広義門院 | こうぎもんいん | |
後伏見天皇の妃で、光厳・光明両天皇の生母である西園寺寧子の女院号。→西園寺寧子(さいおんじ・ねいし)を見よ。 |
河野(こうの)氏 |
越智玉澄 | ……… | ─通清 | ─通信 | ┬通久 | ─通継 | ┬通有 | ─通盛 | ┬通朝 | ─通直 | ┬通義 |
├通広 | ─一遍 | └通成 | →土居 | └通遠 | └通之 | |||||
└通俊 | →得能 |
河野通堯 | こうの・みちたか | |
河野通直の最初の名乗り。→河野通直(こうの・みちなお)を見よ。 |
河野通治 | こうの・みちはる | |
河野通盛の最初の名乗り。→河野通盛(こうの・みちもり)を見よ。 |
高(こう)氏 |
惟長 | ─惟重 | ─重氏 | ┬師氏─ | ┬師行 | ┬師秋── | ┬師有 | |
│ | │ | │ | └師義 | ||||
│ | │ | ├三戸師澄 | ─師親 | ||||
│ | │ | ├師業── | ─師満 | ||||
│ | │ | ├師冬 | |||||
│ | │ | └高師直室 | ┌師秀 | ─師胤 | |||
│ | ├師重 | ┬師泰── | ┴師世 | ||||
│ | │ | ├師直── | ┬師詮 | ||||
│ | │ | ├重茂 | └師夏 | ||||
│ | │ | ├師久── | ─師景 | ||||
│ | │ | ├貞円 | |||||
│ | │ | ├師春室 | |||||
│ | │ | └惟潔室 | |||||
│ | ├師春 | ┬師兼── | ─宗久 | ||||
│ | │ | └南宗継室 | ┌師秀 | ||||
│ | └師信 | ─師幸── | ┴師連 | ||||
└南頼基 | ┬惟時 | ─惟基室 | |||||
├惟基 | ─惟久── | ─重久 | |||||
├重長 | ─大高重成 | ||||||
└惟宗 | ┬惟潔 | ||||||
└宗継── | ─宗直 |
高師直 | こうの・もろなお | ?-1351(観応2/正平6) |
親族 | 父:高師重 兄弟:高師泰・高重茂・高師久・貞円・高師春室・南惟潔室 子:高師詮・高師夏 妻:二条道平の妹?・高師行の娘 | |
官職 | 右衛門尉・三河権守(三河守?)・武蔵守 | |
建武の新政 | 雑訴決断所・窪所 | |
幕府 | 執事(ほんらい足利家の執事だが、幕府成立後は後の管領につながる幕政の要職になる) 恩賞方頭人・引付頭人? 上総・武蔵守護 | |
生 涯 | ||
足利尊氏の執事、家臣の筆頭として南北朝時代を代表する革新的な名将、なおかつ旧権威をものともしない過激な「婆沙羅大名」の一人、さらには「太平記」の伝える横恋慕事件のために希代の好色男とされ、いろんな意味で後世有名になってしまった武将である。 ―足利尊氏の執事として― 高一族(高階氏)は源頼朝の時代から足利氏と主従関係を結び、代々その家臣筆頭として執事職をつとめてきた家柄である。師直の祖父・師氏は足利家時の、父・師重は足利貞氏の執事をそれぞれ務めており、師直は高氏(尊氏)世代の執事をつとめることになった。師直をはじめとする高一門(大高・大平・南・三戸などが含まれる)は足利軍の主力として働き、南北朝動乱の要所要所で活躍を見せている。 師直がいつ高氏の執事になったかは判然としない。執事としての師直の活動が確認できる最古の史料は建武2年(1335)2月のものなので、それ以前ということしかわからない。だが、古典「太平記」における師直の初登場場面は元弘3年(正慶2、1333)4月29日に高氏が丹波・篠村で倒幕の挙兵をする場面で、味方に馳せ参じてきた丹波の武士・久下時重が笠印に「一番」を書いているのを見て不思議に思った高氏が「高右衛門尉師直」を呼び寄せて由来を聞くと、師直が即座にその由来を説明したとされている。この描写では師直がすでに執事的な立場(相談役)にいたようにも見える。恐らく元弘の乱のころには父・師重から執事職を引き継いでいたのではなかったか。ともあれ師直が高氏のいるところ常にあったということは間違いなさそうだ。 