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こうみょうてんのう〜こでらよりすえ

光明天皇こうみょう・てんのう1321(元亨元)-1380(康暦2/天授6)
親族父:後伏見天皇 母:西園寺寧子(広義門院) 兄弟:光厳天皇・長助法親王・c子内親王
子:長照院殿・法華寺長老・周尊
在位(北朝第2代)1336年(建武3/延元元)8月〜1348年(貞和4/正平3)10月
生 涯
―神器なき戦い―

 名は「豊仁(ゆたひと/とよひと)」といい、持明院統の後伏見天皇西園寺公衡の娘・寧子(広義門院)を母の間に生まれた第二皇子。光厳天皇の同母弟である。元亨元年(1321)12月23日に生まれ、兄の光厳とは8歳違いになる。
 彼が幼少のうちに対立する大覚寺統の後醍醐天皇の討幕計画が進められ、元弘の乱によってすでに皇太子にたてられていた兄の光厳が即位したが、その次の天皇である皇太子には「両統迭立」の原則に従い大覚寺統の康仁親王が立てられており、その後後醍醐が倒幕を果たして復活し光厳の在位自体を抹殺してしまうため、光明が太子に立てられたことは一度もない。

 建武3年(1336)2月、建武政権に反旗を翻した足利尊氏は一時京を占領したものの九州へ敗走した。このとき尊氏は光厳上皇の院宣(上皇の命令)を入手して自らの正当性を確保し、九州で体勢を立て直して5月の湊川の戦いで勝利し、京を再占領した。後醍醐は比叡山に逃れて抵抗を続けたが、このとき光厳と豊仁親王は後醍醐一行から離脱して尊氏に合流した。
 8月15日になって豊仁親王は押小路烏丸の二条良基邸で元服し、そのまま光厳上皇の院宣により天皇に即位した。天皇の即位にあたっては「三種の神器」の継承が行なわれることになっていたが、このとき神器は後醍醐が比叡山に持って行ってしまっていたため「神器なしの即位」となった。これは前例がないわけではなく、源平の戦いの折に平氏が安徳天皇と神器を奉じて西に逃れた時に後白河法皇の院宣によって後鳥羽上皇が即位した例があり、また光厳自身も後醍醐が神器を笠置山に持って行った間に神器なしで即位している。一応天皇以上の最高君主である「治天=上皇」の命令があれば天皇即位は可能という理屈があったのだ。この間比叡山を拠点にする後醍醐方との戦闘が継続しており、光厳・光明は足利軍が拠点とした東寺を皇居としている。

 10月10日に尊氏と後醍醐の間でひとまず和議が成立し、後醍醐は比叡山をおりて京にもどり、花山院に幽閉された。11月2日に後醍醐から三種の神器を光明に引き渡す儀式が行われ、神器は花山院から東寺へと移されて光明天皇はその正統性をより確保することになった。同日に光明は後醍醐に「太上天皇(上皇)」の尊号を送り、間もなく後醍醐の皇子・成良親王を皇太子として「両統迭立」の原則を順守する姿勢を示した。12月10日に光明は東寺から一条経通邸に皇居を移し、ひとまず戦乱はおさまるかに見えた。
 しかし直後の12月21日に後醍醐は花山院を脱出、そのまま吉野にたてこもって「持明院統に引き渡した神器は偽物である。したがって京にいるのは偽の天皇であり、自分が正統な天皇である」と宣言し、各地に京奪回の指示を飛ばした。ここに南北朝動乱が本格的に始まるわけだが、後醍醐が光明に引き渡した神器が本当に偽物だったのかについては古来議論がある。これは南朝・北朝の正統論争にもからんでくるため以前はかなりデリケートな問題だったが、今日では状況から見て「このとき渡した神器は本物だった」とする見解が有力である。これ以前に後醍醐が光厳に神器を引き渡した際にも本物であるかちゃんとチェックが行われた事実があること、後年後述する「正平の一統」の折に南朝側が「偽器」と言っていたはずの北朝の神器をしっかり接収していることがその根拠である。

―影の薄いままに―

 光明は「北朝第2代」とされるが、北朝を正統としてカウントすれば当時は「第97代天皇」と認識されていた(当時は壬申の乱のときの「弘文天皇」がカウントされない)。ただ天皇とはいっても当時は上皇が「治天」として天皇の上にたち院政を行うのが常識であったため(後醍醐はその「常識」をくつがえした異端的存在だった)、光明の即位期間は兄の光厳による院政が行われており光明自身の政治的行動はほとんど見受けられない。
 暦応元年(延元3、1338)8月13日に兄光厳の皇子・興仁親王が皇太子にたてられた。この直前に足利尊氏は南朝に対する軍事的優勢を背景に征夷大将軍に任じられており、すでに南朝=大覚寺統との両統迭立も非現実的になったとしての措置であったと思われる(成良親王が太子を廃された時期は不明)
 そして十年後の貞和4年(正平3、1348年)10月27日に光明は譲位して皇太子・興仁親王が新天皇に即位する(崇光天皇)。その皇太子に立てられたのは光厳・光明にとっては従兄弟にあたり、実は光厳の子である直仁親王だった。光明はあくまで中継ぎであってその子孫は僧侶となって天皇になることははなから想定外だったが、これは持明院統内のさらなる分裂を防ぐための措置として一世代前の段階から見られるケースである。光厳も自身の子である興仁の子孫については僧侶にして直仁の子孫が皇統を継ぐようにという指示を出している。

 しかし間もなく事態は暗転した。足利幕府内の内紛が始まって「観応の擾乱」となり、観応2年(正平6、1351)10月には尊氏が北朝を放り出して南朝に降伏してしまい、北朝が存在そのものを抹殺される事態となってしまった。11月7日をもって南朝の後村上天皇は崇光天皇を廃し、12月23日には北朝が所持してきた「三種の神器」を「偽物」と呼びながらも「三代にわたって使っていたのだからぞんざいには扱えない」としてちゃっかり接収してしまった。在位の事実そのものを抹殺された形となって世をはかなんだのか、光明は12月28日に髪をおろして出家してしまった。法名は真常恵という。出家した弟の気の弱さに兄の光厳は批判的であったと伝えられる。
 同日に後村上から光明・崇光に対して「在位は認めないが特別措置」として「太上天皇」の尊号が贈られている。しかし北朝側にしてみれば光明についてはすでに尊号が贈られ済みであり、余計なお世話という議論もあったようだ。

 翌観応3年(正平7、1352)閏2月21日、南朝軍は足利側との和議を破って京を攻撃・占領した。直後に南朝側は光厳・光明・崇光の三上皇および元皇太子の直仁親王を南朝軍が拠点を構える石清水八幡に移した。このとき牛車の手配がつかず、四人は一台の牛車に詰め込まれたという。「戦乱をさけて安全を守るため」というのが南朝側の言い分であったが、これが足利による北朝再建を阻止する狙いで行われたことは明らかだった。
 3月に入り足利軍が京を奪回すると、南朝側は北朝皇族たちを楠木一族の拠点である河内・東条へと移し、さらに南朝軍の敗北が確定すると賀名生へと移した。文和3年(正平9、1354)には南朝の移動と共にさらに河内・金剛寺へと移される。

 翌文和4年(正平10、1355)8月8日、光明は他の北朝皇族たちより一足先に解放され、3年ぶりに京に戻って伏見法安寺に入った。光明だけ先に解放された理由は不明だが、おとなしい性格でもあり南朝側の同情を誘ったか、南朝側も北朝皇族を何人も抱えていることが経済的負担になっていたのではないかとも推測されている。
 二年後の延文2年(正平12、1357)2月には兄・光厳や甥の崇光、直仁も解放されて5年ぶりに京に帰って来た。その直後の閏7月に光厳・光明の生母・広義門院が亡くなっている。光厳・光明の兄弟はその後しばらく一緒に暮らすことも多かったようで、翌延文3年(正平13、1358)8月に光厳が重病となり一時命も危ぶまれた時には光明が泊まり込みで看病にあたり、見舞いに来た崇光の応対も光明がしている。
 兄の光厳は大和・法隆寺に参詣したり京を離れた丹波の山寺・常照寺で静かに余生を送って貞治3年(正平19、1364)にこの世を去った。光明も兄同様に政治を離れて仏門にいそしみ、亡くなったのは康暦2年(天授6、1380)6月24日で享年60歳、場所は大和の長谷寺であった。墓地は京都伏見桃山町秦長老の大光明寺陵である。
 自筆の日記『光明天皇宸記』を残している。

参考文献
飯倉晴武『地獄を二度も見た天皇 光厳院』(吉川弘文館・歴史文化ライブラリー147、2002)ほか
大河ドラマ「太平記」第37回、兄・光厳と共に後醍醐の一行から離脱して足利軍に合流する場面で初登場(演:海野義貴)。この回で即位し、つづく第38回では尊氏を権大納言、第40回では征夷大将軍に任じる場面で登場しており、セリフはいっさいない。
歴史小説では「南北朝」の状態を作ることになるので即位について触れられることは多いが特に個性が描かれることはない。光厳天皇を主人公とする森真沙子『廃帝』(2004)で若干個性が描かれている。

豪誉
ごうよ
生没年不詳
生 涯
―六波羅に通じた比叡山の悪僧―

 比叡山延暦寺にいた悪僧(荒法師)の一人。比叡山西塔・東谷の浄林房(上林房)に属し、『太平記』では「浄林房阿闍梨豪誉」と表記されている。
 正和3年(1314)5月に比叡山に属する新日吉社の神人と六波羅探題の武士がトラブルを起こし、比叡山の僧兵たちが六波羅北方探題の金沢貞顕の責任を問うて合戦に及ぼうとする騒ぎが起こっている。この事件の比叡山側の「張本」として悪僧たちが9月20日に六波羅探題に引き出されて取り調べを受けているがその中に豪誉の名が見いだせる(西園寺公衡の日記)。その後、事件の主犯として玄運ら十余名の悪僧と共に流罪に処されたが、元徳2年(1330)の後醍醐天皇比叡山行幸の際に赦免されたいう(日吉幷叡山行幸記)

 ただし金沢文庫に残る書状断簡によれば、元応元年(1319)4月に比叡山の僧兵らが対立する園城寺(三井寺)を焼き討ちにした際にもその「張本」として豪誉の名が挙がっている。このとき豪誉は「代々武家御家人の由」(代々幕府に忠節を尽くす)ことを誓った起請文を六波羅探題に差し出して罪を許されたと記されており、新日吉社の騒動の張本人のうち彼だけは流刑にされなかったことが書状に記されている。詳しい事情は不明ながら、豪誉は比叡山の中にあって六波羅探題と結びついたスパイ的な存在であったようだ。

 元徳3年(元弘元、1331)8月、後醍醐天皇が内裏を脱出して倒幕の挙兵に踏み切るが、このとき自身の身代わりとして花山院師賢を比叡山に向かわせた。比叡山に「天皇」が登ったことをいち早く六波羅探題に通報したのが豪誉であった(「太平記」)。『太平記』には豪誉が「元来武家に心を寄せていた」と記しており、これは金沢文庫断簡の「代々武家御家人の起請文」の記述とも一致する。
 やがて「天皇」が花山院師賢であることが発覚して比叡山に混乱が起こると、豪誉はすばやく尊澄法親王(=宗良親王)の執事・安居院中納言法印澄俊を捕えて六波羅に引き渡している。
 その後の消息は不明で、あるいは六波羅探題・鎌倉幕府の滅亡にともなって失脚したのかもしれない。

参考文献
岡見正雄校注『太平記』(角川文庫)補注

後円融天皇ごえんゆう・てんのう1358(延文3/正平13)-1393(明徳4)
親族父:後光厳天皇 母:広橋仲子(崇賢門院)
兄弟:亮仁法親王・行助法親王・覚叡法親王・永助法親王・尭仁法親王・覚増法親王・道円法親王・寛守法親王・明承法親王・聖助法親王・尭性法親王・寛教法親王・治子内親王・見子内親王ほか
妃:・三条厳子・四条今子・按察局ほか
子:後小松天皇・道朝法親王・珪子内親王ほか
立太子1371年(応安4/建徳2)3月
在位(北朝第5代)1371年(応安4/建徳2)3月〜1382年(永徳2/弘和2)4月
生 涯
―義満と同い年の従兄弟―

 名ははじめ「緒仁(おひと)」といい、北朝第4代の後光厳天皇と石清水八幡宮社務善法寺通清の娘で広橋兼綱の養女となった仲子との間に、延文3年(正平13、1358)12月12日に誕生した。それより4ヶ月ほど前の同年8月22日に室町幕府三代将軍・足利義満が生まれているが、義満の母・紀良子もまた善法寺通清の娘であり、後円融と義満は母親同士が姉妹の「同い年の従兄弟(いとこ)」であった。後円融の生涯はこの従兄弟との対決と敗北で彩られることになる。

 応安3年(建徳元、1370)8月、後光厳は自身の子・緒仁への譲位を決意し、幕府に申し出た。しかしもともと後光厳は南朝軍が京を占領して北朝皇族を拉致した際の非常措置として即位した経緯があり、後光厳の兄・崇光上皇は自分の子・栄仁親王への皇位継承を望んで後光厳と対立していた。後光厳派は管領の細川頼之に、崇光派は足利義詮の未亡人・渋川幸子にはたらきかけて幕府内の派閥抗争とも絡んで複雑な様相を呈したが、結局「光厳法皇の遺勅」なるものが持ち出されて後光厳派の勝利に終わった。翌応安4年(建徳2、1371)3月21日に緒仁に親王宣下があって皇太子に立てられ、2日後の3月23日に緒仁は践祚し天皇となった。このとき後円融天皇、14歳である。
 後円融が即位すると後光厳による院政が行われることになったが、興福寺衆徒が春日神木を京に持ち込む強訴に及び、この神木が京に置かれた三年間は朝廷の政務は完全に停止してしまった(春日大社は藤原氏の氏神であり、その神木が動かされると藤原一族は朝廷に出仕できない)。その間の応安7年(文中3、1374)正月29日に後光厳が疱瘡のため37歳で急逝してしまい、以後は後円融による天皇親政となった。
 
 母方の従兄弟である義満と後円融が正式に対面したのは永和元年(天授元、1375)4月25日である。18歳となっていた義満は初めての参内を行い後円融に拝謁したが、このとき義満は諸大名を引き連れた盛大な行列を作って参内し、衰退気味の天皇との差をあからさまに見せつけることになった。このころの北朝朝廷は幕府の支援なしには運営もできないありさまで、義満は幕府の長としてだけでなく朝廷内での地位も急速に上昇させ、公家社会でも発言力を増してゆくことになる。
 永徳元年(弘和元、1381)3月、義満は完成した将軍邸宅「花の御所」に後円融の行幸を仰ぎ、6日間にわたって舞・蹴鞠・歌会・舟遊びなどイベント尽くしの豪華絢爛な歓待を行った。これは天皇の権威を借りて自らの権勢を見せつける義満一流のパフォーマンスであったが、同時に後円融に対しても実力の差を思い知らせることにもなった。後円融は同い年の義満の勢いに強いコンプレックスと警戒感を抱いたらしく、このころから何かと義満への「あてつけ」ともいえる行動が目につくようになる。

―義満との対決―

 花の御所への行幸から半年後の9月、後円融は寵愛する妃・三条厳子に対して突然「今後はお前を呼ぶこともないし、顔も見たくない」と言い渡した。原因は厳子の父・三条公忠が京の土地を手に入れるために義満に取りいったことに怒ったものだった。このころ公家たちが自身の利権のために義満に媚を売る行動が続発しており、自分の舅までがそれを行ったことに後円融の怒りが爆発したものらしい。また本来は京の土地に関する裁量は天皇に属するものであり、それが幕府に奪われていく実態への警戒感もあっただろう。後円融の怒りを知った公忠は慌てて土地を返上、後円融も怒りを収めて公忠に別の土地を与えることで決着を見ている。

 この一件から間もなく、後円融は我が子・幹仁親王(後小松天皇)への譲位を決意した。後円融は崇光上皇らがまた栄仁擁立に動くのではとの懸念を義満に伝えたが、義満は「自分がいる限り安心してほしい」と自信を見せ、実際崇光派はほとんど動きを見せなかった。翌永徳2年(弘和2、1382)4月に後小松が践祚し、後円融は上皇(治天)として院政を行うことになるが、その院政を助ける院別当は義満であり、後円融にはほとんど何もさせなかった。後小松の即位式の日程決定・準備進行なども義満とその指南役である二条良基が全て決めてしまったため、後円融は激しく怒ってその奏上を一切無視するという行動に出た。しかし結局押し通される羽目になり、三条公忠などは日記に「武家(将軍)の意向に背いては何もできないくせに」と記して後円融の態度を嘲笑するほどであった。
 翌永徳3年(弘和3、1383)正月29日、後円融の父・後光厳の十回忌の命日の仏事が内裏で執り行われた。ところがこのころには後円融と義満の険悪な関係は誰もが知るところで、公家たちは後円融よりも義満ににらまれることを恐れて誰も参内しなかった。これには後円融の怒りと焦りも頂点に達したことであろう。

 それからわずか2日後の2月1日。前年末に女子出産のため実家に里帰りしたまま、後円融からの度重なる呼び出しにもなぜかずるずると2ヶ月も帰参を遅らせていた寵妃の三条厳子がようやく宮中に帰って来た。後円融はさっそく厳子を寝所に呼び出したが、厳子は「急のお召しで袴や湯巻の用意ができませぬ」との理由で呼び出しを断った。これを聞いた後円融は激昂し、太刀を手に厳子の部屋に乗り込んで、峰打ちで厳子の背を激しく何度も打ちすえた。女官たちが後円融を必死に止め、その隙に厳子は流血の重傷を負ったまま実家へと運び出された。後円融は太刀を手に一室に閉じこもったが生母の仲子が駆けつけ酒をすすめて気持ちを落ち着かせ、その間に女官たちが太刀を取り上げてひとまず事態は落着した。

 それから間もない2月11日、後円融の寵妃・按察局が上皇の御所を追い出され、出家するという騒ぎがあった。あとで後円融自身が母・仲子に告白したところによれば「按察局が義満と密通している」と後円融に告げたものがあったためだという。先の厳子への暴行も含めてこうした宮中スキャンダルは京の人々の間に噂として広がり、しかも「義満が上皇を丹波へ流すそうだ」とのまことしやかな風聞まで飛び交い、これが後円融自身の耳にも入ってしまう。2月15日に義満からの使者として日野資康・広橋仲光の二人が上皇の御所へやって来ると、後円融はいよいよ自分が流刑にされると思いこみ、錯乱状態になって持仏堂にこもり「自害する」と騒ぎだした。ここでも生母の仲子が登場して後円融をなだめすかし、仲子はひとまず後円融を仙洞御所(小川殿)から移し、仲子の住む梅町殿へ連れ帰ることになった。
 このあとも後円融は二条良基ら義満に媚びる重臣たちを処分しない限りは御所には帰らないとわめきもしたが、結局2月末に義満が按察局とは何も関係がなかったことを誓う起誓文を提出して後円融の怒りをしずめ、3月3日の後円融の御所への帰還には義満が後円融の牛車に同乗して両者の和解を世間にアピールした。しかし世間の目には勝者と敗者は明らかであり、女性がらみのスキャンダル、しかも上皇の自殺未遂という前代未聞の事態もあって後円融の権威失墜ははなはだしいものがあった。

 直接言及する史料はないが、前後の状況から按察局のみならず厳子も義満との密通が疑われたのだろうと推測されている。義満の正室・日野業子はもともと後円融の後宮に典侍として入っていた女性であったし、義満の側室にも後宮出身の女性は多い。このため厳子や按察局が義満と密通した可能性は高いと見られている。さらには想像を一歩進めて、厳子が生んだ後小松は実は義満の子だったのではないかとの疑惑の声も一部にある。後年義満がこの後小松の父親代わりをつとめること(晩年には自身の妻を後小松の公式の「准母」にまでした)、義満について「源氏物語」の光源氏に例える表現が公家たちの間で頻出すること(光源氏は天皇の妃との不義の子を天皇にすえる)など、状況証拠は少なくない。さすがに歴史学者は直接的言及を避けているが、作家・海音寺潮五郎は史伝「悪人列伝」の義満の項でこの説を断定している。
 
 義満との対決に完敗した後円融はその後はすっかりおとなしくなってしまい、残り十年の人生を形ばかりの「治天」として過ごすことになる。この間、明徳3年(1392)11月に南北朝合体が実現し、60年続いた南北朝時代が終焉するが、後円融は完全に蚊帳の外であった。
 南北朝合体から間もない明徳4年(1393)4月26日、後円融は小川御所において死去した。まだ36歳の若さであった。死の直前に出家して「光浄」と号している。持明院統歴代と同じく深草北陵に葬られた。
 なお当時の一般的な天皇代数の数え方では、後円融が「第百代天皇」であった(壬申の乱時の弘文天皇をカウントせず、北朝系で数える)。平安以来「天皇家は百代で絶える」との「百王説」というものが一部でささやかれており、義満も後円融もこれを意識していた可能性もある。

