四条隆資
| しじょう・たかすけ | 1292(正応5)-1352(文和元/正平7) |
親族 | 父:四条隆実 子:四条隆量・四条隆任・四条隆貞・四条隆俊・四条有資・西園寺実俊室 |
官職 | 右近衛少将・左近衛中将・右近衛中将・因幡守・中宮亮・蔵人頭・加賀権守・左兵衛督・権中納言・検非違使別当・大納言(南朝)・贈左大臣(南朝) |
位階 | 正五位下→従四位下→従四位上→正四位下→従三位→正三位→従二位→正二位→従一位(南朝) |
建武の新政 | 雑訴決断所 |
生 涯 |
―後醍醐の腹心の公家―
一貫して南朝に仕えた「公家武将」の代表。父の隆実が早く亡くなったため祖父の隆顕の養子となって育てられる。文保2年(1318)に正五位下・右少将となり、この年に即位した後醍醐天皇の側近の一人として次第に重んじられてゆく。『増鏡』では元亨元年(1321)8月15日の十五夜歌合に講師として姿が見える。後醍醐の指示のもと日野資朝・日野俊基らが主催した「無礼講」に隆資も参加していたと『太平記』は記しており、正中の変(1324)直前には討幕計画に深く関与していたと思われる。
正中の変では日野資朝一人が罪をかぶって流刑となり、後醍醐らは7年間じっくりと機会をうかがった。寺社勢力の支持を得るための比叡山・奈良行幸にも隆資は参加している。元弘元年(1331)8月に後醍醐がついに笠置山で挙兵すると隆資は息子の隆量と共に笠置山まで同行している。笠置が陥落した際に息子の隆量は捕えられ、官職も剥奪されたうえ佐々木貞氏に預けられて間もなく処刑されたと推測され(尊卑分脈、断絶諸家略伝)、もう一人の子・隆貞は楠木正成と合流して総大将として天王寺の合戦に参加しているが、隆資当人の消息は全く不明となっている。正慶元年(1332)の『公卿補任』では「逐電」とあって行方不明のために流刑にもなっていないことがわかる。どうやら出家してどこかに隠れ住んでいたらしく、『増鏡』は元弘3年(正慶2、1333)5月に後醍醐が勝利して京に帰還した時、出家していた隆資が姿を現し髪を伸ばして還俗したことをその巻末で物語る(「二条河原の落書」で「還俗・自由出家」とからかわれているのは隆資のことという説がある)。
隆資は5月17日付でもとの権中納言の職に戻った。そして6月に護良親王が京に凱旋すると隆資も赤松円心・殿良忠ら護良の腹心らと共にその行列に加わっていたと『太平記』は記す。ただし前後の状況からするとこれは息子の隆貞を誤った可能性もある。
―南朝の忠臣として戦死―
建武政権では功臣として雑訴決断所などで重職を担ったが、息子の隆貞が護良親王の側近となっていたためか微妙な立場になったらしく、建武元年(1334)2月に突然権中納言の職を辞している。その年の10月に護良親王が後醍醐の命で逮捕され失脚、これに反抗した隆貞はその年12月に討伐を受け殺されている。息子二人が相次いで非業の死を遂げた隆資だったが後醍醐への忠節は捨てず、その後も建武政権で重職を担う一方、反乱を起こした足利尊氏との戦いでは自ら軍を率いて出陣もしている。
建武3年(延元元、1336)10月、後醍醐は尊氏といったん和睦して比叡山を降りるにあたって隆資を紀伊に向かわせ再起の種をまいておいた。その年の暮れに後醍醐が吉野に入って南朝を開くと、隆資もこれに馳せ参じて北畠親房・洞院実世らと共に南朝の中核となった(同時に北朝での官職は剥奪された)。
延元4年(1339)に後醍醐が逝去し後村上天皇が即位すると洞院実世と共に南朝の執政にあたり、特に軍事面での指揮権を担っていたと推測される。このころ遠江の地にいた宗良親王と後醍醐をしのんで歌った和歌のやりとりが『新葉和歌集』に収められている。また北陸で敗れて吉野にやって来た新田義貞の弟・脇屋義助に対して褒賞を与えるかどうかで、「平維盛の例のように敗軍の将に賞を与えるべきではない」と主張する洞院実世に対し、隆資が義助を苦労ねぎらい弁護する発言をし、実世を恥じ入らせたことが『太平記』にみえる。