鎌倉幕府が滅びて建武政権が成立すると、師直は三河権守に任じられ、建武元年(1334)8月には土地訴訟問題を扱う「雑訴決断所」に上杉憲房(尊氏の母方の伯父)、引田妙玄(尊氏の秘書官)と共に「足利代表」として出仕、第三番(東山道担当)に名を連ねている。また『梅松論』によれば「窪所」という謎の機関(諸説あるが天皇自ら決裁を行うところか?)にも伊賀兼光・結城親光といった建武政権の大物たちと肩を並べて出仕している。尊氏は建武政権と一定の距離を置いて自らは何の職務にもつかず「尊氏なし」と世間の人は言ったとされるが、その代役を執事の師直がつとめていたということらしい。 建武2年(1335)6月22日、西園寺公宗による後醍醐天皇暗殺計画が発覚、公宗・日野資名ら関係者が一斉に逮捕された。このとき建仁寺の前でも多くの関係者が捕縛されており、その捕縛に向かったのは楠木正成と高師直だった(小槻匡遠の日記)。南北朝の戦術革命家二大巨頭が協力して働いたことがあったという事実には、南北朝ファンとしてはニヤニヤしてしまう(笑)。 その直後に関東で北条時行による「中先代の乱」が勃発。尊氏は勅命を受けぬままその鎮圧に出陣し、そのまま関東に居座って建武政権からの離脱の姿勢を明らかにする。これには当然師直も同行しており、『梅松論』では鎌倉に師直以下家臣らが屋敷を構えて幕府再興の様相を呈したことや、足利討伐のために新田義貞の軍が関東に向かったことを知って浄光妙寺にひきこもってしまった尊氏の代わりに直義が指揮をとり、防衛のために師直・師泰らを布陣させたことが見える。「太平記」では東下してきた新田軍を迎撃する直義率いる軍の中にも師直・師泰の名前がある。 ―幕府創設に尽力― 箱根・竹之下の戦いで新田軍を破った足利軍はそのまま西上して京を目指した。それを阻止しようと比叡山の僧兵・祐覚が琵琶湖畔の近江・伊岐代に城をかまえたが、これを「武蔵守師直」が12月30日に攻撃、一夜にして攻め落としたと『梅松論』は記す(彼を「武蔵守」とする初見。「太平記」でも一夜で陥落させたことが見えるが日付も違い師直の名もない)。さらに淀川の戦いでは武将たちが乗馬したまま川を突破しようとするのを師直が「気でも狂ったか。民家を壊していかだを組んで渡ろう」と呼ばわったことが『太平記』に見える(もっともこの作戦は大失敗に終わる)。 翌建武3年(延元元、1336)1月の京都攻防戦は新田義貞・楠木正成、さらに奥州から駆け付けてきた北畠顕家の奮戦にあって足利軍の敗北に終わり、尊氏らは九州まで逃れた。やがて九州を平定して態勢を立て直し、4月には東上を開始、5月5日に備後・鞆から水路を尊氏、陸路を直義と別れて進軍することになるが、このときも師直は執事として尊氏と共に船に乗っている(『梅松論』。師泰は直義に同行しており、兄弟同士役割分担していることがわかる)。 5月25日の湊川の戦いが行われ、『太平記』では師直が尊氏と同じ船に乗ってこの戦いに参加している描写がある。この戦いに勝利した足利軍は京へ突入、比叡山に逃れた後醍醐天皇方と京周辺で10月まで激闘を繰り広げる。師直も各所で奮戦しており、8月23日の新田義貞軍との加茂・糺河原の合戦で師直は最前線で丸一日「身命を捨て戦ったため二か所に傷を負った」(梅松論)ほどの勇猛ぶりを見せ、義貞を比叡山に追い返している。 この年11月7日に「建武式目」が発表され足利幕府の発足が公式に宣言されると、師直は足利家の執事として幕府の軍政を司るようになった。また時期は不明だが恩賞方頭人や引付頭人も務めて、所領や訴訟を扱ったこともある。 ―軍事的才能の発揮― 建武5年(延元3、1338)2月、奥州から破竹の勢いで攻めのぼってきた北畠顕家の南朝軍は伊勢から奈良に入り、京をうかがった。これに立ち向かったのが高師直・桃井直常らの軍だった。2月28日の奈良の北・般若坂の戦いで師直は畿内武士たちを編成して戦い、顕家を打ち破った。 このとき師直が「分捕切捨(ぶんどりきりすて)の法」と呼ばれる戦術、正確に言えば戦闘管理法を実施したと言われている。それまでの合戦では武士たちは後で恩賞の証明とするために自分が取った敵将の首を後生大事に持ち歩いていたため、その時点で事実上の戦線離脱になっていた。