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おおうち〜おおやまげんざえもん


大内(おおうち)氏
 もと「多々良氏」を称し、百済聖明王の王子・琳聖太子の末裔という渡来系氏族の伝承をもつ。その真偽は定かではないが平安末期には周防の在庁官人として頭角を現し、代々「大内介」を称するようになって「大内」を家の名とするようになった。鎌倉時代には周防守護としての地位を確立。南北朝時代には一族内の惣領争いが起こり、嫡流は一時南朝方について勢力を拡大した。室町幕府に投降後は貿易による利益を背景に力を持ったが、そのために足利義満に警戒され「応永の乱」で大内義弘が滅ぼされ勢力を縮小した。その後も西国の有力大名として一定の勢力を保ち、拠点の山口を西の京と呼ばせるほどに文化的に繁栄させたが、戦国時代に下剋上で滅亡に至った。

大内弘盛┬満盛───弘成
─弘貞──弘家┬重弘弘幸弘世義弘┬持盛






長弘
弘直
満弘└持世






弘員

弘茂




└鷲頭盛保─親盛─禅恵尼長弘弘直

├道通








貞弘

盛見─教弘─政弘─義興─義隆

大内長弘おおうち・ながひろ
 大内家の庶流・鷲頭家を継いだ人物だが、この表記で書かれることも多い。
 →鷲頭長弘(わしず・ながひろ)を見よ。

大内弘茂おおうち・ひろしげ(ひろもち)?-1402(応永8)
親族父:大内弘世 兄弟:大内義弘・大内弘正・大内満弘・大内盛見・大内弘十・大内道通・大内家弘・少弐冬資室・大友親世室
官職大内新介・周防介
幕府長門・周防守護
生 涯
―応永の乱で投降するが―

 大内弘世の七男で大内義弘の弟。義弘の当面の後継者とされたらしく「大内新介」と呼ばれている。
 応永6年(1399)の応永の乱では兄の義弘に従って堺に出陣したが、足利義満絶海中津を使者に和解を呼びかけるとこれに応じて上洛するよう意見したという。義弘があくまで開戦を決めると、河内に進出して守護国の和泉・紀伊を基盤に長期抵抗をする積極策を提案したが、作戦は堺に籠城と決し、弘茂は堺の東側を守った。戦闘では弘茂軍は果敢な抵抗をして主将義弘が戦死したあとも最後まで幕府軍を苦しめたが、今川泰範一色詮範の軍に突入されてついに敗北。弘茂は自害をしようとしたが平井備前入道に降参を勧められ、「今さら苦戦になったからと降参しては家名を傷つけ武士の恥となろう」と抵抗しつつも結局平井の説得に負けて義満に降参した(「応永記」)。義満は弘茂を許したが、六か国あった大内守護国を長門・周防の二国のみに削っている。

 ところが義弘から留守を任された弟の大内盛見がこれに反発し義満への抵抗を続けた。弘茂は義満の命を受けて応永7年(1400)7月に京を発ち、安芸・石見の武士たちの援軍を得て石見経由で周防へと向かった。盛見が豊後へ逃亡すると弘茂は山口に入って態勢を整えたが、翌応永8年12月(西暦では1402になる)に盛見が反撃して再上陸するとこれを長府で迎え撃ったが敗北、12月29日に長府佐加利山(下山・盛山とも)城で戦死した。法号を真休院日庵浄永という。
 弘茂の戦死後、弟の大内道通が盛見と戦ったがこれも敗死し、大内家は盛見が継承してゆくことになる。

大内弘直おおうち・ひろなお?-1336(建武3/延元2)
親族父:大内重弘 兄弟:大内弘幸・大内師直
官職大内新介
生 涯
―一貫して後醍醐方につく―

 大内重弘の子で大内弘幸の弟。通名を「介三郎」といい、兄の後継者として「大内新介」と呼ばれていた。周防国熊毛郡波濃(波野)郷に住んだことから「波野殿」という呼び名もあり、「波野弘直」の名で紹介される場合もある。
 建武2年(1335)末、足利尊氏が鎌倉で建武政権に反旗を翻し、新田義貞を指揮官とする討伐軍が関東へ向かった。この中に「大内新介」こと弘直が隣国の厚東武村らと共に加わっている(「太平記」)。結局この討伐軍は箱根・竹之下の戦いで敗北、それを追うように尊氏の軍が京へ攻め上ると、大内氏も厚東氏も尊氏に味方して援軍を派遣している。しかし弘直は一族と行動をともにせず建武政権側に立ち続け、石見に入って足利方の上野頼兼と戦っていたようである。彼がなぜ建武政権側に立ち続けたかは不明だが、当時大内一族の中では惣領の地位をめぐる争いがあり(当時は大内氏に限ったことではないが)、弘直も自身が一族内で優位に立つためにその方針をとったと思われる。
 翌延元元年(建武3、1336)7月7日に石見の益田大山で足利方と戦ううちに戦死した(「大内系図」)。自身が再建したという瑞雲寺(現・竜福寺)が菩提寺となり、法名は瑞雲寺殿恵海浄智大禅定門。島根県益田市金山にその墓がある。あくまで南朝側の立場を貫いたことから近代以後に「忠臣」としてもてはやされ、地元では遺跡や逸話が生まれているようである。

大内弘幸おおうち・ひろゆき?-1352(文和元/正平7)
親族父:大内重幸 兄弟:大内弘直・大内師直
子:大内弘世・大内師弘・大内師賢
官職周防権介・修理大夫
位階正六位上
生 涯
―惣領争いで南朝へ―

 大内重弘の子。元応2年(1320)に父の死を受けて大内家の家督を継いだ。正慶2年(元弘3、1333)に鎌倉幕府打倒の挙兵が各地で相次ぐなか、長門探題の金沢時直に従って周防勢の一員として反幕府軍と戦ったが、これが仇になって幕府崩壊後の建武政権では冷遇され、叔父の鷲頭長弘が周防守護となり本家の弘幸をしのぐ勢いとなった。
 建武2年(1335)に足利尊氏が建武政権に背くとこれに呼応したが、叔父の長弘も同じ行動をとって尊氏から周防守護職を安堵されたため大内本家の主導権を奪い返すには至らなかった。弘幸の弟の波野弘直が建武政権側について戦っているのもそうした一族内の主導権争いの一環だったのだろう。

 やがて幕府内で内戦(観応の擾乱)が起こり九州で足利直冬の勢力が拡大するなど混乱が生じてくると、正平5年(観応元、1350)に弘幸は鷲頭長弘と共に直冬方につき、さらに長弘の子・鷲頭弘直が幕府から周防守護に認められると、弘幸とその子・弘世は南朝に投降し、弘世が南朝から周防守護に任じられて、これを名分として鷲頭家打倒に乗り出した。その決着がつかぬうち、正平7年(文和元、1352)3月6日に死去。宇野令古熊山の永福寺に葬られた。大内本家の主導権奪回と勢力拡大の宿願は息子の弘世の時代に果たされることになる。

 なお、江戸時代に編纂された石見銀山の歴史『石見銀山日記』には、花園天皇の時代に大内弘幸が夢の中で北辰星の託宣をうけ、石見銀山の発見となったという伝説が書かれている。
漫画では小学館版「少年少女日本の歴史」の「南朝と北朝」の第2章で、京都攻防戦に敗れ海路西国へ向かう尊氏と同じ船に乗って再起を促すカットの1コマだけ登場している。ただしこの時の大内氏は弘幸ではなく鷲頭長弘が代表しており、こういう場面があったとは思えない。
PCエンジンCD版周防長門の南朝方武将として登場するが、なぜか小田治久の配下。登場時のデータは統率41・戦闘48・忠誠51・婆沙羅33。 

大内弘世おおうち・ひろよ1325(正中2)?-1380(康暦2/天授6)
親族父:大内弘幸 兄弟:大内師弘・大内師賢
子:大内義弘・大内満弘・大内弘正・大内盛見・大内弘茂・大内弘十・大内道通・大内家弘・少弐冬資室・大友親世室
官職周防権介・修理大夫
位階従五位上
南朝周防・長門守護
幕府周防・長門・石見守護
生 涯
―大内氏を有力大名にのし上げた梟雄―

 大内弘幸の子で幼名を「幸松丸」といい、通名が「孫太郎」。出家して法名を「道階」という。
 彼が成長したころ、大内一族は庶流の鷲頭長弘が周防守護として嫡流をしのぐ勢いを持ち、父の弘幸は主導権を奪回する機会をうかがっていた。
 正平5年(観応元、1350)に足利幕府の内戦「観応の擾乱」が起こり、足利直冬の勢力が九州から中国に拡大して来ると、大内一族は鷲頭も嫡流も直冬方について討伐に来た高師泰らの軍と戦っている。その後鷲頭長弘の子・鷲頭弘直が幕府方に復帰して周防守護に任じられると、これに対抗するため弘幸・弘世は南朝に投降し、弘世は南朝から周防守護に任じられて鷲頭家に対抗した。この間に弘幸が死去して弘世が家督を継いでいる。

 このとき周防には後醍醐天皇の皇子「常陸親王」(満良親王とみられる)が入り、弘世はこれを奉じて鷲頭家を圧倒、正平9年(文和3、1354)ごろには鷲頭家を屈服させて周防全域を手中に収めた。
 勢いに乗った弘世はさらに隣国の長門に攻め入り、この国の守護・厚東義武を攻め立てた。正平13年(延文3、1358)正月に厚東の拠点・霜降城(宇部市)を攻め落として長門全域をも手中に収め、南朝から長門守護職も認められた。

 大内氏が瀬戸内海の出入り口である長門・周防二国を押さえたことで、九州平定に苦闘する足利幕府は窮地に陥り、大内氏に対して懐柔策をとった。貞治2年(正平18、1363)春に弘世は周防・長門守護職をそのまま認めることを条件に幕府に投降する。これに怒った厚東氏が九州に渡って菊池氏ら南朝勢力と結び抗戦、弘世はこれを追って豊前に兵を進めて門司攻略には成功したが間もなく菊池軍の包囲にあい、素早く菊池軍と講和して引き上げた(「太平記」「島津師久申状」)
 翌貞治3年(正平19、1364)に上洛して二代将軍・足利義詮に謁見したが、このとき弘世は数万貫もの銭貨や唐物(外国商品)を京に持ち込み、幕府関係者はもちろんのこと、遊女や田楽・申楽師、遁世者にまで大盤振る舞いして人々の歓心を買ったという(「太平記」)。この弘世の財力は長門を手中にしたことで対高麗貿易で莫大な利益をあげていたためと見られている。
 さらに貞治5年(正平21、1366)には石見守護も加えられて石見国内の南朝勢を攻撃、中国地方における有力大名へとのし上がった。

 三代将軍・足利義満の時代となり、管領細川頼之今川了俊を九州探題に任じて九州平定に派遣すると、大内弘世もこれを支援して(了俊の弟・仲秋と縁組もした)九州へと出陣、南朝の懐良親王の拠点・大宰府陥落に貢献したのちに帰国している。
 こののち今川了俊は再び大内弘世に九州への出陣を求めたが弘世は動こうとしなかった(後に息子の義弘が父の意向に逆らって了俊を支援している)。さらに応安7年(文中3、1374)7月には安芸へ侵攻して毛利元春の領土を犯したため、頼之や了俊は弘世が再び南朝に寝返ったのではないかと疑った。結局永和2年(天授2、1376)4月に弘世は石見守護職を剥奪され、周防・長門守護は安堵されることを条件に安芸から撤兵している。しかし3年後の康暦元年(天授5、1379)に起こった「康暦の政変」で細川頼之が失脚すると弘世は石見守護職を取り返している。

