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さいおんじ〜さくらやまじしゅん

西園寺(さいおんじ)家
 藤原北家閑院流で、藤原公実の三男・通季を祖とする公家。清華家の家格で、家名は公経が建立した寺の名に由来する。公経が承久の乱の際に鎌倉幕府に協力したことから幕府と朝廷の連絡役「関東申次」の立場を獲得、幕府の力を背景に公家界に強い影響力をもった。鎌倉幕府が滅亡すると地位が失墜、公宗は後醍醐天皇の暗殺を企てて失敗、南北朝動乱の中で家督争いが起こるなど波乱もあった。南朝に走った西園寺一族の一部は伊予に移り、ここで戦国大名に成長する。西園寺の家名は明治維新まで続き、首相・元老となった西園寺公望も輩出している。洞院家、今出川家は西園寺の分家である。

藤原公実┬実能徳大寺




禧子─懽子内親王




├実行三条

┌実雄洞院
兼季今出川公重───実長


└通季─公通─┬実宗
─公経
┴実氏┬公相
実兼公衡実衡───公宗──実俊公永実永



└実明


└公基
├鏱子├季衡
└公良
└公兼








├覚円寧子───光厳天皇










├性守
光明天皇










├瑛子─恒明親王











公顕実顕公冬












└道意└御匣殿





西園寺禧子
さいおんじ・きし(よしこ)1303(嘉元元)?-1333(元弘3)
親族父:西園寺実兼 母:藤原隆子(藤原孝泰の娘)
兄弟姉妹:西園寺公衡、覚円、西園寺鏱子(伏見天皇中宮・永福門院)、西園寺瑛子(亀山天皇妃・昭訓門院)、西園寺公顕、今出川兼季、性主、道意、公具
夫:後醍醐天皇
子:女子(詳細不明)?、懽子内親王(光厳上皇妃、宣政門院)
生 涯
―「略奪」された中宮―

 後醍醐天皇の中宮(実質的に皇后)となった女性。父の西園寺実兼は太政大臣まで昇り、幕府と朝廷の連絡役である「関東申次」も務める公家社会最大の実力者と言える。その娘には禧子のほかにも伏見天皇(持明院統)の中宮となった鏱子や、亀山天皇(大覚寺統)の妃となった瑛子がおり、対立する皇室両統とバランスよく縁を結んで権勢をふるっていた。
 しかし禧子が後醍醐の妃となったのはかなり異例の事情がある。正和2年(1313)の秋(8月?)に禧子は何者かに略奪(誘拐)され、しばらくその消息が明らかにならなかった。翌年正月になって彼女をさらったのが当時26歳の皇太子・尊治親王、すなわち後の後醍醐その人であることが公表されたのである。このときすでに禧子は妊娠五ヶ月、「既成事実」ができてしまっていた(「花園天皇日記」正和3年正月20日の条)。なお禧子の生年は確たることは言えないものの現在の実年齢で言うとまだ10歳か11歳の少女だった可能性も高い。このときの子どもがいつ生まれたのか、その子がどうなったかについては伝える史料がない。
 尊治親王が禧子を「盗みとった」ことは時の天皇である花園天皇の日記のほか、『増鏡』にも見え、尊治が彼女を見初めて熱愛のあまり略奪を実行したように記されている。ただし当時の尊治親王は皇太子になっていたとはいえ持明院・大覚寺両統の対立構図の中で父・後宇多上皇の思惑でピンチヒッターとして「一代限りの天皇」という約束で皇太子に立てられたものであり、その立場は非常に弱かった。すでに強い野心を抱いていた尊治は自身の後ろ盾として西園寺家を必要とし、その手段として略奪婚という強引な手段をとったのではないかとの見方もある。

 そのような事情があったとしても、彼の禧子への愛情自体は偽りなく深かったらしい。正和4年(1315)10月には第二子・懽子内親王が生まれている。文保2年(1318)2月に尊治が即位(以下、後醍醐と表記)すると、7月に禧子は女御となり、翌元応元年(1319)8月に中宮にのぼった。このとき彼女に仕える侍女として後宮に入ったのが阿野廉子で、たちまち後醍醐は廉子を寵愛するようになる。『太平記』はこれ以後後醍醐の愛情が廉子に集中して禧子への愛情が薄れたように記しているが、これは文学的誇張というもので、実際には禧子への愛情・待遇に揺らぎはなかったようである。

―激動の時代に翻弄されて―

 嘉暦元年(1326)3月、中宮・禧子が懐妊したとして後醍醐は盛大な安産祈願の祈祷を行わせた。しかし翌年になってもいっこうに出産の兆しもなく、祈祷はそのまま数年続けられた。これが実は後醍醐の腹心の怪僧・文観らによる「倒幕の呪詛」の祈祷であった――という話は古典『太平記』も伝える有名な逸話だが、決して創作ではなく、当時幕府首脳部もそれと察していたことが史料的に確認できる。禧子には懽子誕生以後は子が生まれた記録がなく、自身の「懐妊」が政治的狙いで創作され利用されたことに複雑な思いを抱いたのではないかとの想像はできよう。『増鏡』では「御身の人わらへなるありさま、天下の騒がれ(自身が人の笑いものになり天下に騒がれることとなった)」との表現もされている。一応後醍醐自身もすまないとは思っていた、とのフォローも書かれているのだが…

 元弘元年(1331)8月、娘の懽子が伊勢斎宮となるために京郊外の「野宮」に入っている最中、後醍醐天皇はついに笠置山にこもって倒幕の兵を挙げた。しかし9月には敗北して捕えられ、11月に禧子は実家の西園寺家に戻されている。『太平記』巻三では六波羅に幽閉中の後醍醐に対して禧子が琵琶に和歌を添えて差し入れをした逸話が見える。さらに翌年3月7日に後醍醐は配流先の隠岐へと送られたが、『太平記』巻四では「中宮御嘆の事」という一節があり、その前夜に禧子が六波羅の後醍醐の幽閉先を訪れ、今生の別れと覚悟して涙にくれた対面をする描写がある。ただしこれが史実であるとの裏付けがなく(「増鏡」にも同時期に「中宮の嘆き」の一節を設けるが対面の描写はない)、文学的創作とみる意見が強い。
 後醍醐が隠岐へ流された直後の元弘2年(正慶元、1332)5月19日に新帝・光厳天皇から禧子に対し「礼成門院」の女院号が贈られた。世をはかなんだ禧子は8月に出家し、仏門に入ってしまう。

 ところが事態は再び急変した。翌元弘3年(正慶2、1333)にかけて各地で倒幕運動が激化し、やがて後醍醐も隠岐を脱出、5月には六波羅探題が、さらに鎌倉も攻め落とされて幕府はあっさり滅亡してしまったのである。6月に後醍醐が京に凱旋すると、禧子は「礼成門院」の称号をはずされ(光厳在位中の措置はすべて無効となるため)、再び中宮の地位に戻って宮中に入ることとなった。だが心労のあまりかすでに禧子は病を得ており、『増鏡』によれば後醍醐還幸の直後から回復を祈る祈祷が行われている。またいったん髪をおろした後ということもあり7月12日には「皇太后宮」の称号が贈られている。
 そして10月12日、禧子は永眠した。夫・後醍醐の栄光の始まりを見届けたかのようでもあり、間もなくやって来るその崩壊を見るまいと急いでこの世を去ったかのようでもあった。後醍醐は彼女に対して改めて「後京極院」の女院号を送っている。禧子の「後任」の中宮には持明院統の後伏見上皇の皇女・c子内親王が迎えられ、それと交換するかのように禧子の娘・懽子は光厳上皇の妃となった。
 禧子は和歌にも通じ、四つの勅撰和歌集に14首が入選、南朝で編まれた『新葉和歌集』にも一首が選ばれている。

参考文献
森茂暁『太平記の群像・軍記物語の虚構と真実』(角川選書)
岡見正雄校注『太平記』補注(角川文庫)ほか
大河ドラマ「太平記」本編への登場は一切ないが、第10回で挙兵の決意を固めた後醍醐が阿野廉子に「ここには中宮もおる」と諭すセリフで言及されている。
歴史小説ではとくに目立つ登場をするものはないが、「略奪婚」の一件が触れられている例はいくつかある。
漫画作品ではかみやそのこ「阿野廉子」(ロマンコミックス人物日本の女性史)では、重要キャラクターとして禧子が登場している。禧子が皇太子・尊治に誘拐される場面が冒頭にあり、廉子はその禧子を姉のように慕って宮中にあがる設定。しかし後醍醐の「お手付き」になったことで廉子は禧子に対する慙愧の念に苦しみ、後醍醐・禧子・廉子の複雑な三角関係が展開されてゆく。基本的に禧子は神々しいほどに「いいひと」に描かれ、廉子が隠岐に行っている間もその皇子たちの面倒は禧子が見ていた。建武政権発足直後のそのはかない最期に廉子は大いに悲しむことになる。

