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ほうじょう〜ぼうもんきよただ

北条(ほうじょう)氏
 桓武平氏、平直方の子孫が伊豆国北条郷に住みついて「北条氏」を名乗ったとされているが、北条時政以前の実態についてはほとんど判明していない。時政の娘・政子が源頼朝の妻となったことから鎌倉幕府創設期に将軍家の外戚として「執権」職を握り、源氏直系が絶えた後は他の有力御家人を排斥して鎌倉幕府の実質的君主として君臨するようになった。多くの支流に分かれて幕府の要職を占めたが、鎌倉後半になると本家である「得宗家」に権力が集中してゆく。幕府滅亡時に一族の多くが幕府と運命を共にしたが、一部は落ちのびて再興を図った。北条高時の遺児・時行が処刑されたことでその嫡流は絶えたとみられる。
(北条氏の系図は複雑なのでここでは得宗家を中心にまとめた。各支流はリンク先を参照)
北条時政┬政子

┌経時
┌時輔



├義時┬泰時─時氏─┼時頼──
────┼時宗貞時高時┬邦時

└時房├朝時
名越流└時定──
阿曽流├宗政師時泰家時行


├重時
┬長時─赤橋流
├宗頼┬兼時



├業時─普恩寺流

└宗方



├為時─刈谷流
└時厳桜田流



├時茂─常葉流






├義政─塩田流






└忠時─坂田流






├政村政村流







├実泰金沢流







└有時伊具流






└時房
┬朝直 大仏流








└時盛 佐介流







北条貞時ほうじょう・さだとき1271(文永8)-1311(応長元)
親族父:北条時宗 母:覚山尼(堀内殿、安達義景の娘)
妻:北条宗政の娘、覚海円成(安達氏)
子:北条高時・北条泰家・覚久・菊寿丸・金寿丸・千代寿丸・北条師時室・北条煕時室・土岐光定室・北条時基室ほか
官職左馬権頭・相模守
位階従五位下→従五位上→正五位下→従四位下
幕府執権(第9代)、伊豆・駿河・武蔵・上野・若狭・美作・備中・肥後守護
生 涯
―北条得宗独裁体制の確立―

 元寇の対処にあたった第8代執権・北条時宗の子。幼名を「幸寿丸」という。建治3年(1277)12月ににわずか7歳で元服して「貞時」と名乗り、弘安5年(1282)に従五位下・左馬権頭の官職を授かる。こうした幼少段階でのスピード昇進は北条得宗家歴代に共通するものである。
 弘安7年(1284)4月4日に父・時宗が34歳の若さで死去したことをうけ、14歳で北条得宗家の家督を継いだ。彼を支えたのは実母の兄(養父)である安達泰盛と、乳母の夫で得宗家の執事をつとめる平頼綱であったが、前者は有力御家人、後者は北条氏の家臣「御内人」を代表する立場にあって、時宗時代から激しく対立していた。幼い貞時を支える安達泰盛は「弘安徳政」と呼ばれる幕政改革に乗り出したが、弘安8年(1285)11月に平頼綱らが兵を起こして安達泰盛を滅ぼしてしまった(霜月騒動)。以後頼綱が「内管領」と呼ばれて幕政を牛耳り、反対派を粛清する恐怖政治を行った。
 貞時は成長するにつれ政治への意欲を見せ始め、正応2年(1289)には将軍・惟康親王を解任して、新たに久明親王を将軍に迎え、翌年には時宗時代の政策を改変しない意向を示して北条得宗の権威を高めようとした。そうなると内管領・平頼綱が邪魔になるのは当然の成り行きで、正応6年(1293)4月におりから起こった大地震の混乱に乗じる形で、貞時は兵を起こして平頼綱の邸宅を急襲し、これを自害に追い込んだ(平禅門の乱)
 頼綱を滅ぼした貞時は意欲的に政治の刷新に乗り出し、御家人制度の再建、訴訟の迅速化、執権自身による直裁の強化など諸政策を推し進める。彼の治世は北条得宗家独裁体制の確立期と呼ばれるが、先細りの激しい御家人を救済するべく永仁5年(1297)に出した「永仁の徳政令」は経済的混乱を招いたとも言われる。

 正安3年(1301)に彗星の出現を不吉として執権職を辞し、出家して「崇暁」のちに「崇演」と号した。後任の執権には従兄弟であり娘婿でもある北条師時が就任したが、これは日本政治にはよく見られる「院政」のパターンであり、幕府の正式な職務から自らを自由にしつつ最高権力は握り続けようとするものだった。貞時は幕府とは別に自邸に寄合衆を集めて政治をみており、嘉元3年(1305)に起こった北条一族の内戦「嘉元の乱」では貞時自身の指示で侍所別当・北条宗方が誅殺されている。徳治3年(1308)には久明親王を将軍から解任して京へ送還し、その子・守邦親王を将軍に立てている。
 だがこのころから貞時は政治への意欲を失っていたらしく、金沢貞顕の書状などから貞顕が酒びたりになっていた様子がうかがい知れる。中原政連による有名な「諫奏文」も貞時の政治姿勢を批判したものと考えられている。その一方で「貞時名君説」も流布しており、祖父の北条時頼同様にひそかに各地を旅して世情をうかがったという「廻国伝説」も存在する。
 晩年の貞時は息子の北条高時への代替わり準備を進めており、延慶2年(1309)に高時を7歳で元服させた。しかし高時までの中継ぎとしていた北条師時は応長元年(1311)9月に急死、その一カ月後に貞時自身も40歳で死去してしまう。死に臨んで貞時は外戚の安達時顕と内管領の長崎高綱(円喜)に高時の補佐を託している。
大河ドラマ「太平記」もちろん本編には登場しないが、息子の高時が「名執権とうたわれた父・貞時」へのコンプレックスに悩み、母の覚海尼も貞時の名を口にして息子を励ます場面がある。また第1回で鎌倉に来た足利貞氏が「執権殿」に挨拶をしようとして長崎円喜に「執権殿もお風邪じゃ」と邪魔されるくだりがあり、この「執権」というのがどうも貞時のことらしい(実際にはこの時点では執権職を辞しているが、ドラマ的にはそう見た方が自然)。

北条茂時ほうじょう・しげとき?-1333(正慶2/元弘3)
親族父:北条煕時 母:北条貞時娘 妻:宇都宮貞綱の娘
官職左近将監・右馬権頭
位階従五位下
幕府小侍所別当・和泉守護・引付頭・連署
生 涯
―鎌倉幕府最後の連署―

 北条氏政村流で第12代執権・北条煕時の子。正和4年(1315)に父が37歳の若さで死に、和泉守護職を引き継ぐ。このとき執権職を引き継ぐ話もあったようだがあまりに若いということで実現しなかったとされる。嘉暦元年(1326)に引付頭、元徳二年(1330)に二年間空席となっていた連署の地位についた。これが執権の赤橋守時と共に鎌倉幕府最後の連署となった。しかしこのころ幕府の形式的な中枢である執権・連署・評定衆は形骸化し、北条宗家である得宗の北条高時と、北条家臣である御内人の頂点である内管領・長崎高資とが権力闘争を繰り広げていたため、守時・茂時は何ら実権をふるうことはできなかった。その間に幕府はじわじわと滅亡への道を歩んでいった。
 正慶2年(1333、元弘3)5月、新田義貞率いる倒幕軍が鎌倉に殺到。5月22日に高時以下北条一族・郎党は東勝寺において集団自決した。この中に茂時も含まれている。
大河ドラマ「太平記」第9回で登場(演:神谷まさひろ)。執権となった赤橋守時の前に控える評定衆の面々の中にあって長崎円喜に同意するセリフを吐く人物が彼らしい。

