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おがさわら〜おんちさこん

小笠原(おがさわら)氏
  清和源氏。甲斐武田氏の分流で、甲斐国巨摩郡小笠原が名字の由来となった。その主流は鎌倉時代に信濃に土着して、南北朝時代にはほぼ一貫して足利尊氏方に ついて南朝勢力と戦った。室町時代に入ると礼儀作法の有職故実の家として知られるようになり、「小笠原流」の名を後世に残すが、本流の信濃小笠原氏は内紛 があった上に戦国時代に武田氏の攻勢で信濃を追われ、江戸時代にはその系統が各地に分散して大名となり明治まで残った。石見・阿波・淡路など各地に分家が あり、阿波・淡路の小笠原氏は南朝方について細川氏の支配に抵抗を続け、やがて細川氏の家臣に加わっている。
(注:長房以降の「阿波小笠原氏」の系譜については疑問も多い)
源頼義┬義家─義親─為義─義朝─頼朝









└義光┬義業佐竹












└義清─清光┬信義武田












└遠光┬光行→南部




┌貞長─長高
┌長将





└小笠原長清┬長経─長忠─長政─長氏─宗長貞宗政長長基長秀






└長房─長久┬長義義盛頼清


└政康








└頼久






小笠原貞宗おがさわら・さだむね1292(正応5)-1347(貞和3/正平2)
親族父:小笠原宗長 母:赤沢政常の娘 兄弟:小笠原貞長 
子:小笠原政長・小笠原宗政・坂西宗満
官職右馬助・治部大輔・信濃守
位階従五位下
幕府信濃守護
生 涯
―南北朝序盤を生きた信濃守護―

 信濃守護・小笠原宗長の子で正応5年(1292)4月に信濃国松尾に生まれる(永仁2=1294生まれの説もある)。幼名は「豊松丸」、長じての通名は「彦五郎」。
 元徳元年(元弘元、1331)に後醍醐天皇が倒幕の挙兵をすると、貞宗は幕府の命を受けて畿内へ出陣し、9月に大仏貞直率いる一隊に加わって宇治から大和路を経て楠木正成がこもる赤坂城攻略に参加した(『光明寺残編』)。元徳3年(元弘2、1333)正月に再び幕府軍の一員として畿内に出陣しているが(『太平記』)足利高氏が倒幕の挙兵をするとこれに呼応して鎌倉攻めに参加(貞宗の父・宗長に尊氏から軍勢催促状が送られている)、その功績により建武政権から従五位下・信濃守に任じられ、信濃守護職を認められた。埴科郡船山郷(千曲市小船山)に守護所を置いていた。

 建武2年(1335)7月に信濃に逃れていた北条時行諏訪頼重らと「中先代の乱」を起こすと貞宗は信濃守護としてその鎮圧にあたり青沼(千曲市杭瀬下)などで戦ったが、国府を襲われて国司を殺され、その進撃を食い止めることができなかった。中先代の乱の鎮圧後、建武政権は村上信貞を「信濃惣大将」として信濃に派遣し北条残党の討伐を行わせたが、これは守護の貞宗の職務と競合するもので、このことが貞宗を尊氏寄りに傾斜させたかもしれない。足利尊氏が関東で建武政権に反旗を翻したとき、『太平記』の記述では貞宗は初めは新田義貞率いる足利討伐軍の一員に加わって京都を出陣したことになっているが、実際にはすでに信濃におり、早い段階から尊氏側に味方していたようである。
 建武3年(延元元、1336)9月には比叡山にこもる後醍醐天皇方に対し近江の琵琶湖上を封鎖、兵糧攻めにして講和に追い込んでいる。『太平記』にはこのとき近江の武将佐々木道誉が 小笠原貞宗に国内を仕切られることを嫌い、いつわって後醍醐方に投降を申し入れて近江守護職を認められ、これを「将軍(尊氏)からいただいた」と称して貞 宗を近江から追い出してしまった、という逸話が書かれている。いささか理解に苦しむ逸話でそのまま事実とは思えないが、貞宗を道誉がうとんじて一計を案じ て追い出した、ということはあったのかもしれない。『太平記』では信濃に帰ってしまっているが、実際にはその後新田義貞のこもる越前・金ヶ崎城攻めにも参 加している。

 貞宗は信濃における拠点を筑摩郡井川(松本市)に移し、信濃支配の体制を固めた。ただし信濃は関東を支配する鎌倉府に任される形ともなっており、貞宗は北信濃を中心に鎌倉府の守護代・吉良氏と併存していた。建武5年(延元3、1338)正月には奥州から遠征してきた北畠顕家軍を足利方が迎え撃った「青野原の戦い」に参加して芳賀禅可と共に一番手に突撃、渡河したが、伊達・信夫ら奥州勢にさんざんに射られて多くの兵を失っている(『太平記』)
 暦応3年(興国元、1340)、越後から新田義宗が信濃に侵入、北条時行・諏訪頼継がこれに呼応して南朝勢が一時勢いを見せたが、貞宗はこれらを攻略して信濃における足利方優勢を固めている。康永2年(興国4、1343)3月には南朝の総帥・北畠親房が拠点を置く常陸・大宝城の攻略にも参加した。

 貞和3年(正平2、1347)5月26日に56歳で没した。後世、小笠原氏が武家の礼儀作法の家となり「小笠原流」が名高くなると、貞宗はその「中興の 祖」として祭り上げられ、先祖伝来の作法を大成したうえ後醍醐天皇や足利尊氏に指導までしたことにされたが、事実ではないとみられる。ただ彼が騎射にすぐ れ、笠懸や犬追物で名を馳せたのは事実のようである。また元から渡来した禅僧・清拙正澄に深く帰依し、その隠居所となった鎌倉・建長寺の「禅居庵」は貞宗が建ててたほか、清拙正澄を開山として信濃伊賀良荘に「開禅寺」を建てている。

参考文献
「長野県の歴史」(山川出版社)ほか
PCエンジンCD版信濃国の北朝方独立系君主として登場。初登場時の能力は統率66・戦闘83・忠誠28・婆沙羅50
PCエンジンHu版シナリオ2「南北朝の動乱」に北朝方武将として、信濃・深志城に登場。能力は「弓2」
メガドライブ版足利方武将として京都攻防戦や白旗城の戦いのシナリオで登場する。能力は体力101・武力107・智力88・人徳60・攻撃力100
SSボードゲーム版東山地域の「武将」クラスとして登場する。能力は合戦2・采配5。ユニット裏は息子の政長。

小笠原為経おがさわら・ためつね生没年不詳
生 涯
―信濃の尊氏党―

 信濃の守護も務めた有力武士・小笠原一族の者であろうが、為経当人の系統は不明である。
 信濃では守護をつとめる小笠原氏と、名族諏訪氏の長年の対抗関係があり、観応の擾乱が始まった時、小笠原家当主の小笠原政長は尊氏派、諏訪家当主の諏訪直頼は直義派・南朝方に属していた。この観応2年の6月29日、小笠原為経・小笠原十郎次郎佐藤元清武田文定らは、諏訪家の代官禰津宗貞と野辺宮原で合戦に及んでいる。
大河ドラマ「太平記」ドラマ中への登場はないが、第48回のラストで佐々木道誉が尊氏に「信濃で小笠原と諏訪直頼が合戦となった」と伝えにくる場面がある。

小笠原長秀おがさわら・ながひで1366(貞治5/正平21)-1424(応永31)
親族父:小笠原長基 兄弟:小笠原長将・小笠原政康
官職兵庫助・修理大夫・信濃守
幕府信濃守護
生 涯
―信濃を追われた信濃守護―

 小笠原長基の子で貞治5年(正平21、1366)9月に生まれたという。兄に長将がいるが、長秀がもともと嫡子であったらしい。永徳3年(弘和3、1383)2月12日付で父から譲状を与えられ各地の所領を継承したが、小笠原氏が代々持っていた信濃守護職は上杉氏・斯波氏に奪われたままで、その奪還が長秀の宿願となった。
 明徳2年(元中8、1391)に足利義満が山名一族を討った明徳の乱に長秀は参陣を許され、義満との結びつきを強めた。そして応永6年(1399)に長秀はついに斯波義将から信濃守護職を奪回、義満の意向を受けて信濃支配に乗り出す。

 しかし長秀の強引な支配に信濃国人らの反発は強く、「大文字一揆」を結成して激しく抵抗した。翌応永7年(1400)8月に長秀は自ら信濃にくだり善光 寺に入って国務をみようとしたが、9月24日に大文字一揆軍と更級郡横田・四富河原(現長野市)で合戦となり、10月17日には大塔の古城にたてこもった 小笠原軍が全滅の憂き目となり、長秀はわずかな兵と共に塩崎城に逃げ込むはめとなった。10月20日に佐久の大井光矩の斡旋で講和した長秀はそのまま信濃を脱出、京都へと逃げ帰った。この戦乱は「大塔合戦」と呼ばれる。
 翌応永8年(1401)に信濃守護職は長秀から再び斯波義将の手に戻り、さらに応永9年(1402)には信濃は幕府直轄とされた。長秀は復権を果たせぬまま応永12年(1405)に弟の小笠原政康に所領を譲り、さらに応永19年(1412)に家督を譲って出家している。
 応永31年(1424)3月15日に55歳で死去。その翌年に政康が久々に信濃守護職を小笠原氏の手に取り戻している。後年小笠原氏が武家作法の家となると、長秀が義満の弓馬師範を務めたとの伝承が生まれたが、事実ではないとみられる。

参考文献
「長野県の歴史」(山川出版社)

小笠原長基おがさわら・ながもと1347(貞和3/正平2)-1407(応永14)
親族父:小笠原政長
子:小笠原長将・小笠原長秀・小笠原政康
官職兵庫助・弾正少弼・信濃守
幕府信濃守護
生 涯
―南北朝終盤を生きた信濃守護―

