金沢貞顕 | かねざわ・さだあき | 1278(弘安元)-1333(正慶2/元弘3) |
親族 | 父:北条顕時 母:遠藤為俊の娘(入殿) 妻:北条時村の娘、薬師堂殿
兄弟姉妹:顕弁、甘縄顕実、式部大夫時雄、顕景、名越時如室、千葉胤宗室、足利貞氏室
子:顕助、金沢貞将、金沢貞冬、顕恵、金沢貞匡、金沢貞高、貞助、道顕 |
官職 | 左衛門尉・東二条院蔵人・右近将監・左近将監・中務大輔・越後守・右馬守・武蔵守・修理権大夫 |
位階 | 従五位下→従五位上→正五位下→従四位下 |
幕府 | 六波羅探題南方・六波羅探題北方・伊勢守護・連署・幕府執権(第15代)・寄合衆・志摩守護 |
生 涯 |
北条氏金沢流で、「金沢貞顕」の呼び名が定着している。六波羅探題や連署、ごく短期とはいえ執権も務めるなど幕府首脳を歴任し、大量に残された書状類によって鎌倉幕府落日の日々の貴重な証言者ともなった人物である。
―好学の六波羅探題―
北条顕時を父に、その側室となった摂津御家人の遠藤為俊の娘(「入殿」と呼ばれる)を母に、弘安元年に誕生した。貞顕は「越後六郎」と呼ばれていることから上に五人の兄がいたと思われる。確認できる兄として僧となった異母兄の顕弁、同じく異母兄の顕景、同母兄の甘縄顕実・時雄がいる(もう一人の兄は夭折?)。また父・顕時の正室は安達泰盛の娘で、この女性は足利貞氏の正室「釈迦堂殿」を生んでいる。
弘安8年(1285)に「霜月騒動」が起こって安達泰盛が平頼綱に討たれると、顕時もその娘婿ということで一時左遷を余儀なくされていて、貞顕も少年時代は乳母父・富谷左衛門入道の本拠地である下総・富谷郷(千葉県白井市)で過ごしたらしい。富谷左衛門入道の一周忌に書かれた文章の中に「武州太守(貞顕)がまだ幼かったころ、夜は一晩じゅう抱いて寝て、昼は膝の上に遊ばせていた」というくだりがあり、少年時代の貞顕が乳母父にいかに可愛がられて育ったかをうかがわせている。
永仁元年(1293)の「平禅門の乱」で平頼綱が討たれると、顕時も鎌倉に復帰し、翌永仁2年(1294)12月に貞顕は17歳で左衛門尉・東二条院蔵人に任じられた。これはやや遅い官職デビューではあったが、父・顕時が執権・北条貞時の厚い信任を受けたこともあり、以後の貞顕は出世街道を走っていくことになる。
父・顕時は正安3年(1301)に亡くなるが、貞顕はその後継者として貞時の信任を引き続き受け、官位を上昇させてゆく。弱冠24歳の貞顕は僧籍に入った長兄を除いても三人もの異母・同母兄を飛び越えて後継者に定められており、兄弟の中でもとびぬけた才能を示していたのだと思われる。
正安4年(1302)7月に貞顕は六波羅探題南方に任じられ、千余騎の兵を従えて京に入った。ここから足掛け12年(一時鎌倉に帰るが)の長きにわたる貞顕の京都生活が始まることになる。貞顕は「金沢文庫」を創設した祖父・北条実時以来学問に励む家風の金沢流の素養を生かし、朝廷の公家たちや寺社勢力と折衝に当たる日々を送ることになる。
そんな日々を過ごしていた嘉元3年(1305)4月、貞顕の周囲に緊張が走った。貞顕の妻の父でこのとき連署をつとめていた北条時村が突然謀反の疑いをかけられ内管領北条宗方に討たれたのだ。知らせを受けた貞顕は驚愕し、六波羅探題北方から攻撃を受ける可能性ありと南方では大いに緊張した。結局5月初めに全ては宗方の陰謀であったとして執権貞顕が宗方を攻め滅ぼして事件は落着し、貞顕一同はほっと胸をなでおろすことになった(嘉元の乱)。
貞顕の六波羅探題南方時代に起こったトラブルとしては徳治2年(1307)の興福寺の強訴事件がある。奈良の興福寺は比叡山延暦寺と並んで宗教的権威を盾にした強訴をしばしば起こした寺だが、この時も興福寺は春日大社の神木を担いで京に入ろうとした。これを貞顕の家臣ら六波羅探題の兵が宇治橋の橋板を取り外して入京を実力阻止しようとしたため、よけいに興福寺の怒りを買い、結局神木は入京を果たす。興福寺側は責任者として貞顕の罪を訴えたが幕府はこれを聞かず、翌年の7月になって神木は春日大社へと戻った。神木が京から出ていく様子を、貞顕は近衛朱雀の篝屋(かがりや。京市内の警備にあたる武士の詰め所)に桟敷を構えて見物していたという。
