後村上天皇 | ごむらかみ・てんのう | 1328(嘉暦3)-1368(応安元/正平23) |
親族 | 父:後醍醐天皇 母:阿野廉子
同母兄弟:恒良親王・成良親王
異母兄弟:尊良親王・護良親王・宗良親王・懐良親王ほか多数
后妃:嘉喜門院・北畠顕子ほか
子:長慶天皇・後亀山天皇・惟成親王・説成親王・良成親王・憲子内親王ほか
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立太子 | 1339年(暦応2/延元4)3月 |
在位(南朝第2代) | 1339年(暦応2/延元4)8月〜1368(応安元/正平23)3月 |
生 涯 |
後醍醐天皇を継いで吉野で即位した南朝第二代天皇。父・後醍醐の闘争に幼少期から関わり、即位後は父の遺志を継いで父同様に「戦う天皇」となった人物である。
―幼少からの波乱―
諱は「義良(のりよし)」。初めは「憲良」と表記していたらしい。なお彼の諱を「儀義」と記した同時代資料があることが後醍醐皇子たちの「良」字を「よし」と読む大きな根拠の一つとなっている。
母親は後醍醐の寵妃として有名な阿野廉子。同母兄に恒良親王(3歳上)、成良親王(2歳上)がいる。嘉暦3年(1328)に誕生しているが、日時は不明。後醍醐の数多くの皇子のうち義良が何番目にあたるのかについては確定が難しく、『太平記』は第七・第八の両説を書き、北畠親房『神皇正統記』は「第七御子」と記している。なお、親房は「正統記」の中で後村上について「(廉子が)この皇子を懐妊されたとき、日を抱く夢を見たという。このため数多くの皇子たちの中でも並みのお方ではないとかねてからささやかれていた」と記しているが、当然これは親房自身も幼少から接し、執筆時点で南朝天皇となっていた後村上を神格化するために創作した「誕生神話」であろう。
元弘元年(1331)に父・後醍醐は倒幕の挙兵をして失敗、翌年3月に隠岐へと配流された。これに母・阿野廉子も同行し、恒良・成良・義良の幼い三皇子は西園寺公宗邸に預けられた(十歳未満の皇子は流刑にならなかった)。しかし翌年に情勢は急変して元弘3年(正慶2、1333)5月に鎌倉幕府は滅亡、後醍醐と廉子は京へ凱旋した。後醍醐と苦労を共にした廉子の立場は当然強くなり、その三皇子も後醍醐の数多くの皇子たちの中で地位を上昇させることになった。
幕府が滅亡し後醍醐による天皇親政がさっそく開始されるが、10月に義良親王は陸奥守・北畠顕家とその父・親房に擁せられて奥州・多賀城に下った。これは足利尊氏の勢力圏である関東を牽制するため護良親王が発案したものとも言われ、奥州にミニ幕府体制を作り、その象徴的首班としてまだ数えで六歳と幼少の義良親王を据えるものであった(鎌倉幕府も幼少の親王将軍を象徴的君主として立てていた)。これ以後奥州とのかかわりが深くなる義良は「陸奥宮」「陸奥親王」「陸奥の御子」の通称がつく。
一方、二つ上の兄の成良は足利氏に擁されて鎌倉ミニ幕府の象徴的首班となり、三つ上の兄・恒良は建武元年(1334)正月に皇太子に立てられた。廉子の三皇子が建武政権の三極それぞれに配置された理由はさまざまに取りざたされるが、ともかくこの配置が三皇子のその後の運命を決定してゆくことになる。
―奥州からの二度の遠征―
建武元年(1334)5月に義良は奥州の地で親王宣下を受けた。まだ7歳の義良に奥州統治などできるわけもなく、実際の統治は陸奥守・北畠顕家があたっていた。もちろん顕家もこの時まだ17歳であり、父の親房が後見にあたり、さらに結城宗広ら奥州の有力武士たちがこれを補佐した。
建武2年(1335)11月、中先代の乱を平定して鎌倉に居座った足利尊氏の叛意が明らかになったとして、朝廷は新田義貞を主力とする足利討伐軍を関東へ送った。これに呼応して奥州からも北畠顕家を主将とする軍勢が起こされ、ここでも義良はその象徴的司令官として担ぎ出される。12月29日付で義良の名のもとに顕家が結城親朝(宗広の子)を侍大将に任じる令旨が現存しており、わずか8歳の皇子の令旨という異例のものである。