北条高時ほうじょう・たかとき1303(嘉元元)-1333(正慶2/元弘3)
親族父:北条貞時 母:覚海円成(安達泰宗娘) 妻:安達時顕の娘・常葉の前(五大院宗繁の妹)・二位殿の御局 兄弟:北条泰家
子:北条邦時・北条時行 養子:阿曽治時 
官職左馬権頭・但馬権守・相模守・修理権大夫
位階従五位下→従五位上→正五位下→従四位下
幕府小侍所奉行・執権(第14代)
生 涯
 最後の北条家得宗であり、鎌倉幕府・北条政権滅亡の象徴的存在とされる人物。「太平記」等のせいもあって、日本における「亡国の暗君」の代表とされてしまった人物でもある。

―「亡気」の得宗―


 鎌倉幕府の最後、第10代の北条氏得宗(宗家家督保持者)。父は第9代得宗・第9代執権の北条貞時で、貞時の時代に北条得宗家、その家臣の御内人への権力の集中が進み、北条氏の領地は全国の要所に広がり、日本全国を独裁支配する体制を築きつつあった。しかし北条氏とその周辺への権力の集中は本来有力御家人たちの集団指導政権であった鎌倉幕府を変質させ、各地で北条氏支配に反発する御家人や「悪党」と呼ばれる新興武士を生み出し、社会矛盾が拡大していた。
 貞時は北条得宗継承を確実のものとするためであろう、延慶2年(1309)にわずか七歳の嫡子・成寿丸(のちの高時)を元服させている。そしてその二年後の応長元年(1311)10月26日に内管領の長崎円喜・外戚御家人の安達時顕に幼い高時の補佐を託して、貞時はこの世を去った。

 高時自身が幕府第14代の執権職に就いたのは正和5年(1316)7月である。しかしまだ少年であった彼が政務をみれるはずもなく、まず長崎円喜がこれを補佐し、円喜が高齢を理由に辞任するとその子・高資が内管領となって政務をみた。『保暦間記』は高時について「すこぶる亡気(ぼうき、「うつけ」と読む説あり)の躰(てい)」とか「正躰(しょうたい)無きまま」と表現しており、その心身が薄弱であったことをうかがわせている。『太平記』も高時が闘犬や田楽に熱中して政務をみなかったと伝える。『太平記』の記述は中国古典に見られる「亡国の暴君」を強調する文学的創作の可能性もあるが、一族の金沢貞顕「田楽ばかりしている」と書状に書き、建武政権を批判した「二条河原の落書」「犬田楽は関東の滅ぶるところ」という表現があることから、全く根拠のないことではないようだ。

 この間、京の皇位継承争いが深刻化して文保元年(1317)に幕府が仲介して「文保の和談」をまとめ後醍醐天皇が即位した。異例の高齢(31歳)で即位した後醍醐はやがて親政を開始し意欲的に政策を進めていく。その一方で高時はほとんど何もした様子がなく、内管領の長崎高資は津軽・安藤氏の家督争いで双方から賄賂をとって事態を混乱させ「津軽蝦夷大乱」と呼ばれる状況を生み出すなど、政治腐敗は深刻なものとなっていた。この様子をみて後醍醐は武力による倒幕計画を進めるが、元亨4年(1324)に発覚、日野資朝が首謀者として流刑になる(正中の変)。しかし幕府は朝廷との軋轢を避けるためか、それ以上の処分は行わず後醍醐に対しても退位を迫るようなこともなかった。

 正中3年(1326)3月13日、病のため重体に陥った高時は執権職を辞して出家、法名を「宗鑑」と号した。この時は周囲も病死を覚悟するほどの重態だったようだがひとまず持ち直した。このとき後任の執権職をめぐって弟の泰家を立てようとする高時の母・覚海円成(安達氏)ら外戚勢力と、高時の子・邦時を擁立しようとする長崎円喜・高資ら御内人勢力との対立が激化した。長崎父子は幼い邦時への中継ぎとして北条一門の金沢貞顕を執権に就任させたが、怒った泰家は出家、覚海は貞顕を恨んで暗殺を謀ったため貞顕も十日で辞任・出家してしまう(嘉暦の政変)。執権職は赤橋守時が引き継いだが、健康を取り戻した高時は得宗として権力を維持、長崎高資と共に実権を握り続けた。

―北条滅亡への道―

 津軽の乱は幕府軍の度重なる派遣にも関わらず鎮圧できず、結局和議で終結という形になって幕府の権威は大きく失墜した。これを見て後醍醐は再び倒幕計画を慎重に推し進めていったが、元弘元年(1331)4月に計画はまたも発覚。二度目の計画発覚に幕府はさすがに強硬姿勢で臨み、大軍を京に派遣した。これが後醍醐の挙兵を呼び起こすことになるのだが、ちょうどそのころ幕府内部も不穏な事件が起こっていた。

 それまで長崎高資のいいなりとなっていた得宗・高時が高資の暗殺を企てたのだ。『保暦間記』はこれを元徳2年(1330)秋のこととし、「高資がおごりのあまり高時の命に従わなかったことに亡気ながらけしからぬことと思い」暗殺を計画したとされる。高時は長崎三郎左衛門尉高頼丹波長朝らに計画を進めさせたが事前に発覚、高時は「自分は知らぬ」としらを切って高頼を奥州へ流刑にし、その他の者も各地へ追放処分にした(『鎌倉大日記』では元弘元年8月6日に配流とある)。この事件は嘉暦の政変後もくすぶっていた長崎氏と安達氏、そして北条得宗家の権力闘争が表面化したものであると思われる。

 8月の後醍醐の挙兵はいったん失敗に終わり、幕府は新たに持明院統の光厳天皇を即位させ、翌年に後醍醐を隠岐へ流刑とした。しかし護良親王楠木正成ら倒幕勢力の活動はますます活発化し、元弘3年(1333、正慶2)3月に幕府は一門の名越高家と縁戚である足利高氏を畿内へと派遣する。ところがこの足利高氏が倒幕派に寝返って六波羅探題を攻め落とし、それとほぼ同時に上野国で新田義貞が挙兵した。鎌倉をめざす新田軍には各地の反北条の武士たちが合流してたちまちのうちに軍勢を増大、破竹の勢いで鎌倉へと迫った。

 北条軍はよく防戦したが5月21日についに鎌倉市中に敵の侵入を許し、5月22日に得宗・高時ら北条一族郎党は葛西が谷にある菩提寺の東勝寺に集合、ここで集団自決した。『太平記』では一門の若者たちが次々と自害していくなか高時はなかなか自害に踏み切らず、長崎円喜が心配して見ている描写がある。しかし円喜の孫・長崎新右衛門が祖父を刺して自害した様子に励まされて高時も腹を切ったと伝えている。享年31歳。

 自害した高時だったが自身の息子二人は落ち延びさせようとしている。五大院宗繁の妹・常葉の前が産んだ長男の邦時は宗繁に預けたが、行き場に困った宗繁は邦時の居場所を新田軍に密告、邦時はとらえられ処刑されている。『太平記』に「二位殿の御局」と伝わる女性(将軍・守邦親王が「二位」なのでその御局ではないかとの森本房子氏の説あり)が産んだ次男の時行(『太平記』では幼名亀寿、『保暦間記』は新勝寿丸)は諏訪氏に預けられて信濃・諏訪に落ち延び、2年後に挙兵して鎌倉を一時奪回(中先代の乱)、その後も北条再興を夢見て南朝側で活動を続けた。高時の弟・泰家も鎌倉を脱出し、後醍醐天皇の暗殺を企てている。

 鎌倉・葛西が谷の東勝寺跡の裏山には、鎌倉の谷地によくある「やぐら」とよばれる浅い洞窟型の墓地があり、「高時腹切りやぐら」と呼ばれている。ここで高時が腹を切ったわけではないのだろうが、今もこの地点は北条氏の菩提をとむらうために尊氏が創建した宝戒寺の管理下にあり、高時らの霊を慰める供養塔がある。

