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みうらはちろうざえもん〜みょうきつ

三浦八郎左衛門みうら・はちろうざえもん生没年不詳
生 涯
―高師直暗殺の実行者―

 詳細は不明だが、上杉氏家臣になっていた武蔵か相模の武士の可能性がある。「太平記」によれば高師直師泰兄弟らを襲撃し、その場にいた一族郎党を皆殺しにした人物。
 この前々年に師直はクーデターを起こして足利直義を引退に追い込み、その腹心であった上杉重能を流刑にしたうえ刺客を送って殺害した。その養子の上杉能憲は関東で師直のいとこの師冬を滅ぼしてから畿内にかけつけて直義軍に参加し、養父の敵である師直の殺害を狙っていた。打出浜の合戦足利尊氏・師直・師泰らは直義軍の前に敗北し、師直兄弟の出家・引退による助命を条件に和議を結んだが、観応2年(正平6、1351)2月26日に尊氏らと共に京へ向う途中の師直らを摂津国武庫川付近で上杉能憲の指示を受けた三浦八郎左衛門が襲撃・殺害した。
 「太平記」の描写ではまず三浦の家臣たちが「そこの遁世者(師直は出家姿になっていた)、笠をとって顔を見せろ」と言ってその笠を切りつけ、その隙間から師直の顔を確認した三浦が「願っていた敵だ」と馬上から長刀で師直を切りつけ、落馬した師直の首をとったという。
 三浦八郎左衛門のその後のことは不明だが、師直一族を殺された尊氏は激怒し、その指示を出した上杉能憲の死罪を叫んだという。
NHK大河ドラマ「太平記」「三浦八郎」の役名で第47回に登場(演:小池雄介)。兵たちを指揮して師直を殺害する。「命の保証は和議の条件ぞ」と叫ぶ師直に「師直は上杉の仇敵なり」と一喝した。このドラマでは師泰が自ら三浦に飛びついて師直を逃がそうとし、逃げる師直を三浦たちが後ろから斬りつけていた。

和田(みぎた)氏
 和泉国の豪族。本姓は大中臣氏で、鎌倉初期に和泉国大鳥郡和田荘に入ったことから「和田」を名字とした。「和田」は古くは「にぎた」と読まれたが、南北朝時代の書状などでは「みきた」と書かれ、「みぎた」と発音したとみられる。鎌倉期は御家人で、南北朝時代には主に南朝方で活動したが状況に応じて巧みに遊泳、その勢力を保った。だが戦国期のうちにその勢力は消滅している。この一族は多数の文書類を後世に残しており、この「和田文書」は中世史研究の貴重な史料となっている。
 楠木一族の親族とみられる「和田」一族と同族との見方は近年はほぼ否定されている。楠木親族と思われる「和田」を称する人物については「わだ」で検索されたい。

和田助綱
─助守─助遠─清遠
助家助康助氏
─助朝
─盛朝
─助直





└助秀





和田助家みぎた・すけいえ生没年不詳
親族父:和田清遠
子:和田助康・和田助秀・三河房助真
官職修理亮
生 涯
―生き残るためには二股作戦も―

 和泉国の金剛寺領・和田荘の地頭であった武士。春日大社の案主(あんじゅ)職も兼任している。鎌倉幕府の御家人として正安3年(1301)に京都大番役をつとめる。正和3年(1314)6月に六波羅探題と比叡山が紛争を起こした際には探題の金沢貞顕に呼び出され比叡山対策にあたっている。正中元年(1324)9月に「正中の変」が起こった際にも助家は六波羅探題に馳せ参じている(和田文書)

 元弘元年(元徳3、1331)に楠木正成が赤坂城で挙兵すると、助家は幕府の命を受けてその攻撃に参加している。翌年末から楠木正成・護良親王らが活動を活発化させると助家は再び幕府軍に動員され、千早城攻めにも参加した。だがこの千早城攻略に幕府軍が苦戦するのを見て討幕に心が傾き、元弘3年(正慶2、1333)4月までに護良の令旨を受けて息子の和田助康を六波羅攻めの軍に参加させつつ、自身は千早城攻めに従軍を続けて4月21日付で阿曽治時から戦功を賞されている(それでいて後に建武政権には「自分は病気だったので息子を京攻めに行かせたと主張している)。その直後の4月28日には護良から息子の戦功を賞する令旨を受け取っており、状況がどちらに転んでもいいように行動していたのだろう。建武政権期に楠木正成自身が書いた仮名書状では、助家が千早城の正成にひそかに大量の兵糧を送るなど支援をしていたことが明らかにされている(なおこの書状で正成が「みきた」と書いていることから「和田」が「みぎた」と発音されたことが分かる)

 しかし父子で分かれて「二股」をかけた態度から幕府滅亡後の論功行賞では冷遇されたらしい。上記の正成書状によると彼の所領が紀伊の湯浅定仏に恩賞として与えられていたことが分かる。元弘3年10月に助家は助康と共に上京し、六波羅攻めの戦功を訴え出た(この時の軍忠状が現存するためこの間の彼らの動きがわかる)。また正成を通した運動も実ったようで、建武2年(1335)6月には和泉大歌所十生長官職に任じられている。

 その後の南北朝動乱では、正成との縁から和田一族はおおむね南朝方で活動している。助家自身は南朝の延元年間までには息子の助康に家督を譲って出家したとみられる。出家後の法名は「正円」という。
 正平初年ごろに息子の助康が南朝方に討たれたとみられ、詳細は不明ながら和田一族が南朝北朝に「二股」をかける態度をとったためとの推測がある。その後は孫の助氏が助康の跡を継いで引き続き南朝方で活動している。助家自身の消息は正平5年(観応元、1350)11月に南朝に恩賞を求めて提出した書状(目安案)まで確認できるが、同月3日に幕府方の和泉守護・畠山国清から功績を確認する感状も受け取っており、「二股」な態度は最後まで変わらなかったらしい。

参考文献
堀内和明「楠木合戦と摂河泉の在地動向―悪党の系譜をめぐって―」(立命館文學617)
その他の映像・舞台
昭和39年(1964)の舞台『私本太平記』では市太郎が演じている。
歴史小説では
正成直筆の書状に名が出てくるため、正成を扱った小説で登場例が多い。吉川英治『私本太平記』や北方健三『楠木正成』など。
メガドライブ版
「足利帖」「楠木・新田帖」どちらでプレイしても楠木軍武将として登場する。能力は体力80・武力82・智力71・人徳44・攻撃力67

