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ゆうき〜ゆうきもとみつ

結城(ゆうき)氏
 藤原秀郷の子孫を名乗る小山氏の支流。小山政光の三男・朝光が下総国結城に分家して結城氏を称した。朝光の子孫はさらにいくつもの分家に分かれ、本家の下総結城氏の他に奥州白河に分家した白河結城氏もおこって、南北朝時代にはこの白河結城氏の宗広・親光らが南朝方について活躍、一時本家をしのぐ勢いを見せた。南北朝後半には下総結城氏も勢いを盛り返し、15世紀に「結城合戦」でいったん断絶、のちに再興して戦国時代まで生き抜く。最後は徳川家康の二男・秀康を養子に迎えているが、結局「結城」氏としては断絶してしまうことになる。

小山政光┬朝政小山



親朝顕朝
満朝




├宗政長沼
┌祐広─(白河)
宗広親光└朝常
─政常
満朝



└朝光┬朝広───┼広綱
─(下総)
┬時広─貞広朝祐
直朝





├朝俊
平方
├時広金山└宗重
→大内

直光
基光
┬満広



├時光寒河├信朝平山




└泰朝
─氏朝


├重光山川
├朝泰








└朝村網戸└義広益戸







結城顕朝
ゆうき・あきとも生没年不詳
親族父:結城親朝 兄弟:小峰朝常・白川朝胤
養子:結城満朝
官職弾正小弼・大膳大夫
幕府
奥州八郡検断職
生 涯
―祖父から結城本家を継承―

 白河結城氏、結城親朝の長男。通り名は「七郎左衛門尉」。建武3年(延元元、1336)4月2日付で祖父の結城宗広から白河など各地の所領を譲り受け、形式的には祖父から直接白河結城および結城一族惣領の地位を引き継ぐ。父の親朝は「小峰氏」として分家した形で、小峰氏は弟の朝常が継いだ。
 父と共に初めは南朝方で支配領域拡大のため戦ったが、康永2年(興国4、1343)に足利尊氏から「建武二年までに獲得した所領の安堵」を条件に投降を求められ、父ともども幕府方に旗幟を変えた。その後親朝が病床に付したため、貞和2年(正平元、1346)に幕府の奥州管領の指揮下で顕朝が出陣、陸奥国の霊山城や宇津峰城、さらには出羽方面まで出かけて南朝拠点の攻略に当たった。しかし当初約束されていた所領安堵・八郡検断職がなかなか認められなかったため、貞和4年(正平3、134)2月に自らの功績を主張し約束の早期実現を嘆願する申状を幕府に提出している。

 中央で足利幕府の内戦「観応の擾乱」が始まった観応元年(正平5、1350)9月に、奥州北方で南朝を指揮していた北畠顕信が顕朝に南朝方に戻るれば領地を安堵するとの書状を送っている。幕府が内紛を起こしたこと、顕朝が領地問題で不満をくすぶらせていたこととを知って、誘いをかけてきたのである。しかしさすがに祖父の代から白河結城氏は情勢判断に慎重で、顕朝はこれには応じなかった。
 「観応の擾乱」は奥州にも飛び火し、足利直義派の吉良貞家高師直派の畠山国氏の「二人の奥州管領」どうしが合戦を始めた。観応2年(正平6、1351)2月に顕朝は吉良貞家の催促に応じて畠山国氏のいる岩切城攻略に参加、岩切城を攻め落として国氏を自害に追い込んだ。この功績により、一時的に内戦に勝利した足利直義じきじきに、顕朝の弟・白川朝胤あてに戦功を賞する御教書が送られている。
は弟の満直満貞を奥州南部の稲村と篠川(それぞれ福島県須賀川市と郡山市内)に派遣し
 その後直義と尊氏の対立が再燃すると、その年の6月には南朝の後村上天皇から味方に来るようにとの綸旨が顕朝に届き、8月になると今度は尊氏から所領安堵の確認と軍勢催促状が届いた。南奥州を押さえる白河結城氏の存在が各陣営で重要視された証しである。この状況のなか顕朝は各方面に「いい顔」をしながら結局様子見を決め込んでいる。こうした動きの甲斐あって文和2年(正平8、1353)に白河など奥州八郡の検断職をようやく幕府から認められている。

 第二代将軍・足利義詮の時代も末の貞治6年(正平22、1367)には、反乱を起こした吉良治家の討伐軍に義詮の命を受けて参加している。
 応安2年(正平24、1369)6月に顕朝は養子(小峰家出身)の千代夜叉丸(満朝)に所領を引き継がせる譲り状を書き、隠居した。没年は不明だが法名は「大年相公」と伝わっている。

参考文献
七宮A三『下野 小山・結城一族』(新人物往来社)ほか

結城親朝
ゆうき・ちかとも生没年不詳
親族父:結城宗広 兄弟:結城親光
子:結城顕朝・小峰朝常
官職大蔵少輔・大蔵大輔(南朝)・修理権大夫(南朝)
建武の新政奥州将軍府式評定衆・奥州八郡検断職
生 涯
―父と共に建武政権に貢献―

 白河結城氏、結城宗広の長男。初名は「親広」で、通称は「七郎」。生年は不明だが、元亨4年(1334)に「正中の変」がおこったころにはとっくに成人したとみられる。「正中の変」の直後に宗広が「上野七郎兵衛」あてに書いた書状が現存し、この「上野七郎兵衛」が親朝のことらしく、宗広は彼が出羽から無事に戻ったことを喜んでいる。この時期出羽では「蝦夷」の大規模な反乱が起こっていたとされ(同時期の安藤氏の内戦「津軽大乱」も絡むか)、親朝はその平定に出陣していた可能性が高い。
 
 元弘3年(正慶2、1333)5月に鎌倉幕府が滅亡した際、白河結城氏は直前になって後醍醐側に転じた。鎌倉にいた宗広は新田義貞の軍勢に参加、次男の親光は京にいて後醍醐方に走った。親朝は白河にいたとみられ、幕府滅亡後に書かれた宗広の請文には「自分や愚息親朝・親光や弟たちが京都・鎌倉・奥州で戦った」と記しているので親朝は白河方面で何か活動していたのかもしれない。
 この功績により結城宗広は本家筋の下総結城氏から結城一族の惣領権を獲得、この年の末に義良親王北畠顕家が奥州・多賀城に下って「奥州将軍府」が設置されると、父の宗広と共に親朝もその評定衆のメンバーとなって東北統治にあたった。建武2年(1335)10月には顕家から白河を含む奥州南部八郡の検断職(その地域の守護に近い)を任された。

