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こいづみ〜こうのもろゆき

肥富こいづみ生没年不詳
生 涯
―遣明使となった博多商人―

 室町時代の外交関係史料である『善隣国宝記』によれば「筑紫の商人」。恐らく博多商人の一人だったのだろう。「肥富」の読みについてはその『善隣国宝記』の明暦3年(1657)刊本に「コイツミ」と振り仮名がつけらていることから「こいづみ」と読むのが通例である。中世外交史の研究者・長沼賢海はこれを「小泉」と判断し、交易にも携わった安芸の豪族・小泉氏(小早川氏の支族)と推定したが、読み以外の根拠はなく、あまり顧みられていない。筆者などはその名前の字面や経歴、周辺状況から中国人あるいは日中混血の可能性が高いと感じているが、これといった証拠があるわけではない。

 『善隣国宝記』によると応永年間の初めに肥富は明から帰国し(つまりそれ以前から日明間を往来していたわけである)足利義満に日明間の公的な交渉の利を説いて(原文では「両国通信之利」、つまり政府間の公的交渉を勧めたと書かれているので、しばしば言われるように貿易による直接的利益ばかりを説いたわけではないと思われる)遣明使の派遣を勧めた。義満はこの話に乗り、応永8年(1401)5月に側近の僧・祖阿(同朋衆とされるが彼についても外国人説がある)を正使とし肥富をその副使として明に派遣した。
 このころ明の皇帝は建国者洪武帝の孫の建文帝で、叔父の燕王・朱棣(のちの永楽帝)の間で内戦(靖難の変)を戦っていた。このため建文帝は叔父に対抗するため日本との接近を図っており、そもそも肥富は最初から建文帝の意向を受けた密使だったのではないかとの見解もある。一介の商人が政府間の公的使者となることは他に例がなく(これ以後は禅僧がつとめる)、明側がこれをすんなりと受け入れていることもその根拠である。肥富と祖阿は明使天倫道彛一庵一如、および建文帝から「日本国王源道義」に宛てた国書と共に翌応永9年(1402)8月に帰国し、ここに室町幕府と明朝廷の間の国交が開始されることになる。
 日明交渉の開始に大きな役割を果たした肥富だが、その後の消息はまったく分からない。それはこの直後に建文帝が永楽帝に倒されたことと関わりがあるのかもしれず、そのことも彼の出自を示唆しているように思える。

参考文献
鄭樑生『明・日関係史の研究』(雄山閣)
橋本雄「対明・対朝鮮貿易と室町幕府-守護体制」(吉川弘文館『日本の対外関係4・倭寇と「日本国王」』所収)
漫画作品では重要な日明交易の開拓者ということで、学習漫画系ではほぼ確実に登場している。古いものでは最初の集英社版「日本の歴史」(カゴ直利・画)の室町時代編「たちあがる民衆」で「いかにも強欲な商人」の姿に描かれ、義満に貿易の利益をささやいたり、義持にも賄賂攻勢こみで勘合貿易続行を申し入れようとして義持から「欲の深いやつ」呼ばわりされ追い返されるという描写になっていた(上記のとおり、そんな事実はない)。小学館版「少年少女日本の歴史」(あおむら純・画)でもやはり「いかにも商人」という姿に描かれたが(「肥富」という字面のせいで太った男に描かれやすい?)、他の漫画ではさすがに副使にまでなっていることを考慮してか武士の正装スタイルに描かれているものも散見される。

小岩こいわ
 大河ドラマ「太平記」に登場する架空人物(演:阿部きみよ)。楠木家の侍女の一人で、脚本の設定によると元弘の乱勃発の時点(1331)で18歳。少し年上の、中年の虎女と侍女トリオを組んでおり、緊迫した情勢の中でもマイペースで楠木家に漂う呑気な空気を象徴する。楠木正成が挙兵する第11回で初登場、勅使・万里小路藤房を好奇心いっぱいの目で覗き見していた。第17回では千早城に籠城して戦闘にも参加。第29回で京都にやってきた正成の妻・久子ともども久々に登場する。

広義門院こうぎもんいん
後伏見天皇の妃で、光厳・光明両天皇の生母である西園寺寧子の女院号。→西園寺寧子(さいおんじ・ねいし)を見よ。

光厳天皇こうごん・てんのう1313(正和2)-1364(貞治3/正平19)
親族父:後伏見天皇 母:西園寺寧子(広義門院)
兄弟:光明天皇・長助法親王・c子内親王(後醍醐中宮)
子:崇光天皇・後光厳天皇・直仁親王
立太子1326年(嘉暦元)7月
在位(北朝第1代)1331年(元弘元)9月〜1333年(元弘3)5月
生 涯
―後醍醐の皇太子―

 名は「量仁(かずひと)」といい、持明院統の後伏見天皇の嫡子として西園寺公衡の娘・寧子を母に生まれた。同じ持明院殿に住んでいた叔父・花園上皇の日記には幼いころの量仁親王がたびたび登場し、その成長の様子がうかがい知れる。父・後伏見はいずれ長子の量仁を皇位につけようと期待しており、その教育を大の学者肌であった花園に任せた。量仁は花園の猶子(養子)という形になり、花園は量仁が十歳となった時から計画的に教育を進め、特に儒学古典の教養を身につけさせた。

 この時期、皇室は持明院統と大覚寺統の二つに分かれ、その皇位争いはますます激しくなっていた。文保2年(1318)からは大覚寺統の後醍醐天皇が皇位にあり、その皇太子は後醍醐の兄の子である邦良親王と決まっていた。持明院統は一刻も早い皇位奪取を願っていたが、後醍醐自身も「一代の主」とされ自身の子孫に皇位を継がせられないことに不満を抱いていた。そのような状況を打破するべく後醍醐は幕府の打倒を計画するが、これは未然に失敗する(正中の変、1322)。やがて嘉暦元年(1326)3月に皇太子・邦良親王が急逝してしまい、幕府の介入もあって量仁に皇太子の座が回ってくることになる。この年7月24日に立太子の儀式が行われ、14歳の量仁は正式に後醍醐の皇太子となった。元徳元年(1329)12月に量仁は数え17歳という異例の高齢で元服しているが、これも皇太子になるまでのゴタゴタと後醍醐との関係の悪さが原因だったのではないかと言われる。

 元服した量仁に対し、花園は「誡太子書」と題する文章を与えた。学者天皇・花園がその儒教道徳的な政治観を結集させたこの文では帝王たるものの徳がいかなるものかが切々と説かれ、深く学問を学んでそれを我がものとし仁政をしかねばならないと諭していた。花園は動乱の時代の到来を予感しており、「恐らくは太子が皇位につく時は、世の乱れる時運にあたっているだろう」として「もし君主が賢聖でなければ乱はおそらく数年のうちに起こるだろう。いったん乱となればたとえ賢聖の君主といえどもすぐには治まらず必ず数年は続く。まして凡庸な君主がこのような時にあたっては国は日に日に衰え、政治は日に日に乱れ、必ず土崩瓦解してしまうだろう」と強く警告していた。量仁が凡庸であったかどうかはともかく、この花園が抱いた予感は数年後に的中することになる。

―元弘の乱―

 元弘元年(1331)、後醍醐の二度目の討幕計画が発覚。後醍醐は8月についに行動を起こし、27日に笠置山に挙兵した。同日に量仁は後伏見・花園ともども幕府軍の護衛を受けて六波羅探題・北の方に移動した。幕府は後醍醐が都に不在であることを理由に、安徳天皇が平家と共に西海へ下った時に後白河法皇の命で後鳥羽天皇を即位させた先例にならい、後伏見上皇の詔勅により太子・量仁を即位させる。皇位の象徴である「三種の神器」のうち剣と勾玉は後醍醐が持ち去っており、天皇が日中政務をみるときそばに置かれる「日の御座(おまし)の御剣(みつるぎ)」を神器の代品に用いたという。このような異常な状況で9月20日に「光厳天皇」が誕生することになった。

 間もなく笠置山は陥落して後醍醐も捕えられ、神器も後醍醐がさんざん抵抗した末に光厳側に引き渡された。後に後醍醐はこのとき渡した神器は偽物であると主張することになるが、少なくともこのとき渡したものは状況から見て本物であったとみられる。幕府はあくまで両統迭立、つまり大覚寺統と持明院統が交互に皇位継承することを基本方針としており、10月25日には邦良親王の子・康仁親王が光厳の皇太子に立てられた。天皇の父である後伏見上皇の院政が始まって持明院統の人々が浮かれ騒ぐ一方で、翌年正慶元年(元弘2、1332)3月に“先帝”後醍醐は隠岐へと流されていった。

 しかし暗転はまもなくやって来た。護良親王楠木正成らの水面下での倒幕運動が次第に表面化し、正慶元年の秋以降はその活動が活発化して京周辺も騒然となってきた。光厳も楠木ら「凶徒」の鎮定を神仏に祈らせる綸旨を発している。しかし情勢は悪化する一方で正慶2年(元弘3、1333)閏2月に後醍醐が隠岐を脱出、楠木正成のこもる千早城は一向に攻め落とされず、ついには播磨の赤松円心が挙兵し、3月12日には京へと侵攻した。光厳の内裏周辺まで兵士のときの声が聞こえる状態となり、光厳・後伏見・花園らはまたまた六波羅へと難を逃れた。そしてそこを仮皇居としたまま六波羅陥落の日を迎えることになる。
 4月末、鎌倉から名越高家足利高氏の大軍が六波羅支援のため京に入った。しかしその直後に高氏は後醍醐側に寝返って逆に六波羅を攻撃する。5月7日、激戦の末に六波羅探題は陥落、北の方探題・北条仲時は光厳ら皇族を引き連れて東国への脱出を図った。このときの持明院統の皇族・公家たちの混乱ぶりは『増鏡』が生々しく伝えている。

 京を脱出した一行は近江へと向かったが、その途中から悪党・野伏(山賊)たちの襲撃が続き、南の方探題・北条時益が矢を受けて即死したのをはじめ、逢坂の関の手前で休憩中には流れ矢が光厳の左のひじに突き刺さった。ただちに陶山次郎がこれを引き抜いて手当てしたが、天皇ともあろうものがその体に矢傷を受けるとは前代未聞の事態であった。このとき数千人もの野伏たちが山に満ちて一行の行く手を遮ったといい、隠遁生活を送っていた亀山上皇の皇子「五辻宮」守良親王がその大将としてかつぎあげられていた。また近江に本拠を置く佐々木道誉の関与も大いに疑われている。行く手をふさぐ野伏たちに六波羅の武士が「一天の君が関東へ向かわれるのに無礼をするな。弓を伏せ兜を脱いで通すがよい」と言うと、「一天の君だろうと通れるものなら通ってみろ。ご運が尽きて落ち延びられるのであれば通さないことはないが、どうしても通りたかったら馬や武具を置いていけ」と答えたという『太平記』の逸話は時代を象徴する場面としてよく知られる。
 5月9日、一行は近江・番場の宿に到達したが、ここで前途を悲観した北条仲時は切腹。これを見た六波羅勢一同400名以上が一斉に自害した。この集団自殺を目の当たりにして光厳と二上皇は肝をつぶして呆然とするばかりであったと『太平記』は伝える。間もなく光厳たちは五辻宮の軍勢に身柄を拘束され、京へと送られた。
 京に凱旋した後醍醐は光厳が定めた「正慶」年号を「元弘」に戻し、光厳在位時に行われた人事をすべて白紙とした。光厳はもちろん退位させられ、皇太子・康仁も廃された。後醍醐は光厳から神器を接収したがそれはあくまで偽物であり本物は自身がずっと所持していたとして、復位(重祚)ではなく隠岐配流の間もずっと正統の天皇であったのだと主張した。つまり光厳天皇は即位した事実そのものが「なかったこと」にされてしまったのである。

―尊氏に賭ける―

 京に戻った直後、光厳の父・後伏見は失意のあまり出家してしまった。後伏見は光厳にも出家を勧めたが光厳は「思いもよらぬこと」と拒絶したという(『増鏡』)。その年の末に後醍醐は「天皇」としては認めていない光厳に対して特別待遇として「太上天皇」の尊号を贈った。そして年が明けた建武元年(1334)正月に後醍醐は我が子・恒良親王を皇太子に立て、宿願を果たすことになる。
 光厳ら持明院統の皇族達は建武新政の間はおとなしくするほかなかった。しかし建武新政は間もなく深刻な混乱を見せ始め、各地で反乱が発生、ついには持明院派の有力公家で光厳の母方のいとこでもある西園寺公宗による後醍醐暗殺未遂事件(建武2、1335)も起こる。やがて中先代の乱、それを平定した足利尊氏による反乱と事態は一気に流動化してゆく。

 建武3年(1336)、足利尊氏の軍が京を占領したが、後醍醐側も警戒して持明院統の皇族達も連れて比叡山へと逃れた。間もなく形勢が逆転して足利軍は京を追われ、遠く九州へと下っていくことになるが、ここで尊氏は赤松円心の献策により光厳の院宣を受けてこの戦いの大義名分を得ようとする。尊氏がどのようにして光厳側と接触したのか明確なことは不明だが、持明院派の日野俊光の子の日野資名とその弟の醍醐寺の僧・三宝院賢俊が介在したことは間違いない。光厳にしてみれば尊氏は六波羅を攻め落として自分たちに地獄の苦しみを味あわせた張本人であったから内心複雑だったのではないかと思われるが、あくまで皇位奪回が最優先の目的だった。光厳が発した「新田義貞討伐」の院宣が三宝院賢俊の手により備後・鞆にいる尊氏のもとにもたらされたのは2月20日前後だったと推測される。

 後伏見の容体が悪化したためか、光厳の母・広義門院(西園寺寧子)が2月25日に出家している。そして4月9日に父・後伏見は失意のままこの世を去った(享年49歳)。そのころ尊氏は九州を平定して大挙東上の軍を起こしており、5月25日に湊川合戦で勝利して一気に京まで突入してきた。5月27日、後醍醐は比叡山への避難を決め、持明院統の皇族らにも同行を命じたが、光厳は途中で「気分が悪い」と言って巧みに一行から離脱、そのまま弟の豊仁親王と共に足利軍に身を投じた。そして尊氏が本陣を置く東寺に御所を構え、後醍醐が2月末に改元した「延元」の年号をやめて「建武」に戻し、光厳上皇みずから最高君主「治天」として院政を開始する。京都をめぐって比叡山にこもる後醍醐軍と東寺に本陣を置く足利軍の戦闘が継続するなか、8月15日に豊仁親王が新天皇に即位する。「光明天皇」の誕生であった。
 長引いた戦闘は10月10日に後醍醐と光厳の和睦という形で一応終結、後醍醐は比叡山を降りて京・花山院に軟禁された。後醍醐は神器を光厳側にひきわたし(後に後醍醐はこれも偽物と主張するが本物だった可能性が高い)、またも退位を余儀なくされた。和睦の条件として本来の「両統迭立」の原則にたち後醍醐の子・成良親王が光明の皇太子に立てられたが、これに先立って後醍醐は恒良親王に「譲位」して新田義貞と共に北陸に下しており、さらに自身もその年の末に花山院を脱出、吉野に潜行して自身こそが正統な天皇であると主張し「南北朝時代」の幕があがることになる。

―北朝「治天」として―

 持明院統はもともと上皇による院政を常識とし、軍事面については完全に幕府に任せる政治姿勢を持っていた。「治天」である光厳は尊氏・直義兄弟によって創設された幕府に軍事面を任せる一方、積極的に院宣を発行して寺社・貴族相手の政務に取り組んでいる。一時は勢いを見せた南朝勢力も各地で敗退し、新田義貞が建武5年(1338)に戦死した直後に光厳は尊氏を征夷大将軍に任命し、「足利幕府」が名実ともに発足することになった。
 その翌年、暦応2年(延元4、1339)8月に後醍醐が吉野で逝去した。光厳にとっては最大のライバルがようやく消えてくれたことになるが、尊氏・直義の発案と夢窓疎石のすすめにより、光厳の指示という形で後醍醐を慰霊する禅寺・天竜寺が創建される。この寺は当初は年号をとって「暦応寺」とされる予定だったが比叡山延暦寺(「延暦」も年号)の猛烈な反対にあって改名余儀なくされたうえ、その落成供養に光厳が臨席する予定と聞いた延暦寺は禅寺の勢力拡大とみて強硬に反対、僧兵による強訴の構えまで見せた。光厳は落成供養の日には参列せず翌日に参詣することを延暦寺に通告してなだめることに成功している。

