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きくたかまさ〜きたのよしつな

規矩高政
きく・たかまさ生没年不詳
親族
父:金沢政顕 養父:赤橋英時
兄弟姉妹:金沢種時・金沢家政・金沢顕茂・金沢時継・金沢師顕・糸田顕義・糸田貞義・安達時顕室
官職
掃部介
幕府
肥後守護
生 涯
―九州で挙兵した北条一門残党―

 北条一門・金沢流の金沢政顕の子。嘉暦2年(1327)から肥後守護を務めている。また鎮西探題・赤橋英時の養子となり、豊前国規矩郡に所領を持ったことから「規矩」」の名字を名乗るようになった。
 正慶2年(元弘3、1333)3月13日、後醍醐天皇方についた肥後の菊池武時が博多の鎮西探題を攻撃したが敗北、戦死した。規矩高政はその2日後に博多に駆けつけ、16日には菊池一族の掃討のため肥後へ出陣し3月末までに菊池氏のこもる鞍岡城を攻め落としている。しかし5月に入ると六波羅探題滅亡の知らせが入ると少弐・大友らが寝返って鎮西探題を攻撃、5月25日に赤橋英時は一族郎党と共に自害して果てた。養父を失った高政は実弟の糸田貞義と共に潜伏した。

 建武元年(1333)正月、高政は貞義と共に北条残党を集めて挙兵した。高政は領地のある豊前国規矩郡の帆柱山城にたてこもり、7月まで抵抗を続けたが、少弐・大友らの軍の前に鎮圧された。弟の貞義も3月までに鎮圧され、高政も鎮圧時に戦死もしくは投降の上で処刑されたと思われるが、兄弟ともにその最期については記録が残されていない。
PCエンジンHu版
シナリオ1「鎌倉幕府の滅亡」において、肥後・砥田城に登場する。能力は「長刀4」

菊池(きくち)氏
 南北朝時代以来、刀伊の入寇(1019)を撃退した藤原隆家の子孫を自称しているが疑問も持たれている。少なくとも隆家の下で大宰少弐をつとめた肥後住人・政則を祖先とするのは間違いないらしく、政則の子・則隆が肥後菊池に入ったことから「菊池氏」を称するようになった。平安時代以来九州の名族でありつづけたが、承久の乱で後鳥羽上皇方に味方したため領地を減らされた。元弘の際には武房が活躍。南北朝動乱では元弘の乱以来一貫して後醍醐=南朝方で奮戦、武光の代には懐良親王を奉じて一時は九州全域を支配下に置いた。南北朝合体後も一定の勢力を保ったが戦国時代に内紛を起こして周辺勢力に浸食され、滅亡した。一貫して南朝方だったことが明治以後「忠臣の家」と評価され子孫の一部が華族となっている。

政則─則隆─(8代略)─武房─隆盛┬時隆武重








武時頼隆








覚勝武茂──木野








武澄──┬武安








└武元








隆舜┌武世








武吉├武本








武豊├武平








武敏──┴時基








武光──武政武朝─兼朝─持朝






└良政└兼秋







武隆──┬武信








武士└武明








武尚──高瀬








武義









乙阿迦丸





菊池乙阿迦丸きくち・おとあかまる生没年不詳
親族父:菊池武時 兄弟:菊池武重・菊池武吉・菊池武茂・菊池頼隆・菊池武澄・菊池武豊・菊池武敏・菊池武光・菊池隆舜・菊池武士・菊池武尚・菊池武義ほか
生 涯
―一時は惣領?―

 菊池武時の子でほとんど末っ子ではなかったかと思われる。元服後の名前は不明で、幼名しか伝わらない。菊池武光の幼名とする説が一部にあったが、考えにくいとされている。
 興国3年(康永元、1342)8月に兄で惣領の菊池武士の養子となった。武士は惣領にふさわしくないとして一族の中でも立場が弱く、そのため後継者に乙阿迦丸を据えることで立場の強化を図ったらしい。ということは乙阿迦丸は武士、そしてさらに兄で惣領だった菊池武重と同腹であった可能性もある。同じ月に乙阿迦丸自身が記した起請文も現存する。
 このあと菊池一族は各地で劣勢を強いられ、一族の中から菊池武士への引退が勧告された。これを受けて興国4年(康永3、1345)正月に武士は惣領の地位を乙阿迦丸に、さもなければ兄弟の武隆に、あるいは有能な人物を選んで譲りたいと申し出ている。
 しかしこのあと菊池一族内の混乱もあったようで、乙阿迦丸に関する史料は見えず、実力で惣領を獲得した武光の時代へと移ってゆく。このため乙阿迦丸は一時惣領であり、彼を十五代目菊池惣領であったとする意見もある。恐らくは武光によって引退に追い込まれたのだろう。

参考文献
杉本尚雄「菊池氏三代」(吉川弘文館人物叢書)
阿蘇品保夫「菊池一族」(新人物往来社)ほか

菊池覚勝きくち・かくしょう?-1333(正慶2/元弘3)
親族父:菊池隆盛 兄弟:菊池時隆・菊池武時
位階贈正三位
生 涯
―鎮西探題攻撃で壮烈に戦死―

 菊池武時の弟で通称「二郎三郎」。その事績はほとんど不明で、元弘3年(正慶2、1333)3月13日に武時と共に博多の鎮西探題攻撃に参加した時点ですでに出家しており、「覚勝」と号していた。この戦いの見聞記である『博多日記』によれば、武時らが馬場で討ちとられるなか覚勝らは若党らを率いて探題の御所の中まで突入し、中庭で戦って討ちとられたという。その首は兄・武時、甥・頼隆の首と共にさらしものとされた。
 菊池氏の菩提寺東福寺にある五輪塔に「○○三年癸酉三月…○郎三郎入道遠○ 三十六打死辰刻」と刻まれているものがあり、これが「二郎三郎入道覚勝」のことではないかとする説がある。そうだとすれば享年36ということになるが(兄・武時は42歳とする説がある)、「遠」の字もあり断定はできない。『博多日記』には「覚勝」とあるが「寂正」の誤りとする説もある。

