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あしかがよしもち〜あんどうすえひさ

足利義持あしかが・よしもち1386(至徳3/元中3)-1428(正長元)
親族父:足利義満 母:藤原慶子
兄弟:足利義教(第6代将軍)、足利義嗣、法尊、義昭ほか
妻:日野栄子
子:足利義量 
官職左馬頭・征夷大将軍・参議・権大納言・右近衛大将・内大臣・贈太政大臣
位階正五位下→従四位下→従四位上→従三位→従二位→正二位→従一位
幕府室町幕府将軍(第4代)
生 涯
 足利義満の嫡男で室町幕府の第4代将軍。父・義満の華やかさの陰に隠れた地味な存在ではあるが、その二十年にわたる治世は中世を通しても長期間比較的安定した時代で、「応永の平和」とも呼ばれる。

―父・義満の陰で―


 至徳3年(元中3、1386)2月12日に誕生。母親は三宝院の坊官であった安芸法眼の娘で義満の侍女から側室となった藤原慶子。義満には数多くの側室がいたが、この慶子は義持・義教と将軍二人を生んでいる。
 義持の幼少期は南北朝動乱の終盤で、彼が数えで6歳の時に明徳の乱(1391)、7歳の時に南北朝合体が成っている。父・義満の権勢は武家・公家の両方で増すばかりであった。義持は8歳の時点で「射鳥の儀」「矢開の儀」といった儀式を行い、将来の義満の後継者であることはほぼ確定されていた。彼には異母兄・尊満がいたが母親の身分が決め手となったのであろう。

 応永元年(1394)12月17日に37歳の義満は征夷大将軍を辞し、その地位を9歳の息子・義持に譲った(義持はこれと同時に元服)。義満自身、父の死を受けてのこととはいえ10歳で将軍の地位を継いでいるのでそれを意識もしたであろうし、同時に将軍の後継者を早期に決めておくことで代替わりを安泰に進める意図もあったと思われる。そして義満は翌年太政大臣を辞して出家するが、足利家家督と執政の立場はそのまま維持し、武家・公家双方にまたがった自由な位置に君臨することになる。
 元服と同時に義持は正五位下に叙されたが、これは当初朝廷が父・義満の例にならって従五位下に決めようとしたところを義満がゴネて2ランク上げさせたものであった。以後父の権勢を背景に義持は父を超えるスピードで位階・官職を上昇させてゆき、16歳で権大納言、17歳で従一位まで昇り詰めてしまう。
 応永6年(1399)5月、義持が14歳の時に生母・慶子が死去した。義持は当然喪に服したが、義満は翌日には家臣の家に出かけて酒を飲むなど全く悲しむ様子を見せなかったと伝えられ、この時期には慶子に対する愛情が薄くなっていたらしい。義持に対しては嫡子であり将軍としてそれ相応の扱いはしているが、やがて義持の異母弟・義嗣を僧籍から還俗させて異常なまでの偏愛を見せるようになり、義持との関係も微妙なものになっていった。

 応永7年(1400)に15歳となった義持は幕府の評定に出席する「評定始」を行い、年末には文書にサインをする「判始」も行って将軍として政務にあたり始めることになるが、実際の政権は義満が握っていて義持は形ばかりの将軍であり、事実義満が存命のうちは義持が自らサインした文書を発行することはできなかった。
 義満の「院政」のもとでおとなしく形ばかりの将軍を務めていた義持だったが、応永13年(1406)3月28日に義満から何らかの叱責をこうむり、慌てて日野重光邸に駆け込んで父とのとりなしを頼む、という事件も起こしている。応永15年(1408)3月に後小松天皇の北山行幸があり、ここで義嗣が親王を思わせる異例の厚遇を受けたことはよく知られるが、このとき義持はといえばそこに出席できないどころか京の警備に回されるという冷遇ぶりであった。このため周囲は義満は義嗣を後継者に考えているものと見ていたようである。ただし義満はあくまで武家は義持、公家は義嗣と分担させて足利家の「国王」的地位を固めようとしたのではないかとの見方もある。いずれにしても直後の5月6日に義満が急死してしまったため、彼の真意は永遠に謎となった。

―義持時代の到来―

 義満が後継者を指名せずに急死すると、公家たちは義嗣が後継者になるものと思っていたが、幕府では宿老の斯波義将の強い主張もあって義持後継がすぐさま決定された。朝廷は義満に対し「太上天皇」すなわち上皇の尊号を贈ったが、義持はこれを辞退した。これを初めとして義持は父・義満とは異なり朝廷・公家とは一定の距離を置くようになる(それでも朝廷に対する強い権勢は維持し、儀式で関白レベルの扱いを求めるなど強硬なところは父親譲りだった)
 義持は当初義満の住まいであった北山殿に入ってその後継者たることを示したが、翌応永16年(1409)10月に三条坊門邸(かつて足利直義、祖父・義詮の邸宅だった)に移った。そして10年後に北山殿に住んでいた義満の正室日野康子が死去すると、義持は舎利殿(金閣)のみを残して北山殿全体を取り壊してしまうことになる。

 義持の「義満時代否定」の動きは外交面でもみられた。義持は父・義満の死の直後にそれを明の永楽帝、および朝鮮国王にも知らせるなど儀礼外交はきちんとこなしており、応永16年(1409)7月5日には明の使節と北山殿で謁見し、「日本国王源義持」と書かれた永楽帝の勅書も受け取っている。そして翌応永17年(1410)には帰国する明使に自らの使者を同行させ永楽帝への「表」(臣下の礼をとる上申書)も提出した。ところが応永18年(1411)2月に明の使節がやって来ると、義持は彼らを兵庫で追い返してしまう。以後も断続的に明の使節が来日するが義持はかたくなに拒絶し、その理由として「我が国が他国の臣下になると神の祟りがある」というものすら挙げている。もともと義満の卑屈とも言える対明外交には政界で批判もあり(斯波義将もその筆頭だった)、義持もそうした意見に応じたものと見られる。明との外交・貿易の復活は義教時代まで待たなくてはならない。

 応永17年(1410)11月、南朝最後の天皇である後亀山法皇が京都から出奔し吉野に入るという事件が起こる。南北朝合体の折に「両統迭立」の条件があったが、北朝の後小松天皇の次代にその子・躬仁(称光天皇)が即位することが確実の情勢となり、それに怒っての出奔であった。これに呼応するように応永18年(1411)に飛騨の姉小路尹綱が、応永22年(1415)には河内の楠木一族、そして伊勢の北畠満雅が反乱を起こしている。結局これらの反乱は鎮圧され後亀山も応永23年(1416)に京に帰還したが、その後もこうした「後南朝」の運動はくすぶり続けることになる。

―後継者に悩みつつ―

 応永23年(1416)10月、関東で前関東管領・上杉禅秀(氏憲)らが挙兵して鎌倉公方・足利持氏を襲い、鎌倉を占領した(上杉禅秀の乱)。こらは本来関東の内紛であったが、これとほぼ同時に義持の弟・義嗣が京を出奔しており、禅秀らと何らかの連絡があるとみられた。義持は義嗣を拘束・監禁する一方、大軍を起こして持氏を支援し、乱は翌年正月までに鎮圧された。そして義嗣に連なる一党を粛清した義持は、応永25年(1418)1月24日についに義嗣を殺害させた。父・義満の晩年以来の兄弟間の暗闘はここにようやく決着したのである。

 応永26年(1419)6月、朝鮮軍が対馬を攻撃し、倭寇の拠点を壊滅させるという事件が起こる(応永の外寇、己亥東征)。これは倭寇跳梁の抜本的解決を図った朝鮮の上王・太宗が主導したものであったが、義持はこれがかつての元寇同様に明・朝鮮連合の本格進攻ではないかと疑っていた。義持が明からの度重なる朝貢要求を拒否すると、明の国書に軍事的制裁をちらつかせる内容が現れていたためでもある。実は明も倭寇対策のために日本の幕府との交渉を求めていて、朝鮮軍の対馬攻撃の翌月にも明からの使者が日本を訪れたが、義持は当然疑ってこれを追い返した。
 応永の外寇自体は早期に収束し、翌応永27年(1420)4月には朝鮮からの使者・宋景mが来日したが義持は当初疑って面会しなかった。だが宋景mが実情を説明し納得したため6月にはこれに面会、以後朝鮮に対しては基本的に友好姿勢で国書・使節をお互いたびたびやりとりするようになる(ただし義持は「国王」号はあくまで使わず征夷大将軍で通した)。もっとも、義持はじめ日本側が朝鮮にもっぱら求めたのは当時朝鮮が印刷可能の状態で保有していた仏教大全集「大蔵経」であり、それを断られて義持が不快感を示す事例もあった。

 応永30年(1423)3月18日、義持は征夷大将軍を辞し、その地位を17歳の息子・義量に譲った。そして4月25日に等持院にて出家し、道詮と号した。このとき義持はまだ38歳であり、実際には政権はそのまま握り続けた。つまり出家という自由な立場で「院政」を行ったわけで、この点は自身が批判していた父・義満のひそみにならったのである。
 この年、関東では鎌倉公方・足利持氏が北関東の反鎌倉派(それは京都の将軍と結びつく)の勢力を次々討伐し、その動きに不快を感じた義持は奥州・信濃・駿河の各地に書状を送って軍事的に持氏を包囲圧迫する動きを見せた。もともと対抗意識の強い京都将軍と鎌倉公方の関係はまたも一触即発の情勢となったが、この時は持氏が折れて翌応永31年(1424)2月に異心のないことを示す誓文が義持のもとに送られ、使者のやり取りがあって10月には両者和睦でひとまず落着した。それでも持氏の野心は消えることなく、のちの義教時代に永享の乱を起こして自滅することになる。

 応永32年(1425)2月27日、もともと病弱であり、しかも過度に酒を飲んで義持からの戒められていた将軍・義量が十九歳の若さで急死してしまった。ところが義持は次の将軍を決めることなく、将軍職空位のままで自身が政務をとり続ける。実は義持は義量の死の直後に八幡宮に自分に男子が生まれるかどうか神意を問い、男子が生まれるとのお告げを受け、それを信じて男子誕生を待ちわびていたという。しかし結局義持に男子が生まれることはなかった。
 後継者問題で悩んでいたのは皇室も同様で、後小松の跡を継いだ称光天皇は不行跡の上に病弱で子がなく、あきらめた後小松は崇光系の伏見宮家から後継をとる意向をもっており、義持もこれに同意していた。これを知った称光は後小松を恨んで応永32年(1425)6月に退位すると騒ぎ出し、義持が称光をなだめて収めるという一幕もあった。その一カ月後に称光が重態に陥り、義持が葬儀の用意までしたが意外にも全快するという騒動もある。

 応永34年(1427)9月、幕府の宿老であった赤松義則が死去すると、義持はその後継者・赤松満祐から播磨を取り上げて幕府直轄とし、赤松庶流で義持の側近であった赤松持貞を代官とする決定を下した。当然のように怒った満祐は京屋敷を焼いて播磨へ逃亡、11月に義持は満祐討伐の命令を下す。ところがその直後に持貞が「女性問題」で義持の激怒を買って切腹を命じられ、逆に満祐は赦免されるという急展開になった。この騒動は終わってみると義持一人が騒いだだけで、この時点の義持が後継者問題も抱えて精神的に不安定になっていた可能性もある。
 翌応永35年(1428)正月7日、義持は風呂で尻に出来たできものを掻き破ってしまい、そこから菌が入って病となり、17日には危篤に陥った。護持僧の満済から後継者の指名を求められた義持は「宿老たちに任せる」と答えたが、満済から「ご兄弟の中からくじ引きで決めては」と提案され、自分の死後に開封することを条件にこれを認めた。義持としてはかつて八幡宮に願をかけて男子誕生を告げられたことがあったので生きているうちに二度神意を聞くわけにはいかないという理屈があったのである。
 17日のうちに義持の四人の兄弟からくじ引きが行われ、義持の死を待って開封することとなった。翌18日の午前10時ごろに義持は息を引き取った。享年四十三歳。義持の死を受けて開封されたくじには義持の同母弟の青蓮院義円(のちの義教)の名があり、彼が第6代将軍に就任することとなる。

参考文献
伊藤喜良「足利義持」(吉川弘文館・人物叢書)ほか
歴史小説では登場例は多くないが、父の足利義満をテーマにした小説で登場する例がある。
漫画では室町最盛期の将軍ということもあり、学習漫画では必ず登場している。義持はもみあげが妙に長い特徴的な肖像画が残されているため、どの漫画もこの肖像画をベースにキャラデザインを行っている。

足助重範あすけ・しげのり1292(正応5)?-1332(正慶元/元弘2)
親族父:足助貞親
位階贈正四位(明治24)→贈従三位(昭和8)
生 涯
―笠置山で大奮戦―

 足助氏は清和源氏の流れをくみ、三河国加茂郡足助に根を張った一族。承久の乱の折に京都方に属して敗北しており、鎌倉時代を通して足助一族は逼塞を余儀なくされ、むしろ朝廷との結びつきを強めた。『太平記』によると、後醍醐天皇の倒幕活動の計画段階から「足助次郎重成」という武士が参加している。これが笠置山で奮戦した「足助次郎重範」と同一人物なのかどうかは判断の分かれるところで、『尊卑分脈』にある足助氏系図では両者は親戚ではあるが別人になっている。