 光厳は自身の皇子である興仁親王を暦応元年(1338)に弟・光明天皇の皇太子に立てたが、康永2年(1343)に所領の配分と皇位継承についての「置文」を作成し、興仁を「一代限り」と定め、叔父・花園の皇子である直仁親王の子孫たちに皇位を継がせるよう厳命した。一見奇異な指示をするこの置文には重大な秘密が記されている。実は直仁は花園の子ではなく、「元これ朕が胤子なり(もともと私の種の子だ)」と告白しているのだ。直仁の母は花園の妃・宣光門院実子だが、建武2年という持明院統にとっては受難の時期に光厳と実子はひそかに関係を持ち、その結果直仁が生まれた。「このことは私と直仁の母親しか知らない。興仁を皇太子に立てた時にはまだ天の時を得なかったから明らかにしなかったが、今は真実を明かしておく」と光厳はこの置文で赤裸々に告白している。学問・帝王学の師であり養父でもある花園に対する負い目があったのかもしれない。

 「治天」光厳は足利幕府にとっては自らの正当性の源泉であり、光厳と幕府の関係は当然良好だった。とくに幕府の政務を任されていた直義は朝廷・公家・寺社としった旧勢力を保護する姿勢が強く、光厳も個人的に直義を深く信頼していたとされる。康永2年正月に直義が病に倒れ一時重態におちいったときには光厳は自ら石清水八幡宮に直義快復の祈願をし、それが効いたのか直義はまもなく回復した。
 この年の9月3日に一つの事件が起きる。この日は光厳の祖父・伏見院の命日だったため、光厳は伏見殿に出かけた。その帰りの路上で、美濃守護・土岐頼遠の一行が笠懸けから帰ってくるのに遭遇する。猛勇で知られた頼遠はこのとき酒に酔っていて、光厳の牛車に対して下馬の礼をしなかった。「院の御幸なるぞ、下馬せよ」と注意された頼遠は下馬するどころか「なに、院というか。犬というか。犬ならば射て落とさん」と言って弓を取り出し、光厳の牛車に矢を放った。牛車は倒されて光厳は路上に投げ出され、供の者もすべて馬から落ちてしまった。路上に投げ出された光厳は西園寺公重と共に悔し涙にくれたという。さすがに自分のしたことに危険を覚えた頼遠は逃亡して夢窓疎石に助命を頼んだが、最高君主である「治天」に対する最大級の無礼を直義は許さず、頼遠は斬首に処せられた。この件で北朝の人々はますます直義を頼りとするようになったという。
 貞和4(1348)10月27、光明が退位して皇太子・興仁が皇位にのぼった(崇光天皇)。そしてその皇太子には光厳の指示通り直仁親王が立てられた。「我が子」の立太子を花園も大いに喜んだが、安心して気が抜けたのか、そのわずか半月後の11月11日に花園は52歳でこの世を去った。光厳は花園の猶子だったので実の父と同様の服喪をしたいと洞院公賢に相談したが、公賢は反対して「叔父が亡くなった場合は三か月」という例を出し、結局五か月の心喪に服している。

―虜囚の身となって―

 貞和5年(1349)、足利幕府内では直義派と高師直派の争いが激化し、ついに8月に師直がクーデターを起こして直義を失脚に追い込んだ。ところが翌観応元年(1350)末に直義が挙兵、なんと南朝に降伏して師直打倒をはかる。しかし直義と光厳の個人的関係は維持されていたらしく、直義は騒乱の間もまめに光厳のもとに使者を送って事情を説明し、北朝に対して経済的支援を行っている。この騒乱は翌観応2年(1351)2月に尊氏・師直軍が直義らの軍に敗れ、和睦直後に師直・師泰兄弟が暗殺されたことでいったん直義の勝利に終わったが、直義はあくまで幕府および北朝の存在を維持した上での南北合体を図ったため南朝の総帥・北畠親房との交渉は決裂してしまう。

 7月に尊氏・直義の和平は崩れ、直義は近江から北陸へと移った。すると今度は尊氏が直義と戦うために南朝と手を結ぶことを決断するのだが、尊氏は直義と違って大雑把な条件で講和、北朝をあっさりと見捨ててしまった。この間北朝側には何の相談もなく、むしろ直義の方から比叡山を通して北朝に連絡があり、一時北朝の皇族達を直義が担ぎ出そうとする動きもあった。しかし身動きが取れないうちに南朝側から京都に使者がやってきて北朝朝廷の接収が伝えられた。いわゆる「正平の一統」で、光厳にしてみれば尊氏から二度目の裏切りを受けた形になる。
 11月7日、崇光天皇は廃位され「北朝」は消滅した。南朝の後村上天皇は持明院統の皇族達についてはその財産や地位を保証すると明言したが、北朝が所持していた三種の神器だけはしっかりと接収した。南朝側は北朝が持つ神器は偽物であり自分たちが本物を持っていると主張していたのだが、北朝で仮にも神器として扱われたのだから…という苦しい説明をしている。心労からか光厳の弟・光明上皇は12月28日に出家している。

 翌観応3年(1352)2月26日、尊氏に敗れて投降した直義が鎌倉で死に、幕府の内戦「観応の擾乱」は終わった。それと前後して南朝軍は京都と鎌倉を同時に攻撃し、「正平の一統」は破られた。南朝軍は一時京を占領し、閏2月21日に光厳・光明・崇光そして直仁の四人は後村上が本陣を置く男山八幡宮に呼び出された。表向きは戦火を避けるためとされたが実際には足利に北朝を復活させないための連行措置で、四人は一台の牛車に押しこまれて運ばれたという。間もなく足利軍の反撃が始まり、劣勢となった南朝軍は3月に北朝皇族らを楠木氏の勢力圏である河内・東条へ移し、さらに5月に男山から撤退すると光厳らを遠く賀名生の山奥まで連行した。足利側は唯一残った北朝皇族である光厳の皇子の一人・弥仁親王を確保し、光厳の母・広義門院に「治天」を代行させて弥仁を新天皇に即位させる(後光厳天皇)。それと同時にあらゆる手段を使って光厳らの送還を南朝に求めたが、それが受け入れられるはずもなかった。
 遠く賀名生の地に虜囚の身となって、ついに世をはかなんだのだろう、8月8日に光厳は出家した。これまで父・後伏見、叔父・花園、弟・光明がそれぞれ挫折を覚えて出家するなかで一人出家を拒んできただけに、光厳出家の報は京では驚きをもって迎えられたらしく洞院公賢も日記に「ご本心からなのか、それとも偽装なのか」と記している。
 文和3年(正平9、1354)3月に南朝の本拠は賀名生から楠木氏の拠点である河内・金剛寺に移された。光厳ら北朝皇族たちもこれに同行し、かなり近距離になったことで京との連絡も頻繁に行われるようになった。光厳は京から「万葉集」を取り寄せるなど学問にも精を出し、禅宗にも没頭、完全に隠遁生活を送るようになっていく。この年11月には叔父・花園の七回忌の供養を金剛寺から京の関係者に呼び掛けたりもしている。

―静かな晩年―

 文和4年(正平10、1355)に光明上皇だけが先に京へ送還された。それから2年後の延文2年(正平12、1357)2月18日に光厳・崇光・直仁の三人が突然京に帰って来た。南朝としてはすでに北朝が復活して彼らの捕囚が無意味になっていること、この時期尊氏との間で講和交渉が進められていたこともあって解放を決めたものとみられる。洞院公賢の日記によると16日ごろから光厳らの帰京が噂となっており、19日になって光厳の生母・広義門院に尋ねると「すでに昨日帰って金剛寿院にいる」と知らされたとある。光厳は帰京を公家たちにまったく知らせず、人目を忍ぶようにこっそりと京に入り、生母にだけ連絡していたようだ。帰還を知った公家たちが挨拶に押しかけたが、光厳は一切の面会を拒絶している。この年の閏7月に母・広義門院が世を去った。
 帰京後の光厳は隠遁状態を続けたが、9月の夢窓疎石七回忌の法要には参列し尊氏とも同席している。その尊氏も翌年(1338)4月にこの世を去った。後醍醐と共に自分の運命を狂わせた張本人といえる尊氏の死に光厳個人がどのような感情を持ったかは全く分からない。間もなく光厳は郊外の嵯峨小倉に移り住んで静かに隠遁生活を送るようになる。

 ところで成り行きで自分の承認も受けずに皇位についた我が子・後光厳に対しては良い印象を持っていなかったようで、父子の間で確執があったことが伝えられている。光厳が本来後継者とするつもりだった直仁は完全に皇位の可能性を失い、南朝による措置で廃位された崇光も後光厳に対して自分の皇子・栄仁親王への譲位を求めるなど対立している。これが後年、まるで持明院・大覚寺の対立の再現のような後光厳系と崇光系の確執を生むことになる。
 康安2年(正平17、1362)秋に光厳は大和・法隆寺に参詣している。このときのことをヒントに創作されたのだろうか、『太平記』では光厳が順覚という僧一人だけを供にして摂津・住吉から高野山に参詣し、そこから大和に入り、吉野を訪れて後村上天皇と語り合うという物語がある。途中楠木正成が戦った金剛山を眺めて自分たちの皇統の争いによる犠牲に思いをはせたり、後村上に対してこれまでの苦難と世を捨てた悟りの境地を語るなど、『太平記』全体の終幕を印象付ける見事な物語だが、とうてい史実とは思えない。当時後村上は吉野ではなく住吉にいるので、そちらをひそかに訪ねた可能性はあるが…。

 最晩年は嵯峨からも離れ、丹波国・山国荘にあった廃寺を再興して常照寺(現・常照皇寺、京都府京北町)とし、ここに隠棲した。貞治3年(1364)7月7日、この常照寺で光厳はその波乱の生涯を静かに閉じた。享年52歳。死の直前に光厳は次のような遺言を記している。「私が死んだらごく普通の葬式にして盛大な葬儀をすることはない。ただ山河に埋めてくれればよい。埋められた塚の上に松や柏が生え、時々風や雲が行き来する眺めは私の愛するところだ。村人たちが小さな塔でも建てたいと言うならごく小さなものであればそれを禁じることはない。なにごとも多くの人の労力をわずらわすことはない、ごく簡単に済ませよ。手間が省けるのであれば火葬にするのもよかろう。法事はいっさいしなくてよい」この遺言に従って光厳は常照寺の後ろの山にごく質素な墓を作ってそこに葬られた。

 後醍醐天皇と同じ時代に生まれてしまったのが不幸というような天皇。現在の皇統譜では正統と認められず「北朝初代天皇」として扱われるが、彼が生きていた当時から南朝正統が定まる明治時代までは「第96代天皇」であった。

参考文献
飯倉晴武『地獄を二度も見た天皇 光厳院』(吉川弘文館・歴史文化ライブラリー147、2002)
大河ドラマ「太平記」第12回で即位する場面で初登場する(演:岡田智章)。それからしばらく登場しなくなり、第37回の京を占領した尊氏に合流する場面で再登場、これ以降は辻輝猛が演じている。その後尊氏が後醍醐の喪に服したことに感心する場面、土岐頼遠に「院か犬か」と矢を射かけられる場面、足利直冬に出兵の綸旨を与える場面で登場している。
歴史小説では森真沙子『廃帝』(2004)は光厳天皇自身と架空人物の回想が交互に展開されてゆく異色の南北朝小説。内省的な光厳が自身の分身「影」と対話し、天魔のような後醍醐と荒れ狂う時代の波に翻弄されつつ生きて行く姿を描き、一般にはなじみのないこの人物の波乱の生涯をまとめている。
PCエンジンCD版足利尊氏でプレイすると拝謁することができる(「光厳帝」として。義貞でプレイすると後醍醐に拝謁できる)。献金すると重要アイテムである綸旨を下してくれたり、ゲーム攻略のヒントを教えてくれたりする。

光済
こうさい1326(嘉暦元)-1379(康暦元/天授5)
親族父:柳原資明 母:源康世の娘 兄弟:柳原忠光
生 涯
―賢俊の後継者の政僧―

 父の柳原資明日野俊光の子で、兄弟に日野資朝日野資名、そして醍醐寺三宝院の門跡となって足利尊氏の護持僧をつとめ権勢をふるった賢俊がいる。光済は賢俊の実の甥にあたり、叔父に弟子入りして醍醐寺三宝院に入り、賢俊から所領を譲られるなど、早い段階から賢俊の後継者と目されていたとみられる。
 文和2年(正平8、1353)に賢俊から一流所伝の法を授けられ、醍醐寺三宝院門跡の地位を譲られる。延文2年(正平12、1357)に醍醐寺座主となり、さらに東寺長者を兼ね、叔父・賢俊と同様に朝廷と幕府の橋渡し役となり武家・公家に大きな影響力をもった。貞治5年(正平21、1366)8月に斯波高経斯波義将父子が失脚した際、将軍足利義詮から斯波父子の屋敷に送られ最後通告を行う使者も務めている(『太平記』では「三宝院覚済」と記すが覚済は1303年に死去した人物で、「光済」の誤記とみられる)
 応安3年(建徳元、1370)に後光厳天皇が息子の緒仁親王(=後円融天皇)に譲位しようとした時、幕府の同意を得るために当時の管領・細川頼之との連絡役を任されたのが光済であった。光済はこの譲位に反対する崇光上皇の勅書を入手するなどかなりの情報収集能力を発揮して頼之と後光厳を強く結び付け、後円融即位実現に大きな功績があった。

 この光済の権勢は宗教界でねたみを買っていたようで、応安4年(建徳2、1371)12月に奈良・興福寺の僧徒が春日大社の神木を入京させ強訴を行った際、興福寺側は光済と覚王院の宋縁が収賄して政治を乱したと主張、二人の流刑を朝廷に要求している。朝廷と幕府はその要求を拒絶したが、興福寺側も春日神木を持ち帰らず後円融天皇の即位式など朝廷の儀式を妨害し続け、応安6年(文中2、1373)には関白二条良基の放氏(藤原氏からの追放。春日大社は藤原氏の氏寺である)という強硬手段にまでエスカレートさせた。やむなく応安7年(文中3、1374)11月に朝廷は光済を播磨国へ、宋縁を備中国へ配流することに決定、興福寺側もようやく春日神木を3年ぶりに帰還させた。
 しかし光済・宋縁は実際には配流先へ行くことはなく、京を出ただけでしばらく待機し、春日神木が京を出た直後に幕府のとりなしでこっそり京に戻っている。そして翌永和元年(天授元、1375)正月に後円融即位に伴う特赦として光済らは正式に帰京を認められた。この年8月には光済は大僧正に昇進しており、流刑が形ばかりのものであったことが分かる。

 康暦元年(天授5、1379)閏4月24日に死去。享年54。 

参考文献
小川信『細川頼之』(吉川弘文館・人物叢書)
小川剛生『足利義満』(中公新書)ほか

後宇多天皇ごうだ・てんのう1267(文永4)-1324(元亨4)
親族父:亀山天皇 母:洞院佶子
兄弟:知仁親王・正覚法親王・良助法親王・聖雲法親王・覚雲法親王・啓仁親王・順助法親王・継仁親王・慈道法親王・恒明親王・憙子内親王ほか
妃:堀川基子・五辻忠子・姈子内親王・瑞子女王・掄子女王・一条局
子:後二条天皇・後醍醐天皇・性円法親王・承覚法親王・性勝法親王・奨子内親王・禖子内親王(邦良妃)・愉子内親王ほか
立太子1268(文永5)8月
在位1274年(文永11)正月〜1287年(弘安10)10月
生 涯
―「大覚寺統」の大黒柱―