参考文献
「北条高時のすべて」(新人物往来社)ほか
大河ドラマ「太平記」当初ビートたけしが配役される予定だったと言われる(実際池端作品に縁が多く、チョイ役にたけし軍団関係者が多いのはその名残らしい)。しかし「代役」の片岡鶴太郎は一見バカ殿風だがコンプレックスに苦悩し滅びの予感におびえて現実逃避しつつも悲しく美しく滅び去っていく、吉川英治が描いた高時像を原作以上に表現して強烈な印象を残し、彼自身の俳優キャリアの大きな一里塚となった。この高時役の演技については南北朝時代専門研究者の間でも大きな評判を呼んでいる。
その他の映像作品1940年の日活映画「大楠公」では高木永二が演じている。
2001年のNHK大河ドラマ「北条時宗」ではアヴァンタイトルで浅利陽介が演じて登場している。
舞台では「妖霊星」で市川猿之助(二代目)が大正から昭和まで繰り返し演じている。また明治時代に作られた歌舞伎に「高時」という演目があり、「太平記」に取材した高時と天狗の逸話をもとにしており、多くの役者が高時を演じている。
1983年のアニメ「まんが日本史」では塩屋浩三が声を演じた。原作の小学館版漫画に従い、ちゃんと後半は出家姿だった。
歴史小説では 北条高時は『太平記』が典型的な暴君・バカ殿様として描いたためその影響は濃厚である。南北朝時代を描いた小説・マンガなど多くの作品が高時を典型的なバカ殿としてかなり誇張して描いている。
 吉川英治『私本太平記』は一見そのような高時像を描いているが、政治家としては問題ありとはいえ平和を愛し文化を愛でる一面を強く押し出し、滅びゆく運命のなかで絢爛な美を花咲かせようとする悲しい人物として描いて画期をなした。
 倉本由布『天姫(あまつひめ)』二部作は高時と姫夜叉(赤橋登子)が相思相愛の関係となっている異色の歴史伝奇恋愛ライトノベル。
漫画作品では学習漫画系ではほとんどギャグキャラのバカ殿扱い。沢田ひろふみ『山賊王』での高時は極端なまでに戯画化された悪役ラスボスとして登場する。吉川英治を原作とする岡村賢二『私本太平記』は原作よりバカ殿ぶりが強められてる感があるが、自害のシーンはなかなかカッコよく印象に残るものとなった。北条一族ファンを増大させたと言われる湯口聖子の鎌倉滅亡ドラマ『風の墓標』でも高時はやっぱり遊び呆けてるバカ殿風ではあるが、滅亡への予感を感じて現実逃避しているようでもあり、自害のシーンでは「やはり鎌倉武士」という立派な最期を遂げる。
天王洲一八作・宝城ゆうき画『大楠公』でもやはりラスボス的扱いだが、鎌倉陥落時には逃亡することなく鎌倉と運命を共にする。「そういえば日蓮を伊豆に流してから七十年か」と一人泪してつぶやくセリフは連載雑誌「第三文明」との関わりから。
PCエンジンCD版ゲーム開始前のプレストーリーを語るオープニング・ビジュアルデモに登場する(声は石井康嗣?エンド・クレジットに明記なし)。田楽と闘犬に遊び暮らしつつ「北条は七代で滅ぶ」という予言におびえるキャラクターとされ、鎌倉炎上と共に最期を迎えるところまでが描かれた。ゲーム中では「怨霊」としてランダムに出現し、出現した国の兵士たちをパニックに陥れて逃亡させてしまう。
PCエンジンHu版倒幕派を操作するプレイヤーがクリアのために倒さなければならない三人のうちの一人として武蔵・府中城に登場する。能力は「騎馬2」
メガドライブ版鎌倉攻防戦のシナリオのみ登場。能力は体力40・武力36・智力56・人徳45・攻撃力34。 

北条時益ほうじょう・ときます?-1333(正慶2/元弘3)
親族父:北条時敦
官職左近将監
幕府加賀・讃岐・伯耆・丹波守護、六波羅探題南方
生 涯
―流れ矢で死んだ六波羅探題―

 北条氏政村流。元徳2年(1330)7月20日に六波羅探題南方に任じられ、8月26日に京に入った(『太平記』では元弘2年3月5日に北方・北条仲時と同時に赴任したとする)。赴任の翌年から元弘の乱が始まり、後醍醐天皇のこもった笠置山、楠木正成がこもった赤坂城の攻略を探題北方の北条仲時と共に後方から支援した。一度は倒幕派を鎮圧して後醍醐を隠岐へ流し、持明院統の光厳天皇を即位させたが、正慶元年(1332、元弘2)の末から楠木正成や護良親王が活動を再開する。
 正慶2年(1333、元弘3)になると後醍醐が隠岐を脱出、3月からは播磨の赤松円心が挙兵して京を攻略した。時益・仲時は持明院統の皇族や公家を六波羅探題に避難させて赤松勢を防いだが、援軍に来たはずの足利高氏が後醍醐側に寝返って5月7日に六波羅を攻略、支えきれずに時益ら六波羅軍は皇族たちを奉じて関東への脱出を図った。
 その夜、京都・東山の苦集滅道(くずめじ)を通ろうとしたところ、周辺の野伏たちが行く手を阻み、矢の雨を浴びせてきた。時益はその矢に首の骨を射抜かれて落馬、家臣の糟谷七郎が急いで矢を抜いたが、すぐに息を引き取った。糟谷は敵に渡すまいと時益の首をとり、それを錦の直垂の袖に包んで近くの田の中に隠し、主のあとを追って切腹したという(『太平記』)『梅松論』でも時益が逃亡の途中で流れ矢に当たったことになっているが、場所は四宮河原となっているうえ、時益の家臣がその首をとって仲時のところへ持って行ったことになっている。
大河ドラマ「太平記」 12・13・20の3回に登場(演:世古陽丸)。とくに目立つわけではないが、六波羅探題の南方として後醍醐派の鎮圧を幕府側の武将たちと協議している場面で顔を見せている。
歴史小説では 六波羅探題の長官の一人なので小説類では名前はよく出てくるものの、仲時ほど印象には残らない。
漫画作品では
河合真道『バンデット』は途中から六波羅陥落がクライマックスとなったため北条時益・北条仲時の二人がラスボス的位置づけとなって出番が多くなった。主人公・石と悪党たちに六波羅を水攻めにされ、仲時に逃がしてもらうが結局石たちに討ち取られた。
PCエンジンHu版シナリオ1「鎌倉幕府の滅亡」でなぜか安芸・三次城に配置されている。能力は「長刀2」
メガドライブ版「足利帖」でプレイすると最初のシナリオ「六波羅攻撃」で敵ボスとして登場。能力は体力67・武力78・智力128・人徳76・攻撃力68。 

北条時行ほうじょう・ときゆき?-1353(文和2/正平8)
親族父:北条高時 母:二位殿の御局 兄弟:北条邦時
生 涯
 鎌倉幕府最後の得宗・北条高時の遺児であり、北条氏復活のために兵を挙げ、南朝方として短い生涯を戦い続けるという波乱の人生を送った武将。その生涯は鎌倉北条氏最後の光芒と言っていい。

―鎌倉からの脱出―


 「相模二郎」の通名があり、北条高時の次男。生母については正確なことは分からないが『太平記』「二位殿の御局」と伝えている(「二位」だった将軍・守邦親王の侍女ではないかとの説がある)。その幼名についても『太平記』は「亀寿」とするが、『梅松論』「長寿丸」とし、『保暦間記』「勝長寿丸」『北条系図』「全嘉丸」「亀寿丸」とするなど、複数の説がある(実際に幼名が複数あった可能性もある)。腹違いの兄である北条邦時は正中2年(1325)に生まれており、それより後の生まれということしか分からない。いずれにしても鎌倉幕府の滅亡時にはまだ幼少だったことは確実である。