 建武2年(1335)末に足利尊氏が建武政権に反旗を翻して関東から京へと進撃すると、北畠顕家が奥州勢を率いてこれを追い、出発にあたって12月29日付で親朝が侍大将に任じられている。親朝が指揮官として加わった顕家の奥州勢は尊氏軍を京から追い出すことに貢献、尊氏が九州へ逃れている間に全軍奥州へと帰還した。このとき親朝は義良親王の命により下野国守護職を与えられている。

 その後九州から東上した尊氏が建武政権を打倒、後醍醐が吉野に南朝を開いた。延元2年(建武4、1337)8月に後醍醐からの度重なる要請に応じて北畠顕家が二度目の長征に出発、父の宗広もこれに同行したが、親朝は白河で留守を守った。この奥州軍二度目の長征は翌延元3年(建武5、1338)5月の和泉・石津の戦いにおける顕家の戦死で終わり、宗広も伊勢から海路で奥州への帰還を目指したが嵐により伊勢に舞い戻され、そのままその地で死去してしまう。『太平記』では宗広は死にあたって「息子には、わしの後生の弔いなどいらぬ、朝敵の首をとって我が墓前に並べよと伝えてくれ」と遺言したとされる。実際にそのような遺言があったのか、あったとしてそれを親朝が聞けたのかも不明だが、親朝はこの年の9月に常陸・小田城に入った北畠親房から支援をたびたび要請され、いろいろと苦労させられることとなる。

―悩み悩んで旗幟変更―

 常陸で活動する親房にとって、父の代からの南朝方で奥州の玄関口・白川を押さえる結城親朝はきわめて重要な存在であった。親房は小田城、から関城へと移動しながら五年間のうちに七十通余りに及ぶ書状を親朝に送り、それがほぼそのまま後世に伝わったことから親房と親朝周辺の状況が詳細に判明している。親房は親朝に密に連絡をとって奥州諸勢力や小山氏を南朝に引き込むよう工作を依頼し、早期に挙兵して関東へ南下するようしきりにうながした。
 親朝は決してこれを無視したわけではなく、延元4年(暦応2、1339)7月には長福楯の戦い(現・福島県東白川郡)で幕府方と戦って親房から領地を恩賞として与えられるなど支配領域の拡大に努めていたほか、常陸野親房に対して物資面での支援を行っていた形跡もある。一方で陸奥に入った北畠顕信からの支援要請もあり、幕府軍の出動で親房ら常陸南朝方が押され気味になってくると親朝もそう簡単には動けなかった。親房はしきりに出陣要請を受けながら動こうとしない親朝に焦りを覚え始め、親朝の方でも自分の仲介で南朝方につこうとする武士が地位や土地の安堵を求めても原則論でそれに応じない親房の態度に次第に不満を抱くようになったとみられる。

 興国2年(暦応2、1341)11月、親朝のもとに足利尊氏からの書状が届いた。この書状は現存せず内容は不明だが、翌年4月にやはり尊氏から親朝に「味方に来れば領地は安堵する」という書状が送られていてその中で「先にもそう伝えた」とあるので、11月のものも降伏勧告の内容であったのだろう。親房の態度および南朝の列聖で去就に迷う親朝に、尊氏は白河結城氏の地位と領地の安泰を餌に投降の誘いをかけ続けた。
 そして興国4年(康永2、1343)4月19日付の尊氏から多賀城の石塔義房に送られた書状の中で、親朝・顕朝父子がすでに幕府方に味方したことが明記される。2か月前に白河結城氏が建武新政期に獲得した領地も保証するとの約束が尊氏から示されたことで親朝も決断したのである(一方で同年閏4月に白河結城氏と思われる軍勢が幕府方の石川荘村松城を攻めたという史料がある)。8月19日に親朝は公式に幕府側に降伏を表明、9月に北朝年号「康永」を使用して結城一族郎党が結束して幕府に忠節を示す名簿一覧を尊氏に提出している。
 常陸・関城にいた親房は親朝の幕府投降を全く知らず、8月末まで親朝の出陣を期待する内容の書状を書いていた。しかし親朝の幕府方投降により関・大宝城は支援を断たれ、11月に落城、親房は吉野へと去って行った。直後に親朝は石塔義元から「関・大宝城から落ち延びてきた者がいたら捕えよ」との命令を受け取っている。

 この直後の11月28日に、親朝は次男の小峰朝常に領地を譲渡する「譲状」をしたためている。親朝の嫡男は顕朝であるが、顕朝は祖父の宗広から白河本領を相続、親朝は近くの小峰城に入って分家「小峰氏」を創設した形になっていて、親朝はその小峰の領地を朝常に継がせたのである。この時期に譲状が書かれたのは、父以来の南朝支援を断ち切ったことに親朝が自責の念を抱き、隠居の意思があったことを示すのかもしれない。
 貞和4年(正平3、1348)2月に顕朝が書状の中で「親朝は所労(病気)の間」と記していて、この時期すでに長く病床にあったことをうかがわせる。正確な没年は不明だが、このころ死去したものと推測される。

 江戸時代以後、南朝正統論と尊王思想が高まるなかで親房の「神皇正統記」(一説に親朝に読ませるために書かれたとされる)や「関城書」(親房が親朝説得のために書いたとされる名文)がもてはやされ、それを袖にして寝返った親朝への風当たりは厳しいものになった。父・宗広と弟・親光が「忠臣」として称揚される一方で親朝は「親の心子知らず」「愚兄賢弟」の代表のように扱われてしまった。戦後は親房の非現実性が批判され親朝の行為は当然視もされるようになったが、近年では親朝も可能な範囲で親房に協力する努力はしていたことに注目する意見もある。

参考文献
佐藤進一『南北朝の動乱』(中公文庫)
伊藤喜良『東国の南北朝動乱・北畠親房と国人』(吉川弘文館・歴史文化ライブラリ―131)
七宮A三『下野 小山・結城一族』(新人物往来社)
岡野友彦『北畠親房』(ミネルヴァ書房・ミネルヴァ日本評伝選)ほか
歴史小説では北畠親房を扱った小説類で登場するが、あくまで書状のやりとりということもあり特に印象には残らない。
漫画作品では石ノ森章太郎「萬画日本の歴史」では親房から親朝への七十通におよぶ書状攻勢がコミカルに描かれ、親房の頑迷さにあきれ果てた親朝が手紙の山に埋もれて北朝側につくとわめく場面が印象的。佐藤進一「南北朝の動乱」の記述を下敷きにしたと思われる。
PCエンジンCD版このゲームではなぜか伊勢志摩にいて、北畠親房の配下武将。初登場時のデータは統率54・戦闘58・忠誠43・婆沙羅87。婆沙羅の数値が高いのはやはり「寝返り」があるからだろう。
PCエンジンHu版シナリオ2「南北朝の大乱」に南朝方武将として陸奥・白河城に。能力は「騎馬4」
SSボードゲーム版父の結城宗広のユニット裏で公家方「武将」クラス、勢力地域は「奥羽」。合戦能力1・采配能力3