探題の仕事をつとめつつ、貞顕は古典書籍を多く蔵している京の公家たちと交流し、積極的に書籍の収集・筆写を行ってもいる。祖父以来の学問の家ということもあり、和漢の古典に通じることで公家社会との交際の役に立てようとの意図があったとみられ、この収集書籍が祖父・実時の作った「金沢文庫」の再建にも寄与することになる。このころ「文庫」はすでにすたれていたようで、貞顕が実質的創建者といっていいとみられている。
―貞時から高時へ―
延慶2年(1309)正月、貞顕は六波羅探題の任を辞して鎌倉へと戻った。そして同月21日に貞時の嫡子で七歳になる北条高時の元服式が執り行われ、貞顕はこの儀式で「御剣役」(剣を持って脇に控える)という大役を果たした。この大役を任されたことを貞顕は「面目きわまりなし」と名誉に思い、元服式がとどこおりなく終わったことに「天下の大慶」と喜ぶ書状を残している。
鎌倉に戻った貞顕はさっそく幕府の引付頭人(第三番)に任じられ、さらに北条得宗家の合議機関であり実質的に幕政の中核をになう「寄合衆」のメンバーにも加えられて、得宗・北条貞時のもとで安達時顕・長崎高綱(円喜)らと共に幕府中枢の一員となった。しかしこのころの貞顕の書状によると貞時はすでに政治に興味を失ったのか連日酒びたりで、貞顕や高綱が奏上もできず困り果てるという場面があったようだ。
翌延慶3年(1310)6月に貞顕は今度は六波羅探題北方に任じられて、再び京に上った。それからおよそ半年がたった延慶4年(1311)正月に貞顕の家臣二人が滝口の武士と女のことからケンカになって相手を殺害、うち一人がこともあろうに御所の紫宸殿に逃げ込んで二人を殺害したうえ自害するという事件が発生する。花園天皇はこの事件のために紫宸殿に入れず、「前代未聞の珍事」と日記に記したほどの不祥事だったが、貞時は貞顕の責任は問わずうやむやにしている。だがこの年の10月26日にその貞時が41歳でこの世を去ってしまった。
正和元年(1312)8月には奈良・興福寺がまたも春日大社神木を担いで強訴し、貞顕はその処理に頭を悩ませている。さらに正和3年(1314)5月には比叡山に属する新日吉社の神人たちが起こした騒動を鎮めるべく、貞顕が派遣した六波羅探題の武士たちが神人たちと衝突、双方に死者が出て新日吉社の神殿まで破壊されるという大乱闘事件が発生する。一時は比叡山僧兵が報復で六波羅を攻撃するとの噂も流れ、武士たちが六波羅に集結して合戦の用意をするという騒ぎになった。幕府は最初の騒動の当事者を処罰し比叡山座主も解任させるという処分を下して事をおさめさせたが、貞顕についてはその責任を問わず、これが比叡山の深い恨みを買った。結局直接的な罪には問われなかったが、この事件の責任を取る形で貞顕は六波羅探題北方を辞し、また鎌倉へと帰っていく。
翌正和4年(1315)7月に普恩寺基時が十三代執権に就任、貞顕はそれをささえる連署に就任した。基時はあくまで得宗・高時の執権就任までの中継ぎであり、翌正和5年(1316)7月に高時が14歳で執権に就任する。貞顕は連署の地位にとどまり、長崎円喜・安達時顕らと共に高時体制を支えることになった。
この間、貞顕の兄・顕弁は園城寺別当を務めて比叡山と対立(新日吉社の一件で恨みのある貞顕の兄であることも一因であったらしい)、比叡山僧兵による「園城寺焼打事件」が起こされ、その後鎌倉に戻って鶴岡八幡宮の社務となっている。同母兄の甘縄顕実、貞顕の嫡子・貞将は幕府引付頭人として活躍するなど、貞顕一家は北条一門の重鎮として重きをなしていく。
