阿野廉子 | あのの・れんし(かどこ/やすこ) | 1301(正安3)-1359(延文4/正平14) |
親族 | 父:阿野公廉 養父:洞院公賢 夫:後醍醐天皇 兄:阿野実廉
子:恒良親王・成良親王・後村上天皇・祥子内親王・惟子内親王 |
位階 | 従三位→准三后 |
生 涯 |
後醍醐天皇の寵愛をもっとも集めた愛妃として天皇と隠岐や吉野まで苦労を共にし、建武政権や南朝において「女帝」さながらの権勢をふるったとされる、南北朝時代を通して最強の印象を残した女性。「廉子」の読みについては「かどこ」「やすこ」等の説もあるが確定できないので便宜上「れんし」と音読みにするのが一般的である。
―後宮の“下剋上”―
実父は藤原氏閑院流の阿野公廉。決してランクの高い公家ではなく、廉子が後醍醐天皇の後宮に入ったのも中宮・西園寺禧子の侍女(上臈)としてであり、しかも身分を上げる必要からであろう、同じ閑院流の上級公家・洞院公賢の養女になったうえで後宮に入っている。
廉子と後醍醐が初めて顔を合わせたのは、すでに後醍醐の正室の立場にあった禧子が、後醍醐の即位にともない中宮に冊立された元応元年(1319)のことと思われる。『太平記』によれば後醍醐は侍女のほうの廉子に一目で惚れこんでしまい、そのまま廉子が後醍醐の寵愛を一身に集めて禧子をはじめとする後宮の他の女性たちは見向きもされなくなったと記している。実際には後醍醐の他の后妃たちへの扱いも決して冷たかったわけではなく『太平記』の記述はかなりの誇張があるのだが、とりわけ廉子が後醍醐の寵愛を集めたことは事実なのだろう。その美貌もさることながらその頭の回転の速さや強気の気性といったものが後醍醐とウマがあったのかもしれない。
多くの后妃たちの中で彼女が際立つのは多くの皇子・皇女を生んだことだ。正中2年(1325)に長男・恒良親王を生み、すぐ翌年の嘉暦元年(1326)に次男・成良親王を、さらに二年後の嘉暦3年(1328)にはのちに南朝の後村上天皇となる義良親王を生んでいる。ほかに最後の伊勢斎宮(伊勢神宮の巫女となる皇女)となった祥子内親王がおそらく皇子たちより先に生まれており、ほかにもう一人、惟子内親王も生んでいる。
こうした「実績」を背景に、元徳3年(1331)2月に廉子は従三位に叙され、これ以後「三位局(さんみのつぼね)」あるいは「三位殿の局」と呼ばれるようになる。
廉子が次々と後醍醐の子を産んでいたこの間、後醍醐は着々と鎌倉幕府打倒の計画を進めていた。皇統が持明院統と大覚寺統の二つに分かれ、さらに後醍醐自身が大覚寺の中でも傍系の「一代限り」とされていた状況の中で、自身の皇子を天皇にすることが後醍醐最大の野望であり、幕府打倒を決意した最大の動機でもあった。この時点での後醍醐の考える「皇太子」は一の宮の尊良親王、あるいは愛情を注いだ世良親王であったとみられ、廉子の皇子たちはまだ幼いこともあって候補者にはあがっていない。
元弘元年(1331)8月、後醍醐天皇は笠置山に挙兵し、幕府軍に敗北して囚われの身となった。翌年3月に後醍醐の隠岐への配流が実行に移され、これに廉子と大納言君・小宰相の三人の女性が同行した(「太平記」は廉子のみと伝えるが『増鏡』に他の二人の名があり、花園上皇も日記に「女房三人」と記している)。後醍醐の皇子たちも十歳以上の者については流刑と決まったが、廉子の生んだ皇子たちはいずれも幼かったため西園寺家に預けられている。
後醍醐らの隠岐での生活はおよそ一年に及んだ。この間、護良親王や楠木正成らによる倒幕活動が活発化し、年が明けて元弘3年(正慶2、1333)に入ると情勢は緊迫の度を増してきた。こうした情勢のなか、同年閏2月24日に後醍醐は隠岐脱出に踏み切る。『太平記』によればこのとき後醍醐らは「三位殿の御局(廉子)の御産のこと近づきたり」として廉子が乗る輿に後醍醐がひそかに乗りこんで幽閉されていた御所を脱出したという。この記述が正しければ廉子はこの隠岐にいる間に実際に妊娠していた可能性が高く(このときの子が惟子内親王か?)、脱出計画そのものに廉子自身が深くかかわっていたとも思える。
