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ささき〜さすけむねなお

佐々木(ささき)氏
 宇多天皇の末裔、宇多源氏を称しているが、それが事実であるかどうかについては議論もある。平安末には近江国の有力武士となっており、「近江源氏」と称せられていた。源平合戦において源氏方で活躍して名を挙げ、承久の乱では一族で敵味方に分かれて勝った信綱の子孫がその後の嫡流となった。信綱の子たちから主に六角・京極の二系統が分かれて近江国を分け合い、南北朝動乱では京極家の道誉が室町幕府設立に重要な役割を果たして京極家を「四職」の一角を占める名門とした。京極氏は山陰の尼子氏など支流を生み出しながら江戸時代まで大名として存続し、明治に華族となった。六角氏は戦国大名として一時成長したが織田信長に敗れて衰退した。鎌倉末期に隠岐・出雲の守護をつとめた佐々木氏も同族である。

佐々木秀義┬定綱┬広綱┌泰綱─(六角)─頼綱時信氏頼───満高───
─満綱


├経高└信綱┼重綱大原

└信詮→山内義信


├盛綱
├高信




秀綱───秀詮─秀頼


└氏信
─(京極)┬宗綱
─貞宗貞氏秀宗氏詮





└満信宗氏高氏(道誉)高秀───高詮┬高光





貞満├赤松則祐室秀満└高数





└宗満黒田└斯波氏頼室└高久尼子

└義清─泰清┬時清─宗清─清高─泰高






├頼泰─(塩冶)─貞清高貞






├義泰富田
└時綱─通清





└宗泰高岡






佐々木氏詮ささき・うじあき?-1362(貞治元/正平17)?
親族父:佐々木秀綱 
兄弟:佐々木秀詮
官職左衛門尉
生 涯
―楠木軍に敗れ戦死―

 京極佐々木氏の佐々木秀綱の子で、有名な佐々木道誉の孫にあたる。『太平記』では「次郎左衛門」と称したことになっているが、「五郎」「九郎」とする史料もあるようである。
 文和2年(正平8、1353)6月に父・秀綱が南朝側との戦いで戦死。康安元年(正平16、1361)に祖父の道誉が摂津守護となると、兄の秀詮が守護代の立場で摂津に入り、氏詮もこれに従った。摂津に侵攻してきた南朝方の楠木正儀和田正武らと摂津神崎橋で戦ったが、楠木軍の巧みなゲリラ戦法の前に敗北、兄ともども戦死してしまった。
 この戦いについて、『太平記』は康安元年(正平16、1361)9月28日のこととしている。しかし『尊卑分脈』などでは兄弟の戦死を翌年の貞治元年(正平17、1362)8月22日のこととしている。

佐々木氏頼ささき・うじより1326(嘉暦元)-1370(応安3/建徳3)
親族父:佐々木時信 母:長井時千の娘 
兄弟:山内信詮
子:佐々木義信・佐々木満高
官職右衛門尉・左衛門尉・検非違使
位階従五位下→従五位上→従四位下
幕府近江守護・引付頭人
生 涯
―板挟みの末に出家―

 六角佐々木氏の佐々木時信の嫡男で、「三郎」と称し、「近江三郎」「孫三郎」といった呼び名もある。父・時信は六波羅探題の主力として活躍したが鎌倉幕府滅亡後は一時建武政権に参画するもののすぐ出家・隠遁してしまったらしく、建武2年(1335)7月までに子の氏頼が近江守護をつとめている形跡がある。しかし氏頼はこのときまだ十歳と幼く、近江の統治は守護代の馬淵義綱が仕切っていた。
 間もなく足利尊氏が建武政権に反乱を起こすと氏頼も尊氏に従った。建武3年(延元元、1336)正月に北畠顕家率いる大軍が奥州から京奪還のために駆けつけ、近江・観音寺城を一気に攻め落としたが、『太平記』流布本にはこの部分に「佐々木判官氏頼、そのころ未だ幼稚にてたてこもりたる観音寺城」とわざわざ挿入された部分がある。氏頼は当時まだ数えで11歳、近江守護として尊氏の後背を守らねばならなかったのだが、顕家率いる奥州軍の前にはひとたまりもなかったようである。
 建武5年(延元3、1338)2月に北畠顕家の奥州軍が再び京を目指して長征を行い、足利側は美濃の青野原の戦いでその進撃を阻んだが、このとき氏頼は同族の佐々木道誉や高師泰らと共に黒地川に布陣して第二防衛ラインを築き、北畠軍を伊勢へ転進させた。この年の4月に道誉に近江守護職を奪われるが、半年後の9月には氏頼が取り返している。同じ近江の佐々木一族同士だが氏頼の六角家と道誉の京極家とは近江支配をめぐってライバル関係でもあったのだ。

 康永3年(興国5、1344)12月に佐々木一族歴代当主がつとめた左衛門尉・検非違使に任じられた。佐々木嫡流の当主として近江守護職は確保していたが、道誉も近江の三郡については軍事指揮権を認められていて、守護機能を分け合う形となっていた。氏頼は「佐々木大夫判官」と呼ばれ、道誉やその子・秀綱と紛らわしいため、「六角判官」「備中大夫判官」と呼ばれることもあった。

 やがて足利幕府は尊氏と直義兄弟の間で深刻な内戦「観応の擾乱」に突入する。貞和5年(正平4、1349)8月に高師直がクーデターを起こして直義を失脚させたが、このとき師直邸に駆けつけた武将たちの中に氏頼の名がある(「太平記」)。翌観応元年(正平5、1350)8月に師直に反発して挙兵し捕えられた土岐周済(頼明)の斬首の執行役をつとめるなど、初めは尊氏・師直側に立っていた氏頼だったが観応2年(正平6、1351)正月の京をめぐる攻防戦で直義側が優位に立つと、正月19日に直義の軍門に降った(「園太暦」)
 その後いったん直義勝利の状況で尊氏・直義の和睦が成立したが、すぐに決裂。このとき氏頼はどっちについたものか身の振り方に迷いに迷い、迷ったあげく6月25日に出家して「崇永」と号し、世を捨てて高野山にひきこもってしまった。近江守護職は弟の山内信詮に預け、まだ幼いわが子・千手(のちの義信)が成人するまでの中継ぎを任せている。この氏頼の出家遁世の話は『太平記』の版本のひとつ「天正本」にのみ書かれていることだが、天正本は佐々木一族に関する独自記事が多く、また実際にこの時期近江守護を信詮がつとめてやがて義信に引き継がれることから、氏頼が混沌とした情勢の中で進退に窮し、思い切って世捨て人になってしまったのは事実なのだろう。このとき氏頼はまだ26歳である。この乱世に生きるにはいささか神経の細い人物であったらしい。

 しかし政情が落ち着いてくると世捨て人を続ける気もなくなったらしく、文和2年(正平8、1353)8月には近江守護職に復帰している。延文3年(正平13、1358)3月18日に幕府の命で近江の住人・高山某と儀俄某を京で討ち取ったとの記録がある(『愚管記』)。延文5年(正平15、1360)9月に南朝方の石塔頼房仁木義尹が近江に侵攻してきたのでこれと戦い、『太平記』ではこのときの氏頼の戦巧者ぶり、勇猛ぶりが印象的に描かれている。
 貞治3年(正平19、1364)から二代将軍・足利義詮の幕府で引付頭人をつとめ、三代将軍・足利義満の時代となった応安元年(正平23、1368)2月に「禅律内談始」に参加するなど、幕府の要職を務めた。翌応安2年(正平24、1369)4月20日に比叡山の僧兵が禁裏に侵入しようとしたとき、氏頼が防戦に当たり、「軍功抜群」と称える勅書を与えられている。
 応安3年(建徳3、1370)6月7日に京の六角東洞院の屋敷で45歳で死去。公家の三条公忠は日記『後愚昧記』のなかで氏頼の死について「現在の武家のなかではいささか仏神を敬い、道理を知る者であった。惜しむべし、惜しむべし。天下が衰える兆しであろうか」と書き記し、温和な性格のためか公家たちから評価の高い人物であったことをうかがわせる。実際に禅宗を深く信仰し、康安元年(正平16、1361)に寂室元光を招いて永源寺を創建したほか、晩年には大般若経六百巻の開板(印刷用の原版を作る)を発願してその死後に完成させてもいる。
 貞治4年(正平20、1365)11月に息子の義信に先立たれており、京極家から佐々木高詮(道誉の孫)を養子にとったがそれと前後して次男の亀寿(のちの満高)をもうけた。氏頼の死後しばらく高詮が近江守護をつとめたが、やがて満高に引き継がれることになる。

参考文献
森茂暁『佐々木導誉』(吉川弘文館人物叢書)
佐藤進一『室町幕府守護制度の研究・上』(東京大学出版会)
高柳光寿『足利尊氏』(春秋社)ほか
SSボードゲーム版「武将」クラスで勢力範囲は「北畿」。合戦能力1・采配能力3。ユニット裏は息子の満高。

佐々木清高ささき・きよたか1295(永仁3)-1333(正慶2/元弘3)
親族父:佐々木宗清 母:佐々木宗綱の娘 兄弟:佐々木秀清・佐々木清顕 
妻:太田時連の娘 子:佐々木泰高・佐々木高秀・佐々木永寿丸・佐々木重清(自空)
官職左衛門尉・隠岐守
幕府隠岐守護、引付衆
生 涯
―とことんついてなかった隠岐守護―

 近江出身の宇多源氏・佐々木一族のうち、鎌倉初期に隠岐・出雲守護を任され山陰に土着した佐々木義清の系統。有名な佐々木道誉とは父系ではやや遠い親戚ながら母親同士が姉妹の「いとこ」同士の血縁になる。
 先祖代々引き継いだ隠岐守護となり(父から引き継いだ時期は不明)、幕府では引付衆をつとめた。後醍醐天皇による倒幕計画が発覚した「正中の変」の翌年の正中2年(1325)12月に清高が幕府の使者として軍勢を率いて京に入ったことが花園上皇の日記に書かれている。前年の事件の事後処理と懸案となっていた皇太子問題などを抱えていたため示威的に入京したのかもしれない。

 元弘元年(1331)8月、後醍醐天皇はついに倒幕の兵を挙げたが失敗して捕えられた。この間に持明院統の光厳天皇が即位するが、この儀式に際して清高は御所の警護にあたったという(「太平記」)。その後、後醍醐は隠岐への配流と決まり、出発したのは翌正慶元年(元弘2、1332)3月のことで、隠岐守護である佐々木清高は後醍醐の御所を整備するため、後醍醐一行に先立って隠岐へ渡海している(「梅松論」)。つまり日頃は鎌倉に在住していたらしく、これ以後後醍醐を監視するために一年間隠岐に常駐することになる。なお、後醍醐を出雲まで護送した武将の一人が同族の佐々木道誉であったのは、隠岐・出雲が佐々木一族の守護国だったためでもあるだろう。

 『梅松論』によれば清高は後醍醐監視のために一族をあげて隠岐に詰めていたという。しかし正慶2年(元弘3、1333)に入ると各地の反幕府勢力の活動が活発化し、情勢は緊迫してきた。後醍醐に対する監視もいっそう強化されたであろうし、暗殺という選択肢も考慮されたのではないかとみる向きもある。しかし、にもかかわらず後醍醐は閏2月24日の未明に隠岐を脱出してしまう。『太平記』『梅松論』によれば後醍醐監視にあたっていた佐々木一族の佐々木義綱(富士名判官)が後醍醐に接近して脱出を手引きし、やはり同族で出雲守護の塩冶高貞に協力を仰いだというから、これは山陰佐々木一族のなかで「この情勢では後醍醐を担ぎ出した方が賢明」と動いた者たちがいたことをうかがわせる。
 後醍醐の脱出を知った清高はすぐに水軍でこれを追って海上を行く船を検問してまわったが、後醍醐を捕えることができなかった。後醍醐は事前の連絡があったものか伯耆の名和長年を頼って船上山にたてこもる。清高は出雲に上陸して塩冶高貞に応援を求めたが、高貞はこれを拒絶している(「梅松論」)。やむなく清高は自ら船上山への攻撃にとりかかったが、佐々木弾正左衛門尉(清高の弟との説あり)が流れ矢にあたって戦死したほか、寝返り者も続出して大敗を喫してしまう。この敗戦により同族の塩冶高貞をはじめとして山陰地方の武士たちはすっかり後醍醐方に転じてしまい、清高は海を渡って隠岐に戻ったが、情勢の変化を知った隠岐の国人たちが沿岸を固めていて上陸することさえできなかった。やむなく船を北陸に向け、敦賀に上陸して六波羅探題に合流する。

 しかし足利高氏の寝返りにより、5月7日に六波羅探題は陥落。清高は六波羅勢一行と共に関東を目指して近江に入ったが、番場の宿で進退きわまり、ここで北条仲時以下数百名と共に自害して果てることになった。
 ここで自害した武士たちの名を連ねた蓮華寺の過去帳には「佐々木隠岐前司清高三十九歳」とあり、彼の享年が確認できる。共に自害した息子たち、泰高は18歳、高秀は17歳、永寿丸は14歳であった。彼の末子・重清は僧侶となったと言われている。
 とことん運のなかった人物とも言えるが、他の佐々木一族が幕府方に寝返る中で(六波羅一行参加者でも佐々木時信などは不自然な離脱をして助かっている)あくまで幕府へと忠節を通した人物と見ることもできそうだ。
大河ドラマ「太平記」出演クレジットには出てないが、第16回、佐々木道誉が美保関まで後醍醐天皇を護送したところで「ここより隠岐まではあれに控えし隠岐の判官めが…」と言って指し示す先に、甲冑姿の武士が映る。これが佐々木清高ということなのだろう。
歴史小説では後醍醐天皇を隠岐で預かっていた人物のため、隠岐脱出のくだりが出てくる小説ならたいてい登場している。
漫画作品では小説の場合と同様、古典「太平記」の漫画化作品で隠岐脱出の部分で登場する例がある。

佐々木貞氏ささき・さだうじ?-1355(文和4/正平10)
親族父:佐々木宗氏 母:佐々木宗綱の娘 
兄弟:佐々木高氏(道誉)・佐々木貞満・佐々木秀信・佐々木時満・佐々木経氏
子:鏡高治・鏡貞佑・伊吹秀氏・長岡貞高・松下秀頓
官職左衛門尉・近江守
幕府引付衆
生 涯
―ひたすら地味な道誉の兄―

 京極佐々木氏の佐々木宗氏の嫡男で、「三郎」と称した。佐々木高氏(道誉)は同母弟で、そちらは京極家本流の佐々木貞宗の養子に入り、貞氏が京極佐々木の傍流である父・宗氏の系統を継ぐ形になった。嘉暦元年(1326)3月に執権・北条高時が出家すると貞氏・高氏兄弟はそろってこれに従って出家し、貞氏は「善観」と号し、「佐々木近江入道」と呼ばれるようになる。
 元弘元年(1331)に後醍醐天皇が倒幕の挙兵をすると佐々木一族はそろって動員をかけられ幕府軍の将としてその鎮圧にあたり、楠木正成がたてこもる赤坂城を攻略した幕府軍の宇治・大和経由の部隊のなかに貞氏と思われる「佐々木近江入道」の名がみられる(『光明寺残篇』)
 鎌倉幕府の崩壊から建武政権、南北朝の動乱にかけて貞氏の活動はこれといったものが見当たらないが、暦応4年(興国2、1341)正月に大和国の雑賀西阿を討伐している「佐々木近江入道」がおり、これが貞氏の可能性がある(ただし同族の佐々木時信も同じ呼ばれ方をしているので断定できない)。康永3年(興国5、1344)に足利幕府の引付衆メンバーとなっている。そのつながりなのか、「観応の擾乱」では一時足利直義側に身を投じたが(「園太暦」観応2年正月16日)、恐らく道誉の仲介を得て尊氏に従うようになった。
 文和4年(正平10、1355)11月19日に没。彼の系統は蒲郡郡鏡荘に本拠を置いたことから「鏡氏」を称して幕府の奉公衆の一員となった。分家に「伊吹氏」「長岡氏」「松下氏」がある。
PCエンジンCD版北朝系独立勢力の佐々木氏(道誉が当主)の武将として、なぜか石見安芸の国主をつとめている。初登場時のデータは統率78・戦闘81・忠誠91・婆沙羅62。婆沙羅の数値が比較的高めなのは道誉の兄弟ということを考慮されたのか。