和田助氏みぎた・すけうじ生没年不詳
親族父:和田助康
子:和田助朝
官職左衛門尉・蔵人・備前守
生 涯
―南朝・北朝を遊泳―

 和田助康の子。法名を「正栄」という。父の助康は南朝方に殺害されたと考えられるが、助氏は正平3年(貞和4、1348)正月の四条畷の戦い楠木正行率いる南朝軍に参加しており、四条畷の敗戦の翌日には「将軍宮」(興良もしくは陸良親王?)から呼び出しを受けている。この年の7月19日付で北畠親房から三河国釜石荘内の兼清名の地頭職を温床として与えられ、さらに左衛門尉・蔵人に任官されている。正行敗北で吉野を攻められ賀名生へ逃れた南朝としては態勢挽回のためにも和田氏をつなぎとめておく必要があったのだろう。

 正平5年(観応元、1350)11月に祖父・助家が南朝と幕府の両方に「いい顔」をしておく二股な態度の書状を残しているが(恐らく直後に助家死去)、この年の12月に助氏は後村上天皇から綸旨を受けて以後しばらくは南朝方について活動している。しかし10年後の正平15年(延文5、1360)2月に和泉国近木郷以下の所領安堵を受けながらその翌月には幕府軍を率いて和泉・河内へ侵攻した畠山国清の投降勧告に応じ、守護細川業氏から感状を与えられている。

 正平24年(応安2、1369)に楠木正儀が幕府に投降すると、助氏はこれと入れ替わるように南朝方に転じた。この和田(みぎた)氏と楠木氏の間で何か複雑な事情があったのかもしれない。南朝では助氏の復帰を喜んで、彼を「備前守」に任じている。しかし文中3年(応安7、1374)7月に正儀および先に幕府方に転じた橋本正督らの説得もあって、息子の助朝と共にまたも幕府方に転じている。永徳2年(弘和2、1382)正月に幕府の和泉守護である正儀から所領安堵の書状を受けている。

参考文献
堀内和明「楠木合戦と摂河泉の在地動向―悪党の系譜をめぐって―」(立命館文學617)
堀内和明『河内金剛寺の中世的世界』(和泉書院)
高柳光寿『足利尊氏』(春秋社)

和田助康みぎた・すけやす生没年不詳
親族父:和田助家
兄弟:和田助秀・三河房助真
子:和田助氏
官職左近将監
生 涯
―南朝に疑われ殺される?―

 和田助家の嫡男。「助泰」と表記する史料もある。修理亮であった助家の子ということで通り名を「亮太郎」と呼ばれていた。母方の伯父・金太重康の養子になったとされる。
 元弘元年(元徳3、1331)に楠木正成が赤坂城で挙兵すると、父・助家と共に赤坂城攻めに参加したとみられる。しかし恩賞がなかなか与えられなかったので、助康が父に代わって曾祖父以来の功績を幕府に訴えた訴状が残されている。
 元弘3年(正慶2、1333)に入ると正成や護良親王らの活動が活発化、和田一族もその平定に駆り出されたが、助康は4月3日に護良の令旨を受けて8日に千種忠顕の京都攻略軍と呼応して赤井河原で六波羅軍と戦い、敗れている。しかし父の助家や弟の助秀は依然として千早城攻めに参加しており、和田一族は状況がどちらに転んでもいいように「二股」をかけていたのである。このためか戦後の論功行賞で和田氏はかえって所領を奪われる事態になり、10月に助康は父と共に上京して功績の確認を建武政権に訴え出ている。

 足利尊氏が建武政権に反して一時九州へ追われた直後の延元元年(建武3、11336)3月に助康は「左近将監」の官名で建武政権側に軍忠状を提出している(これが現存する史料で助康の生前最後のものとなる)。その後まもなく家督を継いだとみられるが、南朝の正平初年(1346)ごろに助康は南朝側に殺害されたとみられる。詳細は不明だが和田一族は生き残りをかけて南朝北朝どっちつかずの態度を続けており、その態度を南朝勢力から憎まれたためとの推測がある。また和田一族内でも統一行動がとれていなかったとの説もある。和田氏系図の古いものでは助康の存在そのものが消され、後年に書き加えられていることから、和田一族にとって助康は存在自体がタブーとされていた時期があるらしい。
 助康の死後、息子の助氏が和田家督を継ぎ、しばらくは南朝方として行動している。

参考文献
堀内和明「楠木合戦と摂河泉の在地動向―悪党の系譜をめぐって―」(立命館文學617)

三島外記入道みしま・げきにゅうどう1329(元徳元)-1392(明徳3/元中9)
生 涯
―細川頼之に殉死―

 『明徳記』終盤、細川頼之死去のくだりで登場する人物。頼之の家臣ということ以外ほぼ何もわからない。
 『明徳記』によれば頼之と同年で、朝に夕に雑談の相手をするなど長年そばに仕えたという。武勇もかなりのものだったので頼之に信頼され、主従関係を越えて「朋友」の間柄にさえなっていた。そのため三島は日頃から何かというと「私は不肖の身でありながら毎日のように殿と共に遊び、主従の礼儀も忘れて一緒に楽しめただけでなく、長年のご恩をこうむって一族も栄え、そのご恩はとても報いられないほどだ。だからこちらが先立ってしまった場合は仕方がないが、もし武蔵禅門(頼之)がお先立ちになったら、一日とて遅れはせぬ」と殉死を公言していたという。
 明徳3年(元中9、1392)3月2日に頼之が死去すると、その訃報を聞いた三島はすぐさま数珠を手にして中間二人を連れて外出、頼之邸へは向かわずにまっすぐ勘解由小路朱雀の時衆の道場へ向かった。ここで聖(ひじり)に十念(念仏を十回唱える)を受けると、そのまま道場のかたわらにあった念仏堂に立ち寄り、西に向かって手を合わせ「今日死去した武蔵入道常久の霊位と、殉死する外記入道の霊とを受け入れて浄土でめぐり合わせてください」と祈った。そして念仏を百遍唱えてから、中間たちを「時衆の方を一人呼んできてくれ」と道場に行かせて一人になると、その隙に腹を十文字に切り、刀をのどに突き立て、手を合わせたまま倒れ伏した。
 人々は「戦場で主君が戦死した時に殉死した例は古今多いが、主君の戦死を見捨てて逃げる者だっている。病で死んだ主君との別れを悲しんで本当に切腹し、死出の旅についていったという例はいまだ聞いたことがない」と称賛し、涙を流したという。実際、病死した主君に殉死した例は日本史上これが最初とされている。
その他の映像・舞台
当サイトに掲載した仮想大河ドラマ「室町太平記」では、主人公・細川頼之の腹心の便利キャラ「三島三郎」としてほぼ全編にわたって登場している。その行動はほぼ全てフィクションだが、殉死のくだりは「明徳記」のままに再現した。