 元弘元年(1331)8月、後醍醐天皇が京を脱出し、笠置山で挙兵した。ここに馳せ参じた数少ない武士の一人が「足助次郎重範」である。9月初め、六波羅探題の大軍が笠置山に押し寄せると足助重範は笠置山の防衛最前線である一の木戸の櫓に立ち、その強弓で二町あまり(100m程度?)先にいた荒尾九郎を鎧ごと貫いて馬から射落とした。すると弟の荒尾弥五郎が兄の遺体を陰に隠して「たいした弓ではないな。ここを射てみろ」と自分の鎧を叩いて挑発した。重範は「下に何か着込んでいるな」と察し、弥五郎の兜ごと頭を射抜いて殺してしまった。
 しかし笠置山は9月28日に陥落し、重範も捕えられた。『太平記』巻四の冒頭では京・六条河原に引き出されて斬首されたと記している。また『太平記』異本の一つで独自の記事を多く含む「天正本」では巻四の末尾に重範処刑の日が「元弘二年五月三日」と明記されている。しかしこれが史実と認められる保証はない。

 重範は幕府滅亡を見ることなく刑場の露と消えたが、足助一族はその後も後醍醐方・南朝方として活動を続けている。江戸時代に南朝尊崇の風潮が強まると「建武中興の先駆け」として重範への評価が高まり、明治24年(1901)に政府から正四位が贈られ、翌年には重範を祭神とする「足助神社」が地元に創建される。「建武中興六百年」の昭和8年(1933)にはさらに従三位が贈られた。
大河ドラマ「太平記」第12回「笠置落城」の楠木正成が笠置山に参じる場面で、後醍醐方の武士として桜山慈俊・赤松則祐・小寺頼季らとともに「足助次郎」として顔を見せている(演:石井哉)。「三河の足助次郎」と名乗るだけで特に活躍する場面はない。
その他の映像・舞台戦前の映画「大楠公」で島田照夫が演じている。
漫画作品では沢田ひろふみ『山賊王』では笠置山の戦いの場面で『太平記』そのままの重範の奮戦が描かれている。しかし幕府軍の勢いには押され、主人公の樹の計略の助けは借りている。

按察局あぜちのつぼね生没年不詳
生 涯
―義満と密通?した後宮の女性―

  北朝第5代・後円融上皇の後宮にいた女性。後円融の寵妃の一人であったとされるが、永徳3年(弘和3、1383)2月11日に後円融により御所から追い出され、出家を強制された。その理由は公にはされなかったが後円融自身が生母の広橋仲子「按察局が足利義満と密通していると告げた者があった」ためと語っており、京の人々の間でもそう噂し合った。
 その直前に後円融はやはり自身の寵妃で後小松天皇の母である三条厳子を刀の峰打ちで半死半生の目に合わせるという事件を起こしたばかりで、これも厳子と義満の密通を疑ったためと見られている。
 2月15日に一連の事件について義満から後円融のもとへ使者が派遣されると、後円融は錯乱して持仏堂にこもり自害すると騒ぎ出した。結局2月末に義満が「按察局とは何も関係はなかった」と誓う起誓文を後円融に送り、ひとまず事態は収拾される。
 結局のところ按察局が実際に義満と密通していたのか、あるいは正常な判断力を失っていた後円融の妄想であったかは確定できない。

参考文献
今谷明「室町の王権」(中公新書)ほか
歴史小説ではとくに個性が描かれるわけではないが、義満を主人公とした小説で後円融との事件がとりあげられると名前が出る。

阿蘇(あそ)氏
 神武天皇の第二j皇子の子孫を称するほどの古い家柄で、古代以来阿蘇山を祭る阿蘇神社の神官「阿蘇大宮司」を世襲した一族である。平安末期以後、他の大宮司家同様にここも武士化し、鎌倉時代以降「阿蘇氏」を称して肥後国における有力豪族の一つとなった。南北朝動乱では南朝・北朝の間で生き残りを図って遊泳、一族内で南北に分かれて戦うなど複雑な動きを見せた。分裂した家は戦国時代に再統一されたが、戦国終盤に島津氏の攻勢の前に大名としての地位を失い、豊臣政権下で阿蘇大宮司の地位は取り戻した ものの大名に復帰することはできなかった。明治になって男爵家となり、阿蘇大宮司家として今日まで継承されている

建磐龍命…
…阿蘇惟宣─資永─惟泰─惟次
─惟義
─惟景
┬惟国
惟時
惟直














惟成














孫熊丸
→坂梨













├惟定














└女子




┌惟長









||──
惟村
惟郷
─惟忠
─惟憲
┴惟豊







└──
─惟資
惟澄
惟武
惟政
─惟兼
─惟歳
─惟家

阿蘇惟郷
あそ・これさと生没年不詳
親族父:阿蘇惟村
子:阿蘇惟忠
生 涯
―南北朝合一後の阿蘇大宮司―

 阿蘇惟村の子。阿蘇氏は南北朝動乱のなか一族内で抗争を繰り広げており、南北朝末期には阿蘇惟村・惟武の兄弟がそれぞれ北朝・南朝から阿蘇大宮司に任じられて争う構図となっていた。明徳3年(1392)に南北朝合一実現で惟武の子で南朝の阿蘇大宮司となっていた阿蘇惟政は幕府に投降したが、大宮司職を巡る両系統の争いはその後も引き続いた。
 応永13年(1406)に父・惟村の死の直前に阿蘇大宮司の地位と所領を譲渡される。しかし従兄弟の惟政およびその子・惟兼はこれに異を唱えて対抗した。室町幕府は基本的に惟郷の立場を支持し、応永19年(1412)には九州探題・渋川満頼が惟郷の地位と所領を安堵、さらに応永24年(1417)には将軍・足利義持がやはり惟郷を支持する御教書を発行している。こうした動きに不満を抱いた惟兼が南郷・水口城にたてこもって合戦位及ぼうとする騒ぎにもなったが、幕府の介入により開戦には至らなかった。だがその後も両系統の争いは継続される。
 永享3年(1431)3月に惟郷は阿蘇社の規式を定め、同年6月に息子の惟忠に阿蘇大宮司職と所領を譲渡している。恐らくそれから間もなく死去したのであろう。

阿蘇惟澄
あそ・これずみ?-1364(貞治3/正平19)
親族父:恵良惟資 妻:阿蘇惟時の娘
子:阿蘇惟村・阿蘇惟武・菊池武政室
官職
筑後権守・筑後守(いずれも南朝)
位階
贈正四位(明治44)
生 涯
―南朝方の阿蘇大宮司として奮戦―

 阿蘇氏のうち「恵良氏」を称した系統の出身で、別系統の同族「宇治氏」の阿蘇惟時の娘婿となった。二系統に分かれていた阿蘇氏の統合を図ろうとした惟時の狙いがあったのだろう。惟澄も初めのころは「恵良惟澄」を称している。通り名は「小次郎」。
 元弘3年(正慶2、1333)に鎌倉幕府の命で義兄弟の阿蘇惟直と共に楠木正成のこもる千早城攻撃のため出陣したが、途中の備後・鞆で護良親王から倒幕の令旨を受けたため惟直と共に帰国した。菊池武時と共に鎮西探題の攻撃を計画したが、少弐・大友両氏が裏切ったために失敗している。

 延元元年(建武3、1336)3月、建武政権に反旗を翻した足利尊氏が九州に下向し、菊池武敏らが多々良浜の戦いでこれを迎え撃った際、惟澄は惟直と共に菊池氏に味方して出陣したが、戦いは足利軍の逆転勝利に終わり、敗走中に惟直とその弟・惟成は自害してしまった。惟澄はなんとか生き延びて帰国したが、岳父の惟時は京都に滞在していて留守であり、阿蘇大宮司の地位は惟時の庶子である坂梨孫熊丸が尊氏から認められてしまう。
 惟澄は菊池武重と結んで宮方(南朝方)で行動、延元2年(建武4、1337)4月19日に、肥後へ侵攻してきた足利方の九州探題・一色範氏の軍を犬塚原の戦いで破り、範氏の弟・一色頼行を戦死させている。その後も惟澄は幕府方の仁木義長や大友氏らを相手に阿蘇郡で奮闘を続けた。

 惟澄は肥後に帰国した岳父・惟時と結んで武家方の阿蘇大宮司・孫熊丸と激闘を繰り広げた。ようやく興国2年(暦応4、1341)8月27日に惟澄は孫熊丸のこもる南郷城を夜襲し、自らも負傷する奮戦の末に孫熊丸を討ち取った。だが阿蘇大宮司の地位は岳父の惟時が復帰する形となり、惟澄の子・惟村が惟時の養子とされ事実上の後継者に定められたことから、惟澄の立ち位置は微妙なものとなってゆく。

 このころ菊池氏では当主の武重死後の混乱ののち、菊池武光が当主となって薩摩から懐良親王を迎え入れた。惟澄はこの武光と手を組み、一時恩賞の問題でごねたりもしたものの、基本的に九州南朝の征西将軍府の有力武将として活躍するようになる。正平3年(貞和4、1348)に南朝から筑後権守に任じられ、さらに筑後守へと昇任した。翌正平4年(貞和5、1349)に惟時が惟澄を通して征西将軍府に帰順する一幕もあったが惟時は少弐・大友両氏と共に足利直冬を擁立するなど態度は多面的で、正平6年(観応2、1351)2月には惟時が養子の惟村に阿蘇大宮司の地位と所領を譲ったことで、惟澄は岳父および実子と明確に対敵対係になってしまう。翌翌年に惟時が死去し、阿蘇氏の内紛は惟澄と惟村、実の父子の対立へと移行してゆく。

 その後およそ十年に渡って惟澄は征西将軍府のために奮戦、肥後に侵攻してきた大友氏を撃退するなどして懐良・武光の軍事作戦を側面から支えた。正平16年(康安元、1361)4月には懐良・武光は大宰府を陥れて九州平定をほぼ完成させ、惟澄はその功績により阿蘇大宮司の地位を南朝側から認められる。惟澄にとってはようやくの念願成就であったが、息子の惟村は山間にこもって惟澄への抵抗を続けた。

 征西将軍府の黄金期が続くなか、正平19年(貞治3、1364)7月、死期が近いことを悟った惟澄は阿蘇家家督=阿蘇大宮司の地位を、敵方であるはずの息子・惟村に譲ることを表明した。長年の恩讐を越えて阿蘇家の再結束を図ろうとしての行動だったと思われる(いつまでも菊池氏の風下に置かれることに不満を抱いていたという見解もある)。共に南朝方で戦ってきた次男の惟武に対しては兄の惟村に服従するよう遺言したが、惟武としてはとうてい受け入れられるものではなく、阿蘇氏の分裂はその後も尾を引くこととなる。
 遺言表明から二か月後の正平19年(貞治3、1364)9月29日に死去した。
PCエンジンCD版岳父・惟時の家臣扱いで日向国の南朝方として登場、名前は「恵良惟澄」になっている。初登場時のデータは統率68、戦闘63、忠誠78、婆沙羅29
メガドライブ版「足利帖」でプレイすると「多々良浜の戦い」のシナリオで敵方に登場する。能力は体力72・武力95・智力96・人徳63・攻撃力67

阿蘇惟武あそ・これたけ?-1377(永和3/天授3)
親族父:阿蘇惟澄
兄弟:阿蘇惟村
子:阿蘇惟政
生 涯
―南朝方阿蘇大宮司となるも戦死―

 阿蘇惟澄の次男で通り名を「八郎次郎」といった。父・惟澄に従って九州南朝勢力の懐良親王菊池武光のもとで戦い、幕府方の阿蘇大宮司となっていた実兄の阿蘇惟村と対決した。名乗りの「武」の一字も菊池武光から授けられたものという。

 ところが正平19年(貞治3、1364)に死期を悟った父・惟澄が惟村と和解、阿蘇大宮司の地位と所領を全て惟村に譲り、惟武には兄に服従するよう遺言を作ってしまう。惟武としては納得できる話ではなく、また懐良親王の征西将軍府としても承認するわけにはいかない事案であったため、懐良は惟澄の死後ただちに惟武を阿蘇大宮司に任命して阿蘇氏所領も引き継がせることにした。ここに北朝・幕府方の阿蘇大宮司の惟村と、南朝方阿蘇大宮司の惟武とが兄弟で対峙することとなった。

 やがて幕府から九州探題として派遣されてきた今川了俊が大宰府を奪回して九州南朝勢力を次第に圧倒していった。惟武は菊池武朝らと反撃につとめたが、天授3年(永和3、1377)正月13日の蜷打の戦いで今川・大内・大友らの幕府軍に大敗、惟武をはじめ多くの武将が戦死してしまった。
 惟武戦死後は息子の惟政が南朝・阿蘇大宮司を引き継ぎ、南北朝合一後も阿蘇惟村の系統と対立を続けることとなる。
PCエンジンCD版阿蘇氏は九州・日向の南朝方独立勢力に設定されていて、惟武はなぜか阿蘇惟直の跡継ぎ扱いで1339年になると元服して惟直のいる国に登場する。初登場時の能力は統率75・戦闘68・忠誠77・婆沙羅25