 翌康暦2年(天授6、1380)11月15日に死去。山口の正寿院(現・乗福寺)に墓がある。法名は正寿院玄峯道階。
 弘世はそれまで周防大内にあった拠点を山口に移し(地形が京に似ていたためという説がある)、ここが大内氏代々の拠点となって後年「西の京」と呼ばれるきっかけを作った。これを称えて山口市内の名所・瑠璃光寺には弘世の騎馬銅像が建てられている。

参考文献
佐藤進一『室町幕府守護制度の研究』(東大出版会)
小川信監修『南北朝史100話』(立風書房)ほか
歴史小説では古川薫『炎の塔・小説大内義弘』では主人公の父親なので当然登場し、実力で領土拡張をした梟雄ぶりと息子の義弘との確執が描かれている。
SSボードゲーム版大内長弘のユニット裏で、身分「武将」クラスで山陽に登場する。能力は合戦能力2・采配能力4。

大内満弘おおうち・みつひろ?-1397(応永3)
親族父:大内弘世 兄弟:大内義弘・大内弘正・大内盛見・大内弘茂・大内弘十・大内道通・大内家弘・少弐冬資室・大友親世室
妻:益田兼見の娘
子:大内満世・大内幸盛大内幸兼・大内興弘
官職伊予守
幕府豊前守護代、石見守護
生 涯
―兄・義弘との愛憎―

 大内弘世の子で大内義弘の弟。「馬庭殿」の呼び名があった。元服の時期は不明だが、足利義満から「満」の字を与えられていることから弘世の息子たちの中でも特に重視されていたことがうかがえる。
 大内氏は九州探題の今川了俊の要請で何度か九州へ出兵しており、永和2年(天授2、1376)に満弘も安芸勢を率いて筑前に渡っている。

 晩年の弘世は嫡子の義弘と不和であったらしく、康暦元年(天授5、1379)ごろから満弘が弘世の後継者として急浮上してくる。安芸・石見・長門など各地で満弘派と義弘派の戦いが起こり、康暦2年(天授6、1380)の弘世の死をはさんで、満弘と義弘の対決は永徳元年(弘和元、1381)6月に満弘が屈服するまで続いた。これだけ長い戦いを続けた兄弟であったが、義弘は家督と周防・長門守護職は継いだものの石見守護職は満弘に譲るというかなりの温情を示して兄弟の和解を成立させている。以後、満弘は義弘の忠実な片腕であり続けた。豊前の守護代をつとめたこともある。

 南北朝合体も過ぎた応永3年(1396)、九州探題の渋川満頼少弐貞頼菊池武朝らの抵抗に苦慮し、大内氏に援軍を求めて来た。義弘は弟の満弘と盛見を九州に派遣したが、12月に満弘は筑前で戦死してしまった。翌年に義弘自身が出陣して平定するのだが、この少弐・菊池の反抗自体が大内の勢力を削ぐための義満の策謀であったとの噂も流れた。そして戦死した満弘の遺児に対する恩賞がなかったことで義弘の義満への不信は決定的なものとなり、「応永の乱」へと動いていくのである。
歴史小説では古川薫『炎の塔・小説大内義弘』で義弘との戦いと和解、九州での戦死を義弘が嘆く場面などが描かれる。

大内盛見おおうち・もりはる(もりみ)1377(永和3/天授3)-1431(永享3)
親族父:大内弘世 兄弟:大内義弘・大内弘正・大内満弘・大内弘茂・大内弘十・大内道通・大内家弘・少弐冬資室・大友親世室
子:大内教弘?・大内教幸?・大内盛持
官職周防守、左京大夫
位階従四位上
幕府周防・長門・豊前守護、相伴衆
生 涯
―繰り返される兄弟対決―

 大内弘世の六男で大内義弘の弟。応永3年(1396)に九州探題・渋川満頼が少弐・菊池勢の抵抗にあって援軍を求めた際、大内義弘は弟の満弘盛見を九州に出陣させた。このときは満弘が戦死するなど大内氏も被害は大きく、このことが義弘が足利義満に反乱を起こす原因となったとされる。
 応永6年(1399)に義弘は弟の弘茂を連れて和泉・堺に上陸し、義満に挑戦した(応永の乱)。このとき盛見は周防に残されて留守を守り、堺の義弘から領国を任すとの遺書を送られている。12月に堺が落城して義弘は戦死、弘茂は義満に投降して許され、周防・長門の二国守護に任じられ大内家督を継いだ。しかし義弘から領国を託された盛見は承知せず抵抗を続け、義満は弘茂にその討伐を命じた。

 応永7年(1400)に弘茂が安芸・石見の武士らを率いて石見方面から周防へ入ると、まだ準備不足であった盛見は豊後へと逃亡した。ここで大友氏の後援を受けて反撃に転じ、翌応永8年12月(西暦で1402)に長門に上陸して弘茂を長府で戦死に追い込み、応永9年(1402)春には山口に入った。弘茂派は兄弟の大内道通を立てて抵抗したが応永10年(1403)に竈戸関で道通が戦死し、周防・長門二国で盛見に対抗できる者はいなくなった。これを見て義満も盛見を承認せざるを得なくなり、応永11年(1404)ごろに盛見に周防・長門守護職と大内家家督を認めて赦免した。
 応永15年(1408)には豊前守護職も加えられ、翌年上洛した盛見は以後長く京にあって将軍の相伴衆をつとめ、幕府を支える有力守護大名となった。文化面での活動も多く、大内家得意の外交分野でも朝鮮に使者を送って大蔵経を求めるなどの活動が知られる。

 時は流れて応永32年(1425)、九州探題渋川義俊がその支配に抵抗する少弐満貞菊池兼朝に敗北した。幕府に命じられた盛見は九州に下って乱を平定し、義俊の従兄弟・渋川満直を九州探題に立てつつ実質的に筑前支配を進めていく。将軍足利義教の時代の永享元年(1429)に貿易利権を狙う義教は博多のある筑前を直轄国とし、大内盛見を代官に指名した。これに反発した少弐満貞と大友持直は大内氏に戦いを挑み、永享3年(1431)4月に盛見は大友氏の筑前拠点立花城を攻め落としたものの、6月29日に怡土郡萩原(現・糸島市二丈深江)の戦いで戦死した。国清寺に葬られ、法号を国清寺殿大先徳雄という。

 盛見の戦死後、義弘の子の持世持盛の間で家督争いが起き、勝利した持世が大内氏の家督を継いだ。持世死後にその養子として跡を継いだ教弘は盛見の子とされている。
歴史小説では御建龍一『南北朝合体と応永乱』は義弘の活躍と、その弟の盛見が最終的に「勝利」する過程を描く内容となっている。

大内山城前司おおうち・やましろぜんじ生没年不詳
官職
山城守
 『太平記』巻三の、笠置山・赤坂城攻めのたえめ派遣された幕府軍の中に名の見える人物。実名不明だが、結城氏から分家した大内氏とみられる。結城広綱の子・宗重が下野国大内邑に入って大内氏を称している。この「山城前司」はその宗重か、あるいはその子の大内時重の可能性がある。

大内義弘おおうち・よしひろ1356(延文元/正平11)-1400(応永6)
親族父:大内弘世 兄弟:大内満弘・大内弘正・大内盛見・大内弘茂・大内弘十・大内道通・大内家弘・少弐冬資室・大友親世室
子:大内持世・大内持盛・大友親世室
官職周防介・左京権大夫
位階従四位上
幕府周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊守護
生 涯
 西国の雄・大内氏に生まれ、年少期からその武勇と謀略で勢力を拡大、最終的に足利義満に挑戦して敗れた武将。海外貿易・外交にも積極的に関わり、文化人としても評価が高い武将であった。

―少年時代からの戦陣―

 大内義弘は南朝・北朝を巧みに遊泳して周防・長門・石見と領国を拡大、貿易で利益をあげた梟雄・大内弘世の嫡子で通名を「孫太郎」という。
 応安4年(建徳2、1371)に九州探題・今川了俊が、懐良親王・菊池武光ら南朝勢力が支配する九州の平定に出陣すると、弘世はこれを支援して九州に渡り、当時16歳の義弘も同行して父や了俊と共に各地を転戦、翌年に懐良親王の拠点・大宰府の陥落に貢献した。大内父子はその後まもなく周防に戻ったが、了俊が応安7年(文中3、1374)に再び救援を要請した際には弘世は応じなかった。

 永和元年(天授元、1375)7月、菊池氏の本拠に迫っていた今川了俊は水島の陣で少弐冬資を暗殺し、味方だった島津氏らの離反を招いて一転窮地に立たされた。了俊は幕府を通して大内弘世の出陣を求めたが弘世は拒否。ところが息子の義弘は了俊に親近感でもあったのか出兵を主張し、とうとう父の意向に逆らってこの年の11月に三百余人だけを率いて豊前に渡海して了俊を助けて各地に戦った。
 これ以後義弘は了俊の片腕として九州平定戦に活躍する。なお義弘はかなりの連歌愛好家で、了俊の連歌の師・周阿が応安7年に九州に了俊を訪ねて二条良基の連歌書『知連抄』の草案を持参した際、周阿はその写しの一冊を義弘のもとに残している。義弘が了俊と和歌・連歌で文化的交流を深めたであろうことは容易に推測される。康暦2年(天授6、1380)には了俊から引き継ぐ形で豊前守護に任じられている。

 その康暦2年11月に父・弘世が死去するが、それ以前から弘世と義弘の仲は険悪であったらしく、義弘の弟の満弘が家督相続を狙うようになっていた。康暦元年ごろから長門・安芸・石見で義弘派と満弘派の紛争が始まっており、義弘自身も各地で満弘と激戦を交えた。この相続争いは義弘が幕府の支持を背景に優勢となり、永徳元年(弘和元、1381)6月に石見にいた満弘を屈服させる形で終結する。義弘は父の周防・長門守護職を引き継いだが、石見守護については満弘に分け与えて兄弟和解を成し遂げている。

―武勇と謀略と貿易と―

 康応元年(元中6、1389)3月、将軍足利義満は厳島神社参拝の旅に出た。義弘は周防国府(防府市)に義満一行を迎えて歓待し、そのまま義満に随行して上洛した。以後はもっぱら京都に滞在している。
 明徳2年(元中8、1391)末、山名氏清ら山名一族が義満の挑発に対して挙兵、「明徳の乱」が起こった。12月30日、山名軍が京へ突入し、義弘は七百騎ほどを率いて神祇官の森を背に二条大宮に布陣、山名軍の先陣山名高義小林義繁の軍を迎え撃った。義弘は「敵は大軍で我らは小勢だが、みな名を知られた者ばかりだ。西国ではたびたびの合戦で名を挙げたが都周辺での戦いはこれが最初。我らの安否はこの一戦にあり。一人残らず斬り死にして名を残せ」と叱咤し、あらかじめ決めてあった作戦に従い全員馬から下りて盾を並べ山名軍の突破を阻止しようとした。義弘も馬から下りて三尺の長刀を手に立ち、大きな母衣を背負って非常に目立っていたという。
 そこへ山名軍が突入して激戦となり、小林義繁も馬から下りて義弘に一騎打ちを挑んだ。太刀で切りかかる義繁に義弘は長刀を振るって応じ、負傷しながらも義繁を討ち取った。大内軍は山名高義も討ち取る殊勲を挙げ、この戦功により義弘は山名氏清が持っていた和泉・紀伊の守護職を恩賞として与えられた(「明徳記」)

