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だいかくじとう〜たんばふゆやす

大覚寺統(だいかくじとう)=南朝皇室
 後嵯峨天皇の子・亀山天皇から始まる系統で、南朝皇統となる。名前の由来は亀山上皇が大覚寺で院政を行ったことから。後嵯峨天皇は亀山の子孫に皇位を継承させるよう遺言したが、兄の後深草側が幕府の力も得て抵抗、両統交互に皇位を継承することになるが激しい対立が続いた。大覚寺統は比較的天皇親政を志す傾向が強く、それは本来中継ぎ役に過ぎなかった後醍醐天皇によって極度に推し進められ、幕府を打倒して建武の新政を実現、後醍醐子孫による皇位継承の一本化が図られた。しかし持明院統と結んだ足利尊氏により建武の新政は崩壊し、後醍醐は吉野に南朝を開いて京都奪還を目指した。後醍醐の死後もその子孫により京奪還が試みられるが足利幕府の内紛に乗じて一時的な勝利を収めるのみで衰退を余儀なくされていった。足利義満により南北朝合体が実現、皇位の交互継承が約束されたが、結局これは反故にされたため、南朝子孫により室町時代を通じて「後南朝」の抵抗活動が続いた。南朝子孫は室町時代中に絶えたと考えられるが、明治以後は「南朝正統」が公式見解とされている。

後嵯峨(88)後深草(89)持明院統






亀山(90)後宇多(91)後二条(94)───邦良親王──康仁親王──木寺宮



後醍醐(96・南1)尊良親王┬守永親王





世良親王└良玄法親王





護良親王興良親王




├守良親王
静尊法親王陸良親王





宗良親王
┌尊聖




恒良親王
├承朝




成良親王長慶(南3)──┴玉川宮



尊珍法親王

後村上(南2)後亀山(南4)──小倉宮恒敦─聖承──教尊



懐良親王├護聖院宮───世明───┬金蔵主



├満良親王良成親王
└通蔵主



└懽子内親王





恒明親王全仁親王───満仁親王─道明王






├仁誉法親王







├深勝法親王







└恒鎮法親王





大膳大夫重康だいぜんだいふ・しげやす
生没年不詳
生 涯
―後醍醐の輿をかつぐ―

 「大膳大夫」は律令制において宮内省に属し、朝廷で臣下に食事を提供する役職の長官職。この「重康」は『太平記』巻2に登場するが、官位と名前のみしか書かれておらず氏姓は不明である。
 元弘元年(元徳3、1331)8月24日、幕府の動きを知った後醍醐天皇は京を脱出して奈良へ向かうことを決意した。急なことであったため天皇の輿をかつぐ者がおらず、やむなく宮中にいた「大膳大夫重康」「楽人・豊原兼秋」「随身・秦武久」の三人が天皇の輿をかついだとされる。

大納言君
だいなごんのきみ生没年不詳
親族父:洞院公敏?
生 涯
―後醍醐隠岐配流に同行―

 『増鏡』のみに記述がある女性。元弘2年(正慶元、1332)3月に後醍醐天皇が隠岐に流された際、阿野廉子小宰相と共に後醍醐に同行して隠岐まで行った妃のうちの一人である。『太平記』では同行女性を廉子しか記していないが、花園上皇の日記によるとこのとき「女房三人」が輿にも乗らずに同行したことが確認される。
 この大納言君の正体については定説がない。村松剛が著書「帝王後醍醐」の中で後醍醐の後宮の女性で「大納言」の名がつく女性をリストアップして同行できない者を除外した結果、洞院公敏の娘の「大納言局」(「尊卑分脈」にその名がある)を有力候補としているが、決定的とは言えない。
大河ドラマ「太平記」吉川英治の原作が「増鏡」の記事をもとに登場させていたため、ドラマでも脚本段階では第15回の隠岐配流シーンで「大納言局」として登場が予定されていた。しかし結局は存在自体がカットされ、セリフは小宰相のものに変更されている。第10回の後醍醐のセリフの中で「ここには中宮もおる。小宰相も、大納言の局も…」と言及だけはされている。

平成輔たいらの・なりすけ1291(正応4)-1332(正慶元/元弘2)
親族父:平惟輔
官職春宮権大進・右衛門権佐・左衛門権佐・蔵人・民部少輔・兵部権少輔・右少弁・右中弁・修理右宮城使・左中弁・修理左宮城使・備中介・記録所寄人・蔵人頭・中宮亮・治部卿・参議・弾正大弼・丹波権守・
位階
正五位下→従四位下→正四位下→従三位→正三位→贈従二位(昭和6)
生 涯
―処刑された後醍醐腹心―