西園寺公顕
さいおんじ・きんあき1274(文永11)-1321(元亨元)
親族父:西園寺実兼 母:花山院師継の娘
兄弟姉妹:西園寺公衡・今出川兼季・覚円(興福寺別当)・性守(天台座主)・道意(東寺長者)・西園寺鏱子(伏見妃)・西園寺瑛子(亀山妃)・西園寺禧子(後醍醐妃)
子:西園寺実顕・良寿・婉子(二条道平正室)・一条内経室・御匣殿(尊良親王妃)・今出川兼季室
官職左近衛少将・中宮権亮・左近衛中将・皇后宮権大夫・参議・権中納言・左衛門督・中宮権大夫・権大納言・春宮権大夫・右近衛大将・右馬寮御監・内大臣・右大臣
位階従五位上→正五位下→従四位上→正四位下→従三位→正三位→従二位→正二位→従一位
生 涯
―天皇の前で作法を人に聞く失態―

 太政大臣・西園寺実兼の次男。正応元年(1288)に従五位上さらに正五位下に叙爵。左近衛少将・中宮権亮・左近衛中将などを経て正応3年(1290)に参議、翌年に従三位に叙されて公卿入りする。その後権中納言・左衛門督・中宮権大夫をつとめ、永仁6年(1298)に権大納言、その後右近衛大将となる。
 西園寺家は琵琶や笛を家業とし、天皇・上皇の師となって「秘曲」の伝授をしている例が多いが、公顕も延慶2年(1307)から正和2年(1313)にかけて三度にわたり後伏見上皇に秘曲を伝授、その報いとして正和4年(1315)に従一位に叙されることができたという(「公卿補任)。翌正和5年(1316)には内大臣に昇進、さらに文保元年(1317)には右大臣に任じられるが、この頃から病がちであったらしく辞任している。なおこの文保元年3月に花園天皇の御前で県召除目が行われた際、大間書執筆を担当していた公顕が作法が分からず二条道平(公顕の娘婿)に天皇の目の前で質問し、花園にその失態を日記で批判されている。

 父・実兼は文保元年に置文を作成し、四男の兼季に子がないので公顕の養子とし、公顕の子で当時三歳の実顕を兼季の養子として、兄弟で一流を作るよう指示している。この頃から公顕の代わりに兼季が行事で琵琶の演奏を担当するようになっており、晩年の数年間はあまり表に出られない病状であったとみられる。
 元応3=元亨元年(1321)2月8日に父に先立って48歳で死去した。なお公顕は「今出川殿」を邸宅としたため「今出川右大臣」と呼ばれており、彼の系統が「今出川家」となるわけだが、公顕の子孫は途絶えてしまったため弟の兼季の方が今出川家の祖とされている。

西園寺公重
さいおんじ・きんしげ1317(文保元)-1367(貞治6/正平22)
親族父:西園寺実衡 母:家女房(名前不明) 兄:西園寺公宗 子:西園寺実長・西園寺公俊?
官職左近衛中将・土佐権守・参議・権中納言・春宮大夫・権大納言・大納言・右近衛大将・左近衛大将・右大臣・内大臣・太政大臣(南朝)
位階正四位下→従三位→正三位→従二位→正二位
生 涯
―兄・公宗を密告―

 鎌倉幕府と結びつく関東申次も務めた西園寺実衡の次男だが、母は「家の女房」とされあまり身分は高くなかったらしい。嘉暦元年(1326)に父・実衡を早く失い、その2年後の嘉暦3年(1328)に公重は従三位に叙せられ公卿の列に加わった。西園寺家は大覚寺・持明院両統を問わず重んじられたので順調に出世した。
 関東申次として幕府との関係を深める兄・公宗に対し、公重は早くから後醍醐天皇に接近していた可能性が高い。後醍醐の討幕計画には関与しなかったようだが、後醍醐が配流先の隠岐に向け京を出発するときに車寄せのところに公重が控えていたことが『増鏡』の描写にある。
 光厳天皇のもとで参議から権中納言に昇進し、皇太子となった康仁親王の春宮大夫もつとめている。しかし権勢を誇る異母兄・公宗との折り合いが悪かったためか正慶2年(元弘3、1333)には従二位権中納言から正三位参議に落ち、春宮大夫も辞任している。その直後に後醍醐の討幕運動が一気に巻き返し、ついに鎌倉幕府は滅亡して後醍醐が皇位に復帰、朝廷の人事全てを全てを元弘の乱以前に戻してしまい、当然幕府と関係の深かった西園寺家は建武新政において冷遇されることになる。

 建武2年(1335)6月、西園寺公宗は北条高時の弟・泰家(時興)とはかって後醍醐天皇の暗殺を計画した。この計画は実行直前に後醍醐側に情報が漏れ、失敗に終わるが、密告したのは公宗の弟・公重であった。この事件によりいったん流刑と決まった公宗は事故に見せかけて処刑され、密告者の公重はその功績により西園寺家の家督相続と所領安堵を認められた。結果からいえば公重はこの暗殺計画をむしろ兄を抹殺して自身が西園寺家当主になるチャンスとみて利用したことになる。南北朝時代に多く見られた本家と庶流の争いの公家における典型とされる。
 その後足利尊氏の反乱により建武政権は崩壊、後醍醐天皇は吉野へと脱出した。このとき後醍醐腹心の公家たちは後を追って吉野に入ったが、公重は京にとどまった。自分にとってライバルとなる公宗の遺児・実俊がまだ幼児(公宗処刑直後に誕生)であったことも一因だろう。だが実俊が成長するにつれ、後醍醐派とみなされた公重の立場が次第に悪くなったことも予想できる。

―南朝の太政大臣に―

 康永2年(興国4、1343)9月3日、光厳上皇が路上で土岐頼遠「院というか、犬というかか、犬ならば射て落とさん」と矢を射かけられ路上に投げ出されるという有名な事件が発生する。『太平記』によればこのとき「竹林院中納言公重」が現場にかけつけ、武士の無礼を共に嘆いて上皇を慰めたという記述がある。この事件そのものはもちろん事実だが、このとき公重が駆けつけたことについては疑問の声もある。ただ『太平記』本文は光厳が駆けつけてきた公重に「なに、公重か」と声を出すなど具体的な描写をしており、現場目撃者の詳しい話に取材している可能性もある。

 このあと時期は確認できないが西園寺家の家督は成人した実俊に移されたらしい。観応2年(正平6、1351)11月に足利尊氏が南朝と講和し北朝が一時的に廃止された「正平の一統」のおりに公重はすばやく南朝に取り入って西園寺家の家督を奪取し、西園寺家の北山の邸宅をも接収してしまう。しかし翌年2月に正平の一統が破綻し、南朝が京から撤退すると西園寺家家督は公重から実俊に再奪取された。
 翌文和2年(正平8、1353)に山名時氏楠木正儀ら南朝勢による二回目の京都占領があった時に南朝から公重が京の沙汰をするよう指名されたこともあったがこの占領も一時で終わり、さまざまに生き残り策をめぐらした公重もさすがに万策尽き(洞院公賢『園太暦』に「計略術尽く」と書かれている)、この年の9月に竹林院の屋敷を売り払って南朝の拠点・賀名生へと移り、以後は南朝の廷臣となった。

 その後の消息は詳しく分からないが南朝で編纂された和歌集『新葉和歌集』「遍照光院入道・前太政大臣」として現われるのは西園寺公重と言われている。だとすると正平13年(延文3、1358)以前に南朝太政大臣となってのちに出家していることになる。その後南朝宮廷ともに河内金剛寺や摂津住吉を転々として、貞治6年(正平22、1367)9月3日に南朝において享年51で死去していることが『師守記』『公卿補任』で確認される。
大河ドラマ「太平記」 第30回に登場(演:宋英徳)。まさに兄・公宗と北条泰家らが暗殺計画を練る場面で会合に参加しており、笑いながら相談する兄たちの様子に内心おびえて思案している。兄の邸宅を出たあとで密告を決意し「これから御所にいく」と輿を回させるが、そこに尊氏の忍び・一色右馬介が現われて問いただすので、後醍醐にではなく尊氏に密告する形になってしまった。
歴史小説では 西園寺公宗の後醍醐暗殺未遂事件のくだりが描かれる作品であれば密告者として確実に登場する。なお古典『太平記』では公重の密告の前に神のお告げが後醍醐にあったことになっている。

西園寺公永
さいおんじ・きんなが1353(文和2/正平8)-1390(明徳元/元中7)
親族父:西園寺実俊 母:四条隆資の娘
兄弟:西園寺公兼
子:西園寺実永
官職右近衛権中将・権中納言・権大納言
位階従三位→正三位→従二位→正二位
生 涯
―遅刻を義満に怒られる―

 右大臣西園寺実俊の子。貞治2年(正平18、1363)に従三位に叙せられ、貞和5年(正平4、1349)に権中納言、さらに永和元年(天授元、1375)に権大納言となる。父の実俊は西園寺家が代々務めた朝廷と幕府の連絡役「武家執奏」を三十年にわたって務めたが、足利義満が公家社会に直接参入してくるとその地位は失われ、西園寺家の優位性はほとんどなくなっていた。永和4年(天授4、1378)4月に公永は右近衛大将の地位を得ようと、義満とも近く後宮に影響力のあった日野宣子に接近して必死に運動したが、結局望みはかなえられなかった。
 永徳元年(弘和元、1381)12月、等持寺で前将軍足利義詮の冥福を祈る「武家八講」の儀式が行われ、義満は公卿全員の参加を強制した。早朝からの儀式であったためか公永はこれに遅刻してしまい、怒った義満によって追い返されてしまった(『荒暦』)。当時の公家社会は時間にルーズなのが当たり前であったらしく、それに対して義満が中国禅宗仕込みの時間厳守の姿勢で臨んだために公永がその犠牲者となってしまったようである。
 翌永徳2年(弘和2、1382)に後円融上皇の院政が始まると公永は院別当・伝奏といった重職をつとめることになったが、義満がその上の院執事をつとめていたので、義満の家臣も同然の扱いになってしまう。
 康応元年(元中6、1389)に実俊が死去して公永が家督を継いだが、その翌年の明徳元年(元中7、1390)7月15日に公永も死去してしまった。