 信濃守護・小笠原政長の子で貞和3年(正平2、1347)1月に生まれる。判然としない部分が多いが父の政長は延文元年(正平11、1356)以前に死去していたらしく、長基は文和4年(正平10、1355)5月26日付の足利義詮御教書によりこの時点で信濃守護をつとめていることが確認できる。まだ幼い段階なので一族の者らが職務を代行していた可能性もある。この年に信濃の南朝方は宗良親王のもとに糾合して小笠原氏に挑んだが、桔梗ヶ原(塩尻市)の戦いで敗北している。
 諏訪大社の記録によると長基は貞治4年(正平20、1365)12月に南朝方の諏訪直頼と塩尻の金屋で戦っている(「守矢満実書留」)。詳細は不明ながらその後信濃の南朝勢力に動きが見られなくなるため、小笠原氏側の勝利に終わったものとみられる。ただしこの年の2月以降、幕府は信濃を鎌倉公方足利基氏の管轄下に置いており、基氏の意向で貞治5年(正平21、1366)以降上杉朝房が信濃守護職を務めるようになっている。長基は信濃守護職を奪われた形だが、軍事については鎌倉公方の命令を受けている形跡がなく京の幕府の後ろ盾のもとで一定の権限を維持しており、信濃は実質「二人守護」の体制になったとの見方もある。

 至徳元年(元中元、1384)に管領・斯波義将の弟の斯波義種が信濃守護となり、守護代として二宮氏泰が信濃に入った。二宮の信濃支配は信濃国人の反発を買い、ついに嘉慶元年(元中4、1387)4月に国人らが団結して善光寺平で挙兵、小笠原長基も村上頼国高梨朝高島津長沼太郎らと共に斯波・二宮方に攻撃をかけた。長基は斯波方についた諏訪頼継と7月に伊那田切(上伊那郡飯島町)、9月に筑摩郡熊井原(塩尻市)で攻防を繰り広げた。騒乱は半年に及び、管領の斯波義将自身が信濃守護となって国人らを懐柔して事態を収拾した。
 永徳3年(弘和3、1383)2月12日付で息子の小笠原長秀に譲状をしたため、領地と家督を継承させた。長秀は明徳の乱にも参加し、足利義満から認められて信濃守護職の奪回に成功したが、応永7年(1400)に信濃国人に反乱を起こされて大塔合戦で信濃を追われ、翌年信濃守護に再び斯波義将がなっている。この間父の長基の動向はまったく分からない。
 応永14年(1407)10月6日に61歳で死去した。

参考文献
「長野県の歴史」(山川出版社)
佐藤進一「室町幕府守護制度の研究(上)」ほか

小笠原孫六
おがさわら・まごろく?-1324(正中元)
生 涯
―正中の変で六波羅軍相手に奮戦―

 「正中の変」で討たれた美濃武士・多治見国長の家臣。名前から甲斐源氏・小笠原氏の一族ではないかと推測されるが系譜は不明である。『太平記』以外に史料が存在しない人物で、以下の経緯も『太平記』のみに拠る。
 元亨4=正中元年(1324)9月19日、小串範行に率いられた六波羅軍が多治見国長の宿所を襲撃、遊女に起こされた孫六は周囲の敵の様子を見て「六波羅の討手だ。今度の謀反の計画はすでに発覚したようだ。皆々、太刀が持ちこたえるまでは斬り合い、それから腹を切ろうぞ」と味方に言い(つまり国長が陰謀に参加していることを承知していたことになる)、弓を手に門の上の櫓にあがり、「なんと大袈裟な大軍か。我らの腕前の表れというものだな。率いる大将はどなたか。もっと近づいて矢を受けてごらんなされ」と言って矢を放ち、衣摺助房ら敵兵二十四人ばかりを次々と射殺した。そして残り一本となった矢を「冥土への旅の用心に」と腰に差し、「日本一の剛の者が謀反に与して自害する様を、見届けて語りぐさとせよ」と言うなり、太刀を口にくわえて櫓から飛び降り、自らを貫いて自害した。
 登場するのはこの場面だけながら、『太平記』最初の合戦で華々しく暴れて死んだ武士として強烈な印象を残している。

小笠原政長おがさわら・まさなが1319(元応元)-1355(文和4/正平10)?
親族父:小笠原貞宗 兄弟:小笠原政長・小笠原宗政・坂西宗満
子:小笠原長基
官職右馬助・兵庫頭・遠江守・信濃守
幕府信濃守護
生 涯
―南北朝中盤を生きた信濃守護―

 信濃守護・小笠原貞宗の子で元応元年(1319)7月に生まれる。南北朝動乱の序盤では父に従って足利方で各地を転戦したとみられ、康永3年(興国5、1344)に父から所領を譲られている。康永4年(興国7、1345)8月29日に挙行された天竜寺供養の行列の二番手の中に「小笠原兵庫頭政長」の名前が見える(『太平記』)。貞和3年(正平2、1347)に父の死の6日前に将軍足利尊氏から総領の地位と信濃守護職を安堵されている。
 
 貞和5年(正平4、1349)に京で高師直足利直義を打倒するクーデターを起こすと、政長は師直の屋敷に馳せ参じている(『太平記』)。その後の「観応の擾乱」でははじめ尊氏方で行動し、足利直義派の諏訪直頼と対抗したが、観応2年(正平6、1351)正月に政長の留守を守る弟たちが諏訪軍に大敗してしまう。その直後の正月16日に京にいた政長は屋敷に火を放って出奔、直義軍に身を投じた(『園太暦』)。その後打出浜の戦いに参陣し尊氏方を破っている。この戦いの結果直義派が勝利する形で尊氏と和睦するが、政長が信濃守護の地位を維持できた様子はない。
 この年の8月に尊氏と直義が決裂、諏訪直頼が直義に従って北陸へ動くと、政長はさっそく尊氏側について尊氏から信濃守護職の地位を取り戻し、信濃の諏訪氏を攻め、さらに遠江に進出し10月末にて直義派の吉良満貞と引馬で戦い、東下してきた尊氏と合流して駿河で直義軍を破った。

 翌文和元年(正平7、1352)に政長は諏訪直頼を攻める陣中で病に倒れ、死を覚悟して「せうとのの御つぼね」という近親女性(政長の母との推測あり)にあてて4月25日付で遺書をしたためている。その後の消息は確認できず、文和4(正平10、1355)に息子の小笠原長基が幼くして信濃守護になっていること、年延文元年(正平11、1356)10月9日の足利義詮御教書で「小笠原兵庫頭(亡くなった人物の領地や子孫をさす)」との記述があることからその頃に死去したとみる説が有力。小笠原家家譜では貞治4年(正平20、1365)3月21日に47歳で死去と記しているが、上記の理由から信用できないとの意見もある。

参考文献
「長野県の歴史」(山川出版社)
佐藤進一「室町幕府守護制度の研究(上)」ほか
大河ドラマ「太平記」ドラマ中への登場はないが、第48回のラストで佐々木道誉が尊氏に「信濃で小笠原と諏訪直頼が合戦となった」と伝えにくる場面がある。このときの小笠原家当主が政長である。
PCエンジンCD版父・貞宗のいる信濃国に1336年になると元服して登場する。初登場時の能力は統率63・戦闘64・忠誠88・婆沙羅51
SSボードゲーム版父・貞宗のユニット裏として東山地域の「武将」クラスとして登場。能力は合戦2・采配5

小笠原義盛おがさわら・よしもり?-1358(延文3/正平13)?
親族父:小笠原長義? 子:小笠原頼清?
官職阿波守
生 涯
―細川氏に投降した阿波有力武士―

 小笠原一族のうち、鎌倉時代に阿波の守護をつとめていた系統。その系譜については『尊卑分脈』や後年の三好氏の系図類に義盛の子が頼清であるといった記述がみえるが実際にはこの二人は同世代の可能性が高く(下記外部リンク参照)、それら系図類も異同がある上に後世の造作の可能性も高く、確かなことはほとんどわからない。
 建武4年(延元2、1337)6月に義盛は阿波国三好郡池田の大西城にあったが、讃岐の南朝勢力に呼応して讃岐の財田城(現・香川県三豊郡財田町)に入り、足利一門として四国支配を進めていた細川氏に対抗した。しかしわずか一ヶ月で敗北し、細川側に投降している(「桑原文書」)。以後は阿波守護・細川頼春の配下となって活動したとみられるが、義盛個人の動向は確認できない。

 三好氏の系図のひとつ「吉田孫六系図」では観応2年(正平7、1352)に南朝軍が京都へ突入した際、細川頼春と共に四条大宮でこれを防ぎ、頼春ともど も49歳で戦死したとの記事が書かれている。義盛が頼春と行動を共にしていた可能性はあるが、「子の頼清も一緒に戦死した」とも書いていてこちらは完全に 虚構であり(頼清は南朝について反細川の立場であり、活動はその後も確認できる)、とても事実とは考えにくい。「三好家所蔵三好系譜」では延文3年(正平13、1358)8月9日の死去としていて、こちらも全面的に信用できるものではないが、一応の参考にはなる。

参考文献
宝賀寿男「三好長慶の先祖−阿波三好氏の系図疑惑について−」(→外部リンク

小笠原頼清おがさわら・よりきよ1314(正和3)?-1369(応安2/正平24)?
親族父:小笠原頼久もしくは小笠原義盛?
官職周防権守・宮内大輔
生 涯
―細川頼之に抵抗した阿波の南朝勢力―

 小笠原一族のうち、鎌倉時代に阿波の守護をつとめていた系統。小笠原頼清本人の系譜について『尊卑分脈』小笠原義盛の子とするが、他史料から頼清は義盛と同世代であり、義盛は早い段階で北朝側についていることが確認されるため、実際には頼清と義盛は従兄弟の関係で、実父は鎌倉末期に阿波守護をつとめた小笠原頼久ではないかとの論証がある(下記参考元参照)。『尊卑分脈』には後年の書き加えがあり、また阿波小笠原氏と戦国大名三好氏のつながりを示す系図類ともども後世の造作の可能性が高く、そのままうのみにすることはできない。
 元弘の乱に際して幕府方として動員された阿波の小笠原一族が赤松円心らの軍と戦っていることが『太平記』に見え、これが頼清の可能性がある。『建武年間記』によると、反乱を起こした足利尊氏を九州に追った直後の延元元年(建武3、1336)4月に武者所が再編成された際、武者所の二番のなかに「小笠原周防権守頼清」がおり、これが頼清当人だとするとこの時期は後醍醐天皇方について京都方面にいたことになる。湊川の戦いのあとの足利軍の比叡山攻めでも後醍醐方で小笠原ら阿波勢が戦ったことも『太平記』に見える。