参考文献
杉本尚雄「菊池氏三代」(吉川弘文館人物叢書)ほか

菊池武重きくち・たけしげ?-1338(暦応元/延元3)?
親族父:菊池武時 母:有星有隆の娘(慈春尼) 兄弟:菊池頼隆・菊池武茂・菊池隆舜・菊池武澄・菊池武吉・菊池武豊・菊池武敏・菊池武光・菊池武隆・菊池武士・菊池武尚・菊池武義ほか
官職肥後守
位階従五位下→贈従三位(明治35)
生 涯
―建武の乱で東西奔走―

 菊池武時の子。通称「菊池次郎」で、武時の嫡男。菊池氏は家督継承者が「次郎」を名乗る例が多く、実際に次男であるとは断定できない。
 元弘3年(正慶2、1333)3月13日に父に従って一族ともども博多の鎮西探題を攻撃したが、味方するはずだった少弐貞経大友貞宗に裏切られて惨敗を喫し、父・武時、叔父・覚勝、弟・頼隆らが戦死、武重自身も父と共に死のうとしたが父から落ちのびるよう命じられ、阿蘇惟直とと共にかろうじて博多を脱出して肥後菊池に帰った。このとき武時の孫が逃亡中に大友義匡につかまって郎党ともども殺されてしまっているが、武重の子である可能性が高い。
 この直後に鎮西探題の命で規矩高政らの兵が菊池・阿蘇両氏の拠点へ攻撃をかけ、武重と惟直は日向との国境に近い鞍岡にたてこもったがそれも攻め落とされて一時姿をくらましている。だが間もなく京で六波羅探題が滅亡したとの情報が入って少弐・大友は態度を変え、5月25日に鎮西探題を攻撃、攻め滅ぼしてしまった。それに先立つ5月22日には鎌倉が陥落して鎌倉幕府は滅亡した。建武政権が成立すると菊池氏はその功績を認められ、武重が肥後守となって肥後を支配することとなった。

 しかし建武政権は早くも混乱を始め、それを見て北条残党の挙兵も各地で起きた。九州では建武元年(1334)正月に規矩高政・糸田貞義の乱があり、武重は少弐・大友と共にその平定にあたって、7月に糸田城を攻め落として反乱を鎮圧している。
 翌建武2年(1335)5月に武重は京に上り、新田義貞が指揮する武者所に属した。間もなく中先代の乱があって、その鎮圧に関東に下った足利尊氏が建武政権に反旗を翻すと、武重は義貞に従って足利追討のため東海道を関東へと下った。12月12日の箱根・竹之下の戦いでは武重は義貞指揮下で箱根の戦場で先陣を切って山道を駆けあがり、坂の途中で楯をつき並べて足利軍を防いだ(『太平記』)。なお、この戦いで菊池軍が「槍」を初めて使用したとする「菊池千本槍」の伝承があるが、それ以前から槍は存在しており、『太平記』など軍記にも記述はなく、事実とは思われない。この戦いは竹之下方面の敗北と大友貞載らの寝返りなどで新田軍は敗走、武重も義貞らに従って京へと戻った。これを追って翌年正月に足利軍が京へ攻め込んでくると、武重は大渡で必死に防戦に当たり、この戦いで菊池一族の一人(武重の大叔父・武村らしい)が戦死している。
 
 その後足利軍はいったん京都を占領したものの北畠顕家の奥州軍の到着もあって敗北、遠く九州まで逃れた。九州では武重の留守を守る弟の菊池武敏が足利軍を迎え撃ったが3月2日の多々良浜の戦いで敗北、尊氏に復活・東上の機会を与えてしまう。このころ京からようやく新田軍を主力とする足利追撃の軍が出発、武重も大井田氏経の一軍に加わって山陽道を進んだが、東上してきた足利直義の大軍と備中福山で衝突、撤退戦を余儀なくされ、このとき菊池軍の大力の若党原源五原源六の奮戦でどうにか撤退に成功した(「太平記」)
 5月25日の湊川の戦いにも武重は義貞指揮下に参戦し、敗走。このとき武重の命じられて楠木正成の様子を見に行った弟の菊池武吉(「太平記」には武朝とあるが誤り)は楠木一党につきあって自害してしまっている。