師直はこれを改めて敵の首を取ったら周囲の戦友に確認をとってもらい、その首はその場に捨てて戦闘を続行せよ、という制度を定めたのだ。これにより師直軍はそれまでにない機動力を発揮できるようになったとされている。 また師直は自身の指揮下に置いた畿内の新興小武士団をよく編成し、彼らの要求に応えて旧勢力(貴族・寺社など)の荘園の横領を公然と指示したとの逸話も伝わる(「太平記」)。これが彼の軍団の強さの根源であったと同時に、旧勢力との折り合いをつける方針をとっていた足利直義一派との対立を招く原因ともなっていく。 師直に敗れた顕家は3月は河内・和泉に転じ、態勢を立て直して一族の春日顕国を京ののど元の男山八幡に立てこもらせた。師直は細川顕氏と連携して顕家の進撃を食い止め、顕家を和泉・堺に釘付けにした。5月22日に堺の石津川付近で顕家と師直の決戦が始まる(石津の戦い、堺浦の戦いとも)。「太平記」によると師直は男山八幡の顕国の包囲に大軍をまわして牽制した上で、少数の手勢で顕家軍を攻撃した。この合戦は「太平記」が伝える以上に大規模なものであった可能性があり、尊氏の母・上杉清子の書状や瀬戸内水軍の忽那・河野氏の資料によると沖合では同時に海戦も行われていた。幕府の首脳に近い人物が書いたと思われる『保暦間記』では「今日を限りと命を捨てて双方が戦った。京方(北朝側)が打ち負けて撤退したが、師直が思い切って戦ったために、顕家は戦死することになったのである」と記し、当初劣勢だった戦いが師直の奮戦によって形勢逆転したことを伝えている。海戦の方も南朝側の軍船が六隻焼けたことが清子の書状で分かるが、師直が具体的にどう戦ったのかは定かではない。 もしかすると師直にとっても奇跡的な勝利であったのかも知れない。戦勝を感謝して住吉大社に詣でた師直は「天くだる あら人神の しるしあれば 世に高き名は あらはれにけり(天からくだった現人神(住吉大神をさす)のおかげで、我が武名は天下にとどろきました)」と詠み、神をたたえつつ、しっかり自らも誇る歌を詠んでいる(風雅集)。 そんな師直だが、7月5日に春日顕国がこもる男山八幡を攻め落とした時には、八幡宮の社殿に放火して攻撃するという手段を選ばぬ作戦をとっている(太平記)。やたらと師直を悪人呼ばわりする「太平記」なので素直にそのまま受け取らないほうがいいのだが、師直が合理的な思考と果断な実行力をもつ人物であったことは事実のようだ。 ―好色・勇猛・寛大・不遜― 顕家撃破の功績により師直・師泰兄弟と高一族は六か国の守護を務め、威勢をふるった。おごれる高兄弟の「悪行」については「太平記」がこれでもかとばかりに記しているが、どこまで事実かは確認できない。「太平記」の作者(編集者)は心情的に南朝よりである上にかなり保守的な旧支配層の意識を代表する人物であったと思われ、師直らの旧権威をものともしない姿勢に眉をひそめ、意図的に筆誅をくわえている可能性も高い。ただこの本の傾向としてある程度の事実を背景にはしているはずだ。 とくに師直についてはその「好色」ぶりが「太平記」では強調される。東国出の田舎武士だけに京の貴族の娘に次々と手を出して通い、また落ち目になってきた貴族の方でも「誘う水あらば」とこれを歓迎する節もあったようで、「執事の宮まわりに手向けを受けぬ神もなし」と口さがない京童(きょうわらんべ)たちが話の種にしたと伝えている。特に「二条前関白殿(二条道平?)の御妹」を師直が盗みだして妻にし、一子師夏を産ませている(師夏の年齢から暦応2年=1339以前の話と思われる)ことは、「関白の令嬢が東夷(あずまえびす)にとられるとは」と旧勢力側にとっては言語道断のことと見えたようだ。だが貴族令嬢のもとへ夜這いする、あるいは誘拐して妻にするといったことは貴族社会では当たり前、むしろ「みやび」にすらとらえられていたことを忘れてはいけない。それを関東武士の成り上がり者がやったからいっそう憎まれたのだ。 師直の悪行としてよく知られるのが暦応4年(興国2、1341)に起こった塩冶高貞の妻に対する横恋慕、さらには高貞を讒言して夫婦ともどもしに至らしめたという事件である(詳しくは「塩冶高貞」と「その妻」の項目を参照)。