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ごにじょうてんのう〜ごんのたゆう

後二条天皇ごにじょう・てんのう1285(弘安8)-1308(延慶元)
親族父:後宇多天皇 母:堀川基子
兄弟:後醍醐天皇・性円法親王・承覚法親王・性勝法親王・奨子内親王・禖子内親王(邦良妃)・愉子内親王ほか
中宮:徳大寺忻子・一条子・藤原宗子・権大納言局・御匣殿・新大納言局ほか
子:邦良親王・邦省親王・祐助法親王・聖尊法親王・a子内親王・栄子内親王ほか
立太子1298(永仁6)8月
在位1301年(正安3)3月〜1308年(延慶元)9月
生 涯
―短命に終わった後醍醐の兄―

 名は「邦治(くにはる)」といい、後宇多天皇堀河具守の娘・基子の間に弘安8年(1285)2月1日に生まれた。翌弘安9年(1286)に親王宣下がなされ、後宇多の妃・姈子内親王(遊義門院)の養育を受けた。
 邦治親王が生まれたころには後深草系(持明院統)と亀山系(大覚寺統)の対立状態が固まりつつあった。弘安10年(1287)に後宇多は持明院統の伏見天皇に譲位し、その皇太子に伏見の子の胤仁親王(後伏見天皇)を立てられるなど劣勢に追い込まれつつあった。だが伏見院政が幕府ににらまれたこと、そして後宇多の熱心な働きかけもあって、永仁6年(1298)に幕府は伏見から後伏見への譲位を勧め、後伏見の皇太子に14歳の邦治親王を立てた。そしてそれから3年もしない正安3年(1301)3月に後伏見が退位、邦治が後二条天皇として即位、後宇多が院政をしいて大覚寺統による政権奪回が実現した。後二条の皇太子には後伏見の弟の富仁親王(花園天皇)が立てられた。
 
 だが後二条の在位中に大覚寺統内で皇位をめぐる内紛が発生した。嘉元元年(1303)に後二条の祖父・亀山法皇に男子・恒明親王が生まれ、溺愛した亀山はいずれこの子を天皇とするよう後宇多に遺命を残して嘉元3年(1305)に死去した。直後に後宇多は父の遺命を反故にしてあくまで後二条の子孫で皇位を継承してゆく姿勢を見せるが、亀山の遺命を守って恒明を擁立する一派は持明院統に接近して対抗し、皇位継承問題はなおさら複雑化する。

 在位中の後二条は後宇多の院政下のため、歌合わせを行い、個人の歌集を編んだほかは、特にこれといった政治活動を見せていない。しかも体が弱かったのか延慶元年(1308)8月25日に、在位のまま24歳の若さで死去してしまった。嫡男の邦良親王はまだ幼く、しかも健康ではなかった(小児まひとの説あり)ため、後宇多は後二条の異母弟である尊治親王(後醍醐天皇)を花園天皇の皇太子とした。ただし後宇多の意向はあくまで後二条の子孫で皇位を継承することであり、後醍醐は邦良に引き継ぐまでの「中継ぎ」にすぎず、そのことが後醍醐をやがて倒幕に駆り立てる一因となったとみられている。

参考文献
森茂暁「南朝全史・大覚寺統から後南朝へ」(講談社選書メチエ)
河内祥輔・新田一郎「天皇と中世の武家」(講談社「天皇の歴史」04)ほか

近衛経忠
このえ・つねただ1302(乾元元)-1352(文和元/正平7)
親族父:近衛家平 子:近衛経平
官職権中納言・左大将・右大臣・記録所上卿・関白・左大臣
位階→従一位
生 涯
―関白家のサバイバル―

 五摂家の一つ・近衛家の御曹司だが、鎌倉末期から南北朝にかけての近衛家は深刻な同族争いを起こしている。経忠の祖父・近衛家基には家平経平の二人の子があり、家平は長子だが、経平の母は亀山上皇皇女であったためこちらが正嫡とされた。しかし家基が経平の幼いうちに家平に後事を託して亡くなると、家平は父の遺志を反故にして自身の系統を近衛家本流にしようともくろむ。家平は関白になったが経平は左大臣どまりとなり、後醍醐天皇の治世では家平の子・経忠と経平の子・基嗣との従兄弟同士の本家争いがあった。近衛経忠のその後の波乱の人生を見る時、こうした家庭内事情を頭に入れておかねばならない。

 経忠は近衛家平とその「家女房」との間に生まれている。父・家平が関白を務めていた正和2年(1313)12月に叙爵。後醍醐治世でかなりのスピードで出世し、元亨4年(1324)4月に23歳の若さで右大臣に昇進した。嘉暦2年(1327)には後醍醐が復活させた記録所の上卿に任じられ、元徳2年(1330)正月には左大臣を飛び越して関白に抜擢され、6月には従一位に昇りつめた。後醍醐らしい慣習無視の抜擢は経忠が後醍醐の厚い信任を受けていたことの表れだろうが、この人事に「次は自分が関白」と思っていた左大臣鷹司冬教は抗議の引きこもりを行い、結局8月に経忠は関白を辞し、冬教に譲らされることになる。
 兼好法師『徒然草』にも経忠が登場している。第百二段では経忠が儀式に出席して「軾(ひざつき、畳半畳ほどの敷物)」を忘れたことに気づいて外記(進行係)を呼びつけるのを目撃した衛士の又五郎が「人を呼ぶ前に軾を持って来させたらいいのに」とつぶやいた逸話が載る。また第百六十三段では陰陽道の「太衡」の「太」の字に点が入るのか入らないのかという論争が起こった時に「近衛関白(経忠)」の家に保存されている資料に証拠があるという話が出てくる。

 他の上流貴族同様に後醍醐の倒幕挙兵に直接的な参加はせず、光厳天皇の朝廷にもそのまま仕えている。元弘3年(正慶2、1333)5月に鎌倉幕府が滅亡して後醍醐が伯耆・船上山から帰京する際には播磨まで迎えに出かけ書写山行幸にも同行している。後醍醐が都に戻って光厳の即位そのものを抹殺した時に右大臣に任じられて一旦は断っているが、翌建武元年(1334)2月に右大臣となり、藤原氏の氏長者も兼ねた。翌建武2年(1335)11月には左大臣となっている。なお、建武元年末に失脚した護良親王の知行国・河内をその後は経忠が知行していたことも確認できる。

―南朝で謎の暗躍?―

 だが建武政権の寿命は短かった。建武2年末からの足利尊氏の反乱により建武政権は事実上崩壊する。翌建武3年(延元元、1336)2月に尊氏は一時敗北して九州に下っているが、このとき経忠はライバルの基嗣について後醍醐に讒言してその屋敷まで没収させようと画策している。これは失敗に終わったものの、従兄弟同士の確執の凄まじさがうかがえる。また同時期に奥州から駆けつけて来た義良親王の元服の義に際して経忠がその加冠役をつとめた。
 やがて九州から巻き返してきた尊氏により持明院統の光明天皇が擁立されると、経忠は光明の関白に任じられた。しかしいったんは和解に応じた後醍醐がこの年の暮れに吉野に逃亡し、自身が正統の天皇であると主張して「南朝」を開始すると、後醍醐と近い経忠は立場が悪くなったらしい。一度は関白を辞することを願い出たが許されず、延元2年(建武4、1337)4月についに経忠は京を出奔し、吉野の後醍醐のもとへと走って南朝の左大臣に任じられた。当然北朝における関白職、および知行していた河内国はライバルの基嗣に奪われることとなる。
 延元4年(暦応2、1339)8月15日、折から重態となっていた後醍醐天皇はその死の前日に皇太子・義良親王への譲位を行った。これが後村上天皇であるが、このとき後村上は近衛経忠の邸宅に移って譲位の儀式を執り行ったという。経忠はそのまま新帝後村上の関白を務めることとなった。