参考文献
今谷明「室町の王権」(中公新書)
河内祥輔・新田一郎「天皇と中世の武家」(講談社「天皇の歴史」04)ほか
歴史小説では足利義満を主役とする平岩弓枝「獅子の座」、世阿弥を主役とする杉本苑子「華の碑文」などで厳子事件が言及されている。
漫画作品では石ノ森章太郎「萬画日本の歴史」21巻では義満の「皇位簒奪計画」が今谷説に依拠して語られており、後円融がノイローゼになってゆき厳子事件を起こす顛末が詳しく描かれている。

小男こおとこ
 NHK大河ドラマ「太平記」の序盤に登場する架空人物(演:Mr.オクレ)楠木正成の妹・花夜叉が率いる田楽一座の一員で、大男(演:ストロング金剛)とのコンビで道化役をしている。セリフを話す場面はめったになく、大男と一緒にましらの石藤夜叉の妊娠を伝える場面ぐらいしかない。第15回を最後に姿を消す。

後亀山天皇ごかめやま・てんのう1350(観応元/正平5)?-1424(応永31)
親族父:後村上天皇 母:阿野実為の娘(嘉喜門院?)?
兄弟:長慶天皇・惟成親王・護聖院宮(説成親王)・良成親王・懐成親王
后妃:不明
子:小倉宮恒敦ほか
立太子不明
在位(南朝第4代)1383年(永徳3/弘和3)3月?〜1392(明徳3/元中9)11月
生 涯
―南朝最後の天皇―

 名は「熙成(ひろなり)」といい、南朝二代目の後村上天皇阿野実為の娘との間に生まれたとみられる(吹上本「帝王系図」)。この後亀山の生母が、長慶天皇の生母と見られる二条師基の養女嘉喜門院と同一人物とみる説が有力だが確証はない。とかく南朝末期の皇室状況は史料が著しく乏しいため不明なことが多い。
 後亀山は誕生年についてもはっきりせず、父・後村上が北朝を一時的に接収した「正平の一統」実現前後、『観応二年日次記』観応2年(1351)4月3日条に後村上に「御年二歳」の皇子がいると記されていること、洞院公賢『園太暦』観応3年(1352)5月25日条に後村上が「三歳の皇子」に譲位して自ら出陣するとの風聞が記されていることから、後村上に正平5年(観応元、1350)生まれの皇子がいたことが知られ、これが長慶ではないと確認できることからこの皇子こそ後亀山ではないかとの推測がある。ただしその場合、風聞で終わったとはいえ後村上がなぜ長男の長慶ではなく次男の後亀山に譲位しようとしたかが謎になり、あるいは長慶と後亀山は実は異母兄弟で、長慶の母は身分が低かったのでは、との推理もできる。このことは長慶が即位自体の確認が難しいこと、長慶・後村上の間で確執があったらしいことともつながってくるようである。

 正平23年(応安元、1368)3月11日に父・後村上が住吉で死去し、兄の長慶が跡を継いだ。時期は不明ながら熙成親王はその直後に長慶の皇太弟とされたとみられる。両天皇の母とみられる嘉喜門院の歌集『嘉喜門院集』にこの年の8月に詠まれた「春宮(皇太子を指す)」との贈答歌があるのがその根拠である。
 長慶は対北朝・幕府では強硬姿勢の人物で、南朝における最大の軍事力であり有力な講和派であった楠木正儀が長慶即位後に北朝へと走り、逆に南朝へ攻撃をかけて来た。このため南朝は拠点を住吉から天野、さらに吉野へと移し、南畿山間部の弱体地方政権へと転落してしまう。
 室町幕府の記録『花営三代記』の文中2年(応安6、1373)8月2日条に「南朝の天皇が弟宮に譲位し、三種の神器を持って吉野に没落した」との情報が入ったことが記されており、これが事実とすればこの時点で長慶から後亀山への譲位が行われたことになるが、長慶の発した綸旨の調査ではそれは誤情報で、実際には弘和3年(永徳3、1383)に譲位があったとするのが通説である。
 
 その前年に楠木正儀が南朝に復帰したのも後亀山への譲位と関わっているのでは、との見方もある。ただし正儀の南朝復帰は彼の支援者だった細川頼之「康暦の政変」で失脚したためでもあり、彼の南朝帰参直後に山名氏清らの攻撃で楠木勢は再起不能といっていい致命的な大敗を喫し、南朝は軍事面でも大きく減退することになった。
 強硬派の長慶に対し、後亀山は北朝・幕府との講和による大覚寺統の存続を願っており、両者に激しい対立があったとの見方もある。元中2年(至徳2、1385)9月10日付で高野山丹生社に奉納された長慶直筆の願文に「今度の雌雄思ひのごとくんば、ことに報賽の誠をいたすべき(今度の対決が思い通りにいったら重く恩返しをいたします)」との文言があり、これを長慶が後亀山ら講和派と対決しようとしていたととる説がある。

―南北朝合体―

 もはや京都奪還など夢のまた夢となった南朝だったが、それでも幕府に叛逆する勢力が正統性のシンボルとして担ぎ出すだけの権威はあった。明徳2年(元中8、1391)末に起こった山名一族の反乱「明徳の乱」でも南朝を担ぎ出そうとする動きがあったようだが、どうやら後亀山が応じなかったらしい。
 明徳の乱の翌年、明徳3年(元中9、1392)になると南北両朝(実質は南朝と幕府)の講和交渉が本格的に始まり、明徳の乱の功績で紀伊・和泉の守護となった大内義弘(大内氏は一時南朝方だった)が交渉の場を設け、南朝側から後亀山側近の阿野実為と吉田宗房が、幕府側からは義満の意を受けた吉田兼熙が交渉役に当たり、10月には両朝合体の条件についておおむね合意が出来上がった。
 それは「(1)三種の神器は「譲国の儀」をもって後亀山から後小松に引き渡す」「(2)以後の皇位は両統が交互に就く」「(3)皇室領のうち諸国の国衙領は大覚寺統、長講堂領は持明院統が相続する」の三条件であった。とくに(1)は南朝が正統性の印である三種の神器を引き渡しつつも、「譲国」すなわち南朝を正統天皇と認めたうえでの引き渡し、という南朝のポリシーに関わる条件であった。これを認めるとそれまでの北朝天皇は正統性を失ってしまうことになり、北朝側がとうてい飲める条件ではなかったが、この交渉は北朝は一切関与せず義満の主導で進められたため軽々と「名を捨てて実をとる」ことができたのである。(2)の交互即位は南北朝時代以前、鎌倉末期の状況に戻そうというもので、これも武家政権が鎌倉以来志向した原則であった。(3)も南北朝以前から両統で懸案となっていた所領問題をすっきりと解決し大覚寺統の経済的基盤を与えようというものであった。

 これらの、すでに衰退著しい南朝に対して十分にメンツを立てた好条件が、そのまま実現するとは後亀山らも正直なところ思っていなかったらしい。しかしここで講和に踏み切ることを後亀山は決断した。10年後に亀山自身が吉田兼敦(兼熙の子)に語ったところによると「元弘・建武以来の長い混乱をおさめ、運を天に任せて民間の憂いをのぞくため」というのが合体に踏み切った動機であったという。
 10月28日に後亀山は三種の神器と共に吉野を出発、奈良を経由して閏10月2日に京・嵯峨の大覚寺に入った。後亀山に同行したのは皇太弟となっていた「三宮(惟成親王)」「福御所(後亀山の弟・懐成?)」ら皇族とそれに従う阿野実為ら公卿たち合わせて17名、それらを護衛する伯耆党(名和一族)六人に楠木党七人、大和の武士三名、そのほか名の知れぬ武士十名という、実にさびしいものであった(「南山出御次第」)。兄の長慶上皇はこれに同行しておらず、その後の行方もはっきりしていない。
 閏10月3日に日野資教ら北朝公家が大覚寺にやってきて三種の神器を受け取り、そのまま土御門内裏へと運んで行ってしまい、条件にあった「譲国の儀」は実行されなかった。これについては北朝側はもとより交渉に参加してないので知る由もなく、後亀山らもやむをえぬことと覚悟はしていたようで特に抗議した気配はない。ともあれ、三種の神器の引き渡しにより「南北朝時代」は終わりを告げ、『大乗院日記目録』「両朝御合体、一天平安」とこの日に記した。翌明徳4年(1393)12月には後亀山はさらに歴代天皇の持仏である「二間本尊」を後小松に送っている。

 南北朝合体の条件について、義満が最初から後亀山をだますつもりだったとの見方も古くからあるが、最近ではむしろ義満は後亀山との約束を可能な限り果たそうとしていたとの見方が強い。応永元年(1394)2月6日に義満は天竜寺に後亀山ら南朝皇族を招いて懇談し、同月23日になって後亀山に「太上天皇(上皇)」の尊号が奉られた。本来南朝天皇など「偽主」だとする立場の北朝サイドでは強い抵抗があるなか、義満が相談もなしに強引に押し通したようである。ただし「即位しなかった人物に対する極めて異例の尊号」と強調をしたうえでのことであった。これ以前では後醍醐が光厳に、光明が後醍醐に尊号を贈った前例はあるが、後亀山のように北朝から見れば「後醍醐の孫」でしかない人物に尊号を贈る理屈をこねまわすにはかなり苦労したようである。
 条件の二番目である「両統迭立の即位」については結果的に守られなかったが、義満存命のうちに後小松の皇太子が決められなかったのは義満が一定の配慮をしていたためとみられている(いわゆる「義満簒奪計画説」ではこれも計画のうちとされるが)。条件の三つめ、諸国国衙領については一応一部は守られた形跡があるが、国衙領は武士による蚕食がいちじるしく、後亀山が後に困窮に追い込まれるほどの心もとない実態であった。
 
―雷鳴の中で―

 その後の後亀山は人々から「南主」「大覚寺殿」と呼ばれつつ、阿野実為らわずかな側近に囲まれて嵯峨・大覚寺で隠遁同然の生活を送っている。後亀山は「思いやる 人だにあれな 住みなれぬ さがのの秋の 露はいかにと」(「新続古今和歌集」)という歌を詠んでおり、訪れる人も少ない嵯峨でのさみしい生活がうかがい知れる。応永4年(1397)に後亀山は上皇に付随する「尊号・兵杖」を辞退しており、このとき出家したと推測される。法名は「金剛心」といい、以後は「南朝法皇」「大覚寺法皇」「南方院御所大覚寺殿」といった呼ばれ方をされていた。
 
 応永15年(1408)5月、権勢をふるった足利義満が急逝した。義満の跡を継いだ足利義持は「両統迭立」を守る気などなく、その翌年に南朝の元皇太子であった「三宮」の子・成仁が出家して寺に入れられているのは南朝系を絶やす動きの始まりであったと見られている。翌応永17年(1410)3月に後亀山はじきじきに足利義持を訪問して談判に及んでいるが、これは「両統迭立」を守るよう迫ったものとみられる。しかしこれは受け入れられず、この年の11月に後亀山は嵯峨から出奔し、かつての南朝拠点である吉野へと走った。貞成親王(北朝・崇光天皇の孫)の日記では「ここ五、六年の困窮」つまり生活上の不満が出奔の原因としていてそれもありえる話ではあるが、時期的に見れば皇位継承問題での不満が爆発したものと見るべきだろう。
 
 しかし後亀山に呼応する動きも特になかったようで(ただし同年に飛騨国司姉小路尹綱の反乱があり、関連を疑う説もある)、幕府・朝廷はこの抗議の出奔をほとんど黙殺した。翌応永18年(1411)11月25日に後小松の皇子・躬仁が親王宣下され、太子に確定した。そして翌年の応永19年(1412)8月29日に践祚して天皇となった(称光天皇)。「両統迭立」の原則はここについに反故とされたのである。
 これに対し、もともと南朝重臣の家系である伊勢の北畠満雅や、河内・大和の楠木一族が応永22年(1415)に反乱を起こしている。楠木一族は早期に鎮圧されたが、幕府は北畠満雅とは和睦し、混乱の早期収拾をはかった。そして吉野にこもった後亀山のもとへも義持から領地の回復を約束して京への帰還を求める使者が再三送られ、翌応永23年(1416)9月に広橋兼宣が迎えの使者に立って、ようやく後亀山は吉野を出て嵯峨の大覚寺に帰還した。彼の吉野ごもりは六年に及んだことになる。

 応永31年(1424)4月12日の夜、大雨となり雷鳴がとどろきわたる中で後亀山は息を引き取った(「満済准后日記」。雷鳴の最中という表現もそこに記されたもの)。まるで後醍醐以来の南朝の怨念の遠吠えをとどろかせながらの死、とみられたのかもしれない。場所は明記がないが恐らく大覚寺とみられ、享年についても判然としないため73〜78歳と幅をもって記録されている。冒頭に挙げた正平5年(1350)誕生説をとれば享年75歳であったことになる。
 後亀山の死をもって南朝の歴史は終わるが、南朝系の皇胤による「後南朝」の活動はその後しばらく世を騒がせることとなる。

参考文献
森茂暁『闇の歴史、後南朝・後醍醐流の抵抗と終焉』(角川選書)
同『南朝全史・大覚寺統から後南朝へ』(講談社選書メチエ)
河内祥輔・新田一郎「天皇と中世の武家」(講談社「天皇の歴史」04)
『南北朝史話100話』(立風書店)ほか
その他の映像・舞台1983年のテレビアニメ「まんが日本史」の第26回「南北朝の統一」で登場しており、声を宮内幸平が演じている。
漫画作品では学習漫画系で南北朝合体を説明する場面でチラっと登場していることが多い。

後光厳天皇ごこうごん・てんのう1338(暦応元/延元3)-1374(応安7/文中3)
親族父:光厳天皇 母:正親町秀子(陽禄門院)
兄弟:崇光天皇
妃:広橋仲子・右衛門佐局・左京大夫局・橘繁子ほか
子:亮仁法親王・後円融天皇・行助法親王・覚叡法親王・永助法親王・尭仁法親王・覚増法親王・道円法親王・寛守法親王・明承法親王・聖助法親王・尭性法親王・寛教法親王・治子内親王・見子内親王ほか
在位(北朝第4代)1352年(文和元/正平7)8月〜1371年(応安4/建徳2)3月
生 涯
―異例中の異例措置で即位した天皇―

 名ははじめ「弥仁(やひと/いやひと)」といい、持明院統の光厳天皇と正親町公秀の娘・秀子との間に、暦応元年(延元3、1338)3月2日に誕生した。同母兄に崇光天皇がいるが、光厳の意向は崇光も「中継ぎ」であり、花園上皇の子(実は光厳の子とされる)である直仁親王の系統が皇位を継承するというものだった。このた弥仁は皇位継承権のない皇子の常で、妙法院に入室して僧侶としての人生を歩む予定になっていた。

 ところが観応2年(正平6、1351)10月には足利尊氏が北朝を放り出して南朝に降伏してしまい、「正平の一統」が実現して北朝の崇光と直仁は廃位され、「三種の神器」も奪われてしまった(南朝は北朝が持つ神器を「偽物」としていたが接収したところをみると本物だった可能性が高い)。さらに翌観応3年(正平7、1352)閏2月21日、南朝軍は足利側との和議を破って京を占領、光厳・光明・崇光の三上皇および直仁親王を拉致してしまう。足利軍が京を奪還しても北朝を再建させないための作戦であった。
 しかし、すでに僧になる準備に入っていた15歳の弥仁には南朝の手が及ばなかった(拉致しようとはしたが居場所不明か捕まらなかったらしい)。そこで京を奪回し弥仁を保護した足利義詮は北朝の重鎮・二条良基と相談、非常の措置として弥仁を天皇にして北朝を再建することにした。だが皇位の証しである三種の神器もなく、神器のない場合に即位を命じることができる上皇(治天)も全て拉致されていた。やむなく異例中の異例の措置として弥仁の祖母である西園寺寧子(広義門院)を「女院=女上皇」の立場につけて院宣を出させ、さらに臣下が天皇を擁立した先例として継体天皇(6世紀初頭の天皇で、新王朝創始者説もある異例の人物)のケースを無理やり持ち出し、儀式では南朝の陣営から回収した神器を入れる「唐櫃」を神器の代用として弥仁の践祚を強行した。これによりひとまず北朝の再建は成ったが、後光厳天皇は神器も「治天」もない異例の即位をしたことで、その正統性に一定の弱みを持つことになってしまう。

―三度の都落ち―

 翌文和2年(正平8、1353)6月、幕府に反旗を翻した山名時氏が南朝・旧直義党と結んで京を攻略した。義詮は京を守り切れず後光厳を奉じて近江へと逃れたが、途中で南朝方についた土民の襲撃を受けつつ琵琶湖北岸をまわり、さらに一休みしようとした塩津でも戦いに巻き込まれるのを恐れた現地住民たちが襲撃の姿勢を示したため逃亡を余儀なくされた。このとき天皇の輿をかつぐ駕輿丁が一人残らず逃げてしまったため、やむなく勇将として知られた細川清氏が馬から下り、鎧の上に少年後光厳を背負って塩津の山越えをしたという(「太平記」)。武士に背負われて山越えをした天皇というのも異例である。後光厳は近江からさらに美濃に入り、いったん垂井の宿に入ってからその北にある要衝・小島(現・揖斐川町)に行宮を構えた。天皇に小島行宮まで随行した公家はたった四人であったという(「園太暦」)

 後光厳と義詮を追って二度目の京占領を実現した南朝は、当然と言うべきだが後光厳とその朝廷を「偽主」「偽朝」と呼ばわり、その践祚に関与した二条良基ら公家たちを厳しく処分した。しかし足利側の反撃で南朝軍は一ヶ月で京を奪回される。京奪回を受けて後光厳は垂井に行宮を移したがまだ情勢が不安定とみてしばらくここにとどまり、京都の公家たちを呼び寄せた。様子見をしていた公家たちは美濃に馳せ参じないと官職を失うとの噂に慌て、次々と後光厳のもとへ集まった。それまで関東平定にあたっていた尊氏も京へ戻る途中垂井で後光厳に初めて面会し、将軍と幕府を保証する権威としての北朝天皇という構図を人々に再確認させるパフォーマンスを行った。
 結局後光厳が京に帰還できたのは9月に入ってからである。延び延びになっていた後光厳の即位式もこの都市の12月になってようやく執り行われた。

 しかし一年後の文和3年(正平9、1354)12月に今度は足利直冬を主将とする南朝軍が京に迫った。京の軍勢が手薄であったため尊氏はすばやく京からの避難を決め、後光厳は尊氏に奉じられてまたもや近江に逃れ、武佐寺、さらに成就寺と行宮を移すことになった。京は三度目の南朝軍占領となったが、大激戦の末に翌文和4年(正平10、1355)3月に南朝軍は京から撤退、後光厳は2月にいったん比叡山に入ってから3月28日に京に帰還した。二度目の天皇都落ちもおよそ3ヶ月であった。
 この年の8月に南朝に拉致されていた光明上皇が一足先に解放され、京に帰って来た。それから2年近く後の延文2年(正平12、1357)2月には光厳と崇光、直仁が南朝から解放され5年ぶりに京に帰った。しかし光厳や崇光は自分たちが拉致されている間に非常措置で即位した後光厳とその廷臣たちに強い不信感を抱いており、光厳は持明院統に受け継がれた荘園や琵琶の秘曲などを崇光に伝え、暗に後光厳の子孫が継承することを牽制してもいる。その光厳は貞治3年(正平19、1364)に亡くなっている。

―皇位への執念―

 貞治6年(1367)8月18日、清涼殿で最勝講という法会が行われたが、このとき参加していた比叡山と奈良の僧兵が乱闘騒ぎを起こし、死者負傷者多数という事件が起きた。「太平記」によるとこの事態にも後光厳は騒ぐことなく落ち着いたもので、死体や負傷者を片付けさせ、血を洗い清めさせてから、翌日改めて儀式を無事にやり終えたことになっている。ただし『師守記』によればこの乱闘騒ぎの際に後光厳は冠を落としたとされ、天皇の身にまで及びかねないかなりの大騒動であったらしい。
 「太平記」は後光厳について「惣じてこの君が御在位の間は、何事でも途絶えていたものを復活させようとのお考えであったので、さまざまな行幸などしっかり行うことにしていた」と記しており、戦乱のために廃れていた皇室・朝廷の行幸や儀式を復活させる積極的姿勢を示していたことがうかがえる。実際に訴訟を処理する綸旨も多く残しているといい、政治に積極的であったことは事実のようである。それはもしかすると自身の即位事情の後ろめたさの反動であったかもしれない。
 これと関連して、後光厳は漢籍や和歌など文化面でも積極的で、「枕草子」を自ら書写したものが現在に伝わっており、また「枕草子絵詞」の本文部分の一部は後光厳の手になると言われている。