三木俊連みつぎ・としつら生没年不詳

生 涯
―鎌倉攻撃に参加―

 武蔵国三木村(現・埼玉県狭山市三ツ木)の領主をしていた武士と思われる(河内説もあるが状況からして武蔵が妥当か)。元弘3年(正慶2、1333)5月18日からの鎌倉攻略戦に新田軍側で参加し、戦後に軍忠状を提出している。それによれば俊連は同族の行俊・貞俊(兄弟か子息?)と共に一族郎党を率いて参戦、21日の「日の大将」(その日の担当指揮官)であった新田氏義の指揮下に霊山寺(鎌倉西部・極楽寺坂切通し付近の丘陵上にある)の大門を攻撃している。18日以来新田義貞の主力は稲村ケ崎の海岸を突破しようとしていたが、先に突入した大館宗氏は戦死し、山の上の霊山寺からさんざんに矢を射かけられて苦戦を強いられていたため三木俊連らが山に登り、この寺の大門を攻撃、さらに稜線づたいに幕府側の拠点を攻撃していったものと思われる。
NHK大河ドラマ「太平記」鎌倉攻防戦を描く第22回のみ登場(演:大関正義)。吉川英治「私本太平記」に従っての登場で、新田義貞による鎌倉攻略の参謀役の扱いになっている。鎌倉を攻めあぐねる義貞の指示で、極楽寺坂方面を攻撃して火の手を上げ、敵の目をそちらに引き付けて沖合の軍船を移動させる陽動作戦により稲村ケ崎突破を実現させる。
歴史小説では吉川英治「私本太平記」では現存する軍忠状をもとに登場させているが、河内武士説があったためか護良親王の配下という設定になり、護良の指示で伊勢・紀伊の水軍を率いて鎌倉に駆けつける。三木の陽動作戦により稲村ケ崎突破が可能となる展開。

陸良親王みちよし(りくよし?)・しんのう生没年不詳
親族父:護良親王 母:北畠親房の妹?
官職征夷将軍
生 涯
―南朝に反逆した護良親王の子―

 護良親王の皇子で南朝から征夷大将軍に任じられ、「赤松宮」の別称で知られた人物であるが、その名を「陸良」としているのは『細々要記』という史料(それも後年の抄写)のみで、信用性についてはいま一つである。江戸時代に編纂された南朝通史『南方紀伝』『桜雲記』でも「陸良」とし、建武元年(1334)3月に誕生とまで明記しているがその出典は不明である。
 同じく護良親王の皇子で関東で活動した興良親王とされる人物と同一人とみる意見も有力で、「常陸親王」と表現される人物とも同一である可能性も高い。また「常陸」「興良」の表記が混在したとも考えられる。だが別人説も一定の根拠をもつため、この項目では「赤松宮」と称された人物に絞って解説する。常陸で活動した人物については「興良親王(おきよし・しんのう)」の項目を参照されたい。
 なお、「陸良」にせよ「興良」にせよ、「○良」という諱は後醍醐天皇の皇子世代の通字である。南朝=大覚寺統は世代ごとに共通の通字が名に入っており(中国文化における「輩行字」である)、護良の皇子に「良」がつくのは不自然でもある。元服の際に後醍醐の猶子とされ親王宣下を受けた(親王の子は本来「王」)とする伝承が一部にあるのもそれが原因であろう。

 『太平記』ではこの人物について、「将軍の宮」と表現し、「故兵部卿の親王の御子、御母は北畠准后の御妹」と記して北畠親房の妹が母親であるとしている。親房の妹となるとかなり年の離れた妹と推測されるが、詳細は不明である。『太平記』は彼について幼い時から文武両面で非常にすぐれ、南朝の将来を期待されて後村上天皇の即位後に「征夷将軍」に任じられたと記している。

 正平3年(貞和4、1348)正月5日の四条畷の戦い楠木正行が戦死したその翌日、和田一族に対して敗戦をねぎらう令旨を出した「宮将軍」がおり、親房の指示と連動することからこれが「陸良」であった可能性が高い。
 正平7年(観応2、1351)、「観応の擾乱」足利直義が兄・足利尊氏に一時的に勝利をおさめた際、播磨の赤松則祐は尊氏と南朝の和睦の仲介役をつとめたが、その時に「故兵部卿親王の若宮」を吉野から招いて「大将」に奉じた(太平記)。そもそも則祐は若き日に護良親王の腹心だった縁があり、その子を奉じるのは自然な成り行きだったのだろう。これ以後、この「若宮」は「赤松宮」と呼ばれることとなった(「園太暦」)
 この直後、尊氏と南朝が講和する「正平の一統」が実現するが、尊氏が直義を討つため関東に下った隙に親房ら南朝側が一方的に講和を破って京都を一時的に占領した。尊氏と南朝の仲介者であった則祐はこの背信に怒って以後は完全に幕府方となって南朝軍と戦うようになり、「赤松宮」も京都に連行され囚人同然の扱いを受けたとされる。しかし但馬の南朝方が「赤松宮」を救出、但馬の高山寺城に迎え入れて一時は但馬・丹波に勢力を広げたが、播磨へ進撃して赤松則祐に敗北、「赤松宮」は河内へと逃れた。
 以後も「赤松宮」については武勇の聞こえがあったようで、各地の南朝方から迎え入れたいとの誘いがあったという。だが南朝は万一の切り札として彼を使おうと思っていたようで、手元から離さずにいた。