 正慶2年(元弘3、1333)5月22日、鎌倉は新田義貞率いる倒幕軍の突入を受けた。この混乱の中で高時の弟・北条泰家はひとまず逃亡して再起を図ることを決意、信濃の武士・諏訪盛高に時行を連れて鎌倉を脱出するよう指示した。盛高は二位殿の局のもとへ行き「敵の手にかかるよりは大殿(高時)の手にかけて殺すべき」と嘘をついて幼い時行を奪い取り背中に背負って逃げ出した。このとき母親や乳母たちは強く抵抗し、とくに時行の乳母で「御妻(おさい)」と呼ばれた女性ははだしのまま必死に盛高を追いかけ、何度も倒れながら追いかけたがとうとう見失ったため、世をはかなんで井戸に身を投げたという(「太平記」)

 このとき異母兄の邦時も母方の伯父・五大院宗繁に連れられて脱出を図ったが、宗繁に裏切られて捕えられ処刑された。泰家は奥州に落ちのび、時行も盛高に連れられて信濃・諏訪に落ちのびて、ここで諏訪氏に保護されながら再起の機会を待つことになる。

―中先代の乱―

 機会は意外に早く訪れた。建武政権は早くから混乱を見せ、各地で北条残党による挙兵も相次いだ。そして建武2年(1335)、時行の叔父・泰家は京にのぼって幕府とかかわりの深い西園寺公宗の屋敷に入り、ここで後醍醐天皇の暗殺計画を進める。後醍醐暗殺と同時に各地で北条残党が挙兵し、一気に鎌倉幕府の復活をはかるという段取りだった。しかし6月22日に公宗の弟・西園寺公重の密告により計画は漏れ、泰家は京から逃亡した。このとき泰家は信濃に逃れて時行と合流したらしく、7月14日に時行は諏訪頼重に奉じられて諏訪に挙兵した。このとき時行はまだ10歳にもなっていなかったはずで、事実上復活北条軍の象徴的存在となっていたと思われる。
 北条軍は信濃守護・小笠原貞宗と戦い、さらに上野から武蔵に入って鎌倉を奪回すべく軍を進めた。このコースはかつて新田義貞が鎌倉を攻略したコースともよく重なり合う。そして建武政権に不満をもつ武士が続々と合流して一気に大軍にふくれあがってしまったところまでよく似ていた。北条軍は武蔵・女影ヶ原(現・埼玉県日高市高麗川付近)で鎌倉から攻め下って来た渋川義季岩松経家らを撃破、さらに武蔵府中では下野守護・小山秀朝の軍を破るなど破竹の勢いで鎌倉に迫った。鎌倉を守っていた足利直義は鎌倉を放棄して逃亡し、時行の軍は挙兵からわずか半月ほどで鎌倉奪回の宿願を果たしてしまったのである。
 このとき時行が発行した書状が現存しており、そこには「正慶四年」という年号が記されている。「正慶」は後醍醐が隠岐へ流されたあとに持明院統の光厳天皇のもとで定められた年号で、鎌倉幕府ではその滅亡までこの年号を使用していた。政権を奪い返した後醍醐は「正慶」の存在自体を抹殺し「建武」年号を定めたのだが、時行らがあえて「正慶」年号を使ったことは「建武」の否定にほかならない。ここに時行は鎌倉幕府の復活を宣言したと言ってもいい。

 鎌倉から脱出した直義は東海道を三河に向かい、北条側は大軍を編成してこれを追撃した。ところが8月2日に独断で京を出陣した足利尊氏が大軍を率いて直義と合流、8月9日に遠江の橋本で北条軍を初めて撃ち破った。以後、佐夜中山・箱根・相模川など各所の戦いで北条側は連敗、8月19日には再び足利軍によって奪回された。このとき北条軍の主力であった諏訪頼重らは鎌倉・勝長寿院で自害して果て、時行は再び鎌倉を脱出した。『太平記』によればこのとき諏訪頼重らは部下に命じて死体の顔の皮をはがせて誰の遺体か分からないようにさせ、足利軍はこれを見て「時行の遺体もこの中にあるのだろう」と信じたという。
 北条時行の鎌倉奪回はわずかに二十日余り。このためこの戦いを「二十日先代の乱」、あるいは「先代=北条」と「後代=足利」にはさまったことで「中先代の乱」とも呼ぶ。

―南朝に投降―

 事態の変転は激しかった。鎌倉を奪った足利尊氏はここに事実上自らの幕府を開き、建武政権からの離脱を明らかにした。それから一年以上の列島全土に及ぶ激戦の末、足利尊氏の京占領と正式な幕府開設、後醍醐天皇の吉野における南朝創設にいたり、「南北朝動乱」が本格的に始まるのである。

 延元2年(建武4、1337)の秋、奥州の南朝方・北畠顕家が畿内への二度目の長征に出発した。北畠軍は年末には鎌倉を占領したが、これより以前に潜伏していた北条時行が南朝に使者を送って降伏を申し入れ、後醍醐天皇はこれを認めてこれまでの時行の罪を許し、南朝軍に参加するよう勅許を与えている。鎌倉幕府を滅ぼした張本人である後醍醐に時行が降伏するとはなんとも奇妙な話ではあるが、時行はじめ北条関係者にとっては裏切り者の足利氏が天下をとったことの方が不快であったとも言われるし、また北条氏を再興するためには南朝と組むほかないという事情もあったと思われる。『太平記』では時行は伊豆で挙兵して北畠軍に呼応したと記しているが、北畠軍には上野から義貞の子・新田義興ら新田一族も参加しており、北条と新田がそろって鎌倉を奪回するという、一見摩訶不思議な展開となった。時行にとってこれが幕府滅亡後二度目の鎌倉入りである。
 翌延元3年(建武5、1338)正月に北畠軍は鎌倉を発って京を目指した。時行もこれに同行し、1月28日の美濃・青野原の戦いにも参加して足利軍を撃破している。その直後に北畠軍は伊勢方面へ「謎の転進」をして、北陸の新田義貞との合流・連携策をとらなかったが、その原因を「北畠軍に参加していた北条時行が親の敵である義貞との合流に反対したから」とみる言説が昔からある。しかし先述のように時行はとうに新田一族と行動を共にしていたし、時行の北畠軍における発言力もそれほど大きかったとは思えない。あくまで主将の顕家個人の判断であったと思われる。
 北畠軍は伊勢から奈良に入り、ここで京をうかがったが敗れて河内・和泉へと展開したが、結局5月に和泉・堺で壊滅した。この間時行がどこまで同行していたかは不明だが、ともかく顕家と運命を共にすることはなかった。『太平記』では時行は義興と共に北畠親房宗良親王らの東下船団につき従って東国へくだったとされており、恐らくは宗良親王と共に遠江から信濃へと入ったので配下と推測される。以後しばらく時行の消息は途絶える。

―故郷・鎌倉にて―

 南朝方に巻き返しのチャンスが巡って来たのは、足利幕府の内紛「観応の擾乱」が起こった時だった。足利尊氏・直義兄弟の争いが深刻化し、最終的に尊氏が南朝と手を組み(正平の一統)、尊氏は直義を討つべく関東へと下った。尊氏は直義を破って鎌倉に入り、降伏した直義は正平7年(観応3、1352)2月末に急死した。ここに「観応の擾乱」はひとまず終止符を打つが、南朝はその直後に京・鎌倉を東西同時に攻め落とす大戦略を実行に移す。関東における南朝軍の総指揮官は宗良親王で、これに新田義宗・新田義興・脇屋義治、そして北条時行が従った。

 正平7年(観応3、1352)閏2月15日、新田・北条軍は鎌倉目指して挙兵した。尊氏は意表を突かれたのか大した抵抗も見せずに鎌倉を放棄、南朝軍は閏2月18日に鎌倉を占領した。時行にとっては幕府滅亡後3度目に踏んだ鎌倉の地であった。このときほぼ同時に畿内でも南朝軍が京占領に成功しており、南朝の東西同時の大戦略は成功したかに見えた。
 しかし直後に尊氏は反撃を開始、次々と南朝方を打ち破って3月12日には鎌倉を奪回してしまった。時行や新田一族はまたもや逃亡を余儀なくされることになった。

