後醍醐天皇 | ごだいご・てんのう | 1288(正応元)-1339(暦応2/延元4) |
親族 | 父:後宇多天皇 母:五辻忠子(談天門院)
同母兄弟姉妹:奨子内親王・承覚・性円 異母兄弟:後二条天皇・崇明門院禖子
后妃:二条為子・遊義門院一条・西園寺禧子(後京極院)・阿野廉子(新待賢門院)・c子内親王・民部卿三位局ほか
子:尊良親王・世良親王・護良親王・宗良親王・恒良親王・成良親王・後村上天皇・懐良親王・知良王・尊真・聖助・法仁・玄円・恒性・懽子内親王(光厳天皇中宮)・祥子内親王・妣子内親王・惟子内親王・瓊子内親王ほか
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立太子 | 1308年(延慶元)9月 |
在位(南朝第1代) | 1318年(文保2)2月〜1339年(暦応2/延元4)8月 |
生 涯 |
天皇による独裁権力の確立を目指して生涯にわたり壮絶な闘争を繰り広げた、日本史上空前絶後の「戦う天皇」である。その野望は日本全土のあらゆる階層を巻き込んだ南北朝の大動乱を引き起こし、日本歴史上の画期を作ってしまったとさえ言われる。
―鬱屈した思春期―
諱を尊治(たかはる)という。父親は大覚寺統の後宇多天皇、母親は五辻忠継の娘・五辻忠子である。二人の間には後醍醐の姉・奨子内親王と二人の弟のあわせて四人の子供が生まれているが、やがて後宇多の忠子に対する愛情が乏しくなったらしい。それと前後して忠子は後宇多の父・亀山法皇の保護を受けるようになっており、事実上亀山の后妃の一人に加わっている。亀山は好色で知られた人物なので亀山が先に忠子を奪ったとも考えられるが、後宇多に捨てられた忠子が子供たちの地位を守るために自分から亀山に接近した可能性も高いとされる。
ともあれ皇子・尊治はその少年時代を祖父・亀山のもとですごすことになり、『増鏡』によればこの祖父の絶大な愛情をかちえていたらしい。ただ北畠親房はその著『神皇正統記』の中で「亀山法皇は尊治親王を皇太子にしてやるつもりだった」とまで書いているが、そこまで考えていたかは怪しい。なにせ尊治が公式の皇子=皇位継承資格者である「親王」に宣下されたのは正安4年(1302)6月、尊治が数えで15歳のときである。前後の歴代天皇の大半が生まれて間もなく親王宣下を受けているなかで異例の高齢であり、尊治が大覚寺統の皇室内にあって天皇になることなど論外の、かなり弱い立場であったことがうかがえる。一説に母親の父から祖父への「鞍替え」が原因で尊治は父・後宇多にうとまれ、祖父・亀山のはたらきかけでようやく親王になれたとも言われている。元服は翌嘉元元年(1303)12月、翌年には大宰帥(だざいのそち)に任じられ、「帥宮(そちのみや)」と呼ばれるようになる。
しかしその嘉元元年(1303)の5月、55歳の亀山はいきなり男子・恒明親王をもうけた。亀山は最晩年に得た孫のような我が子を溺愛し、この恒明が将来天皇になるようあらゆる手を打って嘉元3年(1305)9月に死んだ。亀山の晩年には尊治への愛情も恒明に奪われていたとみられ、このままいけば尊治が将来天皇になることなどありえないはずであった。
さて尊治には三つ違いの異母兄・邦治(くにはる)がいた。この兄は正安3年(1301)に天皇に即位しており(後二条天皇)、彼が在位している間は父の後宇多上皇が最高君主「治天」として院政を敷いた。亀山の死後、後宇多は亀山の遺言を反故にして恒明の皇位継承を阻止し、我が子後二条の子孫による皇位継承をもくろんでいた。当時皇室は後深草・亀山の兄弟から始まる持明院統・大覚寺統の対立抗争があり、後宇多は後二条の立場を強化させるために、それまで冷たくしていた尊治を次第によく扱うようになったらしい。あるいは後二条に健康上の問題があったためかもしれない。
そして徳治3=延慶元年(1308)8月、後二条が享年24歳で急死した。すでに皇太子と定められていた持明院統の富仁親王が新天皇に即位(花園天皇)したが、次の皇太子選びが問題となった。「両統迭立」の原則に従って次は大覚寺統から皇太子が選ばれることになるが、後二条の皇子・邦良親王はこのとき9歳で、どうやら小児まひであったと見られている。後宇多は本心では邦良の系統に継承させるつもりであったが、政治的判断として二男の尊治を皇太子とすることを決断、鎌倉幕府にも運動して9月19日に尊治の立太子の儀式を実現させた。このとき尊治は数えで21歳。これまた異例の高齢の皇太子であり、天皇の花園のほうが9歳も若かった。
しかし尊治の立太子・皇位継承は後宇多にとって「非常事態の臨時措置」にすぎなかった。後宇多はあくまで邦良とその子孫たちによる継承を望んでいて、尊治とその子孫に対しては「あくまで親族として本家を支えよ」という指示を出していた。後宇多は「尊治の即位は一代限り」と周囲に明言しており、のちに持明院統側も後醍醐の立場を「一代の主」と表現している。
要するに偶然の積み重ねで皇太子になれた尊治だったが、あくまで「1イニングの中継ぎ投手」にすぎなかったのである。少年時代からの不安定な立場、自分を疎んじる父による政治的な翻弄、こうした少年期から青年期への事情が彼の強烈な権力志向をはぐくんで行ったものと思われる。
―英雄、色を好む?―
皇子時代の尊治の女性関係についてもまとめておこう。確認できる尊治の最初の后妃は二条為世の娘・二条為子であり、彼女はもともと尊治の兄・後二条の後宮の典侍だった。父の薫陶を受けて歌人として知られる女性で、和歌を通じて尊治との関係が生じたと見られる。確実ではないが徳治元年(1306)ごろに為子は尊治の第一皇子・尊良親王を生んでいる。以後、宗良親王や瓊子内親王を生んだが、尊治の即位前にこの世を去っている。
尊治の第二皇子・世良親王を生んだのは西園寺実俊の娘・遊義門院一条(実名不明)で、こちらは尊治の父・後宇多の後宮に入っていて後宇多の子も生んだ女性とみられる。世良の生年もはっきりしないが尊良の生まれた直後とみられる。
さらに尊治の第三皇子・護良親王を徳治3年(1308)生んだ民部卿三位局は尊治の祖父・亀山の後宮に入っていてその皇子・尊珍法親王を産んだ女性である(『増鏡』『金沢貞顕書状』)。恐らく尊治より一回りは年上であったと推測され、亀山の死の直後に関係を持つようになったと思われる。ただ「亀山の子」とされている尊珍の出生事情に若干の疑惑もあり、尊珍ももしかすると実は尊治の子であった可能性もある。
つまり尊治親王は立太子の直前期に祖父・父・兄の後宮の女性たちをほぼ同時進行で「寝とっていた」ことになる。もっともこのころの宮廷社会はほとんど乱婚状態といってよく、尊治が特殊な例とは言いきれない(尊治の母がそもそも父から祖父へ鞍替えしている)。ただ見ようによっては弱い立場にあった尊治が「戦略的」に近親者の妃たちと関係をもち、それを足がかりに「下剋上」を果たしていったように見えなくもない。
皇太子時代の尊治の逸話として良く知られるのが正和2年(1313)秋の西園寺実兼の娘・西園寺禧子の略奪結婚事件である。この事件は花園天皇が翌年正月の日記に書きとめていることで、それによれば正和2年秋に禧子が突然何者かに盗み出され、およそ五ヶ月間消息が不明であったが正月になって皇太子・尊治が盗み出した張本人であることが判明した。しかもこのときすでに禧子が妊娠五ヶ月になっており、着帯の儀が行われてここで公式に「東宮妃」としてお披露目することになったのである。誘拐した上の「できちゃった婚」である。実は略奪婚自体は当時の貴族社会では決して珍しいことではないのだが、この場合は誘拐されたのが中宮(皇后)クラスを代々出している名門西園寺家のお姫様、しかも犯人が皇太子、おまけに素早く既成事実を作ってしまったうえでの公表という異例づくめであった。なお、このときの禧子の年齢は不明だが十代前半以下であったことは間違いないようである。尊治は26歳だった。
この禧子略奪婚についてはかなりの政治的思惑があったとの見解が一般的である。当時の西園寺家は鎌倉幕府との連絡役「関東申次」を代々務め、どちらかといえば持明院統寄りではあったが皇室両統と代々縁組をして朝廷内で絶大な権勢を誇っていた。皇太子になったとはいえ「一代限り」と制約をかけられた尊治が、自らの地位を強化するために「戦略的」に禧子と結婚しようとした。しかしこのときの尊治の立場では西園寺家がおいそれと娘をくれそうにないので「略奪→既成事実」という作戦をとった、と見られるのだ。だが念のために書けば尊治、のちの後醍醐の禧子に対する愛情は決して浅くはなかったと見られ(『増鏡』)、後醍醐の即位と共に彼女は女御、さらに中宮となり、実質的に後醍醐の「正妻」の地位を占めた。
なお、この禧子の侍女として後宮に入り、やがて後醍醐の最大の寵妃となるのが阿野廉子である。
―即位〜天皇親政〜正中の変―
文保2年(1318)2月、後宇多の幕府も巻き込んだ積極的な工作によって大覚寺統・持明院統両派の間で「文保の和談」と皇位継承のひとまずの方向性が決定された。この決定により花園は退位して皇太子・尊治が即位、次の皇太子には後二条の子・邦良が立てられた。大覚寺統が二代続くことになるわけだが、その次の皇位は持明院統に戻すという約束であり、しかも尊治はあくまで「一代の主」すなわち邦良が即位するまでの中継ぎという扱いにすぎない。ともあれここに「後醍醐天皇」が誕生することになる。ときに後醍醐、すでに数えで32歳。当然異例の高齢の天皇であった。
