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にかいどう〜にじょうよしもと

二階堂(にかいどう)氏
 藤原南家・乙麿流。始祖である行政は源頼朝と母方で血縁関係があったため頼朝の側近となり、その子孫は政治実務能力を得意とする官僚一族となって鎌倉幕府を支えた。鎌倉の永福寺(二階堂)のそばに居を構えたことがその名の由来である。一族の一部はその官僚的能力を買われて建武政権、室町幕府でも重用されている。

行政┬行光─行盛┬行泰┬行頼┬行継────行兼─行朝


├行実└行元




├行佐─行時────行憲
─行清



└行重─行元───時元
行春


├行綱┬頼綱─貞綱───
行朝行通


├盛綱時綱
└行親
─行光


└政雄┬貞雄





└行高顕行
行直─氏貞


└行忠─行宗行貞───貞衡行元





└高貞行元─忠広

└行村┬行義─行有─行藤貞藤(道蘊)─兼藤─長藤


└行方─行章─行員─行秀



二階堂顕行にかいどう・あきゆき生没年不詳
親族父:二階堂行貞 兄弟:二階堂高貞・二階堂貞衡
官職山城守・左衛門大夫
建武の新政
奥州将軍府評定衆・政所執事・引付頭人
生 涯
―奥州に赴任した官僚武士―

 二階堂行貞の子で、鎌倉幕府で実務を担当した二階堂氏の惣領家「山城流」の一人。兄弟の二階堂貞衡は鎌倉幕府末期に政所執事を務めていた。
 鎌倉幕府が滅んで建武政権が成立すると、奥州には義良親王を奉じた北畠顕家が派遣され、ミニ幕府とでもいうべき奥州将軍府が設置された。その評定衆のメンバーのうち鎌倉幕府の実務官僚出身である二階堂行朝(行珍)顕行が名を連ねている。顕行は引付三番頭人および政所執事も担当していた。地方政務においても彼らのような存在がなくては行政が不可能であったのだろう。
 その後、足利尊氏が建武政権に反旗を翻すと行朝はこれに加わったが、顕行についてははっきりしない。後年の陸奥・二階堂氏の系譜類では顕行について南朝方について延元4年(暦応2、1339)に戦死したとする記述があるというが、信用度が高いとは言い難い。

二階堂貞衡にかいどう・さだひら1291(正応4)-1332(正慶元/元弘2)
親族父:二階堂行貞 兄弟:二階堂高貞・二階堂顕行
妻:安達時顕の娘
子:二階堂行直・二階堂行元・二階堂高行
官職美作守・左衛門尉
位階
従五位下
幕府政所執事
生 涯
―鎌倉末期に急死した官僚武士―

 二階堂行貞の子で、鎌倉幕府で実務を担当した二階堂氏の惣領家。嘉暦元年(1326)3月に北条高時の出家にならって出家し、「行恵」と号した。嘉暦4=元徳元年(1329)3月に父・行貞が死去し、その跡を継ぐ形で5月19日に幕府の政所執事となり、幕府の実務の中心となった。
 後醍醐天皇による討幕活動がいったん鎮定された直後の元徳4=正慶元年(元弘2、1332)正月7日に42歳の若さで急死した(『尊卑分脈』では前年の正月7日とする)

二階堂道蘊にかいどう・どううん1267(文永4)-1334(建武元)
親族父:二階堂行藤 子:二階堂兼藤
官職左衛門尉・出羽守
幕府引付頭人・政所執事
建武新政雑訴決断所
生 涯
―鎌倉幕府末期の首脳―

 俗名は「貞藤(さだふじ)」。鎌倉幕府草創期から幕府の政務を担う実務官僚を代々務めた二階堂家に生まれる。早くから幕府の中枢を占め、とくに朝廷との折衝にあたる役割を担い、正安元年(1299)には比叡山と妙法院の紛争の解決のため上洛、徳治3年(1308)に花園天皇即位・尊治親王(後の後醍醐)立太子のため関東使として上洛、正和4年(1315)にも上洛して西園寺実兼公衡から馬を送られていることが分かる。
 それに先立つ徳治2年(1307)に父の菩提を弔うために当時名声を高めつつあった夢窓疎石を領地の甲斐国牧荘に招いて常牧山浄居寺を開山させており(疎石自身も甲斐出身)、以後も疎石と交流を深めている。元応2年(1320)には出家して「道蘊」と号した。

 正中の変(1324)の時に後醍醐天皇から幕府に送られた釈明書を「読まずに返すのが礼」と主張したとされる(『太平記』)。その後嘉暦4年(1329)にも皇位継承問題の交渉のため上洛をした。はじめのうち道蘊は幕府の意向を受けて大覚寺統よりの解決を目指したらしいが(調停案を聞いた持明院統の上皇らは強い不満を抱いた)、やがて幕府の意向を離れて独自に持明院統よりの調停を始めた。これは彼の留守中に幕府の人事、とくに彼が希望していた政所執事職が他人に奪われたことに対する腹いせだったらしい。このことは現存する金沢貞顕の書状に書かれているもので、大覚寺統よりだった貞顕は道蘊の勝手な行動を「言語道断」と激しく批判している。
 どうも貞顕にとって道蘊はかなり気に入らない男であったようで「自分で自分を賢人だと言っておきながら、他人が政所執事になるといちいち腹を立てる。言語道断のことだ。人々も陰口をたたいている」と書状に書いている。貞顕は道蘊の政敵の立場でもあったから多少割り引いて読む必要がありそうだが、朝廷にまで賢人として知られた道蘊はややおのれの賢才をひけらかすところがあったのかもしれない。

 元徳2年(1330)正月に引付頭人となる。翌元弘元年(1331)の後醍醐の二度目の討幕計画発覚の時にも穏便な対応を主張し、強硬な処置を主張する長崎高資と対立した(『太平記』)。後醍醐が笠置山に挙兵すると処理のために安達高景と共に上洛、光厳天皇の即位に立ち会った。この時も道蘊は後醍醐派に対する穏便な処置を考え、持明院統・大覚寺統の交互即位の原則の維持を前提に動いたとされる(『花園天皇日記』)。翌正慶元年(元弘2、1332)正月に幕府政所執事となった。

 後醍醐が隠岐に配流された後も護良親王楠木正成らの活発な討幕活動を展開し、正慶2年(元弘3、1333)に幕府は再び大軍を関東から畿内に派遣、道蘊も一軍を率いて吉野・千早城攻略にあたった。しかし千早攻略にあたっているうちに足利高氏の寝返りで5月8日に六波羅探題が陥落、幕府軍は崩壊し、道蘊ら首脳たちは大和・興福寺に入って一時抵抗を示したが、6月に入って降伏した。幕府首脳であった道蘊は後醍醐側からすれば「朝敵の最一」であったが、これまでの後醍醐派に対する穏健な態度、およびその学識と政務能力の高さを買われて赦免される。

―建武新政に参画するも―

 建武元年(1334)3月、前年般若寺で投降した阿曽時治ら元幕府軍首脳の処刑が実施されたが、その年8月に道蘊は雑訴決断所の第四番(北陸道担当)の職員として名が確認できる。道蘊の建武政権下の活動で史料上確認できるのはこれだけだが、鎌倉幕府で代々政務を担当した家柄として武士の土地問題の処理を期待され、これ以外にも役職を務めていた可能性はある。

 しかしこの年の12月に道蘊は突然「陰謀の企てあり」として一族もろとも逮捕され、12月30日に息子・兼藤および三人の孫たちと共に六条河原で処刑された。享年68。六波羅探題滅亡時に鎌倉方の武士たちが葬られた近江・蓮華寺に道蘊たちも合わせて葬られ、寺の過去帳にも享年と命日が記されている。
 一度は赦免され重用された道蘊がなぜ突然「陰謀の企て」を理由に処刑されてしまったのは謎だが、この直前に護良親王の失脚とその与党の誅滅があり、それと同時進行で紀伊で北条勢力による反乱が起こっていたことで焦った後醍醐派が粛清をはかったのではないかと考えられる。


参考文献
岡見正雄校注「太平記」(角川文庫)補注
永井晋「金沢貞顕」(人物叢書)ほか
大河ドラマ「太平記」鎌倉幕府首脳の一人として前半しばしば登場した(演:北九州男)。史実では出家していても俗体のまま登場する人物が多かったドラマの中でほぼ唯一史実通りの僧体で登場し、かなり目立った。第5回での後醍醐が送った釈明書を「開かず返上せよ」と忠告する場面は「太平記」のそのまま。第17回で畿内への出陣を申し出る場面もあったが、なぜか鎌倉陥落寸前までずっと高時のそばに顔を見せていた(幕府首脳陣の出演シーンをまとめ撮りしたためと思われる)。それっきりかと思ったら建武政権期の第27回に再登場し、政務能力を買われて赦免されたことが明示された。脇屋義助から「北条の残党」と言われて「その残党に頼らねば法も作れず政もすすまぬ」と言い返す場面が印象に残る。処刑についてはドラマ中では描かれなかった。
その他の映像・舞台1960年の舞台「妖霊星」で市川左団次(三代目)が演じている。
メガドライブ版千早城攻防戦のシナリオで幕府軍の武将として登場。体力80・武力88・智力105・人徳78・攻撃力57。  

二階堂時綱にかいどう・ときつな1280(弘安3)-?
親族父:二階堂盛綱
子:佐々木道誉室
官職三河守・左衛門尉
位階
従五位下
幕府評定衆・政所執事(鎌倉幕府)、引付方・内談方(室町幕府)
建武の新政
鎌倉将軍府政所執事
生 涯
―二つの幕府で働いた道誉の舅―

 二階堂盛綱の子。二階堂一族はそろって鎌倉幕府の政務、朝廷との交渉を担当しており、時綱も徳治3年(1308)に京都にあり、奈良・興福寺の僧徒が春日大社の神木を押し立てて強訴に及んだ事件の解決にあたっている。応長元年(1311)に得宗・北条貞時の死去にともない出家して「行諲」と号した。文保2年(1318)には洞院実泰の一品位記の日付変更の交渉のために上京している。
 鎌倉幕府滅亡の年の正慶2年(元弘3、1333)には引付頭人・政所執事・御所奉行をつとめた。幕府が滅んで建武政権が成立、関東支配のために成良親王を奉じる足利直義の指揮のもと鎌倉将軍府が設置されると、その政所執事も担当している。

 足利幕府においてもその政務能力は重宝された。康永3年(興国5、1344)に引付方となり、貞和2年(正平元、1346)と貞和4年(正平3.、1348)に政所執事、その翌年には内談方となった。
 足利幕府の内戦「観応の擾乱」では、鎌倉以来のつながりがあったためか一貫して直義派に属し、観応2年(正平6、1351)8月に直義が京を脱出して北陸に下った際にも同行しており、その後の消息は不明となっている。なお、娘が婆沙羅大名として有名な佐々木道誉の正室となっているが、道誉は擾乱では尊氏側に属して舅とは敵同士の関係になっている。