西園寺公衡
さいおんじ・きんひら1264(文永元)-1315(正和4)
親族父:西園寺実兼 母:中原顕子
兄弟姉妹:西園寺公顕・今出川兼季・覚円(興福寺別当)・性守(天台座主)・道意(東寺長者)・西園寺鏱子(伏見妃)・西園寺瑛子(亀山妃)・西園寺禧子(後醍醐妃)
妻:中御門経子・藤原兼子・伏見院大納言
子:西園寺実衡・大宮季衡・西園寺寧子(後伏見妃)・慈快・恒良親王御息所
官職侍従・讃岐介・左近衛中将・伊予権守・参議・権中納言・左衛門督・中宮大夫・中納言・権大納言・右近衛大将・内大臣・右大臣・左大臣
位階従五位下→従五位上→従四位下→従四位上→従三位→正三位→従二位→正二位→従一位
生 涯
―両統間を巧みに遊泳―

 太政大臣まで昇った西園寺実兼の嫡男。母は中院通成の娘・顕子。幕府との連絡役・関東申次をつとめた父の権勢もあって文永2年(1265)に従五位下に叙爵され順調なペースで出世し、弘安6年(1283)に参議、さらに権中納言となり、正応元年(1288)に同母妹の鏱子伏見天皇の中宮となるとその中宮大夫となった。
 その正応元年4月に浅原為頼という武士ら数人が宮中に押し入り、伏見暗殺を謀って失敗、自決するという事件が起こった。この事件の背後に伏見ら持明院統と対立する大覚寺統の亀山上皇の存在があるのではないかとの憶測はあり、当時持明院統側に立っていた公衡は亀山の指示を疑う論陣を張って大覚寺統を追いつめた。
 永仁6年(1298)に内大臣、正安元年(1299)に右大臣に昇る。この年に父・実兼の出家を受けて関東申次の地位を引き継ぎ、幕府の後ろ盾も得る。このころ父・実兼が伏見上皇の側近・京極為兼と対立して彼を陥れたこともあり、西園寺家は大覚寺統側に接近、公衡の同母妹の瑛子が亀山法皇の妃となり、嘉元元年(1303)に皇子・恒明親王を産んだ。亀山はこの孫のような歳の我が子を溺愛し、いずれ天皇にするという約束を息子の後宇多上皇にさせた上で、公衡にその後見役を頼んで直後に死去した。当人が死んでしまうと後宇多は約束を反故にし、公衡を憎んでその所領を没収した上謹慎処分に追い込んでいる。だが公衡は幕府の力を借りて三ヶ月で許しを得ることができた。

 徳治元年(1306)には娘の寧子後伏見上皇の妃として今度はまた持明院統に接近、延慶2年(1309)に左大臣となり、正和2年(1313)に寧子が量仁親王(のちの光厳天皇)を産んだことで西園寺家はますます将来を約束された形となった。
 応長元年(1311)8月に出家し、「静勝」と号した。このころ再び伏見上皇の側近として権勢をふるいだした京極為兼の行状を苦々しく自身の日記に記しており、かなり警戒していたのだろう。その日記が書かれてから間もない正和4年(1315)9月25日に52歳で病没した。息子に先立たれた父の実兼は関東申次に復帰し、為兼を幕府に通報して再び流刑に追い込んでいる。

西園寺公宗
さいおんじ・きんむね1310(延慶3)-1335(建武2)
親族父:西園寺実衡 母:昭訓門院春日局(御子左為世の娘)
弟:西園寺公重 
妻:日野名子 子:西園寺実俊
官職左近衛中将・丹波権守・参議・権中納言・春宮権大夫・春宮大夫・権大納言・兵部卿
位階従三位→正三位→従二位→正二位
生 涯
―幕府と結びついた有力公家―

 西園寺家は公家では上から第二のクラスに位置する「清華家」の一つ。鎌倉時代には承久の乱以来幕府と朝廷の連絡役「関東申次」を代々世襲し、幕府と結びついて朝廷内で権勢をふるった。鎌倉末期、公宗が家督を相続したころには後醍醐天皇の中宮・禧子後伏見天皇の妃で光厳天皇の母・寧子も西園寺家の出身であり、大覚寺統・持明院統を問わず影響力を保持していた。

 嘉暦元年(1326)10月に父・実衡が病死し、公宗は数え18歳で家督と関東申次の地位を継いだ。おりしも後醍醐天皇による倒幕計画がくすぶっており、鎌倉幕府内でも北条高時の執権辞任をめぐる内紛が起こっていて、少年公宗には手に余る混沌とした情勢であった。元徳元年(1330)に権大納言・正二位に昇進した。
 元弘元年(1331)8月、後醍醐天皇は二度目の倒幕計画が漏れたことをきっかけに京を脱出し笠置山に挙兵した。幕府はただちに持明院統の皇族たちを六波羅探題に迎え入れ保護したが、このとき公宗も同行している。9月18日に幕府の使者・二階堂道蘊安達高景が「関東申次」である公宗に皇太子・量仁親王の即位を求め、20日に後伏見上皇の院宣に基づいて量仁の践祚が行われた(光厳天皇)。これは「天皇ご謀叛」を起こした後醍醐の帝位を否定するための措置であり、もともと幕府と結びつきが深く持明院統寄りであった公宗もそれに一役買ったことになる。
 9月28日に笠置山は陥落、翌日には後醍醐も捕縛され、10月4日に六波羅に連行された。だがこのとき幕府の上層部でも後醍醐当人の顔を直接見知った者はおらず、捕えられたのが後醍醐当人だという最終確認がとれないでいた。後醍醐から神器を受け取りに来た持明院統系の公家たちに確認を頼んだが、彼らは天皇の「面通し」を恐れ多いと思ったのかこれを拒否している。結局日を改めて西園寺公宗が六波羅に呼ばれて自らの目で後醍醐の顔を確認している。
 後醍醐の配流が決定されると、後醍醐の十歳以上の皇子たちも流刑に処された。十歳未満の幼い皇子たちは京にとどめられ、後醍醐と阿野廉子の間に生まれた恒良成良義良(のちの後村上天皇)の三皇子は公宗が預かっている。

 光厳が即位し、その父・後伏見院による院政がはじまると、公宗もその下で重んじられ、権勢をふるった。このころ正慶2年(元弘3、1333)正月に、光厳の母・寧子つきの女房であり光厳の乳母であった日野名子(日野資名の娘)を妻に迎えた。これはかなりの恋愛の末の結婚であったようで、家格からいえばかなりの差があったが公宗は名子を正室に迎えている。
 しかし幸福で穏やかな日々は長くは続かなかった。この年の閏2月末に後醍醐が隠岐を脱出、倒幕運動は各地に巻き起こり、ついに足利高氏の反旗によって5月に六波羅探題は滅亡、光厳ら持明院統皇族は近江で囚われの身となった(このとき公宗の舅・日野資名が同行して囚われ、出家している)。このとき公宗は光厳の一行に同行はしなかったが、三種の神器のうち神鏡は女官が持ちだして公宗の北山第内に安置していたことが知られる。

―後醍醐暗殺計画に失敗―

 5月22日に鎌倉が陥落して幕府は滅亡、後醍醐天皇は6月に京に凱旋した。後醍醐は光厳の即位そのものを否定し、光厳時代の人事も全て否定した。公宗もいったん権大納言の地位を辞す。8月に復帰するが、あまりに幕府と持明院統に接近しすぎた公宗が建武政権で不遇になるのは必然のことであった。

 こんな公宗のところへ、鎌倉で死んだ北条高時の弟・北条泰家がひそかに頼って来たのである。泰家は炎上する鎌倉からからくも脱出し陸奥にひそんでいたが、還俗して名を「時興」と改め「田舎侍が初めて召し抱えられた体」を装って北条氏と縁が深い西園寺家にもぐりこんだ。泰家も大胆だが、このような危険人物を邸内にかくまった公宗も大胆であった。
 そして公宗と泰家は「後醍醐天皇暗殺」というさらに大胆な謀略を進めることになる。このころ建武の新政はすでに大混乱を引き起こしており、武士はもちろん民衆も不満をつのらせ、公家社会でも後醍醐の先例・家格を無視した革新的すぎる独裁体制に強い危険性を感じる人は多かった。天皇の暗殺というほとんど前例のない大胆な謀略はこうした危機感を背景にしており、公宗と泰家らだけで進めた計画ではなく、持明院統の皇族も関わるかなり大がかりなものだったのではないかとの推測もある。

