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えちぜんのつぼね〜えんやたかさだのつま

越前局えちぜんのつぼね
 古典『太平記』が伝える足利直冬の母の呼び名。本によっては「越後局」
 →足利直冬の母(あしかが・ただふゆのはは)を見よ。

江馬時見えま・ときみ生没年不詳
親族名越篤時
官職越前守
生 涯
―笠置・赤坂攻めに参加した北条一門―

 「江馬」は「江間」とも表記され、北条一門名越流。
 嘉暦元年(1326)3月に北条高時が重病のために出家・辞任し、後追い出家が相次ぐ中でこの江馬時見は出家しようとせず騒ぎの渦中にいた金沢貞顕は「この人は出家しないのだろうか」といぶかしむ手紙を残している(永井晋「北条高時と金沢貞顕」)
 「江馬越前守」の名前は「太平記」では元弘の乱後醍醐天皇が笠置山に挙兵した時と、天皇配流後に護良親王楠木正成が蜂起した時と、二度にわたり幕府が畿内へ大軍を送った時に従軍した北条一門の大将の中にみえる。また『光明寺残篇』では「江馬越前入道」として赤坂城攻略の際に幕府軍4隊のうちの一つを率いて山崎から天王寺を経由して赤坂を目指したことが確認できる。これが江馬時見のことと見られるが、断定はできない。その後の消息も不明である。
大河ドラマ「太平記」第13回「攻防赤坂城」の冒頭、後醍醐天皇捕縛後の作戦を幕府軍諸将が相談している場面で登場している。役名表記は「江馬越前」で演じた俳優は上野淳

恵良惟澄えら・これずみ
九州・肥後の阿蘇一族のうち庶流が「恵良」と称しており、後に阿蘇大宮司ともなった阿蘇惟澄も当初は「恵良惟澄」と名乗っていた。
その伝記については、→阿蘇惟澄(あそ・これずみ)を見よ。

円観えんかん1281(弘安4)-1356(延文元/正平11)
生 涯
―「太平記」作者?説もある波乱の高僧―

 天台宗の僧侶で、南北朝時代を代表する高僧の一人。「円観」は号で、名を「慧鎮(えちん)」といい、こちらの名で呼ばれることも多い。
 弘安4年(1281)に近江国浅井郡今西荘に生まれた。永仁3年(1295)に幼くして出家、比叡山延暦寺に学ぶ。のちに興円に師事して円頓戒を学び、ともに北白川に元応寺を建立して顕教・密教をともに修めた学識の高い高僧として名をはせるようになった。皇室の帰依も受け、後伏見花園後醍醐に円頓戒を授け、とくに後醍醐の信任を受け嘉暦元年(1326)の中宮安産祈願にかこつけた倒幕の祈祷に文観とともに参加している。この年、おそらく後醍醐の意図により京・法勝寺に入り、やがてその住持となった。

 元弘元年(1331)4月に後醍醐の討幕計画が吉田定房の密告により発覚、5月に倒幕の祈祷をしたとして文観・円観・忠円が捕えられ、6月に取り調べのため鎌倉に送られた。文観・忠円が従者もなく馬に乗せられたのに対し、歴代天皇の帰依を受けた高僧である円観には輿に乗せられ宗印円照道勝の弟子三人が前後に従ったという。「太平記」によれば鎌倉についた円観は北条一門の佐介越前守に預けられ、文観・忠円が拷問にかけられ白状したあと円観も拷問にかけられようとしたが、北条高時が夢に比叡山の神獣・猿たちが円観を守ろうとする光景を見て、さらに佐介越前守が円観の様子を見に行ったところ障子越しの円観の影が不動明王の姿に見えた。これらの奇跡を見て恐れをなした高時は円観の拷問を中止させ、当初遠流に決定していたところを奥州・白河の結城宗広に預けるという軽い処分で済ませた。