しかし当時は天皇の父あるいは祖父が「治天」として院政を敷くのが常識であり、後醍醐の即位当初は父・後宇多の二度目の院政が行われた。しかし持明院統の花園の評によれば後宇多院政はかなり腐敗したものだったらしく、それに対してすでに立派な成人として即位した異例の天皇・後醍醐の学問好きな性格や政治への積極的姿勢は対立する持明院統側の皇族や公家からも高く評価されていた。当時は皇室と公家社会の存続の危機さえも叫ばれており、後醍醐という「劇薬」に「世直しの聖君」と期待をかけた人は少なくなかったようだ。
後醍醐は宋学(朱子学)に深くのめりこんでいた。宋学は南宋時代の中国で発達した思想体系で、世の中すべてのことに道理を求め、それによる秩序を重視する「名分論」を特徴とする。日本には鎌倉後期以降おもに禅僧によって持ち込まれ、当時の知識人にとって最新の流行思想となっていた。後醍醐が皇太子時代から論語の講読会をやっていたことは『徒然草』でも言及されていて、即位してからはいっそう熱が入り、下級貴族である日野俊基がその宋学の知識を買われて異例の出世を遂げている。もともと持明院統派に属していた日野資朝も恐らく宋学を通じた交流で後醍醐に引き寄せられ、その側近の一人となった。他にも千種忠顕など後醍醐のもとには型破りで異色の人材が吸い寄せられるように集まり、ライバル関係にあるはずの花園上皇も「君すでに聖主たり。臣また人多きか」と日記に記している。後醍醐は宋学を通じて中国の皇帝を頂点とする中央集権型の官僚システムに関心を寄せ、自らの政治構想の参考にしていたとの見方が強い。
一方で後醍醐が宋学にのめりこんだのは事実だが、かなり自己流の、あえて言えば自身に都合のよいところだけつまみ食いにしていた可能性も高い。宋学と同時に真言密教にものめりこんだと思われ、怪僧・文観を腹心としたのもこのころのことである。この文観の人脈を通じて六波羅探題の伊賀兼光や、あるいは楠木正成といった武士たちともネットワークを作っていたものと推測される。
元亨元年(1321)12月、後宇多が院政を停止して後醍醐に政権を譲渡した。これは形の上ではすでに政治に意欲を失っていた後宇多が幕府に申し出て政権を譲り渡したものだが、実際には後醍醐が父に引退を迫ったものではないかと言われている。ここに実に久々に院政が行われず天皇がみずから政務にあたる「親政」が実現することになった。
後醍醐は朝から晩まで熱心に政務に取り組み(『神皇正統記』)、とくに寺社に属して商業・金融に従事していた京の酒屋・神人たちを朝廷のもとに再編成し、京の治安と行政にあたる検非違使の長官に北畠親房、日野資朝といった腹心たちが先例を破って異例の抜擢をされている。これらの政策は後醍醐が京の経済の掌握を目指したものと解釈されている。ただこうした先例無視の革新的・積極的な政策はもともと保守的な公家社会では強い反発も受けたようだ。
後醍醐にとって頭の痛い問題は自らが「一代の主」と決定されていることにあった。それを決定したのはほかなぬ自分の父であり、恐らくは短期間のうちに退位させられ甥の邦良に皇位を譲らねばならなくなる。そして順番待ちで一日も早い後醍醐の退位を望んでいるのが持明院統であり、さらにはこれらを武力を背景に支持している幕府の存在があった。言ってみれば後醍醐は「周囲みな敵」の状態にあったわけで、それを打破して自らの政権を長期化させ、自らの子孫に皇位を継がせるには「実力行使」しか方法はなかった。後醍醐の心に「倒幕」の意識が芽生えたのは必然の成り行きと言えた。
ひそかに計画自体は抱いていた後醍醐だが、さすがに父・後宇多の生きているうちは倒幕計画を実行に移すことはなかった。元亨4年(1324)に入って後宇多の体調が悪化すると後醍醐の動きは激しくなったようで、この3月に文観と伊賀兼光が倒幕を祈願した文殊菩薩像を奉納し、4月に乳父で腹心の吉田定房が倒幕を思いとどまるよう諌奏を行ったと推測されている。6月に後宇多が死去すると計画は加速され、腹心の日野資朝・日野俊基らが計画の中心となって土岐一族ら幕府=北条氏に不満を抱く武士たちも糾合して謀議を進めた。この謀議では『太平記』で有名な「無礼講」(あるいは宋学勉強会「破仏講」)が隠れみのとして使われたとされ、花園上皇の日記によれば後醍醐本人もこれに参加していた。その場で後醍醐は「幕府は失政は明らかだ。また運もすでに衰えて来た。一方で朝廷は勢いが盛んだ。幕府など敵ではない。滅ぼしてしまうべきだ」と発言したとされる。おりしも津軽で安藤氏の乱が発生していて、それが幕府失政を原因としていることが後醍醐にはチャンスと見えたのかもしれない。
計画ではこの年の9月23日に行われる北野社の祭礼で六波羅勢が手薄になるのを狙って武装蜂起する予定だった。しかし土岐頼員が計画の失敗を恐れて密告、また前後して無礼講に参加していた峰祐雅(遊雅)も参加者のリストを密告した(こちらはもともと六波羅側のスパイであった可能性も高い)。9月19日に六波羅探題軍は計画に参加していた土岐頼兼・多治見国長を攻撃し、首謀者として日野資朝・日野俊基を捕縛した。この事件は「正中の変」と呼ばれる(厳密にはまだ正中への改元前なので「元亨の変」と呼称するむきもある)。
この事件は幕府側では「当今(とうぎん=天皇)ご謀叛」とささやかれ、その真の首謀者が後醍醐その人であることは誰の目にも明らかだった。しかし後醍醐は関与を否定し、関わりを追及されること自体を「すこぶる迷惑」と答え(花園上皇の日記)、この事件をあくまで日野資朝一人が勝手に計画したことだとして幕府に対し釈明書も送ったとされる。ところがその「釈明書」のコピー(?)を読んだ花園上皇はその内容に驚愕している。後醍醐は釈明するどころか逆に激しく幕府を非難する文章を書いていたのだ。その文体は「宋朝」のものに似ていたとされ、ここにも後醍醐の宋学への傾倒を見ることができる。
この事件は当然後醍醐の大失点であり、対立する持明院統は退位は確実と大喜びした。ところが幕府は事件を大きくすることを恐れ、日野資朝を首謀者として佐渡に流刑にしただけで後醍醐には一切追及をしなかった。事件の背後にもっと複雑なものを感じたのか、あるいは幕府の対応力自体が弱まっていたのか定かではないが、結果的に後醍醐当人にまったく処分を行わなかったことが後醍醐の自信を深めさせたに違いない。また後醍醐は今回の計画があまりに無謀であったことも悟り、以後じっくりと二度目の倒幕計画を進めていくことになる。
―七年がかりの計画〜笠置挙兵―
正中の変から1年半が過ぎた正中3年(=嘉暦元、1326)3月、皇太子・邦良親王(後醍醐の甥)が27歳で急死した。これを受けて持明院統側は「両統迭立」の原則に従って後伏見上皇の皇子・量仁親王の立太子を主張、これを幕府にはたらきかけた。しかし後醍醐はこの機会をとらえて自らの皇子(尊良か世良)を太子に立てようとしてやはり幕府にはたらきかける。このとき幕府側も北条高時の執権辞任後の混乱(嘉暦の政変)がありやや対応が遅れたが、結局7月になって「原則通り」に量仁の立太子を朝廷に要請した。このため後醍醐はやむなく量仁を皇太子に据えたが、「自らの子孫に皇位を継がせるためには幕府を打倒せねばならない」との確信を深めたはずだ。
この年、中宮・禧子が懐妊したとして宮中において安産祈願の祈祷が行われた。しかし翌年になっても一向に出産の気配はないまま「安産祈祷」が続けられ、結局「元弘の変」(1331)が起こる直前までおよそ5年にわたって続くことになる。この祈祷の中心となったのが後醍醐の腹心・文観であり、実はこの祈祷は幕府の滅亡を祈る「調伏の呪詛」であった。元徳元年(1329)ごろの金沢貞顕の書状によると、この情報はすでに公然の秘密として幕府関係者にも知られていたことがわかり、そこでは文観ら密教僧のみならず後醍醐当人が宮中で護摩を焚き調伏の呪詛を行っていたことまでが記されている。文観とのつながりの中で後醍醐は自身を聖徳太子の転生とみなし、常人を超越した能力を持つと確信していた可能性も高く、幕府打倒のためにオカルトパワーまでも動員していたのである。
むろん後醍醐はより現実的な倒幕計画も進めていて、とくに幕府に対抗しうる軍事勢力となる畿内の寺社勢力を頼りにしていた。後醍醐は嘉暦2年(1327)に尊雲法親王(のちの護良親王)を、さらに元徳2年(1330)からは尊澄法親王(のちの宗良親王)を相次いで比叡山延暦寺の天台座主とし、強力な僧兵をもつ比叡山との結びつきを強めた。元徳2年3月には南都北嶺(奈良と比叡山)への行幸を行い、比叡山だけでなく奈良の興福寺・東大寺(やはり強力な軍事力をもつ)との関係も深めている。
その一方で同じ年に後醍醐は京市中の米・酒の価格を公定したり、各地の関所を廃止するなど積極的な経済政策を打ち出している。これは商業・流通の活発化をうながしつつ、寺社勢力との結びつきが強かった商人層を天皇の直接管理下におこうという狙いであったと言われ、農本的な武士層で成り立つ鎌倉幕府に対する挑戦的な政策であったとも見られている。