 その後武重は義貞らと共に京に撤退し、後醍醐天皇と共に比叡山に拠って京をめぐって足利軍と攻防を繰り広げた。しかし10月10日に後醍醐は尊氏と和睦して比叡山から京に戻り、このとき武重もこれに同行した。武重はそのまま足利方に捕縛されたが、十数日後に警備が緩んだ隙をついて脱走、10月には肥後まで逃げ帰っている。
 肥後菊池に帰った武重は早速恵良(阿蘇)惟澄ら南朝方と呼応し、幕府の九州探題一色範氏らと対決した。翌延元2年(建武4、1337)2月に寺尾野城で武重は挙兵し、4月19日に肥後へ侵攻してきた一色範氏を犬塚原の戦いで撃破、範氏の庶兄一色頼行を戦死させたうえ、範氏を河尻港から海路逃走させた。
 翌延元3年(暦応元、1338)になると少弐頼尚が畿内から九州に帰って来て、幕府から肥後守護に任じられて菊池氏の抑え込みにかかった。武重はこの年の3月に筑後石垣城、4月に肥後国府で幕府方と戦っている。このころ武重は肥後出身で元にも渡った禅僧・大智を領内に招いて聖護寺の住職とし、聖護寺に寄進をして大智を菊池一族の精神的な相談役とした。このころ大智の影響下に菊池一族が次々と起請文を納めているが、武重も7月25日に三ヶ条からなる血判の起請文を納めた。これは「寄合衆の内談の事」と題するもので、第一条は「天下の大事では寄合衆の合議で決定したことがあっても結論は武重が降す」、第二条は「内政問題では寄合衆の決定を重んじ、武重が優れた意見を提示しても全員の賛同がなければとりあげない」、第三条で「寄合衆で一致団結して菊池郡で畑の開墾を厳しく管理して山林を保存する」といった内容が書かれている。菊池一族が総領のもとで団結しどのように決定を下すかを示した貴重な史料として幕末にはすでに有名で、特に第一条は明治初年の「五カ条の御誓文」に影響を与えたとの説もある。また血判の現存最古の例でもある。

 この年10月に武重は筑後の小清水山・畑城で戦っているが、それ以後消息が確認できなくなる。幕府側も翌年には菊池氏の首領を武敏と認識していて、武重は延元3年暮れごろに急逝したと推定されている。興国3年(康永元、1342)8月3日死去とする史料があり一時通説とされたが、前年に弟の菊池武士が菊池家の家督を相続していた形跡があり、延元3年死去説が妥当のようである。生年が不明のため享年は不明だが、二十代後半から三十歳前後の若さではなかったかと思われる。
 武重の墓は菊池の東福寺にあり、幕末・明治以後の菊池一族顕彰の流れの中で整備され、現在見られるものは明治27年に楠木正成のものにならって再建されたものである。

参考文献
杉本尚雄「菊池氏三代」(吉川弘文館人物叢書)
阿蘇品保夫「菊池一族」(新人物往来社)ほか
大河ドラマ「太平記」ドラマ中への登場はなかったが、第23回の「太平記のふるさと」コーナーで菊池市と菊池一族の活躍が紹介され、その中で武重の墓が映されていた。
PCエンジンCD版史実通りゲーム開始時には新田義貞軍に加わっているため山城に登場する。初登場時の能力は統率61・戦闘72・忠誠72・婆沙羅30
PCエンジンHu版シナリオ2「南北朝の動乱」で肥後隈部城に南朝方として登場する。能力は「弓6」でかなり強力。
メガドライブ版新田・楠木帖でプレイすると「矢作川合戦」「手越河原合戦」「竹之下合戦」のシナリオで味方に登場。能力は体力72・武力67・智力39・人徳48・戦闘力53。 

菊池武澄きくち・たけずみ?-1357(延元2/正平12)?
親族父:菊池武時 兄弟:菊池武重・菊池頼隆・菊池武茂・菊池隆舜・菊池武士・菊池武豊・菊池武敏・菊池武光・菊池武隆・菊池武吉・菊池武尚・菊池武義ほか
妻:尼了悟 子:菊池武安・菊池武元
官職肥前守
位階贈従三位
生 涯
―武光の有能な補佐役―

 菊池武時の子。通称「六郎」。元弘3年(正慶2、1333)3月の父・武時による鎮西探題攻撃に参加していたかどうかは不明だが、鎌倉幕府滅亡後に建武政権から恩賞として「肥前守」に任じられている。興国3年(康永元、1342)に甥の木野武貞(兄・武茂の子)以下6名の連署起請文で名前が記されているのが史料上の初見で、この時点では武時の息子たちの中でも低い地位で目立つ存在ではなかったことがうかがえる。武澄の存在感が増してくるのは兄弟の菊池武光が実力で菊池惣領の地位を手に入れた以後のことで、武澄は武光の片腕として各地で活躍するようになる。

 正平6年(観応2、1351)11月の五条頼元書状によれば筑後国三潴郡に「菊池肥前守」すなわち武澄が多くの城を築き、その兵糧として筑後田口荘の年貢を流用している事実が述べられていて、これが武澄の軍事行動の史料上の初見となる。この時期九州は中央での「観応の擾乱」に対応して懐良親王を奉じる菊池氏ら南朝方と足利直冬の「佐殿方」、一色範氏らの「探題方」の三者鼎立の状態であり、菊池氏は筑後への進出をはかっていて、武澄がその最前線で活動していたことがわかる。
 正平8年(文和2、1353)の針摺原の戦いでは武光の本隊とは別の一隊を率いて戦い、一色軍を破って軍忠状に証判を与えている。翌年からは肥前・豊後に進出して転戦、正平10年(文和4、1355)には懐良親王を奉じて肥前国府に入った。