 こうして南朝の柱石となった経忠であるが、興国2年(暦応4、1341)5月に突然吉野を離れて京に向かったとされている。この間の事情については経忠を敵視していた北畠親房の書状のみが伝えるものなので真相が判然としないが、ともかく親房が「噂」として聞いた情報によると、経忠はいきなり自ら京に赴いたが相手にされずに「あばら家一軒に所領を二か所」だけ与えられて「正体なし」の有様になったという。焦った経忠は藤原氏に大同団結を呼びかける「藤氏一揆」を画策、別の勢力を作って経忠自身が天下をとり、関東における藤原系有力武士である小山氏を「坂東管領」とするという大掛かりな計画を立てた…というものだ。
 しかし実は親房自身も書状の中ではこの情報を「荒説」、つまりデマととらえている。経忠をさんざんにこきおろしているのは事実だが、経忠が「天下を執る」ことや小山氏の「坂東管領」という表現にもあまり現実味が感じられない。ただ一応南朝方であった小山氏がこのころ親房と距離を置いた動きをみせること、上野の新田一族もこれに同調する動きを見せたことなどは事実のようで、「藤氏一揆」なるものは親房にとってはその実在の有無に関わらず否定しなければならないものだった。この「藤氏一揆」の一件は「南朝内の分裂、ともすれば新王朝の建設」とする見方もある一方で、偉大な後醍醐を失って動揺する南朝内で近衛経忠を中心とする穏健派が北朝との和睦工作を進め、その障害となる強硬派・親房を孤立させようとする動きだったと見る意見の方が有力のようである。
 その後親房は関東の工作に失敗して吉野に帰るが、近衛経忠はそのまま南朝で関白をつとめており、決して「あばら家一軒に所領二か所」のような事態にはなっていない(このため経忠が京へ赴いたという話自体事実かどうか疑われる)。南朝内の主導権は強硬派の親房が握りつつも、家格秩序を重んじる親房の姿勢からいってあくまで経忠を上位に立てる形にしたのだと思われる。

 正平6年(観応2、1351)11月、足利幕府内の内戦「観応の擾乱」の中で足利尊氏が南朝に降伏し、北朝が存在自体を否定される「正平の一統」が実現した。このとき後村上天皇は北朝に仕えた公家たちに対して容赦のない報復人事を行っているが、その中で経忠は近衛家家督をライバル基嗣から奪回し、さらに基嗣の所領16ヶ所をも奪い取っている。しかし一時は占領した京もすぐさま奪回され、5月に南朝は賀名生の山奥へと舞い戻った。
 この挫折がこたえたのだろうか、8月に経忠は賀名生で重態に陥り、8月12日に出家、翌13日に享年51歳で没した。「堀河殿」「堀河関白」の通称がある。

参考文献
高柳光寿『足利尊氏』(春秋社)
佐藤進一『南北朝の動乱』(中公文庫)
岡野友彦『北畠親房』(ミネルヴァ日本評伝選)ほか 
大河ドラマ「太平記」第4回と第12回に登場する(演:高松克也。特に個性は見せず、大勢いる公家の中の一人というだけ。笠置山籠城にも参加したことになっていたが、史実ではない。公家役者が集まるシーンをまとめ撮りしたためとみられる。
歴史小説では童門冬二『南北朝の梟』は北畠親房を主人公とする小説で、近衛経忠による「藤氏一揆」の画策が親房に敵対する動きとして大きく描かれている。

小林義繁こばやし・よししげ?-1392(明徳2/元中8)
官職上野守、あるいは上野介
幕府丹波守護代
生 涯
―明徳の乱で散った山名配下の猛将―

 小林氏は武蔵国秩父地方にルーツを持つ一族で、南北朝時代には山名氏の執事職をつとめ、丹波守護代にもなっていた。小林義繁『明徳記』によると「上野守」を称し、山名氏清の腹心の猛将として広く知られていたようである。
 明徳2年(元中8、1392)12月、足利義満の山名氏つぶしの策謀に怒った山名氏清らが挙兵し、丹波方面、和泉方面から京へと進軍した。『明徳記』では義繁は氏清と行動を共にしながらも挙兵に批判的であったように描かれ、合戦の前日に八幡に陣を張った際にもこの戦いで山名方に道理がないこと、一時的な勝利を収めたとしても義満をくつがえすことは不可能であることを説き、自らは真っ先に戦死して忠義を示そうと涙ながらに語り、氏清を粛然とさせたという。

 12月30日、小林義繁・山名高義の一隊は二条大宮へ突入、二人とも「今日のいくさの先駆けとして討ち死にする」と呼ばわり、どうせ負けるなら義満の本陣まで突入してやろうという意気込みであった。この二条大宮を守っていたのが九州での活躍で武勇を知られていた大内義弘である。義弘が長刀を手に立っているのを見た義繁は自らも馬を下りて一騎打ちを挑んだ。義繁の小太刀と義弘の長刀の戦いは激しいもので、結局義弘が負傷しながらも長刀で義繁の片足をなぎ払った。義繁はついに力尽きたが、その首を取ろうと集まって来た大内兵の一人をつかまえて刺し違え、道連れにして死んだという。

 小林義繁の氏清に対する諫言と壮絶な戦死は強い印象を人々に残したようで、『明徳記』でもその場面が強調されるほか、彼を題材とした能の謡曲『小林』も作られている。ちょうど百年後に書かれた興福寺の「大乗院寺社雑事記」の記事中にも「小林上野守所持の太刀」なるものが存在していたことが書かれ、後年の軍記『陰徳記』によると大内義弘が義繁との一騎打ちで使った長刀も「小林」と名付けられて大内家の家宝として伝えられ、大内氏滅亡後は厳島神社に奉納されたという。

後深草天皇ごふかくさ・てんのう1243(寛元元)-1304(嘉元2)
親族父:後嵯峨天皇 母:西園寺姞子(大宮院)
兄弟:円助法親王・宗尊親王(征夷大将軍)・亀山天皇ほか
中宮:西園寺公子 妃:洞院愔子・西園寺相子・三木茂通女・後深草院二条
子:伏見天皇・久明親王・貴子内親王・姈子内親王(後宇多妃)・性仁法親王・久子内親王ほか
立太子1243(寛元元)8月
在位1246年(寛元4)正月〜1259年(正元元)11月
生 涯
―「持明院統」の初代―

 名は「久仁(ひさひと)」といい、後嵯峨天皇西園寺実氏の娘・姞子の間に生まれた。生後間もなく立太子し、寛元4年(1246)正月にわずか四歳で父・後嵯峨から譲位され即位した。ただしこの時代は上皇(治天の君)による院政が常識となっており、後深草はその13年の即位期間中に政務をみることはなかった。
 正元元年(1259)11月に父・後嵯峨の命により同母弟の恒仁親王(亀山天皇)に譲位した。両親を同じくしながら両親の愛情は後深草より弟の亀山に集中していたらしく、文永5年(1268)8月には亀山の子・世仁親王(後宇多天皇)が皇太子に立てられてしまい、後深草の子が天皇になる可能性が低くなった。だが後嵯峨が皇位継承については幕府にゆだねる姿勢のまま文永9年(1272)2月に死去すると、次の「治天」を後深草と亀山のどちらにするかという議論が幕府を巻き込んで起こるので、後深草への冷遇を不当とみる声は少なくなかったようである。このとき幕府が後深草・亀山の母である姞子(大宮院)に後嵯峨の遺志を確認したところ「亀山」との証言をしたため、亀山による天皇親政と決まった。この仕打ちを後深草は深く恨んだと言う。
 
 文永11年(1274)正月に皇太子・世仁(後宇多)が即位し、その父・亀山上皇が「治天」として院政を開始した(なお、この年11月に「文永の役」が起こる)。これに怒った後深草は翌建治元年(1275)4月に上皇の尊号を辞退して出家する動きを見せた。後深草寄りで関東申次(朝廷と幕府の連絡役)をつとめる西園寺実兼が幕府にはたらきかけ、執権・北条時宗が「後嵯峨院のご遺志があるとはいえ、兄君でありとくに落ち度もないのに出家なさるとは気の毒」として調停に乗り出し、11月に後深草の皇子・熙仁親王(伏見天皇)を後宇多の太子に立てることとなった。この幕府の措置がのちのちまでの「両統迭立」のきっかけとなり、公家社会でも後深草・亀山両派に分かれて対立が始まる。
 弘安4年(1281)5月、元軍の二度目の来襲「弘安の役」が起こった。このときばかりは公室内で兄弟ゲンカをしている場合ではないということで、一時は後深草と亀山が関東へ下り、後宇多と熙仁親王が都にとどまって幕府と共に元の襲来に備えるという体制が計画されたという(「増鏡」)
 弘安10年(1287)10月、後宇多が譲位して熙仁(伏見)が践祚、後深草は伏見天皇の父として院政を行うことになり、ようやく政権を奪還する宿願を果たした。正応2年(1289)4月には伏見の皇子・胤仁親王(後伏見天皇)を皇太子に立てて後深草系での皇位継承を固め、同年10月に自身の皇子・久明親王を征夷大将軍として鎌倉に下した。今度はこれに亀山上皇が不満を抱いて出家してしまう。

