西園寺公宗
| さいおんじ・きんむね | 1310(延慶3)-1335(建武2) |
親族 | 父:西園寺実衡 母:昭訓門院春日局(御子左為世の娘)
弟:西園寺公重
妻:日野名子 子:西園寺実俊 |
官職 | 左近衛中将・丹波権守・参議・権中納言・春宮権大夫・春宮大夫・権大納言・兵部卿 |
位階 | 従三位→正三位→従二位→正二位
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生 涯 |
―幕府と結びついた有力公家―
西園寺家は公家では上から第二のクラスに位置する「清華家」の一つ。鎌倉時代には承久の乱以来幕府と朝廷の連絡役「関東申次」を代々世襲し、幕府と結びついて朝廷内で権勢をふるった。鎌倉末期、公宗が家督を相続したころには後醍醐天皇の中宮・禧子、後伏見天皇の妃で光厳天皇の母・寧子も西園寺家の出身であり、大覚寺統・持明院統を問わず影響力を保持していた。
嘉暦元年(1326)10月に父・実衡が病死し、公宗は数え18歳で家督と関東申次の地位を継いだ。おりしも後醍醐天皇による倒幕計画がくすぶっており、鎌倉幕府内でも北条高時の執権辞任をめぐる内紛が起こっていて、少年公宗には手に余る混沌とした情勢であった。元徳元年(1330)に権大納言・正二位に昇進した。
元弘元年(1331)8月、後醍醐天皇は二度目の倒幕計画が漏れたことをきっかけに京を脱出し笠置山に挙兵した。幕府はただちに持明院統の皇族たちを六波羅探題に迎え入れ保護したが、このとき公宗も同行している。9月18日に幕府の使者・二階堂道蘊と安達高景が「関東申次」である公宗に皇太子・量仁親王の即位を求め、20日に後伏見上皇の院宣に基づいて量仁の践祚が行われた(光厳天皇)。これは「天皇ご謀叛」を起こした後醍醐の帝位を否定するための措置であり、もともと幕府と結びつきが深く持明院統寄りであった公宗もそれに一役買ったことになる。
9月28日に笠置山は陥落、翌日には後醍醐も捕縛され、10月4日に六波羅に連行された。だがこのとき幕府の上層部でも後醍醐当人の顔を直接見知った者はおらず、捕えられたのが後醍醐当人だという最終確認がとれないでいた。後醍醐から神器を受け取りに来た持明院統系の公家たちに確認を頼んだが、彼らは天皇の「面通し」を恐れ多いと思ったのかこれを拒否している。結局日を改めて西園寺公宗が六波羅に呼ばれて自らの目で後醍醐の顔を確認している。
後醍醐の配流が決定されると、後醍醐の十歳以上の皇子たちも流刑に処された。十歳未満の幼い皇子たちは京にとどめられ、後醍醐と阿野廉子の間に生まれた恒良・成良・義良(のちの後村上天皇)の三皇子は公宗が預かっている。
光厳が即位し、その父・後伏見院による院政がはじまると、公宗もその下で重んじられ、権勢をふるった。このころ正慶2年(元弘3、1333)正月に、光厳の母・寧子つきの女房であり光厳の乳母であった日野名子(日野資名の娘)を妻に迎えた。これはかなりの恋愛の末の結婚であったようで、家格からいえばかなりの差があったが公宗は名子を正室に迎えている。
しかし幸福で穏やかな日々は長くは続かなかった。この年の閏2月末に後醍醐が隠岐を脱出、倒幕運動は各地に巻き起こり、ついに足利高氏の反旗によって5月に六波羅探題は滅亡、光厳ら持明院統皇族は近江で囚われの身となった(このとき公宗の舅・日野資名が同行して囚われ、出家している)。このとき公宗は光厳の一行に同行はしなかったが、三種の神器のうち神鏡は女官が持ちだして公宗の北山第内に安置していたことが知られる。
―後醍醐暗殺計画に失敗―
5月22日に鎌倉が陥落して幕府は滅亡、後醍醐天皇は6月に京に凱旋した。後醍醐は光厳の即位そのものを否定し、光厳時代の人事も全て否定した。公宗もいったん権大納言の地位を辞す。8月に復帰するが、あまりに幕府と持明院統に接近しすぎた公宗が建武政権で不遇になるのは必然のことであった。
こんな公宗のところへ、鎌倉で死んだ北条高時の弟・北条泰家がひそかに頼って来たのである。泰家は炎上する鎌倉からからくも脱出し陸奥にひそんでいたが、還俗して名を「時興」と改め「田舎侍が初めて召し抱えられた体」を装って北条氏と縁が深い西園寺家にもぐりこんだ。泰家も大胆だが、このような危険人物を邸内にかくまった公宗も大胆であった。
そして公宗と泰家は「後醍醐天皇暗殺」というさらに大胆な謀略を進めることになる。このころ建武の新政はすでに大混乱を引き起こしており、武士はもちろん民衆も不満をつのらせ、公家社会でも後醍醐の先例・家格を無視した革新的すぎる独裁体制に強い危険性を感じる人は多かった。天皇の暗殺というほとんど前例のない大胆な謀略はこうした危機感を背景にしており、公宗と泰家らだけで進めた計画ではなく、持明院統の皇族も関わるかなり大がかりなものだったのではないかとの推測もある。