阿蘇惟時あそ・これとき?-1353(文和2/正平8)
親族父:阿蘇惟国 子:阿蘇惟直・阿蘇惟成・坂梨孫熊丸 養子:阿蘇惟村
生 涯
―生き残るための八方美人―

 阿蘇氏は古代より肥後国(熊本県)阿蘇一の宮の大宮司を務めた家柄だが、もともとは「宇治」姓を称し、阿蘇惟時も「宇治惟時」の別称がある。神社の宮司といっても、その地方を支配し、軍事力を有する有力豪族で、南北朝時代では諏訪氏や熱田氏などもその例である。
 惟時の生年は不明だが、動乱が始まる1330年代にはすでにかなりの壮年になっていて、大宮司職(家督)も嫡子の阿蘇惟直に譲っていたものと思われる。その惟直は元弘3年(正慶2、1333)に菊池武時らと共に幕府の鎮西探題を攻撃して敗北、阿蘇氏の本拠も探題の軍に攻められて一時窮地に追い詰められた。4月末に足利高氏が鎌倉幕府に反旗を翻して各地の武士に味方に参じるよう書状を送っているが、阿蘇惟時も高氏からの密書を受け取っている。これを根拠に惟時が六波羅攻撃に参加したとする見解もあるが、同様の密書は全国まんべんなく送られており、惟時が直接六波羅攻撃に参加したかは疑わしい。

 建武政権が成立すると、阿蘇氏は菊池氏ともどもその功績を認められ勢力を復活させた。建武2年(1335)末に足利尊氏が関東で建武政権に反旗を翻したため新田義貞を主力とする討伐軍が派遣されたが、阿蘇惟時も菊池武重らとこれに加わり、箱根・竹之下の戦いにも参加している(「太平記」には阿蘇惟時参加の記述がないが、書状などから参戦したと推測される)。この戦いで敗北して京に戻った惟時は京都攻防戦にも参加、比叡山で行在所を警備するなど活躍し、いったん足利軍を九州に追いやった。その直後に足利方についた島津氏の領地などを戦功への恩賞として与えられている。
 ところが翌延元元年(建武3、1336)、九州に下った足利尊氏を菊池武敏と共に多々良浜に迎え撃った嫡子・惟直とその弟・惟成はこの戦いで敗北、そろって自害に追い込まれてしまう。勝利した尊氏は菊池・阿蘇の同盟にくさびを打ち込むべく惟時の庶子・孫熊丸を阿蘇大宮司に任じて九州を去った。この間惟時は京にとどまって国元の危機を遠くから見守るほかはなく、阿蘇に戻ったのは京都攻防戦が一段落して「南北朝」の構図が固まった延元2年(建武4、1337)ごろと推測される(同年に菊池武重も国元に帰還している)。このとき惟時は自ら阿蘇大宮司職に復帰し、阿蘇氏庶流の娘婿で強力な南朝方であった恵良惟澄と手を組んで、先に尊氏から大宮司職に任じられていた孫熊丸と戦い、興国3年(康永元、1342)にこれを滅ぼしている。

 このころ菊池氏は武重の死により惣領の座をめぐって不安定な状態にあり、南朝側では九州の有力者として阿蘇氏に大きな期待をかけていた。後醍醐の皇子の「征西将軍宮」懐良親王も薩摩に上陸した直後に惟時・惟澄に味方するよう書状を送っているし、北畠親房も遠く関東から特使を送って恩賞を餌に阿蘇氏に協力を求めている。しかし特に懐良の惟時への協力要請は数年にわたって繰り返し出され続けているところをみると、惟時は素直に要請に応じることなく幕府側とも一定の連絡をとりあう「中立」の立場をとり続けたと思われる。また同族庶流である恵良惟澄が常に南朝方で活躍しているのもあわよくば阿蘇本家をしのごうという狙いが根底にあるので、惟時としても警戒せざるを得なかったようだ。
 貞和3年(正平2、1347)2月に惟時は幕府方の少弐頼尚を通して幕府方につく姿勢を示し、直後に足利直義から軍功を認められている。ところがその後も懐良親王、さらには後村上天皇から直々の誘いは絶え間なく続いており(全て「阿蘇文書」として現存している)、惟時もこれを黙殺したわけでもなく、状況によっては旗幟を変える可能性をちらつかせていたとみられる。実際貞和5年(正平4、1349)8月に高師直のクーデターで直義が失脚した直後に惟時は惟澄を通して南朝方に鞍替え、後村上から本領を安堵された。

 直義失脚ののち、尊氏の庶子で直義の養子の足利直冬が九州に落ちのびてきた。足利一門の九州探題・一色範氏による支配をこころよく思っていなかった九州豪族たちは直冬を旗頭にかつぎだし、少弐頼尚や大友氏時、そして阿蘇惟時も直冬の味方に付いた。しかしそれでも惟時がどの方面にもいい顔をしておく、八方美人な姿勢をとっていたことは観応の擾乱を通して尊氏・直義・懐良の三者からひっきりなしに誘いの書状を受けるモテモテ状態だったことから明らかで、一応直冬派に属しながらも意図して立場をあいまいにし、のらりくらりと生き残りをはかっていたようにも見える。これはかつて南朝側に味方して息子たちを死なせた悲劇的経験がそうさせていたのかもしれない。
 観応2年(正平6、1351)2月18日に惟時は養子に迎えた阿蘇惟村(恵良惟澄の実子で、惟時にとっては娘の子、外孫になる)に阿蘇大宮司職と全ての所領を譲って隠居した。隠居の動機は不明だが、同時期に中央では高師直一派が敗北し、南朝に降伏していた足利直義が一時的に勝利を手にしていたので、直冬=直義派に属していた惟時としてはこれでひとまず情勢が安定すると見たのかもしれない。だがその一年後には直義も非業の死を遂げ、九州はますます混沌とした情勢になり、阿蘇氏も北朝方の惟村と南朝方の惟澄の父子対立という複雑な構図になっていく。惟時はそれを横目に見ながら、文和2年(正平8、1353)にこの世を去った。

参考文献
杉本尚雄『菊池氏三代』(吉川弘文館・人物叢書)
高柳光寿『足利尊氏』ほか
大河ドラマ「太平記」第46回のみに登場(演:舟久保信之)。足利直冬が九州で勢力を拡大し、少弐頼尚の娘婿となって催された酒宴の席で大友氏時と共に直冬をはやしたてている。
PCエンジンCD版日向の南朝系独立君主として登場。史実では肥後にいるのだが菊池氏とダブるのを避けたと思われる。初登場時のデータは統率73、戦闘62、忠誠47、婆沙羅18
PCエンジンHu版シナリオ2「南北朝の動乱」の南朝方武将として肥後・阿蘇宮に登場する。軍略は「弓2」

阿蘇惟直あそ・これとき?-1336(建武3/延元元)
親族父:阿蘇惟時
兄弟姉妹:阿蘇惟成・坂梨孫熊丸・阿蘇(恵良)惟澄室
位階
贈正四位(明治44)
生 涯
―無念の戦死を遂げた阿蘇大宮司―

 阿蘇惟時の嫡男で、阿蘇氏第9代当主にして阿蘇大宮司。生年は不明だが、1330年代初頭には父の惟時から阿蘇氏家督=阿蘇神社大宮司の地位を譲られていたとみられる。
 元弘3年(正慶2、1333)に鎌倉幕府の命を受けて義兄弟の阿蘇(恵良)惟澄とともに楠木正成のこのる千早城攻撃に出陣したが、その途中で護良親王から倒幕の令旨を受け取って帰国、菊池武時とはかって鎮西探題の攻撃を画策した。しかし計画は大友貞宗少弐貞経の寝返りで計画が漏れ、武時は博多で戦死、惟直と惟澄も一時追われる身となった。

 時は流れ、延元元年(1336)3月2日。建武政権に反旗を翻した足利尊氏が九州へと落ち延びて来て、菊池武敏らが大軍でこれを迎え撃つ多々良浜の戦いが起こる。惟直と弟の惟成、そして惟澄も菊池軍に合流して参戦したが、戦いは足利軍の勝利に終わり、阿蘇軍は敗走。惟直は帰国を目指したが三瀬峠を越えたところで足利方の千葉胤貞に追いつかれ、肥前国小城郡天山付近で自害して果てた。
 この天山の山頂には惟直の墓碑が残されているが、南朝方称揚の動きの中で近代以降に作られたものであろう。地元の伝承では死に際に惟直が「阿蘇の噴煙が見えるところに葬ってほしい」と言い残し、その意をくんでここに葬ったことにされている。
PCエンジンCD版父の惟時の家臣扱いで日向国の南朝方として登場する。初登場時のデータは統率72、戦闘75、忠誠73、婆沙羅29
メガドライブ版「足利帖」でプレイすると「多々良浜の戦い」のシナリオで敵方に登場する。能力は体力68・武力121・智力83・人徳63・攻撃力98

阿蘇惟成あそ・これなり?-1336(建武3/延元元)
親族父:阿蘇惟時
兄弟姉妹:阿蘇惟直・坂梨孫熊丸・阿蘇(恵良)惟室
生 涯
―生存伝承もある阿蘇一族―

 阿蘇惟時の子。次男で通り名は「九郎」であったと伝えられるが、確定的なことは分からない。
 延元元年(建武3、1336)3月に足利尊氏が九州へ落ち延びてくると、兄の阿蘇惟直と共に出陣し、菊池武敏らと連合して多々良浜の戦いで足利軍と激突した。戦いに敗れた阿蘇兄弟は戦場から逃れたが、肥前国小城郡天山で追いつかれ、兄弟そろって自害したと伝えられる。だが惟成については天山のふもとの古湯温泉で傷をいやして生き延びたとする伝承があり、「九郎堂」という建物の名の由来は「九郎惟成」にあるとされている。
メガドライブ版「足利帖」でプレイすると「多々良浜の戦い」のシナリオで敵方に登場する。能力は体力69・武力64・智力98・人徳63・攻撃力44

阿蘇惟政
あそ・これまさ生没年不詳
親族父:阿蘇惟武
子:阿蘇惟兼
生 涯
―最後の南朝方阿蘇大宮司―

 阿蘇惟武の子。父・惟武は南朝・良成親王を擁する征西将軍府から阿蘇大宮司に任じられ、惟武の実兄で北朝・幕府方の阿蘇大宮司である阿蘇惟村と対抗していたが、天授3年(永和3、1377)正月の蜷打の戦いで戦死してしまった。このため息子の惟政がその跡を引き継ぎ、同年3月に南朝から阿蘇大宮司に任じられ、豊後国・日田郷の所領を安堵されている。
 南朝方として伯父の惟村に対抗した惟政だったが、九州探題・今川了俊による九州平定が着実に進むなかで手も足も出ない状況が続き、ついに明徳3年(1392)に中央で南北朝合一が実現すると戦う大義名分もなくなってしまう。翌明徳4年(1393)になおも抵抗を続ける良成親王から日向・豊後守護職を餌に挙兵をうながす令旨を送られたが惟政は応じず、同年のうちに菊池武朝と共に今川了俊に投降した。
 しかしその後も惟武と惟村の間で阿蘇氏内紛は継続され、惟政の子・惟兼の時には合戦寸前の事態になるなど長く尾を引いた。

阿蘇惟村あそ・これむら?-1406(応永13)
親族父:阿蘇惟澄 養父:阿蘇惟時
兄弟:阿蘇惟武
子:阿蘇惟郷
幕府
肥後守護
生 涯
―北朝方を通した阿蘇大宮司―

 阿蘇(恵良)惟澄の長子で、母親は阿蘇(宇治)惟時の娘。本流の宇治系と庶流の恵良系に分かれていた阿蘇一族の統合を目指した縁組であったと思われ、その間に生まれた惟村はその後の阿蘇一族の複雑な事情を背負って生きてゆくことになる。
 建武3年(延元元、133)の多々良浜の戦いで阿蘇氏当主であった阿蘇惟直が戦死し、惟時の庶子である坂梨孫熊丸が足利方により阿蘇氏当主に立てられ、惟時・惟澄が孫熊丸と争うという同族内戦の状態となった。結局孫熊丸は惟澄に倒されるが、阿蘇氏当=阿蘇大宮司の地位には惟時が返り咲き、孫の惟村を自身の養子として後継者に定めた。これに不満を抱いた惟澄が懐良親王と菊池武光ら南朝征西将軍府に合流して対抗したため、惟村は実父を敵として戦わねばならなくなった。

 観応2年(正平6、1351)2月18日に惟時は隠居し、惟村が阿蘇大宮司の地位とすべての所領を引き継いだ。それから十年の間に九州は南朝の征西将軍府が勢いを増してゆき、ついに康安元年(正平16、1361)4月には大宰府を占領して九州平定をほぼ達成、惟澄はその功により南朝から阿蘇大宮司の地位を認められる。もちろんこれを惟村が受け入れるはずもなく、自身こそが阿蘇大宮司であるとして山中にこもり実父・惟澄への抵抗を続けた。この間、貞治元年(正平17、1362)に幕府から庇護国守護に任じられている。

 貞治3年(正平19、1364)7月、死期を悟った惟澄が遺言状を作成、長らく敵同士になっていた実子の惟村に阿蘇大宮司の地位と所領を譲ることを表明した、阿蘇氏の再統合をはかる狙いであるが、ともあれ実の父子はここに和解することとなった。その代わり惟澄の次男・惟武はこれに不満を抱いて南朝側にとどまり、征西将軍府もこの継承を認めず、惟武を阿蘇大宮司に任命した。阿蘇氏の内紛は兄弟間の争いへとシフトしたのである。

