派の抗争という側面もあった。また細川一族の中でも顕氏は直義派、いとこの細川頼春は師直派について惣領権の争奪戦をしている。
 貞和5年(正平4、1349)8月、幕府内両派の対立は頂点に達し、高師直はクーデターを起こして直義を失脚に追い込んだ。10月に尊氏の嫡子・義詮に幕府の執政を譲った直義は、三条坊門邸から錦小路堀川にあった顕氏の屋敷に移り住んでいる。顕氏が直義のもっとも信頼できる腹心となっていたことがこれでも分かる。

 観応元年(正平5、1350)10月、尊氏は九州で活動する直義の養子・直冬を討つべく高師直らと共に出陣した。この軍には顕氏も参加していたが、出陣の直前に直義が京から姿を消した。そして11月3日に直義は南朝と手を結んで反師直の挙兵をする。尊氏軍につき従っていた顕氏は直義と連絡をとったらしく播磨で離脱して讃岐へ逃亡、慌てた尊氏は細川頼春と細川清氏に後を追わせている。
 顕氏は讃岐で挙兵し、直義派が京を奪取したとの知らせを石塔頼房から受けると、翌観応2年(正平6、1351)2月に海を渡って播磨へ進攻し、尊氏・師直を敗北に追い込んだ。この直後に尊氏・直義の和睦が成立し、師直・師泰は出家・遁世に追い込まれたが、すぐさま上杉能憲によって殺害される。

 こうして観応の擾乱の第二段階は直義派の圧勝となった。幕府要職は復権した直義派武将によって独占され、顕氏も幕府の引付頭人に任じられたうえ和泉と土佐の守護職も奪い返した。
 だが勝利の直後の3月3日、京にもどった尊氏のもとへ挨拶に訪れた顕氏は、尊氏から思いがけない扱いを受ける。尊氏は顕氏に対し「降参人の分際で将軍に面会を求めるとは何事か」と伝えて合わずに追い返してしまったのである。もちろんこの時点での勝者は顕氏たちであり、敗北したのは尊氏なのである。顕氏はさぞかし混乱したと思うが、洞院公賢の日記によると勝利に酔っておごりたかぶっていた顕氏は「恐怖の色」をあらわしてすごすごと退散したという。そしてこののち顕氏は次第に直義から離れ、尊氏に接近していくことになる。常識を外れた行動をとる尊氏にかえって魅入られてしまったらしい。

―ウロウロしながらも最後は尊氏に―
 
 7月末、尊氏派の武将たちが京から一斉に離れ、これが自分を挟撃する作戦だと悟った直義は桃井直常ら腹心たちを連れて京を離れ、北陸へと向かった。このとき顕氏は直義について行かず、逆に尊氏・義詮と内通して京都の防衛にあたった。このことを洞院公賢は日記に「例の顕氏は直義一筋の人物だと日頃から聞いていたが、今は義詮どのに属している。何と言ってよいやら、まったく末代までの恥というものだ」とその無節操ぶりに呆れかえっている。
 京を脱出した直義は越前・金ヶ崎城に入った。8月6日に尊氏は顕氏を使者として直義のもとに派遣して和議を図ろうとしたが、この交渉は失敗に終わる。しかもこのとき顕氏は尊氏のもとに戻らず、そのまま直義のもとにとどまった。再び寝返りを打ったのか、それともまだ和睦の調停を図ろうとしていたかは定かではない。

 このあと9月に近江で尊氏・直義両派の戦闘があり、今度は尊氏が勝利して10月に再び和解が図られた。だがこれもすぐ決裂し、直義は桃井直常らを連れて北陸を経由して関東へと向かった。この時ついに顕氏は直義を見限り、京に戻って完全に尊氏・義詮に服従して幕府内の立場を維持した。この直後に尊氏は北朝を見殺しにして南朝と和睦し(正平の一統)、京を義詮に預けて自らは直義を討つべく関東へと下った。この時点で顕氏は立ち場を変えながらまた南朝側になってしまったわけで、南朝から従四位下の位階を授かっている。

 翌文和元年(正平7、1352)2月26日に直義は鎌倉で急死した。ここに観応の擾乱はひとまずの終結を迎えるが、今度は南朝側が一挙に京・鎌倉を同時奪回する作戦に出る。閏2月20日に楠木正儀らが率いる南朝軍が京に奇襲をかけ、細川頼春は防戦するうちに戦死、顕氏は義詮と共に近江へと逃れた。
 だが義詮らは近江で態勢を立て直すと翌月には京を奪回、南朝の後村上天皇がたてこもる男山八幡を包囲・攻撃にかかった。この男山八幡攻略の主将は細川顕氏がつとめており、2か月近い長期戦になったが、最後には兵糧攻めにして南朝勢を支える土豪武士たちを投降させ、ついに5月11日に男山八幡を陥落させた。後村上ら南朝勢は賀名生へと逃走して行った。

 だがその直後の7月5日に急病にかかり、そのまま死去した。顕氏の弟たち、定禅や皇海も彼より先に死去しており、この系統の細川氏(顕氏が陸奥守だったことから「奥州家」と呼ばれる)は顕氏の子・繁氏が引き継いだ。

参考文献
小川信「細川頼之」(吉川弘文館・人物叢書)
林屋辰三郎「内乱のなかの貴族・南北朝の『園太暦』の世界」(角川選書)
佐藤進一「南北朝の動乱」(中公文庫)ほか
大河ドラマ「太平記」ドラマ後半、とくに観応の擾乱部分の重要人物としてレギュラー出演。演じたのは森次晃嗣で、自伝本でも印象に残った役として顕氏役を挙げているとか。第36回の「湊川の決戦」で初登場、はじめは直義の腹心として、やがてフラフラと尊氏側に鞍替えしてしまう展開が描かれていた。脚本の池端俊策も尊氏との変なエピソードが気に入っていたらしく、放送前の対談でもこの件に触れていたからこその登場と思われるが、さすがにあまりに理解不能な話なので、顕氏が尊氏と薪割りをしてその人間的な魅力にひかれていく、という展開になっていた。最終回では義詮側近として直冬軍との京都攻防戦で顔を見せていたが、このときにはとっくに死んでいたはず。
PCエンジンCD版北朝側武将として讃岐阿波に登場する。初登場時の能力は統率76・戦闘67・忠誠72・婆沙羅47。ライバルだったいとこの頼春、和氏たちと一緒。
PCエンジンHu版シナリオ2「南北朝の動乱」で和泉・岸和田城に北朝方で登場。能力は「長刀2」
メガドライブ版箱根・竹之下合戦や京都攻防戦のシナリオで足利軍武将として登場。能力は体力72・武力73・智力90・人徳77・攻撃力56。  
SSボードゲーム版武家方の「武将」クラスで、勢力地域は「南畿」。合戦能力1・采配能力3。ユニット裏はなぜか親戚の細川清氏。

細川詮春
ほそかわ・あきはる1330(元徳2)?-1367(貞治6/正平22)
親族父:細川頼春
兄弟:細川頼之・細川頼有・細川頼元・細川満之・守慶・守格・守明・頼雲
子:細川義之
官職讃岐守・左近将監
生 涯
―細川讃州家の祖―

 細川頼春の子で通称は「九郎」であったという。『系図纂要』『細川系図』などで貞治6年(1367)に38歳で死去したとしており、これを信用するなら元徳2年(1330)の生まれとなり、細川頼之の一歳下の弟となる。しかし系図類では詮春がほかの兄弟の頼有あるいは頼元より下に配置されるため実際はもっと後年生まれの可能性がある。
 頼之の弟たちの中ではこれといった事跡は伝わっておらず、後年の史料に阿波守護となったとするものがあるが信用されない。貞治元年(正平18、1362)に頼之の兵火(細川清氏との戦いによるものか?)で焼けた阿波国の妙心寺(現在の徳島市にある井戸寺)を再興したとの伝承があるようだが、定かなものではない。
 貞治6年(正平22、1367)4月25日に死去。まだ三十代であったことは間違いなさそうで、子の義之は頼之に庇護されて成長している。詮春が讃岐守であったことからこの系統は代々讃岐守を名乗り「讃州家」と呼ばれる。

参考文献
小川信「細川頼之」(吉川弘文館・人物叢書)

細川家氏ほそかわ・いえうじ生没年不詳
親族父:細川和氏 兄弟:細川清氏・細川頼和・細川業氏・細川将氏・笑山周念
官職左近大夫将監
生 涯
―紀州遠征に参加した清氏の弟―

 細川和氏の子で、幕府執事となった細川清氏の弟にあたる。延文4年(正平14、1359)末、二代将軍になったばかりの足利義詮は執事の細川清氏、関東から呼んだ畠山国清ら諸将を率いて河内・紀伊方面の南朝勢力へ攻勢をかけたが、このとき清氏の「舎弟」の「左近大夫将監」として家氏が参陣している(「太平記」)
 翌延文5年(正平15、1360)4月に幕府軍は紀伊へ進出して南朝側にさらに圧迫をかけるが、『太平記』によるとこの軍にも「細川左近将監」が加わっていたとしている。康安元年(正平16、1361)9月に清氏が道誉の策謀で失脚した際には当初兄と行動を共にしていたが、清氏が若狭に落ちるにあたって兄弟の仁木頼夏と共に京に残った。
 その後の消息は不明である。

細川氏春ほそかわ・うじはる?-1387(嘉慶元/元中4)
親族父:細川師氏 兄弟:細川信氏
子:細川満春
官職兵部少輔・左衛門佐
位階
正五位下
幕府
淡路守護
生 涯
―一時南朝に走った淡路守護―