 菊池武重に招かれ聖護寺の住職となった大智禅師は菊池一族の精神的顧問の立場にあったが、大智の意向とは無関係に惣領となった武光は彼と距離を置くようになっていて、この時期に大智と交流していたのはもっぱら武澄であった。大智との書状からは両者の深い交流がうかがえ、武澄が武光を補佐しつつ大智との関係を維持する一族の調停役を果たしていたとの見解もある。
 正平11年(延元元、1356)6月に武澄は病に倒れ、病の平癒を祈って寺の建立を大智に申し出た。大智は武澄に薬を送り、11月に武澄はいったん持ち直して大智に礼状を送っている(この礼状には年号の記載がなく、この年かどうかは断定できないが)。その礼状の中で「直接会って心がかりの事について相談したい」という部分があり、武澄が大智を個人的に深く信頼していた様子がうかがえる。

 翌正平12年(延元2、1357)7月頃に武澄は死去したとみられ(ただし「菊池系図」などでは前年の正平11年6月29日死去とする)、大智はその葬儀に際して偈(げ。禅宗における漢詩)を詠み、「吹毛の剣を一揮すれば百千の魔軍戈を倒して帰降す(剣を一振りすれば敵の大軍もたちまち武器を収めて降参した)」とその武勇を称え、「今や太平となり、これは将軍(武澄)がもたらしたものだというのに、将軍がその太平を見ることが許されないとは残念だ」とその功績と早い死を惜しんだ。菊池氏と征西将軍府の勢力拡大に武澄の力が大きかったことが知られる。
 武澄の没後、未亡人の尼了悟が夫の遺志を継ぎ、石貫寺に寄進をしてこれを紫陽山広福寺(現・玉名市石貫)として確立させた。。
 
参考文献
杉本尚雄「菊池氏三代」(吉川弘文館人物叢書)
阿蘇品保夫「菊池一族」(新人物往来社)ほか

菊池武隆きくち・たけたか生没年不詳
親族父:菊池武時 兄弟:菊池武重・菊池武吉・菊池武茂・菊池頼隆・菊池武澄・菊池武豊・菊池武敏・菊池武光・菊池隆舜・菊池武士・菊池武尚・菊池武義ほか
子:菊池武信・菊池武明
生 涯
―一時は惣領候補―

 菊池武時の子で「十一番目」の意味で「与一」と呼ばれた。その事績についてはほとんど分からないが、兄弟のうち惣領となった菊池武士が起請文の中で自身が引退したあとはまず弟の乙阿迦丸に、その次の候補として「与一殿」つまり武隆の名を挙げていて、武時の子たちの中では庶子扱いではあるが一定の発言力を持っていたとみられる。しかしこのあと兄弟の菊池武光が惣領の地位を奪い取ったため、武隆は乙阿迦丸ともども史料上から姿を消す。ただ武隆の息子の菊池武信菊池武明らはその後も筑後川の戦いなどで活躍しているのでこの系統がとくに冷遇された様子はない。

参考文献
杉本尚雄「菊池氏三代」(吉川弘文館人物叢書)
阿蘇品保夫「菊池一族」(新人物往来社)ほか

菊池武時きくち・たけとき1292(正応5)?-1333(正慶2/元弘3)
親族父:菊池隆盛 兄:菊池時隆・菊池覚勝 妻:有星有隆の娘(慈春尼)ほか
子:菊池武重・菊池頼隆・菊池武茂・菊池隆舜・菊池武澄・菊池武吉・菊池武豊・菊池武敏・菊池武光・菊池武隆・菊池武士・菊池武尚・菊池武義ほか
位階贈従三位(明治16)→贈従一位(明治35)
生 涯
―鎮西探題を攻めるも敗死―

 肥後の豪族・菊池氏の第10代当主で、南北朝時代の菊池氏の歴史の幕を開いた人物。菊池隆盛の二男で幼名は「正竜丸」であったという。父・隆盛は祖父・菊池武房に先だって亡くなったため兄・菊池時隆が祖父の養子となる形で当主を継いだが、武房が死ぬと叔父の菊池武経が不満を露わにして時隆と紛争になり、叔父・甥二人で鎌倉に下って幕府に裁定を求めたが、ここで刺し違えて二人とも死んでしまったと伝えられている。そうではなく時隆は病死とする説もあり、事実関係ははっきりしない。ともあれ嘉元2年(1304)に兄の死を受けて武時が当主となったのは事実である。元弘の乱が起きた時にはすでに出家しており、法名「寂阿」と称していた。

 元弘3年(正慶2、1333)3月、直前に配流先の隠岐を脱出した後醍醐天皇は各地に倒幕の綸旨を発した。これを受けた菊池武時は阿蘇惟直少弐貞経大友貞宗と示し合わせて共に鎮西探題・赤橋英時の攻撃を企てた。同時に土佐に流されていた後醍醐皇子・尊良親王を九州に迎え入れ、これを奉じる計画であったと見られる。
 こうした動きを察知した英時は倒幕派討伐のために九州各地の武士たちを博多に召集、武時はすでに攻撃を決意を秘めて一族を引き連れて3月11日に博多に赴いた。翌12日に探題の奉行所に赴いて着到を告げたが、すでに菊池氏の意図を知っていた探題側では「遅参」を理由を着到名簿への記載を拒否した。探題側がすでに挙兵の意図を察していると気付いた武時は覚悟を決め、その夜は宿舎で一同別れの酒宴を開いている。