後醍醐が隠岐を脱出して名和長年を頼って船上山にこもってから間もなく、元弘3年(正慶2、1333)5月に鎌倉幕府はあっけなく滅亡し、後醍醐らは京に凱旋した。廉子もこれに同行していたと推測され、流刑先で苦労を共にした廉子に対する後醍醐の寵愛はいっそう深まることとなった。
なお、廉子の兄・阿野実廉は鎌倉幕府最後の将軍・守邦親王の側近として鎌倉でスパイ活動をしていたらしく、鎌倉陥落直前に幕府軍の攻撃を受けて鎌倉を脱出、鎌倉攻略戦で活躍したとの話もあり、実は兄妹そろって倒幕戦の陰の立役者であった可能性もささやかれている。
―建武政権での権勢―
建武政権が成立して間もなく、元弘3年(1333)10月に後醍醐の中宮・禧子が世を去った。あとがまとなる中宮の地位には持明院統光厳天皇の同母妹・c子内親王が据えられた。廉子は出自が低いことから中宮にはなりえなかったし、皇室両統の合体を図る狙いもあったものと思われる。その代わりこの年のうちに廉子の生んだ恒良親王が皇太子にたてられることが決定され、翌建武元年(1334)正月に正式に立太子の儀式が行われた。我が子を天皇にして「国母」になるという、後宮の后妃にとって最大の野望はここに準備段階までは達成されたことになる。
また元弘3年の末までに、成良親王は足利直義に擁されて鎌倉へ、義良親王は北畠親房・顕家父子に擁されて奥州へと派遣され、それぞれ関東・東北を支配するミニ幕府の象徴的首長となった。いずれも廉子の皇子であることは注目すべき点で、これが廉子の思惑だったのかどうか分からないが(奥州のミニ幕府体制は護良親王の発案とも伝わる)、次期天皇の同母弟たちを東国に配置することで後醍醐と廉子が日本全体を確実に統治するという構想があったとの見方も可能だ。特に成良には廉子の兄・阿野実廉も同行しており、ここに廉子と足利氏のつながりを見ることもできる。そしてこの配置が三人の皇子たちのその後の運命を決定してしまうことになった。
我が子を天皇にせんとする廉子にとって、最大の脅威は倒幕戦の実質的最高司令官であり、大きな軍事力を持つ護良親王の存在であった。護良は僧籍に戻れとの後醍醐の指示(これも廉子の差し金だったかもしれない)を拒否して一時は征夷大将軍に任じられて軍事力を保持しており、新たな武家政権を目指す足利尊氏と激しい主導権争いを始めていた。護良自身に帝位を望む気があったかどうかは判断のしようがないが、あっても不思議ではなかった。
建武元年(1334)10月、護良親王は後醍醐の指示により宮中で捕縛された。『太平記』の語るところでは護良の排除を狙った尊氏が廉子に「護良が帝位を狙って兵を集めている」との情報を流し、これをかねて護良を危険視していた廉子が後醍醐にささやいて護良逮捕に踏み切らせたとされる。『太平記』はここで中国・春秋時代の「晋の文公とその継母驪姫(りき)」の故事を長々と語り、継母が我が子可愛さに有能な皇子を陥れた例として間接的に廉子を厳しく批判している。この事件は真相は不明といっていいが、護良を捕縛したのが廉子とは隠岐脱出以来の縁がある名和長年であることから廉子の意向が強く働いていた可能性は高い。
そもそも建武政権の論功行賞において、廉子と隠岐以来の関係をもつ名和長年・千種忠顕ら(「隠岐派」「隠岐閥」と呼ばれることがある)が厚い恩賞を受ける一方で、護良親王の一派、とくに赤松円心への扱いはそこぶる冷たいもので、そこに廉子の意向があったとみる向きは多い。『太平記』は廉子が政策決定や論功行賞にまで「口入」(口出し)をしていたと伝え、「准后(廉子)の御口入があったと言えば、公家たちは功績のないものにも恩賞を与え、奉行たちも道理にかなっているものを非としてしまう」と表現している。『太平記』は一貫して廉子を「女が政治に口を出すと国を滅ぼす」という儒教的観点から厳しく非難しており、建武の新政が失敗に終わったのも廉子のせいと言わんばかりの勢いだ。もちろんこれは『太平記』作者の価値観からの一方的な潤色という可能性もあるのだが、北畠顕家が戦死直前に後醍醐に出した諌奏文の中に「政治に害をなす貴族・女官・僧侶を排除し政治への口出しを許さぬこと」との一節があり、この「女官」が廉子を指しているのではないかとの声も強い。