参考文献
森茂暁『佐々木導誉』(吉川弘文館・人物叢書)ほか

二階堂時元にかいどう・ときもと?-1339(暦応元/延元3)
親族父:二階堂行元 子:二階堂行春・二階堂政元
官職下野守
幕府内談衆(室町幕府)
生 涯
―鎌倉幕府から室町幕府へ―

 二階堂行元の子。出家して法名を「行応」という。二階堂一族の一員として鎌倉幕府の政務官僚をつとめていた。『太平記』では元徳3年(元弘元、1331)の後醍醐天皇による討幕計画の発覚いわゆる「元弘の変」の際に幕府の使者として「二階堂下野判官」すなわち時元が長井遠江守と共に上洛したと書かれているが、史実ではこの時の幕府の使者は別の二人と確認されており、時元が実際に上洛したかは不明である。
 その後、正慶元年(元弘3、1335)9月に畿内の討幕派鎮圧のために派遣された幕府軍に参加(同族の二階堂道蘊もいた)。恐らく吉野や千早城の攻撃に参加し、そのまま幕府の滅亡を迎えて後醍醐側に投降したと思われる。他の二階堂一族と同様にその政務能力を買われていたはずである。
 足利幕府が発足するとこれに参画し、建武4年(延元2、1337)に幕府の内談衆メンバーにその名がみえる。翌暦応元年(延元3)12月6日(西暦では1339になる)に死去した(「常楽記」)

二階堂行貞にかいどう・ゆきさだ1269(文永6)-1329(元徳元)
親族父:二階堂行宗
子:二階堂貞衡
官職山城守・信濃守・左衛門尉
幕府政所執事
生 涯
―『吾妻鏡』編纂者?とも言われる官僚武士―

 二階堂行宗の子で、鎌倉幕府で実務を担当した二階堂氏の惣領家。父・行宗が弘安9年(1286)に死去、祖父・行忠が正応3年(1290)に相次いで死去し、行貞が正応3年から22歳の若さで幕府の政所執事を務めることとなった。永仁元年(1293)に「平禅門の乱」が起こると連動して行貞は政所執事をやめさせられるが、乾元元年(1302)に再び政所執事を任されている。この間の正応3年(1301)に出家し「行暁」と号している。
 1300年前後の編纂と推定される鎌倉幕府の正史『吾妻鑑』に、行貞の祖父・行忠の誕生に関する記述が不自然に書き加えられていることから、その時期に幕府の中枢にあった行貞が編纂に関与しているのではないかとする説がある。
 嘉暦4=元徳元年(1329)2月2日に61歳で死去。

二階堂行朝にかいどう・ゆきとも?-1353(文和2/正平8)
親族父:二階堂貞綱
官職左衛門尉・信濃守
位階
従五位下

幕府安堵方頭人、引付方頭人、政所執事
建武の新政
奥州将軍府評定衆

生 涯
―二つの幕府と建武新政で活躍した官僚武士―

 二階堂貞綱の子。二階堂一族の一員として鎌倉幕府でも政務の要職を担当した。嘉暦元年(1326)に出家して「行珍」と号した(北条高時の出家にならったか)。正慶元年(元弘2、1332)正月、前年に起こった後醍醐天皇一派の討幕挙兵の事後処理のために幕府から工藤高景と共に京に派遣されたと『太平記』に記されているが、同時期の日記史料では別人の名が挙がっているほか、『太平記』でも古態の西源院本でも別人の名が書かれているため、実際に行朝(行珍)が京に赴いたのかははっきりしない。ただ後述するように、元弘年号の時期から朝廷との交渉にあたっていて公家とはよく顔を合わせていたようである。

 鎌倉幕府が滅んで建武政権が成立すると、行朝は陸奥・多賀城に設置された奥州将軍府の評定衆に名を連ねている。東北支配のために義良親王を奉じた北畠顕家が国司として指導した奥州将軍府だが、その首脳である評定衆は結城・伊達といった奥州豪族と、行朝や二階堂顕行といった鎌倉幕府の実務官僚で構成されていた。二階堂一族はこのように政権を越えて重宝される存在だったのである。

 建武2年(1335)に建武政権に足利尊氏が反旗を翻して武家政権再建を始めると、行朝は尊氏に従ってその政所執事に任じられた。翌建武3年(延元元、1336)の京都攻防戦では戦功を挙げて尊氏の感状を受けており、12月には発足間もない幕府に新設された「安堵方」の頭人に任じられる。暦応元年(延元3、1338)8月に引付方頭人、さらに同年10月からは政所執事を兼任、康永元年(興国5、1344)からは引付方一番の寄人に任じられるなど、幕府政務の中枢を担った。
 足利幕府の内戦「観応の擾乱」では、実務官僚の立場から初め足利直義派に属した。しかし「正平の一統」成立のころから足利尊氏方に転じてしばしば尊氏と行動を共にするようになり、擾乱が終わった文和元年(正平7、1352)に再び政所執事に任じられた。

 しかし翌文和2年(正平8、1353)9月、尊氏の供をして上洛する際に落馬、初めは大事に至らぬと思われたが9月25日に容体が急変して死去した(「園太暦」)洞院公賢は日記『園太暦』「近頃の武士の中ではよく物をわきまえており、元弘のころから公家とも古なじみであった。変死してしまうとは残念なことだ」とその死を悼んでいる。

二階堂行直
にかいどう・ゆきなお?-1348(貞和4/正平3)
親族父:二階堂貞衡 母:安達時顕の娘
子:二階堂氏貞
官職山城守・左衛門尉
幕府政所執事
生 涯
―貞和期の政所執事―

 鎌倉幕府末期に政所執事をつとめた二階堂貞衡の子で、くの実務官僚を出した二階堂一族の惣領家「山城流」を継ぐ。初め得宗・北条高時の一字を受けて「高衡」と名乗っていたが、鎌倉幕府滅亡後に「行直」に改名した。
 暦応3年(興国元、1340)に足利幕府の政所執事となり、貞和2年(興国7、1346)まで務めた。貞和4年(正平3、1348)6月5日に死去した。

二階堂行春にかいどう・ゆきはる生没年不詳
親族父:二階堂行春
官職下野守・駿河守?
幕府鎌倉府政所執事?
生 涯
―「院か犬か」事件に居合わせる―

 鎌倉幕府および足利幕府で要職をつとめた二階堂時元の子。初めは北条孝時の一字を受けて「高元」と名乗ったが、鎌倉幕府滅亡後に改名したとみられる。
 康永元年(興国3、1342)9月6日、行春が土岐頼遠と共に比叡山の新日吉神社に笠懸に出かけ、酒宴を楽しんで夜に京へ帰ったところ、ちょうど仏事を終えて帰る途中の光厳上皇の一行と鉢合わせした。行春は相手が上皇だと悟ってすぐに下馬したが、頼遠は酔いに任せて「院というのか、犬というのか、犬ならば射てやろう」と言って光厳の輿に矢を射かけ、光厳を路上に放り出させてしまった。
 この事件に幕政をつかさどる足利直義は激怒し、危険を感じた行春と頼遠はそれぞれ京から逃亡したが、行春は自身は狼藉行為に加わっていなかったので、すぐに上京して自首して出た。幕府は行春を讃岐国への流刑としたが、頼遠の方は助命運動をしたものの結局斬首に処されている。

 以上は『太平記』に詳しく書かれる有名な逸話だが、その後の行春については明確ではない。ただ後に貞治元年(正平17、1362)から翌年にかけて鎌倉府の政所執事をつとめた二階堂駿河入道行春(法名・忻恵)がおり、同時期に編纂された『一万首和歌作者』の中にも同じ名が見える。『太平記』では行春について「下野判官」としており、これは父・時元も同様なのだが、あるいは流刑後に復帰して駿河守に任じられたのかもしれない。

二階堂行通
にかいどう・ゆきみち?-1351(観応2/正平6)
親族父:二階堂行朝
兄弟:二階堂行親・二階堂行良
官職美濃守・左衛門尉
幕府政所執事代
生 涯
―席次争いで面目を失う―

 足利幕府で政所執事をつとめた二階堂行朝(行珍)の子。通り名を「四郎左衛門尉」という。
 貞和3年(正平2、1347)正月12日に、足利直義邸で行われた「弓場始」において、行通中条秀長と席次を巡って口論となり、面目を失ったとしていきなり出家し、「行宏」と号した(「師守記」)。貞和5年(正平4、1349)8月13日に高師直一派が師直邸に集結、敵対する直義一派が直義邸に集った際、行通は直義邸に馳せ参じている(なお因縁のある中条秀長は師直派に走った)。父・行朝も当初は直義派に属していたので行動を共にしたものと思われる。
 直義派が師直派を破って一時的に勝利をおさめた観応2年(正平6、1351)に政所執事代をつとめたが、同年7月10日に父に先立って急逝した。

二階堂行元にかいどう・ゆきもと?-1393(明徳4)
親族父:二階堂貞衡 養父:二階堂高貞 子:二階堂忠広
官職左衛門尉、検非違使、中務少輔
幕府政所執事
生 涯
―室町幕府初期の官僚武将―

 鎌倉幕府以来、政治実務を担当する二階堂家のうち惣領家にあたる「山城流」の系統で、「山城三郎」の通名がある。出家して「行照」と号した。二階堂一族は家業の実務能力を買われ、鎌倉幕府から建武政権、そして室町幕府まで多くの者が幕府中枢で働いており、行元もその一人である。
 貞治5年(正平4、1349)8月に足利幕府内の足利直義派・高師直派間の対立が頂点に達し、師直派がクーデターを起こした際、師直邸に集結した武将たちの中に「二階堂山城三郎行元」の名がある(「太平記」)。このとき同族の二階堂行通は直義邸に馳せ参じており、二階堂一族の中でも両派に分かれていたようである。
 延文2年(正平12、1357)ごろから康暦元年(天授5、1379)までの長期にわたり室町幕府の政所執事を務めて初期の幕府政治を支えた。
大河ドラマ「太平記」ドラマ中には登場しないが、第44回「下剋上」の中で直義方から寝返って師直邸に馳せ参じた武将の一人として名前が言及されている。

和田(にぎた)氏
 和泉国大鳥郡和田荘に拠点をおく豪族。「にぎた」という読みで紹介されることが多いが、南北朝時代には「みぎた」と呼ばれていたことが書状で確認できる。また楠木一族としばしば行動を共にし親族と推定される「和田」を名字とする人物も「にぎた」と紹介されることがあるが、これは「にぎた/みぎた」とは無関係の「わだ」氏と考えられる。
 それぞれの人物については、「和田(みぎた)」「和田(わだ)」で検索されたい。

