佐々木道誉 | ささき・どうよ | 1296(永仁4)-1373(応安6/文中2) |
親族 | 父:佐々木宗氏 養父:佐々木貞宗 母:佐々木宗綱の娘
兄弟:佐々木貞氏・佐々木貞満・佐々木秀信・佐々木時満・佐々木経氏
妻:二階堂時綱の娘・きた・みま(「きた」と同一人?)
子:佐々木秀綱・佐々木秀宗・佐々木高秀・赤松則祐の妻・斯波氏頼の妻 |
官職 | 左衛門尉・検非違使・佐渡守 |
位階 | 従五位下 |
建武の新政 | 雑訴決断所 |
幕府 | 近江・若狭・飛騨・出雲・摂津守護、引付頭人、評定衆、政所執事 |
生 涯 |
鎌倉から室町にまたがり、南北朝の動乱時代のほとんどをトップランナーとして生き抜いた時代を代表する武将。華美で反体制的な「婆沙羅(バサラ)大名」の代名詞的存在であり、巧みな謀略と政治感覚で幕府を支える大大名にのしあがり、なおかつ各種文化芸術を育ててその後の日本文化に決定的な影響を残した、まさに「南北朝最大の怪物」である。
―京・鎌倉で成長―
俗名は「高氏」。出家して法名を「道誉」という。本人の署名は全て「導誉」なのでこれが正式と見られるが、同時代人たちは「道誉」と表記しており、これが定着している。また彼の家系は「京極家」と呼ばれるので「京極道誉」の表記もよくなされるが、彼の生きた時代では「佐々木」の名字で呼ばれていた。
佐々木家は宇多源氏とされ、近江の豪族である。一族の中には源平合戦の宇治川先陣で名高い佐々木高綱もいる。鎌倉時代中に近江佐々木一族は「六角」と「京極」の二系統に分かれ、「六角佐々木」の方が惣領家とみなされ、「京極佐々木」は傍流とされていた(道誉の曽祖父が京の高辻京極に屋敷があったことからこの名がついた)。高氏(道誉)はその傍流・京極のさらに傍流の佐々木宗氏の子である。ところが京極家の本家・佐々木貞宗が嘉元3年(1305)に19歳で死んでしまい後継ぎがなかったため、その養子として高氏が京極本家を継ぐことになった(高氏の母が貞宗の姉妹でもあった)。高氏には兄の貞氏がおり、父・宗氏の家系はこちらが相続している。なお兄「貞氏」の名が得宗・北条貞時の一字を受けているように、高氏もその次の得宗・北条高時の一字を受けている。だから足利高氏(こちらは父が貞氏)と事情が同じなのだが、二人の「たかうじ」は生涯にわたって何かにつけ深いかかわりをもつことになる。
佐々木高氏の生まれ育った土地がどこなのか不明だが、実父・宗氏が鎌倉御家人として活動しているので鎌倉で生まれ育ったのではないかとの説と、京極家が検非違使を務める家であったことから京で生まれ育ったとする説とがある。正和3年(1314)に左衛門尉、元亨2年(1322)に京の警備にあたる検非違使に任じられたとされ、地理的に重要な近江に拠点を置く有力御家人として、京と鎌倉を行き来する生活を送っていたと想像される。
元亨3年(1323)10月に鎌倉円覚寺で執り行われた北条貞時の十三回忌法要の記録に「佐渡大夫判官」が太刀と鞍を献じたことが載っており、これが佐々木高氏(道誉)の行動が最初に確認できる同時代史料である。この法要の記録はこの時期の幕府有力御家人紳士録ともいえ、足利尊氏の父・足利貞氏や、後年道誉の宿敵となる斯波高経も名を連ねている。
翌元亨4年(1324)3月22日、後醍醐天皇が石清水八幡宮に行幸したが、このとき検非違使であった佐々木高氏が桂川に浮橋をかけて天皇を渡す「橋渡し」の役目をつとめている(「増鏡」)。このとき後醍醐が高氏の顔をしっかり覚えたことは確実である(理由は後述)。この時期の後醍醐は倒幕計画を本格的に進めており、後醍醐の側近の北畠親房や日野資朝が直前まで検非違使の長官をつとめているので、高氏が後醍醐と人脈的につながっていた可能性は十分あるし、美濃源氏の土岐氏や伊賀兼光など有力武士もこれに参加していることも考え合わせると、高氏に倒幕への参加の声がかかったこともあったかもしれない。
この年9月、後醍醐の計画は発覚し、日野資朝・日野俊基らが逮捕された(正中の変)。このとき後の佐々木道誉は京にいたはずだが、この事件との関わりは全くうかがえない。全くの無関係であったとしても動乱の時代の始まりを若き日の道誉も肌身で感じていたことだろう。
正中3=嘉暦元年(1326)3月13日、得宗・北条高時は重い病にかかって重態となり、もはや助からぬとみて執権を辞任し出家した。結局命は助かったのだが、執権の後任をめぐって幕府では内紛が起こった(嘉暦の騒動)。このとき高時とその弟の泰家、さらに金沢貞顕までが出家する騒ぎとなり、彼らを後追いして出家する有力武士が続出した。この時の状況を『保暦間記』には「関東の侍、老いたるは申すに及ばず、十六、七の若者どもまでみな出家入道す。いまいましく不思議の瑞祥なり」とつづっており、佐々木高氏もまた高時の出家につきあって剃髪、出家して「道誉」と号することになる。「佐々木佐渡判官入道道誉」の誕生である。
恐らく道誉は高時の側近的存在であったと思われ、それで「つきあい出家」をしたのだろう。なお『保暦間記』の著者の有力候補の一人に佐々木道誉その人が挙がっていることを念頭に置くと、上記の書きぶりはどこか自嘲気味にも読める。
―鎌倉幕府の滅亡―
元弘元年(1331)8月、後醍醐天皇はついに笠置山に倒幕の兵を挙げた。このとき近江に拠点を置く佐々木一族は幕府から兵乱鎮圧のための動員をかけられており、佐々木道誉も瀬田橋警固役で出動していることが「光明寺残篇」で知られる。9月に笠置山が陥落して後醍醐やその側近公家たちが捕縛され京に連行されてくると、道誉は後醍醐の腹心である千種忠顕の身柄を自邸に預かっている。そして翌正慶元年(元弘2、1332)3月に後醍醐が隠岐島へ配流されることになると、その護送役に千葉貞胤らと共に道誉が抜擢される。道誉が後醍醐の護送役に選ばれたのは配流地の隠岐や出雲が同族の佐々木一族であったためとみられる。
3月7日に京を発った後醍醐一行は八幡にさしかかり、淀の渡しから桂川を渡った。『増鏡』によればこのとき後醍醐はかつて石清水八幡行幸のおりにここを渡り、そのときに橋渡し役をつとめたのが今自分を護送している道誉であることに気付いた(出家姿なのですぐには気づかなかったのかもしれない)。後醍醐は懐かしさがこみあげ、「しるべする 道こそあらず なりぬとも 淀のわたりは 忘れしもせじ」(お前が道案内してくれる道の行き先はあの時とは全く違ってしまったが、淀の渡しをお前が渡してくれたことは忘れはせぬぞ)と詠んで道誉に賜ったという。この逸話は後醍醐が道誉のことをしっかり記憶していたことが確認できるだけでも興味深いのだが、この歌も表面的には自身の運命の変転を嘆く歌であるが、読みようによっては「お前のことは忘れぬ」と道誉個人に何か期待をこめたメッセージ性まで感じさせる。『増鏡』がさりげなく記すエピソードだが、その後の道誉の行動をみるとき、やはりこれ以前から後醍醐と道誉には人脈的つながりがあったのではないかと思わせる。
一行は摂津、播磨、美作、伯耆を経由して出雲の美保関に到着し、ここから天皇は船で隠岐へ渡り、道誉らは引き返したとみられる。
京に戻った道誉は、今度は後醍醐の側近として乱に参加した北畠具行を鎌倉に護送するよう命じられている。しかし鎌倉に送る途中、道誉の本拠地のある近江・柏原荘で幕府からの連絡があり、その場で具行を処刑することに決まった。6月19日のことという。このときの逸話は『増鏡』および『太平記』に詳しい。以下の話は「増鏡」を中心にした。
処刑の前夜、道誉は具行にあえて処刑を伝えず、「何事も前世の因縁で決まっていたことなのでしょう。あなた一人で起こした乱でもなし、どうなるものでもありません。私などは武士の家に生まれて血なまぐさいことばかりしていて、因果なものです」と語り、暗に具行に処刑を伝えた(「太平記」では、恩赦が出るまで時間稼ぎをしようとしていたが命令が来た、と率直に言う)。そして後醍醐を隠岐まで護送した時の思い出を具行に語り、「旅の間だけのおつきあいですらとても感じ入る者がありました。ましてあなたのように日夜お相手したお方ならなおさらでしょう。まさに昔の聖君のようなお方、このような末の世にあっては世が受け入れきれないのでしょう」と後醍醐をたたえ、酒や料理で具行をもてなしつつ世間話をしてなぐさめたという。翌朝、具行が覚悟を決めて出家を申し出ると、道誉は「よいお心がけです。関東(幕府)がうるさく言ってくるかもしれませんが、どうということはないでしょう」とこれを許可した。出家が済んでから具行は斬首された。首をはねたのは道誉の家臣・田児六郎左衛門尉だったという(「太平記」)。この具行と道誉の対話は非常に印象的で、とくに「太平記」においてはその後「ずるがしこい謀略家」のイメージで否定的に語られる道誉がここでは人情深い武将として描かれているのが目を引く。