 応安3年(建徳元、1370)8月、後光厳は我が子・緒仁親王(後円融天皇)に譲位したいとの意向を幕府に申し出た。これを知った崇光は怒り、対抗して自分の子・栄仁親王の立太子を幕府に働きかけた。当時の幕政を仕切っていた管領の細川頼之は「皇位のことは天皇の聖断に任すべき」として崇光の主張をやんわりと退けたが、崇光の一派はあきらめず、足利義詮の未亡人で強い影響力を持っていた渋川幸子にはたらきかけて運動を続けた。一時は幸子が運動したことで諸大名も栄仁擁立になびきかけたが、頼之は「光厳上皇の遺勅」なるものを持ち出し、そこに後光厳系統が皇位を継承するようにとの光厳の遺志が記されていたとして緒仁擁立で事態を収拾してしまった。
 このあたりの事情は後光厳自身が記した日記にも描かれているが、実際に光厳が後光厳系統への継承を意図した遺勅を残していたとは思えず、幕府側の工作の可能性を感じさせる。幕府としては非常措置で自分たちが立てた天皇をあくまで「正統」と立てておかねばならない事情があったものとみられる。
 
 翌応安4年(建徳2、1371)3月、後光厳は14歳の息子・後円融に譲位した。非常措置による異例の即位以来、実に19年間、当時にあってはこれまた異例の長期の在位期間であった。上皇となった後円融は院政をしくことになるが、直後に興福寺の僧兵が春日大社の神木を京に持ち込む強訴を行い、このために春日大社を氏神とする藤原氏公家は謹慎せざるをえず、院政は三年間まったく動かなかった。だが後光厳はこの応安4年の9月に裁判関係の掟を定めた「応安四年御事書」を作るなど政務への意欲は持っていたようである。
 しかし応安7年(文中3、1374)正月に後光厳は疱瘡(天然痘)に倒れ、もう助からないとみて死の直前に出家して「法融」と号し、29日に息を引き取った。まだ37歳の若さであった。死の三日前に、懇意にしていた細川頼之を病床に呼び出し、後事を託しているのは自身の死後の崇光上皇側の動きを警戒したものであろう。自身の追号を「後光厳」としたのも、自らが光厳の正統な後継者であることを示すためだった。
 はるか後の話であるが、後光厳の系統は彼のひ孫の代で絶え、崇光系に皇統を奪還されることになる。

参考文献
井門寛「後光厳天皇」(秋田書店「歴史と旅」臨時増刊「太平記の100人」所収)
小川剛生「南北朝の宮廷誌・二条良基の仮名日記」(臨川書店)
森茂暁「太平記の群像・軍記物語の虚構と真実」(角川選書)
林屋辰三郎「内乱のなかの貴族・南北朝と「園太暦」の世界」(角川選書)
河内祥輔・新田一郎「天皇と中世の武家」(講談社「天皇の歴史」04)
小川信「細川頼之」(吉川弘文館・人物叢書)
飯倉晴武『地獄を二度も見た天皇 光厳院』(吉川弘文館・歴史文化ライブラリー147、2002)ほか

後小松天皇ごこまつ・てんのう1377(永和3/天授3)-1433(永享4)
親族父:後円融天皇 母:三条厳子(通陽門院)
兄弟:道朝法親王・珪子内親王ほか
妃:・日野西資子・甘露寺経子ほか
子:称光天皇・小川宮・理永女王・一休宗純ほか
立太子1382年(永徳2/弘和2)3月
在位(北朝第6代)1382年(永徳2/弘和2)4月〜1412年(応永19)8月
生 涯
 北朝第6代にして、「南北朝合体」実現により半世紀ぶりに「唯一の天皇」となり、院政も含めると半世紀の長きにわたって君臨した天皇である。現在の皇統譜ではちょうど「第100代天皇」だが、当時の数え方では「第101代」だった。

―義満「院政」下の天皇―


 名は「幹仁(もとひと)」といい、北朝第5代の後円融天皇三条公忠の娘・厳子との間に、永和3年(天授3、1377)6月27日に誕生した。後円融の第一皇子として日野資教邸で養育される。
 永徳2年(弘和2、1382)4月にまだ六歳という年齢で父の後円融から譲位されて践祚、天皇となった。後円融が譲位を急いだ背景には、皇位継承を主張する崇光上皇の系統(伏見宮家)に対して自身の皇統を早く固めておこうという意図があったとみられる。後小松の践祚により後円融が上皇(治天)として院政を行うことになるが、現実には幕府のみならず公家社会でも権勢を増しつつあった三代将軍・足利義満が政治を取り仕切っており、後円融には何もさせない状況だった。後小松の即位式の日取りや準備まで義満と摂政の二条良基が決めてしまったことに怒った後円融はその奏上を再三無視したが結局押し通され、翌永徳3年(弘和3、1383)正月に後円融が父・後光厳十回忌で行った法要では義満に遠慮して公家が誰も参列しないなど、後円融の義満とそれに媚びる公家たちに対する怒りは激しくなっていった。

 その直後の2月1日。前年から出産のため実家に帰っていた後小松の生母・厳子は前年末に女子を出産したが後円融のたびたびの呼び出しにも関わらずなぜか2ヶ月も帰参しなかった。その彼女がこの日ようやく宮中に帰って来たので後円融はさっそく寝所に呼び出したが、厳子は「袴や湯巻きの準備ができない」として拒絶する。これに後円融は激昂、太刀を手に厳子の部屋に押しかけ、太刀の背で厳子を重傷になるまでめった打ちにしてしまった。
 この直後に後円融の愛妾の一人・按察局が義満との密通の疑いをかけられて後宮から追い出された。このため厳子に対する後円融の激昂の原因にも「義満との密通」があったのではないかと言われている。さらに想像をたくましくして、実は厳子の産んだ後小松は義満の子だったのではないか、とみる声もある(海音寺潮五郎「悪人列伝」など)。直接的な証拠は一切ないが、のちに義満が後小松の実父「上皇」のごとき立場でふるまうこと(後年の俗書ながら後小松が義満の猶子(養子的立場)であったとする史料もある)、義満について「源氏物語」の光源氏に例える例がみられること(光源氏は帝の妃と不義の子をなし、その子が帝となる)など、そう考えた方が理解しやすい「状況証拠」は少なくない。

 これらの事件の末に後円融は自殺未遂騒動まで起こしてしまい、その権威は地に落ちた。以後はすっかりおとなしくなって形ばかりの「治天」として余生を送ることになる。一方義満は幕府と朝廷にまたがり、武家・公家の頂点に立って「義満の院政」とまで呼ばれる権勢をふるうことになった。敗れたとはいえ義満に抵抗した後円融に対し、後小松はまだ少年のせいでもあるがあくまで義満に従順にふるまい、とくに目立った政治的動きは見せていない。

―南北朝の合体〜義満の死―

 明徳3年(元中9、1392)閏10月2日、南朝の後亀山天皇が幕府との講和に応じ、吉野を出て京・嵯峨の大覚寺に入った。閏10月5日に北朝朝廷から使者が来て「三種の神器」を後亀山から受け取り、後小松の住む土御門内裏へと持ち帰った。三種の神器は「正平の一統」(1351)の際に南朝に持ち去られて以来の「帰還」で、義満は源平合戦時の先例にならって内裏の中で三日にわたって神器をなぐさめる神楽を行わせた。ここに57年に及んだ「南北朝分裂」の状態は正式に幕を下ろし、後小松は日本における唯一の天皇となった。神器なしでの即位が続いた北朝にとっては後小松になってようやく神器を手に入れ正統性の保証を得たこととなる。北朝としてはますます義満に頭が上がらなくなったわけである。
 ただしこの講和交渉は北朝を蚊帳の外に置いて義満と南朝の間で進められたものであり、南朝側が条件としていた「譲国の儀による神器譲渡」、すなわちいったん南朝天皇を正統と認めたうえで後小松に神器を譲る、という形式は一切とられなかった。後亀山に対しては応永元年(1395)になってようやく「太上天皇(上皇)」の尊号が贈られたが、これは北朝側の強い抵抗のなか義満が強引に推し進めたものであった。
 他の条件である「今後は持明院統と大覚寺統が交互に皇位を継承する」という約束についても北朝側ではとうてい飲めないものであった。ただ幕府は鎌倉時代以来「両統迭立」を原則としており、それは義満にも継承されていたらしく、少なくとも義満が存命のうちは後小松の次の皇位継承者は決定されなかった。

 南北朝合体が成った翌年、明徳4年(1393)4月26日に後円融上皇が36歳で死去した。これにより後小松による「天皇親政」という形になるのだが、実質が「義満の院政」であることに変わりはなかった。さらに後円融の死によって義満はますます「上皇」同然にふるまうようになり、周囲も儀礼などで義満への待遇を上皇のそれに准じるようになってゆく。
 応永元年(1394)12月に義満は征夷大将軍の地位を息子の義持に譲り、自らは太政大臣となって位人臣を極めた。ところがその半年後の応永2年(1395)6月に義満は突然太政大臣を辞して出家してしまう。このとき後小松は再三使者を義満のもとへ送って出家を思いとどまるよう求めたが、義満は「出家しても政務はこれまで通り自分がみる」と返答している。
 出家した義満は「上皇」から「法皇」の立場になり、参内の際にも義満と後小松の対面は「天皇と上皇・法皇」の例に倣うこととなった。これを深読みすると、義満の権勢もさることながら、周囲の公家たちも「義満は後小松の実父」との疑惑を半ば信じていたのではないかとも思えてくる。

 応永13年(1406)12月、後小松の生母・三条厳子が危篤となった。義満はその死の前日に彼女を見舞うと、「天皇一代の間に二度の諒闇(りょうあん。父母の喪に服すること)があるのは不吉」として、厳子の代わりに後小松の「准母」を立てて諒闇を避けるという案を関白・一条経嗣に示した。義満は直接口にはしなかったが暗に義満の妻・日野康子を准母に立てろと要求したもので、公家たちはその意向をくんだ。12月27日に厳子が亡くなると、その夜のうちに日野康子を後小松の准母とする宣下が出された。
 これにより天皇の「母」となった康子の夫である義満は「天皇の父」という理屈になり、それでなくても後小松の父同然にふるまう義満が形式的にも後小松の父たる資格を有したとみることもできる。この「准母」の一件は義満の「皇位簒奪計画」の一環であったとの見解も古来あるが、義満・厳子・後小松の三者の関係の「疑惑」を念頭に置くとまた様々な想像もめぐらされる。実の母の死に際してこのような工作が行われてその喪に服することもできなかった後小松がどのような心境でいたか、うかがい知れる史料はない。

 応永15年(1408)3月8日、後小松は義満の「宮殿」である北山第に行幸、ここで二十日間にわたり豪華絢爛なイベントが挙行された。ここでも義満は法皇同然にふるまい、天皇が父・上皇を訪問する「朝勤行幸」に准じた格式がとられた。このなかで義満は最愛の息子・義嗣に後小松から「天盃」を受けさせるなどして義嗣の存在を強く周囲にアピールし、翌月には義嗣の元服式を内裏の中で親王のそれに准じて執り行うということまでしてみせた。この時点で後小松の皇太子が決まっていなかったことも合わせて、義満は義嗣を次期天皇にするつもりだったのではないかとの疑惑が古くからあるが、それを確かめるすべはない。ただ義満が自身の後継者を義嗣と考えているとの憶測は広がっていて将軍・義持周辺が警戒したのは事実であろうし、あるいは「義満の息子」の立場にある後小松も義嗣の存在にかすかな不安を覚えたかもしれない。

 しかしこの義嗣元服の直後に義満は病に倒れ、5月6日にあっけなく世を去ってしまった。そのあまりのタイミングのよさに古くから「暗殺説」がささやかれるが、それを証明することは不可能であろう。病状や前後の状況からすると誰にとっても全くの予想外の急死であり、タイミングは偶然と考えた方がよさそうである。
 義満の死の二日後、朝廷は義満に「太上法皇」の尊号を贈ることを内定する。義満は皇族ではないが、すでに位人臣を極め、事実上後小松の「父」としてふるまっていた彼にこの尊号を贈ることは大多数の公家にとっては自然なことであったらしい。結局この尊号は義持と幕閣が「恐れ多い」として断り、実際に贈られることはなかったが、義満の位牌に「上皇」「法皇」と刻むものが作られるなど、義満に尊号が贈られたという認識は一部にあったようである。この尊号に関しても後小松本人の気持ちをうかがい知るすべがない。

―「正統」への執念―

 実際に「兄弟」であったかという疑惑はさておき、義満の後継者としてはほとんど兄弟同然と言えた後小松と義持の関係は良好であった。武家・公家を統合しその頂点に立った義満に対し、義持はあくまで自身を幕府の長という立場にとどめて公家社会と一定の距離を置いたため、義満が公家社会に持っていた権力の一部は後小松に引き継がれることになる。いわば義満の遺産を後小松と義持で分け合う形となったのである。

 義満の死の直後から先送りになっていた皇位継承問題も動き出す。後小松は我が子・躬仁(称光天皇)への譲位の意志を幕府に示し始め、応永17年(1410)にこれに怒った後亀山法皇が嵯峨から出奔してかつての拠点・吉野にこもるという事件が起きている。それでも応永19年(1412)8月29日に称光天皇が践祚、後小松は丸30年という長期在位を終えて上皇となり、院政を行うこととなった。
 この動きに反発した旧南朝勢力、河内の楠木一族や伊勢の北畠満雅による反乱も起きたが、いずれも早期に鎮圧される。後亀山も幕府の再三の要請に応じて応永23年(1416)9月に京に帰還した。
 後小松の称光への譲位に失望したのは南朝勢力だけではなかった。本来は自分の系統が持明院統の正統であると主張する崇光の皇子、伏見宮栄仁親王もその一人である。栄仁は応永5年(1398)の崇光の死と共に出家させられて即位の望みを断たれていたが、自分の息子への皇位継承の野心は捨ててはいなかった。その栄仁も失意のうちに応永23年(1416)11月に死去したが、その野心は彼の息子・貞成王に受け継がれる。

 応永25年(1418)7月、称光の後宮の女房の一人が妊娠し、その父親が貞成王ではないかとの疑惑が持ち上がった。貞成は必死に否定しそれ以上の追及はされなかったが、この事件は後小松と称光が潜在的脅威である伏見宮家の追い落としをはかったものとの見方もある。この事件は結局貞成を讒言したとして中納言・松木宗量が処罰されたが、彼は実は後小松の正室・日野西資子と密通しており、それも処罰の理由であったとされている。
 応永26年(1419)11月、後小松の「准母」とされ「北山院」の女院号も与えられていた日野康子が死去した。彼女は後小松にとっても義持にとっても「義理の母」であったが、後小松も義持もその喪に服することもなく日常の行事をこなしており、扱いはいたって冷たいものであった。

 後小松にとって悩みの種は、息子二人がいずれも心身ともに脆弱で問題行動が多いことであった。次男の二宮(のち小川宮)は応永27年(1420)の正月に後小松の御所での三が日の行事の際に突然自身の妹に暴行をふるうという大事件を起こし、後小松の逆鱗に触れた。またこの皇子は兄の称光にねだって譲り受けた羊を即座に打ち殺すといった異常行動も起こしており、結局応永32年(1425)2月に22歳の若さで病没した。
 皇位を継いだ称光のほうも病気がちのうえ上記の事件のようにたびたびヒステリーともとれる事件を起こしている。応永29年(1422)8月に称光は病で危篤となり、結局は回復するのだが彼に子がいないため、後小松は義持と相談して万一のときは貞成王の子・彦仁王を天皇とする意向を示している。その後応永32年(1425)4月に貞成を親王とする宣下が出されると、称光はこれを「貞成を次の天皇とする気か」と勘繰り、6月に出奔未遂騒ぎを起こしている。困った後小松は貞成を出家させて称光の怒りを解こうとしたが、その直後にまた称光が重態に陥ったため、後小松と義持はひそかに彦仁を次期天皇に内定した。南朝の子孫たちも天皇候補に名乗りを上げていたため、それを阻止する必要もあった。
 すでに自身の子孫への皇位継承は果たせないとあきらめたのか、このとき後小松は次々と入って来る称光の病状の報告に対して、「いちいち知らせなくてよい。はっきりした結果が出たときに一度報告すればよい」と言い放ったという。このときも称光はどうにか回復するのだが、後小松と称光の父子関係はもはや回復不能であり、称光にこれから子が生まれるともとうてい思えなかった。

 応永35年(=正長元年、1428)正月18日、足利義持が死んだ。義持は後継者を指名せずに死に、次代将軍はくじ引きによって弟の一人・義円、還俗して足利義教に決まった。すると後小松はそれまで義持に示していた温和な態度を急変させ、義持の葬儀に参列した公家の院への出仕を停止して一ヶ月の謹慎に処したり、天王寺・石清水八幡・伊勢神宮の人事について幕府の推挙を拒絶、将軍代替わりに際しての改元の提案に「称光即位の時にこちらから改元を提案したのに拒否したではないか」との理由でこれも拒絶、と次々高飛車な態度に出た。結局寺社の人事も改元も幕府の要求通りになるのだが、後小松が義教に対してわざわざいやがらせとしか思えない行動をとったのは、義教が「くじ引き」という異例の手段で選ばれた将軍であることの弱みに付け込んで「天皇家」の権威を高める意図だったともみられる。

 この年の7月6日に称光がまたも危篤に陥った。今度ばかりは助かるまいと周囲はさまざまな思惑に揺れるが、すでに称光についてはあきらめている後小松は翌7日には七夕の行事を普通どおりに行っている。すでに彦仁の践祚が確定的とみた南朝子孫の小倉宮聖承(後亀山の孫)は同じ7日に出奔して伊勢に向かい、旧南朝系の北畠満雅と合流して実力行使による皇位奪還の姿勢をみせた。
 義教は万一に備えて彦仁の身柄を伏見宮から移して保護する一方、7月16日に後小松に面会して皇位についての意見を求めた。後小松は彦仁を自分の猶子(養子)としたうえで次の天皇としたいと語り、これを義教が承知すると大いに喜んだという。血統はともかくとして、彦仁が崇光の子孫ではなく後小松の子という形であとを継げば後光厳系は断絶をまぬがれるからである。後小松は最後の意地として、崇光系に「皇位奪還」をさせるわけにはいかなかったのだ。
 7月20日、ついに称光は28歳でこの世を去る。そして28日に後小松の猶子となった10歳の彦仁が践祚した。これが後花園天皇である。彼への親王宣下も立太子も行われなかったのは南朝系勢力の動きを警戒したためとみられている。実際に伊勢の北畠満雅は8月に挙兵するが、結局この都市の12月に戦死し、南朝系の蜂起は失敗に終わった。
 この年は天皇同様に将軍も代替わりによる不安定な状況にあり、将軍の地位を狙う関東公方・足利持氏の不穏な動きもあった。10月に後小松がひそかに持氏を征夷大将軍に任じたとの噂が流れているが(この時点で義教はまだ将軍に就任していない)、後小松と義教の間に微妙な空気が流れていたからこそ、この噂が真実味をもってささやかれたのだろう。

 永享3年(1431)3月24日、55歳となっていた後小松は出家して「素行智」と号した。そして永享5年(1433)10月20日に東洞院の御所で死去、享年57歳であった。天皇として30年、院政も21年、実に半世紀に及ぶ長い治世の終焉であった。それは同時に血統としてみれば後光厳流の断絶のときでもある。後花園の実父、貞成親王は後小松死去時の日記に「後光厳院以来、子孫四代の治世は他の系統を交えずに思いのままに引き継がれた。しかしここで突然子孫が断絶することになるとは、不思議なものである」と記して長年の恨みを晴らした思いをつづっている。
 「後小松」の追号は彼自身の遺勅によるもので、平安時代に陽成天皇廃位ののち、その祖父の弟でありながら擁立されてその子孫が皇位を継承した「小松帝」こと光孝天皇にちなんだものである。自身の系統が正統な皇統であることをアピールするためとみられ、後花園の実父であろうと貞成に尊号を贈ることは許さないとの遺言も残している。後花園はあくまで「後小松の子」ということにされ、議論はあったが後花園は後小松の死に際して「諒闇」にも服した。だが貞成への「上皇」尊号は文安4年(1447)になって贈られている。

 長い間帝王であった後小松だが、大の祇園祭好きという、妙に庶民的なところもあった。祇園祭の山鉾・笠を見物したいあまり、町衆に命じて行列をわざわざ内裏・院御所近くを経由させ、御所の庭の築山に登ってこれを見物している。築山どころか築垣の上に登って見ていたとの噂も流れ、あるときは祭りの最中に夕立が襲っても行列を強引に続けさせて全員ずぶぬれにさせてしまったという。