しかしこれも「太平記」が面白おかしく伝えているだけで傍証はなく、塩冶高貞の出奔と自害は何か政治的な背景をもつものと見た方がいい。ただこの逸話で師直が「徒然草」で名高い吉田兼好に恋文の代筆を頼んだとされる話は事実ではないとしても、師直と兼好には深い付き合いがあったのは事実のようで、洞院公賢の日記「園太暦」には師直に頼まれて兼好が公賢のところを訪ねて狩衣のことを質問に来たとの記述がある。 貞和3年(正平2、1347)8月、しばらく鳴りをひそめていた南朝軍の活動が活発化した。中でも楠木正成の遺児・正行の活躍がめざましく、藤井寺の戦いで細川顕氏を破り、さらに11月には山名時氏をも住吉・天王寺で撃破した。かつての父親を思わせる楠木正行の勢いに恐れをなした幕府は、12月に真打として高師直・師泰・佐々木道誉・細川清氏ら(そろいもそろって「婆沙羅」な武将ばかり)に大軍を与えて南方へと向かわせた。 年が明けて貞和4年(正平3、1348)正月5日、高師直を主将とする幕府軍は、楠木正行の南朝軍と河内・四条畷で激突した。師直は飯盛山に陣取ってほぼ優勢に戦いを進めたらしい。「太平記」では正行らは圧倒的に不利な状況からの一発逆転を狙って師直の首だけを狙って決死の突撃を敢行、あと一歩まで迫ったが、ついに師直に届かず、正行と弟の正時は刺し違えて自害したとされる。 この戦いの描写で「太平記」は意外にも(?)師直を名将として大いに称えている。正行軍が突入してきた時にたまたま師直の本陣に来ていた上山六郎佐衛門高元という武士が、急の事態に慌てて師直の鎧を着てしまったのを師直の若党が見咎めて奪い取ろうとしたところ、顔を出した師直が「何をしている。いま師直の身代りになってくれようという人になら、たとえ千両万両の鎧でも惜しくないぞ。そこをどけ」と若党を叱り、「よく着てくれましたな」と上山をたたえた。上山は感激し、直後の戦いで師直がピンチに陥ったとき、「我こそが高師直なり」と名乗って飛び出し、師直の身代わりとなって討たれた。また、楠木軍の突撃にうろたえて退却する味方に師直が「敵は小勢ぞ。師直これにあり!味方を見捨てて京へ逃げては将軍に面目がたつまい。運命は天にあり。名を惜しめ!」と目をむき歯ぎしりして叱咤、恥を知る武士たちはその場にとどまったという話も伝えている。また、この描写の中で師直が「清げなる老武者」と表現されていることは、生年不明の師直の年齢の手がかりにもなる。 これらの逸話をそのまま信じることはできないが、他の戦いにおいても師直は第一線で決死の奮戦を見せており、どこかの戦いでこのような場面があったのではなかろうか。「太平記」がここだけ妙に詳細に描きこむ「名将・師直」像はむしろ真実に近いのかも知れない。 正行を撃破した師直・師泰らは、そのまま南朝の拠点・吉野へと侵攻した。南朝の後村上天皇らは敗報を聞いてただちに吉野の放棄を決定、さらに山奥の賀名生へとのがれた。師直は吉野攻略に向かったが、「園太暦」によるといったん大和・平田荘にとどまり、正月15日から十日間ほど南朝と和平交渉を行っていたことが分かる。師直もしゃにむに攻めるだけではない、ちゃんと西大寺長老静心や夢窓疎石を仲介者にたてて交渉を行っていたのだ。むろん、それは一方的な投降を呼びかけるものではあったのだろうが。結局交渉は失敗し、正月24日に師直軍は吉野攻撃にとりかかった。 空っぽの吉野に殺到した師直らは吉野山の神社仏閣を盛大に焼き払ってしまったと「太平記」は伝える。師直軍が吉野を焼き払ったことは「園太暦」でも事実と確認できるが、実際には師直は28日にまで吉野に入っておらず、最初に上がった炎は平田荘から遠望していたようだ。しかし吉野に入ってから師直自身の命で南朝皇居などにも火が放たれ、吉野全体が廃墟と化したとされる。これには吉野陥落を「万歳」と唱えた洞院公賢も大いに批判している。 そもそも師直は南朝はおろか自らが奉じる北朝の皇室に対しても敬意などもっていなかった――「太平記」は次のような有名な師直の発言を伝えている。「都に王という人がいて少しばかり土地を支配し、内裏だの院だのという御所があって、いちいち馬から下りねばならないのが面倒だ。