 建武2年(1335)6月、後醍醐暗殺計画は実行に移される。『太平記』によれば公宗らは西園寺家の北山第に湯殿を作り、そこに床を踏むと落とし穴が開いて、穴の底に立てられた多くの刀によって落ちた人間が串刺しになるという大がかりな仕掛けを作った。ここに後醍醐をおびき寄せて暗殺し、後伏見上皇を奉じて持明院統皇族を新天皇に立てて政権を奪取、同時に各地で北条残党が蜂起して一挙に元弘以前の段階に戻してしまおうという計画だったという。
 しかしこの計画は寸前に漏れた。かねてから公宗と仲が悪く、公宗から西園寺家家督を奪取しようと狙っていた異母弟・西園寺公重が密告したのである。後醍醐は6月17日に後伏見の身柄を持明院殿から京極殿に軟禁したうえで、6月22日に公宗とその義父・日野資名およびその子・日野氏光、西園寺家家司の三善文衡らを捕縛させた。公宗は中院定平に預けられて27日に出雲へ流刑と決まり、文衡は拷問を受けた末に処刑された。
 北条泰家はからくも逃れ、信濃に向かった。そして7月に当初の計画通り信濃の諏訪にかくまわれていた高時の子・北条時行と共に挙兵する。時行軍は怒涛の勢いで鎌倉を守る足利直義の軍を撃ち破り、7月25日に鎌倉を攻め落とした(中先代の乱)。この情報を受けた足利尊氏は後醍醐の許可を得ぬまま8月2日に京から出陣していく。これがそのまま建武政権の崩壊につながってゆくことになる。

 西園寺公宗が突然処刑されたのはその8月2日のことである。『太平記』によれば、出雲に配流になるという前夜に愛妻の名子が定平邸に公宗を訪ねている。出雲への流刑と信じている公宗だが、これが今生の別れかもしれないと妊娠中の名子と涙ながらに語らった。「もし生まれてくる子が男子であれば、将来を悲観せずにしっかり育ててやってくれ。これは我が家に伝わる家宝であるから、顔を知らぬ父親の形見として渡しておこう」と公宗は家伝の琵琶の秘曲の楽譜を名子に手渡して、「哀れなり 日影待つ間の 露の身に 思ひをかかる なでしこの花」(日が射すと消えてしまう露のように明日をもしれぬ我が身、残される子(=なでしこ)のことが心配でならない)と歌を詠んだ。夫婦の別れが済んだところで公宗は護送役の名和長年に引き渡されたが、このとき中院定平が「早(はやくしろ)」とせかしたのを、長年が「殺してしまえ」との意味ととって、即座に公宗を組み敷いてその首を切り落としてしまった。名子は物陰からこの様子を目撃して気絶してしまったという。
 これはあくまで『太平記』の伝える劇的な場面であって、実際にこの通りだったかどうかは疑わしい。三位以上の公卿を死刑にした例は平安を通じてほとんどなく、平治の乱の折の藤原信頼の死刑以来のことで、公宗の処刑は公家社会の批判を浴びたといい、恐らく「聞き違いによる事故」ということにしてしまったのだと思われる。当初は決定通り流刑の予定だったが、直後に中先代の乱が起きたことで急遽「見せしめ」として後醍醐が処刑を決断したのだろう。
 西園寺家の家督と所領は密告した異母弟・公重の手に落ちた。名子が身ごもっていた子は公宗の死の百日後に生まれ、男子であった。この男子が西園寺実俊で、公重から西園寺家家督を奪い返し、父の恨みを晴らすことになる。

参考文献
佐藤進一『南北朝の動乱』(中公文庫)
飯倉晴武『地獄を二度も見た天皇 光厳院』(吉川弘文館・歴史文化ライブラリー147)
森茂暁『太平記の群像・軍記物語の虚構と真実』(角川選書)ほか
大河ドラマ「太平記」 長谷川初範が演じ、第15回、第21回、第30回の3回登場している。第15回では笠置陥落後わが世の春を謳歌する持明院統系公家の代表として登場、高氏を露骨に見下す態度を見せる。第21回ではその高氏による六波羅攻撃を受けてうろたえていた。第30回では冒頭で後醍醐暗殺計画が描かれ、密談シーンや捕縛シーンがあった。処刑については描かれていない。
歴史小説では なにせ後醍醐暗殺を謀った公家なので、登場する例は多い。一番印象的なのは光厳天皇の生涯を描いた森真沙子『廃帝』で、名子との結婚話やその悲劇的結末が詳しく描かれる。
漫画作品では 児童向け学習漫画系では天皇暗殺というきわどい話のせいか公宗の話はカットされることが多い(小学館版ではナレーションのみ)。しかし昭和40年代に出ていた最初の集英社版では天皇暗殺未遂事件に1ページを費やしていた。
さいとう・たかを版『太平記』(全3巻、マンガ日本の古典)に公宗による暗殺計画が詳しく描かれている。甲斐謙二・画「マンガ太平記」(上・下巻)でも簡潔ではあるが触れられ、公宗が登場している。

西園寺実顕
さいおんじ・さねあき1315(正和4)?-1333(正慶2/元弘3)
親族父:西園寺公顕 母:菅原在綱の娘
兄弟姉妹:良寿・婉子(二条道平正室)・一条内経室・御匣殿(尊良親王妃)・今出川兼季室
子:今出川公冬
官職侍従・左近衛少将・左近衛中将・中宮亮・参議・備中権守・権中納言
位階従従五下→従五位上→正五位下→従四位下→従四位上→従三位→正三位
生 涯
―今出川家を継ぐはずが早世―

 右大臣・西園寺公顕の子。生年は明確ではないが、祖父の西園寺実兼が文保元年(1317)に作成した置文の中で「三歳」とあることから正和4年(1315)の生まれと推定される。父・公顕にとってはかなり遅く生まれた嫡男であった。このころ公顕は病気がちで、実兼は四男の兼季を公顕の養子とし、さらにその兼季の養子に三歳の実顕を入らせ、「今出川家」として一流をなすように指示している。これはその時点で兼季に子がなかったための措置であったが、翌文保2年(1318)に兼季に実子・実尹が生まれてしまい、元亨元年(1321)に公顕が、元亨2年(1322)に実兼が相次いで死去したため、実顕の立場は微妙なものとなってしまう。

 嘉暦元年(1326)に侍従となり、左近衛少将・左近衛中将・中宮亮などを歴任、元徳元年(1329)11月に従三位に叙されて公卿となり、翌元徳2年(1330)に参議に列する。元徳3年(元弘元、1331)に正三位に叙されたが、この年に「元弘の乱」が起こり、後醍醐天皇が倒幕の挙兵をして失敗、入れ替わりに即位した光厳天皇のもとで正慶元年(元弘2、1332)に権中納言に任じられた。
 ところが翌正慶3年(元弘3、1333)5月に鎌倉幕府が滅亡して後醍醐が復位し、光厳治世の人事を全て「なかったこと」にしてしまったため、実顕の地位は参議に戻されてしまう。そのショックでもあったのか、同年9月15日に実顕は死去してしまっている。39歳であったと推定される。
 息子が今出川公冬で、父に続いて今出川兼季の養子となったが、後に南朝に走っている。

西園寺実兼
さいおんじ・さねかね1249(建長元)-1322(元亨2)
親族父:西園寺公相 母:中原師朝の娘
妻:中院顕子・藤原孝子・花山院師継の娘
子:西園寺公衡・西園寺公顕・今出川兼季・覚円(興福寺別当)・性守(天台座主)・道意(東寺長者)・西園寺鏱子(伏見妃)・西園寺瑛子(亀山妃)・西園寺禧子(後醍醐妃)
官職侍従・左近衛少将・讃岐介・左近衛中将・遠江権守・権中納言・権大納言・春宮大夫・大納言・右近衛大将・内大臣・太政大臣
位階従五位下→従五位上→正五位下→従四位下→正四位下→従三位→正三位→従一位
生 涯
―鎌倉後期朝廷で権勢をふるう―

 太政大臣・西園寺公相の子。西園寺家は承久の乱以来幕府と朝廷の連絡役「関東申次」を世襲して権勢をふるっており、実兼もその嫡子として建長7年(1255)に七歳で従五位下に叙爵されたのを皮切りに順調に出世、文永3年(1266)には18歳で権中納言にまで昇った。翌文永4年(1267)に父・公相が死去、さらに文永6年(1269)に祖父・実氏が死去したため、実兼は21歳の若さで西園寺家家督と関東申次の職を継ぐことになった。
 このころ皇室は後深草上皇亀山上皇の兄弟間で皇位継承をめぐり激しい争いを起こしていた。亀山と結びついた西園寺家庶流の洞院実雄が権勢をふるって西園寺本家は押され気味になっており、実兼は後深草に接近、関東申次の立場も利用して幕府に働きかけ、建治元年(1275)に執権・北条時宗の調停により後深草の皇子・熙仁親王(のちの伏見天皇)を皇太子に立てることに成功する。実兼はその熙仁の春宮大夫となり、勢力挽回の手がかりをつかむことになるのだが、これが南北朝分裂にまで続く両統対立の始まりともなるのだった。
 なお、これと前後して起こった二度の元寇(蒙古襲来)においても実兼は幕府と朝廷の連絡役として重要な働きを見せている。また、この若き日々に実兼は後深草上皇の愛妾・後深草院二条とひそかに男女関係を結んでいたとされ、彼女が記した赤裸々な回想録「とはずがたり」に「雪の曙」の仮名で登場する貴公子は実は実兼であるというのが通説である。