参考文献
臼井信義「足利義満」(吉川弘文館・人物叢書)
今谷明「室町の王権」(中公新書)
河内祥輔・新田一郎「天皇と中世の武家」(講談社「天皇の歴史」04)
桜井英治「室町人の精神」(講談社「日本の歴史」12)
「南北朝史100話」ほか
歴史小説では足利義満を主役とする平岩弓枝「獅子の座」などで登場例あり。
漫画作品では学習漫画系で「南北朝合体」のくだりで姿が出てくることが多い。だが特に彼のキャラクターが描かれることはほとんどない。
石ノ森章太郎「萬画日本の歴史」21巻では義満の「皇位簒奪計画」が今谷説に依拠して語られるが、義持の死後に後小松が天皇権力を奪還してゆく様子が後小松の高笑いと共に描かれている。

小宰相こざいしょう生没年不詳
生 涯
―後醍醐の隠岐配流に同行―

 後醍醐天皇の後宮に入っていた女官の一人と思われるが、名前以外のことは全く不明である。『増鏡』によれば、元弘の乱にいったん敗れた後醍醐天皇が元弘2年(正慶元、1332)3月に隠岐へ配流されたとき、隠岐まで同行した女性が阿野廉子大納言君小宰相の三人であったとされている。『太平記』では同行したのは阿野廉子のみとされているが、宮廷関係については『増鏡』の記述の方が信用でき、実際にそういう女性がいたものと思われる。大納言君についてはいくつか推理もあるのだが、小宰相についてはまったくの謎である。隠岐まで同行したのは背景に有力者や事件の首謀者がいないものが選ばれたと見られるので、小宰相もそうしたあまり影響力のない女性の一人だったのだろう。隠岐まで同行したというだけで、その後の情報はいっさいない。
大河ドラマ「太平記」第16回から第18回まで登場した(演:佐藤恵利)。吉川英治の原作に沿った脚色がなされ、後醍醐の隠岐配流に同行しながら実は鎌倉幕府のスパイであったという設定になっている(ただし大納言君は登場しなかった)。隠岐で後醍醐の子をみごもり、幕府に内通しつつも自分によくしてくれる後醍醐に惹かれてもいた。だがそのために阿野廉子に憎まれ、隠岐脱出時に廉子自ら船の上から海に突き落としてしまった。
歴史小説では『増鏡』に一か所名前が出てくるだけのこの女性を巧みにフィクションにとりこんだのが吉川英治『私本太平記』である。彼女の正体が不明であるのを逆手にとって幕府のスパイという役割を与え、さらに廉子に殺される(小説では直接手を下しはせず他人にやらせるが)創作を加えて「悪女廉子」のイメージを強烈に読者に植え付けた。このフィクションがあまりにも巧みなために廉子が本当にそんなことをやったと信じている人も結構いるらしい。

後嵯峨天皇ごさが・てんのう1220(承久2)-1272(文久9)
親族父:土御門天皇 母:土御門通子
中宮:西園寺姞子(大宮院)
子:円助法親王・宗尊親王(征夷大将軍)・後深草天皇・亀山天皇ほか
在位1242年(仁治3)正月〜1246年(寛元4)正月
生 涯
―皇統分裂の原因を作る―

 名は「邦仁(くにひと)」といい、土御門天皇土御門通宗の娘・通子の間に生まれた。生まれた翌年に「承久の乱」がおこり、父の土御門天皇は後鳥羽上皇の挙兵に反対した立場であったが、乱後に自ら望んで土佐に配流され、阿波で死去している。仁治3年(1242)正月に四条天皇が事故死すると、佐渡に配流されていた順徳上皇の子・忠成王と土御門天皇の子・邦仁親王とが次の天皇候補となったが、鎌倉幕府の北条泰時は順徳上皇一派の復活をきらい、邦仁即位を朝廷に要請した。かくして正月20日に邦仁が践祚し天皇となったわけだが、こうした事情のため後嵯峨天皇は鎌倉幕府に頭があがらなくなった。

 わずか四年後に後嵯峨は退位、四歳の久仁親王(後深草天皇)に譲位して院政を始めた。そして13年後の正元元年(1259)11月にまだ17歳の後深草を退位させ、その弟で父の愛を一身に受けていた恒仁親王(亀山天皇)を即位させる。そのまま文久9年(1272)2月に亡くなるまで、実に三十年にわたって「治天の君」として君臨し続けた。だがその治世は承久の乱後の混乱もあり、幕府の介入を受け続ける状態でもあった。建長4年(1252)に幕府の要請を受けて皇子の宗尊親王を幕府の首長である征夷大将軍に任じて鎌倉に降している。

 後嵯峨が皇位継承についての遺言を明確に残さなかったのも幕府をはばかってその意見を聞くためであったとも言われている。文永5年(1268)に亀山天皇の皇子・世仁親王(後宇多天皇)を皇太子に定めてこの系統での継承が続く見込みが強かったが、亀山の同母の兄である後深草の系統から天皇を出すべきとの意見も出ていた。後嵯峨の死去により次の「治天」を後深草と亀山のどちらにするのかという議論が生じ、これに各公家の一族内の対立も絡んで朝廷内に二つの党派を生み出し、やがてこれが後深草系の「持明院統」、亀山系の「大覚寺統」、のちの北朝と南朝の分裂の原因となるのである。

小相模こさがみ生没年不詳
生 涯
―比叡山の荒法師―

 比叡山延暦寺の「中房(なかのぼう)」あるいは「妙光坊」に属した悪僧。元弘元年(元徳3、1331)8月28日、後醍醐天皇に味方した比叡山僧兵と六波羅探題の軍が琵琶湖西岸の唐崎浜で戦った際、他の悪僧らと共に戦闘に参加している。その後比叡山に入ったとされた後醍醐が別人であったことが暴露されて比叡山の多くが六波羅側に寝返った際にも、護良親王のもとに駆け付けた三、四人の悪僧の中に「小相模」がいた(「太平記」)。
 それ以外に活動は知られていないが、わざわざ名前が記されていることから多少名の知れた悪僧だったのかもしれない。あるいは源存と共に護良親王に付き従っていることから、赤松一族で護良に従った「小寺相模」こと小寺頼季と同一人物であるかもしれない。

児島高徳
こじま・たかのり生没年不詳
親族父:児島(和田)範長
位階贈正四位(明治16)→贈従三位(明治36)
生 涯
 古典『太平記』の名場面に登場し、その後も一貫した南朝方として『太平記』の節々に出てくる武将。ただし『太平記』以外に事跡を確認できる資料がないため、その実在すら疑われることもある謎の人物である。

―天、勾践を空しうするなかれ―

 上述のように児島高徳の名は『太平記』にのみ見え、他の史料でその事跡を確認することができない。したがって以下に書く「伝記」も典拠は『太平記』のみである。
 父親は和田備後守範長で、備前国邑久郡の武士と見られる。高徳はその三男だったらしく、「備後三郎」あるいは「三宅三郎」と呼ばれた。『太平記』の古い形態を残す西源院本では「今木三郎」との表記があり、邑久郡の「今城」在住ではないかとの推測もある。
 元弘元年(1331)に後醍醐天皇は笠置山で倒幕の兵を起こしたが、失敗して捕縛された。このとき後醍醐に呼応して高徳も挙兵しようとしたが、実行する前に笠置も陥落、楠木正成も戦死したと聞いて落胆していた。翌元弘2年(正慶元、1332)3月に後醍醐が隠岐へ配流と決まると、高徳はその一行を途中で襲って後醍醐を救出し、倒幕の兵を起こそうと一族らと語らい、備前・播磨国境の船坂山で待ち伏せた。ところが予想に反して後醍醐一行は山陽道を経由せずに播磨・今宿から山陰道に進んでしまった。慌てた高徳らは美作国の杉坂で襲撃しようと移動したが、現地に着いた時にはすでに後醍醐一行は院ノ庄(岡山県津山市)に入ってしまっていた。これではもはや警備も固くて手が出せないとあきらめて仲間たちは散り散りになってしまう。

 ひとり高徳はなんとかして後醍醐に気持ちを伝えようと思い、庶民の姿に変装してひそかに後醍醐の宿所に近づき、直接声をかける機会をうかがった。しかしそれもかなわず、そこで庭にあった桜の木を削ってそこに以下の十字の漢詩を書きつけた。
 「天莫空勾践 時非無范蠡(天よ、勾践をこのままお見捨てなさいますな。いま范蠡のような忠臣がいないわけではありませんから」
 これは中国・春秋時代に越王勾践(こうせん)が一度は呉に徹底的に敗北するも、忠臣范蠡(はんれい)の活躍でついに呉を打倒した故事に基づく。つまり今は敗北している後醍醐に「あなたを助けようとしている者がいます、いずれ復活できますよ」と励ましの言葉を贈ったわけである。翌朝、この詩を見た武士たちはその意味をはかりかねたが、後醍醐はすぐにその意味を察し、会心の笑みを浮かべたという。
 『太平記』ではこのあとその故事を説明し始め、いつしかあからさまに本編から脱線して呉越戦争の話を延々と語ってしまう(これは『太平記』に何度か出てくる癖である)。しかしこのエピソードは実に「絵になる」ため、『太平記』を代表する名場面としてさまざまにとりあげられてきた。それもあって戦前までは児島高徳といえば楠木正成や新田義貞に並ぶほどの「大忠臣」としてもてはやされたものだが、この場面だけが突出して有名なだけで、あとはどうという活躍はしていないのである。しかも後醍醐の隠岐への旅路を詳しく記す『増鏡』はこの印象的な逸話に全く触れておらず、実際にこんな場面があったとは信じにくい。あくまで「物語」である『太平記』の構想ではこのエピソードは「いずれ後醍醐が復活する」ことへの伏線を読者に示し、ついでに中国故事の雑談につきあってください、という狙いなのだと思われる。

―一貫して後醍醐方で奮戦―

 翌年閏2月末に後醍醐は隠岐から脱出し、船上山に再起の兵を挙げた。『太平記』ではそこに集った武士のリストの中に高徳の父・範長の名を入れており、一緒に「今木」の名もみえることから高徳もここに参加したと思われる。実際このあとの京都を攻略する後醍醐方の軍に高徳は姿を現し、六波羅勢の勇将河野通治陶山次郎らと。激戦を交えている。ここで『太平記』は「児島と河野は一族」と記し、お互いあとで恥をかかないようにと必死で戦ったとしている。この記述も高徳の系譜を考える手がかりになりそうだが確定したことは言えない。

 このあと総大将の千種忠顕が少し後退して陣を敷こうと主張したのに対し、高徳は「ここは布陣に最適の地」と反対し、「もしかすると夜討ちがあるかもしれませんから」と別の地点に布陣して警戒に当たった。すると忠顕は「夜討ちがあるかも」との高徳の言葉に恐れを抱き、勝手に陣を引き払ってしまう。高徳は忠顕が慌ただしく立ち去った陣地の跡に立って、「ああ、こんな大将などどこぞの堀へも崖でも落ちて死んでしまえばよい!」と独り言を言って悔しがったという。
 しかし千種忠顕のような総大将に相談を受けるほどの武士にしては、その後の建武政権成立後の論功行賞でその名が見当たらないのが不自然とされ、高徳非実在説の大きな根拠となっている。また後醍醐シンパの内容でありながらその腹心である千種忠顕を悪しざまに描くのは『太平記』の特徴で、『太平記』作者は高徳という人物を創作したうえで自身の人物評価を彼に仮託して語らせているのではないかとも思える。

 その後児島高徳が再び登場するのは、建武2年(1335)12月に足利尊氏が建武政権に反旗を翻した時である。『太平記』によると関東での尊氏の挙兵に呼応して足利一門の細川定禅が四国から攻めのぼり、高徳は細川軍と備前・備後で戦ったが敗れ、一族の多くを失って山林に身をひそめたという。その後足利軍が九州まで敗走して再び態勢を立て直して山陽を進んでくると、これを迎え撃つ新田義貞軍に呼応して屋敷を焼き払って挙兵したが不覚にも敵に奇襲を受け、兜の内側を打たれて落馬、馬にも胸板を踏まれて一時人事不省となる重傷を負った。父の範長に励まされて意識を取り戻すがこの負傷のために次の戦いには臨めず、その間に父・範長は赤松勢との戦いで追いつめられて自害して果ててしまった。

 その後高徳は義貞軍に合流したまま京都攻防戦、北陸落ちまで同行しており、『太平記』巻十七では高徳が義貞に意見して比叡山を味方につけるべく自ら書状をしたためている。義貞戦死後はその弟・脇屋義助に従い、美濃から吉野を経て伊予まで同行した。伊予で義助が病死してしまうとひとまず故郷の備前児島に戻ったという。

―南朝方で神出鬼没の活躍?―

 しばらく身をひそめていた高徳だったが、興国4年(康永2、1343)ごろに義助の子・脇屋義治を擁して挙兵を図った(「太平記」は義治をわざわざ上野から呼んだとするがかなり不自然)。このとき丹波の荻野朝忠と連携してことを起こそうとしたが事前に情報が漏れ、荻野は山名時氏の攻撃を受けてあっさり降参してしまった。やむなく高徳は義治と共に海路京へ向かい、ひそかに南朝方の武士に呼びかけて京に潜入させ、尊氏・直義以下、足利幕府首脳を一挙に襲撃、殺害するという大胆な作戦を立てた。これも直前まではうまく進んでいたのだが、実行寸前に情報が漏れて隠れ潜んでいた壬生の宿所を所司代の軍に攻撃されてしまう。ここにいたのは「究竟の忍び共」(忍者?)であったとされ、彼らは屋根の上に登って敵兵に矢を射かけて抵抗、矢が尽きると切腹して果てたという。この作戦も失敗に終わり、高徳は義助と共に信濃へと落ち延びた。
 以上の話はにわかには信じがたいが一応それらしき事件は起きている。荻野朝忠が興国4年(康永2、1343)12月に反乱を起こして山名時氏に攻められたのは事実であるし、壬生に潜んでいた南朝方が摘発され多くが自害・捕虜となったという事件も『師守記』康永3年(興国5、1344)4月4日の条に記録されている。ただし、当然それらに児島高徳や脇屋義治が関与していたという史料はいっさいなく、これも『太平記』作者が実際にあった事件に高徳が絡んでいたかのように創作を加えた、という見方もできよう。

 その後、足利幕府の内戦「観応の擾乱」のなかで足利尊氏が南朝に降参する「正平の一統」が実現、これに乗じて正平7年(文和元年、1352)2月、南朝の後村上天皇は一挙に京を奪還する作戦に出た。賀名生を出発して住吉を経由して石清水八幡に入った後村上はその途中で「児島三郎入道志純」を呼び寄せ、「新田義貞の子や甥たち、小山・宇都宮など南朝につきそうな大名に声をかけてまいれ」と命じたことになっている。『太平記』はとくに説明はしていないが、状況から見てこの「志純」とは児島高徳が出家して名乗った法名であろうと思われる。彼はさっそく関東に下ったが、同時作戦で一時鎌倉占領に成功していた新田一族らはすでに敗れ去った後だった。以前から南朝方である宇都宮公綱は後村上の指示に従うと答え、いったん各地に散っていた新田一族もこれに呼応して動くてはずとなったが、その前に石清水八幡が陥落して後村上ら南朝勢は賀名生へ敗走してしまい、全て無駄になってしまった。『太平記』における児島高徳の登場はこれが最後となっている。

―その後の歴史的評価―

 児島高徳は『太平記』にしか登場せず、その実在を裏付ける資料がいっさいない。『太平記』の普及と共に、とくに江戸時代に南朝人気が高まって来ると高徳は南朝の代表的な「大忠臣」に祭り上げられ、明治以後は贈位はされるわ神社は作られるわ、お札の肖像になるわ(明治6年発行の二円紙幣では新田義貞と一緒に描かれていた)、小学校唱歌で歌われるわで、戦前までは正成と並んで誰もが知る有名人になってしまった。だがアカデミズムの世界では明治以後の実証的歴史研究が始まると、重野安繹が「児島高徳非実在説」を唱えはじめ、大きな論争となってもいた。
 結局のところ実在にしても非実在にしても裏付けとなる確たる史料が全くないので結論の出しようがないというのが実態。『太平記』の高徳がらみの話の多くがフィクションと見られるが(高徳が大胆な作戦を立ててはたいていつまらぬミスで失敗する、というパターンを繰り返すことも注目される)、その周囲に登場する武士たちの名字の地が実際に存在するものであることから少なくともモデルになった人はいるのではないか…というあたりに落ち着くようである。大胆なものとしては『太平記』の作者が「小島法師」と伝わることから実は児島高徳=小島法師であり、作者自身だからこそその活躍を描いた、あるいは作者自身の投影として物語に登場させた架空人物という見方もある。山伏研究で知られた和歌森太郎は備前児島の地が山伏の修行の場であったことから高徳と児島山伏の関係、ひいては「太平記」作者の可能性を考察している。
 その子孫が新田一族と縁結びしたとか、宇喜多氏につながるとかいう話もあるが、確たるものではない。高徳の墓というものも上野はじめ各地に存在するが、これも大半は『太平記』流布後の付会と見た方がよさそうだ。
大河ドラマ「太平記」ドラマ中に登場することはなかったが、番組最後の「太平記のふるさと」コーナーの第16回放送分で美作地方が紹介され、その中で児島高徳の逸話がとりあげられていた。
その他の映像・舞台上記のような事情のため、明治から大正にかけて児島高徳を主人公とした映画や舞台がそこそこ存在する。古いもので明治43年(1910)の映画「児島高徳誉の桜」で市川新四郎が演じている。翌明治44年(1911)にも「児島高徳」という映画が公開されているらしいが演じた俳優は不明。
大正時代に入ると大正10年(1921)に牧野省三監督・脚本による「児島高徳」があり、高徳役は後に名監督として知られる内田吐夢その人だった。翌大正11年(1922)にも映画「児島高徳」があり、高徳役は当時の尾上松之助。大正13年(1924)にも映画「児島高徳」が公開され、ここでは澤村四郎五郎が演じている。同じ年に公開された映画「桜」は劇中劇で院庄のエピソードが描かれ、嵐[王玉]松郎が高徳役、この映画では阿野廉子や千種忠顕までが登場している。
大正時代には「児島高徳」という舞台もあり、大正7年(1918)に澤村訥子、大正10年(1921)に森三之助が演じた例があるという。
歴史小説では戦前に有名人であったため、戦後の南北朝小説でも登場例は多い。吉川英治の「私本太平記」では登場はするもの「漢詩」の一件はアレンジされ、高徳が書いたものではないことになっている。
児島高徳個人を主人公とした小説には火坂雅志「鬼道太平記・風雲児児島高徳」(のちに文庫化して「太平記鬼伝」と改題)がある。この小説では児島高徳は児島山伏そのものと設定され、太平記以上の自在の大活躍を見せている。
漫画作品では
古典「太平記」の漫画版では、名場面だけに児島高徳の「天句践…」のくだりをたいてい載せている。
河合真道『バンデット』では顔に大きな傷のついた姿で1シーンだけ登場し、名和長年と会話している。
メガドライブ版京都攻防戦および白幡城の戦いのシナリオで宮方(南朝)として登場。能力は体力81・武力138・智力124・人徳85・攻撃力114

小少将こじょうしょう生没年不詳
生 涯
―義満に差し出された愛妾―

 常盤井宮満仁親王の愛妾だった女性。その出自など詳しいことは不明である。
 三条公忠の日記『後愚昧記』によると、亀山天皇のひ孫にあたる満仁はながらく「王」のままで親王宣下がなされず、焦りのあまり義満に自らの愛称である小少将を義満に差し出してそのご機嫌をとり、その結果義満の働きかけもあって永徳元年(弘和元、1381)に親王宣下を得ることができたという。
 義満が他人の妻妾を奪い取った例は多く、彼女のように夫の方から進んで差し出されたケースもいくつかあったようである。この話が広まっていた所をみるとある程度評判を得ていた女性であったのかもしれない。その後の彼女については不明だが、義満の愛妾となったわけでもなさそうである。

参考文献
臼井信義「足利義満」(吉川弘文館・人物叢書)ほか

後醍醐天皇ごだいご・てんのう1288(正応元)-1339(暦応2/延元4)
親族父:後宇多天皇 母:五辻忠子(談天門院)
同母兄弟姉妹:奨子内親王・承覚・性円 異母兄弟:後二条天皇・崇明門院禖子
后妃:二条為子・遊義門院一条・西園寺禧子(後京極院)・阿野廉子(新待賢門院)・c子内親王・民部卿三位局ほか
子:尊良親王・世良親王・護良親王・宗良親王・恒良親王・成良親王・後村上天皇・懐良親王・知良王・尊真・聖助・法仁・玄円・恒性・懽子内親王(光厳天皇中宮)・祥子内親王・妣子内親王・惟子内親王・瓊子内親王ほか
立太子1308年(延慶元)9月
在位(南朝第1代)1318年(文保2)2月〜1339年(暦応2/延元4)8月
生 涯
 天皇による独裁権力の確立を目指して生涯にわたり壮絶な闘争を繰り広げた、日本史上空前絶後の「戦う天皇」である。その野望は日本全土のあらゆる階層を巻き込んだ南北朝の大動乱を引き起こし、日本歴史上の画期を作ってしまったとさえ言われる。