この年の後半から護良親王・楠木正成らによる倒幕運動が再び活発化、翌正慶2年(元弘3、1333)年に入ると各地の反幕府勢力が挙兵し、閏2月末に後醍醐が隠岐から脱出したことで情勢は一気に流動化してゆく。この間道誉がどのような行動をとっていたか明確な史料はない。『太平記』でも幕府滅亡の展開で道誉はまったく登場しないのだが、『太平記』のはるかに後ろの方、尊氏死後の巻三十四の記述に「佐渡判官入道道誉は元弘のころ、北条高時の振る舞いを見て幕府の運も尽きたとみて『北条を討って取って代われ』としきりに尊氏に勧めた。それによって六波羅は尊氏のために滅びることになったのである」との一文が突然現れている。
また道誉の子孫の京極家が江戸時代に編纂した家譜では道誉が3月末の足利高氏の鎌倉出陣に同行し、高氏の命で腰越から鎌倉に向けて怨敵退散のかぶら矢を放ったこと、近江番場で道誉が高氏を饗応し「先陣は私がつとめたい」と申し出て六波羅攻略の軍議を行い、高氏を喜ばせたといった逸話が記されている。ただし後世の家譜の「面白い話」はアテにならないことが多い。その後の道誉の建武政権や尊氏との関わりを考えると、このとき道誉と尊氏の間で密約・連携プレーがあったことは事実かもしれない。
4月29日に足利高氏は篠村八幡で挙兵、5月7日に六波羅探題を攻め落とした。このとき道誉が高氏と行動を共にしていた様子はないが、このあと六波羅探題の人々が光厳天皇ら持明院統の皇族たちを奉じて関東へ逃げようとし、結局5月9日に近江番場で全滅することになる展開の背後に道誉の関与を疑う声はある。
六波羅一行は京から番場まで各地で野伏たちの襲撃を各地で受けたが、彼らは「五辻宮」こと守良親王というほとんど隠遁状態にあった皇族を大将にかつぎだすという不自然なことをしている。また六波羅一行に途中まで同行していた六角佐々木の佐々木時信が一行から不自然な離脱をして結果的に命を拾っている。そして捕えられた光厳ら皇族たちが収容され神器の引き渡しが行われた場所は道誉の拠点・伊吹山にある太平寺だった。これらの状況証拠から、道誉は足利高氏と示し合わせ、六波羅勢の関東逃亡を近江で阻止する役割を演じたのではないかと推測されるのだ。
―建武の乱で大活躍―
鎌倉は5月22日に新田義貞の攻撃により陥落、道誉が「つきあい出家」をしたかつての主人・高時も死んだ。後醍醐天皇は都に凱旋し、天皇中心の「建武の新政」を開始する。道誉はその開始直後には新政に参与した形跡がないが、土地問題の処理が混雑・混乱したことを受けて建武元年(1334)8月に「雑訴決断所」が拡充された折に西海道担当の八番局に佐々木道誉が抜擢されている。この直後の9月、後醍醐の賀茂行幸に尊氏が随行した時に尊氏の軍勢の中に道誉の子・秀綱が加わっており、道誉が尊氏と深い関係で結ばれていたことがうかがえる。道誉が雑訴決断所奉行人に選ばれたのも尊氏の後押しがあった可能性もある。
建武政権はますます混乱を増し、各地で反乱の挙兵が続いた。建武2年(1335)7月、信濃・諏訪に逃れていた北条高時の遺児・北条時行が挙兵するとたちまち大軍にふくれあがり、尊氏の弟・足利直義が守っていた鎌倉を攻め落とす(中先代の乱)。これを聞いた尊氏は後醍醐の許可のないまま8月2日に京を出陣した。尊氏の軍には建武政権に不満を抱いていた武士たちがこぞって加わったが、その中に佐々木道誉もしっかり加わっていた。
この中先代の乱平定戦での道誉の活躍はかなり目覚ましい。8月12日の小夜中山(掛川市)の戦い、8月17日の箱根・水飲峠(三島市)の戦いで道誉の部隊が北条軍の敵将を討ち取る手柄をあげていることが戦闘記録「足利宰相関東下向申次」で確認できる。箱根を越えた相模川での対陣でも道誉は赤松貞範らと共に果敢な渡河作戦を行い、北条軍の背後に回ってこれを混乱・潰走させた(「太平記」)。元弘の乱では戦闘参加の記録がない道誉であるが、ここではなかなかの勇将ぶりを見せている。
またこの一連の戦闘で常陸の武士・烟田幹宗と同時幹の功績を確認する軍忠状に道誉が証判(サイン)を与えたものが現存しており、道誉が単なる一武将ではなく、足利軍の中で指揮官クラスの立場で参加していたことを示している。
尊氏は鎌倉を奪還すると、そのまま鎌倉に居座り、関東において事実上の幕府体制を開始する。道誉もこのとき今回の戦功の恩賞を尊氏から受けており、この時点で道誉と尊氏は主従関係を明確にしたといっていい。尊氏は事実上将軍としてふるまい幕府を作ったも同然だったが、後醍醐とは既成事実を作ったうえで折り合えるものと考えていたようで、あくまで後醍醐に逆らう気はなかった。このため後醍醐が実際に尊氏討伐軍が起こすと出家・恭順の意向を示して寺に引きこもってしまった。やむなく直義が総大将となって東海道を西へ進んで新田義貞の軍と対決することになり、ここに道誉も参加することになる。
しかし主君・尊氏を欠いて意気あがらぬ足利軍は三河・駿河で連敗、とくに12月5日の駿河・手越河原の戦いでの敗北は壊滅的で、直義自身も命からがら逃げのびるはめになった。この戦いで道誉は自ら太刀で敵と切り結んで奮戦し、多くの手傷を負い、しかも実弟の佐々木貞満を戦死させてしまった。
「太平記」によれば「もはやこれまで」と思った道誉は義貞に降参、逆に義貞の先陣を切って足利に立ち向かう姿勢をとる。足利側の軍記『梅松論』でもこのとき多くの武士が新田軍に降参したと記すが、「その名前については、はばかりがあるので書かないことにする」と意味深な一文がある。尊氏周辺の人物とみられる執筆者としては幕府の重鎮となった道誉に遠慮せざるをえなかったのだと思われる。
手越河原の敗報を聞いた尊氏はついに立った。12月11日、足利・新田両軍は箱根・竹之下の戦いで激突する。「太平記」はこのとき道誉がいつの間にやら戦闘開始時点から足利軍に加わっていたように記しているが、実際はどうだったか分からない。他に史料がないので「太平記」の記述に従うと、道誉はこのとき新田軍のからめ手で竹之下方面を進んでいた義貞の弟・脇屋義助の軍勢に襲いかかった。義助の軍には討伐軍の象徴的司令官であった尊良親王とその側近公家たちの部隊があり、彼らは官軍を示す錦の御旗を掲げ、「帝に逆らう者には天罰が下るぞ。命が惜しくば降参せよ」と足利軍に呼ばわった。しかしその声をかけられた足利軍に佐々木道誉・土岐頼遠の婆沙羅大名代表が二人もそろっていたからたまらない。彼らはこれを嘲笑し、「武士として生まれた者は名を惜しみ、命など惜しまぬ。それが嘘かまことか、戦って見てみるがよい」と一斉に太刀を抜いて突撃、たちまち公家たちの軍を蹴散らしてしまう。これをきっかけに脇屋軍が崩壊、おまけに最初から新田軍に加わっていた大友貞載・佐々木高貞までが戦闘中に寝返りを打ち、箱根方面で直義をあと一歩まで追いつめていた義貞も敗走を余儀なくされてしまった。
このときの道誉の行動が、初めから寝返るつもりの「計画的降参」であったとの見方もある。ただ手越河原では弟が戦死するほどの厳しい状況であり、最初からそのつもりで降参したとも考えにくい。ただ実際に降参してみて新田軍の内情を知り、なおかつ引きこもっていた尊氏の出馬を聞いて「これは足利が勝つ」と見て寝返りを打ったという可能性は高い。箱根で寝返りを打った一人である佐々木高貞も道誉の同族であり、二人で示し合わせた寝返りであったかもしれない。
ともあれ、一連の戦いはその後の「道誉」らしさを存分に発揮したものとなったのである。
箱根・竹之下で新田軍を破った足利軍は、そのまま義貞を追って京へと向かった。年が明けた建武3年(延元元、1334)に足利方と後醍醐方の軍勢は京都をめぐって激しい攻防戦を繰り広げ、結局尊氏は2月に敗北して九州へとのがれた。しかし九州で態勢を立て直した尊氏は5月に湊川の戦いで勝利し、再び京を攻め落とした。この間の道誉の行動は全く不明だが、尊氏に従って九州までついていった様子はなく、本拠地の近江にとどまっていた可能性が高い。尊氏が九州へ敗走した時に多くの武士が後醍醐側に投降した事実はあり、そのなかに道誉が含まれていたのかもしれない。あるいはあえて去就をはっきりさせず、近江で様子をうかがっていたのだろうか。