 翌13日未明、菊池軍は一斉に行動を開始し、博多市内各所に火を放った。そして密約をしていた少弐・大友の陣営へ使者を送って決起を促した。ところがこの時点ではまだ畿内の情勢が倒幕派有利にはなっていないと判断した少弐・大友は態度を変え、少弐の陣営へ行った使者二名は斬られてその日の夕方に首を探題に届けられ、大友の陣営への使者も斬られそうになったがどうにか逃亡した。
 菊池軍は錦の御旗を掲げ、「我らは勅命を受けて朝敵を征伐するのだ、皆の者、早く味方に馳せ参じよ」と呼ばわりながら探題館を目指したが、放火の延焼がかえって進路をふさいでしまって探題館への到達が遅れ未明の攻撃に失敗、相手に十分な防衛をとる余裕を与えることになってしまった。探題館付近で激戦となり、犬射馬場で武時と息子の頼隆が戦死、弟の覚勝は探題館まで入ったもののやはり戦死した。嫡男の菊池武重や阿蘇惟直はどうにか落ち延びたが、武時・頼隆・覚勝の首は犬射馬場でさらしものとなった。探題側は菊池の者に奪い取られることを恐れて夜には首をしまいこんだが、その心配がなくなると名札をつけて改めてさらしたという。
 このあと探題側の掃討作戦もあって、菊池氏は多大な犠牲を出し、ほとんど再起不能なほどの打撃を受けた。しかしそれからおよそ70日後に鎌倉幕府があっという間に滅亡してしまい、それを知った大友・少弐両氏は手のひらを返して探題を攻め滅ぼしている。菊池氏は建武政権においてその功績を認められ、武重が肥後守に任じられた。のちに武時の曾孫の菊池武朝が南朝に提出した申状によると、論功行賞の折に楠木正成「元弘の乱で功績をあげた者は多いが、いずれも無事生きている。ひとり武時だけが勅命によって命を落とした。その忠義が第一とされるべきである」と主張したという(あくまで菊池氏側の主張なので確証はないが)

 武時の享年については定説がないが、菊池系図では42歳とし、『太平記』も四十過ぎであったと記している。十五男一女という子だくさんということもあり、もっと年上とする説もあるが、祖父・武房の年齢からやはり四十代であったとみるのが自然のようである。武時の墓と伝わるものは福岡市内の七隈字椎木と谷字馬場頭の二か所にあり、江戸時代にこれが「胴塚」「首塚」であると考証され、今日に至っている。
 明治以後、南朝の忠臣として高く評価され、菊池一族を祭る菊池神社に銅像も建てられている。

参考文献
杉本尚雄「菊池氏三代」(吉川弘文館人物叢書)ほか
大河ドラマ「太平記」菊池一族のドラマ中への登場はなかったが、第23回の「太平記のふるさと」コーナーで熊本県菊池市がとりあげられ、武時の活躍が紹介された。菊池神社の武時銅像も映されている。

菊池武敏きくち・たけとし生没年不詳
親族父:菊池武時 兄弟:菊池武重・菊池頼隆・菊池武茂・菊池隆舜・菊池武澄・菊池武吉・菊池武豊・菊池武光・菊池武隆・菊池武士・菊池武尚・菊池武義ほか
子:菊池武世・菊池武本・菊池武平・菊池時基
官職掃部助
位階贈従三位
生 涯
―多々良浜で尊氏に敗北―

 菊池武時の子。「菊池九郎」の通称がある。生母については判然としないが、その後の経緯からすると少なくとも嫡子ではなかったと推測される。
 父・武時が敗死したとはいえ後醍醐天皇に呼応して挙兵したため、その恩賞として建武政権から掃部助の官職を授けられた。兄であり時の当主である菊池武重は都にのぼって武者所に属し、そのまま新田義貞に従って足利尊氏の反乱の討伐にあたることになり、武敏は兄が不在の肥後・菊池においてその「留守当主」のような立場で一族を率いた。

 建武2年(1335)末に足利尊氏が建武政権に反旗を翻すと、各地でこれに呼応し挙兵する動きが起こり、九州でも大宰府に拠点をおく少弐頼尚が足利方で兵を挙げた。武敏は12月30日に少弐を討つべく大宰府目指して進撃したが、少弐軍に敗れて逆に本拠地・菊池まで攻め込まれて居城まで奪われ、やむなく玖珠や阿蘇に隠れた。
 その後中央での戦いは激しく変転し、建武3年(1336)2月に足利軍はいったん京で敗北して九州まで逃れて態勢を立て直そうとした。これを知った武敏と阿蘇惟直は軍勢を整えて筑後へ進出、尊氏を迎えに出かけた頼尚が留守で手薄になっていた大宰府を急襲した。大宰府を守っていたのは頼尚の父・少弐貞経(妙恵)で、2月28日に大宰府は陥落、貞経は有智山城へたてこもった。翌日に武敏らは少弐軍の一部の内応を誘ってこれを陥落させ、貞経を自害に追い込んだ。勢いに乗った菊池・阿蘇軍は味方を増やし、九州へとやってくる尊氏を大軍で待ち受けた。

