北条高時 | ほうじょう・たかとき | 1303(嘉元元)-1333(正慶2/元弘3) |
親族 | 父:北条貞時 母:覚海円成(安達泰宗娘) 妻:安達時顕の娘・常葉の前(五大院宗繁の妹)・二位殿の御局 兄弟:北条泰家
子:北条邦時・北条時行 養子:阿曽治時 |
官職 | 左馬権頭・但馬権守・相模守・修理権大夫 |
位階 | 従五位下→従五位上→正五位下→従四位下 |
幕府 | 小侍所奉行・執権(第14代) |
生 涯 |
最後の北条家得宗であり、鎌倉幕府・北条政権滅亡の象徴的存在とされる人物。「太平記」等のせいもあって、日本における「亡国の暗君」の代表とされてしまった人物でもある。
―「亡気」の得宗―
鎌倉幕府の最後、第10代の北条氏得宗(宗家家督保持者)。父は第9代得宗・第9代執権の北条貞時で、貞時の時代に北条得宗家、その家臣の御内人への権力の集中が進み、北条氏の領地は全国の要所に広がり、日本全国を独裁支配する体制を築きつつあった。しかし北条氏とその周辺への権力の集中は本来有力御家人たちの集団指導政権であった鎌倉幕府を変質させ、各地で北条氏支配に反発する御家人や「悪党」と呼ばれる新興武士を生み出し、社会矛盾が拡大していた。
貞時は北条得宗継承を確実のものとするためであろう、延慶2年(1309)にわずか七歳の嫡子・成寿丸(のちの高時)を元服させている。そしてその二年後の応長元年(1311)10月26日に内管領の長崎円喜・外戚御家人の安達時顕に幼い高時の補佐を託して、貞時はこの世を去った。
高時自身が幕府第14代の執権職に就いたのは正和5年(1316)7月である。しかしまだ少年であった彼が政務をみれるはずもなく、まず長崎円喜がこれを補佐し、円喜が高齢を理由に辞任するとその子・高資が内管領となって政務をみた。『保暦間記』は高時について「すこぶる亡気(ぼうき、「うつけ」と読む説あり)の躰(てい)」とか「正躰(しょうたい)無きまま」と表現しており、その心身が薄弱であったことをうかがわせている。『太平記』も高時が闘犬や田楽に熱中して政務をみなかったと伝える。『太平記』の記述は中国古典に見られる「亡国の暴君」を強調する文学的創作の可能性もあるが、一族の金沢貞顕が「田楽ばかりしている」と書状に書き、建武政権を批判した「二条河原の落書」に「犬田楽は関東の滅ぶるところ」という表現があることから、全く根拠のないことではないようだ。
この間、京の皇位継承争いが深刻化して文保元年(1317)に幕府が仲介して「文保の和談」をまとめ後醍醐天皇が即位した。異例の高齢(31歳)で即位した後醍醐はやがて親政を開始し意欲的に政策を進めていく。その一方で高時はほとんど何もした様子がなく、内管領の長崎高資は津軽・安藤氏の家督争いで双方から賄賂をとって事態を混乱させ「津軽蝦夷大乱」と呼ばれる状況を生み出すなど、政治腐敗は深刻なものとなっていた。この様子をみて後醍醐は武力による倒幕計画を進めるが、元亨4年(1324)に発覚、日野資朝が首謀者として流刑になる(正中の変)。しかし幕府は朝廷との軋轢を避けるためか、それ以上の処分は行わず後醍醐に対しても退位を迫るようなこともなかった。
正中3年(1326)3月13日、病のため重体に陥った高時は執権職を辞して出家、法名を「宗鑑」と号した。この時は周囲も病死を覚悟するほどの重態だったようだがひとまず持ち直した。このとき後任の執権職をめぐって弟の泰家を立てようとする高時の母・覚海円成(安達氏)ら外戚勢力と、高時の子・邦時を擁立しようとする長崎円喜・高資ら御内人勢力との対立が激化した。長崎父子は幼い邦時への中継ぎとして北条一門の金沢貞顕を執権に就任させたが、怒った泰家は出家、覚海は貞顕を恨んで暗殺を謀ったため貞顕も十日で辞任・出家してしまう(嘉暦の政変)。執権職は赤橋守時が引き継いだが、健康を取り戻した高時は得宗として権力を維持、長崎高資と共に実権を握り続けた。