 平惟輔の子。桓武平氏のうち公家の「烏丸(からすま)家」を名乗っていたため「烏丸成輔」ともいう。後醍醐天皇が即位して以後、その側近の一人になったとみられ、『太平記』では「正中の変」に先立つ後醍醐の討幕密議の参加メンバーとして登場している。正中の変が起こる正中元年(1324)4月に蔵人頭・中宮亮に昇進したが、正中の変直後の10月30日に両職を突然辞任している。花園天皇の日記によると、このとき成輔は病のためにひきこもると称したようだが、誰もが事実と見なさず不審がったと書かれている。恐らく正中の変の陰謀にも何らかの関与をしていたため自ら謹慎したものであろう。
 嘉暦2年(1327)には参議となって公卿の一員となり、元徳2年(1330)正月には正三位に叙されたが翌月に父の死にあって参議を辞職した。その直後の4月に後醍醐の側近の一人で討幕実行に反対したとされる中原章房瀬尾兵衛太郎という武士に殺される事件が起こるが、島津家本『太平記』にはこの暗殺は秘密が漏れることを恐れた後醍醐の意を受けた成輔が刺客を差し向けたとする独自の記事を載せている。章房が後醍醐の意向で暗殺された可能性は高く、島津家本『太平記』は何らかの史実的裏付けをもってそこに成輔を絡ませているのかもしれない。

 元弘元年(元徳3、1331)8月24日、後醍醐は京を出て笠置山に移り、討幕の挙兵をする。成輔は連絡が悪かったのかこれに同行しておらず、翌25日には六波羅探題に捕縛されている。まもなく笠置山も陥落して後醍醐も捕えられ、翌年隠岐へと流刑になると、成輔にも死刑の処分が決定された。成輔は河越高重によって鎌倉へ連行される途中、5月22日に相模国早川尻で斬首された(伊豆国早川宿、駿河国とする説もある)
 処刑の場とされる早川河口付近に成輔の墓と伝わるものがあり、大正時代に改葬された際に骨が出土している。現在小田原市南町の報身寺に墓があり、昭和前期の南朝顕彰ブームの中で成輔への贈位がなされたほか、墓所も史跡として整備されている。

平頼綱たいらの・よりつな1240(仁治元)?-1293(正応6)
親族父:平盛綱?もしくは平盛時?
官職左衛門尉
幕府御的射手・御馬曳き・内管領(北条得宗家執事)
生 涯
―北条時宗〜貞時時代の実力者―

 平頼綱の家系は桓武平氏の庶家とされるが確証がない。鎌倉初期に平盛綱が北条氏の家司(執事)となって伊豆の長崎郷に所領をもったことから「長崎氏」とも称される。ただその家系については不明な点が多く、この平頼綱も平盛綱の子とも孫とも言われ定かではない。頼綱は「新左衛門三郎」「新左衛門尉」とも称し、法名を「果円(もしくは杲円)」といい、「平禅門」の通称も知られる。
 第8代執権・北条時宗の時代に北条得宗家への権力集中がすすむなか、北条家家臣である御内人(みうちびと)の権勢が高まり、その筆頭である得宗家執事の権勢も強大なものとなっていった。平頼綱は幕府批判を行っていた日蓮を処刑しようとしたことでも知られるが、その日蓮も頼綱を「天下の棟梁」と呼んでおり、その権勢の大きさがうかがわれる。

 こうした頼綱の台頭に対抗していたのが大物御家人であり時宗の外戚でもある安達泰盛だった。両者の対立は日に日に激しさを増し、北条時宗の存命中は両者の均衡をどうにか保っていたが、弘安7年(1284)に時宗が死去。その後継者でまだ幼い北条貞時にとって頼綱は乳母の夫ということもあり幕府内における発言力がいっそう増した。そして翌弘安8年(1285)11月の「霜月騒動」で安達一族を武力により打倒、頼綱は事実上幕府の独裁者となった。

 頼綱が権力を握ったころから得宗家執事を「内管領」と呼ぶ習慣が始まり、これが時には幕府内で執権・得宗をも上回る権力を握ることになる。頼綱は敵対勢力を次々と滅ぼす恐怖政治を行ったことで知られ、それが結果的には北条得宗家への権力集中に寄与することになるものの、その家臣に過ぎないはずの内管領の権勢を高めることになる。これに反発する勢力も多く、貞時も成長するにつれ頼綱の存在を疎ましく思い始める。