そのころ、京の朝廷では後に貞顕の運命を決することになる動きが起こっていた。幕府の調停による「文法の和談」を受けて元応元年(1319)に大覚寺統の後醍醐天皇が即位したのだ。やがて後醍醐は院政を廃して親政を開始し、ひそかに幕府打倒の計画を進めていくのだが、皮肉なことに貞顕は皇室両統の争いについては常に大覚寺統側に味方していた。とくに領地継承の紛争では貞顕は大覚寺統側の主張を全面的に受け入れて持明院統に対して強硬な姿勢に出ていたらしく、花園上皇が「このことは貞顕一人がでしゃばってムチャクチャなことをしているだけなのだ。他の人はなぜ反発しないのか。嘆かわしい、嘆かわしい」と日記に記してもいる。
元亨4年(=正中元、1324)9月、後醍醐による討幕計画が発覚、計画に参加していた土岐頼兼・多治見国長らが討たれ、首謀者として日野資朝・日野俊基が逮捕される騒ぎが起きた。いわゆる「正中の変」である。この事件直後に貞顕の子・貞将が六波羅探題南方として京都に赴任しており、示威の意味もあってか五千の兵を率いて上洛している。もっとも幕府首脳としては事を荒立てまいとする空気が強く(高時の母・覚海の意向があったと言われる)、日野資朝を流刑にしただけで後醍醐の責任はいっさい問わなかった。結果からいえばこの温和な姿勢が彼らの命取りとなってしまう。
―幕府の落日―
正中3年(1326)3月6日、日ごろから病弱であった執権・高時が重態に陥った。3月14日に高時は出家、周囲はもはや助からないものと覚悟し、貞顕も出家の決意を固めた。しかし内管領・長崎高資およびその父・円喜はそれを必死に慰留、貞顕は五度までも出家を願い出たが長崎父子はそれを許さなかった。長崎父子は貞顕が後継の執権に就任することを希望していたのだ。
高時には御内人である五大院宗繁の妹・常葉前が生んだ長男・邦時(このとき生後三カ月)がおり、長崎父子ら御内人勢力はこの邦時への継承を望み、邦時成長までの中継ぎを貞顕に期待していた。しかし高時の生母で、北条氏外戚で御家人勢力の代表・安達氏出身の大方殿(覚海円成)は高時の同母弟・泰家への継承を望んで長崎父子と対立していた。
3月16日、幕府では長崎父子の意向を受けて貞顕の執権就任を決定した。貞顕は「面目きわまりなし」と素直に喜んだが、同日に泰家が怒りのあまり出家。これに追随して出家する者も多く、大方殿・泰家派による貞顕暗殺計画の噂すら出回るほどになった。危険を感じた貞顕は就任わずか十日後の26日に執権職を辞し、そのまま本来の希望であった出家を遂げてしまった(法名・崇顕)。他の北条氏有力者も恐れを抱いて執権職を引き受ける者がなかなか出ず、4月に入って一門の中ではさして実力者でもない赤橋守時が第16代執権に就任することとなった。この混乱は「嘉暦の騒動」と呼ばれるが、高時は奇跡的に一命を取り留め、以後も得宗として一定の影響力を持ち続ける。
出家し、事実上隠居状態となった貞顕は、本拠地・六浦の称名寺と金沢文庫、および京都の常在光院の充実・修築に情熱を注いだ。嫡子の貞将は貞顕の運動もあって元徳2年(1330)7月に六波羅探題を辞して鎌倉に戻って引付一番頭人となり、その弟・貞冬も評定衆に加わって幕府の中で活躍していた。その一方で兄の甘縄顕実や顕弁、長子の顕助がこの数年のうちに相次いで亡くなるなど貞顕にとっては世の移ろいに思いをはせる晩年となったかと思われる。
元徳3年(元弘元年、1331)、後醍醐による二度目の討幕計画が発覚する。後醍醐は8月末に笠置山に挙兵し、幕府はこれを鎮圧するため大軍を派遣することになった。その軍の大将軍の一人として貞顕の息子の貞冬が参加している。この戦いはひとまず後醍醐側の敗北で終結し、後醍醐は隠岐に流刑となるが、翌年には護良親王・楠木正成らによるゲリラ戦が畿内各地で展開され、次第に勢いを増していくことになる。
幕府落日の日々を貞顕がどういう気持ちで過ごしていたかは定かではない。確認されている貞顕最後の書状は正慶元年(元弘2、1332)12月20日付のもので、称名寺の住職と「書状に高時様の祈祷についての報告書が同封されていませんでしたが、後から届きました」といったいたって事務的な内容である。ここでの祈祷というのも特に当時の情勢とは無関係のものであるし、貞顕ら幕府首脳もギリギリまで自身の滅亡が目前に迫っていることを実感できなかったものと推測される。そうした心情をつづった書状等が残らなかっただけかもしれないが、この半年ほどの間にあまりにも急激に事態が変転していったということでもある。