もし王というものがいなければならないというなら、木で造るか金物で鋳るかして、生きている院だの国王だのはどこかへ流してしまえばいい」この発言は「太平記」しか書いていないので本当に師直が口にしたのかは不明だが、実際に天皇が島流しになって脱出したり、天皇が二人出てきたりする時代の空気を反映しているのは確かだ。 ―あえない最期― 吉野が陥落して南朝は事実上壊滅、天下泰平がおとずれるかにも見えたが、翌貞和5年(正平4、1349)閏6月に足利直義一派と高師直一派による幕府内の対立が激化、直義が尊氏に要請して師直は執事から解任された。7月には直義の腹心・上杉重能と畠山直宗により師直の暗殺計画が実行に移されるが、粟飯原清胤・大高重成らが内通したため師直は難を免れた。8月13日には師直・師泰が主導して反直義のクーデターが起こされ、直義は尊氏邸に逃げ込んで、師直らの大軍が尊氏邸を包囲する事態になった。「太平記」によれば尊氏は師直の行動に「家臣の分際で」と怒り、直義ともども自害を覚悟したとされるが、結局直義が政権を手放すことを承知してクーデターは無血のうちに成功した。この事件はそもそも直義を引退に追い込んで自らの子・義詮に政権を移譲させるために尊氏と師直が仕組んだ壮大な「ひと芝居」であったとの見方が当時からあり、研究者の間でもそれが真相だったのではないかと見る意見が多い。 引退した直義に代わって鎌倉から義詮が上京し政務を見ることになり、師直はその執事としていっそう権勢をふるうようになる。自らの暗殺をくわだてた上杉重能・畠山直宗は越前に流刑にしたが、ただちに刺客を送って暗殺させている。 翌観応元年(正平5、1350)10月、直義の養子の足利直冬が九州で挙兵、九州をおさえて中国地方まで進出する盛んな勢いをみせた。高師泰がその討伐に向かったが石見で敗北、ついに尊氏みずからと師直が直冬討伐に出陣することになった。その出陣直前に軟禁状態にあった直義が京から姿を消して大騒ぎとなった。当然のように不安を感じた師直は尊氏に直義の捜索を求めたが、なぜか尊氏はそれを認めず、放置したまま出陣した。洞院公賢はこのとき「尊氏と師直が不和」との噂が流れたことを日記に記している。 尊氏・師直が備前まで進んだところで、師直の不安が的中したことが知れた。直義は南朝と手を組み、直義派の大名たちを糾合して京をうかがっているとの情報がもたらされたのだ。尊氏・師直・師泰らは慌てて軍を東へ返し、年明け正月から京都をめぐって直義軍と戦うが敗れて丹波から播磨へとのがれ、赤松勢と合流して態勢を整えた。そして2月17日に摂津・打出浜で両軍の決戦が行われ、尊氏軍は大敗、師直は股に矢傷を受け、師泰も兜の内側と腕を負傷して松岡の城に立てこもった。この一ヶ月前に関東でも師直派・直義派の衝突が起こっており、高師冬(師直のいとこ)が甲斐で自害に追い込まれていた。この情報を知ってもはやこれまでと戦意を失った師直・師泰は出家・引退を承知し、尊氏は二人の助命を条件に、2月21日に直義と講和を成立させた。 観応2年(正平6、1351)2月26日。尊氏は京へと出発した。師直は禅僧姿に、師泰は念仏者の姿になっていたという。師直たちは当然危険を感じて尊氏のすぐそばにいたいと申し出たが、それは許されず三里ばかり後ろを馬に乗って歩かされることになった。そして彼らが武庫川を渡り、鷲林寺の近くにさしかかったとき、師直によって殺された上杉重能の養子・上杉憲能の率いる一隊が師直らを襲った。「太平記」によれば直接手を下したのは三浦八郎佐衛門で、三浦の家来たちが「そこの遁世者で顔を隠しているのは何者だ。その笠をとれ」と呼ばわり、師直のかぶっていた笠を切り捨てた。その切れ目から顔を見た三浦は「まさに敵。願ってもない幸い」と長刀で馬上の師直を袈裟がけに斬りつけた。師直が馬から落ちると、三浦がただちに馬から飛んで降りて師直の首をあげたという。この場で兄弟の師泰、息子の師夏をはじめ高一族6人、家臣や従軍僧(時衆)まで数十人が虐殺されたという。 この師直以下殺害は、実は尊氏と直義の合意事項だったのではないかとの見方も古くからある。