―北条滅亡への道―
津軽の乱は幕府軍の度重なる派遣にも関わらず鎮圧できず、結局和議で終結という形になって幕府の権威は大きく失墜した。これを見て後醍醐は再び倒幕計画を慎重に推し進めていったが、元弘元年(1331)4月に計画はまたも発覚。二度目の計画発覚に幕府はさすがに強硬姿勢で臨み、大軍を京に派遣した。これが後醍醐の挙兵を呼び起こすことになるのだが、ちょうどそのころ幕府内部も不穏な事件が起こっていた。
それまで長崎高資のいいなりとなっていた得宗・高時が高資の暗殺を企てたのだ。『保暦間記』はこれを元徳2年(1330)秋のこととし、「高資がおごりのあまり高時の命に従わなかったことに亡気ながらけしからぬことと思い」暗殺を計画したとされる。高時は長崎三郎左衛門尉高頼・丹波長朝らに計画を進めさせたが事前に発覚、高時は「自分は知らぬ」としらを切って高頼を奥州へ流刑にし、その他の者も各地へ追放処分にした(『鎌倉大日記』では元弘元年8月6日に配流とある)。この事件は嘉暦の政変後もくすぶっていた長崎氏と安達氏、そして北条得宗家の権力闘争が表面化したものであると思われる。
8月の後醍醐の挙兵はいったん失敗に終わり、幕府は新たに持明院統の光厳天皇を即位させ、翌年に後醍醐を隠岐へ流刑とした。しかし護良親王・楠木正成ら倒幕勢力の活動はますます活発化し、元弘3年(1333、正慶2)3月に幕府は一門の名越高家と縁戚である足利高氏を畿内へと派遣する。ところがこの足利高氏が倒幕派に寝返って六波羅探題を攻め落とし、それとほぼ同時に上野国で新田義貞が挙兵した。鎌倉をめざす新田軍には各地の反北条の武士たちが合流してたちまちのうちに軍勢を増大、破竹の勢いで鎌倉へと迫った。
北条軍はよく防戦したが5月21日についに鎌倉市中に敵の侵入を許し、5月22日に得宗・高時ら北条一族郎党は葛西が谷にある菩提寺の東勝寺に集合、ここで集団自決した。『太平記』では一門の若者たちが次々と自害していくなか高時はなかなか自害に踏み切らず、長崎円喜が心配して見ている描写がある。しかし円喜の孫・長崎新右衛門が祖父を刺して自害した様子に励まされて高時も腹を切ったと伝えている。享年31歳。
自害した高時だったが自身の息子二人は落ち延びさせようとしている。五大院宗繁の妹・常葉の前が産んだ長男の邦時は宗繁に預けたが、行き場に困った宗繁は邦時の居場所を新田軍に密告、邦時はとらえられ処刑されている。『太平記』に「二位殿の御局」と伝わる女性(将軍・守邦親王が「二位」なのでその御局ではないかとの森本房子氏の説あり)が産んだ次男の時行(『太平記』では幼名亀寿、『保暦間記』は新勝寿丸)は諏訪氏に預けられて信濃・諏訪に落ち延び、2年後に挙兵して鎌倉を一時奪回(中先代の乱)、その後も北条再興を夢見て南朝側で活動を続けた。高時の弟・泰家も鎌倉を脱出し、後醍醐天皇の暗殺を企てている。
鎌倉・葛西が谷の東勝寺跡の裏山には、鎌倉の谷地によくある「やぐら」とよばれる浅い洞窟型の墓地があり、「高時腹切りやぐら」と呼ばれている。ここで高時が腹を切ったわけではないのだろうが、今もこの地点は北条氏の菩提をとむらうために尊氏が創建した宝戒寺の管理下にあり、高時らの霊を慰める供養塔がある。
参考文献
「北条高時のすべて」(新人物往来社)ほか