 建武政権崩壊後、足利一門の細川氏が阿波の守護として入って来たため阿波小笠原一族はこれに対抗したが、小笠原義盛は延元2年(建武4、1337)6月に讃岐で足利方に敗れて投降し、以後は足利方として活動している。一方の頼清は阿波南朝勢力の中心となり、やがて足利幕府の内戦「観応の擾乱」の混乱に乗じて行動を起こし、正平5年(観応元、1350)から翌年にかけて細川勢と東条(現在の徳島市)などで激しく戦っている。この時細川方を率いたのは守護・細川頼春の子でまだ22歳の細川頼之で あった。正平7年(文和元、1352)2月に頼春が京都での南朝軍との戦いで戦死すると頼之が阿波守護職を継ぎ、頼清ら南朝勢力は頼之の攻勢の前に吉野川 上流の山間部に追い込まれてしまう。その後頼之が幕府の命で山陽方面の攻略にまわるとその隙を突いて動いたものの、大勢を挽回するにはいたらなかった。そ の拠点は田尾城(現・三好市山城町)であり、山間部の土豪らの支持を得て抵抗を続けたようである。

 正平16年(康安元、1361)に幕府の管領をつとめていた細川清氏(頼之のいとこ)が南朝に寝返って京を占領したが間もなく奪回され、翌正平17年(貞治元、1362)3月に四国・讃岐へと渡った。頼之も阿波から讃岐へ進出し清氏と対峙したが、このとき小笠原頼清は阿波の兵300余騎を率いて清氏のもとへ馳せ参じ、頼之と戦ったという(「太平記」)。この戦いでは淡路の小笠原氏も清氏側について海上封鎖をおこなったが、清氏はこの戦いで戦死、四国における頼之の地位はいっそう強力なものとなった。
 執念深く頼之に抵抗した頼清ももはや打つ手はなく、頼之もまた阿波の有力豪族である彼を滅ぼすよりは心服させるほうが好都合であったのだろう、やがて頼 之の方から投降の呼びかけがなされ、貞治6年(正平22、1367)正月に小笠原氏はついに頼之を通して幕府に帰順、以後は細川氏家臣の列に加わることと なる(『予章記』『予陽河野家譜』)。山間部の土豪たちの抵抗もこれと前後して終息した。

 「三好家所蔵三好系譜」という史料によると頼清は応 安2年(正平24、1369)4月8日に享年56歳で没したという。これが確かであれば正和3年(1314)の生まれと推測され特に不自然ではないのだ が、この資料自体をどこまで信用していいか疑問もある。頼清の系譜も系図によりまちまちでその子孫がどうつながるのかも確たることが言えない。

参考文献
小川信『細川頼之』(吉川弘文館・人物叢書)
『徳島県の歴史』(山川出版社)
宝賀寿男「三好長慶の先祖−阿波三好氏の系図疑惑について−」(→外部リンク
(宝賀氏の論考は三好氏に関するものがメインですが、そのルーツとされた小笠原氏、および頼清について慎重かつ詳細な検証をなさっており、大いに参考になりました)

興良親王おきよし・しんのう生没年不詳
親族父:護良新王 母:北畠親房の妹?
生 涯
―親房に奉じられた護良の子―

 護良親王の皇子。確実にわかる事跡は北畠親房に奉じられて常陸で活動したことであるが、その後赤松則祐に奉じられて「赤松宮」と呼ばれ、のちに南朝に反逆した護良の子で「陸良親王」とされる人物と同一人とする説も有力である。一方で両者は兄弟であり別人とする解釈も成り立つため、この項目では常陸で活動した護良の子・興良親王について記述し、「赤松宮」と呼ばれた人物については「陸良親王(みちよし・しんのう)」の項目を参照されたい。
 なお、「陸良」にせよ「興良」にせよ、「○良」という諱は後醍醐天皇の皇子世代の通字である。南朝=大覚寺統は世代ごとに共通の通字が名に入っており(中国文化における「輩行字」である)、護良の皇子に「良」がつくのは不自然でもある。元服の際に後醍醐の猶子とされ親王宣下を受けた(親王の子は本来「王」)とする伝承が一部にあるのもそれが原因であろう。

 興良の生母については「北畠親房の妹」とされることが多いが、これは『太平記』が「赤松宮」について述べたくだりに出てくるものである。興良と「赤松宮 (陸良)」が同一人物であればそれで確定なのだが、同母あるいは異母の兄弟という可能性も捨てきれない。ただ親房が興良を常陸に迎え入れた際に「当家また殊に由緒の御事候(我が家にとってはとても縁のあること)」と表現しているため、親房と興良の間に血縁があった可能性は高い。

 北畠親房は延元4年(暦応元、1338)から常陸国・小田城に入って関東の南朝勢力拡大につとめていたが、多くの武士を味方につけるためには皇族を旗頭 に立てるべきと考えたのであろう、吉野の南朝宮廷に皇子の関東下向を求めた。そこで関東へ派遣されたのが興良親王であったわけだが、当然親房と血縁がある ことが重視されたであろう。
 興良が関東へ向かったのは興国元年(暦応3、1340)と推定される。この途中で駿河国の南朝方・狩野貞長のもとに一時滞在しており、ここで信濃から身を寄せてきた叔父の宗良親王と対面している。この事実は宗良の私歌集『李花集』の詞書に「貞長のところに興良親王がいると聞いてしばし立ち寄った」と記していることから判明するもので、実は彼の名が「興良」と明確に分かるのはこの一文による。またこの一文のために江戸時代には興良を宗良の子とする誤解も広がり(護良の子は「陸良」とする見方が強かった)『新葉和歌集』に載る、父に先立って死去した宗良の皇子(実名不明)を興良のこととする説も唱えられた。

 興良親王が親房のいる小田城に入ったのは興国2年(暦応4、1341)とみられる。しかし足利方の攻勢の前に11月に親房らは小田城を離れ、親房が関城へ、興良は春日顕国に奉じられて大宝城へと移った。関・大宝両城は互いに連携し、地形を巧みに使って幕府軍相手によく奮戦したが、次第に劣勢となった。
 また興良と親房の関係も悪化したようで、興国4年(康永2、1343)までに興良は大宝城を出て下野国・小山朝郷の居城小山城へと入っている。同年5月に親房が「範忠」なる者にあてて書いた書状で親房はこのことに触れ、興良の行動を「楚忽参差(軽率でちぐはぐ)」と批判し、「惜しむほどの者ではない」と突き放すようなことまで書いており、興良の小山行きは親房の意向に反するものであったことは間違いない。親房は「親王が他の者の手に引き渡されるようなことになっては家の瑕(きず)となるので、なんとしても阻止してもらいたい」とも記していて、親房にとって興良は「家」の者、つまりは身内と意識されていたこともうかがえる。
 この時期、南朝内では小山氏を含めた東国の藤原系一族による「藤氏一揆」という分派活動があったと言われ、興良はその旗頭に担ぎ出された可能性もある。前後して親房も興良の代わりに「宇津峰宮」なる詳細不明の皇子(一説に尊良親王の子・守永)を吉野から迎えており、興良とは完全に別行動をとるようになった。
 この興国4年の11月には関城・大宝城は陥落、親房は吉野へと帰って行った。興良親王の消息はこのあたりから不明になるが、やはり関東の南朝方の衰退により小山氏のもとにもいられなくなり、畿内へ帰ったものと推測されている。

 「興良」なる皇子について確認できる事跡はここまでで、このあと護良親王の子とされる「将軍宮」「赤松宮」と呼ばれる人物(陸良親王?)が 南朝で活動する。「赤松宮」が親房の妹の子であることは『太平記』に明記されているので両者が同一人の可能性は高いが、断言はしがたい。同一人とした場 合、のちに彼が南朝に反逆という唐突な行動に出るのは、すでに関東で親房と対立があったこととつながっているのかもしれない。

参考文献
伊藤喜良『東国の南北朝動乱・北畠親房と国人』(吉川弘文館・歴史文化ライブラリ―131)
岡野友彦『北畠親房』(ミネルヴァ日本評伝選)
亀田俊和『南朝の真実』(吉川弘文館・歴史文化ライブラリ―378)ほか
歴史小説では
田中俊資の小説『南朝盛衰記』は興良親王を陸良と同一人物としたうえで主人公に設定し、その幼少期から南朝に対する反逆までの波乱の生涯を通して南北朝史を描いた大長編である。
PCエンジンHu版
シナリオ2「南北朝の大乱」の南朝方武将として武蔵・府中城に登場する。能力は「長刀2」

小串範行おぐし・のりゆき生没年不詳
親族父:小串秀範
官職左衛門尉
幕府播磨守護代
生 涯
―正中の変で軍功―

 通名「三郎」。播磨守護であった北条(常葉)範貞の家臣として同国の守護代を勤めていたことが元亨2年(1322)3月15日の書状で判明している。元亨3年(1323)にも六波羅の指令で播磨国の地頭を召喚する使者に立っており、のち康永4年(興国6、1345)に出された足利直義による裁許状にも「元亨三年又同国佐用庄太田方給主小串三郎佐衛門尉範行」との明記があり、元亨年間に播磨に強い影響力を持っていたことをうかがわせる。
 
 元亨4年(1324)9月、後醍醐天皇による倒幕計画が密告によって六波羅探題に漏れた(正中の変)。9月19日早朝、六波羅は悪党討伐の名目で集めていた兵を、倒幕計画に参加していた美濃源氏の土岐頼兼多治見国長の京屋敷に向かわせた。この時の六波羅・北方探題は北条範貞がつとめており、その家臣である小串範行が多治見邸襲撃の指揮官となった。「太平記」によれば範行は国長らが酒に酔い潰れて寝ているところを急襲し、佐々木時信が裏手から攻撃して多治見勢を全滅させた。小串範行は恩賞として伊勢国・猪飼城を与えられたという。その後のことは不明。
 なお、「太平記」では元弘の乱で後醍醐天皇が笠置で敗北し捕えられて京に護送されたのち、天皇の奪回を図った殿ノ良忠「小串五郎兵衛尉秀信」が捕えたことが記されている。範行の兄弟かも知れない。

参考文献
佐藤進一「鎌倉幕府守護制度の研究」
大河ドラマ「太平記」第4回に登場する(演:松浦浩一)。正中の変当日の朝、京の町中をさまよっていた足利高氏の目の前で部下の報告を聞いて「多治見勢はみな討ち死によ!」と叫ぶ場面がある。報告だけで合戦の場面はない。