だが京に戻った尊氏は師直を殺した上杉憲能の死罪を主張して直義らの説得で流刑に落としたとの事実もある。また翌年、師直のちょうど一周忌にあたる2月26日に、鎌倉で直義が急死していることが「太平記」が噂として書くように毒殺だとすれば、これは師直を殺されたことへの尊氏の報復行為と見ることも出来るだろう。 ―後世の評価など― 師直たち一族の多くが殺されたことで、長らく足利家の執事をつとめてきた高一族の本流はここに途絶えた。高師秋や大高重成のように直義派に属していたために生き延びた者もいるが、高氏が再び幕政の中心に返り咲くことは無かった。幕府の執事、やがて「管領」と呼ばれるようになるこの地位は、仁木・斯波・細川・畠山といった足利一門に占められていく。 「太平記」が室町時代以降に広く読まれるようになると、子孫もいない遠慮もあってか高師直の好色・悪行ぶりは一般に広まり、説話集「塵塚物語」でも師直の好色草紙なるものの話題が出てくるようにもなる。 さらに追い討ちをかけたのが、江戸時代に赤穂事件を「太平記」世界に仮託した「仮名手本忠臣蔵」で吉良上野介の役どころが「高師直」にされたことだった。これは実際の事件の演劇化が禁じられていたための手段であったのだが、吉良が「高家(こうけ。格式を教える)」であることにもひっかけてある。この忠臣蔵によってなおさら師直の悪役イメージが定着したことは否めない。 さらにさらに、江戸時代中にいわゆる水戸史観によって南朝正統論、楠木神格化・足利逆賊観が強化されていく中で、天皇の権威など物ともしない発言をしたとされる師直はなおさら悪人化されることになった。 戦後には南北朝時代をめぐる評価も自由になり、師直については当時の新興武士を糾合した時代の革新者、合理的思考とリーダーシップのあるすぐれた戦術家、古い価値観のゆらいだ時代の気分を代表する「ばさら大名」の代表、などなど新たな師直イメージが語られるようになっていく。 ところで昔から「足利尊氏像」として教科書にも載っていた有名な「騎馬武者像」がある(右図)。髪をザンバラにし、刀を肩にかけ、野生的なヒゲヅラに鋭い目をむいた、まさに戦闘中そのものを描いたような異例の肖像画で、上に足利義詮の花押があることから長らく「尊氏像」とされ、尊氏の一般的なビジュアルイメージの根源になっていた。ところが1970年代から藤本正行氏によって疑問が唱えられ、高一族の家紋である「輪違い紋」があることから「高師直像」との新説が出され、その後も決着はなかなかつかないが今のところ師直説が多くの支持を集めている観がある。この肖像の武将の足が不自然に曲がっていること、背負う矢の一本が折れているなどから、師直が股に負傷したという彼にとっての最後の戦い「打出浜の戦い」の模様を描いたのではないかとの見解も出ている。師直の死後、その功績をたたえる意味で製作され義詮の花押がそこにすえられたのではないか、というものだ。もちろんこれも決定打にはなっていないが(師直の子・師詮説もある)。 現在、兵庫県伊丹市には「師直塚」の石碑が残っている。もともと師直の墓とされる塚が田んぼの中に残っていたのだそうだが、明治時代に田の所有者が耕作の邪魔だと取り壊してしまった。その後墓の破壊は祟りがあると恐れた地元青年会の発起によって大正2年に現在の「師直塚」の供養碑が建立されたという。その後昭和37年にある工場経営者がこの石碑を自分の工場の入口に移設、その途端に事故が続発、会社の経営も傾いて祟りと恐れた経営者は石碑を元の位置に戻した。その後昭和44年に道路拡張工事のためにこの石碑を移すことになったが祟りを恐れて引き取り手が出ず、昆陽寺の住職に法要をしてもらった上で当時の建設省の用地であった現在の地点に移転することになったのだという。面白い話ではあるが、神も仏も信じてなかった気がする師直らしくない話でもある(笑)。 また足利市光得寺には同市内にあった樺崎寺から移された五輪塔群があり、その中には父・師重のものとともに師直の命日が刻まれた塔もある。これらは足利家当主歴代と高家執事歴代を供養したものと考えられ、この地に所領を持っていた同族の南宗継が建立したものではないかと推測されている。 参考文献 高柳光寿「足利尊氏」(春秋社) 樋口州男「高師直―出自と事跡」(新人物往来社「ばさら大名のすべて」所収) 林屋辰三郎「内乱のなかの貴族・南北朝と「園太暦」の世界」(角川選書) 森茂暁「太平記の群像・軍記物語の虚構と真実」(角川選書) 田中寿朗「高師直」(新人物往来社「足利尊氏のすべて」所収) 峰岸純夫「足利尊氏と直義・京の夢、鎌倉の夢」(吉川弘文館・歴史文化ライブラリー)ほか 師直塚についての記事は「Forest of Tales〜伝説の森〜」の記事を参照させていただきました。 | ||
