細川和氏 | ほそかわ・かずうじ(ともうじ) | 1296(永仁4)-1342(康永元/興国3)
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親族 | 父:細川公頼 兄弟:細川頼春・細川師氏
子:細川清氏・細川頼和・細川業氏・細川将氏・細川家氏・笑山周念 |
官職 | 阿波守 |
位階
| 従四位下
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幕府 | 阿波・淡路守護、引付頭人、侍所頭人 |
生 涯 |
―尊氏挙兵以来の功臣―
細川公頼の長子で、通称「弥八」。南北朝動乱で活躍した細川一族の第一世代になる。細川氏の出身地である三河・細川郷で生まれて成人していた世代で、足利高氏(尊氏)挙兵以来の功臣である。
元弘3年(正慶2、1333)4月、足利高氏は畿内の後醍醐派を鎮圧するよう幕府から命じられて京へ向けて出陣したが、すでに後醍醐側への寝返りを心に決めていた。恐らく一門が多く待つ三河まで進んだところで討幕の意思を一門に表明したものと思われ、ここで細川和氏と上杉重能がひそかに先発して伯耆・船上山にいる後醍醐天皇の討幕の綸旨を受け取りに行き(船上山まで行ったかは不明)、近江鏡宿で合流して綸旨を高氏にもたらしたと『梅松論』は伝える。
丹波・篠村で討幕の挙兵をした足利軍は六波羅探題攻略にかかったが、このとき大軍で包囲して一気に押しつぶそうとする一同をとどめて和氏が「そんなことをしたら味方の損害も多くなる。一方にわざと逃げ道を開けておけば容易に打ち破ることができるだろう」と意見し、その作戦が実行され、六波羅はたやすく落とすことができた(「梅松論」)。
六波羅陥落後、ただちに和氏・頼春・師氏の三兄弟が関東に派遣された。このころ関東では新田義貞が挙兵して鎌倉を攻略しており、高氏の子・千寿王(のちの足利義詮)がまだ四歳ながら高氏の代理人として足利軍総帥にかつぎだされ、多くの武士がこれに従って鎌倉を攻めていた。細川三兄弟は関東に向かう途中で鎌倉陥落を知り、ただちに鎌倉入りしたが、このとき戦後の鎌倉では新田・足利双方の紛争が多発して合戦寸前という有様だった。和氏らは義貞のもとへ押し掛けて談判におよび、結局義貞はその圧力に負けて鎌倉を放棄して一族を引き連れ京へと向かった(「梅松論」)。
ただし、以上の「梅松論」に載る細川一族の活躍は後世の流布本にあるもので、古い版本にはなく、後年細川氏の誰かが書き加えたものではないかと言われており、どこまで正確なのかは分からない。
建武政権が成立すると、和氏は功績により阿波守に任じられた。建武元年(1334)の宮中の御修法(みしほ)の折りには和氏が南庭の陣の警護を担当していたことも史料で確認されている。
―幕府創設後にさっさと引退―
建武2年(1335)7月、北条残党が蜂起して、尊氏の弟・直義の守る鎌倉を奪回した(中先代の乱)。尊氏は後醍醐の許可を得ぬまま大軍を率いてこれを鎮圧に向かい、和氏もそれにつき従った。8月14日に駿河国府をめぐる戦いで和氏が「分取高名」(ぶんどりこうみょう、敵の首をとる功績)を挙げたとする史料があり(「康永四年山門申状裏書」)、よい働きをみせていたようだ。
北条軍から鎌倉を奪回した足利軍はそのまま関東に居座り、事実上建武政権からの離脱を明らかにする。「太平記」ではこのとき高氏と義貞が互いに相手を討伐したいと奏上合戦を行ったことになっていて、尊氏の上奏文を京まで持って行ったのは和氏ということになっている。
まもなく後醍醐と尊氏は決裂して全面戦争に突入、尊氏は京へ攻めのぼって一時占領するが、すぐに敗北して九州まで落ち延びることになる。この間、和氏をはじめ細川一族は足利軍の主力の一角として各地でよく戦っている。九州に行く途中の室泊の軍議で、尊氏は和氏・頼春・師氏・顕氏・定禅・皇海・直俊ら細川一族をそろって四国に配置し、後日に備えている。実際、こののちこれら細川一族は四国勢を率いて尊氏の東上、湊川合戦から京の再占領までをよく支えることになる。