―鬱屈した思春期―

 諱を尊治(たかはる)という。父親は大覚寺統の後宇多天皇、母親は五辻忠継の娘・五辻忠子である。二人の間には後醍醐の姉・奨子内親王と二人の弟のあわせて四人の子供が生まれているが、やがて後宇多の忠子に対する愛情が乏しくなったらしい。それと前後して忠子は後宇多の父・亀山法皇の保護を受けるようになっており、事実上亀山の后妃の一人に加わっている。亀山は好色で知られた人物なので亀山が先に忠子を奪ったとも考えられるが、後宇多に捨てられた忠子が子供たちの地位を守るために自分から亀山に接近した可能性も高いとされる。
 ともあれ皇子・尊治はその少年時代を祖父・亀山のもとですごすことになり、『増鏡』によればこの祖父の絶大な愛情をかちえていたらしい。ただ北畠親房はその著『神皇正統記』の中で「亀山法皇は尊治親王を皇太子にしてやるつもりだった」とまで書いているが、そこまで考えていたかは怪しい。なにせ尊治が公式の皇子=皇位継承資格者である「親王」に宣下されたのは正安4年(1302)6月、尊治が数えで15歳のときである。前後の歴代天皇の大半が生まれて間もなく親王宣下を受けているなかで異例の高齢であり、尊治が大覚寺統の皇室内にあって天皇になることなど論外の、かなり弱い立場であったことがうかがえる。一説に母親の父から祖父への「鞍替え」が原因で尊治は父・後宇多にうとまれ、祖父・亀山のはたらきかけでようやく親王になれたとも言われている。元服は翌嘉元元年(1303)12月、翌年には大宰帥(だざいのそち)に任じられ、「帥宮(そちのみや)」と呼ばれるようになる。
 しかしその嘉元元年(1303)の5月、55歳の亀山はいきなり男子・恒明親王をもうけた。亀山は最晩年に得た孫のような我が子を溺愛し、この恒明が将来天皇になるようあらゆる手を打って嘉元3年(1305)9月に死んだ。亀山の晩年には尊治への愛情も恒明に奪われていたとみられ、このままいけば尊治が将来天皇になることなどありえないはずであった。

 さて尊治には三つ違いの異母兄・邦治(くにはる)がいた。この兄は正安3年(1301)に天皇に即位しており(後二条天皇)、彼が在位している間は父の後宇多上皇が最高君主「治天」として院政を敷いた。亀山の死後、後宇多は亀山の遺言を反故にして恒明の皇位継承を阻止し、我が子後二条の子孫による皇位継承をもくろんでいた。当時皇室は後深草・亀山の兄弟から始まる持明院統・大覚寺統の対立抗争があり、後宇多は後二条の立場を強化させるために、それまで冷たくしていた尊治を次第によく扱うようになったらしい。あるいは後二条に健康上の問題があったためかもしれない。
 そして徳治3=延慶元年(1308)8月、後二条が享年24歳で急死した。すでに皇太子と定められていた持明院統の富仁親王が新天皇に即位(花園天皇)したが、次の皇太子選びが問題となった。「両統迭立」の原則に従って次は大覚寺統から皇太子が選ばれることになるが、後二条の皇子・邦良親王はこのとき9歳で、どうやら小児まひであったと見られている。後宇多は本心では邦良の系統に継承させるつもりであったが、政治的判断として二男の尊治を皇太子とすることを決断、鎌倉幕府にも運動して9月19日に尊治の立太子の儀式を実現させた。このとき尊治は数えで21歳。これまた異例の高齢の皇太子であり、天皇の花園のほうが9歳も若かった。
 しかし尊治の立太子・皇位継承は後宇多にとって「非常事態の臨時措置」にすぎなかった。後宇多はあくまで邦良とその子孫たちによる継承を望んでいて、尊治とその子孫に対しては「あくまで親族として本家を支えよ」という指示を出していた。後宇多は「尊治の即位は一代限り」と周囲に明言しており、のちに持明院統側も後醍醐の立場を「一代の主」と表現している。
 要するに偶然の積み重ねで皇太子になれた尊治だったが、あくまで「1イニングの中継ぎ投手」にすぎなかったのである。少年時代からの不安定な立場、自分を疎んじる父による政治的な翻弄、こうした少年期から青年期への事情が彼の強烈な権力志向をはぐくんで行ったものと思われる。

―英雄、色を好む?―

 皇子時代の尊治の女性関係についてもまとめておこう。確認できる尊治の最初の后妃は二条為世の娘・二条為子であり、彼女はもともと尊治の兄・後二条の後宮の典侍だった。父の薫陶を受けて歌人として知られる女性で、和歌を通じて尊治との関係が生じたと見られる。確実ではないが徳治元年(1306)ごろに為子は尊治の第一皇子・尊良親王を生んでいる。以後、宗良親王瓊子内親王を生んだが、尊治の即位前にこの世を去っている。
 尊治の第二皇子・世良親王を生んだのは西園寺実俊の娘・遊義門院一条(実名不明)で、こちらは尊治の父・後宇多の後宮に入っていて後宇多の子も生んだ女性とみられる。世良の生年もはっきりしないが尊良の生まれた直後とみられる。
 さらに尊治の第三皇子・護良親王を徳治3年(1308)生んだ民部卿三位局は尊治の祖父・亀山の後宮に入っていてその皇子・尊珍法親王を産んだ女性である(『増鏡』『金沢貞顕書状』)。恐らく尊治より一回りは年上であったと推測され、亀山の死の直後に関係を持つようになったと思われる。ただ「亀山の子」とされている尊珍の出生事情に若干の疑惑もあり、尊珍ももしかすると実は尊治の子であった可能性もある。
 つまり尊治親王は立太子の直前期に祖父・父・兄の後宮の女性たちをほぼ同時進行で「寝とっていた」ことになる。もっともこのころの宮廷社会はほとんど乱婚状態といってよく、尊治が特殊な例とは言いきれない(尊治の母がそもそも父から祖父へ鞍替えしている)。ただ見ようによっては弱い立場にあった尊治が「戦略的」に近親者の妃たちと関係をもち、それを足がかりに「下剋上」を果たしていったように見えなくもない。

 皇太子時代の尊治の逸話として良く知られるのが正和2年(1313)秋の西園寺実兼の娘・西園寺禧子の略奪結婚事件である。この事件は花園天皇が翌年正月の日記に書きとめていることで、それによれば正和2年秋に禧子が突然何者かに盗み出され、およそ五ヶ月間消息が不明であったが正月になって皇太子・尊治が盗み出した張本人であることが判明した。しかもこのときすでに禧子が妊娠五ヶ月になっており、着帯の儀が行われてここで公式に「東宮妃」としてお披露目することになったのである。誘拐した上の「できちゃった婚」である。実は略奪婚自体は当時の貴族社会では決して珍しいことではないのだが、この場合は誘拐されたのが中宮(皇后)クラスを代々出している名門西園寺家のお姫様、しかも犯人が皇太子、おまけに素早く既成事実を作ってしまったうえでの公表という異例づくめであった。なお、このときの禧子の年齢は不明だが十代前半以下であったことは間違いないようである。尊治は26歳だった。

 この禧子略奪婚についてはかなりの政治的思惑があったとの見解が一般的である。当時の西園寺家は鎌倉幕府との連絡役「関東申次」を代々務め、どちらかといえば持明院統寄りではあったが皇室両統と代々縁組をして朝廷内で絶大な権勢を誇っていた。皇太子になったとはいえ「一代限り」と制約をかけられた尊治が、自らの地位を強化するために「戦略的」に禧子と結婚しようとした。しかしこのときの尊治の立場では西園寺家がおいそれと娘をくれそうにないので「略奪→既成事実」という作戦をとった、と見られるのだ。だが念のために書けば尊治、のちの後醍醐の禧子に対する愛情は決して浅くはなかったと見られ(『増鏡』)、後醍醐の即位と共に彼女は女御、さらに中宮となり、実質的に後醍醐の「正妻」の地位を占めた。
 なお、この禧子の侍女として後宮に入り、やがて後醍醐の最大の寵妃となるのが阿野廉子である。

―即位〜天皇親政〜正中の変―

 文保2年(1318)2月、後宇多の幕府も巻き込んだ積極的な工作によって大覚寺統・持明院統両派の間で「文保の和談」と皇位継承のひとまずの方向性が決定された。この決定により花園は退位して皇太子・尊治が即位、次の皇太子には後二条の子・邦良が立てられた。大覚寺統が二代続くことになるわけだが、その次の皇位は持明院統に戻すという約束であり、しかも尊治はあくまで「一代の主」すなわち邦良が即位するまでの中継ぎという扱いにすぎない。ともあれここに「後醍醐天皇」が誕生することになる。ときに後醍醐、すでに数えで32歳。当然異例の高齢の天皇であった。
 しかし当時は天皇の父あるいは祖父が「治天」として院政を敷くのが常識であり、後醍醐の即位当初は父・後宇多の二度目の院政が行われた。しかし持明院統の花園の評によれば後宇多院政はかなり腐敗したものだったらしく、それに対してすでに立派な成人として即位した異例の天皇・後醍醐の学問好きな性格や政治への積極的姿勢は対立する持明院統側の皇族や公家からも高く評価されていた。当時は皇室と公家社会の存続の危機さえも叫ばれており、後醍醐という「劇薬」に「世直しの聖君」と期待をかけた人は少なくなかったようだ。

 後醍醐は宋学(朱子学)に深くのめりこんでいた。宋学は南宋時代の中国で発達した思想体系で、世の中すべてのことに道理を求め、それによる秩序を重視する「名分論」を特徴とする。日本には鎌倉後期以降おもに禅僧によって持ち込まれ、当時の知識人にとって最新の流行思想となっていた。後醍醐が皇太子時代から論語の講読会をやっていたことは『徒然草』でも言及されていて、即位してからはいっそう熱が入り、下級貴族である日野俊基がその宋学の知識を買われて異例の出世を遂げている。もともと持明院統派に属していた日野資朝も恐らく宋学を通じた交流で後醍醐に引き寄せられ、その側近の一人となった。他にも千種忠顕など後醍醐のもとには型破りで異色の人材が吸い寄せられるように集まり、ライバル関係にあるはずの花園上皇も「君すでに聖主たり。臣また人多きか」と日記に記している。後醍醐は宋学を通じて中国の皇帝を頂点とする中央集権型の官僚システムに関心を寄せ、自らの政治構想の参考にしていたとの見方が強い。
 一方で後醍醐が宋学にのめりこんだのは事実だが、かなり自己流の、あえて言えば自身に都合のよいところだけつまみ食いにしていた可能性も高い。宋学と同時に真言密教にものめりこんだと思われ、怪僧・文観を腹心としたのもこのころのことである。この文観の人脈を通じて六波羅探題の伊賀兼光や、あるいは楠木正成といった武士たちともネットワークを作っていたものと推測される。

 元亨元年(1321)12月、後宇多が院政を停止して後醍醐に政権を譲渡した。これは形の上ではすでに政治に意欲を失っていた後宇多が幕府に申し出て政権を譲り渡したものだが、実際には後醍醐が父に引退を迫ったものではないかと言われている。ここに実に久々に院政が行われず天皇がみずから政務にあたる「親政」が実現することになった。
 後醍醐は朝から晩まで熱心に政務に取り組み(『神皇正統記』)、とくに寺社に属して商業・金融に従事していた京の酒屋・神人たちを朝廷のもとに再編成し、京の治安と行政にあたる検非違使の長官に北畠親房、日野資朝といった腹心たちが先例を破って異例の抜擢をされている。これらの政策は後醍醐が京の経済の掌握を目指したものと解釈されている。ただこうした先例無視の革新的・積極的な政策はもともと保守的な公家社会では強い反発も受けたようだ。

 後醍醐にとって頭の痛い問題は自らが「一代の主」と決定されていることにあった。それを決定したのはほかなぬ自分の父であり、恐らくは短期間のうちに退位させられ甥の邦良に皇位を譲らねばならなくなる。そして順番待ちで一日も早い後醍醐の退位を望んでいるのが持明院統であり、さらにはこれらを武力を背景に支持している幕府の存在があった。言ってみれば後醍醐は「周囲みな敵」の状態にあったわけで、それを打破して自らの政権を長期化させ、自らの子孫に皇位を継がせるには「実力行使」しか方法はなかった。後醍醐の心に「倒幕」の意識が芽生えたのは必然の成り行きと言えた。
 ひそかに計画自体は抱いていた後醍醐だが、さすがに父・後宇多の生きているうちは倒幕計画を実行に移すことはなかった。元亨4年(1324)に入って後宇多の体調が悪化すると後醍醐の動きは激しくなったようで、この3月に文観と伊賀兼光が倒幕を祈願した文殊菩薩像を奉納し、4月に乳父で腹心の吉田定房が倒幕を思いとどまるよう諌奏を行ったと推測されている。6月に後宇多が死去すると計画は加速され、腹心の日野資朝日野俊基らが計画の中心となって土岐一族ら幕府=北条氏に不満を抱く武士たちも糾合して謀議を進めた。この謀議では『太平記』で有名な「無礼講」(あるいは宋学勉強会「破仏講」)が隠れみのとして使われたとされ、花園上皇の日記によれば後醍醐本人もこれに参加していた。その場で後醍醐は「幕府は失政は明らかだ。また運もすでに衰えて来た。一方で朝廷は勢いが盛んだ。幕府など敵ではない。滅ぼしてしまうべきだ」と発言したとされる。おりしも津軽で安藤氏の乱が発生していて、それが幕府失政を原因としていることが後醍醐にはチャンスと見えたのかもしれない。

 計画ではこの年の9月23日に行われる北野社の祭礼で六波羅勢が手薄になるのを狙って武装蜂起する予定だった。しかし土岐頼員が計画の失敗を恐れて密告、また前後して無礼講に参加していた峰祐雅(遊雅)も参加者のリストを密告した(こちらはもともと六波羅側のスパイであった可能性も高い)。9月19日に六波羅探題軍は計画に参加していた土岐頼兼多治見国長を攻撃し、首謀者として日野資朝・日野俊基を捕縛した。この事件は「正中の変」と呼ばれる(厳密にはまだ正中への改元前なので「元亨の変」と呼称するむきもある)
 この事件は幕府側では「当今(とうぎん=天皇)ご謀叛」とささやかれ、その真の首謀者が後醍醐その人であることは誰の目にも明らかだった。しかし後醍醐は関与を否定し、関わりを追及されること自体を「すこぶる迷惑」と答え(花園上皇の日記)、この事件をあくまで日野資朝一人が勝手に計画したことだとして幕府に対し釈明書も送ったとされる。ところがその「釈明書」のコピー(?)を読んだ花園上皇はその内容に驚愕している。後醍醐は釈明するどころか逆に激しく幕府を非難する文章を書いていたのだ。その文体は「宋朝」のものに似ていたとされ、ここにも後醍醐の宋学への傾倒を見ることができる。

 この事件は当然後醍醐の大失点であり、対立する持明院統は退位は確実と大喜びした。ところが幕府は事件を大きくすることを恐れ、日野資朝を首謀者として佐渡に流刑にしただけで後醍醐には一切追及をしなかった。事件の背後にもっと複雑なものを感じたのか、あるいは幕府の対応力自体が弱まっていたのか定かではないが、結果的に後醍醐当人にまったく処分を行わなかったことが後醍醐の自信を深めさせたに違いない。また後醍醐は今回の計画があまりに無謀であったことも悟り、以後じっくりと二度目の倒幕計画を進めていくことになる。

―七年がかりの計画〜笠置挙兵―

 正中の変から1年半が過ぎた正中3年(=嘉暦元、1326)3月、皇太子・邦良親王(後醍醐の甥)が27歳で急死した。これを受けて持明院統側は「両統迭立」の原則に従って後伏見上皇の皇子・量仁親王の立太子を主張、これを幕府にはたらきかけた。しかし後醍醐はこの機会をとらえて自らの皇子(尊良か世良)を太子に立てようとしてやはり幕府にはたらきかける。このとき幕府側も北条高時の執権辞任後の混乱(嘉暦の政変)がありやや対応が遅れたが、結局7月になって「原則通り」に量仁の立太子を朝廷に要請した。このため後醍醐はやむなく量仁を皇太子に据えたが、「自らの子孫に皇位を継がせるためには幕府を打倒せねばならない」との確信を深めたはずだ。
 この年、中宮・禧子が懐妊したとして宮中において安産祈願の祈祷が行われた。しかし翌年になっても一向に出産の気配はないまま「安産祈祷」が続けられ、結局「元弘の変」(1331)が起こる直前までおよそ5年にわたって続くことになる。この祈祷の中心となったのが後醍醐の腹心・文観であり、実はこの祈祷は幕府の滅亡を祈る「調伏の呪詛」であった。元徳元年(1329)ごろの金沢貞顕の書状によると、この情報はすでに公然の秘密として幕府関係者にも知られていたことがわかり、そこでは文観ら密教僧のみならず後醍醐当人が宮中で護摩を焚き調伏の呪詛を行っていたことまでが記されている。文観とのつながりの中で後醍醐は自身を聖徳太子の転生とみなし、常人を超越した能力を持つと確信していた可能性も高く、幕府打倒のためにオカルトパワーまでも動員していたのである。

 むろん後醍醐はより現実的な倒幕計画も進めていて、とくに幕府に対抗しうる軍事勢力となる畿内の寺社勢力を頼りにしていた。後醍醐は嘉暦2年(1327)に尊雲法親王(のちの護良親王)を、さらに元徳2年(1330)からは尊澄法親王(のちの宗良親王)を相次いで比叡山延暦寺の天台座主とし、強力な僧兵をもつ比叡山との結びつきを強めた。元徳2年3月には南都北嶺(奈良と比叡山)への行幸を行い、比叡山だけでなく奈良の興福寺・東大寺(やはり強力な軍事力をもつ)との関係も深めている。
 その一方で同じ年に後醍醐は京市中の米・酒の価格を公定したり、各地の関所を廃止するなど積極的な経済政策を打ち出している。これは商業・流通の活発化をうながしつつ、寺社勢力との結びつきが強かった商人層を天皇の直接管理下におこうという狙いであったと言われ、農本的な武士層で成り立つ鎌倉幕府に対する挑戦的な政策であったとも見られている。
 この元徳2年4月1日に検非違使の中原章房という公家が清水寺で瀬尾という「名誉の悪党」によって突然殺害されるという事件が起こっている。翌月には犯人の瀬尾が章房の息子により討ち取られて事件は収束するのだが、この事件は後醍醐側から倒幕計画に誘われた章房が参加を拒んだために「口封じ」で殺されたものという説が有力となっている。

 しかし後醍醐のあからさまなまでの倒幕姿勢に危惧を抱く公家も多かった。この年の9月に後醍醐が後継者にと望んでいた世良親王が急逝し、その乳父である北畠親房が出家しているが、これは親房が倒幕計画と距離を置いていたためではないかとの見方もある。そして後醍醐自身の乳父である吉田定房が翌元徳3年(1331)4月に倒幕計画の存在を幕府に密告するのである。
 定房の密告を受けて、それまで後醍醐の計画をうすうす知りつつ静観していた幕府も重い腰を上げた。翌5月に幕府は倒幕計画の首謀者と名指しされた日野俊基、倒幕の呪詛に関与した文観・円観忠円らが逮捕された。このとき俊基は内裏に逃げ込んだが後醍醐は熱病で伏せって人事不省となっており、俊基が抵抗空しく捕えられた後で意識を取り戻したと『増鏡』はいささか不自然な逸話を伝えている。この事件は吉田定房が後醍醐の身を守るために俊基を「売った」ものと見られているが、このときの後醍醐の不自然な態度から後醍醐自身も自らを守るために定房と示し合わせて俊基を見殺しにしたのではないかとの見方も根強い。実際、その後も後醍醐は保身のために平然と腹心を切り捨てる例が多いのだ。

 俊基らは捕えられて鎌倉に送られ、文観・円観らは流刑の処置がとられた。しかし後醍醐周辺は8月10に「悪疫流行」を理由に年号を「元弘」と改め、8月20日には娘の懽子内親王を伊勢斎宮に送るべく予定通り儀式を進めるなど、「元弘の乱」勃発の直前までまったく落ち着いた様子であった。今度の事態も俊基・文観らが罪を背負うことで逃げ切れると後醍醐当人が思っていた可能性が高く、またすぐに倒幕の挙兵をする気もなかったことがうかがえる。
 だがさすがに二度目の倒幕計画には幕府も甘い顔はしなかった。当然これを機に悲願の政権奪回を狙う持明院統の働きかけもあった。幕府はついに後醍醐退位をうながすべく8月22日に京へ使者を派遣した。この緊急事態が護良親王を通して後醍醐に報告され、8月24日深夜に後醍醐は慌ただしく倒幕の挙兵を決意、御所を脱出する。彼らはまず比叡山を目指したが後醍醐自身の比叡山入りは困難と見て腹心の花山院師賢に後醍醐の身代わりをさせて比叡山に登らせ、後醍醐自身は興福寺・東大寺をあてにして奈良を目指した。しかし急な事態に奈良の寺院も後醍醐を受け入れなかったため、やむなく8月27日に要害の笠置山にたてこもることになる。
 笠置山を軍事拠点とすることはかなり前から計画されていた可能性も高いが、このときの後醍醐一行の果断ではあるがほとんど無計画とも思える慌ただしい脱出行(腹心の公家でも参加が間に合わない者が多い)は、直前まで挙兵の予定などまったくなく、いよいよ廃位されそうだという緊急事態を前に慌てて動いたことを物語る。正中の変以降の対応から幕府を甘く見ていたのだろうが、周到に倒幕を計画している割に自信過剰なのかに妙に甘い観測をしているところが後醍醐の不思議さである。