 正応6年(1293)4月12日、鎌倉で大地震が発生し多数の死者が出た。その十日後の4月22日、この混乱に乗じる形で北条貞時が兵を起こして鎌倉経師ヶ谷の頼綱邸を襲撃、頼綱は自害して果てた(平禅門の乱)。貞時が頼綱を討った理由は、頼綱が次男の飯沼資宗を将軍の地位につけようとする陰謀を長男・宗綱に密告されたことにあったとされるが(「保暦間記」)、その陰謀そのものが実在したとは考えにくい。頼綱の息子たちの争いに乗じて貞時や安達氏ら御家人層が頼綱の抹殺を実行したというあたりが真相であろう。
 頼綱の死後、その弟もしくは甥とされる長崎光綱が得宗家執事職を継いだ。この光綱の子が長崎高綱(円喜)で、一時後退した内管領の権勢を再び取り戻し、幕府末期の政治を主導してゆくことになる。
大河ドラマ「太平記」本編には登場しないが、第1回冒頭で安達泰盛を滅ぼす「霜月騒動」が映像化されている。そして脚本集をあたってみると当初はその戦闘シーンのあとに頼綱自身が登場し、「次は足利ぞ」と甥の長崎高綱(円喜)と密談するシーンも存在していたことがわかる。
その他の映像・舞台元寇や日蓮を描いた作品で登場する例が多い。いずれも南北朝ものではないのでここではいちいち挙げることは控える。大河ドラマでは「北条時宗」で北村一輝が演じた例がある。
歴史小説では高橋直樹の「異形の寵児」が頼綱を主人公としている。その他、時宗や日蓮、元寇がらみの作品で登場例多し。
漫画では学習漫画系で元寇・日蓮関係で登場する例が多い。

たえ
 大河ドラマ「太平記」に登場する架空人物(演:笠原志ずか)。建武政権期の23、24、26の3回のみ登場する。藤夜叉(演:宮沢りえ)がウナギ売りをする橋の下で一緒に物売りをする仲間の一人。

鷹司冬教
たかつかさ・ふゆのり1295(永仁3)-1337(建武4/延元2)
親族父:鷹司基忠 養父:鷹司冬平 母:衣笠経平の娘 妻:一条師平の娘 養子:鷹司師平
官職権中納言・左大将・内大臣・左大臣・関白・右大臣
位階従三位→従一位
生 涯
―後醍醐天皇の関白―

 五摂家の一つ・鷹司家に生れ、鷹司冬平の子とされるが実の父は「祖父」である鷹司基忠であると伝わる。延慶2年(1309)正月に叙爵され、近衛を経て同年11月に従三位非参議、翌年2月に権中納言任じられた。
 後醍醐天皇のもとで内大臣、左大臣を歴任し、元徳元年(1329)正月に従一位に叙された。いよいよ関白に昇進と思っていたのだが、なぜか元徳2年(1330)正月に近衛経忠が左大臣を飛び越して関白に任じられてしまい、怒った冬教は抗議して自宅にひきこもった。これを受けて近衛経忠は8月に関白職を解かれ、冬教が念願の関白に昇進している。

 後醍醐天皇の討幕の挙兵には同調しなかったらしく、関白の地位のまま光厳天皇にも仕えた。後醍醐方が六波羅探題を攻め落とし京を回復したあとの元弘3年(正慶2、1333)5月17日に後醍醐天皇は伯耆国・船上山から詔書を発し光厳時代の人事をすべて無効として以前に戻したが、鷹司冬教については関白職から解任した。これは関白をおかず独裁的な天皇親政を目指す後醍醐の意図を明白にしたものであったと思われる。翌建武元年(1334)10月には右大臣、さらに建武2年(1335)2月には左大臣となっており、とくに冷遇された様子はない。この間に藤原氏の氏長者もつとめた。
 建武政権崩壊後の建武4年(延元2、1337)正月26日に43歳で没している。「後円光院」と呼ばれた。実子はなかったらしく、養父・冬平の子・師平(実の甥)を養子として後を継がせている。
大河ドラマ「太平記」第4回と第12回に登場(演:冴木彰至)。第4回では正中の変のあと後醍醐が鎌倉にわび状を出す件についての朝議の場に顔を見せた。第12回では笠置山で後醍醐と共に籠城する公家たちのなかに混じっているが、そんな事実はなく公家役者たちが集まる場面をまとめて撮影したためではないかと思われる。

高間快全
たかま・かいぜん生没年不詳
親族弟:高間行秀
生 涯
―倒幕ゲリラ戦で活躍した大和武士―

 石川県珠洲市の妙厳寺に残る戦功報告の文書から、元弘の乱で兄・高間行秀と共に活躍したことが知られる武士。「輔房(すけのぼう)快全」と称しており、どこかの僧兵(悪僧)であった可能性を感じさせる。
 その活動については兄・行秀と全く同じなので、そちらの記事を参照のこと。

参考文献
岡見正雄校注「太平記」補注(角川文庫)
「奈良県の歴史」(山川出版社「県史」シリーズ29)
PCエンジンCD版なぜか丹後若狭に兄の行秀と一緒に登場、義貞の重臣・船田義昌配下になっている。能力は統率45・戦闘81・忠誠53・婆沙羅16