 名は「世仁(よひと/ときひと)」といい、亀山天皇洞院実雄の娘・佶子の間に生まれた。文永5年(1268)8月に父・亀山天皇の皇太子に立てられたが、この時まだ生後8カ月である。この立太子は祖父の後嵯峨上皇の強い意向であり、亀山の兄・後深草上皇をさしおいて亀山の子孫による皇位継承を明示する狙いがあったと見られる。文永9年(1272)2月に後嵯峨が死去すると、後深草と亀山の母・西園寺姞子(大宮院)が後嵯峨の遺志を持ち出して亀山の親政を実現させ、さらに文永11年(1274)正月に亀山が譲位して8歳の後宇多天皇が即位することになる。なおこの年に元軍最初の襲来「文永の役」が起こっている。
 翌建治元年(1275)に後深草側が幕府に働きかけ、執権・北条時宗の介入で後宇多の皇太子に後深草の皇子・熙仁親王(伏見天皇)が据えられた。これがその後南北朝時代まで続く「両統迭立」のきっかけとなる。
 
 弘安4年(1281)5月、元軍の二度目の襲来「弘安の役」が起こった。このとき幕府と朝廷は一体で国難にあたることとし、一時は後深草・亀山両上皇は関東に下り、後宇多天皇・皇太子熙仁は都にとどまるという案も出たという。まだ少年の後宇多には神仏に祈ることしかできなかったが、彼は外国軍の侵略を在位中に二度も受けた珍しい天皇となった。
 弘安10年(1287)10月に幕府の強い要請もあって後宇多は伏見天皇に譲位、皇統は後深草系(持明院統)に奪回された。さらに正応2年(1289)4月には伏見の皇子・胤仁親王(後伏見天皇)が太子に立てられ、形勢は逆転して亀山系(大覚寺統)の不遇の時代がやってきた。亀山は出家して法皇となり、正応3年(1290)3月に発生した浅原為頼の宮中乱入事件の黒幕と疑われるなど、亀山・後宇多父子の逼塞状態がしばらく続いた。

 それでも大覚寺統は巻き返しを図った。亀山・後宇多は伏見-後伏見と持明院統が二代続くからにはその次は大覚寺統から天皇を出すべきと幕府に運動、幕府も一方だけを支援するわけにもいかず、これを受け入れた。永仁6年(1298)に後伏見が即位するが、その皇太子に後宇多の長男・邦治親王(後二条天皇)が立てられた。正安3年(1301)に後二条が即位、後宇多の院政が実現して政権奪回となるが、後二条の皇太子には持明院統の富仁親王(花園天皇)が立てられて、両統による交互即位の原則が固まることとなる。
 
 院政を開始した後宇多は父・亀山に似て政務に意欲的に取り組んだ。後宇多は院評定に臨席して直接訴訟を聞き、自ら判決を下す「聴断」と呼ばれる制度を行っていたことで注目される。こうした姿勢はのちに強力な天皇親政を目指す息子の後醍醐天皇にも引き継がれたとみられる。後宇多の治世は「乾元・嘉元の間、政理乱れず」「末代の英主」と高い評価を受けている。
 その後の後醍醐、尊治親王をはじめとする四人の子を生んだのは妃の五辻忠子だが、彼女は後宇多と不仲になって舅である亀山のもとに身を寄せるようになっていた。このことが後宇多と亀山の父子に微妙な波風を起こしたらしく、後年、後醍醐即位後に忠子が死去した時、後宇多は型通りの服喪はしたもののかなり冷たい態度であったと伝えられる。
 また亀山は嘉元元年(1303)に55歳で男子・恒明親王をもうけてこれを溺愛し、彼をいずれ天皇に即位させるよう後宇多や持明院統の伏見上皇に積極的にはたらきかけ、嘉元3年(1305)9月に西園寺公衡を後見人として恒明を皇太子とせよとの遺命をのこして死去した。後宇多はいったんは承知したもののはるか末の弟に皇位を奪われることが面白いはずはなく、亀山の死後まもなく西園寺公衡に難癖をつけて所領没収・謹慎を命じ(幕府のとりなしで赦免するが)、結局は恒明の立太子を反故にしてしまう。恒明はのちのちまで皇位継承レースの候補者として残り、持明院統と結んで後宇多系に対抗してゆくこととなる。

―後醍醐の父として―

 徳治2年(1307)7月、愛妃の姈子内親王(遊義門院)の死を深く悲しんだ後宇多は突然出家、法名を金剛性と号して大覚寺に入った(「大覚寺統」の名はこれに由来する)。翌延慶元年(1308)8月には息子の後二条天皇が24歳の若さで急死、持明院統の花園天皇が即位してしまい、ますます世をはかなんで真言密教に没入してゆく。だが自分の直系子孫による皇位継承には執念を燃やし、後二条の皇子である孫の邦良親王をいずれ天皇にするべく画策した。
 後宇多はあえて花園の皇太子に直接9歳の邦良を立てることはせず(邦良が小児まひだった可能性がある)、次男の尊治親王(後醍醐)を立てた。尊治はこのとき21歳と立太子時点では異例の高齢だったが(太子の方が天皇より9歳年上だった)、後宇多の本心はあくまで後二条―邦良の子孫による皇位継承であり、尊治はそれを実現するための「中継ぎ」でしかなかった。後宇多は尊治とその子孫は「本家」である邦良の子孫に臣下として仕えるよう厳命し、持明院統側にも「尊治は一代限り」と伝えていた。後宇多自身が父・亀山とそうであったように、後宇多と後醍醐も微妙な確執を含む父子関係であり、このことが後に後醍醐が討幕・天皇親政を目指す原因の一つとなったようだ。

 文保2年(1318)2月、花園の在位が区切りの十年となったのを機に、後宇多は花園に退位を迫るべく幕府に積極的に工作した。前年に伏見上皇が死去して政治的に弱体となっていた持明院統はとても抗しきれず、花園が後醍醐へ譲位、その皇太子に邦良親王がおさまって大覚寺統が天皇・皇太子を独占した。さらにその次の皇太子には持明院統の量仁親王(光厳天皇)を立てて「両統迭立」を厳守することが暗黙の了解とされたといわれる(「文保の和談」)。ただし実際には後宇多はあくまで大覚寺統の本流(後二条系)一本での継承を意図していたようである。
 後醍醐の即位により後宇多による院政が再開された。だが3年後の元亨元年(1321)12月に後宇多は吉田定房を幕府に派遣して自らの院政の停止と後醍醐の親政を申し出る。この突然の引退の真相は定かではなく、後醍醐が不仲の父・後宇多を引退に追い込んだとみる説、後宇多の健康状態・密教への没入が理由とみる説、あるいは持明院統からの譲位要求に対抗してあえて後醍醐親政の体制を作ったとみる説など、諸説分かれている。

 正中元年(1324)6月25日に大覚寺において死去。享年58歳。遺言により平安時代の宇多天皇にちなんだ「後宇多院」の追号が贈られているが、これは後醍醐が醍醐天皇にちなんで生前に「後醍醐」と自ら決めていたことと対応しているのかもしれない(宇多天皇の次代が醍醐天皇である)。これが二人の合意のものであるとすれば父子関係は良好だったとも考えられるが、その後後醍醐は邦良への譲位を渋り続け、邦良が嘉暦元年(1326)に死去すると今度は自分の皇子を後継に立てようとして後宇多の遺志に背くことになる。
 後宇多の死の直後の9月に後醍醐天皇一派の最初の討幕計画が発覚する(正中の変)。後醍醐が行動を急いだ背景に父・後宇多の死があった可能性もある。

参考文献
森茂暁「南朝全史・大覚寺統から後南朝へ」(講談社選書メチエ)
河内祥輔・新田一郎「天皇と中世の武家」(講談社「天皇の歴史」04)ほか
歴史小説では吉川英治「私本太平記」の冒頭部分で、後醍醐天皇が後宇多法皇を訪ねる「朝勤の儀」が行われる描写があり、後宇多が登場している。

勾当内侍
こうとうのないし生没年不詳
親族父:世尊寺経尹?一条伊尹?一条行房? 夫:新田義貞
生 涯
―新田義貞との恋物語―

 「勾当内侍」とは本来は後宮の女官の官職。ここでは新田義貞との恋物語で知られる女性を扱う。実名は不明。
 彼女について伝えるのはほぼ『太平記』のみなのでその実在自体を疑う意見も強い。『太平記』は一条行房の娘とするが、『尊卑分脈』藤原(世尊寺)経尹の娘、一条行房の末の妹として「後醍醐院勾当内侍、新田義貞室」と記しており、一応実在したらしい。ただしこの「新田義貞室」の部分は『太平記』が広く読まれた後世の注記との意見もあり、先行する『増鏡』北畠具行後醍醐天皇から「勾当内侍」を賜り悲恋に終わるソックリな物語があるため、『太平記』の話はそれを流用したものの可能性もある。

 『太平記』によれば16歳の時から後宮に入り、「天下第一の美女」とうたわれた。建武の始めの天下が再び乱れようとしていた頃のある秋の夜(建武元=1334年秋か)、武者所の長官として常時内裏を警護していた義貞が琴の音にひかれて庭に入り込み、そこで勾当内侍の姿を偶然見かけ、その美しさに激しい恋心を抱いてしまった。すっかり熱をあげた義貞は「我袖の泪に宿る影とだにしらで雲井の月やすむらん」という恋の歌まで作って彼女に届けさせたが、勾当内侍は心惹かれる様子を見せながらも後醍醐に知られることを恐れて恋文は受け取らなかった。義貞は失望したがますます恋の病に落ちてしまい、やがて義貞の恋の噂は宮廷に広がり、後醍醐天皇の耳にも入った。

 建武2年(1335)秋から新田義貞は建武政権に反旗をひるがえした足利尊氏と東西に戦い、建武3年2月ついに尊氏を九州の彼方へと敗走させた。そのころのことと思われるが(『太平記』にも時期の明記はないが)、後醍醐は酒宴の席に義貞を招いた時に「勾当内侍をこの盃につけて」と勾当内侍を義貞に下げ渡すことを告げた。義貞が大いに喜んで翌日の夜に迎えの牛車を差し向けると、勾当内侍のほうも義貞の長年の恋に「さそう水あれば」と思っていたらしく、早くから待機していたという。こうして恋い焦がれた天下の美女を手に入れた義貞はすっかり彼女にのめりこんでしまい、別れを惜しんで出陣を遅らせたため、尊氏の復活を助ける結果になってしまったと『太平記』は非難する。ただ義貞の出陣の遅れが本当に勾当内侍一人が原因だったとはとうてい思えず、阿野廉子同様に「傾国の美女」を戒める『太平記』作者の創作とみるべきだろう。

―再会を目前に―

 その後義貞は湊川合戦で敗れ、京都攻防戦のすえに後醍醐が尊氏と和睦して比叡山を降りる際に、恒良親王を奉じて北陸へと下った。ここまで義貞と同行していた勾当内侍だったが、北陸行きの途上の近江国・堅田で義貞は彼女に先行きの困難なことを告げてここにとどまるよう命じた。いずれ時が来たら迎えをよこすという約束の上で別れたが、これが今生の別れとなってしまう。勾当内侍はその後人目を忍んで都の近くに隠れ住んでいたとされるが、後醍醐の花山院脱出の場面でも「勾当内侍」が登場している。これを同一人物とする意見もあるが、いったん後宮から出た彼女とは別の女性が「勾当内侍」となっていたとみるのが自然だろう。

 勾当内侍の父とも兄ともされる一条行房も義貞に同行して北陸に下ったが、建武4年(延元3、1337)3月の金ヶ崎城陥落の際に尊良親王新田義顕らと共に自害して果てた。勾当内侍は大いに悲しんだが、義貞はまだ存命であり、いずれ北陸を平定したら迎えをよこすとの連絡を頼りに彼女は忍耐の日々を過ごす。
 やがて義貞はしだいに勢力を盛り返し、翌延元3年(建武5、1338)閏七月に義貞は越前国をほぼ手中に収め、途中の道も安全になったとして勾当内侍に迎えの使者を送った。喜び勇んで輿に乗り越前に向かった彼女は、まず義貞が拠点としている杣山城に到着したが、義貞は斯波高経との戦いのため足羽に出陣していると聞いてそちらへ向かった。ところが浅津の橋(浅水川にかかる橋)を渡ったところで義貞の配下・瓜生照が敗走してくるのに出くわし、照から「どこへお行きなさる。新田殿は昨日足羽で討ち死になされた」と告げられ(義貞戦死は閏7月2日)、悲嘆のうちに杣山に戻る。杣山城には義貞の住んだ痕跡がそこかしこに残り「いつか都へ」との思いが書かれた文もあって、勾当内侍はそれを見て亡き義貞をしのんだ。やがて杣山も危険になったので彼女は京へ戻り、仁和寺の近くの廃屋に身をひそめて暮らしていたが、義貞の首が獄門にさらされるのを目撃して昏倒、その姿は人々の涙を誘ったという。居合わせた時宗の聖の勧めで出家し、嵯峨・往生院のあたりに庵を建てそこで義貞の菩提を弔いながら余生を送ったとされる。

 以上が『太平記』の伝える勾当内侍説話のすべてだが、『太平記』が人々に親しまれるにつれこの悲恋物語はとくに好まれたらしく、あちこちに勾当内侍の墓と称するものが出現する(義貞の故郷・上州新田にまである)。また勾当内侍が琵琶湖に身を投げたという伝説まで生まれ、義貞と内侍が別れた堅田では内侍の霊をなぐさめる行事が今も続いている。
大河ドラマ「太平記」大河ドラマでは宮崎萬純(宮崎ますみ)が勾当内侍を演じた。建武政権が成立した第23回で初登場、多くの男性が言いよる美女だがそれらに見向きもしない「木石のような女子」と阿野廉子に言われている。第26回では文観帰還を祝う宴会の席で文観にセクハラされ、逃げ出す時に義貞と鉢合わせ、落ちた扇を拾おうとして義貞と手が重なる。以後何度か義貞と顔を合わすが表向き進展はなく、第34回で尊氏追討のため出陣する前に義貞が恋心を告白、勾当内侍はその気持ちは受け止めつつ「思うお方がおります」と振ってしまった。第35回で尊氏に勝利した義貞に後醍醐から恩賞として内侍が下げ渡され、ここで彼女は初めて「思うお方」とは後醍醐のことであったことを告白する。堅田での別れは第38回で描かれ、「初めて人を愛する喜びを知った」と義貞に語り、再会を約すが、以後登場しなくなる。
その他の映画・舞台大正7年(1918)に舞台「勾当内侍」があり、中村歌右衛門が演じたという。
歴史小説では 戦争話ばかり続く『太平記』のなかで特に印象的な恋物語であるため、義貞が登場する作品であればほぼ確実にヒロインとして登場する。山岡荘八『新太平記』は新田義貞の戦死で物語を終えるが、ラストシーンはその義貞の死を知らず道を急ぐ勾当内侍の姿である。さすがに勾当内侍のために義貞が作戦を誤ったとするのは無理があるのでそれは回避する小説がほとんど。新田次郎『新田義貞』では吉田定房が義貞を利用する手段として送り込んだようになっているが、二人は仲睦まじく北陸でもしばらく一緒に暮らして、義貞の子をみごもった勾当内侍が義貞の故郷へ向かう描写で物語が終わる。
漫画では「絵になる話」のせいか、「太平記」の漫画版ならほぼ確実に登場している。「太平記」ではなく南北朝時代を描いたものとしては珍しく、石ノ森章太郎「萬画・日本の歴史」にチラッと登場する例がある。
変わったものとしては松田大秀がゲーム雑誌「シミュレイター」に掲載したボードゲーム版「太平記」の紹介コミックがあり、その中で「義貞が勾当内侍と乳繰り合っていたという噂」が広がり義貞がTVワイドショーのリポーターたちに取り囲まれるというくだりがあり、そこに半裸姿の勾当内侍の姿がワンカットのみ描かれている。
PCエンジンCD版義貞でプレイすると登場(声:藤咲ルミ)、ゲーム開始の合図とランダムイベント「との、少しはお休みくださりませ」(行動力が減らされる)で声が聞ける。