 後深草は自分の子孫による皇位継承の成功に満足したか、院政は2年ほどでやめて正応3年(1290)2月に亀山殿で出家した(法名は素実)。その後も伏見天皇の相談に応じたりはしながらも法皇として公式に院政を行うことはせず、政治の場からは身を引いた。出家の直後の3月に浅原為頼らが宮中に乱入して伏見天皇を暗殺しようとする事件が起こり、背後に皇位継承に不満を抱く亀山法皇がいるとの疑惑ももちあがったが、後深草はその疑惑を否定している。
 後深草の存命のうちに伏見、後伏見と彼の子孫「持明院統」(この名も後深草の住んだ場所に由来する)の天皇が続いたが、その後亀山側「大覚寺統」の反撃により後宇多の子・後二条天皇が即位して両皇統の対立が激化してゆくことになる。

 後深草は嘉元2年(1304)7月16日に冷泉富小路殿で死去した。享年62歳。生前の希望により現在の京都市伏見区深草に葬られ、陵は「深草北陵」という。「後深草」の追号もこれに由来する。
 なお、鎌倉後期の赤裸々な女性回想記として名高い「とはずがたり」の作者は後深草天皇の後宮に仕えた「後深草院二条」と呼ばれる女性で、後深草の乳母(と同時に初体験の相手)の娘であったため半ば強引に後深草に手を付けられたとされる。「とはずがたり」によればこの二条は後深草諒解の上で亀山とも関係を結んでおり、この性格の違う兄弟が女性もからめて複雑な愛憎関係にあったことがうかがえる。

参考文献
森茂暁「南朝全史・大覚寺統から後南朝へ」(講談社選書メチエ)
河内祥輔・新田一郎「天皇と中世の武家」(講談社「天皇の歴史」04)ほか

後伏見天皇ごふしみ・てんのう1288(正応元)-1336(建武3/延元元)
親族父:伏見天皇 母:五辻経子
兄弟:花園天皇・恵助法親王・寛性法親王・尊円法親王・尊凞法親王・璹子内親王・誉子内親王・延子内親王ほか
中宮:西園寺寧子・治部卿局・高階邦子・正親町守子・対御方・右京太夫局ほか
子:光厳天皇・光明天皇・c子内親王・尊胤入道親王・法守入道親王・承胤入道親王・長助入道親王・亮性入道親王・尊道入道親王・璜子内親王ほか
立太子1289(正応2)4月
在位1298年(永仁6)7月〜1301年(正安3)正月
生 涯
―たった二年半の在位―

 名は「胤仁(たねひと)」といい、持明院統の伏見天皇五辻経氏の娘・経子の間に正応元年(1288)3月3日に生まれた。父の伏見は前年に即位して大覚寺統から皇位を奪回したばかりで、持明院統の立場を強化するためであろう、正応2年(1289)4月にまだ2歳(満1歳)の胤仁を皇太子に立てた。胤仁は当時の朝廷の実力者・西園寺実兼の娘で伏見の中宮となっていた西園寺鏱子のもとで養育されている。
 
 永仁6年(1298)7月、伏見が譲位して11歳の後伏見天皇が即位した。その直前に伏見の腹心・京極為兼が流刑になり、伏見周辺に対する幕府の警戒感があったこと、そして二代続けて持明院統から天皇を出したことに大覚寺統側が強く反発したこともあって、後伏見の皇太子には大覚寺統の邦治親王(後二条天皇)が立てられた。しかも後伏見の在位はわずか二年半で、正安3年(1301)正月には大覚寺統と幕府の要請で後伏見は後二条への譲位を余儀なくされた。この時点で後伏見はまだ14歳、後年彼が書いた願文によると当時は仕方のないこととあきらめたそうだが、やはり「たった二年余りとは」とのちのち恨みは強くなっていったようである。
 14歳の後伏見に皇子はおらず、父・伏見はその弟の富仁親王(花園天皇)を後二条の皇太子に立てた。ただし伏見としてはこれはあくまで緊急避難的な措置であり、いずれは後伏見の子孫を皇室本家としていく意向だった。

 徳治3年(1308)8月に後二条が急死し、花園が即位して持明院統の政権奪回となった。「両統迭立」の原則に従い、その皇太子には大覚寺統から尊治親王(後醍醐天皇)が立てられる。伏見は再び院政を開始し、正和2年(1313)に伏見の出家にともない形式的には後伏見が院政を行う「治天」となったが、疱瘡を病んだり比叡山など宗教勢力の圧力もあって父・伏見に「治天」返上を申し出た書状が残っており、伏見が実権を握り続けたようである。この年7月に後伏見に待望の男児・量仁親王(光厳天皇)が産まれ、持明院統はこの量仁への継承を宿願とすることになる。
 ところが正和4年(1315)に、またもや京極為兼が討幕計画をめぐらしたとして流刑となり、伏見・後伏見が疑惑を晴らすべく父子そろって幕府に弁明書を出して謹慎する事態となり、それから間もない文保元年(1317)9月に伏見が死去すると、持明院統はますます立場を弱くしてしまった。
 文保2年(1318)、勢いに乗った大覚寺統が幕府にはたらきかけて花園から後醍醐への譲位と、皇太子に後二条の皇子・邦治親王を立てるという「文保の和談」を実現させた。邦治の次の皇太子には後伏見の子・量仁親王を、という口約束はあったようだが保証の限りではなく、直後から後伏見はしばしば石清水八幡宮・春日大社・伊勢神宮などに一刻も早い量仁の立太子と即位を願う願文を自ら書いて納めている。その数は現在伝わる者だけで16通あり、もっとあった可能性もあるという。

―激動に翻弄され―

 正中元年(1324)6月、大覚寺統の総帥であった後宇多が死去すると、後宇多の意向を受けて後醍醐から邦治への譲位を求める動きが活発化する。後伏見もまず邦治が即位させその次に量仁を、という戦略からこれを後押しした。そしてこの年の9月に後醍醐側近らによる討幕計画が発覚する(正中の変)。こうした状況を受けてこの年後伏見はなおさら盛んに寺社に願文を捧げて量仁の立太子を祈った。一説に、「正中の変」は実はそれほど具体的な計画ではなかったが持明院統側、もしくは邦治親王を推す勢力が幕府に通報して後醍醐の譲位を迫ろうとしたのではないかとの意見もある。
 だが結局幕府は、計画に参加した土岐一族を討ち、後醍醐側近の日野資朝らを流刑にしただけで後醍醐を退位させることもせず、いたって穏便な措置で済ませてしまった。これは後伏見にとっては大きな失望であっただろう。

 嘉暦元年(1326)3月、皇太子・邦良が急死した。これを受けて後醍醐は自らの長子・尊良親王の立太子を望み、邦良支持派は邦良の子・康仁親王を、そして後伏見は今度こそ量仁をと強く望んで、それぞれ使者を鎌倉に送って幕府にはたらきかけた。その立太子運動の使者派遣レースを京の人々は「競馬(くらべうま)」と揶揄したという。後伏見はこの時も寺社への願文を繰り返し出して神仏に祈り、そのかいあってかようやく幕府が「量仁」との方針を示し、この年7月に量仁が皇太子に立てられた。こうなればあとは後醍醐の退位を待つだけと後伏見はすぐさま量仁践祚を願う願文を捧げることになるが、後醍醐は一向に退位の様子を見せず、それどころか本格的に討幕計画を進めてゆく。

 元徳3年(元弘元、1331)8月24日、後醍醐天皇はついに京を脱出、討幕の挙兵を実行に移した。その直後の26日に後伏見はいよいよチャンス到来と伊勢神宮と賀茂社に量仁の践祚を願う願文を納めた。その翌日の27日に後伏見・花園・量仁に六波羅探題北方に移って幕府軍の保護下に入り、9月18日に京に入った幕府の使者安達高景二階堂道蘊が関東申次・西園寺公宗を通して後伏見に量仁の践祚を申し入れた。そして9月20日に後伏見の命令(院宣)によって量仁が践祚、「三種の神器」を後醍醐に持ち去られたまま光厳天皇となったが、これは源平合戦のおり平氏が安徳天皇と神器を奉じて西へ逃げた時に後白河法皇の院宣によって後鳥羽天皇が即位した先例にならったものであった。皇太子には大覚寺統の康仁親王が立てられて両統迭立の原則は守られ、後伏見がようやく念願の院政を行えることとなった。