 正平15年(延文5、1360)、二代将軍となったばかりの足利義詮は大軍を動員して河内・紀伊の南朝への攻勢をかけた。南朝方は連敗し、「赤松宮」が「今こそ私を使うべき。兵をつけてくれれば自ら出向いて合戦いたしましょう」としきりに申し出たので、南朝朝廷は則祐の弟で南朝方に残っていた赤松氏範に吉野十八郷の兵をそえて「赤松宮」につけさせた。
 ところが4月25日、「赤松宮」は突然義詮に連絡をとって反乱を起こす。『太平記』はその動機を「吉野十八郷を管領(支配)するため」と記すが、「物狂はしき御心」「不思議」とも書いているようにあまりにも唐突で理解しがたい行動であった。あるいは「赤松宮」にはかねてより南朝幹部への怨念があって計画的に反乱を起こしたのかもしれない。
 「赤松宮」は手勢数百に野伏三千人を率いて賀名生の近くの「銀嵩(かねがたけ)」(五條市・銀峰山)にのぼり、ここで旗を掲げると、賀名生の旧皇居(当時後村上は河内・観心寺にいた)や公家たちの屋敷に火を放った。賀名生は突然の攻撃に混乱したが、やがて「赤松宮」の反乱と分かると、「二条前関白」(二条師基あるいは教基)が討伐の兵を差し向けると、宮についていた兵たちは散り散りに逃げうせて五十騎ばかりが残るだけとなってしまった。赤松氏範が「赤松宮」を見捨てずに奮戦した<ahref="mi.html#hatiro"target="b">みうらはちろうざえもん</a><br>
<br>がかなわず、「赤松宮」は奈良へと落ち延びた。
 以上の経緯は『太平記』巻34で物語的脚色も交えて詳しく記されているが、一時史料である『大乗院日記目録』にも日付も含めてほぼ同じ展開の記事が載っており、事実であることが確認できる。「赤松宮」のその後の消息はまったく不明で、『細々要記』では「自殺」とするがこの史料の記述自体が『太平記』の影響を受けている可能性があり、そのまま信用はしかねる。『南朝編年紀略』という史書では幽閉後に殺害されたとするが、これも後世の南朝人気を背景にした編纂物のため信用できない。
 なお、「陸良親王の墓」とされるものは奈良県吉野郡野迫川村の清久寺の「田村塚」、兵庫県姫路市香寺町の須加院にある「親王塚」、はては長崎県対馬市根緒の「大塔備前守陸良ノ墓」(対馬まで逃れて「大塔備前守」を名乗ったとする伝承)などがある。護良親王伝説同様、波乱の生涯を送ったその息子についても各地に伝説が生まれてしまったようである。

参考文献
亀田俊和『南朝の真実』(吉川弘文館・歴史文化ライブラリ―378)ほか
歴史小説では
田中俊資の小説『南朝盛衰記』は興良親王を陸良と同一人物としたうえで主人公に設定し、その幼少期から南朝に対する反逆までの波乱の生涯を通して南北朝史を描いた大長編である。

満仁親王みつひと・しんのう1354(文和3/文和9)-1426(応永33)
親族父:全仁親王
子:直明王
官職弾正尹
生 涯
―愛人を差し出して親王に―

 亀山天皇の皇子・恒明親王から始まる「常盤井宮家」で、恒明の子・全仁親王の子。つまり亀山天皇のひ孫にあたるが、この時代にあっても天皇のひ孫レベルは「親王」にはなれないのが通例で、満仁も若いうちは「満仁王」であり、無位無官であった。
 貞治6年(正平22、1367)7月19日に父・全仁が48歳で死去。全仁はよほど我が子の行く末が心配だったようで、死の間際に後光厳天皇に泣きついて、満仁を後光厳の「猶子」(養子)扱いとすることを認めさせていた。このことは後光厳自身が日記に書いているのだが、「しなしながら孫王(天皇の子である親王の孫)を親王に立てることは最近では禁じられている」とも書き添えていて、満仁を親王にする気などさらさらなく、満仁側から繰り返し親王宣下を求めても許そうとしなかった。
 応安2年(正平24、1369)正月19日に元服式が行われ、内大臣の正親町三条実継が加冠、万里小路嗣房が理髪をつとめた。このとき満仁は16歳であったという(「後愚昧記」)。しかし相変わらず親王になることは許されず、無官のままであった。それでも亀山が恒明に与えた所領が豊富であったため経済力はそれなりにあったらしい。

 永徳元年(弘和元、1381)12月24日、28歳となっていた満仁はようやく親王宣下を受けた。三条公忠はこの異例の親王宣下について、日記『後愚昧記』の中で「満仁が小少将という愛妾を将軍(義満)に差し出して取り入らせために義満が朝廷に口添えをしたのだ」との噂がささやかれたことを記し、「この噂はおおむね事実らしい」と書き添えている。満仁に限らず、足利義満に愛人はおろか妻まで差し出して出世した例はほかにもあり、特に満仁が異常というわけではないが、このままでは常盤井宮家が先細る、という危機感はあったのだろう。なお「満仁」の「満」も義満の一字を与えられたものと推測されている(上記の元服時の記録では名に言及がない)
 親王となったおかげで永徳3年(弘和3、1383)正月16日に「弾正尹」に任じられた。

 応永2年(1395)6月に義満が突然出家すると、武家・公家をとわず「後追い出家」をするものが続出した。そんな中で満仁は本来出家するつもりはなかったが、義満から「あなたのご法名は何でしたかな」と意味ありげに声をかけられ、あわてて出家している(「荒暦」応永2年7月5日条)
 その後は息子の道明王をなんとか親王にしようと努力し続けたがうまくいかず、おまけに家名の由来である「常盤井殿」を義満の側近である日野重光に奪われて住まいをよそに移さねばならない悲劇にも見舞われた。
 応永33年(1426)10月8日に死去。享年七十三であった。満仁が心配したとおり、常盤井宮家は次の道明の代でひどく窮乏することとなる。

参考文献
松薗斉「中世の宮家―南北朝・室町期を中心に―」(愛知学院大学人間文化研究所紀要「人間文化」第25号所収)

光吉心蔵みつよし・しんぞう生没年不詳
生 涯
―細川配下で奮戦した阿波武士―

 阿波の武士。阿波国麻植荘の西方地頭・飯尾吉連の代官として現地に入っていた。主君の飯尾吉連は足利尊氏の腹心の一人であり、心蔵もその指示を受けて阿波守護の細川氏の指揮下で阿波各地に転戦している。その転戦の様子は観応3年(正平7、1352)5月に心蔵が提出し、指揮官の細川頼之が証判した軍忠状(飯尾文書に含まれる)によって詳しく知られる。
 観応元年(正平5、1350)12月、折からの幕府の内戦「観応の擾乱」に乗じて阿波では小笠原頼清ら南朝方が活動を活発化させた。12月27日に心蔵は頼之に従って八万城(現・徳島市内)にたてこもり、翌正月に敵の要害を焼き討ち、7月には小笠原軍と東条(現・徳島市内)で戦って勝利した。8月には板西上荘を警護、10月に南朝方・河村小四郎の別子山城を攻め、同月に勝浦荘(現・徳島市内)の中津峰の合戦に参加。12月には総持院の敵の在所を焼き払うなど、観応2年の一年間を徳島平野各地でめまぐるしく転戦している。
 翌観応3=文和元年(正平7、1352)閏2月に南朝軍の京都突入で頼之の父・細川頼春が戦死し、頼之がその弔い合戦のため3月に上洛すると、心蔵も息子の右衛門と共にその軍に加わった。軍忠状によると心蔵は洞ヶ峠の頼之の陣営を昼夜警護にあたったほか、4月25日には南朝軍のこもる男山攻撃に参加、経塚の合戦で戦功をあげている。