河野(こうの)氏
 越智氏の子孫を称し、古代から伊予の水軍勢力を率いる有力豪族であった。源平合戦で源氏側について平氏を滅ぼすことに貢献したが承久の乱で当主通信が後鳥羽上皇側についたため勢力を後退させた。一族は元寇の際にも活躍、分家した土居・得能氏らともども瀬戸内海西部をおさえたが、鎌倉幕府滅亡にあたっては土居・得能が倒幕側にまわる一方、河野本家は幕府側についた。南北朝時代には足利方に属して勢力を盛り返し伊予守護職を確保したが、南北朝後期になると阿波から進攻してきた細川頼之の前に敗退を重ね、一時九州の懐良親王を頼って南朝方についたこともある。室町時代から戦国時代にかけて細川氏との対抗関係を続けながらも伊予支配者であり続けたが、戦国終盤になると土佐から侵攻した長宗我部氏にその勢力を奪われ、さらに豊臣秀吉の四国平定を受けて投降、河野本家は後継者のないまま断絶してしまった。

越智玉澄………─通清─通信┬通久─通継┬通有通盛通朝通直通義




├通広─一遍└通成土居通遠
通之




└通俊得能





河野通堯こうの・みちたか
河野通直の最初の名乗り。→河野通直(こうの・みちなお)を見よ。

河野通遠こうの・みちとお1318(文保2)-1333(正慶2/元弘3)
親族養父:河野通盛 
兄弟:河野通朝(ただし義理の兄弟)
子:壱岐彦六
官職壱岐守?
生 涯
―足利軍の前にあえなく散った少年―

 河野通盛(初名は通治)の養子で通名は「七郎」『太平記』にははっきりと「最愛の猶子(養子)」と書かれているが通盛と本来どのような関係であるかは不明。河野氏の歴史をつづった『予章記』では歴代の河野氏には兄弟を養子にしている例がみられ(これは別に河野氏に限ったことではない)、あるいは通遠もそうだったのかもしれない。『予章記』では通遠を「嫡男」とする記述もあり、本来は彼の方が後継者とみなされていたのかもしれない。
 やや扱いに注意が必要な史料ではあるが『予章記』では通遠が「垂髪の時」つまり元服前から合戦に参加していたとあり、父の通盛と共に六波羅探題に協力して赤松軍との戦いで奮戦したらしく、近江国愛智郡と河内国水野荘に恩賞として土地を与えられ、壱岐守に任じられたという。たださすがに十六歳でそれは無理なのではとも思え、『太平記』でのわずかな登場が印象的なあまり『予章記』の作者が話を膨らませた可能性もある。

 正慶2年(元弘3、1333)5月7日に幕府側から後醍醐天皇側に寝返った足利高氏(尊氏)の軍が六波羅探題を攻撃、足利軍の猛将・大高重成が河野通治(当時はこの名)を名指しして一騎打ちを挑んだ。通治はこれに応じて飛び出したが、通遠が父を討たせまいと代わって重成に飛びかかった。重成は通遠をつかみあげて「お前のような小僧の相手はせぬ」と最初は見逃してやろうとしたが、鎧の笠印が河野一族の家紋であったため「通治の子か甥ではないか」と考え直し、片手で一刀のもとに斬り殺し、弓の長さ三つ分の距離まで投げ飛ばした。このとき通遠はまだ十六歳であったという(『太平記』)
 十六歳で戦死した通遠だが『予章記』の河野氏系図では実名不明で通名を「壱岐彦六」(通遠が壱岐守であったためだろう)という男子がすでにいたことになっている。また観応2年、貞治元年に通遠の名で発行された文書があることから『太平記』の戦死記述は誤りとする意見も出ている(ただこれも単に同名の人物という可能性もある)
 『太平記』の戦死場面が印象的なためか、松山市内にある佐古岡神社は祭神のなかに河野通治と共に河野通遠も含めており、通称「七郎明神」と呼ばれているという。
漫画作品では沢田ひろふみの少年漫画『山賊王』の終盤、足利軍の六波羅攻めのくだりで登場する。古典『太平記』にのっとって大高重成との一騎打ちが描かれているのだが、「相手にせぬ」という重成に対してその馬を斬りつけて落馬させようとするなど卑怯な振る舞いをしたため重成に一刀のもとに殺され死体を投げ飛ばされる、という展開になっている。この漫画、主人公の敵方は徹底的にワルに描かれるのでその犠牲にされてしまった観もある。

河野通朝こうの・みちとも?-1364(貞治3/正平19)
親族父:河野通盛 
兄弟:河野通遠(ただし義理の兄弟)
子:河野通堯
官職遠江守
生 涯
―頼之に攻められ戦死―

 河野通盛の子。通名が「六郎」、父が対馬守であることから「対馬六郎」と呼ばれた。
 その前半生の経歴についてはほとんど不明だが、父・通盛に従って建武の乱以降は足利方として父と共に各地で転戦していたと思われる。貞治2年(正平18、1363)2月に通盛から家督を譲られ郷の毘沙丸の館に居して「下殿」と呼ばれたが、父の通盛も土居の館で「上」と呼ばれ一定の支配力を保っていたと思われる(『予章記』)
 翌貞治3年(正平19、1364)9月、かねて伊予守護職をめぐり対立していた細川頼之が讃岐から伊予へ侵攻した。通朝は世田山城にたてこもって抵抗したが、多勢に無勢のうちに家臣の斎藤衆が細川方に内通したため11月6日に世田山城は落城、通朝は城中で自害して果てた。彼の死にショックを受けたためか、父の通盛もその二十日後に死去している。
 貞和年間に大通寺(松山市)を創建しており、法名も大通寺殿光山道恵という。ただし彼自身は瓦津道場、現在の河原津・道場寺に葬られたという。

河野通直こうの・みちなお1338(暦応元/延元3)?-1379(康暦元/天授5)
親族父:河野通朝 
子:河野通義・河野通之
官職讃岐守・刑部大輔
幕府伊予守護(南朝からも同職を認められている)
生 涯
―打倒頼之の執念に燃えた河野氏当主―

 河野通朝の子。幼名は「徳王丸」で、「六郎」と称し、初めは通堯(みちたか)と名乗っていた。河野氏の歴史をつづった『予章記』の流布本に載る系図では康暦元年(天授5、1379)に戦死した時「四十三歳」と書かれており、これを信じるなら暦応元年(延元3、1338)の生まれとなる。ただこの資料の信用度はいま一つで、おおむねそのくらいの生年では、と推測するほかない。
 河野氏はかねて阿波守護・細川氏と根深い対立関係にあり、正平19年(貞治3、1364)9月に細川頼之が大軍を率いて伊予へ侵攻、11月6日に河野通朝は奮戦むなしく世田山城で戦死した。そのショックからかその父・河野通盛も11月26日に急逝してしまう。祖父と父をいっぺんに失った若き通堯は高縄山城で必死の抵抗を続け、翌正平20年(貞治4、1365)正月には細川方の湯築城を奇襲して細川方の将・細川天竺衛門を自害に追い込む一幕もあったが、頼之の調略攻勢の前に河野一門・家臣らは次々と投降してしまい、4月10日に高縄山城は陥落、伊予全土は細川氏の手に落ちた。

 通堯はかろうじて海上に脱出し、一族で南朝方についていた、今岡通任村上義弘といった水軍勢力の支援を受けて土居氏らを頼って能美島に移り、その仲介で当時九州全土を南朝勢力下に置いていた征西将軍府の懐良親王に投降した。8月3日に大宰府に赴いて懐良と対面した通堯は「通直」と改名し、懐良から事実上の伊予守護職を認められ、忽那氏など南朝方水軍に軍勢催促状を送るなどして伊予奪還に取りかかった。
 この間に細川頼之は幼い将軍・足利義満を助けて管領となって幕政を見るため京都にあり、伊予は手薄となっていた。正平23年(応安元、1368)6月に通直は南朝の権大納言で恐らく伊予国司に任じられたとみられる西園寺某(詳細不明だが西園寺公重の子か甥?)なる人物を形式的な総大将に擁して豊前津ノ浦から伊予松崎に渡り、河野一門や細川支配に抵抗する国人らを糾合し、9月に幕府方の仁木義尹を破って伊予国府の奪回に成功する。翌正平24年(応安2、1369)には伊予東部の新居・宇摩両郡まで進出した。驚いた細川頼之は同年8月に弟の細川頼有を伊予に派遣したが、通直はこれと9月から11月にかけて戦い、打ち破ることに成功している。
 その直後の同年12月に懐良親王は後村上天皇の皇子・良成親王を伊予の通直のもとに派遣し、あわよくば四国制覇・東上も目指そうという勢いを見せた。じっさい建徳3年(応安5、1372)には河野軍は伊予から讃岐にまで進出して細川方と交戦する勢いで、このころには伊予一国の奪回にほぼ成功している。天授元年(永和元、1375)5月には懐良親王から土佐への侵攻を命じられ、同8月には南朝の長慶天皇から周防の大内弘世を攻めるよう綸旨を受けるなど、南朝の河野氏への期待は大きかったが、実際にはそこまで兵を動かす余裕は通直にはなかったようである。

 康暦元年(天授5、1379)閏4月、「康暦の政変」により細川頼之は失脚して京を追われ阿波に戻った。これを知った通直はチャンス到来とみてあっさり南朝と縁を切り、義満に帰順を申し出た。このことからも通直にとっては南朝など単なる旗印に過ぎず、頼之への報復の方が宿願であったことが良く分かる。義満は7月8日に通直に伊予守護職を与え、さらに9月5日は通直に頼之討伐の御教書を与えている(義満本人の意思よりも斯波義将一派の意向であろう)
 しかし頼之もさるもの、御教書を受けた河野軍の動きを察知すると先手を打ち、河野軍の主力が讃岐侵攻のために伊予東部方面へ進出して通直のいる世田山城が手薄になっている隙を突いて、11月6日に吉岡山中から奇襲攻撃を行った。この佐久志原の戦いで通直・西園寺権大納言らがそろって戦死、河野軍は壊滅的な打撃を受けることとなった。積年の恨みを晴らすチャンス到来のはずが一転してその宿敵に倒される結果になったとは、通直の無念は想像するに余りある。法名は「桂峰道昌」。墓は佐々久山東端にあるという。
 結局、通直の息子たち、河野通義(通能)河野通之は頼之と和睦し、長く続いた河野・細川の対立関係も一時的にせよ終息することとなった。

参考文献
小川信「細川頼之」(吉川弘文館人物叢書)
SSボードゲーム版父・河野通盛のユニット裏。勢力地域「四国」の「武将」身分で合戦1・采配3

河野通治こうの・みちはる
河野通盛の最初の名乗り。→河野通盛(こうの・みちもり)を見よ。

河野通盛こうの・みちもり?-1364(貞治3/正平19)
親族父:河野通有 母:河野通久の娘(河野通時の娘とも)
兄弟:河野通忠・河野通茂・河野通種・河野通員・河野通為・河野通里
子:河野通朝・河野通遠(養子)
官職左衛門尉・対馬守・伊予守
幕府伊予守護
生 涯
―六波羅軍主力として奮戦―

 元寇との戦いで名を馳せた河野通有の子で、初名は「通治(みちはる)」。通名は「九郎」。河野氏の歴史をつづった『予章記』によれば通有の第七子で、母親は河野通久の娘とされ、長子の通忠を除く五人の兄も全て彼女の産んだ子であるという。兄たちを差し置いて末っ子の通治が後継ぎとされた経緯について『予章記』は父・通有の意向で通治を指名した遺言状が作られ、それが未亡人の手元に預けられており、不審に思う兄弟らが母のもとへおしかけ遺言状を確認した逸話が書かれている。そういった例が他にないわけではないが同腹の子の中で末の子が継ぐというのもやや不自然で、『予章記』という史料の性格からもそのまま事実とみなすのは難しいようにも思える。

 正慶元年(元弘2、1332)秋以降に護良親王楠木正成らの倒幕活動が活発化すると、鎌倉幕府は各地の軍勢を動員して畿内の反幕府勢力の鎮圧にとりかかったが、このとき河野通治が四国(伊予)の水軍三百余艘を率いて尼ヶ崎に上陸、京へやって来ている。翌正慶2年(元弘3、1333)3月に倒幕側の赤松円心の軍勢が京都へ攻め込むと、通治は陶山次郎と共に奮戦して赤松軍を一時撃退、喜んだ光厳天皇に拝謁する栄誉を与えられただけでなく対馬守に任じられ御剣まで賜った。父の通有も対馬守であったためにこの官職を与えられたものとみられる。その後六波羅軍は河野・陶山を京に残したまま出撃して赤松勢に敗北すると、京の人々は「河野・陶山を出せばよかったのに」とささやきあい、彼らの武名はいっそう高まったという(『太平記』)

 4月に入って後醍醐天皇側近の千種忠顕が山陰・山陽の軍を率いて京へ攻め込み、河野通治は千種軍に属していた備後の児島高徳と戦場でまみえた。『太平記』では通治と高徳の二人は「一族」とされており、お互い恥をかかぬよう必死に戦ったと記されている。河野氏と高徳の間にどのような縁があったのか分からないが(そもそも高徳は『太平記』以外に実在の傍証がない)、高徳が実在したとするとこのさりげない記述は示唆的である。なお、河野氏の支族である土居通益得能通綱は2月の段階で後醍醐天皇に呼応して挙兵、河野本家とは異なる道を選んだ。これも当時よく見られる本家と庶家の対抗意識の現れであったようだ。

 5月7日、幕府方の援軍として上京してきた足利高氏が倒幕側に寝返り、六波羅探題に攻撃をかけてきた。通治は京の内野で足利軍を迎え撃ったが、このとき足利軍の猛将・大高重成が「河野対馬守か陶山備中守はいないか」と、当時六波羅軍の名将として名を挙げていた二人を名指しして一騎打ちを挑んできた。通治はこの挑戦に応じ「通治これにあり」と進み出たが、養子で十六歳の河野通遠が代わりに重成に挑み、あっさりと殺されてしまう。目の前で我が子を討たれた通治は憤激して自ら重成に襲いかかったが、両軍入り乱れる情勢となって一騎打ちは果たせず、そのまま六波羅への退却を余儀なくされた。
 このあと足利軍の攻撃により六波羅は陥落、北条仲時以下六波羅勢数百人は光厳天皇ら皇族を擁して関東目指して逃亡するが近江番場宿で力尽きて集団自決をすることとなる。六波羅軍で活躍した陶山次郎も運命を共にしたが、河野通治は彼らに同行した形跡がなく、どこで何をしていたのか不明である。

―伊予守護職への執念―

 六波羅軍で名を挙げただけに通治の立場はかなり悪いものとなっただろう。同族の土居・得能両氏が後醍醐方について活動したことも彼の肩身を狭くしたと思われる。しばらく通治の消息は知れなくなり、この間に「通盛」と名をあらためたほか出家して「善恵」と号し、再び史料上に現れると「河野対馬入道」の名で登場するようになる。『予章記』では建武年間に通盛は困窮して鎌倉に赴き、同族である一遍(系図参照)が開いた藤沢の道場を頼り、そこの紹介で建長寺の長老南山士曇によって剃髪、出家したことになっており、さらに南山を通して中先代の乱で鎌倉に下っていた足利尊氏に接触、味方につく見返りとして承久の乱で失われた河野通信の所領を取り返すことを認められたことになっている。
 『予章記』のこの部分も強い創作性が感じられそのまま事実とは思えないが(所領安堵の書状にまだ出家していないはずの直義の法名が書かれていたりする)、どこにいたにせよ、足利尊氏が建武政権から離脱する際に河野氏もこれに呼応し、見返りとして旧領安堵の約束を受けたことは事実とみられる。『太平記』でも建武2年(1335)12月の時点で「河野対馬入道」が伊予で建武政権に反旗を翻したことが書かれていて、普通に考えると六波羅陥落後は伊予に帰っていたのではないだろうか。