結城親光
ゆうき・ちかみつ?-1336(建武3/延元元)
親族父:結城宗広 兄:結城親朝
官職左衛門尉
位階贈正四位(明治38)
建武の新政雑訴決断所奉行人・恩賞方寄人
生 涯
―「三木一草」の一角―

 奥州白河の武士・結城宗広の次男。「九郎左衛門尉」「太田判官」と呼ばれた。父や兄・親朝ともども元弘の乱の当初はいたって忠実に幕府軍に従っている。
 結城親光の名が初めて表に現れるのは、元弘3年(正慶2、1333)4月、赤松円心千種忠顕ら後醍醐天皇方が京を攻撃し、六波羅探題の軍がこれに応戦していた時である。親光はこのとき六波羅探題軍の中で「主力となる勇士とたのみにされていた」『太平記』では表現されている。ところが4月末に親光は六波羅軍から寝返って山崎・八幡に布陣していた後醍醐方に走ってしまう。これより前の4月2日に鎌倉にいた父・結城宗広が、倒幕軍の司令官的存在であった護良親王の令旨を受けており、ひそかに六波羅軍にいる親光に寝返りの指示を送ったとみられる。北畠親房『神皇正統記』「坂東より攻めのぼった兵の中にいた藤原親光という者もかの山(男山八幡)に馳せ加わった」と記している。
 4月27日に久我畷で後醍醐方・六波羅両軍の戦闘があり、結城親光は三百の兵を率いて狐川(山崎付近で淀川にそそぐ川)に展開している(「太平記」)。この日の戦闘で六波羅側の名越高家が戦死、さらにすでに寝返りを決めていた足利高氏が戦線離脱して六波羅軍は総崩れとなった。

 「太平記」で見る限りは結城親光は単に「寝返った」だけで、六波羅攻めでどうという功績は挙げたようには見えない。だが父が奥州の有力武士だったためだろうか、親光は後醍醐天皇の厚い信任を受け、建武政権において大抜擢を受けた。倒幕戦の恩賞を審査する恩賞方、混雑する土地問題を処理する雑訴決断所、そして後醍醐直属の親衛隊もしくは裁判機関との説もある「窪所」の職員ともなっている。都の人々はそれまで無名の低い身分でありながら突然重職に抜擢された楠木正成(くすのき)・名和長年(ほうき)・結城親光(ゆうき)・千種忠顕(ちくさ)の四人をまとめて「三木一草」とはやしたという。この四人はいわば後醍醐の親衛隊であり、建武政権を象徴する存在でもあったのだ

―尊氏の首を狙って―

 建武元年(1334)10月21日、護良親王は後醍醐天皇の命によって宮中で捕縛された。この事件の真相には謎が多いが、ともかく護良逮捕を実行したのは「三木」のうちの二人、名和長年と結城親光だった。残り一人の正成はこのとき紀伊に出陣して留守だったのだが、正成は護良と結びつきが強いため、後醍醐は護良と関係の薄い二人に実行を命じたのだと思われる。
 翌建武2年(1335)7月に西園寺公宗による後醍醐暗殺計画が発覚すると、ここでも名和長年と結城親光が公宗ら主犯の逮捕に向かっている。西園寺家の家宰・三善文衡は親光が自宅に連行して拷問にかけ、あらいざらい白状させたのち処刑している(「太平記」)。これらの行動をみると、やはり親光は名和長年と共に後醍醐直属の親衛隊といっていいことが良く分かる。

 公宗事件の直後に、これと示し合わせていた信濃の北条時行が挙兵、鎌倉を奪取した(中先代の乱)。足利尊氏はこれを平定するため関東へ出陣し、鎌倉を奪い返すとそのまま居座って事実上建武政権から離脱して幕府再興にとりかかる。11月に後醍醐は新田義貞を主力とする足利討伐軍を派遣したが、義貞は箱根・竹之下の戦い佐々木道誉佐々木高貞大友貞載らの寝返りもあって敗北し京へと逃げ帰った。これを追って足利軍は大挙京へと攻め上る。

 建武3年(延元元、1336)正月11日、足利軍は京を占領した。後醍醐は比叡山に逃れたが、結城親光はもはや建武政権もこれまでと覚悟したらしい。かくなる上はせめてもの恨みを晴らそうと考え、足利軍にいつわりの降参をする。『太平記』では親光は敵の親玉・尊氏その人の暗殺を狙ったとするが、足利寄りの軍記『梅松論』では前の晩に比叡山に逃れた後醍醐の輿の前に来て「箱根で敗れたのは大友貞載が裏切ったからです。偽りの降参をして大友と刺し違えて死んでまいります」と別れを告げ、後醍醐も涙で見送ってから降参したことになっている。しかし箱根・竹之下の敗戦の責任が全て大友貞載にあるという言い分も妙だし、後醍醐に別れを告げてからというのも腑に落ちない。やはり親光は尊氏一人を狙ったのだろう。『梅松論』は親光を賞賛する姿勢で書いているのだが、「尊氏暗殺」という話自体書くのをはばかったのではないだろうか。

 「太平記」の記述に従うと、親光の降参を聞いた尊氏は「本当の降参ではあるまい。この尊氏をだまそうというのだろう。しかし一応様子を見るか」と考えて大友貞載を親光のところへ向かわせた。大友が親光に「ご降参とのことなので私が事情を聞くよう命じられました。降参人のしきたりですから、武具はおはずしください」と声をかけると、親光は尊氏が感づいたなと思い、「武具をはずせとの仰せですから、お渡しいたそう!」といきなり太刀を抜いて馬上の貞載の兜のしころ(兜のうしろの部分)から首へと斬りつけた。貞載は応戦しようとしたが目がくらんで馬から落ちて即死し、親光とその郎党十七騎は大友勢に囲まれて十四人がその場で討たれた。敵も味方も「勇者を一瞬のうちに失ってしまうとはもったいない」と惜しんだという。