参考文献
小川信『細川頼之』(吉川弘文館・人物叢書)

三戸師親みと・もろちか?-1351(観応2/正平6)
親族父:三戸師澄 養父:高師冬
生 涯
―乱世向きじゃなかったかも―

 足利家の執事をつとめた高一族(高階氏)の一員。高師直のいとこ師澄が「三戸」氏を称するようになり、その子が「三戸七郎師親」となる。師親はおじの高師冬の猶子(養子)となったとされ、高師冬と共に関東の足利方の中核となって活動している。南朝の北畠親房が常陸で作戦を展開していた時にも足利軍の「一手の大将」として「三戸七郎」の名前を親房自身が書状に書いている。
 貞和5年(正平4、1349)に師直がクーデターを起こして足利直義一派を失脚させ、尊氏の嫡子・足利義詮を鎌倉から京に移して政権を担当させ、入れ替わりにその弟の基氏を鎌倉に下し、関東支配を任せた(関東公方の始まり)。基氏の補佐は高師冬と上杉憲顕(直義派)が二頭体制でつとめることになり、師冬の片腕である師親は基氏の「御後見」として常にそのそばに置かれた(「太平記」)

 しかし翌年観応元年(正平5、1350)直義は南朝と和睦し巻き返しを図った。関東でも直義派の上杉憲顕が鎌倉を離れて上野で挙兵、危険を感じた師冬は基氏を擁して鎌倉を離れ、12月25日に相模国毛利荘湯山に入った。しかしここで上杉氏と内通していた武士たちが寝返り、基氏を奪い取って鎌倉に連れ帰ってしまう。直義派の石塔義房が書いた書状によると三戸七郎は「中賀野加子宮内少輔」に討たれたとある。
 この展開は「太平記」でも大筋で同じなのだが、三戸七郎は死んではおらず、「半死半生で行方不明になった」とされている。そして実際にこのあと再び登場することになるのである。

 翌観応2年(正平6、1351)正月に師冬は甲斐で殺され、畿内でも直義派が勝利を収めて2月26日に師直・師泰ら高一族の多くが武庫川で殺害された。いったん和睦した尊氏・直義だったが間もなく決裂、尊氏は南朝と手を結んで(正平の一統)直義を攻撃し、直義は北陸を経由して関東へと逃れる。そして尊氏は大軍を率いて東海道を下り、関東から迎撃してきた直義軍と駿河・薩タ山において12月に決戦を行うことになった。
 このとき下野の宇都宮氏綱が尊氏方に呼応し、直義軍を背後から攻撃する態勢をとった。「太平記」によると氏綱はこのとき「武蔵守師直の一族の三戸七郎という者がその辺に隠れていたのを大将にした」とある。三戸七郎が生存しており宇都宮軍に擁立されたことは宇都宮軍に属して戦った高麗助綱の軍忠状によって確認でき、それによると8月ごろには宇都宮氏と連絡をとっていたことが分かる。
 12月15日に宇都宮を出陣した宇都宮軍は翌16日に天明の宿(現・栃木県佐野市天明)に入り、さらに味方を加えた。ところがここで突然、総大将である三戸七郎が「にわかに狂気になって自害をして死ににけり」という事態が起こってしまった(「太平記」)

 研究者の峰岸純夫氏は「師親は、総大将の重圧と、かつて打出浜合戦後に高師直一族の大量虐殺された連想とが重なり、狂気になったと考えられる」と述べている。三戸師親にとっては宇都宮軍に担ぎ出されたのも意に反することだったのかもしれない。半死半生の目にあって隠れ住むうちに過酷な世の変転に耐えられなくなっていたのではあるまいか。師直とは違った意味で「観応の擾乱」の哀れな犠牲者という気もしてくる。

参考文献
峰岸純夫「足利尊氏と直義・京の夢、鎌倉の夢」(吉川弘文館歴史文化ライブラリー272)ほか
NHK大河ドラマ「太平記」「三戸七郎」の役名で足利尊氏の重臣の一人として、第10回から最終回まで25回も登場した(演:中島定則)。ただし特に個性があるわけでもなく、大高重成・南宗継と一緒に「足利家重臣一同」という形で顔をそろえているだけだった。観応の擾乱以後の史実も完全に無視されている。

南重長みなみ・しげなが生没年不詳
親族父:南頼基 兄弟:南惟時・南頼尚・南惟基・南惟宗 子:大高重成
生 涯
―足利貞氏の執事―

 足利家の執事を代々務めた高一族(高階氏)の一員で、南北朝時代に足利家臣として活躍した勇将・大高重成の父。有名な高師直から見ると父のいとこにあたる。高家の分家で父の頼基から「南」と名乗っているが、重長は「小高」を称したとも、息子と同じく「大高」を称したともされている。法名は「長円」
 詳しいことは一切不明だが、尊氏の父・足利貞氏の時代に他の高一族と交代しながら執事をつとめている。
NHK大河ドラマ「太平記」足利家臣として第1回から第10回までほぼ毎回顔を見せる(演:河原さぶ)。特に個性はなく、高師長・大平惟行らとまとめて貞氏世代の家臣として登場する。貞氏・高氏が赤橋邸を訪問する時にむくれる直義を黙然とやり過ごすシーンだけ印象に残る。
歴史小説では鷲尾雨工「吉野朝太平記」に高師直一族の一員の名前が列挙されるなかに「小高重長」として名前だけ出てくる。作者もよく分かってなかったようで、「大高重成」の次に「小高」と並べているだけで、両者が親子とはとても見えない。

南の御方みなみのおんかた生没年不詳
親族父:持明院保藤?
生 涯
―護良親王の最期を見届けた女性―

 古典『太平記』の中で、建武元年(1334)10月に後醍醐天皇の命で捕えられ、鎌倉に幽閉された護良親王に付き添いでついたと伝わる女性。『太平記』は「上掾vと表現しているので、かなり高い身分の女性とみられる。『尊卑分脈』では中納言にまでなった持明院保藤(1254-1342)の娘の一人が「後醍醐院の新按察典侍」であり、「護良親王家において南の御方」と書かれている。これを信用して「太平記」の伝える「南の御方」と同一人物とみれば、初めは後醍醐天皇の後宮に入った女性で、その後護良親王の側室に入った女性ということになる。護良親王が「家」を構える状態になったのは建武政権樹立以後のことなので、護良親王の側室になって間もなく護良失脚に見舞われたものと思われる。
 彼女について記しているのは『太平記』しかなく、それによれば護良親王が捕えられて鎌倉の足利直義のもとに幽閉されることが決まると、彼女一人がその付き添いとして幽閉先に詰めた。しばしば護良親王は「土牢」に幽閉されたとされるが実際には東光寺の土で塗り込めた一室に閉じ込められたものであり、付き添いの女性もちゃんとついていたのだから不自由とはいえそう悪い待遇でもなかったというのが真相のようである。
 