 2月29日に尊氏は九州に上陸、翌3月1日に宗像に入り、大宰府の陥落を知った。足利軍はひとまず博多に入ろうと移動を始め、それを察知した武敏は博多に入る前に尊氏のとどめを刺そうと大軍で出陣した。かくして3月2日に両軍は多々良川を挟んだ干潟、多々良浜に対峙することになる。
 このときの両軍の規模は、『太平記』では菊池軍3万対足利軍300、『梅松論』では菊池軍6万対足利軍1000と記されている。どちらもかなり誇張があるとみられるが、菊池軍が足利軍の10倍ほどの規模を誇っていたことは事実のようである。この圧倒的大差を見て尊氏は戦意を喪失し自害しかけたとまで『太平記』は伝える。しかし菊池の大軍もこの時代によくある「勝ってる側にとりあえず合流しておこう」という武士たちの寄せ集めにすぎず、大半は実質「傍観者」であったと見られている。
 戦闘が始まると、強い北風が砂塵と共に菊池軍に吹きつけ、その戦意をそいだ。また丘陵地に陣を敷いた足利軍が地形を利用して善戦、一時は尊氏の弟で前線で戦っていた足利直義が命の危険にさらされるほどの接戦にもなったが、いつしか情勢は菊池軍不利に傾いていった。これを見た松浦党が菊池方から足利方に寝返り、それをきっかけに菊池軍は一気に崩壊、阿蘇惟直はじめ菊池軍に加わっていた有力武将は各地で戦死してしまい、武敏も命からがら菊池へと逃れた。
 この戦いでひとまず九州を平定した尊氏は間もなく京を目指して東上していった。すると武敏は再び活動を再開し、尊氏が九州支配のために残していった仁木義長一色範氏らとその年の秋まで一進一退の攻防を繰り広げた。しかし本拠地菊池まで何度も攻め込まれるなど、武敏の統率力・指揮能力は今一つだったようである。これは彼が妾腹の子であったため当主ほどの支持を集められなかったためではないかとの推測もある。

 延元元年(建武3、1336)の年末までに京付近で転戦していた当主・武重が菊池に帰還した。武重のもとで菊池氏はまた息を吹き返し、延元2年(建武4、1337)4月には肥後へ攻め込んで来た一色範氏を犬塚原の戦いで撃破している。この戦いでは武敏も重傷を負う奮戦を見せたと言われている。
 ところが延元3年(暦応元、1338)の暮れごろに武重が急死してしまう。当主の座は嫡出の弟である菊池武士が引き継いだがまだ幼く、武敏がその後見となったとみられる。延元4年(暦応2、1339)から興国2年(暦応4、1331)にかけて足利方が討伐の対象に武士と共に武敏の名を挙げていることがその証拠である。
 しかしこの武士・武敏時代は菊池氏にとって「冬の時代」であった。足利方に押されっぱなしのまま武士は一族の中でも孤立して興国5年(康永3、1344)に隠居に追い込まれている。この前後から武敏の動静も全く伝わらず、武士の隠居以前に死去したのではないかとみられている。

参考文献
杉本尚雄「菊池氏三代」(吉川弘文館人物叢書)ほか
大河ドラマ「太平記」尊氏が主役なので本来なら多々良浜の戦いで登場するはずだったが、予算と時間の都合で九州落ちがまるまるカットされたため武敏の登場もなかった。それをフォローする形で旅コーナー「太平記のふるさと」でその経緯がやや詳しく紹介された。
歴史小説では多々良浜の戦いのくだりで登場する例が多い。
漫画作品では岡村賢二「劇画・私本太平記」の連載終盤、掲載誌を「戦国武将列伝」に移してからの多々良浜合戦の回でちゃんと登場していた。しかし残念ながらこの部分は単行本化されていない。
PCエンジンCD版兄の武重が義貞と一緒に山城にいるため、肥後国主として登場する。初登場時の能力は統率77・戦闘85・忠誠75・婆沙羅34
メガドライブ版足利帖でプレイすると「多々良浜合戦」のシナリオで敵方に登場。なぜか楠木・新田帖でも白旗城の戦いや湊川の戦いで登場する。能力は体力82・武力134・智力120・人徳75・戦闘力115。 

菊池武朝きくち・たけとも1363(貞治2/正平18)-1407(応永14)
親族父:菊池武政 兄:菊池兼秋
子:菊池兼朝・高瀬武楯・千田英朝
官職右京大夫、肥後守
位階贈従三位(明治44)
生 涯
―南朝菊池最後の奮戦―

 菊池武政の子で幼名を「賀ヶ丸」といい、初めは「武興」とも称した。文中2年(応安6、1373)に祖父・菊池武光が死去、そのすぐ翌年5月に父・武政が急死したため、賀ヶ丸はわずか12歳で菊池氏の家督を継いだ。しかもこの時期菊池氏は九州探題・今川了俊の攻勢を受けて大宰府を失陥する危機的情勢にあり、賀ヶ丸は一族の菊池武義(武時の子)・菊池武安(武澄の子)の補佐を受けてこの危機に立ち向かわねばならなかった。

 文中3年(応安7、1374)9月、家督を継いだばかりの賀ヶ丸は兵を率いて今川軍に福童原で戦いを挑んだが9月までに敗北、勢いに乗る今川軍の攻勢を支えきれず、10月にそれまで拠点としていた高良山を放棄し、懐良親王良成親王を奉じて肥後に戻り、隈部城に入った。了俊は阿蘇氏を通して賀ヶ丸に投降を呼びかけたが賀ヶ丸は応じず、了俊は筑後を平定して肥後へと兵を進め、翌天授元年(永和元、1375)7月には大友・島津の軍勢と共に水島に陣をしき、菊池氏に対する包囲体勢を築きあげた。しかし8月、この水島の陣で了俊は参陣した少弐冬資を謀殺して島津氏らの離反を招いてしまい、菊池軍はその隙を突いて今川軍を攻撃してこれを破り、9月に今川軍を水島から撤退させて危機をひとまずしのいだ。
 この時期、懐良親王は征西将軍の地位を良成親王に譲り、菊池氏のもとを離れて矢部の五条良遠のもとに身を寄せている。理由は不明だが、菊池賀ヶ丸との間で意見対立があったとの見方もある。