尊氏が京を占領すると、後醍醐は比叡山に逃れて抵抗した。比叡山は難攻不落でこの攻防は五ヶ月にわたって続く。このころ道誉が尊氏から指示を受けて近江側から比叡山攻略を助けていることが軍忠状から知られる。このころ近江には信濃の有力御家人・小笠原貞宗が尊氏に加勢して遠征してきており、近江国内で守護のようにふるまい事実上指揮を執っていた。このころ近江の守護は六角佐々木の佐々木氏頼がつとめていたがまだ幼少であり、道誉も次第に頭角を現しているとはいえ六角氏より下の立場であったために小笠原貞宗の指揮下に入らざるを得なかったのだと思われる。
『太平記』巻十七「江州軍の事」に面白い話が載る。9月末に道誉が京から若狭路を経て東坂本(比叡山の近江側入口)にやってきて「近江は代々わが佐々木家の守護する国であるのに、小笠原がやってきて戦い、その功績により近江を支配しております。これでは道誉の面目が立ちませぬ。もし近江の守護職を私に認めてくだされば、ただちに近江に行って小笠原を追い落とし、近江国内の武士を従えて帝のために働きましょう」と後醍醐側にもちかけた。後醍醐と義貞は大いに喜び、さっそく道誉に近江守護職と数十ヶ所の領地を恩賞として与えてやった。すると道誉はそれを持って近江に帰るや「将軍(尊氏)から近江守護職を認められたぞ」と主張して小笠原軍を近江から追い出してしまった。そして近江全土を従えると今度は比叡山関係者の領地まで奪ってしまい、あまつさえ比叡山を攻撃し始めた。「さては道誉にだまされたか!」と義貞は弟の脇屋義助に船団で琵琶湖を渡り道誉を攻撃させたが、逆に上陸したところを道誉に攻められて散々な敗北をして比叡山に逃げ帰った…という一幕である。
この話、実に面白いのだが、後醍醐から与えられた守護職を「将軍からもらった」と言って小笠原を追い出すのはかなり不自然である。この部分、一番古い形を残す「太平記」西源院本では道誉が求めたのは守護職ではなく「近江の管領」であり、しかも求めた相手は後醍醐ではなく尊氏であったことになっていて、こちらのほうが話が自然であるという(森茂暁「佐々木導誉」)。またこの守護職を求めて義貞をたぶらかす逸話は赤松円心に似た逸話があり、その話を流用して話を「道誉らしく」面白くしてしまった可能性もある。この時期、尊氏が近江で活動する武士たちにわざわざ道誉の指揮下に入るよう指示する書状もあることから、「よそ者」である小笠原貞宗が近江国内の武士を統率していることに道誉が強い不満を持っていたことは事実らしく、この逸話はそれを背景にしたものとみられている。
「梅松論」では同じ9月の末に道誉が京から丹波路を経由して若狭・小浜に入り、ここから武士たちを率いて(「案内者たるによって」とある)北近江に攻め入り、小笠原貞宗と協力して比叡山を攻めたことになっている。道誉が京から若狭を経由して近江に入っていることは「太平記」と共通しており、これによって北陸方面から琵琶湖上の水運を使った物資輸送ルートを封鎖して比叡山を兵糧攻めにしたというのが真相ではないかと思われる。結局これが後醍醐たちの戦意を喪失させ、10月末に後醍醐は尊氏からの和睦の呼びかけに応じて比叡山を下りた。ここでも道誉の功績は大きかったと見なければならない。
―婆沙羅大名・道誉の台頭―
比叡山を下りた後醍醐は神器を北朝の光明天皇に譲渡し、11月7日に足利氏の施政方針を示す「建武式目」が発表され、ここに足利幕府=室町幕府が事実上成立した。この「建武式目」の第一条に「倹約を行はるべき事」という項目があり、「近ごろ『婆沙羅(バサラ)』などと言いたてて派手さを好み、きらびやかに着飾って人の目を驚かす風潮がある。まったく狂っているとしかいいようがない。富者はますます派手になり、貧者はそれをうらやむばかり。これでは風俗が乱れてしまう。厳しく取り締まらなければならない」と、当時流行の「婆沙羅」を強くいましめられている。これはこの建武式目の制定の中心にいた足利直義とそのブレーンの保守的・厳格な性格を強く受けたものだが、道誉を始めとしてこの「婆沙羅」の風潮がそれで静まった様子もない。
道誉はこの年の12月に尊氏から若狭国守護に任じられた。道誉にとって初めての守護職であり、比叡山攻略の功績によるものと思われるが、何か事情があったのか半年後には若狭守護職は別人になっていることが確認できる。
この年の末に後醍醐は京を脱出して吉野にこもり、自身が正統の天皇であるとして各地の武士に京奪還を呼びかけた。いわゆる「南北朝の動乱」がここに始まるわけだが、道誉はこのころ自身の居館を柏原から甲良に移し、建武4年(延元2、1337)4月に近江信楽で後醍醐派と交戦するなど、近江各地の掃討にあたっていたらしい。建武5年(延元3、1338)正月に奥州から駆け付けて来た北畠顕家率いる南朝奥州軍が美濃・青野原の戦いで足利軍を撃破したとき、北畠軍の近江侵入を阻止するため道誉は高師泰らと黒血川に布陣している。これを突破することは無理と見た顕家は伊勢へと転進している。
この建武5年4月に道誉は念願の近江守護職を獲得している。佐々木氏傍流の京極系が近江守護となるのはこれが初めてで道誉への幕府の期待を示すものでもあるのだが、ここでもまた半年ほどでとりあげられてしまう。六角佐々木の当主・氏頼が成長してきたのでこちらに近江守護が任されてしまったのである。やはり道誉は傍流の悲哀を味あわざるを得なかったようだ。
建武5年(1338)のうちに北畠顕家、新田義貞が相次いで戦死し、尊氏は征夷大将軍となって幕府体制を名実ともに確立させた。そしてその翌年、暦応2年(延元4、1339)8月16日に後醍醐が吉野で死去する。南朝の劣勢、幕府の優勢はもはや明らかであった。
そんな暦応3年(興国元、1340)10月6日、道誉は有名な「妙法院焼き打ち事件」を引き起こす。そもそもの発端は道誉の嫡子・秀綱がその郎党たちと「例のバサラに風流を尽くして、西山・東山の紅葉を見て」(太平記)、夕刻その帰途に妙法院の前を通りかかったとき、その庭の紅葉をひとさし折って持ち帰ろうとしたことだった。妙法院の僧たちは当然ながらこれに怒り、山法師たちが飛び出して秀綱たちから紅葉の枝を奪い返し、乱闘の末に寺から追い出した。秀綱たちが屋敷に帰って道誉にこれを告げると、「どこの門主か知らぬが、ちかごろこの道誉の手の者と知って手出しをするような奴はおらぬぞ」と道誉は激怒し、秀綱と共に300余の兵を率いて妙法院へ押し寄せ、妙法院の重宝を盗み出すなど乱暴狼藉を働いたうえに御所に放火、意気揚々と引き上げたというのである(「太平記」「中院通冬日記」「妙法院文書」)。
そもそも発端が息子が紅葉を失敬したことであるから「逆恨み」と言ってもよく、しかもその報復の仕方がハンパではない。さらに人々を驚かせたのは、この妙法院は比叡山延暦寺と同じく最澄の開基とされ、比叡山と強く結びついたいわば「系列寺院」であり代々皇族が住持となる「天台三門跡」の名刹であること。このときも光厳上皇の弟・亮性法親王が門主をつとめていた。その寺に略奪・放火を働いたのである。中院通冬がその日記に記したように「言語道断の悪行、天魔のしわざか」というのが世間一般の感想であっただろう。
下手をすれば首が飛びかねない行動であり、いつも計算高い道誉が衝動的にこんなことをやったとも思えない。実は近江の佐々木家と比叡山は昔から因縁がある。頼朝時代の佐々木定綱の次男が比叡山に属する日吉神社の神人を殺害し、その次男が比叡山に引き渡されて処刑、定綱も薩摩へ流刑になった先例がある。また比叡山の裏口ともいえる近江では所領などをめぐって比叡山と佐々木家がトラブルになることも少なくなかったようだ。道誉はそうした過去の因縁も含めてまさに「確信犯的」に妙法院を焼き打ちしたものとみられる。それで自分がとがめられることはないという自信もあったようで、この一件は実は幕府の了解のもとで起きたのではないかとの見解もある。
実際、この事件に対する幕府の処分は生ぬるかった。比叡山は激怒して道誉父子の極刑を北朝に求めたが、幕府の庇護下にある朝廷が何もできるはずがない。衆徒らはさらに神輿をかついで強訴を行い幕府に処分を求めたことで、10月26日にようやく幕府は道誉父子の流刑を決定する。その配流先も12月になって道誉が出羽、秀綱が陸奥と決定され、翌年4月にようやく途中の上総まで出発、というのんびりしたスケジュールであった。