佐々木貞満ささき・さだみつ?-1335(建武2)
親族父:佐々木宗氏 
兄弟:佐々木貞氏・佐々木道誉・佐々木秀信・佐々木時満・佐々木経氏
生 涯
―手越河原で戦死した道誉の弟―

 佐々木宗氏の子で「五郎左衛門」を称した。佐々木道誉の弟として共に戦場に出ていたことは分かるが、それ以上詳しいことは不明である。
 建武2年(1335)に北条残党による反乱「中先代の乱」が起こった時、道誉と共に足利尊氏につき従って出陣した。その後建武政権から離反した尊氏を討つべく新田義貞率いる討伐軍が関東へ向かうと、道誉・貞満は足利直義らと共に東海道を西へ進んで三河・遠江で新田軍と戦った。しかし足利軍は連戦連敗で、12月5日に駿河国・手越河原の戦いでさらに大敗を喫した。この戦いのなかで貞満は戦死し、道誉も重傷を負って「もはやこれまで」と新田軍に投降したという(『太平記』)。その直後に道誉はまた足利側に舞い戻るのでこの投降はもともと計略だったのでは、との見方もあるが、弟が戦死してしまうほど追いつめられた状況であったのも事実である。
 のちに足利幕府成立後の建武4年(延元2、1337)正月4日付で尊氏は貞満の戦死に対する恩賞として、越中国横江保の地頭職を貞満の遺族に与えている。

参考文献
森茂暁『佐々木導誉』(吉川弘文館人物叢書)

佐々木高詮ささき・たかあき1352(文和元/正平7)- 1401(応永8)
親族父:佐々木高秀 
兄弟:佐々木秀満・尼子高久
子:京極高光・京極高数
官職兵衛尉・治部少輔
幕府近江・飛騨・出雲・石見・隠岐守護、侍所頭人
生 涯
―養子に行って出戻りして―

 京極佐々木氏の佐々木高秀の嫡男で佐々木道誉の孫。「四郎」と称した。「京極高詮」とも呼ばれる。
 貞治4年(正平20、1365)11月に同じ近江佐々木一族で六角家の佐々木氏頼の嫡子・佐々木義信が死去した。この時点で六角家に後継ぎがなかったため、高詮は氏頼の猶子(養子)として六角家に入った。応安3年(建徳3、1370)6月に氏頼が死去するが、晩年に実子・亀寿(のちの満高)をもうけたため、六角家の一族・家臣らは亀寿の後継を望み、京極から養子に入った高詮と対立するようになる。幕府はひとまず亀寿が成人するまでの後見役として高詮を近江守護に任じたが、永和3年(天授3、1377)9月に管領・細川頼之は高詮に自分勝手な非法の振る舞いがあるとして近江守護から解任、氏頼の養子の地位も奪ってしまい、高詮は9月22日に京の六角邸を退去して京極家に戻ることとなった。
 この一件は京極家と頼之の間にしこりを残し、やがて京極家が「康暦の政変」に関与する要因となった。また、京極家内においても高詮が六角家に入っている間後継者と目されていた弟の秀満が高詮の「出戻り」のために地位を失い、これものちのちまでしこりとして残ることになる。

 康暦元年(天授5、1379)2月、佐々木高秀は近江・甲良で反頼之の挙兵をした。将軍・足利義満はただちにその討伐を命じたが、このとき高詮が近江から上洛して義満に面会し、自分は父・高秀をさんざん諌めたことを述べて父の赦免も求めている。高詮が本当に父と対立したのかどうかは不明だが、ともかくこの直後の閏4月14日に高秀ら反頼之派は軍勢を率いて「花の御所」を包囲、実力で頼之を管領から解任させる(康暦の政変)
 明徳2年(元中8、1391)10月に父・高秀が死去し、京極家督を継いだ。その直後の12月に山名氏清山名満幸らの反乱「明徳の乱」が勃発、同月30日の内野の戦いでは高詮も一条大路に面した大嘗会畠に陣をとり、山名軍と戦っている。この功績により義満から隠岐・出雲守護職を与えられている。このあと侍所頭人となり、明徳の乱後各地を逃亡していた山名満幸が応永2年(1395)3月10日に京・五条高倉の民家に潜伏しているところを襲撃して討ちとっている。
 応永6年(1399)に大内義弘の反乱「応永の乱」が起こると、その討伐軍にも参加して功績を挙げている。このとき弟の秀満は義弘に呼応して近江で挙兵し、家督奪取を狙ったが失敗し行方知れずとなっている。
 応永8年(1401)9月7日に死去。京極家は嫡男の高光が継ぎ、室町幕府の「四職」の地位を確固たるものにした。なお、次男の京極高数は嘉吉元年(1441)に将軍・足利義教が赤松邸で暗殺された際に一緒に討たれてしまっている。

参考文献
小川信『細川頼之』(吉川弘文館人物叢書)ほか

佐々木高氏ささき・たかうじ
佐々木道誉の俗名。→佐々木道誉(ささき・どうよ)を見よ。

佐々木高秀ささき・たかひで1328(嘉暦3)?-1391(明徳2/元中8)
親族父:佐々木道誉
兄弟:佐々木秀綱・佐々木高宗
子:佐々木高詮・佐々木秀満・尼子高久
官職左衛門尉・治部少輔・大膳大夫
位階従四位下
幕府出雲・飛騨守護・侍所頭人(山城守護兼任)・山門奉行・式評定衆・恩賞方・惣奉行・評定衆
生 涯
―兄二人の戦死をうけ―

 ばさら大名として有名な佐々木道誉(高氏)の三男で「五郎」と称した。生母は不明である。
 貞和元年(興国6、1345)8月29日の天竜寺供養で帯剣の役をつとめていた随兵の中に「佐々木佐渡五郎左衛門尉」がおり、これが高秀の史料上の初見であるという。貞和5年(正平4、1349)正月の幕府評定始に評定衆メンバーであった父・道誉が出席しているが、このとき「御荷用」(雑用係らしい)とされた面々の筆頭に「佐々木五郎左衛門尉」の名があり、これも高秀のこととみられる。まだ22歳の若者であった。
 その後の「観応の擾乱」「正平の一統」といった激動のなか父や兄たちと共に行動していたと思われるが、三男であるだけにその行動は全く分からない。ようやく軍事活動で名前を出すのは文和元年(正平7、1352)11月に兄の秀綱と共に南朝方の石塔頼房を討つため摂津に出陣した際である。
 翌文和2年(正平8、1353)6月、山名時氏楠木正儀らの南朝軍が京に突入し、京を守っていた足利義詮後光厳天皇を奉じて美濃へと逃亡したが、途中近江・堅田で南朝方の野伏の襲撃を受けた際に兄の秀綱が戦死してしまう。これより先の貞治4年(正平3、1348)2月にもう一人の兄・秀宗も戦死しており、二人の兄の死によって三男の高秀は道誉の後継者として急浮上する。この年のうちに高秀は幕府の命で近江国内の南朝方の掃討にあたっている。

 幕府の実力者である父・道誉の後押しもあって高秀は延文2年(正平12、1357)ごろから幕府の侍所頭人を務め、山城国守護の役目も兼任した。康安元年(正平16、1361)に父・道誉の策謀により幕府執事(管領)の細川清氏が失脚、南朝側に寝返って楠木正儀らと共に京を攻めた際、高秀は侍所頭人として摂津に出陣し、500余騎を率いて忍常寺に陣をとって南朝軍を見下ろす位置についたが、清氏の軍の勢いに恐れをなしたか一本も矢を射ずに通してしまった(『太平記』)

 翌貞治元年(正平17、1362)8月、摂津国神崎橋の戦いで秀綱の息子である秀詮氏詮がそろって戦死してしまった。このため高秀の系統が京極佐々木の本流になる可能性がいっそう高まったが、秀詮の子・秀頼を本来の嫡流として担ぎ出そうとする家臣もおり、「お家騒動」が勃発する。
 貞治2年(正平18、1363)7月19日の夜、四条京極道場の前で京極家最大の重臣である吉田厳覚が、やはり京極家家臣で侍所所司代・若宮左衛門某によって殺害されるという事件が発生する。これは高秀の指示によるもので、実は厳覚は秀頼の擁立を図って高秀の失脚をもくろんでおり、それと察した高秀がその殺害を命じたものであった(三条公忠の日記『後愚昧記』)。事情を知った道誉は高秀を叱責し、直後に高秀は侍所頭人を辞任している。この暗殺事件は将軍・足利義詮も了解のうえで行われたふしがあるなど(犯人の若宮は事前に義詮に会い、事後にも報告している)不自然な点もあり、おりから道誉と斯波高経が激しく対立していたことから、斯波高経が京極家のお家騒動を利用して道誉を追い落とす陰謀を企てたのでは、との見解もある(森茂暁『佐々木導誉』)
 貞治5年(正平21、1366)8月には道誉が主導して高経を失脚させ、越前に逃れた高経を攻める軍の中に高秀の姿もあった。

―康暦の政変の立役者に―

 貞治6年(正平22、1367)12月に足利義詮が死去し、三代将軍・足利義満の時代となる。幼い義満を支える管領となり幕政を仕切ることになったのは細川頼之だったが、頼之を推挙したのは道誉とみられており、高秀も侍所頭人に再任され、評定衆に加わるなど頼之政権の幕府において重職を歴任した。京極佐々木氏が室町幕府の重鎮「四職」の一つに数えられる地位を確保したのも高秀の時代である。
 応安6年(文中2、1373)8月25日にすでに近江に引退していた父・道誉が死去し、高秀は父の危篤を知ってその数日前に近江の父のもとへ駆けつけている(臨終に間に合ったかどうかは不明)。なお、有名な道誉七十歳の時の肖像画はそこに書かれた文を読むと高秀自身の手で描かれたようにも読める。

 当初高秀と頼之の関係は良好であったが、近江佐々木一門の京極・六角両家の争いがその関係にくさびを打ち込んだ。六角家の佐々木氏頼は息子の義信に先立たれたため、高秀の子・高詮を養子にとっていた。しかし氏頼の晩年に実子・亀寿(のちの満高)が生まれたために事情が複雑になり、ひとまず亀寿成人まで高詮が六角家当主と近江守護職をつとめることになった。しかし永和3年(天授3、1377)に高詮の非行が目につくことから頼之は彼を近江守護職から解任し、六角家から京極家に戻らせた。これを恨んだ高秀は斯波義将土岐頼康ら反頼之派に接近してゆく。
 
 康暦元年(天授5、1379)2月、反頼之派は一斉に行動を開始する。まず土岐頼康が領国の美濃で挙兵し、高秀もこれに呼応して拠点である近江甲良荘で挙兵した。義満は六角家の亀寿に高秀追討を命じ、京の四条京極にある高秀邸も封鎖し、高秀の飛騨・出雲守護職もとりあげた。3月に入って六角勢は甲良荘に攻め込んで火を放ち、高秀らを近江から追い出してしまう。このあとまず頼康が赦免され、高秀と和歌を通じて交流のあった二条良基の斡旋もあって4月13日に義満は高秀をも赦免し、翌月の閏4月13日に高秀は京に帰って来て祇園の宿舎に入った。これで反頼之派の動きもひとまずおさまったかに見えたが、その翌日に彼らによりついにクーデターが実行される。
 閏4月14日、高秀や土岐直氏ら反頼之派の諸将が軍勢を率いて義満のいる「花の御所」を包囲、頼之の管領解任を実力で要求した。義満はやむなくこれを受け入れ、失脚した頼之は屋敷を焼き払って四国へと去り、新たな管領には斯波義将がおさまることになった(康暦の政変)。頼之打倒を果たした高秀だったが、出雲守護は奪われたままで、永徳元年(弘和元、1381)に飛騨守護職だけは京極家の手に取り戻している。

 明徳元年(元中7、1390)に義満の策謀により土岐氏の内紛「美濃の乱」が起こると、高秀は義満の命で土岐康行を討つべく美濃に出陣している。翌明徳2年(元中8、1391)10月11日に死去。享年については史料により60〜64歳まで幅があり、特定できない。
 高秀は和歌に優れ、当時今川了俊など有力大名たちが和歌の師とした冷泉為秀の門弟のなかで「随一」と評されたといい、応安5年(文中元、1372)6月に為秀が死去した際はその後継者である孫の為尹が幼いため一時冷泉家の歌道関係の重要書類を高秀が預かることになったという(『愚管記』)。『新千載集』『新拾遺集』『新後拾遺集』の三つの勅撰和歌集に合計七首が採用されており、父・道誉がその編纂に関与した連歌集『菟玖波集』(1356完成)にも五句が入選している。

参考文献
森茂暁『佐々木導誉』(吉川弘文館人物叢書)
小川信『細川頼之』(吉川弘文館人物叢書)
PCエンジンCD版佐々木道誉の家臣扱いで、1339年になると元服して父・道誉のいる国に登場する。初登場時のデータは統率73・戦闘86・忠誠91・婆沙羅63。 
SSボードゲーム版父・佐々木道誉のユニット裏で、父の死後に登場する。「武将」クラスで勢力範囲は「北畿」。合戦能力1・采配能力2

佐々木道誉ささき・どうよ1296(永仁4)-1373(応安6/文中2)
親族父:佐々木宗氏 養父:佐々木貞宗 母:佐々木宗綱の娘
兄弟:佐々木貞氏・佐々木貞満・佐々木秀信・佐々木時満・佐々木経氏
妻:二階堂時綱の娘・きた・みま(「きた」と同一人?)
子:佐々木秀綱・佐々木秀宗・佐々木高秀・赤松則祐の妻・斯波氏頼の妻
官職左衛門尉・検非違使・佐渡守
位階従五位下
建武の新政雑訴決断所
幕府近江・若狭・飛騨・出雲・摂津守護、引付頭人、評定衆、政所執事
生 涯
 鎌倉から室町にまたがり、南北朝の動乱時代のほとんどをトップランナーとして生き抜いた時代を代表する武将。華美で反体制的な「婆沙羅(バサラ)大名」の代名詞的存在であり、巧みな謀略と政治感覚で幕府を支える大大名にのしあがり、なおかつ各種文化芸術を育ててその後の日本文化に決定的な影響を残した、まさに「南北朝最大の怪物」である。

―京・鎌倉で成長―


 俗名は「高氏」。出家して法名を「道誉」という。本人の署名は全て「導誉」なのでこれが正式と見られるが、同時代人たちは「道誉」と表記しており、これが定着している。また彼の家系は「京極家」と呼ばれるので「京極道誉」の表記もよくなされるが、彼の生きた時代では「佐々木」の名字で呼ばれていた。
 佐々木家は宇多源氏とされ、近江の豪族である。一族の中には源平合戦の宇治川先陣で名高い佐々木高綱もいる。鎌倉時代中に近江佐々木一族は「六角」と「京極」の二系統に分かれ、「六角佐々木」の方が惣領家とみなされ、「京極佐々木」は傍流とされていた(道誉の曽祖父が京の高辻京極に屋敷があったことからこの名がついた)。高氏(道誉)はその傍流・京極のさらに傍流の佐々木宗氏の子である。ところが京極家の本家・佐々木貞宗が嘉元3年(1305)に19歳で死んでしまい後継ぎがなかったため、その養子として高氏が京極本家を継ぐことになった(高氏の母が貞宗の姉妹でもあった)。高氏には兄の貞氏がおり、父・宗氏の家系はこちらが相続している。なお兄「貞氏」の名が得宗・北条貞時の一字を受けているように、高氏もその次の得宗・北条高時の一字を受けている。だから足利高氏(こちらは父が貞氏)と事情が同じなのだが、二人の「たかうじ」は生涯にわたって何かにつけ深いかかわりをもつことになる。

 佐々木高氏の生まれ育った土地がどこなのか不明だが、実父・宗氏が鎌倉御家人として活動しているので鎌倉で生まれ育ったのではないかとの説と、京極家が検非違使を務める家であったことから京で生まれ育ったとする説とがある。正和3年(1314)に左衛門尉、元亨2年(1322)に京の警備にあたる検非違使に任じられたとされ、地理的に重要な近江に拠点を置く有力御家人として、京と鎌倉を行き来する生活を送っていたと想像される。
 元亨3年(1323)10月に鎌倉円覚寺で執り行われた北条貞時の十三回忌法要の記録に「佐渡大夫判官」が太刀と鞍を献じたことが載っており、これが佐々木高氏(道誉)の行動が最初に確認できる同時代史料である。この法要の記録はこの時期の幕府有力御家人紳士録ともいえ、足利尊氏の父・足利貞氏や、後年道誉の宿敵となる斯波高経も名を連ねている。

