小笠原(おがさわら)氏 |
源頼義 | ┬義家 | ─義親 | ─為義 | ─義朝 | ─頼朝 | |||||||||
└義光 | ┬義業 | →佐竹 | ||||||||||||
└義清 | ─清光 | ┬信義 | →武田 | |||||||||||
└遠光 | ┬光行→南部 | ┌貞長 | ─長高 | ┌長将 | ||||||||||
└小笠原長清 | ┬長経 | ─長忠 | ─長政 | ─長氏 | ─宗長 | ┴貞宗 | ─政長 | ─長基 | ┼長秀 | |||||
└長房 | ─長久 | ┬長義 | ─義盛 | ─頼清 | └政康 | |||||||||
└頼久 |
小笠原義盛 | おがさわら・よしもり | ?-1358(延文3/正平13)? |
親族 | 父:小笠原長義? 子:小笠原頼清? | |
官職 | 阿波守 | |
生 涯 | ||
―細川氏に投降した阿波有力武士― 小笠原一族のうち、鎌倉時代に阿波の守護をつとめていた系統。その系譜については『尊卑分脈』や後年の三好氏の系図類に義盛の子が頼清であるといった記述がみえるが実際にはこの二人は同世代の可能性が高く(下記外部リンク参照)、それら系図類も異同がある上に後世の造作の可能性も高く、確かなことはほとんどわからない。 建武4年(延元2、1337)6月に義盛は阿波国三好郡池田の大西城にあったが、讃岐の南朝勢力に呼応して讃岐の財田城(現・香川県三豊郡財田町)に入り、足利一門として四国支配を進めていた細川氏に対抗した。しかしわずか一ヶ月で敗北し、細川側に投降している(「桑原文書」)。以後は阿波守護・細川頼春の配下となって活動したとみられるが、義盛個人の動向は確認できない。 三好氏の系図のひとつ「吉田孫六系図」では観応2年(正平7、1352)に南朝軍が京都へ突入した際、細川頼春と共に四条大宮でこれを防ぎ、頼春ともど も49歳で戦死したとの記事が書かれている。義盛が頼春と行動を共にしていた可能性はあるが、「子の頼清も一緒に戦死した」とも書いていてこちらは完全に 虚構であり(頼清は南朝について反細川の立場であり、活動はその後も確認できる)、とても事実とは考えにくい。「三好家所蔵三好系譜」では延文3年(正平13、1358)8月9日の死去としていて、こちらも全面的に信用できるものではないが、一応の参考にはなる。 参考文献 宝賀寿男「三好長慶の先祖−阿波三好氏の系図疑惑について−」(→外部リンク) |
小笠原頼清 | おがさわら・よりきよ | 1314(正和3)?-1369(応安2/正平24)? |
親族 | 父:小笠原頼久もしくは小笠原義盛? | |
官職 | 周防権守・宮内大輔 | |
生 涯 | ||
―細川頼之に抵抗した阿波の南朝勢力― 小笠原一族のうち、鎌倉時代に阿波の守護をつとめていた系統。小笠原頼清本人の系譜について『尊卑分脈』は小笠原義盛の子とするが、他史料から頼清は義盛と同世代であり、義盛は早い段階で北朝側についていることが確認されるため、実際には頼清と義盛は従兄弟の関係で、実父は鎌倉末期に阿波守護をつとめた小笠原頼久ではないかとの論証がある(下記参考元参照)。『尊卑分脈』には後年の書き加えがあり、また阿波小笠原氏と戦国大名三好氏のつながりを示す系図類ともども後世の造作の可能性が高く、そのままうのみにすることはできない。 元弘の乱に際して幕府方として動員された阿波の小笠原一族が赤松円心らの軍と戦っていることが『太平記』に見え、これが頼清の可能性がある。『建武年間記』によると、反乱を起こした足利尊氏を九州に追った直後の延元元年(建武3、1336)4月に武者所が再編成された際、武者所の二番のなかに「小笠原周防権守頼清」がおり、これが頼清当人だとするとこの時期は後醍醐天皇方について京都方面にいたことになる。湊川の戦いのあとの足利軍の比叡山攻めでも後醍醐方で小笠原ら阿波勢が戦ったことも『太平記』に見える。 建武政権崩壊後、足利一門の細川氏が阿波の守護として入って来たため阿波小笠原一族はこれに対抗したが、小笠原義盛は延元2年(建武4、1337)6月に讃岐で足利方に敗れて投降し、以後は足利方として活動している。一方の頼清は阿波南朝勢力の中心となり、やがて足利幕府の内戦「観応の擾乱」の混乱に乗じて行動を起こし、正平5年(観応元、1350)から翌年にかけて細川勢と東条(現在の徳島市)などで激しく戦っている。この時細川方を率いたのは守護・細川頼春の子でまだ22歳の細川頼之で あった。正平7年(文和元、1352)2月に頼春が京都での南朝軍との戦いで戦死すると頼之が阿波守護職を継ぎ、頼清ら南朝勢力は頼之の攻勢の前に吉野川 上流の山間部に追い込まれてしまう。