新田軍は箱根・竹之下の戦いで敗北して京へ逃げ帰り、これを足利軍が追って京を目指し、さらにこれを奥州からの北畠・義良軍が追うという日本史上にもまれな大軍レースが展開され、翌建武3=延元元年(1336)正月に京をめぐる激しい攻防戦の末に足利軍は敗北、2月には九州まで逃れた。象徴的存在とはいえ殊勲者となった義良はこの年3月に早々と元服させられ、三品・陸奥太守に叙せられて名義的にも奥州の統治者となった。そして腰を落ち着ける間もなく、今度は鎮守府大将軍となった顕家と共に再び奥州へと赴くのである。これはその後の展開を考えると致命的失敗とも言われるが、「東国のことおぼつかなし」(神皇正統記)という事情もあったとみられる。
実際、3月10日に京を発った義良と顕家の軍は各地で足利方の妨害を受け、多賀城にたどりついたのはようやく5月25日のことである。ちょうどこの日、九州から大挙舞い戻って来た足利軍が湊川の戦いで楠木正成・新田義貞を撃破、建武政権の崩壊をほぼ決定づけている。
この年の暮れ、後醍醐は吉野に入って京奪回を各地に呼びかけた。当然奥州勢に期待するところ大だったが、そのころ足利方の攻勢に苦しんでいた義良と顕家は延元2年(建武4、1337)正月に多賀城を放棄、伊達郡の天然の要害・霊山に移った。とてもすぐに後醍醐の呼びかけに応じられる状況ではなく、ようやく8月11日に義良と顕家は霊山を出発して二度目の大遠征を開始する。
奥州軍は下野でやや手こずるが、12月末に足利義詮(こちらも幼少の象徴的司令官。二世同士後村上とは何かと共通点がある)が守る鎌倉を攻め落とした。翌延元3年(暦応元、1338)正月に奥州軍は鎌倉を発って途上で略奪を繰り返しながら東海道を進撃、途中から新田義興、北条時行、異母兄の宗良親王が合流し、美濃・青野原の戦いで足利軍を撃破した。しかしここで奥州軍は「謎の転進」をして伊勢で兵を休め、2月に奈良に入り、ここから京を目指そうとした。しかし般若坂の戦いで高師直・桃井直常らに敗北し、顕家ら軍の主力は楠木氏の勢力圏である河内方面へ移動した。天王寺でも敗北したのち、義良と宗良は大事をとって軍から離れて吉野に行き、久々に父・後醍醐に対面している。奥州軍の活動はその後も続いたが、5月22日の石津の戦いで顕家は戦死、7月には占領していた男山八幡も陥落して奥州軍はここに壊滅した。直後の閏7月に北陸では新田義貞が戦死し、南朝勢力の敗勢は明らかとなった。
―遺志を継ぎ即位―
致命的なまでの敗戦にも後醍醐の執念は消えなかった。再び地方から京を包囲攻撃する長期的作戦を立て、九州には懐良親王を、東海には宗良を、そして奥州へはまたも義良に北畠親房・結城宗広らをつけて派遣しようとしたのである。
この年9月に伊勢から義良らを分乗させた大船団(一説に五百艘)が東国目指して出航した。これだけの大船団が組めたのは南朝に熊野水軍ら海賊勢力が味方していたためとみられるが、不幸にもこの船団は途中嵐に見舞われ(親房自身の記すところでは房総沖。「太平記」では天竜灘とする)、散り散りになって各地に漂着してしまった。宗良は目的地・遠江に入ったが、親房は常陸へ、そして義良と宗広は伊勢へ吹き戻された(なお親房は常陸に入ってからもしばらく義良が奥州へ着いたものと信じ込んでいた)。宗広はここで失意のうちに病死してしまい、義良はしばらくは奥州行きをあきらめなかったと見られるが、結局吉野へと戻って行った。恐らくこのころ後醍醐が発病しており、万一の場合その帝位を継ぐ皇子が義良しかいなかったためであろう。そこに生母・廉子の意向も予想される。廉子の他の二人の皇子、恒良と成良はすでに足利の手に落ちており(「太平記」では足利によって毒殺されたことになっているが疑問視されている)、廉子としてもこの状況で義良を遠く奥州へ行かせるわけにはいかなかったのだ。