 幕府が滅ぼされ建武政権が成立すると、円観は結城宗広と共に京に戻った(この縁で結城宗広・宗光父子は南朝の忠臣となる)。法勝寺住持に返り咲いた円観は、同じく流刑地から戻った文観と共に後醍醐から厚く遇せられ「権勢無双」と称され、「法勝寺の僧」と聞いただけで関所の兵士たちが弓を伏せうずくまったと伝えられる。
 建武2年(1335)10月、北条時行を討つため鎌倉に下った足利尊氏はそのまま鎌倉にいついて帰還せず、事実上建武政権からの離反して関東に幕府政治を復活させる姿勢を見せた。このとき尊氏を説得する使者として法勝寺の円観を派遣することに一時決定したことが「太平記」に書かれている。しかしその出発前に尊氏・義貞が互いを非難する上奏文が届き、結局尊氏の叛意は明らかとして追討が決定されたため、円観の派遣は立ち消えになっている。

 尊氏により建武政権が打倒され、やがて南北朝動乱となるなか、文観があくまで後醍醐への忠節をつくして吉野へ向かったのに対して円観は京にとどまり、北朝側に鞍替えしている。北朝の光厳光明両天皇にも円頓戒を授けて合わせて五人の天皇の国師となったため「五朝国師」の異名をもった。1340年代ごろのことと思われるが、円観が「太平記」三十余巻の原本を足利直義のもとに持参し玄恵がこれを読み聞かせたところ、直義から「誤りが多い」と言われた話が今川了俊『難太平記』に見え、円観が「太平記」編纂に深く関与していたのではないかと推測されている。そういえば「太平記」中に登場する円観は一世一代の高僧としてやたらにほめちぎられ、文観がかなり悪く描かれている(笑)。

 尊氏と直義が争う幕府の内戦「観応の擾乱」が起こり、はじめは直義が、つづいて尊氏が南朝と和睦して相手を討った。観応2年(正平6、1352)8月に尊氏は最初の南朝との和睦交渉を行うが、そこで使者役に白羽の矢が立ったのが後醍醐にも重用された円観(当時72歳)だった。円観は南朝の拠点・賀名生に赴いたが、これは結果からいうと完全な人選ミスだった。南朝側は露骨に不機嫌な対応をして彼を門前払いしてしまったのである。結局この交渉は赤松則祐(むかし護良親王の部下だった)の仲介で11月に和睦成立となるのだが、南朝側が円観個人を裏切り者として憎んでいたことをうかがわせる。もしかすると、かつて同志的立場で南朝の首脳となっていた文観の意向が強く働いたのかも知れない。その後の「正平の一統」が崩壊するときにも和平工作の使者には円観が立っている。
 円観は北朝の重臣・洞院公賢ともよく顔を合わせており公賢の日記『園太暦』にも何度か登場し、南朝との交渉など政治情勢をしばしば公賢と語っている。円観の死去の情報も『園太暦』に書かれていて、延文元年(1356)3月1日に享年76歳で没したことが確認できる。
大河ドラマ「太平記」第10回「帝の挙兵」で、文観逮捕シーンに続けて幕府の兵士たちに逮捕される場面で登場(演:上原秀雄)。登場はここだけだが、同じ映像が第48回で直義が反対派を弾圧する場面に使い回されている。
漫画では学校図書より学校や図書館向けに刊行された「コミックストーリーわたしたちの古典」の第14巻「太平記」の冒頭で「太平記ができるまで」という一章があり、慧鎮(けいちん)として円観が主人公的に登場している。小島法師から「太平記」草稿を見せられて気に入るが、直義に読ませて「誤りが多い」と怒られ、失意のうちに立ち去った小島法師のあとを引き継いで「太平記」編纂作業をすすめたことになっている。

円照
えんしょう生没年不詳
生 涯
―円観の弟子―

 円観の弟子の一人で、京都岡崎の元応寺にあった。『太平記』では円観に常に影のように従う存在であったとされ、元徳3=元弘元年(1331)5月に後醍醐天皇による討幕計画が発覚して円観が幕府呪詛の疑いで逮捕され鎌倉に連行された際にも兄弟弟子である宗印道勝と共に同行している。

塩冶高貞えんや・たかさだ?-1341(暦応4/興国2)
親族父:佐々木貞清 弟:塩冶貞泰
官職検非違使左衛門尉・壱岐守・近江守
建武の新政雑訴決断所奉行人
幕府出雲・隠岐守護
生 涯
―激動の中をしたたかに―