大仏流(おさらぎりゅう)北条氏
  北条氏佐介流初代の時房の二男・朝直を祖とする系統。その邸宅が鎌倉大仏の近くにあったためにこの呼び名がついたと言われる。「大仏」を「おさらぎ」と読 む理由については定説はないが、大仏建立以前からその地を「おさらぎ」と呼んでいたためともいう。当時はそのまま「だいぶつ」と呼ばれていた可能性もあ る。

時政┬義時得宗





└時房┬時盛佐介流





└朝直┬宣時─┬宗宣─維貞┬高宣




├朝房├宗泰貞直高直─高朝



├時遠├貞房
├家時



└直房└貞宣┬時英└貞宗





└高貞










大仏貞直おさらぎ・さだなお?−1333(正慶2/元弘3)
親族父:大仏宗泰 兄弟:大仏宣政 子:大仏顕秀
官職右馬助→陸奥守
幕府引付衆、引付頭人、遠江・佐渡守護
生 涯
―笠置・赤坂攻略の総司令官―

 北条一門・大仏流。史料上の初見は元亨2年(1322)7月12日で、この日に幕府の引付衆(最高首脳の評定衆の下部組織)の頭人となったことが確認できるためこれ以前に引付衆になったいたことは確実。
 元弘元年(1331)8月、後醍醐天皇がついに笠置山に倒幕の挙兵をする。これを鎮圧するため幕府は9月5日に大軍を関東から派遣し、その筆頭の大将軍が、このとき陸奥守となっていた大仏貞直であった。この大軍には金沢貞冬阿曽治時ら北条一門のほかに足利高氏も大将軍として加わっている。9月20日に京に入った貞直らはただちに後醍醐を廃帝とするために持明院統の量仁親王を新帝に践祚させ(光厳天皇)、それを見届けるとすぐさま笠置へと向かった。笠置山は28日に陥落し、翌日には後醍醐も囚われ、10月3日に貞直らは後醍醐を護送して京へと戻った。

 その後、10月15日に楠木正成がこもる赤坂城の攻略が開始される。幕府軍は四軍に分かれ、大仏貞直は第一軍の総大将として宇治から大和路を経由して赤坂を目指している(光明寺残篇)。赤坂城への本格的な攻撃は17日ごろから始まったと考えられ、21日夜に陥落させている。「太平記」の伝える正成の悪党的ゲリラ戦が展開されたのは事実なのだろうが、準備不足かこの時は正味4日で攻め落とされている。
 赤坂城を攻め落とした大仏貞直は京へ凱旋、11月5日には西園寺公宗を通して関東への帰還を朝廷に申し入れ、朝廷は彼の労をねぎらって馬を一頭恩賞として与えた(花園上皇の日記)。鎌倉に戻った貞直はその功績により遠江・佐渡の守護職を与えられたらしい。

―敵中に突撃、壮烈に散る―

 一時は鎮圧に成功したかに見えた倒幕運動だったが、翌年に護良親王・楠木正成が畿内で活発に活動、さらに正慶2年(元弘3、1333)に入ると後醍醐が配流先の隠岐を脱出、各地の反北条の反乱は勢いを増した。そして5月には足利高氏が反旗をひるがえして六波羅探題を攻め落とし、これに続いて上野の新田義貞が鎌倉攻めの兵を起こした。義貞の軍は見る見るうちに大軍に膨れ上がり、各地で北条軍を撃破して十日ほどで鎌倉に迫った。
 迫る敵に対して北条側は一門を鎌倉に入る切通し各所に配置して必死の防戦をした。大仏貞直は西からの入り口である極楽寺坂切通しの防衛にあたり、押し寄せる新田軍と激戦を展開した。5月18日に新田一門の大館宗氏が稲村ケ崎の干潟を突破して鎌倉に潜入したが、突出しすぎて大仏軍に包囲され全滅、宗氏は貞直の家臣・本間山城佐衛門に討ち取られた。本間は宗氏の首級を貞直のもとに持参、「これで多年のご恩に報いました。冥土への先駆けつかまつる」とその場で自害して果て、貞直以下、その意気に感じて涙したと「太平記」は伝える

 5月22日、稲村ケ崎を義貞の本隊が突破して鎌倉市中に突入、大勢は決した。鎌倉の前浜(鎌倉の前面の海に面する広い砂浜)では、もはやこれまでと自決する者が大勢出た。これを見た貞直は「日本一の不覚者どもの振る舞いかな。千騎が一騎になるまで、敵を滅ぼして名を後世に残してこそ、勇士の本意というものではないか。さあ快く最期の一合戦をして武士の意地を見せよう!」と叫んで兵たちと共に新田軍に突入した。生き残った味方がわずかになると「もはや下っ端を相手にしても無益」と、義貞の弟・脇屋義助率いる大軍の中に突入してゆき、一人残らず全滅した(「太平記」巻十「大仏貞直ならびに金沢貞将討死の事」)
 あえて定番の自害を選ばず、敵中に突撃して文字通り「散った」ことでひときわ目立つ武将である。
大河ドラマ「太平記」北条一門の幹部として序盤に何度か登場した(演:山中康司)。第9回では幕府首脳の一人として、第12回と13回では笠置・赤坂攻めの大将として高氏と共に軍議に参加したり、西園寺公宗に挨拶したりしている。第18回でも幕府首脳の会議の場に登場しているが、史実では壮烈な戦死を遂げた「鎌倉炎上」の回には登場しなかった。
その他の映像作品1926年の松竹キネマ「大楠公」志賀靖郎が演じている。
明治時代に作られた歌舞伎の演目に「高時」というものがあり、大仏陸奥守貞直が登場し、多くの役者に演じられている。
PCエンジンHu版シナリオ1「鎌倉幕府の滅亡」で幕府側武将として登場。ただし鎌倉ではなく遠江の鷺坂城に配置されている(遠江守護だからか?)。能力は「騎馬6」でかなり強い。
メガドライブ版新田・楠木帖でプレイすると「赤坂城」「千早城」「鎌倉攻防戦」のシナリオで敵方武将として登場する。能力は体力65・武力125・智力105・人徳78・攻撃力122

大仏高直おさらぎ・たかなお?-1334(建武元)
親族父:大仏維貞 兄弟:大仏高宣・大仏家時・大仏貞宗 子:大仏高朝
官職式部大夫→右馬助(右馬権助?)
生 涯
―千早城攻撃に参加―

 北条一門・大仏流。父の維貞は連署をつとめたこともある。高直は式部大夫から右馬助に補せられているが、「太平記」をはじめとして「陸奥右馬助」と記されることが多いところからすると陸奥守になっていた時期があるのだろうか(「保暦間記」には「陸奥守右馬権助」と明記あり)。またこの「陸奥」がつくためか、「太平記」では大仏貞直と混同されている。

 正慶元年(元弘2、1332)に護良親王楠木正成らの反幕府活動が畿内で活発化し、鎮圧にてこずるようになったため、翌年(1333)正月に幕府は大軍を畿内へと向かわせた。主将は阿曽治時二階堂道蘊・大仏高直の三人で、時治が正面から、高直は大和路を通って裏手から正成がこもる金剛山の千早・赤坂城を攻略することになった。しかし千早城は難攻不落で、これを攻めあぐねるうちに各地で反北条の挙兵が相次ぎ、5月にはついに足利高氏が寝返って、5月7日に六波羅探題を攻め滅ぼした。

 六波羅滅亡の知らせを受けた千早攻略軍の多くは四散、5月9日に主力の時治・高直・道蘊らは千早を撤退して奈良に入り、興福寺にたてこもってしばらく抵抗の姿勢を見せた。しかし鎌倉も攻め落とされたことを知った6月初旬に出家した上で後醍醐天皇側に投降した。古典「太平記」では直後の7月9日に彼らが処刑されたと記すが、実際には幽閉されただけで少なくとも翌年までは生かされている。二階堂道蘊のような官僚能力を買われて建武政権に参加した者もいるし、建武政権としては当初は寛大な対応を考えていたのかも知れない。

 だが翌建武元年(1334)3月9日に北条残党の一部が鎌倉奪回を狙って失敗するという事件が起きた。これに刺激されたようで、3月21日に阿曽治時・大仏高直・長崎高貞ら投降者たちが一斉に阿弥陀が峰で処刑された(「梅松論」)。近江・番場宿で集団自決した六波羅の武士たちの名を記した「蓮華寺過去帳」にも3月21日の記載がある。
大河ドラマ「太平記」第27回に登場する(演:河西健司)。 元弘3年9月ごろ、鎌倉幕府も滅んで後醍醐による新政が開始されだした時期に尊氏の呼びかけで在京の有力武士たち(楠木、名和、結城、新田)らが集合して 京復興の相談をする場面で、二階堂道蘊と共に旧幕府勢力の代表者として参加している。道蘊はともかく高直がこんな公の場に出てきたとは考えにくいのだが…
メガドライブ版
「新田・楠木帖」でプレイすると「赤坂城の戦い」シナリオで「北条高直」という人物が敵方に登場している。能力は体力74・武力110・智力93・人徳69・攻撃力93

大仏遠江守おさらぎ・とおとうみのかみ生没年不詳
官職
遠江守
 『太平記』流布本巻三の、笠置山・赤坂城攻めのたえめ派遣された幕府軍の中に名の見える人物だが実名不明。しかも古態本である西源院本にはその名が見えず、そもそもそんな人物が実際に出陣していたかどうかも怪しい。

忍の大蔵おしのだいぞう
 吉川英治の小説『私本太平記』、およびそれを原作とする大河ドラマ「太平記」に登場する架空人物。小説では伊賀出身の「忍(おし)」つまり忍者的な集団の一人で、はじめは六波羅探題の密偵として活動、倒幕計画をすすめる日野俊基の尾行をする。そのうちに楠木正季につかまり、その軍学師匠の毛利時親に拾われてその情報収集をやらされるが、次第に楠木正成に傾倒していく。
 大河ドラマでは第3回と第10回に登場(演:団厳)。普通の武士のようないでたちで、忍者同士(?)で顔見知りの一色右馬介から「六波羅の看得長(かどのおさ)」と声を掛けられている。正中の変の際に日野俊基の動向を探っていて、元弘の変のときには内裏へ逃げ込んだ俊基を乱闘の末に逮捕する。これは原作小説では大蔵の上司の本庄鬼六の役どころで、名前のよさで大蔵を採用したものらしい。
 昭和39年(1964)の歌舞伎「私本太平記」でも登場しており、尾上多賀蔵(三代目)が演じている。