おまけにその流刑の風情たるや、「遊覧の体(物見遊山)」(中院通冬日記)であったという。「太平記」はもっと詳しく、「道誉が近江の国分寺に来ると、若党三百余騎が見送りと称して前後に従った。彼らは全員猿の皮のうつぼ(矢入れ)に猿の皮の腰当てをつけ、手に手にウグイスの籠を持っていた。道中ではあちこちで酒宴を開き、遊女を呼んで騒ぐ始末で、その様子はとても流刑者には見えず、華やかなものであった」と伝える。猿は比叡山・日吉神社の守護神とされ、猿の皮のうつぼや腰当ては明白に比叡山に対する挑発だった。「太平記」の作者は明らかに比叡山関係者と思われ、道誉の行動を苦々しげに書きつつ、その豪快さには舌を巻かざるを得ないといった様子である。
結局、この配流は形ばかりのものであったらしく、道誉父子は出羽はもちろん上総まで行ったかどうかも怪しい。この年の8月には直義の命で伊勢方面の南朝軍に圧力をかけていることが確認できるからだ。この事件が実は幕府の意向を受けたものではなかったか、とまで疑われるのも無理はない。それまで絶対的宗教権威であった比叡山が新興武士たちにコケにされるという時代を象徴する事件であり、婆沙羅大名・佐々木道誉の真骨頂の一つといえる事件であった。
なお流刑にあたってはその宣下で流人の俗名を記すことになっていて、道誉の場合だと「高氏」と書かれることになってしまう。これは将軍・尊氏と同じ「たかうじ」を流刑にすることになり申し訳ないということで、道誉はとっとと「峯方(みねかた)」なる名前に改名している。「峯方」という名前は比叡山そのものに通じ、これだと比叡山を流刑に処すという意味にもなる。道誉のバサラぶりはこんなところにも表れている。
―変転常なき情勢のなかで―
康永2年(興国4、1343)8月、道誉は出雲守護職を得た。なおこの出雲守護職はもともと同族の佐々木高貞が持っていたものだが、高貞はこの2年前に謎の逐電事件を起こし自害している。「太平記」の伝える、高師直が高貞の美貌の妻に横恋慕して…の逸話で有名な事件である。その真相は不明ながらこれを機に京極佐々木家が以後出雲守護を得るようになった。また、このころ道誉は幕府引付方(訴訟担当)の頭人となり、いよいよ幕府の中枢の一角を占め始める。
しばらく鳴りをひそめていた南朝の軍事行動が再開されたのは貞和3年(正平2、1347)秋以降のことである。河内で楠木正行が目覚ましい活躍をみせ、南朝は攻勢に転じた。道誉ら佐々木一族にも出陣の命が下り、道誉は息子の秀綱・秀宗らと共に河内へ出陣している。
年が明けて貞治4年(正平3、1348)1月5日、楠木正行率いる南朝軍と高師直率いる幕府軍は河内北方・四条畷で決戦を行った。『太平記』によればこのとき道誉は生駒の南の丘の上に布陣し、楯を並べ射手を配置して上って来る敵があれば矢を浴びせる構えをとった。戦闘が始まり楠木軍が激しい勢いで突進していくのを見ると、道誉は「楠木は他の武将には目もくれずに総大将の師直の旗だけ目指している。それならばいったんやりすごして、通り過ぎてからその背後を断とう」と飯森山の南の峯の上に移動してしばらく様子を見て、楠木軍が疲れたところを見すまして攻撃をかけるといった戦巧者ぶりを見せている。
四条畷で楠木正行らを敗死させた幕府軍は勢いに乗って南朝の拠点・吉野へと迫った。南朝朝廷は吉野を放棄して賀名生へと落ちのび、師直らは吉野を焼き払って灰燼に帰せしめた。このあと幕府軍は大和各地で掃討戦を続けたが、2月8日に大和・平田荘において南朝方の数千の「野伏」に襲撃された。このとき道誉・秀綱は負傷したうえ、秀宗は水越峠で戦死してしまっている。
翌貞治5年(正平4、1349)年始の幕府「沙汰始」で道誉は幕府の最高議決機関「評定衆」のメンバーとして顔を見せている。前年に息子を戦死させたことの見返りとして彼の地位が高まったのかもしれない。しかしこの年、幕府は足利直義派と高師直派に分裂して激しい内戦「観応の擾乱」へと突入してゆき、道誉の幕府内の地位も激しく変動するになる。
この年8月、高師直らはクーデターを起こし、直義と尊氏を将軍邸に包囲して直義を失脚に追い込んだ。尊氏と師直が示し合わせて演じた一芝居だったとも見られるこの事件で道誉の動向は知れないが、嫡男の秀綱が師直軍に参加しており(「太平記」)、この政変ののち道誉が引付頭人に復帰していることも確認できるので、基本的に師直派に属していたと思われる。師直というより道誉としてはあくまで尊氏に味方していたつもりかもしれないが。
翌観応元年(正平5、1350)7月に美濃で土岐周済が反乱を起こして近江へ侵攻し(恐らく直義派として動いたと思われる)、足利義詮と師直に討伐を受けているが、このとき道誉も自国ということでその先払いをしている。捕えられた周済の子の処刑も道誉の指示下で行われた。そしてこの年の10月、直義の養子で尊氏の庶子である足利直冬が九州で勢い盛んとなり、尊氏は自ら九州に出陣してこれを平定することにした。そのことを勧修寺経顕を通じて光厳上皇に報告する役目も道誉がつとめている。京暮らしが長い上に高い教養を身に付けた道誉は公家の相手にはもってこいだったようで、このころから幕府から朝廷側への接触はたいてい道誉が担当するようになる。このころ道誉が幕府政所執事(現在の財務大臣に近い)を務めていることも確認できる。
尊氏が師直らと共に九州目指して出陣した直後、京を脱出した直義は南朝に降伏して挙兵した。情勢はたちまち逆転し、観応2年(正平6、1351)2月の打出浜の戦いで尊氏・師直は直義に敗れた。和議が成立して尊氏は直義と共に京にもどることになったが、その帰途の2月26日に師直ら高一族は直義派によって皆殺しにされてしまう。
京にもどった尊氏は敗者の立場のはずなのに直義との交渉では強気に出て、今回の戦いで尊氏方についた武将たちの恩賞と領地安堵を認めさせた。「観応二年日次記」4月2日の条によると尊氏派につきながら罪を許され領地を安堵された武将の筆頭に佐々木道誉の名が挙がっている(ほかに仁木頼章、土岐頼康など)。道誉がこの間どこで何をしていたか明確ではないのだが、打出浜の戦いの直前に尊氏から恩賞として複数の土地を与えられているので、やはり尊氏派として行動し、近江でにらみを利かせていたのではないだろうか。
尊氏と直義の和解はすぐに破綻し、京ではテロの嵐が吹き荒れ、各地で合戦が始まった。7月19日に直義は政務を辞して状況を打開しようと図ったが、このころ尊氏派の武将たちが次々と京を離れた。そして7月28日に足利尊氏当人が「近江の佐々木道誉が南朝と結んで謀叛を起こしたので討伐する」と称して京から近江に出陣した。ほぼ同時に播磨の赤松則祐も南朝方にまわったとして足利義詮も京から播磨へ向かった。これは尊氏・義詮らが道誉・則祐と仕組んだ芝居で東西から京を挟撃する策略だと悟った直義はただちに京を脱出、北陸へと向かった。
道誉と則祐の行動が尊氏と示し合わせたものだったことは間違いないだろう。則祐は道誉の娘を妻に迎えており、道誉の婿でもある。ただし南朝と結びついたというのも事実無根ではなかった。もともと則祐は護良親王の家臣であった過去があって南朝の総帥・北畠親房と連絡がとれていた。そして恐らくそのつてを通して、道誉のもとに南朝の後村上天皇からの綸旨も下されていたのである。この年8月2日付のその綸旨には「尊氏・義詮父子に直義法師を追討せよ。功をあげれば恩賞を与える」との内容が書かれていたという(「観応二年日次記」)。本当にそういう内容だったとすれば、このとき南朝は道誉に足利一家全ての討伐を命じていたことになり、展開次第では道誉が尊氏に取って代わって「天下をとる」可能性をちらつかせるものであった。
しかし道誉は一切それに応じた気配がない。8月18日に直義を討つべく近江鏡宿に出陣した尊氏のもとへ、道誉は秀綱と共に忠実に馳せ参じている。この直後から尊氏自身が南朝に投降を持ちかける事態になるので、南朝も道誉に尊氏を討たせる意味がなくなってしまっていた。