錦織判官代
にしごり・ほうがんだい?-1331(元徳3/元弘元)
生 涯
―討幕計画に参加、笠置で戦死―

 錦織(にしごり)氏は近江国滋賀郡錦織郷(現・大津市)に拠点をおき、源義光を祖とする清和源氏と考えられている(これとは別に河内国錦織とする説もある)承久の乱の際にも「錦織判官代義嗣」(版本により名は異なる)なる人物が後鳥羽上皇側で参戦して戦死している(「承久記」)後醍醐天皇に味方した武士には承久の乱での失地を回復しようと狙う者が少なくないとされ(名和氏など)、この時期の「錦織判官代」もその一人だったのだろう。名を「俊政」とする史料があるが、あまり当てにならない。
 『太平記』では日野資朝日野俊基ら後醍醐側近たちが討幕計画を進めるなかで早期に味方に引き込んだ武士の一人として登場する。物語上では正中の変以前の段階で参加したことになっているが、それはやや疑わしい。
 元弘元年(元徳3、1331)8月に後醍醐天皇が笠置山にたてこもって挙兵すると、その味方に馳せ参じた。しかし幕府軍の攻撃の前に9月29日に笠置は落城、このとき錦織判官代は逃げる味方に「卑怯なふるまいではないか。帝に頼みとされて幕府を敵としている者が、敵が大勢だからと戦いもせずに逃げるとは。いま命を惜しまずにどうするのか!」と叫び、肌脱ぎになって敵に切り込み続けて矢もつき刀折れたところで息子や郎従十三人と共に切腹して果てたとされる(「太平記」)

西台にしのだい
NHK大河ドラマ「太平記」における塩冶高貞の妻の役名(演:相川恵理)。→塩冶高貞の妻(えんや・たかさだのつま)を見よ。

二条(にじょう)家(御子左系)
 藤原北家。藤原道長の六男・長家を祖とする系統を「御子左家」といい、鎌倉初期に活躍した藤原定家を出したことで和歌を家業とする家となり、定家の孫の代で二条家・冷泉家・京極家に分裂した。二条家は「二条派」、京極家は「京極派」と和歌の流派をつくって激しく対立、とくに二条家は大覚寺統と結びついて、持明院統についた京極派と和歌集編纂をめぐり対抗した。それでも南北朝対立では一部が南朝に走ったものの北朝にとどまって二条派の隆盛を実現したが、一族内部の争いや不祥事もあり、室町初期には断絶してしまった。

藤原定家─為家┬二条為氏為世┬為道為定為遠



└藤子懐良親王



├為藤為明




為忠



為冬為重為右



為子───尊良親王


├京極為教為兼

宗良親王


└冷泉為相─為秀→冷泉


二条為明
にじょう・ためあき(ためあきら)1295(永仁3)-1364(貞治3/正平19)
親族父:二条為藤 母;吉田経長の娘
兄弟:二条為忠・二条為清
官職左近衛少将・左近衛中将・右兵衛督・参議(南朝も)・権中納言・民武卿・侍従
位階正四位→従三位→正三位
生 涯
―和歌で拷問をまぬがれる―

 藤原定家の子孫で歌を家業とする「御子左家」の系統で、「二条」とも称している。中納言・二条為藤の子で、生まれた翌年の永仁4年(1296)に叙爵。元応3=元亨元年(1321)に正四位左近衛少将になっているが、翌年に辞任。正中3年(1326)に左近衛中将になり、これも翌年辞任。元徳2年(1330)に右兵衛督となっている。
 二条派の優れた歌人として知られ、『太平記』巻二では元弘元年(元徳3、1331)に後醍醐天皇の討幕計画に関与した容疑で六波羅探題に捕えられ、拷問されそうになった為明が筆を求めて「思ひきや 我が敷島の 道ならで 浮世のことを 問はるべしとは」(我が家業の和歌の道についてではなく俗世間のことを問われることになろうとは思いもよらなかった)と歌をしたため、訊問に当たっていた六波羅探題の常葉範貞を感嘆させ釈放に至ったとの逸話が載る。実際にはこのとき常葉範貞は六波羅探題を辞して鎌倉におり、そのまま事実とは考えにくいが、この「思ひきや…」の歌の逸話は有名のようで二条良基の歌論書など複数の書籍で言及されている。

 『太平記』では単なる歌詠みで後醍醐の計画にあまり関与していないような書かれぶりだが、この年の8月に後醍醐が笠置を脱出した際には、後醍醐になりますまして比叡山に上った花山院師賢に同行したのち笠置に合流しているので、後醍醐の腹心の一人であったと見てよいだろう。笠置陥落時に捕えられ、翌元弘2年(正慶元、1332)3月に従兄弟にあたる尊良親王と共に土佐へ流刑となった。
 その後の動向はほとんど不明となるが、尊良親王と共に一時九州に脱出し、建武政権成立で京に戻ったと思われる。しかし建武政権で為明の活動はほとんど確認できない。後醍醐腹心と見なされてはいたようだが建武政権崩壊後に南朝に走ることはせず、貞和3年(正平2、1347)に北朝から従三位に叙されている。

―ちゃっかり南朝にも出仕―

 正平6年(観応2、1351)11月、足利尊氏が南朝に「投降」し、南朝が北朝を接収する「正平の一統」が成った。北朝に仕えていた公家たちは慌てて賀名生の南朝に馳せ参じて地位の安泰を図ったが、このとき為明も素早く賀名生に駆けつけている。洞院公賢の日記『園太暦』によればこの年12月14日に為明が公賢のもとを訪れて穏やかに歓談し、11月初めに賀名生に参内して4日に京に帰ったこと、実は去る4月にも賀名生に行ってひそかに参議に任られていたが、これまで公表していなかったことなどを語ったという。正平の一統が成った11月どころかその半年以上前の4月の時点でひそかに南朝に参じていたというのは注目されるところで、もともと後醍醐側近であったため以前から南朝と連絡がとれていたのだと思われる。状況がどっちに転んでもいいように「二股」をかけていたようでもあり、歌道に専念するばかりでなく意外に世渡りの上手い人物であったかもしれない。
 正平の一統は翌年には崩壊、一部の公家が南朝にとどまるなかで為明は北朝に残り、こちらでも参議に任じられた。単に京から動きたくなかったのかもしれないが、南朝の先行きを見通してしまっていたのかもしれない。

 延文4年(正平14、1359)に権中納言、翌年には正三位まで昇った。そして北朝歌壇の中心人物として活躍し、特に同じ御子左系・二条派の嫡流である従兄弟の二条為定をもしのぐ勢いで、その態度に怒った為定から義絶されたほか、懐にいつも古今和歌集をしまいこんであちこちでその解説を行い、「この説は私こそが継承している」と発言して自分こそが二条派本流と吹聴して回った。あまりの態度に周囲から注意もされたようだが聞く耳をもたなかったという(今川了俊「二言抄」)
 そんな態度でも二代将軍・足利義詮からは気に入られ、後光厳天皇の命で勅撰和歌集『新拾遺和歌集』の選者となったが、完成を見ぬまま貞治3年(正平19、1364)10月27日に70歳で世を去った。『新拾遺和歌集』編纂は頓阿が引き継いで完成させている。

二条為子
にじょう・ためこ(いし)?-1314(正和3)
親族父:二条為世
兄弟姉妹:二条為藤・二条為道・二条為冬・二条為宗・二条為躬・昭訓門院春日局(西園寺実衡室)・室町院大納言局・藤原兼信室ほか
夫:後二条天皇・後醍醐天皇
子:尊良親王・宗良親王・瓊子内親王
位階贈従三位
生 涯
―後醍醐に仕えた女流歌人―

 二条派和歌の中心となって活躍した二条為世の娘であり、後醍醐天皇最初の寵妃となった女性でもあって、優れた二条派歌人としても知られる。「藤原為子」とも書かれるが、少し前の時期にやはり女流歌人として活躍した京極家出身の「藤原為子」もいるため紛らわしい。勅撰和歌集では「遊義門院権大納言」「後二条権大納言典侍」「贈従三位藤原為子」といった表現がされている。

 最初は後醍醐天皇の父・後宇多天皇の妃・姈子内親王(遊義門院)に仕えて「権大納言」(父親が権大納言)と呼ばれた。その後、後二条天皇(後醍醐の兄)の後宮に典侍として入り「権大納言典侍」と呼ばれたが、後二条の死去(延慶元=1308)以前にその弟の尊治親王(のちの後醍醐)と関係ができており、後醍醐の長男となる尊良親王を後二条死去以前の段階で産んだとみられ、さらに瓊子内親王宗良親王(応長元年=1311生)を産んでいる。
 『為理集』にある和歌から、為子が正和3年(1314)8月12日に死去したことが分かっている。その後、後醍醐は文保2年(1318)に天皇に即位するが、この時に為子に従三位の贈位を行って報いている。

 『増鏡』に「やさしき歌多く」と評されたように、父の薫陶を受けた優れた歌人で、後二条時代の歌合に姿を見せているほか、『新後撰和歌集』『玉葉和歌集』『新千載和歌集』などの勅撰和歌集に合計70首が採られている。彼女の子である宗良親王も南北朝時代を代表する歌人となり、南朝で『新葉和歌集』を編纂、その中で亡き母「贈従三位為子」をしのんで「散りはてし 柞の杜(ははそもり)の 名残とも しらるばかりの ことの葉もはな」(こうして歌を詠んでいるのも今は亡き母の名残と思い知らされる)と詠んだ歌を収録しており、宗良自身も自分の和歌の血は母親譲りと思っていたようである。

参考文献
森茂暁「皇子たちの南北朝」(中公文庫)ほか

二条為定
にじょう・ためさだ1293(永仁元)?-1360(延文5/正平15)
親族父:二条為道 母:飛鳥井雅有の娘
兄弟姉妹:二条為親・権大納言三位局(藤子。懐良親王の母)
妻:土御門禅尼
子:二条為貫・二条定世・二条為遠・二条為有・覚家・昭海・良寿
官職蔵人頭・参議・民武卿・権大納言
位階従三位→正三位→従二位→正二位
生 涯
―二条派中心として北朝で活躍―

 和歌「二条派」の中心であった御子左系二条家の嫡流で、名高い二条為世の嫡男・二条為道の次男として生まれた。初めは「為孝」と名乗ったという。正安元年(1299)に父・為定が29歳の若さで死去したため、叔父の二条為藤に養育された。
 蔵人頭を経て元亨3年(1323)に参議に任じられる。翌元亨4=正中元年(1324)に養父の為藤が死去すると、為藤が手掛けていた『続後拾遺和歌集』の選定事業を引き継ぐことになったが、祖父の為世が横やりを入れて自身の末子・二条為冬(為定から見ると自分より年下の叔父になる)を撰者に立てようとした。怒った為定は出奔し、山伏姿になって修行の旅に出る姿勢まで示したが、さすがに人々が同情の声を上げたために為世も彼を呼び戻し、元の通りに撰者を務めさせることになった(「増鏡」)。嘉暦元年(1326)に『続後拾遺集』は完成し、翌嘉暦2年(1327)に権大納言に昇進した。
 しかし後醍醐天皇に近かったことが災いし、元弘元年(元徳3、1331)に後醍醐が倒幕の挙兵をして敗れると、直接的な連座はしなかったものの朝廷への出仕は停止され、祖父為世のもとで謹慎処分を受けている(「増鏡」)