小田(おだ)氏
  藤原北家の継投で、宇都宮氏から別れた八田知家を祖とし、常陸国筑波郡小田に拠点を構えたことから小田氏を称した。鎌倉時代にあっては常陸守護をつとめる など名門であったが、常陸北部の有力者・佐竹氏に押され気味となり、南北朝動乱では当初南朝方についたため常陸守護職は佐竹氏に奪われた。以後、室町から 戦国にかけて消長を繰り返しつつ存続したが、最終的に佐竹氏に本拠の小田城を奪われ没落した。

宇都宮宗綱
┬朝綱→宇都宮











└──八田知家
┬知重
───
┬泰知
─時知
┬宗知
─貞宗
治久
孝朝
─治朝
─持家



├知基
→茂木
├重継
→田野
└道知


└邦知





├家政
→宍戸
├光重
→小幡









├知尚
→浅羽
└泰重
→高田

時知
─知貞






└時家
───
─景家
─知員
─知宗
貞知





小田貞知おだ・さだとも生没年不詳
親族父:小田知宗
兄弟:小田時知・小田知春
子:小田維知・小田行知
官職筑後守・近江守
幕府六波羅探題引付頭人・評定衆
建武の新政
雑訴決断所(四番・八番)
生 涯
―六波羅軍の主力として活動―

 通り名は「二郎」。小田一族支流で代々六波羅探題に勤めた系統の出身で、父の小田知宗、兄の小田時知も六波羅探題引付頭人を務めている。「貞」の字は得宗・北条貞時から下されたもので、『太平記』では兄の時知より格上の扱いをされているため、次男ながら嫡子扱いであったと考えられる。

 元徳3年(元弘元、1331)8月24日、後醍醐天皇が宮中を抜け出して討幕の兵を挙げ、比叡山延暦寺の僧兵がこれに呼応すると、貞知は兄の時知らと共に六波羅軍を率いて琵琶湖西岸の唐崎浜で比叡山勢と戦っている。また25日のうちに捕縛された後醍醐側近の洞院実世の身柄を預かってもいる。その後の笠置山攻撃にも参加し、捕虜となった北畠具行の身柄を預かっている。
 その後の後醍醐方との京都攻防戦にも参加していたとみられるが貞知の動向は確認できない(兄の時知は赤松軍と戦っている)。六波羅勢の東下、番場での集団自決には同行しておらず、兄の時知と共に公家・中御門家のつてを頼って後醍醐方に投降したとみられる。建武政権では時知と共に雑訴決断所に名を連ね、主に西海道方面の訴訟を担当している。
 
 足利尊氏が建武政権に反旗を翻し、延元元年(建武3、1336)正月に京都へ攻め込むと、貞知は後醍醐方として足利軍と戦っている(「太平記」)。その後の活動は不明である。

小田孝朝おだ・たかとも1337(建武4/延元2)-1414(応永21)
親族父:小田治久
子:小田治朝・小田直高・小田治季
官職讃岐守
生 涯
―小田氏復興と没落と―

 小田治久の子で小田本家第八代当主。文和元年(正平7、1352)に父・治久の死により家督を継いだ。文和3年(正平9、1354)から足利尊氏に従って上京し、足利直冬ら南朝方との京攻防戦に参加、戦功をあげて小田氏の旧領であった常陸国信太荘・田中荘を恩賞として与えられて、常陸の名族ながら父・治久の代に衰退した小田氏の勢威を取り返すことに成功した。

 永徳元年(弘和元、1381)に小山義政が鎌倉公方・足利氏満に反抗して乱を起こすと、孝朝は氏満の命を受けて小山氏の反乱鎮定に功を挙げた。しかしその後の処置で氏満に不満を抱くようになったのか、義政の遺児・小山若犬丸をひそかに小田城にかくまった。嘉慶元年(元中4、1387)5月にそれが発覚し、鎌倉滞在中だった孝朝は即座に捕縛され、上杉朝宗率 いる討伐軍が小田城へ派遣された。小田城を攻め落とされた孝朝の家臣たちは若犬丸を擁して筑波山に築かれた男体山城にたてこもって一年にわたって抵抗し た。佐竹氏らの攻撃で男体山城は攻め落とされ、孝朝は許されて小田家そのものの滅亡はまぬがれたものの、信太・田中両荘を没収されてしまった。

 孝朝は和歌や書にも優れ、勅撰和歌集への入選や義堂周信との交流など、文化人としての活動も目立つ。また「小田流剣法」を創始したとも伝えられる。
 応永21年(1414)6月16日に七十八歳の高齢で死去した。嫡男の治朝に先立たれており、孫の持家が跡を継いでいる。

小田時知おだ・ときとも生没年不詳
親族父:小田知宗
兄弟:小田貞知・小田知春
妻:中御門経継の娘? 子:小田時綱・小田知貞
官職常陸介・和泉守
位階
従四位下
幕府六波羅探題引付頭人・評定衆
建武の新政
雑訴決断所(二番)
生 涯
―六波羅幹部が公家と縁組して生き残る?―

 常陸国に拠点を置く小田一族の一人だが傍流で代々六波羅探題に勤めた系統である。父の知宗も弟の貞知も六波羅探題で引付頭人を務めている。名の「時」は得宗の北条貞時の一字を受けたとみられるが、「貞」字は弟が受けており、弟の方が嫡流とされていたようである。

 元亨4=正中元年(1324)9月19日に後醍醐天皇の討幕計画が発覚(正中の変)すると、時知は二階堂行兼と共に六波羅探題の使者として北山の西園寺邸を訪れ、事件の首謀者として日野資朝日野俊基の二名を引き渡すよう朝廷に要請している。
 元徳3年(元弘元、1331)8月24日、後醍醐が倒幕挙兵を決意して未明に宮中を脱出したが、その夜に時知が兵を率いて宮中の捜索、乱暴に騒ぎたてた様子が『増鏡』に描写されている。27日には時知は貞知らと共に琵琶湖東岸の唐崎浜に出陣し、比叡山の僧兵と戦っている。その後の笠置攻撃にも参加し、後醍醐に同行して捕虜となった東大寺東南院の僧・聖尋の身柄を時知が預かり、のちに鎌倉に護送している。
 なおこの笠置陥落直後の10月14日に正平たちが何らかの不満を抱いて騒ぎだし、時知の屋敷を取り囲んで合戦に及ぼうとしたという伝聞を花園天皇が日記に記している。

 翌正慶元年(元弘2、1332)秋以降に畿内で後醍醐方の活動が激しくなり幕府は関東から大軍を繰り出すが、『太平記』巻6ではその軍勢の中に「小田常陸前司」として時知の名を並べている。
 正慶2年(元弘3、1333)3月1日に時知は佐々木時信と共に六波羅勢を率いて、摂津の摩耶山にこもった赤松円心を討ったが敗退。勝ちに乗って京へ攻め込んできた赤松軍と京で攻防戦を繰り広げている。

 このように六波羅軍の主力として戦った時知だが、同年5月の六波羅勢の逃亡、近江番場での集団自決には同行しておらず、六波羅陥落前後に後醍醐方に投降したとみられる。『尊卑分脈』の小田氏系図を見ると時知の子・知貞の母について「実父大納言経継卿云々」と注があり、時知が公家の中御門経継の娘を妻に迎えていたことを推測させる。時知はあるいはそのつてを頼って後醍醐方に投降したのではないか。
 建武政権では時知は弟の貞知と共に雑訴決断所の職員に名を連ねている。その後の詳しい動向は不明である。

小田中務少輔おだ・なかつかさしょうゆう生没年不詳
官職中務少輔
生 涯
―足利軍に従軍―

 常陸国小田一族の誰かであろうが実名不明。『太平記』巻14で建武2年(1335)11月に足利直義に率いられて新田義貞らの討伐軍に立ち向かって矢作川へ出陣した足利軍の中に「小田中務少輔」の名が見える。小田治久のこととする説もあるが、治久は建武政権=南朝方として活動しているためこの時点で足利軍に参加したとは考えにくい。

小田治久おだ・はるひさ1283(弘安6)-1351(文和元/正平7)
親族父:小田貞宗
子:小田孝朝・新田義貞室?
官職尾張権守・宮内権少輔・常陸介
幕府常陸守護?
生 涯
―鎌倉幕府から建武政権へ―

 常陸国筑波郡小田城に本拠を置く小田氏本流の第七代当主。佐竹氏の史料により文和元年(正平7、1351)に70歳であったと確認されるtまえ弘安6年(1283)の生まれと推定される(ただしより生年をさかのぼらせる系図史料もある)。第六代当主の小田貞宗の子とされるが、貞宗が建武2年(1335)に55歳で死去したとする史料があるため実際には兄弟であった可能性も指摘されている。また初め得宗・北条高時の偏諱を受けて「高知」と名乗ったとされるが(「知」は小田氏の通字)、彼自身は高時より年長であるためこれも改名したものと考えられる。『鑁阿寺新田足利系図』では新田義貞の嫡子・新田義宗の母は「小田真知」の娘とされていて、これが時期的に合致するため治久の初名が「真知」の可能性もある(単に「高」「貞」の誤記の可能性もあるが)

 嘉暦2年(1327)、陸奥の安藤氏の内紛から始まる「蝦夷大乱」が激しくなり、鎌倉幕府はその平定のため小田高知・宇都宮高貞を陸奥へ出陣させた。高知は病身の貞宗の代理であったという。6月に出陣した高知は7月には安藤季長を捕えたものの、乱の平定は難航し、翌嘉暦3年(1328)10月に「和議」という形で決着させ鎌倉に帰還した。
 元徳3年(元弘元、1331)8月に後醍醐天皇が笠置山で討幕の兵を挙げると、高知は幕府軍の一員として畿内へ出陣、笠置山が陥落すると楠木正成のこもる赤坂城攻略にも参加した。この乱がひとまず鎮定されると、後醍醐側近の一人・万里小路藤房は常陸へ流刑となり、高知がその身柄を預かることになった。このとき高知は状況の激変も考慮して藤房を厚遇したとみられ、やがて鎌倉幕府が滅亡すると元弘3年(正慶2、1333)6月に藤房と共に上京し、後醍醐天皇に接近している。
 おそらくこの時であろう、高知は「治久」と改名した。「治」は後醍醐の諱「尊治」の一字を賜ったものであり、このような厚遇を受けたのは他に足利尊氏(もと高氏)だけである。藤房の口添えが大きかったものとみられるが、あるいは後醍醐としては関東に足利を牽制するためのくさびを打ち込む意図があったのかもしれない。