 その後一年あまり、時行がどこでどうしていたかは定かではない。恐らくは鎌倉にも近い相模の地のどこかに潜んでいたと思われ、翌正平8年(文和2、1353)5月に時行は他の北条残党と共に足利軍に捕えられた。そして5月20日、時行は鎌倉の処刑場・竜口(たつのくち)において長崎駿河四郎工藤二郎らと共に斬首されて生涯を終えた(「鶴岡社務記録」)。一緒に処刑された長崎・工藤については詳細不明だが、いずれも北条家臣の家であり、再起を図って行動を共にしていたのだろう。
 鎌倉北条氏の歴史はここに完全に幕を下ろした。このとき時行はまだ20代半ばほどであったと推定される。子どもがいてもおかしくはなく、実際に北条時行の子孫を称する家系も存在するが、確たるものではない。

参考文献
小川信監修「南北朝100話」(立風書房)ほか
大河ドラマ「太平記」ドラマ中に登場することはなかったが、「中先代の乱」のくだりでその名前はナレーションで解説された。
その他の映像作品アニメ「まんが日本史」の第24回「建武の新政」で1カットだけ登場している。ただしセリフはない。
歴史小説では中先代の乱を起こしているので言及されることは多いのだが、その人物像がしっかり描かれた作品はあまり多くない。
その中で際立つのが森村誠一「太平記」。特に主人公を置くことなく南北朝時代を俯瞰する作品だが、北条高時の愛妾を狂言回しのキャラクターとして使ったため、時行の動向に重きが置かれて中先代の乱や南朝軍としての活動が描かれ、時行の処刑が物語のしめくくりのように使われている。
風変わりな作品としては田中文雄のホラー伝奇歴史小説「髑髏皇帝」があり、ここでは時行は足利直冬・楠木正行ら「太平記ジュニア世代」同士で手を組み、後醍醐にとりついた怨霊と戦うという奇抜な展開になっている。
漫画作品では学習漫画では中先代の乱の部分でよく登場している。ただし年齢不詳ということもあり、大人か若武者風に描かれることが多い。実際には10歳にもなっていなかったと思われ、小学館「少年少女日本の歴史」ではやや幼い顔つきで描かれている。
一般漫画では鎌倉北条氏の歴史を描く湯口聖子「夢語りシリーズ」の最終巻「明日菜の恋歌」に収録された2短編「七時雨」「明日菜の恋歌」が北条氏最後の人・北条時行の生涯を描いている。
PCエンジンCD版浪人武将としてゲームの途中から中部地方のどこかに出現し、特に南朝北朝と旗幟が決まっているわけではない。初登場時の能力は統率81・戦闘70・忠誠73・婆沙羅75
メガドライブ版足利帖でプレイすると「中先代の乱」のシナリオで敵方大将として登場する。能力は体力9・武力18・智力24・人徳11・攻撃力3。要するに「子ども同然」であり、 シナリオ中での意味はほとんどない(プレイヤーは時間内に「逃げる」のがクリア条件)。
SSボードゲーム版「東山」地域の中立武将として大将クラスで登場する。合戦能力2・采配能力5で、そこそこ大軍を集められるキャラに設定されている。

北条仲時ほうじょう・なかとき1306(徳治元)-1333(正慶2/元弘3)
親族父:北条基時 
官職弾正少弼・越後守
位階従五位下
幕府六波羅探題北方
生 涯
―番場で自害した悲劇の六波羅探題―

 北条氏普恩寺流。元徳2年(1330)11月に六波羅探題北方に任じられ、その年12月に京に入り任に就いた。それから4ヶ月後には後醍醐天皇の二度目の討幕計画が発覚、首謀者とされた日野俊基、呪詛を行ったとされた円観文観らの逮捕など、仲時は探題南方の北条時益と共に早くもその対応に追われることになる。

 8月に後醍醐はついに笠置山にこもって挙兵、10月には捕えられて六波羅に幽閉されることになるが、後醍醐が所有していた神器の持明院統への引き渡しなどの処理も仲時が立ち会っている。翌年3月に後醍醐は隠岐に流されるが、間もなく護良親王楠木正成らが活発に活動し、六波羅探題は関東からの援軍と共にこれらの鎮圧の指揮を執った。
 正慶2年(1333、元弘3)に後醍醐が隠岐を脱出、3月には播磨の赤松円心が挙兵して京へと迫った。仲時・時益は光厳天皇ら持明院統の皇族を六波羅に避難させてこれに応戦したが、関東から援軍に来たはずの足利高氏が後醍醐方に寝返り、5月7日に六波羅を攻撃。仲時・時益は皇族らを連れて関東へ逃亡する決断をするが、仲時は妻との別れを惜しんで立ち去りがたく、時益に早くしろと呼び出される描写が『太平記』にある。

 六波羅を焼いて東へと逃走した一行だったが、その夜に時益が野伏の襲撃にあって戦死する。仲時らは行く手を阻む野伏たちをかわしつつ近江に入り、番場の宿から伊吹山を越えようとしたが、行く手を五辻宮(亀山上皇の皇子とされる)が率いる野伏軍に阻まれた。この地を支配する佐々木道誉が高氏と示し合わせて行く手を妨害したとの見方も強く、実際一行の最後尾にいた同族の佐々木時信は途中で不自然な脱落をして結局命を拾っている。
 時信がいつまでもたっても現れないので「さては時信も敵となったか」と思った仲時はもやは進退きわまったと観念し、かえって爽やかな表情であったと『太平記』は描く。そして「もはや武運も尽き北条家の滅亡も近いとわかっていながら、武士の名誉を重んじてよくここまでついてきてくれた。恩返しをしたいところだが我が家も滅ぶとなるとなすすべがない。私は自害して皆の恩に報いたいと思う。この仲時、不詳の身ではあるが北条氏のはしくれ、敵は我が首に恩賞をかけているだろう。我が首をとって罪を免れるとよい」と言って、仲時は切腹して果てた。その場にいた一同は「誰にそのようなことができようか」と次々と後を追って腹を切り、四百名を超える集団自決となってしまう(「梅松論」では届けられた時益の首を一目見て覚悟をきめ自害したと書かれている)
 仲時、まだ享年28歳の若さであった。仲時以下集団自決した武士たちは番場の蓮華寺に葬られ、その名が過去帳に連綿と記されている。
大河ドラマ「太平記」 13・15・21の3回登場しているが、13・15回では段田安則が演じながら、六波羅滅亡の21回では刀坂悟が演じている。セリフがあるとはいえ登場シーンはいずれもチョイ役なのでほとんど気にする人はいなかったと思うが、交代の理由は不明。
歴史小説では 六波羅探題滅亡の悲劇を象徴する人物として、古典『太平記』から始まり各種の南北朝小説で登場している。ただしあくまで滅亡する側なので仲時自身の側から見た小説はなく、そう大きな扱いを受けているわけではない。
漫画作品では 仲時がほとんど主役級で描かれているのが湯口聖子『風の墓標』。女性の北条氏ファンを増大させたと言われる「夢語り」シリーズの集大成として北条滅亡のドラマを描く長編で、主人公は赤橋四郎(架空人物)・足利直義そして北条仲時の三人になっている。この三人は少年期からの親友同士という設定で、特に北条仲時と足利直義はほとんどBLものと思えるほどの仲でありながら敵味方に分かれる悲劇が描かれる。仲時はいかにも少女マンガの記号的な金髪(?)の美青年に描かれ、その悲劇性がいっそう強調されている。この漫画の影響で仲時の墓参りに蓮華寺を訪れる女性ファンが相当数いるようである。
河合真道『バンデット』は後半で六波羅陥落がクライマックスとなったためラスボス的存在となった。京の市民にも人気があり「正義」をやたらと口にして理想の国づくりを志しているが、対極にある悪党・石と対決して射殺される。
PCエンジンHu版シナリオ1「鎌倉幕府の滅亡」でゲーム開始時の練習ステージ「千早城合戦」の敵ボス。プレイヤーが楠木正成軍を操作して仲時を倒すとゲーム本編が開始される。能力は「長刀4」
メガドライブ版「足利帖」でプレイすると最初のシナリオ「六波羅攻撃」の敵ボスとして登場。能力は体力65・武力80・智力115・人徳87・攻撃力71。 