 その後の後醍醐による倒幕成功、建武政権の誕生となるが、二条家としては後醍醐と一定の距離を置いたらしく建武政権で特に華やいだ様子はない。後醍醐が吉野に南朝を立ててもそれに合流することはなかった。ただ従兄弟にあたる宗良親王とは和歌を通じてもともと交流があり、お互い北朝・南朝に立場を分かっても文通を続けたことが分かっている。建武5年(延元3、1338)ごろに為定から吉野の宗良にあてて「かへるさを はやいそがなむ 名にしおふ 山の桜は 心とむとも」(お帰りになるなら、急ぎなさい。有名な吉野山の桜は名残惜しいでしょうが)と帰京をうながす和歌が送られているが、宗良は断った(「新葉和歌集」)。その後、北朝で『風雅和歌集』が編纂されることになったが為定が撰者に選ばれず、信濃でそれを知った宗良がそのことに憤激する歌を作って為定に送ったこともあり、文通は長い間続いたようである。

 彼以前の二条派は主に大覚寺統=南朝との結びつきが強い傾向にあったが、為定の時期に持明院統=北朝と結びつくことに成功した。貞和2年(正平元、1346)に権大納言となり翌年辞職。文和4年(正平10、1355)に出家して「釈空」と号した。
 延文元年(正平11、1356)に足利尊氏の奏請、後光厳天皇の勅命により『新千載和歌集』の編纂が開始されると為定が撰者に選ばれ、3年後延文4年(正平14、1359)12月25日に完成、天皇に返納された。二条派の嫡流として活躍した為定だったが、晩年には従兄弟の二条為明(為藤の子)の台頭が著しく、為定をしのいで自ら二条派の嫡流を誇り始めたため為定は怒って為明を義絶している。
 延文5年(正平15、1360)3月14日に死去(「愚管記」。「尊卑分脈」は2月2日とする)。長年の友であった宗良はその死を知って哀悼の歌を贈ったという。
歴史小説では吉川英治『私本太平記』では、若き日の足利高氏が京滞在時に和歌について為定に師事した設定になっており、史実よりかなり老齢の人物として登場している。高氏の和歌が採用された『新後拾遺和歌集』が為定の撰になるためずっと高齢の人物と誤解したか(若い高氏との対比でわかってて老人に描いた可能性もある)

二条為重
にじょう・ためしげ1325(正中2)-1385(至徳2/元中2)
親族父:二条為冬
兄弟:二条為胤
子:二条為右
官職参議・権中納言
位階従三位→正三位→従二位
生 涯
―夜盗に殺された悲劇の歌人―

 和歌を家業とし、「二条派」の中心となった御子左系二条家。父は二条為冬で、建武2年(1335)12月の箱根・竹之下の戦いで戦死している。
 父が後醍醐天皇に従って戦死したためか、北朝朝廷では不遇をかこち、ようやく応安4年(建徳2、1371)に47歳という年齢でようやく従三位になって公卿に列した。永和2年(天授2、1376)に正三位、永和4年(天授4、1378)に参議、永徳元年(弘和元、1381)に権大納言、翌永徳2年(弘和2、1382)に従二位へと昇進している。
 御子左系二条家の一員として和歌の道で活躍し、従兄弟で二条家嫡流の二条為定の右筆をつとめ、為定の死後はその子・二条為遠を補佐した。永徳元年(弘和元、1381)に『新後拾遺和歌集』の撰者になっていた為遠が死ぬとその事業を引き継ぎ、完成させている。二条良基の推挙により三代将軍・足利義満の歌道師範もつとめている。
 しかし至徳2年(元中2、1385)2月15日、夜盗と思われる者に襲われて殺されてしまった。享年六十一。彼の死後、御子左系二条家は一気に力を失ってゆく。

二条為忠
にじょう・ためただ1309(延慶2)-1374(応安6/文中2)
親族父:二条為藤
兄弟:二条為明・二条為清
官職左近衛少将・左近衛中将・参議(南朝)・中納言(南朝)・参議・権中納言
位階従三位→正三位→従二位
生 涯
―一時南朝に走った歌人公家―

 和歌を家業とする御子左系二条家。父は二条為藤
 応長2年(1312)に叙爵され、元応2年(1320)に左近衛少将、嘉暦3年(1328)に左近衛中将に進み、観応元年(正平5、1350)に従三位に上った。その翌年の観応2年(正平6、1351)に南朝が北朝を接収する「正平の一統」が成ると、兄の二条為明と共に素早く賀名生の南朝に参内し、「正平の一統」が破綻して南朝が敗走したのちもしばらく南朝に仕え続けて参議・中納言に任じられた。このため南朝での准勅撰和歌集『新葉和歌集』にも為忠の歌が40首も収録されている。中でも「君すめば 嶺にも尾にも 家居(ゐ)して み山ながらの 都なりけり」(帝がお住まいなので山々の上に家が並び、山奥でありながら都のような眺めだ)という歌は、南朝の後村上天皇が天野行宮(河内の金剛寺)にいた時期に詠んだもので、負け惜しみの気配もあるが南朝拠点の情景を詠んだものとして貴重である。
 その後、遅くとも延文5年(正平15、1360)までには京に帰って北朝に帰参し正三位に昇進している。同時期に足利義詮による南朝への大攻勢がかけられて南朝が天野から観心寺へ移っており、劣勢の南朝をついに見限ったのだろう。
 貞治元年(正平17、1362)に北朝でも参議となり、2年後に辞任。貞治6年(正平22、1367)に従二位・権中納言に上ったが翌応安元年(正平23、1368)に辞任している。
 応安6年(文中2、1373)12月18日(西暦では1374に入る)に死去。

二条為遠
にじょう・ためとお1342(康永元/興国3)-1381(永徳元/弘和元)
親族父:二条為定 養父:洞院公賢
兄弟:二条為貫・二条定世
子:二条為衡
官職参議・権中納言・権大納言
位階従三位→正三位→従二位
生 涯
―和歌集編纂もつらいよ?―

 「二条派」の中心となった御子左系二条家の嫡流で、父は二条為定。北朝における重鎮・洞院実夏の猶子ともなっている。父・為定のあとを受けて二条派の嫡流として育ち、延文4年(正平14、1359)には為定が撰者となった『新千載和歌集』の「奏覧」を父に代わって行っている。しかしこのころ二条家内では二条為明(為定に従兄弟)が嫡流を凌ぐ台頭を見せており、為遠はやや押され気味になっていたようである。
 貞治3年(正平19、1364)に参議、貞治5年(正平21、1366)に従三位に叙せられる。応安2年(正平24、1369)に権中納言、応安4年(建徳2、1371)に正三位、応安6年(文中2、1373)に従二位に昇進。二条派嫡流として活躍はしていたが、為遠を補佐していた二条為重二条良基に引き立てられて将軍・足利義満に接近、嫡流をしのぐ勢いを見せてもいて、為遠としては不安も感じていたようである。
 永和元年(天授元、1375)に足利義満の奏上で『新後拾遺和歌集』の編纂が決まり、為遠はその撰者に選ばれた。しかし作業は遅れに遅れたため怒った義満が為遠を二度も謹慎処分にしている。三条公忠の日記『後愚昧記』によると為遠は酒におぼれて怠惰な日々を送っていたといい、二条派嫡流としての重圧でノイローゼになっていたようにも見える。
 永和4年(天授4、1378)に権大納言に任じられたが、『新後拾遺集』の完成をみぬまま永徳元年(弘和元、1381)8月27日に41歳の若さで死去。『新後拾遺集』は為重が引き継いで完成させた。これ以後、和歌の家としての二条家の凋落が始まってゆく。

二条為右
にじょう・ためみぎ(ためすけ?)?-1400(応永7)
親族父:二条為重
官職右近衛少将
生 涯
―密通&殺人未遂で処刑された歌人公家―

 和歌を家業とする御子左系二条家。父の二条為重は二条家の本流を継ぎ、足利義満の歌道師範もつとめていたが、1385(至徳2/元中2)2月に夜盗に殺されてしまった。為右は父を継いで二条家嫡流として歌道にいそしみ、応永元年(1394)の内裏歌会では指導役を務めている。当時の最高権力者である足利義満にも歌の指導を行っていた。

 ところが応永7年(1400)に為右はとんでもない事件を起こす。『吉田家日次記』という日記史料によれば、為右は義満に仕える「テル」と呼ばれる「宋女」(中国人であったと推測される)と密通し、妊娠させてしまった。このままでは義満の怒りを買うと恐れた為右は、臨月になったテルを「近江の小野荘(為右の領地があった)に産所を用意した」とだまして連れ出し、自ら変装して同行、琵琶湖の瀬田の橋に来たところで彼女を湖に突き落として殺そうとした。ところがテルは湖に浮いているうちに通りかかった船に救助されて命を拾い、事件は露見した。
 11月20日に義満は侍所に命じて為右を逮捕させ、侍所所司内の浦上美濃入道の北山の宿舎に拘禁させた。為右の処分はいったん佐渡への流刑と決まったが、連行する佐渡守護・上野民部大輔入道が義満の命を受け、京を出て間もない西坂本付近で為右を斬ってしまった(吉田家日次記・応永7年11月29日条)。悪事をなしたとはいえ当時の歌道師範である二条家当主を怒りに任せて処刑したことは公家界を戦慄させたようで(この日記の作者も「死罪にまですることか}と書いている)、同時期の他の記録ではこの事件に触れたものは見当たらない。
 為右の死により、伝統ある「二条派」歌道の中心であった二条家は断絶に追い込まれてしまった。なおこの為右の祖父・為冬は戦死、父・為重は先述のように夜盗に殺されており、三代続けて非業の最期を遂げている。

参考文献
小川剛生『足利義満・公武に君臨した室町将軍』(中公新書)ほか

二条為冬
にじょう・ためふゆ1303(嘉元元)?-1335(建武2)
親族父:二条為世 
兄弟姉妹:二条為藤・二条為道・二条為宗・二条為躬・二条為子・昭訓門院春日局(西園寺実衡室)・室町院大納言局・藤原兼信室ほか
子:二条為重・二条為胤
官職左近衛中将
位階正四位下→贈従三位
生 涯
―竹之下の戦いで戦死した歌人公家―

 和歌の「二条派」の中心人物であった二条為世の五男(末子)で、幼名を「幸鶴」といった。生年は不明だが1302〜1303年ごろに生まれたと推定される。官位は正四位下・左近衛中将まで昇っている。
 父親の薫陶を受けて若くして歌人として活躍しており、元亨元年(1321)8月15日の十五夜歌合で四条隆資と共に左右の講師役を務めている(「増鏡」)。元亨4=正中元年(1324)7月に、後醍醐天皇の命で『続後拾遺和歌集』の撰者となっていた二条為藤が死去してその甥で養子の二条為定(為道の子)が事業を引き継いだ時、為世がこの機に乗じて愛児・為冬を撰者に押し込もうとし、為定が強く抵抗して結局そのままとなる騒ぎがあった(「増鏡」)。為冬はその『続後拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に20首が入選している。後年に編纂された私家集『前参議為冬集』もある。
 『太平記』では後醍醐の長子・尊良親王(為冬の姉・為子の子)と近しかった様子が描かれ、尊良が西園寺公顕の娘・御匣殿を見初めた際に、為冬がそれと察して彼女の身元をつきとめて尊良と共に公顕の屋敷を訪ねるという、恋のキューピッド役をつとめたことが語られている。