 和泉・紀伊は南朝の勢力範囲でもあり、父・弘世の代に南朝に与していた義弘は義満の指示を受けて南朝との講和交渉の仲介役をつとめた。義弘の運動と南朝側の講和機運が結びつき、明徳3年(元中9、1392)閏10月に南朝の後亀山天皇が京都に入り、三種の神器を北朝の後小松天皇に引き渡して「南北朝合体」が実現、「南北朝時代」は幕を閉じた。義弘はこの功績により明徳4年(1393)12月に義満から「足利一門に準じる」との御内書を受けた。
 応永2年(1395)6月、義満が出家すると多くの大名がこれにならって出家したが、義弘もその例外ではなく出家している。法名は本名を音読みにした「義弘」ほか、「道実」「弘実」「有繁」「道春」「仏寛」「仏実」と異様に多い。

 一見義満から厚遇を受けているかに見える義弘であったが、実は義満のやり方をよく承知しており、自分が山名の次の標的にされるであろうと警戒もしていた。このころ義弘は了俊に「いま御所(義満)のやり方を見ていると、弱い者は罪がなくても疑いをかけられて倒され、強い者は意に背いていてもそのままにしている。あなたも弱い立場では不名誉なことも起こりましょう。私も身に余るほど得た広い所領を守りたい。あなたと私と大友とで連合を組んで強くなれば将軍ににらまれても大丈夫ですよ」(了俊著「難太平記」より大意)とささやき、大内・今川・大友の三者連合をもちかけている。
 了俊がこれを拒絶すると、義弘は逆に了俊の事を義満に讒言して応永2年(1395)閏7月に了俊を九州探題から解任させた。義弘はその後任を狙ったらしいのだが義満が渋川満頼を九州探題に任じたためあてが外れた形となった。ただし了俊が九州から去ったことで対朝鮮貿易を義弘が独占することとなり、長門・周防に加え和泉を守護国としたことで瀬戸内海航路を手中にして大きな利益をあげている。また朝鮮からの倭寇禁圧要請に応じて大きな信頼をかちとり、以後頻繁に使者を朝鮮に送っている。大内氏はそのルーツを百済王族末裔としており、「百済・琳聖太子の末裔」という話は後の世代に作られたとみられるが、このころにはすでにその原型は信じられていて、歴代大内氏が朝鮮に対して強い親近感を抱いていたとの見方もある。

―義満への挑戦〜応永の乱―

 義弘が抱いた予感は的中し、義満は義弘の勢力を削ぐべく工作を開始する。義満と義弘が対立を始めたきっかけとして、義満が壮麗な北山第の建設を開始して諸大名にその工事の負担を命じたところ、義弘が我が兵は弓矢をもって奉公するものであって土木工事などはせぬ」と拒絶した一件が有名だが、義満はそれ以前から山名勢力縮小後の次の警戒対象として義弘を見ていたことは確実であろう。
 了俊の後任で九州探題となった渋川満頼は少弐貞頼菊池武朝の抵抗を受けて苦戦していた。そこで応永3年(1396)に義満は義弘にその救援を命じ、義弘は弟の満弘・盛見を派遣したが、満弘は筑前で戦死してしまう。応永5年(1398)10月に義弘自身が九州に渡ってどうにか少弐・菊池氏らをおさえこむが、戦死した満弘に対する恩賞はなく、しかも実は義満が裏から手をまわして少弐・菊池に大内と多々わかせていたとの噂も義弘の耳に入り、義弘はますます義満との対決を覚悟した。

 義満は義弘を挑発するように上洛命令を下し、「上洛すれば殺される」との噂に接していた義弘はそれをしばらく無視したが、応永6年(1399)10月に5000の軍を率いて弟の弘茂と共に東上、13日に和泉・堺に入った。義満との対決を覚悟した義弘は、義満に冷遇され不満を抱いていた今川了俊に声をかけ、彼を仲介役として鎌倉公方の足利満兼に連絡をとり東西挟撃の態勢を作った(それ以前に先代の鎌倉公方・足利氏満とも連絡をとったらしい)。さらに山名一族の生き残りや土岐氏・京極氏の義満に不満を抱く勢力、楠木氏ら南朝残党にまで幅広く呼応を呼びかけ、義満を打倒する大戦略を展開している。
 また、これと関わるのかどうか不明だが、この年7月に義弘は使者を朝鮮に送り、「我が先祖は百済の始祖・温祚高氏の末裔であります。祖先の地に田地を賜りたい」と申し出ている。この申し出に当惑しつつも義弘を信頼していた朝鮮国王・定宗はいったんこの申し出を認めようとしたが、疑念を抱く臣下の声もあって結局沙汰やみになっている。この件に関しての義弘の真意は不明だが、朝鮮に軍事的後援を期待していたという大胆な仮説もある一方で、義満に敗れた際に朝鮮に逃れる意図があったのでは、との意見もある。

 義弘は堺を要塞化し、家臣の平井新左衛門を京に送ったが、自らはあくまで堺を動かずに各地の反義満勢力の決起を待った。あるいは家臣の進言により義満と和睦の可能性を残していたとも言われている。義満は10月27日に絶海中津を使者に送って説得を試みたが、義弘は弟や家臣たちと議論の末に、絶海に対して義満に対する不信の数々を述べたうえで「来月二日にも関東と同時に上洛する」と足利満兼と連携をとっていることを示して講和を拒否した。
 要塞化した堺を「百万の軍でも破れぬ」と豪語する一方で、義弘は戦死も覚悟して自らの葬儀を先に執り行って四十九日までの仏事についてまで僧侶に指示を残し、周防に残してきた老母に形見と遺言を送り、留守を守る弟の盛見に領国のことを任せると伝えさせている。そしてこの世の名残とばかり家臣たちと千句の連歌、百首の和歌を催した。また義満の出陣を聞くと石津まで出て北に向かって義満への礼を捧げたという(「応永記」)

 義満は諸大名の軍勢を集めて総勢三万で堺に押し寄せ、海上も封鎖させて11月29日から総攻撃を開始した。要塞化された堺はさすがに堅固で、大内勢は激戦の末に幕府軍を撃退する。この間に土岐詮直京極秀満や足利満兼など各地で呼応の動きも出て、義満は長期戦に入ることを恐れた。
 12月21日(西暦1400年1月17日)の強風の日に幕府軍は大量の左義長(正月飾りを焼くために木や竹を組んだもの)に火をつけて堺の要塞を火攻めにした。防戦の要であった矢倉が火のために崩され、幕府軍が堺へ突入。死を覚悟した義弘は武士らしく勇ましい最期を遂げようと自ら畠山満家の軍に切りこんで長刀をふるって奮戦した。このとき石見勢の一部が寝返ったが、義弘は激怒してこれを攻め、彼らを追い散らしている。義弘は最後の一人になるまで奮戦を続け、とうとう一人だけになると「わしが天下無双の名将、大内左京権大夫義弘入道ぞ。我と思わん者ども、討ち取って相公(義満)にお目にかけよ!」と叫んで畠山満家の間近に迫り、畠山の兵に討ち取られた(「応永記」。楚の項羽の最期を下敷きにした書きぶりなので創作の可能性もある)
 義弘の遺体はいったん堺の義弘山妙光寺に葬られ、のちに周防の香積寺(現在の瑠璃光寺)に移葬された。

 義弘の戦死後、義満に降伏して許された弟の弘茂が周防・長門二国のみの守護に任じられ大内家を継いだが、義弘の留守を守った盛見はこれに従わず、兄弟の激しい争いが起こることになる。

参考文献
佐藤進一『南北朝の動乱』(中公文庫)
小川信監修『南北朝史100話』(立風書房)
川添昭二『今川了俊』(吉川弘文館・人物叢書)
荒野泰典・石井正敏・村井章介編『倭寇と「日本国王」』(吉川弘文館、「日本の対外関係」4)ほか
歴史小説では義弘を主人公とした小説に、山口県出身の直木賞作家・古川薫による『炎の塔・小説大内義弘』がある。義弘の少年時代から父・弘世との確執、了俊との関係、義満との戦いと彼の生涯を読みやすくまとめている。
他に御建龍一『南北朝合体と応永乱』は義弘とその弟盛見の「勝利」を描くもの。それ以外でも作品数は多くないが、足利義満を扱った作品ではたいてい登場している。
吉川英治「私本太平記」の尊氏の九州下向の部分で大内義弘(「豊前守」になっている)が登場しているが、明らかに誤り。
漫画作品では学習漫画の「日本の歴史」、あるいは足利義満の伝記漫画では「応永の乱」を描くためにほぼ確実に登場している。目立つものとしては石ノ森章太郎の『萬画日本の歴史』第20巻で、義弘が了俊に義満評を語る場面や義満のセリフ内で義弘が朝鮮と連絡をとっていることが示され、「討ち取って相公にお目にかけよ」と言いながら矢に当たり炎の中に消えてゆく印象的な最期などが描かれている。

大男おおおとこ
 大河ドラマ「太平記」で登場する架空のキャラクターで、花夜叉(実は正成の妹)率いる田楽一座のメンバー。ほとんどセリフはないが、Mr.オクレ演じる「小男」とのコンビで一座のなかでひときわ目立つ存在。唯一のセリフを口にしたのは第7回で「ましらの石」に藤夜叉の妊娠を告げる場面だった。一座の正体は忍びであり、第13回で一色右馬介を捕える場面では巨体を生かしてその行く手を阻んだ。他の一座のメンバーともども第15回を最後に姿を消す。演じたのは元プロレスラー・ストロング金剛で、その芸名の由来となった映画「伊賀忍法帖」で尊氏役の真田広之と共演したこともある。

大高重成おおたか・しげなり?-1362(貞治元/正平17)?
親族父:南重長(一説に南頼基)
官職左衛門尉→伊予権守
幕府小侍所・伊予守護・若狭守護
生 涯
―足利家臣団随一の猛将―

 足利氏の執事をつとめる高氏(高階氏)の支族が「南」家で、その南重長の子である重成自身は「大高」の名字を名乗った。読みについては「おおたか」とするものと「だいこう」とするものとがあり、明確ではない。
 高一門の一員としてはじめから足利高氏の重臣だった。元弘3年(正慶2、1333)5月の足利高氏による六波羅攻撃での重成の勇猛ぶりは「太平記」が詳細に記している。華やかな鎧に五尺六寸の大刀(1.7mぐらい)を肩にかけ「足利家臣・大高次郎重成」と名乗り上げた重成は「先日戦功をあげたという陶山次郎・河野通治どのはおられぬか」と六波羅軍の猛将二人を名指しする。陶山はたまたま他方面に出撃しており、この場にいた河野通治が呼びかけに応じて出馬しようとしたところ、通治の養子で16歳になる通遠が先んじて重成に飛びかかった。重成は通遠を怪力でつかみあげ「お前のような小者は相手にせぬ」と言ったが、河野の家紋があるのを見て河野一族と悟り、両膝を一刀両断にしたうえ弓の長さの三倍も投げ飛ばして殺したという。

 建武2年(1335)に起こった中先代の乱でも尊氏に従い、鎌倉に突入した8月19日の戦闘で負傷する奮戦をしている(「足利宰相関東下向宿次」)。それに続く建武の乱でも尊氏につき従って各地を転戦し、九州・多々良浜の合戦にも参加している。「太平記」によれば重成はこのとき直義のそばにいて苦しい戦いをしていたが、離れたところにいた尊氏のことが気がかりだとしてその場を離れようとした。すると直義が「さては臆病風に吹かれたか。大高の自慢の大刀を切り刻んで剃刀(かみそり)にしてしまおうか」と嘲笑ったとの逸話がある。