吉野に戻った義良は延元4年(暦応2、1339)3月に皇太子に立てられた(「神皇正統記」では伊勢出航以前に立太子したように書かれているが信じがたい)。そして8月に後醍醐はいよいよ重態に陥り、8月15日に死期を悟って義良への譲位を実行した。ここに南朝第二代「後村上天皇」が即位したのである。譲位の儀式は近衛経忠の屋敷に入って神器を拝礼するという簡素な形で行われたという。ただし、このとき南朝では後醍醐が北朝の光明天皇に引き渡した神器は偽物と主張し本物は南朝が所持していると主張していたが、その後の経緯からするとこの時点では実際には神器を所持していなかった可能性が高い。だが正統性を主張する以上、あくまで本物を持っている姿勢を見せねばならなかったのだと見られる。
親房は義良のこの数奇な即位を「皇太神の意志」としてあらかじめ運命づけられていたように神秘化しているが、むしろ「運命のいたずら」とでも呼ぶべきであろう。このとき後村上、数えでまだ十二歳である。
まだ幼少の後村上を「国母」の廉子、関白の近衛経忠、洞院実世・四条隆資ら後醍醐以来の忠臣が支えることで南朝の第二期は開始された。関東では南朝首脳の一角を占める北畠親房が南朝勢力を拡大すべく奮闘を続けており、後醍醐亡きあとの南朝のイデオロギーの「教典」とするべく歴代天皇の歴史をつづった『神皇正統記』を執筆している。この『正統記』は冒頭で「ある童蒙」のために書いたと執筆動機を記しており、この「童蒙」とは後村上を指すとするのが通説である。
親房が「正統記」を執筆した背景には南朝内部で先行きの不安が漂っていたことがあったかもしれない。事実、興国2年(暦応4、1341)に近衛経忠が突然京に赴いたとか、「藤氏一揆」を結成して南朝分派工作をしようとしたといった情報があり、その真偽はともかく南朝内で北朝との和睦を図る動きが出て親房の足を引っ張った事実はあるらしい。親房は「吉野殿上さま御幼稚、政事を知ろしめされず。両上卿沙汰錯乱の事など候か(吉野の帝がご幼少で政治をみることがきでない。重臣二人がおかしなことをやっているのではないか)」と書状で記し、幼少の後村上の周囲を和平派が取り囲んで方針を誤らせていると嘆いている。興国5年(康永3、1344)に親房が関東から吉野に戻ると、後村上周辺は親房ら強硬派が幅を利かせたようで、後村上もその影響を受けてゆく。
なお時期は不明だが南朝版勅撰和歌集である『新葉和歌集』に後村上が「朝拝の心を」と題して詠んだ「たあかみくら とばりかかげて 橿原(かしはら)の 宮の昔も しるき春かな(玉座から御簾をあげて正月の朝拝をすると、神武天皇の橿原の宮での建国時もこのようであったかと思われる)」という和歌が収録されており、後村上が初代天皇・神武を強く意識していたのではないかとの推測もある。彼の時代の「興国」「正平」といった元号にも共通した意識がうかがえる(「興国元年」が神武即位二千年にちょうど当たっているとの指摘もある)。
南朝元号が「正平」となったのは親房が吉野に戻った翌年である。この元号は長く続き、結局後村上の在位中は改元されなかった。この正平に入って間もなく、南朝は久々に攻勢に乗り出す。正平2年(貞和3、1347)8月から楠木正成の遺児・楠木正行が活動を開始、足利方の軍を河内・和泉各地で撃破するめざましい活躍を見せた。これに対して足利幕府は執事・高師直を出陣させ反撃に出る。師直との決戦を前にした正行は同年12月27日に吉野に赴き、後村上に謁見した。『太平記』によればこのとき正行が後村上に「師直の首をとるか、こちらの首をとられるか」と決死の覚悟を伝えると、後村上は御簾をあげさせて直接正行に「機会を逃さぬために進まねばならぬ時もあるが、後のことを考えて退くべきときもあるぞ。お前は朕の大切な臣下だ。慎重に行動して命を全うせよ」と正行をなだめる発言をしたとされる。一説にこの正行の無理な出撃は親房の意向によるものとされ、後村上は自分とさして年の変わらぬ正行にそれとなく命を惜しめと言いたかったのかもしれない。
しかし正平3年(貞和4、1348)1月5日、四条畷の戦いで正行ら楠木軍主将は戦死、南朝軍は壊滅した。高師直軍はその勢いで吉野へと押し寄せ、後村上ら南朝の人々はただちに吉野を放棄して、奥地の賀名生(あのう、もともと「穴太」といったのを縁起を担いで後村上が改名したとも言う)の地へと逃れた。このとき師直は南朝側と和平交渉(実態としては降伏勧告)をもちかけているが、南朝側が全くこれを無視して逃げたことを知ると吉野の神社仏閣を焼き払ってしまった。師直がそれ以上後村上らを追及しようとしなかったのは、まだ話し合いの余地があると思っていたこともあるが、南朝を支える大和・紀伊の悪党的武士集団によるゲリラ的抵抗を恐れたためとも見られる。