 翌建武2年(1335)7月、北条時行「中先代の乱」を起こし、鎌倉を奪回した。足利直義は鎌倉を放棄するにあたって、家臣の淵辺義博に護良親王の殺害を命じた。淵辺は指示に従って護良を殺害、その首を草むらに放り投げていった。南の御方は一部始終を目撃して恐怖と悲嘆にくれ、心が落ち着いてから護良の首を拾った。理智光寺の長老が事情を聞いて護良の葬儀を執り行い、南の御方は髪をおろして尼になり護良の菩提を弔う身となった。そして京にのぼって護良殺害の事実を朝廷に告げたという。
 以上の話は文学的創作もたぶんに感じられるもので、南の御方という女性が実在したかどうかすらよく分からない(「尊卑分脈」も「太平記」の記事をもとに後から話を作ってしまったと思われる例がある)。ただ幽閉された護良に付き添いの女性がいた、ということだけは事実なのだろう。
NHK大河ドラマ「太平記」護良が殺害される第30回「悲劇の皇子」で、護良親王が淵辺が入って来た気配を感じて、「南か…」と呼びかけるセリフがある。ただし南の方本人は登場しない。また第33回で名前は出さないものの護良の付き添いをしていた女性が都に来て殺害を伝えたというセリフがある。
歴史小説では護良殺害の場面で登場していることが多い。また護良が熊野落ちの際に妃とした竹原八郎の娘を「南の方」に設定している小説もある。

南宗継みなみ・むねつぐ?-1371(応安4/建徳2)
親族父:南惟宗 養父:南惟潔 兄弟:南惟潔・南宗章 妻:高師春の娘
子:南宗直・南宗久・高師有の妻
官職遠江守
幕府侍所頭人、三河・備中守護、執事
生 涯
―南北朝を生き抜いた高一族の一員―

 足利家の執事を代々務めた高一族(高階氏)の一員で、南北朝時代を生き抜いた足利重臣の一人。「高階氏系図」によると惟宗の子だが、兄の惟潔の養子になっている。生年は不明だがおおむね足利尊氏と同世代であったと思われる。大高重成がいとこ、高師直とは父同士がいとこの「またいとこ」になる。生まれは紀伊国名草(現・和歌山市名草)であるとの説もあるらしい。
 
 南一族は挙兵以来尊氏とともに行動していたと思われ、宗継の兄・宗章は建武2年8月の中先代の乱北条時行軍を迎撃して戦死している(高階氏系図)。古典「太平記」において宗継の名が初めて登場するのは尊氏が建武3年(1336)に京都攻防戦に敗れて九州まで敗走した時点。北九州の足利方である少弐貞経のもとに尊氏から派遣された使者の一人が「南遠江守宗継」である。その直後の菊池氏との多々良浜の戦いにも参加者として名前がみえる。この戦いに勝利した尊氏は東へ向かい、湊川の戦いに勝利して京を占領するが、その後の後醍醐天皇のこもる比叡山への攻撃でも宗継が参加している。
 足利幕府が樹立されると宗継は侍所頭人に任じられ、師直・師泰ら高一門として主に幕府の軍事面を担当した。貞和4年(正平3、1347)の楠木正行との四条畷の戦いにも高一族として参加しており、同族の南次郎左衛門尉が戦死している。

 観応の擾乱では当然尊氏・師直側についたと考えられるが、南一族は師直一族と運命を共にすることなく、尊氏のそばにあって生き残った。尊氏が南朝と講和して直義を討つため関東に下ると宗継はこれに同行し、南朝方の新田義興軍が鎌倉に押し寄せた時にこれを防ぎ、また尊氏の関東政務を助けて実質的な執事の役割をつとめていたことが書状により判明している。

 延文2年(正平12、1357)に宗継は領地のあった下野国・足利荘丸木郷に清源寺を建立した。これが南氏の菩提寺となり、宗継の肖像画も保存されている。丸木郷はこのころ「名草郷」と改名され、それは宗継が生まれ故郷をしのんで名付けたとする説がある。このころから南宗継の政治活動がほとんど分からず、尊氏が京へ戻るのには同行せず、この地に居を定めたものと思われる。名草には「名草城」という南北朝期の山城跡があり、これは南宗継が築いたものとされている。
 こぼれ話として、現在もこの地の名産とされる「生姜(ショウガ)」を持ちこんだのは南宗継その人、とする説が地元ではあるらしい。実際に宗継の故郷とされる和歌山の名草も生姜の産地で、もしかするともしかするのかもしれない。

 かつて足利市内の樺崎寺にあり、現在は同市内の光得寺に移転されている五輪塔群を調査したところ、足利家歴代当主と共に歴代執事をつとめた高一族の名と命日が刻まれていることが確認された。判読できたものの一つには「月海円光大禅門 応安四年辛亥三月」と刻まれており、これが南宗継の法名と命日であることが確定している。恐らく尊氏死去にあわせて出家したのではないだろうか。そして宗継は応安4年(1371)まで存命で、二代将軍義詮が世を去り、三代将軍義満の時代までを見とどけたことが分かる。
 なお、光得寺の五輪塔の配列では宗継のすぐ隣が高師直の供養塔である。これら「樺崎寺五輪塔群」が建立された経緯は判然としないが、恐らく南宗継の子孫が足利宗家とそれを助けた高一族の栄光を誇り、非業の死を遂げた師直らの霊を慰めるために発祥の地・足利にこれを立てたものではないかと推測されている。

参考文献
菊地卓「新編足利浪漫紀行」ほか
NHK大河ドラマ「太平記」第9回で尊氏が足利家督を継いでから登場、尊氏世代の家臣として最終回まで登場した(演:樫葉武司)。登場回数は実に24回にもおよび、ほとんどレギュラーキャラなのだが、全くの没個性で大高重成・三戸七郎らと一緒に「足利重臣」として顔をそろえているだけである。

