結城宗広
| ゆうき・むねひろ | ?-1338(暦応元/延元3)
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親族 | 父:結城祐広 母:熱田大宮司範広の娘 子:結城親朝 結城親光 |
官職 | 上野介
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位階 | 贈従三位(明治16)→贈正三位(明治38)→贈正二位(大正7) |
建武の新政 | 奥州将軍府式評定衆・奥州検断職 |
生 涯 |
―「帝ご謀反」の発言者―
結城氏はもともと藤原姓小山氏の支族で、下総国結城(現・茨城県結城市)を名字とする。ここから宗広の父・祐広が陸奥国白河(現・福島白河氏)に分家して「白河結城氏」が生まれることになる。鎌倉から南北朝にかけてよくみられる現象だが、この本家と分家はたいそう仲が悪く、とくに分家側では本家をしのごうという強い願望があった。南北朝時代における白河結城氏の活動はこの強い願望を抜きには語れない。
白河結城二代目である宗広は通称を「孫七」、出家して「道忠」という。後年「南朝の忠臣」に祭り上げられてしまう彼も、初めはむしろ北条得宗家に密着しており、北条氏、もしくは内管領の長崎氏の命を受けて陸奥南部における領地没収や年貢催促にいそしんでいる(例えば元亨元年(1322)に相馬氏の所領の没収に当たっており、長崎頼基との結びつきが察せられる)。本家白河をしのぐという野望のためにも独裁を強める北条得宗家や長崎氏に接近しなければならないという事情もあったのだろう。
元亨4年(1334)9月19日、後醍醐天皇による倒幕計画が発覚、いわゆる「正中の変」が勃発する。このとき宗広は鎌倉に滞在しており、9月23日に京の事変が伝わった鎌倉の騒動の模様を目撃者の立場で克明につづった手紙を残している(藤島神社に保管されている)。「上野七郎兵衛」(子の結城親朝か?)あてに出されたこの手紙は正中の変発生時の鎌倉の模様を今日に伝える貴重な証言となっているが、宛先の上野七郎兵衛が出羽から帰還するのを喜ぶとともに(当時発生していた「蝦夷反乱」対策であったと思しい)、京の騒動が大事に至らずこちらも喜ばしい、という内容になっている。ここで宗広は「当今御謀叛」(当今=「とうぎん」で在位している天皇のこと)という表現を使っていることも注目される。天皇という最高位にある者が「謀叛(むほん)=反乱」するという日本ならではの用法だが、その使用のもっとも早い事例である。宗広がとくに後醍醐を敵視していたわけではない。この直後に後醍醐が幕府に送りつけた釈明書にも「聖主が謀反とはなにごとだ」と怒る表現があり、当時幕府では広く使われた表現なのだ。
ともあれ、この宗広の書状の文面からすると、彼はこの時点の鎌倉幕府御家人の平均的な態度として、天皇など特に気にせず、北条得宗に忠誠をつくしていたとみていい。
元徳3=元弘元年(1331)5月、後醍醐天皇の二度目の討幕計画が発覚し(元弘の変)、幕府の呪詛を行ったとして円観・文観・忠円ら僧侶たちが逮捕された。このうち円観は結城宗広に預けられ、白河に流刑となっている。
その年の8月に後醍醐は笠置山に挙兵。これを鎮圧するため関東から派遣された大軍の中に「結城上野入道」すなわち宗広の名がある(「太平記」)。その後の畿内の戦いでも息子の結城親朝・親光が幕府軍の一員として出陣しており、少なくとも元弘3年の初めまでは白河結城氏はいたって忠実に北条幕府に従っていたことが分かる。
だが、この時代の武士たちのほぼ全てがそうであるように、宗広も事態の推移をうかがっていた。元弘3年(正慶2、1333)に入ると倒幕派の活動は盛んとなり、護良親王は全国各地に挙兵を呼びかける令旨をばらまいた。宗広のもとにも4月2日に護良の令旨が届いたと本人が後に報告している(3月15日付の令旨だった)。宗広のもとには4月1日付の後醍醐の綸旨、4月27日付の足利高氏からの軍勢催促状も届けられたが、宗広のもとにそれが届いたのは幕府滅亡後の6月3日のことだったと宗広は述べている。あまりに遅い到着なので宗広がごまかしている可能性も指摘されている。