建武2年(1335)4月、廉子は「准三后(じゅさんごう)」の地位を与えられた。これは皇后・皇太后・太皇太后と同等の待遇を認めるもので、本来性別は問わず臣下でありながら皇族と同等の扱いをするというもので南北朝時代の人物では北畠親房・足利義満の例がある。廉子の場合、中宮(皇后に同じ)の地位につけない廉子に対して後醍醐が「実質的皇后」の地位を認めてやったものとみられる。このときがおそらく廉子の絶頂期であったろう。
―南朝の「国母」に―
建武政権の崩壊はあっけなくやってきた。この建武2年(1335)の末には足利尊氏が反乱をおこし、いったん九州まで敗走するが翌延元元年(建武3、1336)5月に湊川の戦いで勝利して京を再占領、比叡山にたてこもって抵抗を続けた後醍醐も10月に尊氏と和睦して比叡山をおりた。このとき後醍醐は恒良親王に譲位して新田義貞にあずけて北陸へ向かわせ、反撃の芽を残している。その一方で尊氏とは持明院統の光明天皇への譲位、その皇太子には成良親王を立てるという取引もしている。どちらにしても廉子の皇子が天皇になる仕掛けなのだ。これまでの廉子と尊氏の関係から見ても、これにも廉子の意向が働いていたと思われる。
この年の暮れ、後醍醐は幽閉されていた花山院を脱出し、吉野へ入って自身が真の神器を持つ正統な天皇であると主張した。ここに「南朝」が始まるわけだが、廉子はここでも後醍醐に同行して吉野の山奥に入った。
翌延元2年(建武4、1337)3月、越前金ヶ崎城が陥落して尊良親王は自害、恒良親王も囚われの身となった。『太平記』ではこの直後に恒良と成良が足利直義により毒殺されたと伝えるが、少なくとも成良については事実ではない。ただ恒良の消息はこの直後から途絶えるので殺害されたかはともかくこのころ急逝したのは間違いなさそうだ。
この年の8月には奥州の北畠顕家の大軍が義良親王を擁して西上の遠征を開始した。顕家軍は翌延元3年(暦応元、1338)正月に美濃・青野原の戦いで足利軍を撃破して畿内へと入ったが、5月に和泉・石津の戦いで壊滅する。この間に吉野に入っていったん両親の後醍醐・廉子と合流した義良は、9月に北畠親房らと共に海路ふたたび奥州を目指した。しかし嵐にあって伊勢に吹き戻され、翌延元4年(暦応2、1339)3月に吉野に戻り、そのまま南朝の皇太子に立てられることになる。
このころのものなのだろうか、「延元のころ、子もりの社(吉野水分神社)に参拝して祈願をした折に想いにふけって詠んだ」との説明がある廉子の和歌が『新葉和歌集』(南朝の勅撰和歌集)に二首収録されている。
「名にしおふ 神の誓いの そのままに 心の闇を てらせとぞ思ふ(霊験あらたかな神様であれば祈りを聞き届けて私の心の闇を照らしてほしい)」
「祈りをく こころのやみも いつはれて 雲井にすまむ 月をみるべき(祈りをささげているこの私の心の闇がいつ晴れて、雲のたなびく美しい月をみることができるのでしょうか)」
先の見えない南朝の行く末に「心の闇」を覚えて絶望しかけながらも、自らを奮い立たせるように祈りを捧げる廉子の生の声が聞こえてくる歌である。
義良が吉野に戻ってきたころ、後醍醐は前年から体調を崩していた。古い側近たちの相次ぐ死、各地での南朝軍の敗退もこたえたのだろう。義良の奥州行きが中止され吉野に呼びもどされたのも、後醍醐の「万一の場合」を考えた措置と思われる。この時点で後醍醐のそばにいる皇子は義良しかなく、義良は廉子が産んだ子なのだ。これも廉子の進めた措置だったのではないだろうか。
8月15日に後醍醐は義良に帝位を譲り、翌日に死去した。義良が南朝第二代・後村上天皇となる。ここに廉子は自分の産んだ子を天皇にするという宿願を曲がりなりにも果たしたことになるのだが、あくまで吉野の山奥の地方政権の君主にすぎない。真の「国母」になるためには京を奪回しなければならない。後醍醐の執念は後村上とその生母・廉子に受け継がれていくことになる。