 弘安10年(1287)に熙仁が践祚して伏見天皇となり、翌年に実兼は右大将・従一位に昇進し、自分の娘・鏱子を伏見の中宮とした。正応2年(1289)にまだ2歳の伏見の皇子・胤仁親王(のちの後伏見天皇)が皇太子に立てられると、胤仁を鏱子のもとで養育させ、ますます権勢を強めた。正応4年(1291)12月には太政大臣に昇りつめた。
 しかし伏見天皇の親政の間にその腹心であり革新的歌人としても知られる京極為兼の権勢が強まり、実兼と何かと対立するようになってきた。永仁6年(1298)3月に為兼は謀反の疑いで幕府に逮捕され佐渡に流刑となったが、これは実兼が為兼を陥れるために仕組んだ陰謀であったとも言われる(もっとも為兼が実際に伏見と反幕府の陰謀をめぐらせていた形跡もあり、あながち濡れ衣とも言えないようである)
 
―両統にバランスよく―

 正安元年(1299)6月24日に実兼は出家して「空性」(悦空との説も)と号し、息子の西園寺公衡に関東申次職を引き継がせ第一線からは退いたが、影響力は依然として持ち続けた。
 為兼の一件で伏見との間に不和が生じたためか、実兼はかねて対立関係にあった大覚寺統の亀山法皇に接近、娘の瑛子を亀山の妃とした。瑛子は嘉元元年(1303)に亀山の皇子・恒明親王を産み、亀山はこの恒明を溺愛、将来必ず天皇にするようにと強く望み、実兼の子の公衡に後見人となるよう指示している。しかしこのために亀山の子である後宇多上皇から公衡が憎まれて処分を受けるという一幕もあり、徳治元年(1306)に孫娘の寧子後伏見上皇の妃とすることで再び持明院統に接近し、両統とバランスよく関係を持つようになっている。
 また正和2年(1313)には後宇多の皇子でこのとき皇太子となっていた尊治親王(のちの後醍醐天皇)が実兼の娘・禧子(当時数えで10歳くらい?)を誘拐して妃にしてしまうという事件が起こり、実兼もあまりのことに驚きはしたものの結果的にこれも両統のバランスをとった関係を持つことにもなった。尊治が禧子を誘拐という非常手段で我がものとしたのも、その父・実兼と結びついておこうという政治的意図があったとの見方も強い。

 正和4年(1315)9月25日に公衡が父に先だって死去してしまい、やむなく実兼が関東申次に再登板した。このころは花園天皇が在位して伏見上皇の院政が行われ、佐渡から戻った京極為兼が再び伏見の側近として権勢をふるい始めていた。実兼は息子を失ったこともあり焦ったのだろうか、この年の12月に実兼は再び為兼が倒幕を計画していると幕府に訴え、彼を土佐へと流刑にしている。
 この一件のために持明院統はまた不利な状況となり、文保元年(1317)に伏見が死去すると、翌文保2年(1318)にいわゆる「文保の和談」があって大覚寺統の後醍醐天皇が即位した。これにより実兼は後醍醐の義父となり晩年までその影響力を保つこととなった。

 間もなく動乱が始まろうとしていた元亨2年(1322)9月10日に享年74歳で病没した。実兼は和歌のほか西園寺家の家芸である琵琶にすぐれ、『西園寺実兼詠草』を後世に残した。
歴史小説では「とはずがたり」の「雪の曙」のモデルということもあり、それに基づいた小説類で登場している。
漫画作品ではいがらしゆみこが担当した「マンガ日本の古典」シリーズの「とはずがたり」に登場している。

西園寺実永
さいおんじ・さねなが1377(永和3/天授3)-1431(永享3)
親族父:西園寺公永 妻:持明院基親の娘
子:西園寺公名
官職左近衛中将・参議・権中納言・権大納言・右近衛大将・内大臣・右大臣
位階従四位下→従三位→正三位→従二位→正二位→従一位
生 涯
―北山邸を義満に譲る―

 権大納言西園寺公永の子。初名は「実村」と言った。明徳4年(1393)に参議、応永6年(1399)に権大納言、応永26年(1419)には内大臣、応永27年(1420)に右大臣、応永28年(1421)に従一位に昇りつめた。永享3年(1431)10月9日に55歳で死去。「慶寿院」と贈り名された。
 彼の生きた時代は足利義満足利義持の室町幕府絶頂期で、西園寺家はすっかり足利家の家臣同然のありさまとなり、とくに実永が義満に家臣の如くへつらったことは後円融上皇の激怒を招いたと言われる。応永4年(13697)に実永は義満に請われて河内の所領と引き換えに西園寺家が代々持っていた広大な北山山荘の土地を譲渡し、この地に義満は名高い金閣をはじめとする壮大な北山第を建設したのである。絵巻物『因幡堂縁起』の詞書きも手がけている。

西園寺実俊
さいおんじ・さねとし1335(建武2)-1389(康応元/元中6)
親族父:西園寺公宗 母:日野名子(日野資名の娘)
妻:四条隆資の娘・日野宣子
子:西園寺公永・西園寺公兼
官職左近衛中将・播磨介・美作権守・権中納言・左衛門督・権大納言・右近衛大将・右馬寮御監・内大臣・右大臣
位階従五位下→従五位上→正五位下→従四位下→従四位上→従三位→正三位→従二位→正二位→従一位
生 涯
―「逆賊の息子」からの復権―

 西園寺公宗の子。母は著書『竹むきが記』で知られる日野名子。初名は「実名」といった。
 実俊が生まれようとしていた時期は建武政権下であった。かつて鎌倉幕府との連絡役「関東申次」をつとめて権勢を誇った西園寺家は幕府の滅亡と後醍醐天皇の新政の開始によって冷遇されてしまっていた。おりから建武政権への不満もたかまっており、建武2年(1335)6月に公宗は北条残党と組んで後醍醐暗殺の計画を進めた。しかしこれは公宗の弟・西園寺公重の密告によって発覚し、公宗は8月にひそかに処刑されてしまう。このとき名子の腹の中にはすでに実俊がおり、『太平記』によれば後醍醐はその子が男子であれば差し出すようにと指示を出した(むろん、殺すためである)。公宗の死からおよそ百日で実俊が生まれたが、公宗の生母昭訓門院春日局は「生まれたがすぐに死んでしまった」とごまかし、名子と共に人目を忍んでひそかに実俊を養育した。西園寺家の家督は密告の功績により公重の手に渡っている。

 やがて足利尊氏の反乱により建武政権は崩壊、持明院統が皇位を取り戻したことで実俊も復権の機会を得た。建武4年(延元2、1337)に右大臣洞院公賢の屋敷で3歳となった実俊の「真名の祝い」が行われて公家社会への復帰を果たし、この年に従五位下に叙せられ、暦応3年(興国元、1340)に実俊は名子と共に西園寺家の北山第に入り、翌暦応4年(興国2、1341)12月7日に元服して完全に西園寺家の嫡流として復権を果たした。成人を期して叔父の公重から西園寺家督を取り返し、康永3年(興国5、1344)に従三位、貞和5年(正平4、1349)に正三位・権中納言となる。

 ところが幕府の内戦「観応の擾乱」のなかで足利尊氏が北朝を見捨てて南朝と結び、南朝が北朝を接収する「正平の一統」が実現すると、実俊も慌てて賀名生の後村上天皇のもとへ馳せ参じたが、叔父の公重がすばやく南朝にとりいって西園寺家督と北山第を実俊から奪い取ってしまった。しかし翌年の正平の一統の破綻、南朝軍の京都失陥の結果、実俊は叔父から家督と屋敷を再奪取した。結局公重は文和2年(正平8、1353)の南朝軍二度目の京都占領の失敗のあとで南朝に走ってしまった。実俊はその年に権大納言となり、西園寺家が代々務めた「関東申次」の流れを汲む幕府との連絡役「武家執奏」もつとめるようになっている。なお、延文3年(正平13、1358)に実俊を苦労の末に育て上げた母・名子が死去している。

 貞治3年(正平19、1364)に内大臣、貞治5年(正平21、1366)に右大臣、永和2年(天授2、1376)に従一位にまで昇った。この間実俊は武家執奏の職を永徳2年(弘和2、1382)ごろまでおよそ30年の長期にわたって務め、西園寺家の家業である重要な役職をつとめおおせたが、足利義満が公家社会に直接参加して権勢をふるうようになってきたため、その役職は事実上消滅してしまった(三条公忠の日記『後愚昧記』によると実俊は義満と不仲でもあったらしい)。幕府との連絡役としての西園寺家の歴史は彼で終わることになる。
 康応元年(元中6、1389)6月8日に出家し、それから間もない7月6日に死去、享年55。「後常盤井入道前右府」と呼ばれ、『太平記』では「北山の右大将」と呼ばれたことがみえる。

参考文献
森茂暁『増補改訂 南北朝期公武関係史の研究』 (思文閣出版)
松本寧至「西園寺名子」(歴史読本1991年4月号「特集『女太平記』南北朝の女性たち」所収)ほか