 建武3年(延元元、1336)5月、九州から攻め上った足利尊氏が湊川の戦いに勝利し、建武政権の崩壊は現実のものとなった。6月に通盛は足利直義から伊予の武士を動員して援軍に来るよう要請を受けており、これは足利将軍の名において通盛に伊予守護職を与えたことを意味する。通盛は暦応元年(延元3、1338)ごろまで伊予守護職にあったが、その後伊予守護は岩松頼宥、さらに細川頼春の手に移り、通盛は彼らの指揮下で伊予国内の南朝勢と戦わねばならなかった。特に細川氏に伊予守護職を奪われたことは河野氏にとっては痛恨事だったようで、これがのちのちまでの両家の確執につながってゆく。このころ通盛は湯築城(松山市)を築いて新たな拠点としている。
 なお、この間に新田義貞の配下に「河野備後守通治」なる武将がいて金ヶ崎城陥落の際に自害していることが『太平記』に書かれているが、これは同族の土居一族の同名別人なのだろう。土居・得能両氏はその後も南朝方について各地に転戦している。

 やがて足利幕府は尊氏・直義の兄弟両派に分かれて「観応の擾乱」に突入する。観応元年(正平5、1350)10月に足利直義は河野通盛宛てに味方につくよう要請し、見返りとして伊予守護職を約束した。負けじと翌観応2年(正平6、1351)2月に尊氏の息子の足利義詮からやはり伊予守護職を見返りに通盛に味方につくよう要請があった。双方から誘いを受けて通盛はさぞかしいい気分だったと思われるが、どちらが勝つかしっかり見極めようとしたらしく、直義が北陸から関東へ逃れたのちになっても尊氏・義詮からの相次ぐ上洛参戦の催促を無視し続けた。結局態度をはっきりさせたのは文和元年(正平7、1352)4月ごろからで、伊予国内の南朝方の討伐を義詮に相次いで報告していることが確認でき、この時期再び伊予守護の地位を得たと推定される。

 しかし文和3年(正平9、1354)にはまたも伊予守護職を細川家に奪われてしまう。今回伊予守護となったのは細川頼春の息子・細川頼之であった。通盛はこれを深く恨んだようで、貞治元年(正平17、1362)4月に幕府に反逆して南朝に走った細川清氏(頼之の従兄弟)が讃岐にやって来て、幕府が通盛にその討伐を命じたところ、通盛はやはり伊予守護職と旧領安堵を条件として持ち出した。清氏の討伐にあたった頼之からも伊予守護職をエサに河野氏の援軍要請があったが、結局通盛は頼之に援軍を送らなかった。このために頼之は一時窮地に追い込まれており、通盛はむしろ清氏側を暗に側面支援した形跡すらある。
 翌貞治2年(正平18、1363)2月12日に通盛は家督を息子の河野通朝に譲って隠居するが、その譲状の年号はわざわざ「かうあん(康安)三年」となっており、これは清氏が管領職にあったときの年号であることから心情的に清氏を応援していたことを示唆している。しかしこうした姿勢がかえって頼之に伊予侵攻の口実を与えてしまった。
 
 翌貞治3年(正平19、1364)9月、細川頼之は突如大軍をもって伊予へ侵攻した。その理由の一つが清氏討伐の際に援軍要請を無視し頼之を窮地に追い込んだから、というものであった。11月6日に嫡子の通朝が世田山城において細川軍の猛攻を受け戦死、これにショックを受けたのであろう、通盛もそれから二十日後の11月26日に病没してしまった。河野氏と細川氏の因縁は孫の河野通直の代まで続くこととなる。

参考文献
小川信「細川頼之」(吉川弘文館人物叢書)
佐藤進一「室町幕府守護制度の研究・下」(東京大学出版会)ほか
漫画作品では沢田ひろふみの少年漫画「山賊王」の終盤、足利軍の六波羅攻めの場面で「河野対馬守」として登場している。「太平記」に出てくる大高重成の活躍場面のアレンジなのだが、養子の通遠が卑怯者に描かれるだけでなく、通治まで怒りのあまり前線に出て雑兵たちに殺されてしまうなど大幅に変更されている。
PCエンジンCD版阿波讃岐の北朝方・細川頼春の配下にいる。初登場時の能力は統率38・戦闘34・忠誠46・婆沙羅61で、忠誠心が低めになっているのは因縁の細川氏の配下にいるせいか…?
PCエンジンHu版シナリオ2「南北朝の動乱」で伊予・八幡浜城に北朝方武将として登場する。能力は「騎馬2」
メガドライブ版「足利帖」でプレイすると最初の「六波羅攻撃」のシナリオで敵方に登場する(この時点で河野通盛名義)。その後の足利帖全シナリオにおいて出陣可能な武将(つまり味方)として使えるようになっている。能力は体力82・武力89・智力104・人徳77・攻撃力51
SSボードゲーム版「武将」クラスで登場、勢力地域は「四国」。合戦1・采配3。ユニット裏は孫の河野通堯。

河野通之こうの・みちゆき生没年不詳
親族父:河野通直 兄弟:河野通義
官職伊予守
幕府伊予守護
生 涯
―父の仇と父子の縁―

 河野通直の次男。通名が「六郎」、幼名は「鬼王丸」であったという。
 康暦元年(天授5、1379)11月に父・通直が細川頼之の軍の奇襲を受け戦死、一時勢力を回復しつつあった河野氏はここでまた壊滅的な打撃を受けた。河野氏はすでに反撃の力もなく、将軍・足利義満の斡旋を受けて頼之との講和を結ぶことになった。永徳元年(弘和元、1381)11月15日に伊予和気郡福角の北寺で鬼王丸は河野氏を代表して頼之と対面した。兄の亀王丸(通義)ではなかったのは細川氏に殺されることを恐れたためか、亀王丸本人が親の仇に会うことを拒絶したのかもしれない。このとき鬼王丸はまだ十歳にもならぬ幼児で、本人もとてもできないといやがったが家臣が泣く泣く説得したという。頼之との対談は特に問題もなかったようで、伊予国のうち東部の新居・宇摩両郡を細川支配下におくという形で講和を成立させた(『予章記』)

 至徳3年(元中3、1386)に鬼王丸は元服、細川頼之が父親代わりをつとめ、頼之の一字を受けて「通之」と名乗ることとなった。これは頼之の依頼を受けて義満が仲介した縁であったらしく、頼之としてはこうすることで河野氏との長年の怨念を少しでも解消しようという意図だったのだろう。もしかするとかつての対談の折に幼い鬼王丸に親愛の情を抱いたのかもしれない。
 応永元年(1394)11月に兄の通義が25歳の若さで死去し、通之が河野家督と伊予守護職を継いだ。ただしこのとき通義の妻がみごもっており、通義は遺言でその子が男子であれば十六歳になったら家督をその子に譲るよう示していた。通之はこの約束を守り、生まれた男子・犬正丸(のちの通久)を養育し、彼が十六歳になった応永十六年(1409)に家督と伊予守護職を譲って隠居している。

 当主を務めている間、応永6年(1399)の「応永の乱」に参戦、応永7年(1400)に家臣の今岡氏らの越智郡大島への侵攻を禁じるといった活動が知られる。その没年は不明である。

河野通義こうの・みちよし1370(応安3/建徳元)-1394(応永元)
親族父:河野通直 兄弟:河野通之
官職伊予守
幕府伊予守護
生 涯
―苦難の末に当主となるも早死に―

 河野通直の長男。通名が「九郎」、幼名は「亀王丸」であったという。
 康暦元年(天授5、1379)11月に父・通直が細川頼之の軍の奇襲を受け戦死、亀王丸は弟の鬼王丸(通之)と共に伊座城にあったが、もはや勢力挽回はかなわぬ状態であった。将軍足利義満が両者の和睦を斡旋し、もはや力を失っていた河野一族・家臣たちもやむなくそれを受け入れ亀王丸に頼之との対面を勧めたが、亀王丸は祖父・父二代にわたる恨みから自らは出ず、弟の鬼王丸を対面に行かせた。結局この対面で伊予東部の新居・宇摩両郡を細川氏に割譲する形で講和が成立、亀王丸は父のあとを継いで伊予守護職を認められる。

 至徳元年(元中元、1384)に15歳で元服、義満から「義」の一字を与える厚遇を受けたが、遠慮して同じく「よし」と読む「通能(みちよし)」と名乗る。康応元年(元中6、1389)3月18日に義満が厳島参詣を含めた大規模な西国旅行を行うと、通能は周防国竈戸関まで出向いて義満に対面した。明徳2年(元中8、1391)には京都に上り、義満に大いに気に入られて改めて「義」の字を与えられ、「通義」と名乗る。この年の暮れに起こった山名一族の反乱「明徳の乱」にも参加し、義満の命を受けて山名満幸討伐のため伯耆国へ出陣している。

 『予章記』によると通義は義満から厚遇を受けたもののかねて仲の悪い細川氏などから讒言されることも多く、心労を重ねていた。応永元年(1394)8月に京都にあった通義は発病し、弟の通之を呼び寄せて11月7日付で家督と守護職を譲る遺言をしたためた。このとき通義の妻は妊娠しており、生まれてくる子供が男子であれば、その子が十六歳になったら家督を継がせるようにとも言い残している。11月16日に死去、享年25の若さであった。法号は「温玉院道香梅岩」という。
 通義の死後に生まれてきた子は男子で、これが後の河野通久である。通之は兄の遺言をしっかり守り、通久が十六歳になると家督を譲っている。

高(こう)氏
 天智天皇の皇子・高市皇子を祖としている高階氏のうち、足利氏の執事職を世襲した一族を「高氏」と呼ぶ。南北朝動乱に際して高師直ら一族をあげて足利尊氏を助けて活躍し権勢をふるった。しかし足利幕府の内戦「観応の擾乱」のなかで師直以下一族の大半が殺戮され衰退、直義側についたり中立した一部の者が生き残ったが高氏の栄華を取り戻すことはできなかった。分家で大高、小高、南、三戸といった家がある。

惟長─惟重─重氏師氏師行┬師秋──┬師有



└師義



├三戸師澄師親



├師業───師満



├師冬




└高師直室師秀─師胤



師重師泰──┴師世



師直──┬師詮



├重茂└師夏



├師久───師景



├貞円




├師春室




└惟潔室




├師春┬師兼───宗久



└南宗継室┌師秀



└師信─師幸──┴師連



└南頼基┬惟時─惟基室





├惟基─惟久───重久




重長大高重成





└惟宗┬惟潔






宗継───宗直

高師氏こうの・もろうじ?-1301(正安3)
親族父:高師重 兄弟:南頼基 子:高師行・高師重・三浦定義・高惟氏・高師春・高師信
生 涯
―足利家時の執事―

 代々足利家の執事職をつとめた高一族(高階氏)のうち、足利頼氏足利家時時代の執事を務めた人物。法名を「心仏」という。南北朝時代で名高い高師直の祖父に当たる。
 とくに詳しい事跡はまったく伝わらない。ただ彼が執事をつとめた時期の当主・足利家時は謎の死を遂げており、有名な「三代のうちに天下を取らせたまえ」と願う置文を残して自殺したとの逸話が伝わる。のちに観応元年(1350)ごろ、足利直義高師秋あての書状で「報国寺殿(家時)が心仏(師氏)にあずけた書状を拝見し、大いに感激した」と記しており、これが問題の置文なのではないかとする推測がある。家時は霜月騒動に関与して自殺したとの推測もあり、執事の師氏に重大な意味をもつ置文を預けたことは大いにありうると思える。
 清源寺本「高階氏系図」によると正安3年(1301)4月10日に没している。
大河ドラマ「太平記」第1回と第9回に登場する(演:安部徹)。第1回では足利荘に逃げ込んできた吉見の残党を幕府に引き渡すかどうかで足利家臣団が一戦も辞さずと騒ぐなか、「愚かな!」と一喝、貞氏に「北条には勝てませぬ。それは先代の家時公が身をもって…」と訴える老臣として登場する。家時の置文を預かっていることから創作されたシーンなのだろうが、ドラマのこの時点は嘉元3年(1305)なので師氏はとっくに死んでいたはずである。
第9回では貞氏が夢の中で回想する家時切腹の場面で、少年貞氏に「お父上は北条のためにかかる最期をお遂げになるまする…しっかとごろうじませ!」と震えながら諭していた。
その他の映像作品2001年の大河ドラマ「北条時宗」で重要キャラとして登場(演:江原真二郎)。このドラマでは足利泰氏の執事となっており、泰氏の忠実な家臣を装いつつ謀略をめぐらす役どころ。顔に大きな刀傷があり不気味さを強調していた。
このドラマは時宗の妻・覚山尼が回想する形式がとられていて、各回の冒頭に時宗死後の彼女が登場するのだが、その部分で少年時代の足利高氏ともども高師氏が現れる場面があった。何十年も経ってるはずなのに全く外見が変わらず、おまけに肝心の家時の置文まで覚山尼に見せてしまうという摩訶不思議なシーンとなった。
なぜか大河ドラマの世界で時空を飛び越えて印象に残ってしまった人物である。

高師重こうの・もろしげ?-1343(康永2/興国4)
親族父:高師氏 兄弟:高師行・三浦定義・高惟氏・高師春・高師信 
子:高師泰・高師直・高重茂・高師久・貞円・高師春室・南惟潔室
官職右衛門尉
生 涯
―足利貞氏の執事―

 代々足利家の執事職をつとめた高一族(高階氏)のうち、足利貞氏時代の執事を務めた人物。南北朝時代で名高い高師直・高師泰の父。法名は「貞忍」
 貞氏と共に師重が執事として署名している文書が熊野・那智大社文書に含まれており、正和3年(1314)7月10日付、元応2年(1320)2月13日付のものなどがある。貞氏から高氏に家督が移った後もしばらく執事を務めていたと見られる(息子の師直の執事としての仕事の初見が建武年間であるため)
 とくに詳しい事跡はまったく伝わらない。古典「太平記」巻17で足利軍による比叡山攻めのところで「高豊前守師重」が登場するが、明らかに別人。
 清源寺本「高階氏系図」によると康永2年(興国4、1343)5月24日に死去。これと同じ日付が足利市樺崎寺の五輪塔群(現在は同市の光得寺に移転)の中の一つに刻まれていて、他にも息子・師直や同族の南宗継、足利貞氏を供養したものと推測される塔があることから、後年高一族の誰かが足利家代々と高一族の供養に建立したものと推定されている。
大河ドラマ「太平記」貞氏の執事としてドラマ序盤にしばしば登場(演:辻萬長)。第1回の嘉元3年(1305)の時点で貞氏のもとで執事職にいそしんでいるが、兄の師行も登場する。特に目立つ場面があったわけではないが、貞氏の忠実な腹心として渋い存在感があった。第9回で貞氏が高氏に家督を譲ると、「執事も代替わり」とそれまで一度も登場しなかった息子・師直に執事職を譲り高氏に挨拶させる。その後も生きているはずだが、貞氏死去のシーンなど登場しそうな場面で登場していない。

高師直こうの・もろなお?-1351(観応2/正平6)
親族父:高師重 兄弟:高師泰・高重茂・高師久・貞円・高師春室・南惟潔室
子:高師詮・高師夏 妻:二条道平の妹?・高師行の娘
官職右衛門尉・三河権守(三河守?)・武蔵守
建武の新政雑訴決断所・窪所
幕府執事(ほんらい足利家の執事だが、幕府成立後は後の管領につながる幕政の要職になる)
恩賞方頭人・引付頭人? 上総・武蔵守護
生 涯
 足利尊氏の執事、家臣の筆頭として南北朝時代を代表する革新的な名将、なおかつ旧権威をものともしない過激な「婆沙羅大名」の一人、さらには「太平記」の伝える横恋慕事件のために希代の好色男とされ、いろんな意味で後世有名になってしまった武将である。