高間行秀
たかま・ゆきひで(ぎょうしゅう)生没年不詳
親族弟:高間快全
官職太宰大弐?
生 涯
―倒幕ゲリラ戦で活躍した大和武士―

 石川県珠洲市の妙厳寺に残る戦功報告の文書から、元弘の乱における詳細な活躍が知られる武士。大和国宇智郡高天(たかま)の出身とみられ、「高間大弐行秀」と称していたことが分かるが、それ以外のことは全く不明である。
 元弘3年(正慶2、1333)正月、行秀は恐らく護良親王の令旨を受けて倒幕の挙兵をした。弟の高間輔房快全と共に正月30日に大和国莱山、2月13日に大和国石黒坂で幕府軍と戦い(いずれの土地も未確定)、その後吉野にたてこもって二階堂道蘊率いる幕府軍と激戦を交えていた護良親王と合流、閏2月1日の吉野陥落の際には「身命を捨てて防戦したため、部下二人を戦死させた」妙厳寺文書)という奮戦を見せた。吉野陥落後も潜伏して山城国方面へ進出、3月16日に山城国高里(綴喜郡多賀里)、市野辺(久世郡市辺)でゲリラ的に戦っている。さらに3月22日、23日の二日連続で奈良の興福寺北門を襲撃している。3月28日付で護良親王から戦功を賞する令旨を受けてもいる。
 4月20日以降は千早城に立てこもる楠木正成を後方支援して各地で幕府軍と戦った。5月7日に六波羅探題が滅亡、5月22日には鎌倉幕府が滅亡すると、千早城を包囲していた幕府軍は奈良に入って動静をうかがったが、高間行秀は6月2日に彼らに対しても攻撃をかけたという。

 高間兄弟の活動が知られるのは以上のみ。これは建武政権下で自らの戦功を列挙した文書であり、論功行賞における証拠とされたものとみられる。しかし彼らがどのような恩賞を与えられたかは不明である。その後の経緯から考えると護良にあまりに接近したために不遇をかこつ結果になったかもしれない。
 「大弐」を名乗ることからあるいは正成より身分が高いかもとの見解もあるようだが、その神出鬼没の活動ぶりをみると正成同様に「悪党」的存在、ゲリラ活動を身上とする下層武士と見た方がよさそうに思われる。『太平記』はじめ他の史料で一切登場していないのも決して大きな存在感のある武士ではなかったためだろう。

参考文献
岡見正雄校注「太平記」補注(角川文庫)
「奈良県の歴史」(山川出版社「県史」シリーズ29)
大河ドラマ「太平記」本編への登場はないが、第17回で正成や護良に呼応して各地の武士が蜂起したという動きを伝えるナレーションの中で名前があがっている。
PCエンジンCD版なぜか丹後若狭に弟の快全と一緒に登場、義貞の重臣・船田義昌配下になっている。能力は統率38・戦闘79・忠誠77・婆沙羅48

尊良親王
たかよし・しんのう?-1337(建武4/延元2)
親族父:後醍醐天皇 母:二条為子 同腹弟妹:宗良親王・瓊子内親王 妻:御匣殿・大納言典侍 
子:守永親王・良玄大僧正・女子
官職中務卿
生 涯
―後醍醐の一の宮―

 後醍醐天皇の長男。後醍醐には多くの皇子がおり尊良の生年も不明だが、多くの史料に「一宮」と見えるので彼が最初の皇子だったことは確実である。尊良が生まれたのは徳治年間(1306〜08)と推測され、その母は二条為子。為子は歌人として名高い二条為世の娘で、本来は後醍醐の兄・後二条天皇の後宮に入った典侍だった。それをいつの間にか当時皇太子だった尊治親王(後醍醐)が妃にしてしまっている。為子は優れた歌人として知られ、同じ母から生まれた弟の宗良も優れた歌人であり、尊良自身も恐らく幼少時から祖父や母から歌の手ほどきを受けたと思われる。なお尊良の乳父(めのと)には後醍醐の乳父でもある吉田定房があたっている。

 生母・為子は早くも正和3年(1314)に亡くなり、その後文保元年(1318)に父・後醍醐が即位する。しかし後醍醐の長男であるはずの尊良の元服は遅れに遅れ、嘉暦元年(1326)にようやく20歳前後で元服し、中務卿に任じられ以後「中書王」とも呼ばれている。異例の元服の遅さは皇位継承をめぐる争いがあったためと推測され、また後醍醐が期待した「二宮」である世良親王のほうが尊良に先駆けて元服を果たしているので、尊良は皇子の中ではやや冷遇されていたようである。それは母親の早い死とも関わっているのかも知れない。ただこの年に皇太子になっていた邦良親王(後醍醐の兄・後二条の皇子)が急逝すると、一時後醍醐によって皇太子候補に立てられ幕府への運動が行われたが、幕府は持明院統との交互即位の原則に従って尊良の立太子を認めなかった。