 挙兵に失敗して捕えられた後醍醐は翌年に隠岐に流された。ところがその後も倒幕運動が各地で活発化し、正慶2年(元弘3)3月12日には後醍醐方の赤松円心の軍が京へ侵攻、後伏見・花園・光厳ら皇族たちは混乱のなか六波羅北方に避難した。そして4月に関東から援軍にやって来た足利高氏が後醍醐側に寝返り、5月7日に六波羅探題への攻撃にとりかかる。かなわぬとみた六波羅勢は皇族たちを連れて関東へ逃亡し再起を図ることとした。
 しかし一行は行く手を守良親王(亀山天皇の第五皇子)に率いられた野伏たちに阻まれ、光厳が流れ矢で負傷するなど逃亡は困難を極めた。そして5月9日に近江・番場で進退きわまり、六波羅探題・北条仲時以下400名以上が集団自決してしまう。その凄惨な光景に茫然とするほかなかった後伏見ら皇族たちも守良勢に身柄を捕えられ、近江太平護国寺に幽閉された。そして5月22日には鎌倉が攻め落とされ、幕府そのものがあっけなく滅びてしまった。
 5月28日に後伏見・花園・光厳らは京にもどり、持明院殿に入った。この間に復活した後醍醐により光厳は即位そのものを否定され、後伏見は絶望したのであろう。京にもどる前後から出家の意向を示し、6月26日に実際に出家してしまった。後伏見は光厳にも出家を勧めたが光厳は決然と断ったとされる(「増鏡」)

 「行覚」と号したその後の後伏見はすっかり権力への意欲を失って世捨て人同然になったらしく、その後の建武政権の崩壊の過程でも動向が確認できない。建武3年(1336)正月に足利尊氏が建武政権に反旗を翻して最初に京を占領した時に後伏見との接触をはかったとの説もあるが実際に接触した様子はない。2月に光厳が尊氏に院宣を下しており、後伏見の妃の西園寺寧子も出家しているところを見ると、後伏見はすでに重い病であったと思われる。
 いったん九州へと敗走した尊氏が体制を立て直して東上する直前の4月6日、後伏見は持明院殿で死去した。享年49歳。祖父・後深草、父・伏見同様に深草北陵に葬られた。

参考文献
岩橋小弥太「花園天皇」(吉川弘文館・人物叢書)
伊藤喜良「南北朝動乱と王権」(東京堂出版「教養の日本史」)
飯倉晴武「地獄を二度も見た天皇・光厳院」(吉川弘文館・歴史文化ライブラリー147)
河内祥輔・新田一郎「天皇と中世の武家」(講談社「天皇の歴史」04)ほか
歴史小説では後伏見を主役にした作品はないが、南北朝時代を描いたものであれば番場宿の場面などで登場する例は多い。光厳を主人公とした森真沙子「廃帝」でもそう出番は多くはないが父親として登場している。

後村上天皇ごむらかみ・てんのう1328(嘉暦3)-1368(応安元/正平23)
親族父:後醍醐天皇 母:阿野廉子
同母兄弟:恒良親王・成良親王 
異母兄弟:尊良親王・護良親王・宗良親王・懐良親王ほか多数
后妃:嘉喜門院・北畠顕子ほか
子:長慶天皇・後亀山天皇・惟成親王・説成親王・良成親王・憲子内親王ほか
立太子1339年(暦応2/延元4)3月
在位(南朝第2代)1339年(暦応2/延元4)8月〜1368(応安元/正平23)3月
生 涯
 後醍醐天皇を継いで吉野で即位した南朝第二代天皇。父・後醍醐の闘争に幼少期から関わり、即位後は父の遺志を継いで父同様に「戦う天皇」となった人物である。

―幼少からの波乱―


 諱は「義良(のりよし)」。初めは「憲良」と表記していたらしい。なお彼の諱を「儀義」と記した同時代資料があることが後醍醐皇子たちの「良」字を「よし」と読む大きな根拠の一つとなっている。
 母親は後醍醐の寵妃として有名な阿野廉子。同母兄に恒良親王(3歳上)、成良親王(2歳上)がいる。嘉暦3年(1328)に誕生しているが、日時は不明。後醍醐の数多くの皇子のうち義良が何番目にあたるのかについては確定が難しく、『太平記』は第七・第八の両説を書き、北畠親房『神皇正統記』は「第七御子」と記している。なお、親房は「正統記」の中で後村上について「(廉子が)この皇子を懐妊されたとき、日を抱く夢を見たという。このため数多くの皇子たちの中でも並みのお方ではないとかねてからささやかれていた」と記しているが、当然これは親房自身も幼少から接し、執筆時点で南朝天皇となっていた後村上を神格化するために創作した「誕生神話」であろう。

 元弘元年(1331)に父・後醍醐は倒幕の挙兵をして失敗、翌年3月に隠岐へと配流された。これに母・阿野廉子も同行し、恒良・成良・義良の幼い三皇子は西園寺公宗邸に預けられた(十歳未満の皇子は流刑にならなかった)。しかし翌年に情勢は急変して元弘3年(正慶2、1333)5月に鎌倉幕府は滅亡、後醍醐と廉子は京へ凱旋した。後醍醐と苦労を共にした廉子の立場は当然強くなり、その三皇子も後醍醐の数多くの皇子たちの中で地位を上昇させることになった。
 幕府が滅亡し後醍醐による天皇親政がさっそく開始されるが、10月に義良親王は陸奥守・北畠顕家とその父・親房に擁せられて奥州・多賀城に下った。これは足利尊氏の勢力圏である関東を牽制するため護良親王が発案したものとも言われ、奥州にミニ幕府体制を作り、その象徴的首班としてまだ数えで六歳と幼少の義良親王を据えるものであった(鎌倉幕府も幼少の親王将軍を象徴的君主として立てていた)。これ以後奥州とのかかわりが深くなる義良は「陸奥宮」「陸奥親王」「陸奥の御子」の通称がつく。
 一方、二つ上の兄の成良は足利氏に擁されて鎌倉ミニ幕府の象徴的首班となり、三つ上の兄・恒良は建武元年(1334)正月に皇太子に立てられた。廉子の三皇子が建武政権の三極それぞれに配置された理由はさまざまに取りざたされるが、ともかくこの配置が三皇子のその後の運命を決定してゆくことになる。

―奥州からの二度の遠征―

 建武元年(1334)5月に義良は奥州の地で親王宣下を受けた。まだ7歳の義良に奥州統治などできるわけもなく、実際の統治は陸奥守・北畠顕家があたっていた。もちろん顕家もこの時まだ17歳であり、父の親房が後見にあたり、さらに結城宗広ら奥州の有力武士たちがこれを補佐した。
 建武2年(1335)11月、中先代の乱を平定して鎌倉に居座った足利尊氏の叛意が明らかになったとして、朝廷は新田義貞を主力とする足利討伐軍を関東へ送った。これに呼応して奥州からも北畠顕家を主将とする軍勢が起こされ、ここでも義良はその象徴的司令官として担ぎ出される。12月29日付で義良の名のもとに顕家が結城親朝(宗広の子)を侍大将に任じる令旨が現存しており、わずか8歳の皇子の令旨という異例のものである。
 新田軍は箱根・竹之下の戦いで敗北して京へ逃げ帰り、これを足利軍が追って京を目指し、さらにこれを奥州からの北畠・義良軍が追うという日本史上にもまれな大軍レースが展開され、翌建武3=延元元年(1336)正月に京をめぐる激しい攻防戦の末に足利軍は敗北、2月には九州まで逃れた。象徴的存在とはいえ殊勲者となった義良はこの年3月に早々と元服させられ、三品・陸奥太守に叙せられて名義的にも奥州の統治者となった。そして腰を落ち着ける間もなく、今度は鎮守府大将軍となった顕家と共に再び奥州へと赴くのである。これはその後の展開を考えると致命的失敗とも言われるが、「東国のことおぼつかなし」(神皇正統記)という事情もあったとみられる。
 実際、3月10日に京を発った義良と顕家の軍は各地で足利方の妨害を受け、多賀城にたどりついたのはようやく5月25日のことである。ちょうどこの日、九州から大挙舞い戻って来た足利軍が湊川の戦い楠木正成・新田義貞を撃破、建武政権の崩壊をほぼ決定づけている。