宗広が討幕挙兵をいつ決断したかは不明である。幕府軍に従って畿内に行っていた次男の親光が4月26日か27日に後醍醐方に寝返っていて、これはおそらく宗広と打ち合わせの上のことだったと推測されるので令旨を受け取ってから間もなく決断をしたのだろう。そして宗広自身は新田義貞の鎌倉攻略に5月18日から参加している。問題はこのとき宗広が本国の白河から駆け付けたのか、それとももともと鎌倉にいたのが新田軍に寝返ったのかという点だ。
恐らく宗広は鎌倉にいたのではないか。鎌倉攻撃開始の18日からいきなり参戦しているのもその証左であるうえ、長男の結城親朝には後醍醐から別日付の綸旨が下されており、この時点で父と子は別行動をとっていた可能性が高い(すでにこの時点に父子にすきま風があったのでは、と推測する向きもある)。後醍醐、高氏からの挙兵の催促が届くのが遅れたというやや不自然な主張もこのことと関係があるのかも知れない。
―「奥州軍団」の主力として―
鎌倉幕府が滅びると、宗広はさっそく預かっていた円観を伴って京へと上った。後醍醐は宗広・親光父子の功績を称え、討幕の呼びかけに応じなかった下総結城の結城朝祐から結城一族の惣領権を奪い、宗広に与えてしまった。親光は建武政権において重用されて重職を占め、楠木正成・名和長年・千種忠顕とともに「三木一草」ともてはやされることになる。
この年のうちに陸奥国多賀城に義良親王と北畠親房・顕家父子を派遣して東北地方を統治する「ミニ幕府」が設置されることになり、宗広はこれに同行して陸奥に戻った。この「奥州ミニ幕府」は幕府組織をほとんどとりいれており、宗広はその最高評議会「評定衆」の一員に名を連ね、奥州の検断職(実質守護の機能)も任され、奥州ミニ幕府の重鎮となった。この奥州のミニ幕府の設置は北条氏支配の色が濃かった東北地方を新政府に服属させると同時に、関東に拠点を構える足利氏に対する牽制という狙いがあったと言われている。そして後醍醐の結城氏への手厚い対応は奥州の入口にあたる白河を押さえていたためではないかとみられる。
建武2年(1335)末、ついに足利尊氏は建武政権から離反した。その征討に向かった新田義貞軍を箱根・竹之下の戦いで撃破し、敗走する新田軍を追って京へと向かった。その足利軍の背後を、東北から北畠顕家を主将とする奥州軍が追う。結城宗広もこれにつき従い、翌年正月の足利軍との京都争奪の激闘に加わっている。宗広が京に到着する以前のことだが、次男の親光は尊氏の暗殺をはかって失敗、殺害されている。
このとき足利軍には下総結城氏の結城朝祐、結城氏の本家である小山氏の軍も加わっていた。彼らは宗広の軍とも衝突し、同じ家紋・同じ直垂をつけていたため名乗り合って戦い、双方で百余名の戦死者が出たと『梅松論』は伝える。「今後の戦いで同士討ちをしてはいけない」と小山・下総結城は右の袖を割いて兜につけ目印にすることにしたという。結城一族にとってこの動乱は惣領権をめぐる本家・分家の紛争でもあったのだ。
顕家率いる奥州軍団の奮戦もあって、足利軍は京から追い出され、摂津での戦いにも敗れて九州まで敗走した。顕家は「鎮守府大将軍」に任じられて再び義良親王を奉じて奥州に帰り、宗広もこれに従った。この奥州帰りの途上の4月2日に宗広は孫の顕朝に白河の所領を譲る「譲り状」を書いている。
しかし彼らが奥州についたころには足利軍は予想以上の速さで九州を平定して東上し、京へ再突入していた。中央の情勢と連動して奥州でも足利方につく武士たちの勢いが増して行き、義良・顕家・宗広は多賀城を放棄して霊山への移動を余儀なくされる。
―二度目の大遠征と無念の死―
