赤松円心 | あかまつ・えんしん | 1277(建治3)-1350(観応元/正平5) |
親族 | 父:赤松茂則 子:赤松範資、赤松貞範、赤松則祐、赤松氏範 甥:宗峰妙超(?) |
幕府 | 播磨守護 |
生 涯 |
播磨の土豪から身を起こし、鎌倉幕府の打倒から建武政権の崩壊、足利幕府の設立にいたる過程で重要な役割を果たして、室町時代の名門・赤松氏の基礎を築いた南北朝大立者の一人。楠木正成と何かと比較される武将でもある。
―「悪党的」なゲリラ戦の展開―
赤松氏は播磨の豪族で村上源氏とされているが事実かどうかはあてにならない。播磨佐用荘を支配する新興武士であったと思われ、当時播磨に多く発生していた「悪党」との関わりも深かったものと推測されている。
則村(のりむら)、のちの円心は若き日に禅僧・雪村友梅に出会い、人相を見た雪村から「必ず貴ならん(きっと出世しますよ)」と言われ、「誠に師の言の如くんば敢えて徳を忘れず(本当にそうなったらきっと恩返しいたします)」と感激した、という逸話が『翰林葫蘆集』拈香に載っている。雪村は1307年に元へ渡っているためこの逸話が事実とすればそれ以前のこととなるのだが、当時雪村はまだ18歳の若年でありやや不自然でもある。後年円心がこの雪村と関係が深くなるので、人相の話はともかく渡元以前に面識があったという程度のことなのかもしれない。なお鎌倉末期に花園・後醍醐両天皇から帰依をうけた禅僧・宗峰妙超(1282-1337)は、円心の姉が赤松家臣・浦上一国に嫁いで産んだ子とも伝えられている。
円心の長男・範資と次男・貞範が尼崎にあった長洲荘で荘官を勤めていたことが嘉暦元年(1326)の起請文に名があることから確認でき、漁業と商業で栄えたこの地に赤松一族が勢力を及ぼしていたことが分かる。こうした点は楠木正成・名和長年といった建武政権確立に功のあった「悪党」的新興武士たちに共通している(あくまで一説であるが正成と円心の間に姻戚関係があるとするものもある)。そして円心の三男・則祐は比叡山に入れられ、やはり赤松一族の小寺頼季とともに護良親王の腹心として活動しており、円心がかなり早い段階で後醍醐周辺に人脈を持っていたこともうかがえる。
元弘元年から反幕府のゲリラ活動を展開していた護良親王から側近の則祐の手により倒幕の令旨が円心にもたらされたのは元弘3年(1333)1月から2月のことと思われる。だがその直前の元弘2年12月9日に護良親王の配下と思われる一隊が京周辺に進出して騒ぎを起こしており、その討伐に宇都宮(公綱?)と共に「赤松入道」が向かったとの史料があり、この時点では幕府側、それも六波羅配下にあって護良派討伐にあたっていたことが知られる(日蓮宗妙光寺金剛集裏書、僧日静書状)。それはあくまで形だけで情勢をうかがっていた可能性もあるが。
1月21日に円心は一族とともに苔縄城に挙兵、山陽道に進出して摂津・摩耶山にたてこもり、討伐に来た六波羅軍を山の地形と伏兵を駆使した巧みな戦術で撃破する。勢いに乗った赤松軍は3月に山崎へ進出、雪解け水で水位が増していた桂川を強行渡河し、京都市中へ乱入する。さすがに六波羅軍の抵抗も激しく蓮華王院の戦いで赤松軍は大敗を喫して壊滅状態となるが、円心父子らは敵軍に混じって悠然と逃げたとされる。その翌日六条河原に赤松兵の首が数多くさらされたが、その中に「円心入道の首」が5つもあったという。
いったん態勢を立て直した赤松軍はその後も散発的に六波羅軍と戦うが決定打は足利高氏の反旗を待たなくてはならなかった。高氏とともに六波羅から出陣していた名越高家は赤松軍の佐用範家に射殺され、これを受けてそれまで傍観していた高氏が丹波篠村に移動して反北条の挙兵を行っており、出陣の時点で高氏と円心の間で意思の疎通があったことがうかがえる。高氏が反旗を翻して六波羅を攻撃すると、円心らもこれを助けて京に乱入、放火による霍乱活動を行っている。これら一連の赤松軍の活躍は『太平記』の伝えるところだが、足軽・野伏といったいわゆる「悪党」集団による神出鬼没のゲリラ戦は楠木正成軍の戦いぶりにも通ずるところがある。
