二条良基
| にじょう・よしもと | 1320(元応2)-1388(嘉慶2/元中5) |
親族 | 父:二条道平 母:西園寺婉子
兄弟姉妹:二条良忠・二条栄子(後醍醐天皇女御)
子:二条師良・二条師嗣・一条経嗣・成瀬基久・道意・満意 |
官職 | 侍従・左近衛少将・左近衛中将・権中納言・権大納言・左近衛大将・内大臣・東宮傅・右大臣・左大臣・関白・内覧・准三后・太政大臣・摂政 |
位階 | 正五位下→従四位下→従四位上→従三位→正三位→従二位→正二位→従一位 |
生 涯 |
南北朝時代の始まりから終焉までをほぼ全て生き抜き、北朝の摂政・関白を歴任した公卿。戦乱の中で衰え行く北朝公家社会を必死に支え、足利義満の教師役となって彼を引き入れることで公家社会の立て直しをはかった。当時随一の文化人としても知られ、連歌の確立に貢献したほか、多くの著作を残している。
―北朝の関白を歴任―
五摂家のひとつ二条家嫡流の二条道平の子。嘉暦2年(1327)に元服して正五位下・侍従に任じられ、その年のうちに従四位下・左近衛中将、嘉暦4=元徳元年(1329)に従三位・権中納言、元徳2年(1330)には正三位と、摂関家の嫡流としてハイスピードに出世している。なお叔父で道平の猶子となっていた二条師基は良基誕生までは二条家の後継者とみなされやはりハイペースで昇進していたが良基誕生によって一転冷遇されている。このことが原因で師基はのちに南朝に走り、良基のライバルとなる。
良基が12歳の時の元弘元年(元徳3、1331)に後醍醐天皇が倒幕の挙兵をして失敗する。良基の父・道平はその計画に関与したと疑われ、息子の良基ともども官職を解かれ、幕府もこの系統の二条家を断絶させようと計画した。しかし元弘3年(正慶2、1333)に鎌倉幕府が滅亡して建武政権が成立、二条家は危機を免れる。六波羅探題が陥落した直後の5月17日に良基は権中納言に戻され、6月に従二位に昇進している。
建武2年(1335)2月に道平が死去。間もなく足利尊氏の反乱がおこり、それを一時九州へ追い払った延元元年(建武3、1336)3月に良基は権大納言となった。やがて足利尊氏が九州から巻き返して来て建武政権を打倒、後醍醐は吉野に逃れて南朝を建てることになり、叔父の師基は後醍醐に従った。一方の良基は京にとどまり、建武4年(延元2、1337)に正二位に昇って北朝公卿としての道を着実に歩みだすことになる。
左近衛大将、内大臣を経て康永2年(興国4、1343)に右大臣となる。康永4=貞和元年(興国6、1345)に公卿の筆頭である「一上(いちのかみ)」の地位を慣例によって左大臣の洞院公賢がつとめていることに良基が異議を唱えて自らがその地位につこうとする意図を示した(「師守記」)。当時の北朝に会って公賢は有職故実に通じた博識者として知られていたが、若い良基は様々な場面でこの公賢にしばしば挑戦的態度をとって論争を挑み、公賢を辟易とさせている。良基としては自らが公家社会の頂点に立とうという強い野心があったものと見られる。
貞和2年(正平元、1346)2月に良基は光明天皇の関白・内覧に任じられ、藤原氏の指導者である「藤氏長者」ともなった。翌年には従一位・左大臣に昇り、貞和4年(正平3、1348)に崇光天皇が即位すると続けてその関白となった(太子時代の崇光の東宮傅にもなっている)。当時の北朝の「治天」である光厳上皇の院政を支える院評定のメンバーでもあり、良基はまさに北朝の中核となっていたのである。
―北朝の危機に奔走―
間もなく足利幕府の内戦「観応の擾乱」が勃発し、観応2年(正平6、1351)11月に足利尊氏が弟の直義と戦うために南朝に投降し、北朝は南朝によって吸収されることになった。これを「正平の一統」といい、南朝が建武政権崩壊以後の北朝による官位を全て否定したため良基は官位を従二位権大納言に戻され、関白職は叔父の二条師基に奪われる形となった。病に倒れるほど焦った良基は翌年(正平7=文和元、1352)2月に住吉まで進出した後村上天皇のもとに参内することも検討したが(実際北朝公家でこれを実行した者は少なくない)、結局それは果たせぬうちに、閏2月の南朝軍による京都占領および光厳・光明・崇光ら北朝皇族の拉致、足利軍による京都奪回と情勢はめまぐるしく動いた。