 建武5年(1335)に足利尊氏が関東で建武政権に反旗を翻すと、後醍醐天皇は新田義貞・尊良親王を主将とする追討軍を関東に送り、為冬も尊良親王につき従って出陣した。12月12日の箱根・竹之下の戦いで、尊良ら公家たちは竹之下方面で足利軍の襲撃を受けて壊滅、為冬は戦死してしまった。足利方の軍記である『梅松論』によると、為冬は尊氏の「御朋友」であったとされ(詳細不明だが、和歌を通じた交流があったのだろう。ほぼ同世代でもある)、尊氏は為冬の首を見て深い悲しみの表情を浮かべたという。
 息子の二条為重も二条派歌人の中核となり、『新後拾遺和歌集』の撰者となっている。
歴史小説では竹之下の戦いで戦死しているため、南北朝ものの歴史小説ではその個所で名前が出て来ることが多い。中でも新田次郎『新田義貞』では、佐々木道誉にだまされて義貞の作戦に口出しし、大敗の原因をつくる身分意識丸出しの公家としてかなりの悪役まわりである。
高橋直樹『異形武夫』では主役ではないものの、「公家武将」として重要人物の一人で登場、吉田兼好tの交流や箱根での戦死の場面が印象深い。

二条為世
にじょう・ためよ1250(建長2)-1338(暦応元/延元3)
親族父:二条為氏 母:飛鳥井教定の娘 
子:二条為藤・二条為道・二条為冬・二条為宗・二条為躬・二条為子・昭訓門院春日局(西園寺実衡室)・室町院大納言局・藤原兼信室ほか
官職右近衛少将・左近衛中将・右兵衛督・蔵人頭・参議・権中納言・権大納言
位階従三位→正二位
生 涯
―「二条派」を主導した歌道の大御所―

 藤原定家の子孫である御子左家、御子左為氏の子。この為氏・為世の頃からその子孫を「二条家(御子左系)」と呼ぶようになり、歌道を家業としていわゆる「二条派」の中心となる。
 建長2年(1250)の生まれ。翌年に叙爵され、右近衛少将・左近衛中将・右兵衛督・蔵人頭などを経て、弘和6年(1283)に参議、同年に従三位に叙せられる。正応3年(1290)に権中納言、正応5年(1292)11月に正二位・権大納言まで昇り、翌月に辞任した。
 永仁2年(1294)、伏見天皇の命により勅撰和歌集が編纂されることとなり、二条為世や京極為兼ら四名が撰者に指名された。為世と為兼は従兄弟同士であるが、その父の代に「二条家」「京極家」に分かれ、それぞれの歌風を掲げて激しく対立していた。二条派は古典的な形式、約束事を踏まえた和歌を模範としたが、京極派は自然に自由に詠む和歌を主張して相容れず、しかも二条派は大覚寺統、京極派は持明院統とそれぞれ対立する皇統に接近して後ろ盾としており、和歌をめぐる対立は政治的対立に直結していた。このときも為世と為兼は和歌の選定をめぐって激しく対立し、永仁4年(1296)に為兼が陰謀の疑いで幕府に捕えられ佐渡に島流しとなったことで、この時の勅撰和歌集編纂の話は流れてしまった。

 かねてより為世は大覚寺統の後宇多上皇の側近となっており、正安3年(1301)に後宇多の子・後二条天皇が即位して大覚寺統が政権を奪回すると、さっそく後宇多の命により為世が撰者となって『新後撰和歌集』の編纂が始まり、嘉元元年(1303)に完成に至った。
 しかし後二条が延慶元年(1308)に急死、持明院統の花園天皇が即位して、佐渡から戻っていたライバル京極為兼が復権、延慶3年(1310)に勅撰和歌集の方針を巡ってまたも為世と為兼が激論を戦わせることになった。この論争は為世の敗北に終わって閉居に追い込まれてしまい、為兼が撰者となって『玉葉和歌集』が編纂された。だがその後まもなく為兼はまたも陰謀の疑いで幕府に捕えられ、土佐へ流刑になっている。

 文保2年(1318)に後醍醐天皇が即位、大覚寺統が政権を奪回したため、またも為世が復権する(なお、為世の娘・為子は後醍醐の太子時代の妃であった)。さっそくこの年のうちに後宇多上皇から為世に勅撰和歌集編纂が命じられ、為世が71歳となった元応2年(1320)に『新千載和歌集』が完成する。その後、息子の二条為藤『続後拾遺和歌集』の編纂を進めたが元亨4=正中元年(1324)に死去、為世の孫で為藤の養子となっていた二条為定が編纂を引き継ぐことになった。このとき為世は溺愛する五男・為冬を撰者に立てようと横やりを入れ、怒った為定が出奔騒動を起こす一幕もあった。さすがに為世は為定を呼び戻して編纂を続けさせ、以後は和解したようで為世は為定の強力な後ろ盾となっている。

 元徳元年(1329)8月、すでに80歳となっていた為世は病を得たことを機に出家し、「明釈」と号した。元弘元年(元徳3、1331)に後醍醐が倒幕の挙兵をして失敗すると、直接関与はなかったものの大覚寺統に近かった為世・為定らは逼塞を余儀なくされた。その後の建武政権の成立と崩壊、南北朝分裂といった混沌の情勢を為世は眺めたことになるが、高齢のためか南朝に参じることもなく、とくにこれといった動向を残していない。
 暦応元年(延元3、1338)8月5日に死去。89歳という、当時としては異例の長寿であった。『和歌庭訓』という歌論書も残している。

二条(にじょう)家(摂関家)
  藤原北家九条流からの分家。九条道家の次男・良実が二条富小路に邸宅を構えたことから彼の子孫を「二条家」と呼ばれた。摂政・関白を出せる公家でも最高家格の「五摂家」の一つである。南北朝時代には二条家のなかで南朝・北朝に分かれてそれぞれに関白となって対抗している。北朝に仕えた二条良基は足利将軍家と結びついて絶大な権勢をふるい、とくに足利義満の公家化を進めて公武に君臨させることに貢献している。その後も摂政・関白を輩出して江戸時代まで続き、幕末の歴史上最後の関白も二条家から出ている。明治に入ると公爵家となった。

九条兼家┬実経→一条




├頼経┌良宝良忠
一条経嗣

└良実┼師忠
┌良忠師嗣──
┬満基


└兼基道平良基師良└持基



師基教基冬実───良教




教頼


二条の君にじょうのきみ
 NHK大河ドラマに登場した高師直の愛妾の役名(演:森口瑤子)。「前の関白の妹」というセリフがあるので古典「太平記」の伝える二条道平の妹という設定と思われるが、ほぼドラマ用のオリジナルキャラクターといっていい。観応の擾乱を描く第41回から第46回まで登場。師直に半ば力づくで愛妾にされるが、実はひそかに南朝の北畠親房と連絡をとっており、師直の野心を煽って足利幕府内に内紛を起こそうとする。
→史実関係は高師夏の母(こうのもろなつのはは)を見よ。

二条教基
にじょう・のりもと生没年不詳
親族父:二条師基
兄弟:二条教忠・二条教頼
子:二条冬実
官職左近衛大将・関白・左大臣(いずれも南朝)
生 涯
―何度も京都に入った南朝の関白―

 南朝で関白をつとめた二条師基の子。従兄弟にあたる二条良基は北朝で関白をつとめている。
 父の師基は後醍醐天皇の南朝創設以来南朝に仕えてその関白までつとめた重臣だが、その子の教基が初めから南朝に仕えていたかは分からない。正平5年(観応元、1350)9月の北朝での大嘗会の供奉者のなかに「正五位下藤原教基」の名がみえるため(「園太暦」)この時点ではまだ若年だったために北朝に残っていたのかもしれない(あるいは全くの別人)
 正平6年(観応2、1351)11月に南朝が北朝を接収する「正平の一統」が実現し、翌正平7年(文和元、1352)2月には後村上天皇が京入りを目指してまず住吉神社に居を移したが、このとき供奉する者の中に左近衛大将の教基がいた。このあと南朝軍の一時京都占領、男山八幡での籠城戦と続き、男山八幡陥落時に弟の二条教忠が戦死しているので教基も後村上に従って同じ戦場にあったと思われる。
 
 翌正平8年(1353)6月に山名時氏らと呼応した南朝軍が二度目の京都占領に成功するが、このとき二条教基も兵を率いて京に入っている。この直後の7月に教基が内大臣になるとの話が持ち上がり、同じ南朝の重臣である洞院実世は教基に自分の地位を越えられてしまうと不安になり、父で北朝の窓口役であった洞院公賢に助力を求めたこともあった(「園太暦」)。結局翌年まで教基が左近衛大将どまりであったことが確認されているが、南朝の上級公家たちの間でも激しい権力闘争があったことをうかがわせる逸話である。

 その後、南朝で関白に任じられており、史料的には正平11年(文和5、1356)2月の時点で関白になっていたことが確認できる(当時南朝の皇居が置かれた河内・金剛寺の文書)『新葉和歌集』に出て来る「入道前関白左大臣」は二条教基のことと推定されているが、彼の歌に「ふたたびこえし関の白雪」という文言があることから二度関白になったことが示唆されるので一度は関白を辞職し、再任されたとみられる。正平15年(延文5、1360)4月に「赤松宮」が反乱を起こして賀名生の皇居を襲撃する事件が起きた際に「二条前関白殿」が「大将軍」となって鎮圧したとの記事が『太平記』にあるが、これを教基の父・師基とみるのが通説ながら、いったん関白を辞任していた時期の教基であるとする見方もある。またこの年の9月に後村上は皇居を再び住吉に移していて、『新葉和歌集』にはその時に教基が詠んだ歌も載せられている。
 正平16年(康安元、1361)12月に幕府に背いた細川清氏と共に南朝軍が四度目の京都占領を実現した際には、南朝関白・教基が「公家大将」として四条隆俊らと共に兵を率いて京に入っている(「太平記」「神護寺交衆任日次第」)

 南朝は残された資料が少なく、その後の教基の状況についてはほとんど分からず、没年も不明である。ただ『新葉和歌集』が成立した弘和元年(永徳元、1381)末までは存命であったはずで、後村上の次の長慶天皇時代まで活動していたこと、「入道」とあることからそれより数年前までに出家していたことは推測できる。

二条教頼
にじょう・のりより生没年不詳
親族父:二条師基
兄弟:二条教基・二条教忠
官職内大臣・右大臣・関白・左大臣(いずれも南朝)
生 涯
―断片的にしか確認できない南朝関白―