北条基時ほうじょう・もととき1286(弘安9)-1333(正慶2/元弘3)
親族父:北条時兼 子:北条仲時
官職左馬助・讃岐守・相模守
位階従五位上→正五位下
幕府六波羅探題北方・評定衆・引付頭人・信濃守護・執権(第13代)
生 涯
―息子のあとを追った第13代執権―

 北条一門極楽寺流の北条時兼の四男で、のちに出家して普恩寺に入ったことから「普恩寺入道」の通称があり、その系統は「普恩寺流」と呼ばれる。
 正安3年(1301)6月にまだ十六歳の若さで六波羅探題北方に任じられ上京、乾元2年(1303)10月まで務めて鎌倉に戻った。その後評定衆(これは確証はないが推定はされる)・引付頭人などをつとめたのち、正和4年(1315)7月12日より前任者の北条煕時より引き継いで鎌倉幕府第13代執権となった。同時に歴代執権の例にならい「正五位下・相模守」に叙せられる。ただしこれは前任者同様、4年前に亡くなっている北条貞時の子で得宗である北条高時の成長を待つまでの「中継ぎ執権」に過ぎず、幕府の実権は高時の後見の立場にある内管領・長崎高綱(円喜)に握られていた。これといった業績もあげないまま一年後の正和5年(1316)7月10日に辞任して、高時に執権職を譲っている。その年の11月に31歳で出家して「信忍」と号した。前述のように普恩寺に隠棲したことから「普恩寺入道」と呼ばれ、元亨3年(1323)10月の北条貞時十三回忌の供養記でもその名で記されている。

 その後はすっかり隠棲していたのかほとんど行動が伝わらない。息子の北条仲時が元徳2年(1330)に六波羅探題北方として京に赴任している。その翌年、後醍醐天皇が笠置山で倒幕の挙兵をすると関東から大軍が派遣されるが、『太平記』流布本ではその軍勢の大将のなかに「普恩寺相模守」の名を入れている。そのまま見れば北条基時のこととしか思えないが、『太平記』古態本にその名はなく、他の史料でも確認できないことから基時がこのとき実際に出陣したかはかなり疑わしい。

 正慶2年(元弘3、1333)5月9日、足利高氏の攻撃で六波羅を追われた息子・仲時が近江・番場で自害して果てた。そして5月22日、新田義貞の軍勢が鎌倉に突入する。基時は化粧坂で防戦に当たったがついに力尽き、二十人ばかり生き残った家臣たちを連れて普恩寺に赴き、ここで最期の時を迎えた。すでに息子・仲時の最期の模様は基時にも伝わっており、そのことを思い起こして基時は涙し、血で御堂の柱に「まてしばし 死出の山辺の 旅の道 同じく越えて 浮世語らん(息子よ、待っておれ。あの世への旅の道を父子一緒に越えてこの世のことどもなどを語り合おうではないか)」と歌をしたためてから切腹した。これは『太平記』が伝えるもので事実かどうかは定かではないが、鎌倉陥落の悲劇のなかでひときわ涙を誘う名場面である。基時、享年48歳と伝わる。

大河ドラマ「太平記」直接の登場はないが、第11回で笠置攻略に出陣する武将の名簿を高時が読む場面で「普恩寺相模守」の名が口に出されている。ただしこれも古典「太平記」本文に沿ったもので、実際に彼が出陣したかは疑問視されている。

北条師時ほうじょう・もろとき1275(建治元)-1311(応長元)
親族父:北条宗政 母:北条政村の娘 養父:北条時宗 兄弟:北条政助・北条貞時正室
官職左近将監・右馬権頭・相模守
位階従五位下→従五位上→正五位下→従四位下
幕府小侍所別当・評定衆・引付頭人(三番・二番)・執奏・執権(第10代)
生 涯
―第10代執権―

 第8代執権・北条時宗の弟の北条宗政の子。父・宗政は師時が幼いうちに亡くなり、時宗がひきとって自らの猶子としている。以後、時宗の子で第9代執権となった北条貞時とは実の兄弟同然の間柄となる。
 正応6年(1293)4月の「平禅門の乱」で貞時が内管領・平頼綱を滅ぼして実権を握ると、師時もその実弟並みの扱いを受けて評定衆に抜擢される。貞時は師時の姉妹を正室に迎え、師時は貞時の娘を正室に迎えるなど、両者は濃い血縁でも結ばれていた。
 正安3年(1301)8月に貞時が執権職を辞して出家すると、師時が執権職を引き継いだ。ただし実権はそのまま貞時が握る「院政」というのが実態だった。翌々年に貞時の嫡子・北条高時が生まれると、師時はその高時登板までの中継ぎの役目が期待されたらしい。
 しかし応長元年(1311)9月22日に師時は37歳の若さで病死。貞時もそのあとを追うようにその一ヶ月後に亡くなってしまった。評定の座で死去したとも伝わる。
大河ドラマ「太平記」直接の登場はないが、第1回で足利貞氏が幕府に出仕し、「執権殿」に挨拶しようとして長崎円喜に邪魔される場面がある。この時点は嘉元3年(1305)なので執権は北条師時ということになる。ただしドラマの作者はこの「執権」を貞時のつもりで使っている可能性も高い。

北条泰家ほうじょう・やすいえ生没年不詳
親族父:北条貞時 母:覚海円成(安達泰宗娘) 兄弟:北条高時
官職左近将監
位階従五位下
生 涯
―北条高時の同母弟―

 第9代執権・北条貞時覚海円成(安達氏)の間の子で、第14代執権・北条高時の同母弟。はじめ「四郎時利」と称した。

 正中3年(1326)3月13日、北条高時は重病で一時危篤に陥り、出家して執権職を辞した。結局持ち直すのだが執権職をめぐって幕府内では激しい暗闘が展開される。高時の実弟である泰家は執権職を強く希望し、高時・泰家の生母である覚海円成もこれを強く押したが、当時幕府において実力を握っていた内管領(北条得宗家の執事)長崎高資がこれを受け入れず、北条傍流である金沢貞顕を後任の執権にすえた。泰家はこれを恥辱と受け止めて15日に出家し「慧性」と号した。母の覚海も激しく怒り、貞顕の暗殺を謀っているとの風聞も流れたため、恐れをなした貞顕はわずか十日で執権を辞任して出家してしまう。

 結局やはり北条傍流の赤橋守時が第16代執権(最後の執権)となるのだが、この「嘉暦の騒動」と呼ばれる政変は、北条氏独裁の幕府のなかで急速に力を持って来た内管領・長崎氏に代表される北条家臣「御内人」勢力と、北条氏外戚の御家人としてそれに対抗してきた安達氏との繰り返されてきた紛争の表れであったとみられる。

―鎌倉を脱出―

 正慶2年(元弘3、1333)5月8日、新田義貞が上野・新田荘に挙兵、鎌倉を目指した。新田軍はその数を増やして小手指河原、久米川で幕府軍に連勝する。その勢いに驚いた鎌倉では北条泰家を大将にして数万の大軍を投入してこれに立ち向かわせた。泰家は敗退してきた桜田貞国らの軍と分倍河原(現・東京都府中市)で合流し、5月15日に新田軍と激突した。これまで連勝してきた新田軍もさすがに新手の幕府軍の前には歯が立たず、手痛い敗北を喫して退却を余儀なくされた。
 勝利した泰家たちだったが、まだ敵を甘く見ていたのか新田軍への即時の追撃はしなかった。翌5月16日未明に三浦義勝が新田軍に味方して幕府軍に奇襲をかけてきた。「太平記」によれば泰家らは勝利に寄って遊女をはべらせ鎧も脱いで寝入っており、三浦軍の接近にも「味方に来たんだろう」と気にもかけなかったという。三浦軍の突然の奇襲に泰家らが「馬よ、物の具よ」とあわてふためく描写もある。そこへ義貞らの主力が攻撃をかけてきたため幕府軍は敗退、関戸での追撃戦で泰家も危うく討ちとられるところだったが、横溝八郎の命を捨てての奮戦によってどうにか鎌倉へ逃げ込んだという。