南朝軍を撃退した足利幕府にとり北朝の再建は急務だった。南朝もそれを阻止するために主だった北朝皇族を拉致したのだが、出家する予定で寺に入っていた光厳の第三皇子・弥仁王が南朝の手を免れていた。幕府はこの弥仁を天皇に立てることに決めたが、皇位のしるしである「三種の神器」は南朝に持ち去られており、神器なしでも天皇の践祚を命じられる「治天(皇室の当主である上皇)」である上皇は全て南朝に拉致されていた。やむなく幕府と良基ら北朝公家たちは光厳の生母である西園寺寧子(広義門院)を仮の「治天」に仕立てて弥仁の践祚を命じてもらい、継体天皇の先例に従い臣下らがこれを推戴するという「超法規的措置」をとった。6月に良基は寧子から関白に戻るよう命じられ、「正平の一統」時の南朝人事は全て白紙とされた。8月に弥仁が践祚し後光厳天皇となるが、この非常措置のお膳立ては良基や公賢らごく少数の北朝公家たちにより極秘裏に進められた。
翌文和2年(正平8、1353)6月、山名時氏が幕府に背いて南朝軍と連携して京都を攻略、足利義詮は後光厳を奉じて比叡山から美濃へと逃れ、6月9日に南朝軍二度目の京都占領が実現する。このとき良基は比叡山までは後光厳に同行したが西坂本で引き返して京に帰っている。ふたたび京を占領した南朝は「超法規的措置」で践祚した後光厳を「偽朝」として断固認めず、後光厳に同行した公家たちの邸宅を没収するなど苛烈な処分を行い、とくに良基を後光厳践祚の「主犯」とみなして厳しく断罪、良基の邸宅にあった二条家家伝の書類を没収して師基に与えてしまっている。
足利軍により京は一ヶ月ほどで奪回されたが、良基は嵯峨中院の別荘にひきこもり、「瘧(おこり。マラリアのこと)」にかかって寝込んでしまっていた。しかし「美濃の小島に滞在している後光厳のもとへ一番乗りした摂関家の者が関白に任じられるらしい」との噂が流れると、慌てて7月20日を過ぎたころに小島へと旅立った。同じ摂関家である近衛基嗣・近衛道嗣が小島へ馳せ参じたと聞いて焦ったものらしい(「園太暦」)。彼らの方が先に小島に到着したが関白には任じられていないので噂は噂に過ぎなかったようだが、7月27日に良基は無事に小島に到着して後光厳に面会している。良基は関白として後光厳一行の行幸の儀礼を取り仕切り、関東平定から帰って来た尊氏と後光厳の初対面に立ちあい、その演出にも関わっている。9月に後光厳の京都還幸が行われ、良基はその一足先に京にもどっている。なお良基はこの美濃行きと京への帰還の旅を紀行文『小島のすさみ』としてまとめている。
足利尊氏が死去した延文3年(正平13、1358)、奈良・興福寺における一乗院と大乗院の紛争を藤氏長者として調停しようとした良基だったが、かえって事態をこじらせて焼き打ち事件にまで発展してしまう。事態収拾のために良基は関白辞任を余儀なくされ、12月29日、貞和2年以来12年以上つとめた関白の地位を退いた。
しかし良基は関白復帰を執念深く狙っていた。貞治2年(正平18、1363)6月に良基は春日大社に願文を納めて自身の関白復帰を祈ったが、その中で政敵であり時の関白であった近衛道嗣を「凶臣」と呼ぶほどあからさまな憎悪を示している(この願文の草案が残る)。その甲斐があったのか、6月27日に道嗣が辞任し、良基が関白に復帰している。貞治6年(正平22、1367)に将軍義詮の要請もあって関白職を辞したが、その間に長男の二条師良が内大臣となったほか、三男の経嗣を強引な策略を用いて断絶した一条家の後継者に据えてしまうなど、権勢をふるっている。その一条経嗣は日記『荒暦』の中でこの時期の父・良基について「天下に独歩し、朝廷の政務をほとんど手中に収め、世間はそれにひれ伏すような勢いであった」とまで記している。
やがて幕府は幼い三代将軍・足利義満とそれを補佐する管領・細川頼之の時代を迎える。応安2年(正平24、1369)には長男の師良が関白に就任、2年後の応安4年(建徳2、1371)に20年近くという異例の長期在位をしていた後光厳が息子の緒仁親王(後円融天皇)に譲位した。
このとき興福寺の紛争が再燃して、興福寺僧兵らが春日大社の神木を京に持ち込む事態となった。春日大社は藤原氏の氏神であるため、その神木が運び込まれると摂関家はじめ藤原一族は出仕もできず朝廷の政務も滞ってしまうことになるのだが、これを息子の即位を邪魔するものだと怒った後光厳も容易には妥協せず、興福寺側も上皇側近の「放氏」(藤原一族からの追放処分)を次々と行ってエスカレート、良基も藤氏長者として交渉に当たったがなかなか経っても事態は打開できず、ついに応安6年(文中2、1373)8月に良基が興福寺から「放氏」処分を喰らってしまう。
これには良基の政敵であった近衛道嗣も驚き「大臣以上の放氏など聞いたことがない。まして摂関家の放氏など前代未聞だ」と日記に記している。良基自身も「摂関家の放氏など先例がない」と言って受け入れず、謹慎しようともしなかった(「保光卿記」)。しかし翌応安7年(文中3、1374)正月に後光厳上皇が疱瘡(天然痘)のために急死してしまい、事態の打開を急いだ北朝と幕府が興福寺の要求を全面的に受け入れて神木は奈良へと戻された。