―建武政権打倒―
しかし建武の新政における両者の扱いは大きく明暗を分けた。円心にははじめ播磨守護職が与えられたが間もなくこれを取り上げられ、本拠地である佐用荘一つを安堵されたのみで事実上恩賞はゼロに近かった。これは円心が息子・則祐を通じて護良親王にあまりにも接近していたため、護良を警戒する後醍醐の寵妃・阿野廉子らの一派によって排除されたものとの見方が強い。また播磨国司に任じられた新田義貞の意向をみる説もある。いずれにせよこの結果に円心は絶望して播磨へ戻り、いち早く建武政権から離脱することになる。
建武2年(1335)、足利尊氏が北条残党による中先代の乱鎮定のために関東へ出陣、事実上建武政権からの離脱を表明した。このとき尊氏は円心に連絡を取り、円心は次男・貞範を尊氏に同行させている。その後尊氏は新田義貞の討伐軍を箱根・竹之下の合戦で破るが、このとき貞範が活躍している。新田軍を破った尊氏は西上、建武3年(延元元、1336)正月に京都を占領するが、間もなく到着した北畠顕家軍に敗れて京から撤退する。このとき尊氏を摂津・湊川に迎え入れたのが円心である。『梅松論』によれば、このとき円心が尊氏に「光厳上皇の院宣を受けて朝敵の汚名を免れ、錦の御旗を立てるべき」という重大な提案を行ったとされる。これが本当に円心個人の提案なのか疑問視する意見もあるが、楠木正成と並んで建武政権の立役者である円心の情勢分析が尊氏らにかなりの重みをもたれた可能性はある。同じ『梅松論』がこの直後に正成が「尊氏との和睦」を後醍醐に提案したと記していることともよく呼応しているとも思える。
尊氏は態勢を立て直すために九州に下り、追撃してくる新田軍を食い止めるべく山陽道に有力部将を配置した。その最初の関門である播磨は赤松円心が受け持ち、円心は険峻な峯の上に「白旗城」(源氏の白旗にちなんだという)を建設して新田軍を迎え撃つことになる。『太平記』によれば円心ははじめ新田義貞に投降の姿勢をみせ、「播磨の守護職を与えるとの綸旨を受けたい」と条件を示して篭城の時間を稼ぎ、十日後に義貞が綸旨を持ってくると「播磨守護職は将軍(尊氏)より与えられておる。手のひらを返すような綸旨がなんの役に立つか」と痛烈な皮肉で突き返した。激怒した義貞は「なんとしてもこの城を落とす!」と白旗城に総攻撃をかけたが、赤松軍得意のゲリラ戦に悩まされ、ここで50日も足止めを食ってしまったという。これも話が面白すぎて史実かどうか疑問視する声もあるが、円心が義貞軍を翻弄して足止めを食わせたことは事実とみていいだろう。「太平記」では攻めあぐねる義貞に弟の脇屋義助が「先年、楠木正成がこもる金剛山(千早城)を落とせぬうちに天下がひっくりかえってしまったではないか」と忠告する描写があり、円心の位置づけが正成とよく似ていると当時も言われていたことをうかがわせるセリフとなっている。
やがて九州を平定して東上を開始した尊氏の大軍が迫り、義貞は5月18日に白旗城の包囲を解いて退却を始めた。翌日、包囲戦を耐え抜いた円心は室津で尊氏に面会、このとき白旗包囲に参加していた兵たちが残していった旗印を円心が尊氏に見せ、尊氏が「もと味方だった者の旗印もあるが、彼等は一時の難を避けるためにやむなく新田についたものであろう。やがて我らの味方に戻ってくるだろう」と言ってそれらを円心に預けたとの逸話が『梅松論』にある。
直後の湊川の戦いにも赤松軍(範資)の参加が確認できるが、その後の京都攻防戦には参加していないらしい。これは播磨では守護をつとめた新田義貞の一族による抵抗が続いており、その掃討に力を注いでいたためらしい。これらの掃討が終了したのはようやく暦応3年(興国元、1340)のことと考えられる。この間に円心は播磨の、長男・範資には摂津の守護職が尊氏から与えられ、赤松一族はようやく宿願を果たすことになる。