 5月22日、新田軍がついに鎌倉府中に突入し、勝負は決した。一門郎党の多くが自害の道を選ぶなかで、泰家は諏訪盛高から自害をすすめられると、人を遠ざけさせて「わしにはひそかに思うところがあるから自害はせぬ。可能な限り逃げていつか復讐を果たそうと思う」と語って盛高に高時の次男の亀寿(時行)を連れて信濃に逃れるよう指示し(高時の長男・邦時を五大院宗繁に預けたのも泰家らしい)、自身は南部太郎伊達六郎を案内人として陸奥へと逃亡した。鎌倉脱出にあたっては南部・伊達両名を人夫の姿にさせ中黒(新田の家紋)の笠印をつけて、泰家自身は血のついたかたびらを着て「あおだ」(負傷者などを運ぶかご)に乗って運ばれ、新田軍の武将が負傷して運ばれていくように変装して武蔵方面へ向かったとされる。彼の屋敷に残された家臣たちは泰家の指示で全員自決して火を放ち、泰家も自害したかのように装ったという。以上は「太平記」のみが伝える詳細な描写だが、あの日の鎌倉から北条得宗の実弟が脱出するには実際にこのような奇策を弄したものと推測される。

―後醍醐暗殺を計画―

 陸奥に逃れた泰家はしばらく潜伏していたようで、消息は当然知れない。だが恐らく建武2年(1335)の前半のうちにひそかに上洛したものと思われる。「太平記」によれば泰家は人に気づかれぬよう還俗(僧侶から俗人に戻る)して「田舎侍が初めて召し抱えられた」体を装って、京の西園寺公宗の屋敷に入った。西園寺家は承久の乱以来代々「関東申次」をつとめて鎌倉幕府と朝廷の仲介役をつとめて北条氏と密接な関係をもっており、持明院統を支持していたこともあって後醍醐天皇の建武政権では冷遇されていた。泰家はそこに目をつけて西園寺家を頼ったのである。しかしそれにしてもかなり大胆な行動であったと言わざるをえない。

 恐らく泰家(「太平記」によると西園寺家に来てからか還俗時かに「刑部少輔・時興」と改名したようだが、以下も「泰家」で通す)は西園寺家に来るまでに信濃に逃がした甥の時行はじめ各地の北条残党と連絡をとり、入念に起死回生の計画を練った上で京に入ったものと思われる。
 建武2年6月、泰家と西園寺公宗は後醍醐天皇を北山の西園寺邸に招いて暗殺するという危険な賭けに出た。後醍醐暗殺と同時に信濃の時行、越中の名越時兼が蜂起、畿内における挙兵は泰家が大将となる計画であったとされ、実際に前者二人はこの直後に挙兵している。西園寺公宗のみならず持明院統皇室も深くかかわっていた可能性が高い。
 しかし計画は公宗の異母弟・西園寺公重の密告により露見した。6月22日に西園寺公宗・日野資名日野氏光が捕えられたほか、京の各所で関係者が逮捕されたというから、実際かなり大規模な計画で関わった人間も多かったと思われる。公宗ら数名がこの直後に処刑されたが、泰家は行方をくらました(「太平記」は発覚後の泰家については何も語らず、陰謀に参加していた橋本俊季の逃亡を記す)

 その後泰家は信濃へ走り、時行の挙兵に同行したのではないかと推測される。時行を主将とする北条残党の反乱は「中先代の乱」と呼ばれ、一時鎌倉の奪回に成功するが、やがて攻めよせて来た足利尊氏の軍の前にわずか二十日で敗れ去った。この軍に泰家も参加していたのではないかと推測はされるが、それを直接示す資料はない。
 その後の消息も全く不明で、中先代の乱の時に戦死したか逃亡途中で討たれたとする見方もあるが、「市河文書」に建武3年(延元元、1336)2月15日に信濃国・麻績御厨(おみみくりや。現・長野県麻績村)で泰家が挙兵、隣の牧城(現・長野県信州新町)の香坂氏らと呼応して足利方の信濃守護・小笠原貞宗らと戦ったとする記述がみられる。これを最後に彼の消息は完全に途絶えた。
大河ドラマ「太平記」第30回に登場(演:緑川誠)。この回の冒頭で西園寺公宗による後醍醐暗殺計画が描かれ、公宗らの密議に参加している。計画が発覚するとドラマでは新田義貞が西園寺邸に押し寄せることになっていて、義貞は「わしが鎌倉で取り逃した泰家」と口にする場面もある。結局ここでも取り逃してしまい、泰家が信濃へ走って直後に中先代の乱が起こることになる。泰家が信濃へ向かって馬を走らせるカットで出番はおしまい。
歴史小説では西園寺公宗事件を描く小説なら名前ぐらいは言及されている。ある程度セリフも多く印象に残る出番があるのは今東光の「東光太平記」で、分倍河原合戦に敗れる泰家が詳しく描かれている。
漫画作品ではさいとう・たかを「太平記」(コミック日本の古典シリーズ)で西園寺事件の顛末でかなり出番が多い。彼が消息不明になったことにも触れ、「これ以後は歴史の表舞台に登場しない」と余韻を残す形になっている。
メガドライブ版「新田・楠木帖」をプレイすると「分倍河原の合戦」のシナリオで敵方に登場。能力は体力73・武力118・智力82・人徳79・攻撃力110。 

坊門清忠
ぼうもん・きよただ?-1338(暦応元/延元3)
親族父:坊門俊輔 兄:坊門俊親
官職右大弁、参議、左京大夫、大蔵卿、左大弁(南朝)
位階正四位上→従三位→正三位
建武新政雑訴決断所
生 涯
―後醍醐の側近公家―

 「坊門家」は藤原氏のうち藤原道長の兄・道隆の子孫の系統で、鎌倉初期までは家格が高く後鳥羽上皇との深い関係で権勢をふるった時期もあるが、かえって承久の乱に深く関与したため冷遇を受け、以後は公卿(参議)になれるかなれないか、中級の上ぐらいの貴族だった。
 坊門清忠がいつから後醍醐天皇の側近となっていたかは分からない。もっとも早く清忠の名前が史料上で確認できるのは『増鏡』の嘉元3年(1305)に亀山法皇が死去した時に、孫の尊治親王(のちの後醍醐)らが悲しみの歌を歌った記事の中に「清忠朝臣」「山姫の 涙の色も この頃は わさてや染むる 蔦の紅葉ば」と歌ったという記述がある。このころには大覚寺統、とくに後醍醐の近くに接近していたものと思われる。

 だが鎌倉幕府が存在している間は清忠の動向はほとんど分からない。嘉暦年間(1326-29)に後醍醐親政のもとで右大弁、参議と出世してその側近公家になっていることは確認できるが、後醍醐の討幕計画との関わりは表面的には見られない。北畠親房もそうだが、後醍醐側近とされつつも討幕計画そのものには直接関与しなかったのかもしれない。後醍醐が一時討幕挙兵に失敗して隠岐に流された時に参議を辞めているのでその間は冷遇されていたようだ。

 鎌倉幕府が打倒され、隠岐から後醍醐が凱旋してくると、「太平記」における清忠の活躍(?)が開始される。討幕戦の総司令官ともいえる護良親王は、六波羅探題を陥落させ新たな武家の棟梁として台頭してきた足利尊氏を警戒し、これを討とうとして信貴山に立てこもって帰京しようとしなかった。その説得のために後醍醐によって信貴山に派遣されたのが清忠だった。清忠は後醍醐と護良との間の伝言役をつとめただけで特に説得に成功したというわけでもないのだが、後醍醐の代理人役をつとめるだけ腹心とされていたことが分かる。