後醍醐がこの世を去った翌年の春、吉野(おそらく後醍醐陵のそば)に咲いた桜を見て廉子が詠んだ歌も『新葉和歌集』に載っている。
「時しらぬ なげきのもとに いかにして かはらぬ色に 花の咲くらむ(時が経つのも忘れるほど悲しみは深いのに、どうしていつもと変わらぬ色に桜は咲いてしまうのだろう)」
―京都帰還への執念―
後村上天皇が即位し、その翌年から南朝では勢力挽回を期した「興国」年号が使用されるようになる。この興国年間に廉子は後村上の生母として南朝の「皇太后」になっていたと言われ、その情報は廉子の養父で北朝の重鎮であった洞院公賢も日記『園太暦』に記している。後村上はこのときまだ少年であり、南朝においては廉子の発言力がかなり大きかったものと推測される。この時代、夫を亡くした身分なる女性は夫の菩提を弔うため髪をおろして尼となるのが通例なのだが、廉子が髪をおろしたのははるか後のことである。このことも廉子があくまで「現役」にこだわったものと解釈できないこともない。
しかし南朝の劣勢は続いた。北畠親房による関東での作戦は失敗に終わり、南朝内でも強硬派と和平派の対立が起こることもあった。正平3年(貞和4、1348)正月には楠木正行が高師直に敗れて戦死し、師直は勢いに乗って吉野を攻略してこれを焼き払った。後村上・廉子と南朝の人々はさらに山奥の賀名生へと逃れ、南朝はまさにジリ貧と言っていいところまで追いつめられる。
『新葉和歌集』には、この吉野没落の翌年の春(正平4、1349)に廉子が夫・後醍醐が眠る塔尾陵を訪ねた時の歌が載る。廉子が再び訪れた吉野は蔵王堂を始めとして多くの建物が灰燼に帰していたが、塔尾陵の桜の花が昔と変わらずに咲いていた。万感の思いに襲われた廉子はその花を一ふさ切って宗良親王への手紙に添え「みよし野は 見しにもあらず 荒れにけり あだなる花は なほ残れども(吉野山は昔の面影もないほど荒れ果てました。あの哀しい桜の花は残っていましたけど)」と詠んだのだ。この時のことかどうかは不明だが、廉子が後醍醐陵に詣でて詠んだ「九重の 玉の台(うてな)も 夢なれや 苔の下にし 君を思へば(華やかな玉座に座っていらしたのも夢のようです。今は墓の下に眠るあなたのことを思えば)」という歌も有名だ。
しかしその直後、南朝にチャンスがめぐってくる。足利幕府内の内戦「観応の擾乱」が始まったのだ。高師直のクーデターにより失脚した足利直義が、正平5年(観応元、1350)10月に南朝に投降。翌正平6年(観応2、1351)2月に師直ら高一族は敗北して滅ぼされ、直義が復権したかに見えたが、その年の11月には今度は尊氏が南朝に投降して直義を討つことになる。尊氏が南朝に降伏したことで北朝は廃され、南朝の後村上天皇が唯一正統の天皇となった(正平の一統)。
12月28日に北朝が持っていた神器を南朝が賀名生に接収し(南朝は北朝の持つ神器は偽物と主張していたのだが)、北朝の光明上皇・崇光天皇に対して「上皇」の称号を贈るとともに、唯一正統の天皇の生母である廉子には「新待賢門院」の女院号が贈られた。女院号は国母・皇太后に贈られる「女上皇」とでもいうべき称号であり、ここに廉子はようやく名実ともに「唯一正統の国母」となった。
正平7年(観応3、1352)2月3日、廉子は後村上と共に賀名生を出発、「京都還幸」の旅に出た。この行列は元弘のとき、後醍醐の伯耆・船上山からの「京都還幸」を再現する形式がとられたとされ、これもその時の還幸に参加していた廉子の提案ではなかっただろうか。ともかく廉子は万感の思いにかられる歓喜の帰還の旅になる…はずだった。
このとき鎌倉では足利直義が尊氏に敗北してその直後に急死し、尊氏・直義兄弟の対決は終結した。その直後の閏、北畠親房の指揮のもと尊氏との和睦を破った南朝軍は京・鎌倉の同時占領という大作戦を実現、後村上も滞在していた住吉大社から京ののどもとである男山の石清水八幡まで進出した。このときの廉子の所在は不明だが、やはり後村上に同行していたのではなかっただろうか。