 その後の幕府成立時には直義の側近となっていたとみられ、康永3年(興国5、1344)には直義と夢窓疎石の宗教対談本『夢中問答』を出版・刊行したのは大高重成その人である。同年、重成は自身が守護を務める若狭国・小浜の焼失した寺を再建して禅寺とし、自身の名から一字ずつとった「高成寺」として開山させている。詳細な原因は不明だが貞和4年(正平3、1348)に尊氏の勘気を受けて領地を没収されたこともある。
 直義と高師直の対立が激化した貞和5年(正平4、1349)6月ごろ直義とその腹心・上杉重能畠山直宗が師直暗殺を計画した時に大高重成がその怪力を生かして師直をはがい絞めにする予定だったと「太平記」は記す。しかしこの計画を師直に漏らした粟飯原清胤とともに大高重成が直後に「将軍の勘気」(実質直義の指示)によって自宅謹慎の処分を受けており、師直とは親族である重成が粟飯原と共に計画を事前に漏らしていた可能性も考えられる。それでも8月に師直がクーデターを起こした際には重成が直義邸に馳せ参じたことが「太平記」に見える。

 失脚した直義は南朝と和睦して師直派打倒の兵を挙げ、翌年2月に師直が殺されて直義が政権に返り咲く。この間に重成がどのように立ちまわったのか分からないが、その後の直義と南朝の間で進められた和平交渉で直接交渉役にあたったのが重成だった。相手は楠木正儀の家臣で、重成が依然として直義の代理を務める腹心として扱われていることがわかる。しかし間もなく尊氏と直義の直接対決という事態になると直義を見限って尊氏についたらしい。文和元年(1352)5月に幕府の雑務引付頭人となり翌年も在職していることが確認できるが、その後の消息は不明。「大高系図」に貞治元年(正平17、1362)4月に死去したという記述がある。
 「太平記」の六波羅攻めでの武勇が印象的なせいか、江戸時代に作られた武功列伝や「義烈百人一首」「武家百人一首」にも大高重成が選ばれている。
大河ドラマ「太平記」尊氏(高氏)の側近の一人として第10回から最終回までしばしば顔を見せている(演:渡辺寛二)。登場は全49回中の30回に及ぶほど。しかし同じ一族の南宗継・三戸七郎と一緒に「尊氏家臣一同」といった感じで出てくるのであまり個性を見せず、古典では最高の見せ場となった六波羅攻撃では全く姿が見えない。ほぼ唯一個性を見せたのは第13回で、尊氏を訪ねてきた北畠顕家と弓の勝負をする場面ぐらい。
歴史小説では特に個性があるわけではないが、「太平記」における活躍が印象的なせいか各種歴史小説の六波羅攻めではよく登場している。
漫画では沢田ひろふみの漫画『山賊王』では足利高氏の六波羅攻撃の場面で「太平記」そのままに河野通遠を投げ飛ばして殺す場面が描かれている。
PCエンジンCD版なぜか甲斐国の北朝方武将として登場する。登場時のデータは統率41・戦闘82・忠誠79・婆沙羅51。 
メガドライブ版楠木・新田帖でプレイすると鎌倉攻防戦のシナリオで登場。能力は体力69・武力83・智力122・人徳84・攻撃力77。 

大館(おおたち)氏
 新田一門。新田政義の子・家氏が新田郡大舘に分家して大館氏を称した。新田義貞が鎌倉幕府打倒の挙兵をして以来、新田軍の主力として一族が各地で戦っている。大館氏明は四国で戦死したが、その子・義冬は足利幕府に仕え、将軍直属の奉公衆となる。その子孫に足利義政の乳母として権勢を振るったことで有名な今参局や、義政の側室・佐子がいる。

新田政義┬政氏→惣領







├大館家氏─宗氏氏明┬氏宗





幸氏氏清


┌景徐周麟

└堀口家貞─堀口└氏兼
義冬┬氏信┬満信─持房─┼教氏





└義信└満冬─今参局└佐子

大館氏明おおたち・うじあきら(うじあき)?-1340(暦応3/興国元)
親族父:大館宗氏 兄弟:大館幸氏・大館氏兼
子:大館氏宗・大館氏清・大館義冬
官職左馬助
位階贈正四位
南朝伊予守護
生 涯
―新田一族主力として各地を転戦―

 大館宗氏の子。『尊卑分脈』では氏明を宗氏の長男とするが、『太平記』は次男とし、通名を「弥次郎」としている。
 元弘3年(正慶2、1333)5月8日に新田義貞が生品明神で討幕の挙兵をした際、宗氏も新田一門の主力として父・宗氏や兄弟の幸氏氏兼と共に義貞と行動を共にした。鎌倉攻略戦で大館一族は稲村ケ崎・極楽寺坂方面から攻撃する一軍を率い、父・宗氏はこの戦闘で戦死している。氏明と幸氏はこの方面の戦闘に参加した武士たちに戦功の証判を与えており、義貞から指揮を一任され独立した行動をとっていたことがわかる。

 建武2年(1335)11月、関東に下った足利尊氏の叛意が明らかになったとして、後醍醐天皇は新田義貞を指揮官とする追討軍を関東に向かわせ、大館氏明もこの中に加わった。連戦連勝で関東へ進んだ新田軍だったが、12月に箱根・竹之下の戦いで敗北して京へと逃げ戻る。その新田軍を追って翌延元元年(建武3、1336)正月に足利軍が京に入り、さらにそれを追って奥州の北畠顕家軍が京に迫って新田義貞・楠木正成の軍と合流した。このとき作戦会議で顕家は自軍が長い強行軍で疲れているため一両日休息の上で攻撃にかかりたいと提案したが、大館氏明が「長距離移動してきた馬を一日でも休ませるとかえって血が下がり四、五日は使いものになりません。しかも敵の方もすぐにも攻撃してくるとは思っていないでしょう。戦は敵の不意を突くことです。今夜のうちに動いて未明に四方から三井寺に攻撃をかければ必ず勝てましょう」と提案、この案に一同が同意してその通りに作戦を展開、細川定禅らが守っていた三井寺を攻め落とすことに成功する(「太平記」)。氏明はその後の一連の京都攻防戦でも新田軍主力として連戦し、足利軍を九州へと追い落とした。

 しかしその足利軍を追うべき新田軍の動きは遅く、大館氏明と江田行義の二人が義貞に先発して播磨の赤松円心を討ちに出陣したのはようやく3月4日のことであった。氏明と行義は初戦で赤松軍を破り義貞の到来を待ったが、円心が籠城戦に入ったため足止めを食ってしまう。その間に九州を平定した尊氏が大軍を率いて西上してきたため、義貞は楠木正成と共に湊川で迎撃の態勢をとった。
 5月25日の湊川の戦いでは、氏明は義貞の本隊とは別に一隊を率いて灯炉堂の南の浜に布陣した。足利軍が上陸してくると氏明と行義が新田軍の先陣を切って足利方の仁木・細川勢と激突したという(「太平記」)。しかし勢いと数にまさる足利軍にはかなわず新田軍は京へと撤退、後醍醐天皇ともども比叡山に逃れて足利軍と京をめぐっておよそ五ヶ月間攻防を繰り広げることになる。

―一度は義貞を見限るが四国で奮戦―

 10月10日に後醍醐は尊氏からの和議の申し出に応じて、義貞に一言の相談もなくひそかに比叡山を下りようとしたが、この一行になぜか大館氏明・江田行義の二人が加わっていた。後醍醐は明らかに義貞を見捨てる意向であったが、氏明と行義だけがそこに加わったところを見ると彼らは新田一門ではあったが義貞とは一定の距離を置いていたようである。義貞もこの後醍醐のみならず一門の裏切りに全く気付いていなかった様子で、一門の堀口貞満が「江田と大館がいないのはおかしい」と気づいて様子を見に行ったことでようやく事態を把握するのである(「太平記」)。新田一門の中でも上位に位置する江田・大館としては敗戦の続く義貞を見限った、ということだろう。
 事態を知った貞満、そして義貞は後醍醐に猛抗議し、恒良親王を「天皇」と奉じて北陸へと向かった。大館氏明と江田行義はこれに同行せず、後醍醐の供奉をして京に戻っている。当然捕虜とされたとみられるが、方法は不明ながらその後二人とも京を脱出している(この時の投降組では後醍醐や菊池武重など不自然なまでに脱出成功者がいる)。「太平記」は一時足利に従ったものの後醍醐が吉野に入ったことを知ってそこへ馳せ参じ、後醍醐から伊予守護に任じられて伊予に向かったと記されているが、あるいはそうかもしれない。

 伊予には四条有資(隆資の子)が国司として赴任しており、水軍をもつ土居・得能も南朝方であった。氏明はここを拠点に南朝の勢力回復を企図し、延元3年(暦応元、1338)に北畠顕家の奥州軍が畿内に突入するとこれと呼応して伊予勢を畿内へ派遣し、男山八幡の南朝籠城軍の中にも伊予勢がいた形跡がある。この年の11月19日付で氏明が水軍の忽那義範に忽那島に城を築いて北朝方を討つよう命じた文書も残っている。一方、この氏明と対抗する幕府側の伊予守護が新田一族ではあるが足利方についた岩松頼宥で、皮肉にもここに同門同士の対決が行われたのである。
 興国3年(康永元、1342)4月、義貞戦死ののち北陸から吉野に入っていた義貞の弟・脇屋義助が四国南朝勢の総司令官となるべく伊予にやって来た。遠く離れていた新田一族の合流に氏明の感慨も大きかったと思われるが、その直後に義助は病死してしまう(5月とも6月ともいう)

 7月に新たな伊予守護として細川頼春が派遣される。頼春は義助急死のチャンスを逃さず伊予に侵攻し、新田一族の金谷経氏らを破って川江城を攻め落とし、さらに氏明がこもる世田城(現・四国中央市)に攻めかかった。世田城をめぐる攻防は8月24日から始まったと言い、「太平記」は9月3日に世田城陥落、氏明ら自害と記している。しかし北朝方の小早川氏平の軍忠状から実際の世田城陥落は10月19日であることが判明しており、「河野・土居系図」から9月3日にあった戦闘はその周辺の「中道」での合戦であったことが知られる。氏明の命日が9月3日で動かなければ、彼は世田城陥落前に中道に出撃してそこで戦死した、ということになろう。世田山に氏明の墓があるほか、首塚とされるものも今治市拝志にあるという。
 子の氏清義冬はその後室町幕府に仕えている(ただし氏清の実在性については疑問あり)

参考文献
峰岸純夫『新田義貞』(吉川弘文館・人物叢書)
山本隆志『新田義貞』(ミネルヴァ書房・日本評伝選)
久保田順一『新田一族の盛衰』(あかぎ出版)ほか
歴史小説では新田軍の主力ということもあり、登場例は多いが特にキャラは立っていない。
PCエンジンCD版上野国に江田行義配下として登場する。登場時のデータは統率60・戦闘69・忠誠73・婆沙羅81。 婆沙羅がかなり高いのは比叡山を下りる際に義貞を見限った一件が原因か。
メガドライブ版楠木・新田帖でプレイするとラストの湊川の戦いのシナリオでのみ登場。能力は体力115・武力96・智力80・人徳53・攻撃力86。 
SSボードゲーム版公家方の得能通綱のユニット裏で登場。「武将」身分で勢力地域は四国、能力は采配能力1・合戦能力2