 翌元亨4年(1324)3月22日、後醍醐天皇が石清水八幡宮に行幸したが、このとき検非違使であった佐々木高氏が桂川に浮橋をかけて天皇を渡す「橋渡し」の役目をつとめている(「増鏡」)。このとき後醍醐が高氏の顔をしっかり覚えたことは確実である(理由は後述)。この時期の後醍醐は倒幕計画を本格的に進めており、後醍醐の側近の北畠親房日野資朝が直前まで検非違使の長官をつとめているので、高氏が後醍醐と人脈的につながっていた可能性は十分あるし、美濃源氏の土岐氏や伊賀兼光など有力武士もこれに参加していることも考え合わせると、高氏に倒幕への参加の声がかかったこともあったかもしれない。
 この年9月、後醍醐の計画は発覚し、日野資朝・日野俊基らが逮捕された(正中の変)。このとき後の佐々木道誉は京にいたはずだが、この事件との関わりは全くうかがえない。全くの無関係であったとしても動乱の時代の始まりを若き日の道誉も肌身で感じていたことだろう。

 正中3=嘉暦元年(1326)3月13日、得宗・北条高時は重い病にかかって重態となり、もはや助からぬとみて執権を辞任し出家した。結局命は助かったのだが、執権の後任をめぐって幕府では内紛が起こった(嘉暦の騒動)。このとき高時とその弟の泰家、さらに金沢貞顕までが出家する騒ぎとなり、彼らを後追いして出家する有力武士が続出した。この時の状況を『保暦間記』には「関東の侍、老いたるは申すに及ばず、十六、七の若者どもまでみな出家入道す。いまいましく不思議の瑞祥なり」とつづっており、佐々木高氏もまた高時の出家につきあって剃髪、出家して「道誉」と号することになる。「佐々木佐渡判官入道道誉」の誕生である。
 恐らく道誉は高時の側近的存在であったと思われ、それで「つきあい出家」をしたのだろう。なお『保暦間記』の著者の有力候補の一人に佐々木道誉その人が挙がっていることを念頭に置くと、上記の書きぶりはどこか自嘲気味にも読める。

―鎌倉幕府の滅亡―

 元弘元年(1331)8月、後醍醐天皇はついに笠置山に倒幕の兵を挙げた。このとき近江に拠点を置く佐々木一族は幕府から兵乱鎮圧のための動員をかけられており、佐々木道誉も瀬田橋警固役で出動していることが「光明寺残篇」で知られる。9月に笠置山が陥落して後醍醐やその側近公家たちが捕縛され京に連行されてくると、道誉は後醍醐の腹心である千種忠顕の身柄を自邸に預かっている。そして翌正慶元年(元弘2、1332)3月に後醍醐が隠岐島へ配流されることになると、その護送役に千葉貞胤らと共に道誉が抜擢される。道誉が後醍醐の護送役に選ばれたのは配流地の隠岐や出雲が同族の佐々木一族であったためとみられる。
 3月7日に京を発った後醍醐一行は八幡にさしかかり、淀の渡しから桂川を渡った。『増鏡』によればこのとき後醍醐はかつて石清水八幡行幸のおりにここを渡り、そのときに橋渡し役をつとめたのが今自分を護送している道誉であることに気付いた(出家姿なのですぐには気づかなかったのかもしれない)。後醍醐は懐かしさがこみあげ、「しるべする 道こそあらず なりぬとも 淀のわたりは 忘れしもせじ」(お前が道案内してくれる道の行き先はあの時とは全く違ってしまったが、淀の渡しをお前が渡してくれたことは忘れはせぬぞ)と詠んで道誉に賜ったという。この逸話は後醍醐が道誉のことをしっかり記憶していたことが確認できるだけでも興味深いのだが、この歌も表面的には自身の運命の変転を嘆く歌であるが、読みようによっては「お前のことは忘れぬ」と道誉個人に何か期待をこめたメッセージ性まで感じさせる。『増鏡』がさりげなく記すエピソードだが、その後の道誉の行動をみるとき、やはりこれ以前から後醍醐と道誉には人脈的つながりがあったのではないかと思わせる。
 一行は摂津、播磨、美作、伯耆を経由して出雲の美保関に到着し、ここから天皇は船で隠岐へ渡り、道誉らは引き返したとみられる。

 京に戻った道誉は、今度は後醍醐の側近として乱に参加した北畠具行を鎌倉に護送するよう命じられている。しかし鎌倉に送る途中、道誉の本拠地のある近江・柏原荘で幕府からの連絡があり、その場で具行を処刑することに決まった。6月19日のことという。このときの逸話は『増鏡』および『太平記』に詳しい。以下の話は「増鏡」を中心にした。
 処刑の前夜、道誉は具行にあえて処刑を伝えず、「何事も前世の因縁で決まっていたことなのでしょう。あなた一人で起こした乱でもなし、どうなるものでもありません。私などは武士の家に生まれて血なまぐさいことばかりしていて、因果なものです」と語り、暗に具行に処刑を伝えた(「太平記」では、恩赦が出るまで時間稼ぎをしようとしていたが命令が来た、と率直に言う)。そして後醍醐を隠岐まで護送した時の思い出を具行に語り、「旅の間だけのおつきあいですらとても感じ入る者がありました。ましてあなたのように日夜お相手したお方ならなおさらでしょう。まさに昔の聖君のようなお方、このような末の世にあっては世が受け入れきれないのでしょう」と後醍醐をたたえ、酒や料理で具行をもてなしつつ世間話をしてなぐさめたという。翌朝、具行が覚悟を決めて出家を申し出ると、道誉は「よいお心がけです。関東(幕府)がうるさく言ってくるかもしれませんが、どうということはないでしょう」とこれを許可した。出家が済んでから具行は斬首された。首をはねたのは道誉の家臣・田児六郎左衛門尉だったという(「太平記」)。この具行と道誉の対話は非常に印象的で、とくに「太平記」においてはその後「ずるがしこい謀略家」のイメージで否定的に語られる道誉がここでは人情深い武将として描かれているのが目を引く。

 この年の後半から護良親王楠木正成らによる倒幕運動が再び活発化、翌正慶2年(元弘3、1333)年に入ると各地の反幕府勢力が挙兵し、閏2月末に後醍醐が隠岐から脱出したことで情勢は一気に流動化してゆく。この間道誉がどのような行動をとっていたか明確な史料はない。『太平記』でも幕府滅亡の展開で道誉はまったく登場しないのだが、『太平記』のはるかに後ろの方、尊氏死後の巻三十四の記述に「佐渡判官入道道誉は元弘のころ、北条高時の振る舞いを見て幕府の運も尽きたとみて『北条を討って取って代われ』としきりに尊氏に勧めた。それによって六波羅は尊氏のために滅びることになったのである」との一文が突然現れている。
 また道誉の子孫の京極家が江戸時代に編纂した家譜では道誉が3月末の足利高氏の鎌倉出陣に同行し、高氏の命で腰越から鎌倉に向けて怨敵退散のかぶら矢を放ったこと、近江番場で道誉が高氏を饗応し「先陣は私がつとめたい」と申し出て六波羅攻略の軍議を行い、高氏を喜ばせたといった逸話が記されている。ただし後世の家譜の「面白い話」はアテにならないことが多い。その後の道誉の建武政権や尊氏との関わりを考えると、このとき道誉と尊氏の間で密約・連携プレーがあったことは事実かもしれない。
 
 4月29日に足利高氏は篠村八幡で挙兵、5月7日に六波羅探題を攻め落とした。このとき道誉が高氏と行動を共にしていた様子はないが、このあと六波羅探題の人々が光厳天皇ら持明院統の皇族たちを奉じて関東へ逃げようとし、結局5月9日に近江番場で全滅することになる展開の背後に道誉の関与を疑う声はある。
 六波羅一行は京から番場まで各地で野伏たちの襲撃を各地で受けたが、彼らは「五辻宮」こと守良親王というほとんど隠遁状態にあった皇族を大将にかつぎだすという不自然なことをしている。また六波羅一行に途中まで同行していた六角佐々木の佐々木時信が一行から不自然な離脱をして結果的に命を拾っている。そして捕えられた光厳ら皇族たちが収容され神器の引き渡しが行われた場所は道誉の拠点・伊吹山にある太平寺だった。これらの状況証拠から、道誉は足利高氏と示し合わせ、六波羅勢の関東逃亡を近江で阻止する役割を演じたのではないかと推測されるのだ。

―建武の乱で大活躍―

 鎌倉は5月22日に新田義貞の攻撃により陥落、道誉が「つきあい出家」をしたかつての主人・高時も死んだ。後醍醐天皇は都に凱旋し、天皇中心の「建武の新政」を開始する。道誉はその開始直後には新政に参与した形跡がないが、土地問題の処理が混雑・混乱したことを受けて建武元年(1334)8月に「雑訴決断所」が拡充された折に西海道担当の八番局に佐々木道誉が抜擢されている。この直後の9月、後醍醐の賀茂行幸に尊氏が随行した時に尊氏の軍勢の中に道誉の子・秀綱が加わっており、道誉が尊氏と深い関係で結ばれていたことがうかがえる。道誉が雑訴決断所奉行人に選ばれたのも尊氏の後押しがあった可能性もある。

 建武政権はますます混乱を増し、各地で反乱の挙兵が続いた。建武2年(1335)7月、信濃・諏訪に逃れていた北条高時の遺児・北条時行が挙兵するとたちまち大軍にふくれあがり、尊氏の弟・足利直義が守っていた鎌倉を攻め落とす(中先代の乱)。これを聞いた尊氏は後醍醐の許可のないまま8月2日に京を出陣した。尊氏の軍には建武政権に不満を抱いていた武士たちがこぞって加わったが、その中に佐々木道誉もしっかり加わっていた。
 この中先代の乱平定戦での道誉の活躍はかなり目覚ましい。8月12日の小夜中山(掛川市)の戦い、8月17日の箱根・水飲峠(三島市)の戦いで道誉の部隊が北条軍の敵将を討ち取る手柄をあげていることが戦闘記録「足利宰相関東下向申次」で確認できる。箱根を越えた相模川での対陣でも道誉は赤松貞範らと共に果敢な渡河作戦を行い、北条軍の背後に回ってこれを混乱・潰走させた(「太平記」)。元弘の乱では戦闘参加の記録がない道誉であるが、ここではなかなかの勇将ぶりを見せている。
 またこの一連の戦闘で常陸の武士・烟田幹宗と同時幹の功績を確認する軍忠状に道誉が証判(サイン)を与えたものが現存しており、道誉が単なる一武将ではなく、足利軍の中で指揮官クラスの立場で参加していたことを示している。

 尊氏は鎌倉を奪還すると、そのまま鎌倉に居座り、関東において事実上の幕府体制を開始する。道誉もこのとき今回の戦功の恩賞を尊氏から受けており、この時点で道誉と尊氏は主従関係を明確にしたといっていい。尊氏は事実上将軍としてふるまい幕府を作ったも同然だったが、後醍醐とは既成事実を作ったうえで折り合えるものと考えていたようで、あくまで後醍醐に逆らう気はなかった。このため後醍醐が実際に尊氏討伐軍が起こすと出家・恭順の意向を示して寺に引きこもってしまった。やむなく直義が総大将となって東海道を西へ進んで新田義貞の軍と対決することになり、ここに道誉も参加することになる。
 しかし主君・尊氏を欠いて意気あがらぬ足利軍は三河・駿河で連敗、とくに12月5日の駿河・手越河原の戦いでの敗北は壊滅的で、直義自身も命からがら逃げのびるはめになった。この戦いで道誉は自ら太刀で敵と切り結んで奮戦し、多くの手傷を負い、しかも実弟の佐々木貞満を戦死させてしまった。
 「太平記」によれば「もはやこれまで」と思った道誉は義貞に降参、逆に義貞の先陣を切って足利に立ち向かう姿勢をとる。足利側の軍記『梅松論』でもこのとき多くの武士が新田軍に降参したと記すが、「その名前については、はばかりがあるので書かないことにする」と意味深な一文がある。尊氏周辺の人物とみられる執筆者としては幕府の重鎮となった道誉に遠慮せざるをえなかったのだと思われる。

 手越河原の敗報を聞いた尊氏はついに立った。12月11日、足利・新田両軍は箱根・竹之下の戦いで激突する。「太平記」はこのとき道誉がいつの間にやら戦闘開始時点から足利軍に加わっていたように記しているが、実際はどうだったか分からない。他に史料がないので「太平記」の記述に従うと、道誉はこのとき新田軍のからめ手で竹之下方面を進んでいた義貞の弟・脇屋義助の軍勢に襲いかかった。義助の軍には討伐軍の象徴的司令官であった尊良親王とその側近公家たちの部隊があり、彼らは官軍を示す錦の御旗を掲げ、「帝に逆らう者には天罰が下るぞ。命が惜しくば降参せよ」と足利軍に呼ばわった。しかしその声をかけられた足利軍に佐々木道誉・土岐頼遠の婆沙羅大名代表が二人もそろっていたからたまらない。彼らはこれを嘲笑し、「武士として生まれた者は名を惜しみ、命など惜しまぬ。それが嘘かまことか、戦って見てみるがよい」と一斉に太刀を抜いて突撃、たちまち公家たちの軍を蹴散らしてしまう。これをきっかけに脇屋軍が崩壊、おまけに最初から新田軍に加わっていた大友貞載佐々木高貞までが戦闘中に寝返りを打ち、箱根方面で直義をあと一歩まで追いつめていた義貞も敗走を余儀なくされてしまった。
 このときの道誉の行動が、初めから寝返るつもりの「計画的降参」であったとの見方もある。ただ手越河原では弟が戦死するほどの厳しい状況であり、最初からそのつもりで降参したとも考えにくい。ただ実際に降参してみて新田軍の内情を知り、なおかつ引きこもっていた尊氏の出馬を聞いて「これは足利が勝つ」と見て寝返りを打ったという可能性は高い。箱根で寝返りを打った一人である佐々木高貞も道誉の同族であり、二人で示し合わせた寝返りであったかもしれない。
 ともあれ、一連の戦いはその後の「道誉」らしさを存分に発揮したものとなったのである。

 箱根・竹之下で新田軍を破った足利軍は、そのまま義貞を追って京へと向かった。年が明けた建武3年(延元元、1334)に足利方と後醍醐方の軍勢は京都をめぐって激しい攻防戦を繰り広げ、結局尊氏は2月に敗北して九州へとのがれた。しかし九州で態勢を立て直した尊氏は5月に湊川の戦いで勝利し、再び京を攻め落とした。この間の道誉の行動は全く不明だが、尊氏に従って九州までついていった様子はなく、本拠地の近江にとどまっていた可能性が高い。尊氏が九州へ敗走した時に多くの武士が後醍醐側に投降した事実はあり、そのなかに道誉が含まれていたのかもしれない。あるいはあえて去就をはっきりさせず、近江で様子をうかがっていたのだろうか。