 『増鏡』によると尊良は二条為世の末娘・大納言典侍(叔母ということになる)との間に女子を一人もうけている。また西園寺公顕の娘「御匣殿(みくしげどの)」を正室に迎えて守永親王良玄法親王の二人の男子を産ませている。『太平記』には尊良親王とこの御匣殿との大恋愛物語が大幅な紙幅を割いて載せられていて、元服から間もない尊良が偶然御匣殿を見かけてその美しさに恋い焦がれ、叔父にあたる二条為冬の仲介で紆余曲折の末に結婚、土佐に流された尊良のもとへ行く途中の御匣殿が次々と危難にあい、一時は死んだと思われるがめでたく再会というまさに波乱万丈のお話となっている。しかし『増鏡』によると御匣殿は元弘の乱より前に亡くなっていたというのが真相だ。ただ御匣殿と尊良の仲睦まじさから生まれた説話とも言われる。

 父・後醍醐が元弘元年(1331)に討幕の挙兵をすると尊良は笠置山に同行、さらに楠木正成と共に赤坂城に立てこもっている。赤坂落城より前に父の逮捕を知って幕府軍に投降らしく(「増鏡」)金沢貞冬の家臣・宗像重基に河内で捕えられ(「光明寺残篇」)、京に連行されて佐々木時信の屋敷に軟禁された。この数か月の軟禁の間に「一宮百首」と呼ばれる悲しみの歌を詠み、その一部は『増鏡』『新葉和歌集』にも収録された。翌年3月に従兄弟の二条為明だけを伴って土佐へ配流となり、この地でも多くの歌を残している。
 ところがその年の末ごろにいきなり九州に上陸、翌元弘3年(正慶2、1333)3月に肥前国彼杵(そのぎ)に現れ、この地の武士・江串三郎入道に奉じられて討幕の挙兵をしている(『博多日記』)。土佐にいた尊良がどうやって肥前に移動したのかは全く不明で、その後も南朝方で活動する海賊衆の手によるものではないかと推測されている。尊良は九州の討幕勢力の旗頭に担ぎ出され、5月25日に幕府の鎮西探題を滅ぼし、翌26日に大宰府に入った。同年8月に京都に帰還している。

―壮烈な死―

 建武2年(1335)秋、関東に下っていた足利尊氏の叛意が明らかとなったとして、後醍醐は新田義貞を主力とする征討軍の出陣を命じた。これに尊良親王は形式的総司令官である上将軍として加わり、二条為冬ら公家たちも同行した。この征討軍は破竹の勢いで関東へ迫ったが、尊氏が反撃に出た箱根・竹之下の戦いで惨敗を喫する。この戦いで竹之下方面を進んだ尊良親王ら公家軍が功を焦って突出、「一天万乗の君に弓を引いて天罰をこうむらぬ者はない。命が惜しくば兜を脱いで降参せよ」と呼ばわったが、これを見た土岐頼遠佐々木道誉ら足利方武将らが「紋どころからすると京の公家どもと見えるぞ。無駄な遠矢を射るな。ただ刀を抜いて突入せよ」と襲いかかり、親王軍はひとたまりもなく壊滅、これが征討軍全体の大敗につながったとされる(『太平記』)。この戦いで二条為冬が戦死している。

 その後、足利尊氏が京を占領、一時九州へ敗走するが巻き返し、湊川合戦に勝利して京を再占領する。この一連の戦闘で尊良も一軍を率いて戦ったらしい。建武3年(延元元、1336)10月に後醍醐が尊氏といったん和睦して京に戻る際に、恒良親王に皇位を譲り新田義貞に奉じさせて北陸へ向かわせたが、これに尊良親王も同行した。一行は越前金ヶ崎城にこもったが、翌建武4年(延元2、1337)3月6日に金ヶ崎城は悲惨な兵糧攻めの末に落城した。

 このとき義貞は救援を求めに出かけており、その留守を守る息子・新田義顕は「天皇」である恒良親王を落ち延びさせたあとで尊良の前にやって来て「我々は自害します。宮様は敵もまさか殺すようなことはしないでしょうから、そのままで」と言ったところ、尊良はいつになく気持ちよさげに大笑いして「帝が京へお戻りになる時に私を大将としお前を股肱の臣としたのだ。股肱を失っては大将はつとめるまい。私も命を白刃の下に縮めてあの世から恨みを晴らしてやろうと思う。ところで自害というのはどうやってやるのかな」と尋ねた。「このようにするのです」と義顕が手本を示して切腹し刀を尊良の前に置くと、尊良は血のりのついた刀で手が滑らぬよう袖で刀の柄を巻き、雪のような肌をあらわにしてその胸に刀を突き立てて倒れた――と『太平記』はその最期を写実的に伝えている。これを見て一条行房気比氏治以下300余人が「宮のお供をつかまつらん」と後を追って自害したという。その首は京の夢窓疎石のもとに送られ、弔われたと伝えられている。