延元元年(建武3、1336)11月、「天皇」である恒良親王を奉じた越前・金ヶ崎城に入った新田義貞から結城宗広のもとに畿内への出陣をうながす書状を送っている(結城家文書に現存)。顕家にも出陣催促の要請が行われたようだが、顕家も宗広もすぐには動かなかった。奥州の情勢も緊迫しており、また長征のための兵糧調達もまともにできなかったと思われる。結局翌年8月になって二度目の長征を開始することになるが、その沿道の各所で凄まじい略奪をはたらいたと「太平記」が記すのは、このときの奥州軍の苦しい台所事情を反映しているものとみられる。
宗広も伊達氏・南部氏らと共に顕家につき従って長征に出陣し、下野では小山氏の抵抗に手こずった末に小山朝郷を捕虜とした。このとき宗広が同族(本来小山氏は結城氏の本家筋)のよしみから助命を嘆願して朝郷を解放させている。
長征軍は関東から東海へと進撃、延元3年(建武5、1338)正月28日の美濃・青野原の戦いでも奮戦した。この戦いは奥州軍の勝利に終わるが、足利側の黒血川の防衛ラインは突破できず、長征に疲れたこともあって北畠氏の拠点・伊勢へと転進することになった。ここから伊賀を経由して奈良に入ったが、ここで開かれた軍議で宗広は「ここまで各地で勝利してきたのに、青野原で食い止められ黒血川も渡れず、このまま吉野へ参上するのは情けないというもの。このまま都へ突入して、都にしかばねをさらしてもかまわないではないか」と主張し、顕家もこれに同意して北上して京を突くことに決まったという(「太平記」)。しかしこの北上軍は2月28日の般若坂の戦いで高師直・桃井直常の軍に阻止されてしまう。
その後顕家率いる奥州軍は河内・和泉へ転進、5月まで京をおびやかしたが、5月21日に摂津・堺で行われた石津の戦いで顕家は師直に敗れて戦死してしまう。この戦いで奥州武士の多くが討ち死にしたが、宗広はどうにか吉野まで戻っている。もしかすると石津の戦い以前に義良親王ととともに戦線を離脱して吉野に行っていたのかも知れない。
この年の閏7月には新田義貞も北陸で戦死してしまい、南朝は意気消沈した。「太平記」によるとそんな南朝の人々を励ましたのが、結城宗広だった。「顕家卿が三年の間に二度も京へ攻めのぼれたのは、出羽・陸奥両国の武士たちが顕家卿に従い、敵に隙をあたえなかったためです。彼らの気持ちが変わらないうちに皇子を一人お下しになり、功績のあった者たちに恩賞を与え、従わない者を討伐すればよろしい。地図を見れば、奥州の54郡は日本の半分はあるではないですか。この道忠(宗広)が皇子を奉じて老いさらばえた首にかぶとをつけますれば、一年のうちに京を奪回してごらんにいれましょう」と胸を張る宗広に、後醍醐以下大いに頼もしく思い、義良に北畠親房・春日顕信・結城宗広をつけて奥州へ、新田義興・北条時行を関東へ、宗良親王を東海へとそれぞれ派遣して地方から京を目指す戦略を実行に移した。「太平記」によると彼らは伊勢の港から船団を組んで出発したが、遠江の沖で嵐に遭い、船団は散り散りになってしまった。
宗広の乗った船は伊勢・安濃津(現・三重県津市)に漂着した。宗広はあきらめきれず、あくまで奥州に行こうとここで10日ほど風待ちをしたが、長年の苦労がついに老体を限界に追い込んだか、ここで病を発して死の床についてしまう。もう臨終だなと思った時宗僧が宗広に「もはや臨終は遠くありますまい。今は南無阿弥陀仏と唱えて阿弥陀さまのお御迎えを待ちなさい。この世で心残りのことがあればお話し下さい。ご子息にお伝えしましょう」とささやくと、宗広は閉じようとしていた目をパッと見開いて起き上がり、カラカラと笑って、「わしはすでに七十を越え、身に余る栄華を受けたから心残りなどはない。ただ都へ攻めのぼって朝敵を滅ぼせなかったのが残念だ。息子には、わしの後生の弔いなどいらぬ、朝敵の首をとって我が墓前に並べよと伝えて下され」と刀を抜いて手にしたまま歯ぎしりして死んだ、と「太平記」は描写する。宗広の生年は不明だが、このセリフからこの時点で70過ぎの老将であったことが推測できる(もちろん、あくまで「太平記」が文学的にそう書いているだけで何の証拠にもならない。そもそもこの描写は「平家物語」の清盛の死の場面のパクリである)。