源為守みなもとの・ためもり生没年不詳
親族父:源為雅 母:亀山院大輔局
姉妹:洞院公敏室(二人)
子:源守賢・洞院公敏室
官職侍従・兵衛権佐・右近衛少将・近江介
位階
従五位下→従五位上→正五位下→従四位下→従四位上→正四位下→従三位
生 涯
―正中の変で捕縛された宇多源氏の公家―

 宇多源氏・佐々木野家。右近衛少将・源為雅の子。弘安9年(1286)に従五位下に叙せられ、侍従・兵衛権佐を経て永仁2年(1294)に右近衛少将、正安3年(1301)に近江介、正和5年1316)に従三位にまで昇った。
 正中元年(1324)9月に後醍醐天皇による討幕計画が発覚、「正中の変」が起こると、為守は幕府により逮捕され鎌倉へ送られ尋問を受けている。この事実は花園上皇の日記に記されているのだが、逮捕理由は事件の首謀者とされた日野資朝の「知音」(友人)であったからで、有名な後醍醐一派の「無礼講」の密議にもグループの中心的存在(「専一」と表現される)として参加していたとも噂されている。一時鎌倉へ護送されたとの噂が流れたが、実際には鎌倉へ行くことなく解放されたらしい。結局事件は資朝ひとりが罪をかぶって佐渡へ流されて終わるのだが、その友人とされる為守がどの程度事件に関わっていたかは花園の日記以外で確かめることはできない。
 没年は不明だが、嘉暦2年(1327)8月21日に出家(法名「本智」)しているので、その直後の死去であろう。

宮田時清みやた・とききよ?-1399(応永6)?
親族父:山名氏清 母:藤原保脩の娘
兄弟:山名満氏・山名氏利・山名氏義(義弟)・山名満幸室 
子:宮田氏明?
官職大夫将監
生 涯
―応永の乱に呼応した山名氏清の子―

 「明徳の乱」で敗死した山名氏清の長男。「山名時清」とも呼ばれる。通り名は「左馬助」であったという(「明徳記」)『尊卑分脈』によれば官職は「大夫将監」で、「新続古和歌集」に入選していることが知られる。丹波国宮田荘(現・兵庫県篠山市)に入ったことから「宮田」の名字を称した。『明徳記』ですでに「宮田左馬助」と表記されていることから明徳の乱の時点ですでにそう呼ばれていたことが分かる。

 明徳2年(元中8、1392)12月に父・氏清が「明徳の乱」を起こして将軍足利義満に挑戦、京へ攻め込むと、時清も弟の山名満氏と共に父に従い参戦した。しかし内野の戦いで山名軍は崩壊、敗北を覚悟した氏清から時清と満氏は丹波に落ちて再起をはかれと説得され、五十騎ばかりで丹波へ逃げ帰った。時清らは畑城にこもって再起をはかったが丹波の国人らが味方につかず、やむなく摂津・有馬温泉へ逃亡してここで兄弟そろって出家し、尼崎から海路で紀伊の山名義理を頼った。しかし義理が「目の前で父が討たれるのを見捨てて逃げてくるような不覚者を親類といえど受け入れるわけにはいかん」と面会もせず拒絶したため、時清らはやむなく熊野へと逃れた。
 その後、時清が母(「山名系図」によれば藤原保脩の娘)に使者を送って氏清の戦死を伝えたところ、母は自害を図ってしまう。母が自害未遂で瀕死の状態と知った時清と満氏は母のいる根来に駆けつけて面会しようとしたが、母から「二十歳を過ぎて父と共に戦場に出ながら、逃亡して出家するとは情けない」と拒絶されてしまう。時清らはやむなく引き下がり、やがて母は死去したが、その世話をしていた時清の妻はそのあとを追って川に身を投げたという(「明徳記」)。こののち時清の行方は知れなくなるが、丹波に戻って本拠地の宮田荘に潜伏していたと思われる。

 応永6年(1399)に大内義弘「応永の乱」を起こすと、時清は京極秀満土岐詮直ら義満に不満を抱く武将らと共にこれに呼応して宮田で挙兵し、兵三百を率いて京へ突入した。京市内に火を放って、「亡き父の本意を遂げよう」と男山八幡の義満の本陣も狙ったが、さすがに撃退されて丹波へ撤退した(「応永記」)。義満は山名時熙に時清の討伐を命じ、時熙は丹波国人らを動員して時清らを丹波国八田(現・綾部市)に攻撃、時清らは鎮圧された。
 『山名家譜』では時清は荻野信盛に討たれ、弟の満氏も討たれて11月中に反乱は鎮圧されたとする。しかし他の史料や軍忠状から12月7日に時清の討伐軍の間で戦闘が起こっていることが確認できるため『家譜』の記述はあまり信用できない。
 一方で時清の子孫とみられる「宮田氏」が丹波にその後も存続していることも確認でき、時清がこのとき本当に戦死したのか再考の余地はある。またネット上では複数のサイトで「応永16年の氏清33回忌を機に時清が義満から赦免された」とする恐らく同じ情報源に基づく記述が見つかるが、応永16年は氏清の33回忌には早すぎる上に義満はその時点では死去しているため信用は置けない。ただ時清もしくはその子孫が赦免を受けたという事実はあるのかもしれない。

参考文献
ウェブサイト「山名氏史料館『山名蔵』」ほか

妙吉みょうきつ生没年不詳
生 涯
―直義に接近した謎の禅僧―

 詳細な出自は不明だが、「太平記」では当時最高の尊崇を集めた禅僧・夢窓疎石の兄弟弟子とされる。疎石の絶大な成功を見てうらやましく思った妙吉は、法力で知られた仁和寺の志一房(しばらく後に鎌倉で同名の僧がいるが同一人か不明)について修行し、疎石にも高僧として認められた。疎石に深く帰依していた足利直義に夢窓自身が推挙したところ、直義は妙吉にも深い信頼と保護を寄せて、京・一条堀川の戻り橋村雲に寺(後に直義の法名をとって大休寺となる)を建てて妙吉をその住職とした。
 当時幕府の有力者で会った直義の信頼を得たことで妙吉は京の有力者の多くから尊敬を集めたが、高師直師泰の兄弟は彼をまったく無視し、それどころか寺の門前を馬で乗り打ちしたり、道で行き会っても挨拶どころか乗馬したまま足蹴にしそうな態度をとったという。そもそも師直兄弟は古い権威を全く認めず、神社仏閣すらもお構いなしに焼き払ったとされる上に、このころ直義一派と政治的に激しく対立していたことも背景にあっただろう。一方で「太平記」は妙吉についても権勢を好み、知識をひけらかす僧侶として批判的に書いている(そもそも南朝方の怨霊により乱をおこすため操られている設定である)