―正成を死地に追いやる?―

 建武政権が成立すると清忠は参議に復帰し、建武元年(1334)9月には大蔵卿。・従二位に昇進した。雑訴決断所の第二番(東海道地区担当)にも名を連ねている。

 建武2年(1335)7月に北条残党による「中先代の乱」が勃発、これを鎮圧した足利尊氏は関東に居座って「幕府」復活の既成事実を積み重ねていた。「太平記」ではこのとき尊氏と義貞がお互いに相手を非難して討伐の許可を求める奏上合戦を行ったことになっていて、清忠が「双方の訴えを読んでも正確なところは分からない。もう少し様子をみて判断すべき」と意見したことが書かれている。
 この直後に護良親王が足利直義によって殺害されたこと、直義が各地に兵を集める催促状を送っていたことが判明し、「足利追討」が決定される。この追討軍を破った足利軍が翌建武3年(1336)正月に一時京を占領、後醍醐らは比叡山に避難することになる。その後足利軍はいったん敗れて九州まで逃れるが、5月には九州を平定して大挙攻めのぼってくることになる。

 「太平記」では、この東上する足利軍を兵庫で新田義貞と共に迎え撃つよう命じられた楠木正成が、「九州勢を加えた足利軍の勢いでは、迎え撃っても味方は敗れてしまうでしょう。ここは新田軍を退却させて敵を京に入れ、以前のように帝には比叡山に臨幸していただきたい。わたくしも河内に戻って淀の水路をふさいで敵を兵糧攻めにします。敵を疲れさせたところで比叡山から義貞が、背後からわたくしが攻撃すれば一挙に勝利を得ることができましょう」と起死回生の作戦を述べ、公家たちも「戦のことは武士に任せよう」と話が決まりかけたところ、清忠が「正成の言うことにも一理あるが、討伐のために派遣された官軍が一戦もしないままに帝都を捨て、一年のうちに二度までも帝を比叡山に臨幸させるとは、帝位を軽んじ、官軍の存在意義を失わせるものではないか。尊氏が九州勢を率いてくると言っても、昨年の関東勢ほどのものではあるまい。先の戦で我ら官軍が小勢でありながら勝利を得られたのは、これは武士の戦略が優れていたからではない。帝のご威光が天命にかなっているからであるぞ。よって、帝都の外で決戦を行って朝敵を滅ぼせることはまったく疑う余地がない。ただちに出陣せよ」と述べ、正成の献策をあっさり退けたとされる。これに対して正成は「この上はもはや異議はございません。大敵をあざむいて勝利を得ようという智謀のお考えは無く、ただ無二の戦士を大軍にぶつけようというだけのお考えなのでしたら、いっそのこと『討ち死にせよ』との勅命を出していただきたい」と捨て台詞を吐いて出陣して言ったという。

 坊門清忠の名はこの場面によって史上不滅になってしまったと言っても過言ではない。現実的な作戦案を述べる正成に対し、体面にこだわり、「天皇の軍は天命によって必ず勝つ」と主張する大義名分論(正確にはそれを過大に歪曲した解釈だが)をふりかざして相手に反論の余地を与えないかなり悪質な発言で、このために官軍は敗北し、正成は死に、後醍醐は結局比叡山に逃げなければならなくなるのである。
 あくまでこの話は「太平記」だけが伝えるものであり、正成の悲劇性を強調する創作の可能性もあるが、戦況の推移をみるとこのような場面が実際にあったと推測させるところもある。またこの清忠の発言には後醍醐とその腹心たちが心酔していた宋学(朱子学)の大義名分論の匂いもたぶんにあり、同様の発言が出た可能性は高いと思える。また、「太平記」のこの場面では後醍醐の姿がないが、恐らく後醍醐自身が最終判断を下したはずで、「太平記」は後醍醐への直接批判を回避するために発言者を清忠にしたということもあるかもしれない。

 この「太平記」の記述のために、清忠は「忠臣・大楠公」を死地に追いやった俗物として後世筆誅を加えられることになる。南朝正統論を掲げ、楠木正成を「民族英雄」に仕立て上げる原動力となった水戸藩・徳川光圀編纂の『大日本史』では清忠伝の論賛に「藤原清忠は、一言もて良将を斃し、国事為すべからず。孔子の利口の邦家を覆へすを悪むとは、正しく此の輩なり」(清忠は一つの発言で良将を殺し、国に損失を与えた。孔子の言う「口先だけで国を滅ぼすような者を憎む」とはまさにこのような連中を言うのである)と激しく非難している(余談だがこの部分の執筆者は安積澹泊、「水戸黄門」の格さんのモデルである)
 後年日本軍部が文民統制に従わず暴走するが、その根拠にしばしば「坊門清忠」の例が挙げられたという。もっともその日本軍部の主張がむしろ坊門清忠の言ってることとソックリになっていくところが歴史の皮肉である。

―吉野での最期―

 湊川の戦いで正成が戦死、足利軍は京に入った。清忠は後醍醐につき従って比叡山に逃れ、この年11月に後醍醐が尊氏と一時和睦して比叡山から帰京した時も一緒につき従っている。そして12月に後醍醐が吉野へと脱出すると、その直後にこれを追い(同行していたかもしれない)、吉野に入って「南朝」の重鎮の一角を占めた。後醍醐の側近たちでもほぼ同時に吉野入りした者はそうそういないので、清忠は後醍醐の忠実な腹心であったと言える。

 清忠は吉野に入ってから1年あまりのち、延元3年(暦応元、1338)3月21日に死去した。この年の正月には後醍醐の乳父でやはり忠実な側近であった吉田定房が吉野で亡くなっており、後醍醐は二人を失ったさびしさを「事問はん 人さえまれに なりにけり わが世の末の ほどぞ知らるる」(相談相手となる人さえ少なくなってしまった。私の人生ももう先が見えてきたのだろうか)と詠った。この歌から、後醍醐にとって清忠は定房と並ぶ古参の側近、よき相談相手であったことがうかがえる。

参考文献
池永二郎「坊門清忠」(歴史と旅・臨時増刊「太平記の100人」所収)ほか
大河ドラマ「太平記」 第二部にあたる建武政権部分でレギュラー出演。演じたのは藤木孝で、古典「太平記」の伝える俗物公家イメージをより強調した怪演を見せ、以後「公家役者」として当たり役が多くなる。第23回の護良説得の使者として初登場、建武新政期は阿野廉子派に属している設定で、廉子や千種忠顕と和やかに(?)密談している場面が多い。「湊川の決戦」の回では正成を死地に追いやる朝議の場面で憎々しげな名演を披露、武田鉄矢演じる正成、片岡孝夫演じる後醍醐との激突は凄まじい迫力となった。次の回で正成が死ぬと自分の責任を棚に上げて義貞を叱責、結局正成の作戦どおりにするのを他の公家にとがめられると「湊川の前と後とでは事情が違う」とシレッと言うのが絶品だった。これが最後の登場場面となり、吉野へ同行したことは触れられなかった。
その他の映像作品 1933年の太秦発生映画「楠正成」では尾上卯多五郎、1940年の日活映画「大楠公」では志村喬が演じている。
 昭和39年(1964)の歌舞伎「私本太平記」では助高屋小伝次、平成3年(1991)の歌舞伎「私本太平記 尊氏と正成」では中村東蔵が演じている。
 昭和58年(1983)のアニメ「まんが日本絵巻」の楠木正成の回では吉水慶が清忠の声を演じた。
歴史小説では楠木正成を死地に追いやった役として登場例多数。
漫画作品では「太平記」および南北朝時代を扱った学習漫画ではかなりの登場率。清忠との明記がなくても正成の意見を退け出陣を命じる公家が出てくればそれは清忠とみていい。


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