 応安4年(建徳2、1371)に九州探題として今川了俊が幕府から派遣されると、惟村は弟の惟武に対抗、阿蘇氏の勢力回復を目指した。永和3年(天授3、1377)正月の蜷打の戦いで今川了俊らの軍が征西将軍府の軍を撃破、この戦いで阿蘇惟武は戦死したが、その子・惟政がその跡を継いだため阿蘇氏の分裂は南北朝合一後も引き継がれた。また了俊およびその後任の渋川満頼が九州探題として九州土着勢力の力を抑え込んだため、阿蘇氏もかつての勢いを取り戻すことはできなかった。
 応永13年(1406)に死去。その直前に息子の阿蘇惟郷に家督と所領を引き継いでいる。

阿曽流(あそりゅう)北条氏
 「阿蘇流」とも書く。北条時頼の弟・北条時定を祖とする継投で、時定が肥後国阿蘇神社の社領に地頭職を得て世襲したことから「阿曽(蘇)」を家名として名乗るようになった。九州に領地があったことから元寇に対応するなど北条一族の九州支配の一翼を担った。鎌倉末期に当主の治時が楠木正成の千早城攻めの主将となり、降伏したものの建武政権によって処刑されたことで断絶した。

北条泰時
─時氏┬時頼┬(得宗)─時宗─貞時
─高時



└(桜田)─時厳─定宗


└時定
(阿曽)定宗
随時治時

阿曽治時あそ・これとき1318(文保2)-1334(建武元)
親族父:阿曽随時
官職
左近大夫将監・弾正小弼
位階
従五位下
生 涯
―千早城攻略の主将となった悲劇の少年武将―

 北条氏阿曽(阿蘇)流で、阿曽随時の子。「時治」と記す史料もある。父・随時が鎮西探題として九州に下っていた際にその地で誕生している。元亨元年(1322)に随時が九州で死去し、幼くして父を失った治時は得宗の北条高時の猶子(養子)とされてもいる。
 元徳3年(元弘元、1331)8月に後醍醐天皇が笠置山に挙兵した際、翌月に鎌倉幕府が関東から派遣した大軍の中に「遠江左近大夫将監治時」の名を『太平記』が記しており、これが恐らく阿曽治時のことと考えられる(父親の随時が「遠江守」であり、その子で左近大夫将監にあったということ)。このとき彼の年齢はまだ14歳であり、元服した直後であったかもしれない。彼の加わった関東勢は笠置陥落には間に合わず、そのまま楠木正成の赤坂城攻略に向かっているが、その参加武将たちの名を記した『光明寺残篇』には治時らしき名はなく、あるいは幼少ということもあって赤坂攻めには不参加だったのかもしれない。

 正慶2年(元弘3、1333)正月、畿内で護良親王楠木正成らの反幕府活動が活発化したため、幕府は再び大軍を畿内に派遣、治時は正成のこもる千早城攻略軍の総大将に任じられた(『楠木合戦注文』ほか)。当時まだ彼は16歳であり、得宗高時の猶子として北条一門を代表する形で、あくまで象徴的な総司令官の立場に置かれたのだろう。長崎高貞(長崎高資の弟)が軍奉行として補佐したが、千早城は楠木軍の巧みな戦術のために難攻不落で、幕府軍は持久戦の構えを余儀なくされてしまう。
 そうこうしているうちに5月に六波羅探題が陥落、治時ら千早攻略軍は奈良へ撤退して一時は抗戦の構えも見せたが、鎌倉陥落の報が入ったため、治時ら主将たちは6月5日に般若寺で出家した上で後醍醐天皇側に降伏した。

 ひとまず捕虜の身となった治時らであったが、翌建武元年(1334)になって大仏高直・長崎高貞らと共に京・阿弥陀ヶ峰で処刑された。処刑の時期については『太平記』は降伏直後の7月9日とするが、『梅松論』は建武元年3月に本間・渋谷ら北条残党が鎌倉に攻め込む騒ぎがあり、それを受けての処刑であったとし、『蓮華寺過去帳』では3月21日と明記があって、史料的にはこちらの方が信がおける。治時はまだ17歳の若さであった。
メガドライブ版「楠木・新田帖」でプレイすると「赤坂城の戦い」「千早城の戦い」で敵方に登場する。能力は体力82・武力89・智力80・人徳65・攻撃力65

阿曽随時あそ・ゆきとき?-1321(元亨元年)
親族父:阿曽定宗 子:阿曽治時
官職
遠江守
幕府
肥前守護・鎮西探題
生 涯
―在任中に死去した鎮西探題―

 北条氏阿曽(阿蘇)流で、阿曽定宗の子。一部系図類で名を「時守」と記すものがある。阿曽流はその名の由来が「阿蘇」にあるように九州との縁が深く、随時の父・定宗も肥前守護をつとめていた。随時の生年は不明だが父・定宗が永仁3年(1295)に28歳で死去していることから1290年代前半の生まれと推定される。定宗の死後、肥前守護職は鎮西探題の金沢実政金沢政顕の父子が二代にわたって兼任し、随時は肥後国阿蘇郡小国郷や肥前国高来西郷などの所領を治めた。

 文保元年(1317)に鎮西探題に任じられ、肥前守護職を兼任した。その在任中の元亨元年(1321)6月23日に博多で死没した。息子の治時がまだ4歳と幼かったことから30歳前後だったと思われる。所領であった肥後国小国郷の満願時には随時のものと伝えられる五輪塔が残されている。

安宅頼藤あたぎ・よりふじ生没年不詳
親族父:安宅頼定 子:安宅近俊、安宅安重、安宅家春、安宅信守
官職備後権守・備後守(南朝)
生 涯
―南北朝を行き来した熊野水軍―

 安宅氏は紀伊国牟婁郡安宅荘にルーツを持ち、いわゆる海賊衆「熊野水軍」の一員であった。熊野水軍は一枚岩ではなく多くの水軍の連合体で、南北朝時代には基本的に南朝を支持した。だが安宅頼藤は観応元年(正平5、1350)に足利義詮から淡路の海賊退治を命じられ、淡路国由良に城を築いてここを拠点とした。翌観応2年(正平6、1351)正月には阿波守護・細川頼春から安宅一族の須佐見(周参見)氏(頼藤の弟と言われる)に阿波国竹原荘本郷の地頭職を安堵され、さらに9月にも頼藤に対して阿波国牛牧荘の地頭職が与えられている。この時期は「観応の擾乱」の真っ最中で、四国・淡路に勢力をもつ細川氏としては紀伊水道を確保するため安宅水軍の力を必要としていたようである。文和元年(1352)閏2月に細川頼春が戦死すると、その子・細川頼之が安宅氏の所領を安堵しており、同年12月には頼藤の子と思われる安宅王杉丸に阿波国萱島荘の地頭職が与えられている。

 ところが正平14年(延文4、1359)7月、安宅頼藤は突然南朝方に寝返り、南朝から備後守に任じられ、それまで主従関係と言ってよかった細川頼之に対し対決姿勢をとった。頼藤は阿波国小豆坂以南を攻撃するよう南朝から指示を受けたが(「安宅文書」)、頼之は阿波の安宅領を差し押さえて家臣の新開真行に与え、頼藤を封じ込めている。さらに正平17年(康安2、1362)に幕府で失脚し南朝に走った細川清氏が四国に渡る際にも連動する動きを見せたとみられ、この年の12月1日付で南朝方の「源某」から勲功の賞として阿波南方の南朝闕所(南朝側で所有者がない土地)および本領を与えられている(「安宅文書」)。だが阿波における南朝勢力はその後は衰退の一途で、頼藤も勢力を挽回することはなかった。その後のことは不明であるが、安宅水軍自体は戦国期まで活動を見せている。

参考文献
小川信「細川頼之」(吉川弘文館・人物叢書)

安達(あだち)氏
 藤原北家魚名流の末裔とされるが、源頼朝に仕えた盛長以前の系譜は判然としない。鎌倉時代には北条得宗家の外戚となって北条氏と共に他家の排斥に成功、幕府内の有力氏族となるが、得宗家家臣「御内人」との対立も激しく、「霜月騒動」で安達泰盛以下一族の多くを討たれた。その後復活し得宗家外戚として権勢をふるうが御内人の長崎氏との対立は幕府滅亡時まで続いた。代々当主は「秋田城介」の官職を世襲し、その名で呼ばれることも多い。

盛長─景盛┬義景──┬頼景




└松下禅尼├景村──大室泰宗覚海円成北条高時



泰盛┬宗景───貞泰北条泰家



├時盛├盛宗




└千代野─釈迦堂殿足利高義



├顕盛──宗顕───時顕──高景



├長景





└覚山尼北条貞時


安達高景あだち・たかかげ?-1333(正慶2/元弘3)?
親族父:安達時顕 姉妹:北条高時正室 妻:長崎円喜の娘
官職秋田城介(出羽介)・讃岐権守
幕府評定衆・引付頭人(五番)
生 涯
―最後の秋田城介―

 安達時顕の子で、鎌倉時代を通して安達氏が代々継承した「秋田城介(あきたじょうのすけ)」の最後の一人。生年は不明だが北条高時と同世代と推定され、姉妹が高時の正室となっている。北条得宗家の外戚・安達氏は北条得宗家の執事・内管領である長崎氏と霜月騒動(弘安8、1285)以来の対立関係にあるが、父・時顕の代には一定の共存関係ができ、高景の母は長崎円喜の娘である。
 
 嘉暦元年(1326)3月14日に病で重態に陥った北条高時は出家して執権職を辞した。このときその舅である安達時顕もこれに殉じる形で出家・辞職しており、3月16日の評定衆の会合に父に代わって高景が登場している。この日、後任の執権に長崎円喜・高資父子の意向で金沢貞顕が選ばれるが、高時の生母・覚海円成(安達氏)が高時の弟・泰家を立てようとして反発、貞顕が十日で辞任し、一時は合戦かという一触即発の大騒動となった(嘉暦の騒動)。高景は当然安達氏側の立場で行動していたと思われるが、ともかく両者の妥協の産物として当たり障りのない赤橋守時が後任執権となった。この騒動のあとで高景は正式に「秋田城介」を継承したと思われる。

 元弘元年(元徳3、1331)に高景は五番引付頭人となった。この年、後醍醐天皇の二度目の倒幕計画が発覚し、8月に後醍醐は笠置山に挙兵する。このとき後醍醐を廃位し新天皇を立てるために鎌倉から安達高景と二階堂道蘊が使者として派遣され、9月18日に京に到着した。そして9月20日に土御門東洞院殿で持明院統の皇太子・量仁親王の践祚の儀式を行った(「光明寺残篇」「増鏡」など)。これが光厳天皇である。これにより、まだ笠置で交戦中の後醍醐は「先帝」ということにされたのである。

 正慶2年(元弘3、1333)5月22日に鎌倉は陥落、北条高時以下、長崎氏も含めて一族郎党の大半は鎌倉と運命を共にした。高景の父・時顕もその中に含まれるのだが、高景については判然としていない。「太平記」は高時と共に自害した人物のなかに「秋田城介師時」なる人物を挙げているが、これが高景の誤りとみる意見もある。だが一方で、建武元年(1334)に秋田から津軽にかけて名越時如らと共に「高景」なる人物が北条残党を率いて反乱を起こしており、秋田城介である高景が鎌倉を脱出してこちらに下っていた可能性も否定できない(高時の弟・泰家も奥州へ脱出している)。この反乱は結局陸奥国司・北畠顕家自らの出馬により平定されており、これ以後の安達高景の消息は途絶えている。
大河ドラマ「太平記」「秋田城介」の役名で第9・11・12回に登場している(演者は9回は佐藤文治、11・12回は佐藤祐治。同一人物?)。第8回で描かれる長崎円喜暗殺未遂の中核にいたことになっていて、第9回で覚海尼に「闇討ちを仕掛けるも下、討ち漏らすは下の下」と叱られている。第11回でも覚海尼のそばに控え、第12回では二階堂道蘊と共に笠置攻略に参加している。「安達高景」の名で登場しないのはドラマ冒頭の霜月騒動で「安達滅亡」という形にしてしまったためかと思われる。
その他の映像・舞台1960年の舞台「妖霊星」で助高屋小伝次が「秋田城之介」の役名で演じたという。

安達泰盛あだち・やすもり1231(寛善3)-1285(弘安8)
親族父:安達義景 母:小笠原時長の娘 子:安達宗景 妹:覚山尼(北条時宗室)
官職秋田城介(出羽介)・陸奥守
幕府引付衆・評定衆・三番引付頭・越訴奉行・恩沢奉行・肥後守護
生 涯
―悲劇の有力御家人―

 安達氏は源頼朝以来、鎌倉幕府中枢にあった有力御家人で、泰盛はその四代目当主である。宝治元年(1247)に北条氏と三浦氏の対立から起こった「宝治合戦」では、17歳の泰盛が安達氏の先鋒として北条側で戦闘に参加している。この戦いで三浦氏は滅ぼされ、頼朝以来の幕政参加の名族御家人は安達氏のみとなってしまう。建長5年(1253)に父・義景が死去すると、安達氏が世襲する「秋田城介」の地位を引き継ぎ、引付衆さらには評定衆として幕政の中枢に参加するようになる。
 泰盛は執権・北条時頼を支え、その子・北条時宗には自身の異母妹にして養女(覚山尼)を嫁がせて北条氏の外戚として地位を固めた。時頼の死後は若い時宗を支えて将軍の交代や文永の役といった難題に対処した。文永の役で先陣の功を挙げた竹崎季長はその功績を認めてもらうべく鎌倉まで出向き、恩賞を担当していた安達泰盛に談判し、恩賞を認められている。この模様は有名な「蒙古襲来絵詞」にも描かれ、この絵詞自体が泰盛に対する季長の鎮魂と感謝の意をこめて作成されたものと言われている。