―晩年―
功成り名遂げた円心は、かねてから心に決めていた寺院建立を実行に移す。その開山として招かれた高僧が若き日に円心の出世を予言したという雪村友梅である。雪村を本拠地・赤松の地に招いて開かれた金華山・法雲寺は建武4年(延元2、1337)12月25日に円心も参列のもと盛大な落慶供養が催された。4年後に雪村は足利直義から京都五山の万寿寺の住職となるよう要請されるが、雪村はこれを固辞、円心に迷惑がかかるのを恐れて法雲寺を出て隠棲してしまう。結局円心の懇願を受けて万寿寺に行くことになるのだが、その後も二人の交流は続き、貞和元年(興国6、1345)に京都・建仁寺で雪村が逝去すると、円心は建仁寺に雪村を弔う塔を建てて「大竜庵」と名づけ、その近くに私邸を置いて雪村を偲びつつ晩年を送ったという。
貞和5年(正平4、1349)、幕府の内戦、いわゆる「観応の擾乱」が始まる。8月に高師直がクーデターを起こして足利直義を失脚させるが、このとき師直側に駆けつけた者の中に赤松円心の名が確認できる。このクーデターは尊氏の意向を受けたものと考えられ、円心も師直というよりは尊氏に味方したということなのだろう。このとき直義の養子・直冬は備後に鞆津におり、その東上を阻むため円心は播磨に下り、美作国境付近の防衛を固めている。後に名城として知られる姫路城はこのとき円心らによって築かれたとも言われる。
播磨の防衛を固めて京都に戻った直後の貞和6年=観応元年(正平5、1350)正月13日、円心は私邸で急逝した。享年74。全く突然の死であったようで、譲状(遺言状)も作られておらず、一族相談の上で長男・範資が家督を継ぎ、遺産の分配も決められている。円心の葬儀は大竜庵で行われ、雪村とともにここに葬られた。現在は建仁寺の久昌院境内に墓は移され、雪村の塔の隣に寄り添うように建っている。故郷の法雲寺にも円心の墓が立てられたが、こちらは現存しないそうである。しかし同地の宝林寺には円心60歳の寿像と思われる見事な木像(左図)が保存されており、そのいかにも「乱世の英雄」らしい強烈な顔つきを今日に伝えている。
―後年の評価など―
生涯を見れば楠木正成に匹敵する活躍をし、しかもその後の室町幕府で重要な位置を占めた赤松一族の繁栄の基も築いた大物なのだが、戦前は「逆賊尊氏」についたせいもあり風当たりが強く、戦後も今ひとつ光があたらなかった武将である。
1991年のNHK大河ドラマ「太平記」放映が決まったことがきっかけなのか、放送前年の平成2年(1990)には円心の故郷・兵庫県上郡(かみごおり)町は「郷土の英雄」として「円心くん」という可愛い小坊主キャラクターをつくって町おこしに一役買わせている(円心というより一休さんみたいだが(笑))。平成6年(1994)12月には同町を走る智頭急行智頭線に郷土の英雄の名を冠した「河野原円心」駅が開業している。ちなみにこの路線には「苔縄」「佐用」など赤松ファン大喜びの駅名(笑)があり、ついでに「宮本武蔵」駅も存在する(吉川英治「宮本武蔵」では武蔵は赤松一族家臣の末裔の設定)。
大河ドラマ放映と前後して北方謙三が円心を主人公とする小説「悪党の裔」を発表。平成9年(1997)にNHK「堂々日本史」で三回にわたり南北朝時代がとりあげられ、北方謙三と佐藤和彦両氏が出演、「悪党」をキーワードにトークを行っているが、ここでも北方氏は円心の行動を「天下を動かす転換点をつくる、乱世に生きる男のロマン」と評し、「そんな円心に私は惚れているんですよ」と発言している。
参考文献
高坂好「赤松円心・満祐」(吉川弘文館人物叢書)