 南朝で関白をつとめた二条師基の子。兄とみられる二条教基も南朝の関白をつとめている。しかしこの教頼については『尊卑分脈』にも記載がなく、南朝側の史料も非常に少ないため、その生涯については断片的にしか判明していない。
 教頼についての確実な情報は、南朝の重臣の一人であり歌人として後年まで活動した花山院長親(花山院師賢の孫)の著書『耕雲千首』の奥書(元中6=嘉慶3=1389年正月に記されたものをそのまま書写している)にある。そこには天授2年(永和2、1376)に長慶天皇から千首歌合の実施を命じられた重臣の中に「故二条前関白」がおり、「教頼公」と名前が注されているのだ。この記事から天授2年の時点で「二条教頼」が関白をつとめていること、彼が元中6年の段階ではすでに死去していることが読み取れる。
 南朝の准勅撰和歌集である『新葉和歌集』は弘和元年(永徳元、1381)末に完成しているが、この中で「関白左大臣」作の歌が28首も入選している。この表現からすると弘和元年の時点で現役の関白であったと推定され、『耕雲千首』奥書の記述と合わせてこれは二条教頼であると考えられる。決定打とは言い難いが有力な見解にはなっている。
 この「関白左大臣」が教頼であるとすると、『新葉和歌集』の彼の歌に添えられた言葉書きから建徳2年(応安4、1371)2月時点で右大臣であり、自宅で三百番歌合を催していること、宗良親王と歌を贈りあっていることなどが断片的に知られる。
 元中元年(至徳元、1384)6月の段階で甥の二条冬実と思われる人物が南朝の関白になっていることが確認できるので、それ以前に辞任もしくは死去したと見られる。

二条冬実
にじょう・ふゆざね1353(正平8/文和2)-1419(応永25)
親族父:二条教基
子:二条良教・尊性房・恵芳・明元・女子
官職中納言中将・左近衛大将・右大臣・関白・左大臣(いずれも南朝)
生 涯
―危うく土民に殺されかけた元南朝関白―

 南朝で関白をつとめた二条教基の子。この南朝二条家の系統は河内・玉櫛荘に領地を持っていたため「玉櫛」と名乗ってもいたらしい。
 南朝後期の政治状況は史料が不足しているため冬実の官歴も断片的にしか分からないが、弘和元年(永徳元、1381)末に完成した南朝の准勅撰和歌集『新葉和歌集』に「右大臣」として5首を載せているのが冬実のことと推定され、歌につけられた言葉から中納言中将から左近衛大将となったことが知られる。また二条家に伝わる『玉葉』(源平合戦期の九条兼実の日記)写本の奥書に「元中元年(至徳元、1384)6月4日に一見を進めおわんぬ、関白長●(一字欠)」と書かれており、この「関白長●」は他に該当者もいないことから改名前の冬実のことであろうと推定され、この時点で南朝の関白になっていたと考えられる。

  元中9年(明徳3、1392)閏10月に南北朝合体が実現し、南朝最後の天皇・後亀山天皇は京都に入り神器を北朝に引き渡した。この時点で南朝の関白は近衛家の人であることが記録にあり、冬実はそれ以前に関白を辞している。後亀山の入京に同行した形跡もなく、あるいは南北朝合体に不賛成であったのかもしれない。しかし背に腹は代えられなかったようで、応永3年(1396)に息子の二条良教二条師嗣の猶子となってその推挙を受けており、そのことを記した師嗣の日記に良教について「南方より京に入った玉櫛と号する人の息子」と表現していることから、この時点では京にいたことが判明する。

 その後出家して「玉櫛禅門」と呼ばれており、貞成親王の日記『看聞日記』の応永24〜25年(1417〜1419)にしばしば登場している。その応永24年(1418)2月8日条によれば、当時山科と醍醐の「土民」たちが紛争していて、まず山科の土民が醍醐の土民につかまってひどく殴られた。山科の土民たちがその仕返しをしてやろうと計画していたところ、たまたま醍醐方面から「玉櫛禅門」(冬実)が帰ってきたので醍醐の者と思いこみ、捕えて監禁してしまった。冬実は自分が醍醐の人間ではないと必死に訴えたが聞き入れられず、いよいよ斬ってしまおうかと一同が相談するうちに、たまたま冬実のことを知っている者がいて殺してはいけないと制止し、冬実は無事に解放された。この事件は幕府の知るところとなり将軍足利義持は侍所に山科討伐の命令を下し、2月7日にそれは実行された。山科の土民たちはみな逃げ散っており、幕府の兵はその家を百ばかり焼き払って、冬実の恨みを晴らしたという。

 『看聞日記』によれば貞成の父・栄仁親王以来家族ぐるみで深い付き合いがあったようで、貞成のもとをしばしば訪れて酒席や茶会、連歌会などを楽しんでいる。上記の災難にあった応永24年ごろから体調を崩したといい、翌応永25年12月23日(西暦では1419になる)に死去した。「当年六十六」とあることから生年が判明している。「穏やかな性格で、酒を酌み交わすと非常に楽しい人であった」と貞成は記し、その死を深く悲しんでいる。貞成の日記から、冬実には男子二人のほか女子三人がいてそれぞれ尼寺に入っていることが知られる。

二条道平
にじょう・みちひら1287(弘安10)-1335(建武2)
親族父:二条兼基 母:御子左為頼の娘  
兄弟姉妹:二条師基(猶子でもあった) 妹(娘?):高師直の妻
子:二条良基
官職左大臣・関白・内覧・東宮傅・兵部卿
位階従三位→従一位
生 涯
―後醍醐挙兵に参加―

 五摂家のひとつ二条家の嫡子として生まれ、9歳で従三位となり、正和2年(1313)に二十代後半で左大臣に昇った。正和5年(1316)、花園天皇のもとで関白となり、後醍醐天皇が即位してからいったん辞任するが、嘉暦2年(1327)に再び関白となった。

 元徳二年(1330)に関白を辞任しているが、後醍醐天皇の討幕計画にある程度は関与していたらしい。元弘の乱(1331)で後醍醐派がいったん敗北した際に、道平はひとまず父・兼基のもとで謹慎処分を受けている。花園天皇の日記によると一時鎌倉幕府は彼らの子孫に二条家家督を継がせない方針も示していたという。元弘3年(正慶2、1333)に後醍醐が隠岐を脱出して、幕府が滅亡したのち京にもどると、まず二条道平を内裏に呼び出し、後醍醐の帝位復帰をいったん退位した者が復位する「重祚」ではなく、三種の神器の「本物」を所持したまま隠岐に行っていたのが戻って来た「還御」という形式をとる方針を決定している(『増鏡』)

 後醍醐は天皇親政の原則を掲げているため、二条道平を関白に再任はしなかったが藤原氏の氏長者に任じ、内覧・左大臣・東宮傅・兵部卿に任じるなど建武政権でも重用した。建武政権崩壊の兆しが見え始めた建武2年(1335)2月4日に道平は49歳で死去した。「後光明照院」と呼ばれる。
 子の良基は北朝に、弟の師基は南朝に仕えた。また高師直に盗み出されてその妻となり、高師夏を生んでいる女性は道平の妹とも娘ともいう。
大河ドラマ「太平記」第4回と第12回に登場する(演:宮本充)。特に個性は見せず、大勢いる公家の中の一人というだけ。笠置山籠城にも参加したことになっていたが、史実ではない。

二条師嗣
にじょう・もろつぐ1356(延文元/正平11)-1400(応永7)
親族父:二条良基  母:土岐頼康の娘
兄弟:二条師良・一条経嗣・成瀬基久・道意・満意
子:二条満基・二条持基
官職左近衛中将・右近衛中将・播磨介・権中納言・右近衛大将・左近衛大将・権大納言・左近衛大将・右大臣・関白・左大臣
位階正五位下→従四位下→従四位上→従三位→正三位→従二位→正二位→従一位
生 涯
―義満に難癖をつけられ失脚―

 北朝の関白として権勢をふるった二条良基の次男。母は美濃守護・土岐頼康の娘。貞治5年(正平21、1366)に11歳で正五位下・左近衛中将、さらには右近衛中将に叙せられる。応安元年(正平23、1368)に権中納言、その後右近衛大将・左近衛大将を経て応安4年(建徳2、1371)に従二位権大納言に進む。永和元年(天授元、1375)に右大臣、永和4年(天授4、1378)に左大臣となり、康暦元年(天授5、1379)に従一位。この年に後円融天皇の関白となった。
 父の良基は長男の師良(師嗣とは腹違い)を嫌い、師嗣を溺愛して後継者に立てようとしていたようで、師良は永和4年(天授4、1378)に発狂する騒ぎを起こしたあげく永徳2年(弘和2、1382)に死去している。

 その永徳2年(弘和2、1382)4月に後円融が子の後小松天皇に譲位、これに合わせて師嗣も関白を辞した。嘉慶2年(元中5、1388)に近衛兼嗣が急死したため4月に父・良基が摂政に再登板するもすでに死が間近にせまっており、6月12日に関白に任じられて即日辞任、師嗣を後継の関白にして翌13日に死去した。
 明徳3年(1392)に南北朝合体が成った時点でも師嗣が関白をつとめているが、朝廷の実権は将軍にして公卿の足利義満の手に握られており、南北朝合体にあたって師嗣らが主体的に何かをしたわけでもない。応永元年(1394)に関白職を辞したが応永5年(1398)に氏寺である興福寺の金堂供養に関白現職として参加したいと義満に願い出て、三度目の関白に就任する。この年に息子の道忠をわざわざ改名させ、義満の一字をとって「満基」と名乗らせてもいる。

 しかし翌応永6年(1399)4月17日、師嗣は突然義満により関白職を解かれて即出家、一条経嗣(師嗣の実弟で一条家を継いだ)が次の関白となった。原因は義満が奈良を訪れた際に、師嗣の息子・満基が馬副(近衛大将の乗馬につく従者)を連れていなかったことに義満が激怒したから、という何ともつまらないものだった。師嗣は義満のないがしろにする意図などないと必死に弁明したが、義満は辞表すら受け入れずに即刻解任して出家に追い込むという強硬姿勢を示した。この年の暮れに大内義弘の反乱「応永の乱」が起こることになるが、師嗣は和歌を通じて良基の代から大内義弘と親しく、そのことを警戒した義満が難癖をつけて失脚させたというのが真相と見られている。

 出家した師嗣は「円誉」と号したが、義満によって家領をことごとく召し上げられてしまう。さらに応永の乱が勃発し、義弘が滅ぼされるとますます義満から迫害を受け、応永7年(1400)11月22日に45歳で死去した。所領も取り上げられたために餓死同然にまで追いつめられての悲惨な死に方であったという(「吉田家日次記」)
 二条家はその後また復権し、息子の満基持基はいずれも関白になっている。

参考文献
小川剛生『足利義満・公武に君臨した室町将軍』ほか

二条師基
にじょう・もろもと1301(正安3)-1365(貞治4/正平20)
親族父:二条兼基 母:源兼任の娘
兄弟姉妹:二条道平(養父)・高師夏の母
子:二条教基・二条教頼・二条教忠
養女?:嘉喜門院(後村上女御、長慶・後亀山母?)
官職侍従・左近衛少将・近江介・右近衛中将・権中納言・権大納言・大宰権帥・内大臣(南朝)・左大臣(南朝)・関白(南朝)
位階従五位下→正五位下→従四位下→正四位下→従三位→正三位→従二位→正二位→従一位(南朝)
生 涯
―南朝の重臣となった公家武将―