 師直兄弟にこのように扱われて面白いはずがない。妙吉は直義にあれこれと師直兄弟の悪口を吹き込む。これを聞かされた直義はますます師直を敵視し、ついには貞和5年(正平4、1349)閏6月に尊氏に迫って師直を執事職から解任させた。妙吉が直義に師直の悪口を吹き込んだことは「太平記」が大々的に書いていることだが、リアルタイム史料である洞院公賢の日記『園太暦』にもこの年閏6月2日の条に「そもそもこのようなことになったのは近日武衛(=直義)は禅僧・妙吉を深く信じて政策を進めたためだそうだ」と伝聞情報として書かれており、当時広まっていた話なのだろう。同じ「園太暦」の閏6月3日の条には「近来権勢をふるっている僧・妙吉が京から逐電した。八幡に参籠に行ったとも、美作に行ったとも噂されたが、どうやら直冬のもとへの使者として備後に向かったそうだ」と記され、妙吉が「権勢」をふるう僧であること、当時長門探題として備後に赴任していた直義の養子・直冬(尊氏庶子)との連絡役をとっていることが分かる。恐らく直義は師直に軍事的に対抗するため直冬の上洛を求めたのだろう。
 
 この翌月、妙吉にそそのかされた直義とその腹心・上杉重能畠山直宗らは師直を直義邸に招いてその暗殺を謀った。これは失敗に終わり、師直は重能・直宗そして妙吉を激しく憎んだ。8月13日に直義打倒のクーデターを起こした師直は直義もろとも将軍・尊氏邸を包囲、包囲を解く条件として重能・直宗らと共に妙吉の引き渡しも要求している。ところが妙吉はいずこかへ逐電してしまっていた(「太平記」「園太暦」とも一致)。その後の行方は全く知れない。「太平記」がそうしたように、何やら乱をおこすために南朝怨霊がつかわした天狗のように見えなくもない。
 
 この妙吉は同時代にいた高僧・大同妙普iみょうてつ、?-1366)と同一人物とする話が『鎌倉大草紙』に載っている。妙浮ヘ江戸初期に編纂された名僧列伝『本朝高僧伝』にも伝記が載る人物で、陸奥国の生まれで高峰顕日の弟子ということでは確かに夢窓疎石と兄弟弟子の関係にある。京の北禅寺・真如寺、鎌倉の浄智寺などに移り住んだ人物だが、「大草紙」は「直義の師で、師直に憎まれて鎌倉に下り浄智寺に入った」との記述をした上で「よく物を知らない太平記の作者はこれを『妙吉』と誤記した上に愛宕の天狗の化身のように書いている」と批判している。この記事をもってこの二人が同一人物とする説もあるのだが、「大草紙」自体が「太平記」より百年も後に書かれていること、「園太暦」が「妙吉」と明記していること、「高僧」イメージとのギャップから否定的にみる意見の方が強い。
NHK大河ドラマ「太平記」第44回に登場(演:白川俊輔)。古典「太平記」同様に直義側近として師直暗殺を謀る場面で初めて顔を見せ、その後8月13日の師直クーデターの日には尊氏邸で尊氏と一緒に猿楽を見物している。酒を飲んで酔っ払う破戒僧のイメージで描かれ、師直の挙兵を知ると大騒ぎ。尊氏に「早く逃げろ」とささやかれて、大慌てでどこかへ去っていく。

三善宗信みよし・むねのぶ
 NHK大河ドラマ「太平記」の第4回のみ登場する人物(演:崎津隆介)。自ら名乗るセリフでは「侍所所司」。正中の変で大騒ぎの京から帰ってきた足利高氏を藤沢で待ち受け、日野俊基と密会した容疑で逮捕、侍所へ連行する。

民部卿三位局みんぶきょう・さんみのつぼね生没年不詳
親族父:北畠師親?もしくは日野経光?
夫:亀山天皇・後醍醐天皇
子:尊珍法親王・護良親王・姚子内親王・近衛基嗣室・尊性法親王?
位階
従三位?
生 涯
―天皇二人に仕えた護良の生母―

 皇室の系図類から、北畠師親の娘・親子とするのが通説だが、世代的に護良親王の母になるのは不自然との意見もある(師親の娘とすれば、北畠親房と護良が従兄弟関係になる)。このためいくつかの傍証から日野(広橋)経光の娘・経子ではないかとする異説も唱えられている。

 後醍醐天皇の妃の一人として、護良をはじめ複数の子女を生んだ女性であるが、『増鏡』に護良の母・民部卿三位について「むかし、亀山院に御子など生み奉りてさぶらひし女房」と明記されており、彼女が後醍醐の妃となる前にその祖父の亀山上皇の妃となって子を産んでいた事実が確認される。さらに、元徳元年(1329)ごろに金沢貞顕が京にいる息子の貞将に送った書状の中で「吉田前大納言(定房)の妻・三位局死去のことは承知した。ところで皇子たちの母『民部卿三品』は吉田と一体との噂を聞いているのだが、その女性のことなのかそれとも別人なのかどうか詳しく教えてほしい。(中略)民部卿三品は梨本門主の宮(当代の御子)と聖護院准后(亀山院の御子)の母君だ」と記していることから、民部卿三位が亀山上皇との間に産んだ子は聖護院准后=尊珍法親王であると断定できる。
 尊珍法親王は一部史料で後醍醐の子とされることがある人物で、母の民部卿三位が亀山死後に皇子時代の後醍醐の妃となったため、「連れ子」として後醍醐の子も同然の扱い(猶子)を受けたのだと想像される。尊珍は元徳2年(1330)の末に陰謀に関与した疑いで越前に流されたが、金沢貞顕の書状に「吉田と一体」とあることから、民部卿三位局自身が後醍醐側近の吉田定房と結びつき、幕府からマークされていたようにも読める。

 元弘元年(1331)に後醍醐が挙兵して失敗、翌年隠岐に流された。尊珍は流刑先で死去し、護良親王は南畿方面で抵抗運動を続け、民部卿三位局には辛い日々となった。『太平記』ではこのとき彼女が北野天満宮に参籠し、夢の中で後醍醐がまもなく帰還するとの瑞夢を見たという物語を記している。その夢は現実となったのだが、その直後に護良の失脚と惨死、建武政権の崩壊と続くので、彼女はまた辛い人生を送ったと思われる。没年は不明である。

参考文献
森茂曉『皇子たちの南北朝・後醍醐天皇の分身』(中公文庫)


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