正平2年(1347)に楠木正行が出陣し南朝軍が攻勢をかけた時には、隆資は拠点のある紀伊国で飯盛山に挙兵して呼応している。しかし翌年正月に正行は高師直の前に敗死し、師直は勢いを駆って吉野へ進撃、隆資の提案で後村上以下南朝の人々は賀名生の山奥へと逃れた。これにより南朝の衰退は明らかとなったが、この直後に足利幕府では足利直義と高師直の対立が激化、尊氏も巻き込んで「観応の擾乱」へと突入していく。
「観応の擾乱」のなかで尊氏は直義と戦うためにいったん南朝に降伏する道を選んだ。ここに北朝は一時消滅し、南朝が唯一の朝廷となる「正平の一統」が実現した(正平6、1351)。尊氏が直義を討つために関東へ下っている隙をついて正平7年(1352)2月、後村上天皇・四条隆資は京都を望む男山八幡に入り、北畠顕能ら率いる南朝軍が大挙京都を攻撃し、一時とは言え京都奪還に成功した。
しかし間もなく足利軍が京を奪い返し、男山八幡の後村上らは5月まで籠城戦を続けたがついに撤退を余儀なくされる。このとき後村上自身も鎧を身にまとって逃れるほどの危険な状況で、そばにあった四条隆資は後村上を逃がすためであろう、しんがりを務めて足利軍相手に奮戦し、ついに赤松勢の兵に討ち取られた(正平7年5月11日)。すでに還暦を過ぎた老公家武将の華々しい最期であった。正平11年(1356)に左大臣を追贈されている。
『徒然草』第219段で登場する「四条黄門」は隆資のことではないかとする説がある。また歴史物語『増鏡』はいったん出家して身を隠していた隆資が還俗する話を唐突に持ち出して全巻を完結させるため、隆資自身が『増鏡』の作者なのではないかとする中村直勝の説もあるが支持者は少数である。
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大河ドラマ「太平記」 | NHK大河ドラマ「太平記」では井上倫宏が演じた。第3回で醍醐寺の庭で文観・花山院師賢らと共に後醍醐と高氏の初対面シーンで初登場。後醍醐が挙兵すると笠置山に集う公家の一人として顔を見せ、護良親王と共に赤坂城に入る。建武新政期には護良派として密談の場面で登場する。護良失脚後は後醍醐の前に控える公家の一人として常時顔を見せ、吉野で後醍醐が死の床につく場面まで登場していた。ただ若干の個性を見せたのは護良派についていた時期までか。放送前に発売された「NHK大河ドラマストーリー」では重要人物の一人の扱いで、演じる井上倫宏のインタビューが他の出演者と一緒に載っている。当時30代の井上はドラマ中では千種忠顕(演:本木雅弘)と共に後醍醐配下の「若手公家」役を演じていたが、史実の四条隆資は建武新政期は40歳過ぎの当時としては老境で息子たちが活躍していた。もちろんドラマ中に息子たちは出てこない。
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その他の映像・舞台 | 昭和39年(1964)の歌舞伎「私本太平記」で尾上新七(五代目)が演じている。 |
歴史小説では | 小説作品では後醍醐側近の公家の一人として名前は出てくるが、大勢の中の一人としてあまり個性は与えられていない。
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PCエンジンCD版 | なぜか伊予の南朝方独立君主として登場。統率53・戦闘57・忠誠73・婆沙羅47と公家さんとしてはまぁまぁの能力。 |
PCエンジンHu版 | シナリオ2で登場、こちらもなぜか伊予にいて能力は「長刀4」。 |
メガドライブ版 | 京都攻防戦の部分で宮方(南朝)として登場。能力は体力70・武力65・智力107・人徳81・攻撃力57。 |