 この年の暮れ、後醍醐は吉野に入って京奪回を各地に呼びかけた。当然奥州勢に期待するところ大だったが、そのころ足利方の攻勢に苦しんでいた義良と顕家は延元2年(建武4、1337)正月に多賀城を放棄、伊達郡の天然の要害・霊山に移った。とてもすぐに後醍醐の呼びかけに応じられる状況ではなく、ようやく8月11日に義良と顕家は霊山を出発して二度目の大遠征を開始する。
 奥州軍は下野でやや手こずるが、12月末に足利義詮(こちらも幼少の象徴的司令官。二世同士後村上とは何かと共通点がある)が守る鎌倉を攻め落とした。翌延元3年(暦応元、1338)正月に奥州軍は鎌倉を発って途上で略奪を繰り返しながら東海道を進撃、途中から新田義興北条時行、異母兄の宗良親王が合流し、美濃・青野原の戦いで足利軍を撃破した。しかしここで奥州軍は「謎の転進」をして伊勢で兵を休め、2月に奈良に入り、ここから京を目指そうとした。しかし般若坂の戦い高師直桃井直常らに敗北し、顕家ら軍の主力は楠木氏の勢力圏である河内方面へ移動した。天王寺でも敗北したのち、義良と宗良は大事をとって軍から離れて吉野に行き、久々に父・後醍醐に対面している。奥州軍の活動はその後も続いたが、5月22日の石津の戦いで顕家は戦死、7月には占領していた男山八幡も陥落して奥州軍はここに壊滅した。直後の閏7月に北陸では新田義貞が戦死し、南朝勢力の敗勢は明らかとなった。
 
―遺志を継ぎ即位―

 致命的なまでの敗戦にも後醍醐の執念は消えなかった。再び地方から京を包囲攻撃する長期的作戦を立て、九州には懐良親王を、東海には宗良を、そして奥州へはまたも義良に北畠親房・結城宗広らをつけて派遣しようとしたのである。
 この年9月に伊勢から義良らを分乗させた大船団(一説に五百艘)が東国目指して出航した。これだけの大船団が組めたのは南朝に熊野水軍ら海賊勢力が味方していたためとみられるが、不幸にもこの船団は途中嵐に見舞われ(親房自身の記すところでは房総沖。「太平記」では天竜灘とする)、散り散りになって各地に漂着してしまった。宗良は目的地・遠江に入ったが、親房は常陸へ、そして義良と宗広は伊勢へ吹き戻された(なお親房は常陸に入ってからもしばらく義良が奥州へ着いたものと信じ込んでいた)。宗広はここで失意のうちに病死してしまい、義良はしばらくは奥州行きをあきらめなかったと見られるが、結局吉野へと戻って行った。恐らくこのころ後醍醐が発病しており、万一の場合その帝位を継ぐ皇子が義良しかいなかったためであろう。そこに生母・廉子の意向も予想される。廉子の他の二人の皇子、恒良と成良はすでに足利の手に落ちており(「太平記」では足利によって毒殺されたことになっているが疑問視されている)、廉子としてもこの状況で義良を遠く奥州へ行かせるわけにはいかなかったのだ。

 吉野に戻った義良は延元4年(暦応2、1339)3月に皇太子に立てられた(「神皇正統記」では伊勢出航以前に立太子したように書かれているが信じがたい)。そして8月に後醍醐はいよいよ重態に陥り、8月15日に死期を悟って義良への譲位を実行した。ここに南朝第二代「後村上天皇」が即位したのである。譲位の儀式は近衛経忠の屋敷に入って神器を拝礼するという簡素な形で行われたという。ただし、このとき南朝では後醍醐が北朝の光明天皇に引き渡した神器は偽物と主張し本物は南朝が所持していると主張していたが、その後の経緯からするとこの時点では実際には神器を所持していなかった可能性が高い。だが正統性を主張する以上、あくまで本物を持っている姿勢を見せねばならなかったのだと見られる。
 親房は義良のこの数奇な即位を「皇太神の意志」としてあらかじめ運命づけられていたように神秘化しているが、むしろ「運命のいたずら」とでも呼ぶべきであろう。このとき後村上、数えでまだ十二歳である。

 まだ幼少の後村上を「国母」の廉子、関白の近衛経忠、洞院実世四条隆資ら後醍醐以来の忠臣が支えることで南朝の第二期は開始された。関東では南朝首脳の一角を占める北畠親房が南朝勢力を拡大すべく奮闘を続けており、後醍醐亡きあとの南朝のイデオロギーの「教典」とするべく歴代天皇の歴史をつづった『神皇正統記』を執筆している。この『正統記』は冒頭で「ある童蒙」のために書いたと執筆動機を記しており、この「童蒙」とは後村上を指すとするのが通説である。
 親房が「正統記」を執筆した背景には南朝内部で先行きの不安が漂っていたことがあったかもしれない。事実、興国2年(暦応4、1341)に近衛経忠が突然京に赴いたとか、「藤氏一揆」を結成して南朝分派工作をしようとしたといった情報があり、その真偽はともかく南朝内で北朝との和睦を図る動きが出て親房の足を引っ張った事実はあるらしい。親房は「吉野殿上さま御幼稚、政事を知ろしめされず。両上卿沙汰錯乱の事など候か(吉野の帝がご幼少で政治をみることがきでない。重臣二人がおかしなことをやっているのではないか)」と書状で記し、幼少の後村上の周囲を和平派が取り囲んで方針を誤らせていると嘆いている。興国5年(康永3、1344)に親房が関東から吉野に戻ると、後村上周辺は親房ら強硬派が幅を利かせたようで、後村上もその影響を受けてゆく。
 なお時期は不明だが南朝版勅撰和歌集である『新葉和歌集』に後村上が「朝拝の心を」と題して詠んだ「たあかみくら とばりかかげて 橿原(かしはら)の 宮の昔も しるき春かな(玉座から御簾をあげて正月の朝拝をすると、神武天皇の橿原の宮での建国時もこのようであったかと思われる)」という和歌が収録されており、後村上が初代天皇・神武を強く意識していたのではないかとの推測もある。彼の時代の「興国」「正平」といった元号にも共通した意識がうかがえる(「興国元年」が神武即位二千年にちょうど当たっているとの指摘もある)

 南朝元号が「正平」となったのは親房が吉野に戻った翌年である。この元号は長く続き、結局後村上の在位中は改元されなかった。この正平に入って間もなく、南朝は久々に攻勢に乗り出す。正平2年(貞和3、1347)8月から楠木正成の遺児・楠木正行が活動を開始、足利方の軍を河内・和泉各地で撃破するめざましい活躍を見せた。これに対して足利幕府は執事・高師直を出陣させ反撃に出る。師直との決戦を前にした正行は同年12月27日に吉野に赴き、後村上に謁見した。『太平記』によればこのとき正行が後村上に「師直の首をとるか、こちらの首をとられるか」と決死の覚悟を伝えると、後村上は御簾をあげさせて直接正行に「機会を逃さぬために進まねばならぬ時もあるが、後のことを考えて退くべきときもあるぞ。お前は朕の大切な臣下だ。慎重に行動して命を全うせよ」と正行をなだめる発言をしたとされる。一説にこの正行の無理な出撃は親房の意向によるものとされ、後村上は自分とさして年の変わらぬ正行にそれとなく命を惜しめと言いたかったのかもしれない。
 しかし正平3年(貞和4、1348)1月5日、四条畷の戦いで正行ら楠木軍主将は戦死、南朝軍は壊滅した。高師直軍はその勢いで吉野へと押し寄せ、後村上ら南朝の人々はただちに吉野を放棄して、奥地の賀名生(あのう、もともと「穴太」といったのを縁起を担いで後村上が改名したとも言う)の地へと逃れた。このとき師直は南朝側と和平交渉(実態としては降伏勧告)をもちかけているが、南朝側が全くこれを無視して逃げたことを知ると吉野の神社仏閣を焼き払ってしまった。師直がそれ以上後村上らを追及しようとしなかったのは、まだ話し合いの余地があると思っていたこともあるが、南朝を支える大和・紀伊の悪党的武士集団によるゲリラ的抵抗を恐れたためとも見られる。