西園寺実衡
さいおんじ・さねひら1290(正応3)-1326(嘉暦元)
親族父:西園寺公衡 母:中御門経任の娘
兄弟姉妹:西園寺季衡・寧子(後伏見妃)
妻:昭訓門院春日局(御子左為世の娘)
子:西園寺公宗・西園寺公重・今御方(光厳後宮)・大炊御門冬信室
官職侍従・右近衛中将・左近衛中将・美濃権守・権中納言・左衛門督・中納言・権大納言・中宮大夫・大納言・右近衛大将・内大臣
位階従五位下→従五位上→正五位下→従四位下→従四位上→従三位→正三位→従二位→正二位
生 涯
―資朝にからかわれたお坊ちゃん―

 左大臣まで昇り、幕府との連絡役「関東申次」をつとめた西園寺公衡の嫡男。正応4年(1291)に従五位下、嘉元2年(1304)正月に従三位に叙される。延慶2年(1309)に権中納言となる。正和4年(1315)9月に父・公衡が死去し、実兼はまだ若かったためか祖父の西園寺実兼が関東申次に復帰している。正和5年(1316)に権大納言、元亨2(1322)年8月に大納言に昇進。その直後の9月に祖父・実兼が死去し、家業である関東申次の職を引き継いだ。
 正中元年(1324)4月内大臣となるが、この年の9月に後醍醐天皇による倒幕計画が発覚、「正中の変」となる。このあとも後醍醐による倒幕への不穏な動きは続き、実衡は幕府との連絡役として気苦労が絶えなかったようである。そのせいか嘉暦元年(1326)10月に内大臣を辞し、翌月に死去してしまった。まだ37歳の若さである。彼の死を受けて息子の西園寺公宗が18歳でその地位を引き継ぐことになる。

 実衡は『徒然草』第152段に登場している。日野資朝の若き日のエピソードの一つで、西大寺の静然上人が腰も曲がり眉も真っ白になった姿で参内する様子を見た実衡が「なんと尊いお姿か」と感嘆していると、資朝が横から「年をとっているだけのことですよ」とささやいた。後日、資朝は毛も抜けて汚く老いさらばえた犬を連れて来て「このお姿は尊いではありませんか」と実衡に見せてからかった、という逸話である。古臭い見かけだけの権威などものともしない資朝に対し、わけもなく権威をあがめたてる名門のお坊ちゃんらしい実衡が引き立て役をつとめさせられているわけで、歴史的にはほとんど事績を残していない彼が後世に名を残したのは『徒然草』のこの話のおかげと言えなくもない。

西園寺寧子
さいおんじ・ねいし(やすこ)1292(正応5)-1357(延文2/正平12)
親族父:西園寺公衡 母:藤原兼子(藤原光保の娘)
兄弟:西園寺実衡・西園寺季衡
夫:後伏見天皇
子:光厳天皇・光明天皇
位階従三位→准三后
生 涯
 持明院統=北朝の二人の天皇の生母。「広義門院」の女院号で知られる。南北朝の激動に翻弄されながら二度も「国母」となり、さらには窮余の一策であったとはいえ一時的に天皇を即位させるための「上皇」の役割まで務めることになった異例尽くしの女性である。

―子もいないのに「母親」役?―


 左大臣で関東申次をつとめた西園寺公衡藤原兼子の間に正応5年(1292)に生まれる。母の兼子はのちに娘が「国母」となったために従一位を贈られているが、『尊卑分脈』によるとその父は藤原光保という左馬助となった下級貴族で、彼女自身も「家女房」という低い地位で公衡の妻となっている。つまり寧子の出自自体は母系で見るとそれほど高いものではなかった。
 乾元元年(1302)、寧子は十一歳で通過儀礼の「着袴の儀」を持明院統の御所である富小路殿で行い、伏見上皇の猶子(養子)とされた。皇室が持明院統と大覚寺統の二系統に分かれて争うなかで西園寺家は巧みに双方と縁組をして立場を強めており、この時点で寧子は持明院統の皇族の妃となることに確定したと言っていい。
 徳治元年(1306)4月、15歳の寧子は後伏見上皇の女御として後宮入りした。後伏見は「上皇」といっても永仁6年(1298)7月から正安3年(1301)正月までのわずか2年半即位していただけの、まだ19歳の少年であった。このとき後伏見にはまだ皇子がなく、寧子にとってはその皇子を産むことこそが最大の責務であった。

 延慶元年(1308)8月に大覚寺統の後二条天皇が26歳の若さで死去し、後伏見の弟で当時12歳の富仁親王が即位した(花園天皇)。その直後の延慶2年(1309)正月9日に18歳の寧子は従三位に叙せられ、さらに13日に「准三后」(皇后・皇太后・太皇太后に准じる待遇)の宣下を受け、同時に「広義門院」の院号宣下も受けた。これは花園天皇の母親の代理「准母」の扱いを受けたことを意味する。これは伏見上皇の意向であったとみられ、まだ後伏見には子がないため弟の花園を「養子」の扱いにし、これにともない寧子も花園の「母親」役をさせられたということであるらしい。実の子も産まないうちに「母親」にさせられてしまった寧子は正月27日に「息子」である花園との対面の儀式を内裏で行っている。なお、はるか後に足利義満の妻・日野康子後小松天皇の准母とされたとき、この時の先例に従って「母子」対面の儀式が行われている。

 正和2年(1313)に寧子は待望の男子・量仁親王(のちの光厳天皇)を産んだ。さらに8年後の元亨元年(1321)に豊仁親王(のちの光明天皇)を産み、その地位をますます確かなものとしている。こうした皇子誕生は持明院統にとっては慶事だったが、この間、正和4年(1315)に寧子の父・公衡が死去、さらに文保元年(1317)には伏見上皇が死去し、持明院統の力は弱まった。追い打ちをかけて文保2年(1318)にいわゆる「文保の和談」があり、大覚寺統の後醍醐天皇が即位して皇太子も大覚寺統の邦良親王とされてしまう。西園寺家の重鎮である寧子の祖父・西園寺実兼も元亨2年(1322)に死去している。
 劣勢に追い込まれた持明院統だったが正中元年(1324)に後醍醐の倒幕計画が発覚(正中の変)、嘉暦元年(1326)に太子の邦良が死去し、各派が鎌倉幕府にはたらきかけた結果、寧子の子である量仁がようやく皇太子に立てられることとなった。

―激動の中で二度「国母」に―

 そして元徳3年(元弘元、1331)8月に後醍醐はついに京を出て笠置山に倒幕の兵を挙げた。これを受けて幕府は9月20日に後伏見の院宣により「三種の神器」なしで量仁を践祚させた。寧子はここでようやく本物の「国母」となったわけである。
 まもなく後醍醐は捕縛されて隠岐へ配流となり、後伏見の院政が開始されて持明院統はわが世の春を謳歌した。しかし情勢は急転する。正慶2年(元弘3、1333)になると赤松円心ら後醍醐方の軍が京を攻撃し、持明院統皇族は六波羅探題に避難した。5月7日に足利高氏が後醍醐方に寝返ると六波羅は支えきれなくなり、後伏見・花園・光厳の三人を奉じて関東を目指し脱出する。このとき女性たちはさすがに連れていくことができなかったので寧子らは実家の西園寺家に預けられたとみられる。
 5月9日に六波羅一行は近江・番場宿で集団自決し、後伏見らは捕えられて京に戻って来た。直後に京に凱旋した後醍醐は光厳の即位そのものを否定してしまい(一応上皇号は贈ったが)、後伏見は失意のあまり6月26日に出家した。

 後醍醐による建武政権下で寧子の実家・西園寺家は不遇をかこつこととなった。寧子の甥である西園寺公宗は北条残党と結びついて後醍醐の暗殺を計画、建武2年(1335)6月にこれが発覚して公宗は8月2日に処刑されてしまう。公宗の妻・日野名子はもともと寧子の侍女で光厳の乳母であった。寧子にとってもこの事件は非常に身近なものであったに違いない。
 このころには後伏見は長く重病に伏せっていたようで、建武3年(1336)2月に寧子は髪をおろして尼となっている。4月6日に後伏見は49歳で死去。寧子も45歳となっていた。

 しかし情勢はまためまぐるしく変化してゆく。建武政権から離反した足利尊氏は光厳の院宣を得てこれを旗印に建武3年(1336)5月に湊川の戦いに勝利、その後京に入って光厳と豊仁親王を確保し、光厳の院宣によって「三種の神器」なしで豊仁を践祚させた(光明天皇)。ここに寧子は再び「国母」となったのである(花園の准母となったことを含めれば三度目になる)
 その後も後醍醐が脱出して吉野に南朝を開くといった事態も起きたが、北朝=幕府側がおおむね優勢であり、しばらくは北朝皇室は平穏に日々を送るようになっていた。寧子も子や孫たちが皇位を継いでゆくのを見ながら安楽に余生を送れると思っていたはずである。

―「女治天」となる―

 貞和4年(正平3、1348)10月に光明から光厳の皇子・興仁親王に皇位が譲られた(崇光天皇)。その皇太子には花園の皇子・直仁親王が立てられたが実は直仁は光厳の子で、寧子からすればどちらにしても自分の孫によって皇位が継がれることに変わりはなかったのである。
 貞和5年(正平4、1349)に寧子はそれほど先も長くあるまいとみたか財産分与の譲状をしたためている。その中で「ものを書くことも難しい」と書いていて、すでに目も悪くしていたようである。