11月に尊氏は南朝に投降を認められ、北朝は存在を否定された(正平の一統)。尊氏と南朝との交渉の仲介役は赤松則祐であったとされ、道誉もそこに一定の関与をしていただろう。南朝から直義討伐の綸旨を得た尊氏は関東へ逃れた直義を討つべく東海道を下ってゆき、道誉は京の留守を守る義詮を補佐した。南朝による北朝権力の接収の過程ではもともと公家相手を担当していた道誉が南朝との交渉役を務めている。義詮の道誉に対する信任は篤く、この年12月に道誉は義詮から「佐々木家惣領」の地位を認められている。本来佐々木一族の惣領は六角系がもつのだが、この動乱の中で六角佐々木の氏頼は尊氏・直義の間で揺れ続けて悩んだあげく何もかも投げ出して出家してしまっていた。そのあたり、道誉はやはり図太い神経の持ち主だったと言えそうだ。
翌年(1352年。「正平の一統」維持の間は道誉にとっても正平7年となる)2月26日に、尊氏に敗れて鎌倉に幽閉されていた直義が急死した。この瞬間に南朝と尊氏との協力関係は意味を失い、南朝は後村上天皇自ら男山八幡に進出して京をうかがい、関東でも宗良親王率いる南朝軍を起こして鎌倉を狙った。南朝軍は閏2月18日に鎌倉、閏2月20日に京を東西ほぼ同時占領し、義詮は京を脱出して近江に逃れ、道誉に合流した。ここに「正平の一統」は完全に手切れとなり、義詮は道誉と共に近江から反転、3月中に京を奪回した。男山八幡に立てこもって抵抗した後村上ら南朝軍がついに敗退したのは5月のことである。
京占領の間に南朝は幕府による北朝復活を阻止するために、北朝の光厳・光明・崇光の三上皇と直仁親王を拉致し、賀名生の山奥に連れ去ってしまった。やむなく幕府はかろうじて京に残っていた光厳の皇子・弥仁親王(僧になる予定で寺に入っていた)を探し出し、これを新天皇に立てることで北朝を復活させようとした。しかし三種の神器は南朝が持ち去っており、神器なしで即位させるためには天皇より上位の「治天」である上皇の院宣を必要とした。ところがその上皇も全て連れ去られているのである。困った幕府が考え付いたのが、光厳・光明の生母広義門院(西園寺寧子)を「女治天」に見立ててその院宣により弥仁を即位させるという、窮余の一策というより「ほとんど反則の裏ワザ」であった。
このアイデアを北朝公家たちにもちかけ、勧修寺経顕を通して広義門院の説得にあたったのが道誉だった。このためこの突拍子のないアイデア自体、道誉が思いついたものではないかと思えてくる。息子や孫たちを幕府の失策で拉致された広義門院は激怒してその要請を蹴ったが、道誉と経顕の必死の説得でようやく折れた。かくして8月17日、「女帝」広義門院の院政という異例の形で弥仁は即位した(後光厳天皇)。この北朝の復活劇を実現させた道誉は、ますます義詮の片腕として頼みにされ、幕府の重鎮とみなされてゆく。
―足利幕府重鎮として―
直義を失った直義党の武将たちは、今度は直義の養子・直冬を首領と仰いで南朝と結びつき、幕府に挑んでくるようになる。文和元年(正平7、1352)11月に旧直義党の石塔頼房や吉良満貞が河内の楠木正儀と手を組んで摂津で活動をはじめ、道誉が息子秀綱と高秀を率いて(あるいは息子たちのみか)その鎮圧にむかっている。もっともこれは成果が上がらぬまま撤退を余儀なくされたらしい。
その直後の文和2年(正平8、1353)正月5日、北野神社参詣と称して京を発った道誉は、突然その足で領国・近江の柏原城に帰り、抗議のストライキを始めるという事件を起こす。原因は前年暮れに鎌倉から京にやって来た尊氏の側近(というより寵童)の18歳の美少年・饗庭氏直(命鶴丸)が道誉と衝突、義詮と道誉について尊氏に讒言してこれを真に受けた尊氏が立腹したことにあった。慌てた義詮は政所の粟飯原清胤、そして尊氏の護持僧として「将軍門跡」と呼ばれた三宝院賢俊という大物二人を柏原に派遣して道誉に復帰を要請したが、道誉は面会すら拒絶したという。結局翌月には幕府政所執事に復帰しているので短期間のストライキで終わったようだが、道誉にしては珍しい衝動的行動ともいえる。ストライキから復帰した直後の道誉の花押(サイン)がある文書が現存しているが、異様に乱れた花押となっていて、道誉の心理的動揺を示すものではないかといわれる(森茂暁「佐々木導誉」。写真も同書に掲載)。
この年の6月、山名時氏・石塔頼房・楠木正儀らの南朝軍が京へ突入、二度目の南朝京都占領を実現した。『太平記』によれば山名時氏が南朝方についたのは、時氏の子・山名師氏が前年の八幡合戦の手柄を道誉に認めてもらおうと毎日訪ねたが、道誉が「今日は連歌会」「今日は茶会」と断って会おうともしないことに立腹したためとする。むろん実際にはそれだけではなく若狭や山陰の守護職をめぐって道誉と山名氏の間で深刻な対立があったことが背景にあるようだ。
この二度目の南朝京都占領で、義詮は後光厳を擁してまた近江へ、さらに美濃と逃れた。その途中6月13日に堅田を通った時に、この地に潜んでいた堀口貞満(新田義貞の家臣)の遺児・堀口貞祐が野伏たちを率いて義詮一行を襲撃、義詮を守っていた道誉の嫡子・佐々木秀綱はこのとき戦死してしまった(「太平記」)。道誉にとって秀宗に続く二度目の息子戦死の悲劇であった。
7月に義詮は京を奪還、尊氏も鎌倉から久々に畿内へ引き上げ、美濃で後光厳と合流して9月に京に戻って来た。戦乱で屋敷が焼けてでもいたのか、このとき義詮が道誉の屋敷で生活していた時期がある。
翌文和3年(正平9、1354)10月、今度は足利直冬が山名時氏や桃井直常らと共に京を攻め、翌文和4年(正平10、1355)正月に京を占領した(南朝軍三度目の京都占領)。いったん後光厳を擁して近江に逃れた尊氏はここから反転して京を攻め、義詮も出陣していた播磨から戻って、2月4日に東西から京へ攻め込んだ。このとき道誉は娘婿の赤松則祐と共に義詮の本陣に同行しており、山崎の西・神南(現・大阪府高槻)で山名軍と激戦に及んでいる。
この模様は「太平記」が非常に詳しくつづっている。山名時氏は義詮の本陣近くまで迫り、義詮周辺は大慌てになったが、そばに控える道誉と則祐は敷皮の上に悠然と構えて一歩も動かず「我らの討ち死にを見てからご自害なされ」と義詮に言った。時氏は義詮本陣に佐々木氏の「四つ目結い」の旗印があるのを見て「わしがこの乱を起こしたのはそもそも道誉の無礼のせいだ。さては道誉がそこにいるな。きゃつの首だけを狙え」と突進してきた。しかし則祐が陣幕を開いて武士たちを叱咤し、それをきっかけに山名軍は敗退したという。
3月に直冬は京から撤退。京はこれから数年ほど久々に平和が戻り、旧直義党の大物・斯波高経も幕府に帰順し、幕府の体制が固められてゆく。そして延文3年(正平13、1358)4月30日についに足利尊氏が54歳で波乱の生涯を閉じた。道誉は幕府の重鎮として二代目将軍・義詮を支えていくことになる。それは彼にとって同じ「たかうじ」の遺志を継ぐことであったかもしれない。
―義詮時代の権謀術数―
義詮が第二代将軍となると、道誉は創業の功臣・元老格として義詮の相談役となって権勢をふるった。これを人々は「武家権勢道誉法師」と呼んだという(「園太暦」延文4年8月17日。ただし京に天狗が横行して道誉邸につぶてを投げたという不思議な記事である)。義詮時代が本格的にスタートすると、その補佐役である執事(このころから「管領」の名称が始まる)に猛将で知られた細川清氏が任命されるが、これは道誉の推薦による人事であったという。
将軍となった義詮は南朝への攻勢を開始した。延文4年(正平14、1359)末から関東からも援軍を招いて摂津・河内・和泉への攻撃をかけ、この戦いは翌年まで続くが、延文5年(正平15、1360)7月に遠征軍の中で内紛が発生する。細川清氏・畠山国清らが有力大名・仁木義長の排除を図ったのである。7月13日に道誉は義詮の命を受け状況視察のため遠征軍の様子を見に行っているが、その直後の7月18日に義長は兵を起こして京の将軍邸を包囲、義詮を人質にして形勢逆転を狙った。「太平記」によれば、このとき道誉は義長の味方につくと称して将軍邸に入り、義長と酒を酌み交わしている隙に義詮を女装させて脱出させてしまったという。義詮に逃げられた義長は伊勢へ逃亡、道誉の策略で事態は丸く収まったわけである。
翌康安元年(正平16、1361)9月、今度は佐々木道誉は謀略により管領・細川清氏を失脚させる。清氏が荼吉尼天(だきにてん)に「清氏が天下をとること、義詮が病死すること、基氏が降伏すること」を祈願したとされ、証拠として清氏の筆跡と花押の入った願文が道誉から義詮に提出されたのだ。義詮は「道誉のいうことだから間違いなし」と信じ、清氏を討つ態勢をとった。清氏はやむなく若狭へ逃れ、さらに河内に走って南朝に降参する。しかし清氏の親友であった今川了俊の証言『難太平記』によると、清氏には野心などまったくなく、これは「ある人」の陰謀だと断定されている。了俊の父・今川範国も問題の願文をじかに見て「不審」と話したといい、全ては道誉の謀略であったということになる。清氏を管領に推挙した当人の道誉がなぜ清氏を策謀により失脚させたのか明確な説はないが、守護人事で清氏と対立していたとも、清氏の暴走ぶりが幕府を危うくすると判断したとも言われる。