―義満の「教師役」に―
自他共に認める公家社会の第一人者となっていた良基に幕府も信頼を寄せ、管領・細川頼之は「政治については何事も御相談の上で進めたい」と書いたものまで渡していたという。しかし即位したばかりの後円融天皇は良基がでしゃばることを嫌い、天皇親政を宣言した。永和2年(天授2、1376)に良基は鎌倉時代の先祖・九条道家以来となる「准三后」に叙せられている。
後円融に嫌われた良基だったが、相次ぐ混乱で儀式や行事もまともに行えないほど衰退しきっていた北朝朝廷の再建には意欲的だった。そのために良基は将軍・足利義満に接近し、彼を公家社会に引き込むという作戦に出た。永和4年(天授4、1378)に義満が右近衛大将に任じられ天皇への拝賀を行なうこととなり、その煩雑な作法の指導役が一度洞院公定に内定したが、なぜか突然良基に変更された。すでに59歳の良基は21歳の青年義満に右近衛大将の作法を指導し、ひいては彼を公家社会にひきこむ重要な役割を演じることになる。義満の教師役となった良基について三条公忠は「大樹を扶持する人(将軍に指導する人)」と日記『後愚昧記』に記している。
良基と義満の関係はいよいよ密なものとなり、康暦元年(天授5、1379)8月には義満が後円融に良基を三たび関白に任じるよう奏請している。後円融は「すでに准三后となった者が関白になった例はない」と拒絶し、代わりに良基の次男・二条師嗣を関白に任じた。これは実際には義満にあまりに接近する良基を後円融が警戒したのだとみられている。一方、長男の師良は永徳元年(弘和元、1381)に突然 出家して翌年に急死している。これに先立つ永和4年(天授4、1378)4月に師良は発狂する騒ぎを起こしているのだが、近衛道嗣の日記によると良基はまったく驚きもせず連歌会に興じていたという。
永徳元年(弘和元、1381)に義満の奏請によって良基は太政大臣に任じられた。翌年に後円融は子の幹仁親王(後小松天皇)に譲位して院政を開始、良基は後小松の摂政をつとめることになったが、後小松の即位の日程を全て良基と義満が仕切ってしまったため後円融が激怒してその奏上を一切無視するという挙に出た。永徳3年(弘和3、1383)に後円融は妃の三条厳子を峰打ちにして重傷を負わせたうえ、良基ら義満に媚びる公家たちを処分を主張して自害未遂するという騒ぎを起こしている。
嘉慶元年(元中4、1387)正月3日に後小松の元服の儀式が執り行われ、加冠役を良基が、理髪役を義満がつとめた。このとき68歳の良基は腰も曲がりようやく務めを果たしたというが、その5日後に太政大臣を辞任、2月には摂政からも退いた。あとは隠居生活かと思われたが、翌嘉慶2年(元中5、1388)に摂政の近衛兼嗣が急死したため4月8日に良基が再び摂政に任じられた。さすがに老齢で体調も崩していた良基は6月12日に摂政を辞していったん関白に任じられ、即日辞任して次男の師嗣に関白職を譲った。そして翌6月13日卯の刻に良基は享年六十九でこの世を去った。
良基はその強い権力志向と、ともすれば先例軽視と批判される強引な手法、義満への追従とさえ思える接近ぶりなどから、北朝の他の公家たちから(さらには南朝からも)は憎まれることが多かったようで、彼らの日記類にはずいぶん陰口をたたかれている。一方で義満を公家世界にとりこむことで退廃していた朝廷を復活させたとの評価もあり、北朝の中心人物として宮廷行事などの記録もまとめて有職故実の継承に力を注いでもいる。
また文化人としての活動も南北朝時代の公家の中ではずば抜けており、二条派歌人として多くの歌論書をものしたほか、当時最新の文化であった「連歌」にも深くかかわり、救済・佐々木道誉らと共に連歌集『莬玖波集』の編纂にあたり、これを勅撰和歌集に準じる扱いとすることに貢献している。またこれも道誉とつながることだが、それまで低く見られがちであった猿楽にも目をつけ、観阿弥の子・世阿弥の美少年ぶりを称えて「藤若」と名付け、「またぜひ会わせてもらいたい」と熱望する書状も残している。
参考文献
小川剛生『南北朝の宮廷史・二条良基の仮名日記』(臨川書店)
小川剛生『足利義満・公武に君臨した室町将軍』ほか
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歴史小説では | 足利義満を扱った作品であれば、その「師匠役」としてほぼ確実に登場している。 |
漫画作品では | 石ノ森章太郎『萬画・日本の歴史』の、世阿弥を主人公として能楽の大成を描く章で、美少年世阿弥にみとれてしまっている様子がチラッと描かれている。 |