この元徳2年4月1日に検非違使の中原章房という公家が清水寺で瀬尾という「名誉の悪党」によって突然殺害されるという事件が起こっている。翌月には犯人の瀬尾が章房の息子により討ち取られて事件は収束するのだが、この事件は後醍醐側から倒幕計画に誘われた章房が参加を拒んだために「口封じ」で殺されたものという説が有力となっている。
しかし後醍醐のあからさまなまでの倒幕姿勢に危惧を抱く公家も多かった。この年の9月に後醍醐が後継者にと望んでいた世良親王が急逝し、その乳父である北畠親房が出家しているが、これは親房が倒幕計画と距離を置いていたためではないかとの見方もある。そして後醍醐自身の乳父である吉田定房が翌元徳3年(1331)4月に倒幕計画の存在を幕府に密告するのである。
定房の密告を受けて、それまで後醍醐の計画をうすうす知りつつ静観していた幕府も重い腰を上げた。翌5月に幕府は倒幕計画の首謀者と名指しされた日野俊基、倒幕の呪詛に関与した文観・円観・忠円らが逮捕された。このとき俊基は内裏に逃げ込んだが後醍醐は熱病で伏せって人事不省となっており、俊基が抵抗空しく捕えられた後で意識を取り戻したと『増鏡』はいささか不自然な逸話を伝えている。この事件は吉田定房が後醍醐の身を守るために俊基を「売った」ものと見られているが、このときの後醍醐の不自然な態度から後醍醐自身も自らを守るために定房と示し合わせて俊基を見殺しにしたのではないかとの見方も根強い。実際、その後も後醍醐は保身のために平然と腹心を切り捨てる例が多いのだ。
俊基らは捕えられて鎌倉に送られ、文観・円観らは流刑の処置がとられた。しかし後醍醐周辺は8月10に「悪疫流行」を理由に年号を「元弘」と改め、8月20日には娘の懽子内親王を伊勢斎宮に送るべく予定通り儀式を進めるなど、「元弘の乱」勃発の直前までまったく落ち着いた様子であった。今度の事態も俊基・文観らが罪を背負うことで逃げ切れると後醍醐当人が思っていた可能性が高く、またすぐに倒幕の挙兵をする気もなかったことがうかがえる。
だがさすがに二度目の倒幕計画には幕府も甘い顔はしなかった。当然これを機に悲願の政権奪回を狙う持明院統の働きかけもあった。幕府はついに後醍醐退位をうながすべく8月22日に京へ使者を派遣した。この緊急事態が護良親王を通して後醍醐に報告され、8月24日深夜に後醍醐は慌ただしく倒幕の挙兵を決意、御所を脱出する。彼らはまず比叡山を目指したが後醍醐自身の比叡山入りは困難と見て腹心の花山院師賢に後醍醐の身代わりをさせて比叡山に登らせ、後醍醐自身は興福寺・東大寺をあてにして奈良を目指した。しかし急な事態に奈良の寺院も後醍醐を受け入れなかったため、やむなく8月27日に要害の笠置山にたてこもることになる。
笠置山を軍事拠点とすることはかなり前から計画されていた可能性も高いが、このときの後醍醐一行の果断ではあるがほとんど無計画とも思える慌ただしい脱出行(腹心の公家でも参加が間に合わない者が多い)は、直前まで挙兵の予定などまったくなく、いよいよ廃位されそうだという緊急事態を前に慌てて動いたことを物語る。正中の変以降の対応から幕府を甘く見ていたのだろうが、周到に倒幕を計画している割に自信過剰なのかに妙に甘い観測をしているところが後醍醐の不思議さである。
ついに笠置山にたてこもって幕府打倒の挙兵をした後醍醐だったが、急な事態ということもあって味方に駆け付けた武士はそう多くはなかった。かねてから味方する予定であった楠木正成が駆けつけてはいるが、これも反応が鈍かった上に自身がたてこもった赤坂城も長くは持たずに攻め落とされているところを見ると、準備不足だったのは明らかだ。また当てにしていた比叡山も当初は六波羅軍相手に善戦したが、比叡山に来たのが「偽の天皇」と知るとたちまち戦意を失ってしまった。
だが後醍醐に呼応する者が少ないうちにと考えたのだろう、幕府は関東から畿内へ大軍を送りこんだ。9月20日に後醍醐を公式に廃位して持明院統の量仁親王の践祚を略式で行い(光厳天皇)、すぐさま笠置山の総攻撃にとりかかった。後醍醐側は数日間善戦したようだが、9月28日に裏手の絶壁を登って来た陶山義高らに夜襲をかけられ、あっけなく笠置山は陥落した。後醍醐たちは逃亡したが翌日までに山城国多賀郡有王山の山中で深栖五郎入道らによって捕えられた。その姿は「乱髪に小袖一つに帷(かたびら)一枚」であったという。天皇ともあろう者がこのような異様な姿で捕虜とされたことを日記に記した花園上皇は、「皇室の恥というほかはない。天下泰平となって喜ばしいことではあるが、天皇家としてこのような恥辱を受けることは嘆かざるをえない」と嘆息している。
その花園をさらに呆れさせたのは京に連行されてきた後醍醐のふてぶてしいまでの態度だった。『太平記』によれば後醍醐は笠置山へ持って行った「三種の神器」のうちの剣と勾玉の光厳への譲渡を求められると「逃げる途中で木にかけて来た」と主張したという。だが日野名子の証言(「竹向きが記」)によると「剣璽は無事か」の問いに後醍醐は「まちがいなし」と答えたといい、肌身離さず持っていながら絶対に渡すまいと必死になって抵抗したことが知られる。結局引き渡すことになるのだが、後に「あれは偽物の神器である」と主張し光厳の「即位」そのものを否定することになる。しかしこのとき北朝側により神器が実物であることは詳細に確認されており、この慌ただしい状況下で偽の神器を作る暇があったとも思えず、やはり本物を渡したということだろう。
さらに後醍醐は幕府の取り調べに対し「今度のことは天魔の仕業(魔がさした)である。寛大な処置を求める」とヌケヌケと懇願した。それまで後醍醐を名君と期待していた時期もあった花園はこれを聞いてさすがに呆れ、失望を隠さなかった。
間もなく楠木正成がこもる赤坂城も陥落、後醍醐に呼応して備中で挙兵をした桜山慈俊も自害して、倒幕運動はあっけなく潰えた…かに見えた。
―隠岐配流〜鎌倉幕府打倒―
幕府は後醍醐を承久の乱の先例にならって隠岐へ流刑とすることに決定した。元弘2年(正慶元、1332)3月7日に後醍醐は隠岐へ向けて京を発つ。同行したのは寵妃の阿野廉子ほか二名の女性と、側近の千種忠顕・一条行房のみだった。警護は佐々木道誉・千葉貞胤らであったが、このとき後醍醐が道誉がむかし石清水八幡行幸の折に橋渡し役を務めていたことを思い出し、わざわざ声をかけたという逸話が『増鏡』に載る。また『太平記』ではこの隠岐配流の途上で備後の児島高徳という武士が後醍醐の奪回を図って失敗したという有名な逸話を載せるが、事実かどうかは疑わしい。
四月に後醍醐一行は隠岐に到着した。後醍醐の配流地が隠岐のどこであったかは古来二説あり、隠岐諸島のうち「島前」か「島後」かで論争がある。『増鏡』は後醍醐の配流地を後鳥羽上皇と同じ国分寺であったと記して「島後説」の根拠となっているが、現地では古くから島前にある「黒木御所跡」が後醍醐配流地と伝えられて来た。隠岐守護代・佐々木清高の守護代屋敷が島前にあったのでやや島前説の方が有力とされるが、確定はしていない(この件はとくに明治以後大論争となり、吉川英治は『私本太平記』で後醍醐が配流地を移動させられたことにして双方の説の顔を立てた)。
後醍醐の配流の後、6月には乱に関与した後醍醐側近らの一斉処分が行われ、日野資朝・日野俊基・北畠具行らが処刑されたほか、万里小路藤房・花山院師賢らは流刑、後醍醐の皇子たちのうち十歳以上の者も流刑に処された。
しかしその皇子のうち、尊雲法親王は赤坂城落城後は吉野・熊野の山中に隠れ、還俗して「護良」と名乗り、ゲリラ的な倒幕運動を展開し、全国の反北条勢力に令旨を送って挙兵を呼び掛けるようになる。これに呼応して一時姿をくらましていた楠木正成もこの年の末に赤坂城を奪還して活動を再開、敗北したかに見えた倒幕運動は一年ほどでまた火がつき、さらに拡大の様相を呈してきたのである。
この間、後醍醐は隠岐にあってこれらの運動を直接指揮していた様子はない。だが隠岐においても密教の修法を自ら行っていたことが『増鏡』に記されているし、8月に出雲鰐淵寺に宿願を果たすことを願う願文を出すなど闘志は相変わらずで、本土の倒幕勢力と一定の連絡はとっていた可能性が高いと考えられている。『増鏡』には「あま人(海士)」により護良親王から密に連絡があったとあり、この間に再び姿を現した楠木正成が自身の官位をそれまでの「兵衛尉」ではなく「左兵衛尉」「左兵衛少尉」と書くようになるのは隠岐にいる後醍醐から官位を与えられたものではないかとみられることなどがその根拠だ。
それはやや不確かな話としても、隠岐の後醍醐が本土の情勢をかなり正確に把握していたのは間違いないだろう。年が明けて元弘3年(正慶2、1333)閏2月末、まさに護良と正成が吉野・千早で幕府軍と激闘し、播磨の赤松円心が挙兵するなど倒幕運動が各地で激化している最中というタイミングで後醍醐が隠岐脱出という大胆な行動に出たことでもうかがえる。