 淡路細川家の祖となった細川師氏の子で、通り名は「彦四郎」。幕府の重職を担った細川清氏細川頼之とは従兄弟同士である。幼名を「法師丸」といい、貞和4年(正平3、1348)に父・師氏が死去したため幼くして跡を継ぎ淡路守護をつとめた。延文4年(正平14、1359)末に二代将軍・足利義詮が河内・紀伊方面の南朝へ攻勢をかけた際には清氏・家氏業氏らとともに参陣している(「太平記」)
 康安元年(正平16、1361)9月、細川清氏は佐々木道誉の策謀により将軍・義詮から謀反の疑いをかけられ失脚した。このとき氏春も清氏と行動を共にしており、若狭に落ちることに決めた清氏から京に残るよう説得され涙ながらに別れる場面が『太平記』に描かれている。その後清氏は南朝に投降して南朝軍とともに京を攻撃、一時占領に成功するがすぐに失陥、翌貞治元年(正平17、1362)に再起を期して讃岐へと渡った。このとき淡路にいた氏春も清氏に同調して南朝に投降、弟の信氏とともに淡路の兵を率いて讃岐に渡っている(当然ながらその時点で淡路守護職は幕府に取り上げられた)。一方、同じく従兄弟の細川頼之は幕府の命に従って清氏討伐のために讃岐に向かい、ここに細川一族は讃岐で同族同士の戦いをする羽目になった。氏春が勝ち目の薄い清氏に同調した理由は判然としないが、もともと個人的に気の合うところがあったのかもしれない。

 貞治元年(正平17、1362)7月23日、頼之と清氏の決戦「白峰の戦い」が始まる。頼之は陽動作戦を行い、清氏はこれにかかって弟の頼和と従兄弟の氏春を出陣させた。清氏本陣が手薄になったところを頼之軍が襲い、清氏は戦死してしまう。主将を失った清氏方は四散したらしいが、直後の後村上天皇の書状に「清氏の戦死は無念だったがその子や弟、従兄弟の淡路守護氏春は無事であり情勢に変わりはない」という内容が書かれていることから氏春は無事に淡路に戻ったことが確認できる。 しかし氏春も南朝方にとどまる気もなかったようで(おそらく従兄弟の頼之のとりなしもあった)、貞治3年(正平19、1364)ごろには幕府に復帰、淡路守護に戻っている。

 頼之が幕府の管領となると同族として頼之を支え、応安元年(正平23、1368)4月15日の足利義満の元服式では「打乱箱」の役目などをつとめている。応安6年(文中2、1373)3月に氏春は頼之の要請に応じて淡路勢を率いて尼崎に上陸、「南方退治大将」として赤松範資楠木正儀と合流して南朝拠点・天野の攻撃に向かった(「花営三代記」)。8月10日に南朝重臣の四条隆俊が氏春本陣を奇襲したが敗死し、長慶天皇ら南朝首脳は賀名生へと逃亡した。
 康暦元年(天授5、1379)閏4月の「康暦の政変」で頼之が失脚すると、氏春は頼之と行動を共にして京を引き払っている(「花営三代記」)。このため一時的に淡路守護職を解かれたと考えられるが、間もなく頼之が危機を脱して復権するため翌年ごろには復帰したと考えられる。
 嘉慶元年(元中4、1387)10月19日に死去。淡路守護職は子の満春が継ぎ、彼の子孫が淡路細川家として続いてゆく。

細川和氏ほそかわ・かずうじ(ともうじ)1296(永仁4)-1342(康永元/興国3)
親族父:細川公頼 兄弟:細川頼春・細川師氏 
子:細川清氏・細川頼和・細川業氏・細川将氏・細川家氏・笑山周念
官職阿波守
位階
従四位下
幕府阿波・淡路守護、引付頭人、侍所頭人
生 涯
―尊氏挙兵以来の功臣―

 細川公頼の長子で、通称「弥八」。南北朝動乱で活躍した細川一族の第一世代になる。細川氏の出身地である三河・細川郷で生まれて成人していた世代で、足利高氏(尊氏)挙兵以来の功臣である。

 元弘3年(正慶2、1333)4月、足利高氏は畿内の後醍醐派を鎮圧するよう幕府から命じられて京へ向けて出陣したが、すでに後醍醐側への寝返りを心に決めていた。恐らく一門が多く待つ三河まで進んだところで討幕の意思を一門に表明したものと思われ、ここで細川和氏と上杉重能がひそかに先発して伯耆・船上山にいる後醍醐天皇の討幕の綸旨を受け取りに行き(船上山まで行ったかは不明)、近江鏡宿で合流して綸旨を高氏にもたらしたと『梅松論』は伝える。
 
 丹波・篠村で討幕の挙兵をした足利軍は六波羅探題攻略にかかったが、このとき大軍で包囲して一気に押しつぶそうとする一同をとどめて和氏が「そんなことをしたら味方の損害も多くなる。一方にわざと逃げ道を開けておけば容易に打ち破ることができるだろう」と意見し、その作戦が実行され、六波羅はたやすく落とすことができた(「梅松論」)

 六波羅陥落後、ただちに和氏・頼春師氏の三兄弟が関東に派遣された。このころ関東では新田義貞が挙兵して鎌倉を攻略しており、高氏の子・千寿王(のちの足利義詮)がまだ四歳ながら高氏の代理人として足利軍総帥にかつぎだされ、多くの武士がこれに従って鎌倉を攻めていた。細川三兄弟は関東に向かう途中で鎌倉陥落を知り、ただちに鎌倉入りしたが、このとき戦後の鎌倉では新田・足利双方の紛争が多発して合戦寸前という有様だった。和氏らは義貞のもとへ押し掛けて談判におよび、結局義貞はその圧力に負けて鎌倉を放棄して一族を引き連れ京へと向かった(「梅松論」)
 ただし、以上の「梅松論」に載る細川一族の活躍は後世の流布本にあるもので、古い版本にはなく、後年細川氏の誰かが書き加えたものではないかと言われており、どこまで正確なのかは分からない。

 建武政権が成立すると、和氏は功績により阿波守に任じられた。建武元年(1334)の宮中の御修法(みしほ)の折りには和氏が南庭の陣の警護を担当していたことも史料で確認されている。

―幕府創設後にさっさと引退―

 建武2年(1335)7月、北条残党が蜂起して、尊氏の弟・直義の守る鎌倉を奪回した(中先代の乱)。尊氏は後醍醐の許可を得ぬまま大軍を率いてこれを鎮圧に向かい、和氏もそれにつき従った。8月14日に駿河国府をめぐる戦いで和氏が「分取高名」(ぶんどりこうみょう、敵の首をとる功績)を挙げたとする史料があり(「康永四年山門申状裏書」)、よい働きをみせていたようだ。

 北条軍から鎌倉を奪回した足利軍はそのまま関東に居座り、事実上建武政権からの離脱を明らかにする。「太平記」ではこのとき高氏と義貞が互いに相手を討伐したいと奏上合戦を行ったことになっていて、尊氏の上奏文を京まで持って行ったのは和氏ということになっている。
 まもなく後醍醐と尊氏は決裂して全面戦争に突入、尊氏は京へ攻めのぼって一時占領するが、すぐに敗北して九州まで落ち延びることになる。この間、和氏をはじめ細川一族は足利軍の主力の一角として各地でよく戦っている。九州に行く途中の室泊の軍議で、尊氏は和氏・頼春・師氏・顕氏定禅皇海直俊ら細川一族をそろって四国に配置し、後日に備えている。実際、こののちこれら細川一族は四国勢を率いて尊氏の東上、湊川合戦から京の再占領までをよく支えることになる。
 
 この年の11月に「建武式目」が発表され足利幕府が成立すると、和氏は引付頭人に抜擢され、所領問題の訴訟を担当するようになった。阿波・淡路の守護にもなり、すぐに侍所頭人として軍事方面でも草創期幕府を支えた。
 だが和氏はもうこれで天下は定まったと思ったのだろうか、建武4年(延元2、1337)末以後は活動が全く確認できず、恐らくこのころに出家・引退を決め込んでしまったものと思われる。このとき和氏は数えで42歳、当時の感覚では初老ではあるが、もしかすると健康を損ねていたのかも知れない。

 出家した和氏は「竹渓(竹径とも)」と号し、道号を「道倫」と称したという。暦応2年(延元4、1339)に細川氏の拠点のあった阿波国秋月荘(現・徳島県阿波市土成)に南明山補陀寺を建立している。この寺は当時最高の高僧であった夢窓疎石を開山としているが、実際に疎石をここに呼んだわけではなく「名義拝借」という形で、実際の開山は和氏の五男で疎石の弟子となっていた笑山周念がつとめたという。この寺は尊氏が夢窓疎石の勧めで戦没者を弔い太平を祈願するため全国に作らせた「安国寺」の一つに指定されている。

 悠々自適の生活ののち、康永元年(興国3、1342)9月13日に和氏は阿波で死去した。享年47歳。こののちの幕府の内戦「観応の擾乱」を見ることなく、幕府政治の確立だけを見とどけて世を去ったのは幸いだったというべきかもしれない。
 こののんびりした余生の間に書いたのだろうか、今川了俊の書いた「難太平記」によると細川阿波守(和氏)自身による「夢想記」なる戦功を書き連ねた自伝的な書物が存在したらしい。しかし同時代の人からすでに「都合よく事実が歪曲されている」と不評だったそうだ。