 泰盛の異母妹は時宗の嫡子・貞時を生み、泰盛は必然的にその後見人となった。弘安5年(1282)に泰盛の子・宗景が評定衆に加わり、泰盛は秋田城介の地位は息子に譲って自身は陸奥守に任じられる。陸奥守はほぼ北条氏が独占してきた官位であり、泰盛の権勢のほどが知られる。
 弘安7年(1284)に北条時宗が死去、まだ14歳の貞時が執権職を継いだ。泰盛は時宗に殉じる形で出家し「覚真」の法名を名乗るようになるが、貞時の後見人として幕政の中枢にとどまり、元寇後の混乱が続く幕府体制の立て直しに着手する。泰盛の諸改革は「弘安徳政」と呼ばれ、新興領主層を新規に御家人化して将軍権力の強化を図り、朝廷や寺社勢力と共存しつつ影響力を強めようとするものであったが、これは当時北条得宗家の独裁強化と共に台頭しつつあった北条得宗家直属の家臣、いわゆる「御内人」勢力との激しい利害対立を伴うものであった。こうした御内人の頂点にいたのが得宗家の執事「内管領」をつとめる平頼綱で、泰盛と頼綱は互いに激しく相手を攻撃・非難しあった。

 弘安8年(1285)11月17日、平頼綱は安達泰盛の子・宗景が源頼朝の後裔を名乗り将軍の地位を狙っていると貞時に讒言し、御内人の兵力を用いて泰盛一党を奇襲攻撃した。泰盛らは戦いに敗れ、泰盛・宗景以下一族郎党の多くが自害して果てた。この乱「霜月騒動」の余波は各方面に及び、一説に足利尊氏の祖父・家時の謎の自殺はこの事件に何がしかの関与があったのではとも言われる。
 この7年後の「平禅門の乱」で今度は貞時によって平頼綱が滅ぼされ、安達氏は再び北条外戚として復活してくる。しかし御内人勢力も頼綱の一族である長崎氏が内管領をつとめることで支配力を増し、貞時からその子・高時にいたる鎌倉幕府末期の政治的緊張を演出していくことになる。
大河ドラマ「太平記」もともと「太平記」の時代とかぶる人ではないのだが、第1回のオープニングで北条氏の独裁強化の象徴的事件として「霜月騒動」が大がかりな戦闘シーンと共に描かれ、その犠牲者としてほんの数分登場した(演:加賀邦男)。史実とは異なり夜中に安達邸で宴会が開かれ、田楽一座を呼んで楽しんでいるところへいきなり夜討ちを受ける。泰盛は孫と思われる幼児を抱いており、「おのれ、北条の手先ども…許せ!」とうめいて幼児に手をかけ自害したように描かれている。
放送されたものではカットされているが、脚本ではこのあと平頼綱と若き日の長崎円喜が「次は足利…」と密談する場面があった。足利に話をつなぐための入り口として霜月騒動が使われたもので少々無理もあるのだが、これが安達泰盛のドラマ初登場となった。なお史実では安達氏はその後勢いを取り戻しており、ドラマで出てくる秋田城介(高景)や覚海尼は安達氏なのだが、冒頭で「滅ぼされた」ことにしてしまったのでそのことには一切触れてない。
その他の映像作品戦争の敗色濃厚となった時期に製作された映画「かくて神風は吹く」では原聖四郎伊原史郎が演じている。
2001年のNHK大河ドラマ「北条時宗」では全編にわたる重要レギュラー人物として登場し、「太平記」にも出演している柳葉敏郎が演じた。宿敵となる平頼綱は北村一輝が演じているが、あくまで「時宗」ドラマであるため、こちらでは霜月騒動が描かれなかった。
1983年のアニメ「まんが日本史」では緑川稔が声を演じた。

阿野(あの)家
 藤原北家閑院流で家格は羽林家。藤原成親の四男・公佐が阿野全成(頼朝の弟)の娘をめとり、その領地を継承して「阿野家」を称したのが始まり。地位の低い公家であったが廉子が後醍醐天皇の寵愛を受けて南朝の「国母」となったことから、阿野家は南朝の有力公家として地位を高めた。南北朝合体後も駐留公家の地位を保ったが応仁の乱に深くかかわり戦国期にはいったん断絶した。安土桃山時代に子孫により再興され、明治以後は華族の子爵家となった。

藤原成親─公佐
┌公寛







||─
─実直
┴公仲
公廉実廉──季継───
実村


阿野全成
─女子



廉子
実為
公為
─実治





||───
後村上天皇








後醍醐天皇
恒良親王









成良親王




阿野公廉あのの・きんかど(きんやす?)生没年不詳
親族父:阿野公仲 母:北条資時の娘?
兄弟:阿野実文
子:阿野実廉・阿野廉子(後醍醐天皇妃・後村上天皇母)
官職左近衛中将
位階
正四位下
生 涯
―廉子の父親―

 左近衛中将(あるいは右近衛中将)阿野公仲の子。阿野家は祖父の実直が公卿になったものの以後不遇で、公廉も正四位下どまりであった。娘の廉子が後醍醐天皇の中宮・西園寺禧子の侍女として後宮に入り、結果的に後醍醐最愛の寵妃となるのだが、後宮入りにあたっても洞院公賢の養女にする手続きがとられているほど阿野家の地位は低かったのである。
 没年も不明だが、廉子が後醍醐の寵愛を受け始めるころまでは存命だったかもしれない。廉子が寵愛を受けたために地位が上がるまでは生きていなかったということであろう。

阿野公為あのの・きんため生没年不詳
親族父:阿野実為
子:阿野実治
官職左近衛中将・中納言・内大臣(南朝)
位階
従一位(南朝)?従三位
生 涯
―北朝へ鞍替えした?南朝公卿―

 南朝で内大臣をつとめた阿野実為の子。『公卿補任』の永徳2年(弘和2、1382)の記事に「非参議」として「従三位・藤公為」の名があり、「十二月廿日叙。元左中将。本名公隆」と注されている。ここから初めは「公隆」と名乗っていたことが分かる。また袖書きに「従三位実廉曽孫・侍従季継孫・実為男」とあり、阿野家の系譜を知る手がかりともなっている。南朝を存在自体認めていない『公卿補任』に公為の名が載っているということは永徳2年の段階で南朝から北朝に走ったことになりそうだが、あるいは実為の意を受けて北朝との講和の橋渡しのために北朝に出仕したのだろうか。
 『公卿補任』ではそれから毎年「公為」の名が確認できるが、明徳2年(元中8、1391)に「薨」つまり死去したと記されている。しかし翌年の南北朝合体後も公為は父の実為と共に嵯峨に隠棲した後亀山上皇に仕えたことが確認できるので、明徳2年に死んだのではなく出仕を停めたのだと思われる。その背景に南北朝の合体実現があるのは間違いないだろう。
 父・実為が死去したのちの応永9年(1402)ごろに「阿野前中納言」と記した史料があり、これが公為とすると南朝で中納言だった時期があるということになる。さらに時代が半世紀もくだって(当然公為没後)『康富記』享徳4年(1455)閏4月1日条には「内府公為」という表現があり、南朝で内大臣をつとめた時期があることにもなる。だが南北朝合体後に朝廷に出仕した形跡はない。
 子の阿野実治は南朝皇統の護聖院宮とその子に仕え、やがて朝廷にも復帰し、権中納言にまで昇っている。

参考文献
新田一郎『太平記の時代』(講談社学術文庫「日本の歴史」11)
森茂曉『闇の歴史・後南朝 後醍醐流の抵抗と終焉』(角川選書)ほか

阿野実廉あのの・さねかど(さねやす?)1288(正応元)-?
親族父:阿野公廉
兄弟姉妹:阿野廉子
子(養子?):阿野季継
官職右近衛中将・右兵衛督・宮内卿
位階
従三位
生 涯
―鎌倉で暗躍した廉子の兄―

 左近衛中将・阿野公廉の子で、後醍醐天皇の寵妃・阿野廉子の兄。
 まず右近衛中将に任官され、征夷大将軍となった守邦親王に従って共に鎌倉に下り、幕府滅亡時まで鎌倉にあった。妹の廉子が後醍醐の寵愛を集めたため、それまで不遇だった阿野家もその恩恵を受け、嘉暦3年(1328)3月に従三位・参議に昇って公卿に列し、翌年の元徳元年(1329)12月に右兵衛督、元徳2年(1330)7月には宮内卿に昇進した。しかし元弘元年(元徳3、1331)に後醍醐が倒幕の挙兵に失敗し、持明院統の光厳天皇が即位するとたちまち解任されたとみられる。

 元弘3年(正慶2、1333)5月、各地で討幕の動きが激しくなり幕府が滅亡の瀬戸際に立ったこの時点で、鎌倉にいた実廉は突然北条高時から討手を差し向けられたがきわどく脱出、新田義貞の鎌倉攻めに参加して戦功を挙げた(同年11月に本人が出した申状による)。将軍・守邦親王に仕えていた彼が急にそのような事態になったことについて、実廉が後醍醐側(当然妹の廉子をふくむ)と連絡をとって幕府内の情報を流す「スパイ」の役割をしていたのではないか、との推測がある。

 建武政権が成立し、廉子の子である成良親王が鎌倉将軍として関東に下ると、伯父である実廉もこれに従って再び鎌倉に入った。仕える相手は変わったが「鎌倉の将軍」に供奉するという立場は変わらなかったということである。建武元年(1334)8月に関東で反乱が起こって鎌倉で戦闘が起きた際にも実廉が成良の警護にあたった。この年、護良親王が逮捕されて鎌倉に幽閉されたが、その背景には足利尊氏と廉子の共謀があったとも言われ、護良を鎌倉に下す決定には実廉の存在も関わっていた可能性がある。
 建武2年(1335)7月に北条残党の反乱「中先代の乱」が起こり、反乱軍に鎌倉が占拠されると、実廉は成良を奉じて三河国まで逃れている。その後彼についての消息はほとんどわからなくなり、建武3年(延元元、1336)10月に出家したことが『公卿補任』で確認されるのみである。時期的には建武政権の崩壊が確実となったころなので、世をはかなんでの出家であったかもしれない。
 以後の行動は全く不明だが、彼の子(養子とも)阿野季継とその子孫は南朝の有力公家となっているので、実廉も妹の廉子に従う形で吉野へ移ったのかもしれない。

参考文献
佐藤進一・網野善彦・笠松宏至『日本中世史を見直す』(平凡社ライブラリー)

阿野実為あのの・さねため生没年不詳
親族父:阿野季継? 兄弟:阿野実村?
子:阿野公為・後亀山天皇母(嘉喜門院?)?
官職内大臣(南朝)
位階
従一位(南朝)
生 涯
―南北朝合体交渉の南朝側代表―

 『尊卑分脈』など系図類では阿野実村の子とされるが、それでは後村上天皇の母である阿野廉子の甥(兄弟説もある)阿野季継の孫が南朝末期の首脳であったことになり世代的に無理がある。『公卿補任』の永徳2年(弘和2、1382)の実為の子・公為に関する記事で「公廉の曾孫・季継の孫」という注があるので、実為は実際には季継の子であったと考えればそう矛盾はない(季継が廉子の兄弟とすればさらに矛盾はなくなる)。実為は兄が早世したためその養子という形で阿野家を継いだのだと思われる。
 『尊卑分脈』では南朝で従一位内大臣まで昇ったとあるので、歴代の阿野家当主の中ではもっとも高位につけたことになる。南朝関係の文書から正平6年(観応2、1351)ごろに右近衛少将、正平13年(延文3、1358)5月に蔵人頭・右近衛権中将、天授元年(永和元、1375)に権大納言、天授3年(永和3、1377)に大納言、弘和元年(永徳元、1381)には辞職して「前大納言」となっていることが確認される。従一位・内大臣となったのは南朝で後亀山上皇が即位した初期のころと思われ、元中6年(康応元、1389)6月時点の文書「阿野前内大臣」とあることからそれまでに内大臣を辞している。
 史料の少ない南朝は事情が不明なことが多いが、実為と後亀山との結びつきが強かったことは推測できる。内大臣への抜擢、和平派の後亀山の意を受けての幕府との交渉役をつとめたことも挙げられるが、長慶・後亀山両天皇の生母とされる嘉喜門院の歌集を実為が清書していること、吹上本『帝王系図』に後亀山の生母は実為の娘とされていることなど、決定的とは言えないが実為と後亀山が血縁を通して深い関係にあった可能性はある。

 元中9年(明徳3、1392)、「明徳の乱」の結果和泉・紀伊の守護となった大内義弘が仲介して、幕府と南朝との和平交渉が開始され、阿野実為は吉田宗房と共に南朝側の交渉役をつとめた。10月13日付の足利義満から阿野実為にあてた書状の中で南北朝合体の諸条件が明記されており、実為が交渉で果たした役割は大きいものがったと思われる。この書状から15日後の10月28日に後亀山は吉野を出立、閏10月2日に京に入って「南北朝合体」が実現することとなる。
 実為は後亀山に付き従って入京、直後に出家して「匡円」と号し、嵯峨・大覚寺に隠棲した後亀山に仕え続け、後亀山の院宣の奏者をつとめている。応永5年(1398)から応永7年(1400)までに死去したとされる。
 実為の子・公為はある時期から北朝に出仕した形跡があるが、南北朝合体以後は父と共に後亀山に仕えて朝廷での任官は受けていない。その公為の子・実治の時に阿野家はようやく朝廷に復帰している。