 ついに笠置山にたてこもって幕府打倒の挙兵をした後醍醐だったが、急な事態ということもあって味方に駆け付けた武士はそう多くはなかった。かねてから味方する予定であった楠木正成が駆けつけてはいるが、これも反応が鈍かった上に自身がたてこもった赤坂城も長くは持たずに攻め落とされているところを見ると、準備不足だったのは明らかだ。また当てにしていた比叡山も当初は六波羅軍相手に善戦したが、比叡山に来たのが「偽の天皇」と知るとたちまち戦意を失ってしまった。
 だが後醍醐に呼応する者が少ないうちにと考えたのだろう、幕府は関東から畿内へ大軍を送りこんだ。9月20日に後醍醐を公式に廃位して持明院統の量仁親王の践祚を略式で行い(光厳天皇)、すぐさま笠置山の総攻撃にとりかかった。後醍醐側は数日間善戦したようだが、9月28日に裏手の絶壁を登って来た陶山義高らに夜襲をかけられ、あっけなく笠置山は陥落した。後醍醐たちは逃亡したが翌日までに山城国多賀郡有王山の山中で深栖五郎入道らによって捕えられた。その姿は「乱髪に小袖一つに帷(かたびら)一枚」であったという。天皇ともあろう者がこのような異様な姿で捕虜とされたことを日記に記した花園上皇は、「皇室の恥というほかはない。天下泰平となって喜ばしいことではあるが、天皇家としてこのような恥辱を受けることは嘆かざるをえない」と嘆息している。

 その花園をさらに呆れさせたのは京に連行されてきた後醍醐のふてぶてしいまでの態度だった。『太平記』によれば後醍醐は笠置山へ持って行った「三種の神器」のうちの剣と勾玉の光厳への譲渡を求められると「逃げる途中で木にかけて来た」と主張したという。だが日野名子の証言(「竹向きが記」)によると「剣璽は無事か」の問いに後醍醐は「まちがいなし」と答えたといい、肌身離さず持っていながら絶対に渡すまいと必死になって抵抗したことが知られる。結局引き渡すことになるのだが、後に「あれは偽物の神器である」と主張し光厳の「即位」そのものを否定することになる。しかしこのとき北朝側により神器が実物であることは詳細に確認されており、この慌ただしい状況下で偽の神器を作る暇があったとも思えず、やはり本物を渡したということだろう。
 さらに後醍醐は幕府の取り調べに対「今度のことは天魔の仕業(魔がさした)である。寛大な処置を求める」とヌケヌケと懇願した。それまで後醍醐を名君と期待していた時期もあった花園はこれを聞いてさすがに呆れ、失望を隠さなかった。
 間もなく楠木正成がこもる赤坂城も陥落、後醍醐に呼応して備中で挙兵をした桜山慈俊も自害して、倒幕運動はあっけなく潰えた…かに見えた。

―隠岐配流〜鎌倉幕府打倒―

 幕府は後醍醐を承久の乱の先例にならって隠岐へ流刑とすることに決定した。元弘2年(正慶元、1332)3月7日に後醍醐は隠岐へ向けて京を発つ。同行したのは寵妃の阿野廉子ほか二名の女性と、側近の千種忠顕・一条行房のみだった。警護は佐々木道誉千葉貞胤らであったが、このとき後醍醐が道誉がむかし石清水八幡行幸の折に橋渡し役を務めていたことを思い出し、わざわざ声をかけたという逸話が『増鏡』に載る。また『太平記』ではこの隠岐配流の途上で備後の児島高徳という武士が後醍醐の奪回を図って失敗したという有名な逸話を載せるが、事実かどうかは疑わしい。
 四月に後醍醐一行は隠岐に到着した。後醍醐の配流地が隠岐のどこであったかは古来二説あり、隠岐諸島のうち「島前」か「島後」かで論争がある。『増鏡』は後醍醐の配流地を後鳥羽上皇と同じ国分寺であったと記して「島後説」の根拠となっているが、現地では古くから島前にある「黒木御所跡」が後醍醐配流地と伝えられて来た。隠岐守護代・佐々木清高の守護代屋敷が島前にあったのでやや島前説の方が有力とされるが、確定はしていない(この件はとくに明治以後大論争となり、吉川英治は『私本太平記』で後醍醐が配流地を移動させられたことにして双方の説の顔を立てた)

 後醍醐の配流の後、6月には乱に関与した後醍醐側近らの一斉処分が行われ、日野資朝・日野俊基・北畠具行らが処刑されたほか、万里小路藤房・花山院師賢らは流刑、後醍醐の皇子たちのうち十歳以上の者も流刑に処された。
 しかしその皇子のうち、尊雲法親王は赤坂城落城後は吉野・熊野の山中に隠れ、還俗して「護良」と名乗り、ゲリラ的な倒幕運動を展開し、全国の反北条勢力に令旨を送って挙兵を呼び掛けるようになる。これに呼応して一時姿をくらましていた楠木正成もこの年の末に赤坂城を奪還して活動を再開、敗北したかに見えた倒幕運動は一年ほどでまた火がつき、さらに拡大の様相を呈してきたのである。
 この間、後醍醐は隠岐にあってこれらの運動を直接指揮していた様子はない。だが隠岐においても密教の修法を自ら行っていたことが『増鏡』に記されているし、8月に出雲鰐淵寺に宿願を果たすことを願う願文を出すなど闘志は相変わらずで、本土の倒幕勢力と一定の連絡はとっていた可能性が高いと考えられている。『増鏡』には「あま人(海士)」により護良親王から密に連絡があったとあり、この間に再び姿を現した楠木正成が自身の官位をそれまでの「兵衛尉」ではなく「左兵衛尉」「左兵衛少尉」と書くようになるのは隠岐にいる後醍醐から官位を与えられたものではないかとみられることなどがその根拠だ。
 それはやや不確かな話としても、隠岐の後醍醐が本土の情勢をかなり正確に把握していたのは間違いないだろう。年が明けて元弘3年(正慶2、1333)閏2月末、まさに護良と正成が吉野・千早で幕府軍と激闘し、播磨の赤松円心が挙兵するなど倒幕運動が各地で激化している最中というタイミングで後醍醐が隠岐脱出という大胆な行動に出たことでもうかがえる。

 後醍醐の隠岐脱出の経緯は『太平記』『梅松論』『増鏡』に詳しい。それらの情報をまとめると、佐々木富士名判官(『太平記』は名を義綱とする)を始めとして後醍醐警備にあたる武士の中に情勢を見て後醍醐に加担する者が現れ、彼らの手引きにより脱出を成功させたようだ。脱出の日は閏2月24日未明と推測され、後醍醐に同行したのは千種忠顕はじめごくわずかの人数であったらしい。『太平記』『梅松論』ともに脱出に気付いた佐々木清高の船団が追跡してきて後醍醐らの乗る船を臨検し、後醍醐と忠顕が魚やイカなどの積み荷と一緒に船底に隠れるスリリングな場面を描写している。
 後醍醐の乗る船は恐らくまず出雲に行き、それから海岸沿いに東へ向かい伯耆に入ったと思われる。そして伯耆の豪族・名和長年を頼ったのは閏2月28日のことであったと見られる(上陸地点は「太平記」が「名和湊」、「増鏡」が「稲津浦」、「梅松論」が「奈和(名和)荘野津」とする)。名和長年はこの地に根を張る商人的性格の強い裕福な豪族であったと見られ、「太平記」などでは後醍醐が彼を頼ったのは全くの偶然だったように記すが、隠岐脱出前から連絡をとりあっていたものとする見解が多い。

 後醍醐を迎え入れた名和長年は近くの険峻な船上山に籠城することを決定、後醍醐は長年の弟の名和長重に背負われて船上山へと登った。やがて隠岐から追ってきた佐々木清高の軍の攻撃を受けたが、名和勢は地の利を生かしてこれを撃退する。後醍醐はこれ以後この船上山から各地の武士に対して倒幕の綸旨を発し、かつここでも自ら勝利を祈る密教の修法をおこなっている。
 後醍醐の隠岐脱出という前代未聞の事態は朝廷や幕府を驚愕させた。3月8日の段階で京では二条道平が日記に「先帝が逐電した。亡くなられたとの説もある」と記し、翌3月9日には花園上皇が書簡の中で「先帝が脱出したとの噂が事実とすれば言語道断(とんでもない)のことだ。すでに伯耆で合戦をしてるとの情報もある」と書いている。船上山で後醍醐側が勝利したことを知った山陰・山陽の武士たちは次々と後醍醐のもとに馳せ集まり、後醍醐はそれらの軍勢を千種忠顕に任せて京へと向かわせた。情勢は一気に緊迫の度を高めてゆく。

 この情勢をみて、幕府は名越高家足利高氏らが率いる大軍を畿内へ向かわせた。そしてこの足利高氏がその途上で船上山に密使を送り、後醍醐から倒幕の綸旨を受けるのである。高氏は4月29日に丹波・篠村八幡で挙兵し、5月7日に六波羅探題を攻め落とした。その翌日の8日に上野で新田義貞が挙兵し、5月22日に鎌倉は陥落。後醍醐の隠岐脱出から3ヶ月足らずであっけなく鎌倉幕府は滅亡してしまったのである。
 六波羅陥落と光厳天皇はじめ北朝皇族の確保の報を受けた後醍醐は5月17日付で「正慶」年号を廃して「元弘」がそのまま続いていたことにした。当然、光厳の即位も「なかったこと」にされ、その間の朝廷の人事・政策も全て取り消された。直後に後醍醐は京へ向けて船上山を発ち(18日とも23日ともいう)、播磨の書写山円教寺および法華山一乗寺を経由して(いずれも文観ゆかりの寺であることが注目される)摂津へと入った。そして5月30日、兵庫の福厳寺にいる時に新田義貞からの鎌倉陥落の報告に接することになる(『神皇正統記』は西宮でのこととする)。驚くほどの急展開に、後醍醐は自らに常人を超えた何かがあることを確信したに違いない。後醍醐は倒幕戦の功労者・楠木正成や赤松円心、名和長年らを同行して6月5日に堂々京へと凱旋した。流刑者として寂しく京を去ってからおよそ1年3ヶ月後のことである。

―朕の新儀は未来の先例〜建武の新政―

 京にもどった後醍醐はさっそく念願の天皇中心の新政権を発足させる。しかし新政権はその発足時から深刻な不安定要因を抱えていた。後醍醐が隠岐に流されている間に倒幕戦の総司令官となっていた護良親王の存在である。
 護良は六波羅・鎌倉陥落に多大な貢献をして「勲功第一」とされた足利高氏を危険視し、その討伐を要求して京に戻らず信貴山にこもっていた。後醍醐は護良を征夷大将軍に任命することでこれをなだめたが、後醍醐の隠岐配流中に護良が自らの意思で各地に倒幕を呼び掛ける令旨を発し、後醍醐に断りなく恩賞の約束もしていたことは、天皇の直接的命令=綸旨を絶対化しようとする後醍醐にとっては重大な懸念材料だった。また、後醍醐と隠岐まで苦労を共にした阿野廉子の発言力も増してきて、彼女にとっては護良は我が子を天皇にするためには最大の仮想敵となっていた。
 また一方で護良が敵視した足利高氏も危険な存在だった。最大の軍事力をもつ武士である上に家柄・実力・人望そろって「武家の棟梁」にふさわしい人物であり、明らかに新たな武家政権=幕府の設立を企図していた。後醍醐が船上山からわざわざ山陽に出て京へと向かったのも高氏を警戒したためではないかとも言われる。後醍醐は高氏に自身の名の一字「尊」を与えて「尊氏」と名乗らせ、鎮守府将軍・武蔵守に任じる一方で、中央要職に尊氏当人をつけることはなく、人々は「尊氏なし」とささやきあったという(梅松論)

 後醍醐がまず明確にした方針は、「天皇の命令=綸旨」の絶対化だった。普通は天皇の秘書官である蔵人が代筆する綸旨を後醍醐は自らの筆でしたためるほどこれに大きな意欲を見せている(形式的に綸旨の代筆者として添えられる名前まで後醍醐自身がしたためている例がある)。北条氏の領地を全て没収する一方で土地問題についても天皇が直接下した綸旨がなければ一切無効としたのだが、天皇一人で全ての土地問題を処理できるはずもない。必然的に綸旨の朝令暮改や一つの土地に複数の所有者を認めてしまうなど混乱が発生し、「二条河原の落書」に「このごろ都にはやるもの、夜討、強盗、偽綸旨…」と風刺されたように絶対化されたがために偽物の綸旨も出回ったらしい。万能の土地問題処理はその序盤からつまづいてしまい、多くの武士たちの失望を買うことになる。
 では公家の側はどうだったか。後醍醐は「醍醐天皇」の時代の天皇親政「延喜・天暦の治」を復活させるという表向きのスローガンを抱えてはいたが、その実態は決して平安の昔に戻すことではなかった。平安以来固定されてきた公家社会伝統の家格を無視した抜擢人事をしているし、公家たちが先祖代々国司職を形式的に世襲して実質領地化していた知行国制度にも手を加えて、天皇自身が各地の国司を任命する中央集権の体制を目指してもいる(その一方で国ごとの守護制度も維持し武士との共存もはかった)。そして北畠顕家を鎮守府将軍に任じて、その父・親房と共に義良親王を擁して陸奥・多賀城に赴任させ、奥州ミニ幕府体制を作らせたことは、護良親王の献策による尊氏牽制という側面と同時に、公家も軍事や地方支配にたずさわるべきとの後醍醐の姿勢の表れでもあった。この奥州ミニ幕府に対抗して、直後に足利側からの要請で鎌倉にも成良親王を擁するミニ幕府体制が作られるが、これにも後醍醐が自身の皇子(いずれも阿野廉子の子)を地方に据えて各勢力を束ねて自身でコントロールしようとの狙いがあったと思われる。
 いずれも異例ずくめ、先例のないことであり、伝統を重んじる公家社会ではあまりにも革新的に過ぎ、この時点では表面化していなかったものの公家たちの間では強い反発もあった。後醍醐の腹心とされる北畠親房も貴族の伝統秩序に反したとして後醍醐の人事面の批判を行っているし、後年の公家・三条公忠は後醍醐の人事・政策について「物狂いの沙汰」と酷評しているほどである。しかし後醍醐自身はやる気満々、先例など問題としない自信のほどを「朕の新儀は未来の先例」と言い放っていたという(「梅松論」)

 年が明けて、正月23日に廉子の皇子・恒良親王が皇太子に立てられた。そして29日には改元が行われ、後醍醐の強い意向で中国の年号「建武」が採用された。これは前漢が新によって簒奪され、その後その新を倒した光武帝により漢王朝が復活したときにつけられた年号であり、現在の状況とよく似ており縁起がいいとされたのだが異国の年号をそのまま使うこと自体が異例であった。「『武』の字を入れては兵乱が起こる恐れがある」との反対意見も出たが後醍醐はこれを押し通す。結果的にこの反対者の懸念はたちまち現実のものとなるのだが、ともあれこの年号の名をとって後醍醐の政治は「建武の新政」「建武の中興」と後年呼ばれることになる。
 建武改元を行った後醍醐は、ただちに平安以来の大内裏の建造計画を発表した。天皇の宮殿であり政務の中心である大内裏は平安後期以降は廃れ、天皇が貴族の邸宅に仮住まいする「里内裏」が常習化していた。絶対君主としての天皇の威厳を示すために大内裏の建造を計画しようとしたのだろうが、そのために全国に「二十分の一税」を課したことは、すでに混乱している地方からは激しい反発を受けた。このためこの計画自体が遅々として進まず、結局取りかかる前に建武政権自体が崩壊してしまうことになる。
 また建武元年(1334)3月に後醍醐は新貨幣「乾坤通宝」の発行を公布する詔書を出した。かつて日本では平安前期まで朝廷により銅銭が鋳造されていたが、平安後期以降は宋からの輸入銭が広く普及し、これが鎌倉以降の西日本における貨幣経済の広まりを支えていた。後醍醐が平安以来久々に自国貨幣の発行を計画したのは天皇の権威を示すとともに、貨幣経済の需要にも対応し、これを掌握するためであったと見られる。またこの詔書では「銅楮並用」との文言があり、後醍醐が銅銭と共に「楮幣=紙幣」の発行を計画していたとみられることも注目される。ただし紙幣はもちろんのこと「乾坤通宝」の銅銭も現物は発見されておらず、この貨幣発行計画は実行に移されずに終わったものとみられている。

 紙幣という存在は中国ではすでに宋代から利用されていた。特に後醍醐と同時代の元では「交鈔」という紙幣が基本通貨として広く使用されており、後醍醐もその知識をもとに計画を立てたのではと推測されている。実際、後醍醐は当時としてはかなりの「中国通」もしくは「中国マニア」であった。
 後醍醐が宋学に傾倒していたことはすでに書いたが、嘉暦4年(1329)に元から来日した禅僧・明極楚俊を六波羅探題に断りなしに参内させて会見した事実がある。また元亨4年(1324)の二条道平の日記には後醍醐が宮中に多くの唐物の品を並べ、腹心たちに片っ端から分け与えていたことが書かれている。また建武2年(1335)4月に「僧の法衣を元と同じ黄色に改めよ」との命令を出した事実があり(「虎関和尚紀年録」)、後醍醐の腹心・文観の真言立川流に元で流行したチベット仏教との共通点がみられることとからめて、後醍醐は実は宋よりも元帝国を自身の国家モデルとしていたのではないかとの仮説もある。
 宋か元かはともかくとして、後醍醐が中国的な「皇帝専制」の体制を目指したものとする見解はほぼ定説となっている。しかし現実には日本には中国と違って中央に強力な貴族層が厳然と存在し、地方地主であり武力を持つ武士の存在があった。後醍醐のあまりに現実と乖離した国家構想は早晩破綻せざるをえなかった。また後醍醐自身が新しがり屋で思いつきであれこれ指示を出している観があり、綸旨万能の方針はかえって混乱を招くもととなった。建武元年の秋には綸旨の再確認手続きが定められていることは、早くも綸旨絶対の方針が後退を余儀なくされたことを示している。

―新政の崩壊―

 建武元年(1334)8月、京の二条河原に何者かが長文の落書を掲示した。「このごろ都にはやる物、夜討、強盗、偽綸旨…」で始まる名調子で建武新政の大混乱ぶりを痛烈に風刺したこの落書はその末尾を「京童の口ずさみ、十分の一をもらすなり」と締めて、京の人々がすでに新政にすっかり失望していることをありありと語っていた。これに先立つ同年5月には若狭国太良荘の農民たちが「明王聖主の御代となって喜んでいたのに、年貢が北条の頃よりも重くなって苦しんでいる」という趣旨の訴状を出している。
 後醍醐の古くからの腹心であった万里小路藤房が新政の混乱を憂えて後醍醐に諫言したが聞き入れられず、ついにいずこかへ姿をくらましてしまうのもこの直後のことである。

 政策的な混乱のみならず、政権内部の火種も激しくくすぶっていた。倒幕戦の総司令官でありながら政権発足後は微妙な立場に置かれた護良親王は、ライバルとなる足利尊氏の排除を狙い、この年の秋にかけて何度か尊氏の暗殺を試みた。しかしそれらは全て失敗に終わり、10月22日に護良は後醍醐の指示により宮中に呼び出されてその場で捕縛された。事の真相は明らかではないが、尊氏側が護良が兵を募っている証拠を後醍醐側に突きつけ、これに護良を我が子の脅威とみなす阿野廉子が口添えして後醍醐に護良逮捕を迫ったという筋書きが「太平記」では語られている。一方で「梅松論」では護良による尊氏排除計画の黒幕が実は後醍醐本人であったとする記述がみられ、尊氏からそれを追及された後醍醐が自らの手で護良を捕えて尊氏に引き渡し、護良が「武家よりも君(天皇)のほうが恨めしい」とつぶやいたと描写する。後醍醐としては自身にとってどちらも微妙な存在である護良と尊氏を両天秤にかけた上で立場の弱い護良を使って尊氏の排除を図ろうとしたが、それが失敗したので「とかげのシッポ切り」で護良を見殺しにした…というあたりが真相ではなかったかとみられる(佐藤進一など)。護良の失脚直後、護良の腹心たちは後醍醐の指示により一斉に抹殺されている。