大館氏清 おおたち・うじきよ1337(建武4/延元2)-1412(応永19)
親族父:大館氏明 兄弟:大館義冬
子:大館氏隆
官職伊賀守
生 涯
―南朝方として伊賀で奮戦?―

 江戸時代の編纂とみられる『関岡家始末』という史料がある。これは軍記物語の性格が強い伊賀の関岡家代々の歴史を語るもので、ここにそのルーツとして大館氏明の次男・大館氏清なる人物の活躍が記されている。『大日本史』はこれを史実として採用し大館氏明の列伝に補足として追加しているが、他に彼の実在を示す史料がないため存在自体を疑問視する声も強い。
 『関岡家始末』によると彼は応永19年(1412)に七十六歳で死去したとあるので、建武2年(1335)の生まれとなる。母は内裏の女房で源敦光の娘とも、北畠顕能の妹(とすると親房の娘)ともいい、氏明がその美貌を聞いて妻に迎えたことになっている。正平10年(延文元、1356)に吉野に赴いて南朝行宮に仕え、正平16年(康安元、1361)に縁者の伊勢国司・北畠顕能のもとへ行って伊賀関岡城の城主となったという。文中2年(応安6、1373)には北朝方の仁木義長と鈴鹿山で戦って仁木義信を斬り、その功を喜んだ顕能から「関岡」の名字を与えられ、さらに顕能の娘を妻に迎えたとされる。
 紀伊の南朝方・橋本正高足利義満の指示をうけた山名義理細川頼元に攻められると、氏清は山口山中で戦って義理らを撃退したと言い、伊賀国内では服部氏・柘植氏などみな氏清に服したとされる。氏清自身は「伊賀守」を称し、それを名字同様に使ったと言い、その子孫は関岡氏となって戦国期を生き抜いたという。
PCエンジンCD版越後国に大井田氏経配下として登場する。登場時のデータは統率75・戦闘67・忠誠74・婆沙羅38。 

大館三郎おおたち・さぶろう
 大河ドラマ「太平記」で登場するキャラクター。第19回と第21回に登場し、演者は19回では「木村和之」、21回では「小林和之」とクレジットされているが、同一人なのか不明。新田義貞の一族・大館氏の一人という設定なのだろうが、特定の誰かを指しているわけでもなさそう。脚本上でも若い武士の設定なので大館宗兼あたりが該当するか?
 第19回では千早城を攻略する幕府軍に加わった義貞につき従い、具足師に変装してやってきた足利高氏の家臣・一色右馬介と接触して義貞に目通りさせている。義貞挙兵を描く第21回では一同の中にいるようだが判別不能。

大館宗氏おおたち・むねうじ?-1333(正慶2/元弘3)
親族父:大館家氏 子:大館幸氏・大館氏明・大館氏兼
位階贈従四位
生 涯
―鎌倉で戦死した新田一門―

 大館氏は新田一族の中でも主家に近い存在で、新田義貞の曽祖父・新田政氏の弟の家氏が新田荘大館に居を構えて分家したことに始まる。宗氏はその家氏の子で(「次郎」とされる)、世代的には義貞の祖父と同じで、挙兵時にはかなり高齢になっていた可能性が高い。
 元亨2年(1322)に同じ新田一族である大館宗氏と岩松政経の間で用水紛争が起きている。岩松側が幕府に訴えたところによると用水の上流の地を治める宗氏がその用水を「打ち塞いで」岩松側に水を流さなかった。幕府の調査に対し宗氏は「打ち塞ぎ」の事実はないと反論したが、10月27日に下った幕府の裁定は「これまでの通りに水を流すように」というものであった。

 元弘3年(正慶2、1333)5月8日、新田義貞が倒幕の挙兵をすると当然一門の筆頭としてこれに参加した。鎌倉攻めでは大館宗氏が「左将軍」、江田行義が「右将軍」と定められたという(「太平記」)。5月18日から始まった戦闘で、宗氏は鎌倉西方の稲村ケ崎・極楽寺坂切通しから鎌倉市中への突破を図った。この日のうちに宗氏の部隊は稲村ケ崎の海岸に幕府側がもうけた車逆茂木(車がついた移動可能な逆茂木=バリケードと思われる)を突破して鎌倉市中の西端・稲瀬川付近まで進撃している(大塚員成・天野経顕軍忠状)。しかしここを守っていた大仏貞直の軍勢と激戦となり、貞直の家臣・本間山城左衛門の一隊が宗氏の軍勢に突入、これに押されて新田軍は退却を余儀なくされたが、宗氏は踏みとどまろうとし、そこを本間の一隊に襲われて討ち取られてしまった。『尊卑分脈』では宗氏について「元弘三五十八、鎌倉稲村崎に於いて公家(朝廷)のために討死。討手は得川弥四郎光季なり」と記し、討ち取ったのは得川光季であったと明記するが、「太平記」は「本間の郎等」と刺し違えたとしている。
 宗氏の戦死後は息子の幸氏氏明らが鎌倉攻めの指揮を執り、その後の南北朝動乱でも各地で活躍している。

参考文献
山本隆志「新田義貞」(ミネルヴァ日本評伝選)
峰岸純夫「新田義貞」(吉川弘文館人物叢書)
久保田順一「新田一族の盛衰」(あかぎ出版)
岡見正雄校注「太平記」(二)補注
大河ドラマ「太平記」ドラマへの直接の登場はなかったが、第22回「鎌倉炎上」の中で稲村ケ崎の海岸を突破して市中へ入り、そこで戦死したことがセリフの中で語られている。
歴史小説では新田次郎「新田義貞」では宗氏の稲村ケ崎突破作戦とその戦死の模様が詳しく描かれる。その他の鎌倉包囲戦が出てくる小説でもたいてい登場はするが、戦死に触れられる程度である。
漫画では横山まさみち「太平記」や沢田ひろふみ「山賊王」などでその戦死がチラリと触れられる程度。
メガドライブ版楠木・新田帖でプレイすると義貞挙兵から鎌倉攻防戦のシナリオで登場。ところが足利帖でプレイするとなぜかとっくに死んでいたはずの竹之下合戦など建武の乱のシナリオでも登場してしまう(息子の氏明と混同?)。能力は体力65・武力98・智力83・人徳57・攻撃力74。 

大館幸氏おおたち・ゆきうじ(なりうじ)?-1336(建武3/延元元)?
親族父:大館宗氏 兄弟:大館幸氏・大館氏明・大館氏兼
官職中務大輔
生 涯
―足利方についた?新田一門―

 大館宗氏の子。『太平記』では宗氏の子の筆頭に「孫次郎幸氏」とその名を挙げているが、『尊卑分脈』では氏明の方が兄ということになっている。
 元弘3年(1336)5月8日の新田義貞挙兵に親兄弟と共に馳せ参じ、鎌倉攻略に至る一連の戦闘に参加。鎌倉攻めで父・宗氏が戦死すると氏明と共に一軍を指揮し、戦闘参加者の軍忠状に証判を与えている。

 その後の活動は不明だが基本的には新田軍の一翼を担って義貞と行動を共にしていたと推測される。建武3年(延元元、1336)正月、建武政権に反旗を翻した足利尊氏が京を占領し、そこへ奥州から北畠顕家の軍が駆けつけてくることになるが、この北畠軍が近江・愛智川の宿に到達した正月12日、「大館中務大輔、佐々木判官氏頼そのころ未だ幼稚にてたてこもりたる観音寺の城郭を攻め落として、敵を討つこと合わせて五百余人」との記述が『太平記』にある。そのまま読むと大館中務大輔こと幸氏(彼が中務大輔であることは鎌倉攻めの軍忠状で判明している)が顕家軍の先鋒として当時まだ幼かった佐々木氏頼のこもる観音寺城を攻め落とした、と読めるのだが、主語を顕家として「大館幸氏・佐々木氏頼がたてこもる観音寺城を攻め落とした」と読めないこともない。大館幸氏が何の脈略もなく顕家軍に出てくるのが不自然ということもあるし、その報告が比叡山に届いて後醍醐天皇方を勇気づけた、と続くため主語を顕家として読むほうが話のつながりがいいとも言える。
 『尊卑分脈』は幸氏に注を付け「足利方となり、北畠顕家卿に討たれる」と明確に記している。これが事実を反映したものなのか、あるいは『太平記』の読み取り方によるものなのかは断定できない(同時代史料といっていい『尊卑分脈』だが後年の書き加えもあるため注意が必要)。ともあれ、これ以後いずれの史料にも大館幸氏の行動は出てこない。

参考文献
岡見正雄校注「太平記」(二)補注

大館義冬おおたち・よしふゆ生没年不詳
親族父:大館氏明 兄弟:大館氏宗・大館氏清
子:大館氏信・大館義信
官職治務少輔
生 涯
―道誉の婿となった新田一門―

 大館氏明の子。その伝記の詳細は不明だが、ひ孫の大館持房が子の景徐周麟にまとめさせた『大館持房行状』にある大館一族の歴史によると、義冬は父・氏明が伊予の世田城で戦死したのち九州に逃れていた。そしてどういうわけか佐々木道誉に存在を見出され、道誉が運動したおかげで許されて幕府に仕えるようになり、しかも道誉の娘を妻とした上に近江・草津荘を与えられたという。経緯の詳細が分からず、足利幕府の重鎮である道誉がどうして南朝方の義冬を取り立てて婿としたのか疑問も大いにあるが、比較的近い時代の子孫がそう主張しているだけに(しかも氏明の子であると主張することは普通に考えると室町幕府の重臣としては不利である)、そういう事実があったのだろう。

 延文5年(正平15、1360)4月15日に、上野・新田荘にあり新田氏ゆかりの長楽寺に「源義冬」なる人物が「後日のため惣領の書状を相副えて」と所領を寄進した記録がある。断片的な史料のため事情が判然としないが、「源義冬」こそ大館義冬であり、一門ゆかりの寺に父や一族の菩提を弔うために寄進をしたものと推測される。「惣領」とはこの時期足利方について新田一族の惣領となっていた岩松直国のこととみられる。つまり足利義詮の時代の1360年以前の段階で義冬は道誉の婿となり、幕府の奉公衆に加えられていたことになる。
 以後、彼の子孫は幕府政所につとめ、足利将軍家とも結びついて力を持つことになる。

参考文献
久保田順一『新田一族の盛衰』(あかぎ出版)ほか

大友(おおとも)氏
 近藤能直が相模国大友郷を所領としてその名を名字としたことに始まる一族。源頼朝に重んじられ、豊後に所領を与えられたため後に豊後に移住し、鎌倉時代の間に少弐・島津と並んで「九州三人衆」と呼ばれる有力大名となった。南北朝時代には基本的に幕府方で活動したが中央の支配に抵抗する自立傾向が強く、情勢に臨機応変に対応し、一族内で南朝北朝に分かれたこともある。のちに戦国大名に成長、キリシタン大名の大友宗麟が有名であるが、戦国終盤に島津氏に敗れ、秀吉に仕えるも所領を失って江戸幕府の旗本家として残ることになった。

大友能直┬親秀┬頼泰─親時┬貞親








└重秀戸次├秀直








└朝直田原
貞宗貞順










└師親貞載宗匡立花









宗匡











├即宗氏継─親著─親繁─親治─義長─義鑑─宗麟





氏泰親世┬持直









氏宗├親国└親隆









氏時┴氏能






大友氏継おおとも・うじつぐ?-1401(応永7)
親族父:大友氏時 兄弟:大友親世・大友親国・大友氏能
子:大友親著・大友親綱・大友親郷
官職修理大夫
位階従五位下
幕府豊後・筑後守護
南朝豊後守護
生 涯
―大友一族の両統分裂―