―北畠親房を迎え入れて―

 足利尊氏の反乱で建武政権が崩壊、南北朝分裂の事態となると、治久ははじめ南朝方として活動している。後醍醐の厚恩に応えたいという気持ちもあっただろ うが、常陸覇権をめぐるライバルである佐竹氏に対抗するためでもあったろう。延元元年(建武3、1336)には治久は南朝方の楠木正家がこもる瓜連城を支援して佐竹氏の軍と戦っている。
 延元3年(暦応元、1338)9月、南朝の勢力挽回を図るため伊勢より出港した北畠親房の 船が、嵐を乗り越えて常陸国東条(現・稲敷市)に到達した。幕府方の攻撃を受けて次々と拠点を失った親房は、10月に入って治久の居城・小田城に迎え入れ られる。治久は親房を擁しておよそ3年間にわたって常陸南朝勢力の中心となって奮闘しt。親房が著書『神皇正統記』を執筆したのも小田城に滞在していた時 期のことである。
 しかし興国2年(暦応4、1341)に入ると高師冬率いる幕府軍が小田城を本格的に攻略し始め、南朝内部でも不協和音が生じたこともあり、ついに小田城 の内部にも幕府軍に内通する者が現れた。治久もこれ以上は戦えないと判断、11月に師冬に降伏した。親房には直前に退去を要望したらしく、親房は11月 11日に関城(現・筑西市)に写っている。師冬軍に投降した治久はそのまま師冬に従って関・大宝城の攻略に参加している。

 文和元年(正平7、1351)12月11日に死去。享年七十とされるが、七十八歳であったとする系図もある。
PCエンジンCD版
なぜか縁もゆかりもない周防長門に南朝方独立勢力として登場する。ゲームバランスのために配置変更となったものか。初登場時の能力は統率80・戦闘70・忠誠21・婆沙羅52で、南朝方の中では中立性の高い存在に設定されている。
PCエンジンHu版
シナリオ2「南北朝の大乱」で常陸・小田城に南朝方武将として登場する。能力は「弓2」
メガドライブ版
新田・楠木帖でプレイすると味方に、足利帖でプレイすると敵として登場する。なぜか天王寺の戦いや建武の乱での京都攻防戦で参加してくる。能力は体力76・武力98・智力102・人徳67 ・攻撃力53

越智伊賀守おち・いがのかみ生没年不詳
官職伊賀守
生 涯
―足利直義を南朝と仲介―

 越智氏は南大和地方の豪族で、興福寺に属しつつ南北朝時代は主に南朝勢力として活動した一族。江戸時代の編纂物なのでやや信用度が下がるが高野山の記録「高野春秋」には元亨2年(1322)4月に「大和国越智四郎」が六波羅探題と対立、六波羅が兵を送ったが鎮圧できなかったが、楠木正成が出陣してこれを平定したとする記事がある。その後の経緯からすると楠木氏と越智氏は「似たもの同士」でこのころから関わりを持っていた可能性がある。

 時代は下って正平5年(観応元、1350)10月26日、前年に高師直のクーデターにより政権を奪われて出家・隠遁を余儀なくされていた足利直義が、京を脱出した。古典「太平記」によれば直義は大和国の「越智伊賀守」を頼っていったとされ、越智の近辺の住民が協力して四方の道をふさぎ関所を作って直義をかくまったという。直義が味方を集めようとしたが畿内南部は南朝支配下にあるので味方が集まらないのではと心配すると、越智伊賀守が「こうなった上は、ともかく吉野の帝のもとに馳せ参じてはいかが」と意見し、吉野へ使者を使わした…とするのが「太平記」の筋書きだが、もともと越智氏じたいが南朝方であったのだから当初から南朝との連合は予定の行動だったのだろう。ただ越智氏と直義に事前にどのようなつながりがあったのかはわからない。

 越智の仲介で直義と南朝の連合が成立したことで楠木・和田といった南朝を支える武士たちも直義のもとに集まったと「太平記」は伝えており、越智氏と楠木 氏の間に深い関係があったことがにおわされている。ただしこの「越智伊賀守」の名前は全く不明であり、その後の活動も判然としない。
大河ドラマ「太平記」第46回に登場する(演:佐々木正明)。京を脱出した足利直義が河内・石川城に入った場面で、直義派所将に混じって顔を見せている。大和国人のはずだが「伊賀守」に引っ張られたか、伊賀から駆け付けてきたことになっている。自ら「楠木とも親しき間柄ゆえ参集を呼び掛けておいた」と直義に申し出ている。

乙夜叉おとやしゃ
 NHK大河ドラマ「太平記」に登場する架空キャラクター(演:中島啓江)花夜叉(実は楠木正成の妹)率いる田楽一座の一員で、藤夜叉歌夜叉子夜叉らと一緒に歌いながら舞を踊るが、ひときわ大柄で目立つ。2〜5回まで連続出演でとくにセリフもないのだが、第14回では藤夜叉の家で楽しそうに家事をする場面がある。第15回では赤坂落城後に一座の車引きに紛れ込んだ正成と寸劇を演じて幕府軍の兵たちを爆笑させる。

小山(おやま)氏
  藤原秀郷の後裔という太田氏の政光が12世紀中ごろに下野国小山荘に入って小山氏を称した。鎌倉幕府草創期に源頼朝のもとで活躍し、下野国守護をつとめ関 東における名族に成長、結城氏や長沼氏といった分家も起こった。南北朝動乱に際しては中先代の乱で当主秀朝を失い、南朝方についた同族の結城氏におびやか されるなど苦難が続いた。さらに南北朝終盤に鎌倉府に対する反乱(小山義政の乱)を起こしていったんは攻め滅ぼされ、その後結城氏から養子が入って家名を 保つも室町後半から戦国にかけての過程で何度となく断絶して弱体化が進み、江戸時代を前にして断絶した。

小山政光┬朝政─朝長─長村┬時長─宗長貞朝秀朝朝郷


├宗政長沼
└時朝
宗朝

├高朝
氏政義政若犬丸

└朝光結城



└秀政

└女子









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結城基光
─小山泰朝

小山氏政おやま・うじまさ1329(元徳元)-1355(文和4/正平10)
親族父:小山秀朝
兄弟:小山朝郷
子:小山義政・結城基光室
官職左衛門佐
幕府下野守護
生 涯
―若いながらも名族小山氏の栄光を背負う―

 小山秀朝の子。『尊卑分脈』では兄と共に秀朝の弟の高朝の子とされているが、ここでは参考程度にとどめる(あるいは朝郷と氏政が従兄弟という可能性もある)。建武2年(1335)の「中先代の乱」で父・秀朝が戦死した時はまだ7歳であった。恐らく兄の小山朝郷とも年齢差はそれほどなかったであろう。兄は幼くして足利尊氏に従って各地に転戦、関東の南北朝動乱ではやや南朝よりながら独立勢力を目指そうと画策するなど複雑な動きを見せたが、常陸にいた北畠親房「小山兄弟合戦」と書状で記しており、詳細は不明だが小山一族の中で兄の朝郷と弟の氏政との間で路線対立が起こり、一族郎党を巻き込んで深刻な内紛を起こしていた可能性がある。
 まもなく関東の南朝方はほぼ鎮圧され、小山兄弟の内紛もおさまったと思われる。貞和2年(興国7、1346)4月に朝郷が死去し、朝郷に子がいなかった ため18歳の氏政が小山家督を継ぐことになった。この年の12月に小山氏政は幕府から北朝朝廷に献じる馬10頭のうち1頭を献上しており、態度不鮮明の兄 とは異なり足利方に忠節を尽くすことを表明したとみられる。

 幕府の内戦「観応の擾乱」が起こり、足利尊氏と弟の足利直義との間で観応2年(正平6、1351)12月に薩埵山の戦いが行われると、氏政は宇都宮氏綱と共に兵を率いて下野から駆けつけ、直義軍を裏側からおびやかして尊氏軍の勝利に貢献した。翌文和元年(正平7、1352)閏2月に尊氏と南朝の宗良親王らが戦った笛吹峠の戦いでも氏政の参戦が確認できる(「太平記」)
 翌文和2年(正平8、1353)7月に関東平定を終えた尊氏は京へと戻るが、その軍勢の先陣は名誉なことなので諸将が競って望んだ。尊氏は結城直光に決めていたが側近の饗庭氏直(命鶴丸)「小山左衛門佐氏政は分限(家格)といい多勢(兵力)といい彼以外にはありえません。よくよくお考えを」とと」と意見した(「源威集」)。結局尊氏に説得されひっこめるのだが、氏政はまだ若く特にこれといった活躍もしていない。これは関東の名族・小山氏の声望の高さを示す発言ととらえるべきであろう。

 氏政は尊氏に従って上京し、その後の足利直冬ら南朝軍との京都攻防戦などに参加している。しかし文和4年(正平10、1355)7月23日に京都で死去、まだ27歳の若さであった。彼の死後、小山家督は息子の小山義政が継いだ。

参考文献
七宮A三『下野 小山・結城一族』(新人物往来社)
加地宏江校注『源威集』(平凡社・東洋文庫)

小山貞朝おやま・さだとも1282(弘安5)?-1330(元徳2)?
親族父:小山宗長 兄弟:小山貞光 妻:長井時秀の娘 子:小山秀朝・小山高朝・小山秀政
官職左衛門尉、下野大掾、下野守、検非違使
幕府下野守護、評定衆
生 涯
―鎌倉末期の下野守護―

 小山貞朝については詳しいことはほとんど不明である。鎌倉末期から建武政権で活躍した小山秀朝の父であり、彼以前に下野守護や幕府評定衆を務めていたことは確認できるが、それ以外の事跡はほとんど分からない。元亨3年(1323)10月の北条貞時十三回忌法要では「小山下野前司」が銭百貫文を寄進していて、これが貞朝ではないかとみられている。
 その没年についてもはっきりしない。『尊卑文脈』は徳治2年(1307)没とするが、『常楽記』は元徳2年(1330)10月に49歳で没とする。これが事実とすれば弘安5年(1282)の生まれとなるが、確定はできない。一方で元弘3年(正慶2、1333)5月に新田義貞に呼応して鎌倉攻めに参加、鶴見付近の戦闘で戦死とみる意見もある。ただしその戦いに参加していたのは息子の秀朝とみられ、小山氏の系譜自体がこのころはっきりしないこともあり、真相は藪の中である。
大河ドラマ「太平記」本編への登場はないが、第1回で足利荘に塩屋宗春(架空人物)らを追って侵入してくる軍勢は下野守護・小山氏のものである。この時期(劇中では1305年)の下野守護は不明だが、貞朝かその父・宗長の可能性がある。