このあと「太平記」は、宗広が極悪非道な人間であったといきなり語り出す。鹿を狩り鷹狩りをすることはまだいいとして、罪のない人間を縛りあげたり、僧侶や尼を数多く殺し、常に死人を見ていないと気分が悪いと二、三日おきに首を切って目の前にさらさせたため、彼の住むところには死体が山をなした――という、凄まじい筆致で宗広を非難するのだ。そして念仏も拒否して怨念を抱きつつ死んだ宗広が地獄に落ちて責めさいなまれていると描き、その知らせを受けた息子の親朝がよく追善をした、という不思議な物語をつづっている。文学的表現としてこの直前の義貞のあっけない死と対比させようとしたものではないかとも言われるが、南朝より武将にはおおむね好意的な書き方をする「太平記」が宗広についてはなぜここまでおとしめる書き方をしているのか、一つの謎となっている。
江戸時代になって尊王論と南朝正統論が広まり、「南朝忠臣」たちが顕彰される流れの中で宗広も南朝の「忠臣」とされ、津藩・藤堂家により文政7年(1824)に宗広の墓とされる場所に彼を祭る神社が建立された。これがもとになって明治15年(1882)に別格官幣社「結城神社」とされ「建武中興十五社」の一つとなり(二男の親光も合祀)、大正7年には宗広に対し正二位の追贈までがなされた。一連の顕彰は「太平記」が由来のはずなのだが、その「太平記」が宗広をコテンコテンに悪く書いていることをどう思っていたのか、これまた謎である。
宗広の死後、後継者の親朝は北畠親房の再三の要請にも慎重に構え、ついには足利方についた。後世これは「父の心子知らず」の代表例として非難されるのだが、宗広の生涯をよく振り返ってみれば、実は「お家大事」ということでは全くぶれていないのである。
参考文献
高柳光寿「足利尊氏」(春秋社)
森茂暁「太平記の群像・軍記物語の虚構と真実」(角川選書)
山本隆志「新田義貞」(ミネルヴァ日本評伝選)
佐藤進一「南北朝の動乱」(中公文庫)
七宮A三『下野 小山・結城一族』(新人物往来社)ほか
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大河ドラマ「太平記」 | 第33回と第39回に登場(演:中山正幼)。第33回では足利方についた佐竹勢が陸奥国府に攻め込んでくる場面で北畠父子と共に奮戦している。第39回でも顕家と共に二度目の長征を戦い、伊勢へ転進したことをなじる親房に弁解する場面でセリフがある。70まではいかないが「老将」のイメージになっている。
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歴史小説では | 顕家の側近ということで、北方謙三「破軍の星」はじめ登場例は多い。吉川英治「私本太平記」では古典とはまた違った彼の最期が描かれ、幼児から親しんでいた義良親王が「じいよ、じいよ」と泣きつく描写がある。
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漫画作品では | 小学館版・あおむら純の「少年少女日本の歴史」で、伊勢から出航するため船を建設している様子を親房と眺めながら語り合うシーンがある。 |
PCエンジンCD版 | 陸前に南朝方武将として登場。初登場時の能力は統率51・戦闘83・忠誠91・婆沙羅46。 |
PCエンジンHu版 | シナリオ1「鎌倉幕府の滅亡」で陸奥・白河城に登場。能力は「騎馬2」。 |
メガドライブ版 | 南朝方武将として登場し、「足利帖」では京都攻防戦で敵方に、「新田・楠木帖」では後半シナリオの多くで出陣選択武将になる。能力は体力62・武力77・智力93・人徳78・攻撃力45。
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SSボードゲーム版 | 公家方の「武将」クラスで、勢力地域は「奥羽」。合戦能力2・采配能力3。ユニット裏は嫡子の結城親朝。 |