後村上が吉野を放棄したことを信濃で知った宗良親王は「たらちねの 守りをそふる み吉野の 山をばいづち 立ちはなるらむ」(父君の魂が守る吉野の山を捨ててどこへ行ってしまうのだ)と弟帝を非難するような歌を送りつけているが、後村上はその返歌として「ふる郷と なりにし山は 出でぬれど 親の守りは猶もあるらむ」(故郷となった山は出てきたが、父君の魂はなおも私を守ってくれよう)」と詠んで送っている。このとき後村上はようやく二十代、苦難続きの青年君主であった。
―正平の一統〜京奪回の夢にあと一歩―
しかしピンチのあとにチャンスあり。すでに消滅寸前に見えた南朝に逆転の好機が転がりこんで来た。数年来くすぶっていた足利幕府内部の足利直義派と高師直派の対立が頂点に達し、将軍尊氏も巻き込んだ深刻な内戦「観応の擾乱」を引き起こすのである。
正平4年(貞和5、1349)8月、高師直派のクーデターにより直義が失脚。翌正平5年(観応元、1350)10月に直義は京を脱出して大和に入り、南朝に降伏した。足利幕府の実質的建設者である直義と南朝の政治思想が相容れるわけもなく、南朝首脳もその扱いに迷ったが、「敵の敵は味方」「漁夫の利を得よ」という親房のマキャベリズム的な意見が通り、後村上は直義を勅免し師直らを討伐する綸旨を与えた。これを得た直義は自派の武将たちと共に挙兵し、尊氏・師直の軍を打ち破って降伏させ、直後に師直ら高一族を皆殺しにした。
ひとまず勝利者となった直義は南北朝合体の交渉を親房との間で進めるが(楠木正儀が仲介役だった)、結局これは破談に終わる。そしていったんは和解したかに見えた尊氏と直義は再び戦いを始め、正平6年(観応2、1351)8月になると今度はなんと尊氏が南朝に降伏を申し入れて来た。尊氏は直義ほどこだわりもなく北朝をあっさり見捨てて南朝の後村上を正統の天皇と認めてしまい、南朝側も様子見をしつつ11月にこれを受け入れ、尊氏を勅免して直義討伐の綸旨を与えた。お互い一時の方便と分かったうえで利用し合ったと見てもいい。
ともあれ、この11月7日をもって南朝は北朝の天皇・年号・叙官を全て廃し、賀名生にいる後村上が唯一正統の天皇となった。これを「正平の一統」と呼ぶ。慌てた北朝公家たちはこぞって賀名生参りをして後村上らの歓心を買おうとし、南朝北朝に分かれて争っていた家では家督や所領の交代が行われて悲喜こもごもの騒ぎとなった。そして12月23日に後村上は中院具忠を京に送りこんで、さっそく北朝のもつ「神器」を「偽物とはいえ一時は神器として使われたのだから」という奇怪な理屈で接収してしまう。この「偽の神器」が28日に賀名生に届くと、南朝では神楽を執り行うなど神事を盛大に行い、廉子には「新待賢門院」の女院号を奉り、親房には「准后」宣下をするなど、大変なはしゃぎぶりだったという。
このため実際にはこの時まで南朝は神器を持っていなかったのではないかという見解も有力である。いずれにしても確実にこれ以降は南北朝合体まで南朝側が神器を保持し続けることになる。
翌正平7年(観応3、1352)2月26日、鎌倉で足利直義が死んだ。尊氏による毒殺も噂されるが、その真相はともかく尊氏・直義兄弟の争いはひとまずここに決着した。つまり尊氏にとっても後村上ら南朝にとっても相手と組む理由が消滅したのである。
全くの偶然であろうが直義が鎌倉で死んだその同日、後村上は京へ「凱旋」するべく賀名生を発った。出発の日程は2月3日に公表されており、それによれば今年京都は「方忌(方角が悪い)」のでひとまず男山八幡に行宮を定めるということになっていた。まっすぐ京に入らないのはもしかすると足利方の出方をうかがう意図もあったかもしれない。