その後頼之が幕府の命で山陽方面の攻略にまわるとその隙を突いて動いたものの、大勢を挽回するにはいたらなかった。そ の拠点は田尾城(現・三好市山城町)であり、山間部の土豪らの支持を得て抵抗を続けたようである。 正平16年(康安元、1361)に幕府の管領をつとめていた細川清氏(頼之のいとこ)が南朝に寝返って京を占領したが間もなく奪回され、翌正平17年(貞治元、1362)3月に四国・讃岐へと渡った。頼之も阿波から讃岐へ進出し清氏と対峙したが、このとき小笠原頼清は阿波の兵300余騎を率いて清氏のもとへ馳せ参じ、頼之と戦ったという(「太平記」)。この戦いでは淡路の小笠原氏も清氏側について海上封鎖をおこなったが、清氏はこの戦いで戦死、四国における頼之の地位はいっそう強力なものとなった。 執念深く頼之に抵抗した頼清ももはや打つ手はなく、頼之もまた阿波の有力豪族である彼を滅ぼすよりは心服させるほうが好都合であったのだろう、やがて頼 之の方から投降の呼びかけがなされ、貞治6年(正平22、1367)正月に小笠原氏はついに頼之を通して幕府に帰順、以後は細川氏家臣の列に加わることと なる(『予章記』『予陽河野家譜』)。山間部の土豪たちの抵抗もこれと前後して終息した。 「三好家所蔵三好系譜」という史料によると頼清は応 安2年(正平24、1369)4月8日に享年56歳で没したという。これが確かであれば正和3年(1314)の生まれと推測され特に不自然ではないのだ が、この資料自体をどこまで信用していいか疑問もある。頼清の系譜も系図によりまちまちでその子孫がどうつながるのかも確たることが言えない。 参考文献 小川信『細川頼之』(吉川弘文館・人物叢書) 『徳島県の歴史』(山川出版社) 宝賀寿男「三好長慶の先祖−阿波三好氏の系図疑惑について−」(→外部リンク) (宝賀氏の論考は三好氏に関するものがメインですが、そのルーツとされた小笠原氏、および頼清について慎重かつ詳細な検証をなさっており、大いに参考になりました) |
興良親王 | おきよし・しんのう | 生没年不詳 |
親族 | 父:護良新王 母:北畠親房の妹? | |
生 涯 | ||
―親房に奉じられた護良の子― 護良親王の皇子。確実にわかる事跡は北畠親房に奉じられて常陸で活動したことであるが、その後赤松則祐に奉じられて「赤松宮」と呼ばれ、のちに南朝に反逆した護良の子で「陸良親王」とされる人物と同一人とする説も有力である。一方で両者は兄弟であり別人とする解釈も成り立つため、この項目では常陸で活動した護良の子・興良親王について記述し、「赤松宮」と呼ばれた人物については「陸良親王(みちよし・しんのう)」の項目を参照されたい。 なお、「陸良」にせよ「興良」にせよ、「○良」という諱は後醍醐天皇の皇子世代の通字である。南朝=大覚寺統は世代ごとに共通の通字が名に入っており(中国文化における「輩行字」である)、護良の皇子に「良」がつくのは不自然でもある。元服の際に後醍醐の猶子とされ親王宣下を受けた(親王の子は本来「王」)とする伝承が一部にあるのもそれが原因であろう。 興良の生母については「北畠親房の妹」とされることが多いが、これは『太平記』が「赤松宮」について述べたくだりに出てくるものである。興良と「赤松宮 (陸良)」が同一人物であればそれで確定なのだが、同母あるいは異母の兄弟という可能性も捨てきれない。ただ親房が興良を常陸に迎え入れた際に「当家また殊に由緒の御事候(我が家にとってはとても縁のあること)」と表現しているため、親房と興良の間に血縁があった可能性は高い。 北畠親房は延元4年(暦応元、1338)から常陸国・小田城に入って関東の南朝勢力拡大につとめていたが、多くの武士を味方につけるためには皇族を旗頭 に立てるべきと考えたのであろう、吉野の南朝宮廷に皇子の関東下向を求めた。そこで関東へ派遣されたのが興良親王であったわけだが、当然親房と血縁がある ことが重視されたであろう。 興良が関東へ向かったのは興国元年(暦応3、1340)と推定される。この途中で駿河国の南朝方・狩野貞長のもとに一時滞在しており、ここで信濃から身を寄せてきた叔父の宗良親王と対面している。この事実は宗良の私歌集『李花集』の詞書に「貞長のところに興良親王がいると聞いてしばし立ち寄った」と記していることから判明するもので、実は彼の名が「興良」と明確に分かるのはこの一文による。またこの一文のために江戸時代には興良を宗良の子とする誤解も広がり(護良の子は「陸良」とする見方が強かった)、『新葉和歌集』に載る、父に先立って死去した宗良の皇子(実名不明)を興良のこととする説も唱えられた。 興良親王が親房のいる小田城に入ったのは興国2年(暦応4、1341)とみられる。