参考文献
新田一郎『太平記の時代』(講談社学術文庫「日本の歴史」11)
森茂曉『南朝全史・大覚寺統から後南朝へ』(講談社選書メチエ)ほか

阿野実村あのの・さねむら生没年不詳
親族父:阿野季継
兄弟:阿野実為?
官職権大納言(南朝)
位階
正二位(南朝)
生 涯
―南朝公卿の一員―

 阿野季継の子。『尊卑分脈』によれば南朝に仕え、正二位権大納言まで昇った。事跡はほとんど不明であるが、南朝後期を短期間ながら支えた公卿であったとみられる。
 後継者の阿野実為は『尊卑分脈』や『阿野家譜』では実村の子とされるが、世代的には弟であった可能性が高い。

阿野季継あのの・すえつぐ生没年不詳
親族父(養父?):阿野実廉
子:阿野実村・阿野実為
官職侍従・権大納言(南朝)
生 涯
―南朝公卿となった廉子の甥―

 阿野実廉の子で、後醍醐天皇の寵妃であり南朝・後村上天皇の母である阿野廉子の甥にあたる。だが実際は廉子の兄弟で兄・実廉の養子となって跡を継いだという見方もある。
 『新葉和歌集』に「建武元年八月十五日の内裏での歌会」で詠んだ和歌が載るため、建武政権期には後醍醐宮廷に出入りしていたことが分かる(『公卿補任』では「侍従」とある)。後醍醐天皇により吉野に南朝が開かれると、叔母の廉子ともども吉野に入ったとみられる。
 吉野の朝廷での活動についてはほとんど分かっていないが、『尊卑分脈』では南朝の権大納言になったと記されている。南朝の「国母」であり女帝並みにふるまったとされる廉子の親族だけに一定の権勢はふるったと予想される。『新葉和歌集』に計五首が入っている。
 没年は不明。子の実村・実為も南朝に仕えて有力な公卿となっている。

阿野廉子あのの・れんし(かどこ/やすこ)1301(正安3)-1359(延文4/正平14)
親族父:阿野公廉 養父:洞院公賢 夫:後醍醐天皇 兄:阿野実廉
子:恒良親王・成良親王・後村上天皇・祥子内親王・惟子内親王
位階従三位→准三后
生 涯
 後醍醐天皇の寵愛をもっとも集めた愛妃として天皇と隠岐や吉野まで苦労を共にし、建武政権や南朝において「女帝」さながらの権勢をふるったとされる、南北朝時代を通して最強の印象を残した女性。「廉子」の読みについては「かどこ」「やすこ」等の説もあるが確定できないので便宜上「れんし」と音読みにするのが一般的である。

―後宮の“下剋上”―

 実父は藤原氏閑院流の阿野公廉。決してランクの高い公家ではなく、廉子が後醍醐天皇の後宮に入ったのも中宮・西園寺禧子の侍女(上臈)としてであり、しかも身分を上げる必要からであろう、同じ閑院流の上級公家・洞院公賢の養女になったうえで後宮に入っている。
 廉子と後醍醐が初めて顔を合わせたのは、すでに後醍醐の正室の立場にあった禧子が、後醍醐の即位にともない中宮に冊立された元応元年(1319)のことと思われる。『太平記』によれば後醍醐は侍女のほうの廉子に一目で惚れこんでしまい、そのまま廉子が後醍醐の寵愛を一身に集めて禧子をはじめとする後宮の他の女性たちは見向きもされなくなったと記している。実際には後醍醐の他の后妃たちへの扱いも決して冷たかったわけではなく『太平記』の記述はかなりの誇張があるのだが、とりわけ廉子が後醍醐の寵愛を集めたことは事実なのだろう。その美貌もさることながらその頭の回転の速さや強気の気性といったものが後醍醐とウマがあったのかもしれない。
 多くの后妃たちの中で彼女が際立つのは多くの皇子・皇女を生んだことだ。正中2年(1325)に長男・恒良親王を生み、すぐ翌年の嘉暦元年(1326)に次男・成良親王を、さらに二年後の嘉暦3年(1328)にはのちに南朝の後村上天皇となる義良親王を生んでいる。ほかに最後の伊勢斎宮(伊勢神宮の巫女となる皇女)となった祥子内親王がおそらく皇子たちより先に生まれており、ほかにもう一人、惟子内親王も生んでいる。
 こうした「実績」を背景に、元徳3年(1331)2月に廉子は従三位に叙され、これ以後「三位局(さんみのつぼね)」あるいは「三位殿の局」と呼ばれるようになる。

―配流先への同行―

 廉子が次々と後醍醐の子を産んでいたこの間、後醍醐は着々と鎌倉幕府打倒の計画を進めていた。皇統が持明院統と大覚寺統の二つに分かれ、さらに後醍醐自身が大覚寺の中でも傍系の「一代限り」とされていた状況の中で、自身の皇子を天皇にすることが後醍醐最大の野望であり、幕府打倒を決意した最大の動機でもあった。この時点での後醍醐の考える「皇太子」は一の宮の尊良親王、あるいは愛情を注いだ世良親王であったとみられ、廉子の皇子たちはまだ幼いこともあって候補者にはあがっていない。
 元弘元年(1331)8月、後醍醐天皇は笠置山に挙兵し、幕府軍に敗北して囚われの身となった。翌年3月に後醍醐の隠岐への配流が実行に移され、これに廉子と大納言君小宰相の三人の女性が同行した(「太平記」は廉子のみと伝えるが『増鏡』に他の二人の名があり、花園上皇も日記に「女房三人」と記している)。後醍醐の皇子たちも十歳以上の者については流刑と決まったが、廉子の生んだ皇子たちはいずれも幼かったため西園寺家に預けられている。

 後醍醐らの隠岐での生活はおよそ一年に及んだ。この間、護良親王楠木正成らによる倒幕活動が活発化し、年が明けて元弘3年(正慶2、1333)に入ると情勢は緊迫の度を増してきた。こうした情勢のなか、同年閏2月24日に後醍醐は隠岐脱出に踏み切る。『太平記』によればこのとき後醍醐らは「三位殿の御局
(廉子)の御産のこと近づきたり」として廉子が乗る輿に後醍醐がひそかに乗りこんで幽閉されていた御所を脱出したという。この記述が正しければ廉子はこの隠岐にいる間に実際に妊娠していた可能性が高く(このときの子が惟子内親王か?)、脱出計画そのものに廉子自身が深くかかわっていたとも思える。
 後醍醐が隠岐を脱出して名和長年を頼って船上山にこもってから間もなく、元弘3年(正慶2、1333)5月に鎌倉幕府はあっけなく滅亡し、後醍醐らは京に凱旋した。廉子もこれに同行していたと推測され、流刑先で苦労を共にした廉子に対する後醍醐の寵愛はいっそう深まることとなった。
 なお、廉子の兄・阿野実廉は鎌倉幕府最後の将軍・守邦親王の側近として鎌倉でスパイ活動をしていたらしく、鎌倉陥落直前に幕府軍の攻撃を受けて鎌倉を脱出、鎌倉攻略戦で活躍したとの話もあり、実は兄妹そろって倒幕戦の陰の立役者であった可能性もささやかれている。

―建武政権での権勢―

 建武政権が成立して間もなく、元弘3年(1333)10月に後醍醐の中宮・
禧子が世を去った。あとがまとなる中宮の地位には持明院統光厳天皇の同母妹・c子内親王が据えられた。廉子は出自が低いことから中宮にはなりえなかったし、皇室両統の合体を図る狙いもあったものと思われる。その代わりこの年のうちに廉子の生んだ恒良親王が皇太子にたてられることが決定され、翌建武元年(1334)正月に正式に立太子の儀式が行われた。我が子を天皇にして「国母」になるという、後宮の后妃にとって最大の野望はここに準備段階までは達成されたことになる。
 また元弘3年の末までに、成良親王は足利直義に擁されて鎌倉へ、義良親王は北畠親房顕家父子に擁されて奥州へと派遣され、それぞれ関東・東北を支配するミニ幕府の象徴的首長となった。いずれも廉子の皇子であることは注目すべき点で、これが廉子の思惑だったのかどうか分からないが(奥州のミニ幕府体制は護良親王の発案とも伝わる)、次期天皇の同母弟たちを東国に配置することで後醍醐と廉子が日本全体を確実に統治するという構想があったとの見方も可能だ。特に成良には廉子の兄・阿野実廉も同行しており、ここに廉子と足利氏のつながりを見ることもできる。そしてこの配置が三人の皇子たちのその後の運命を決定してしまうことになった。

 我が子を天皇にせんとする廉子にとって、最大の脅威は倒幕戦の実質的最高司令官であり、大きな軍事力を持つ護良親王の存在であった。護良は僧籍に戻れとの後醍醐の指示(これも廉子の差し金だったかもしれない)を拒否して一時は征夷大将軍に任じられて軍事力を保持しており、新たな武家政権を目指す足利尊氏と激しい主導権争いを始めていた。護良自身に帝位を望む気があったかどうかは判断のしようがないが、あっても不思議ではなかった。
 建武元年(1334)10月、護良親王は後醍醐の指示により宮中で捕縛された。『太平記』の語るところでは護良の排除を狙った尊氏が廉子に「護良が帝位を狙って兵を集めている」との情報を流し、これをかねて護良を危険視していた廉子が後醍醐にささやいて護良逮捕に踏み切らせたとされる。『太平記』はここで中国・春秋時代の「晋の文公とその継母驪姫(りき)」の故事を長々と語り、継母が我が子可愛さに有能な皇子を陥れた例として間接的に廉子を厳しく批判している。この事件は真相は不明といっていいが、護良を捕縛したのが廉子とは隠岐脱出以来の縁がある名和長年であることから廉子の意向が強く働いていた可能性は高い。

 そもそも建武政権の論功行賞において、廉子と隠岐以来の関係をもつ名和長年・千種忠顕(「隠岐派」「隠岐閥」と呼ばれることがある)が厚い恩賞を受ける一方で、護良親王の一派、とくに赤松円心への扱いはそこぶる冷たいもので、そこに廉子の意向があったとみる向きは多い。『太平記』は廉子が政策決定や論功行賞にまで「口入」(口出し)をしていたと伝え、「准后(廉子)の御口入があったと言えば、公家たちは功績のないものにも恩賞を与え、奉行たちも道理にかなっているものを非としてしまう」と表現している。『太平記』は一貫して廉子を「女が政治に口を出すと国を滅ぼす」という儒教的観点から厳しく非難しており、建武の新政が失敗に終わったのも廉子のせいと言わんばかりの勢いだ。もちろんこれは『太平記』作者の価値観からの一方的な潤色という可能性もあるのだが、北畠顕家が戦死直前に後醍醐に出した諌奏文の中に「政治に害をなす貴族・女官・僧侶を排除し政治への口出しを許さぬこと」との一節があり、この「女官」が廉子を指しているのではないかとの声も強い。

 建武2年(1335)4月、廉子は「准三后(じゅさんごう)」の地位を与えられた。これは皇后・皇太后・太皇太后と同等の待遇を認めるもので、本来性別は問わず臣下でありながら皇族と同等の扱いをするというもので南北朝時代の人物では北畠親房・足利義満の例がある。廉子の場合、中宮(皇后に同じ)の地位につけない廉子に対して後醍醐が「実質的皇后」の地位を認めてやったものとみられる。このときがおそらく廉子の絶頂期であったろう。

―南朝の「国母」に―

 建武政権の崩壊はあっけなくやってきた。この建武2年(1335)の末には足利尊氏が反乱をおこし、いったん九州まで敗走するが翌延元元年(建武3、1336)5月に湊川の戦いで勝利して京を再占領、比叡山にたてこもって抵抗を続けた後醍醐も10月に尊氏と和睦して比叡山をおりた。このとき後醍醐は恒良親王に譲位して新田義貞にあずけて北陸へ向かわせ、反撃の芽を残している。その一方で尊氏とは持明院統の光明天皇への譲位、その皇太子には成良親王を立てるという取引もしている。どちらにしても廉子の皇子が天皇になる仕掛けなのだ。これまでの廉子と尊氏の関係から見ても、これにも廉子の意向が働いていたと思われる。

 この年の暮れ、後醍醐は幽閉されていた花山院を脱出し、吉野へ入って自身が真の神器を持つ正統な天皇であると主張した。ここに「南朝」が始まるわけだが、廉子はここでも後醍醐に同行して吉野の山奥に入った。
 翌延元2年(建武4、1337)3月、越前金ヶ崎城が陥落して尊良親王は自害、恒良親王も囚われの身となった。『太平記』ではこの直後に恒良と成良が足利直義により毒殺されたと伝えるが、少なくとも成良については事実ではない。ただ恒良の消息はこの直後から途絶えるので殺害されたかはともかくこのころ急逝したのは間違いなさそうだ。
 この年の8月には奥州の北畠顕家の大軍が義良親王を擁して西上の遠征を開始した。顕家軍は翌延元3年(暦応元、1338)正月に美濃・青野原の戦いで足利軍を撃破して畿内へと入ったが、5月に和泉・石津の戦いで壊滅する。この間に吉野に入っていったん両親の後醍醐・廉子と合流した義良は、9月に北畠親房らと共に海路ふたたび奥州を目指した。しかし嵐にあって伊勢に吹き戻され、翌延元4年(暦応2、1339)3月に吉野に戻り、そのまま南朝の皇太子に立てられることになる。
 このころのものなのだろうか、「延元のころ、子もりの社(吉野水分神社)に参拝して祈願をした折に想いにふけって詠んだ」との説明がある廉子の和歌が『新葉和歌集』(南朝の勅撰和歌集)に二首収録されている。
「名にしおふ 神の誓いの そのままに 心の闇を てらせとぞ思ふ(霊験あらたかな神様であれば祈りを聞き届けて私の心の闇を照らしてほしい)」
「祈りをく こころのやみも いつはれて 雲井にすまむ 月をみるべき(祈りをささげているこの私の心の闇がいつ晴れて、雲のたなびく美しい月をみることができるのでしょうか)」
 先の見えない南朝の行く末に「心の闇」を覚えて絶望しかけながらも、自らを奮い立たせるように祈りを捧げる廉子の生の声が聞こえてくる歌である。