―足利尊氏の執事として―

 高一族(高階氏)は源頼朝の時代から足利氏と主従関係を結び、代々その家臣筆頭として執事職をつとめてきた家柄である。師直の祖父・師氏足利家時の、父・師重足利貞氏の執事をそれぞれ務めており、師直は高氏(尊氏)世代の執事をつとめることになった。師直をはじめとする高一門(大高・大平・南・三戸などが含まれる)は足利軍の主力として働き、南北朝動乱の要所要所で活躍を見せている。
 師直がいつ高氏の執事になったかは判然としない。執事としての師直の活動が確認できる最古の史料は建武2年(1335)2月のものなので、それ以前ということしかわからない。だが、古典「太平記」における師直の初登場場面は元弘3年(正慶2、1333)4月29日に高氏が丹波・篠村で倒幕の挙兵をする場面で、味方に馳せ参じてきた丹波の武士・久下時重が笠印に「一番」を書いているのを見て不思議に思った高氏が「高右衛門尉師直」を呼び寄せて由来を聞くと、師直が即座にその由来を説明したとされている。この描写では師直がすでに執事的な立場(相談役)にいたようにも見える。恐らく元弘の乱のころには父・師重から執事職を引き継いでいたのではなかったか。ともあれ師直が高氏のいるところ常にあったということは間違いなさそうだ。

 鎌倉幕府が滅びて建武政権が成立すると、師直は三河権守に任じられ、建武元年(1334)8月には土地訴訟問題を扱う「雑訴決断所」に上杉憲房(尊氏の母方の伯父)引田妙玄(尊氏の秘書官)と共に「足利代表」として出仕、第三番(東山道担当)に名を連ねている。また『梅松論』によれば「窪所」という謎の機関(諸説あるが天皇自ら決裁を行うところか?)にも伊賀兼光結城親光といった建武政権の大物たちと肩を並べて出仕している。尊氏は建武政権と一定の距離を置いて自らは何の職務にもつかず「尊氏なし」と世間の人は言ったとされるが、その代役を執事の師直がつとめていたということらしい。
 建武2年(1335)6月22日、西園寺公宗による後醍醐天皇暗殺計画が発覚、公宗・日野資名ら関係者が一斉に逮捕された。このとき建仁寺の前でも多くの関係者が捕縛されており、その捕縛に向かったのは楠木正成と高師直だった(小槻匡遠の日記)。南北朝の戦術革命家二大巨頭が協力して働いたことがあったという事実には、南北朝ファンとしてはニヤニヤしてしまう(笑)。

 その直後に関東で北条時行による「中先代の乱」が勃発。尊氏は勅命を受けぬままその鎮圧に出陣し、そのまま関東に居座って建武政権からの離脱の姿勢を明らかにする。これには当然師直も同行しており、『梅松論』では鎌倉に師直以下家臣らが屋敷を構えて幕府再興の様相を呈したことや、足利討伐のために新田義貞の軍が関東に向かったことを知って浄光妙寺にひきこもってしまった尊氏の代わりに直義が指揮をとり、防衛のために師直・師泰らを布陣させたことが見える。「太平記」では東下してきた新田軍を迎撃する直義率いる軍の中にも師直・師泰の名前がある。

―幕府創設に尽力―

 箱根・竹之下の戦いで新田軍を破った足利軍はそのまま西上して京を目指した。それを阻止しようと比叡山の僧兵・祐覚が琵琶湖畔の近江・伊岐代に城をかまえたが、これを「武蔵守師直」が12月30日に攻撃、一夜にして攻め落としたと『梅松論』は記す(彼を「武蔵守」とする初見。「太平記」でも一夜で陥落させたことが見えるが日付も違い師直の名もない)。さらに淀川の戦いでは武将たちが乗馬したまま川を突破しようとするのを師直が「気でも狂ったか。民家を壊していかだを組んで渡ろう」と呼ばわったことが『太平記』に見える(もっともこの作戦は大失敗に終わる)
 翌建武3年(延元元、1336)1月の京都攻防戦は新田義貞・楠木正成、さらに奥州から駆け付けてきた北畠顕家の奮戦にあって足利軍の敗北に終わり、尊氏らは九州まで逃れた。やがて九州を平定して態勢を立て直し、4月には東上を開始、5月5日に備後・鞆から水路を尊氏、陸路を直義と別れて進軍することになるが、このときも師直は執事として尊氏と共に船に乗っている(『梅松論』。師泰は直義に同行しており、兄弟同士役割分担していることがわかる)

 5月25日の湊川の戦いが行われ、『太平記』では師直が尊氏と同じ船に乗ってこの戦いに参加している描写がある。この戦いに勝利した足利軍は京へ突入、比叡山に逃れた後醍醐天皇方と京周辺で10月まで激闘を繰り広げる。師直も各所で奮戦しており、8月23日の新田義貞軍との加茂・糺河原の合戦で師直は最前線で丸一日「身命を捨て戦ったため二か所に傷を負った」(梅松論)ほどの勇猛ぶりを見せ、義貞を比叡山に追い返している。
 この年11月7日に「建武式目」が発表され足利幕府の発足が公式に宣言されると、師直は足利家の執事として幕府の軍政を司るようになった。また時期は不明だが恩賞方頭人や引付頭人も務めて、所領や訴訟を扱ったこともある。

―軍事的才能の発揮―

 建武5年(延元3、1338)2月、奥州から破竹の勢いで攻めのぼってきた北畠顕家の南朝軍は伊勢から奈良に入り、京をうかがった。これに立ち向かったのが高師直・桃井直常らの軍だった。2月28日の奈良の北・般若坂の戦いで師直は畿内武士たちを編成して戦い、顕家を打ち破った。
 このとき師直が「分捕切捨(ぶんどりきりすて)の法」と呼ばれる戦術、正確に言えば戦闘管理法を実施したと言われている。それまでの合戦では武士たちは後で恩賞の証明とするために自分が取った敵将の首を後生大事に持ち歩いていたため、その時点で事実上の戦線離脱になっていた。師直はこれを改めて敵の首を取ったら周囲の戦友に確認をとってもらい、その首はその場に捨てて戦闘を続行せよ、という制度を定めたのだ。これにより師直軍はそれまでにない機動力を発揮できるようになったとされている。
 また師直は自身の指揮下に置いた畿内の新興小武士団をよく編成し、彼らの要求に応えて旧勢力(貴族・寺社など)の荘園の横領を公然と指示したとの逸話も伝わる(「太平記」)。これが彼の軍団の強さの根源であったと同時に、旧勢力との折り合いをつける方針をとっていた足利直義一派との対立を招く原因ともなっていく。

 師直に敗れた顕家は3月は河内・和泉に転じ、態勢を立て直して一族の春日顕国を京ののど元の男山八幡に立てこもらせた。師直は細川顕氏と連携して顕家の進撃を食い止め、顕家を和泉・堺に釘付けにした。5月22日に堺の石津川付近で顕家と師直の決戦が始まる(石津の戦い、堺浦の戦いとも)。「太平記」によると師直は男山八幡の顕国の包囲に大軍をまわして牽制した上で、少数の手勢で顕家軍を攻撃した。この合戦は「太平記」が伝える以上に大規模なものであった可能性があり、尊氏の母・上杉清子の書状や瀬戸内水軍の忽那・河野氏の資料によると沖合では同時に海戦も行われていた。幕府の首脳に近い人物が書いたと思われる『保暦間記』では「今日を限りと命を捨てて双方が戦った。京方(北朝側)が打ち負けて撤退したが、師直が思い切って戦ったために、顕家は戦死することになったのである」と記し、当初劣勢だった戦いが師直の奮戦によって形勢逆転したことを伝えている。海戦の方も南朝側の軍船が六隻焼けたことが清子の書状で分かるが、師直が具体的にどう戦ったのかは定かではない。

 もしかすると師直にとっても奇跡的な勝利であったのかも知れない。戦勝を感謝して住吉大社に詣でた師直は「天くだる あら人神の しるしあれば 世に高き名は あらはれにけり(天からくだった現人神(住吉大神をさす)のおかげで、我が武名は天下にとどろきました)と詠み、神をたたえつつ、しっかり自らも誇る歌を詠んでいる(風雅集)
 そんな師直だが、7月5日に春日顕国がこもる男山八幡を攻め落とした時には、八幡宮の社殿に放火して攻撃するという手段を選ばぬ作戦をとっている(太平記)。やたらと師直を悪人呼ばわりする「太平記」なので素直にそのまま受け取らないほうがいいのだが、師直が合理的な思考と果断な実行力をもつ人物であったことは事実のようだ。

―好色・勇猛・寛大・不遜―

 顕家撃破の功績により師直・師泰兄弟と高一族は六か国の守護を務め、威勢をふるった。おごれる高兄弟の「悪行」については「太平記」がこれでもかとばかりに記しているが、どこまで事実かは確認できない。「太平記」の作者(編集者)は心情的に南朝よりである上にかなり保守的な旧支配層の意識を代表する人物であったと思われ、師直らの旧権威をものともしない姿勢に眉をひそめ、意図的に筆誅をくわえている可能性も高い。ただこの本の傾向としてある程度の事実を背景にはしているはずだ。

 とくに師直についてはその「好色」ぶりが「太平記」では強調される。東国出の田舎武士だけに京の貴族の娘に次々と手を出して通い、また落ち目になってきた貴族の方でも「誘う水あらば」とこれを歓迎する節もあったようで、「執事の宮まわりに手向けを受けぬ神もなし」と口さがない京童(きょうわらんべ)たちが話の種にしたと伝えている。特に「二条前関白殿(二条道平?)の御妹」を師直が盗みだして妻にし、一子師夏を産ませている(師夏の年齢から暦応2年=1339以前の話と思われる)ことは、「関白の令嬢が東夷(あずまえびす)にとられるとは」と旧勢力側にとっては言語道断のことと見えたようだ。だが貴族令嬢のもとへ夜這いする、あるいは誘拐して妻にするといったことは貴族社会では当たり前、むしろ「みやび」にすらとらえられていたことを忘れてはいけない。それを関東武士の成り上がり者がやったからいっそう憎まれたのだ。

 師直の悪行としてよく知られるのが暦応4年(興国2、1341)に起こった塩冶高貞の妻に対する横恋慕、さらには高貞を讒言して夫婦ともどもしに至らしめたという事件である(詳しくは「塩冶高貞」と「その妻」の項目を参照)。しかしこれも「太平記」が面白おかしく伝えているだけで傍証はなく、塩冶高貞の出奔と自害は何か政治的な背景をもつものと見た方がいい。ただこの逸話で師直が「徒然草」で名高い吉田兼好に恋文の代筆を頼んだとされる話は事実ではないとしても、師直と兼好には深い付き合いがあったのは事実のようで、洞院公賢の日記「園太暦」には師直に頼まれて兼好が公賢のところを訪ねて狩衣のことを質問に来たとの記述がある。

 貞和3年(正平2、1347)8月、しばらく鳴りをひそめていた南朝軍の活動が活発化した。中でも楠木正成の遺児・正行の活躍がめざましく、藤井寺の戦いで細川顕氏を破り、さらに11月には山名時氏をも住吉・天王寺で撃破した。かつての父親を思わせる楠木正行の勢いに恐れをなした幕府は、12月に真打として高師直・師泰・佐々木道誉細川清氏(そろいもそろって「婆沙羅」な武将ばかり)に大軍を与えて南方へと向かわせた。
 年が明けて貞和4年(正平3、1348)正月5日、高師直を主将とする幕府軍は、楠木正行の南朝軍と河内・四条畷で激突した。師直は飯盛山に陣取ってほぼ優勢に戦いを進めたらしい。「太平記」では正行らは圧倒的に不利な状況からの一発逆転を狙って師直の首だけを狙って決死の突撃を敢行、あと一歩まで迫ったが、ついに師直に届かず、正行と弟の正時は刺し違えて自害したとされる。
 この戦いの描写で「太平記」は意外にも(?)師直を名将として大いに称えている。正行軍が突入してきた時にたまたま師直の本陣に来ていた上山六郎佐衛門高元という武士が、急の事態に慌てて師直の鎧を着てしまったのを師直の若党が見咎めて奪い取ろうとしたところ、顔を出した師直が「何をしている。いま師直の身代りになってくれようという人になら、たとえ千両万両の鎧でも惜しくないぞ。そこをどけ」と若党を叱り、「よく着てくれましたな」と上山をたたえた。上山は感激し、直後の戦いで師直がピンチに陥ったとき、「我こそが高師直なり」と名乗って飛び出し、師直の身代わりとなって討たれた。また、楠木軍の突撃にうろたえて退却する味方に師直が「敵は小勢ぞ。師直これにあり!味方を見捨てて京へ逃げては将軍に面目がたつまい。運命は天にあり。名を惜しめ!」と目をむき歯ぎしりして叱咤、恥を知る武士たちはその場にとどまったという話も伝えている。また、この描写の中で師直が「清げなる老武者」と表現されていることは、生年不明の師直の年齢の手がかりにもなる。
 これらの逸話をそのまま信じることはできないが、他の戦いにおいても師直は第一線で決死の奮戦を見せており、どこかの戦いでこのような場面があったのではなかろうか。「太平記」がここだけ妙に詳細に描きこむ「名将・師直」像はむしろ真実に近いのかも知れない。

 正行を撃破した師直・師泰らは、そのまま南朝の拠点・吉野へと侵攻した。南朝の後村上天皇らは敗報を聞いてただちに吉野の放棄を決定、さらに山奥の賀名生へとのがれた。師直は吉野攻略に向かったが、「園太暦」によるといったん大和・平田荘にとどまり、正月15日から十日間ほど南朝と和平交渉を行っていたことが分かる。師直もしゃにむに攻めるだけではない、ちゃんと西大寺長老静心夢窓疎石を仲介者にたてて交渉を行っていたのだ。むろん、それは一方的な投降を呼びかけるものではあったのだろうが。結局交渉は失敗し、正月24日に師直軍は吉野攻撃にとりかかった。
 空っぽの吉野に殺到した師直らは吉野山の神社仏閣を盛大に焼き払ってしまったと「太平記」は伝える。師直軍が吉野を焼き払ったことは「園太暦」でも事実と確認できるが、実際には師直は28日にまで吉野に入っておらず、最初に上がった炎は平田荘から遠望していたようだ。しかし吉野に入ってから師直自身の命で南朝皇居などにも火が放たれ、吉野全体が廃墟と化したとされる。これには吉野陥落を「万歳」と唱えた洞院公賢も大いに批判している。

 そもそも師直は南朝はおろか自らが奉じる北朝の皇室に対しても敬意などもっていなかった――「太平記」は次のような有名な師直の発言を伝えている。「都に王という人がいて少しばかり土地を支配し、内裏だの院だのという御所があって、いちいち馬から下りねばならないのが面倒だ。もし王というものがいなければならないというなら、木で造るか金物で鋳るかして、生きている院だの国王だのはどこかへ流してしまえばいい」この発言は「太平記」しか書いていないので本当に師直が口にしたのかは不明だが、実際に天皇が島流しになって脱出したり、天皇が二人出てきたりする時代の空気を反映しているのは確かだ。

―あえない最期―

 吉野が陥落して南朝は事実上壊滅、天下泰平がおとずれるかにも見えたが、翌貞和5年(正平4、1349)閏6月に足利直義一派と高師直一派による幕府内の対立が激化、直義が尊氏に要請して師直は執事から解任された。7月には直義の腹心・上杉重能畠山直宗により師直の暗殺計画が実行に移されるが、粟飯原清胤大高重成らが内通したため師直は難を免れた。8月13日には師直・師泰が主導して反直義のクーデターが起こされ、直義は尊氏邸に逃げ込んで、師直らの大軍が尊氏邸を包囲する事態になった。「太平記」によれば尊氏は師直の行動に「家臣の分際で」と怒り、直義ともども自害を覚悟したとされるが、結局直義が政権を手放すことを承知してクーデターは無血のうちに成功した。この事件はそもそも直義を引退に追い込んで自らの子・義詮に政権を移譲させるために尊氏と師直が仕組んだ壮大な「ひと芝居」であったとの見方が当時からあり、研究者の間でもそれが真相だったのではないかと見る意見が多い。
 引退した直義に代わって鎌倉から義詮が上京し政務を見ることになり、師直はその執事としていっそう権勢をふるうようになる。自らの暗殺をくわだてた上杉重能・畠山直宗は越前に流刑にしたが、ただちに刺客を送って暗殺させている。