 尊氏が京を占領すると、後醍醐は比叡山に逃れて抵抗した。比叡山は難攻不落でこの攻防は五ヶ月にわたって続く。このころ道誉が尊氏から指示を受けて近江側から比叡山攻略を助けていることが軍忠状から知られる。このころ近江には信濃の有力御家人・小笠原貞宗が尊氏に加勢して遠征してきており、近江国内で守護のようにふるまい事実上指揮を執っていた。このころ近江の守護は六角佐々木の佐々木氏頼がつとめていたがまだ幼少であり、道誉も次第に頭角を現しているとはいえ六角氏より下の立場であったために小笠原貞宗の指揮下に入らざるを得なかったのだと思われる。
 『太平記』巻十七「江州軍の事」に面白い話が載る。9月末に道誉が京から若狭路を経て東坂本(比叡山の近江側入口)にやってきて「近江は代々わが佐々木家の守護する国であるのに、小笠原がやってきて戦い、その功績により近江を支配しております。これでは道誉の面目が立ちませぬ。もし近江の守護職を私に認めてくだされば、ただちに近江に行って小笠原を追い落とし、近江国内の武士を従えて帝のために働きましょう」と後醍醐側にもちかけた。後醍醐と義貞は大いに喜び、さっそく道誉に近江守護職と数十ヶ所の領地を恩賞として与えてやった。すると道誉はそれを持って近江に帰るや「将軍(尊氏)から近江守護職を認められたぞ」と主張して小笠原軍を近江から追い出してしまった。そして近江全土を従えると今度は比叡山関係者の領地まで奪ってしまい、あまつさえ比叡山を攻撃し始めた。「さては道誉にだまされたか!」と義貞は弟の脇屋義助に船団で琵琶湖を渡り道誉を攻撃させたが、逆に上陸したところを道誉に攻められて散々な敗北をして比叡山に逃げ帰った…という一幕である。
 この話、実に面白いのだが、後醍醐から与えられた守護職を「将軍からもらった」と言って小笠原を追い出すのはかなり不自然である。この部分、一番古い形を残す「太平記」西源院本では道誉が求めたのは守護職ではなく「近江の管領」であり、しかも求めた相手は後醍醐ではなく尊氏であったことになっていて、こちらのほうが話が自然であるという(森茂暁「佐々木導誉」)。またこの守護職を求めて義貞をたぶらかす逸話は赤松円心に似た逸話があり、その話を流用して話を「道誉らしく」面白くしてしまった可能性もある。この時期、尊氏が近江で活動する武士たちにわざわざ道誉の指揮下に入るよう指示する書状もあることから、「よそ者」である小笠原貞宗が近江国内の武士を統率していることに道誉が強い不満を持っていたことは事実らしく、この逸話はそれを背景にしたものとみられている。
 「梅松論」では同じ9月の末に道誉が京から丹波路を経由して若狭・小浜に入り、ここから武士たちを率いて(「案内者たるによって」とある)北近江に攻め入り、小笠原貞宗と協力して比叡山を攻めたことになっている。道誉が京から若狭を経由して近江に入っていることは「太平記」と共通しており、これによって北陸方面から琵琶湖上の水運を使った物資輸送ルートを封鎖して比叡山を兵糧攻めにしたというのが真相ではないかと思われる。結局これが後醍醐たちの戦意を喪失させ、10月末に後醍醐は尊氏からの和睦の呼びかけに応じて比叡山を下りた。ここでも道誉の功績は大きかったと見なければならない。

―婆沙羅大名・道誉の台頭―

 比叡山を下りた後醍醐は神器を北朝の光明天皇に譲渡し、11月7日に足利氏の施政方針を示す「建武式目」が発表され、ここに足利幕府=室町幕府が事実上成立した。この「建武式目」の第一条に「倹約を行はるべき事」という項目があり、「近ごろ『婆沙羅(バサラ)』などと言いたてて派手さを好み、きらびやかに着飾って人の目を驚かす風潮がある。まったく狂っているとしかいいようがない。富者はますます派手になり、貧者はそれをうらやむばかり。これでは風俗が乱れてしまう。厳しく取り締まらなければならない」と、当時流行の「婆沙羅」を強くいましめられている。これはこの建武式目の制定の中心にいた足利直義とそのブレーンの保守的・厳格な性格を強く受けたものだが、道誉を始めとしてこの「婆沙羅」の風潮がそれで静まった様子もない。

 道誉はこの年の12月に尊氏から若狭国守護に任じられた。道誉にとって初めての守護職であり、比叡山攻略の功績によるものと思われるが、何か事情があったのか半年後には若狭守護職は別人になっていることが確認できる。
 この年の末に後醍醐は京を脱出して吉野にこもり、自身が正統の天皇であるとして各地の武士に京奪還を呼びかけた。いわゆる「南北朝の動乱」がここに始まるわけだが、道誉はこのころ自身の居館を柏原から甲良に移し、建武4年(延元2、1337)4月に近江信楽で後醍醐派と交戦するなど、近江各地の掃討にあたっていたらしい。建武5年(延元3、1338)正月に奥州から駆け付けて来た北畠顕家率いる南朝奥州軍が美濃・青野原の戦いで足利軍を撃破したとき、北畠軍の近江侵入を阻止するため道誉は高師泰らと黒血川に布陣している。これを突破することは無理と見た顕家は伊勢へと転進している。
 この建武5年4月に道誉は念願の近江守護職を獲得している。佐々木氏傍流の京極系が近江守護となるのはこれが初めてで道誉への幕府の期待を示すものでもあるのだが、ここでもまた半年ほどでとりあげられてしまう。六角佐々木の当主・氏頼が成長してきたのでこちらに近江守護が任されてしまったのである。やはり道誉は傍流の悲哀を味あわざるを得なかったようだ。
 建武5年(1338)のうちに北畠顕家、新田義貞が相次いで戦死し、尊氏は征夷大将軍となって幕府体制を名実ともに確立させた。そしてその翌年、暦応2年(延元4、1339)8月16日に後醍醐が吉野で死去する。南朝の劣勢、幕府の優勢はもはや明らかであった。

 そんな暦応3年(興国元、1340)10月6日、道誉は有名な「妙法院焼き打ち事件」を引き起こす。そもそもの発端は道誉の嫡子・秀綱がその郎党たちと「例のバサラに風流を尽くして、西山・東山の紅葉を見て」(太平記)、夕刻その帰途に妙法院の前を通りかかったとき、その庭の紅葉をひとさし折って持ち帰ろうとしたことだった。妙法院の僧たちは当然ながらこれに怒り、山法師たちが飛び出して秀綱たちから紅葉の枝を奪い返し、乱闘の末に寺から追い出した。秀綱たちが屋敷に帰って道誉にこれを告げると、「どこの門主か知らぬが、ちかごろこの道誉の手の者と知って手出しをするような奴はおらぬぞ」と道誉は激怒し、秀綱と共に300余の兵を率いて妙法院へ押し寄せ、妙法院の重宝を盗み出すなど乱暴狼藉を働いたうえに御所に放火、意気揚々と引き上げたというのである(「太平記」「中院通冬日記」「妙法院文書」)
 そもそも発端が息子が紅葉を失敬したことであるから「逆恨み」と言ってもよく、しかもその報復の仕方がハンパではない。さらに人々を驚かせたのは、この妙法院は比叡山延暦寺と同じく最澄の開基とされ、比叡山と強く結びついたいわば「系列寺院」であり代々皇族が住持となる「天台三門跡」の名刹であること。このときも光厳上皇の弟・亮性法親王が門主をつとめていた。その寺に略奪・放火を働いたのである。中院通冬がその日記に記したように「言語道断の悪行、天魔のしわざか」というのが世間一般の感想であっただろう。

 下手をすれば首が飛びかねない行動であり、いつも計算高い道誉が衝動的にこんなことをやったとも思えない。実は近江の佐々木家と比叡山は昔から因縁がある。頼朝時代の佐々木定綱の次男が比叡山に属する日吉神社の神人を殺害し、その次男が比叡山に引き渡されて処刑、定綱も薩摩へ流刑になった先例がある。また比叡山の裏口ともいえる近江では所領などをめぐって比叡山と佐々木家がトラブルになることも少なくなかったようだ。道誉はそうした過去の因縁も含めてまさに「確信犯的」に妙法院を焼き打ちしたものとみられる。それで自分がとがめられることはないという自信もあったようで、この一件は実は幕府の了解のもとで起きたのではないかとの見解もある。
 実際、この事件に対する幕府の処分は生ぬるかった。比叡山は激怒して道誉父子の極刑を北朝に求めたが、幕府の庇護下にある朝廷が何もできるはずがない。衆徒らはさらに神輿をかついで強訴を行い幕府に処分を求めたことで、10月26日にようやく幕府は道誉父子の流刑を決定する。その配流先も12月になって道誉が出羽、秀綱が陸奥と決定され、翌年4月にようやく途中の上総まで出発、というのんびりしたスケジュールであった。
 おまけにその流刑の風情たるや、「遊覧の体(物見遊山)」(中院通冬日記)であったという。「太平記」はもっと詳しく、「道誉が近江の国分寺に来ると、若党三百余騎が見送りと称して前後に従った。彼らは全員猿の皮のうつぼ(矢入れ)に猿の皮の腰当てをつけ、手に手にウグイスの籠を持っていた。道中ではあちこちで酒宴を開き、遊女を呼んで騒ぐ始末で、その様子はとても流刑者には見えず、華やかなものであった」と伝える。猿は比叡山・日吉神社の守護神とされ、猿の皮のうつぼや腰当ては明白に比叡山に対する挑発だった。「太平記」の作者は明らかに比叡山関係者と思われ、道誉の行動を苦々しげに書きつつ、その豪快さには舌を巻かざるを得ないといった様子である。
 結局、この配流は形ばかりのものであったらしく、道誉父子は出羽はもちろん上総まで行ったかどうかも怪しい。この年の8月には直義の命で伊勢方面の南朝軍に圧力をかけていることが確認できるからだ。この事件が実は幕府の意向を受けたものではなかったか、とまで疑われるのも無理はない。それまで絶対的宗教権威であった比叡山が新興武士たちにコケにされるという時代を象徴する事件であり、婆沙羅大名・佐々木道誉の真骨頂の一つといえる事件であった。

 なお流刑にあたってはその宣下で流人の俗名を記すことになっていて、道誉の場合だと「高氏」と書かれることになってしまう。これは将軍・尊氏と同じ「たかうじ」を流刑にすることになり申し訳ないということで、道誉はとっとと「峯方(みねかた)」なる名前に改名している。「峯方」という名前は比叡山そのものに通じ、これだと比叡山を流刑に処すという意味にもなる。道誉のバサラぶりはこんなところにも表れている。

―変転常なき情勢のなかで―

 康永2年(興国4、1343)8月、道誉は出雲守護職を得た。なおこの出雲守護職はもともと同族の佐々木高貞が持っていたものだが、高貞はこの2年前に謎の逐電事件を起こし自害している。「太平記」の伝える、高師直が高貞の美貌の妻に横恋慕して…の逸話で有名な事件である。その真相は不明ながらこれを機に京極佐々木家が以後出雲守護を得るようになった。また、このころ道誉は幕府引付方(訴訟担当)の頭人となり、いよいよ幕府の中枢の一角を占め始める。

 しばらく鳴りをひそめていた南朝の軍事行動が再開されたのは貞和3年(正平2、1347)秋以降のことである。河内で楠木正行が目覚ましい活躍をみせ、南朝は攻勢に転じた。道誉ら佐々木一族にも出陣の命が下り、道誉は息子の秀綱・秀宗らと共に河内へ出陣している。
 年が明けて貞治4年(正平3、1348)1月5日、楠木正行率いる南朝軍と高師直率いる幕府軍は河内北方・四条畷で決戦を行った。『太平記』によればこのとき道誉は生駒の南の丘の上に布陣し、楯を並べ射手を配置して上って来る敵があれば矢を浴びせる構えをとった。戦闘が始まり楠木軍が激しい勢いで突進していくのを見ると、道誉は「楠木は他の武将には目もくれずに総大将の師直の旗だけ目指している。それならばいったんやりすごして、通り過ぎてからその背後を断とう」と飯森山の南の峯の上に移動してしばらく様子を見て、楠木軍が疲れたところを見すまして攻撃をかけるといった戦巧者ぶりを見せている。
 四条畷で楠木正行らを敗死させた幕府軍は勢いに乗って南朝の拠点・吉野へと迫った。南朝朝廷は吉野を放棄して賀名生へと落ちのび、師直らは吉野を焼き払って灰燼に帰せしめた。このあと幕府軍は大和各地で掃討戦を続けたが、2月8日に大和・平田荘において南朝方の数千の「野伏」に襲撃された。このとき道誉・秀綱は負傷したうえ、秀宗は水越峠で戦死してしまっている。

 翌貞治5年(正平4、1349)年始の幕府「沙汰始」で道誉は幕府の最高議決機関「評定衆」のメンバーとして顔を見せている。前年に息子を戦死させたことの見返りとして彼の地位が高まったのかもしれない。しかしこの年、幕府は足利直義派と高師直派に分裂して激しい内戦「観応の擾乱」へと突入してゆき、道誉の幕府内の地位も激しく変動するになる。
 この年8月、高師直らはクーデターを起こし、直義と尊氏を将軍邸に包囲して直義を失脚に追い込んだ。尊氏と師直が示し合わせて演じた一芝居だったとも見られるこの事件で道誉の動向は知れないが、嫡男の秀綱が師直軍に参加しており(「太平記」)、この政変ののち道誉が引付頭人に復帰していることも確認できるので、基本的に師直派に属していたと思われる。師直というより道誉としてはあくまで尊氏に味方していたつもりかもしれないが。

 翌観応元年(正平5、1350)7月に美濃で土岐周済が反乱を起こして近江へ侵攻し(恐らく直義派として動いたと思われる)足利義詮と師直に討伐を受けているが、このとき道誉も自国ということでその先払いをしている。捕えられた周済の子の処刑も道誉の指示下で行われた。そしてこの年の10月、直義の養子で尊氏の庶子である足利直冬が九州で勢い盛んとなり、尊氏は自ら九州に出陣してこれを平定することにした。そのことを勧修寺経顕を通じて光厳上皇に報告する役目も道誉がつとめている。京暮らしが長い上に高い教養を身に付けた道誉は公家の相手にはもってこいだったようで、このころから幕府から朝廷側への接触はたいてい道誉が担当するようになる。このころ道誉が幕府政所執事(現在の財務大臣に近い)を務めていることも確認できる。
 尊氏が師直らと共に九州目指して出陣した直後、京を脱出した直義は南朝に降伏して挙兵した。情勢はたちまち逆転し、観応2年(正平6、1351)2月の打出浜の戦いで尊氏・師直は直義に敗れた。和議が成立して尊氏は直義と共に京にもどることになったが、その帰途の2月26日に師直ら高一族は直義派によって皆殺しにされてしまう。
 京にもどった尊氏は敗者の立場のはずなのに直義との交渉では強気に出て、今回の戦いで尊氏方についた武将たちの恩賞と領地安堵を認めさせた。「観応二年日次記」4月2日の条によると尊氏派につきながら罪を許され領地を安堵された武将の筆頭に佐々木道誉の名が挙がっている(ほかに仁木頼章、土岐頼康など)。道誉がこの間どこで何をしていたか明確ではないのだが、打出浜の戦いの直前に尊氏から恩賞として複数の土地を与えられているので、やはり尊氏派として行動し、近江でにらみを利かせていたのではないだろうか。

 尊氏と直義の和解はすぐに破綻し、京ではテロの嵐が吹き荒れ、各地で合戦が始まった。7月19日に直義は政務を辞して状況を打開しようと図ったが、このころ尊氏派の武将たちが次々と京を離れた。そして7月28日に足利尊氏当人が「近江の佐々木道誉が南朝と結んで謀叛を起こしたので討伐する」と称して京から近江に出陣した。ほぼ同時に播磨の赤松則祐も南朝方にまわったとして足利義詮も京から播磨へ向かった。これは尊氏・義詮らが道誉・則祐と仕組んだ芝居で東西から京を挟撃する策略だと悟った直義はただちに京を脱出、北陸へと向かった。
 道誉と則祐の行動が尊氏と示し合わせたものだったことは間違いないだろう。則祐は道誉の娘を妻に迎えており、道誉の婿でもある。ただし南朝と結びついたというのも事実無根ではなかった。もともと則祐は護良親王の家臣であった過去があって南朝の総帥・北畠親房と連絡がとれていた。そして恐らくそのつてを通して、道誉のもとに南朝の後村上天皇からの綸旨も下されていたのである。この年8月2日付のその綸旨には「尊氏・義詮父子に直義法師を追討せよ。功をあげれば恩賞を与える」との内容が書かれていたという(「観応二年日次記」)。本当にそういう内容だったとすれば、このとき南朝は道誉に足利一家全ての討伐を命じていたことになり、展開次第では道誉が尊氏に取って代わって「天下をとる」可能性をちらつかせるものであった。
 しかし道誉は一切それに応じた気配がない。8月18日に直義を討つべく近江鏡宿に出陣した尊氏のもとへ、道誉は秀綱と共に忠実に馳せ参じている。この直後から尊氏自身が南朝に投降を持ちかける事態になるので、南朝も道誉に尊氏を討たせる意味がなくなってしまっていた。

 11月に尊氏は南朝に投降を認められ、北朝は存在を否定された(正平の一統)。尊氏と南朝との交渉の仲介役は赤松則祐であったとされ、道誉もそこに一定の関与をしていただろう。南朝から直義討伐の綸旨を得た尊氏は関東へ逃れた直義を討つべく東海道を下ってゆき、道誉は京の留守を守る義詮を補佐した。南朝による北朝権力の接収の過程ではもともと公家相手を担当していた道誉が南朝との交渉役を務めている。義詮の道誉に対する信任は篤く、この年12月に道誉は義詮から「佐々木家惣領」の地位を認められている。本来佐々木一族の惣領は六角系がもつのだが、この動乱の中で六角佐々木の氏頼は尊氏・直義の間で揺れ続けて悩んだあげく何もかも投げ出して出家してしまっていた。そのあたり、道誉はやはり図太い神経の持ち主だったと言えそうだ。
 