 義良が吉野に戻ってきたころ、後醍醐は前年から体調を崩していた。古い側近たちの相次ぐ死、各地での南朝軍の敗退もこたえたのだろう。義良の奥州行きが中止され吉野に呼びもどされたのも、後醍醐の「万一の場合」を考えた措置と思われる。この時点で後醍醐のそばにいる皇子は義良しかなく、義良は廉子が産んだ子なのだ。これも廉子の進めた措置だったのではないだろうか。
 8月15日に後醍醐は義良に帝位を譲り、翌日に死去した。義良が南朝第二代・後村上天皇となる。ここに廉子は自分の産んだ子を天皇にするという宿願を曲がりなりにも果たしたことになるのだが、あくまで吉野の山奥の地方政権の君主にすぎない。真の「国母」になるためには京を奪回しなければならない。後醍醐の執念は後村上とその生母・廉子に受け継がれていくことになる。
 後醍醐がこの世を去った翌年の春、吉野(おそらく後醍醐陵のそば)に咲いた桜を見て廉子が詠んだ歌も『新葉和歌集』に載っている。
「時しらぬ なげきのもとに いかにして かはらぬ色に 花の咲くらむ(時が経つのも忘れるほど悲しみは深いのに、どうしていつもと変わらぬ色に桜は咲いてしまうのだろう)」

―京都帰還への執念―

 後村上天皇が即位し、その翌年から南朝では勢力挽回を期した「興国」年号が使用されるようになる。この興国年間に廉子は後村上の生母として南朝の「皇太后」になっていたと言われ、その情報は廉子の養父で北朝の重鎮であった洞院公賢も日記『園太暦』に記している。後村上はこのときまだ少年であり、南朝においては廉子の発言力がかなり大きかったものと推測される。この時代、夫を亡くした身分なる女性は夫の菩提を弔うため髪をおろして尼となるのが通例なのだが、廉子が髪をおろしたのははるか後のことである。このことも廉子があくまで「現役」にこだわったものと解釈できないこともない。
 しかし南朝の劣勢は続いた。北畠親房による関東での作戦は失敗に終わり、南朝内でも強硬派と和平派の対立が起こることもあった。正平3年(貞和4、1348)正月には楠木正行高師直に敗れて戦死し、師直は勢いに乗って吉野を攻略してこれを焼き払った。後村上・廉子と南朝の人々はさらに山奥の賀名生へと逃れ、南朝はまさにジリ貧と言っていいところまで追いつめられる。

 『新葉和歌集』には、この吉野没落の翌年の春(正平4、1349)に廉子が夫・後醍醐が眠る塔尾陵を訪ねた時の歌が載る。廉子が再び訪れた吉野は蔵王堂を始めとして多くの建物が灰燼に帰していたが、塔尾陵の桜の花が昔と変わらずに咲いていた。万感の思いに襲われた廉子はその花を一ふさ切って宗良親王への手紙に添え「みよし野は 見しにもあらず 荒れにけり あだなる花は なほ残れども(吉野山は昔の面影もないほど荒れ果てました。あの哀しい桜の花は残っていましたけど)」と詠んだのだ。この時のことかどうかは不明だが、廉子が後醍醐陵に詣でて詠んだ「九重の 玉の台(うてな)も 夢なれや 苔の下にし 君を思へば(華やかな玉座に座っていらしたのも夢のようです。今は墓の下に眠るあなたのことを思えば)」という歌も有名だ。

 しかしその直後、南朝にチャンスがめぐってくる。足利幕府内の内戦「観応の擾乱」が始まったのだ。高師直のクーデターにより失脚した足利直義が、正平5年(観応元、1350)10月に南朝に投降。翌正平6年(観応2、1351)2月に師直ら高一族は敗北して滅ぼされ、直義が復権したかに見えたが、その年の11月には今度は尊氏が南朝に投降して直義を討つことになる。尊氏が南朝に降伏したことで北朝は廃され、南朝の後村上天皇が唯一正統の天皇となった(正平の一統)
 12月28日に北朝が持っていた神器を南朝が賀名生に接収し(南朝は北朝の持つ神器は偽物と主張していたのだが)、北朝の光明上皇・崇光天皇に対して「上皇」の称号を贈るとともに、唯一正統の天皇の生母である廉子には「新待賢門院」の女院号が贈られた。女院号は国母・皇太后に贈られる「女上皇」とでもいうべき称号であり、ここに廉子はようやく名実ともに「唯一正統の国母」となった。
 正平7年(観応3、1352)2月3日、廉子は後村上と共に賀名生を出発、「京都還幸」の旅に出た。この行列は元弘のとき、後醍醐の伯耆・船上山からの「京都還幸」を再現する形式がとられたとされ、これもその時の還幸に参加していた廉子の提案ではなかっただろうか。ともかく廉子は万感の思いにかられる歓喜の帰還の旅になる…はずだった。

 このとき鎌倉では足利直義が尊氏に敗北してその直後に急死し、尊氏・直義兄弟の対決は終結した。その直後の閏、北畠親房の指揮のもと尊氏との和睦を破った南朝軍は京・鎌倉の同時占領という大作戦を実現、後村上も滞在していた住吉大社から京ののどもとである男山の石清水八幡まで進出した。このときの廉子の所在は不明だが、やはり後村上に同行していたのではなかっただろうか。
 しかし足利方はたちまち反撃、京と鎌倉は一月とたたずに奪回された。男山での後村上軍の抵抗は5月まで続いたが、最後には後村上自ら甲冑を身につけてかろうじて賀名生へと逃亡するというみじめな結末に終わる。南朝側ではせめて「北朝」を再建させまいと三種の神器と共に持明院統の上皇・皇族たちを拉致していったが、これも足利方の非常処置による後光厳天皇の即位で無駄に終わった。このあとも南朝軍は足利幕府側の内紛に乗じて3度も京の一時占領を実現するが、ついに後村上も廉子も京の土を踏むことはできなかった。

―南朝の「女帝」として―

 京帰還の夢を果たせず再び賀名生に戻った廉子だったが、その後も正平9年(文和3、1354)まで「新待賢門院」としていくつかの令旨(命令書)を残している。山城の祇園社に祈祷を命じたり、西大寺の所領を安堵するといった内容で、南朝の国母として宗教界への影響力を持とうとしていたのかもしれない。その存在感について森茂暁氏は「源頼朝没後の、かの尼将軍北条政子を彷彿させる。まるで廉子は南朝の「女帝」のようである」と表現している(「太平記の群像」)

 さながら女帝のように「現役」を続けていた廉子だったが、ついに正平12年(延文2、1357)9月に出家して髪をおろした。きっかけは不明だが、この年は南朝に抑留されていた北朝の皇族たちが京へ送還された年でもあり、結局破談に終わるのだが南北両朝の講和交渉が進められてもいた。南朝の強硬派総帥であった北畠親房も3年前に死去しており、南朝側が大きく講和に傾いていたことは確かだ。そしてこの正平12年10月には後醍醐以来の南朝の精神的支柱といえた文観も世を去っている。こうした時の流れに廉子も無常を感じたのかもしれない。翌正平13年(延文3、1358)4月には、長年の宿敵である足利尊氏も世を去った。

 廉子が世を去ったのは尊氏が死去したちょうど一年後、正平14年(延文4、1359)4月29日だった。場所はこのとき南朝の皇居が置かれていた河内の観心寺。『太平記』は彼女の死について「一方の国母にておわしければ、一人(後村上帝)を始めまいらせて百官皆椒房の月に涙を落し、掖庭の露に思を摧く」と簡潔に記す(「太平記」は世代交代を印象付けるためか史実より一年ずらして尊氏と同年同時期に死んだことにしている)。廉子の四十九日に後醍醐皇女で光厳の妃となった懽子内親王(禧子の娘)が奉じた祈願文に「耳順(六十歳)に一年及ばず」とあることから廉子が数えで59歳であったことが確認される。
 廉子は観心寺内に葬られたが、現在観心寺で「正成の首塚」とされるものが実際には廉子の墓であると言われている。この母を恋うてのことなのか、それから9年後に住吉大社で死去した後村上天皇も廉子が眠る観心寺に葬られている。

参考文献
森茂暁「太平記の群像・軍記物語の虚構と真実」(角川選書)
同「皇子たちの南北朝」(中公文庫)
村松剛「帝王後醍醐」(中公文庫)
林屋辰三郎「内乱のなかの貴族・南北朝と「園太略」の世界」(角川選書)
加来耕三「阿野廉子・後醍醐天の妃」(「歴史読本」1991年4月号・特集「『女太平記』南北朝の女性たち」所収)ほか
大河ドラマ「太平記」原田美枝子が演じ、第10回で初登場、終盤の第47回まで登場する重要な女性キャラクターとして強い印象を残した。とくに吉川英治の原作そのままに隠岐脱出時に小宰相を海に突き落とすシーンの凄みは強烈。建武政権期では恩賞問題で赤松円心を排除、護良親王追い落としの首謀者として大活躍(?)、北畠親房との静かに火花を散らす場面や、義貞に「尊氏の首を取ってこい」と命じる場面など、時代を代表する「悪女」そのまま。一方で尊氏にすりよって成良を皇太子にさせるなどしたたかな一面も描かれた。後醍醐死後は尼の姿となるが(史実ではない)、塩冶高貞と単独で密会したり、あれほど仲の悪かった親房と結託して足利内紛の種をまくなどドラマ終盤まで意気軒高だった。後醍醐をしのんで「九重の玉の台の…」と歌を詠むシーンもあった。
その他の映像・舞台 大正13年(1924)の日活製作の無声映画「桜 さくら」は劇中劇に児島高徳のエピソードが出てくる内容で、尾上多磨之丞が「三位の局」として廉子を演じている。
 昭和39年(1964)の歌舞伎『私本太平記』では澤村宗十郎(八代目)が演じた。大河ドラマと同年の平成3年(1991)の歌舞伎『私本太平記 尊氏と正成』では澤村田之助(六代目)が演じている。
 大河の前年の平成2年(1990)に上演された劇「流浪伝説」は後醍醐を主人公とした異色作で、「レンシ」の役名で渡辺美佐子が演じている。
 アニメ「まんが日本史」では第24回で護良親王を陥れるシーンで登場。声は間嶋里美
歴史小説では南北朝時代、太平記を扱った小説ではたいてい登場しており、「代表的悪女」イメージが定番。吉川英治「私本太平記」では隠岐に同行した妃の一人・小宰相を脱出時に海に突き落とすという強烈なシーンが描かれたが、これはまったくのフィクションである(これを史実と勘違いした雑誌記事を読んだことがある)
後醍醐と関わりの深い文観が性的儀式を含む邪教「真言立川流」をものしていたことから、廉子もその儀式に参加していたように描く作品も複数存在する。大河ドラマ便乗でスポーツ紙に峰隆一郎が連載した官能歴史小説「足利尊氏・女太平記」では護良追い落としのために廉子のほうから迫って尊氏と関係を持ってしまう場面がある。
元自衛官の手になる自費出版の小説では三好康弘「虹の橋」がある。ここでも廉子は正成や道誉らと次々と関係を持つ淫らな女性として描かれ、史実と異なり正平一統の時に京を目前にして急死する結末になっている。
漫画作品では 学習漫画系では意外に登場しておらず、小学館版「少年少女日本の歴史」で護良失脚のくだりで登場している程度。しかし古典「太平記」のコミック版では重要な「悪女」キャラとしてよく登場している。中でもさいとう・たかをによる「太平記」(中公「マンガ日本の古典」シリーズ)では原作にはない登場場面が増え、「南北朝動乱の影の主役」の趣きすらある。
 廉子を主人公とするものでは、かみやそのこ「阿野廉子」(ロマンコミックス人物日本の女性史)がある。ドロドロのレディースコミックのノリで廉子を描いた作品で、なんと護良親王と肉体関係をもち、恒良は実は護良の子だったという衝撃の創作がある(正成からも片思いされたりする)。隠岐以後は落ち込みがちな後醍醐を廉子が励まし、むしろ全て廉子が主導したように描かれ、正成の「尊氏との和睦」の提案を拒絶するのも廉子である。後醍醐が死に、その遺志をついで女帝のごとく南朝を支えていくところでエンディングになる。
 河村恵利「時代ロマンシリーズ」のうち「火炎」という短編でチラッと登場、足利直義と密談して護良親王の失脚と暗殺で同意する描写がある。
 市川ジュン「鬼国幻想」は連載誌消滅を乗り越えて完結した長編で、廉子の異母妹・緋和(架空人物)を主人公に南北朝動乱を描く。廉子ももう一人の主役といっていい存在で、護良にひそかに恋している設定がかみや版と似ている。しかし我が子を天皇にするという野望のために心を鬼にして護良を死なせる。南朝においても懐妊した中宮・c子を蹴落として子供もろとも死なせたような描写(どちらかというと事故に見えるが)があり、これは吉川英治の小宰相殺しを参考にしたのかもしれない。
 天王洲一八作・宝城ゆうき画『大楠公』では後醍醐の隠岐脱出の前から登場、建武政権期には護良親王の失脚だけでなく暗殺についても廉子が直義に指示を出していたことになっている。
 河合真道「バンデット」では後醍醐の隠岐脱出とその後にわずかに登場、思い切り現代ギャル風のキャラデザインになっていた。