 天授3年(永和3、1377)正月13日、勢力挽回をはかった菊池軍は肥前蜷打の戦いで了俊に味方した大内義弘大友親世らに大敗、武義・武安ら菊池一族のほか阿蘇惟武など多くの有力武将を戦死させてしまい、以後菊池軍は肥後から他国への進出は不可能となった。
 翌天授4年(永和4、1378)9月の肥後詫摩原の戦いで武朝は小勢で了俊の大軍に奇襲をかけ、一族以下数十名を戦死させ弱冠16歳の武朝自身も負傷したが、良成親王自身の出撃で散らばっていた軍勢を集め、どうにか勝利を得た。しかし弘和元年(永徳元、1381)4月から今川軍の攻勢の前に拠点・隈部の外城を次々と失い、6月23日にはついに隈部城そのものを失ってしまう。同年に良成親王の拠点・染土城も陥落し、武朝と良成は河尻氏・宇土氏を頼って宇土へと逃れた。
 弘和3年(永徳3、1383)3月に懐良親王が矢部で死去したが、この直後に吉野の南朝朝廷は九州に勅使を派遣、良成と武朝に事情の尋問を行っている。これは武朝と懐良の間で確執があったらしいこと、同じ南朝方の相良氏・名和氏や菊池氏内部でも武朝に対する批判があってそれが吉野まで届き、南朝朝廷でも武朝と良成に対する不信感が芽生えていたためであった。この問いただしに対して武朝が7月4日付で提出した文書が『菊池武朝申状』と呼ばれるもので、このなかで武朝は祖先以来の菊池一族の忠勤を訴え、自身の行動についても弁明している。この申状について武朝と行動を共にしていた公家の葉室親善も支持・弁護したため、南朝は武朝をそれ以上追及しなかった。

 その後も今川軍の河尻・宇土攻撃は続き、元中4年(嘉慶元、1387)には良成・武朝は名和顕興を頼って八代へと移った。しかし元中8年(明徳2、1391)8月に良成・顕興はとうとう今川軍に投降、武朝は一時行方をくらまし、九州における南朝勢力はついに壊滅した。この翌年の元中9年(明徳3、1392)10月に南北朝合一が実現している。
 南北朝が合一してしまえば戦う理由がないことにもなるわけで、武朝はこの直後に了俊と講和し、了俊も武朝に菊池の本領を安堵して帰還を認めた。明徳4年(1393)10月には武朝が室町幕府の命を奉じていることが確認でき、武朝は了俊のもとで肥後守護代をつとめることになった。応永2年(1395)に了俊が幕府の召還を受けそのまま九州探題を解任された際にも武朝は了俊のために奔走している。

 了俊のあとに九州探題に任じられた渋川満頼とはそりが合わず、武朝は少弐氏と結んでしばしば兵を起こして反抗している。足利義満から武朝らの鎮圧を命じられた大内義弘はやがて義満に背いて「応永の乱」を起こすが、その際に武朝らの挙兵は実は義満がそそのかしたものだとの噂があり、義弘がそれを信じたことが原因であったとされていて、事情はやや複雑のようである。その後応永12年(1405)には幕府から阿蘇惟村詫間満親らに武朝を討つよう指示が出ている。
 応永14年(1407)3月18日に45歳で死去。跡を継いだ息子の兼朝は肥後守護となり、菊池氏が再び勢威を取り戻すきっかけを作ることとなる。
 
参考文献
杉本尚雄「菊池氏三代」(吉川弘文館人物叢書)ほか

菊池武豊きくち・たけとよ生没年不詳
親族父:菊池武時 兄弟:菊池武重・菊池武吉・菊池武茂・菊池頼隆・菊池武澄・菊池隆舜・菊池武敏・菊池武光・菊池武隆・菊池武士・菊池武尚・菊池武義ほか
子:赤星武続
生 涯
―兄弟と共に各地に奮戦―

 菊池武時の子で通名「八郎」。庶流のため「寺尾野八郎」とも呼ばれる。兄弟の菊池武重および菊池武士が惣領の時代に菊池武将の一人として各地で戦った。延元2年(建武4、1337)5月には武家方の佐竹重義を筑後の豊福原の戦いで破っている。
 興国6年(貞和元、1345)、筑後の吉木一族が南朝方から武家方に鞍替えして少弐頼尚の代官を受け入れたため、武豊が兵を率いてこれを討っている。しかしこの時期の菊池氏は惣領不在の状態で連携を欠き、その隙に深川本城を合志氏に奪われてしまう。それを奪回したことで惣領の地位を手にしたのが武豊同様の庶流であった菊池武光で、以後武豊の活動はあまり確認できない。菊池一門の赤星家を継ぎ、赤星武生と名乗ったという。

菊池武尚きくち・たけひさ(なお)生没年不詳
親族父:菊池武時 兄弟:菊池武重・菊池武吉・菊池武茂・菊池頼隆・菊池武澄・菊池武豊・菊池武敏・菊池武光・菊池隆舜・菊池武士・菊池武尚・菊池武義ほか
子:高瀬武国
官職筑前守?
生 涯
―高瀬氏の祖―

 菊池武時の子。詳細な活動は不明ながら、菊池一族の一人として各地で活動したものとみられる。正平9年(文和3、1354)4月に武尚は高瀬保田木城に入ってこの地を治め、以後彼の子孫は「高瀬氏」を称する。武尚はこの地にあった清源寺を整備し、固山一鞏を開山として高瀬一族の氏寺とした。