 ところがこのころから足利幕府内で深刻な内紛が発生、観応元年(正平5、1350)に足利尊氏・直義兄弟が全面対決する「観応の擾乱」に突入した。この混乱のなかで直義、つづいて尊氏までが南朝と手を組んで相手を倒そうとし、南朝は漁夫の利を得る形で復活してしまう。観応2年(正平6、1351)11月に尊氏が北朝を見捨てて南朝に「降伏」したことで、南朝の後村上天皇は崇光天皇と直仁皇太子を廃して朝廷を統一した(正平の一統)
 さらに翌文和元年(正平7、1352)閏2月には南朝軍は一挙に京都に突入、占領し、光厳・光明・崇光・直仁の四人を石清水八幡に連行、さらに河内へと移してしまった。これは足利方に京を奪回されることを見越して、北朝皇族を全て拉致してしまうことで足利側がもはや天皇を立てられないようにしてしまおうという狙いであった。足利軍は間もなく京を奪回、石清水八幡の南朝本陣も攻め落としたが、北朝皇族らは遠く賀名生に連れ去られ、必死に返還交渉を行っても南朝側はなしのつぶてであった。

 しかし南朝にも見落とされていた北朝皇族が一人いた。光厳の第三皇子でこのとき15歳、妙法院に入って僧侶となることになっていた弥仁王である。足利幕府はやむなくこの弥仁を新天皇に擁立することにしたが、三種の神器も南朝に持ち去られている。光厳も光明も神器なしで践祚しているのだが、その場合は天皇より上位の「治天」である後伏見・光厳の院宣による即位という形をとっていた(過去にも後鳥羽天皇の例がある)。今回はその「治天」をつとめられる者が全て連れ去られてしまっているのだ。形式的なこととはいえ、この時代にあっては天皇の正統性を確保するためにやはり重要な問題であった。

 6月3日、幕府の重鎮である佐々木道誉が朝廷と幕府の橋渡し役である公家・勧修寺経顕のもとを訪れ、「三宮(弥仁)の践祚について、女院(寧子)にご政務をとっていただきたい」と申し入れた。つまり弥仁を即位させるための「治天」の役割をその祖母であり二上皇の生母である寧子に務めてもらいたい、との申し入れだった。当時尊氏は関東へ出陣していたため幕府の政務は息子の足利義詮に任されており、義詮や道誉、あるいは政僧である賢俊らの間でこの「女治天」を立てるという奇策が思いつかれたらしい。
 幕府側は一応低姿勢に「皇位のことは武家だけで決めるのは恐れ多い。といって放置もできません。ここは女院に新天皇をご指名いただきたい」と申し入れたが、これを伝えられた寧子は激怒した。「両上皇らが連れ去られたことは私にとっては迷惑至極。まして皇位など口出しはできぬ。全て迷惑なことばかり。武家の方で勝手に決めても支障はないでしょう」と言ってケンもホロロに拒絶した(『園太暦』)。彼女にしてみれば子や孫を南朝に連れ去られたのは尊氏の裏切り、そして義詮の失策のためにほかならず、幕府、そして南朝との折衝役だった公家の洞院公賢を「敵(かたき)」と深く恨んでいたのである(百年ほど後に書かれた『続神皇正統記』にそういう記述がある)

 しかし幕府としては他に方法もないので、佐々木道誉が何度も何度も足を運んで経顕を通じて寧子に頼みこみ、とうとう6月19日に寧子はしぶしぶ幕府の要請を大筋で受け入れることにした。全て形式的なことではあるが、北朝を再建できるかどうかという国家の重大問題が61歳の女性にウンと言わせることにかかっていた、というこれまた異例の事態であった。
 6月26日に寧子の令旨により、二条良基が関白に復帰。さらに翌27日には全ての官位や天台座主など寺社の地位をまとめて「正平の一統」以前に戻すとの令旨がやはり広義門院こと寧子の名において公布された。もちろん全ては幕府の意向を受けたものであったが、異例であろうとなんであろうと彼女の名前を必要としたことは事実であった。このように形式的にせよ年配の女性を「君主」としていただき政務を処理する前代未聞のアイデアは、実は武家社会に古くからあった後家による家政主導(北条政子もその例になるかもしれない)の発想に基づくのでは、との意見もある。
 弥仁の践祚の儀式についても何せ神器なし、上皇なしと先例のまったくないことなので先例がなければ何もできない公家たちは頭を抱え、寧子に相談もしてみたが彼女は「皆さんで相談して決めなさい」と言うだけであったという。結局公家たちは臣下らの推戴によって即位した6世紀の継体天皇の先例を無理やりこじつけ、神器の代わりにそれを入れていた唐櫃を使うという形で践祚の儀式を行うこととし、寧子もそれを了承した。
 これ以外にも伝奏の人事や皇室領の長講堂領の処置など、「治天」として政務を彼女はこの年の暮れまで精力的に(本人の意思はそこにないかもしれないが)こなしている。翌文和2年(正平8、1353)に入ると政務については後光厳の親政に任せたが、形式的には皇室の家督保持者「治天」でありつづけ、皇室の持つ領地は全て彼女の支配下に置かれている。

 文和4年(正平10、1355)に光明上皇が先に京に送還され、延文2年(正平12、1357)2月に残りの光厳・崇光・直仁も京に帰って来た。北朝側が寧子を「治天」とする奇策を使ったため南朝側も北朝皇族を捕えておく必要がなくなったのだ。光厳は公家たちには一切帰還を知らせず、こっそり母の寧子にだけ知らせて金剛寿院に入った。洞院公賢が光厳帰還の噂を聞きつけて寧子にそのことを尋ねると寧子は光厳の居所をしゃべってしまい、公家たちが光厳の見舞いに殺到して光厳から拒絶されるという一幕もあった。
 その年の閏7月22日に寧子は痢病のために享年六十六で死去した。結局その死まで、形式的には皇室史上空前絶後の「女治天」のままであった。
 
参考文献
今谷明「中世奇人列伝」(草思社)
林屋辰三郎「内乱のなかの貴族・南北朝と『園太暦』の世界」(角川選書)
河内祥輔・新田一郎「天皇の歴史04・天皇と中世の武家」ほか
歴史小説では光厳天皇を主人公とした「廃帝」に登場している。

雑賀西義さいか・せいぎ生没年不詳
親族子:雑賀貞尚
官職隼人佐
幕府六波羅探題引付頭人・奉行人(鎌倉幕府)引付方奉行人(室町幕府)
建武の新政
雑訴決断所
生 涯
―二つの幕府をまたいだ在京の官僚武士―

 三善氏の系譜をひき、紀州雑賀荘に入った系統が雑賀氏を名乗った。鎌倉幕府の初期から在京の官僚武士として活躍した家の一つである。「雑賀隼人佐西義」あるいは「西阿」は鎌倉末期から南北朝時代にかけて生きた人物である。諱については確定していないが「秀倫」ではないかとの説がある。
 文保元年(1317)に第四番引付頭人、元亨元年(1321)に第三番引付頭人となる。元徳3=元弘元年(1331)には六波羅探題の奉行人となり、同年5月に後醍醐天皇の討幕計画が再び発覚して、幕府への呪詛を行った容疑で円観文観忠円らが逮捕された際、その捕縛の使者になったのが「雑賀隼人佐」であったことが『太平記』でも触れられている。この年の8月に後醍醐が笠置山で挙兵、一時比叡山も後醍醐に呼応して六波羅軍と戦闘に及んだが、8月29日にこの経過を幕府へ報告する使者役も「雑賀隼人佑」であったと『光明寺残篇』にある。

 鎌倉幕府が滅亡して建武政権が発足すると、元幕府の実務官僚たちの多くがそのまま建武政権でも政務にあたり、雑賀隼人佐も土地問題を担当する「雑訴決断所」に名前を見せている。この時点で出家しており、「入道西阿」と書かれている。
 その後、足利幕府が成立するとやはり政務官僚として活躍しており、康永3年(興国5、1344)の幕府引付方の名簿に「雑賀隼人入道西義」として名前が載っている。「西阿」が「西義」に変わっているのは、当時南朝方で活動していた大和の武士で「西阿」を名乗る者がいたことと関係するのかもしれない。

 金沢文庫古文書所蔵の元徳2年(1330)3月24日付の書状で「雑賀中務丞が侍所に同日やって来たと聞いた。隼人亮なる者の子息である」との記述があり、隼人亮(佐)の息子が雑賀中務丞であり、これは雑賀貞尚であると推定される。

参考文献
岡見正雄『太平記(一)』(角川文庫)補注
森幸夫『六波羅探題の研究』(続群書類従刊行会)

斎藤利泰(康)さいとう・としやす?-1351(観応2/正平6)
親族父:斎藤利行? 母:長井貞広の娘? 弟:斎藤清永? 子:斎藤頼茂(利茂)?
官職左衛門大夫?
幕府奉行人・評定衆
生 涯
―直義側近の官僚武将―