 翌年(1352年。「正平の一統」維持の間は道誉にとっても正平7年となる)2月26日に、尊氏に敗れて鎌倉に幽閉されていた直義が急死した。この瞬間に南朝と尊氏との協力関係は意味を失い、南朝は後村上天皇自ら男山八幡に進出して京をうかがい、関東でも宗良親王率いる南朝軍を起こして鎌倉を狙った。南朝軍は閏2月18日に鎌倉、閏2月20日に京を東西ほぼ同時占領し、義詮は京を脱出して近江に逃れ、道誉に合流した。ここに「正平の一統」は完全に手切れとなり、義詮は道誉と共に近江から反転、3月中に京を奪回した。男山八幡に立てこもって抵抗した後村上ら南朝軍がついに敗退したのは5月のことである。
 京占領の間に南朝は幕府による北朝復活を阻止するために、北朝の光厳・光明・崇光の三上皇と直仁親王を拉致し、賀名生の山奥に連れ去ってしまった。やむなく幕府はかろうじて京に残っていた光厳の皇子・弥仁親王(僧になる予定で寺に入っていた)を探し出し、これを新天皇に立てることで北朝を復活させようとした。しかし三種の神器は南朝が持ち去っており、神器なしで即位させるためには天皇より上位の「治天」である上皇の院宣を必要とした。ところがその上皇も全て連れ去られているのである。困った幕府が考え付いたのが、光厳・光明の生母広義門院(西園寺寧子)を「女治天」に見立ててその院宣により弥仁を即位させるという、窮余の一策というより「ほとんど反則の裏ワザ」であった。
 このアイデアを北朝公家たちにもちかけ、勧修寺経顕を通して広義門院の説得にあたったのが道誉だった。このためこの突拍子のないアイデア自体、道誉が思いついたものではないかと思えてくる。息子や孫たちを幕府の失策で拉致された広義門院は激怒してその要請を蹴ったが、道誉と経顕の必死の説得でようやく折れた。かくして8月17日、「女帝」広義門院の院政という異例の形で弥仁は即位した(後光厳天皇)。この北朝の復活劇を実現させた道誉は、ますます義詮の片腕として頼みにされ、幕府の重鎮とみなされてゆく。

―足利幕府重鎮として―

 直義を失った直義党の武将たちは、今度は直義の養子・直冬を首領と仰いで南朝と結びつき、幕府に挑んでくるようになる。文和元年(正平7、1352)11月に旧直義党の石塔頼房吉良満貞が河内の楠木正儀と手を組んで摂津で活動をはじめ、道誉が息子秀綱と高秀を率いて(あるいは息子たちのみか)その鎮圧にむかっている。もっともこれは成果が上がらぬまま撤退を余儀なくされたらしい。

 その直後の文和2年(正平8、1353)正月5日、北野神社参詣と称して京を発った道誉は、突然その足で領国・近江の柏原城に帰り、抗議のストライキを始めるという事件を起こす。原因は前年暮れに鎌倉から京にやって来た尊氏の側近(というより寵童)の18歳の美少年・饗庭氏直(命鶴丸)が道誉と衝突、義詮と道誉について尊氏に讒言してこれを真に受けた尊氏が立腹したことにあった。慌てた義詮は政所の粟飯原清胤、そして尊氏の護持僧として「将軍門跡」と呼ばれた三宝院賢俊という大物二人を柏原に派遣して道誉に復帰を要請したが、道誉は面会すら拒絶したという。結局翌月には幕府政所執事に復帰しているので短期間のストライキで終わったようだが、道誉にしては珍しい衝動的行動ともいえる。ストライキから復帰した直後の道誉の花押(サイン)がある文書が現存しているが、異様に乱れた花押となっていて、道誉の心理的動揺を示すものではないかといわれる(森茂暁「佐々木導誉」。写真も同書に掲載)

 この年の6月、山名時氏・石塔頼房・楠木正儀らの南朝軍が京へ突入、二度目の南朝京都占領を実現した。『太平記』によれば山名時氏が南朝方についたのは、時氏の子・山名師氏が前年の八幡合戦の手柄を道誉に認めてもらおうと毎日訪ねたが、道誉が「今日は連歌会」「今日は茶会」と断って会おうともしないことに立腹したためとする。むろん実際にはそれだけではなく若狭や山陰の守護職をめぐって道誉と山名氏の間で深刻な対立があったことが背景にあるようだ。
 この二度目の南朝京都占領で、義詮は後光厳を擁してまた近江へ、さらに美濃と逃れた。その途中6月13日に堅田を通った時に、この地に潜んでいた堀口貞満(新田義貞の家臣)の遺児・堀口貞祐が野伏たちを率いて義詮一行を襲撃、義詮を守っていた道誉の嫡子・佐々木秀綱はこのとき戦死してしまった(「太平記」)。道誉にとって秀宗に続く二度目の息子戦死の悲劇であった。
 7月に義詮は京を奪還、尊氏も鎌倉から久々に畿内へ引き上げ、美濃で後光厳と合流して9月に京に戻って来た。戦乱で屋敷が焼けてでもいたのか、このとき義詮が道誉の屋敷で生活していた時期がある。

 翌文和3年(正平9、1354)10月、今度は足利直冬が山名時氏や桃井直常らと共に京を攻め、翌文和4年(正平10、1355)正月に京を占領した(南朝軍三度目の京都占領)。いったん後光厳を擁して近江に逃れた尊氏はここから反転して京を攻め、義詮も出陣していた播磨から戻って、2月4日に東西から京へ攻め込んだ。このとき道誉は娘婿の赤松則祐と共に義詮の本陣に同行しており、山崎の西・神南(現・大阪府高槻)で山名軍と激戦に及んでいる。
 この模様は「太平記」が非常に詳しくつづっている。山名時氏は義詮の本陣近くまで迫り、義詮周辺は大慌てになったが、そばに控える道誉と則祐は敷皮の上に悠然と構えて一歩も動かず「我らの討ち死にを見てからご自害なされ」と義詮に言った。時氏は義詮本陣に佐々木氏の「四つ目結い」の旗印があるのを見て「わしがこの乱を起こしたのはそもそも道誉の無礼のせいだ。さては道誉がそこにいるな。きゃつの首だけを狙え」と突進してきた。しかし則祐が陣幕を開いて武士たちを叱咤し、それをきっかけに山名軍は敗退したという。
 3月に直冬は京から撤退。京はこれから数年ほど久々に平和が戻り、旧直義党の大物・斯波高経も幕府に帰順し、幕府の体制が固められてゆく。そして延文3年(正平13、1358)4月30日についに足利尊氏が54歳で波乱の生涯を閉じた。道誉は幕府の重鎮として二代目将軍・義詮を支えていくことになる。それは彼にとって同じ「たかうじ」の遺志を継ぐことであったかもしれない。

―義詮時代の権謀術数―

 義詮が第二代将軍となると、道誉は創業の功臣・元老格として義詮の相談役となって権勢をふるった。これを人々は「武家権勢道誉法師」と呼んだという(「園太暦」延文4年8月17日。ただし京に天狗が横行して道誉邸につぶてを投げたという不思議な記事である)。義詮時代が本格的にスタートすると、その補佐役である執事(このころから「管領」の名称が始まる)に猛将で知られた細川清氏が任命されるが、これは道誉の推薦による人事であったという。

 将軍となった義詮は南朝への攻勢を開始した。延文4年(正平14、1359)末から関東からも援軍を招いて摂津・河内・和泉への攻撃をかけ、この戦いは翌年まで続くが、延文5年(正平15、1360)7月に遠征軍の中で内紛が発生する。細川清氏・畠山国清らが有力大名・仁木義長の排除を図ったのである。7月13日に道誉は義詮の命を受け状況視察のため遠征軍の様子を見に行っているが、その直後の7月18日に義長は兵を起こして京の将軍邸を包囲、義詮を人質にして形勢逆転を狙った。「太平記」によれば、このとき道誉は義長の味方につくと称して将軍邸に入り、義長と酒を酌み交わしている隙に義詮を女装させて脱出させてしまったという。義詮に逃げられた義長は伊勢へ逃亡、道誉の策略で事態は丸く収まったわけである。

 翌康安元年(正平16、1361)9月、今度は佐々木道誉は謀略により管領・細川清氏を失脚させる。清氏が荼吉尼天(だきにてん)に「清氏が天下をとること、義詮が病死すること、基氏が降伏すること」を祈願したとされ、証拠として清氏の筆跡と花押の入った願文が道誉から義詮に提出されたのだ。義詮は「道誉のいうことだから間違いなし」と信じ、清氏を討つ態勢をとった。清氏はやむなく若狭へ逃れ、さらに河内に走って南朝に降参する。しかし清氏の親友であった今川了俊の証言『難太平記』によると、清氏には野心などまったくなく、これは「ある人」の陰謀だと断定されている。了俊の父・今川範国も問題の願文をじかに見て「不審」と話したといい、全ては道誉の謀略であったということになる。清氏を管領に推挙した当人の道誉がなぜ清氏を策謀により失脚させたのか明確な説はないが、守護人事で清氏と対立していたとも、清氏の暴走ぶりが幕府を危うくすると判断したとも言われる。
 南朝に降参した清氏は12月に楠木正儀らと京へ突入、南朝軍の第四回京都占領を実現する。このとき京の武将たちは敵に渡さぬために自身の屋敷に放火して撤退するのが常識だったが、道誉は「我が屋敷にはさだめし名のある武将が入るであろう」と屋敷に火をかけるどころかきれいに清掃して会所に書画・花瓶・香炉・盆など美しく飾り、酒と料理を整えたうえで遁世者を二人を残し「誰であろうとこの屋敷に入った武将に一献差し上げよ」と命じて京から引き揚げていった。この道誉屋敷に入ったのが楠木正儀。道誉の心づくしとその「バサラ」ぶりに感嘆した正儀は、「焼きはらえ」と主張する清氏をしりぞけ、間もなく幕府軍に京を奪回され撤退するにあたって正儀は道誉への返礼としてやはり酒肴を整え、秘蔵の鎧と太刀を置いていった。京の人々は「道誉の今回の振る舞いは情け深く風情あり」とはやし、「道誉のいつもの古バクチにだまされて楠木は太刀をとられた」と笑う者もあったという。道誉と正儀はこの一件が縁になったらしく、以後南北朝和平交渉の双方の代表として接触することになる。
 敗れた清氏は四国へ逃れ再起を図ったが、翌貞治元年(正平17、1362)正月に讃岐で従兄弟の細川頼之に敗れて戦死する。管領の後任には当初斯波高経が推挙されたが、高経は将軍家に匹敵する名門という自負があり、自らは管領とならずにわずか13歳の愛児・斯波義将を管領として、その背後で実権を握った。高経の三男・斯波氏頼は道誉の娘婿で、道誉はこちらが管領となることを期待したらしく、この期待が裏切られたことで道誉と高経の対立が始まる。翌年7月には早くも道誉が高経を討とうとしているとの噂がたっている。

 貞治元年(正平17、1362)8月、道誉の守護国摂津で楠木正儀ら南朝軍の活動が活発化した。その鎮圧に道誉の孫・秀詮氏詮(秀綱の子)の兄弟が向かったが、神崎橋の戦いで二人そろって戦死してしまった。道誉にとって弟と息子二人に続いて孫二人を戦で失ったことになる。
 この孫二人の戦死は道誉の京極家に深刻なお家騒動をひきおこした。道誉の嫡男・秀綱の子が死に、そのまた子の秀頼はまだ幼く、道誉の息子のうち一人だけ残った高秀の系統が道誉の後継となる可能性が高まったのだ。道誉の重臣である吉田厳覚はこのとき秀頼後継のために動いたらしく、貞治2年(正平18、1363)7月19日の夜に四条京極道場の前で若宮某という刺客に襲われ殺害された。殺害を指示したのは一時道誉との噂も流れたが、子の高秀の方だった。道誉は高秀を激しく叱責したとも伝わる。この事件はあくまで京極家内部の問題だったが高秀はこの事件の責任をとる形で幕府の侍所頭人を辞職している。この事件はちょうど道誉と高経の対立が激化していた時期でもあり、単なる京極家のお家騒動を超えた政治的謀略があったとも言われている。
 この一件で道誉も幕府内での権勢をかなり後退させたらしい。「太平記」では道誉が五条大橋建設工事を任されて京の市民から税をとった上で工事を遅延させていると、高経が他の力を借りずにきっちり数日で工事を終わらせてしまったので道誉が面目を失ったとの逸話がある。

 貞治5年(正平21、1366)3月、将軍義詮邸で高経主催による花見の宴が催された。道誉ははじめ出席を連絡しておきながら、郊外の大原野・勝持寺で自ら前代未聞の大花見イベントを開催して世間の度肝を抜く。
 この寺は「花の寺」の異名もあるほどで、ひとまわり十囲(約15m)もある桜の巨木があった。道誉は巨大な真鍮製の花瓶を作ってこの木の下に置いて巨大な「立花」に見立て(道誉は立花芸術の立役者でもある)、その両側に巨大な香炉を並べて一斤(約600g)の名香を一斉にたいた。さらに猿楽舞や白拍子など京の芸能人を根こそぎ集め、珍味と酒を山のように並べ、大勢の客を集めて夜中までドンチャン騒ぎをしたというのである(「太平記」)
 将軍邸での花見の宴もこれの前には肩なしで、高経は大いに面目を失い、自身が定めた二十分の一税を道誉が二年間滞納していることに目をつけて摂津守護職をとりあげ、その失脚を図ったが、8月に逆に道誉が諸将を結集して義詮に高経父子の罷免を進言する。結局高経は道誉の前に敗北して義将と共に越前へと逃れ、翌年7月に病死してしまう。

 義詮の時代は不安定ながらも室町幕府がその体制を固めていく過程であった。相次ぐ幕府内の政変の陰には常に道誉の暗躍があり、義詮時代はさながら「道誉時代」の趣きすらある。そして相次ぐ政変は結果的に室町幕府を将軍に権力を集中させる強力な全国政権に成長させていくことになった。それが道誉の狙いであったかどうかは分からないが、少なくとも道誉は幕府に反逆する側には決してまわらず、常に将軍を立てて勝利者の側にまわっている。道誉の政治家としての非凡さがここにある。

―悠々自適の晩年―

 貞治6年(正平22、1367)4月、道誉は義詮の意向を受けて南朝との講和交渉を推し進めている。道誉の交渉相手は楠木正儀で、その使者には医師・但馬入道道仙という人物が立っていたらしい。このときの交渉は実現一歩手前まで進み、南朝の後村上天皇から葉室光資が使者として京の道仙の屋敷に入った。しかし4月29日、光資が持参した後村上の綸旨に「義詮の降参」という文言があったことに義詮が激怒、交渉はまたも決裂した。義詮はよほど腹にすえかねたらしく、その日交渉役の道誉を激しく叱責したという。しかしそれでも7月にまた南朝に使者を送るので交渉を完全に打ち切ったわけではない。
 
 この年の4月26日に鎌倉公方・足利基氏が28歳の若さで急死した。その一カ月後の5月28日に道誉は義詮の命じられて鎌倉へとくだった。道誉にとって建武の乱以来およそ30年ぶりの鎌倉入りで、その目的は基氏の死後鎌倉公方の地位を遺児・金王丸(氏満)にスムーズに継がせ、その間の関東の政務をみるためであったと見られる。このとき道誉はすでに72歳となっていたが、まだまだ元気いっぱい、この重任をしっかり果たして年内に京に帰還している。

 この年の9月、讃岐から有力守護・細川頼之が軍を率いて上京した。おりしも7月に斯波高経が死去し、その子・義将が赦免されて幕政に復帰した直後であり、山名時氏ら斯波派に対抗するため道誉が打った手と見られる。道誉は中国・四国で軍事・政務で才能を示した頼之を自身の後継者と見込んで義詮に頼之の管領就任の推挙をしたらしい。
 頼之の管領就任に反対する斯波・山名らが兵を起こすとの噂も流れて騒然とするなか、10月から義詮は病に倒れ、11月には重態に陥った。この事態に対立はひとまずやんで、11月25日に義詮は子の春王(当時10歳)に家督を譲り、頼之を管領に任じて幼君の補佐を命じた。12月7日に義詮は38歳の若さで死に、時代は三代目・足利義満の時代に移る。南北朝動乱の大半を描く「太平記」はここで「天下泰平となった」として大長編の幕を下ろすが、その物語を最初から最後まで生き抜いているのは実はほぼ道誉ただ一人である。
 