 大友氏時の長男で幼名は「宮松丸」。通名は「孫三郎」といい、初めは「氏続」と名乗った。貞治3年(正平19、1364)に父から家督を譲られ幕府から豊後・筑後守護職の継承を認められた。この時期の九州は南朝の懐良親王の征西将軍府の全盛期で、大友氏は逼塞を余儀なくされていた。
 しかし建徳2年(応安4、1371)に今川了俊が幕府の九州探題に任じられて九州平定に乗り出してくると、一転南朝方は押され気味になる。それまで基本的に幕府寄りの態度を通してきた大友一族だが、幕府の九州統治に対する懸念もあったようで、それぞれの思惑で南朝方・北朝方に味方する。その中で氏継は南朝方の立場をとったため幕府から豊後・筑後の守護職を奪われ、逆に南朝から豊後守護に任じられることとなった。これに対して弟の親世は北朝方になって幕府から豊後守護に任じられ、大友惣領家自体が南北両統に分裂したのである。

 文中元年(応安5、1372)8月に征西将軍府の拠点・大宰府は今川了俊の攻撃の前に陥落、懐良親王と菊池氏は肥後への撤退を余儀なくされる。この悪化する状況のなかで氏継は「野武士」を動員して各地を跳梁させ、豊前の宇都宮直綱と連絡を取って今川氏兼(了俊の弟)と戦うなど、文中2年末から3年にかけて活発な活動を見せて親世派を圧倒する動きを見せている。
 やがて九州南朝勢力の衰退が明らかとなり、さらに南北朝合体が成ると親世と和解。応永7年12月27日(西暦で1401年1月11日)に杤綱で死去した。彼の息子の親著は叔父の親世から家督を継ぎ、親著から親世の子・持直へと、大友家督は「両統迭立」状態で継承されることになる。

 なお、大分市下鶴崎にある「姫之宮春日社」には、昔ここにあった城が落城する際、幼い姫を乳母が「敵の手にかかるよりは」と玩具や菓子と一緒に城の中に埋め、目印に楠を立てて自身はそれがよく見えるところで自害した、という哀話が伝えられている。一説にこの姫の父親は大友氏継であるという。

参考文献
杉本尚雄『菊池氏三代』(吉川弘文館・人物叢書)ほか

大友氏時おおとも・うじとき?-1368(応安元/正平23)
親族父:大友貞宗(具簡) 母:少弐貞経あるいは盛経の娘(正傑尼)
兄弟:大友貞順・大友貞載・大友(立花)宗匡・大友氏泰・大友氏宗
子:大友氏継・大友親世・大友親国・大友氏能
官職刑部大輔・豊後国司・検非違使・惣追捕使・税所
幕府豊後・豊前・肥後・筑後守護
生 涯
―九州三人衆の一角―

 大友貞宗の7男で通名「孫三郎」。幼名は「宮松丸」とも。建武3年(延元元、1336)に九州に落ち延びてきた足利尊氏を支えたために大友氏は幕府から重んじられ、当主をしていた兄の氏泰と共に氏時も尊氏の猶子(養子)の扱いを受け、共に尊氏の「氏」の一字を与えられている。
 同母兄・氏泰から貞和4年(正平3、1348)に家督と豊後守護職を譲られ、さらに豊前・肥後・筑後の守護職も兼ねた。しかし実質は兄弟による二頭体制だったのではないかと推測される。当初父・貞宗の遺言では氏泰の次は氏宗と指定されていたがそれは無視された形で、このため氏宗は一時南朝方に走る。
 氏時は九州における足利=北朝方の主力の一つとして、九州探題として派遣された足利一門の一色範氏に協力して南朝の征西将軍宮・懐良親王を擁する菊池武光と対決した。

 貞和5年(正平4、1349)に高師直がクーデターを起こして足利直義を排除、直義の養子で尊氏の庶子の足利直冬を追討した。直冬は九州に逃れたが、北九州の有力者・少弐頼尚が直冬を盟主に迎え入れ、九州探題の一色範氏の排除に乗り出す。ここに九州は将軍方(北朝・幕府)佐殿方(直冬)宮方(南朝)の三者鼎立状態となり、複雑な離合集散を繰り返す。大友氏時・氏泰兄弟は直冬の勢いをみてはじめ直冬に味方したが(大友一族の詫間直宗が直冬の腹心となっていた事情もあるか)、文和元年(正平7、1352)に直義が鎌倉で急死し、直冬の勢いが衰えると今度は宮方に味方して一色範氏と協力して直冬排除にかかり、直冬が九州から去って中央でも尊氏と南朝の和議が破綻すると少弐氏と共に宮方として一色氏排除にかかるといった具合に、情勢に応じてめまぐるしく立場を変えた。この時代、地方武士たちは自身の勢力の維持・拡大が第一目的でそのために帰属をコロコロ変えるのは当然と考えられていたが、九州の場合これに「よそ者の支配は受けたくない」という心理もはたらいて三陣営入り乱れるいっそう複雑な様相を呈するようになった。
 延文3年(正平13、1358)末には、勢いにのる懐良親王と菊池武光の征西将軍府の南朝勢が全九州をほぼ制圧し、「九州三人衆」の少弐・大友・島津の三氏も南朝に帰属せざるをえない情勢になった。

 しかし彼らがそれをよしとするはずがない。その延文3年12月に大友氏時が豊後・高崎城で反南朝の兵を起こした。懐良親王みずから氏時を討つべく出陣したが大友側はこれをよく防ぎ、年が明けて3月になると少弐頼尚も大友攻撃に手を焼く南朝勢の隙をついて兵を起こす。実はこの動きは少弐と大友が周到に仕組んだ陽動作戦だったのだ。
 延文4年(正平14、1359)7月、少弐氏・大友氏の連合軍と懐良・菊池の南朝勢とが筑後川を挟んで激突(大保原合戦。筑後川合戦とも)した。大友氏時もこの合戦に参加していたが、合戦は懐良親王・菊池武光の奮戦もあって南朝勢の圧勝に終わり、以後しばらく九州は南朝=征西将軍府の天下が続いて少弐氏は一気に衰退、大友氏も逼塞を余儀なくされた。
 康安元年(正平16、1361)4月には氏時は菊池軍に呼応して少弐氏を攻めざるをえなくなっている。その後一色範氏に代わって九州探題となった斯波氏経と連携して反撃をはかるが、貞治元年(正平17、1362)9月の長者原の戦いで斯波軍が菊池軍に敗北したため、氏時も征西将軍府に全面降伏せざるをえなかった。

 失意のうちに兄・氏泰が貞治元年(正平17、1362)に亡くなり、氏時も勢力を挽回できないまま貞治3年(正平19、1364)に嫡子の氏継に家督を譲り、それから4年後の応安元年(正平23、1368)3月21日に死去した。法名は「天祐」という。彼の死後、彼の息子の氏継と親世はそれぞれ南朝・北朝について抗争することになる。
大河ドラマ「太平記」第46回に登場する(演:蓮見領)。九州にやってきた足利直冬が少弐頼尚に婿として迎えられ酒宴が行われる場面で、頼尚・阿蘇惟時と一緒にはやしたてる九州豪族の一人として登場し、「この大友氏時、どこまでも直冬どのに従いましょうぞ」などと言っている。
PCエンジンCD版なぜか肥前国に登場、兄の貞載(貞範と誤記されている)の配下にいる。登場時のデータは統率80・戦闘65・忠誠89・婆沙羅43。 

大友氏宗おおとも・うじむね生没年不詳
親族父:大友貞宗(具簡) 兄弟:大友貞順・大友貞載・立花宗匡・大友氏泰・大友氏時
官職兵部丞
生 涯
―家督争いで南朝へ―

 大友貞宗の六男で幼名は「亀松丸」。父・貞宗が元弘3年(正慶2、1333)3月に作成した譲状では家督を五男の千代松丸(のちの氏泰)に譲り、千代松丸に子ができないときはすぐ下の弟の亀松丸が継ぐようにと定められている。千代松丸は五男ながら母が少弐貞経の娘であったため嫡子とされたが、亀松丸は他の女性を母としており、他の兄たちを押しのけてなぜ彼が「次点」につけていたか謎である。
 元服の時期は不明だが、彼の名乗りの「氏宗」の「氏」は足利尊氏から与えられたもので、兄弟の氏泰・氏時と共に尊氏の猶子(養子)とされている。「氏行」の名乗りもあったらしい。

 氏泰には子がなく、順当に行けば氏宗が大友家督を継ぐはずであった。しかし氏泰は貞宗の譲状を無視して同母弟の氏時に家督を譲ってしまう。これに怒った氏宗は家督相続前年の正平2年(貞和3、1347)6月1日に大友一門の戸次朝直戸次頼時らと共に阿蘇大明神に起請文を捧げて同心し、南朝方についた。しかし数年のうちに戸次氏の二人が相次いで幕府に投降しているので氏宗も早期に行き詰まったものとみられる。その後の消息は詳しくは分からないが、長門に逃れてその国府で自害したと伝えるものがある。

大友氏泰おおとも・うじやす1321(元亨元)?-1362(貞治元/正平17)
親族父:大友貞宗(具簡) 母:少弐貞経あるいは盛経の娘(正傑尼) 
兄弟:大友貞順・大友貞載・大友(立花)宗匡・大友氏宗・大友氏時
官職大炊助・式部丞
位階従五位下
幕府豊後・豊前・肥前・日向守護
生 涯
―尊氏の「子」となった大友家惣領―

 大友貞宗の五男で幼名は「千代松丸」、通名は「孫太郎」。母は大友・島津と並んで「九州三人衆」の一角である少弐貞経の娘で、そのため五男ながら初めから「嫡子」として扱われていたようである。
 元弘3年(1333)3月に父・貞宗は一時菊池・少弐氏と共に九州探題を攻撃する決意を固めたものの、情勢を不利と見て挙兵した菊池氏を見殺しにしたが、その3月13日付で万一に備えて作成した譲状のなかで後継者を千代松丸と指名して家督と領地を彼一人に残し(当時は分割相続が常識だったがここでは明確に一子相伝となっている)、千代松丸の庶兄の貞順貞載にその補佐を命じた。
 その後貞宗は5月に九州探題を滅ぼし、12月に京滞在中に死去した。譲状に従って千代松丸が家督を継ぎ、兄の貞載が後見役・名代として大友家を率いることになった。このとき千代松丸は12歳ほどであったらしい。

 建武2年(1335)11月、中先代の乱平定で関東にくだった足利尊氏の建武政権離反が明白となり、後醍醐天皇新田義貞を指揮官とする追討軍を派遣した。このとき在京していた千代松丸と貞載にも出陣が命じられ、千代松丸は義貞の本隊、貞載は副将・脇屋義助(義貞の弟)の指揮下に入っている(「太平記」)。12月12日の箱根・竹之下の戦いでは戦闘中に貞載が足利方に寝返り新田軍の敗北を決定的なものとしたが、義貞直属の千代松丸がこれに応じた様子はない。
 箱根で敗れた義貞は京へ退却し、千代松丸もこれに同行、足利軍がこれを追って京へと向かった。年が明けて建武3年(延元元、1336)正月7日に後醍醐方は京防衛の配置を行い、千代松丸は脇屋義助や洞院実世文観らと共に山崎方面に布陣して足利軍を防いでいる。結局9日になって後醍醐方の防衛ラインが破れ義貞らが京へと撤退すると、千代松丸は宇都宮公綱と共に足利軍に投降した(「太平記」)。
 足利軍が京を占領した正月11日、貞載が偽りの降参をしてきた結城親光に斬りつけられ翌日死亡している。まさにその当日、正月12日付で足利直義が千代松丸に「一族ならびに豊後・肥前の軍勢を率いて坂本(比叡山にこもる後醍醐方を指す)に馳せ向かって戦うように」と指示する軍勢催促状が残っている(文面から豊後・肥前守護と認められていることも分かる)。ただこの書状の書きぶりから千代松丸は京ではなく国元にいたのでは、との見方もある。