しかし足利方はたちまち反撃、京と鎌倉は一月とたたずに奪回された。男山での後村上軍の抵抗は5月まで続いたが、最後には後村上自ら甲冑を身につけてかろうじて賀名生へと逃亡するというみじめな結末に終わる。南朝側ではせめて「北朝」を再建させまいと三種の神器と共に持明院統の上皇・皇族たちを拉致していったが、これも足利方の非常処置による後光厳天皇の即位で無駄に終わった。このあとも南朝軍は足利幕府側の内紛に乗じて3度も京の一時占領を実現するが、ついに後村上も廉子も京の土を踏むことはできなかった。
―南朝の「女帝」として―
京帰還の夢を果たせず再び賀名生に戻った廉子だったが、その後も正平9年(文和3、1354)まで「新待賢門院」としていくつかの令旨(命令書)を残している。山城の祇園社に祈祷を命じたり、西大寺の所領を安堵するといった内容で、南朝の国母として宗教界への影響力を持とうとしていたのかもしれない。その存在感について森茂暁氏は「源頼朝没後の、かの尼将軍北条政子を彷彿させる。まるで廉子は南朝の「女帝」のようである」と表現している(「太平記の群像」)。
さながら女帝のように「現役」を続けていた廉子だったが、ついに正平12年(延文2、1357)9月に出家して髪をおろした。きっかけは不明だが、この年は南朝に抑留されていた北朝の皇族たちが京へ送還された年でもあり、結局破談に終わるのだが南北両朝の講和交渉が進められてもいた。南朝の強硬派総帥であった北畠親房も3年前に死去しており、南朝側が大きく講和に傾いていたことは確かだ。そしてこの正平12年10月には後醍醐以来の南朝の精神的支柱といえた文観も世を去っている。こうした時の流れに廉子も無常を感じたのかもしれない。翌正平13年(延文3、1358)4月には、長年の宿敵である足利尊氏も世を去った。
廉子が世を去ったのは尊氏が死去したちょうど一年後、正平14年(延文4、1359)4月29日だった。場所はこのとき南朝の皇居が置かれていた河内の観心寺。『太平記』は彼女の死について「一方の国母にておわしければ、一人(後村上帝)を始めまいらせて百官皆椒房の月に涙を落し、掖庭の露に思を摧く」と簡潔に記す(「太平記」は世代交代を印象付けるためか史実より一年ずらして尊氏と同年同時期に死んだことにしている)。廉子の四十九日に後醍醐皇女で光厳の妃となった懽子内親王(禧子の娘)が奉じた祈願文に「耳順(六十歳)に一年及ばず」とあることから廉子が数えで59歳であったことが確認される。
廉子は観心寺内に葬られたが、現在観心寺で「正成の首塚」とされるものが実際には廉子の墓であると言われている。この母を恋うてのことなのか、それから9年後に住吉大社で死去した後村上天皇も廉子が眠る観心寺に葬られている。
参考文献
森茂暁「太平記の群像・軍記物語の虚構と真実」(角川選書)
同「皇子たちの南北朝」(中公文庫)
村松剛「帝王後醍醐」(中公文庫)
林屋辰三郎「内乱のなかの貴族・南北朝と「園太略」の世界」(角川選書)
加来耕三「阿野廉子・後醍醐天の妃」(「歴史読本」1991年4月号・特集「『女太平記』南北朝の女性たち」所収)ほか
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大河ドラマ「太平記」 | 原田美枝子が演じ、第10回で初登場、終盤の第47回まで登場する重要な女性キャラクターとして強い印象を残した。とくに吉川英治の原作そのままに隠岐脱出時に小宰相を海に突き落とすシーンの凄みは強烈。建武政権期では恩賞問題で赤松円心を排除、護良親王追い落としの首謀者として大活躍(?)、北畠親房との静かに火花を散らす場面や、義貞に「尊氏の首を取ってこい」と命じる場面など、時代を代表する「悪女」そのまま。一方で尊氏にすりよって成良を皇太子にさせるなどしたたかな一面も描かれた。後醍醐死後は尼の姿となるが(史実ではない)、塩冶高貞と単独で密会したり、あれほど仲の悪かった親房と結託して足利内紛の種をまくなどドラマ終盤まで意気軒高だった。後醍醐をしのんで「九重の玉の台の…」と歌を詠むシーンもあった。