南朝に降参した清氏は12月に楠木正儀らと京へ突入、南朝軍の第四回京都占領を実現する。このとき京の武将たちは敵に渡さぬために自身の屋敷に放火して撤退するのが常識だったが、道誉は「我が屋敷にはさだめし名のある武将が入るであろう」と屋敷に火をかけるどころかきれいに清掃して会所に書画・花瓶・香炉・盆など美しく飾り、酒と料理を整えたうえで遁世者を二人を残し「誰であろうとこの屋敷に入った武将に一献差し上げよ」と命じて京から引き揚げていった。この道誉屋敷に入ったのが楠木正儀。道誉の心づくしとその「バサラ」ぶりに感嘆した正儀は、「焼きはらえ」と主張する清氏をしりぞけ、間もなく幕府軍に京を奪回され撤退するにあたって正儀は道誉への返礼としてやはり酒肴を整え、秘蔵の鎧と太刀を置いていった。京の人々は「道誉の今回の振る舞いは情け深く風情あり」とはやし、「道誉のいつもの古バクチにだまされて楠木は太刀をとられた」と笑う者もあったという。道誉と正儀はこの一件が縁になったらしく、以後南北朝和平交渉の双方の代表として接触することになる。
敗れた清氏は四国へ逃れ再起を図ったが、翌貞治元年(正平17、1362)正月に讃岐で従兄弟の細川頼之に敗れて戦死する。管領の後任には当初斯波高経が推挙されたが、高経は将軍家に匹敵する名門という自負があり、自らは管領とならずにわずか13歳の愛児・斯波義将を管領として、その背後で実権を握った。高経の三男・斯波氏頼は道誉の娘婿で、道誉はこちらが管領となることを期待したらしく、この期待が裏切られたことで道誉と高経の対立が始まる。翌年7月には早くも道誉が高経を討とうとしているとの噂がたっている。
貞治元年(正平17、1362)8月、道誉の守護国摂津で楠木正儀ら南朝軍の活動が活発化した。その鎮圧に道誉の孫・秀詮と氏詮(秀綱の子)の兄弟が向かったが、神崎橋の戦いで二人そろって戦死してしまった。道誉にとって弟と息子二人に続いて孫二人を戦で失ったことになる。
この孫二人の戦死は道誉の京極家に深刻なお家騒動をひきおこした。道誉の嫡男・秀綱の子が死に、そのまた子の秀頼はまだ幼く、道誉の息子のうち一人だけ残った高秀の系統が道誉の後継となる可能性が高まったのだ。道誉の重臣である吉田厳覚はこのとき秀頼後継のために動いたらしく、貞治2年(正平18、1363)7月19日の夜に四条京極道場の前で若宮某という刺客に襲われ殺害された。殺害を指示したのは一時道誉との噂も流れたが、子の高秀の方だった。道誉は高秀を激しく叱責したとも伝わる。この事件はあくまで京極家内部の問題だったが高秀はこの事件の責任をとる形で幕府の侍所頭人を辞職している。この事件はちょうど道誉と高経の対立が激化していた時期でもあり、単なる京極家のお家騒動を超えた政治的謀略があったとも言われている。
この一件で道誉も幕府内での権勢をかなり後退させたらしい。「太平記」では道誉が五条大橋建設工事を任されて京の市民から税をとった上で工事を遅延させていると、高経が他の力を借りずにきっちり数日で工事を終わらせてしまったので道誉が面目を失ったとの逸話がある。
貞治5年(正平21、1366)3月、将軍義詮邸で高経主催による花見の宴が催された。道誉ははじめ出席を連絡しておきながら、郊外の大原野・勝持寺で自ら前代未聞の大花見イベントを開催して世間の度肝を抜く。
この寺は「花の寺」の異名もあるほどで、ひとまわり十囲(約15m)もある桜の巨木があった。道誉は巨大な真鍮製の花瓶を作ってこの木の下に置いて巨大な「立花」に見立て(道誉は立花芸術の立役者でもある)、その両側に巨大な香炉を並べて一斤(約600g)の名香を一斉にたいた。さらに猿楽舞や白拍子など京の芸能人を根こそぎ集め、珍味と酒を山のように並べ、大勢の客を集めて夜中までドンチャン騒ぎをしたというのである(「太平記」)。
将軍邸での花見の宴もこれの前には肩なしで、高経は大いに面目を失い、自身が定めた二十分の一税を道誉が二年間滞納していることに目をつけて摂津守護職をとりあげ、その失脚を図ったが、8月に逆に道誉が諸将を結集して義詮に高経父子の罷免を進言する。結局高経は道誉の前に敗北して義将と共に越前へと逃れ、翌年7月に病死してしまう。
義詮の時代は不安定ながらも室町幕府がその体制を固めていく過程であった。相次ぐ幕府内の政変の陰には常に道誉の暗躍があり、義詮時代はさながら「道誉時代」の趣きすらある。そして相次ぐ政変は結果的に室町幕府を将軍に権力を集中させる強力な全国政権に成長させていくことになった。それが道誉の狙いであったかどうかは分からないが、少なくとも道誉は幕府に反逆する側には決してまわらず、常に将軍を立てて勝利者の側にまわっている。道誉の政治家としての非凡さがここにある。
―悠々自適の晩年―
貞治6年(正平22、1367)4月、道誉は義詮の意向を受けて南朝との講和交渉を推し進めている。道誉の交渉相手は楠木正儀で、その使者には医師・但馬入道道仙という人物が立っていたらしい。このときの交渉は実現一歩手前まで進み、南朝の後村上天皇から葉室光資が使者として京の道仙の屋敷に入った。しかし4月29日、光資が持参した後村上の綸旨に「義詮の降参」という文言があったことに義詮が激怒、交渉はまたも決裂した。義詮はよほど腹にすえかねたらしく、その日交渉役の道誉を激しく叱責したという。しかしそれでも7月にまた南朝に使者を送るので交渉を完全に打ち切ったわけではない。
この年の4月26日に鎌倉公方・足利基氏が28歳の若さで急死した。その一カ月後の5月28日に道誉は義詮の命じられて鎌倉へとくだった。道誉にとって建武の乱以来およそ30年ぶりの鎌倉入りで、その目的は基氏の死後鎌倉公方の地位を遺児・金王丸(氏満)にスムーズに継がせ、その間の関東の政務をみるためであったと見られる。このとき道誉はすでに72歳となっていたが、まだまだ元気いっぱい、この重任をしっかり果たして年内に京に帰還している。
この年の9月、讃岐から有力守護・細川頼之が軍を率いて上京した。おりしも7月に斯波高経が死去し、その子・義将が赦免されて幕政に復帰した直後であり、山名時氏ら斯波派に対抗するため道誉が打った手と見られる。道誉は中国・四国で軍事・政務で才能を示した頼之を自身の後継者と見込んで義詮に頼之の管領就任の推挙をしたらしい。
頼之の管領就任に反対する斯波・山名らが兵を起こすとの噂も流れて騒然とするなか、10月から義詮は病に倒れ、11月には重態に陥った。この事態に対立はひとまずやんで、11月25日に義詮は子の春王(当時10歳)に家督を譲り、頼之を管領に任じて幼君の補佐を命じた。12月7日に義詮は38歳の若さで死に、時代は三代目・足利義満の時代に移る。南北朝動乱の大半を描く「太平記」はここで「天下泰平となった」として大長編の幕を下ろすが、その物語を最初から最後まで生き抜いているのは実はほぼ道誉ただ一人である。
細川頼之の管領政治が始まると、道誉は彼に後を託すかのように事実上の引退状態となる。京極家は最後に残った息子・高秀が継ぎ、幕閣の一員として頼之・義満を支えている。晩年の道誉は幕府の宿老として義満の神社参詣や歌会の宴などのイベントに招かれて顔を出してはいるが、政治的な動きは全く見られない。それ以前の策謀家ぶりとは打ってかわって晩年は悠々自適に京や近江の領国で暮らしていたようである。
応安6年(文中2、1373)2月27日、78歳の道誉は後継ぎの高秀あてに自分の死後についてしたためた書状を送っている。道誉自らひらがなでつづったこの書状は「ミま」なる人物についてのことばかりで、「自分が死んだら“ミま”のことをよろしく頼む。私のために堂塔を立てるより、“ミま”の扶持(生活費)の面倒をみることが最大の供養である。“ミま”の面倒さえ見てくれたら今生にも後生にも思い残すことはない」と道誉の心情が切々と、しつこいほどにつづられている。この「ミま」が誰なのか諸説あるのだが、その名前が女性らしいこと、「召使の女の中にも男の中にも“ミま”と心やすい者がいない」「まだ若いから…」といった部分もあり、どうも道誉と年の離れた妻であったのではないかと想像される(道誉には「北」と呼ばれ、のち尼となり「留阿」と号した妻がいたことが分かっていて、彼女が「ミま」かもしれない)。道誉はこの「ミま」への熱い思いを「妄念」とすら自分で書いている。動乱の時代をしたたかに冷徹に生きて来た印象のある道誉がその晩年に見せた熱い人情味であった。