2月26日に賀名生を出発した後村上一行は大和五条、河内東条を経て、28日に住吉大社に入った。後村上には母の廉子ら南朝の首脳陣もこぞって同行しており、そのいでたちは元弘の際の後醍醐凱旋の例にならっていたという。住吉でしばらく滞在しているうちに関東から直義死去の情報が入り、これとほぼ同時に南朝方が楠木・北畠らの軍勢を京周辺に配置したこともあって、京都では南朝軍が軍事占領を狙っているのではないかと緊迫した。実は南朝側では最初からそのつもりで綿密に計画を立てており、関東でも宗良親王に新田一族ら南朝軍を率いさせて、京と鎌倉を同時に占領するという東西同時作戦を行おうとしていたのである。
閏2月16日に後村上は住吉を出て、19日に京ののど元と言える男山八幡に入った。翌20日には北畠顕能・楠木正儀らの南朝軍が足利義詮を京から追って、あっけなく京を占領してしまった。これとほぼ同時に18日に宗良率いる南朝軍が尊氏を追って鎌倉を占領、南朝は東西で大きな成功を収めたのである。
後村上は男山八幡宮の宮司・田中定清の屋敷に入ってここを行宮とした。そして足利方に北朝を復活させないために光厳・光明・崇光ら三上皇および皇太子となっていた直仁親王を男山八幡に連行した。こうなれば尊氏・義詮が「官軍」となることは永久にできず滅亡は必至、父・後醍醐の京奪回の夢が目前まで迫ったと、このとき後村上は確信したに違いない。
しかし現実は甘くはなかった。南朝側の奇策も軍事的裏付けが強くあるものではなく、たちまち足利側の反撃を招いた。また正平の一統の裏の立役者であった赤松則祐のように南朝側の背信に怒って南朝を見限る武将も出たことで、3月15日には京都は奪い返され、南朝軍は男山八幡に立てこもって籠城戦を強いられる。北朝皇族たちは河内、さらに賀名生へと連行し、後村上らは二カ月近くにわたってしぶとく抵抗を続けた。兵糧攻めにも持ちこたえたが、結局軍事的に頼みにしていた湯浅庄司が寝返ったことで5月11日に南朝軍はついに男山を放棄した。
悲願の京を目の前にして引くわけにはいかなかったのだろう。後村上は男山陥落、自軍崩壊という危険きわまる段階まで踏みとどまっていた。『太平記』によれば、このとき後村上は黄糸の鎧を身につけ栗毛の馬にまたがって撤退を試みた。その姿を見た足利軍の武士・一宮有種が追いかけ、「しかるべき大将とお見受けした。敵に追われて一度も馬を返さぬとは卑怯ではないか!」と勝負を挑んだ(もちろん相手が天皇だとは思いもよらなかったのだ)。これを聞いた南朝公家・法性寺康長が「なんと無礼な」と一宮の兜を太刀で殴りつけ、一宮が朦朧としているうちに後村上はからくも逃れた。そのあとも雨のように矢を浴びせられ、二本鎧に刺さったが体には傷つかず、康長の奮戦もあって後村上はどうにか楠木の拠点・河内東条へと落ち延びた。この混乱の中で四条隆資ら南朝の重臣たちも数人戦死しており、後村上が携えていた三種の神器のうち鏡を入れた櫃は預かっていた者が逃亡したらしく、途中の田の中に落ちていたのを名和長生(名和長年の弟。その兄の長重の誤りとみる説もある)が拾って持ちかえるという始末だった。
これら『太平記』の伝える劇的な場面が決して絵空事とは言えないことは洞院公賢の日記『園太暦』でも確認できる。後村上は奈良を経由して賀名生へと帰って行ったが、その途中の奈良での目撃情報が興福寺からもたらされ、「主上(後村上)とおぼしき人は甲冑直垂をつけて兵士たちに紛れ込んでいて一見見分けがつかなかった。だが鞍の前に新しいつづらを一つ緒をつけて運んでいたので、これがもしかすると神器であったのかもしれない」と報告されているのだ。父・後醍醐も「戦う天皇」ではあったが、後村上のように自ら甲冑を身につけて戦場に身をさらした天皇はそれこそ神武天皇クラスの創業神話以来かもしれない。このとき後村上はまだ数えで25歳、天皇とはいえ血気盛んな若武者といってよかった。
―京奪回への執念―