小山朝郷おやま・ともさと?-1346(貞和3/興国7)
親族父:小山秀朝
兄弟:小山氏政
官職下野守
幕府下野守護
生 涯
―関東南北朝を複雑に遊泳

 小山秀朝の子。『尊卑分脈』では秀朝の弟・高朝の子となっているがここでは参考程度にとどめる。幼名を「常犬丸」、通称を「小四郎」、初めは「朝氏」と名乗った。生年は不明だが、建武2年(1335)の「中先代の乱」で父・秀朝が戦死した時点ではまだ幼かったと推定される。後醍醐天皇は秀朝の戦死直後に小山氏を下野守に任じて引き続き下野統治を任せたが、その後の足利尊氏が建武政権に反旗を翻すと、小山常犬丸は幼いながらも一族と共に足利軍に参加、尊氏直属で箱根・竹之下の戦いで功績を挙げ、武蔵国大田荘を恩賞として与えられた(「梅松論」)。その後も足利軍の一員として京都攻防戦にも参加している。
 常犬丸が出征している間、留守を守って下野守護のつとめを代行したのは「小山大後家」と呼ばれた常犬丸の祖母(貞朝の妻)であった。常犬丸が尊氏に従って九州まで下ったかは不明だが、尊氏が幕府を創設してから下野に戻ったと推測される。

 建武4年(延元2、1337)8月に北畠顕家が奥州勢を率いて西上を開始、下野に入ったところで小山氏、芳賀氏らがこれを妨害した。特に小山氏の拠点・小山城の抵抗は四か月の長きに及び、12月についに陥落、常犬丸は北畠軍に捕らえられた。だが北畠軍の中核的存在であった同族の結城宗広の とりなしで命は助けられている。この恩義もあったため常犬丸は以後中立的、あるいはやや南朝よりな立場をとるようになった。この時期には元服して初め「朝 氏」と名乗り、やがて「朝郷」と改名しているが、あるいは「氏」は尊氏から授けられたものであったため南朝寄りの姿勢を示すための解明であったかもしれな い。永徳2年(弘和2、1382)3月22日
 翌建武4年(延元3、1337)に北畠親房が常陸にやって来て関東に南朝勢力を拡大しようと活動を開始する。親房は北関東の名族である小山氏を味方に引き入れようと画策したが、小山氏がなかなか態度を明確にしないので、幼い朝郷とそれを補佐する祖母「大後家」に御教書を下して直接説得しようと努力している。その攻勢に折れたかこの年の12月に小山氏はいったんは南朝方につくことを親房に約束したようである。だが親房と小山氏の仲介をしていた結城親朝からして親房の出兵要請に積極的には応じておらず、やがて幕府軍の攻勢で親房らが劣勢に立たされるようになると小山氏はなおさら態度を不明確にさせるようになった。

 暦応3(興国元、1340)になると親房は相変わらず親朝に小山氏を味方に引き入れろと指示しているが、その中で「小山兄弟合戦」との表現を使っている。詳細は不明ならが、この時点で小山一族の中で朝郷と弟の氏政との間で紛争(路線対立)が起こっていたことは間違いないようである。それは単に兄弟間の争いにとどまらず一族家臣を含めた深刻な路線対立があったと思われる(それまで一族をまとめていた「大後家」が死去したのかもしれない)
 翌暦応4年(興国2、1341)に入ると南朝内で近衛経忠を中心に「藤氏一揆」と呼ばれる分派活動が起こり、経忠は小山朝郷に「坂東の管領」つまり関東支配権を任せて彼を中心に藤原秀郷系の一門を南朝方で団結させようとしたとされる。またあくまで噂として親房が書状に書いていることだが、朝郷は新田義貞の遺児・義興を仲介者として南朝に任官運動をしていたともいい、真偽は定かではないが朝郷が親房と一線を画し、なおかつ足利方でもない道を模索していた可能性がある。
 さらに、親房が吉野から呼び寄せて奉じていた護良親王の子・興良親王を、 康永2年(興国4、1343)までに朝郷が小山に招いている事実がある。親房はこの興良の行動に怒りをあらわにしており、朝郷が興良を奉じて親房とは別の 一派を作ろうとしていたのは間違いないようである。いずれにしてもこの年に結城親朝が足利方につちえ関・大宝城が落城、親房も吉野に帰り、興良もその後の 消息が知れず畿内へ戻ったと思われる。

 貞和2年(興国7、1346)4月13日に朝郷は死去した。享年は不明だがせいぜい二十代前半であろう。子はなかったため、弟の氏政が跡を継いだ。

参考文献
七宮A三『下野 小山・結城一族』(新人物往来社)ほか
SSボードゲーム版
「小山朝氏」の名で、「武将」クラス、勢力範囲「北関東」で登場する。能力は合戦能力1・采配能力5。ユニット裏は甥の小山義政。

小山秀朝おやま・ひでとも?-1335(建武2)
親族父:小山貞朝 兄弟:小山高朝・小山秀政 子:小山朝郷・小山氏政
官職大夫判官、下野守
位階贈正五位
幕府下野守護
生 涯
―中先代の乱で戦死した下野守護―

 藤原秀郷の子孫で、鎌倉時代に代々下野国守護をつとめた小山氏の鎌倉末期〜南北朝初期の当主。初名は北条高時から一字を与えられ「高朝」といったらしい。事実とすれば恐らく鎌倉幕府滅亡後の改名と思われるが、『元弘日記裏書』に中先代の乱で戦死した人物を「藤原高朝」と記しており、この時点でも高朝と名乗っていたのか、あるいは高朝は弟ではないかとの見方もある。
 元弘元年(1331)8月に後醍醐天皇が倒幕の挙兵をすると、小山秀朝も幕府軍に動員されて畿内へ赴き、大仏貞直率いる第一軍に属して楠木正成がこもる赤坂城攻略に参加している(「光明寺残篇」「太平記」)。赤坂城陥落後、しばらく京にとどまってから帰郷したとみられ、後醍醐挙兵に参加したため下野に流刑となった公家・洞院公敏の身柄を預かっている(「増鏡」)
 2年後の元弘3年(正慶2、1333)5月に新田義貞による鎌倉攻めが始まると千葉貞胤らと共にこれに呼応し、金沢貞将率いる迎撃軍を鶴見付近で撃ち破っている。この功績により建武政権から下野守に任じられ、関東の有力武士の一員として足利直義のいる鎌倉にあってその統治を助けた。
 しかし建武2年(1335)7月に北条高時の遺児・北条時行らによる反乱「中先代の乱」が起こり、たちまち大軍となって鎌倉を目指した。先に迎撃に出た渋川義季岩松経家らは戦死、これに続いて7月22日に秀朝が武蔵国府中に出撃してこれを迎え撃ったが敗北、秀朝はそ一族郎党数百人もろとも多摩川のほとりで自害して果てた。
 この敗戦で小山氏が受けた打撃は大きかった。残された秀朝の息子たちもまだ幼く、有力家臣の多くが失われたことで名門小山氏の基盤そのものがかなり後退したと言われる。
大河ドラマ「太平記」本編への登場はないが、第31回で中先代の乱の情報が今日に届くところで「討ち死にした小山殿」という表現で言及されている。
歴史小説では中先代の乱での戦死で名前は言及されることが多い。
メガドライブ版足利帖でプレイすると、なぜか最初の六波羅攻撃で使える。その次の中先代の乱のシナリオでももちろん登場しているが、史実通りに討ち死にする可能性大。能力は体力66・武力89・智力75・人徳56・攻撃力75

小山宗朝
おやま・むねとも生没年不詳
親族父:小山時朝
官職
出羽守
生 涯
―笠置・赤坂攻略に出陣した歌人武将―

 小山氏のうち傍流の系統。元亨3年(1323)の北条貞時十三回忌法要の記録に「小山出羽前司」として名前が見え、系図類と照らし合わせるとこれが小山宗朝であることが確認できる。また正中2年(1325)の『最勝光院荘園目録では「三原荘」の領家として「関東備前守小山出羽入道息女」と記されており、これは名越宗長と小山宗朝の娘が夫婦として名を連ねていると解釈される。
 元徳3年(元弘元、1331)に後醍醐天皇が笠置山に挙兵、楠木正成が呼応して赤坂城にたてこもると、鎌倉幕府は関東から大軍を派遣したが、その中に「小山出羽入道」の名がある(「太平記」)

 建武政権が足利尊氏に 叛かれ、一時尊氏を九州に追った直後の建武3年(延元元、1336)3月30日付で後醍醐が久我家に与えた綸旨に、「小山出羽入道円阿跡」である尾張国海 東中荘の地頭職を久我家のものとする、という内容が書かれている。この綸旨から小山宗朝の法名が「円阿」であることも判明するが、発行の時期からみて宗朝 が足利方についたためその領地を取り上げられたのだと考えられる。

 宗朝は歌人としての活動も知られ、室町時代に選出された「新百人一首」、江戸時代に選出された「武家百人一首」にそれぞれ一首ずつ和歌が選ばれている。

小山義政おやま・よしまさ?-1382(永徳2/弘和2)
親族父:小山氏政
子:小山若犬丸
官職下野守
位階
従五位下
幕府下野守護
生 涯
―名族小山氏の滅亡を招く

 小山氏政の子。父の氏政は文和4年(正平10、1355)に京付近で転戦中に27歳で死去し、義政がそのあとを継いだ。彼の生年は不明だがまだ10歳にもならなかったと推測される。
 応安元年(正平23、1368)に武蔵の河越氏ら「武蔵平一揆」が南朝の新田義宗と結んで関東管領の上杉憲顕に反乱を起こした。このとき小山義政は上杉軍に味方して上野へ出陣、新田勢壊滅に貢献したと言われる。また関東の名族・小山氏の存在感から関東管領の上杉氏と並んで応安年間からほぼ毎年のように幕府の貢馬の沙汰人をつとめている。