 和氏の息子たちはまだ「幼少」ということで、この系統の細川氏は弟の頼春が引き継ぐことになった。和氏の嫡子・清氏はのちに幕府の執事(管領)を務めるが南朝に走り、頼春の子・頼之に討たれるという数奇な運命をたどることになる。

参考文献
小川信「細川頼之」(吉川弘文館・人物叢書)
佐藤進一「南北朝の動乱」(中公文庫)ほか
大河ドラマ「太平記」ドラマ中盤、建武政権期では合計8回とかなりの登場回数(演:森山潤久)。幕府滅亡後の鎌倉に下って新田義貞と交渉する場面で初登場。その後も鎌倉に居続けていた設定のようで、中先代の乱で直義の敗北を登子に伝え、一色右馬介に護良親王殺害の指示が出たことを伝えるシーンがある。尊氏が建武政権に反旗をひるがえす「大逆転」の回で武将の中にまぎれているのが最後の出番である。
歴史小説では 尊氏側近の一人として出番は多め。とくに鎌倉から新田義貞を追い出すのが彼なので新田次郎「新田義貞」などで、やや悪役気味に登場。
漫画作品では 伊藤章夫「足利尊氏」(学研)では高氏に命じられて千寿王らの脱出と、義貞に対抗して千寿王を大将にかつぎだす役回り。顔が面白いので漫画的に印象に残る(笑)。
 横山まさみち「コミック太平記」では尊氏編・義貞編両方に登場するが、なぜか顔が異なる。義貞編のほうが悪役顔なので、作者がうっかりしていた可能性も。
PCエンジンCD版北朝側武将として頼春・顕氏とともに讃岐阿波に登場する。初登場時の能力は統率69・戦闘89・忠誠58・婆沙羅55。顔グラフィックは横山まさみちのコミック版をもとにデザインされているが、「義貞編」のものを使用。
メガドライブ版中先代の乱や京都攻防戦のシナリオで足利軍武将として登場。能力は体力72・武力124・智力78・人徳60・攻撃力86

細川清氏ほそかわ・きようじ?-1362(貞治元/正平17)
親族父:細川和氏 兄弟:細川家氏・細川頼和・細川業氏・細川将氏・仁木頼夏・笑山周念
子:細川正氏
官職左近将監・伊予守・相模守
位階
従四位下
幕府
伊賀・和泉・若狭守護、評定衆、引付頭人、執事(管領)
生 涯
 足利一門ながら戦場で数々の武勇伝を残す猛将として台頭、幕政の中心となる執事の地位まで上りながら失脚、南朝軍とともに京都を攻略した末に同族同士の対決で戦死するという異例の人生を送った武将。実際に破天荒な言動が記録されてもおり、軍記『太平記』の終盤を強烈に彩るキャラクターである。

―歴戦の奮闘でのしあがった猛将―

 足利尊氏の側近であった細川和氏の長男だが生年は不明。通り名は「弥八」で、はじめは「元氏」と名乗っていた。父の和氏は幕府創業の功臣の一人だったが阿波に入って早く引退、康永元年(興国3、1342)には死去してしまった。この時点で清氏はまだ幼少であったらしく、和氏が持っていた阿波守護職は和氏の弟の細川頼春が引き継いでいる。
 『細川三将略伝』という後世の書籍では、頼春に連れられて阿波にやって来た頼春の子・頼之(つまり清氏の従兄弟)が、清氏と武芸を競い、すべて清氏にまさったとの逸話が紹介されている。この時点で頼之は11歳であったというから清氏もほぼ同世代であったと思われるのだが、この史料自体信憑性に乏しく、後年に宿命の対決をしていることを念頭に創作された気配がある。また早い時期に発行した書状があることから清氏は頼之よりも一回りは年上とする見解もある。いずれにしても青年期までの清氏は父親の後ろ盾もなく、叔父・頼春に頼って阿波で成長した可能性が高い。

 清氏の活動が最初に確認できるのは、貞和4年(正平3、1348)に南朝の楠木正行と激突した四条畷の戦いへの参加である。このとき左近将監となっていた清氏は幕府軍の一翼を担って楠木軍に立ち向かったが、相手の勢いに押されて蹴散らされてしまっている(「太平記」)。後に清氏が見せる猛将ぶりはまだ発揮されず、これが初陣であったのかもしれない。
 翌貞和5年(正平4、1349)8月に足利幕府内の足利直義派・高師直派の対立が激化、武将たちはそれぞれの屋敷へと馳せ参じたが、『太平記』によると清氏は細川一族の中でただ一人師直の屋敷に馳せ参じている。このときは直義が失脚に追い込まれたがその養子・直冬が九州で勢力を拡大、観応元年(正平5、1350)11月に尊氏は直冬討伐のため出陣し、細川顕氏・頼春・清氏も従軍した。その直後に直義が南朝と結んで挙兵、もともと直義側近であった顕氏は尊氏軍から離脱して直義のもとへ走った。このとき尊氏は頼春・清氏に顕氏討伐に向かうよう命じているが、頼春と清氏は結局戦うことなく引き返している(「園太暦」。ただしこの時点では名は「元氏」)
 その後のいわゆる「観応の擾乱」では清氏は頼春とともに一貫して尊氏方で活動しており、観応2年(正平6、1351)9月の直義軍との近江での戦闘で負傷して京へ帰還、和平交渉も進んでいるとの情報をもたらしている(「園太暦」)。翌年に南朝軍が京を攻略するとこれとも戦い、後村上天皇が本陣を置く男山八幡への攻撃に参加してここでも負傷している(「園太暦」)。こうした活躍を評価されてようやく伊賀守護職を与えられ、10月には直義党の残党を討つべく伊勢へと出陣している。

 文和2年(正平8、1353)4月、山陰の山名時氏が南朝につき、京へ攻め上ってきた際には、清氏は京を守る足利義詮の片腕として戦場を駆け、味方が次々敗れて義詮も近江へ逃亡するなか一人気を吐いて奮戦し、義詮から引き揚げ命令が出てようやく撤退している。このとき義詮が擁立していた少年天皇・後光厳天皇の輿の担ぎ手がみな逃げ出してしまったため、清氏が馬から降りて自ら後光厳を鎧の上に背負い、徒歩で塩津の山越えをするという一幕があった(「太平記」)。こうした功績を評価され、文和3年(正平9、1354)には若狭守護、幕府の評定衆およに引付頭人に任じられている。清氏は特に若狭守護職には熱意を見せていたらしく、任官した直後の9月9日に若狭へ下向し神宮寺にしばらく滞在したことが『若狭国守護職次第』に記録されている。
 文和4年(正平10、1355)正月に足利直冬率いる南朝軍が京へ進撃した際も清氏は前線で奮闘している。2月8日は桃井直常率いる越中勢と四条大宮で激突し、直常の身代わりになって挑戦してきた二宮兵庫助を桃井直常本人と信じて一騎打ちで討ち取った(「太平記」)。この逸話は清氏がすでに猛将として広く名を知られていたことをうかがわせる。清氏は直冬が本陣を置く東寺への攻撃でも陣頭に立ち、数か所に手傷を負いあわや戦死かというほどの奮戦を見せ(「太平記」)、直冬軍を京から追い出すことに大きく貢献した。
 東寺奪回直後に清氏は尊氏の命により東寺の宝蔵にある仏舎利(釈迦の骨とされるもの)を受け取りに行ったが、合戦の混乱で宝蔵の鍵が見つからなかったので扉を打ち破って仏舎利を取り出した。この行為に公家や僧侶は驚き、「前代未聞の珍事」とささやかれたという(「園太暦」「仏舎利勘計記」)。その直後の4月には清氏が所有する三条西洞院の土地に仁木義長が建物を建てようとしたことがきっかけで清氏・義長が合戦寸前までいくという騒ぎがあり、尊氏が清氏のもとへ、義詮が義長のもとへ説得に赴いてようやく双方矛を収める結果となった(「園太暦」)
 その年の6月には、尊氏の護持僧である三宝院賢俊のもとへ、清氏と頼之、繁氏の細川一族三人が訪ねて来て、、風呂を使った上で終日語り合っている(「賢俊僧正日記」)。この訪問は政治的影響力の大きい賢俊に対する細川一族の任官運動だったようである。

 この運動の結果もあってか、翌延文元年(正平11、1356)4月に頼之は中国方面の南朝方を攻略する司令官(「中国討手」「中国大将」「中国管領」など)に任じられるが、味方に付いた武士に恩賞を与えるための「闕所処分権」を要求して認められなかったため、4月末に突然出奔してしまう。このとき頼之に帰京を説得するため夜のうちに山崎まで走ったのが従兄弟の清氏であった。清氏は5月1日に単身帰京したが翌日に頼之も帰京しているので説得が成功したものと思われる。
 翌延文2年(正平12、1357)6月、今度は清氏自身が出奔騒動を起こす。このとき清氏は越守護職を要求して認められなかったことに不満を抱き、無断で阿波に渡ってしまった。幕府は連れ戻すため使者を送ったが清氏は召喚に応じず、こ永和4年(天授4、1378)のとき京では「清氏が南朝に降った」との風聞が流れたという(「園太暦」)。結局翌年までには帰京したらしいが特に処分を受けた様子はない。