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その他の映像・舞台 | 大正13年(1924)の日活製作の無声映画「桜 さくら」は劇中劇に児島高徳のエピソードが出てくる内容で、尾上多磨之丞が「三位の局」として廉子を演じている。
昭和39年(1964)の歌舞伎『私本太平記』では澤村宗十郎(八代目)が演じた。大河ドラマと同年の平成3年(1991)の歌舞伎『私本太平記 尊氏と正成』では澤村田之助(六代目)が演じている。
大河の前年の平成2年(1990)に上演された劇「流浪伝説」は後醍醐を主人公とした異色作で、「レンシ」の役名で渡辺美佐子が演じている。
アニメ「まんが日本史」では第24回で護良親王を陥れるシーンで登場。声は間嶋里美。 |
歴史小説では | 南北朝時代、太平記を扱った小説ではたいてい登場しており、「代表的悪女」イメージが定番。吉川英治「私本太平記」では隠岐に同行した妃の一人・小宰相を脱出時に海に突き落とすという強烈なシーンが描かれたが、これはまったくのフィクションである(これを史実と勘違いした雑誌記事を読んだことがある)。
後醍醐と関わりの深い文観が性的儀式を含む邪教「真言立川流」をものしていたことから、廉子もその儀式に参加していたように描く作品も複数存在する。大河ドラマ便乗でスポーツ紙に峰隆一郎が連載した官能歴史小説「足利尊氏・女太平記」では護良追い落としのために廉子のほうから迫って尊氏と関係を持ってしまう場面がある。
元自衛官の手になる自費出版の小説では三好康弘「虹の橋」がある。ここでも廉子は正成や道誉らと次々と関係を持つ淫らな女性として描かれ、史実と異なり正平一統の時に京を目前にして急死する結末になっている。 |
漫画作品では | 学習漫画系では意外に登場しておらず、小学館版「少年少女日本の歴史」で護良失脚のくだりで登場している程度。しかし古典「太平記」のコミック版では重要な「悪女」キャラとしてよく登場している。中でもさいとう・たかをによる「太平記」(中公「マンガ日本の古典」シリーズ)では原作にはない登場場面が増え、「南北朝動乱の影の主役」の趣きすらある。
廉子を主人公とするものでは、かみやそのこ「阿野廉子」(ロマンコミックス人物日本の女性史)がある。ドロドロのレディースコミックのノリで廉子を描いた作品で、なんと護良親王と肉体関係をもち、恒良は実は護良の子だったという衝撃の創作がある(正成からも片思いされたりする)。隠岐以後は落ち込みがちな後醍醐を廉子が励まし、むしろ全て廉子が主導したように描かれ、正成の「尊氏との和睦」の提案を拒絶するのも廉子である。後醍醐が死に、その遺志をついで女帝のごとく南朝を支えていくところでエンディングになる。
河村恵利「時代ロマンシリーズ」のうち「火炎」という短編でチラッと登場、足利直義と密談して護良親王の失脚と暗殺で同意する描写がある。
市川ジュン「鬼国幻想」は連載誌消滅を乗り越えて完結した長編で、廉子の異母妹・緋和(架空人物)を主人公に南北朝動乱を描く。廉子ももう一人の主役といっていい存在で、護良にひそかに恋している設定がかみや版と似ている。しかし我が子を天皇にするという野望のために心を鬼にして護良を死なせる。南朝においても懐妊した中宮・c子を蹴落として子供もろとも死なせたような描写(どちらかというと事故に見えるが)があり、これは吉川英治の小宰相殺しを参考にしたのかもしれない。
天王洲一八作・宝城ゆうき画『大楠公』では後醍醐の隠岐脱出の前から登場、建武政権期には護良親王の失脚だけでなく暗殺についても廉子が直義に指示を出していたことになっている。
河合真道「バンデット」では後醍醐の隠岐脱出とその後にわずかに登場、思い切り現代ギャル風のキャラデザインになっていた。
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