 「梅松論」の記述も大筋は似ているが描写がやや細かい。親光は一族の益戸下野守(顕助?)とわずかな家来のみを連れて東寺の南大門に赴いて降参を申し出た。これに大友貞載が樋口東洞院の小河(掘)を隔てて対応し、「将軍の本陣近くなので、しきたりに従い武具をお預かりしよう」と声をかけた。親光は「戦場で武具を人に渡すなど面目ないことだが、御辺(あなた)にお願いしよう。恥をかかないようにしてもらいたい」と答えて太刀を差し出しながら小河を渡った。貞載が「御対面がすんだらお返ししますよ」と言いつつ刀を受け取ろうとした途端に親光に斬りつけられた。こちらでは貞載は目の上に重傷を負ったが親光を自ら討ち取り、頭に包帯を巻いたまま親光の首を尊氏のもとへ持参したが、傷が悪化したらしく翌日死亡したことになっている。親光に同行した益戸下野守も討たれ、足利軍でも親光のことを「あっぱれな勇士だ。誰もがこうありたいものだ」とその忠節をたたえたという。

 「太平記」「梅松論」両者を総合すると、具体的描写で「梅松論」のほうが真相に近いと思われる。ただし「梅松論」は「親光が最初から大友貞載を狙っていた」ことにしながら、貞載の行為を「将軍のために命を捨てるふるまい」と賞賛しているので、やはり親光は尊氏を狙っていたが武器を取り上げられそうになったので、それならばとその場にいた貞載を襲ったということだろう。村松剛は著書「帝王後醍醐」のなかで、親光は阿野廉子派に属して護良を捕えたことに負い目を感じ、死に場所を求めていたのではないかと推理している。
 親光は「三木一草」の最初の戦死者となった。残りの三人も半年のうちに全員散って行くことになる。

参考文献
森茂暁「太平記の群像・軍記物語の虚構と真実」(角川選書)ほか
大河ドラマ「太平記」役名リストに見当たらないので「三木一草」中唯一出演していない、と思わせておいてしっかり実は登場している。第29回に尊氏が護良親王対策で都にいる有力武家を一同に会する場面で、尊氏から一番近くにいる武将が正成から「結城どのはいかが」と声をかけられ「げにも」と答える人物がおり、明らかにこれが結城親光である。この回の出演リストでは「武将」として卜字たかお・武川信介・野村信次の三人がクレジットされており、このうち卜字たかおは伊賀兼光役と確定できるので、親光役は残り二人のどちらかである。第27回でやはり武家たちが集合するシーンでも登場している(脇屋義助の脇にいるヒゲ面の武将がそうらしい)
その他の映像・舞台昭和39年(1964)の歌舞伎「私本太平記」に「城ノ判官親光」として登場、市村家橘が演じた。恐らく護良親王逮捕のシーンだろう。
歴史小説ではとくに印象に残るものは見当たらないが、護良逮捕シーンと尊氏暗殺未遂シーンで登場例がある。
漫画作品では学習漫画系で護良逮捕の場面で登場していることがある。森藤よしひろ画の集英社版「日本の歴史」では名和長年と一緒にテロップつきで登場している。
PCエンジンCD版このゲームではなぜか下野国にいる南朝系独立君主。初登場時のデータは統率54・戦闘80・忠誠59・婆沙羅39で意外と忠誠が低い。
メガドライブ版南朝方武将として登場し、「足利帖」では京都攻防戦の複数のシナリオで敵方で、「新田・楠木帖」では「顕家登場」のシナリオのみ味方で登場。能力は体力83・武力118・智力89・人徳57・攻撃力99。 
SSボードゲーム版公家方の「武将」クラスで勢力地域は「北畿」。合戦能力1・采配能力3。ユニット裏の武将はいない。

結城朝祐
ゆうき・ともすけ1308(延慶元)-1336(建武3/延元元)
親族父:結城貞広 
子:結城直朝・結城直光
官職左衛門尉
生 涯
―多々良浜の戦いで戦死―

 下総結城氏、結城貞広の子。幼名は「犬鶴丸」、通り名は「七郎左衛門尉」。初名は得宗・北条高時の偏諱を受けて「朝高」であったとみられる。『真壁長岡文書』で元徳年間に常陸の真壁氏の所領の引き渡し交渉の使者に「結城七郎左衛門尉朝高」なる人物がなっていることが確認され、常陸守護の代官的立場だったとの推測がある。
 元弘元年(元徳3、1331)に後醍醐天皇が笠置山で挙兵、楠木正成がこれに応じると、幕府は有力御家人らに出兵を命じたが、その中に「結城七郎左衛門尉」の名があり(「光明寺残編」)、これが朝高と考えられる。朝高は笠置陥落後、伊賀方面の掃討に向かっているが、この方面軍には足利高氏も加わっていた。後年彼が尊氏に付き従う縁はこの時にできたのかもしれない。
 鎌倉幕府滅亡の過程での下総結城氏の行動ははっきりしない。一方で分家筋の白河結城の結城宗広と息子たちは京・鎌倉・奥州で巧みに立ち回って後醍醐天皇の信任を得ることに成功、建武政権では所領と重職を得たほか、結城一族の惣領権まで下総結城氏から奪い取ってしまった。このため朝祐(幕府滅亡後に「高」字を変えたと思われる。この点では尊氏と同様)は惣領権奪回のためにも建武政権に反旗を翻した尊氏についてゆかねばならなかった。
 建武2年(1335)12月の箱根・竹之下の戦いに朝祐は足利尊氏の指揮下に小山一族ともども参戦して戦功を挙げ、常陸の関郡を恩賞として与えられた(「梅松論」)

 建武3年(延元元、1336)正月の京都攻防戦では足利軍には小山氏と下総結城、北畠軍には白河結城と同族どうして敵味方に分かれて激闘を交えており、お互い直垂の紋が同じで混乱したため、今後もこのような戦いがあるだろうと下総結城や小山氏の兵たちは右の袖をちぎって兜につけ目印にしたという(「梅松論」)
 この京都攻防戦は足利軍の敗北に終わり、尊氏は九州まで落ち延びて再起を図った。3月2日に九州の多々良浜の戦いで尊氏は菊池軍に勝利し再起の糸口をつかむのだが、その戦いで結城朝祐は戦死してしまった。まだ29歳の若さであった。