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大河ドラマ「太平記」 | 当初ビートたけしが配役される予定だったと言われる(実際池端作品に縁が多く、チョイ役にたけし軍団関係者が多いのはその名残らしい)。しかし「代役」の片岡鶴太郎は一見バカ殿風だがコンプレックスに苦悩し滅びの予感におびえて現実逃避しつつも悲しく美しく滅び去っていく、吉川英治が描いた高時像を原作以上に表現して強烈な印象を残し、彼自身の俳優キャリアの大きな一里塚となった。この高時役の演技については南北朝時代専門研究者の間でも大きな評判を呼んでいる。
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その他の映像作品 | 1940年の日活映画「大楠公」では高木永二が演じている。
2001年のNHK大河ドラマ「北条時宗」ではアヴァンタイトルで浅利陽介が演じて登場している。
舞台では「妖霊星」で市川猿之助(二代目)が大正から昭和まで繰り返し演じている。また明治時代に作られた歌舞伎に「高時」という演目があり、「太平記」に取材した高時と天狗の逸話をもとにしており、多くの役者が高時を演じている。
1983年のアニメ「まんが日本史」では塩屋浩三が声を演じた。原作の小学館版漫画に従い、ちゃんと後半は出家姿だった。 |
歴史小説では | 北条高時は『太平記』が典型的な暴君・バカ殿様として描いたためその影響は濃厚である。南北朝時代を描いた小説・マンガなど多くの作品が高時を典型的なバカ殿としてかなり誇張して描いている。
吉川英治『私本太平記』は一見そのような高時像を描いているが、政治家としては問題ありとはいえ平和を愛し文化を愛でる一面を強く押し出し、滅びゆく運命のなかで絢爛な美を花咲かせようとする悲しい人物として描いて画期をなした。
倉本由布『天姫(あまつひめ)』二部作は高時と姫夜叉(赤橋登子)が相思相愛の関係となっている異色の歴史伝奇恋愛ライトノベル。 |
漫画作品では | 学習漫画系ではほとんどギャグキャラのバカ殿扱い。沢田ひろふみ『山賊王』での高時は極端なまでに戯画化された悪役ラスボスとして登場する。吉川英治を原作とする岡村賢二『私本太平記』は原作よりバカ殿ぶりが強められてる感があるが、自害のシーンはなかなかカッコよく印象に残るものとなった。北条一族ファンを増大させたと言われる湯口聖子の鎌倉滅亡ドラマ『風の墓標』でも高時はやっぱり遊び呆けてるバカ殿風ではあるが、滅亡への予感を感じて現実逃避しているようでもあり、自害のシーンでは「やはり鎌倉武士」という立派な最期を遂げる。
天王洲一八作・宝城ゆうき画『大楠公』でもやはりラスボス的扱いだが、鎌倉陥落時には逃亡することなく鎌倉と運命を共にする。「そういえば日蓮を伊豆に流してから七十年か」と一人泪してつぶやくセリフは連載雑誌「第三文明」との関わりから。
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PCエンジンCD版 | ゲーム開始前のプレストーリーを語るオープニング・ビジュアルデモに登場する(声は石井康嗣?エンド・クレジットに明記なし)。田楽と闘犬に遊び暮らしつつ「北条は七代で滅ぶ」という予言におびえるキャラクターとされ、鎌倉炎上と共に最期を迎えるところまでが描かれた。ゲーム中では「怨霊」としてランダムに出現し、出現した国の兵士たちをパニックに陥れて逃亡させてしまう。 |
PCエンジンHu版 | 倒幕派を操作するプレイヤーがクリアのために倒さなければならない三人のうちの一人として武蔵・府中城に登場する。能力は「騎馬2」。 |
メガドライブ版 | 鎌倉攻防戦のシナリオのみ登場。能力は体力40・武力36・智力56・人徳45・攻撃力34。 |