和田(みぎた)氏 |
和田助綱 | ─助守 | ─助遠 | ─清遠 | ─助家 | ┬助康 | ─助氏 | ─助朝 | ─盛朝 | ─助直 |
└助秀 |
陸良親王 | みちよし(りくよし?)・しんのう | 生没年不詳 |
親族 | 父:護良親王 母:北畠親房の妹? | |
官職 | 征夷将軍 | |
生 涯 | ||
―南朝に反逆した護良親王の子― 護良親王の皇子で南朝から征夷大将軍に任じられ、「赤松宮」の別称で知られた人物であるが、その名を「陸良」としているのは『細々要記』という史料(それも後年の抄写)のみで、信用性についてはいま一つである。江戸時代に編纂された南朝通史『南方紀伝』『桜雲記』でも「陸良」とし、建武元年(1334)3月に誕生とまで明記しているがその出典は不明である。 同じく護良親王の皇子で関東で活動した興良親王とされる人物と同一人とみる意見も有力で、「常陸親王」と表現される人物とも同一である可能性も高い。また「常陸」「興良」の表記が混在したとも考えられる。だが別人説も一定の根拠をもつため、この項目では「赤松宮」と称された人物に絞って解説する。常陸で活動した人物については「興良親王(おきよし・しんのう)」の項目を参照されたい。 なお、「陸良」にせよ「興良」にせよ、「○良」という諱は後醍醐天皇の皇子世代の通字である。南朝=大覚寺統は世代ごとに共通の通字が名に入っており(中国文化における「輩行字」である)、護良の皇子に「良」がつくのは不自然でもある。元服の際に後醍醐の猶子とされ親王宣下を受けた(親王の子は本来「王」)とする伝承が一部にあるのもそれが原因であろう。 『太平記』ではこの人物について、「将軍の宮」と表現し、「故兵部卿の親王の御子、御母は北畠准后の御妹」と記して北畠親房の妹が母親であるとしている。親房の妹となるとかなり年の離れた妹と推測されるが、詳細は不明である。『太平記』は彼について幼い時から文武両面で非常にすぐれ、南朝の将来を期待されて後村上天皇の即位後に「征夷将軍」に任じられたと記している。 正平3年(貞和4、1348)正月5日の四条畷の戦いで楠木正行が戦死したその翌日、和田一族に対して敗戦をねぎらう令旨を出した「宮将軍」がおり、親房の指示と連動することからこれが「陸良」であった可能性が高い。 正平7年(観応2、1351)、「観応の擾乱」で足利直義が兄・足利尊氏に一時的に勝利をおさめた際、播磨の赤松則祐は尊氏と南朝の和睦の仲介役をつとめたが、その時に「故兵部卿親王の若宮」を吉野から招いて「大将」に奉じた(太平記)。そもそも則祐は若き日に護良親王の腹心だった縁があり、その子を奉じるのは自然な成り行きだったのだろう。これ以後、この「若宮」は「赤松宮」と呼ばれることとなった(「園太暦」)。 この直後、尊氏と南朝が講和する「正平の一統」が実現するが、尊氏が直義を討つため関東に下った隙に親房ら南朝側が一方的に講和を破って京都を一時的に占領した。尊氏と南朝の仲介者であった則祐はこの背信に怒って以後は完全に幕府方となって南朝軍と戦うようになり、「赤松宮」も京都に連行され囚人同然の扱いを受けたとされる。しかし但馬の南朝方が「赤松宮」を救出、但馬の高山寺城に迎え入れて一時は但馬・丹波に勢力を広げたが、播磨へ進撃して赤松則祐に敗北、「赤松宮」は河内へと逃れた。 以後も「赤松宮」については武勇の聞こえがあったようで、各地の南朝方から迎え入れたいとの誘いがあったという。だが南朝は万一の切り札として彼を使おうと思っていたようで、手元から離さずにいた。 正平15年(延文5、1360)、二代将軍となったばかりの足利義詮は大軍を動員して河内・紀伊の南朝への攻勢をかけた。南朝方は連敗し、「赤松宮」が「今こそ私を使うべき。兵をつけてくれれば自ら出向いて合戦いたしましょう」としきりに申し出たので、南朝朝廷は則祐の弟で南朝方に残っていた赤松氏範に吉野十八郷の兵をそえて「赤松宮」につけさせた。 ところが4月25日、「赤松宮」は突然義詮に連絡をとって反乱を起こす。『太平記』はその動機を「吉野十八郷を管領(支配)するため」と記すが、「物狂はしき御心」「不思議」とも書いているようにあまりにも唐突で理解しがたい行動であった。あるいは「赤松宮」にはかねてより南朝幹部への怨念があって計画的に反乱を起こしたのかもしれない。 「赤松宮」は手勢数百に野伏三千人を率いて賀名生の近くの「銀嵩(かねがたけ)」(五條市・銀峰山)にのぼり、ここで旗を掲げると、賀名生の旧皇居(当時後村上は河内・観心寺にいた)や公家たちの屋敷に火を放った。賀名生は突然の攻撃に混乱したが、やがて「赤松宮」の反乱と分かると、「二条前関白」(二条師基あるいは教基)が討伐の兵を差し向けると、宮についていた兵たちは散り散りに逃げうせて五十騎ばかりが残るだけとなってしまった。赤松氏範が「赤松宮」を見捨てずに奮戦した<ahref="mi.html#hatiro"target="b">みうらはちろうざえもん</a><br> <br>がかなわず、「赤松宮」は奈良へと落ち延びた。 