 確定したことではないが、同時代史料に出てくる「斎藤利泰」「斎藤利康」の二人の「としやす」は同一人の可能性が高い。『太平記』では「左衛門大夫利康」の名で足利直義の側近として登場、洞院公賢の日記『園太暦』には直義側近の奉行「利康」と評定衆の「利泰」とが別々に記されているが、同時期に読みが同じ同族がいるとも考えにくく、名前の字の綴りが場合により変わる場合も少なくないので同一人物と考える方が自然であろう。「利康」の父とされる斎藤利行(としゆき)も「俊幸(としゆき)」と書かれている例があるし、こちらも六波羅探題の奉行であった。斎藤家は京で働く幕府の官僚的家門であったとみてよい。

 貞和5年(正平4、1349)8月、足利直義一派と高師直一派の対立が頂点に達し、ついに高師直らは軍勢を集めてクーデターを起こす。このとき「斎藤利康」は直義の屋敷に馳せ参じ、そのまま直義と共に将軍足利尊氏邸へ入って師直軍の包囲をうけた。このとき師直は和議の条件として直義側近の上杉重能畠山直宗妙吉らの引き渡しを求めたが、その中に奉行人・斎藤利康の名もあった(「園太暦」)。つまり利康も直義の腹心と言っていい存在だったと見られる。利康は師直に身柄を引き渡されたとみられるが、重能や直宗のように命を奪われることはなかったようである。

 失脚に追い込まれた直義だったが、翌観応元年(正平5、1350)11月に南朝と結んで反撃に転じた。直義党の軍は観応2年(正平6、1351)2月に尊氏・師直軍を打ち破り、師直一族を皆殺しにした。尊氏・直義はひとまず和解して直義は幕政の中心に返り咲いた。このとき直義腹心であった「斎藤利泰」も幕政の中心に戻り、評定衆メンバーになったと見られる。
 しかし3月30日、斎藤利泰は直義が光厳上皇のもとへ挨拶に行くのに付き従って出かけたその帰り道、何者かに襲われ、刀で刺されて殺された(「園太暦」)。その犯人・動機は一切不明だが、5月4日にはやはり直義腹心の桃井直常が何者かに襲撃される事件が起きており、師直派の残党か尊氏周辺の人物による犯行であったと推測される。
大河ドラマ「太平記」ドラマの終盤、観応の擾乱を描く第47回・第48回に登場(演:伊藤哲哉)。直義の側近の一人として登場するが、細川顕氏ともども尊氏の魅力に感じ入ってしまい(桃井直常に対して不満があったようにもみえる)、フラフラと尊氏側に接近する。桃井直常はこれを裏切りと見て直義と相談の上で利泰を殺害させるという展開になっていた。

斎藤利行(俊幸)さいとう・としゆき?-1326(嘉暦元)
親族父:斎藤基行? 子:土岐頼員室・斎藤利基?・斎藤利政?
官職左衛門尉
幕府六波羅探題奉行人
生 涯
―婿から討幕計画の密告を受ける―

 利仁流藤原氏、美濃の斎藤氏の出身。「利行」と表記するのが通説だが、花園天皇の日記では「俊幸」の表記がみられる。通り名は「太郎左衛門尉」で、『尊卑分脈』では斎藤基行の子とされる。『太平記』によれば六波羅探題の奉行人をつとめていたという。
 正中元年(1324)9月、娘婿の土岐(船木)頼員から後醍醐天皇による討幕計画の存在を密告される(「太平記」では利行の娘による密告だが実際には頼員自身による)。この密告に基づき、9月19日に六波羅軍が土岐頼兼多治見国長らの宿所を攻撃して彼らを自害に追い込み、陰謀の首謀者とされた日野資朝日野俊基を逮捕した(正中の変)
 『太平記』ではその後利行が鎌倉に下り、北条高時の命で後醍醐の弁明書を読みだしたところ、目がくらみ血を吹いて昏倒、間もなくのどに悪性腫瘍ができて死亡したことにされている。むろん全くの創作で、『常楽記』により「正中の変」の翌々年、正中3=嘉暦元年(1326)5月7日に死去したことが確認できる。
 のちに足利幕府で評定衆をつとめている斎藤利康(利泰)は利行の息子の可能性がある。

坂梨孫熊丸さかなし・まごくままる?-1341(暦応4/興国2)
親族父:阿蘇惟時
生 涯
―尊氏に擁立された北朝方阿蘇大宮司―

 阿蘇大宮司・阿蘇惟時の庶子。「坂梨」の名乗りは、阿蘇郡の坂梨に分家したことに由来する。
 建武3年(延元元、1336)3月、建武政権に反旗を翻した足利尊氏が九州へ下り、多々良浜の戦い菊池武敏阿蘇惟直らの大軍を打ち破った。この戦いで阿蘇氏は当主の惟直とその弟・惟成を失い、彼らの父である惟時は在京中であったため、誰が後継者となるかが問題となった。
 最有力候補はもともと同族であり、惟時の娘婿である阿蘇(恵良)惟澄であったが、彼は菊池氏と結んで尊氏と敵対しており、尊氏としては認めるわけにはいかなかった。九州を平定して東上するにあたって尊氏は惟時の庶子である坂梨孫熊丸を阿蘇大宮司にして阿蘇氏当主と定めたが、父親の惟時はじめ惟澄ら阿蘇氏内で強い反発を受けることとなる。なお、「孫熊丸」という名乗りから、まだ元服前であったと思われる。

 やがて惟時が肥後に帰国し、娘婿の惟澄や菊池氏と組んで孫熊丸を攻撃し始めた。孫熊丸は尊氏が九州探題として九州に残した一色範氏らと結んで対抗し、激しい内戦が数年にわたって続けられた。孫熊丸は阿蘇郡の南郷城に拠点を構え、市下道恵がこれを補佐していたという。

 暦応4年(興国2、1341)8月27日、阿蘇惟澄が南郷城を夜襲、激戦の末に孫熊丸と道恵は惟澄軍に討ち取られた。孫熊丸の死により阿蘇大宮司の座は惟澄の子にして惟時の養子となった阿蘇惟村に引き継がれるのだが、阿蘇氏の分裂・内紛はその後も尾を引き、庶家の坂梨氏は常に武家方(北朝方)で活動を続けている。

桜山慈俊さくらやま・じしゅん(これとし)?-1332(元弘2)?
位階贈正五位(明治16)→贈正四位(明治36)
生 涯
―後醍醐に応じて挙兵―

 備後の武士。吉備津神社の神官であったとみられる。『太平記』古本では「桜山四郎入道」とある。「慈俊」と名が入る版本があり一般に「桜山慈俊」と表記されるが、「慈俊」が法名だとすれば「じしゅん」、俗名だとすれば「これとし」とみなされ、一定していない。そもそもその版本自体、無理やり登場人物全員に名前をつけようとしたフシがあり、彼の名が本当に「慈俊」なのかすらも怪しい。
 元弘元年(1331)8月に後醍醐天皇が笠置山に倒幕の兵を起こすと、9月中に備後国一宮の吉備津神社(福山市)に城郭を構えて後醍醐に呼応して倒幕の兵を挙げた(「太平記」では9月13日に京に報告が入っている)。700ばかりの兵を集めて備後国内を抑え、さらに隣国備中・安芸まで攻め込む勢いだったが、9月28日に笠置が陥落して後醍醐が捕らわれ、同じく後醍醐に応じて挙兵した楠木正成の赤坂城も10月21日に陥落してしまったとの情報が入ると、桜山軍に参加していた武士たちは散り散りに逃げだしてしまった。
 慈俊は家族と郎党20人ばかりを連れて吉備津神社に入り、社殿に火をかけ、3歳の子と27歳の妻を殺害し、郎党たちと共に自害して果てた。『太平記』の版本の一部に自害の日を元弘2年(正慶元、1332)1月21日と明記するものがあるが、確証はない。なお、『太平記』では桜山入道の挙兵動機を「荒れ果てていた吉備津神社の社殿の修築をしたかったから」(つまり手柄を立てその恩賞で修築費を得ようとした)としており、自害にあたって社殿に火をかけたのは「こうしてしまえば朝廷でも幕府でも社殿を建てなおさないわけにはいくまい」という考えだったという。
 各地の神官豪族が朝廷との結びつきから後醍醐方に呼応する例は多く、桜山もその一人だったと見られるが、『太平記』の書きぶりは信仰心からとはいえかなり利己的な暴走行為にも見える(結論からいえば大いに早まった自害でもあったし)。その後も桜山一族は後醍醐方で活動したらしく、『太平記』では後醍醐方の武士列挙の中に「備後の桜山」という表現が二度ほど出てくる。

 『太平記』以外にその活動を確認できる史料が皆無のため、実在すらも疑われることもある(この点は、備前の児島高徳に通じる)。戦前においては例によって南朝忠臣の先駆けとして顕彰され、四位の贈位がなされ、吉備津神社の境内に彼を祭る「桜山神社」が建てられている。
大河ドラマ「太平記」第12回「笠置陥落」の回で登場(演:松本光弘)。楠木正成が笠置山に馳せ参じた場面で足助次郎、小寺頼季、赤松則祐らと共に正成を迎えている。後醍醐に味方する武士として並べて登場させたが、桜山が実際に笠置まで出かけて来たとは考えにくい。ただドラマでは正成が彼らに笠置に集まらず各地でそれぞれ挙兵するよう勧めるので、その後備後に戻って挙兵したという筋書きになっている。


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