 五摂家のひとつ二条家の出身で、『公卿補任』では二条道平を父としているが、実際にはその父で関白の二条兼基が父親で、兄である道平の養子扱いになっていたものと考えられている。
 応長元年(1311)に従五位下に叙せられ、、その年のうちに従四位下に進み、侍従から左近衛少将に任じられる。2年後の正和2年(1313)には正三位・権中納言、正和3年(1314)に従二位、正和5年(1316)に権大納言、文保元年(1317)に正二位とハイペースで昇進した。この時点では道平に後継の男子がなく、師基が二条家を継ぐことが有力視されていたためとみられ、元応2年(1320)に道平に嫡子の二条良基が生まれると師基の昇進が急に止まることが指摘されている。元亨3年(1323)に師基は辞任し、しばらくこれといった動きを見せなくなる。

 元弘3年(正慶2、1333)5月7日に六波羅探題が陥落、京が後醍醐天皇方によって占領された。直後の5月17日に師基は権大納言と同時に大宰権帥に任じられ、軍勢を率いて鎮西探題の赤橋英時を討つべく九州に向かった。しかし入れ違いに鎮西探題が大友・少弐らに滅ぼされたとの報告が入り、師基はそのまま九州に赴いてすでに九州にいた尊良親王を補佐して戦後処理にあたったと見られる。
 足利尊氏が建武政権に反旗を翻し、延元元年(建武3、1333)正月に京に突入して来ると、師基は西山の峰の堂に出陣して防戦に当たったが、足利方の久下時重ら丹波勢に敗れている(「太平記」。軍忠状でも確認される)。その後いったん九州まで落ちた尊氏が東上して湊川の戦いに勝利し、5月に再度京へ突入すると、6月になって師基は北陸勢を率いて援軍に駆けつけて京都攻防戦で奮戦している(「太平記」)。11月に後醍醐が尊氏といったん和睦して京にもどった際に同行者の中に師基の名はなく、恐らく再起のために先行して地方に潜伏したと思われる。

 12月に後醍醐が吉野に潜行して南朝を開くと、師基は馳せ参じて以後南朝の重臣の一人となった。兄で養父の道平は建武2年(1335)2月に死去しており、その後継者の良基は北朝にとどまった。家督を争う者同士が北朝・南朝に分かれて争うケースは公家・武家ともに多く見られるパターンで、師基が南朝に走ったのも多分に良基に対抗して二条家家督を狙う目的が大であったろう。延元4年(暦応2、1339)に後醍醐が死去して後村上天皇が即位した時には南朝の内大臣となっており、さらに左大臣へと進んでいる。

 正平5年(観応元、1350)12月、足利幕府の内紛「観応の擾乱」のなかで足利直義が南朝に投降を申し入れてきた。南朝では直義の申し入れを受け入れるべきか激論となったが、二条師基は「罪を謝して投降してきた者はいっそう忠節に励むものだ」と受け入れを主張したとされる(「太平記」)。南朝は結局直義の投降を受け入れることに決めている。
 翌正平6年(観応2、1351)にはいったん直義に敗れた尊氏が南朝に投降を申し入れ、南朝が北朝を接収する「正平の一統」が実現する。北朝の関白であった二条良基はその職を解かれ、代わりに師基が12月28日に関白に就任した。師基としてはついにライバル良基からその地位を奪ったことになる。翌正平7年(文和元、1352)閏2月に南朝軍は足利軍の隙をついて京都を占領し、いよいよ後村上天皇の入京目前までこぎつけるが、すぐに足利軍に京を奪回されて5月まで男山八幡にたてこもって抵抗を続けた。恐らく師基も後村上と行動を共にしていた出あろう。男山八幡が陥落して後村上が九死に一生を得て敗走した時に多くの公家武将たちが戦死しているが、その中には師基の子・教忠も含まれていた(「園太暦」)
 翌正平8年(文和2、1353)6月にも南朝軍は山名時氏らと呼応して京の一時占領に成功するが、このとき南朝側は後光厳天皇の超法規的措置による擁立に動いた二条良基ら北朝公家に厳罰をもって臨み、良基の屋敷にあった二条家累代の文書類を没収して師基のもとに運んでいる(「園太暦」)。このとき関白である二条師基自身が京に入って政務をとる計画もあったようだが、間もなく情勢が悪化したことで中止されたようである。

 やがて師基は南朝の関白職を退き、正平14年(延文4、1359)に出家している。その翌年の正平15年(延文5、1360)4月に南朝では護良親王の子で「赤松宮」と呼ばれた皇子(興良親王と言われる)赤松氏範と結んで反乱を起こし、賀名生の南朝皇居を攻撃するという事件が起こり、師基とみられる「二条前関白殿」が「大将軍」となってこれを鎮圧している(「太平記」)。ただしこれは師基の息子の教基とみる説もある。
 正平20年(貞治4、1365)正月26日に65歳で死去した(「大乗院日記目録」)。南朝の和歌集である『新葉和歌集』に3首が入選している「光明台院入道前関白左大臣」は師基のこととする説が有力である。息子の教基、孫の冬実も南朝の重臣として活動し、後村上の女御で長慶天皇後亀山天皇の母と推測される「嘉喜門院」は師基の養女ともいわれる。
PCエンジンCD版なぜか南朝方独立勢力・千種忠顕の配下になっており、丹波国に登場する。初登場時の能力は統率58・戦闘65・忠誠42・婆沙羅68。史実からすると忠誠が低く婆沙羅が高めの設定なのが謎。

二条師良
にじょう・もろよし1345(貞和元/興国6)-1382(永徳2/弘和2)
親族父:二条良基  
兄弟:二条師嗣・一条経嗣・成瀬基久・道意・満意
子:厳叡・良順・道豪・桓教
官職右近衛少将・左近衛中将・播磨権守・権中納言・権大納言・左近衛大将・左馬寮御監・内大臣・右大臣・関白・左大臣
位階正五位下→従四位下→従四位上→従三位→正三位→従二位→正二位→従一位
生 涯
―「発狂」してしまった関白経験者―

 北朝の関白として権勢をふるった二条良基の長男。貞和元年(興国6、1345)に生まれ、貞和5年(正平4、1349)に正五位下、さらに従四位下・右近衛少将に叙せられる。以後摂関家嫡子としてハイスピードで昇進し、文和3年(正平9、1354)に権中納言、延文4年(正平14、1359)に権大納言、貞治5年(正平21、1366)に内大臣、翌年に右大臣、応安2年(正平24、1369)に後光厳天皇の関白に任じられ、藤氏長者も兼ねる。翌応安3年(建徳元、1370)には左大臣に昇り、翌応安4年(建徳2、1371)には従一位に叙せられて、この年に即位した後円融天皇の元服の儀式で加冠役をつとめている。しかし北朝では父の良基が実権を握っており、師良は影は薄い存在だったと見られる。

 永和元年(天授元、1375)に関白を辞任。そして永和4年(天授4、1378)4月6日に師良は突然「発狂」している(「後愚昧記」「愚管記」)。具体的に何が起こったのかは不明だが、『尊卑分脈』にも師良に「狂気」と注されている。しかし父の良基は息子の発狂にも驚く様子はなく連歌会に興じていたといい、背景に父・良基が次男の二条師嗣を後継者にしようとしていることへの不満があったのでは、との見方もある。
 永徳元年(弘和元、1381)に出家。翌永徳2年(弘和2、1382)5月1日に38歳で死去した。

二条良基
にじょう・よしもと1320(元応2)-1388(嘉慶2/元中5)
親族父:二条道平 母:西園寺婉子
兄弟姉妹:二条良忠・二条栄子(後醍醐天皇女御)
子:二条師良・二条師嗣・一条経嗣・成瀬基久・道意・満意
官職侍従・左近衛少将・左近衛中将・権中納言・権大納言・左近衛大将・内大臣・東宮傅・右大臣・左大臣・関白・内覧・准三后・太政大臣・摂政
位階正五位下→従四位下→従四位上→従三位→正三位→従二位→正二位→従一位
生 涯
 南北朝時代の始まりから終焉までをほぼ全て生き抜き、北朝の摂政・関白を歴任した公卿。戦乱の中で衰え行く北朝公家社会を必死に支え、足利義満の教師役となって彼を引き入れることで公家社会の立て直しをはかった。当時随一の文化人としても知られ、連歌の確立に貢献したほか、多くの著作を残している。

―北朝の関白を歴任―

 五摂家のひとつ二条家嫡流の二条道平の子。嘉暦2年(1327)に元服して正五位下・侍従に任じられ、その年のうちに従四位下・左近衛中将、嘉暦4=元徳元年(1329)に従三位・権中納言、元徳2年(1330)には正三位と、摂関家の嫡流としてハイスピードに出世している。なお叔父で道平の猶子となっていた二条師基は良基誕生までは二条家の後継者とみなされやはりハイペースで昇進していたが良基誕生によって一転冷遇されている。このことが原因で師基はのちに南朝に走り、良基のライバルとなる。

 良基が12歳の時の元弘元年(元徳3、1331)に後醍醐天皇が倒幕の挙兵をして失敗する。良基の父・道平はその計画に関与したと疑われ、息子の良基ともども官職を解かれ、幕府もこの系統の二条家を断絶させようと計画した。しかし元弘3年(正慶2、1333)に鎌倉幕府が滅亡して建武政権が成立、二条家は危機を免れる。六波羅探題が陥落した直後の5月17日に良基は権中納言に戻され、6月に従二位に昇進している。
 建武2年(1335)2月に道平が死去。間もなく足利尊氏の反乱がおこり、それを一時九州へ追い払った延元元年(建武3、1336)3月に良基は権大納言となった。やがて足利尊氏が九州から巻き返して来て建武政権を打倒、後醍醐は吉野に逃れて南朝を建てることになり、叔父の師基は後醍醐に従った。一方の良基は京にとどまり、建武4年(延元2、1337)に正二位に昇って北朝公卿としての道を着実に歩みだすことになる。

 左近衛大将、内大臣を経て康永2年(興国4、1343)に右大臣となる。康永4=貞和元年(興国6、1345)に公卿の筆頭である「一上(いちのかみ)」の地位を慣例によって左大臣の洞院公賢がつとめていることに良基が異議を唱えて自らがその地位につこうとする意図を示した(「師守記」)。当時の北朝に会って公賢は有職故実に通じた博識者として知られていたが、若い良基は様々な場面でこの公賢にしばしば挑戦的態度をとって論争を挑み、公賢を辟易とさせている。良基としては自らが公家社会の頂点に立とうという強い野心があったものと見られる。
 貞和2年(正平元、1346)2月に良基は光明天皇の関白・内覧に任じられ、藤原氏の指導者である「藤氏長者」ともなった。翌年には従一位・左大臣に昇り、貞和4年(正平3、1348)に崇光天皇が即位すると続けてその関白となった(太子時代の崇光の東宮傅にもなっている)。当時の北朝の「治天」である光厳上皇の院政を支える院評定のメンバーでもあり、良基はまさに北朝の中核となっていたのである。

