塩冶氏は近江国の佐々木氏の支流で、南北朝時代を代表する武将・
佐々木道誉と同族。佐々木氏は鎌倉初期に出雲の守護となり、隠岐も含めた山陰地方に根を張り、このうち出雲国神門郡塩冶に本拠を置いた佐々木氏を
「塩冶氏」と呼ぶ。代々出雲守護職を継承した塩冶氏で南北朝動乱期に当主となったのが高貞である。検非違使・左衛門尉をつとめたので
「塩冶判官(えんやはんがん)」と呼ばれた。
元弘2年(正慶元、1332)、前年の倒幕挙兵に失敗して囚われた
後醍醐天皇が隠岐に流刑となった。このとき護送役の一人に佐々木道誉が選ばれているのは目的地・隠岐の守護が
佐々木清高、本土からの出港地出雲の守護が塩冶高貞であったことによると思われる。
ところが各地で倒幕活動が続く中で翌年(1333)閏2月に後醍醐が隠岐を脱出する。このとき隠岐守護・佐々木清高の同族である
佐々木義綱(富士名判官)が後醍醐の脱出の手引をしたとされるが、
「太平記」によれば義綱は脱出の実行前に出雲に渡り同族の塩冶高貞に協力を求めた。しかし塩冶は「何を思ったか」
(太平記の記述)義綱を捕縛し、隠岐に返さなかった。結局義綱の帰還を待ちきれず後醍醐は隠岐脱出を実行するのだが、高貞としては幕府に忠実であったというよりは慎重に時勢を見極めようとしていたのだろう。
隠岐を脱出した後醍醐は伯耆国の
名和長年を頼って船上山に挙兵。隠岐から追って来た佐々木清高は出雲に上陸して高貞に協力を求めたが、高貞はすげなく断っている
(「梅松論」)。まだ情勢を見ようとしていたのだろうが、すでに時勢の流れを読んでいたようだ。やむなく清高は自軍のみで船上山を攻めたが大敗を喫して逃亡、これを知った高貞は義綱を伴って大急ぎで船上山に馳せ参じ、以後は倒幕軍に加わることになった。
建武の新政に早くもほころびが見え始めたころ、「太平記」はその破綻の予兆として一頭の駿馬の逸話を記す。塩冶高貞が出雲から駿馬を一頭献上し、洞院公賢はこれを「吉兆」とことほいで後醍醐を喜ばせたが、すでに新政の実態に愛想を尽かしていた万里小路藤房は逆に「不吉」と論じ(平和時なら駿馬は不要であるため)、後醍醐の逆鱗に触れて間もなく出家・失踪してしまうことになる。
はたして建武2年(1335)7月に
中先代の乱が勃発、
足利尊氏がこれを討つため関東へ下り、そのまま独立の姿勢を示した。後醍醐は尊氏の反逆が明らかになったとして
新田義貞を総司令官とする追討軍を派遣した。この中に塩冶高貞も加わっている。追討軍は連戦連勝で関東に迫ったが、
箱根・竹之下の戦いで足利軍に大敗する。この戦いでは佐々木道誉をはじめとして多くの寝返り者が出たが、その中に高貞の名前もしっかり加わっている。船上山の時と同様に時勢を見極めた素早い変わり身といえるが、同族の道誉の誘いがあった可能性もある。
―謎の最期は「忠臣蔵」の元ネタに―
以後の戦いでも足利方で通したため、足利幕府成立後に高貞は出雲・隠岐守護に任じられ、山陰地方に確固とした勢力を築いたかに見えた。ところが暦応4年(興国2、1341)3月24日に高貞は突然京都から姿をくらました。
足利直義は
桃井直常・
山名時氏らを追手に差し向け、出雲方面にも
「高貞が謀反を起こしたので討伐する」との指令をまわしている。結局5日後の3月29日に高貞は
播磨国影山(兵庫県姫路市)で追い詰められ自害して果てた。「太平記」は影山で死んだのは別行動をとった妻子のほうとし、高貞は出雲でこれを聞いて自害したことになっている。