 後村上が吉野を放棄したことを信濃で知った宗良親王は「たらちねの 守りをそふる み吉野の 山をばいづち 立ちはなるらむ」(父君の魂が守る吉野の山を捨ててどこへ行ってしまうのだ)と弟帝を非難するような歌を送りつけているが、後村上はその返歌として「ふる郷と なりにし山は 出でぬれど 親の守りは猶もあるらむ」(故郷となった山は出てきたが、父君の魂はなおも私を守ってくれよう)」と詠んで送っている。このとき後村上はようやく二十代、苦難続きの青年君主であった。
 
―正平の一統〜京奪回の夢にあと一歩―

 しかしピンチのあとにチャンスあり。すでに消滅寸前に見えた南朝に逆転の好機が転がりこんで来た。数年来くすぶっていた足利幕府内部の足利直義派と高師直派の対立が頂点に達し、将軍尊氏も巻き込んだ深刻な内戦「観応の擾乱」を引き起こすのである。
 正平4年(貞和5、1349)8月、高師直派のクーデターにより直義が失脚。翌正平5年(観応元、1350)10月に直義は京を脱出して大和に入り、南朝に降伏した。足利幕府の実質的建設者である直義と南朝の政治思想が相容れるわけもなく、南朝首脳もその扱いに迷ったが、「敵の敵は味方」「漁夫の利を得よ」という親房のマキャベリズム的な意見が通り、後村上は直義を勅免し師直らを討伐する綸旨を与えた。これを得た直義は自派の武将たちと共に挙兵し、尊氏・師直の軍を打ち破って降伏させ、直後に師直ら高一族を皆殺しにした。
 ひとまず勝利者となった直義は南北朝合体の交渉を親房との間で進めるが(楠木正儀が仲介役だった)、結局これは破談に終わる。そしていったんは和解したかに見えた尊氏と直義は再び戦いを始め、正平6年(観応2、1351)8月になると今度はなんと尊氏が南朝に降伏を申し入れて来た。尊氏は直義ほどこだわりもなく北朝をあっさり見捨てて南朝の後村上を正統の天皇と認めてしまい、南朝側も様子見をしつつ11月にこれを受け入れ、尊氏を勅免して直義討伐の綸旨を与えた。お互い一時の方便と分かったうえで利用し合ったと見てもいい。

 ともあれ、この11月7日をもって南朝は北朝の天皇・年号・叙官を全て廃し、賀名生にいる後村上が唯一正統の天皇となった。これを「正平の一統」と呼ぶ。慌てた北朝公家たちはこぞって賀名生参りをして後村上らの歓心を買おうとし、南朝北朝に分かれて争っていた家では家督や所領の交代が行われて悲喜こもごもの騒ぎとなった。そして12月23日に後村上は中院具忠を京に送りこんで、さっそく北朝のもつ「神器」を「偽物とはいえ一時は神器として使われたのだから」という奇怪な理屈で接収してしまう。この「偽の神器」が28日に賀名生に届くと、南朝では神楽を執り行うなど神事を盛大に行い、廉子には「新待賢門院」の女院号を奉り、親房には「准后」宣下をするなど、大変なはしゃぎぶりだったという。
 このため実際にはこの時まで南朝は神器を持っていなかったのではないかという見解も有力である。いずれにしても確実にこれ以降は南北朝合体まで南朝側が神器を保持し続けることになる。
 
 翌正平7年(観応3、1352)2月26日、鎌倉で足利直義が死んだ。尊氏による毒殺も噂されるが、その真相はともかく尊氏・直義兄弟の争いはひとまずここに決着した。つまり尊氏にとっても後村上ら南朝にとっても相手と組む理由が消滅したのである。
 全くの偶然であろうが直義が鎌倉で死んだその同日、後村上は京へ「凱旋」するべく賀名生を発った。出発の日程は2月3日に公表されており、それによれば今年京都は「方忌(方角が悪い)」のでひとまず男山八幡に行宮を定めるということになっていた。まっすぐ京に入らないのはもしかすると足利方の出方をうかがう意図もあったかもしれない。
 2月26日に賀名生を出発した後村上一行は大和五条、河内東条を経て、28日に住吉大社に入った。後村上には母の廉子ら南朝の首脳陣もこぞって同行しており、そのいでたちは元弘の際の後醍醐凱旋の例にならっていたという。住吉でしばらく滞在しているうちに関東から直義死去の情報が入り、これとほぼ同時に南朝方が楠木・北畠らの軍勢を京周辺に配置したこともあって、京都では南朝軍が軍事占領を狙っているのではないかと緊迫した。実は南朝側では最初からそのつもりで綿密に計画を立てており、関東でも宗良親王に新田一族ら南朝軍を率いさせて、京と鎌倉を同時に占領するという東西同時作戦を行おうとしていたのである。
 閏2月16日に後村上は住吉を出て、19日に京ののど元と言える男山八幡に入った。翌20日には北畠顕能楠木正儀らの南朝軍が足利義詮を京から追って、あっけなく京を占領してしまった。これとほぼ同時に18日に宗良率いる南朝軍が尊氏を追って鎌倉を占領、南朝は東西で大きな成功を収めたのである。
 後村上は男山八幡宮の宮司・田中定清の屋敷に入ってここを行宮とした。そして足利方に北朝を復活させないために光厳光明崇光ら三上皇および皇太子となっていた直仁親王を男山八幡に連行した。こうなれば尊氏・義詮が「官軍」となることは永久にできず滅亡は必至、父・後醍醐の京奪回の夢が目前まで迫ったと、このとき後村上は確信したに違いない。

 しかし現実は甘くはなかった。南朝側の奇策も軍事的裏付けが強くあるものではなく、たちまち足利側の反撃を招いた。また正平の一統の裏の立役者であった赤松則祐のように南朝側の背信に怒って南朝を見限る武将も出たことで、3月15日には京都は奪い返され、南朝軍は男山八幡に立てこもって籠城戦を強いられる。北朝皇族たちは河内、さらに賀名生へと連行し、後村上らは二カ月近くにわたってしぶとく抵抗を続けた。兵糧攻めにも持ちこたえたが、結局軍事的に頼みにしていた湯浅庄司が寝返ったことで5月11日に南朝軍はついに男山を放棄した。
 悲願の京を目の前にして引くわけにはいかなかったのだろう。後村上は男山陥落、自軍崩壊という危険きわまる段階まで踏みとどまっていた。『太平記』によれば、このとき後村上は黄糸の鎧を身につけ栗毛の馬にまたがって撤退を試みた。その姿を見た足利軍の武士・一宮有種が追いかけ、「しかるべき大将とお見受けした。敵に追われて一度も馬を返さぬとは卑怯ではないか!」と勝負を挑んだ(もちろん相手が天皇だとは思いもよらなかったのだ)。これを聞いた南朝公家・法性寺康長が「なんと無礼な」と一宮の兜を太刀で殴りつけ、一宮が朦朧としているうちに後村上はからくも逃れた。そのあとも雨のように矢を浴びせられ、二本鎧に刺さったが体には傷つかず、康長の奮戦もあって後村上はどうにか楠木の拠点・河内東条へと落ち延びた。この混乱の中で四条隆資ら南朝の重臣たちも数人戦死しており、後村上が携えていた三種の神器のうち鏡を入れた櫃は預かっていた者が逃亡したらしく、途中の田の中に落ちていたのを名和長生(名和長年の弟。その兄の長重の誤りとみる説もある)が拾って持ちかえるという始末だった。
 これら『太平記』の伝える劇的な場面が決して絵空事とは言えないことは洞院公賢の日記『園太暦』でも確認できる。後村上は奈良を経由して賀名生へと帰って行ったが、その途中の奈良での目撃情報が興福寺からもたらされ、「主上(後村上)とおぼしき人は甲冑直垂をつけて兵士たちに紛れ込んでいて一見見分けがつかなかった。だが鞍の前に新しいつづらを一つ緒をつけて運んでいたので、これがもしかすると神器であったのかもしれない」と報告されているのだ。父・後醍醐も「戦う天皇」ではあったが、後村上のように自ら甲冑を身につけて戦場に身をさらした天皇はそれこそ神武天皇クラスの創業神話以来かもしれない。このとき後村上はまだ数えで25歳、天皇とはいえ血気盛んな若武者といってよかった。