この書状を書いた動機も「次第に体が弱々しくなり、何かと不自由が多くなった。ある日夜中に突然何か起こるかもしれないから、今のうちに書き残しておく」と記されており、道誉は自らの死をはっきりと予感していた。「急に何かあるといけないから」と書状を書いておく用心深さが道誉らしくもある。
道誉の死は、上記の書状から約半年後の応安6年(文中2、1373)8月25日である。終焉の地は領国近江・甲良荘の勝楽寺であったと見られる。父の危篤を知った高秀は数日前に近江に駆け付けているが、臨終に間に合ったかは定かではない。享年78歳。この急報が翌26日に京にもたらされると、幕府は政務を停止して喪に服し、この幕府創設の宿老の死を悼んだ(三条公忠『後愚昧記』応安6年8月27日)。公家の近衛道嗣は日記『愚管記』に「佐渡判官入道導誉他界すと云々、年七十八と云々、前代以来の大名なり」とつづった。ここでいう「前代」とは彼が北条高時に仕えた鎌倉幕府時代以来の大名であることを指すと思われ、道誉が南北朝動乱期を生き抜いた、いわば最後の生き証人のような人物とみなされていたことをうかがわせる。
―文化史上の巨大な足跡―
佐々木道誉の「怪物」ぶりは軍事・政治の面だけではない。むしろ後世に残した影響という点では文化面における活躍の方が重大であったともいえる。
道誉の文化面の活躍と言えば、まず筆頭にあがるのが「華道」のルーツである「立花」芸術確立の立役者、というものがある。華道書の古典「立花口伝大事」が道誉が応安元年(1368)にしたためたものとされているのだ。もちろん後世編纂された書物が過去の大人物を作者に見立てる(仮託する)ということはよくあるので実際にこの本を道誉が書いたとは断定できないが、逆に「作者にされてしまう」ほど立花に深くかかわっているとも言える。大原野の花見での桜の巨木を「立花」してみせたという逸話も彼が立花芸術の立役者であったという事実を背景にしている。
またその大原野の花見で大量の香をたいたとされるが、当時流行していた「香道」にも道誉は深くかかわっていたらしい。「佐々木系図」では道誉の箇所に「香会茶道長人」(香道と茶道の達人であった)との書き込みがあるという。
「茶道」との関わりも無視できない。上記の文ではカットしたが、細川清氏との対立の時に清氏が七夕の歌会を催して義詮を招くと、道誉が盛大な大茶会を開いて義詮を横取りしてしまったという逸話もある。実際に道誉が使用していた茶器なるものも複数現存しているそうである。
こうした花・茶・香といったたしなみは道誉が公家たちと交際する中で磨かれたもので、人脈を作る上でも大きな意味を持ったと思われる(花はともかく茶と香はギャンブル要素も高い)。当時身分のある人は文化人としてのたしなみで和歌を詠むのが常識だが、道誉は和歌はあまり残していない。その代わり激しく熱中していたのが「交際の和歌」である「連歌」だった。「五七五」に誰かが「七七」をつなぎ、さらに次が「五七五」をつなぐという、いわば歌のリレーである。
南北朝時代はこの連歌の大ブーム期で、公家・武家・僧侶も含めてみんな連歌に凝っていた。とくに道誉がその中でもトップランナー的存在であったことは複数の史料からうかがえ、公家界の連歌王・二条良基は「道誉が連歌に熱中していたころは誰もが道誉の風情をまねたものだ」と証言している(「十問最秘抄」)。
その二条良基が中心となって編纂した連歌集『菟玖波集(つくばしゅう)』は延文元年(正平11、1356)に完成し、翌年これは後光厳天皇のもと「准勅撰」の扱いを受けた。古典的な和歌集ではなく当時にあってはまだまだ「遊び」の領域だった連歌集を勅撰に准じることには公家界でも抵抗が大きかったが、幕府と朝廷をつなぐ佐々木道誉が半ば強引に「准勅撰」を申し入れて認めさせてしまったという(「園太暦」)。「菟玖波集」には道誉の句が81句入選し、二条良基(87句)に次いで第4位、足利尊氏(68句)を大きく上回っている。
こうした上流階級の文化ばかりではない。当時はまだ庶民的芸能とみなされていた「猿楽」が高尚芸術「能」に大成してゆくにあたって道誉の関与は大きかった。これは能の大成者・世阿弥の証言「申楽談義」からうかがえる。世阿弥は彼の父・観阿弥が師と仰いだ一忠について、「私自身は一忠を見たことはないが、京極の道誉や海老名の南阿弥陀仏の物語で聞いている」と語っており、道誉が一忠はもちろん観阿弥・世阿弥とも深いかかわりを持っていたことが知られる。とくに世阿弥がその幼少期に道誉から芸の道についてあれこれ教えられたことは確実とみられる。
近江猿楽の犬王道阿についても、その謡(うたい)を道誉が「きたなき音曲なれども、かかり面白く」(田舎くさい音楽だが、曲調が趣深い)と評し、「日本一」と誉めたと世阿弥は証言する。名生という笛の名手について道誉が「申楽が間延びするのはしらけるが、名生の笛の音は聞いていると時がたつのを忘れてしまうぞ」と評したという話もある(「習道書」)。道誉が相当な音楽鑑賞眼を持っていたことがうかがい知れる。
保元元年の保元の乱から暦応2年の後醍醐死去までをつづる歴史書『保暦間記』は、史料の少ない鎌倉後期から建武政権期にかけての貴重な同時代史書(延文元年=1356ごろ成立とみられる)として重宝されているが、実は作者の有力候補に佐々木道誉の名が挙がっている。まったく作者不明のこの歴史書だが、内容から作者の手がかりを探すと「執筆時点で出家している」「かなりの学識を有している」「鎌倉幕府末期や建武政権の政治中枢の情勢に異様に詳しい」「元弘の乱に自分も参加したと書いており、かなりの有力武将とみられる」「明らかに一貫して足利尊氏寄りの視点で状況を見ている」「京都周辺の合戦事情は詳しく描くが、九州平定戦にほとんど触れないので尊氏の九州落ちには同行しなかった畿内武士」といった特徴がある。これらの条件から、仮にではあるが「佐々木道誉」の名が挙げられているのだ(和泉書店『校本・保暦間記』解題)。むろん一つの仮説でしかなく証明することはほぼ不可能と思われるが、言われてみると確かに道誉なら書けそうだという気はしてくる。仮にそうだとすると道誉は同時代の貴重な証言者となったとも言えるのだ。
道誉の生前の姿は、満七十歳の時に息子の高秀が描かせた道誉自賛の肖像画(高秀自身が描いたとの説もある)で今に伝えられている(勝楽寺所蔵、現在は京都国立博物館で委託保存)。七十歳とはいえ恰幅がよくずんぐりむっくりとした体格に、抜け目なさそうな鋭い目つきと面構えは、まさに道誉のイメージそのもの。小説『私本太平記』で道誉を主人公の一人として描いた吉川英治はこの肖像画と対面して「頭に描いたイメージどおり」と感嘆し「初対面でもない気がした」と記している。絵の中の道誉が「やあ、君が吉川氏か」「ずいぶんぼくをいろんなことに使ったね」と道誉から語りかけられた気がしたという(「筆間茶話」)。これに記者として同席し後に作家となった徳永真一郎によると、道誉の子孫の京極家の人に会ったら肖像画にそっくりで驚いたという。
道誉の墓所は死去の地である近江甲良荘の勝楽寺と、京極家歴代の墓がある近江・米原の徳源寺と二か所ある。徳源寺境内には通称「道誉桜」と呼ばれる桜の巨木があり、道誉が愛でたと伝えられる。もっとも樹齢(300年程度とみられる)から言うとかなり怪しいらしいが、道誉を作者に仮託した「立花」の作品と思えばいいのかもしれない。
参考文献
森茂暁『佐々木導誉』(吉川弘文館「人物叢書」)←本項記事は大半をこの著作に拠った。
同『太平記の群像・軍記物語の虚構と真実』(角川選書)
林屋辰三郎『佐々木道誉・南北朝の内乱と<ばさら>の美』(平凡社ライブラリー)
同『内乱のなかの貴族・南北朝と「園太暦」の世界』(角川選書)
同『南北朝』(創元新書)
佐藤和彦編『ばさら大名のすべて』(新人物往来社)
高柳光寿『足利尊氏』
吉川英治『随筆私本太平記(筆間茶話)』
徳永真一郎『婆沙羅大名』ほか
|