参考文献
七宮A三『下野 小山・結城一族』(新人物往来社)ほか

結城直朝
ゆうき・なおとも1325(正中2)-1343(康永2/興国4)
親族父:結城朝祐 
兄弟:結城直光
官職左衛門尉
生 涯
―父に続いて戦死した若当主―

 下総結城氏、結城朝祐の子。幼名は「犬鶴丸」、通り名は「七郎」。建武3年(延元元、1336)3月の多々良浜の戦いで父・朝祐が戦死したため12歳の若さで家督を継いだ。
 暦応4年(興国2、1341)に南朝の北畠親房関宗祐を頼って常陸・関城(現・茨城県筑西市)に入ると、高師冬率いる幕府軍がその攻略にあたった。直朝もこの攻撃軍に参加したが、そもそも関の地は父・朝祐が箱根・竹之下の戦いでの活躍の恩賞として与えられたものであり、関宗祐は結城の分家筋であった。このため直朝はなおさら奮起して参戦したとする見解がある。しかし関城は近くの大宝城と共に沼沢地にある要害で、その攻略は難しく、幕府軍は長く苦戦を強いられた。
 康永2年(興国4、1343)4月3日、直朝は関城から出撃した春日顕国の軍勢に襲われて戦死した。これは顕国が結城親朝(白河結城)にあてた書状に記されていることで、「敵方結城惣領および一族郎党」を数人討ち取ったと報告し、同族である親朝に悔みの気持ちを伝えている。後年編纂された結城氏の記録『結城家譜』では「直朝は関城を攻めて関宗祐らを討ち取ったが左脇を負傷し陣屋に戻って死んだ」としているが、宗祐を討ち取った事実もなく直朝の美化がめだつことから、春日顕国が伝えたように城内からの出撃を受けて戦死したのが真相であろう。
 このとき直朝はまだ19歳であった。父子二代続けての戦死は尊氏の記憶にも残り、弟の直光が引き立てられるという形で報いられることとなる。

参考文献
七宮A三『下野 小山・結城一族』(新人物往来社)ほか
PCエンジンCD版
常陸の北朝方武将として登場。初登場時の能力は統率41・戦闘83・忠誠76・婆沙羅25

結城直光
ゆうき・なおみつ1329(元徳元)-1395(応永2)
親族父:結城朝祐 
兄弟:結城直朝
官職中務大輔
幕府
安房守護
生 涯
―父と兄の戦死を乗り越え―

 下総結城氏、結城朝祐の子。通称は「八郎」。父・朝祐は建武3年(延元元、1336)3月の多々良浜の戦いで戦死、兄の直朝は康永2年(興国4、1343)4月の関城の戦いで戦死している。兄に子がなかったため直光が15歳で家督を継いだ。
 「観応の擾乱」足利尊氏は弟の直義を追って関東に入ったが、その直後の文和元年(正平7、1352)2月に南朝軍は畿内と関東で同時に行動を起こし、東西で足利軍に襲いかかった。このとき上野から新田義興が出陣、小手指原で尊氏軍と激突したが、このとき諸大名が様子見して駆けつけないなか、結城直光が先頭を切って尊氏のもとに馳せ参じ、苦戦していた尊氏軍を勝利に導いたとされる(「源威集」)
 翌文和2年(正平8、1353)に尊氏は関東平定を終えて京へ戻ることになるが、その先陣の名誉を誰が得るのか注目が集まった。尊氏が内心直光に決めたうえで側近の饗庭氏直に尋ねると氏直は「小山氏政こそ家格からも軍勢からもふさわしい。よくよくお考えを」と忠告した。しかし尊氏は「結城直光は、父・朝祐と兄・直朝の父子二代にわたって尊氏のために命を捧げ、さらに昨年の新田との戦いでも真っ先に駆けつけて勝利をもたらした。わしは以前から直光に決めていたのだ」と答え、直光に先人の栄誉を与えている。なおこの逸話は作者不明の同時代史料『源威集』に出てくるもので、唐突に直光を称揚するこの記述のために直光も作者の有力候補に挙げられている(佐竹氏説の方が有力)

 その後、康安元年(正平16、1361)に関東管領だった畠山国清が失脚して伊豆に逃れると、直光は鎌倉公方・足利基氏の命でその攻撃にあたった。応安元年(正平23、1368)には関東管領・上杉憲顕に従って上野の新田義宗を討っている。
 こうした活躍が評価されたようで、翌応安2年(正平24、1369)5月から安房守護としての活動が確認される(はるか後の子孫・結城晴朝は文和元年の戦功により安房一国を与えられたと書いている)。少なくとも至徳2年(元中2、1385)までは安房守護をつとめていたと考えられ、下総結城氏はようやく関東で安定した地位を得たと言えそうだ。
 応永2年(1395)正月17日に67歳で死去した。

参考文献
七宮A三『下野 小山・結城一族』(新人物往来社)
佐藤進一『室町幕府守護制度の研究・上』(東京大学出版会)ほか

結城満朝
ゆうき・みつとも生没年不詳
親族父:小峰政常 養父:結城顕朝
養子:結城氏朝
官職左兵衛尉、中務允
幕府
京都扶持衆
生 涯
―伊達氏、鎌倉府に対抗―

 白河結城氏、結城顕朝の養子で、実父は分家の小峰政常。応安2年(正平24、1369)6月に養父の顕朝から家督と所領を引き継いだが、この時点では「千代夜叉丸」という幼名で呼ばれ、元服前であったとみられる。
 応永6年(1399)春に鎌倉公方・足利満兼は弟の満直満貞を奥州南部の稲村と篠川(それぞれ福島県須賀川市と郡山市内)に派遣し奥州支配を任せた。これをそれぞれ「稲村御所」「篠川御所」と呼ぶが、母親の足利氏満の妻は結城満朝伊達政宗を公方館に呼び、障子越しに「今若(満貞)を下向させるにあたっては伊達を父、白河(結城)を母と頼む」と言い渡したという(「留守家旧記」)
 満朝はこの期待に応えて稲川・篠川御所をよく支えたが、伊達政宗は鎌倉府と両御所の支配に反発、応永7年(1400)に反乱を起こした。
満朝は稲村・篠川御所の命を受けて伊達氏に対抗、応永9年(1402)に政宗が再び反乱を起こすと、鎌倉から派遣された上杉氏憲(禅秀)らと共にその平定に当たった。
 『結城系図』では応永22年(1415)10月21日に養子の結城氏朝に家督を譲っている。氏朝は応永10年(11403)ごろに那須氏から迎えた養子で、白河結城氏の勢力の南進をねらったものとみられる。このころ満朝は出家したらしく、応永24(1417)には「道久」の法名を記した寄進状を残している。ただし家督を譲って出家しながらも白河結城の主導権は満朝が握っていたようでもある。
 第四代鎌倉公方・足利持氏と将軍・足利義持が対立するようになると、満朝は京都の将軍と主従関係を結んだ「京都扶持衆」となり、応永31年(1424)4月には篠川御所の満直と結んで持氏を牽制したことを義持から書状で賞され、5月にはその返礼として満朝が馬と銭を義持に献上、さらにその返しとして義持から太刀と鎧を下賜されている。その一方で養子の氏朝は持氏との関係を保っており、白河結城氏は父子で立場を使い分けてどっちに転んでもいいようにふるまっていた気配もある。
 永享元年(1429)10月に篠川御所・足利満直から所領を安堵されている。没年は不明。