後醍醐の隠岐脱出の経緯は『太平記』『梅松論』『増鏡』に詳しい。それらの情報をまとめると、佐々木富士名判官(『太平記』は名を義綱とする)を始めとして後醍醐警備にあたる武士の中に情勢を見て後醍醐に加担する者が現れ、彼らの手引きにより脱出を成功させたようだ。脱出の日は閏2月24日未明と推測され、後醍醐に同行したのは千種忠顕はじめごくわずかの人数であったらしい。『太平記』『梅松論』ともに脱出に気付いた佐々木清高の船団が追跡してきて後醍醐らの乗る船を臨検し、後醍醐と忠顕が魚やイカなどの積み荷と一緒に船底に隠れるスリリングな場面を描写している。
後醍醐の乗る船は恐らくまず出雲に行き、それから海岸沿いに東へ向かい伯耆に入ったと思われる。そして伯耆の豪族・名和長年を頼ったのは閏2月28日のことであったと見られる(上陸地点は「太平記」が「名和湊」、「増鏡」が「稲津浦」、「梅松論」が「奈和(名和)荘野津」とする)。名和長年はこの地に根を張る商人的性格の強い裕福な豪族であったと見られ、「太平記」などでは後醍醐が彼を頼ったのは全くの偶然だったように記すが、隠岐脱出前から連絡をとりあっていたものとする見解が多い。
後醍醐を迎え入れた名和長年は近くの険峻な船上山に籠城することを決定、後醍醐は長年の弟の名和長重に背負われて船上山へと登った。やがて隠岐から追ってきた佐々木清高の軍の攻撃を受けたが、名和勢は地の利を生かしてこれを撃退する。後醍醐はこれ以後この船上山から各地の武士に対して倒幕の綸旨を発し、かつここでも自ら勝利を祈る密教の修法をおこなっている。
後醍醐の隠岐脱出という前代未聞の事態は朝廷や幕府を驚愕させた。3月8日の段階で京では二条道平が日記に「先帝が逐電した。亡くなられたとの説もある」と記し、翌3月9日には花園上皇が書簡の中で「先帝が脱出したとの噂が事実とすれば言語道断(とんでもない)のことだ。すでに伯耆で合戦をしてるとの情報もある」と書いている。船上山で後醍醐側が勝利したことを知った山陰・山陽の武士たちは次々と後醍醐のもとに馳せ集まり、後醍醐はそれらの軍勢を千種忠顕に任せて京へと向かわせた。情勢は一気に緊迫の度を高めてゆく。
この情勢をみて、幕府は名越高家・足利高氏らが率いる大軍を畿内へ向かわせた。そしてこの足利高氏がその途上で船上山に密使を送り、後醍醐から倒幕の綸旨を受けるのである。高氏は4月29日に丹波・篠村八幡で挙兵し、5月7日に六波羅探題を攻め落とした。その翌日の8日に上野で新田義貞が挙兵し、5月22日に鎌倉は陥落。後醍醐の隠岐脱出から3ヶ月足らずであっけなく鎌倉幕府は滅亡してしまったのである。
六波羅陥落と光厳天皇はじめ北朝皇族の確保の報を受けた後醍醐は5月17日付で「正慶」年号を廃して「元弘」がそのまま続いていたことにした。当然、光厳の即位も「なかったこと」にされ、その間の朝廷の人事・政策も全て取り消された。直後に後醍醐は京へ向けて船上山を発ち(18日とも23日ともいう)、播磨の書写山円教寺および法華山一乗寺を経由して(いずれも文観ゆかりの寺であることが注目される)摂津へと入った。そして5月30日、兵庫の福厳寺にいる時に新田義貞からの鎌倉陥落の報告に接することになる(『神皇正統記』は西宮でのこととする)。驚くほどの急展開に、後醍醐は自らに常人を超えた何かがあることを確信したに違いない。後醍醐は倒幕戦の功労者・楠木正成や赤松円心、名和長年らを同行して6月5日に堂々京へと凱旋した。流刑者として寂しく京を去ってからおよそ1年3ヶ月後のことである。
―朕の新儀は未来の先例〜建武の新政―
京にもどった後醍醐はさっそく念願の天皇中心の新政権を発足させる。しかし新政権はその発足時から深刻な不安定要因を抱えていた。後醍醐が隠岐に流されている間に倒幕戦の総司令官となっていた護良親王の存在である。
護良は六波羅・鎌倉陥落に多大な貢献をして「勲功第一」とされた足利高氏を危険視し、その討伐を要求して京に戻らず信貴山にこもっていた。後醍醐は護良を征夷大将軍に任命することでこれをなだめたが、後醍醐の隠岐配流中に護良が自らの意思で各地に倒幕を呼び掛ける令旨を発し、後醍醐に断りなく恩賞の約束もしていたことは、天皇の直接的命令=綸旨を絶対化しようとする後醍醐にとっては重大な懸念材料だった。また、後醍醐と隠岐まで苦労を共にした阿野廉子の発言力も増してきて、彼女にとっては護良は我が子を天皇にするためには最大の仮想敵となっていた。
また一方で護良が敵視した足利高氏も危険な存在だった。最大の軍事力をもつ武士である上に家柄・実力・人望そろって「武家の棟梁」にふさわしい人物であり、明らかに新たな武家政権=幕府の設立を企図していた。後醍醐が船上山からわざわざ山陽に出て京へと向かったのも高氏を警戒したためではないかとも言われる。後醍醐は高氏に自身の名の一字「尊」を与えて「尊氏」と名乗らせ、鎮守府将軍・武蔵守に任じる一方で、中央要職に尊氏当人をつけることはなく、人々は「尊氏なし」とささやきあったという(梅松論)。
後醍醐がまず明確にした方針は、「天皇の命令=綸旨」の絶対化だった。普通は天皇の秘書官である蔵人が代筆する綸旨を後醍醐は自らの筆でしたためるほどこれに大きな意欲を見せている(形式的に綸旨の代筆者として添えられる名前まで後醍醐自身がしたためている例がある)。北条氏の領地を全て没収する一方で土地問題についても天皇が直接下した綸旨がなければ一切無効としたのだが、天皇一人で全ての土地問題を処理できるはずもない。必然的に綸旨の朝令暮改や一つの土地に複数の所有者を認めてしまうなど混乱が発生し、「二条河原の落書」に「このごろ都にはやるもの、夜討、強盗、偽綸旨…」と風刺されたように絶対化されたがために偽物の綸旨も出回ったらしい。万能の土地問題処理はその序盤からつまづいてしまい、多くの武士たちの失望を買うことになる。
では公家の側はどうだったか。後醍醐は「醍醐天皇」の時代の天皇親政「延喜・天暦の治」を復活させるという表向きのスローガンを抱えてはいたが、その実態は決して平安の昔に戻すことではなかった。平安以来固定されてきた公家社会伝統の家格を無視した抜擢人事をしているし、公家たちが先祖代々国司職を形式的に世襲して実質領地化していた知行国制度にも手を加えて、天皇自身が各地の国司を任命する中央集権の体制を目指してもいる(その一方で国ごとの守護制度も維持し武士との共存もはかった)。そして北畠顕家を鎮守府将軍に任じて、その父・親房と共に義良親王を擁して陸奥・多賀城に赴任させ、奥州ミニ幕府体制を作らせたことは、護良親王の献策による尊氏牽制という側面と同時に、公家も軍事や地方支配にたずさわるべきとの後醍醐の姿勢の表れでもあった。この奥州ミニ幕府に対抗して、直後に足利側からの要請で鎌倉にも成良親王を擁するミニ幕府体制が作られるが、これにも後醍醐が自身の皇子(いずれも阿野廉子の子)を地方に据えて各勢力を束ねて自身でコントロールしようとの狙いがあったと思われる。
いずれも異例ずくめ、先例のないことであり、伝統を重んじる公家社会ではあまりにも革新的に過ぎ、この時点では表面化していなかったものの公家たちの間では強い反発もあった。後醍醐の腹心とされる北畠親房も貴族の伝統秩序に反したとして後醍醐の人事面の批判を行っているし、後年の公家・三条公忠は後醍醐の人事・政策について「物狂いの沙汰」と酷評しているほどである。しかし後醍醐自身はやる気満々、先例など問題としない自信のほどを「朕の新儀は未来の先例」と言い放っていたという(「梅松論」)。
年が明けて、正月23日に廉子の皇子・恒良親王が皇太子に立てられた。そして29日には改元が行われ、後醍醐の強い意向で中国の年号「建武」が採用された。これは前漢が新によって簒奪され、その後その新を倒した光武帝により漢王朝が復活したときにつけられた年号であり、現在の状況とよく似ており縁起がいいとされたのだが異国の年号をそのまま使うこと自体が異例であった。「『武』の字を入れては兵乱が起こる恐れがある」との反対意見も出たが後醍醐はこれを押し通す。結果的にこの反対者の懸念はたちまち現実のものとなるのだが、ともあれこの年号の名をとって後醍醐の政治は「建武の新政」「建武の中興」と後年呼ばれることになる。
建武改元を行った後醍醐は、ただちに平安以来の大内裏の建造計画を発表した。天皇の宮殿であり政務の中心である大内裏は平安後期以降は廃れ、天皇が貴族の邸宅に仮住まいする「里内裏」が常習化していた。絶対君主としての天皇の威厳を示すために大内裏の建造を計画しようとしたのだろうが、そのために全国に「二十分の一税」を課したことは、すでに混乱している地方からは激しい反発を受けた。このためこの計画自体が遅々として進まず、結局取りかかる前に建武政権自体が崩壊してしまうことになる。
また建武元年(1334)3月に後醍醐は新貨幣「乾坤通宝」の発行を公布する詔書を出した。かつて日本では平安前期まで朝廷により銅銭が鋳造されていたが、平安後期以降は宋からの輸入銭が広く普及し、これが鎌倉以降の西日本における貨幣経済の広まりを支えていた。後醍醐が平安以来久々に自国貨幣の発行を計画したのは天皇の権威を示すとともに、貨幣経済の需要にも対応し、これを掌握するためであったと見られる。またこの詔書では「銅楮並用」との文言があり、後醍醐が銅銭と共に「楮幣=紙幣」の発行を計画していたとみられることも注目される。ただし紙幣はもちろんのこと「乾坤通宝」の銅銭も現物は発見されておらず、この貨幣発行計画は実行に移されずに終わったものとみられている。