―幕府の執事(管領)に―

 延文3年(正平13、1358)4月に尊氏が死去、将軍職は二代目の義詮に引き継がれた。10月9日に義詮は自身を補佐する幕府執事職を清氏に任せることを決定、宿老の佐々木道誉に伝達している。『愚管記』ではこの件について「武家管領(執事と号するか)のこと、相模守清氏たるべしと云々」と記し、これがそれまで「足利氏の執事」であった幕府の宰相職を「管領」と呼んだ初例とされている(もっとも清氏の時代にはまだ「執事」と呼ぶのが通例だった)。政治的実績はさほどない清氏であるが、若き将軍となった義詮はここ数年の南朝方との戦いでの清氏の奮戦を目にしており、その剛腕に期待するところが大きかったのかもしれない。
 延文4年(正平14、1359)4月、北朝で勅撰和歌集「新千載和歌集」が撰進された。朝廷では通例に従って摂津・住吉大社の神主に和歌集を納める手筥(てばこ)を差し出させようとしたが、清氏が「住吉は南朝方の勢力圏にあるからよろしくない」と反対し、先例を重視する公家たちの反発をよそに自ら手筥を用意するという異例の一幕もあった(「園太暦」)

 この延文4年の12月に、将軍義詮は河内方面の南朝拠点への大攻勢を発動し、清氏は関東から来た畠山国清と共に最前線に立って戦っている。翌延文5年(正平15、1360)閏4月29日に楠木軍のこもる龍泉寺城を攻撃した際には清氏と赤松範実が先陣争いをし、清氏は執事という身でありながら自ら旗を手に敵の城に飛び込み、旗を城の入り口に立てて「先駆けは清氏にあり」と呼ばわって城を落とすきっかけを作っている。5月9日は楠木正儀の拠点・赤坂城を攻略し、退却しかけた味方を「清氏が後詰するぞ、引くな引くな」と叱咤して踏みとどまらせ、赤坂城を攻め落とす殊勲を挙げている(「太平記」巻34)。これで一定の成果を上げたと思ったのか義詮や清氏は京都に凱旋するが、その隙に楠木勢は河内をすぐ奪回している。

 それから間もない7月6日、清氏は畠山国清・佐々木氏頼土岐頼康今川貞世らとはかって「南朝討伐」を口実に軍勢を集めて摂津・天王寺まで進出、その後京へ取って返して宿敵・仁木義長を討とうとした。義長は将軍邸に義詮を監禁して抵抗しようとしたが佐々木道誉の策謀により失敗、拠点の伊勢へと逃れた。かねて対立していた義長を追い払うことに成功した清氏だったが、この騒ぎに乗じて南朝方が河内から摂津へと進出、南朝の後村上天皇が住吉大社に皇居を構える事態となってしまう。
 執事として幕政をつかさどる立場の清氏だったが、その手法には強引さが目立った。自身の守護国の若狭では東寺の所領である太良荘を侵略し、延文4年に五、六十人の部下たちを乱入させているほか、賀茂社領の宮河荘でも「半済」として年貢を取り上げたため延文5年に朝廷から返還を命じられるなど、寺社勢力を敵に回してでも自身の守護国の支配強化に努めている。また延文5年ごろに弟の細川頼和を越中守護として自身の守護国若狭と合わせて北陸方面に勢力を広げようとし、加賀守護職をそれを望む斯波氏頼をしりぞけて富樫氏春に与えて氏頼の舅である佐々木道誉の怒りを買っている。このほかにも備前国福岡荘を家臣の頓宮四郎左衛門に与えようとして赤松則祐(彼も道誉の婿)と対立、摂津国守護職をめぐっても道誉の孫・佐々木秀詮から赤松光範に交代させようとはかってやはり道誉と対立した。

 また『太平記』はこのような逸話も伝えている。清氏は九歳(正氏?)と七歳になる二人の息子を元服させようとしたが、烏帽子親になるべき人がいないとして(本来なら主君の義詮に頼むところである)石清水八幡宮で八幡大菩薩を烏帽子親として元服式を挙げさせ、それぞれ「八幡六郎」「八幡八郎」と名付けた。このことは人々の噂に上って義詮の耳にも入り、義詮は先祖の「八幡太郎(=源義家)」のことを念頭に「清氏は天下を奪う野心があるのではないか」と疑ったというのだ。とかく破天荒な行動の多い清氏だけに石清水八幡での元服自体は事実と思われる(後述する今川了俊も事実と認識している)。ただ本気で「天下を取る」野心まではなかっただろう。しかしこうした彼の行動が直後の失脚の原因となったことは確かである。

―策謀により失脚、南朝への投降―

 康安元年(正平16、1361)9月21日、清氏は仏事のためとして天竜寺に入った。弟の頼和・将氏家氏仁木頼夏、従兄弟の氏春らと共に武装兵300余を引き連れた異様な参詣である。『太平記』ではこのとき政敵・佐々木道誉が湯治と称して湯山で出かけていたとされ、あるいは清氏は道誉を排除する軍事行動を計画していたのかもしれない。
 だが先手を打っていたのは道誉の方だった。この数日前に道誉は「清氏が荼祇尼天(だきにてん)に祈った九月三日付の願文」なるものを義詮に見せている。その中で清氏は「自身が天下を治めて子孫が反映すること、将軍義詮が急死すること、鎌倉公方基氏が降伏すること」の三点を願っており、義詮はかねて清氏の野心を疑っていたこともあってこれを本物と信じた。そして清氏が天竜寺に入ったのを挙兵と確信した義詮は9月21日の夜半に将軍邸から新熊野へ移り、ここに光厳天皇や上皇を確保して諸将を召集、清氏の謀反を伝えて対決姿勢を示した。事態を知った清氏は義詮に使者を送って申し開きをしようとしたが拒絶され、やむなくいったん自邸に戻り、23日になって自邸に火を放って守護国の若狭へと落ちて行った。

 この事件については今川貞世(了俊)の回想録『難太平記』に詳しい証言がある。『太平記』の記述に文句をつけている記述もあるが大筋では『太平記』の記すとおりに事件を語り、「清氏には実際には野心はなかったのだろう。あまりに思い上がって将軍の不興を買ったところへ、“ある人”に陥れられたのだ」と断言している。了俊が名を伏せた「ある人」が道誉であることは一目瞭然で(了俊にしても道誉の名を出すのははばかられたのだ)、問題の願文を目にした貞世の父・今川範国も「清氏の筆跡ではないようだし、判形も不審だ」と語っていたという。また清氏と貞世は「内外なく申し承る者」(裏表なく話し合える仲)であったとされ、清氏は貞世の弟・今川直世を呼んで義詮への弁明を伝えさせようとしたほか、楽所信秋「貞世が京にいたなら、なんであろうと来てくれたはず」と語ったといい、義詮も清氏と貞世が「一体」ではないかと疑っていた。このとき貞世は遠江にいて急遽上京してくるのだが、息子が疑われていることを悟った範国は「貞世に清氏と刺し違えさせよう」と義詮に提案までしている。

 若狭に逃れた清氏は守護代の頓宮四郎左衛門のいる小浜城に入り、追討のため敦賀にやってきた越前守護・斯波氏頼の先発隊(朝倉某の手勢)を、たった8人の中間(ちゅうげん)たちにときの声と火の手をあげさせて大軍と錯覚させ逃げ出させるという奇策で追い返した(「太平記」)。10月末に斯波氏頼が大軍を率いて若狭へ侵攻すると、清氏は頓宮四郎左衛門に小浜城の留守を守らせ頼和と共に出陣した。ところが清氏に勝ち目なしと見た頓宮が寝返って斯波勢を小浜城に招き入れてしまったため、清氏と頼和はわずかな手勢で若狭から京へと逃れた(『太平記』は兄弟二騎のみとするが、三条公忠の日記『後愚昧記』には五十騎ほどとの伝聞がかかれている)。そして兄弟別行動をとって京周辺をひそかに突破、天王寺で落ち合うと、かつての直義党で南朝に降っていた石塔頼房を通して住吉大社の南朝・後村上天皇に投降を申し入れた。
 後村上から降伏を認められた清氏は各地の南朝方を糾合して京を奪取する作戦を上奏し、久々の京奪回の機会に興奮した南朝朝廷はこれを許可した。形式上の総大将は南朝公家の四条隆俊がつとめたが実質的指揮官は清氏、楠木正儀・石塔頼房ら南朝軍が主戦力となり、これに淡路に渡った細川氏春、かつて清氏と先陣争いをした赤松範実が呼応して、12月3日に南朝軍は天王寺を出陣、京を目指した。義詮は諸将と共に防衛にあたったが態勢が急には整わなかったためかほとんど戦闘もせずに北朝皇族を奉じて京を明け渡し、12月8日に清氏ら南朝軍は京を占領した(南朝の第4回京都占領)
 このとき幕府方の諸将が自邸に火をかけて京を出て行った中で、佐々木道誉は自邸を飾り立て宿泊する敵将へのもてなしの用意までしてゆき、そこに楠木正儀が入って感嘆するという逸話があるが、清氏は当然ながら「焼いてしまえ」といきまいて正儀に止められたという(「太平記」)

 その正儀が当初から予想していたことだが、南朝軍の京占領は長くは続かなかった。呼応してくる味方がいなかった上に各地の幕府方の軍が行動を起こしたため、12月26日には京を放棄せざるを得なくなった。清氏はいったん摂津へ撤退したのち、父・和氏以来の勢力圏である四国に渡れば味方を集めることができるかも、と考えて、年が明けて正平17年(貞治元、1362)正月14日に堺から17艘の船団で阿波へと渡った。この清氏の動きに対し、3月になって将軍義詮は中国管領として備中にあった細川頼之、伊予の河野通盛に清氏追討を命じている。