参考文献
七宮A三『下野 小山・結城一族』(新人物往来社)ほか

結城宗広
ゆうき・むねひろ?-1338(暦応元/延元3)
親族父:結城祐広 母:熱田大宮司範広の娘 子:結城親朝 結城親光
官職上野介
位階贈従三位(明治16)→贈正三位(明治38)→贈正二位(大正7)
建武の新政奥州将軍府式評定衆・奥州検断職
生 涯
―「帝ご謀反」の発言者―

 結城氏はもともと藤原姓小山氏の支族で、下総国結城(現・茨城県結城市)を名字とする。ここから宗広の父・祐広が陸奥国白河(現・福島白河氏)に分家して「白河結城氏」が生まれることになる。鎌倉から南北朝にかけてよくみられる現象だが、この本家と分家はたいそう仲が悪く、とくに分家側では本家をしのごうという強い願望があった。南北朝時代における白河結城氏の活動はこの強い願望を抜きには語れない。

 白河結城二代目である宗広は通称を「孫七」、出家して「道忠」という。後年「南朝の忠臣」に祭り上げられてしまう彼も、初めはむしろ北条得宗家に密着しており、北条氏、もしくは内管領の長崎氏の命を受けて陸奥南部における領地没収や年貢催促にいそしんでいる(例えば元亨元年(1322)に相馬氏の所領の没収に当たっており、長崎頼基との結びつきが察せられる)。本家白河をしのぐという野望のためにも独裁を強める北条得宗家や長崎氏に接近しなければならないという事情もあったのだろう。
 
 元亨4年(1334)9月19日、後醍醐天皇による倒幕計画が発覚、いわゆる「正中の変」が勃発する。このとき宗広は鎌倉に滞在しており、9月23日に京の事変が伝わった鎌倉の騒動の模様を目撃者の立場で克明につづった手紙を残している(藤島神社に保管されている)「上野七郎兵衛」(子の結城親朝か?)あてに出されたこの手紙は正中の変発生時の鎌倉の模様を今日に伝える貴重な証言となっているが、宛先の上野七郎兵衛が出羽から帰還するのを喜ぶとともに(当時発生していた「蝦夷反乱」対策であったと思しい)、京の騒動が大事に至らずこちらも喜ばしい、という内容になっている。ここで宗広は「当今御謀叛」(当今=「とうぎん」で在位している天皇のこと)という表現を使っていることも注目される。天皇という最高位にある者が「謀叛(むほん)=反乱」するという日本ならではの用法だが、その使用のもっとも早い事例である。宗広がとくに後醍醐を敵視していたわけではない。この直後に後醍醐が幕府に送りつけた釈明書にも「聖主が謀反とはなにごとだ」と怒る表現があり、当時幕府では広く使われた表現なのだ。
 ともあれ、この宗広の書状の文面からすると、彼はこの時点の鎌倉幕府御家人の平均的な態度として、天皇など特に気にせず、北条得宗に忠誠をつくしていたとみていい。

 元徳3=元弘元年(1331)5月、後醍醐天皇の二度目の討幕計画が発覚し(元弘の変)、幕府の呪詛を行ったとして円観文観忠円ら僧侶たちが逮捕された。このうち円観は結城宗広に預けられ、白河に流刑となっている。
 その年の8月に後醍醐は笠置山に挙兵。これを鎮圧するため関東から派遣された大軍の中に「結城上野入道」すなわち宗広の名がある(「太平記」)。その後の畿内の戦いでも息子の結城親朝親光が幕府軍の一員として出陣しており、少なくとも元弘3年の初めまでは白河結城氏はいたって忠実に北条幕府に従っていたことが分かる。

 だが、この時代の武士たちのほぼ全てがそうであるように、宗広も事態の推移をうかがっていた。元弘3年(正慶2、1333)に入ると倒幕派の活動は盛んとなり、護良親王は全国各地に挙兵を呼びかける令旨をばらまいた。宗広のもとにも4月2日に護良の令旨が届いたと本人が後に報告している(3月15日付の令旨だった)。宗広のもとには4月1日付の後醍醐の綸旨、4月27日付の足利高氏からの軍勢催促状も届けられたが、宗広のもとにそれが届いたのは幕府滅亡後の6月3日のことだったと宗広は述べている。あまりに遅い到着なので宗広がごまかしている可能性も指摘されている。
 宗広が討幕挙兵をいつ決断したかは不明である。幕府軍に従って畿内に行っていた次男の親光が4月26日か27日に後醍醐方に寝返っていて、これはおそらく宗広と打ち合わせの上のことだったと推測されるので令旨を受け取ってから間もなく決断をしたのだろう。そして宗広自身は新田義貞の鎌倉攻略に5月18日から参加している。問題はこのとき宗広が本国の白河から駆け付けたのか、それとももともと鎌倉にいたのが新田軍に寝返ったのかという点だ。
 恐らく宗広は鎌倉にいたのではないか。鎌倉攻撃開始の18日からいきなり参戦しているのもその証左であるうえ、長男の結城親朝には後醍醐から別日付の綸旨が下されており、この時点で父と子は別行動をとっていた可能性が高い(すでにこの時点に父子にすきま風があったのでは、と推測する向きもある)。後醍醐、高氏からの挙兵の催促が届くのが遅れたというやや不自然な主張もこのことと関係があるのかも知れない。

―「奥州軍団」の主力として―

 鎌倉幕府が滅びると、宗広はさっそく預かっていた円観を伴って京へと上った。後醍醐は宗広・親光父子の功績を称え、討幕の呼びかけに応じなかった下総結城の結城朝祐から結城一族の惣領権を奪い、宗広に与えてしまった。親光は建武政権において重用されて重職を占め、楠木正成名和長年千種忠顕とともに「三木一草」ともてはやされることになる。
 この年のうちに陸奥国多賀城に義良親王北畠親房顕家父子を派遣して東北地方を統治する「ミニ幕府」が設置されることになり、宗広はこれに同行して陸奥に戻った。この「奥州ミニ幕府」は幕府組織をほとんどとりいれており、宗広はその最高評議会「評定衆」の一員に名を連ね、奥州の検断職(実質守護の機能)も任され、奥州ミニ幕府の重鎮となった。この奥州のミニ幕府の設置は北条氏支配の色が濃かった東北地方を新政府に服属させると同時に、関東に拠点を構える足利氏に対する牽制という狙いがあったと言われている。そして後醍醐の結城氏への手厚い対応は奥州の入口にあたる白河を押さえていたためではないかとみられる。