―北朝の危機に奔走―

 間もなく足利幕府の内戦「観応の擾乱」が勃発し、観応2年(正平6、1351)11月に足利尊氏が弟の直義と戦うために南朝に投降し、北朝は南朝によって吸収されることになった。これを「正平の一統」といい、南朝が建武政権崩壊以後の北朝による官位を全て否定したため良基は官位を従二位権大納言に戻され、関白職は叔父の二条師基に奪われる形となった。病に倒れるほど焦った良基は翌年(正平7=文和元、1352)2月に住吉まで進出した後村上天皇のもとに参内することも検討したが(実際北朝公家でこれを実行した者は少なくない)、結局それは果たせぬうちに、閏2月の南朝軍による京都占領および光厳・光明・崇光ら北朝皇族の拉致、足利軍による京都奪回と情勢はめまぐるしく動いた。

 南朝軍を撃退した足利幕府にとり北朝の再建は急務だった。南朝もそれを阻止するために主だった北朝皇族を拉致したのだが、出家する予定で寺に入っていた光厳の第三皇子・弥仁王が南朝の手を免れていた。幕府はこの弥仁を天皇に立てることに決めたが、皇位のしるしである「三種の神器」は南朝に持ち去られており、神器なしでも天皇の践祚を命じられる「治天(皇室の当主である上皇)」である上皇は全て南朝に拉致されていた。やむなく幕府と良基ら北朝公家たちは光厳の生母である西園寺寧子(広義門院)を仮の「治天」に仕立てて弥仁の践祚を命じてもらい、継体天皇の先例に従い臣下らがこれを推戴するという「超法規的措置」をとった。6月に良基は寧子から関白に戻るよう命じられ、「正平の一統」時の南朝人事は全て白紙とされた。8月に弥仁が践祚し後光厳天皇となるが、この非常措置のお膳立ては良基や公賢らごく少数の北朝公家たちにより極秘裏に進められた。

 翌文和2年(正平8、1353)6月、山名時氏が幕府に背いて南朝軍と連携して京都を攻略、足利義詮は後光厳を奉じて比叡山から美濃へと逃れ、6月9日に南朝軍二度目の京都占領が実現する。このとき良基は比叡山までは後光厳に同行したが西坂本で引き返して京に帰っている。ふたたび京を占領した南朝は「超法規的措置」で践祚した後光厳を「偽朝」として断固認めず、後光厳に同行した公家たちの邸宅を没収するなど苛烈な処分を行い、とくに良基を後光厳践祚の「主犯」とみなして厳しく断罪、良基の邸宅にあった二条家家伝の書類を没収して師基に与えてしまっている。
 足利軍により京は一ヶ月ほどで奪回されたが、良基は嵯峨中院の別荘にひきこもり、「瘧(おこり。マラリアのこと)」にかかって寝込んでしまっていた。しかし「美濃の小島に滞在している後光厳のもとへ一番乗りした摂関家の者が関白に任じられるらしい」との噂が流れると、慌てて7月20日を過ぎたころに小島へと旅立った。同じ摂関家である近衛基嗣近衛道嗣が小島へ馳せ参じたと聞いて焦ったものらしい(「園太暦」)。彼らの方が先に小島に到着したが関白には任じられていないので噂は噂に過ぎなかったようだが、7月27日に良基は無事に小島に到着して後光厳に面会している。良基は関白として後光厳一行の行幸の儀礼を取り仕切り、関東平定から帰って来た尊氏と後光厳の初対面に立ちあい、その演出にも関わっている。9月に後光厳の京都還幸が行われ、良基はその一足先に京にもどっている。なお良基はこの美濃行きと京への帰還の旅を紀行文『小島のすさみ』としてまとめている。

 足利尊氏が死去した延文3年(正平13、1358)、奈良・興福寺における一乗院と大乗院の紛争を藤氏長者として調停しようとした良基だったが、かえって事態をこじらせて焼き打ち事件にまで発展してしまう。事態収拾のために良基は関白辞任を余儀なくされ、12月29日、貞和2年以来12年以上つとめた関白の地位を退いた。
 しかし良基は関白復帰を執念深く狙っていた。貞治2年(正平18、1363)6月に良基は春日大社に願文を納めて自身の関白復帰を祈ったが、その中で政敵であり時の関白であった近衛道嗣を「凶臣」と呼ぶほどあからさまな憎悪を示している(この願文の草案が残る)。その甲斐があったのか、6月27日に道嗣が辞任し、良基が関白に復帰している。貞治6年(正平22、1367)に将軍義詮の要請もあって関白職を辞したが、その間に長男の二条師良が内大臣となったほか、三男の経嗣を強引な策略を用いて断絶した一条家の後継者に据えてしまうなど、権勢をふるっている。その一条経嗣は日記『荒暦』の中でこの時期の父・良基について「天下に独歩し、朝廷の政務をほとんど手中に収め、世間はそれにひれ伏すような勢いであった」とまで記している。

 やがて幕府は幼い三代将軍・足利義満とそれを補佐する管領・細川頼之の時代を迎える。応安2年(正平24、1369)には長男の師良が関白に就任、2年後の応安4年(建徳2、1371)に20年近くという異例の長期在位をしていた後光厳が息子の緒仁親王(後円融天皇)に譲位した。
 このとき興福寺の紛争が再燃して、興福寺僧兵らが春日大社の神木を京に持ち込む事態となった。春日大社は藤原氏の氏神であるため、その神木が運び込まれると摂関家はじめ藤原一族は出仕もできず朝廷の政務も滞ってしまうことになるのだが、これを息子の即位を邪魔するものだと怒った後光厳も容易には妥協せず、興福寺側も上皇側近の「放氏」(藤原一族からの追放処分)を次々と行ってエスカレート、良基も藤氏長者として交渉に当たったがなかなか経っても事態は打開できず、ついに応安6年(文中2、1373)8月に良基が興福寺から「放氏」処分を喰らってしまう。
 これには良基の政敵であった近衛道嗣も驚き「大臣以上の放氏など聞いたことがない。まして摂関家の放氏など前代未聞だ」と日記に記している。良基自身も「摂関家の放氏など先例がない」と言って受け入れず、謹慎しようともしなかった(「保光卿記」)。しかし翌応安7年(文中3、1374)正月に後光厳上皇が疱瘡(天然痘)のために急死してしまい、事態の打開を急いだ北朝と幕府が興福寺の要求を全面的に受け入れて神木は奈良へと戻された。

―義満の「教師役」に―

 自他共に認める公家社会の第一人者となっていた良基に幕府も信頼を寄せ、管領・細川頼之は「政治については何事も御相談の上で進めたい」と書いたものまで渡していたという。しかし即位したばかりの後円融天皇は良基がでしゃばることを嫌い、天皇親政を宣言した。永和2年(天授2、1376)に良基は鎌倉時代の先祖・九条道家以来となる「准三后」に叙せられている。
 後円融に嫌われた良基だったが、相次ぐ混乱で儀式や行事もまともに行えないほど衰退しきっていた北朝朝廷の再建には意欲的だった。そのために良基は将軍・足利義満に接近し、彼を公家社会に引き込むという作戦に出た。永和4年(天授4、1378)に義満が右近衛大将に任じられ天皇への拝賀を行なうこととなり、その煩雑な作法の指導役が一度洞院公定に内定したが、なぜか突然良基に変更された。すでに59歳の良基は21歳の青年義満に右近衛大将の作法を指導し、ひいては彼を公家社会にひきこむ重要な役割を演じることになる。義満の教師役となった良基について三条公忠「大樹を扶持する人(将軍に指導する人)」と日記『後愚昧記』に記している。

 良基と義満の関係はいよいよ密なものとなり、康暦元年(天授5、1379)8月には義満が後円融に良基を三たび関白に任じるよう奏請している。後円融は「すでに准三后となった者が関白になった例はない」と拒絶し、代わりに良基の次男・二条師嗣を関白に任じた。これは実際には義満にあまりに接近する良基を後円融が警戒したのだとみられている。一方、長男の師良は永徳元年(弘和元、1381)に突然 出家して翌年に急死している。これに先立つ永和4年(天授4、1378)4月に師良は発狂する騒ぎを起こしているのだが、近衛道嗣の日記によると良基はまったく驚きもせず連歌会に興じていたという。

 永徳元年(弘和元、1381)に義満の奏請によって良基は太政大臣に任じられた。翌年に後円融は子の幹仁親王(後小松天皇)に譲位して院政を開始、良基は後小松の摂政をつとめることになったが、後小松の即位の日程を全て良基と義満が仕切ってしまったため後円融が激怒してその奏上を一切無視するという挙に出た。永徳3年(弘和3、1383)に後円融は妃の三条厳子を峰打ちにして重傷を負わせたうえ、良基ら義満に媚びる公家たちを処分を主張して自害未遂するという騒ぎを起こしている。

 嘉慶元年(元中4、1387)正月3日に後小松の元服の儀式が執り行われ、加冠役を良基が、理髪役を義満がつとめた。このとき68歳の良基は腰も曲がりようやく務めを果たしたというが、その5日後に太政大臣を辞任、2月には摂政からも退いた。あとは隠居生活かと思われたが、翌嘉慶2年(元中5、1388)に摂政の近衛兼嗣が急死したため4月8日に良基が再び摂政に任じられた。さすがに老齢で体調も崩していた良基は6月12日に摂政を辞していったん関白に任じられ、即日辞任して次男の師嗣に関白職を譲った。そして翌6月13日卯の刻に良基は享年六十九でこの世を去った。

 良基はその強い権力志向と、ともすれば先例軽視と批判される強引な手法、義満への追従とさえ思える接近ぶりなどから、北朝の他の公家たちから(さらには南朝からも)は憎まれることが多かったようで、彼らの日記類にはずいぶん陰口をたたかれている。一方で義満を公家世界にとりこむことで退廃していた朝廷を復活させたとの評価もあり、北朝の中心人物として宮廷行事などの記録もまとめて有職故実の継承に力を注いでもいる。
 また文化人としての活動も南北朝時代の公家の中ではずば抜けており、二条派歌人として多くの歌論書をものしたほか、当時最新の文化であった「連歌」にも深くかかわり、救済佐々木道誉らと共に連歌集『莬玖波集』の編纂にあたり、これを勅撰和歌集に準じる扱いとすることに貢献している。またこれも道誉とつながることだが、それまで低く見られがちであった猿楽にも目をつけ、観阿弥の子・世阿弥の美少年ぶりを称えて「藤若」と名付け、「またぜひ会わせてもらいたい」と熱望する書状も残している。

参考文献
小川剛生『南北朝の宮廷史・二条良基の仮名日記』(臨川書店)
小川剛生『足利義満・公武に君臨した室町将軍』ほか
歴史小説では足利義満を扱った作品であれば、その「師匠役」としてほぼ確実に登場している。
漫画作品では石ノ森章太郎『萬画・日本の歴史』の、世阿弥を主人公として能楽の大成を描く章で、美少年世阿弥にみとれてしまっている様子がチラッと描かれている。


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