 塩冶氏は近江国の佐々木氏の支流で、南北朝時代を代表する武将・佐々木道誉と同族。佐々木氏は鎌倉初期に出雲の守護となり、隠岐も含めた山陰地方に根を張り、このうち出雲国神門郡塩冶に本拠を置いた佐々木氏を「塩冶氏」と呼ぶ。代々出雲守護職を継承した塩冶氏で南北朝動乱期に当主となったのが高貞である。検非違使・左衛門尉をつとめたので「塩冶判官(えんやはんがん)」と呼ばれた。
 元弘2年(正慶元、1332)、前年の倒幕挙兵に失敗して囚われた後醍醐天皇が隠岐に流刑となった。このとき護送役の一人に佐々木道誉が選ばれているのは目的地・隠岐の守護が佐々木清高、本土からの出港地出雲の守護が塩冶高貞であったことによると思われる。
 ところが各地で倒幕活動が続く中で翌年(1333)閏2月に後醍醐が隠岐を脱出する。このとき隠岐守護・佐々木清高の同族である佐々木義綱(富士名判官)が後醍醐の脱出の手引をしたとされるが、「太平記」によれば義綱は脱出の実行前に出雲に渡り同族の塩冶高貞に協力を求めた。しかし塩冶は「何を思ったか」(太平記の記述)義綱を捕縛し、隠岐に返さなかった。結局義綱の帰還を待ちきれず後醍醐は隠岐脱出を実行するのだが、高貞としては幕府に忠実であったというよりは慎重に時勢を見極めようとしていたのだろう。
 隠岐を脱出した後醍醐は伯耆国の名和長年を頼って船上山に挙兵。隠岐から追って来た佐々木清高は出雲に上陸して高貞に協力を求めたが、高貞はすげなく断っている(「梅松論」)。まだ情勢を見ようとしていたのだろうが、すでに時勢の流れを読んでいたようだ。やむなく清高は自軍のみで船上山を攻めたが大敗を喫して逃亡、これを知った高貞は義綱を伴って大急ぎで船上山に馳せ参じ、以後は倒幕軍に加わることになった。

 建武の新政に早くもほころびが見え始めたころ、「太平記」はその破綻の予兆として一頭の駿馬の逸話を記す。塩冶高貞が出雲から駿馬を一頭献上し、洞院公賢はこれを「吉兆」とことほいで後醍醐を喜ばせたが、すでに新政の実態に愛想を尽かしていた万里小路藤房は逆に「不吉」と論じ(平和時なら駿馬は不要であるため)、後醍醐の逆鱗に触れて間もなく出家・失踪してしまうことになる。
 はたして建武2年(1335)7月に中先代の乱が勃発、足利尊氏がこれを討つため関東へ下り、そのまま独立の姿勢を示した。後醍醐は尊氏の反逆が明らかになったとして新田義貞を総司令官とする追討軍を派遣した。この中に塩冶高貞も加わっている。追討軍は連戦連勝で関東に迫ったが、箱根・竹之下の戦いで足利軍に大敗する。この戦いでは佐々木道誉をはじめとして多くの寝返り者が出たが、その中に高貞の名前もしっかり加わっている。船上山の時と同様に時勢を見極めた素早い変わり身といえるが、同族の道誉の誘いがあった可能性もある。