紙幣という存在は中国ではすでに宋代から利用されていた。特に後醍醐と同時代の元では「交鈔」という紙幣が基本通貨として広く使用されており、後醍醐もその知識をもとに計画を立てたのではと推測されている。実際、後醍醐は当時としてはかなりの「中国通」もしくは「中国マニア」であった。
後醍醐が宋学に傾倒していたことはすでに書いたが、嘉暦4年(1329)に元から来日した禅僧・明極楚俊を六波羅探題に断りなしに参内させて会見した事実がある。また元亨4年(1324)の二条道平の日記には後醍醐が宮中に多くの唐物の品を並べ、腹心たちに片っ端から分け与えていたことが書かれている。また建武2年(1335)4月に「僧の法衣を元と同じ黄色に改めよ」との命令を出した事実があり(「虎関和尚紀年録」)、後醍醐の腹心・文観の真言立川流に元で流行したチベット仏教との共通点がみられることとからめて、後醍醐は実は宋よりも元帝国を自身の国家モデルとしていたのではないかとの仮説もある。
宋か元かはともかくとして、後醍醐が中国的な「皇帝専制」の体制を目指したものとする見解はほぼ定説となっている。しかし現実には日本には中国と違って中央に強力な貴族層が厳然と存在し、地方地主であり武力を持つ武士の存在があった。後醍醐のあまりに現実と乖離した国家構想は早晩破綻せざるをえなかった。また後醍醐自身が新しがり屋で思いつきであれこれ指示を出している観があり、綸旨万能の方針はかえって混乱を招くもととなった。建武元年の秋には綸旨の再確認手続きが定められていることは、早くも綸旨絶対の方針が後退を余儀なくされたことを示している。
―新政の崩壊―
建武元年(1334)8月、京の二条河原に何者かが長文の落書を掲示した。「このごろ都にはやる物、夜討、強盗、偽綸旨…」で始まる名調子で建武新政の大混乱ぶりを痛烈に風刺したこの落書はその末尾を「京童の口ずさみ、十分の一をもらすなり」と締めて、京の人々がすでに新政にすっかり失望していることをありありと語っていた。これに先立つ同年5月には若狭国太良荘の農民たちが「明王聖主の御代となって喜んでいたのに、年貢が北条の頃よりも重くなって苦しんでいる」という趣旨の訴状を出している。
後醍醐の古くからの腹心であった万里小路藤房が新政の混乱を憂えて後醍醐に諫言したが聞き入れられず、ついにいずこかへ姿をくらましてしまうのもこの直後のことである。
政策的な混乱のみならず、政権内部の火種も激しくくすぶっていた。倒幕戦の総司令官でありながら政権発足後は微妙な立場に置かれた護良親王は、ライバルとなる足利尊氏の排除を狙い、この年の秋にかけて何度か尊氏の暗殺を試みた。しかしそれらは全て失敗に終わり、10月22日に護良は後醍醐の指示により宮中に呼び出されてその場で捕縛された。事の真相は明らかではないが、尊氏側が護良が兵を募っている証拠を後醍醐側に突きつけ、これに護良を我が子の脅威とみなす阿野廉子が口添えして後醍醐に護良逮捕を迫ったという筋書きが「太平記」では語られている。一方で「梅松論」では護良による尊氏排除計画の黒幕が実は後醍醐本人であったとする記述がみられ、尊氏からそれを追及された後醍醐が自らの手で護良を捕えて尊氏に引き渡し、護良が「武家よりも君(天皇)のほうが恨めしい」とつぶやいたと描写する。後醍醐としては自身にとってどちらも微妙な存在である護良と尊氏を両天秤にかけた上で立場の弱い護良を使って尊氏の排除を図ろうとしたが、それが失敗したので「とかげのシッポ切り」で護良を見殺しにした…というあたりが真相ではなかったかとみられる(佐藤進一など)。護良の失脚直後、護良の腹心たちは後醍醐の指示により一斉に抹殺されている。
この間にも各地で建武政権に対する反乱が起こっていた。その多くは北条氏残党による散発的な蜂起だったが、北条高時の弟・北条泰家は大胆にも京に潜入して、北条氏と深い関係を持つ西園寺公宗を頼った。幕府時代は幕府との折衝役として権勢をふるった西園寺家も建武政権下では地位を低下させており、焦った公宗は状況を一気に巻き返すべく、泰家とはかって後醍醐を暗殺するという思いきった計画を進めた。この計画は建武2年(1335)6月22日に実行寸前のところで公宗の弟・公重の密告により発覚、公宗を初めとする持明院統派の公家たちが捕縛され、公宗は当初流刑と決まっていたところを表向きは事故という形で処刑された。この史上にもまれな天皇暗殺計画は西園寺家と北条残党の結びつきだけによるとも考えにくく、持明院統の皇族や後醍醐の政策に不満をもつ公家たちを含めた広範な背景があった可能性も高い。
この後醍醐暗殺計画と連動させる計画だったのだろう、直後に北条高時の遺児・北条時行が信濃で挙兵し、一気に鎌倉を攻撃、奪還した。この折に鎌倉を守っていた足利直義は混乱の中で、監禁していた護良親王を殺害している。
鎌倉陥落の報を受けた足利尊氏はただちに後醍醐に自らの出陣を願い出た。このとき尊氏は征夷大将軍・総追捕使の地位を後醍醐に要求しており、これは明らかに幕府の復活を意図していた。当然後醍醐がこれを認めるはずはなく拒絶して鎌倉から脱出したばかりの成良親王を征夷大将軍に任じたが、尊氏は8月2日に許可を得ぬまま一方的に出陣、慌てた後醍醐は後から「征東将軍」の称号を授けている。この行動を佐藤進一氏は「一見強気そうで案外弱気な後醍醐の人柄」によるものではないかと指摘している。また、これ以後完全に敵味方に分かれることになる後醍醐と尊氏だが、本人同士は互いに相手に親近感を抱いていたらしいことを示す傍証もいくつかある。
ともあれ、尊氏は出陣するや建武政権に不満を持つ武士たちも糾合して瞬く間に鎌倉を奪還、そのまま関東に居座って事実上の幕府政治を関東限定で開始してしまう。しかもこの乱後の土地処理をめぐって尊氏と新田義貞の対立が激化し、双方で相手の討伐の許可を後醍醐に求める事態となる。尊氏にしてみれば後醍醐に直接逆らえないので義貞をその代理にしているところもあり、後醍醐もまた護良亡き後の尊氏対抗馬として義貞を利用した側面が大きかった。結局建武2年(1335)11月に後醍醐は尊氏の叛意は明らかとして尊氏追討を命じ、義貞と尊良親王に軍を率いて関東へと向かわせた。
初めのうちは怒涛の進撃をした追討軍だったが、後醍醐との全面対決を渋っていた尊氏がついに自ら出馬して12月に箱根・竹之下の戦いで追討軍を撃破、逆に足利軍が京を目指して西上を開始する。年が明けて建武3年(1336)正月に足利軍は今日を占領、後醍醐は比叡山へと逃れた。直後に奥州から駆け付けて来た北畠顕家軍の活躍もあって正月のうちに後醍醐側は京を奪回、2月には足利軍は摂津でも敗れて九州へと敗走する。
しかしこの一連の戦乱の時点で建武政権は実質崩壊したと言っていい。「太平記」によればこの時の朝廷のあわてぶりに「賢王の横言になる世の中は上を下へぞ返したりける(賢い天皇の無茶な政治で世の中はひっくり返ってしまった)」という狂歌が掲示され、また「今度の合戦に功を挙げた者には恩賞を与える」との公約に「かくばかりたらたせたまふ綸言の汗の如くになどなかるらん(このように次々お出しになる綸言は汗のように消えてしまうんじゃないでしょうね=「綸言汗のごとし(帝王の言葉は一度きり)」という言葉と「たらす(=だます)」にもひっかけている)」という狂歌も出て、いずれも後醍醐の失政を痛烈に皮肉っていた。また足利軍を京に追いやった直後に後醍醐が「建武」から「延元」への改元を行った際にも、「だから「武」の字は不吉だと申し上げたではないか」といった公家たちの批判の声も公然と上がっていた。前後して後醍醐の腹心である万里小路宣房・千種忠顕らが出家しているのも、朝廷内の反後醍醐派の台頭の表れとみられている。
いったんは敗れた尊氏も土地問題を後醍醐挙兵以前の段階に戻す布告を行い、これが多くの武士の支持を集めていた。「武士たちが敗れた足利に加わり勝利した官軍を見捨てている」と楠木正成が危機感を抱き、後醍醐に「義貞を討って尊氏と和睦すべし」と直言して退けられたという逸話もこの段階のものとみられる。しかし状況の悪化を察知する冷静さを欠いていたのか、あるいはそれまでの奇跡的な成功体験で異常なまでの自信をもっていたためか、後醍醐は表面的にはまったく危機感を見せず、戦勝の論功行賞を行って北畠軍を東北へ返してしまっただけでなく、足利軍への追撃開始も明らかに後れを取っていた。なんといっても持明院統の光厳上皇が尊氏に大義名分を与える院宣を与えるという行動を察知・阻止できなかっただけでもうかつであったというほかない。
果たして尊氏は九州で体勢を立て直し、4月には水陸の大軍で東上を開始した。朝廷は上陸地点を兵庫と見定め、ここで新田・楠木軍を主力として足利軍を迎え撃つことに決した。このとき正成が「天皇は比叡山に逃れ、敵を京に入れて兵糧攻めにする」という献策を行うが坊門清忠が強硬に反対して正成を兵庫へ出陣させたとされるが、坊門は後醍醐の腹心であり、この決定はほかならぬ後醍醐の意志であったとしか思えない。