―京奪回への執念―

 この直後の5月末、「南帝が三歳の皇子に譲位して、自ら再び京を目指して出陣するらしい」との風聞が京で流れている。「三歳の皇子」というのが誰なのか分からず(次代の長慶天皇とすると年齢に疑問がある)、結局そのようなことにはならなかったのであくまで噂にすぎないのだが、手痛い敗北を喫した後村上がなおも執念を燃やし、いっそのこと退位して後顧の憂いなく決戦をしようと腹を決めて譲位の意志を示した事実はあったのかもしれない。この年の冬に親房に命じて父・後醍醐が編纂した「建武年中行事」(平安以来の朝廷行事をまとめたもの)を書写させ、翌年自らその校正を行っていることも、「正統な天皇」であることを主張し南朝を鼓舞する意図があったと思われる。
 足利側は後村上に北朝皇族の引き渡しを求めたが拒絶され、やむなく南朝に捕えられずに済んでいた光厳の皇子・弥仁親王を神器なし、光厳の生母・広義門院の「院宣」により即位という非常措置によって新天皇に立てた(後光厳天皇)。これに南朝側が怒り狂ったのはもちろんのこと、北朝側も王朝の正統性に一定の弱みをもってしまうことになる。

 南朝の軍事力は楠木氏・北畠氏を中心にまだまだ一定の力を持っていた。また尊氏に敗北した直義一派が直義の養子で尊氏の庶子である足利直冬を首領と仰いで結束、そのまま南朝に投降してそれに加わった。正平8年(文和2、1353)6月に直冬党の山名時氏石塔頼房らが楠木正儀らと共に京に攻め込み、義詮と後光厳天皇を追い出して南朝二度目の京都占領を実現した。この時の南朝側の北朝公家に対する処分は凄まじく過酷なもので、後村上らが後光厳即位にいかに怒り狂っていたかを物語る。しかしこの占領もやはり長くは続かず、7月末には京は義詮軍に奪回された。
 この二度目の京都占領の直前、洞院公賢は後村上周辺での奇怪な噂を聞いて日記に記している。それによるとこの年の2月に南朝の公家・中院具忠が後村上の女御(親房の娘という)と密通のうえ逃亡し、怒った親房が関わりを疑って賀名生の土民数名の首をはねてさらしものにした。すると土民たちが蜂起、あるいは逃亡する騒ぎになり、後村上らは危険を感じて賀名生を離れ、京占領目前だった楠木軍を呼び戻そうとした…というのだ。ただし中院具忠は前年戦死しているはずで、この噂が全て事実とは思われない。ただ賀名生周辺で何かそのような騒ぎがあったことは、これ以後親房の存在感がなくなること、間もなく後村上が賀名生を放棄することからも裏付けられる。

 翌正平9年(文和3、1354)に南朝の柱石であった北畠親房が死去した(4月とも9月ともいう)。その年の10月28日に後村上は賀名生を離れ、行宮を河内天野の金剛寺に移した。ここは後醍醐・後村上二代にわたって護持僧をつとめる文観とかかわりが深く、このとき文観の弟子・禅恵が寺の学頭をつとめていた。また南朝の主要軍事力となる楠木・和田一族の拠点でもあった。これ以後南朝は大和方面から河内・和泉方面にその中心を移していくことになる。
 この年の暮れ、足利直冬を総帥とする南朝軍が京へと攻め込んだ。南朝軍とは言っても直冬はこのとき南朝から「総追捕使」すなわちほぼ征夷大将軍と同意といっていい地位を任され、もはや主導権は直冬側に移っていた。直冬率いる南朝軍は翌正平10年(文和4、1355)正月に京を占領(南朝の第三回京占領)、尊氏・義詮と京市街で激しい戦闘を繰り広げたあげく、3月に京から撤退した。もはや南朝側の劣勢はなすすべもないところまで来ていた。

 だが尊氏はむしろこの時期南朝に対して融和的な態度を示し、平和裏に南北朝和議がなるようはたらきかけている。これに応じる形で後村上は正平12年(延文2、1357)2月に光厳上皇ら北朝皇族たちを解放して京に帰した(いまさら北朝皇族を拘束する意味もなかったし、金剛寺の行宮が手狭で負担になっていたとの見方もある)。この年7月まで南北両朝(実質は尊氏と後村上)の和議が実現寸前まで進んだが、結局物別れに終わっている。
 この年の10月に金剛寺で南朝の精神的支柱といえた文観が亡くなり、翌正平13年(延文3、1358)4月には長年の宿敵・足利尊氏が死去した。そしてさらに翌年の正平14年(延文4、1359)4月に後村上の生母・阿野廉子が死去する。南北朝動乱の第一世代がこの時期相次いで世を去り、本格的に後村上や義詮といった第二世代の時代を迎えたのである。

 足利幕府の第二代将軍となった義詮はこの正平14年末に一気に南北朝動乱のカタをつけようと、関東からも大軍を呼び出し、自らも出陣して天野の金剛寺への直接攻撃にとりかかった。これには南朝公家たちも動揺して中院通冬ら主要な公家が北朝に投降してしまい、危険を感じた後村上は12月に楠木氏の本拠地により近い河内・観心寺に行宮を移した。翌年の4月に幕府軍は金剛寺一帯を焼き払い、各地の南朝拠点を攻め落として南朝をあと一歩まで追い込んだが、ついにそれを完全壊滅させるにはいたらなかった。この時点でも義詮はあくまで最後は「和議」という形で決着することを望んでいて実際交渉をもちかけてはいたようである(これは尊氏以来、義満にいたるまで一貫した姿勢であった)。さらに長引く遠征中に幕府軍の大名間で深刻な対立が起こり、仁木義長の反乱も起こったことで幕府は軍を引き揚げざるを得なくなった。
 後村上はこれで強気になったようで、9月に観心寺を出て摂津・住吉大社に行宮を移している。

―京へ帰る夢も空しく―

 住吉に入った後村上は反転攻勢の機会とみたか、信濃にいる兄・宗良に「大軍を率いて京へ攻めのぼれ」と催促を繰り返すようになる。このころ九州では弟の懐良親王が菊池氏と共に大宰府を攻め落として九州を「南朝王国」化しており、これが攻めのぼれば形勢逆転もありうると考えたのかもしれない。

 正平16年(康安元、1361)9月、幕府の執事をつとめていた勇将・細川清氏佐々木道誉との対立をきっかけに反逆、石塔頼房を通じて南朝に投降した。清氏が京攻撃を後村上にもちかけてくると、後村上はこれに乗り気になって楠木正儀を呼んで意見を求めた。正儀は「一時の占領なら簡単ですが、すぐに取り返されますよ」と答えたが、後村上はじめ公家たちは「一夜の夢でもよい、京で一夜でも過ごせれば悔いはない」と言って出撃を決めたという(「太平記」)。清氏・正儀を主力とする南朝軍は12月8日に京に攻め入り、南朝四度目の京占領を実現するが、はたして正儀の予想通り、20日と経たずにこれを奪い返された。結局これが最後の南朝軍京占領となる。

 翌正平17年(康安2、1362)に光厳上皇が大和を旅していて、恐らくこれをモデルに『太平記』は光厳が供の僧一人を連れて各地を散策し、最後に吉野を訪ねて後村上と対面し旧交を温める物語をつづっている。このとき後村上は住吉にいたはずなのでフィクションの可能性が高いが、あるいは光厳が後村上とひそかに会ったという事実はあるのかもしれない。
 こののち将軍・足利義詮のもとで足利幕府はその体制を着々と固め、南朝方であった旧直義・直冬党の大名たちも相次いで幕府に下った。こうした既成事実を背景に正平21年(貞治5、1366)に義詮は後村上に対して積極的に和平交渉を行っている。このときは幕府側は佐々木道誉、南朝側は楠木正儀が交渉役をつとめてこれまでになく話が進んでおり、正平22年(貞治6、1367)4月29日には南朝の勅使・葉室光資が後村上の綸旨をたずさえて義詮と対面するところまでこぎつけている。しかし後村上の綸旨の中に「義詮の降参を許す」という文言があったことに義詮が激怒、光資を追い返して和談はぶちこわしになってしまった。南朝側では以前から正儀が両朝和平に積極的で後村上をなだめすかしつつ話をここまで持って来たのだが、後村上自身はまだまだ強気だった。その強気はやはり九州の懐良の勢いに期待するものがあったためとみられる。だが結局懐良は九州から動かず、それどころか明と交渉して「日本国王」に認定されるなど、南朝とは独立した動きすら見せていた。
 