この直後の5月末、「南帝が三歳の皇子に譲位して、自ら再び京を目指して出陣するらしい」との風聞が京で流れている。「三歳の皇子」というのが誰なのか分からず(次代の長慶天皇とすると年齢に疑問がある)、結局そのようなことにはならなかったのであくまで噂にすぎないのだが、手痛い敗北を喫した後村上がなおも執念を燃やし、いっそのこと退位して後顧の憂いなく決戦をしようと腹を決めて譲位の意志を示した事実はあったのかもしれない。この年の冬に親房に命じて父・後醍醐が編纂した「建武年中行事」(平安以来の朝廷行事をまとめたもの)を書写させ、翌年自らその校正を行っていることも、「正統な天皇」であることを主張し南朝を鼓舞する意図があったと思われる。
足利側は後村上に北朝皇族の引き渡しを求めたが拒絶され、やむなく南朝に捕えられずに済んでいた光厳の皇子・弥仁親王を神器なし、光厳の生母・広義門院の「院宣」により即位という非常措置によって新天皇に立てた(後光厳天皇)。これに南朝側が怒り狂ったのはもちろんのこと、北朝側も王朝の正統性に一定の弱みをもってしまうことになる。
南朝の軍事力は楠木氏・北畠氏を中心にまだまだ一定の力を持っていた。また尊氏に敗北した直義一派が直義の養子で尊氏の庶子である足利直冬を首領と仰いで結束、そのまま南朝に投降してそれに加わった。正平8年(文和2、1353)6月に直冬党の山名時氏・石塔頼房らが楠木正儀らと共に京に攻め込み、義詮と後光厳天皇を追い出して南朝二度目の京都占領を実現した。この時の南朝側の北朝公家に対する処分は凄まじく過酷なもので、後村上らが後光厳即位にいかに怒り狂っていたかを物語る。しかしこの占領もやはり長くは続かず、7月末には京は義詮軍に奪回された。
この二度目の京都占領の直前、洞院公賢は後村上周辺での奇怪な噂を聞いて日記に記している。それによるとこの年の2月に南朝の公家・中院具忠が後村上の女御(親房の娘という)と密通のうえ逃亡し、怒った親房が関わりを疑って賀名生の土民数名の首をはねてさらしものにした。すると土民たちが蜂起、あるいは逃亡する騒ぎになり、後村上らは危険を感じて賀名生を離れ、京占領目前だった楠木軍を呼び戻そうとした…というのだ。ただし中院具忠は前年戦死しているはずで、この噂が全て事実とは思われない。ただ賀名生周辺で何かそのような騒ぎがあったことは、これ以後親房の存在感がなくなること、間もなく後村上が賀名生を放棄することからも裏付けられる。
翌正平9年(文和3、1354)に南朝の柱石であった北畠親房が死去した(4月とも9月ともいう)。その年の10月28日に後村上は賀名生を離れ、行宮を河内天野の金剛寺に移した。ここは後醍醐・後村上二代にわたって護持僧をつとめる文観とかかわりが深く、このとき文観の弟子・禅恵が寺の学頭をつとめていた。また南朝の主要軍事力となる楠木・和田一族の拠点でもあった。これ以後南朝は大和方面から河内・和泉方面にその中心を移していくことになる。
この年の暮れ、足利直冬を総帥とする南朝軍が京へと攻め込んだ。南朝軍とは言っても直冬はこのとき南朝から「総追捕使」すなわちほぼ征夷大将軍と同意といっていい地位を任され、もはや主導権は直冬側に移っていた。直冬率いる南朝軍は翌正平10年(文和4、1355)正月に京を占領(南朝の第三回京占領)、尊氏・義詮と京市街で激しい戦闘を繰り広げたあげく、3月に京から撤退した。もはや南朝側の劣勢はなすすべもないところまで来ていた。
だが尊氏はむしろこの時期南朝に対して融和的な態度を示し、平和裏に南北朝和議がなるようはたらきかけている。これに応じる形で後村上は正平12年(延文2、1357)2月に光厳上皇ら北朝皇族たちを解放して京に帰した(いまさら北朝皇族を拘束する意味もなかったし、金剛寺の行宮が手狭で負担になっていたとの見方もある)。この年7月まで南北両朝(実質は尊氏と後村上)の和議が実現寸前まで進んだが、結局物別れに終わっている。
この年の10月に金剛寺で南朝の精神的支柱といえた文観が亡くなり、翌正平13年(延文3、1358)4月には長年の宿敵・足利尊氏が死去した。そしてさらに翌年の正平14年(延文4、1359)4月に後村上の生母・阿野廉子が死去する。南北朝動乱の第一世代がこの時期相次いで世を去り、本格的に後村上や義詮といった第二世代の時代を迎えたのである。