 細川頼之の管領政治が始まると、道誉は彼に後を託すかのように事実上の引退状態となる。京極家は最後に残った息子・高秀が継ぎ、幕閣の一員として頼之・義満を支えている。晩年の道誉は幕府の宿老として義満の神社参詣や歌会の宴などのイベントに招かれて顔を出してはいるが、政治的な動きは全く見られない。それ以前の策謀家ぶりとは打ってかわって晩年は悠々自適に京や近江の領国で暮らしていたようである。
 応安6年(文中2、1373)2月27日、78歳の道誉は後継ぎの高秀あてに自分の死後についてしたためた書状を送っている。道誉自らひらがなでつづったこの書状は「ミま」なる人物についてのことばかりで、「自分が死んだら“ミま”のことをよろしく頼む。私のために堂塔を立てるより、“ミま”の扶持(生活費)の面倒をみることが最大の供養である。“ミま”の面倒さえ見てくれたら今生にも後生にも思い残すことはない」と道誉の心情が切々と、しつこいほどにつづられている。この「ミま」が誰なのか諸説あるのだが、その名前が女性らしいこと、「召使の女の中にも男の中にも“ミま”と心やすい者がいない」「まだ若いから…」といった部分もあり、どうも道誉と年の離れた妻であったのではないかと想像される(道誉には「北」と呼ばれ、のち尼となり「留阿」と号した妻がいたことが分かっていて、彼女が「ミま」かもしれない)。道誉はこの「ミま」への熱い思いを「妄念」とすら自分で書いている。動乱の時代をしたたかに冷徹に生きて来た印象のある道誉がその晩年に見せた熱い人情味であった。
 この書状を書いた動機も「次第に体が弱々しくなり、何かと不自由が多くなった。ある日夜中に突然何か起こるかもしれないから、今のうちに書き残しておく」と記されており、道誉は自らの死をはっきりと予感していた。「急に何かあるといけないから」と書状を書いておく用心深さが道誉らしくもある。

 道誉の死は、上記の書状から約半年後の応安6年(文中2、1373)8月25日である。終焉の地は領国近江・甲良荘の勝楽寺であったと見られる。父の危篤を知った高秀は数日前に近江に駆け付けているが、臨終に間に合ったかは定かではない。享年78歳。この急報が翌26日に京にもたらされると、幕府は政務を停止して喪に服し、この幕府創設の宿老の死を悼んだ(三条公忠『後愚昧記』応安6年8月27日)。公家の近衛道嗣は日記『愚管記』「佐渡判官入道導誉他界すと云々、年七十八と云々、前代以来の大名なり」とつづった。ここでいう「前代」とは彼が北条高時に仕えた鎌倉幕府時代以来の大名であることを指すと思われ、道誉が南北朝動乱期を生き抜いた、いわば最後の生き証人のような人物とみなされていたことをうかがわせる。

―文化史上の巨大な足跡―

 佐々木道誉の「怪物」ぶりは軍事・政治の面だけではない。むしろ後世に残した影響という点では文化面における活躍の方が重大であったともいえる。

 道誉の文化面の活躍と言えば、まず筆頭にあがるのが「華道」のルーツである「立花」芸術確立の立役者、というものがある。華道書の古典「立花口伝大事」が道誉が応安元年(1368)にしたためたものとされているのだ。もちろん後世編纂された書物が過去の大人物を作者に見立てる(仮託する)ということはよくあるので実際にこの本を道誉が書いたとは断定できないが、逆に「作者にされてしまう」ほど立花に深くかかわっているとも言える。大原野の花見での桜の巨木を「立花」してみせたという逸話も彼が立花芸術の立役者であったという事実を背景にしている。
 またその大原野の花見で大量の香をたいたとされるが、当時流行していた「香道」にも道誉は深くかかわっていたらしい。「佐々木系図」では道誉の箇所に「香会茶道長人」(香道と茶道の達人であった)との書き込みがあるという。
 「茶道」との関わりも無視できない。上記の文ではカットしたが、細川清氏との対立の時に清氏が七夕の歌会を催して義詮を招くと、道誉が盛大な大茶会を開いて義詮を横取りしてしまったという逸話もある。実際に道誉が使用していた茶器なるものも複数現存しているそうである。

 こうした花・茶・香といったたしなみは道誉が公家たちと交際する中で磨かれたもので、人脈を作る上でも大きな意味を持ったと思われる(花はともかく茶と香はギャンブル要素も高い)。当時身分のある人は文化人としてのたしなみで和歌を詠むのが常識だが、道誉は和歌はあまり残していない。その代わり激しく熱中していたのが「交際の和歌」である「連歌」だった。「五七五」に誰かが「七七」をつなぎ、さらに次が「五七五」をつなぐという、いわば歌のリレーである。
 南北朝時代はこの連歌の大ブーム期で、公家・武家・僧侶も含めてみんな連歌に凝っていた。とくに道誉がその中でもトップランナー的存在であったことは複数の史料からうかがえ、公家界の連歌王・二条良基「道誉が連歌に熱中していたころは誰もが道誉の風情をまねたものだ」と証言している(「十問最秘抄」)
 その二条良基が中心となって編纂した連歌集『菟玖波集(つくばしゅう)』は延文元年(正平11、1356)に完成し、翌年これは後光厳天皇のもと「准勅撰」の扱いを受けた。古典的な和歌集ではなく当時にあってはまだまだ「遊び」の領域だった連歌集を勅撰に准じることには公家界でも抵抗が大きかったが、幕府と朝廷をつなぐ佐々木道誉が半ば強引に「准勅撰」を申し入れて認めさせてしまったという(「園太暦」)。「菟玖波集」には道誉の句が81句入選し、二条良基(87句)に次いで第4位、足利尊氏(68句)を大きく上回っている。

 こうした上流階級の文化ばかりではない。当時はまだ庶民的芸能とみなされていた「猿楽」が高尚芸術「能」に大成してゆくにあたって道誉の関与は大きかった。これは能の大成者・世阿弥の証言「申楽談義」からうかがえる。世阿弥は彼の父・観阿弥が師と仰いだ一忠について、「私自身は一忠を見たことはないが、京極の道誉や海老名の南阿弥陀仏の物語で聞いている」と語っており、道誉が一忠はもちろん観阿弥・世阿弥とも深いかかわりを持っていたことが知られる。とくに世阿弥がその幼少期に道誉から芸の道についてあれこれ教えられたことは確実とみられる。
 近江猿楽の犬王道阿についても、その謡(うたい)を道誉が「きたなき音曲なれども、かかり面白く」(田舎くさい音楽だが、曲調が趣深い)と評し、「日本一」と誉めたと世阿弥は証言する。名生という笛の名手について道誉が「申楽が間延びするのはしらけるが、名生の笛の音は聞いていると時がたつのを忘れてしまうぞ」と評したという話もある(「習道書」)。道誉が相当な音楽鑑賞眼を持っていたことがうかがい知れる。

 保元元年の保元の乱から暦応2年の後醍醐死去までをつづる歴史書『保暦間記』は、史料の少ない鎌倉後期から建武政権期にかけての貴重な同時代史書(延文元年=1356ごろ成立とみられる)として重宝されているが、実は作者の有力候補に佐々木道誉の名が挙がっている。まったく作者不明のこの歴史書だが、内容から作者の手がかりを探すと「執筆時点で出家している」「かなりの学識を有している」「鎌倉幕府末期や建武政権の政治中枢の情勢に異様に詳しい」「元弘の乱に自分も参加したと書いており、かなりの有力武将とみられる」「明らかに一貫して足利尊氏寄りの視点で状況を見ている」「京都周辺の合戦事情は詳しく描くが、九州平定戦にほとんど触れないので尊氏の九州落ちには同行しなかった畿内武士」といった特徴がある。これらの条件から、仮にではあるが「佐々木道誉」の名が挙げられているのだ(和泉書店『校本・保暦間記』解題)。むろん一つの仮説でしかなく証明することはほぼ不可能と思われるが、言われてみると確かに道誉なら書けそうだという気はしてくる。仮にそうだとすると道誉は同時代の貴重な証言者となったとも言えるのだ。

 道誉の生前の姿は、満七十歳の時に息子の高秀が描かせた道誉自賛の肖像画(高秀自身が描いたとの説もある)で今に伝えられている(勝楽寺所蔵、現在は京都国立博物館で委託保存)。七十歳とはいえ恰幅がよくずんぐりむっくりとした体格に、抜け目なさそうな鋭い目つきと面構えは、まさに道誉のイメージそのもの。小説『私本太平記』で道誉を主人公の一人として描いた吉川英治はこの肖像画と対面して「頭に描いたイメージどおり」と感嘆し「初対面でもない気がした」と記している。絵の中の道誉が「やあ、君が吉川氏か」「ずいぶんぼくをいろんなことに使ったね」と道誉から語りかけられた気がしたという(「筆間茶話」)。これに記者として同席し後に作家となった徳永真一郎によると、道誉の子孫の京極家の人に会ったら肖像画にそっくりで驚いたという。

 道誉の墓所は死去の地である近江甲良荘の勝楽寺と、京極家歴代の墓がある近江・米原の徳源寺と二か所ある。徳源寺境内には通称「道誉桜」と呼ばれる桜の巨木があり、道誉が愛でたと伝えられる。もっとも樹齢(300年程度とみられる)から言うとかなり怪しいらしいが、道誉を作者に仮託した「立花」の作品と思えばいいのかもしれない。

参考文献
森茂暁『佐々木導誉』(吉川弘文館「人物叢書」)←本項記事は大半をこの著作に拠った。
同『太平記の群像・軍記物語の虚構と真実』(角川選書)
林屋辰三郎『佐々木道誉・南北朝の内乱と<ばさら>の美』(平凡社ライブラリー)
同『内乱のなかの貴族・南北朝と「園太暦」の世界』(角川選書)
同『南北朝』(創元新書)
佐藤和彦編『ばさら大名のすべて』(新人物往来社)
高柳光寿『足利尊氏』
吉川英治『随筆私本太平記(筆間茶話)』
徳永真一郎『婆沙羅大名』ほか
大河ドラマ「太平記」 ドラマ全編を通じての主要キャラクターとして、陣内孝則が豪快に演じた。第3回で足利高氏にいきなり立花論議をぶつける場面で初登場。何を考えているのか敵か味方かいつまでも分からぬ男で「尊氏殿に天下をとらせてから、わしがそれをとる」と言いつつ、尊氏とは奇妙な友情で結ばれ、倒幕、建武政権打倒、観応の擾乱と常に尊氏の味方として戦う。六波羅攻撃に向かう高氏との腹の探り合い、箱根・竹之下の合戦で戦闘中に「寝返り御免!」と裏切る場面、最終回で尊氏から「生涯の友」と呼ばれて「かなわぬな」と目を潤ませる場面など、忘れ難い名演を残した。原作にある「高氏どうし」の縁は全く触れられず、史実と異なり出家姿ではなく派手な衣装の俗体で通していた(「道誉」と法名で呼ばれることは劇中ではなく、「佐々木判官」と呼ばれていた)。道誉に限らず、このドラマでは出家した人物も俗体のまま通すことが多かったが、やはりなじみの薄い時代のキャラクターたちの個性を際立たせる狙いであったと思われる。
 脚本の池端俊策によるとドラマでは尊氏と道誉の関係を「「スケアクロウ」みたいな尻軽道中」「最後まで二人三脚。全てを自分で背負い新しい時代を作って行く尊氏と、それを「よし、よし」とおだてながらおこぼれを頂戴していく道誉」という形で描こうとしたという。陣内孝則は後年NHKの番組に出演して道誉役について語っているが、楠木正儀との粋なエピソード(尊氏死後の逸話なのでドラマでは描かれない)を聞かされ、たいそう気に入っていたそうである。
その他の映像・舞台 現時点で大河ドラマ以外の映像作品での登場はない。「私本太平記」は二度歌舞伎化されてるにも関わらず道誉の登場はカットされてしまったらしい。昭和35年(1960)の舞台「妖霊星」で守田勘弥、平成14年(2002)の舞台『海敵アジア』で小島弘光が演じた例があるという。
歴史小説では 「太平記」によって南北朝人物としては著名なほうだったと思われるが、北朝方であることからか戦前でも一般ではなじみが薄く、戦後に吉川英治が『私本太平記』において道誉を「もう一人の高氏」として主役級(といってもやや敵役気味)で登場させた時には「佐々木道誉って実在したんですか」との読者からの質問もあったという。なお当サイトでもしばしば使う「道誉=南北朝最大の怪物」という表現は吉川英治の「南北朝随一の時代を通じての怪物」という評に由来する。「私本」で道誉の存在を知った日本人は少なくないようで、吉川の描いた道誉イメージの影響は意外に大きい。
 大河ドラマ「太平記」放映が決まると、それに便乗する形ではあるがドラマで主役級である道誉を主役にする小説も現れた。地元・滋賀県で活動した作家・徳永真一郎が書き下ろした『婆沙羅大名』は小説と言うより歴史談義に近く、吉川英治との思い出や道誉とはあまり関係のない後南朝の話題まで載っている。同じ作者が京極家を含めた近江源氏の通史をまとめた『近江源氏太平記』という作品もある。
 ほぼ同時に山田風太郎が『婆沙羅』を発表している。特に風太郎『婆沙羅』は道誉の生涯を断片的なエピソードを積み重ねて描いていく異色作で、鎌倉末期から義満時代までが描かれた。
 それまで不毛であった南北朝時代歴史小説を連打した北方謙三もずばり『道誉なり』と題した小説で道誉を主役に据えた。道誉を中心に尊氏の死と義満の誕生までが描かれ、道誉と尊氏の友情小説の観もある。
 ほかに三種の神器をめぐる闇の攻防を描く松本利昭『虚器南北朝』、文観を主役にした『婆沙羅太平記』でも道誉が重要な位置づけで登場する。道誉の生涯をダイジェストで読める羽生道英『佐々木道誉』がある。賀名生岳『風歯』は南北朝時代の歯医者を主人公とした異色作で、第二話の患者が道誉である。
 安部龍太郎『道誉と正成』はタイトルの通りお互いを認め合う道誉と正成の対決を描く作品で、二人揃って史実をかなり離れた活躍をする(二人が瀬戸内海で海戦する場面まである)。正成の死により話が終わってしまうので道誉の本領発揮のところまでいかないのが残念。
 その他、南北朝の通史的小説にはほぼ必ず登場するが、現時点では列挙を避ける。
漫画作品では 学習漫画系ではチラリとではあるが登場例が多い。とくに「バサラ大名」の説明をする際に高師直と並んで登場する例が多い。小学館版「少年少女日本の歴史」では大笑いしているカットが1つあるだけ。最新の集英社版では妙法院焼き打ちのシーンがある。
 石ノ森章太郎「萬画日本の歴史」では登場場面がかなり多いが、道誉の着る「派手な衣装」が大河ドラマの衣装のデザインと瓜二つなのが気になるところ(ただし道誉はちゃんと法体)。この漫画の製作段階でドラマの陣内孝則の衣装デザインが何らかの形で流れていたとしか思えない。この漫画のシナリオを大河の中盤以降の一部シナリオを担当した仲倉重郎氏が担当しているのでその縁でかもしれない。
 さいとう・たかを「太平記」(全3冊、マンガ日本の古典)では意外にも「婆沙羅」エピソードは触れられず、道誉の登場シーンは手越河原の戦いでの降参、箱根・竹之下の戦いでの寝返りのみである。尊氏の死で話を終わりにしてしまったことも彼の登場が少ない原因だ。
 長岡良子の「古代幻想シリーズ」の一作「天人羽衣」は道誉ファン必見の一作。能楽草創期を少年時代の犬王道阿弥を主人公に描いた異色作で、道誉は一目で少年犬王の才能を見抜いて彼に徹底的に教育を施していく。犬王の目から道誉の文化面・政治面での怪物ぶりが描かれてゆき、「つかの間の美でよいではないか。修羅のこの世にひとときの浄土を現出させよ」という道誉の達観した芸術論が強烈。
 大河放送とタイアップして書かれた横山まさみち「コミック太平記」では、尊氏編で道誉の登場シーンが多い(こちらは俗体のままだった)。早くから将来を考えてか足利高氏に謎めいた接近をし、直冬の母となる女性について高氏に「女一人御せぬようでは天下など」とささやくシーンがあるのだが、ページ数の都合かその話はそれきりになっている。また足利軍が九州に敗走する時に兵士たちが足利の「二つ引き両」の旗印の白身を塗りつぶして新田の「大中黒」にしてしまったという逸話はこの漫画では道誉がしたことになっている。このなお、このコミックにおける道誉のデザインはそのまま下記のCD−ROMゲームでも使われている。
 岡本賢二『劇画・私本太平記』は吉川英治の原作にほぼ沿って道誉が序盤から活躍するが、まるで「エリマキトカゲ」を思わせる強烈な外観になっていた。ある意味存在感は原作以上だが、ハイペースな原作消化と、事実上の打ち切り・他誌移行措置のために後半出番がかなり減ったのが惜しまれる。
河部真道『バンデット』ではいずれ主要キャラにする気があったのだろうか、前半の途中、主人公たちが近江を突破する際に顔見せ程度に登場している。
PCエンジンCD版 近江国の北朝系独立勢力君主として登場。初登場時のデータは統率89・戦闘94・忠誠71・婆沙羅99である。「婆沙羅」数値の異常な高さは当然と言えば当然なのだが、このゲームでは「婆沙羅」は「裏切りやすさ」の数値とも言え、ホイホイと寝返って南朝・北朝を自由自在に動き回る上に敵に回すと強力、しかも京のすぐ脇という地理的位置にいるのでかなり厄介な存在である(だからプレイヤーは道誉の勧誘にかなりエネルギーを費やされる)。実兄の貞氏、三男の高秀を配下に置いている。
 オープニングビジュアルで北条高時の宴の場面に登場しており、キャラデザインは横山まさみちのコミック版をもとにしている。オープニングとゲーム中で声が聞けるのだが、担当声優は不明。
PCエンジンHu版シナリオ1「鎌倉幕府の滅亡」で宮方武将として近江・草津城に登場し、能力は「長刀2」とかなり非力。シナリオ2「南北朝の動乱」ではなぜか「佐々木高氏」の名で登場、北朝系武将で能力は同じ「長刀2」である。このゲームでは2つのシナリオ両方に登場する武将はいない作りになっているのだが、道誉のみ「法名」「俗名」の使い分けで唯一の両シナリオ登場キャラとなった。こんなあたりも道誉っぽい(笑)。
メガドライブ版基本的に足利方武将として登場、六波羅攻撃から中先代の乱、箱根・竹之下合戦、京都攻防戦のシナリオで登場する。初登場時データは体力70・武力121・智力117・人徳78・攻撃力66。 キャラデザインは俗体、しかも顔に大きな刀傷のある強烈なもの。
SSボードゲーム版武家方の「武将」クラスで登場、勢力地域は「北畿」で合戦能力2・采配4とあまり目立たない。ユニット裏は三男の高秀。