 「康暦の政変」で中央で管領・細川頼之が失脚したその翌年、康暦2年(天授6、1380)に小山義政は宇都宮基綱と合戦を起こし、5月16日の裳原の戦いで基綱をついに敗死させた。小山氏と宇都宮市は下野の二大勢力であり、南北朝期後半では下野国守護の機能を半分ずつ分かち合うことになり、何かとライバル関係が続いていた。このとき義政が一気に思い切った行動に出たのは「康暦の政変」の際にみられた京の将軍・足利義満と鎌倉公方・足利氏満の対立関係が背景にあるとの見方もある。
 ともあれ氏満は基綱戦死を知るとただちに小山討伐を決定し、6月15日に自ら鎌倉より出陣した。小山側はほぼ一方的に攻め込まれる形となり、本拠の小山 祇園城まで鎌倉勢に迫られた8月29日に降伏の使者を氏満に送った。氏満はこれを受け入れていったん鎌倉に引き上げたが、義政の降伏はその場のしのぎのも ので何ら反省の色を見せず、12月に入るとまた反乱を起こした。

 翌永徳元年(弘和元、1381)6月に氏満は再び出陣して小山攻めを行い、8月には小山鷲城にこもった義政は激しい籠城戦を行った。かつて義政が攻めた 新田一族の残党も義政の味方に加わったとされる。4か月近い戦いの末に、12月6日に鷲城の外堀が埋められたため、12月8日に義政は禅僧を使者に送って 降伏を申し入れた。義政は自身が出家して隠居し、息子の若犬丸に家督を継がせたいと申し出て、これは氏満に受け入れられた。これだけの反乱を起こしておいてずいぶん甘い処分と思えるが、伝統的な名族である小山氏にはそれが許されたのだろう。
 義政は出家して「永賢」と号し、若犬丸は一族と共に氏満の陣に出頭して降伏し、小山家督を継ぐことを許された。

 だが二度目の降伏も本気ではなかった。翌永徳2年(弘和2、1382)3月22日に義政と若犬丸は居城の祇園城に火を放ち、足尾山地の粕尾城に移ってまたも挙兵したのである。さすがに氏満側の反応も素早く、29日には上杉朝宗らの討伐軍が粕尾を襲い、4月13日に城は落ちて義政は山中で自害して果てた。若犬丸は奥州へと落ち延びている。
 名族小山氏だけに義政の助命をはかる動きや最後の攻撃をためらう武将も出たとされるが、氏満はさすがに許さず、名族小山氏はここにひとまず滅亡した。

参考文献
七宮A三『下野 小山・結城一族』(新人物往来社)
田辺久子『関東公方足利氏四代』(吉川弘文館)ほか
PCエンジンCD版
下野の南朝方武将として登場するが、下野国主・結城親光の家臣扱いである。初登場時の能力は統率50・戦闘52・忠誠68・婆沙羅27
PCエンジンHu版
シナリオ2「南北朝の大乱」で「小山義久」という武将が下野・小山城に登場するが、おそらく義政の誤り。能力は「騎馬2」
SSボードゲーム版
「小山朝氏」のユニット裏で、「武将」クラス、勢力範囲「北関東」で登場する。能力は合戦能力1・采配能力4

小山若犬丸おやま・わかいぬまる?-1397(応永4)
親族父:小山義政
生 涯
―名族小山氏復興を目指して奮闘―

 小山義政の嫡男。父の義政は康暦2年(天授6、1380)に宇都宮基綱を討ったために鎌倉公方・足利氏満に討伐される身となり、いったん降伏したがまた反乱を起こし、永徳元年(弘和元、1381)12月に二度目の投降をした。このとき義政は出家・隠居し、家督を若犬丸に譲ることを条件に投降しており、若犬丸は一族と共に武蔵府中の氏満の陣営まで赴いて直接投降をして許された。
 しかし永徳2年(弘和2、1382)3月22日に義政・若犬丸父子は居城の祇園城に火を放ち、粕尾城に移ってまたも挙兵した。氏満はすぐさま徹底した討伐を命じ、4月13日に義政は自害に追い込まれた。若犬丸は奥州へと逃れ、三春の田村則義を頼ってここにかくまわれた。

 4年後の至徳3年(元中3、1386)5月27日、若犬丸は突然古巣の小山・祇園城に姿を現し、挙兵した。このころ小山氏旧領の処分が決まっており、不 満を抱く小山遺臣に担ぎ出されたものとみられる。守護代の兵が攻撃したが若犬丸らはこれを撃退、7月に氏満が自ら出陣して古河まで迫ると若犬丸はさすがに かなわぬと見たか、また行方をくらましてしまう。
 翌嘉慶元年(元中4、1387)5月になって、通報により若犬丸が常陸国小田城の小田孝朝にかくまわれていることが判明する。小田氏もかつて常陸の名族であり一時は南朝についた共通点があることから若犬丸をかくまう気になったのかもしれない。発覚時、小田孝朝は鎌倉にいたため即座に逮捕され、7月には上杉朝宗ら が討伐軍として小田城へ派遣された。若犬丸と小田氏家臣らは小田城から筑波山の天険に築かれた男体山城に移り、鎌倉支配に反感を抱く周辺豪族らの協力も あって翌年5月まで抵抗を続けた。しかし常陸守護・佐竹氏の出馬もあって5月18日に男体山城は陥落、若犬丸はまたも逃亡して再び三春の田村則義を頼っ た。

 その直後の嘉慶2年(元中5、1388)6月、幕府は小山氏の分家で小山義政の姉婿である結城基光に小山氏の名跡を継がせ、小山氏を「復活」させることにした。名族小山氏の消滅を惜しんだためでもあるが、もちろんしつこい抵抗を続ける若犬丸にその動機を失わせる狙いもあったであろう。基光の次男・泰朝が小山氏を継承することとなったが、若犬丸がそれを知って何を思ったかは想像するよりほかはない。

 南北朝合体も成ったのちの応永2年(1395)春に三春の田村義則が白河結城氏と対立して挙兵した。そこにかくまわれていた若犬丸も参加し、さらに新田義宗の遺児・新田義則ら南朝残党も加わって反乱は拡大した。翌応永3年(1396)6月に事態を重く見た氏満が自ら大軍を率いて白河まで出陣すると、反乱軍に参加していた者たちは四散してしまい、若犬丸はまたも行方をくらます。
 だが半年後の応永4年(1397)正月15日、若犬丸は会津の地で芦名氏に捕らえられて自害した。実に17年に及ぶ若犬丸の戦いはここに終わったのである。すでに元服していてもよい年齢のはずで「隆政」という名も伝わるが、『本土寺過去帳』には「若犬明賢」としか記されていない。また彼には二人の息子がいたが鎌倉に連行され海に沈められたという。

参考文献
七宮A三『下野 小山・結城一族』(新人物往来社)ほか

恩地(智)左近おんちさこん
生 涯
―架空のくせに「実在化」しちゃった正成家臣―

 楠木正成の腹心の老臣としてしばしば小説等で登場する人物。ほとんど実在のように扱うものまであるが、実は古典「太平記」には登場せず、近世初期に成立とされる「太平記評判秘伝理尽鈔」に登場する人物。この「理尽」は「太平記」が「太平記読み」たちによって人々に親しまれるなかで、原典「太平記」に飽き足らない聞き手の要求に応じてもっと話を面白くするために膨大なサブストーリーを付け加えて編集されたもの(「太平記読み」たちのタネ本とも言われる)で、特に大人気だった楠木正成周辺の「面白すぎる逸話」が満載になっている。ここで登場する「恩地左近太郎満一」は各所で正成と共に奮戦、湊川の戦いに赴く前の「桜井の別れ」の際に正成に命じられて正行を連れて河内に帰ったことにされている。その後「恩地左近太郎聞書」なるものを書いて後世に正成の事跡・軍学を伝えたということになっていて、その「聞書」が「理尽」にも掲載されている。どう考えても怪しい話で、「理尽」に箔をつけるために作者らによって創作された人物とみていいだろう。

 この「恩地」は「理尽」に続いて出た太平記注釈本「太平記無極鈔」においては「恩地五郎」として登場、さらに江戸初期に楠木正成の子孫を称する軍学者によって説かれた兵法「南木流」(由比正雪がこれを学んだことが有名)においては「恩地左近丞正俊」とされて、こちらにも別の「恩地聞書」が登場する。その他にも江戸時代に乱立した「楠木兵法」各種で「恩地正遠」「恩地光明」「恩地政忠」などなど、勝手に名前が付けられて利用されまくっている(恩地の名前を見ればどの流派か分かるほどだそうな)。そして近代以降に「正成=大楠公」顕彰の流れの中でますます実在人物化してしまい、戦後においても吉川英治の「私本太平記」ほか複数の正成小説で恩地左近が登場している。

参考文献
平凡社・東洋文庫「太平記秘伝
理尽鈔」第2巻の今井正之助氏の解説「正成伝承の生成」
大河ドラマ「太平記」 大河ドラマ「太平記」は吉川英治の小説を原作としたため恩智左近が楠木家の執事的存在の老将として登場している(演:瀬川哲也)。正成の心をよく理解した忠実な老人で、どこかとぼけた味もあった。このドラマでは河内へ返されずに湊川合戦に参加、正成と共に壮絶な死闘を演じた末に自害する。
その他の映像作品 1926年の松竹キネマ「大楠公」では「恩地左近太郎」として登場し高山晃が演じている。1933年の太秦発声映画「楠正成」では浅香新八郎、1936年の映画「小楠公とその母」では天野栄、1940年の映画「大楠公」では「恩地満一」として香川良介が演じている。
 昭和39年(1964)の歌舞伎「私本太平記」では尾上鯉三郎(三代目)、平成3年(1991)の歌舞伎「私本太平記 尊氏と正成」では尾上菊蔵(六代目)が演じた。
歴史小説では戦前以来、各種歴史小説で登場している。
PCエンジンCD版摂津河内に楠木正成の武将として登場。初登場時の能力は統率53・戦闘85・忠誠94・婆沙羅45
メガドライブ版やはり楠木正成の武将として登場。「足利帖」でプレイすると京都攻防戦のシナリオで敵方に、「新田・楠木帖」でプレイすると赤坂・千早・京都攻防戦のシナリオで味方として登場する。能力は体力37・武力46・智力95・人徳96・攻撃力34


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