参考文献
森茂暁『皇子たちの南北朝』中公文庫
大河ドラマ「太平記」第12回のみに登場(演:新岡義章)。笠置山に楠木正成が参内する場面で皇子・公家たちがずらりと並ぶ中、上座の方に宗良親王と並んで座っている。セリフは一切なく、脚本でも登場は明記されていない。

但馬道仙たじま・どうせん生没年不詳
生 涯
―病院建設も計画した南北朝の名医―

 俗名は「道直」で、「道仙」は出家して以後の法名。詳細はほとんど不明だが、南北朝時代の京都にあって名医として名高かったらしく、公家・武家の有力者たちの診察にあたっている。

 貞治6年(正平22、1367)3月17日、権中納言・坊城俊冬が病に倒れた。まず医家の丹波篤直が診察して「助かる見込みはない」と判断したが、続けて診察した但馬道仙は「傷寒」と診断し、22日に汗をかけば回復すると見立てた。しかし結局俊冬は23日に死去している(「後愚昧記」)

 同年4月、南朝の公家・葉室光資が将軍・足利義詮との和平交渉のために京都を訪れているが、その滞在先が五条東洞院の但馬道仙の屋敷であった(「後愚昧記」)。南朝の使者ともなると公家や武家の屋敷に滞在させることは差し支えがあり、そこで中立的立場の医師の屋敷が選ばれたものと考えられる。あるいは医療事業を通して道仙は南朝となんらかのつながりがあったのかもしれない。

 このころ道仙は京・高倉洞院に「療病院」を建設しようと思い立ち、その費用を調達するために元へ貿易船を送ろうと計画した。幕府もこれを了承し、貞治6年(正平22、1367)4月21日付で貿易船を仕立てる「造船料」を京の六角方面の在家から一軒ごとに十文ずつ徴収している。ただしこうした徴税はその権利を主張する比叡山延暦寺の反発が予想され最悪の場合「強訴」になるかもしれないとして、中原師茂ら各方面に政治的に働きかけてもいた(「師守記」)。一介の医師でここまでのことができたのを見ても、道仙が公家・武家双方で強い人脈を持っていたことがうかがえるし、この時代にあって規模の大きい「病院」の建設を企画したことは日本の社会福祉事業史上において注目されるべき事例である。

 同年5月24日に道仙は佐々木道誉の屋敷を訪れ、28日から関東へ出立する72歳の高齢の道誉に「良薬少々」を差し入れている(「師守記」)。道誉は上述の南朝との和平交渉における幕府側の責任者であり、この薬の一件から道仙と道誉は関係が深かったと予想され、それで彼の屋敷が南朝使者の宿舎にされたのでは、との推理もある。

参考文献
辻善之助編『慈善救済史料』(金港堂書籍)
森茂暁『佐々木導誉』(吉川弘文館・人物叢書)ほか

多治見国長たじみ・くになが1289(正応2)?-1324(元亨4)
親族父:多治見国澄
官職蔵人・左衛門尉
位階贈正四位(明治38)
生 涯
―正中の変で戦死―

 美濃源氏・土岐氏の一族で、美濃国土岐郡多治見に拠点を置いていた武士。通称「四郎次郎」。花園上皇の日記には「田地味(たじみ)」という表記も見られる。「多治見系図」では土岐氏の祖・土岐光衡の五代の子孫で多治見国澄の子とするが信憑性に若干の疑義もある。だが土岐氏一門であったことは疑いなく、それで同族の土岐頼兼らと共に後醍醐天皇の倒幕計画に参加したと推測される。
 後醍醐天皇の腹心として倒幕計画の中心となった日野資朝日野俊基は計画に不可欠な軍事力の主力を、有力源氏で京にも出入りする土岐一族に求めた。資朝らに誘われた土岐頼兼・多治見国長らは有名な「無礼講」にも参加し、計画の密談を行っていたとされる(「太平記」)
 この計画に同族の土岐頼員も誘われていったんは同意したが、頼員の妻の父・斎藤俊幸が六波羅探題に勤めていることもあり、また計画の無謀を察して密告を決意する。密告することを決めた頼員は9月16日に京の多治見国長の屋敷を訪れて、計画について詳しく質問している。これに対し国長は疑うこともなく「9月23日の北野祭でケンカが起こる。これを鎮めるために六波羅の兵が出動したら、その隙をついて北方探題の北条(常葉)範貞を討ち取る。それから比叡山と奈良の寺院の僧兵に呼びかけて宇治・勢多の守りを固めるのだ」と全てしゃべってしまった。頼員はその計画をすぐさま舅の斎藤俊幸に密告した(「花園天皇日記」)