 2月まで続いた京都攻防戦で尊氏は敗れ、九州へと落ちのびることになるが、その際貞宗以来結びつきのある大友氏を重視して、2月15日付で千代松丸を尊氏の「猶子(養子)」とすることを表明している。千代松丸の元服の時期は不明だが、彼の名「氏泰」の「氏」は尊氏から一字を与えられたものである。弟たちも同様に「氏宗」「氏時」と名乗り、さらに従来大友氏は「平」姓を称していたがこれ以後は「源」姓を名乗るようになる。
 九州に上陸した尊氏は3月2日の多々良浜の戦い菊池武敏相手に逆転勝利し、九州平定を優位に進めた。尊氏の九州平定には当然大友氏の力が大きかったが、庶兄の貞順は尊氏の呼びかけに応じず後醍醐方について玖珠城にたてこもり抵抗している。氏泰が同行していたかどうかは確認できないが大友軍の主力はその後も尊氏につき従って水軍で東上、湊川の戦いや京都攻防戦で戦っている。これらの活躍により氏泰は豊後・肥前・日向の守護職を尊氏から与えられ、少弐氏と共に九州の幕府方の中心として菊池氏ら南朝勢力に対抗した。

 貞和4年(正平3、1348)8月、氏泰は同母弟の氏時に家督と守護職を譲り、表面的には引退した。父・貞宗が元弘3年に作成した譲状では「千代松丸(氏泰)に子がない時は弟の亀松丸(氏宗)が跡を継ぐように」と定められていたのだが、氏泰はこれを無視した。氏宗は異母弟であり、また氏泰・氏時の母・正傑尼(少弐貞経もしくは盛経の娘)は大変な女傑であったらしく、彼女の存在がこの家督相続に影響を与えたものとみられる。氏泰は同母弟への継承を確たるものにするべく早めに引退したもので、その後も氏時の後見として大友家を牽引したが、この約束破りの相続に不満を抱いた氏宗は兄・貞順同様に一時南朝方についてしまう。

 その後足利幕府の内戦「観応の擾乱」が始まると九州では足利直義の養子足利直冬、南朝の懐良親王菊池武光、そして尊氏派の一色範氏の三つの勢力が複雑な離合集散を繰り広げるようになり、大友氏泰・氏時兄弟はある時期は直冬派、ある時期は南朝方、そしてさらに幕府方とめまぐるしく立ち位置を変えた。しかし南朝の征西将軍府・懐良親王が九州全土を支配するようになり、その下で逼塞を余儀なくされるなか、氏泰は貞治元年(正平17、1362)11月19日に死去した。法名は「獨峯清巍」という。
PCエンジンHu版シナリオ2「南北朝の動乱」で北朝方武将として豊後・府内城に登場する。能力は「弓2」
メガドライブ版「多々良浜の戦い」「湊川の戦い」のシナリオで足利方武将で登場。能力は体力82・武力89・智力103・人徳69・攻撃力74。 
SSボードゲーム版大友貞載のユニット裏で北九州の「武将」クラスとして登場、能力は合戦能力1・采配能力3

大友貞載おおとも・さだとし?-1336(建武3/延元元)
親族父:大友貞宗(具簡) 兄弟:大友貞順・大友(立花)宗匡・大友氏泰・大友氏宗・大友氏時
官職左近将監、肥前守?
生 涯
―尊氏の身代わりで殺害される―

 大友貞宗の次男で通名「近江三郎」(父の貞宗が近江守であるため)。筑前国宗像郡立花山城に入り、大友氏の庶流・立花氏の祖とされ「立花貞載」とも称されるが、彼自身が存命中にそう名乗った形跡はない。
 元弘3年(正慶2、1333)3月に父・貞宗は一時菊池・少弐と共に九州探題攻撃を決意したが、情勢の推移を見定めようと迷いながら博多に入った。このとき貞宗は長男貞順と次男貞載を博多に伴い、結局探題方に味方して菊池氏を見殺しにすることになるが、万一に備えて譲状を作成、後継ぎを五男の千代松丸(のちの氏泰)に指名し、貞順と貞載が戦場から生きて戻ったら千代松丸を補佐せよと命じた。
 この年の暮に貞宗が死去すると譲状の内容の通りまだ少年の千代松丸が家督を継ぎ、貞載がその後見役・名代となって実質的に大友氏を代表する形となった。これに不満を抱いた兄の貞順はのちに後醍醐=南朝方で活動するようになる。

 建武元年(1334)正月、北条氏残党の規矩高政糸田貞義らが筑前・筑後で挙兵すると、貞載は大友家代表として豊後・筑後勢を率いて出陣、少弐貞経菊池武重らと協力してこれを討ち、糸田貞義の堀口城を攻め落とした。その功により貞載が肥前守護に任じられたとする史料(「編年大友史料」)があるが実際に彼が肥前守護であったことを示す史料は存在しないため疑問視されている。実際には惣領の千代松丸が肥前守護となり、その名代をつとめていたということであろう。

 建武2年(1335)11月、関東に下った足利尊氏が建武政権に反旗を翻したとして、新田義貞を指揮官とする追討軍が派遣された。貞載は千代松丸と共にこの追討軍に加わり、破竹の進撃をする新田軍に同行して12月12日の箱根・竹之下の戦いでは竹之下方面へ進む尊良親王脇屋義助の軍に属していた。箱根・竹之下の戦いで足利軍が勝利、新田軍が駿河の佐野山に撤退して布陣すると情勢を見極めた貞載は足利方に降参を申し入れ、尊氏からその許しを受けると戦闘の最中に寝返り、新田軍の敗北を決定的なものとした(「梅松論」「太平記」)

 こののち新田軍は京へと退却し、足利軍はこれを追って京へと向かい、翌建武3年(延元元、1336)正月11日に京を占領する。このとき後醍醐方の結城親光は尊氏の暗殺を狙って東寺に置かれた尊氏の本陣に偽りの投降をしたが、その応対にあたったのが大友貞載であった。全く疑っていなかった貞載が親光に「将軍の本陣近くなのでしきたりに従い武器をお預かりしよう」と型どおりに声をかけたところ、親光は刀を渡すと見せかけていきなり貞載に斬りかかった。貞連は目の上を斬られる重傷を負ったがなんとか親光を討ちとり、包帯姿でその首を尊氏のもとへ持参した。しかし傷のために翌日死んだという(「梅松論」「太平記」)。この事件では親光ははじめ尊氏を狙ったものの武器を取られそうになったので代わりに貞載を斬りつけたとも、箱根の戦いで寝返られた恨みから初めから貞載を狙ったものともいう。この一件について『太平記』は貞載のことを「もともと思慮の足りない者」と手厳しい。
 貞載の死後、彼の家系「立花氏」は弟の宗匡が継いだ。この立花氏は大友一門で重きを置かれることになる。
歴史小説ではとくに強く印象に残るものではないが、結城親光に殺害されるくだりは紹介されることがあ多い。
PCエンジンCD版なぜか肥前国に登場、しかも「貞範」と誤記されている。登場時のデータは統率85・戦闘77・忠誠48・婆沙羅59。 
メガドライブ版「足利帖」「新田・楠木帖」どちらでプレイしても箱根・竹之下の戦いのシナリオで足利方武将で登場する。能力は体力68・武力63・智力71・人徳56・攻撃力35。 
SSボードゲーム版北九州の「武将」クラスで登場、能力は合戦能力1・采配能力6で采配がかなり高い。ユニット裏は弟の大友氏泰。

大友貞順おおとも・さだのり生没年不詳
親族父:大友貞宗(具簡) 兄弟:大友貞載・大友(立花)宗匡・大友氏泰・大友氏宗・大友氏時
官職豊後守
生 涯
―南朝方で戦った大友兄弟長男―

 大友貞宗の長男で通名「近江次郎」(父の貞宗が近江守であるため)。長男ではあるが父親から嫡子と認められた様子はなく、あくまで「庶長子」という立場だったようである。
 元弘3年(正慶2、1333)3月に大友貞宗は一時は討幕の腹を決めたものの情勢が不透明であることに迷い、息子の貞順と貞載を連れて博多に赴いた際に万一に備えて自身の死後の相続について譲状を作成したが、そこでは五男の千代松丸(のちの氏泰)一人が所領と家督を相続、貞順と貞載で生き残った方が千代松丸を干させよと命じていた。この年の暮に貞宗は死去し、譲状のままに千代松丸が家督相続するが、その補佐を次男の貞載がみることとなり、長男の貞順は完全に冷遇されてしまう。貞順は母親の身分が低く後ろ盾が弱かったということかもしれない。

 その後足利尊氏が建武政権に反旗を翻すと、はじめ後醍醐方についていた貞載と千代松丸は尊氏側に寝返り、貞載は京都攻防戦のなか結城親光に殺される。結局尊氏は京都攻防戦に敗れて九州へと落ちてゆくのだが、そのために大友氏をしっかりと味方につけておく必要があると考えたのだろう、延元元年(建武3、1336)2月4日付で尊氏は貞順あてに軍勢催促状を送り、2月15日には千代松丸を自身の猶子(養子)とする。
 これで千代松丸は尊氏方としての地位を固めるのだが、貞順は尊氏の要請を蹴り、後醍醐方に属して玖珠城(高勝寺城)にたてこもり、尊氏の九州平定を妨害しようと試みる。庶子の彼としては自身の地位を高めるためにも千代松丸とは反対側の立場に立って「一発逆転」を狙わなくてはならなかったのだろう。こうした同族の嫡流・庶流が南朝北朝に分かれて戦うケースは大友氏だけでなく全国の武士たちでみられるものであった。

 九州に上陸した尊氏は多々良浜の戦いで菊池軍を破って優位を固め、一色頼行に命じて玖珠城を攻略させた。貞順ら玖珠城の後醍醐方はかなり強かったようで3月24日から10月11日まで足利方の攻撃を持ちこたえた。玖珠城攻撃が始まる3月11日に貞順は同族の入田士寂と共に玖珠城を出て、手薄となっていた豊後国府を襲おうとしたが失敗している。
 その後も貞順は延元2年(建武4、1337)にも筑後の黒木・河崎氏らと共に南朝方で蜂起、その後数年は南朝方で活動している。しかし中央の情勢は南朝衰退が明らかとなってきたため貞和元年(興国6、1345)には幕府側に投降、翌貞和2年(正平元、1346)5月には所領を尊氏から認められている。
 その後長い間確認されるような大きな動きはなく、家督を継いだ弟の氏泰氏時が死去したあとも存命し、永和元年(天授元、1375)に足利義満から所領を安堵されている。しかし時期は不明ながらその後やはり惣領家に逆らい、豊後国大野大渡,または稙田霊山寺で自害して果てたと伝えられる。