建武2年(1335)6月、後醍醐暗殺計画は実行に移される。『太平記』によれば公宗らは西園寺家の北山第に湯殿を作り、そこに床を踏むと落とし穴が開いて、穴の底に立てられた多くの刀によって落ちた人間が串刺しになるという大がかりな仕掛けを作った。ここに後醍醐をおびき寄せて暗殺し、後伏見上皇を奉じて持明院統皇族を新天皇に立てて政権を奪取、同時に各地で北条残党が蜂起して一挙に元弘以前の段階に戻してしまおうという計画だったという。
しかしこの計画は寸前に漏れた。かねてから公宗と仲が悪く、公宗から西園寺家家督を奪取しようと狙っていた異母弟・西園寺公重が密告したのである。後醍醐は6月17日に後伏見の身柄を持明院殿から京極殿に軟禁したうえで、6月22日に公宗とその義父・日野資名およびその子・日野氏光、西園寺家家司の三善文衡らを捕縛させた。公宗は中院定平に預けられて27日に出雲へ流刑と決まり、文衡は拷問を受けた末に処刑された。
北条泰家はからくも逃れ、信濃に向かった。そして7月に当初の計画通り信濃の諏訪にかくまわれていた高時の子・北条時行と共に挙兵する。時行軍は怒涛の勢いで鎌倉を守る足利直義の軍を撃ち破り、7月25日に鎌倉を攻め落とした(中先代の乱)。この情報を受けた足利尊氏は後醍醐の許可を得ぬまま8月2日に京から出陣していく。これがそのまま建武政権の崩壊につながってゆくことになる。
西園寺公宗が突然処刑されたのはその8月2日のことである。『太平記』によれば、出雲に配流になるという前夜に愛妻の名子が定平邸に公宗を訪ねている。出雲への流刑と信じている公宗だが、これが今生の別れかもしれないと妊娠中の名子と涙ながらに語らった。「もし生まれてくる子が男子であれば、将来を悲観せずにしっかり育ててやってくれ。これは我が家に伝わる家宝であるから、顔を知らぬ父親の形見として渡しておこう」と公宗は家伝の琵琶の秘曲の楽譜を名子に手渡して、「哀れなり 日影待つ間の 露の身に 思ひをかかる なでしこの花」(日が射すと消えてしまう露のように明日をもしれぬ我が身、残される子(=なでしこ)のことが心配でならない)と歌を詠んだ。夫婦の別れが済んだところで公宗は護送役の名和長年に引き渡されたが、このとき中院定平が「早(はやくしろ)」とせかしたのを、長年が「殺してしまえ」との意味ととって、即座に公宗を組み敷いてその首を切り落としてしまった。名子は物陰からこの様子を目撃して気絶してしまったという。
これはあくまで『太平記』の伝える劇的な場面であって、実際にこの通りだったかどうかは疑わしい。三位以上の公卿を死刑にした例は平安を通じてほとんどなく、平治の乱の折の藤原信頼の死刑以来のことで、公宗の処刑は公家社会の批判を浴びたといい、恐らく「聞き違いによる事故」ということにしてしまったのだと思われる。当初は決定通り流刑の予定だったが、直後に中先代の乱が起きたことで急遽「見せしめ」として後醍醐が処刑を決断したのだろう。
西園寺家の家督と所領は密告した異母弟・公重の手に落ちた。名子が身ごもっていた子は公宗の死の百日後に生まれ、男子であった。この男子が西園寺実俊で、公重から西園寺家家督を奪い返し、父の恨みを晴らすことになる。
参考文献
佐藤進一『南北朝の動乱』(中公文庫)
飯倉晴武『地獄を二度も見た天皇 光厳院』(吉川弘文館・歴史文化ライブラリー147)
森茂暁『太平記の群像・軍記物語の虚構と真実』(角川選書)ほか
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大河ドラマ「太平記」 | 長谷川初範が演じ、第15回、第21回、第30回の3回登場している。第15回では笠置陥落後わが世の春を謳歌する持明院統系公家の代表として登場、高氏を露骨に見下す態度を見せる。第21回ではその高氏による六波羅攻撃を受けてうろたえていた。第30回では冒頭で後醍醐暗殺計画が描かれ、密談シーンや捕縛シーンがあった。処刑については描かれていない。 |
歴史小説では | なにせ後醍醐暗殺を謀った公家なので、登場する例は多い。一番印象的なのは光厳天皇の生涯を描いた森真沙子『廃帝』で、名子との結婚話やその悲劇的結末が詳しく描かれる。
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漫画作品では | 児童向け学習漫画系では天皇暗殺というきわどい話のせいか公宗の話はカットされることが多い(小学館版ではナレーションのみ)。しかし昭和40年代に出ていた最初の集英社版では天皇暗殺未遂事件に1ページを費やしていた。
さいとう・たかを版『太平記』(全3巻、マンガ日本の古典)に公宗による暗殺計画が詳しく描かれている。甲斐謙二・画「マンガ太平記」(上・下巻)でも簡潔ではあるが触れられ、公宗が登場している。 |