しかし足利方の攻勢の前に11月に親房らは小田城を離れ、親房が関城へ、興良は春日顕国に奉じられて大宝城へと移った。関・大宝両城は互いに連携し、地形を巧みに使って幕府軍相手によく奮戦したが、次第に劣勢となった。 また興良と親房の関係も悪化したようで、興国4年(康永2、1343)までに興良は大宝城を出て下野国・小山朝郷の居城小山城へと入っている。同年5月に親房が「範忠」なる者にあてて書いた書状で親房はこのことに触れ、興良の行動を「楚忽参差(軽率でちぐはぐ)」と批判し、「惜しむほどの者ではない」と突き放すようなことまで書いており、興良の小山行きは親房の意向に反するものであったことは間違いない。親房は「親王が他の者の手に引き渡されるようなことになっては家の瑕(きず)となるので、なんとしても阻止してもらいたい」とも記していて、親房にとって興良は「家」の者、つまりは身内と意識されていたこともうかがえる。 この時期、南朝内では小山氏を含めた東国の藤原系一族による「藤氏一揆」という分派活動があったと言われ、興良はその旗頭に担ぎ出された可能性もある。前後して親房も興良の代わりに「宇津峰宮」なる詳細不明の皇子(一説に尊良親王の子・守永)を吉野から迎えており、興良とは完全に別行動をとるようになった。 この興国4年の11月には関城・大宝城は陥落、親房は吉野へと帰って行った。興良親王の消息はこのあたりから不明になるが、やはり関東の南朝方の衰退により小山氏のもとにもいられなくなり、畿内へ帰ったものと推測されている。 「興良」なる皇子について確認できる事跡はここまでで、このあと護良親王の子とされる「将軍宮」「赤松宮」と呼ばれる人物(陸良親王?)が 南朝で活動する。「赤松宮」が親房の妹の子であることは『太平記』に明記されているので両者が同一人の可能性は高いが、断言はしがたい。同一人とした場 合、のちに彼が南朝に反逆という唐突な行動に出るのは、すでに関東で親房と対立があったこととつながっているのかもしれない。 参考文献 伊藤喜良『東国の南北朝動乱・北畠親房と国人』(吉川弘文館・歴史文化ライブラリ―131) 岡野友彦『北畠親房』(ミネルヴァ日本評伝選) 亀田俊和『南朝の真実』(吉川弘文館・歴史文化ライブラリ―378)ほか | ||
歴史小説では | 田中俊資の小説『南朝盛衰記』は興良親王を陸良と同一人物としたうえで主人公に設定し、その幼少期から南朝に対する反逆までの波乱の生涯を通して南北朝史を描いた大長編である。 | |
PCエンジンHu版 | シナリオ2「南北朝の大乱」の南朝方武将として武蔵・府中城に登場する。能力は「長刀2」。 |
大仏流(おさらぎりゅう)北条氏 |
時政 | ┬義時 | →得宗 | |||||
└時房 | ┬時盛 | →佐介流 | |||||
└朝直 | ┬宣時─ | ┬宗宣 | ─維貞 | ┬高宣 | |||
├朝房 | ├宗泰 | ─貞直 | ├高直 | ─高朝 | |||
├時遠 | ├貞房 | ├家時 | |||||
└直房 | └貞宣 | ┬時英 | └貞宗 | ||||
└高貞 | |||||||
大仏遠江守 | おさらぎ・とおとうみのかみ | 生没年不詳 |
官職 | 遠江守 | |
『太平記』流布本巻三の、笠置山・赤坂城攻めのたえめ派遣された幕府軍の中に名の見える人物だが実名不明。しかも古態本である西源院本にはその名が見えず、そもそもそんな人物が実際に出陣していたかどうかも怪しい。 |
小田(おだ)氏 |
宇都宮宗綱 | ┬朝綱 | →宇都宮 | ||||||||||
└── | 八田知家 | ┬知重 | ─── | ┬泰知 | ─時知 | ┬宗知 | ─貞宗 | ─治久 | ┬孝朝 | ─治朝 | ─持家 | |
├知基 | →茂木 | ├重継 | →田野 | └道知 | └邦知 | |||||||
├家政 | →宍戸 | ├光重 | →小幡 | |||||||||
├知尚 | →浅羽 | └泰重 | →高田 | ┌時知 | ─知貞 | |||||||
└時家 | ─── | ─景家 | ─知員 | ─知宗 | ┴貞知 |
小山(おやま)氏 |
小山政光 | ┬朝政 | ─朝長 | ─長村 | ┬時長 | ─宗長 | ─貞朝 | ┬秀朝 | ┬朝郷 | ||
├宗政 | →長沼 | └時朝 | ─宗朝 | ├高朝 | └氏政 | ┬義政─ | ─若犬丸 | |||
└朝光 | →結城 | └秀政 | └女子 | |||||||
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結城基光 | ─小山泰朝 |