足利幕府の第二代将軍となった義詮はこの正平14年末に一気に南北朝動乱のカタをつけようと、関東からも大軍を呼び出し、自らも出陣して天野の金剛寺への直接攻撃にとりかかった。これには南朝公家たちも動揺して中院通冬ら主要な公家が北朝に投降してしまい、危険を感じた後村上は12月に楠木氏の本拠地により近い河内・観心寺に行宮を移した。翌年の4月に幕府軍は金剛寺一帯を焼き払い、各地の南朝拠点を攻め落として南朝をあと一歩まで追い込んだが、ついにそれを完全壊滅させるにはいたらなかった。この時点でも義詮はあくまで最後は「和議」という形で決着することを望んでいて実際交渉をもちかけてはいたようである(これは尊氏以来、義満にいたるまで一貫した姿勢であった)。さらに長引く遠征中に幕府軍の大名間で深刻な対立が起こり、仁木義長の反乱も起こったことで幕府は軍を引き揚げざるを得なくなった。
後村上はこれで強気になったようで、9月に観心寺を出て摂津・住吉大社に行宮を移している。
―京へ帰る夢も空しく―
住吉に入った後村上は反転攻勢の機会とみたか、信濃にいる兄・宗良に「大軍を率いて京へ攻めのぼれ」と催促を繰り返すようになる。このころ九州では弟の懐良親王が菊池氏と共に大宰府を攻め落として九州を「南朝王国」化しており、これが攻めのぼれば形勢逆転もありうると考えたのかもしれない。
正平16年(康安元、1361)9月、幕府の執事をつとめていた勇将・細川清氏が佐々木道誉との対立をきっかけに反逆、石塔頼房を通じて南朝に投降した。清氏が京攻撃を後村上にもちかけてくると、後村上はこれに乗り気になって楠木正儀を呼んで意見を求めた。正儀は「一時の占領なら簡単ですが、すぐに取り返されますよ」と答えたが、後村上はじめ公家たちは「一夜の夢でもよい、京で一夜でも過ごせれば悔いはない」と言って出撃を決めたという(「太平記」)。清氏・正儀を主力とする南朝軍は12月8日に京に攻め入り、南朝四度目の京占領を実現するが、はたして正儀の予想通り、20日と経たずにこれを奪い返された。結局これが最後の南朝軍京占領となる。
翌正平17年(康安2、1362)に光厳上皇が大和を旅していて、恐らくこれをモデルに『太平記』は光厳が供の僧一人を連れて各地を散策し、最後に吉野を訪ねて後村上と対面し旧交を温める物語をつづっている。このとき後村上は住吉にいたはずなのでフィクションの可能性が高いが、あるいは光厳が後村上とひそかに会ったという事実はあるのかもしれない。
こののち将軍・足利義詮のもとで足利幕府はその体制を着々と固め、南朝方であった旧直義・直冬党の大名たちも相次いで幕府に下った。こうした既成事実を背景に正平21年(貞治5、1366)に義詮は後村上に対して積極的に和平交渉を行っている。このときは幕府側は佐々木道誉、南朝側は楠木正儀が交渉役をつとめてこれまでになく話が進んでおり、正平22年(貞治6、1367)4月29日には南朝の勅使・葉室光資が後村上の綸旨をたずさえて義詮と対面するところまでこぎつけている。しかし後村上の綸旨の中に「義詮の降参を許す」という文言があったことに義詮が激怒、光資を追い返して和談はぶちこわしになってしまった。南朝側では以前から正儀が両朝和平に積極的で後村上をなだめすかしつつ話をここまで持って来たのだが、後村上自身はまだまだ強気だった。その強気はやはり九州の懐良の勢いに期待するものがあったためとみられる。だが結局懐良は九州から動かず、それどころか明と交渉して「日本国王」に認定されるなど、南朝とは独立した動きすら見せていた。
激怒した義詮だったが、その後もねばりづよく後村上に使者を送って和談を持ちかけていた。しかしこの年の暮れ12月にその義詮が享年38歳で急死してしまう。将軍の地位はまだ10歳の子・義満が継ぎ、これを細川頼之が管領として補佐することで足利幕府は三代目の次代へと移行した。
まるでそれと歩調を合わせるかのように、後村上天皇もその三ヶ月後の正平23年(応安元、1368)3月11日に住吉の行宮で死去してしまう(『愚管記』『花営三代記』。臨終も「子の刻(深夜零時)」と詳しい情報が入っている)。享年41歳。幼少期から父の代理として各地で奮戦し、何度となくわたりあった義詮と「二世」同士ほぼ同時にこの世を去るという不思議なめぐり合わせであった。