佐々木時信ささき・ときのぶ1306(徳治元)-1346(貞和2/興国7)
親族父:佐々木頼綱 兄弟:佐々木頼明・佐々木宗信・佐々木成綱・佐々木宗綱
妻:長井時千の娘
子:佐々木氏頼・佐々木直綱・佐々木光綱・山内信詮
官職左衛門尉・検非違使・備中守・近江守
幕府近江守護
建武の新政雑訴決断所七番(南海道担当)奉行人
生 涯
―六波羅軍主力として転戦―

 佐々木氏の嫡流である六角系の当主で佐々木頼綱の子とされるが、実際には頼綱の子・盛綱の子であり、祖父の養子となったという。「三郎」と称した。延慶3年(1311)に父・頼綱が死去したが、長兄の頼明は霜月騒動に巻き込まれて廃嫡され、他の兄も早世していたためにまだ6歳の幼い時信が家督と近江守護職を継ぐことになった。正和3年(1314)に元服し、左衛門尉・検非違使に任じられ、主に京の警備を担当、六波羅探題軍の主力をつとめるようになる。
 元亨4=正中元年(1324)2月に時信は六波羅探題から伊賀国の悪党を討伐するよう命じられた。しかし時信は自ら守護を務める近江国の悪党討伐を理由にこれを断っている。

 その年の9月19日、後醍醐天皇の倒幕計画が発覚し、その参加者であった多治見国長の京屋敷を六波羅軍が攻撃した際、時信の部隊が屋敷の裏手から民家を破壊して決着をつけたという(『太平記』)
 元徳2年(1330)3月に後醍醐が奈良への行幸を行った際はその橋渡し役(浮橋を渡す役)を務めた。翌元徳3年(元弘元、1331)8月に後醍醐がついに倒幕の挙兵をし、護良親王を擁した比叡山がこれに応じて僧兵を繰り出すと、時信は六波羅軍を率いて琵琶湖の唐崎浜でこれと戦った。やがて後醍醐が笠置山で敗れ、その腹心たちが各地で捕えられて京に送られてくると、時信は後醍醐の長男である尊良親王二条為明を自らの屋敷に預かっている。その尊良と為明が土佐へ配流と決まると時信がその護送役をつとめた。

 やがて各地の倒幕活動が盛んになると時信も六波羅軍の主力として各地に転戦している。正慶2年(元弘3、1333)に入って播磨の赤松円心が挙兵すると、閏2月に時信は小田時知らと共に六波羅軍を率いて円心のこもる摩耶山城を攻めたが敗北、勢いに乗って京へ押し寄せてきた赤松軍と戦い、さらに赤松軍に呼応してきた千種忠顕の軍とも戦う。
 一進一退の攻防となったが5月7日に足利高氏が倒幕側に寝返ったことで六波羅は陥落、北条仲時以下六波羅勢は光厳天皇ら持明院統皇族を擁して関東を目指すことになった。一行は時信が守護を務める近江に入れば大丈夫とあてにしていたらしいが、時信はこの一行のしんがりをつとめているうちに「仲時以下、番場の宿で野伏の襲撃にあい一人も残らず討たれてしまった」との誤報を受け、「もはやどうしようもない」と愛智川から引き返して京都に向かい、後醍醐側に降参してしまった。番場の宿で時信の到着を待っていた仲時らは彼がいつまで経っても来ないことに絶望し、集団自決してしまうことになる。
 以上は『太平記』が伝える経緯であるが、時信が仲時らの集団自決に加わらず命を拾う結果になったのは単に「誤報」によるものとは思えないフシもある。疑われるのは同族で同じく近江に拠点をもつ佐々木道誉の存在で、道誉は高氏と組んで六波羅勢の東国行きを阻止した可能性が高く、同族の時信に降伏を勧めるのも自然なことであろう。六波羅軍の主力だったはずの時信が建武政権において「雑訴決断所」の奉行人に道誉ともども名を連ねているのもその証拠と思われる。

 だがやはり六波羅軍を最後の最後で見限って命を拾ったことが精神的にこたえたのだろうか、建武3年(1336)までにまだ幼い息子の氏頼に家督と近江守護職を譲っており、恐らくそれと同時期に出家として「玄派」と号すようになった。ほとんど隠居状態だったらしいのだが、暦応4年(興国2、1341)正月に時信の呼称である「佐々木近江入道」が足利直義の命で南朝方の雑賀西阿を討つべく大和へ出陣していることが確認できるが、同じ呼ばれ方をしていた京極家の佐々木貞氏(道誉の兄)の可能性がある。
 貞和2年(正平元、1346)8月26日に41歳で没した。法名は「大光寺殿別渓玄派」。
メガドライブ版足利帖でプレイすると最初の「六波羅攻撃」のシナリオで敵の六波羅軍に「六角時信」として登場する。能力は体力50・武力94・智力77・人徳58・攻撃力78

佐々木秀詮ささき・ひであき?-1362(貞治元/正平17)?
親族父:佐々木秀綱 
兄弟:佐々木氏詮
子:佐々木秀頼
官職左衛門尉・検非違使
生 涯
―楠木軍に敗れ戦死―

 京極佐々木氏の佐々木秀綱の子で、有名な佐々木道誉の孫にあたる。「太郎」と称した。
 文和2年(正平8、1353)6月に父・秀綱が南朝側との戦いで戦死。父のあとを受けて京極家の嫡流として同家が代々つとめた左衛門尉・検非違使に任じられる。延文3年(正平13、1358)12月に足利義詮が第二代の征夷大将軍に任じられた際、秀詮は義詮を将軍に任じるとの朝廷の宣旨を受け取る大役を果たした。祖父・道誉の威光によるものであろうし、京極家の後継者としての立場を周囲に示すものでもあったはずである。
 康安元年(正平16、1361)の4月17日の賀茂祭に秀詮は検非違使として参加したが、その装いは「近年比類なし」と称されるほど人目を引くものであったという。こういうところも婆沙羅大名の祖父譲りだったのだろうか。

 この年に祖父・道誉が摂津守護となると、秀詮は守護代の立場で摂津に入り、折から摂津に侵攻していた南朝方の楠木正儀和田正武らを討つべく弟の氏詮と共に摂津神崎橋に出陣した。『太平記』巻36の記述によれば、道誉の重臣である吉田厳覚が若い秀詮兄弟を支えて出陣したが彼は楠木勢をなめてかかって神崎橋を一気に渡ってしまい、そこへ楠木勢が佐々木軍に紛れこんで「敵は後ろから攻めてくる」と呼ばわったので秀詮らは「敵は方向を変えて来たか」と橋の手前へ引き返してしまい、軍勢を分断されてしまった。楠木勢の足軽・野伏によるゲリラ攻撃を受けて佐々木軍は崩壊し、厳覚が慌てて逃げる際に敵に追われぬように橋板の一部を落としてしまったため、多くの兵が川に落ちた。秀詮・氏詮は橋のたもとまで逃げてきたが佐々木家臣の県次郎(「赤田」とする本あり)が「橋が落とされています。もはやこれまで、引き返して討ち死にいたしましょう。お供いたします」と言ったため、秀詮らは引き返して楠木軍に突入して即座に戦死してしまった。
 この戦いについて、『太平記』は康安元年(正平16、1361)9月28日のこととしている。しかし『尊卑分脈』などでは秀詮の戦死を翌年の貞治元年(正平17、1362)8月のこととしており、前後の事情からも貞治元年のことと見た方がよさそうである。なお、『太平記』は秀綱とその子の秀詮・氏詮がそろって戦死したことについて妙法院焼き打ちの報いであると筆誅を加えている。
 秀綱・秀詮父子がともに戦死したため京極家督は秀綱の弟の高秀が継ぐことになるが、秀詮の遺児・秀頼の存在がやがてお家騒動を引き起こすことになる。

佐々木秀綱ささき・ひでつな?-1353(文和2/正平8)
親族父:佐々木道誉
兄弟:佐々木秀宗・佐々木高秀
子:佐々木秀詮・佐々木氏詮
官職左衛門尉・検非違使・近江守
位階従五位下→従五位上
幕府上総守護・引付衆・侍所頭人
生 涯
―あっけなく戦死したバサラな道誉の息子―

 ばさら大名として有名な佐々木道誉(高氏)の嫡男で「源三」と称した。生母、生年ともに不明であるが、建武元年(1334)9月27日の後醍醐天皇の賀茂社行幸の際に足利尊氏につき従って随行した兵の中に「佐々木源三左衛門尉秀綱」の名があり、この時期には少なくとも元服していたことになる。1320年前後の生まれではないだろうか。建武政権の時点ですでに足利尊氏につき従っているのは尊氏との結びつきを強めようとした父・道誉の意向を受けたものだろう。
 南北朝分裂直後の建武4年(延元2、1337)正月に南朝側の勢力が伊賀から近江の信楽に進出した際、秀綱が「伊賀路大将」としてその掃討にあたっている。この年の暮れに秀綱が越前国田中荘を与えられているのはこの時の戦功に対する恩賞と見られている。やがて佐々木氏が代々つとめた検非違使にもなり、父と区別して「佐々木新判官」と呼ばれるようになる。京の治安を守る検非違使として暦応3年(興国元、1340)には賀茂祭の行列に加わっている。

 その暦応3年10月6日に秀綱は事件を起こす。秀綱は一族若党らと共に紅葉狩りに出かけ、父親同様に「ばさら」な風流を楽しんできたが、その帰りに妙法院の前を通りかかった際にその庭にあった紅葉の枝を下人に命じて折らせた。妙法院は比叡山延暦寺に直属し門主は皇族(この時は光厳上皇の弟・亮性法親王)という重要な寺で、そこは「御所」とさえ呼ばれていた。寺僧は当然無視できず「御所の紅葉をそのように折るのは何者か」ととがめたが、秀綱らは「何が御所だ。片腹痛いことを言いおる」と言ってもっと大きな枝を折らせた。怒った寺側は僧兵を繰り出して紅葉の枝を奪い返し、秀綱らを追い出したが、この一件を息子から聞いた道誉は激怒して軍勢を率いて妙法院に押し寄せ、火を放って焼き払ってしまう。
 この暴挙に比叡山は当然激怒し、神輿を押し出して強訴におよび、幕府も12月になって道誉を上総へ、秀綱を陸奥へ流刑することに決定する。二人は都を離れたが、実際に流刑先まで行くことはなく、近江あたりでほとぼりが冷めるのを待っていただけのようだ。康永3年(興国5、1344)3月には父・道誉と共に幕府の引付方のメンバーとなり、幕府中枢にも顔を出すようになってくる。翌貞和元年(興国6、1345)8月29日の天竜寺供養では検非違使として寺門警固の役にあたった。

 貞治3年(正平2、1347)11月、このころ活動を活発化させていた楠木正行の軍を討つべく河内東条へ出陣。翌貞治4年(正平3、1348)正月に四条畷の戦いがあり、これに父・道誉と共に参加して勝利したが、その後2月に大和方面で掃討戦をするうちに南朝方の野伏の奇襲を受け、秀綱と道誉が負傷した上に、弟の秀宗を戦死させてしまった。
 翌貞治5年(正平4、1349)8月に幕府内の高師直派と足利直義派の対立が頂点に達し、師直がクーデターを起こして直義を失脚させる騒ぎとなるが、このとき秀綱は師直の屋敷に駆けつけて旗幟を鮮明にしている。以後の「観応の擾乱」では、父の道誉ともども一貫して尊氏・義詮派で行動した。この間の観応元年(正平5、1350)3月に秀綱は近江守に任じられている。
 擾乱が一段落した文和元年(正平7、1352)には幕府の侍所頭人の重職を務めており、これも常に尊氏・義詮側で戦ったことへの見返りと見られる。この年の11月に直義派から南朝方に転じた石塔頼房を討つべく弟の高秀と共に摂津に出陣したが、これは敗北に終わっている。

 翌文和2年(正平8、1353)6月、山陰の山名時氏が南朝につき、楠木正儀・石塔頼房らと京を攻撃した。足利義詮は京を放棄し、後光厳天皇を擁して近江に逃れたが、6月13日に琵琶湖畔の堅田で堀口貞祐(堀口貞満の遺児)率いる南朝方の野伏の襲撃を受け、その戦いの中で秀満はあっけなく戦死してしまった(『太平記』)。『太平記』はこの秀満のあっけない最期を妙法院焼き打ちの報いであるかのように書いているが、『太平記』作者は明らかに比叡山寄りの人間であり、かなり恣意的な筆誅といっていい。
 道誉にとっては痛恨の後継者の死であった。秀綱の死により、道誉後継者は末弟の高秀に引き継がれる。

参考文献
森茂暁『佐々木導誉』(吉川弘文館人物叢書)
PCエンジンCD版佐々木道誉の家臣扱いで、1338年になると元服して父・道誉のいる国に登場する。初登場時のデータは統率85・戦闘76・忠誠90・婆沙羅77。 「婆沙羅」数値の高さはやはり妙法院焼き打ちの一件のためか。

佐々木秀満ささき・ひでみつ生没年不詳
親族父:佐々木高秀 
兄弟:佐々木高詮・尼子高久
官職左衛門尉
生 涯
―応永の乱で挙兵―

 京極佐々木氏の佐々木高秀の子で「五郎左衛門」と称した。兄の高詮が同族の六角佐々木氏の佐々木氏頼の養子となって六角家に入ったことで、本来なら秀満が京極家を継ぐはずであった。しかし永和3年(天授3、1377)に高詮が近江守護職を解かれて六角家からも追われて京極家に帰って来たことで秀満の運命は狂ってしまう。