 翌観応元年(正平5、1350)10月、直義の養子の足利直冬が九州で挙兵、九州をおさえて中国地方まで進出する盛んな勢いをみせた。高師泰がその討伐に向かったが石見で敗北、ついに尊氏みずからと師直が直冬討伐に出陣することになった。その出陣直前に軟禁状態にあった直義が京から姿を消して大騒ぎとなった。当然のように不安を感じた師直は尊氏に直義の捜索を求めたが、なぜか尊氏はそれを認めず、放置したまま出陣した。洞院公賢はこのとき「尊氏と師直が不和」との噂が流れたことを日記に記している。
 尊氏・師直が備前まで進んだところで、師直の不安が的中したことが知れた。直義は南朝と手を組み、直義派の大名たちを糾合して京をうかがっているとの情報がもたらされたのだ。尊氏・師直・師泰らは慌てて軍を東へ返し、年明け正月から京都をめぐって直義軍と戦うが敗れて丹波から播磨へとのがれ、赤松勢と合流して態勢を整えた。そして2月17日に摂津・打出浜で両軍の決戦が行われ、尊氏軍は大敗、師直は股に矢傷を受け、師泰も兜の内側と腕を負傷して松岡の城に立てこもった。この一ヶ月前に関東でも師直派・直義派の衝突が起こっており、高師冬(師直のいとこ)が甲斐で自害に追い込まれていた。この情報を知ってもはやこれまでと戦意を失った師直・師泰は出家・引退を承知し、尊氏は二人の助命を条件に、2月21日に直義と講和を成立させた。

 観応2年(正平6、1351)2月26日。尊氏は京へと出発した。師直は禅僧姿に、師泰は念仏者の姿になっていたという。師直たちは当然危険を感じて尊氏のすぐそばにいたいと申し出たが、それは許されず三里ばかり後ろを馬に乗って歩かされることになった。そして彼らが武庫川を渡り、鷲林寺の近くにさしかかったとき、師直によって殺された上杉重能の養子・上杉憲能の率いる一隊が師直らを襲った。「太平記」によれば直接手を下したのは三浦八郎佐衛門で、三浦の家来たちが「そこの遁世者で顔を隠しているのは何者だ。その笠をとれ」と呼ばわり、師直のかぶっていた笠を切り捨てた。その切れ目から顔を見た三浦は「まさに敵。願ってもない幸い」と長刀で馬上の師直を袈裟がけに斬りつけた。師直が馬から落ちると、三浦がただちに馬から飛んで降りて師直の首をあげたという。この場で兄弟の師泰、息子の師夏をはじめ高一族6人、家臣や従軍僧(時衆)まで数十人が虐殺されたという。
 この師直以下殺害は、実は尊氏と直義の合意事項だったのではないかとの見方も古くからある。だが京に戻った尊氏は師直を殺した上杉憲能の死罪を主張して直義らの説得で流刑に落としたとの事実もある。また翌年、師直のちょうど一周忌にあたる2月26日に、鎌倉で直義が急死していることが「太平記」が噂として書くように毒殺だとすれば、これは師直を殺されたことへの尊氏の報復行為と見ることも出来るだろう。

―後世の評価など―

 師直たち一族の多くが殺されたことで、長らく足利家の執事をつとめてきた高一族の本流はここに途絶えた。高師秋や大高重成のように直義派に属していたために生き延びた者もいるが、高氏が再び幕政の中心に返り咲くことは無かった。幕府の執事、やがて「管領」と呼ばれるようになるこの地位は、仁木・斯波・細川・畠山といった足利一門に占められていく。

 「太平記」が室町時代以降に広く読まれるようになると、子孫もいない遠慮もあってか高師直の好色・悪行ぶりは一般に広まり、説話集「塵塚物語」でも師直の好色草紙なるものの話題が出てくるようにもなる。
 さらに追い討ちをかけたのが、江戸時代に赤穂事件を「太平記」世界に仮託した「仮名手本忠臣蔵」で吉良上野介の役どころが「高師直」にされたことだった。これは実際の事件の演劇化が禁じられていたための手段であったのだが、吉良が「高家(こうけ。格式を教える)」であることにもひっかけてある。この忠臣蔵によってなおさら師直の悪役イメージが定着したことは否めない。
 さらにさらに、江戸時代中にいわゆる水戸史観によって南朝正統論、楠木神格化・足利逆賊観が強化されていく中で、天皇の権威など物ともしない発言をしたとされる師直はなおさら悪人化されることになった。
 戦後には南北朝時代をめぐる評価も自由になり、師直については当時の新興武士を糾合した時代の革新者、合理的思考とリーダーシップのあるすぐれた戦術家、古い価値観のゆらいだ時代の気分を代表する「ばさら大名」の代表、などなど新たな師直イメージが語られるようになっていく。

 ところで昔から「足利尊氏像」として教科書にも載っていた有名な「騎馬武者像」がある(右図)。髪をザンバラにし、刀を肩にかけ、野生的なヒゲヅラに鋭い目をむいた、まさに戦闘中そのものを描いたような異例の肖像画で、上に足利義詮の花押があることから長らく「尊氏像」とされ、尊氏の一般的なビジュアルイメージの根源になっていた。ところが1970年代から藤本正行氏によって疑問が唱えられ、高一族の家紋である「輪違い紋」があることから「高師直像」との新説が出され、その後も決着はなかなかつかないが今のところ師直説が多くの支持を集めている観がある。この肖像の武将の足が不自然に曲がっていること、背負う矢の一本が折れているなどから、師直が股に負傷したという彼にとっての最後の戦い「打出浜の戦い」の模様を描いたのではないかとの見解も出ている。師直の死後、その功績をたたえる意味で製作され義詮の花押がそこにすえられたのではないか、というものだ。もちろんこれも決定打にはなっていないが(師直の子・師詮説もある)

 現在、兵庫県伊丹市には「師直塚」の石碑が残っている。もともと師直の墓とされる塚が田んぼの中に残っていたのだそうだが、明治時代に田の所有者が耕作の邪魔だと取り壊してしまった。その後墓の破壊は祟りがあると恐れた地元青年会の発起によって大正2年に現在の「師直塚」の供養碑が建立されたという。その後昭和37年にある工場経営者がこの石碑を自分の工場の入口に移設、その途端に事故が続発、会社の経営も傾いて祟りと恐れた経営者は石碑を元の位置に戻した。その後昭和44年に道路拡張工事のためにこの石碑を移すことになったが祟りを恐れて引き取り手が出ず、昆陽寺の住職に法要をしてもらった上で当時の建設省の用地であった現在の地点に移転することになったのだという。面白い話ではあるが、神も仏も信じてなかった気がする師直らしくない話でもある(笑)。
 また足利市光得寺には同市内にあった樺崎寺から移された五輪塔群があり、その中には父・師重のものとともに師直の命日が刻まれた塔もある。これらは足利家当主歴代と高家執事歴代を供養したものと考えられ、この地に所領を持っていた同族の南宗継が建立したものではないかと推測されている。

参考文献
高柳光寿「足利尊氏」(春秋社)
樋口州男「高師直―出自と事跡」(新人物往来社「ばさら大名のすべて」所収)
林屋辰三郎「内乱のなかの貴族・南北朝と「園太暦」の世界」(角川選書)
森茂暁「太平記の群像・軍記物語の虚構と真実」(角川選書)
田中寿朗「高師直」(新人物往来社「足利尊氏のすべて」所収)
峰岸純夫「足利尊氏と直義・京の夢、鎌倉の夢」(吉川弘文館・歴史文化ライブラリー)ほか
師直塚についての記事は「Forest of Tales〜伝説の森〜」の記事を参照させていただきました。
大河ドラマ「太平記」当然のように全編にわたる重要キャラの一人で、柄本明が怪演した。第9回で貞氏から高氏に足利家家督が譲られるとそれにともなって執事も交代し、ここで初めて師直が登場する。以後、高氏に影のように付き従い、忠実ではあるが何を考えてるかわからぬ謎めいた男として描かれた。時々尊氏に対してグサリと核心を突く発言もし、「やはり武家は武家、公家は公家で暮らした方が良いのです」「かつげる帝であれば木の帝であれ、金の帝であれ…」「兄を敬うと同時に、兄を打ち倒そうと思うのが弟」といった名セリフを残した。古典の伝える好色ぶりもおおむねそのままで、塩冶高貞との逸話も描かれ、前関白の妹「二条の君」を愛人にしていた。観応の擾乱では尊氏と示し合わせて直義打倒のクーデターを起こす一方で「尊氏を倒して自分が天下を取る」との野心もちらつかせる。最後に尊氏と打ち融け合い爽やかな顔を見せるが、その直後に惨殺されてしまう。「大殿との約束じゃ…!こんなところで死ぬわけにはまいらん…!」が事実上最後のセリフとなった。豪快なイメージに描かれることが多い師直だが、やや神経質な小悪党という印象が強い。なお、このドラマでは師直は師泰の弟という説を採用していた。
その他の映像作品1959年のTVシリーズ「大楠公」で浪花五郎が演じている。
また谷崎潤一郎の戯曲「顔世」を映画化した「悪党」(新藤兼人監督、1965)では主役。小沢栄太郎が「太平記」そのままの好色な悪党ぶりを怪演している。
舞台劇では1961・1969年の「幻影の城」で田中明夫が演じている。なお上記のように歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」では吉良を高師直としているので、それを含めれば師直役者は大変な数にのぼる。
1983年放送のアニメ「まんが日本史」では矢田耕司が声を演じた。
歴史小説では「太平記」「忠臣蔵」で有名なせいもあって、尊氏が出ていれば必ず登場し、強い印象を残すことが多い。
古いもので直木三十五の「足利尊氏」(1932)は冒頭最初に登場するキャラクターが師直である。この小説では師直は豪快そのもので、主人の尊氏に向かって「又太郎」と呼び捨てにし、やや繊細な尊氏と対照的な印象を残す。
鷲尾雨工の『吉野朝太平記』(1935)は楠木正儀を主人公とした長編小説で、師直が正行に恋する弁内侍を狙ったり(「吉野拾遺」から拝借した設定)、正儀が自身の美貌の愛人を師直のもとに送り込んで色仕掛けで直冬との対立をあおり、観応の擾乱を引き起こさせるなど、「好色な師直」のイメージが前面に押し出された。
吉川英治「私本太平記」(1959)ではかなり遅れた登場。その容貌から「木像蟹」と呼ばれ、婆沙羅大名・佐々木道誉をも手玉にとる婆沙羅ぶりを見せる。好色ぶりは「太平記」同様。当初の構想どおり湊川以降もしっかりと描きこめばより印象に残るキャラクターになったかもしれない。
高橋直樹『異形武夫』は南北朝を扱った三つの短編からなり、どの逸話でも師直が重要な役回りである。荒々しく好色なキャラクターであるが、敵となった正成や正行に敬意を表してその死の直前に面会するなど武士らしい、男らしい人物に描かれている。
伊東潤『野望の憑依者(よりまし)』は師直を主役にした、おそらく初の長編小説。ピカレスクな師直を中心に南北朝の混沌を描いている。
漫画作品では南北朝時代や太平記をとりあげた学習漫画ではほぼ皆勤状態。
小学館版「学習漫画・少年少女日本の歴史」では「みかどや院などどこぞへ流してしまえ。代わりに木か金物で作っておけばよかろう」と豪語する場面が「婆沙羅大名」の代表例として描かれている。集英社「日本の伝記」シリーズの「足利尊氏」では序盤から足利兄弟の相談役として登場、いつも豪快に大笑いしながら情勢分析を尊氏に説明し、六波羅を陥落させた尊氏が鎌倉の妻子を心配していると「こんなこともあろうかと」と脱出の手は打ってあると急に言いだしたりしている。「くもんのまんが古典文学館」シリーズの「太平記」では妖怪みたいな悪人ヅラで登場している。
河村恵利「時代ロマンシリーズ」のうち足利直義を主役とする三つの短編に「家宰」として師直がチョコチョコ顔を見せているが、落ち着いた老人(中年?)というやや意外な雰囲気で、直義とも別に仲は悪くない。
吉川英治原作を劇画化した岡村賢二「私本太平記」では物凄いモミアゲが印象的。
市川ジュン「鬼国幻想」では主人公の阿野廉子の異母妹・緋和(架空人物)をものにしようとする好色漢に描かれ、彼女をめぐって直義と対立を深めていく展開になる。
河部真道『バンデット』では足利荘での相撲シーンで初登場、かなり男くさいキャラクターで足利が幕府を裏切る時は名越高家を直接殺したりしている。
PCエンジンCD版北朝方の有力武将として登場。尊氏でプレイすれば操作できる。「武蔵守」のせいなのかゲーム開始時には武蔵の「国主」として配置されている。初登場時の能力は統率86・戦闘85・忠誠97・婆沙羅89。婆沙羅が高いのは当然ではあるが、このゲームの「婆沙羅」値は「裏切りやすさ」なのでやや違和感が。また史実に比べて統率・戦闘値が低い。顔グラフィックはかなり強烈。
PCエンジンHu版シナリオ2「南北朝の動乱」で北朝方武将として登場。このシナリオではプレイヤーは北畠顕家になって南朝軍を率いることになるので師直はクリアのために打倒必須の敵ボスの一人。大和・興福寺に配置されている。能力は「弓6」で実質最強。
メガドライブ版足利軍に登場。「足利帖」では大半のシナリオで味方。「新田・楠木帖」では建武の乱以降のシナリオで敵将になる。能力は体力87・武力125・智力110・人徳74・攻撃力105。足利軍にあっては強力な部類に入るが尊氏・直義には劣る。
SSボードゲーム版武家方の「大将」クラスで登場、勢力地域は「全国」。合戦能力2・采配能力8で采配に関してはゲーム中最強。ユニット裏は子の高師夏。

高師夏の母
こうの・もろなつのはは生没年不詳
親族父:二条道平 子:高師夏
生 涯
―関白の妹・師直の妻―

 師直には複数の妻がいたと思われるが、ここでは高師夏の母となった女性について記す。
 古典「太平記」には「前関白の御妹」「太政大臣の御妹」と記されていて、二条道平の妹ではないかと推測されている(ただし道平は太政大臣ではない)。妹ではなく娘ではないかとする意見もある。「太平記」巻26の「執事兄弟奢侈の事」で師直の悪行のひとつとして、師直がこの「前関白の妹」を盗みだして自分の妻にしてしまったことが挙げられている。藤原氏名門の娘であり后妃にもなろうという女性を、野蛮な東夷(あずまえびす)が…という当時の京の貴族業界では少なからずあった気分ゆえに「悪行」とされているわけだ。
 彼女は師直の息子・武蔵五郎師夏を産んだとされているので、師直に「盗み出された」のは暦応2年(1339)以前のこととなる。師直はこの師夏を溺愛したというので、その母に対しても決して粗略には扱わなかったのではなかろうか。なお、「太平記」異本のなかには「前内大臣大炊御門冬信」がこの女性に恋文を送ったため、師直が冬信の屋敷に火を付けたというエピソードを記すものがある。
 その後どう人生を送ったかはまったく不明。観応2年まで存命だったとすると、夫や息子の悲惨な死を見届けることになってしまったと思われるが…
大河ドラマ「太平記」彼女の設定を使った「二条の君」という女性が登場する(演:森口瑤子)。ただドラマ中ではヒントにしたというだけでほとんどオリジナルのキャラクターといっていい。→詳しくは「二条の君(にじょうのきみ)」を見よ。