大友貞宗おおとも・さだむね?-1334(正慶2/元弘3)
親族父:大友親時 母:戸次親時の娘
兄弟:大友貞親・大友秀直・大友師親
子:大友貞順・大友貞載・大友宗匡・大友即宗・大友氏泰・大友氏宗・大友氏
官職左近大夫将監・左衛門尉・近江守
位階従四位下
幕府豊後守護、鎮西探題引付衆および評定衆
生 涯
―鎮西探題を滅ぼす―

 大友親時の四男で兄・貞親の死去を受けて応長元年(1311)に家督を継いだ。出家して「具簡」と号した。鎮西探題のもとで引付衆、出家以後は評定衆のメンバーとなり、探題空席時は九州警固を任されるなど、鎌倉幕府の九州支配に重きをなした。
 元弘3年(正慶2、1333)3月、護良親王の令旨を受けて討幕の挙兵が各地で相次ぎ、隠岐に流されていた後醍醐天皇も脱出して各地に討幕の綸旨を飛ばしていた。そうした令旨・綸旨が九州の有力豪族たちにも届き、大友貞宗少弐貞経菊池武時の三人は共に鎮西探題の赤橋英時を滅ぼす密約を結んだ。こうした動きを察知した英時は先手を打って九州各地の武士たちを博多に招集する。
 3月11日に菊池武時は兵を引き連れて博多に入り、13日に兵を動かした。武時は盟約を結んだ大友・少弐両氏に使者を送って決起をうながしたが、この時点で後醍醐方の京都攻略が不利になっているとの情報が入っていたため貞宗と貞経は動こうとしなかった。それどころか保身のために菊池の使者を斬ろうとすらしている(少弐側は実際に斬って首を探題に届け、大友側は斬ろうとしたが逃げられている)。大友・少弐に裏切られた菊池勢は単独で行動したものの敗北、武時以下一族郎党の多くを戦死させてしまう。ただしこのとき貞宗も場合によっては命を失うとの覚悟をしたらしく、この13日付で所領と家督を五男の千代松丸(のちの氏泰)に譲り、庶兄たちはその補佐をせよとの譲状をしたためている。当時は息子たちに所領を分割するのが常識だが貞宗が千代松丸一人に絞った理由については、万一幕府軍に敗れることがあっても大友家が生き残るよう保険をかけておいたものとも様々に解釈されている。

 3月20日、八幡宗安という人物が貞宗のもとを訪れ、後醍醐からの討幕の密勅をもたらした。彼は大友宛だけでなく菊池・少弐・平戸・日田・三窪など六氏に宛てた密勅を携えていたという。しかしこの時点では幕府側についていた貞宗は23日に彼の首をはね、さらしものにしている。
 その後4月末、関東から派遣されていた足利高氏が後醍醐方に寝返るが、高氏は寝返りを表明した4月29日付で大友貞宗ら九州豪族たちに軍勢を催促する書状を送っている。そして5月7日に京都の六波羅探題を攻め滅ぼし、情勢は一気に幕府側に不利となったのである。

 この情報を知った大友貞宗と少弐貞経は当初の鎮西探題攻撃計画を実行に移し、5月25日に九州各地の武士を糾合して鎮西探題を攻撃、赤橋英時以下340名を自決に追い込んだ。貞宗はただちにこの戦果を高氏に報告し(少なくとも6月10日以前)、6月13日付で高氏から鎮西探題の捕虜や投降者の管理をするよう指示を受けている。この功績により貞宗は建武政権から豊後守護職を与えられるが、少弐氏ともどもその節操のなさを人々に非難されたという。
 その後間もなく上洛したが、この年の12月3日(西暦では1334年1月9日)に京で病死した(「東海一漚集」)。貞宗の死後、その譲状に従って大友氏はまだ少年の氏泰を中心に南北朝動乱を生きて行くことになる。

 貞宗は臨済宗に深く帰依し、闡提正具を豊後の万寿寺に招き(貞宗の法名「具簡」の「具」は彼の一字を受けたもの)、さらに博多に彼を開山として顕孝寺を創建、同寺で円覚経を開版するなど文化事業も多く手掛けた。
 またこの時代、元から臨済宗の名僧が次々来日しているが、来航地博多に近い貞宗はその多くに接している。清拙正澄は貞宗への追悼文で「初対面でも旧知のようであった」とその親しさを記し、明極楚俊は貞宗が中国の礼法に詳しいと記している。元に留学する日本僧たちとも関わりが深く、元弘2年(正慶元、1332)に帰国した中巌円月は貞宗に同行して上洛し、その死に立ち会うことになった。
歴史小説では吉川英治「私本太平記」では尊氏の九州下向のくだりで、この時点ではとっくに死んでいたはずの大友具簡が登場、印象に残る言動を見せる。具簡が賢俊に「実は尊氏を殺す気だったがその顔を見て感嘆してやめた」と打ち明けた、という話を出典まで示してまことしやかに書いているが当然そんなことはありえない。後世の怪しい史料を参考にしたか、あるいは史料そのものを創作した(吉川本人が「自分は史料をずいぶん捏造した」と語ったことがある)ものだと思われる。
PCエンジンHu版シナリオ1「鎌倉幕府の滅亡」で朝廷方武将として豊後・府内城に登場する。能力は「弓4」で比較的強い。

大友親世おおとも・ちかよ?-1418(応永25)
親族父:大友氏時 兄弟:大友氏継 妻:大内義弘の娘
子:大友持直・大友親棟・大友親隆・大友親直・大友親雄
官職左馬助・式部丞・修理権大夫
位階従五位下
幕府豊後・日向・筑後守護
生 涯
―大友氏「中興の祖」―

 大友氏時の次男で幼名は「千代松丸」。大友家督は兄の氏継が継いだが、応安4年(建徳2、1371)に幕府に九州探題に任じられた今川了俊が九州平定のため下向してくると、氏継は南朝の懐良親王方について了俊に抵抗の姿勢を示した。このため氏継は幕府から豊後守護職を取り上げられ、代わりに弟の親世が大友家督と豊後守護を認められることになる。ここに大友惣領家は兄弟で南朝北朝に分かれて争うことになったわけだが、その後の経緯からするとどっちに転んでも大友氏が残るよう、了解のうえで敵味方に分かれた可能性もある。あとで氏継の子に継承すると約束したうえで親世に家督を譲った、というのである。その割には両者ともしっかり戦っているので配下の国人層にそれぞれが担ぎ出された、ということであるかもしれない。
 
 今川了俊は九州に上陸すると、応安5年(文中元、1372)8月に懐良親王の拠点・大宰府を攻め落とし、南朝勢力を肥後に追い込んだ。豊後・豊前では氏継が野武士を動員して一時親世を圧倒したが、了俊は南朝方の主力である肥後の菊池氏をその拠点・隈府へとじわじわと追い詰めた。
 永和元年(天授元、1375)7月、菊池氏討滅を目前とした了俊は肥後・水島に陣を敷き、「九州三人衆」と呼ばれる大友親世・島津氏久氏少弐冬資の三名を招いた。親世は参陣したが、この「水島の陣」で了俊は「九州平定の障害」とみなしていた少弐冬資を殺害するという挙に出る。これに冬資を招いた島津氏久は「九州三人、面目を失う」と激怒して帰国、大友親世は了俊にどうにかなだめられて帰国こそしなかったものの了俊への不信感を根強く抱くこととなった。了俊も大友氏に見限られてはかなわないと見たようで親世に日向守護も与えたほか多くの所領を与えており、親世はともかくも了俊の九州平定事業に協力することとなった。

 南北朝合体も成ると、九州を支配し貿易・外交まで手にした了俊を足利義満は警戒するようになった。この時期、了俊の片腕といっていい存在だった大内義弘は「大友と私とあなたで手を組まないか」と了俊に義満に対抗する三者連合を持ちかけたが断られている。そして了俊を九州から排除するべく義満への讒言を始めるが、その讒言運動には大友親世も加わっていたという(親世の妻は義弘の娘と伝えられる)。またこれより以前、親世は大友一族の吉弘氏郷を殺害するという事件を起こしており、氏郷とその兄・吉弘氏輔が了俊の腹心であること憎んでの行動だったと推測されている。
 この運動が功を奏して応永2年(1395)閏7月に了俊は九州探題を解任され京へ呼び戻された。後任は渋川満頼だったが、彼が赴任するまでのあいだ親世が義弘と協力してその代行を務めた。

 応永8年(1401)に肥後高瀬で菊池氏と戦ったのち、親世は出家し「祖高」と名乗った。この名には面白い逸話がある。親世は少年時代、「自分の股に漢の高祖(劉邦)と同じ七十二のほくろがあるから成人したら高祖にちなんで『祖高』と名乗りたい」と周囲に言っていた、というものである。大友家督は兄・氏継の子である甥の親著に譲られた。
 応永25年(1418)2月25日に死去。親著の次の家督は親世の子・持直が継ぎ、しばらく大友氏は二系統で交互に家督が相続されることになる。30年にわたって大友氏当主を務め、南北朝時代に一時逼塞していた大友氏を有力大名の地位に返り咲かせた親世は、後世大友氏の史書で「中興の祖」と仰がれるようになる。

参考文献
川添昭二『今川了俊』(吉川弘文館・人物叢書)
『大分県の歴史』(山川出版社)ほか

大平惟行おおひら・これゆき生没年不詳
親族父:滝口惟忠 子:大平惟綱
官職左衛門尉
生 涯
―承久の乱で功績―

 足利家の執事をつとめた高一族(高階氏)の一員。源頼朝と同時代の高惟長の子・惟忠が「滝口」を名字とし、その子の惟行が「大平」を称して以後その子孫は大平氏となっていく。
 清源寺本「高階系図」によると高一族は足利義氏に従って承久の乱(1221)に参戦、池田貫持を討ち取る功績を上げたとされる。その後足利泰氏が当主だった時代に足利家の執事をつとめていたらしい。
 なんでこの人がこのリストに入っているかについては下記の大河ドラマの項目を参照。
大河ドラマ「太平記」第1回から第10回まで、主人公の高氏の京都行きを描く第3回を除いて連続登場している(演:高尾一生)。登場するのは全て足利貞氏の家臣一同が集まっている場面で、あくまで「重臣の一人」という扱いで没個性である。しかしいくらなんでも承久の乱に参加した人物がこの時代に生きていたとは思えず、誰か大平氏の子孫と間違えた可能性大(孫の大平惟氏あたりが世代的にはふさわしい)。脚本集でもセリフはないものの「大平惟行」と登場が明記されている。

大法師おおほうし
 大河ドラマ「太平記」の24・25回に登場するキャラクター(演:田嶋基吉)護良親王の腹心・殿の法印の配下の荒法師で、建武政権発足直後の京の町中で強盗(土蔵破り)を働いたために京の治安をあずかる足利兵に逮捕される。足利直義の尋問を受け所属する寺や主の名を聞かれてもニヤニヤしながら黙秘する。殿の法印から足利尊氏に引き渡し要求がなされるが、法の厳正を重んじる直義はこれをはねつけ、六条河原に引き出して処刑しさらし首にしてしまった。このとき「大塔宮(護良)候人・殿の法印の手の者」と掲示したため殿の法印・護良は激怒し、ますます足利に対する敵視を強めることになる。この逸話は古典「太平記」でも語られている。

大山源左衛門おおやまげんざえもん
 大河ドラマ「太平記」の第21回に登場するキャラクター(演:藤田啓而)。鎌倉目指して進撃する新田義貞の軍に途中から駆け付けてきて、「それがしは大山源佐衛門でござる。鎌倉攻めにおでましとか。一族郎党率いて合力に参じ申した」と言って軍に加わる。脚本集では単に「郷武者の頭」としか書かれていない。


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