―謎の最期は「忠臣蔵」の元ネタに―

 以後の戦いでも足利方で通したため、足利幕府成立後に高貞は出雲・隠岐守護に任じられ、山陰地方に確固とした勢力を築いたかに見えた。ところが暦応4年(興国2、1341)3月24日に高貞は突然京都から姿をくらました。足利直義桃井直常山名時氏らを追手に差し向け、出雲方面にも「高貞が謀反を起こしたので討伐する」との指令をまわしている。結局5日後の3月29日に高貞は播磨国影山(兵庫県姫路市)で追い詰められ自害して果てた。「太平記」は影山で死んだのは別行動をとった妻子のほうとし、高貞は出雲でこれを聞いて自害したことになっている。
 この事件は中原師守の日記『師守記』でも確認できる事実だが、その原因についてはさっぱり分からない。あまりにも有名なのが「太平記」の伝える高師直が高貞の美貌の妻に横恋慕し、高貞を無実の罪に追いこんだとする逸話だが、あまりにも文学的に面白すぎる話ということもあり、そのまま史実とはとれないとの意見も多い。高貞が過去の人脈で実際に南朝と内通したとする説、師直と直義の争いに巻き込まれたとする説、山陰地方の守護職をめぐって山名氏と対立したためとする説などが挙げられるが、いずれにせよ色恋沙汰ではなく多分に政治的背景をもったものとみるのが一般的である。「太平記」もよく読むと高貞の弟・貞泰が兄の謀反の企てを師直に密告する記述があり、実際に何らかの陰謀があり、それを兄弟が密告した(西園寺公宗事件と構図が同じ)可能性も考えられる。

 「塩冶判官」の逸話は「太平記」中とくに目を引く物語ということもあり、師直の好色ぶりと共に塩冶判官を悲劇の人物とするイメージを後の時代に強く残した。特に江戸時代には赤穂事件を素材にした「仮名手本忠臣蔵」がこの逸話を物語の背景に流用して、浅野内匠頭を「塩冶判官」、吉良上野介を「高師直」に置き換えたため、塩冶判官の名前だけは独り歩きして有名になってしまった。
大河ドラマ「太平記」第23回・第40回・第42回に登場する。第23回「凱旋」では上洛する後醍醐の一行に加わっていて、鎌倉陥落の報告を受けて「北条は滅んだ!鎌倉は焼け野原じゃ!」と叫んでいる(演:峰三太)
第40回から再登場して古典「太平記」の伝える高師直の横恋慕事件をほぼそのままなぞった展開になっていくが、演じる俳優は変更されている(演:浅野和之)。師直が妻・西台に贈った恋文の山を直接幕府内で師直につき返し、「我が館に来られるときは表門から」と皮肉をいうシーンもあった。ドラマのオリジナル要素は高貞が実際に南朝と内通している描写が加わっていることで、高貞と阿野廉子が奈良で密会している場面もあった。最期は京からの出奔ではなく京の自宅を桃井直常に襲撃されて妻ともども自害して果てる形になっている。
その他の映像作品「太平記」の逸話を素材にした谷崎潤一郎の戯曲「顔世」の映画化である「悪党」(監督:新藤兼人、1965)では木村功が演じている。
歴史小説ではやはり師直とのエピソードが有名なので登場することが多い。
漫画では「太平記」の漫画版で登場することが多い。ただ横恋慕話ということもあり子供向けのものではまずカット。甲斐謙二・画「マンガ太平記」、さいとう・たかお「太平記」で描かれている。
PCエンジンCD版出雲伯耆の独立勢力・名和長年の配下として登場、史実と異なるとはいえ南朝方にされてるところは意味深。初登場時の能力は統率51・戦闘53・忠誠79・婆沙羅66。 
PCエンジンHu版シナリオ1「鎌倉幕府の滅亡」に出雲・八杉城に朝廷方で登場。能力は「弓4」
メガドライブ版「竹之下の戦い」シナリオで南朝側武将として登場するが寝返りを打つ展開。体力62・武力58・智力50・人徳44・攻撃力40
SSボードゲーム版「佐々木高貞」の名前で登場。「武将」クラスで勢力地域は「山陰」。能力は合戦能力2・采配能力3