大河ドラマ「太平記」 | 当然のように全編にわたる重要キャラの一人で、柄本明が怪演した。第9回で貞氏から高氏に足利家家督が譲られるとそれにともなって執事も交代し、ここで初めて師直が登場する。以後、高氏に影のように付き従い、忠実ではあるが何を考えてるかわからぬ謎めいた男として描かれた。時々尊氏に対してグサリと核心を突く発言もし、「やはり武家は武家、公家は公家で暮らした方が良いのです」「かつげる帝であれば木の帝であれ、金の帝であれ…」「兄を敬うと同時に、兄を打ち倒そうと思うのが弟」といった名セリフを残した。古典の伝える好色ぶりもおおむねそのままで、塩冶高貞との逸話も描かれ、前関白の妹「二条の君」を愛人にしていた。観応の擾乱では尊氏と示し合わせて直義打倒のクーデターを起こす一方で「尊氏を倒して自分が天下を取る」との野心もちらつかせる。最後に尊氏と打ち融け合い爽やかな顔を見せるが、その直後に惨殺されてしまう。「大殿との約束じゃ…!こんなところで死ぬわけにはまいらん…!」が事実上最後のセリフとなった。豪快なイメージに描かれることが多い師直だが、やや神経質な小悪党という印象が強い。なお、このドラマでは師直は師泰の弟という説を採用していた。 | |
その他の映像作品 | 1959年のTVシリーズ「大楠公」で浪花五郎が演じている。 また谷崎潤一郎の戯曲「顔世」を映画化した「悪党」(新藤兼人監督、1965)では主役。小沢栄太郎が「太平記」そのままの好色な悪党ぶりを怪演している。 舞台劇では1961・1969年の「幻影の城」で田中明夫が演じている。なお上記のように歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」では吉良を高師直としているので、それを含めれば師直役者は大変な数にのぼる。 1983年放送のアニメ「まんが日本史」では矢田耕司が声を演じた。 | |
歴史小説では | 「太平記」「忠臣蔵」で有名なせいもあって、尊氏が出ていれば必ず登場し、強い印象を残すことが多い。 古いもので直木三十五の「足利尊氏」(1932)は冒頭最初に登場するキャラクターが師直である。この小説では師直は豪快そのもので、主人の尊氏に向かって「又太郎」と呼び捨てにし、やや繊細な尊氏と対照的な印象を残す。 鷲尾雨工の『吉野朝太平記』(1935)は楠木正儀を主人公とした長編小説で、師直が正行に恋する弁内侍を狙ったり(「吉野拾遺」から拝借した設定)、正儀が自身の美貌の愛人を師直のもとに送り込んで色仕掛けで直冬との対立をあおり、観応の擾乱を引き起こさせるなど、「好色な師直」のイメージが前面に押し出された。 吉川英治「私本太平記」(1959)ではかなり遅れた登場。その容貌から「木像蟹」と呼ばれ、婆沙羅大名・佐々木道誉をも手玉にとる婆沙羅ぶりを見せる。好色ぶりは「太平記」同様。当初の構想どおり湊川以降もしっかりと描きこめばより印象に残るキャラクターになったかもしれない。 高橋直樹『異形武夫』は南北朝を扱った三つの短編からなり、どの逸話でも師直が重要な役回りである。荒々しく好色なキャラクターであるが、敵となった正成や正行に敬意を表してその死の直前に面会するなど武士らしい、男らしい人物に描かれている。 伊東潤『野望の憑依者(よりまし)』は師直を主役にした、おそらく初の長編小説。ピカレスクな師直を中心に南北朝の混沌を描いている。 | |