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大河ドラマ「太平記」 | このころから映画・ドラマによく顔を見せるようになった個性派俳優・渡辺哲が演じ、第20回「足利決起」で初登場した。「播磨の悪党」と紹介され、僧侶の頭巾、上半身裸の上に鎧を着て太刀を肩にかけ、子分たち四人に担がせた輿に乗って出陣という、まさに異類異形、どうみても「山賊の親分」としか思えない、あまりにもインパクトあるスタイルであった。しかし脚本集をチェックするとシナリオ段階では倒幕までは息子の則祐のほうが出番が多く、円心本人の登場は建武政権期以降の予定だったように見える。
建武政権下では護良親王の側近として尊氏排除も画策しているが、恩賞問題で激怒、宮中の女官達を突き飛ばしながら退出、後醍醐のみならず護良も見限り、尊氏に慰められて「主とするならこの方」と決意するなど印象的な場面が多い。「院宣を受けよ」と提案する場面もちゃんとあったが、佐々木道誉と共同提案のような形にされていた。第36回「湊川の決戦」では冒頭で新田義貞との白旗城攻防戦がチラッとではあるがちゃんと野外ロケで挿入され(もっと長時間撮ったがカットされた可能性高し)、悔しがる義貞を見下ろして不敵に高笑いするカットが最後の登場となった。残念ながら現在発売されている総集編DVDでは円心の登場シーンが全て削除されており、完全版でないと見ることができない。
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その他の映像・舞台 | 昭和14年(1939)の映画「菊水太平記」で志賀靖郎、同年の映画「吉野勤王党」で荒木忍が演じたという。後者は内容が不明なのだが配役には円心の息子たちがズラリと並び、長男が主役となっている。
アニメ「まんが日本史」では第24回で登場(赤松則村として)、やはり敗北した尊氏が院宣を得ようと決意する場面だが、円心が進言する形にはなっていない。声は佐藤正治。 |
歴史小説では | 大河ドラマ放映直後の1992年には、北方謙三の南北朝歴史小説の一作として赤松円心を主役とする「悪党の裔(すえ)」が刊行された。北方流「男のロマン」が漂い、円心が同じ「悪党」である楠木正成と早くから交流し、やがて異なる道を歩んでゆく過程が描かれた。その後北方謙三は「楠木正成」も発表しており、同じ展開を正成側視点から読むことが出来る。 |
漫画では | 重要人物には違いないので学習用歴史漫画にはたいてい顔を見せているが、インパクトはそれほどない。昭和40年代の集英社版では露骨に悪人風(南北朝分裂の原因を作る進言を尊氏にするため)に描かれていた。
沢田ひろふみの漫画「山賊王」は赤松円心が最重要キャラの一人として活躍する注目作品。この漫画は「八犬伝」のように体に星のアザをもつ男たち6人が幕府打倒のために結集していくストーリーになっていて、その6人のうち一人が赤松円心のため同じく「星」の一人である楠木正成とタメをはるほど強烈な存在感を発揮している。建武政権崩壊の過程でこの6人は敵味方に分かれるはずであるが、物語は鎌倉幕府滅亡で終了し、「星」の設定はリセットされるという形で処理された。
河部真道『バンデット』は物語の第一章が「赤松入道円心」と題され、主人公の「石」たちが赤松円心と対決する展開となっていた。円心のキャラはかなり強烈で、物語後半でも六波羅攻撃の模様が詳しく描かれた。
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PCエンジンHu版 | シナリオ1に朝廷派で播磨・白旗城に登場、能力は「長刀4」。 |
PCエンジンCD版 | 播磨に拠点をおく北朝系独立勢力の君主。統率・86、戦闘・90、忠誠・71、婆沙羅・36で北朝方でしかも寝返り可能性が低い有力武将で、味方よりも敵に回した時に存在感がある。 |
メガドライブ版 | 楠木・新田帖でプレイすると鎌倉攻防戦のシナリオで登場。能力は体力69・武力83・智力122・人徳84・攻撃力77。 |
SSボードゲーム版 | 立場は中立。身分は「武将」で勢力地域は「山陽」。合戦能力3・采配能力5でかなり強力な部類に入る。ユニット裏はなぜか赤松満資。 |