塩冶高貞の妻えんや・たかさだのつま?-1341(暦応4/興国2)?
親族父:早田宮(真覚)? 夫:塩冶高貞
生 涯
―師直が恋い焦がれた伝説の美女―

 塩冶高貞に妻がいたことは間違いないが、ここでは「太平記」の伝える悲劇の女性についてとりあげる。もとよりどこまで史実なのかは疑わしく、事実上「太平記」の創作人物とみてもいい。
 「太平記」巻21によれば「先帝の御外戚・早田宮の御女・弘徽殿の西の台」という女性であったとされる。「早田宮(さわだのみや)」とは後嵯峨天皇の皇子で鎌倉幕府の将軍となった宗尊親王の子・真覚権僧正であるといい(真覚の子は源姓を与えられ臣籍に入る)、その娘が後醍醐天皇の後宮に入っていたということになる。ただかなり遠縁とはいえ皇室に連なる女性を高貞に「下げ渡し」するかは多少疑問にも感じる。「後宮女性の下げ渡し」自体は、これも「太平記」のみの伝えることだが新田義貞に下げ渡された勾当内侍の例もあり、後醍醐が隠岐脱出後に功のあった高貞に恩賞として自身の後宮にいる誰かを下げ渡した可能性は十分ある。

 「太平記」は以下のような話を伝える。病に伏せた高師直が家臣たちと暇つぶしに当時の名人・真一覚一に平家物語を語らせるうち、源頼政が「鵺(ぬえ)」を射落としたほうびとして「あやめの前」という美女を与えられた話のくだりになった。家臣たちが「美女など恩賞にもらっても意味がない。領地か品物でないと」と言ったところ、師直は「あやめほどの美女なら国の十個や所領の二、三十と交換してもいいぞ」と口にした。これを聞きつけた以前宮中にあがっていた「侍従」という女房が「西の台」の美貌を師直に教える。すっかり夢中になった師直は侍従を介して西の台に恋文を送りつける。西の台が見向きもしないので「徒然草」で有名な吉田兼好に恋文代筆までやらせるが、これもなしのつぶて。侍従は師直に西の台の素顔を一度見せればあきらめるかもと考えて、こっそり師直に西の台の湯上り姿を覗き見させるが、そのあまりの美しさと色っぽさに師直は悶絶、ますます恋の病に落ち込んでしまう。これには侍従もかえって恐れをなしてどこかへ姿をくらましてしまった。

 手引きしてくれる人がいなくなってしまったので、師直は高貞を讒言で討ち取ることを思いつく。師直が尊氏・直義に「高貞が謀反を起こそうとしている」と讒言したことを聞いた高貞は京を脱出、彼の妻子は別行動をとったが播磨国影山(姫路市付近)で追手に追い付かれ、もはやこれまでと観念した高貞の同族・山城守宗村が西の台や子供たちを殺害して自らも自害した。この高貞の妻の惨死シーンは「太平記」中でも異様に印象に残る場面で、西の台の割かれた腹から胎児までが見えたなどときわめて凄惨な描写がなされている。
 この逸話は「太平記」のなかに時々見られる、前後とあまり脈略のない非常に独立性の高いエピソードで(一応師直の横暴ぶりを強調するねらいはあるのだが)、当時実際に起きた塩冶高貞の謎の追討事件を素材に別個にふくらまされた物語があとから大河小説「太平記」に組み込まれたようにも見える。ただ物語として非常に面白く印象によく残るのは確かで、それが後年「忠臣蔵」に流用されるまでになった原因であろう。
 赤穂事件を太平記世界におきかえた「仮名手本忠臣蔵」では「顔世御前」として登場する。元ネタの「太平記」の逸話のほうを戯曲にした谷崎潤一郎「顔世」もそのまま高貞の妻の名を「顔世」としている。
大河ドラマ「太平記」「西台(にしのだい)」の役名で相川恵里が演じた。第40回で高師直と佐々木道誉が宴を開いているところへ高貞と夫婦同伴(!)で登場し、師直に目をつけられてしまう。第42回では入浴を師直に覗き見されるシーンもあるが、浴衣の上から侍女にお湯をかけられるだけ。最期は高貞と共に京の屋敷内で自害して果てる形になっていた。
その他の映像作品谷崎潤一郎の戯曲「顔世」の映画化である「悪党」(監督:新藤兼人、1965)では岸田今日子が「顔世」の役名で演じている。
歴史小説ではやはり師直とのエピソードが有名なので登場することが多い。
漫画では「太平記」の漫画版で登場することが多い。ただ横恋慕話ということもあり子供向けのものではまずカット。甲斐謙二・画「マンガ太平記」、さいとう・たかお「太平記」で描かれている。


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