かくして5月25日に湊川の戦いがあり、正成は壮絶な戦死を遂げ、義貞軍は京へと敗走、これを追って足利軍が京を再占領した。後醍醐らはこの敗戦を全く予期してなかったらしく、湊川の戦いの当日に徐目(人事異動)の儀式をのんきに執り行っており、敗戦の報を聞いて慌てて比叡山に避難している。このときも光厳上皇とその弟・豊仁親王に逃げられて彼らを足利軍に合流させてしまうという失態を犯してしまった。京をめぐって激闘が続くなか、8月に尊氏は光厳の院宣に基づいて豊仁を新天皇に即位させる(光明天皇)。
遅ればせながら正成の献策に従い比叡山にこもった後醍醐らは五ヶ月にわたって持ちこたえた。しかしこの間に千種忠顕・名和長年が戦死し、すでに戦死していた結城親光・楠木正成と合わせて建武新政で抜擢を受けた「三木一草」は全て消えていた。近江の佐々木道誉による琵琶湖封鎖の兵糧攻めにあってついに敗色濃厚になったところで、10月に尊氏は後醍醐に和睦を持ちかける。後醍醐に三種の神器の光明への譲渡を迫る一方で、従来の「両統迭立」の原則に戻すという、この状況下ではかなりの好条件であったので、後醍醐はこれを受け入れる。しかしそれまで自分を支えていた新田義貞には一言の相談もなく、比叡山を下りる直前になってこれを知った義貞ら新田一族は激怒して後醍醐に厳しく迫った。後醍醐は皇太子・恒良に皇位を譲って義貞と共に北陸に下らせ彼が逆賊とされることを防いでやったが、その直前までの態度からすると後醍醐はここでも遅ればせながら正成の献策に従い、義貞を切り捨てることで自身の生き残りを図る算段であったと見た方がよさそうだ。
―吉野の苔に埋もれるとも―
京に戻った後醍醐は花山院に軟禁され、11月2日に神器を光明天皇に引き渡した。同時に後醍醐には「太上天皇(上皇)」の称号が贈られ、12日には後醍醐の皇子である成良親王が光明の皇太子に立てられて「両統迭立」の原則が示された。そして尊氏・直義兄弟は「建武式目」を公布して新たな幕府を公式にスタートさせる。しかしこの状況の中でも不屈の後醍醐は全くあきらめていなかった。この時点で北陸の義貞、奥州の北畠顕家、伊勢の北畠親房ら後醍醐派が各地で活動しており、恐らく京に帰還した時点から後醍醐は挽回の機会を狙っていたのだろう。
12月21日夜、後醍醐は突如花山院から脱走した。手引きしたのは「楠木党」とされ、恐らく北畠親房と連絡をとってのことであったと見られる。これは足利側も油断があったと言うほかないが、尊氏はこのとき「幽閉していては警備も大変だし、どこかへ配流するわけにもいかないし、困っていたところでちょうどよかった」と発言しており、後醍醐がいまさら逃げたところで大したことにはなるまいと最初からたかをくくっていたのかもしれない。
京を脱出した後醍醐は河内から穴生(のち賀名生)を経て、吉野へと入った。この地はかつて皇子・護良が幕府軍相手に戦った土地であり、古くは壬申の乱の折に天武天皇の勝利の出発地となったところだ。後醍醐はこの吉野を反撃の拠点と定めて年号の「延元」を復活させ、「光明に渡した神器は偽物であり、現在も自身が本物の神器を持つ真の天皇である」と主張し、各地に京奪回を呼びかけた。
ここに正統を主張する天皇が二人存在する「南北朝時代」が始まるわけだが、このとき後醍醐が光明に渡した神器が偽物であったという主張が事実なのかどうか古来議論がある。後醍醐が「偽の神器」を言いだすのはこれが初めてではなく、かつて笠置山で敗れた直後にもあったが、前述のようにそのとき持明院統側が詳細な確認をしており、偽物であったとは思えない。当然この時も厳重な確認があったはずで、やはり後醍醐は本物を光明に渡しており、相手を否定するために「偽の神器」という主張をせざるを得なかったというのが真相と思われる。後醍醐の死後のことだが、南朝が一時京を奪回した「正平の一統」(1351)の折に南朝側は「偽物」と主張していたはずの北朝の神器を、「偽物とはいえ一時神器として使われていたから」というかなり強引な理屈で接収しており、やはり北朝が持っていた神器は本物だったということだろう。
後醍醐が否定したのは持明院統=北朝ばかりではなかった。比叡山で義貞に迫られて譲位し「天皇」となっていた我が子・恒良をも否定したことになる。この譲位の折に神器譲渡があったかどうかも議論になるところだが、恒良を擁した義貞らが恒良を「天皇」と信じていたことは恒良名義の「綸旨」が出ていることからも明らかである。この後醍醐の行動を恒良や義貞がどういう思いで見ていたかは全く分からないが、かなり複雑な気分ではなかっただろうか。
しかしその余裕もなかっただろう。義貞らが拠っていた越前・金ヶ崎城は足利軍の猛攻を受けて翌延元2年(建武4、1337)2月に陥落、「天皇」恒良は捕えられ、後醍醐の長子・尊良は自害して果てた。護良につぐ後醍醐皇子の惨死である。捕えられた恒良もその後の消息が知れず、「太平記」では足利直義によって毒殺されたことになっている(ただし一緒に毒殺されたことになっている成良がその後も存命であることが確認できるため史実かどうかは疑問もある)。
後醍醐からのしきりの要請を受けてようやくこの年8月に奥州の北畠顕家が義良親王を奉じて二度目の大遠征を開始した。12月に鎌倉を占領した顕家軍は、年が明けて延元3年(建武5、1338)正月に美濃・青野原で足利方の大軍を撃破、伊勢から奈良を経由して京を目指したが果たせず、ついに5月22日に石津の戦いで戦死してしまう。その直前に顕家が後醍醐あてに建武の新政を痛烈に批判する諫奏文をしたためていてそれが現存するが、果たしてそれを後醍醐が実際に読んだのか、どういう感想を抱いたかは分からない。
そして閏7月2日、越前で態勢を立て直しつつあった新田義貞が不慮の戦死を遂げてしまう。ライバルの死を受けて尊氏は直後に北朝から征夷大将軍に任じられ、名実ともに幕府体制を整えていった。それでも後醍醐の執念の火は消えず、義良・宗良両親王と北畠親房・結城宗広らを関東・東北に、懐良親王を九州へと派遣し、じっくりと地方から態勢を整えて京奪回を目指す大戦略を進めていく。しかし不運なことに義良・宗良・親房の大船団は伊勢を出航後に嵐にあって散り散りとなり、義良はやむなく吉野へと戻ることになる。
この年は後醍醐にとって不運の連続であった。正月に乳父の吉田定房、3月に坊門清忠と、古くからの側近で吉野まで駆けつけてくれた二人を相次いで亡くしたことも精神的打撃になったはずだ。後醍醐はこのころ「事問はん 人さえまれに なりにけり わが世の末の ほどぞ知らるる」(相談相手となる人さえ少なくなってしまった。私の人生ももう先が見えてきたのだろうか)と寂しい歌を詠んでいる。これまで奇跡的な大逆転を繰り返し、自身の強運を信じていた後醍醐もさすがに気が弱くなってきたようである。
翌延元4年(暦応2、1339)3月、後醍醐の手元に唯一残っていた皇子・義良が皇太子に立てられた。恐らくこのころすでに後醍醐が健康を害していたものと推測される。そして8月15日、後醍醐は皇太子・義良に譲位した。もちろん、すでに重態に陥り、もはや明日をも知れぬと確信したためである。
翌8月16日、後醍醐は吉野の行宮でついに息を引き取った。享年52歳。その最期の模様は「太平記」が印象的に記している。後醍醐は左手に法華経の五の巻、右手に剣を手にし、死の間際にこう言い残したという。「朕の願いはただ朝敵を滅ぼして国内を太平にすることのみである。朕が死んだ後は義良を天皇として臣下一同で忠義を尽くし天下を平定せよ。これを願うために、たとえこの身は南山の苔にうずもれるとも、魂魄は常に北の天を望もうと思う。もしこの遺志に背く者があれば、天皇であろうと後継者とは言えず、臣下も忠義の臣とは言えぬ」(原文より大意で現代語訳)
実際に後醍醐がこのようないでたちで、このような言葉を放ったのか傍証はない。だが後醍醐ならばさもありなんと思わせる迫力である。法華経五巻と剣を持つことの意味は不明だが、後醍醐が自らしばしば行ったという密教の儀式を連想させるものもある。「魂魄は常に北の天を望む」との遺志に従い、後醍醐の陵「塔尾陵」は実際に北向きに築かれた(天皇の墓は南向きが通例)。諡号も生前に本人が決めていた通り、「後醍醐」とされた。
後醍醐逝去の知らせは興福寺を通じて3日後には京都に届いた。京都では幕府も朝廷もしばらく半信半疑の体であったが、28日になって阿野廉子から後醍醐の皇女で光厳中宮となっていた懽子内親王のもとに正式に連絡が入ったことで確報となると、京都の人々の間には大きな衝撃が走った。多くの北朝公家がこの衝撃を日記に書きとめているが、中でも中院通冬の日記「中院一品記」は「天下の一大事であり、言葉では言い表せない。もはや公家の衰退はおしとどめようがない。なんとも悲しむべきことである。朝廷のさまざまなことがその御代に再興され、その賢才は歴代でも光り輝いていた。誰もが悲嘆にくれざるを得ない」とまで書き記している。
尊氏も直義も大きな衝撃を受けた。とくに尊氏はかなり本気で悲嘆にくれたらしく、幕府では自主的に雑訴を七日間停止して喪に服し、北朝朝廷がそれを後追いして光明天皇も喪に服するという事態になった。尊氏は後醍醐の百か日法要で追悼文を書いているが、その内容は単なる型どおりの追悼ではなく、個人的感情のこもったものとなっており、尊氏個人の目から見た後醍醐像を知る手がかりともなっている。