大河ドラマ「太平記」 | ドラマ全編を通じての主要キャラクターとして、陣内孝則が豪快に演じた。第3回で足利高氏にいきなり立花論議をぶつける場面で初登場。何を考えているのか敵か味方かいつまでも分からぬ男で「尊氏殿に天下をとらせてから、わしがそれをとる」と言いつつ、尊氏とは奇妙な友情で結ばれ、倒幕、建武政権打倒、観応の擾乱と常に尊氏の味方として戦う。六波羅攻撃に向かう高氏との腹の探り合い、箱根・竹之下の合戦で戦闘中に「寝返り御免!」と裏切る場面、最終回で尊氏から「生涯の友」と呼ばれて「かなわぬな」と目を潤ませる場面など、忘れ難い名演を残した。原作にある「高氏どうし」の縁は全く触れられず、史実と異なり出家姿ではなく派手な衣装の俗体で通していた(「道誉」と法名で呼ばれることは劇中ではなく、「佐々木判官」と呼ばれていた)。道誉に限らず、このドラマでは出家した人物も俗体のまま通すことが多かったが、やはりなじみの薄い時代のキャラクターたちの個性を際立たせる狙いであったと思われる。
脚本の池端俊策によるとドラマでは尊氏と道誉の関係を「「スケアクロウ」みたいな尻軽道中」「最後まで二人三脚。全てを自分で背負い新しい時代を作って行く尊氏と、それを「よし、よし」とおだてながらおこぼれを頂戴していく道誉」という形で描こうとしたという。陣内孝則は後年NHKの番組に出演して道誉役について語っているが、楠木正儀との粋なエピソード(尊氏死後の逸話なのでドラマでは描かれない)を聞かされ、たいそう気に入っていたそうである。
|
その他の映像・舞台 | 現時点で大河ドラマ以外の映像作品での登場はない。「私本太平記」は二度歌舞伎化されてるにも関わらず道誉の登場はカットされてしまったらしい。昭和35年(1960)の舞台「妖霊星」で守田勘弥、平成14年(2002)の舞台『海敵アジア』で小島弘光が演じた例があるという。 |
歴史小説では | 「太平記」によって南北朝人物としては著名なほうだったと思われるが、北朝方であることからか戦前でも一般ではなじみが薄く、戦後に吉川英治が『私本太平記』において道誉を「もう一人の高氏」として主役級(といってもやや敵役気味)で登場させた時には「佐々木道誉って実在したんですか」との読者からの質問もあったという。なお当サイトでもしばしば使う「道誉=南北朝最大の怪物」という表現は吉川英治の「南北朝随一の時代を通じての怪物」という評に由来する。「私本」で道誉の存在を知った日本人は少なくないようで、吉川の描いた道誉イメージの影響は意外に大きい。
大河ドラマ「太平記」放映が決まると、それに便乗する形ではあるがドラマで主役級である道誉を主役にする小説も現れた。地元・滋賀県で活動した作家・徳永真一郎が書き下ろした『婆沙羅大名』は小説と言うより歴史談義に近く、吉川英治との思い出や道誉とはあまり関係のない後南朝の話題まで載っている。同じ作者が京極家を含めた近江源氏の通史をまとめた『近江源氏太平記』という作品もある。
ほぼ同時に山田風太郎が『婆沙羅』を発表している。特に風太郎『婆沙羅』は道誉の生涯を断片的なエピソードを積み重ねて描いていく異色作で、鎌倉末期から義満時代までが描かれた。
それまで不毛であった南北朝時代歴史小説を連打した北方謙三もずばり『道誉なり』と題した小説で道誉を主役に据えた。道誉を中心に尊氏の死と義満の誕生までが描かれ、道誉と尊氏の友情小説の観もある。
ほかに三種の神器をめぐる闇の攻防を描く松本利昭『虚器南北朝』、文観を主役にした『婆沙羅太平記』でも道誉が重要な位置づけで登場する。道誉の生涯をダイジェストで読める羽生道英『佐々木道誉』がある。賀名生岳『風歯』は南北朝時代の歯医者を主人公とした異色作で、第二話の患者が道誉である。
安部龍太郎『道誉と正成』はタイトルの通りお互いを認め合う道誉と正成の対決を描く作品で、二人揃って史実をかなり離れた活躍をする(二人が瀬戸内海で海戦する場面まである)。正成の死により話が終わってしまうので道誉の本領発揮のところまでいかないのが残念。
その他、南北朝の通史的小説にはほぼ必ず登場するが、現時点では列挙を避ける。 |
漫画作品では | 学習漫画系ではチラリとではあるが登場例が多い。とくに「バサラ大名」の説明をする際に高師直と並んで登場する例が多い。小学館版「少年少女日本の歴史」では大笑いしているカットが1つあるだけ。最新の集英社版では妙法院焼き打ちのシーンがある。
石ノ森章太郎「萬画日本の歴史」では登場場面がかなり多いが、道誉の着る「派手な衣装」が大河ドラマの衣装のデザインと瓜二つなのが気になるところ(ただし道誉はちゃんと法体)。この漫画の製作段階でドラマの陣内孝則の衣装デザインが何らかの形で流れていたとしか思えない。この漫画のシナリオを大河の中盤以降の一部シナリオを担当した仲倉重郎氏が担当しているのでその縁でかもしれない。
さいとう・たかを「太平記」(全3冊、マンガ日本の古典)では意外にも「婆沙羅」エピソードは触れられず、道誉の登場シーンは手越河原の戦いでの降参、箱根・竹之下の戦いでの寝返りのみである。尊氏の死で話を終わりにしてしまったことも彼の登場が少ない原因だ。
長岡良子の「古代幻想シリーズ」の一作「天人羽衣」は道誉ファン必見の一作。能楽草創期を少年時代の犬王道阿弥を主人公に描いた異色作で、道誉は一目で少年犬王の才能を見抜いて彼に徹底的に教育を施していく。犬王の目から道誉の文化面・政治面での怪物ぶりが描かれてゆき、「つかの間の美でよいではないか。修羅のこの世にひとときの浄土を現出させよ」という道誉の達観した芸術論が強烈。
大河放送とタイアップして書かれた横山まさみち「コミック太平記」では、尊氏編で道誉の登場シーンが多い(こちらは俗体のままだった)。早くから将来を考えてか足利高氏に謎めいた接近をし、直冬の母となる女性について高氏に「女一人御せぬようでは天下など」とささやくシーンがあるのだが、ページ数の都合かその話はそれきりになっている。また足利軍が九州に敗走する時に兵士たちが足利の「二つ引き両」の旗印の白身を塗りつぶして新田の「大中黒」にしてしまったという逸話はこの漫画では道誉がしたことになっている。このなお、このコミックにおける道誉のデザインはそのまま下記のCD−ROMゲームでも使われている。
岡本賢二『劇画・私本太平記』は吉川英治の原作にほぼ沿って道誉が序盤から活躍するが、まるで「エリマキトカゲ」を思わせる強烈な外観になっていた。ある意味存在感は原作以上だが、ハイペースな原作消化と、事実上の打ち切り・他誌移行措置のために後半出番がかなり減ったのが惜しまれる。
河部真道『バンデット』ではいずれ主要キャラにする気があったのだろうか、前半の途中、主人公たちが近江を突破する際に顔見せ程度に登場している。
|
PCエンジンCD版 | 近江国の北朝系独立勢力君主として登場。初登場時のデータは統率89・戦闘94・忠誠71・婆沙羅99である。「婆沙羅」数値の異常な高さは当然と言えば当然なのだが、このゲームでは「婆沙羅」は「裏切りやすさ」の数値とも言え、ホイホイと寝返って南朝・北朝を自由自在に動き回る上に敵に回すと強力、しかも京のすぐ脇という地理的位置にいるのでかなり厄介な存在である(だからプレイヤーは道誉の勧誘にかなりエネルギーを費やされる)。実兄の貞氏、三男の高秀を配下に置いている。
オープニングビジュアルで北条高時の宴の場面に登場しており、キャラデザインは横山まさみちのコミック版をもとにしている。オープニングとゲーム中で声が聞けるのだが、担当声優は不明。 |
PCエンジンHu版 | シナリオ1「鎌倉幕府の滅亡」で宮方武将として近江・草津城に登場し、能力は「長刀2」とかなり非力。シナリオ2「南北朝の動乱」ではなぜか「佐々木高氏」の名で登場、北朝系武将で能力は同じ「長刀2」である。このゲームでは2つのシナリオ両方に登場する武将はいない作りになっているのだが、道誉のみ「法名」「俗名」の使い分けで唯一の両シナリオ登場キャラとなった。こんなあたりも道誉っぽい(笑)。 |
メガドライブ版 | 基本的に足利方武将として登場、六波羅攻撃から中先代の乱、箱根・竹之下合戦、京都攻防戦のシナリオで登場する。初登場時データは体力70・武力121・智力117・人徳78・攻撃力66。 キャラデザインは俗体、しかも顔に大きな刀傷のある強烈なもの。 |
SSボードゲーム版 | 武家方の「武将」クラスで登場、勢力地域は「北畿」で合戦能力2・采配4とあまり目立たない。ユニット裏は三男の高秀。 |