―白峰の決戦―

 清氏にとっては従兄弟であり、かねて様々な縁のある頼之が讃岐に渡り、ここで清氏と対峙することとなった。清氏には淡路の細川氏春とその弟・信氏、阿波の南朝方・小笠原頼清、さらには飽浦信胤の水軍が味方し、その勢いは頼之をしのぐほどであったらしい。また『太平記』では南朝公家と思われる「中院源少将」なる人物も清氏方で参戦していたとされ、あるいは形式的には彼が「主将」とされていたのかもしれない。
 一方の頼之は河野通盛にしきりに援軍を要請していたが河野氏はかねて頼之と敵対関係にあったため全く要請に応じなかった。清氏は白峰のふもと(現・香川県坂出市林田付近)、頼之は宇多津に城を構えて対峙し、3月から7月までにらみあったとされ、頼之は生母の里沢尼を清氏のもとにおくって和議を持ちかけ、時間を稼いで城の整備をしたことになっている。だが細川頼之の伝記を著した小川信は清氏の方が優勢とする『太平記』の記述は二人の決戦を物語として盛り上げるための創作とみなし、実際には頼之の方が優位にあったはずと指摘している。実のところこの決戦について詳しく記した資料は『太平記』のみなので、検証のしようがない。以下の合戦の展開も『太平記』に拠る。

 7月23日、清氏と決着をつけることを決意した頼之は、家臣の新開真行に中院源少将の拠る西長尾城を攻撃させた。清氏は頼和・信氏を西長尾の救援に向かわせたが、これは頼之側の陽動作戦で、真行は夜陰のうちに西長尾から清氏のいる白峰へ移動、頼之も数百の手勢で24日の朝にからめ手から白峰を攻めた。清氏は血気にはやって鎧もまともに身に着けぬまま「黒鹿毛」という馬にまたがってただ一騎で出撃し、頼之軍に分け入って大奮戦、敵将二人の首を「ねじ切」にして太刀の先につらぬき「異国のことは遠いから知らぬが、我が国に生まれて清氏にまさる武勇の者がいるとは誰も言うまい。敵も他人ではない。情けない戦をして笑われるなよ」と誇って、さらに敵将を次々と追い回して斬って捨て続けたとまで記されている。
 しかし乗馬「黒鹿毛」を敵兵に傷つけられ、清氏は代わりの馬を求めて真壁孫四郎という武士と組み合って馬から引きずりおろした。そこへ備前の武士・伊賀高光が一騎打ちを挑んできたので、清氏は真壁を放り出して立ち向かって組み合ったが、高光が組むと同時に素早く刀を抜いて清氏を刺したため、弱った清氏はそのまま首を取られてしまった。この7月24日の戦闘で清氏が戦死したことは近衛道嗣の日記『愚管記』でも確認できる。
  清氏の戦死が伝わると、讃岐の南朝方は一気に雲散霧消してしまった。清氏の子・正氏が阿波でしばらく抵抗を続けたものの、淡路の氏春ら清氏に味方した細川一族もまもなく頼之に従い、頼之は四国全域をほぼ支配下に収めて、のちに管領として幕政を指揮するステップとした。

 伝承によれば清氏の遺体は寒川郡長尾(現・さぬき市)の宝蔵院の住持・明範が荼毘に付し、高岡(木田郡三木町)の白山に埋葬したという。香川県坂出市林田町には「三十六」と呼ばれる地域があり、ここが戦死した清氏の家臣たち三十六人の埋葬地であると伝えられている(ただし『太平記』では清氏と共に戦死したのは2名のみとあり無関係の可能性もある)。江戸時代後期に南朝顕彰の意識が高まるなか、この地を訪れた学者・中山城山(「全讃史」の著者)が「南朝忠臣」である清氏をしのぶものが現地に何もないことを嘆き、文政6年(1823)に「細川将軍戦跡碑」を建てている。その後も近代以降の南朝賞賛ムードのなかで現地は史跡として持ち上げられることも多かったようだが、実際の清氏は成り行きで南朝についただけでもあり、戦後になると史跡の存在自体影の薄いものになっている。
 数々の型破りな言動、戦場での猛将ぶり、幕府の執事(管領)にまでなりながら南朝に走って京を攻めるという波乱に富みすぎる武将人生を送った清氏を、『太平記』はその猪突猛進型で血気盛んな勇将ぶりを、どこか惜しみでもするようにいきいきと描写している。あるいは『太平記』の編纂にも関与したとされる従兄弟・頼之の清氏に対する気持ちがそこには反映されているのかもしれない

参考文献
小川信『細川頼之』(吉川弘文館・人物叢書)
森茂暁『太平記の群像・軍記物語の虚構と真実』(角川選書)ほか
その他の映像・舞台
実際にドラマや映画に登場した例はないのだが、当サイト掲載の仮想大河ドラマ「室町太平記」では清氏は前半の準主役である。
漫画作品では
長岡良子の「古代幻想シリーズ」の一作「天人羽衣」は世阿弥と佐々木道誉をメインとした作品だが、当時の政治状況を説明する1カットに道誉と対立していた清氏が描かれている。
SSボードゲーム版
叔父の細川顕氏のユニット裏として登場する。武家方の「武将」クラスで、勢力地域は「南畿」。合戦能力1・采配能力2と意外に低い評価。

細川皇海ほそかわ・こうかい生没年不詳
親族父:細川頼貞 兄弟:細川顕氏・細川定禅・細川直俊。細川氏之
幕府土佐守護?
生 涯
―謎が多い法師武者―

 細川頼貞の子。兄弟の顕氏定禅直俊らと共に足利尊氏に従って各地に転戦、幕府創設に貢献した。
 『尊卑分脈』によると兄・定禅と同じく「若宮別当」とあり、鶴岡八幡宮の別当をつとめて権律師となっており、「三位律師」「三位房」「三位公」などと呼ばれている。建武の乱では兄弟たちと共に尊氏に従って転戦、尊氏が九州に落ちる際にも兄弟ともども四国に配置された(「梅松論」)
 建武4年(延元2、1337)4月には兄・顕氏の指示で紀伊に出陣し、翌年まで在陣している。暦応2年(延元4、1339)から土佐守護として活動する「権律師」と名乗る人物がおり、これが皇海であろうと推定されている(兄弟の定禅とする見解がかつては多かった)。この「権律師」が土佐南朝方の拠点・大高坂城(高知市)を攻め落としていることが書状により確認できる。しかし土佐南朝方は熊野水軍の協力もあってなかなかしぶとく、康永2年(興国4、1343)9月に南朝方の佐河四郎左衛門入道の城を「僧」と署名する武将が攻略したことが書状で知られ(「佐伯文書」)、この「僧」が皇海であろうと推定されている。しかしこれ以後定禅の消息はまったく途絶えてしまい、この時期に戦死したか、病死したものと推測されるのみである。

細川繁氏ほそかわ・しげうじ?-1359(延文4/正平14)
親族父:細川顕氏 兄弟:細川氏之・細川政氏・細川業氏 子:細川祐氏
官職式部少丞・伊予守
幕府土佐・讃岐・摂津守護・九州探題
生 涯
―怨霊にとりつかれて狂死?―

 細川顕氏の子。祖父・頼貞の養子となったともいう(「系図綜覧」)『太平記』流布本では建武3年(1335)の矢作川の戦いに出陣した足利軍の中に「式部大夫繁氏」の名があり、父・顕氏や同族の細川頼春らと共に参戦していたことになっている。
 文和元年(正平7、1352)に父の守護国である和泉で南朝軍相手に戦い、同年の7月5日に顕氏が急死したためその跡を継いで讃岐・土佐二国の守護となった。文和2年(正平8、1353)2月ごろから短期間摂津守護もつとめている。
 文和4年(正平10、1355)に足利直冬山名時氏らの南朝軍が京を攻撃した際には又従兄弟の細川頼之と共に四国勢を率いて応援に駆け付け、2月6日の摂津・神南の合戦に参加している。同年6月4日には同族の細川清氏・頼之らと共に三宝院賢俊のもとを訪れ、風呂を使って終日懇談している(「賢俊僧正日記」)。その年の9月からは自ら土佐に出陣し、翌延文元年(正平11、1356)10月まで土佐国内の南朝方の掃討にあたっている。

 その後しばらく活動が知れなくなるが、延文4年(正平14、1359)に繁氏は伊予守に任じられ、九州探題に抜擢されたとの話が『太平記』巻33に出てくる。当時九州では懐良親王菊池武光らの南朝方の勢いが盛んで、幕府方の九州探題をつとめていた一色範氏一色直氏父子は九州から追い出されてしまう状況であった。そこで九州奪回の切り札として四国に勢力をもつ繁氏の抜擢となったらしい。
 繁氏はさっそく九州遠征の用意のために守護国の讃岐にわたり、ここで兵船を整えた。ところがその直後の6月2日に繁氏は急死してしまう。『太平記』では崇徳上皇の領地を侵して兵糧にあてがったために崇徳の怨霊の怒りを買って発狂、高熱を発して七日間寝込んだ末に死ぬという異常な逸話が語られている。この話が『太平記』の全くの創作でもないことは同時期の史料『延文四年記』6月6日条にも「病床に伏して十日間、その間にさまざまな奇瑞があっていちいち書き記せないほどであった」とあることからうかがえ、少なくとも異常な急死であるとの噂が広まっていたようである。

 繁氏が急死したのち、細川氏の顕氏の系統(奥州家)は、細川和氏の子で顕氏の養子となっていた細川業氏が継いだ。そして繁氏が持っていた讃岐・土佐の守護職は細川頼之が引き継ぐこととなる。