荒尾九郎あらお・くろう?-1331(元徳3/元弘元)
親族
兄弟:荒尾弥五郎
生 涯
―笠置山攻撃に参戦、一矢で戦死―

 尾張国知多郡荒尾(現・愛知県東海市荒尾町)出身の武士。元徳3年(元弘元、1331)9月、後醍醐天皇が笠置山にたてこもって討幕の兵を挙げたため、六波羅探題は笠置山へ大軍を送り込んだ。荒尾九郎は弟の荒尾弥五郎と共にこの笠置攻撃軍に参加していた。
 『太平記』によれば9月3日の戦闘で尾張勢は最前列に並んでいた。後醍醐方の足助重範がこの尾張勢に向けて強弓を放ち、たまたま荒尾九郎の胸に命中、九郎は栴檀の板(鎧で右胸につける板)から脇の下を射抜かれ、ひとたまりもなく落馬しそのまま死んでしまった。

荒尾弥五郎あらお・やごろう?-1331(元徳3/元弘元)
親族
兄弟:荒尾九郎
生 涯
―強弓を挑発してあえなく射殺される―

 尾張国知多郡荒尾(現・愛知県東海市荒尾町)出身の武士。元徳3年(元弘元、1331)9月、後醍醐天皇が笠置山にたてこもって討幕の兵を挙げた際、兄の荒尾九郎と共に笠置を攻める六波羅軍に参加していた。
 9月3日の戦闘開始時に兄の九郎が後醍醐方の足助重範に一矢で殺されると、弥五郎は兄の遺体を敵に見られぬよう隠し、楯の脇から姿を見せて「足助殿の弓勢は日頃聞いていたほどではないな。ここを射てみろ。鎧の強さを試してみよう」と鎧の胸を叩いて挑発した。足助重範は弥五郎が鎧の下に何か着込んでいるのではと察し、兜の正面めがけて矢を放った。矢は弥五郎の兜ごと眉間を射抜き、弥五郎は兄同様に落馬して息絶えた(太平記)。

安藤三郎あんどう・さぶろう
 NHK大河ドラマ「太平記」の第21回に登場する架空人物(演:岡田正典)足利尊氏が六波羅探題を攻め落とし、夜の京でほんの一瞬一人きりになった時に、突然落人姿の男が「足利高氏!我こそは北条仲時の旗本、安藤三郎なるぞ!裏切り者!」と叫んで襲いかかってくる。尊氏と組み討ちになり、尊氏をあと一歩まで追いつめるが結局尊氏の返り討ちにあい絶命する。死の間際まで「裏切り者…!」と凄まじい形相で尊氏を罵っていた。尊氏が進む「血みどろの道」を象徴させた架空キャラであろう。

安東十郎あんどう・じゅうろう
 NHK大河ドラマ「太平記」の第5回に登場する架空人物(演:吉田将志)。奥州・津軽で鎌倉幕府への反乱を起こしていた安藤(安東)季長の「身内」という設定で、新田義貞の遠い縁者とも紹介される。義貞を頼って鎌倉に潜入、足利貞氏に反北条の挙兵をうながす安藤季長の書状を届ける。義貞の正室が安東重保の娘とされることから津軽の安藤(安東)氏と結びつけた創作と思われるが、鎌倉幕府御内人の安東氏と津軽の安藤(安東)氏の関係については未確定である。

安藤季長あんどう・すえなが生没年不詳
幕府蝦夷沙汰代官
生 涯
―「津軽大乱」の引き金―

 鎌倉時代末期の津軽安藤(安東)氏の惣領にして蝦夷沙汰代官。安藤氏惣領としての通名は「又太郎」。安藤氏はその出自については諸説あり、前九年の役で滅ぼされた安倍貞任の子孫とするもの、源頼朝の奥州征服時に協力した「山の民・海の民」とするものなどあって定説はない。ともかく鎌倉時代初期に安藤五郎なるものが津軽に配置され、「日本」の北端地域を管理し、東北から北海道にかけて存在する「蝦夷(アイヌ)」の統治をまかされたことは事実とみていい。後世「蝦夷管領」と呼ばれるが、正確には奥州を支配する北条得宗家の代理人である「蝦夷沙汰代官」という立場だった。
 
 安藤季長が惣領・蝦夷沙汰代官となっていた時期、北東北では「蝦夷反乱」と呼ばれる紛争が多発して不安定な情勢になっていた。こうした情勢を背景にして安藤一族の中でも内紛が起こり、惣領である季長と、その庶流の従兄弟とみられる安藤季久とが激しく対立した。元亨2年(1322)春に季長と季久は幕府の調停を受けるべく鎌倉に上ったが、幕府の実力者であった内管領・長崎高資が双方からワイロを受け取って双方に聞こえのいい話をしたために事態はかえって混乱してしまう(『保暦間記』『諏訪大明神絵詞』)。津軽では季長・季久の両勢力に「蝦夷」や「悪党」までが加わり大きな争乱に発展してゆくが、この争乱も鎌倉では「蝦夷蜂起」と見なされ、元亨4年(1324)5月に北条高時は「蝦夷降伏」の祈祷まで行わせており、同年に後醍醐天皇が最初の討幕計画(正中の変)を進めたのもこの争乱を幕府弱体化の表れとみたためとも言われる。

 正中2年(1325)6月、幕府は安藤季長から蝦夷沙汰職を剥奪し、それを季久に与えた。季久は安藤氏惣領として「又太郎宗季」と改名したが、当然季長は激しく反発し、「西浜折曽関」(津軽西岸地域)に城郭を構え、蝦夷らも味方につけて抵抗を続けた。翌正中3年(1326)3月に工藤祐貞率いる幕府軍が「蝦夷征罰」と称して津軽へ遠征し、7月には季長を捕虜として鎌倉に連行した。しかし乱は収まらず、季長派は季長の郎従・安藤季兼に率いられて激しい抵抗を続けた。幕府はさらなる討伐軍を送り込むが勝利を得ることができず、結局嘉暦3年(1329)10月に「和議」という形で争乱の終結をみることになった。幕府の処理の不始末から始まったこの「津軽大乱」が「和議」という形で決着したことは、当時の幕府体制の弱体ぶりのあらわれでもあり、その権威を大いに傷つけて滅亡への速度を速めたともいわれている。

 鎌倉に連行された季長がその後どうなったかは不明であるが、おそらく鎌倉で処刑されたものと推測される。建武2年(1335)閏10月に北畠顕家が出した安藤高季(季久の子?)の領地を安堵する国宣のなかで、「安藤次郎太郎後家・賢戒」なる者が西浜の関(折曽根関か)・阿曽米に領地を持ち、彼女の領地については高季の権利対象から除外するという記述があり、この「賢戒」が安藤季長の未亡人であり、鎌倉幕府との「和議」の条件として季長の所領を安堵され継承していたのではないかとの説もある。また、季長派の系統がその後の安藤(安東)氏の一系統「上国家」になっていったとの見解もあるが、確証はない。

参考文献
斎藤利男「安藤氏の乱と西浜折曽関・外浜内末部の城郭遺跡」(山川出版社「北の環日本海世界・書きかえられる津軽安藤氏」所収)
海保嶺夫「エゾの歴史」(講談社学術文庫)
大友幸男「史料解読・奥羽南北朝史」(三一書房)ほか
大河ドラマ「太平記」ドラマ中の登場はないが、第5回で津軽の乱の情報が鎌倉に届き、その名前が言及される。季長の「身内」の安東十郎なる者が新田義貞を介して足利貞氏に季長の書状を届け、反北条の挙兵をうながすシーンがあった。長崎高資が季長・季久双方から収賄して事態を混乱させたことも赤橋守時がそれを評定の場で暴露するという形でうまくドラマの中に組み込まれていた。

安藤季久(宗季)あんどう・すえひさ(むねすえ)生没年不詳
親族子:安藤高季・安藤家季・とう御前
幕府蝦夷沙汰代官
生 涯
―「津軽大乱」の一方の当事者―

 鎌倉幕府末期の津軽安藤(安東)氏の惣領にして蝦夷沙汰代官。はじめ通名を「五郎三郎」といったが、惣領となってから「又太郎」となり、諱も「宗季」と改めたとみられる。安藤氏の系譜は不明なことが多いが、季久は庶流であったらしく、従兄弟の惣領・安藤季長と激しく対立していた。この対立の原因ははっきりしないが、当時北東北で「蝦夷蜂起」と呼ばれる事態がたびたび起こって不安定になっていたことが背景にあるとみられ、また当時の日本各地の武士たちに共通してみられる「本家と庶家の紛争」のパターンを踏んでいたと見ることもできる。

 季長と季久の紛争は幕府の調停に持ち込まれ、元亨2年(1322)春に両者は鎌倉に赴いた。『保暦間記』によれば内管領・長崎高資が双方からワイロをとり、それぞれに都合のよい返事をしたため事態が余計に混乱したという。季長派と季久派はそれぞれ城郭を構え、蝦夷(アイヌ?)や悪党たちを味方につけて激しい戦いを展開した。これを「津軽大乱」と呼び、鎌倉では「蝦夷蜂起」として祈祷まで行われている。
 正中2年(1325)6月6日、幕府は季長から安藤氏惣領の座と蝦夷沙汰代官の職をとりあげ、これを季久に与えた。この処置がなぜ行われたのか判然としないが、ともあれ季久は惣領の地位を手に入れて安藤氏惣領の通名「又太郎」を名乗り、諱も「宗季」と改めた(「季久」と「宗季」を別人とみる説もある)。この措置に季長は当然反発して西浜・折曽関を拠点に徹底抗戦し、宗季も外浜・内末部(津軽半島東部、陸奥湾西岸)に城郭を構えて岩木川をはさんでこれに対峙した。
 この年の9月12日付の「安藤宗季譲状」では津軽半島・鼻和郡の絹家嶋・尻引・片野辺、下北半島の糠部・宇曽利といった領地の地頭職を幕府から認められたとして、自分に万一のことがあればそれらを子息「犬法師」(高季か)に継承することを確認する内容となっている。この譲状のなかで宗季のものと認められたとされる「えそのさと」については地名とみる見解と、「えそのさた(蝦夷の沙汰)」のことであるとする見解とがある。またこの譲状によれば宗季には「とうこせん(とう御前)」という娘がおり、これ以前に宇曽利のうち「田屋・田名部・安渡の浦」については彼女に継がせる譲状を書いていていることも判明する。

 正中3年(1326)3月、工藤祐貞率いる幕府軍が津軽へ出陣し、宗季らと共に西浜の季長軍と戦闘を交えた。この戦いは5月までには季長側の敗北に終わったらしく(5月27日付「曽我光弥譲状」に「西浜合戦」について記述あり)、7月に季長は鎌倉へと連行されていった。しかし季長の郎従・安藤季兼らが抵抗を続けて乱は終結せず、翌嘉暦2年(1327)6月に宇都宮高貞小田高知らの増援軍が関東から派遣されたがやはり決定的な勝利を得ることができなかった。結局嘉暦3年(1327)10月に幕府側と季長派との間で「和議」が結ばれるという消化不良な形で「津軽大乱」は終結したのである。

 元徳2年(1330)6月14日に宗季は改めて子息「五郎太郎高季」に対する譲状を書いている。高季は以前の譲状に出てきた子息・犬法師が元服したものと思われ、譲状には「津軽・西浜(関・阿曽米を除く)は宗季が拝領したので、そのことを確認する幕府の下文を添えてその地を高季に譲り与える」との内容が書かれている。西浜は季長の拠点であり、大乱の結果、宗季の所領として認められたこと、ただしそのうち関(折曽関)と阿曽米については和議の条件として季長派に残された(季長夫人と思われる女性が建武年間にこの地を所有している)ことなどがうかがい知れる。またこの譲状には「犬二郎丸については扶持(生活費)を与えてよく面倒をみるように」との一文があり、「犬二郎丸」とは高季の弟・家季の幼名と思われ、「よく面倒をみるように(いとをしくあたるべし)」という表現には宗季の強い親心が感じられる。
 宗季の没年は不明だが、建武2年(1335)以降の安藤氏は高季(のち師季に改名)が代表しているので、南北朝動乱の早い段階で宗季は死去していたものと推測される。

参考文献
斎藤利男「安藤氏の乱と西浜折曽関・外浜内末部の城郭遺跡」(山川出版社「北の環日本海世界・書きかえられる津軽安藤氏」所収)
海保嶺夫「エゾの歴史」(講談社学術文庫)
大友幸男「史料解読・奥羽南北朝史」(三一書房)ほか
大河ドラマ「太平記」ドラマ中の登場はないが、第5回で津軽の乱の情報が鎌倉に届き、その名前が言及される。ドラマのナレーションでは季久・季長の紛争を止めにいった幕府軍が季長らとの軍事衝突を起こしてしまった、といった説明がなされていた。


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