 激怒した義詮だったが、その後もねばりづよく後村上に使者を送って和談を持ちかけていた。しかしこの年の暮れ12月にその義詮が享年38歳で急死してしまう。将軍の地位はまだ10歳の子・義満が継ぎ、これを細川頼之が管領として補佐することで足利幕府は三代目の次代へと移行した。
 まるでそれと歩調を合わせるかのように、後村上天皇もその三ヶ月後の正平23年(応安元、1368)3月11日に住吉の行宮で死去してしまう(『愚管記』『花営三代記』。臨終も「子の刻(深夜零時)」と詳しい情報が入っている)。享年41歳。幼少期から父の代理として各地で奮戦し、何度となくわたりあった義詮と「二世」同士ほぼ同時にこの世を去るという不思議なめぐり合わせであった。
 この時期の南朝内部の事情は史料がほとんどないため判然とせず、その死因や皇位継承の状況などはまったく分かっていない。皇位は長男の寛成親王が継いで「長慶天皇」となるわけだが、その即位が公式に確認されたのが大正時代になってからというほどだ。義詮、後村上の相次ぐ死により一時歩み寄りを見せた和平交渉は頓挫、さらに長慶天皇が後村上以上の強硬派であったために和平派の楠木正儀は北朝に投降、南朝はさらに苦しい状況に追い込まれていくことになる。

 父・後醍醐が自身の追号を平安の醍醐天皇にならって生前から定めていたことは有名だが、後村上の場合も生前から決めていた証拠はないがこれにならったものである。醍醐天皇の次が村上天皇で、その治世は「延喜・天暦の治」として後世理想化されていた。その流浪を続けた奮闘も空しく、ついに父ともどもその夢はかなわなかった。墓所は観心寺にあり「檜尾陵(ひのきおのみささぎ)」と呼ばれる。
 『新葉和歌集』に収められた時期不明の後村上の御製に「我がすゑの 代々に忘るな あしがらや はこねの雪を 分けし心を」(足柄山や箱根の雪を踏み分けて遠征を繰り返した私の闘志を子孫たちは忘れてはならない)という一首がある。後村上がその晩年に幼少期の遠征の日々を思い起して詠んだ歌のようにも思える。
 
参考文献
森茂暁『皇子たちの南北朝』(中公文庫)『太平記の群像・軍記物語の虚構と真実』(角川選書)『南朝全史・大覚寺統から後南朝へ』(講談社選書メチエ)
佐藤進一『南北朝の動乱』(中公文庫)
林屋辰三郎『内乱の中の貴族・南北朝と「園太暦」の世界』(角川選書)『南北朝』(創元新書)
高柳光寿『足利尊氏』(春秋社)
『南北朝史話100話』(立風書店)ほか
大河ドラマ「太平記」 第26回で「義良親王」として初登場(演:細山田隆人)。内裏の庭で蝶を追いかけているところを勾当内侍と後醍醐天皇に呼び止められている。まだ6歳なのに後醍醐が「義良が一番末頼もしい」と言っている。第28回では北畠顕家と共に奥州へ向かうロケシーンで輿に乗せられて登場している。第35回の北畠軍が京へ駆けつけるロケシーンでは姿は見せないものの乗っている輿だけは映っている。
 第40回、第41回では後醍醐の死の床で廉子に付き添われて登場する(演:西垣内佑也)。セリフは一切なく、後醍醐の遺言を聞き黙って頭をさげるだけである。
 第43回から成人として登場(演:渡辺博貴)。第43回では楠木正行との謁見シーンがあり正成について尋ねている(「死に急ぐな」というセリフは廉子が口にしている)。第46回では足利直義の降伏を受けて南朝首脳で協議するシーンで登場し、「朕は先帝の御意志を果たさんがため、都に戻りたい一心じゃ」と直義降伏を受け入れる決断を下す。
その他の映像・舞台 1958年の映画「楠公二代誠忠録」では中村彰が演じた。
 舞台劇では「幻影の城」に登場しており、1961年版で石崎二郎、1969年版で松本行幸が演じた。
 1983年のアニメ「まんが日本史」では後醍醐臨終の場面で登場、間嶋里美が声を演じた(なお、母の廉子役も同じ人である)
歴史小説では当然名前は良く出てくるのだが、それほど個性を持って描かれた例はない。吉川英治『私本太平記』で結城宗広の死に臨んで泣き叫ぶのが印象に残る程度。
漫画作品では当然ながら学習漫画系が大半。ただしそれでも出てこない例も多い。小学館版『少年少女日本の歴史』では後醍醐の臨終の場面で登場しているが、なぜか髭を生やした青年の姿に描かれている(当時はまだ満11歳である)。石ノ森章太郎『萬画日本の歴史』では北畠親房の死を受けて「神皇正統記」を開き、その遺志を受け継ぐことを表明するシーンがある。

子夜叉こやしゃ
 NHK大河ドラマ「太平記」に登場する架空キャラクター(演:楠野紋子)花夜叉(実は楠木正成の妹)率いる田楽一座の一員で、「夜叉」女性たちの中で一番年下の少女。第14回で若干のセリフがある。なお、公式プロフィール等では未確認だが、この子夜叉役の楠野紋子はその後このドラマ中の役と縁があるような「楠木あや」の芸名になり、さらに「水瀬あやこ」として歌手活動を続けているようである。

金剛寺了源こんごうじりょうげん
 NHK大河ドラマ「太平記」に登場する架空キャラクター(演:垂水直人)。原作『私本太平記』には見えない。役名は「金剛寺了源」とクレジットされているが、正成は「金剛寺の了源坊」と呼びかけており、当人の名はあくまで「了源」。第11回「楠木立つ」の回で楠木屋敷に駆け付け、勅使・万里小路藤房の到来を告げる。金剛寺と正成が縁があったのは事実で、正成が金剛寺衆徒宛てに出した書状が現存することから創作されたキャラクターと思われる。ドラマでは藤房が金剛寺経由で楠木屋敷に向かうことになっているが、ルートから言うとやや不自然だし、そもそも藤房当人が正成のもとに勅使として出かけた可能性は低い。

近藤盛政こんどう・もりまさ生没年不詳
生 涯
―義満の家庭教師―

 『細川頼之記』『後太平記』といった後世の俗史書にのみ出てくる人物で、実在したかどうかも怪しい。
 『細川頼之記』によれば、幼い足利義満の父親代わりとなった細川頼之は義満に学問を教える師を探すことになり、春屋妙葩から正蔵主山名時氏から澄快という、それぞれ文才博学で評判の者を推薦されたが頼之はその性格が師としてふさわしくないと考えて退け、代わりに学問には乏しいが好人物の奈良の隠者・教司と、讃岐国の隠者で長年頼之と親交のあった近藤盛政を抜擢することにした。
 この盛政という人物、文武に通じ道徳的にも優れた人物だったが、老齢まで子ができなかったこともあり出家して僧となっていた。このため頼之から義満の師に選ばれてもなかなか承知しなかったが、頼之の熱心な頼みこみに負けて還俗して義満の師となった。教司ともども学問武道に博識というよりは人格的な面で義満を教育することが求められたようである。この二人の成功により学問や武道を教える者が京に集まり、文化が大いに栄えたという話になっていて、『頼之記』に多い中国故事などの流用と思える節もあってそのまま史実とも考えにくい。ただモデルになった人物はいたのかもしれない。

権ノ大夫ごんのたゆう
 NHK大河ドラマ「太平記」に登場した人物の役名(演:大矢兼臣)。護良親王が雪の日に宮中に呼び出され、そのまま逮捕されるシーンで登場する。原作『私本太平記』では「式部の権ノ大夫在房」とされ、ドラマのセリフでも「在房」と呼ばれている。→「式部の権ノ大夫在房(しきぶのごんのたゆうありふさ」を見よ。


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