 この間にも各地で建武政権に対する反乱が起こっていた。その多くは北条氏残党による散発的な蜂起だったが、北条高時の弟・北条泰家は大胆にも京に潜入して、北条氏と深い関係を持つ西園寺公宗を頼った。幕府時代は幕府との折衝役として権勢をふるった西園寺家も建武政権下では地位を低下させており、焦った公宗は状況を一気に巻き返すべく、泰家とはかって後醍醐を暗殺するという思いきった計画を進めた。この計画は建武2年(1335)6月22日に実行寸前のところで公宗の弟・公重の密告により発覚、公宗を初めとする持明院統派の公家たちが捕縛され、公宗は当初流刑と決まっていたところを表向きは事故という形で処刑された。この史上にもまれな天皇暗殺計画は西園寺家と北条残党の結びつきだけによるとも考えにくく、持明院統の皇族や後醍醐の政策に不満をもつ公家たちを含めた広範な背景があった可能性も高い。
 この後醍醐暗殺計画と連動させる計画だったのだろう、直後に北条高時の遺児・北条時行が信濃で挙兵し、一気に鎌倉を攻撃、奪還した。この折に鎌倉を守っていた足利直義は混乱の中で、監禁していた護良親王を殺害している。

 鎌倉陥落の報を受けた足利尊氏はただちに後醍醐に自らの出陣を願い出た。このとき尊氏は征夷大将軍・総追捕使の地位を後醍醐に要求しており、これは明らかに幕府の復活を意図していた。当然後醍醐がこれを認めるはずはなく拒絶して鎌倉から脱出したばかりの成良親王を征夷大将軍に任じたが、尊氏は8月2日に許可を得ぬまま一方的に出陣、慌てた後醍醐は後から「征東将軍」の称号を授けている。この行動を佐藤進一氏は「一見強気そうで案外弱気な後醍醐の人柄」によるものではないかと指摘している。また、これ以後完全に敵味方に分かれることになる後醍醐と尊氏だが、本人同士は互いに相手に親近感を抱いていたらしいことを示す傍証もいくつかある。
 ともあれ、尊氏は出陣するや建武政権に不満を持つ武士たちも糾合して瞬く間に鎌倉を奪還、そのまま関東に居座って事実上の幕府政治を関東限定で開始してしまう。しかもこの乱後の土地処理をめぐって尊氏と新田義貞の対立が激化し、双方で相手の討伐の許可を後醍醐に求める事態となる。尊氏にしてみれば後醍醐に直接逆らえないので義貞をその代理にしているところもあり、後醍醐もまた護良亡き後の尊氏対抗馬として義貞を利用した側面が大きかった。結局建武2年(1335)11月に後醍醐は尊氏の叛意は明らかとして尊氏追討を命じ、義貞と尊良親王に軍を率いて関東へと向かわせた。

 初めのうちは怒涛の進撃をした追討軍だったが、後醍醐との全面対決を渋っていた尊氏がついに自ら出馬して12月に箱根・竹之下の戦いで追討軍を撃破、逆に足利軍が京を目指して西上を開始する。年が明けて建武3年(1336)正月に足利軍は今日を占領、後醍醐は比叡山へと逃れた。直後に奥州から駆け付けて来た北畠顕家軍の活躍もあって正月のうちに後醍醐側は京を奪回、2月には足利軍は摂津でも敗れて九州へと敗走する。
 しかしこの一連の戦乱の時点で建武政権は実質崩壊したと言っていい。「太平記」によればこの時の朝廷のあわてぶりに「賢王の横言になる世の中は上を下へぞ返したりける(賢い天皇の無茶な政治で世の中はひっくり返ってしまった)という狂歌が掲示され、また「今度の合戦に功を挙げた者には恩賞を与える」との公約に「かくばかりたらたせたまふ綸言の汗の如くになどなかるらん(このように次々お出しになる綸言は汗のように消えてしまうんじゃないでしょうね=「綸言汗のごとし(帝王の言葉は一度きり)」という言葉と「たらす(=だます)」にもひっかけている)という狂歌も出て、いずれも後醍醐の失政を痛烈に皮肉っていた。また足利軍を京に追いやった直後に後醍醐が「建武」から「延元」への改元を行った際にも、「だから「武」の字は不吉だと申し上げたではないか」といった公家たちの批判の声も公然と上がっていた。前後して後醍醐の腹心である万里小路宣房・千種忠顕らが出家しているのも、朝廷内の反後醍醐派の台頭の表れとみられている。
 いったんは敗れた尊氏も土地問題を後醍醐挙兵以前の段階に戻す布告を行い、これが多くの武士の支持を集めていた。「武士たちが敗れた足利に加わり勝利した官軍を見捨てている」と楠木正成が危機感を抱き、後醍醐に「義貞を討って尊氏と和睦すべし」と直言して退けられたという逸話もこの段階のものとみられる。しかし状況の悪化を察知する冷静さを欠いていたのか、あるいはそれまでの奇跡的な成功体験で異常なまでの自信をもっていたためか、後醍醐は表面的にはまったく危機感を見せず、戦勝の論功行賞を行って北畠軍を東北へ返してしまっただけでなく、足利軍への追撃開始も明らかに後れを取っていた。なんといっても持明院統の光厳上皇が尊氏に大義名分を与える院宣を与えるという行動を察知・阻止できなかっただけでもうかつであったというほかない。

 果たして尊氏は九州で体勢を立て直し、4月には水陸の大軍で東上を開始した。朝廷は上陸地点を兵庫と見定め、ここで新田・楠木軍を主力として足利軍を迎え撃つことに決した。このとき正成が「天皇は比叡山に逃れ、敵を京に入れて兵糧攻めにする」という献策を行うが坊門清忠が強硬に反対して正成を兵庫へ出陣させたとされるが、坊門は後醍醐の腹心であり、この決定はほかならぬ後醍醐の意志であったとしか思えない。
 かくして5月25日に湊川の戦いがあり、正成は壮絶な戦死を遂げ、義貞軍は京へと敗走、これを追って足利軍が京を再占領した。後醍醐らはこの敗戦を全く予期してなかったらしく、湊川の戦いの当日に徐目(人事異動)の儀式をのんきに執り行っており、敗戦の報を聞いて慌てて比叡山に避難している。このときも光厳上皇とその弟・豊仁親王に逃げられて彼らを足利軍に合流させてしまうという失態を犯してしまった。京をめぐって激闘が続くなか、8月に尊氏は光厳の院宣に基づいて豊仁を新天皇に即位させる(光明天皇)

 遅ればせながら正成の献策に従い比叡山にこもった後醍醐らは五ヶ月にわたって持ちこたえた。しかしこの間に千種忠顕・名和長年が戦死し、すでに戦死していた結城親光・楠木正成と合わせて建武新政で抜擢を受けた「三木一草」は全て消えていた。近江の佐々木道誉による琵琶湖封鎖の兵糧攻めにあってついに敗色濃厚になったところで、10月に尊氏は後醍醐に和睦を持ちかける。後醍醐に三種の神器の光明への譲渡を迫る一方で、従来の「両統迭立」の原則に戻すという、この状況下ではかなりの好条件であったので、後醍醐はこれを受け入れる。しかしそれまで自分を支えていた新田義貞には一言の相談もなく、比叡山を下りる直前になってこれを知った義貞ら新田一族は激怒して後醍醐に厳しく迫った。後醍醐は皇太子・恒良に皇位を譲って義貞と共に北陸に下らせ彼が逆賊とされることを防いでやったが、その直前までの態度からすると後醍醐はここでも遅ればせながら正成の献策に従い、義貞を切り捨てることで自身の生き残りを図る算段であったと見た方がよさそうだ。

―吉野の苔に埋もれるとも―

 京に戻った後醍醐は花山院に軟禁され、11月2日に神器を光明天皇に引き渡した。同時に後醍醐には「太上天皇(上皇)」の称号が贈られ、12日には後醍醐の皇子である成良親王が光明の皇太子に立てられて「両統迭立」の原則が示された。そして尊氏・直義兄弟は「建武式目」を公布して新たな幕府を公式にスタートさせる。しかしこの状況の中でも不屈の後醍醐は全くあきらめていなかった。この時点で北陸の義貞、奥州の北畠顕家、伊勢の北畠親房ら後醍醐派が各地で活動しており、恐らく京に帰還した時点から後醍醐は挽回の機会を狙っていたのだろう。
 12月21日夜、後醍醐は突如花山院から脱走した。手引きしたのは「楠木党」とされ、恐らく北畠親房と連絡をとってのことであったと見られる。これは足利側も油断があったと言うほかないが、尊氏はこのとき「幽閉していては警備も大変だし、どこかへ配流するわけにもいかないし、困っていたところでちょうどよかった」と発言しており、後醍醐がいまさら逃げたところで大したことにはなるまいと最初からたかをくくっていたのかもしれない。

 京を脱出した後醍醐は河内から穴生(のち賀名生)を経て、吉野へと入った。この地はかつて皇子・護良が幕府軍相手に戦った土地であり、古くは壬申の乱の折に天武天皇の勝利の出発地となったところだ。後醍醐はこの吉野を反撃の拠点と定めて年号の「延元」を復活させ、「光明に渡した神器は偽物であり、現在も自身が本物の神器を持つ真の天皇である」と主張し、各地に京奪回を呼びかけた。
 ここに正統を主張する天皇が二人存在する「南北朝時代」が始まるわけだが、このとき後醍醐が光明に渡した神器が偽物であったという主張が事実なのかどうか古来議論がある。後醍醐が「偽の神器」を言いだすのはこれが初めてではなく、かつて笠置山で敗れた直後にもあったが、前述のようにそのとき持明院統側が詳細な確認をしており、偽物であったとは思えない。当然この時も厳重な確認があったはずで、やはり後醍醐は本物を光明に渡しており、相手を否定するために「偽の神器」という主張をせざるを得なかったというのが真相と思われる。後醍醐の死後のことだが、南朝が一時京を奪回した「正平の一統」(1351)の折に南朝側は「偽物」と主張していたはずの北朝の神器を、「偽物とはいえ一時神器として使われていたから」というかなり強引な理屈で接収しており、やはり北朝が持っていた神器は本物だったということだろう。
 後醍醐が否定したのは持明院統=北朝ばかりではなかった。比叡山で義貞に迫られて譲位し「天皇」となっていた我が子・恒良をも否定したことになる。この譲位の折に神器譲渡があったかどうかも議論になるところだが、恒良を擁した義貞らが恒良を「天皇」と信じていたことは恒良名義の「綸旨」が出ていることからも明らかである。この後醍醐の行動を恒良や義貞がどういう思いで見ていたかは全く分からないが、かなり複雑な気分ではなかっただろうか。

 しかしその余裕もなかっただろう。義貞らが拠っていた越前・金ヶ崎城は足利軍の猛攻を受けて翌延元2年(建武4、1337)2月に陥落、「天皇」恒良は捕えられ、後醍醐の長子・尊良は自害して果てた。護良につぐ後醍醐皇子の惨死である。捕えられた恒良もその後の消息が知れず、「太平記」では足利直義によって毒殺されたことになっている(ただし一緒に毒殺されたことになっている成良がその後も存命であることが確認できるため史実かどうかは疑問もある)
 後醍醐からのしきりの要請を受けてようやくこの年8月に奥州の北畠顕家が義良親王を奉じて二度目の大遠征を開始した。12月に鎌倉を占領した顕家軍は、年が明けて延元3年(建武5、1338)正月に美濃・青野原で足利方の大軍を撃破、伊勢から奈良を経由して京を目指したが果たせず、ついに5月22日に石津の戦いで戦死してしまう。その直前に顕家が後醍醐あてに建武の新政を痛烈に批判する諫奏文をしたためていてそれが現存するが、果たしてそれを後醍醐が実際に読んだのか、どういう感想を抱いたかは分からない。
 そして閏7月2日、越前で態勢を立て直しつつあった新田義貞が不慮の戦死を遂げてしまう。ライバルの死を受けて尊氏は直後に北朝から征夷大将軍に任じられ、名実ともに幕府体制を整えていった。それでも後醍醐の執念の火は消えず、義良・宗良両親王と北畠親房・結城宗広らを関東・東北に、懐良親王を九州へと派遣し、じっくりと地方から態勢を整えて京奪回を目指す大戦略を進めていく。しかし不運なことに義良・宗良・親房の大船団は伊勢を出航後に嵐にあって散り散りとなり、義良はやむなく吉野へと戻ることになる。
 この年は後醍醐にとって不運の連続であった。正月に乳父の吉田定房、3月に坊門清忠と、古くからの側近で吉野まで駆けつけてくれた二人を相次いで亡くしたことも精神的打撃になったはずだ。後醍醐はこのころ「事問はん 人さえまれに なりにけり わが世の末の ほどぞ知らるる」(相談相手となる人さえ少なくなってしまった。私の人生ももう先が見えてきたのだろうか)と寂しい歌を詠んでいる。これまで奇跡的な大逆転を繰り返し、自身の強運を信じていた後醍醐もさすがに気が弱くなってきたようである。

 翌延元4年(暦応2、1339)3月、後醍醐の手元に唯一残っていた皇子・義良が皇太子に立てられた。恐らくこのころすでに後醍醐が健康を害していたものと推測される。そして8月15日、後醍醐は皇太子・義良に譲位した。もちろん、すでに重態に陥り、もはや明日をも知れぬと確信したためである。
 翌8月16日、後醍醐は吉野の行宮でついに息を引き取った。享年52歳。その最期の模様は「太平記」が印象的に記している。後醍醐は左手に法華経の五の巻、右手に剣を手にし、死の間際にこう言い残したという。「朕の願いはただ朝敵を滅ぼして国内を太平にすることのみである。朕が死んだ後は義良を天皇として臣下一同で忠義を尽くし天下を平定せよ。これを願うために、たとえこの身は南山の苔にうずもれるとも、魂魄は常に北の天を望もうと思う。もしこの遺志に背く者があれば、天皇であろうと後継者とは言えず、臣下も忠義の臣とは言えぬ」(原文より大意で現代語訳)
 実際に後醍醐がこのようないでたちで、このような言葉を放ったのか傍証はない。だが後醍醐ならばさもありなんと思わせる迫力である。法華経五巻と剣を持つことの意味は不明だが、後醍醐が自らしばしば行ったという密教の儀式を連想させるものもある。「魂魄は常に北の天を望む」との遺志に従い、後醍醐の陵「塔尾陵」は実際に北向きに築かれた(天皇の墓は南向きが通例)。諡号も生前に本人が決めていた通り、「後醍醐」とされた。

 後醍醐逝去の知らせは興福寺を通じて3日後には京都に届いた。京都では幕府も朝廷もしばらく半信半疑の体であったが、28日になって阿野廉子から後醍醐の皇女で光厳中宮となっていた懽子内親王のもとに正式に連絡が入ったことで確報となると、京都の人々の間には大きな衝撃が走った。多くの北朝公家がこの衝撃を日記に書きとめているが、中でも中院通冬の日記「中院一品記」は「天下の一大事であり、言葉では言い表せない。もはや公家の衰退はおしとどめようがない。なんとも悲しむべきことである。朝廷のさまざまなことがその御代に再興され、その賢才は歴代でも光り輝いていた。誰もが悲嘆にくれざるを得ない」とまで書き記している。
 尊氏も直義も大きな衝撃を受けた。とくに尊氏はかなり本気で悲嘆にくれたらしく、幕府では自主的に雑訴を七日間停止して喪に服し、北朝朝廷がそれを後追いして光明天皇も喪に服するという事態になった。尊氏は後醍醐の百か日法要で追悼文を書いているが、その内容は単なる型どおりの追悼ではなく、個人的感情のこもったものとなっており、尊氏個人の目から見た後醍醐像を知る手がかりともなっている。
 崇徳上皇以来、都以外の地で亡くなった天皇への諡号は「〜徳」とするのが通例だったが、北朝においても本人の遺志を尊重して「後醍醐」の諡号をおくった。特に後醍醐ほどの人物が異郷で恨みを抱いて死んだことは京の人々にとって「怨霊の祟り」という現実的な恐怖があり、それは尊氏・直義にも共有されていた。尊氏が後醍醐を慰霊する禅寺・天竜寺を建立したことはよく知られる。
 だが後醍醐の強烈な遺志、執念は現実の「怨霊」同然にその後の歴史に濃厚な影を落とした。南朝勢力は後醍醐の遺志に従って弱体ながらもしぶとい抵抗を各地で続けたし、足利幕府もその南朝との戦いが続くなか深刻な内戦に突入し、南北朝動乱は日本全土でこのあと半世紀にわたって続くことになる。

―人物とその後の評価―

 陰謀と闘争に明け暮れた後醍醐の生涯だが、当時を代表する文化人であったことも見逃してはならない。宋学を中心とした儒学、密教を中心とする仏教への造詣は言うまでもなく、和歌・管弦など貴族の伝統的文化にも深く通じていた。『源氏物語』についても造詣が深かったことが知られ(孫の長慶天皇が『源氏物語』の注釈書を書くのもこれを引き継いだものだろう)、すでに廃れてきていた平安以来の有職故実を『建武年間行事』として自ら編纂もしている。こうした貴族社会の再興姿勢や大胆・斬新な施政方針は多くの公家人材をその周囲に引き寄せただけでなく、対立する持明院統系の皇族・公家からも高い評価を受け、「英明な君主」となされていたことは事実である。本来天皇になれるはずのない不安定な生い立ちをもち、しかも即位後も「一代限り」と枠をはめられたことに対する反発とが、彼をこのような型破りの天皇としたと言えるかもしれない。
 
 後醍醐自身も自分が特別な存在であると自覚していた節がある。本来なれるはずのない天皇に偶然の積み重ねによって即位できたことも「天命」と感じていた可能性が高く、また当時の皇室分裂と幕府の存在による天皇家そのものの存続の危機すら意識される中で自身が登場したことは、自分に天皇中心の時代を「再興」させる使命があると自覚させたかもしれない。そしてその理論的根拠を儒教、とくに大義名分を説く当時の最先端イデオロギーである宋学に求めていったのは自然な成り行きであったと思える。後醍醐が決して平安の昔に戻す復古・保守思想の人間ではなく、むしろ当時の最先端の中国文化・体制に強い関心を示し、自ら中国的な「皇帝」たらんとした過激な革命家であった。

 だが一見儒教とは両立しにくそうな濃厚なオカルティズムにも後醍醐は深入りしていた。後醍醐への密教への関心は父・後宇多の影響もあると見られるが、文観という非常に個性的な僧が腹心となったことが後醍醐の密教へののめりこみを深めたと思われる。信仰というよりも人智を超えたパワーという「実利」を求めたのだろうが、やがて後醍醐自ら密教の呪詛を行って世の中を思い通りに変えようと試み、それがまた偶然にせよ奇跡のように実現したこともあって自らを聖徳太子・弘法大師の生まれ変わりと確信していたらしい。後醍醐が袈裟をまとい密教の修法を行う有名が肖像画(左図)があるが、これは文観自身が後醍醐没後に描き、まさに後醍醐を聖徳太子の生まれ変わりとみなしていたとの見解もある。
 
 このように自らを凡俗を超越した特別な存在と自覚することは、強烈なカリスマとなって多くの個性的な人物たちを引き付ける一方で、後醍醐自身の思惑で人を利用し、あるいは自身を守るために平然と腹心を切り捨てる行動にもつながる。日野俊基や護良親王、新田義貞らに対する態度にそれが見られるし、常に居丈高かと思うと妙に卑屈になって言い訳がましい姿勢を見せるあたりには、自身が掲げる理想・目的のためには手段を選ばないという、ある意味確信犯的なものもあったかもしれない。そうした確信があったからこそ、不屈の意思を最後まで貫き、ついには吉野の山奥で無念の死を遂げることとなってしまった。

 建武政権成立までは名君とされ大きな期待がかけられた後醍醐も、その建武政権が大混乱のうちに短命に終わったことで評価は大きく下げられざるを得ない。すでに述べたように後醍醐は決して単純な保守回帰論者ではなく破壊的なまでの改革実践者であり、土地問題で失望した多くの武士たちだけでなく本来保守的な公家たちも多くは後醍醐に批判的で、後醍醐時代を「物狂の沙汰」と批判する者もいた。また後醍醐の執念がその後の南朝、さらには後南朝の運動につながっていき室町時代を通じて不安要因となり続けたことで後醍醐も自然と批判的にとらえられ、一見南朝寄りとされる『太平記』も実は後醍醐の不徳を明記し、室町幕府成立を必然の流れとして描いている。