参考文献
小川信「細川頼之」(吉川弘文館・人物叢書)
佐藤進一「室町幕府守護制度の研究」(東京大学出版会)ほか
大河ドラマ「太平記」ドラマ中盤の建武政権期に合計7回と結構顔を見せている(演:本公成)。もっとも足利家臣団の一員として顔を見せているだけで、識別するのが困難。

細川定禅ほそかわ・じょうぜん生没年不詳
親族父:細川頼貞 兄弟:細川顕氏・細川皇海・細川直俊
幕府土佐守護?
生 涯
―湊川決戦を決定づけた猛将―

 細川頼貞の子で、早くに出家し鶴岡若宮の別当であり、宮内卿律師、権少僧都であったと『尊卑文脈』に記されている。『太平記』では「細川卿律師」、『梅松論』では「細川卿公」、『難太平記』では「細川卿房」などと表現されている。
 元弘の乱における動向は不明だが、兄の細川顕氏らと共に足利高氏(尊氏)のもとで活躍していたとみられる。また他の細川一族同様に建武政権期に四国に所領を得て、その後の活動の基盤にしていたと推測される。

 建武2年(1335)に足利尊氏が後醍醐天皇に対して反旗を翻すと、定禅は同年11月末に讃岐国で詫間氏・香西氏らを率いて挙兵、これを鎮圧しようとした高松頼重の軍を夜襲により撃破した。さらに備前の飽浦信胤らに挙兵をうながしつつ、そのまま海を渡って赤松円心勢と合流して西から京へ迫った(「太平記」)。ただし今川了俊の回想録『難太平記』によると、その年7月に細川定禅は足利直義に従って関東にあり、中先代の乱の手越河原の戦いで直義が北条時行軍に敗れた折、もはやこれまでと思った定禅が直義に自害をすすめたことになっていて(今川範国は逃亡をすすめた)、その直後に挙兵のために四国に赴くというのもやや不自然である。定禅が四国勢を率いて西から京へ迫ったことは『梅松論』にも見えており、この逸話は了俊の単純な記憶違いで別の戦いの時のことかもしれない。なお、この中先代の乱の時に定禅の父・頼貞は自害して果てている。

 建武3年(1336)正月の京都攻防戦では細川一族が大いに活躍し、とくに定禅は「鬼神のよう」と称えられるほどの奮戦を見せたと『梅松論』は伝える(ただし「梅松論」には細川一族の活躍を後世加筆をした版本がある)。しかし結局この戦いは足利側の敗北に終わり、尊氏らは態勢を整え直すために九州まで落ちのびることになった。このとき兵庫で敗残の兵を集めていた際に今度は今川範国が「ここで腹を切りましょう」と主張したのに対し、定禅が「早く船にお乗りください」と直義らに勧めたという逸話を『難太平記』は記している。後年、直義はこのときのことを思い返して「あの二度の危機のおりに両者の言い分がまるっきり逆だったのは不思議なことだな」と語ったと了俊は記しており、直義本人から了俊が聞かされている可能性が高く、そうした逸話が実際にあったのだろう。

 尊氏が九州へ向かった間に、細川一族は四国を固めるよう配置された。そして九州を平定した尊氏が東上を開始すると、定禅らは四国勢を率いて水軍でこれに合流した。5月25日の湊川の戦いでは、細川定禅率いる四国水軍が新田義貞軍の退路を断とうと海上を東へ進み、これを見て慌てた義貞が軍を東へ移動さ
、せて上陸してきた定禅軍と交戦、結局そのまま京方面へ撤退することになった。しかし定禅は義貞には目もくれず、戦場の西方で直義軍らと交戦中だった楠木正成軍に襲いかかり、これを壊滅に追い込んだ。「太平記」「梅松論」ともに湊川合戦の決定的場面で定禅の活躍があったことを記しているのである。
 湊川の勝利の後の京都攻防戦でも定禅の奮戦ぶりは相変わらずで、6月30日の戦闘では定禅は義貞の首を狙ってあと一歩まで迫ったが、義貞軍の勇士たちが身を挺して立ちふさがったために果たせず、多くの兵を失って撤退したことが「梅松論」に記されている。
 
 それだけ目覚ましい活躍をした割に、その後の定禅の消息ははっきりしない。建武4年(延元2、1337)8月に和泉で活動していたことは確認でき、この直後に兄の顕氏が短期間だけ土佐守護となって、そのあとを定禅が引き継いだとの推測もある。暦応2年(延元4、1339)末から翌年にかけて「権律師」と署名する人物が大高坂城(高知市)を攻め落としていることが書状により確認できるため、これを定禅とする見解が長らくあったのだが、定禅は「権少僧都」あるいは「宮内卿律師」であって「権律師」ではない。「権律師」は兄弟の細川皇海の方なので、近年では土佐守護となったのは皇海の方とする意見が多い。いずれにしても定禅の消息は1340年前後で途絶えてしまい、どのような最期であったのかも分かっていない。

参考文献
小川信「細川頼之」(吉川弘文館人物叢書)ほか
大河ドラマ「太平記」ドラマ中への登場はないが、第35回「大逆転」の中で、名和長年が定禅の讃岐での挙兵の情報を口にしている。第36回「湊川の決戦」でも登場はしなかったものの、戦闘の推移の説明でその名前が出てくる。
PCエンジンHu版シナリオ2「南北朝の動乱」で阿波・勝端城に北朝方で登場。能力は「長刀2」
メガドライブ版京都攻防戦から湊川合戦までのシナリオで足利軍武将として登場。能力は体力85・武力104・智力105・人徳78・攻撃力91となかなかの猛将ぶり。
SSボードゲーム版
武家方の「武将」クラスで、勢力地域は「四国」。合戦能力2・采配能力4。ユニット裏はなぜか親戚の細川頼春。

細川直俊ほそかわ・ただとし(なおとし?)1319(元応元)-1337(建武4/延元2)
親族父:細川頼貞 兄弟:細川顕之・細川定禅・細川皇海・細川氏之・細川政氏
官職帯刀・民部少輔
生 涯
―若くして藤井寺で戦死―

 細川頼貞の子。読みが「ただとし」であるとすれば足利直義から一字を与えられた可能性がある。建武政権時に元服したと思われ、建武元年(1334)9月27日の後醍醐天皇の石清水八幡・賀茂社行幸に従った足利尊氏の随兵の中に「細川帯刀直俊」の名が確認できる(「長門小早川證文」)。その後の建武の乱では足利尊氏に従い細川一族の一員として各地に転戦し(「梅松論」にも室ノ津軍議の下りでその名が出てくる)、尊氏が勝利して幕府を創設した時期に民部少輔になったとみられる。
 建武4年(延元2、1337)3月10日、直俊は兄・顕氏と共に河内へ出陣し、南朝方の大塚惟正岸和田治氏らと葛井寺・野中寺あたり(現在の藤井寺市から羽曳野市付近)の戦闘で戦死した(「和田文書」)。細川氏の史料ではこのとき十九歳と伝える。

細川天竺禅門ほそかわ・てんじくぜんもん?-1365(貞治4/正平20)
生 涯
―河野氏との戦いで戦死―

 伊予・河野氏の記録『予章記』にその名が出てくる細川頼之配下の武将。貞治3年(正平19、1364)に頼之が伊予に侵攻して河野通朝を世田山城に戦死させたが、翌貞治4年(正平20、1365)正月27日に通朝の子・通堯(のちの通直)が湯築城(愛媛県松山市)を奇襲、この城を守っていた細川天竺禅門を自害に追い込んだ。彼について知られることはこれだけである。
 細川家の発祥地である三河国の幡豆郡に「天竺」という地名があり、ここに分家した細川庶流の「天竺氏」ではないかと推測される。室町〜戦国にかけて土佐国の大津城(高知市)に拠点を置いた「天竺氏」があり、その祖先が「細川天竺禅門」であるとする伝承もあるらしい(ただし諸説あるうちの一つ)。これが本当だとすれば、細川一族の四国進出にあたって土佐国に入り、頼之の伊予侵攻に動員されたのだと推測される。

参考文献
小川信「細川頼之」(吉川弘文館・人物叢書)

細川業氏ほそかわ・なりうじ生没年不詳
親族父:細川和氏 養父:細川顕氏
兄弟:細川清氏・細川家氏・細川頼和・細川将氏・仁木頼夏・笑山周念・細川繁氏(義兄)
子:細川満経
官職兵部大輔
位階
従四位下
幕府和泉守護・引付頭人
生 涯
―義満元服の理髪をつとめる―

 細川和氏の実子だが同族の細川顕氏の養子となった。通り名は「八郎四郎」で、養父顕氏が陸奥守であるため「陸奥八郎四郎」と呼ばれた。
 文和元年(正平7、1352)7月に顕氏が死去すると、いったん和泉守護職を引き継いだが翌年には畠山国清に交代している。これは業氏がまだ幼少で南朝勢力の強い和泉統治に問題があったためかもしれない。その後、延文元年(正平11、1356)には再び和泉守護に復帰しているが、この時は実兄の細川清氏から引き継ぐ形になっていた。延文4年(正平14、1359)6月に義兄の細川繁氏が急死するとその跡を継いだが、繁氏が持っていた讃岐・土佐の守護職は従兄弟の細川頼之に奪われる形となった。
 延文5年(正平15、1360)7月、兄の清氏や畠山国清の率いる南朝攻撃軍が仁木義長を倒そうと京へ引き返す騒ぎが起こると、南朝方は一斉に巻き返しに出た。『太平記』ではこのとき和泉守護の業氏とみられる「細川兵部大輔」が南朝方を恐れて敵の来ぬうちに逃げ出してしまったと記されている。
 応安元年(正平23、1368)4月15日の足利義満の元服式では「理髪」という重要な役目を務めている。応安3年(建徳元、1370)6月17日から引付頭人を務めて頼之を支えた。