漫画作品では | 南北朝時代や太平記をとりあげた学習漫画ではほぼ皆勤状態。 小学館版「学習漫画・少年少女日本の歴史」では「みかどや院などどこぞへ流してしまえ。代わりに木か金物で作っておけばよかろう」と豪語する場面が「婆沙羅大名」の代表例として描かれている。集英社「日本の伝記」シリーズの「足利尊氏」では序盤から足利兄弟の相談役として登場、いつも豪快に大笑いしながら情勢分析を尊氏に説明し、六波羅を陥落させた尊氏が鎌倉の妻子を心配していると「こんなこともあろうかと」と脱出の手は打ってあると急に言いだしたりしている。「くもんのまんが古典文学館」シリーズの「太平記」では妖怪みたいな悪人ヅラで登場している。 河村恵利「時代ロマンシリーズ」のうち足利直義を主役とする三つの短編に「家宰」として師直がチョコチョコ顔を見せているが、落ち着いた老人(中年?)というやや意外な雰囲気で、直義とも別に仲は悪くない。 吉川英治原作を劇画化した岡村賢二「私本太平記」では物凄いモミアゲが印象的。 市川ジュン「鬼国幻想」では主人公の阿野廉子の異母妹・緋和(架空人物)をものにしようとする好色漢に描かれ、彼女をめぐって直義と対立を深めていく展開になる。 河部真道『バンデット』では足利荘での相撲シーンで初登場、かなり男くさいキャラクターで足利が幕府を裏切る時は名越高家を直接殺したりしている。 | |
PCエンジンCD版 | 北朝方の有力武将として登場。尊氏でプレイすれば操作できる。「武蔵守」のせいなのかゲーム開始時には武蔵の「国主」として配置されている。初登場時の能力は統率86・戦闘85・忠誠97・婆沙羅89。婆沙羅が高いのは当然ではあるが、このゲームの「婆沙羅」値は「裏切りやすさ」なのでやや違和感が。また史実に比べて統率・戦闘値が低い。顔グラフィックはかなり強烈。 | |
PCエンジンHu版 | シナリオ2「南北朝の動乱」で北朝方武将として登場。このシナリオではプレイヤーは北畠顕家になって南朝軍を率いることになるので師直はクリアのために打倒必須の敵ボスの一人。大和・興福寺に配置されている。能力は「弓6」で実質最強。 | |
メガドライブ版 | 足利軍に登場。「足利帖」では大半のシナリオで味方。「新田・楠木帖」では建武の乱以降のシナリオで敵将になる。能力は体力87・武力125・智力110・人徳74・攻撃力105。足利軍にあっては強力な部類に入るが尊氏・直義には劣る。 | |
SSボードゲーム版 | 武家方の「大将」クラスで登場、勢力地域は「全国」。合戦能力2・采配能力8で采配に関してはゲーム中最強。ユニット裏は子の高師夏。 |
高師夏の母 | こうの・もろなつのはは | 生没年不詳 |
親族 | 父:二条道平 子:高師夏 | |
生 涯 | ||
―関白の妹・師直の妻― 師直には複数の妻がいたと思われるが、ここでは高師夏の母となった女性について記す。 古典「太平記」には「前関白の御妹」「太政大臣の御妹」と記されていて、二条道平の妹ではないかと推測されている(ただし道平は太政大臣ではない)。妹ではなく娘ではないかとする意見もある。「太平記」巻26の「執事兄弟奢侈の事」で師直の悪行のひとつとして、師直がこの「前関白の妹」を盗みだして自分の妻にしてしまったことが挙げられている。藤原氏名門の娘であり后妃にもなろうという女性を、野蛮な東夷(あずまえびす)が…という当時の京の貴族業界では少なからずあった気分ゆえに「悪行」とされているわけだ。 彼女は師直の息子・武蔵五郎師夏を産んだとされているので、師直に「盗み出された」のは暦応2年(1339)以前のこととなる。師直はこの師夏を溺愛したというので、その母に対しても決して粗略には扱わなかったのではなかろうか。なお、「太平記」異本のなかには「前内大臣大炊御門冬信」がこの女性に恋文を送ったため、師直が冬信の屋敷に火を付けたというエピソードを記すものがある。 その後どう人生を送ったかはまったく不明。観応2年まで存命だったとすると、夫や息子の悲惨な死を見届けることになってしまったと思われるが… | ||
大河ドラマ「太平記」 | 彼女の設定を使った「二条の君」という女性が登場する(演:森口瑤子)。ただドラマ中ではヒントにしたというだけでほとんどオリジナルのキャラクターといっていい。→詳しくは「二条の君(にじょうのきみ)」を見よ。 |