 江戸時代に入ると南朝正統論が台頭してくる。江戸前期に編纂された水戸藩の『大日本史』は朱子学的に南朝正統を明確に打ち出したことで知られるが、後醍醐については不徳の君主として批判することを忘れていない(南朝を正統としつつ後醍醐の不徳により王朝時代が終わり武士の時代になったという史観ともいわれる)。だが幕末に近づくにつれ尊王論、幕府批判とが結びついて「建武中興」を過去の栄光ととらえ、後醍醐を名君として神格化する声が高まってゆく。
 明治に入ると後醍醐と「南朝の忠臣」たちに対する神格化は国家により推進された。明治6年(1873)に後醍醐を祭神とする吉水神社が作られ、さらに明治25年(1892)には吉野宮が新たに創建されてこれが大正時代に「吉野神宮」へと成長する。それでも歴史教科書や学術面では南朝北朝併記が基本であったし、後醍醐に対しても批判的な視点は普通に存在していたのだが、「大逆事件」をきっかけに南北朝正閏論争が政治問題化し、明治天皇の詔勅により南朝を正統とみなし、「南北朝時代」ではなく「吉野(朝)時代」という呼称が公式化した。この傾向は特に昭和前期の戦中期に加熱し、「建武中興600年」の1933年には後醍醐と南朝を絶対的に神格化するムードが煽られ、皇国史観・神国観と結びついて軍国主義の精神的支柱とされた。

 敗戦後はその反動で後醍醐や南朝勢力に対して「反動・保守・時代錯誤」といったイメージが進歩的立場からぶつけられることになる。だがその一方で佐藤進一は1965年に名著『南北朝の動乱』で後醍醐を決して保守的なものではなくむしろ過激なまでの革新派、中国的な皇帝独裁体制を目指したものと規定し、1985年の『日本の中世国家』でその論をさらに実証している。また社会史的手法から南北朝時代を日本民族史上の一大転換期と規定した網野義彦は『異形の王権』において文観との深いかかわりを中心に後醍醐という天皇の特異性を強く打ち出し、後醍醐が天皇家そのものの危機に直面し、半ば聖なる存在とされた非農耕らと結びついて農耕的社会に立ち向かったこと、そして彼らが敗れ去ったことで非農耕社会への蔑視が始まるとする大胆な南北朝観を提唱している。
 後醍醐個人の人物像について佐藤進一は「既成事実の観念的否定。不撓不屈と謀略、多分の柔軟性をもった目的主義」とその特徴を評している。これを受けて網野義彦は「まさしくヒットラーのごとき人物像」と表現し、「後醍醐という異常な天皇を持った負い目」「天皇家の歴史そのものが封印した暗部」が近現代に至るまで日本国家を規定し続けていると評した(そのせいかどうかは知らないが、平成の初めに新天皇と皇太子に対する歴代天皇の事跡に関する講義では後醍醐天皇の配分時間が際立って長くされていると報じられていた)
 なお、人間・後醍醐の人格形成からその最期までを追い、その人物像に迫りつつ南北朝群像を論じたユニークな評伝として村松剛『帝王後醍醐』があり、必読的存在となっている。

 後醍醐天皇はこの時代の人物としては珍しくその容貌がほぼ正確に伝えられる人物でもある。複数の肖像画が伝わるがいずれも面長の顔に豪快な長いひげをたくわえた顔に描かれ、この点でも歴代天皇の中でもかなり際立っている。特に清浄光寺(神奈川県藤沢市)に伝わる密教の修法を行う姿に描かれた後醍醐像は「異形の天皇」をそのまま視覚化したものとして良く知られ、後醍醐の腹心・文観その人の作であり後醍醐を真言密教の金剛薩タに擬したものと推定されている。
 大阪市四天王寺には国宝「四天王寺縁起・後醍醐天皇宸翰本」が所蔵されている。これは建武2年(1335)5月に後醍醐が同寺の所蔵する聖徳太子直筆とされる「四天王寺縁起・根本本」を見て感激、これを自ら書写したもので、奥書に後醍醐自らの朱の手形(左手)が二つ押されている(後醍醐が自らを聖徳太子の転生とみなしていたことを想起するとかなり興味深い)。筆者は雑誌に掲載された実物大写真を測ってみたが、朱のついた部分だけで19cmぐらいはあり、大きめのサイズではないかと思える(吉川英治はこれをもとに『私本太平記』で「大きな御手」という表現をしている)。手のサイズから推測するとこの時代の人としては大柄な体格だったのではなかろうか。真偽は不明だが後醍醐自身が彫刻した楠木正成像があったり、茶器の「金輪寺棗」は後醍醐が吉野で蔦の木から作ったのがルーツとされる(吉水神社に後醍醐自作とされるものがある)など、もしかするとかなり手の器用な人であったのかもしれない。
 
 良くも悪くもインパクトのある存在感、そしてその強そうな名前のせいもあってか、後醍醐は現代においても文化面で影響を残している。1970年代から世界的に知られる日本のロックバンド「ゴダイゴ」が彼の名に由来しているというのが最も有名である(公式にあくまで由来の一つとされている)

参考文献
佐藤進一『南北朝の動乱』(中公文庫)『日本の中世国家』(岩波文庫)
村松剛『帝王後醍醐』(中公文庫)
佐藤和彦・樋口州男編『後醍醐天皇のすべて』(新人物往来社)
網野義彦『異形の王権』(平凡社ライブラリー)『蒙古襲来』(小学館文庫)
佐藤進一・網野義彦・笠松宏至『日本中世史を見直す』(平凡社ライブラリー)
森茂暁『後醍醐天皇』(中公新書)『太平記の群像・軍記物語の虚構と真実』(角川選書)『南朝全史・大覚寺統から後南朝へ』(講談社選書メチエ)『皇子たちの南北朝』(中公文庫)
伊藤喜良『後醍醐天皇と建武政権』(新日本新書)
藤巻一保『真言立川流・謎の邪教と鬼神ダキニ崇拝』(学習研究社)
『歴史群像シリーズ10・戦乱南北朝』(学習研究社)
『ピクトリアル足利尊氏』(全2冊・学習研究社)
『別冊歴史読本・後醍醐天皇・ばさらの帝王』(新人物往来社)ほか
大河ドラマ「太平記」 「太平記」の企画発表段階から注目された後醍醐役は、天皇役を多く輩出した歌舞伎界からの起用となり、人気役者・片岡孝夫(現・15代目片岡仁左衛門)が演じた(大河「新平家」で高倉天皇を演じたこともある)。第3回「風雲児」で初登場し、初めのうちは髭も生やさず貴公子風であったが、笠置での敗北後に髭を伸ばし始め、隠岐配流段階ですっかり髭ヅラになり野性味を増していった(もちろん計算された演出である)
 演じた片岡孝夫自身も「天皇というより武将的感覚の人」と評したように、行動的な天皇像そのままに豪快な喜怒哀楽ぶりを見せた。尊氏に対して「朕も肩凝りじゃ」と急に人懐っこくなる名演も忘れ難い。余り描くと差し支えがあるからか非情な部分はあまりクローズアップされず基本的には「いい人」っぽく描かれたが、正成を死地に追いやる場面や、義貞を見捨てようとして抗議される場面もしっかり描かれる。
 登場ラストシーンとなった第41回「帝崩御」の死の床の場面では古典「太平記」そのままに剣と経典を手に「吉野の苔に埋もれるとも」と遺言するが、直接的にその臨終は描かれず、「翌日崩御された」とナレーションで処理された。こうした病死を直接描かない演出はこのドラマが徹底していた点である。なお、後醍醐登場回は全て出演者クレジットでは最後の「大トメ」が指定席。ただし第39回ではクレジットされながらドラマ本編ではなくプレタイトルの状況解説でチラッと映るだけである。
その他の映像・舞台 戦前はさすがに登場の例はなく、戦後に1959年のTVドラマ「大楠公」で徳大寺伸の例がある。
 舞台劇では1961年の「幻影の城」で松宮五郎、同劇の1969年版では松本幸男が後醍醐を演じている。平成2年(1990)に上演された舞台劇「流浪伝説」は後醍醐を主人公にした作品で、近藤正臣が主役ゴダイゴを演じた。近藤正臣はその直後の大河で北畠親房を演じることになったため大河ドラマ本のインタビューに「舞台で後醍醐を演ったから歴史関係はわかっている」と発言している。1993年に上演された野田秀樹の劇「少年狩り」では蒲生純一が後醍醐役だったらしい。
 昭和39年(1964)の歌舞伎「私本太平記」では市川左団次(三代目)が演じた。平成3年(1991)の歌舞伎「私本太平記 尊氏と正成」では澤村宗十郎が演じている。
 アニメでは1978年の「まんが日本絵巻」の「敵は幾万ありとても 智将・楠木正成」の回で島光貴が、1983年の「まんが日本史」では金沢寿一が声を演じている。
 企画のみで消えたが、角川映画で製作が一時進められていた「太平記」では石坂浩二が予定されていたとの情報がある。
歴史小説では 戦前はあまりに神格化されているせいもあり、小説中のキャラクターとして登場した例はほとんど見当たらない。戦後になると、山岡荘八『新太平記』、吉川英治『私本太平記』などで後醍醐が登場人物の一人として描かれるようにはなるが、やはり天皇、しかも超個性派ということもあってかひたすら聖人君子的に描かれるか没個性的なものが大半。楠木正成や足利尊氏といった武将クラスを主人公にしたものでは名前が出てくるだけというものも少なくない。
 珍しく後醍醐天皇当人を主人公に据えた小説に徳永真一郎の書き下ろし『後醍醐天皇』があるが、残念ながらもともと大河ドラマ便乗商品ということもあって、後醍醐個人を描くというより南北朝史ダイジェストといっていい内容になっている。
 変わり種は田中文雄の伝奇小説『髑髏皇帝』。隠岐に流されていた後醍醐が巨大なナニを取り出して立ち小便をしていると蒙古兵の亡霊がとりついて動乱を巻き起こすというビックリしちゃうような描写がある(笑)。
 さらに変わり種ではイギリスの作家ソフィア=マクドゥガルによる『Romanitas』がある。これは古代ローマ帝国がそのまま21世紀まで続いたら…という仮想歴史小説で、ローマ帝国が火器など科学技術を発明して古代奴隷制のまま世界を制覇していくストーリー。13世紀にはローマ帝国は宋も征服してしまうが、14世紀の「Nihonia」の皇帝ゴダイゴが単身ローマに乗り込んでその技術を盗み出し、銃火器で北条幕府を打倒して「建武政権」を発足させ、足利尊氏の反乱も押さえ込んでNihoniaを統一、後にこの帝国は南洋諸島・太平洋を制覇してローマ帝国の強敵となるという凄まじい展開に。作者がロックバンド「ゴダイゴ」で名前を覚えた可能性もあるが、日本歴史上でも際立って特殊な天皇に注目したとしても不思議ではない。
漫画作品では 当然だが学習歴史漫画では必ず登場。明確な肖像画が残っていることもあり、そのイメージはどの漫画でもおおむね同じである。ロングセラーとなっている小学館『少年少女日本の歴史』では隠岐で幕府打倒を目指し意気込む後醍醐のカットが発売当時朝日新聞社会面に「政権奪取を目指しガッツポーズをとる後醍醐天皇」というキャプションつきで載せられたことがある。
 石ノ森章太郎『萬画日本の歴史』では18・19巻に登場。ややコミカルでもあるが自ら密教の呪詛を行う「異形の天皇」ぶりが印象的に描かれ、偽物の神器を用意する抜け目なさや北畠顕家の諌奏に怒ったりといった描写もある。剣と経典を手に叫んで立ち上がってから倒れるという最期も強烈。
 さいとう・たかを『太平記』(全三巻、マンガ日本の古典)ではゴルゴ13ばりの鋭い目つきの後醍醐が登場。原典以上にその非情さが強調されてる印象もある。その一方でこの劇画は阿野廉子を陰の主役として描いているため、廉子に翻弄される情けない夫というイメージも残ってしまう。
 かみやそのこ『阿野廉子』はレディースコミックのノリの作品で、後醍醐が一見貴公子そのままに登場するものの、禧子を誘拐するくだりや、廉子をめぐって護良と三角関係になるドロドロ模様が読める。隠岐配流以後は気落ちがちで、廉子に引っ張られてる感じ。女流作品では北条滅亡のドラマである湯口聖子『風の墓標』になると後醍醐が1カットのみの登場、それもセリフ中のイメージとして描かれるだけである(本作では北条の敵側キャラは顔もまともに描かれない(笑))
 少年漫画に登場した珍しい例が沢田ひろふみ『山賊王』。楠木正成ら悪党勢力を中心に倒幕ドラマを描いたこの作品では後醍醐は非常に貴公子然とした名君タイプで登場しており、笠置陥落と隠岐配流も「計画のうち」という形にされている。
 非常に変わった例では雑誌「シミュレイター」にボードゲーム「太平記」の特集企画として載った松田大秀・作のゲーム紹介コミックがある。箱根・竹之下の戦いで義貞が負けたと聞くと「怨敵退散の真言密教呪法までしてやったというのに…よほどサイコロの目が悪かったのであろうか」と頭を抱えたり、「名付けて『賀茂の守り作戦』じゃ!」と指示を飛ばしたり他では見られないなかなかのインパクトあり。
 「週刊マンガ日本史」の森ゆきなつ『足利尊氏』では後醍醐がほとんど「悪の大魔王」に描かれ、これまたインパクト強大(笑)。
PCエンジンCD版ゲームで使えるキャラとして登場するわけではないが、新田義貞でプレイすると献金の上で謁見することができる。史実でも後醍醐が重んじた綸旨を下してくれるほか、ゲーム攻略のヒントをくれることもある(もっとも尊氏でプレイすると光厳天皇がこの役回りで、両者の違いは顔グラフィックしかない)
時代背景を説明するオープニングビジュアル(アニメ的なもの)でも登場しており、キートン山田が後醍醐の声を演じている。
SSボードゲーム版ゲーム中にユニットとして登場するわけではないが、公家側プレイヤーは後醍醐その人を「演じる」ことになる。このため発売当時宣伝記事などでも「天皇が演じられるゲームなんてこれだけ!」と書いていたし、雑誌「シミュレイター」のリプレイ記事でも尊氏と後醍醐のコントのような爆笑ものの会話が楽しめた。

小太郎こたろう
 NHK大河ドラマ「太平記」における新田義貞の少年時代の役名(演:近藤大基)。第1回のみ登場し、新田荘に潜入した少年時代の足利高氏(又太郎)を渡良瀬川でつかまえ、「我らは源氏、北条は平氏。ゆめゆめ平氏の犬になりさがるでないぞ」と言い放って高氏に決定的な影響を与える。当初義貞役だった萩原健一に面立ちが似た子役を選んだと思われる。
 →新田義貞(にった・よしさだ)を見よ。

小寺頼季こでら・よりすえ?-1352(文和元/正平7)
親族父:宇野頼定 兄弟:宇野宗清・宇野国頼
子:小寺頼秀・小寺景治・魚住長範・小寺季有
官職相模守?
生 涯
―護良側近の豪快な悪僧―

 『太平記』の版本によっては「木寺」と表記される。赤松氏の一族で、父や兄弟は宇野氏を称しているが、頼季を初代としてその子孫は「小寺」と称するようになる。
 生年は不明だが、幼少期から一族の主筋になる赤松則祐と共に比叡山に登り(頼季が先に比叡山に入っていて則祐はそれを頼ったとの推測もある)、天台座主をつとめていた尊雲法親王すなわち護良親王の側近となっている。『太平記』では巻五から「小寺相模」として登場するが、巻二で花山院師賢後醍醐天皇になりますまして比叡山に登り比叡山の僧兵たちが六波羅軍と激闘するくだりで「中房の小相模」「妙光坊の小相模」という悪僧が登場しており、やはり護良親王の側近となる源存(源尊)と名前が並んでいること、後醍醐が偽物だとばれても逃亡せず居残っている描写があることから、この「小相模」は「小寺相模」と同一人物ではないかとの推測がある。護良親王は天台座主でありながら武芸の稽古にあけくれていたと伝わるが、その相手をしていた悪僧の一人だった可能性もある。また主筋である赤松円心が早くから護良周辺に一族を配置していたとみることもできるだろう。

 元弘の乱で笠置山も赤坂城も陥落し、護良親王は山伏に変装して吉野・熊野の山中を点々としながら再起の機会をうかがった。「太平記」によればこれに同行したのが光林房玄尊・赤松則祐・木寺相摸・岡本三河房武蔵房村上義光片岡八郎矢田彦七平賀三郎の9名で、その冒険行は「太平記」序盤の読ませどころである(義経一行の逃避行を参考にした創作との見方もあるが)。その途中立ち寄った戸野兵衛尉のところで護良が小寺頼季に目配せし、頼季が護良の正体を明かすという描写もある。元弘3年(正慶2、1333)正月の吉野攻防戦では激闘の末に落城が確実となった時、小寺頼季が剣の先に敵の首を貫いて護良の前にやってきて豪快に舞い踊る印象的なシーンも描かれている。
 吉野陥落後は赤松則祐と共に播磨の円心に合流、赤松軍の一翼を担って京へ攻め込んだ。3月12日の桂川突破戦では兄弟の宇野国頼らと共に競い合って騎馬で川に飛び込んだが頼季は馬を流されて兜だけが水面に見えるありさまとなってしまう。ところが泳いだのか川底を潜ったのか、いつの間にやら他の味方より先に対岸にあがるという、これまた豪快な見せ場を作っている。
 その後も赤松軍の中に「小寺」の名前はしばしば出てくるが、『太平記』における彼個人の豪快な活躍はこの桂川突破が最後となる。

―姫路城の城主へ―

 倒幕戦に大きな功績のあった赤松氏だったが、建武政権では恩賞はほぼゼロという冷遇を受けた。彼らがあまりに護良親王に接近していたことが原因とみられている。建武元年(1334)10月に護良が失脚し幽閉されると、赤松一族は完全に建武政権を見限り、足利尊氏に味方して今度は足利幕府成立に大きく貢献する。居城の白旗城を新田義貞に攻められた際に新田軍への使者に立ったとして「太平記」に登場する「小寺藤兵衛尉」は小寺頼季の子・小寺頼秀だとされている。
 功績によりようやく播磨守護職を得た赤松円心は、貞和2年(正平元、1346)から次男の赤松貞範に姫辺(姫路)の姫山の上に後の「姫路城」のルーツとなる城を築かせている。この城は貞和5年(正平4、1349)に完成した(あるいはこの年に幕府内戦が起こるので急ピッチで仕上げた)と見られるが、築城者の赤松貞範は床山城に移り、城代として小寺頼季が姫路城に入った。以後、彼の子孫が代々姫路城城主をつとめることになる。
 小寺頼季は文和元年(正平7、1352)に死去している。このころ頼季と共に護良親王に仕えた過去をもつ赤松則祐は赤松氏の棟梁となり、一時護良の遺児「赤松宮」を奉じて「正平の一統」を演出したが、「正平の一統」が南朝側の背信によって崩壊したことで以後二度と南朝側につくことはなかった。晩年の頼季がその情勢を横目に何を思ったかは想像するほかはない。

参考文献
高坂好「赤松円心・満祐」(吉川弘文館人物叢書)
岡見正雄「太平記」(角川文庫ソフィア)補注ほか
大河ドラマ「太平記」第12回のみの登場(演:津村和幸)。楠木正成が笠置山に馳せ参じた場面で、正成を迎える後醍醐方武将の一人として桜山慈俊、足助重範らと並んで登場し、脇にいる若者を「一族の赤松則祐」と紹介している。

後藤助光ごとう・すけみつ生没年不詳
親族父:後藤康景
官位左衛門尉・内舎人
生 涯
―日野俊基に仕えた武士―

 『太平記』巻2に、日野俊基に仕えた「青侍」(公家に仕えた武士)として登場する人物。『尊卑分脈』によれば、藤原則光の子孫に「隼人佑左衛門尉康景」がおり、その息子が「左衛門尉・殿下内舎人随身助光」の名が記されていて、これが『太平記』にいう後藤助光のことと推測されている。「内舎人(うちとねり)」は内裏の警備や雑役にあたった官人で、その中から摂政・関白に従う「随身」が選ばれたといい、助光もそうした経歴を持っていたと思われる。助光が俊基に仕えるようになった経緯は不明である。

 『太平記』によれば、俊基が元弘の変で幕府に捕縛され鎌倉に連行されると、助光は俊基の妻を守って嵯峨に隠れ住んだ。そして嘆き悲しむ俊基の妻の手紙を届けるべく鎌倉に向かうが、鎌倉に着いて間もなく俊基の処刑が執行されることを知り、刑場へ駆けつける。助光は執行人の工藤高景に願い出て処刑直前に俊基との対面を果たし、俊基から妻への形見と手紙を託され、その最期を目撃した。助光は俊基の遺骨を京に持ち帰って俊基の妻に報告を済ませると、自ら髻(もとどり)を切って出家し、高野山に入って俊基の菩提を弔ったという。

参考文献
山下宏明校注『太平記』注(新潮日本古典集成)ほか
歴史小説では吉川英治『私本太平記』に登場、俊基処刑後も刀鍛冶となって出没するなど古典より出番が増やされている。


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