平頼綱 | たいらの・よりつな | 1240(仁治元)?-1293(正応6) |
親族 | 父:平盛綱?もしくは平盛時? |
官職 | 左衛門尉 |
幕府 | 御的射手・御馬曳き・内管領(北条得宗家執事)
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生 涯 |
―北条時宗〜貞時時代の実力者―
平頼綱の家系は桓武平氏の庶家とされるが確証がない。鎌倉初期に平盛綱が北条氏の家司(執事)となって伊豆の長崎郷に所領をもったことから「長崎氏」とも称される。ただその家系については不明な点が多く、この平頼綱も平盛綱の子とも孫とも言われ定かではない。頼綱は「新左衛門三郎」「新左衛門尉」とも称し、法名を「果円(もしくは杲円)」といい、「平禅門」の通称も知られる。
第8代執権・北条時宗の時代に北条得宗家への権力集中がすすむなか、北条家家臣である御内人(みうちびと)の権勢が高まり、その筆頭である得宗家執事の権勢も強大なものとなっていった。平頼綱は幕府批判を行っていた日蓮を処刑しようとしたことでも知られるが、その日蓮も頼綱を「天下の棟梁」と呼んでおり、その権勢の大きさがうかがわれる。
こうした頼綱の台頭に対抗していたのが大物御家人であり時宗の外戚でもある安達泰盛だった。両者の対立は日に日に激しさを増し、北条時宗の存命中は両者の均衡をどうにか保っていたが、弘安7年(1284)に時宗が死去。その後継者でまだ幼い北条貞時にとって頼綱は乳母の夫ということもあり幕府内における発言力がいっそう増した。そして翌弘安8年(1285)11月の「霜月騒動」で安達一族を武力により打倒、頼綱は事実上幕府の独裁者となった。
頼綱が権力を握ったころから得宗家執事を「内管領」と呼ぶ習慣が始まり、これが時には幕府内で執権・得宗をも上回る権力を握ることになる。頼綱は敵対勢力を次々と滅ぼす恐怖政治を行ったことで知られ、それが結果的には北条得宗家への権力集中に寄与することになるものの、その家臣に過ぎないはずの内管領の権勢を高めることになる。これに反発する勢力も多く、貞時も成長するにつれ頼綱の存在を疎ましく思い始める。
正応6年(1293)4月12日、鎌倉で大地震が発生し多数の死者が出た。その十日後の4月22日、この混乱に乗じる形で北条貞時が兵を起こして鎌倉経師ヶ谷の頼綱邸を襲撃、頼綱は自害して果てた(平禅門の乱)。貞時が頼綱を討った理由は、頼綱が次男の飯沼資宗を将軍の地位につけようとする陰謀を長男・宗綱に密告されたことにあったとされるが(「保暦間記」)、その陰謀そのものが実在したとは考えにくい。頼綱の息子たちの争いに乗じて貞時や安達氏ら御家人層が頼綱の抹殺を実行したというあたりが真相であろう。
頼綱の死後、その弟もしくは甥とされる長崎光綱が得宗家執事職を継いだ。この光綱の子が長崎高綱(円喜)で、一時後退した内管領の権勢を再び取り戻し、幕府末期の政治を主導してゆくことになる。
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大河ドラマ「太平記」 | 本編には登場しないが、第1回冒頭で安達泰盛を滅ぼす「霜月騒動」が映像化されている。そして脚本集をあたってみると当初はその戦闘シーンのあとに頼綱自身が登場し、「次は足利ぞ」と甥の長崎高綱(円喜)と密談するシーンも存在していたことがわかる。
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その他の映像・舞台 | 元寇や日蓮を描いた作品で登場する例が多い。いずれも南北朝ものではないのでここではいちいち挙げることは控える。大河ドラマでは「北条時宗」で北村一輝が演じた例がある。
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歴史小説では | 高橋直樹の「異形の寵児」が頼綱を主人公としている。その他、時宗や日蓮、元寇がらみの作品で登場例多し。
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漫画では | 学習漫画系で元寇・日蓮関係で登場する例が多い。
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