崇徳上皇以来、都以外の地で亡くなった天皇への諡号は「〜徳」とするのが通例だったが、北朝においても本人の遺志を尊重して「後醍醐」の諡号をおくった。特に後醍醐ほどの人物が異郷で恨みを抱いて死んだことは京の人々にとって「怨霊の祟り」という現実的な恐怖があり、それは尊氏・直義にも共有されていた。尊氏が後醍醐を慰霊する禅寺・天竜寺を建立したことはよく知られる。
だが後醍醐の強烈な遺志、執念は現実の「怨霊」同然にその後の歴史に濃厚な影を落とした。南朝勢力は後醍醐の遺志に従って弱体ながらもしぶとい抵抗を各地で続けたし、足利幕府もその南朝との戦いが続くなか深刻な内戦に突入し、南北朝動乱は日本全土でこのあと半世紀にわたって続くことになる。
―人物とその後の評価―
陰謀と闘争に明け暮れた後醍醐の生涯だが、当時を代表する文化人であったことも見逃してはならない。宋学を中心とした儒学、密教を中心とする仏教への造詣は言うまでもなく、和歌・管弦など貴族の伝統的文化にも深く通じていた。『源氏物語』についても造詣が深かったことが知られ(孫の長慶天皇が『源氏物語』の注釈書を書くのもこれを引き継いだものだろう)、すでに廃れてきていた平安以来の有職故実を『建武年間行事』として自ら編纂もしている。こうした貴族社会の再興姿勢や大胆・斬新な施政方針は多くの公家人材をその周囲に引き寄せただけでなく、対立する持明院統系の皇族・公家からも高い評価を受け、「英明な君主」となされていたことは事実である。本来天皇になれるはずのない不安定な生い立ちをもち、しかも即位後も「一代限り」と枠をはめられたことに対する反発とが、彼をこのような型破りの天皇としたと言えるかもしれない。
後醍醐自身も自分が特別な存在であると自覚していた節がある。本来なれるはずのない天皇に偶然の積み重ねによって即位できたことも「天命」と感じていた可能性が高く、また当時の皇室分裂と幕府の存在による天皇家そのものの存続の危機すら意識される中で自身が登場したことは、自分に天皇中心の時代を「再興」させる使命があると自覚させたかもしれない。そしてその理論的根拠を儒教、とくに大義名分を説く当時の最先端イデオロギーである宋学に求めていったのは自然な成り行きであったと思える。後醍醐が決して平安の昔に戻す復古・保守思想の人間ではなく、むしろ当時の最先端の中国文化・体制に強い関心を示し、自ら中国的な「皇帝」たらんとした過激な革命家であった。
だが一見儒教とは両立しにくそうな濃厚なオカルティズムにも後醍醐は深入りしていた。後醍醐への密教への関心は父・後宇多の影響もあると見られるが、文観という非常に個性的な僧が腹心となったことが後醍醐の密教へののめりこみを深めたと思われる。信仰というよりも人智を超えたパワーという「実利」を求めたのだろうが、やがて後醍醐自ら密教の呪詛を行って世の中を思い通りに変えようと試み、それがまた偶然にせよ奇跡のように実現したこともあって自らを聖徳太子・弘法大師の生まれ変わりと確信していたらしい。後醍醐が袈裟をまとい密教の修法を行う有名が肖像画(左図)があるが、これは文観自身が後醍醐没後に描き、まさに後醍醐を聖徳太子の生まれ変わりとみなしていたとの見解もある。
このように自らを凡俗を超越した特別な存在と自覚することは、強烈なカリスマとなって多くの個性的な人物たちを引き付ける一方で、後醍醐自身の思惑で人を利用し、あるいは自身を守るために平然と腹心を切り捨てる行動にもつながる。日野俊基や護良親王、新田義貞らに対する態度にそれが見られるし、常に居丈高かと思うと妙に卑屈になって言い訳がましい姿勢を見せるあたりには、自身が掲げる理想・目的のためには手段を選ばないという、ある意味確信犯的なものもあったかもしれない。そうした確信があったからこそ、不屈の意思を最後まで貫き、ついには吉野の山奥で無念の死を遂げることとなってしまった。
建武政権成立までは名君とされ大きな期待がかけられた後醍醐も、その建武政権が大混乱のうちに短命に終わったことで評価は大きく下げられざるを得ない。すでに述べたように後醍醐は決して単純な保守回帰論者ではなく破壊的なまでの改革実践者であり、土地問題で失望した多くの武士たちだけでなく本来保守的な公家たちも多くは後醍醐に批判的で、後醍醐時代を「物狂の沙汰」と批判する者もいた。また後醍醐の執念がその後の南朝、さらには後南朝の運動につながっていき室町時代を通じて不安要因となり続けたことで後醍醐も自然と批判的にとらえられ、一見南朝寄りとされる『太平記』も実は後醍醐の不徳を明記し、室町幕府成立を必然の流れとして描いている。
江戸時代に入ると南朝正統論が台頭してくる。江戸前期に編纂された水戸藩の『大日本史』は朱子学的に南朝正統を明確に打ち出したことで知られるが、後醍醐については不徳の君主として批判することを忘れていない(南朝を正統としつつ後醍醐の不徳により王朝時代が終わり武士の時代になったという史観ともいわれる)。だが幕末に近づくにつれ尊王論、幕府批判とが結びついて「建武中興」を過去の栄光ととらえ、後醍醐を名君として神格化する声が高まってゆく。
明治に入ると後醍醐と「南朝の忠臣」たちに対する神格化は国家により推進された。明治6年(1873)に後醍醐を祭神とする吉水神社が作られ、さらに明治25年(1892)には吉野宮が新たに創建されてこれが大正時代に「吉野神宮」へと成長する。それでも歴史教科書や学術面では南朝北朝併記が基本であったし、後醍醐に対しても批判的な視点は普通に存在していたのだが、「大逆事件」をきっかけに南北朝正閏論争が政治問題化し、明治天皇の詔勅により南朝を正統とみなし、「南北朝時代」ではなく「吉野(朝)時代」という呼称が公式化した。この傾向は特に昭和前期の戦中期に加熱し、「建武中興600年」の1933年には後醍醐と南朝を絶対的に神格化するムードが煽られ、皇国史観・神国観と結びついて軍国主義の精神的支柱とされた。
敗戦後はその反動で後醍醐や南朝勢力に対して「反動・保守・時代錯誤」といったイメージが進歩的立場からぶつけられることになる。だがその一方で佐藤進一は1965年に名著『南北朝の動乱』で後醍醐を決して保守的なものではなくむしろ過激なまでの革新派、中国的な皇帝独裁体制を目指したものと規定し、1985年の『日本の中世国家』でその論をさらに実証している。また社会史的手法から南北朝時代を日本民族史上の一大転換期と規定した網野義彦は『異形の王権』において文観との深いかかわりを中心に後醍醐という天皇の特異性を強く打ち出し、後醍醐が天皇家そのものの危機に直面し、半ば聖なる存在とされた非農耕らと結びついて農耕的社会に立ち向かったこと、そして彼らが敗れ去ったことで非農耕社会への蔑視が始まるとする大胆な南北朝観を提唱している。
後醍醐個人の人物像について佐藤進一は「既成事実の観念的否定。不撓不屈と謀略、多分の柔軟性をもった目的主義」とその特徴を評している。これを受けて網野義彦は「まさしくヒットラーのごとき人物像」と表現し、「後醍醐という異常な天皇を持った負い目」「天皇家の歴史そのものが封印した暗部」が近現代に至るまで日本国家を規定し続けていると評した(そのせいかどうかは知らないが、平成の初めに新天皇と皇太子に対する歴代天皇の事跡に関する講義では後醍醐天皇の配分時間が際立って長くされていると報じられていた)。
なお、人間・後醍醐の人格形成からその最期までを追い、その人物像に迫りつつ南北朝群像を論じたユニークな評伝として村松剛『帝王後醍醐』があり、必読的存在となっている。
後醍醐天皇はこの時代の人物としては珍しくその容貌がほぼ正確に伝えられる人物でもある。複数の肖像画が伝わるがいずれも面長の顔に豪快な長いひげをたくわえた顔に描かれ、この点でも歴代天皇の中でもかなり際立っている。特に清浄光寺(神奈川県藤沢市)に伝わる密教の修法を行う姿に描かれた後醍醐像は「異形の天皇」をそのまま視覚化したものとして良く知られ、後醍醐の腹心・文観その人の作であり後醍醐を真言密教の金剛薩タに擬したものと推定されている。
大阪市四天王寺には国宝「四天王寺縁起・後醍醐天皇宸翰本」が所蔵されている。これは建武2年(1335)5月に後醍醐が同寺の所蔵する聖徳太子直筆とされる「四天王寺縁起・根本本」を見て感激、これを自ら書写したもので、奥書に後醍醐自らの朱の手形(左手)が二つ押されている(後醍醐が自らを聖徳太子の転生とみなしていたことを想起するとかなり興味深い)。筆者は雑誌に掲載された実物大写真を測ってみたが、朱のついた部分だけで19cmぐらいはあり、大きめのサイズではないかと思える(吉川英治はこれをもとに『私本太平記』で「大きな御手」という表現をしている)。手のサイズから推測するとこの時代の人としては大柄な体格だったのではなかろうか。真偽は不明だが後醍醐自身が彫刻した楠木正成像があったり、茶器の「金輪寺棗」は後醍醐が吉野で蔦の木から作ったのがルーツとされる(吉水神社に後醍醐自作とされるものがある)など、もしかするとかなり手の器用な人であったのかもしれない。