 建武2年(1335)末、ついに足利尊氏は建武政権から離反した。その征討に向かった新田義貞軍を箱根・竹之下の戦いで撃破し、敗走する新田軍を追って京へと向かった。その足利軍の背後を、東北から北畠顕家を主将とする奥州軍が追う。結城宗広もこれにつき従い、翌年正月の足利軍との京都争奪の激闘に加わっている。宗広が京に到着する以前のことだが、次男の親光は尊氏の暗殺をはかって失敗、殺害されている。
 このとき足利軍には下総結城氏の結城朝祐、結城氏の本家である小山氏の軍も加わっていた。彼らは宗広の軍とも衝突し、同じ家紋・同じ直垂をつけていたため名乗り合って戦い、双方で百余名の戦死者が出たと『梅松論』は伝える。「今後の戦いで同士討ちをしてはいけない」と小山・下総結城は右の袖を割いて兜につけ目印にすることにしたという。結城一族にとってこの動乱は惣領権をめぐる本家・分家の紛争でもあったのだ。
 顕家率いる奥州軍団の奮戦もあって、足利軍は京から追い出され、摂津での戦いにも敗れて九州まで敗走した。顕家は「鎮守府大将軍」に任じられて再び義良親王を奉じて奥州に帰り、宗広もこれに従った。この奥州帰りの途上の4月2日に宗広は孫の顕朝に白河の所領を譲る「譲り状」を書いている。
 しかし彼らが奥州についたころには足利軍は予想以上の速さで九州を平定して東上し、京へ再突入していた。中央の情勢と連動して奥州でも足利方につく武士たちの勢いが増して行き、義良・顕家・宗広は多賀城を放棄して霊山への移動を余儀なくされる。

―二度目の大遠征と無念の死―

 延元元年(建武3、1336)11月、「天皇」である恒良親王を奉じた越前・金ヶ崎城に入った新田義貞から結城宗広のもとに畿内への出陣をうながす書状を送っている(結城家文書に現存)。顕家にも出陣催促の要請が行われたようだが、顕家も宗広もすぐには動かなかった。奥州の情勢も緊迫しており、また長征のための兵糧調達もまともにできなかったと思われる。結局翌年8月になって二度目の長征を開始することになるが、その沿道の各所で凄まじい略奪をはたらいたと「太平記」が記すのは、このときの奥州軍の苦しい台所事情を反映しているものとみられる。

 宗広も伊達氏・南部氏らと共に顕家につき従って長征に出陣し、下野では小山氏の抵抗に手こずった末に小山朝郷を捕虜とした。このとき宗広が同族(本来小山氏は結城氏の本家筋)のよしみから助命を嘆願して朝郷を解放させている。
 長征軍は関東から東海へと進撃、延元3年(建武5、1338)正月28日の美濃・青野原の戦いでも奮戦した。この戦いは奥州軍の勝利に終わるが、足利側の黒血川の防衛ラインは突破できず、長征に疲れたこともあって北畠氏の拠点・伊勢へと転進することになった。ここから伊賀を経由して奈良に入ったが、ここで開かれた軍議で宗広は「ここまで各地で勝利してきたのに、青野原で食い止められ黒血川も渡れず、このまま吉野へ参上するのは情けないというもの。このまま都へ突入して、都にしかばねをさらしてもかまわないではないか」と主張し、顕家もこれに同意して北上して京を突くことに決まったという(「太平記」)。しかしこの北上軍は2月28日の般若坂の戦い高師直桃井直常の軍に阻止されてしまう。
 その後顕家率いる奥州軍は河内・和泉へ転進、5月まで京をおびやかしたが、5月21日に摂津・堺で行われた石津の戦いで顕家は師直に敗れて戦死してしまう。この戦いで奥州武士の多くが討ち死にしたが、宗広はどうにか吉野まで戻っている。もしかすると石津の戦い以前に義良親王ととともに戦線を離脱して吉野に行っていたのかも知れない。

 この年の閏7月には新田義貞も北陸で戦死してしまい、南朝は意気消沈した。「太平記」によるとそんな南朝の人々を励ましたのが、結城宗広だった。「顕家卿が三年の間に二度も京へ攻めのぼれたのは、出羽・陸奥両国の武士たちが顕家卿に従い、敵に隙をあたえなかったためです。彼らの気持ちが変わらないうちに皇子を一人お下しになり、功績のあった者たちに恩賞を与え、従わない者を討伐すればよろしい。地図を見れば、奥州の54郡は日本の半分はあるではないですか。この道忠(宗広)が皇子を奉じて老いさらばえた首にかぶとをつけますれば、一年のうちに京を奪回してごらんにいれましょう」と胸を張る宗広に、後醍醐以下大いに頼もしく思い、義良に北畠親房・春日顕信・結城宗広をつけて奥州へ、新田義興北条時行を関東へ、宗良親王を東海へとそれぞれ派遣して地方から京を目指す戦略を実行に移した。「太平記」によると彼らは伊勢の港から船団を組んで出発したが、遠江の沖で嵐に遭い、船団は散り散りになってしまった。

 宗広の乗った船は伊勢・安濃津(現・三重県津市)に漂着した。宗広はあきらめきれず、あくまで奥州に行こうとここで10日ほど風待ちをしたが、長年の苦労がついに老体を限界に追い込んだか、ここで病を発して死の床についてしまう。もう臨終だなと思った時宗僧が宗広に「もはや臨終は遠くありますまい。今は南無阿弥陀仏と唱えて阿弥陀さまのお御迎えを待ちなさい。この世で心残りのことがあればお話し下さい。ご子息にお伝えしましょう」とささやくと、宗広は閉じようとしていた目をパッと見開いて起き上がり、カラカラと笑って、「わしはすでに七十を越え、身に余る栄華を受けたから心残りなどはない。ただ都へ攻めのぼって朝敵を滅ぼせなかったのが残念だ。息子には、わしの後生の弔いなどいらぬ、朝敵の首をとって我が墓前に並べよと伝えて下され」と刀を抜いて手にしたまま歯ぎしりして死んだ、と「太平記」は描写する。宗広の生年は不明だが、このセリフからこの時点で70過ぎの老将であったことが推測できる(もちろん、あくまで「太平記」が文学的にそう書いているだけで何の証拠にもならない。そもそもこの描写は「平家物語」の清盛の死の場面のパクリである)