以上の経緯は『太平記』巻34で物語的脚色も交えて詳しく記されているが、一時史料である『大乗院日記目録』にも日付も含めてほぼ同じ展開の記事が載っており、事実であることが確認できる。「赤松宮」のその後の消息はまったく不明で、『細々要記』では「自殺」とするがこの史料の記述自体が『太平記』の影響を受けている可能性があり、そのまま信用はしかねる。『南朝編年紀略』という史書では幽閉後に殺害されたとするが、これも後世の南朝人気を背景にした編纂物のため信用できない。 なお、「陸良親王の墓」とされるものは奈良県吉野郡野迫川村の清久寺の「田村塚」、兵庫県姫路市香寺町の須加院にある「親王塚」、はては長崎県対馬市根緒の「大塔備前守陸良ノ墓」(対馬まで逃れて「大塔備前守」を名乗ったとする伝承)などがある。護良親王伝説同様、波乱の生涯を送ったその息子についても各地に伝説が生まれてしまったようである。 参考文献 亀田俊和『南朝の真実』(吉川弘文館・歴史文化ライブラリ―378)ほか | ||
歴史小説では | 田中俊資の小説『南朝盛衰記』は興良親王を陸良と同一人物としたうえで主人公に設定し、その幼少期から南朝に対する反逆までの波乱の生涯を通して南北朝史を描いた大長編である。 |
宮田時清 | みやた・とききよ | ?-1399(応永6)? |
親族 | 父:山名氏清 母:藤原保脩の娘 兄弟:山名満氏・山名氏利・山名氏義(義弟)・山名満幸室 子:宮田氏明? | |
官職 | 大夫将監 | |
生 涯 | ||
―応永の乱に呼応した山名氏清の子― 「明徳の乱」で敗死した山名氏清の長男。「山名時清」とも呼ばれる。通り名は「左馬助」であったという(「明徳記」)。『尊卑分脈』によれば官職は「大夫将監」で、「新続古和歌集」に入選していることが知られる。丹波国宮田荘(現・兵庫県篠山市)に入ったことから「宮田」の名字を称した。『明徳記』ですでに「宮田左馬助」と表記されていることから明徳の乱の時点ですでにそう呼ばれていたことが分かる。 明徳2年(元中8、1392)12月に父・氏清が「明徳の乱」を起こして将軍足利義満に挑戦、京へ攻め込むと、時清も弟の山名満氏と共に父に従い参戦した。しかし内野の戦いで山名軍は崩壊、敗北を覚悟した氏清から時清と満氏は丹波に落ちて再起をはかれと説得され、五十騎ばかりで丹波へ逃げ帰った。時清らは畑城にこもって再起をはかったが丹波の国人らが味方につかず、やむなく摂津・有馬温泉へ逃亡してここで兄弟そろって出家し、尼崎から海路で紀伊の山名義理を頼った。しかし義理が「目の前で父が討たれるのを見捨てて逃げてくるような不覚者を親類といえど受け入れるわけにはいかん」と面会もせず拒絶したため、時清らはやむなく熊野へと逃れた。 その後、時清が母(「山名系図」によれば藤原保脩の娘)に使者を送って氏清の戦死を伝えたところ、母は自害を図ってしまう。母が自害未遂で瀕死の状態と知った時清と満氏は母のいる根来に駆けつけて面会しようとしたが、母から「二十歳を過ぎて父と共に戦場に出ながら、逃亡して出家するとは情けない」と拒絶されてしまう。時清らはやむなく引き下がり、やがて母は死去したが、その世話をしていた時清の妻はそのあとを追って川に身を投げたという(「明徳記」)。こののち時清の行方は知れなくなるが、丹波に戻って本拠地の宮田荘に潜伏していたと思われる。 応永6年(1399)に大内義弘が「応永の乱」を起こすと、時清は京極秀満・土岐詮直ら義満に不満を抱く武将らと共にこれに呼応して宮田で挙兵し、兵三百を率いて京へ突入した。京市内に火を放って、「亡き父の本意を遂げよう」と男山八幡の義満の本陣も狙ったが、さすがに撃退されて丹波へ撤退した(「応永記」)。義満は山名時熙に時清の討伐を命じ、時熙は丹波国人らを動員して時清らを丹波国八田(現・綾部市)に攻撃、時清らは鎮圧された。 『山名家譜』では時清は荻野信盛に討たれ、弟の満氏も討たれて11月中に反乱は鎮圧されたとする。しかし他の史料や軍忠状から12月7日に時清の討伐軍の間で戦闘が起こっていることが確認できるため『家譜』の記述はあまり信用できない。 一方で時清の子孫とみられる「宮田氏」が丹波にその後も存続していることも確認でき、時清がこのとき本当に戦死したのか再考の余地はある。またネット上では複数のサイトで「応永16年の氏清33回忌を機に時清が義満から赦免された」とする恐らく同じ情報源に基づく記述が見つかるが、応永16年は氏清の33回忌には早すぎる上に義満はその時点では死去しているため信用は置けない。ただ時清もしくはその子孫が赦免を受けたという事実はあるのかもしれない。 参考文献 ウェブサイト「山名氏史料館『山名蔵』」ほか |
三善宗信 | みよし・むねのぶ | |
NHK大河ドラマ「太平記」の第4回のみ登場する人物(演:崎津隆介)。自ら名乗るセリフでは「侍所所司」。正中の変で大騒ぎの京から帰ってきた足利高氏を藤沢で待ち受け、日野俊基と密会した容疑で逮捕、侍所へ連行する。 |