参考文献
小川信「細川頼之」(吉川弘文館・人物叢書)
佐藤進一「室町幕府守護制度の研究」(東京大学出版会)ほか

細川業秀ほそかわ・なりひで生没年不詳
官職兵部大輔
幕府紀伊守護
生 涯
―南朝軍に敗れて淡路に逃走―

 細川一族で紀伊守護にまでなった人物だが、官名が「兵部大輔」であること以外、細川氏の中でどの系統の者なのかも全く不明である。永和元年(天授元、1375)8月に紀伊守護に任じられ、南朝方から幕府方に投降した橋本正督と共に紀伊の南朝方・湯浅氏を攻撃している。
 ところが永和4年(天授4、1378)11月2日に正督は再び南朝方となり、業秀に奇襲を仕掛けてきた。業秀は籠城して幕府に報告、管領の細川頼之は弟の細川頼基山名義理らを援軍として紀伊に向かわせた。いったんは南朝方を駆逐したとして12月初めまでに援軍は京へ引き上げたが、その直後に橋本正督が業秀を奇襲、業秀は支えきれずに淡路へと逃走した(「花営三代記」「愚管記」「後愚昧記」」)。この敗報に将軍・足利義満は激怒し、結局は中止になるものの自ら出陣する姿勢まで示している。当然ながら業秀は紀伊守護職を免じられ、後任は山名義理となった。
 紀伊で敗れて淡路に逃走している(「淡路に帰る」との記事もある)ことから、もともとは淡路に拠点をおく人物と推定される。当時の淡路守護は細川氏春で、『細川系図』に氏春の事跡としてこの業秀の行動とよく似た記述がなされているが、氏春と業秀が別人であることは『花営三代記』で明確に区別されていることから明らかである。「兵部大輔」とされる細川一族には細川業氏細川将氏もいるが淡路とのつながりがない。業秀は氏春の近親者の誰かではないか、と推測されるのみである。

参考文献
小川信「細川頼之」(吉川弘文館・人物叢書)
佐藤進一「室町幕府守護制度の研究」(東京大学出版会)ほか

細川局ほそかわのつぼね生没年不詳
生 涯
―頼之の近親?の「権女」―

 足利義満に仕えていた女性で、その呼び名と、実際に細川頼之と深い関係をうかがわせることから、細川一族の出身と推測される。ある時期から後光厳天皇の後宮にいたらしいが詳細は不明である。
 貞治5年(正平21、1366)9月14日に細川頼之が管領就任のために四国から入京した際、六角小路・万里小路にある細川局の屋敷に入っている。そして管領就任後も頼之はそのままその屋敷を使用している。管領クラスの守護大名がそのまま使用できるほどの邸宅を持っていたということだろうか。
 『祇園執行日記』応安4年(1371)9月21日の記事に「将軍御舎兄僧ノ御母儀」(柏庭清祖の母?)「細川御局」らと共に湯山に集っていたとの記述がある。これも同じ女性と思われ、義満周辺の女性同士の交流がうかがえる。

 応安7年(文中3、1374)正月に後光厳上皇が死去すると、彼女は出家して仏事を行いその菩提を弔っている。このことから後光厳とかなり深い関係があったと推測され、頼之が後光厳と親しく交流していた(頼之は後光厳の臨終の床に呼ばれている)のも彼女の存在が接点となっていた可能性が高い。
 永和4年(天授4、1378)5月に義満が病床に伏したとの噂が流れ、元関白の近衛道嗣は義満の容態を「細川局」に尋ねている(「愚管記」)。道嗣は彼女について「近日の権女」と表現しており、管領・頼之の権勢と義満の信任を背景にかなりの影響力を持っていたらしい。
 しかし康暦元年(天授5、1379)閏4月の「康暦の政変」で頼之が失脚して以後は消息が知れなくなる。頼之は一族郎党すべて引き連れて四国に帰っており、屋敷も直後に破壊されているから、細川局も頼之に同行して四国に渡ったものと思われる。

参考文献
小川剛生『足利義満・公武に君臨した室町将軍』(中公新書)

細川信氏ほそかわ・のぶうじ生没年不詳
親族
掃部助
生 涯
―清氏を支援して讃岐で戦う―

 細川師氏の子で、淡路守護となった細川氏春の弟。正平17年(貞治元、1362)に南朝方についた従兄弟の細川清氏が四国に渡ると、兄の氏春と共にその加勢に駆けつけた。『太平記』では信氏は「讃岐の勢」を五百余騎動員してきたとあり、もともと讃岐に拠点を置いていたらしい。やがてやはり従兄弟である細川頼之が山陽から清氏討伐にやって来ると、両者は数か月にわたり白峰(現・坂出市)と宇多津(現・宇多津町)で対峙した。
 7月23日、頼之方の新開真行の軍が清氏方の中院源少将(南朝公家とみられる)のこもる西長尾城を攻撃した。清氏は弟の頼和と信氏を西長尾の応援に派遣したが、実はこれは頼之側の陽動であった。頼之軍は夜陰に乗じて西長尾から白峰に移動し、翌24日の朝から手薄となった白峰を攻撃、清氏は出撃して奮戦したが討ち取られてしまった。敵の策にはまったことに気付いた信氏と頼和は新開らを撃破して白峰に戻ったが、すでに清氏が戦死したことを知って淡路へと逃亡した。しかし淡路でも武士たちが反旗を翻したためさらに和泉へ逃れたという。
 その後の行動は不明だが兄の氏春がまもなく幕府に復帰しているので、信氏も同時期に赦免されたものと思われる。

細川正氏
ほそかわ・まさうじ1353(文和2/正平8)?-?
親族父:細川清氏
官職阿波守
幕府阿波守護
生 涯
―奮闘を続けた清氏の遺児―

 細川清氏の子。「八郎太郎」と称した。『尊卑分脈』に「昌氏」と表記されているが本人の署名は「正氏」である。「正之」と名乗った時期もあるらしい。
 正確な生年は不明だが、『太平記』に父の清氏が石清水八幡宮で「九と七になりける二人の子」の元服式を挙げ、八幡大菩薩を烏帽子親としてそれぞれ「八幡六郎」「八幡八郎」と名乗らせたとの逸話があり(『難太平記』でもこれは事実として語られている)、このとき九歳の子というのが正氏である可能性が高い。この一件が康安元年(正平16、1361)のことだとすると正氏は文和2年(正平8、1353)の生まれという推測ができる。

 父の清氏はその一件の直後に失脚、南朝に走って一時京都を占領するも撤退、正平17年(貞治元年、1362)に再起を期して四国にわたったが、7月に讃岐・白峰の戦いで従兄弟の細川頼之に敗れて戦死した。正氏も同時期に四国にわたったとみられ、恐らく阿波国の山間部の南朝方にかくまわれたと考えられる。
 正氏の活動が確認されるようになるのは1370年代からで、その時期に成人したためであろう。建徳3年(応安5、1372)6月に阿波美馬郡の祖山一族に金丸荘・井川荘(いずれも阿波)を兵粮料所として預ける書状を送り、天授元年(永和元、1375)11月には瀬戸水軍の南朝方、忽那重氏にあてて讃岐国伊賀野の領家職・郡家内公文職を兵粮料所として与えるとの書状を送っている。

 康暦元年(天授5、1379)閏4月、「康暦の政変」により頼之が失脚、管領職を辞して一族引き連れ四国へと去った。幕府は頼之の追討を指示し、これを機に伊予の河野通直や正氏ら頼之の敵対勢力は南朝から幕府に鞍替えし、それぞれ伊予・阿波の守護に任じられて頼之へ攻勢をかけた。遅くとも康暦2年(天授6、1380)6月7日の小山八郎左衛門尉への書状で正氏が阿波守護として活動していることが確認できる。書状を眺めると正氏が領地や徴税権を認めた相手は阿波の三好郡・那賀郡など山間部の国人が多く、南朝方の時期から彼を支えていた彼らの掌握につとめていた様子がうかがえる。しかし失脚したとはいえ頼之の地域支配力は強力で、正氏の支配域はあくまで山間部に限られ、阿波の大半は頼之の甥である細川義之が実質的に支配している状況であった。

 永徳元年(弘和元、1381)5月6日に正氏は亡父清氏の追善のためとして駿河国田尻郷南村内の地頭職を臨川寺に寄進した(「天竜寺文書」)。7月2日に義満がこの地頭職を安堵すると臨川寺に伝えていて、この時点では正氏はまだ幕府から阿波守護と認められた存在であったと推定される。しかし直後の6月には頼之の弟・頼元が幕府への復権を果たしており、前後して義之が正式に阿波守護になったとみられる。すでに4月の時点でに義之が守護の職権を果たしていると思える書状もあるため、あるいは正氏が父の追善のための寄進をした時点で頼之との和解が成立していたのかもしれない(一部に「正之」の名乗りがあるとされるのは、頼之の一字を与えられたものか?同じく頼之を父の仇としながら和解した河野通之の例もある)。その後の正氏の消息は不明である。

参考文献
小川信「細川頼之」(吉川弘文館・人物叢書)
佐藤進一「室町幕府守護制度の研究」(東京大学出版会)ほか

細川将氏
ほそかわ・まさうじ生没年不詳
親族父:細川和氏
兄弟:細川清氏・細川頼和・細川業氏・細川家氏・仁木頼夏・笑山周念
官職兵部大輔
生 涯
―兄に説得されて別れた清氏弟―