この年の11月に「建武式目」が発表され足利幕府が成立すると、和氏は引付頭人に抜擢され、所領問題の訴訟を担当するようになった。阿波・淡路の守護にもなり、すぐに侍所頭人として軍事方面でも草創期幕府を支えた。
だが和氏はもうこれで天下は定まったと思ったのだろうか、建武4年(延元2、1337)末以後は活動が全く確認できず、恐らくこのころに出家・引退を決め込んでしまったものと思われる。このとき和氏は数えで42歳、当時の感覚では初老ではあるが、もしかすると健康を損ねていたのかも知れない。
出家した和氏は「竹渓(竹径とも)」と号し、道号を「道倫」と称したという。暦応2年(延元4、1339)に細川氏の拠点のあった阿波国秋月荘(現・徳島県阿波市土成)に南明山補陀寺を建立している。この寺は当時最高の高僧であった夢窓疎石を開山としているが、実際に疎石をここに呼んだわけではなく「名義拝借」という形で、実際の開山は和氏の五男で疎石の弟子となっていた笑山周念がつとめたという。この寺は尊氏が夢窓疎石の勧めで戦没者を弔い太平を祈願するため全国に作らせた「安国寺」の一つに指定されている。
悠々自適の生活ののち、康永元年(興国3、1342)9月13日に和氏は阿波で死去した。享年47歳。こののちの幕府の内戦「観応の擾乱」を見ることなく、幕府政治の確立だけを見とどけて世を去ったのは幸いだったというべきかもしれない。
こののんびりした余生の間に書いたのだろうか、今川了俊の書いた「難太平記」によると細川阿波守(和氏)自身による「夢想記」なる戦功を書き連ねた自伝的な書物が存在したらしい。しかし同時代の人からすでに「都合よく事実が歪曲されている」と不評だったそうだ。
和氏の息子たちはまだ「幼少」ということで、この系統の細川氏は弟の頼春が引き継ぐことになった。和氏の嫡子・清氏はのちに幕府の執事(管領)を務めるが南朝に走り、頼春の子・頼之に討たれるという数奇な運命をたどることになる。
参考文献
小川信「細川頼之」(吉川弘文館・人物叢書)
佐藤進一「南北朝の動乱」(中公文庫)ほか
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大河ドラマ「太平記」 | ドラマ中盤、建武政権期では合計8回とかなりの登場回数(演:森山潤久)。幕府滅亡後の鎌倉に下って新田義貞と交渉する場面で初登場。その後も鎌倉に居続けていた設定のようで、中先代の乱で直義の敗北を登子に伝え、一色右馬介に護良親王殺害の指示が出たことを伝えるシーンがある。尊氏が建武政権に反旗をひるがえす「大逆転」の回で武将の中にまぎれているのが最後の出番である。 |
歴史小説では | 尊氏側近の一人として出番は多め。とくに鎌倉から新田義貞を追い出すのが彼なので新田次郎「新田義貞」などで、やや悪役気味に登場。 |
漫画作品では | 伊藤章夫「足利尊氏」(学研)では高氏に命じられて千寿王らの脱出と、義貞に対抗して千寿王を大将にかつぎだす役回り。顔が面白いので漫画的に印象に残る(笑)。
横山まさみち「コミック太平記」では尊氏編・義貞編両方に登場するが、なぜか顔が異なる。義貞編のほうが悪役顔なので、作者がうっかりしていた可能性も。 |
PCエンジンCD版 | 北朝側武将として頼春・顕氏とともに讃岐阿波に登場する。初登場時の能力は統率69・戦闘89・忠誠58・婆沙羅55。顔グラフィックは横山まさみちのコミック版をもとにデザインされているが、「義貞編」のものを使用。
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メガドライブ版 | 中先代の乱や京都攻防戦のシナリオで足利軍武将として登場。能力は体力72・武力124・智力78・人徳60・攻撃力86。 |