高師泰こうの・もろやす?-1351(観応2/正平6)
親族父:高師重 兄弟:高師直・高重茂・高師久・貞円・高師春室・南惟潔室
子:高師世・高師秀
官職左衛門尉・尾張権守・尾張守・越後守
幕府侍所頭人、引付頭人 越後・尾張・和泉・河内・石見・備後・長門守護
生 涯
 足利家執事となった高師直の兄弟。師直と並んで幕府創設のために活躍した猛将であり、兄ともども「婆沙羅大名」の典型とされる。

―足利軍団主力として―

 生年は不明だが、一般に師直の弟と見られている。一部に師直の兄とみる意見もあり、大河ドラマ「太平記」では「兄説」が採用されている。だが『太平記』で「舎弟」という表現もされているのでやはり弟とみなすのが有力のようである。
 師直をはじめとする高一族の一員として挙兵時から足利尊氏の主力として参加していたとみられるが、六波羅攻撃に参加していた確証はない。建武の新政で設置された土地問題処理機関・雑訴決断所の四番職員に「足利代表」の一人として名を連ねており、このとき「左衛門尉」であったことが文書資料から判明している。

 建武2年(1335)7月に北条時行らによる「中先代の乱」が起こり、8月に尊氏がこれを鎮圧するために出陣、鎮圧後もそのまま関東に居座って幕府復興を既成事実化しようとした。このとき尊氏側に参加した三浦和田茂実の11月20日付着到状に師泰が証判を与えている。11月になって尊氏を討つべく新田義貞が東海道を進撃してくると、尊氏は出家すると言って寺にひきこもってしまい、やむなく足利直義がこれを迎え撃つ軍勢を派遣したが、『梅松論』ではその大将を師泰が任されたことになっていて、師泰は尊氏から「領国である三河で待機するように。矢作川から西へは絶対に越えてはならない」といいふくめられたという(『太平記』でもここで師泰が初登場するがあくまで参戦武将の一人の扱い)。結局師泰は矢作川・鷺坂・手越河原と連敗してしまう。
 翌建武3年(延元元、1336)正月の京都攻防戦にも尊氏・直義のそばにあって戦い、『太平記』では正月16日の戦闘の場面で尊氏から「師泰、あそこの敵を追い散らせ」と言われて「かしこまりました」と師泰が応じる珍しい会話描写がみられる。『梅松論』では尊氏の副将には師直、直義の副将には師泰と、それぞれ兄弟セットになって指揮にあたっていた様子もうかがえる。
 いったん敗北して九州まで逃れた足利軍は、3月2日に多々良浜の戦いで菊池軍相手に大逆転勝利を収めるが、『梅松論』によればこのとき足利軍の先陣を切ったのは師泰が率いる部隊だった。またこの戦いに参加した武士たちの着到状(参戦の確認書)には師泰の証判がついている例が多く見つかるといい、足利軍団にあって師直ともども軍事統括・親衛隊長的役割を担っていたとみられる。
 九州平定後、西へUターンした足利軍は海路の尊氏、陸路の直義と二手に分かれて進撃したが、師泰はこのときも直義の副将となって陸路を進み、そのまま湊川の戦い楠木正成の軍と激闘を繰り広げた。『梅松論』によれば正成の首を挙げたのは師泰の配下だったというが、異説もある。

 その後の二度目の京都攻防戦でも師泰は奮戦し、翌建武4年(延元2、1337)正月からは新田義貞がたてこもった越前・金ヶ崎城攻略の主将となった。新田軍はしぶとく抵抗したが師泰は兵糧攻めで新田軍を苦しめ、3月6日に金ヶ崎城を陥落させた。
 翌建武5=暦応元年(延元3、1338)2月に、奥州から北畠顕家率いる南朝軍が京めざして怒涛の勢いで進撃し、美濃の青野原の戦いで足利軍を撃破した。尊氏らは慌てて京の防衛に当たる相談をしたが、師泰が「京を守って勝ったためしはない。むしろこちらから近江・美濃まで出撃して迎え撃つべき」と意見し、同族の高師冬細川頼春佐々木道誉らと共に美濃に出撃し黒地川に陣を敷いた。結局顕家はこれを避ける形で伊勢へ転進、五月に石津で高師直軍の前に壊滅することになる。翌暦応2年(延元4、1339)7月には師泰は師冬と共に遠江に遠征、浜松荘の鴨江城・大平城を攻略し、宗良親王を擁した南朝方の井伊氏を追い詰めている。

―「ばさら」なる振る舞い―

 北畠顕家・新田義貞の相次ぐ戦死、そして後醍醐天皇の死により南朝勢力は勢いを失い、少なくとも畿内では足利幕府体制がひとまずの安定を迎えることになる。この間、高師泰は幕府の引付頭人に名を連ねて執事の師直と共に幕政に参与している。ただしこのころから早くも幕府内では足利直義派と高師直派に分かれた激しい内紛が始まっている。それは足利一門や外戚の上杉氏らを中心に公家や寺社など旧勢力と折り合いをつける官僚的な直義派と、畿内の新興武士層(悪党とされた層も含む)を戦力にとりこんで旧勢力の利権を奪い取ることも辞さない実力軍人型の師直派の対立とみることもできる。

 一時平穏となっていた畿内に再び戦雲がわきおこったのは貞和3年(正平2、1347)である。正成の子・楠木正行が河内で挙兵し、直義派の細川顕氏山名時氏をあいついで撃破した。幕府は切り札として高師直・師泰兄弟を河内・和泉へと出陣させ、翌年1月5日の四条畷の戦いで楠木軍を壊滅させた。師泰自身はこのとき和泉・堺で別働隊として動いており、四条畷で正行らが戦死するとすぐさま楠木氏の拠点の石川河原周辺に布陣して、楠木正儀と対峙している。その後、吉野へ進撃してこれを焼き払った師直を追って大和に入った。
 洞院公賢の日記『園太暦』によると、このとき師泰軍は聖徳太子の御廟周辺で兵糧の調達を行い、これを避けて住民たちが御廟に逃げ込むと、兵士たちがこれを追って御廟に入り、廟内の砂金を盗み取った上これを破壊する蛮行を行ったという。また同日記の2月5日の記事には公賢のところへ公家の中原師香が訪ねてきて「私の領地の河内・大庭荘で師泰が兵糧調達と称して略奪をおこなって兵士たちに分け与えてしまった。これは勅命でも幕府の命令でもなく、師泰が勝手にやっていることだ」と泣きついたことが書かれている。これは確かに奪われ側の公家領主にとっては憤懣やるかたないものであっただろうが、師泰が河内国の守護(その国の軍事指揮権と共に兵糧調達権もある)として戦時の臨時措置として行った正当行為であるともいえ、また師直・師泰軍団を構成していた畿内の新興武士層の要求に応えたものでもあった。同様の話は『太平記』にも見え、河内・和泉の神社仏閣の荘園の年貢を領主へ納めず、天王寺の常灯をまかなう所領も横領したので七百年続いた常灯も消えてしまったという。また四天王寺の五輪の塔の九輪を溶かして湯釜を作り茶を飲んで楽しみ、部下たちもまねしたので河内国内にまともな九輪がなくなってしまった、という逸話もある。

 師直・師泰らの貴族や寺社の旧権威をものともしない行動は当然彼らの怒りを買い、そうした立場をとる『太平記』も師直・師泰の「悪行」を一章を費やして列挙し非難している。特に師泰の悪行として大きく語られるのが菅原登任という公家の土地を奪い取った逸話である。
 京・東山の枝橋というところに師泰は山荘を建てようとした。ところがそこは北野長者・菅原登任の領地と知って使者を立てて譲るよう迫った。登任が「かまいませんが、そこは先祖代々の墓地なのでせめて墓標を移すまで待ってくれ」と答えると、師泰は「土地を譲りたくなくてそんな返事をしたのだろう。その墓を掘り返してしまえ」と人夫を送り込んで墓を破壊させてしまった。人夫たちが必死に働いているところを通りかかった四条隆蔭の青侍二人が「気の毒に。なにもここまで働かさなくてもいいだろうに」とつぶやいたと報告を受けると、師泰は「じゃあそいつらを働かせてやれ」と怒り、その二人を炎天下に一日中こきつかったという。
 そのうち何者かが「なき人の しるしの卒塔婆 掘り棄てて 墓なかりける 家作りかな(死者の墓標を掘り返すとはなんともはかない家作りだな。「はかない=墓ない」のシャレになっている)」と狂歌を書いて置いていった。師泰はこの歌に激怒し「これは登任の仕業に違いない。適当なトラブルにかこつけて殺してしまえ」と考えて、吾護丸という怪力の少年(大覚寺殿の寵童という)に指示して登任を殺害させてしまったという。実は菅原登任が吾護丸(護吾丸、五々丸とも)なる少年に息子もろとも殺されたという事件は観応元年(正平5、1350)5月16日に実際に発生しているのだが(『常楽記』『祇園執行日記』)、これに師泰が関与していたという傍証はなく、また『太平記』はこの話を史実よりほぼ一年前の時点に移している。ただ当時そうした噂があったことは事実かもしれない。

―兄弟もろとも惨殺―

 師泰のような公家・寺社もものともしない不遜な行動は、そうした勢力と強調する直義派との対立を激化させ、貞和5年(正平4、1349)閏6月に師直は執事職を解任された。その後任に師泰の子・師世が任じられたのは両派の妥協の産物、あるいは直義派により師直・師泰兄弟の分断策であったかと思われる。8月に師直は河内で楠木勢と対峙していた師泰を京へ呼び寄せるが、『太平記』によればこのとき直義は師泰に使者を送り「師直のあとの執事職はお前に任せる」と懐柔をはかろうとしたという。この誘いに対して師泰は「うけたまわりましたが、それは枝を切った後に根を断とうというお考えでしょう。直接京にのぼってお返事いたします」と一蹴したとされる。
 8月13日に師直・師泰とその一派はクーデターを起こして将軍・尊氏邸に尊氏・直義兄弟を包囲し、直義を失脚させた。このクーデターは直義を失脚させるために尊氏と師直が示し合わせて実行したものとも言われるが、ともあれこの政変の結果、幕府政務の中心は直義から尊氏の嫡子・義詮に移り、高兄弟は直義側近を粛清して幕府内での実権を確かなものとした。

 翌観応元年(正平5、1350)に入ると直義の養子(尊氏の庶子)直冬が九州で勢力を広げ、中国地方にまで進出してきた。危機感を抱いた師直らはまず6月に師泰を大将とする直冬追討軍を石見へと派遣した。このとき師泰は石見・備後・長門三国の守護に任じられ、河内も含めて同時に四カ国の守護となっていたと推定される。しかし師泰による石見遠征は失敗に終わり、直冬の勢力はますます拡大した。焦った尊氏は自ら師直と共に10月に直冬追討のため九州へと出陣するが、それと前後して直義が軟禁先から脱出して南朝に降伏し、「師直・師泰を討つ」との名目のもとに挙兵した。尊氏・師直は急いで中国から畿内へ引き返し、師泰も石見から各地で敵と戦いつつ引き返して尊氏らと合流し、年明けにかけて直義党と京をめぐって攻防を繰り広げた。

 観応2年(正平6、1351)2月17日、摂津・打出浜の合戦において尊氏軍は直義軍に大敗を喫した。この戦いで師泰は兜の内側と腕に負傷、師直も股に矢傷を受けて松岡城に逃げ込んだ。一時は自害を覚悟した一同だったが、尊氏の側近・饗庭氏直が使者にたって直義との講和をすすめ、師直・師泰兄弟の出家・引退を条件に和議が成立した。
 2月26日、尊氏は京へと出発し、禅僧姿になった師直と念仏者姿になった師泰もこれにつき従った。兄弟は危険を感じて尊氏のすぐ近くにいることを求めたが許されず、はたして武庫川まで来たところで師直・師泰らに義父を殺された上杉憲能の家臣の一隊が二人を襲撃した。まず師直が袈裟がけに切り殺され、これを半町ばかり後方から見ていた師泰は馬を駆けさせて逃げようとしたが、追いかけて来た吉江小四郎に槍でわき腹を貫かれた。それでも師泰は刺さった槍を手に握って自らの刀を抜いて果敢に抗戦しようとしたが、馬からひきずりおろされて首をとられたという(「太平記」の描写による)。師泰の息子・師世もこのとき他の一族と共に殺害されている。

参考文献
高柳光寿「足利尊氏」(春秋社)
樋口州男「高師直―出自と事跡」(新人物往来社「ばさら大名のすべて」所収)
林屋辰三郎「内乱のなかの貴族・南北朝と「園太暦」の世界」(角川選書)
森茂暁「太平記の群像・軍記物語の虚構と真実」(角川選書)
田中寿朗「高師直」(新人物往来社「足利尊氏のすべて」所収)ほか
大河ドラマ「太平記」ドラマ後半の重要人物として塩見三省が演じ、 第38回〜第47回に連続出演している。ただし第1回の尊氏の少年時代の足利荘でのエピソードで武内伸一郎演じる少年時代の師泰が登場した(最終回でも回想で登場)。このドラマでは師泰は師直の兄という説を採用しており、師直が尊氏に対して「弟の兄に対する感情」を述べる場面もあった。
ドラマでは師直以上の武闘派・婆沙羅者に描かれ、尊氏邸を包囲した時には「いっそ殿も一緒に討つというのはどうじゃ?」とさりげなく口にし、師直や道誉をドキリとさせる場面もあった。最後の暗殺シーンでは師直を助けようと自ら相手に飛び掛かり「師直、逃げろ!」と絶叫していた。
歴史小説では登場例は多いのだが、師直とセットにされてしまうのが常で、たいてい没個性である。
漫画作品ではやはり師直とセットにされてしまうため登場はしても特に個性が描かれることはない。一番多く登場しているのは石ノ森章太郎「萬画日本の歴史」ではないかと思われる。
PCエンジンCD版北朝方の有力武将として備前美作に登場。尊氏でプレイすれば直接操作できる。初登場時の能力は統率84・戦闘86・忠誠92・婆沙羅87で師直と似たタイプ。婆沙羅が高いのは当然ではあるが、このゲームの「婆沙羅」値は「裏切りやすさ」なのでやや違和感が。
メガドライブ版足利軍が出てくるシナリオの大半に登場。「足利帖」では味方。「新田・楠木帖」では建武の乱以降のシナリオで敵将になる。能力は体力74・武力121・智力87・人徳71・攻撃力96
SSボードゲーム版武家方の「大将」クラスで登場、勢力地域は「北畿」。合戦能力3・采配能力5でかなり強力。ユニット裏は子の高師秀。

高師行こうの・もろゆき生没年不詳
親族父:高師氏 兄弟:高師重・三浦定義・高惟氏・高師春・高師信 
子:高師秋・高師冬・高師業・三戸師澄・高師直の妻
官職左衛門尉
生 涯
―足利貞氏の執事―

 代々足利家の執事職をつとめた高一族(高階氏)のうち、足利貞氏時代の執事を務めた人物。名高い高師直の伯父に当たり、師行の息子たちも南北朝動乱の中で活躍している。正安3年(1301)に亡くなった父・師氏のあとを受けて執事を務めたとみられ、徳治3年(1308)陸奥国賀美郡の地頭代・倉持氏に対して領主に未納の900文を催促する貞氏の命令書に署名している。
大河ドラマ「太平記」第1回のみの登場(演:左右田一平)。第1回で描かれる嘉元3年(1305)の足利荘での騒動のくだりで足利貞氏の重臣の一人として顔を出す。ただし執事は弟の師重がつとめている様子。なおこの場面で貞氏が「陸奥賀美郡は昨年十月までの900文をまだ未納だと言うぞ。地頭代の倉持は何をしておるのだ」と話しており、これは上記の師行が署名している文書が元ネタ。ただし3年時期がずれている。


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