 細川和氏の子で「九郎」と称した。兄の細川清氏と行動を共にすることが多かったとみられ、『太平記』で清氏の「舎弟」である「兵部大輔」が出てくればそれは将氏を指す。延文4年(正平14、1359)に将軍・足利義詮が南朝へ攻勢をかけ、執事の清氏が前線で奮戦した際にも他の兄弟と共に同行している。
 康安元年(正平16、1361)9月に清氏が謀反の疑いをかけられ失脚した時にも、清氏と共に兵を率いて天竜寺に入っていた。『太平記』では都落ちする清氏が千本まで来たところで将氏と従兄弟の氏春を呼び寄せ、「ここまでよくついてきてくれた。そなた達二人は讒言を受けて将軍に疑われているわけでもないのだから、わしと共に都を落ちることはない。ここから帰って将軍に申し開きをするがよい」と説得した。将氏と氏春はあくまでついて行きたいと言い張ったが結局涙ながらに別れたという。清氏の兄弟のうち細川家氏仁木頼夏も京に残ったがわざわざこんな描写があるのは将氏だけで、あるいは将氏は異母兄弟で独立性の強い立場であったのかもしれない。
 氏春はその後淡路に戻って清氏に呼応して挙兵しているが、将氏についてはその行動は確認されていない。

細川満春
ほそかわ・みつはる?-応永6年(1399)
親族父:細川氏春
子:細川満師・細川俊春
官職淡路守
幕府淡路守護
生 涯
―明徳の乱に参加した淡路守護―

 淡路守護・細川氏春の子。名前の「満春」はもちろん三代将軍足利義満の一字を与えられたものである。嘉慶元年(元中4、1387)10月に父の氏春が死去して淡路守護職を引き継いだ。康応元年(元中6、1389)3月に行われた義満の厳島参詣に同行する諸大名の中に満春も加わっている。
 明徳2年(元中8、1391)12月の山名一族の反乱「明徳の乱」では義満のもとに参じて軍議に参加し、一族をたばねる細川頼之の指揮下で参戦した(「明徳記」)
 応永6年(1399)11月20日に死去した(「系図纂要」)

細川満之
ほそかわ・みつゆき文和元年(正平7、1352)-1405(応永12)
親族父:細川頼春
兄弟:細川頼之・細川頼有・細川詮春・細川頼元
子:細川頼重・細川満久・細川基之
官職民部少輔・兵部大輔・阿波守
幕府伊勢守護、伊予(分郡)守護、備中守護
生 涯
―可愛がられた頼之の末弟―

 細川頼春の末子。「四郎」と呼ばれたらしい。『細川三将略伝』にある享年に従うと生まれたのは父・頼春が南朝軍との戦いで戦死した文和元年(正平7、1352)の生まれとなり、父の戦死後に生まれた可能性がある。長兄の細川頼之とは24歳の年齢差があり(当然頼之とは異母兄弟)、頼之は末弟の満之を自分の子供のようにいつくしんだいう(「細川三将略伝」「系図纂要」)

 頼之が幕府の管領となると兄弟たちと共に兄を支え、応安4年(建徳2、1371)閏3月に伊勢の南朝方攻略に出陣した「細川民部少輔」なる頼之の弟は満之であると推定される(「師守記」)。永和2年(天授2、1376)ごろまで伊勢守護をつとめた「細川四郎」も満之であろう。
 頼之が「康暦の政変」(1379)によって失脚、四国に戻ったのちは満之も四国に渡った。至徳2年(元中2、1385)ごろに頼之が土佐の吸江庵の庵主に送った自筆書状の中で「兵部大輔がきっとすべて承知しておりましょう」とか「兵部大輔がおりますので何かとお申し付けください」といった内容が書かれているほか、満之自身が吸江庵にあてた自筆書状も二通現存しているため(いずれも高知市吸江寺の所蔵文書)、このころは土佐で活動していたことが知られる。また嘉慶2年(元中5、1388)10月に「兵部大輔」こと満之が新居郡の保国寺の領地を安堵しており、伊予国のうち細川氏支配下に入った新居郡・宇摩郡の支配を満之が務めていることが確認される。

 兄・頼之が死去した明徳3年(元中9、1392)から備中国に守護代として入った形跡があり、翌明徳4年(1393)から備中守護として活動している。備中守護職は満之の嫡男・頼重に引き継がれ、この系統は「備中細川氏」と呼ばれることとなる。他の息子たちも基氏が頼之の養子となった上に和泉下守護家細川氏のルーツとなり、満久は従兄弟の細川義氏の養子となって阿波細川氏を継いだ。
 応永12年(1405)2月5日に死去した。

参考文献
小川信「細川頼之」(吉川弘文館・人物叢書)
佐藤進一「室町幕府守護制度の研究」(東京大学出版会)ほか

細川基之
ほそかわ・もとゆき生没年不詳
親族父:細川満之
兄弟:細川頼重・細川満久
子:細川頼久・細川教久
官職兵部大輔・阿波守
幕府備後半国、土佐半国、和泉半国守護
生 涯
―和泉下守護家のルーツ―

 細川満之の子。次男か三男と推測され、1380年代中ごろの生まれとみられる。伯父にあたる細川頼之の猶子(養子)となっており(「系図纂要」)、頼之の名乗りである「弥九郎」を引き継いでいる。満之は頼之の末の弟で、我が子のようにいつくしんだと伝えられており、その満之にできた自分の孫のような基之を頼之が溺愛し養子としたのではないかとの推測がある(小川信『細川頼之』)
 明徳3年(元中9、1392)3月に養父頼之が死去すると、頼之のもつ備後守護職を引き継いだが、従兄弟の細川頼長(頼有の子)と備後を二分して統治する形となった。応永の乱の結果、備後守護職が山名時熙に与えられると、応永7年(1400)から頼長ともども土佐守護職に移された。それまで基之はまだ幼年であったためか「弥九郎」の通称でしか呼ばれていなかったが、この頃任官したのか「兵部大輔」の官名を名乗るようになる。
 応永15年(1408)にはさらに和泉国守護に移り、ここでも頼長と二分統治体制をとった。これ以後、基之の子孫は「和泉下守護家」、頼長の子孫は「和泉上守護家」と呼ばれるようになる。
 没年については『系図纂要』に「永正15年2月6日卒」とする記述があるが、それでは130年以上生きたことになってしまう。「永享」の誤りの可能性があるが永享は13年までしかない。諡は「常観院」という。

参考文献
小川信「細川頼之」(吉川弘文館・人物叢書)
佐藤進一「室町幕府守護制度の研究」(東京大学出版会)ほか

細川師氏ほそかわ・もろうじ(のりうじ)1305(嘉元3)-1348(貞和4/正平3)
親族父:細川公頼 兄弟:細川和氏・細川頼春 子:細川氏春・細川信氏
官職掃部助、淡路守
位階従五位下
幕府淡路守護
生 涯
―淡路細川家の祖―

 細川公頼の子で、和氏頼春の弟。通称は「彦四郎」と伝えられる。
 兄弟三人そろって足利高氏の倒幕の挙兵に従って六波羅攻略に参加、その後、陥落後の鎌倉の処理のために鎌倉に下り、新田義貞を追い出している。このとき師氏の子・信氏と思われる「源信氏」が軍勢を集めつつ関東へ下ったことを示す文書もある。和氏と頼春はその後京に戻ったが、師氏はそのまま鎌倉に残ったらしく(いったん京に戻って直義に同行して鎌倉に行った可能性もあるが)、建武2年(1335)正月7日に鎌倉の小御所で行われた弓場始めに射手として出場していることが確認できる(「御的日記」)

 尊氏が建武政権に反旗を翻すと、和氏・頼春とともに各地を転戦したと思われるが師氏個人の具体的な活動は分からない。古典「太平記」や「梅松論」でも師氏個人の名が出ることはほとんどなく、「細川勢」の中に含まれて目立たない存在だったのかも知れない。尊氏が一時九州へ落ち延びる際に、師氏もふくめた細川勢は四国方面に配置されている。

 足利幕府が成立すると暦応2年(1339)に淡路守護となり、この地の守護所に居館をかまえた。ここは後に「養宜館(やぎやかた)」と呼ばれ、現在も兵庫県南あわじ市八木養宜中にその跡が残る。ここを拠点に暦応3年(興国元、1340)3月に淡路島の南朝方・宇原兵衛入道永真立川瀬の戦いで破り、これを平定した(淡路地方史の書籍・サイトによく出てくる話なのだが、出典資料は未確認)

 貞和4年(正平3、1348)2月に出された足利直義の命令書によると、師氏が禅林寺新熊野社領の由良荘地頭職を横領して家臣たちに与えてしまっていることが分かる。この時代よくあった「兵糧調達」を根拠にした寺社・貴族領への守護の侵略の典型例で、直義はこれを不法として返還を命じているが、この動乱の中ではこうでもしないと武士層を味方につけられなかったのも事実である。


 この年の3月23日に師氏は44歳で死去した(「三」を「五」の誤りとみて5月説もある)。淡路守護職は息子の氏春が引き継ぎ、その後いろいろあって一時南朝に寝返ったりもするのだが、戦国期まで続く淡路守護細川家の基盤を築くことになる。

参考文献
小川信「細川頼之」(吉川弘文館・人物叢書)
山本隆志「新田義貞」(ミネルヴァ日本評伝選)ほか
大河ドラマ「太平記」ドラマ中盤の建武政権期に合計7回と結構顔を見せている(演:本公成)。もっとも足利家臣団の一員として顔を見せているだけで、識別するのが困難。


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