 元亨4年(1324)9月19日未明、悪党討伐のためと召集されていた六波羅探題の軍勢が、土岐頼兼・多治見国長の京屋敷を急襲した。国長の屋敷は錦小路高倉にあり、ここへは常葉範貞の家臣・小串範行率いる舞台が押し寄せた。「太平記」ではこのとき国長と家臣たちは前夜の酒宴で酔いつぶれており、攻撃を受けてあわてふためき、一緒に寝ていた遊女のほうが落ち着いていて一同を起こし鎧を着させる有様だったという。国長の家臣・小笠原孫六が門で奮戦して自害、多治見勢は激しく抵抗したが、裏手から佐々木時信の部隊に攻め込まれたために総崩れとなり、国長は家臣らと刺し違えて果てた。ただし以上の描写はあくまで「太平記」が伝えるものであって、実際には六波羅側はいきなりの襲撃はせず、まず使者を送って出頭を求めたが返事がなく矢を射かけてきたため戦闘に入ったというものだったらしい(「花園天皇日記」)。多治見系図によると国長はこのとき「年三十六」であったとされる(ただし戦死の日を9月18日としており、全面的に信用できるものではない)

 後年、南朝正統・「建武中興」賞賛の傾向が強くなると、多治見国長は土岐頼兼ともども「建武中興の先駆け」「大忠臣」として祭り上げられ、明治38年に「正四位」の贈位がなされている。故郷の多治見ではその城址も整備され、「多治見まつり」の時代行列ではその妻と一緒に先頭を切って登場する。
大河ドラマ「太平記」本編中の登場はない。ただし第4回で多治見邸を襲撃した小串範行が登場するシーンがあり、兵士から「多治見勢は全員討死」との報告を受けるやりとりがでてくる。

直冬の花嫁ただふゆのはなよめ
NHK大河ドラマ「太平記」の第46回に登場する女性の役名(演:苑村美月)。→足利直冬の妻(あしかが・ただふゆのつま)を見よ。

直義の妻ただよしのつま
NHK大河ドラマ「太平記」の第46回に登場する女性の役名(演:武藤令子)。→本光院殿(ほんこういんどの)を見よ。

立花宗匡たちばな・むねなお生没年不詳
親族父:大友貞宗(具簡) 兄弟:大友貞順・大友貞載・大友氏泰・大友氏宗・大友氏時
官職三河守・左近将監・大蔵少輔
生 涯
―立花氏のルーツ―

 大友貞宗の三男で幼名は「彦子丸」。「義匡」と名乗った時期もあるらしい。母親の身分は低かったと見られ、父・貞宗は元弘3年(正慶2、1333)3月の譲状で五男の千代松丸(氏泰)に跡を継がせている。貞宗の息子たちのうち次男の貞載は立花城に入って分家して建武3年(延元元、1336)正月に京都で戦死、その跡を弟の宗匡が継いで立花城に入り、その子孫が「立花氏」を称して後年大友家臣団で重要な位置を占めることになる。
 元弘3年3月に菊池武時が鎮西探題を攻め、大友・少弐の裏切りにより壊滅するという事件が起きたが、このとき筑後国横隈で逃亡中の武時の孫や郎党十余人を討ちとった「三河殿」なる人物がおり(「博多日記」)、これを三河大蔵少輔と呼ばれていた立花宗匡のこととする説が見受けられるが、この史料で「殿」づきで呼ばれるのは北条一門ばかりなので大隅守護で三河守だった桜田師頼とみるのが妥当であろう。

 足利尊氏が建武政権に背いた動乱の中で、貞宗の息子たちは長男の貞順が南朝方についたが氏泰氏宗氏時は尊氏の猶子とされ足利方で活動した。宗匡も足利方につき、まだ幼い弟たちを支えて尊氏の九州平定に協力、東上して湊川の戦い、京都攻防戦にも参加したと見られる。
 九州に戻ったのちも大友一族の主力として北朝方で戦うが、弟の氏宗や甥の氏継が南朝方にまわるなど大友一族の中でも複雑な情勢が続いた。その後南朝の懐良親王菊池武光が九州を制覇すると大友氏は逼塞を余儀なくされ、宗匡も立花城を追われた。やがて今川了俊が九州探題として派遣されて来るとこれに従い、立花城を奪還している。