正慶2年(元弘3、1333)3月28日に貞顕の父・顕時の三十三回忌法要が行われている。貞顕は父の供養のために、父の書状を漉いた紙に円覚経を写経させている。この写経の奥書きに「書写供養しおわんぬ」と貞顕自身が書き記して花押を添えており、これが現存する貞顕最後の筆となった。この供養の前日、反幕府勢力の鎮圧のために足利高氏が鎌倉を出陣している。
その高氏は4月末に幕府に反旗を翻し、5月7日に六波羅探題を攻め滅ぼした。翌5月8日には上野で新田義貞が挙兵、たちまち大軍に膨れ上がって鎌倉へと進撃する。貞顕の嫡子・貞将や高時の弟・泰家が新田軍を分倍河原に迎え撃つが敗北し、5月18日から鎌倉での攻防戦が開始される。5月22日についに新田軍が鎌倉市中に乱入、貞将は嫡子・忠時とともに壮烈な戦死を遂げ、貞顕も得宗・高時ら北条一門・郎党らと共に一族の菩提寺・東勝寺に入ってそろって自害して果てた。古典『太平記』は高時と共に自害した武士たちの名の列挙の筆頭に「金沢大夫入道崇顕」の名を含めており、実は『太平記』における貞顕の登場はこの個所だけである。享年56歳であった。
貞和元年(興国6、1345)に称名寺で貞顕の十三回忌法要が執り行われている。このときに実時・顕時・貞顕・貞将の金沢家四代の肖像画が描かれたと推測され、これらの肖像はいずれも国宝とされて貞顕の面影を今日に伝えている。貞顕が情熱を注いだ金沢文庫も貴重な書籍類を後世に伝える大図書館の役割を果たした。
参考文献
永井晋「金沢貞顕」(吉川弘文館・人物叢書)(この文章は全面的にこの本を参考にまとめました)
同「北条高時と金沢貞顕」(山川出版社「日本史ブックレット・人」35)ほか
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大河ドラマ「太平記」 | ドラマ前半の重要キャラクターとして、児玉清が演じた。鎌倉幕府首脳の一人であり、また足利貞氏の義兄・友人として親足利の態度を示す温和な人物に描かれた。第1回の高氏誕生時(1305年)に鎌倉にいるのは史実に反するが、脚本では「六波羅探題になっているが、一時鎌倉に帰参している。引付頭人にでもしてもらいたいのだが」とぼやくセリフでつじつまはあわせていた(ドラマではカットされた)。長崎円喜に対しては反感を持っているものの「庶流の我々には手も足も出ん」と言うセリフもある。
高氏が長崎円喜の策謀にはまった時も足利を助けるが、一方で足利氏に対する警戒心もひそかに抱く様子も描かれる。急激に悪化していく情勢になすすべもなく、次第にうろたえを見せていく過程がじっくりと描かれた。新田義貞の挙兵の報を受けて無様なまでに狼狽し、地図をひっかきまわして周囲を唖然とさせるシーンは忘れ難い。東勝寺での集団自決では腹を切ろうとして何か達観したように中止し、息子の貞将に自身の心臓を一突きさせて息絶えた。なお史実では出家しているが最後まで俗体のままであった。
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歴史小説では | 鎌倉幕府末期の著名人でもあるため、名前だけながら登場している例は多い。吉川英治「私本太平記」では「崇顕」の名で登場、高時に遺児二人が脱出したことを教える役回りとなっている。 |
PCエンジンHu版 | シナリオ1「鎌倉幕府の滅亡」で幕府方武将として登場するが、なぜか伊勢国安濃津城に配置されている(孫・淳時が伊勢に出陣したためか)。能力は「弓2」で、文化人らしくかなり弱い。 |
メガドライブ版 | 楠木・新田帖でプレイすると鎌倉攻防戦のシナリオで「金沢崇顕」の名で登場。能力は体力67・武力71・智力74・人徳59・攻撃力56。 |