 その後もしぶとく家督奪取の機会をうかがっていたのだろう(こういうパターンはこの当時どこの家でもみられる)。応永6年(1399)に大内義弘の反乱「応永の乱」が起こると、秀満はこれに呼応して近江で挙兵した。このとき義弘には美濃の土岐詮直も呼応し、関東の鎌倉公方・足利満兼も同時に反義満の軍事行動を起こしており、義弘が事前に連絡して各地で同時に挙兵させたものとみられる。かねて家督奪回を狙っていた秀満の目には大きなチャンスと映ったのだろう。
 秀満の軍は京を目指して森山に打って出たが、三井寺の衆徒が勢多の橋を落として行く手をふさいだ。秀満が動けないでいるうちに京から京極本家の軍勢が近江へ進軍、勢多の橋をかけて秀満軍に襲いかかったため、数ではかなわない秀満は土岐詮直と合流しようと美濃へと逃れた。ところがその途中の垂水で「土一揆」の勢力(実質「落ち武者狩り」であろう)に襲われて家臣をほとんど討ち取られ、秀満と家臣一人の二人だけでいずこへともなく逃亡していったという。その後の行方は不明である(『応永記』)

佐々木秀宗ささき・ひでむね1328(嘉暦3)?-1348(貞治4/正平3)
親族父:佐々木道誉(高氏) 母:二階堂時綱の娘 
兄弟:佐々木秀綱・佐々木高秀
官職左衛門尉
生 涯
―南朝との戦いで戦死した道誉の次男―

 佐々木道誉の次男とされ、「四郎左衛門」と称した。『尊卑分脈』によれば生母は二階堂時綱の娘である。『諸家系図纂』では貞治3年に21歳で戦死となっていて、そのまま計算すると嘉暦2年(1327)の生まれとなるのだが、実際の彼の戦死は貞治4年のことであり、その時点で本当に21歳だったかどうか疑念もある。おおむねそのあたりの生年と考えておくしかないだろう。

 康永元年(興国3、1342)12月5日の天竜寺での儀式において足利尊氏に随行する武士の中に「佐々木佐渡四郎右衛門尉」の名があり、これが秀宗の可能性があるという(実際には秀宗は左衛門尉だが、「佐渡」は道誉やその父宗氏が佐渡守であることに由来する、いわば家の名前である)。貞和元年(興国6、1345)8月の尊氏・直義兄弟の天竜寺参詣の随行者の中にも「佐々木佐渡四郎左衛門尉」がおり、これは確実に秀宗であると見られる。

 貞治4年(正平3、1348)正月に父道誉・兄秀綱と共に四条畷の戦いに参加、楠木正行率いる南朝軍を撃破した。しかしその後大和方面へ赴いて南朝勢力の掃討にあたるうち、2月8日に大和国水越峠で野伏の襲撃を受け、道誉と秀綱が負傷したうえ、秀宗自身は戦死してしまった(『常楽記』は秀宗の死を貞治4年2月9日とする)

参考文献
森茂暁『佐々木導誉』(吉川弘文館人物叢書)

佐々木満高ささき・みつたか1369(応安2/正平24)-1416(応永23)
親族父:佐々木氏頼 
兄弟:佐々木満高 妻:足利基氏の娘?
子:六角満綱
官職左衛門尉・備中守・左京大夫
幕府近江守護
生 涯
―義満の弟?説もある六角当主―

 六角佐々木氏の佐々木氏頼の子。幼名は「亀寿」で、「四郎」と称した。父・氏頼の死の前年に生まれたとされること、それより4年前の貞治4年(正平20、1365)4月に足利義詮の側室・紀良子(足利義満の生母)が男子を産んだがすぐに死んだとされている(「師守記」)ことなどからか、「満高は実は義満の同母弟」との説が、六角氏関係者で書かれた形跡のある『足利治乱記』といった史料に出てくる。ただし『足利治乱記』自体が六角氏を顕彰する意図をもった信用度の低い史料であり、六角氏の「箔付け」に話を作った可能性もある。

 応安3年(建徳3、1370)6月に父・氏頼が45歳で死去。亀寿が幼かったため京極家から養子にとっていた佐々木高詮(道誉の孫)が亀寿成人までの後見役として近江守護をつとめた。しかし同族とはいえ「遠い親戚」である高詮に対する六角一族・家臣の反発は強かったようで、永和3年(天授3、1377)9月に高詮は非法の振る舞いがあったとして管領・細川頼之により近江守護職を奪われたうえ京極家に戻され、亀寿が六角家家督と近江守護職を継ぐことになった。
 康暦元年(天授5、1379)に細川頼之と対立した京極家の佐々木高秀が挙兵すると、亀寿は将軍足利義満の命を受けてその討伐にあたり、この年3月に高秀の本拠地・近江国甲良荘を攻撃して高秀を追い落としている。

 山名一族の反乱「明徳の乱」、および大内義弘の反乱「応永の乱」で幕府軍の一員として出陣した。四代将軍・足利義持の時代の応永17年(1410)に飛騨の姉小路尹綱の討伐を命じられたが従わなかったため、一時近江守護を解任されたものの半年後には復帰している。
 晩年に出家して「崇寿」と号した。応永23年(1416)11月17日に死去している。
SSボードゲーム版父・佐々木氏頼のユニット裏で、父の死後に登場。「武将」クラスの勢力範囲「北畿」で、合戦能力1・采配能力2

佐々木宗氏ささき・むねうじ1269(文永6)?-1329(嘉暦4)
親族父:佐々木満信  
兄弟:黒田宗満
妻:佐々木宗綱の娘
子:佐々木貞氏・佐々木高氏(道誉)・佐々木貞満・佐々木秀信・佐々木時満・佐々木経氏
官職左衛門尉・検非違使・佐渡守
幕府評定衆
生 涯
―歌人として知られた道誉の父―

 京極佐々木氏の佐々木満信の嫡男で、「三郎」と称した。主として鎌倉に在住し鎌倉幕府の有力御家人の一人として評定衆メンバーとなっていた。応長元年(1311)10月26日に得宗・北条貞時の死にともなって出家し、「賢観」と号している。元応元年(1319)閏7月に二階堂行海(政雄)と鎌倉幕府の使者として京に上り、南都北嶺(奈良寺社と比叡山)のことについて朝廷に要請を行っている。
 歌人としても実績を残しており、『続千載集』『続後拾遺集』『新千載集』『新拾遺集』の四つの勅撰和歌集に合計七首の和歌を採用されている。また息子の道誉(高氏)がその編纂に関わった連歌集『菟玖波集』(1356完成)にも宗氏の連歌五句が収録されている。道誉の文化的教養もこの父の薫陶が大きかったのかもしれない。
 元徳元年(1329)7月16日に、享年61歳で没した。

参考文献
森茂暁『佐々木導誉』(吉川弘文館人物叢書)

佐々木義信ささき・よしのぶ1349(貞治5/正平4)-1365(貞治4/正平20)
親族父:佐々木氏頼 
兄弟:佐々木満高
幕府近江守護
生 涯
―幼少期に近江守護をつとめる―

 六角佐々木氏の佐々木氏頼の子。幼名は「千手」
 観応2年(正平6、1351)6月に父・氏頼が「観応の擾乱」のなかで対処に困って出家してしまったためにわずか三歳で家督を継いだ。近江守護職はいったん叔父の山内信詮が引き継いだが、翌文和元年(正平7、1352)には「佐々木千手」が形式上近江守護となっており、信詮はその実務を代行している。結局文和2年(正平8、1353)8月には氏頼が近江守護に復帰した。
 貞治元年(正平17、1362)12月に将軍・足利義詮の加冠により元服、「義」の一字を与えられて「義信」と名乗り、義詮の猶子(養子)の扱いを受けた。しかし病気がちであったらしく、貞治4年(正平20、1365)11月8日に17歳の若さで死去。その時点では氏頼に子がなかったため、氏頼は京極佐々木氏から佐々木高詮を養子にとり近江守護職を継がせた。

佐々目憲法ささめ・けんぽう生没年不詳
生 涯
―建武政権に反乱を起こした北条一門の僧―

 北条一族出身とされる僧。『太平記』では「佐々目憲法僧正」と書かれている。建武元年(「1334)10月に六十谷彦七定尚らに奉じられて紀州・飯盛山に城を構えて挙兵した。この反乱の平定のために楠木正成斯波高経小田時知らが派遣され、建武2年(1335)正月に六十谷定尚が討ち取られて反乱は鎮圧されたが、佐々目憲法の行方については不明である。
 「佐々目」を冠する僧侶に北条一族が多いのは事実で、中には鎌倉で北条高時らに殉じた者もいる。『太平記』巻2には奈良・東大寺の西室に「顕実」という北条一族の僧がいたことを伝えていて、古態の西源院本ではこれが「顕宝(けんぽう)」と書かれていることから、これが「憲法」と同一人物とみる説もある。

佐々目頼禅ささめ・らいぜん生没年不詳
生 涯
―幕府呪詛の祈祷と判定―

 出自は不明の人物だが、鎌倉の佐々目谷にあった佐々目遺骨院の僧と推定され、「佐々目」を冠して呼ばれる僧侶は北条一門の出身者の可能性が高い。
 元徳3=元弘元年(1333)5月に後醍醐天皇の討幕計画が再び発覚し、幕府調伏の祈祷を行った容疑で円観文観忠円らが捕縛され6月に鎌倉に連行された。このとき彼らが使っていた本尊や護摩壇の形を絵に書き写し、専門家である佐々目頼禅を呼んで判定させたところ、「まぎれもなく調伏の祈祷である」と断定したという(「太平記」)

佐介流(さすけりゅう)北条氏
 北条一門の一つで、六波羅探題南方の二代目をつとめた北条時盛を祖とする。時盛の屋敷が鎌倉の「佐介が谷」にあったことからその子孫が「佐介流」と呼ばれることになったが、時盛の弟・朝直の系統「大仏流」の台頭で佐介流は北条一門の中でもかなり低い扱いになってゆく。この系統からは謀反の疑いをかけられ粛清された者も複数出ており、幕府滅亡時にも早めに後醍醐側に投降する者も出ている。

北条時政
┬義時得宗


┌国房


└時房┬朝直
大仏流

├時元



├時盛
┬時員─
─時国
┴貞資



├時定
│政氏─
─盛房┬貞高



├資時
├時光

├貞尚



├時景

└宣房




├時治






└時親─
┬時方




├時村
─時広
├時家






└時継




└時直
─清時─
時俊
貞俊
─宣俊

佐介越前守さすけ・えちぜんのかみ生没年不詳
官職
越前守
生 涯
―円観の身柄を預かる―

 北条氏佐介流の一人だが、実名は不明。「有時」とする『太平記』版本があるがこれは安達越前守有時との混同と思われる。元亨3年(1323)の北条貞時十三回忌供養の記録に「佐介越前前司」として名が載っている。
 『太平記』によると、元徳3=元弘元年(1331)5月に後醍醐天皇の討幕計画に関与したとして円観ら僧侶たちが捕えられて鎌倉に連行されたとき、円観の身柄を預かったのが「佐介越前守」であった。『太平記』では佐介越前守が円観に拷問を行うことを伝えようとしたところ、灯をつけた部屋の中で座禅を組む円観の影が障子に映り、それが不動明王の姿に見えた。越前守がこれを北条高時に伝えると高時自身も怪しい夢を見ていたため拷問をとりやめたという。
 その後、正慶2年(元弘3、1333)2月末に楠木正成のこもる千早城を攻略するからめ手軍を率いて奈良路へ出陣している(「楠木合戦注文」)。その後の消息は不明。

佐介上総介さすけ・かずさのすけ生没年不詳
生 涯
―元弘の乱で赤坂城攻めに参加?―

 『太平記』流布本の巻3、後醍醐天皇の笠置挙兵や楠木正成の赤坂城挙兵を鎮圧するために関東から派遣された幕府軍の中に名がみえる武将だが、実名は不明である。しかも西源院本など古本にはその名が見えず、そもそも参加していたかすら分からない。

佐介貞俊さすけ・さだとし?-1334(建武元)?
親族
父:佐介時俊
子:佐介宣俊
官職
上野介・安芸守・右京亮
生 涯
―誘いに乗って投降するも処刑された歌人武将―

 北条氏佐介流。『前田本平氏系図』によれば佐介時俊の子。『太平記』流布本では「貞俊」だが、西源院本など一部に「宣俊」とするものがある。正和2年(1313)に時宗の他阿上人と和歌を通して交流があったことが確認できる。
 『太平記』巻11によると、鎌倉幕府の滅亡直前に千早城を攻略する幕府軍の中にあったが、貞俊はかねてより幕府の中で重用されていないことに不満を抱いていた(北条一門の中でもかなり傍流であった)。そこへ後醍醐天皇側近である千種忠顕から投降を誘う綸旨が送られたため、貞俊はすぐそれに乗って投降、5月初めに他の幕府軍首脳より先に京に入った。しかし畿内の幕府軍首脳が全て投降すると貞俊も同列の扱いとなり、阿波国へ流刑にされてしまう。さらに北条残党の一掃が始まると(「太平記」は時期を書かないが建武元年の可能性が高い)、貞俊も斬首の刑に処された。
 死に際して、鎌倉にいる妻へ形見の短刀と自らが最期に着ていた小袖を届けてくれるよう時宗の聖に頼むと、「世にありし 時には人の 数ならで 憂きには漏れぬ わが身なりけり」(生きている時は一門の数にも数えてもらえなかったが、悲運については漏らさず一緒にされたわが身であることよ)と詠んで首を打たれたという。この歌により後世「英雄百人一首」に選ばれているほか、南北朝時代に北朝で編纂された勅撰和歌集『新千載和歌集』にも入選している。

佐介貞俊の妻さすけ・さだとしのつま?-1334(建武元)?
親族
夫:佐介貞俊
生 涯
―夫のあとを追い自害―

 『太平記』巻11に登場する女性。出自などは全く不明である。
 夫の佐介貞俊は千早城攻略軍に参加していたが六波羅探題滅亡直前に討幕側に投降。しかしその後阿波国に流され、さらに北条一門の一掃が決定されて建武元年(1334)に入ってから処刑されてしまった。貞俊は鎌倉で留守を守る妻へ短刀と最期に着ていた小袖を時宗の聖に託し、聖はようやく貞俊の妻を探し当てて形見の品を渡した。貞俊の妻は形見の品を見て涙にくれて寝込み、寝ながら硯と筆をとりよせて形見の小袖に「誰見よと 形見を人の 送りけん 堪へてあるべき 命ならぬに」(誰に見せようと形見をわざわざ届けてきたのか。その悲しみに生きて耐えられるはずもないのに)と歌を書きつけると、小袖を頭からかぶって短刀で自らを突いて自害してしまった。
 『太平記』巻11に多く収録された鎌倉幕府滅亡時の哀話の一つだが、特に貞俊の妻は儒教的な「烈女」の例として後世称えられるようになった。
 
佐介遠江守さすけ・とおとうみのかみ生没年不詳
官職
遠江守
生 涯
―文観の身柄を預かる―

 北条氏佐介流の一人だが、実名は不明。
 『太平記』によると、元徳3=元弘元年(1331)5月に後醍醐天皇の討幕計画に関与、幕府を呪詛したとして僧侶たちが捕えられて鎌倉に連行されたとき、その中の一人・文観の身柄を預かったのが「佐介遠江守」であった。それ以外の事績は確認されていない。

佐介時俊さすけ・ときとし?-1334(建武元)
親族
父:佐介清時
子:佐介貞俊
官職
安芸守
位階
従五位下
幕府
評定衆
生 涯
―投降するも処刑―

 北条氏佐介流。『前田本平氏系図』によれば佐介清時の子で、従五位下・安芸守。延慶3年(1310)に鎌倉幕府の評定衆に「安芸守」の名があり、これが佐介時俊であるとみられる。
 『太平記』によると鎌倉幕府の滅亡時、千早城を攻略する幕府軍の中にあり、息子の貞俊千種忠顕からの誘いがあったため先に投降、時俊も阿曽時治ら他の幕府軍首脳と共にいったん奈良に入り、6月にここで出家、投降した。
 しかし翌建武元年(1334)3月21日に投降した他の武将らと共に阿弥陀ヶ峰で処刑された(「太平記」は前年7月9日とするが、『梅松論』および『近江番場蓮華寺過去帳』による)

佐介宗直さすけ・むねなお?-1333(正慶2/元弘3)
官職
近江守
生 涯
―東勝寺集団自決の一人―

 『太平記』巻10の、鎌倉・東勝寺で北条一門や家臣らが集団自決する場面で名が挙がっている人物。「佐介近江前司宗直」とあるが、それに該当する人物は判明していない。北条氏佐介流ではなく、大仏流に「宗直」がいるので彼のことを指しているのかもしれない。


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