伊達三位房游雅たてさんみぼう・ゆうが生没年不詳
生 涯
―後醍醐・南朝に従った謎の僧―

 後醍醐天皇の討幕計画に参加した僧侶。『太平記』では正中の変に先立つ後醍醐側近らの「無礼講」の密議に参加した一人として名が挙がるが、彼の出身や経歴については全く不明である。「伊達(だて)」は家名と思われ、陸奥の伊達氏から分家した出雲・但馬系の伊達氏ではないかとの推測がある。同時代の記録である花園上皇の日記『花園院宸記』では「祐雅法師」と記されていて、少なくとも実在の人物であることは確認できる。
 正中元年(1324)9月に後醍醐の計画が発覚、土岐頼兼多治見国長らが六波羅探題の軍に討伐され、日野資朝日野俊基が首謀者として逮捕された(正中の変)。『花園院宸記』10月22日条では資朝・俊基と共に「祐雅法師」の名が挙げられ、彼らが鎌倉に連行され尋問を受けることになりそうだと記されている。翌正中2年(1325)閏正月7日条では尋問の結果「陰謀」の容疑は晴れたことになったが、「祐雅法師」については追放処分とされるらしいとの風聞が書かれている。その後の游雅(祐雅)についての情報は途絶えるが、恐らく実際に追放処分となったのだろう。
 だがその一方で、花園上皇は正中元年11月1日の条の中で事件に触れるうち、「無礼講」の密議に参加した者の名を書いた紙が六波羅探題に投げ込まれたことがあり、それは「祐雅法師」自筆のものであったらしい、との風聞も書いている。このためあるいは祐雅は実際には六波羅側のスパイであったとの見方もある。ただ下記のように彼がその後南朝に仕えている事実から、あるいは計画の失敗を予想して密告したということかもしれない。
 元徳3=元弘元年(1331)に後醍醐の討幕計画が再び発覚、日野俊基・文観円観らが逮捕されるが、6月に游雅も再び逮捕されている。

 その後長らく彼の消息は途絶えるが、『太平記』巻三十に突然、同一人物と思われる「伊達三位有雅」という人物が登場する。このとき足利尊氏が南朝に投降して一時的に朝廷が統一される「正平の一統」が成り、南朝の後村上天皇は正平7年(文和元、1352)2月28日に住吉大社まで進出、さらに京を目指す姿勢を見せていた。このとき住吉大社の松が風もないのに突然倒れるという事件が起こり、吉田宗房は問題視しなかったが武者所にいた「伊達有雅」がそれを聞きつけて、「これでは帝が入京することなどできそうにない」と中国の故事を引用して凶兆と説明するくだりがある。実際にその予言はあたるのだが、もちろんこれは「物語」を語るための創作であろう。だがここで予言者役を唐突に再登場する游雅がつとめているのは彼が実際に南朝に仕えたこと、深い学識で知られていたことを示しているように思われる。また「武者所」にいたことになっているところをみると、あるいは軍事指導者的立場でもあったのかもしれない。

多聞丸たもんまる
吉川英治の小説「私本太平記」およびそれを原作とするNHK大河ドラマ「太平記」における、楠木正行の幼名(演:北代隼人)
楠木正行(くすのき・まさつら)を見よ。

丹波兼康たんば・かねやす生没年不詳
親族父:丹波師康
子:丹波定康・丹波頼定
官職典薬頭・左京大夫
生 涯
―日本史上初の専門歯科医―

 医師の家系である丹波氏の一員で、典薬頭に任じられている。祖父に日本で初めて「抜歯」を実行したとされる丹波冬康がいる。
 兼康自身が伝説的存在で事実関係は定かではないが、兼康はそれまで医術の中の一つに過ぎなかった歯の治療を専門化し、日本史上初の専業歯科医・口腔医になったとされている。南北朝末期の明徳元年(元中7、1390)ごろに引退、民間での治療にあたったと伝えられている。
 その歯科技術・知識は彼の子孫に受け継がれ、兼康はその祖と仰がれてその技術は「兼康流口中術」と呼ばれ、治療法は代々口伝される秘術とされた。慶長五年(1600)に『兼康口中療治之秘薬』なる医学書が発刊され兼康がその著者とされるが、よくある後世の仮託(昔のエライ人の著作にして箔をつける)の可能性も高いが、それだけ兼康が歯科医として高い名声を持っていたとも言える。
歴史小説では賀名生岳『風歯』は丹波兼康を主人公とした異色の短編で、続編2編と共に単行本にまとめられている。南北朝動乱を生きる歯科医・兼康が足利尊氏・佐々木道誉・北畠親房らを治療する。

丹波冬康たんば・ふゆやす生没年不詳
親族父:丹波利康
子:丹波師康
官職典薬頭・左近大夫・大膳大夫
位階正四位下
生 涯
―史上初の抜歯?―

 代々医術を家業とした丹波家の出で、特に歯の治療を得意とした。
 正和3年(1314)、十八歳の花園天皇が虫歯になった。他の医師たちが反対するなか、冬康は「抜歯」による治療を選択・実行して痛みを取り去ることに成功した(「花園天皇日記」)。一説にこれが日本初の抜歯であるとも言う(史料的に確認できるのがこれしかないのかもしれない)
 彼の孫の丹波兼康は最初の専業歯科医となって子孫も歯科医の家系となったが、冬康こそがそのルーツといえる。


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