良くも悪くもインパクトのある存在感、そしてその強そうな名前のせいもあってか、後醍醐は現代においても文化面で影響を残している。1970年代から世界的に知られる日本のロックバンド「ゴダイゴ」が彼の名に由来しているというのが最も有名である(公式にあくまで由来の一つとされている)。
参考文献
佐藤進一『南北朝の動乱』(中公文庫)『日本の中世国家』(岩波文庫)
村松剛『帝王後醍醐』(中公文庫)
佐藤和彦・樋口州男編『後醍醐天皇のすべて』(新人物往来社)
網野義彦『異形の王権』(平凡社ライブラリー)『蒙古襲来』(小学館文庫)
佐藤進一・網野義彦・笠松宏至『日本中世史を見直す』(平凡社ライブラリー)
森茂暁『後醍醐天皇』(中公新書)『太平記の群像・軍記物語の虚構と真実』(角川選書)『南朝全史・大覚寺統から後南朝へ』(講談社選書メチエ)『皇子たちの南北朝』(中公文庫)
伊藤喜良『後醍醐天皇と建武政権』(新日本新書)
藤巻一保『真言立川流・謎の邪教と鬼神ダキニ崇拝』(学習研究社)
『歴史群像シリーズ10・戦乱南北朝』(学習研究社)
『ピクトリアル足利尊氏』(全2冊・学習研究社)
『別冊歴史読本・後醍醐天皇・ばさらの帝王』(新人物往来社)ほか
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大河ドラマ「太平記」 | 「太平記」の企画発表段階から注目された後醍醐役は、天皇役を多く輩出した歌舞伎界からの起用となり、人気役者・片岡孝夫(現・15代目片岡仁左衛門)が演じた(大河「新平家」で高倉天皇を演じたこともある)。第3回「風雲児」で初登場し、初めのうちは髭も生やさず貴公子風であったが、笠置での敗北後に髭を伸ばし始め、隠岐配流段階ですっかり髭ヅラになり野性味を増していった(もちろん計算された演出である)。
演じた片岡孝夫自身も「天皇というより武将的感覚の人」と評したように、行動的な天皇像そのままに豪快な喜怒哀楽ぶりを見せた。尊氏に対して「朕も肩凝りじゃ」と急に人懐っこくなる名演も忘れ難い。余り描くと差し支えがあるからか非情な部分はあまりクローズアップされず基本的には「いい人」っぽく描かれたが、正成を死地に追いやる場面や、義貞を見捨てようとして抗議される場面もしっかり描かれる。
登場ラストシーンとなった第41回「帝崩御」の死の床の場面では古典「太平記」そのままに剣と経典を手に「吉野の苔に埋もれるとも」と遺言するが、直接的にその臨終は描かれず、「翌日崩御された」とナレーションで処理された。こうした病死を直接描かない演出はこのドラマが徹底していた点である。なお、後醍醐登場回は全て出演者クレジットでは最後の「大トメ」が指定席。ただし第39回ではクレジットされながらドラマ本編ではなくプレタイトルの状況解説でチラッと映るだけである。
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その他の映像・舞台 | 戦前はさすがに登場の例はなく、戦後に1959年のTVドラマ「大楠公」で徳大寺伸の例がある。
舞台劇では1961年の「幻影の城」で松宮五郎、同劇の1969年版では松本幸男が後醍醐を演じている。平成2年(1990)に上演された舞台劇「流浪伝説」は後醍醐を主人公にした作品で、近藤正臣が主役ゴダイゴを演じた。近藤正臣はその直後の大河で北畠親房を演じることになったため大河ドラマ本のインタビューに「舞台で後醍醐を演ったから歴史関係はわかっている」と発言している。1993年に上演された野田秀樹の劇「少年狩り」では蒲生純一が後醍醐役だったらしい。
昭和39年(1964)の歌舞伎「私本太平記」では市川左団次(三代目)が演じた。平成3年(1991)の歌舞伎「私本太平記 尊氏と正成」では澤村宗十郎が演じている。
アニメでは1978年の「まんが日本絵巻」の「敵は幾万ありとても 智将・楠木正成」の回で島光貴が、1983年の「まんが日本史」では金沢寿一が声を演じている。
企画のみで消えたが、角川映画で製作が一時進められていた「太平記」では石坂浩二が予定されていたとの情報がある。 |
歴史小説では | 戦前はあまりに神格化されているせいもあり、小説中のキャラクターとして登場した例はほとんど見当たらない。戦後になると、山岡荘八『新太平記』、吉川英治『私本太平記』などで後醍醐が登場人物の一人として描かれるようにはなるが、やはり天皇、しかも超個性派ということもあってかひたすら聖人君子的に描かれるか没個性的なものが大半。楠木正成や足利尊氏といった武将クラスを主人公にしたものでは名前が出てくるだけというものも少なくない。
珍しく後醍醐天皇当人を主人公に据えた小説に徳永真一郎の書き下ろし『後醍醐天皇』があるが、残念ながらもともと大河ドラマ便乗商品ということもあって、後醍醐個人を描くというより南北朝史ダイジェストといっていい内容になっている。
変わり種は田中文雄の伝奇小説『髑髏皇帝』。隠岐に流されていた後醍醐が巨大なナニを取り出して立ち小便をしていると蒙古兵の亡霊がとりついて動乱を巻き起こすというビックリしちゃうような描写がある(笑)。
さらに変わり種ではイギリスの作家ソフィア=マクドゥガルによる『Romanitas』がある。これは古代ローマ帝国がそのまま21世紀まで続いたら…という仮想歴史小説で、ローマ帝国が火器など科学技術を発明して古代奴隷制のまま世界を制覇していくストーリー。13世紀にはローマ帝国は宋も征服してしまうが、14世紀の「Nihonia」の皇帝ゴダイゴが単身ローマに乗り込んでその技術を盗み出し、銃火器で北条幕府を打倒して「建武政権」を発足させ、足利尊氏の反乱も押さえ込んでNihoniaを統一、後にこの帝国は南洋諸島・太平洋を制覇してローマ帝国の強敵となるという凄まじい展開に。作者がロックバンド「ゴダイゴ」で名前を覚えた可能性もあるが、日本歴史上でも際立って特殊な天皇に注目したとしても不思議ではない。 |
漫画作品では | 当然だが学習歴史漫画では必ず登場。明確な肖像画が残っていることもあり、そのイメージはどの漫画でもおおむね同じである。ロングセラーとなっている小学館『少年少女日本の歴史』では隠岐で幕府打倒を目指し意気込む後醍醐のカットが発売当時朝日新聞社会面に「政権奪取を目指しガッツポーズをとる後醍醐天皇」というキャプションつきで載せられたことがある。
石ノ森章太郎『萬画日本の歴史』では18・19巻に登場。ややコミカルでもあるが自ら密教の呪詛を行う「異形の天皇」ぶりが印象的に描かれ、偽物の神器を用意する抜け目なさや北畠顕家の諌奏に怒ったりといった描写もある。剣と経典を手に叫んで立ち上がってから倒れるという最期も強烈。
さいとう・たかを『太平記』(全三巻、マンガ日本の古典)ではゴルゴ13ばりの鋭い目つきの後醍醐が登場。原典以上にその非情さが強調されてる印象もある。その一方でこの劇画は阿野廉子を陰の主役として描いているため、廉子に翻弄される情けない夫というイメージも残ってしまう。
かみやそのこ『阿野廉子』はレディースコミックのノリの作品で、後醍醐が一見貴公子そのままに登場するものの、禧子を誘拐するくだりや、廉子をめぐって護良と三角関係になるドロドロ模様が読める。隠岐配流以後は気落ちがちで、廉子に引っ張られてる感じ。女流作品では北条滅亡のドラマである湯口聖子『風の墓標』になると後醍醐が1カットのみの登場、それもセリフ中のイメージとして描かれるだけである(本作では北条の敵側キャラは顔もまともに描かれない(笑))。
少年漫画に登場した珍しい例が沢田ひろふみ『山賊王』。楠木正成ら悪党勢力を中心に倒幕ドラマを描いたこの作品では後醍醐は非常に貴公子然とした名君タイプで登場しており、笠置陥落と隠岐配流も「計画のうち」という形にされている。
非常に変わった例では雑誌「シミュレイター」にボードゲーム「太平記」の特集企画として載った松田大秀・作のゲーム紹介コミックがある。箱根・竹之下の戦いで義貞が負けたと聞くと「怨敵退散の真言密教呪法までしてやったというのに…よほどサイコロの目が悪かったのであろうか」と頭を抱えたり、「名付けて『賀茂の守り作戦』じゃ!」と指示を飛ばしたり他では見られないなかなかのインパクトあり。
「週刊マンガ日本史」の森ゆきなつ『足利尊氏』では後醍醐がほとんど「悪の大魔王」に描かれ、これまたインパクト強大(笑)。 |
PCエンジンCD版 | ゲームで使えるキャラとして登場するわけではないが、新田義貞でプレイすると献金の上で謁見することができる。史実でも後醍醐が重んじた綸旨を下してくれるほか、ゲーム攻略のヒントをくれることもある(もっとも尊氏でプレイすると光厳天皇がこの役回りで、両者の違いは顔グラフィックしかない)。
時代背景を説明するオープニングビジュアル(アニメ的なもの)でも登場しており、キートン山田が後醍醐の声を演じている。 |
SSボードゲーム版 | ゲーム中にユニットとして登場するわけではないが、公家側プレイヤーは後醍醐その人を「演じる」ことになる。このため発売当時宣伝記事などでも「天皇が演じられるゲームなんてこれだけ!」と書いていたし、雑誌「シミュレイター」のリプレイ記事でも尊氏と後醍醐のコントのような爆笑ものの会話が楽しめた。 |