 このあと「太平記」は、宗広が極悪非道な人間であったといきなり語り出す。鹿を狩り鷹狩りをすることはまだいいとして、罪のない人間を縛りあげたり、僧侶や尼を数多く殺し、常に死人を見ていないと気分が悪いと二、三日おきに首を切って目の前にさらさせたため、彼の住むところには死体が山をなした――という、凄まじい筆致で宗広を非難するのだ。そして念仏も拒否して怨念を抱きつつ死んだ宗広が地獄に落ちて責めさいなまれていると描き、その知らせを受けた息子の親朝がよく追善をした、という不思議な物語をつづっている。文学的表現としてこの直前の義貞のあっけない死と対比させようとしたものではないかとも言われるが、南朝より武将にはおおむね好意的な書き方をする「太平記」が宗広についてはなぜここまでおとしめる書き方をしているのか、一つの謎となっている。

 江戸時代になって尊王論と南朝正統論が広まり、「南朝忠臣」たちが顕彰される流れの中で宗広も南朝の「忠臣」とされ、津藩・藤堂家により文政7年(1824)に宗広の墓とされる場所に彼を祭る神社が建立された。これがもとになって明治15年(1882)に別格官幣社「結城神社」とされ「建武中興十五社」の一つとなり(二男の親光も合祀)、大正7年には宗広に対し正二位の追贈までがなされた。一連の顕彰は「太平記」が由来のはずなのだが、その「太平記」が宗広をコテンコテンに悪く書いていることをどう思っていたのか、これまた謎である。

 宗広の死後、後継者の親朝は北畠親房の再三の要請にも慎重に構え、ついには足利方についた。後世これは「父の心子知らず」の代表例として非難されるのだが、宗広の生涯をよく振り返ってみれば、実は「お家大事」ということでは全くぶれていないのである。

参考文献
高柳光寿「足利尊氏」(春秋社)
森茂暁「太平記の群像・軍記物語の虚構と真実」(角川選書)
山本隆志「新田義貞」(ミネルヴァ日本評伝選)
佐藤進一「南北朝の動乱」(中公文庫)
七宮A三『下野 小山・結城一族』(新人物往来社)ほか
大河ドラマ「太平記」第33回と第39回に登場(演:中山正幼)。第33回では足利方についた佐竹勢が陸奥国府に攻め込んでくる場面で北畠父子と共に奮戦している。第39回でも顕家と共に二度目の長征を戦い、伊勢へ転進したことをなじる親房に弁解する場面でセリフがある。70まではいかないが「老将」のイメージになっている。
歴史小説では顕家の側近ということで、北方謙三「破軍の星」はじめ登場例は多い。吉川英治「私本太平記」では古典とはまた違った彼の最期が描かれ、幼児から親しんでいた義良親王が「じいよ、じいよ」と泣きつく描写がある。
漫画作品では小学館版・あおむら純の「少年少女日本の歴史」で、伊勢から出航するため船を建設している様子を親房と眺めながら語り合うシーンがある。
PCエンジンCD版陸前に南朝方武将として登場。初登場時の能力は統率51・戦闘83・忠誠91・婆沙羅46
PCエンジンHu版シナリオ1「鎌倉幕府の滅亡」で陸奥・白河城に登場。能力は「騎馬2」
メガドライブ版南朝方武将として登場し、「足利帖」では京都攻防戦で敵方に、「新田・楠木帖」では後半シナリオの多くで出陣選択武将になる。能力は体力62・武力77・智力93・人徳78・攻撃力45。 
SSボードゲーム版公家方の「武将」クラスで、勢力地域は「奥羽」。合戦能力2・采配能力3。ユニット裏は嫡子の結城親朝。

結城基光
ゆうき・もとみつ1349(貞和5/正平4)-1430(永享2)
親族父:結城直光 妻:小山氏政の娘
子:結城満広・小山泰朝
官職弾正小弼
幕府
下野守護
生 涯
―下総結城の最盛期―

 下総結城氏・結城直光の子。『結城系図』では直光の弟とされるが、直光の父・朝祐の戦死が建武3年(延元元、1336)なので辻褄が合わない。鎌倉公方・足利基氏の偏諱を受けて「基光」と名乗った。
 小山義政が鎌倉公方・足利氏満に反乱を起こすと、結城基光は氏満に従って戦い、永徳2年(弘和2、1382)の小山氏滅亡を受けて基光は小山氏所領の多くを引き継ぎ、結城氏としては念願であった下野守護職も獲得した。その後も義政の遺児・小山若犬丸が執拗に抵抗運動を続けたため、幕府は小山氏の名跡を基光の子・泰朝に継がせた(もともと結城氏は小山氏の分家であり、基光の妻は小山氏政の娘であった)。基光は名門小山氏を結城の風下に置くことに成功し、末子の氏義も山川氏に養子として送り込んで下総結城氏の勢力を広げた。
 基光はその死まで40年以上にわたって下野守護をつとめたが、応永23年(1416)に息子の満広に先立たれ、泰朝の子・氏朝に結城家を継がせている。
 永享2年(1430)5月11日に82歳の長命で死去した。後継者の結城氏朝は「結城合戦」を引き起こして一時的に結城氏を滅亡させてしまうことになる。

参考文献
七宮A三『下野 小山・結城一族』(新人物往来社)ほか

猷全
ゆうぜん
生没年不詳
生 涯
―形勢を読んで降参した比叡山悪僧―

 比叡山の悪僧(荒法師)の一人で、『太平記』によれば「護正院の僧都」であったといい、「祐全」とも書く。『太平記』によれば比叡山僧兵の中の「大名」、つまり領地を私有するような有力者であったという。
 元徳3年(元弘元、1331)8月に後醍醐天皇が宮中を脱出して倒幕行動を起こし、自身の身代わりとして花山院師賢を比叡山に向かわせると、「天皇」に頼られたと比叡山は奮起して六波羅探題軍相手に戦いを開始する。このとき猷全は後醍醐の皇子で比叡山にいた尊雲(のちの護良)・尊澄(のちの宗良)両法親王のもとへ馳せ参じ、八王子の一の木戸の守備を任された。しかし「天皇」が偽者であることが発覚して比叡山は動揺、形勢をみきわめた猷全は六波羅川に降参を申し出て、ここに比叡山は完全に戦闘を放棄してしまった。



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