この時期の南朝内部の事情は史料がほとんどないため判然とせず、その死因や皇位継承の状況などはまったく分かっていない。皇位は長男の寛成親王が継いで「長慶天皇」となるわけだが、その即位が公式に確認されたのが大正時代になってからというほどだ。義詮、後村上の相次ぐ死により一時歩み寄りを見せた和平交渉は頓挫、さらに長慶天皇が後村上以上の強硬派であったために和平派の楠木正儀は北朝に投降、南朝はさらに苦しい状況に追い込まれていくことになる。
父・後醍醐が自身の追号を平安の醍醐天皇にならって生前から定めていたことは有名だが、後村上の場合も生前から決めていた証拠はないがこれにならったものである。醍醐天皇の次が村上天皇で、その治世は「延喜・天暦の治」として後世理想化されていた。その流浪を続けた奮闘も空しく、ついに父ともどもその夢はかなわなかった。墓所は観心寺にあり「檜尾陵(ひのきおのみささぎ)」と呼ばれる。
『新葉和歌集』に収められた時期不明の後村上の御製に「我がすゑの 代々に忘るな あしがらや はこねの雪を 分けし心を」(足柄山や箱根の雪を踏み分けて遠征を繰り返した私の闘志を子孫たちは忘れてはならない)という一首がある。後村上がその晩年に幼少期の遠征の日々を思い起して詠んだ歌のようにも思える。
参考文献
森茂暁『皇子たちの南北朝』(中公文庫)『太平記の群像・軍記物語の虚構と真実』(角川選書)『南朝全史・大覚寺統から後南朝へ』(講談社選書メチエ)
佐藤進一『南北朝の動乱』(中公文庫)
林屋辰三郎『内乱の中の貴族・南北朝と「園太暦」の世界』(角川選書)『南北朝』(創元新書)
高柳光寿『足利尊氏』(春秋社)
『南北朝史話100話』(立風書店)ほか
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大河ドラマ「太平記」 | 第26回で「義良親王」として初登場(演:細山田隆人)。内裏の庭で蝶を追いかけているところを勾当内侍と後醍醐天皇に呼び止められている。まだ6歳なのに後醍醐が「義良が一番末頼もしい」と言っている。第28回では北畠顕家と共に奥州へ向かうロケシーンで輿に乗せられて登場している。第35回の北畠軍が京へ駆けつけるロケシーンでは姿は見せないものの乗っている輿だけは映っている。
第40回、第41回では後醍醐の死の床で廉子に付き添われて登場する(演:西垣内佑也)。セリフは一切なく、後醍醐の遺言を聞き黙って頭をさげるだけである。
第43回から成人として登場(演:渡辺博貴)。第43回では楠木正行との謁見シーンがあり正成について尋ねている(「死に急ぐな」というセリフは廉子が口にしている)。第46回では足利直義の降伏を受けて南朝首脳で協議するシーンで登場し、「朕は先帝の御意志を果たさんがため、都に戻りたい一心じゃ」と直義降伏を受け入れる決断を下す。 |
その他の映像・舞台 | 1958年の映画「楠公二代誠忠録」では中村彰が演じた。
舞台劇では「幻影の城」に登場しており、1961年版で石崎二郎、1969年版で松本行幸が演じた。
1983年のアニメ「まんが日本史」では後醍醐臨終の場面で登場、間嶋里美が声を演じた(なお、母の廉子役も同じ人である)。 |
歴史小説では | 当然名前は良く出てくるのだが、それほど個性を持って描かれた例はない。吉川英治『私本太平記』で結城宗広の死に臨んで泣き叫ぶのが印象に残る程度。
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漫画作品では | 当然ながら学習漫画系が大半。ただしそれでも出てこない例も多い。小学館版『少年少女日本の歴史』では後醍醐の臨終の場面で登場しているが、なぜか髭を生やした青年の姿に描かれている(当時はまだ満11歳である)。石ノ森章太郎『萬画日本の歴史』では北畠親房の死を受けて「神皇正統記」を開き、その遺志を受け継ぐことを表明するシーンがある。 |