参考文献
杉本尚雄「菊池氏三代」(吉川弘文館人物叢書)ほか

菊池武士きくち・たけひと(たけお)1311(応長元)?-1401(応永8)?
親族父:菊池武時 母:有星有隆の娘(慈春尼) 兄弟:菊池武重・菊池頼隆・菊池武茂・菊池隆舜・菊池武澄・菊池武豊・菊池武敏・菊池武光・菊池武隆・菊池武吉・菊池武尚・菊池武義ほか
官職肥後守
位階贈従五位下
生 涯
―武士に向いてなかった「武士」―

 菊池武時の子。通称「又次郎」。兄の菊池武重が延元3年(暦応元、1338)暮れごろに急逝し、武士は兄弟の中では年下の方だったが武重と母親を同じくしていたため総領の地位を引き継いだ。彼の生年は不明だがまだ若年であったため兄の菊池武敏がその後見を務めたと見られる。興国3年(康永元、1342)ごろから武敏の消息は確認できなくなり、そのあとはやはり兄の菊池武茂が武士を補佐していた形跡がある。

 この時期菊池一族は柱となっていた武重を失った上に、一色・少弐・大友ら幕府方の攻勢にさらされて危機的状況に陥っていた。しかも菊池武時の子は武士以外にも数多く、武士が若年で、しかも明らかに性格的に弱く一族を束ねる能力に欠けていたところがあったらしく、菊池一族内でも武士を惣領とすることに不満がくすぶっていた。興国3年(1342)8月に武士は弟の乙阿迦丸を自身の養子としているが、これも自身の立場を強めるためか、あるいは不満派の要求に応じたものとみられる。
 興国3年(康永元、1342)8月10日に武士は血判を押した起請文を作成している。これは武重が延元3年に作成したものをさらに具体化したもので、菊池一族郎党の組織と重要事項の決定手続きを人名も挙げて具体的に定めている。その内容からはより一族庶子系の寄合衆の発言力が強化され彼らの合意形成が重視されていることがうかがえる。

 だが興国4年(康永2、1343)3月に豊後から大友氏泰が鞍岳から菊池の深川城まで侵攻、5月には田原正堅が穴川方面から菊池本拠に迫った。こうした攻勢に対し武士はほとんど対処できなかったらしく、この年の末までに一族郎党から惣領の資格なしとして引退するよう勧告がなされたらしい。翌興国5年(康永3、1344)正月11日に武士は引退要求に対する回答を請文の形で示し、「君のため家のために後世非難されるような行為があったのなら自分は惣領として責任をとりたい」「武重から譲られた惣領の地位と所領を兄弟一族の中の有能な人物に譲って引退したい」と事実上引退を承認、養子にした乙阿迦丸か庶兄の菊池武隆への惣領移譲の意向を示した。武士の引退に至る事態は菊池氏が相談役とした聖護寺の禅僧・大智が調停役をつとめ、この年のうちに武士は大智のもとで出家、引退した。彼の年齢ははっきりしないが、この時まだ二十代前半であった可能性が高い。法名を「寂照」という。

 一僧侶・寂照となった武士はいったん大智が開山した加賀国の祇陀寺に身を寄せた。その後故郷の菊池に戻り、大円寺の桜を見て「袖ふれし 花も香を 忘れずば わが黒染を あはれとは見よ(かつて慣れ親しんだ桜よ、昔のままの香りを忘れていないなら、今や僧侶となった私を感慨深く見ておくれ)」と詠んだという。
 その後の消息はほとんど不明だが、八代市にある正福寺・松吟庵が武士が生涯を終えた地とされ、後年建てられたと見られる彼の墓碑があり、その表には「菊池十四代肥後守武士」、裏には「祖禅寂照和尚応永八年三月廿五日九十一歳」という文字が刻まれている。これが信用のおけるものだとすれば、武士は応長元年(1311)の生まれとなり、応永8年(1401)に死去したことりなり、その後の兄弟・菊池武光懐良親王と共に一時九州を制覇した栄光と、その後の没落と南北朝の合体とを全て見届けてこの世を去ったことになる。ただ他の兄弟との比較で生まれが早すぎ、誕生を十年ほど遅らせる見解が多い。

参考文献
杉本尚雄「菊池氏三代」(吉川弘文館人物叢書)
阿蘇品保夫「菊池一族」(新人物往来社)ほか

菊池武政きくち・たけまさ1342(康永元/興国3)-1374(応安7/文中3)
親族父:菊池武政 兄弟:菊池良政 妻:阿蘇(恵良)惟澄の娘 子:菊池武朝
官職肥後守
位階贈従三位(明治44)
生 涯
―わずか一年の菊池惣領―

 菊池武光の子。通称「次郎」は菊池嫡男が名乗るもので、恐らく本来庶流である父・武光が菊池惣領を実力で獲得し、自身の系統で惣領家を一本化した段階でこの名乗りになったと思われる。
 成長すると父・武光に従って九州平定のために各地に転戦、激闘として知られる正平14年(延文4、1359)8月の筑後川の戦いにも武政は一族と共に参加した。正平16年(康安元、1361)には菊池軍は大宰府を攻め落とし、ほぼ九州平定を果たした。

 その後懐良親王と菊池氏の「征西将軍府」はおよそ十年九州を支配したが、建徳2年(応安4、1371)から九州探題・今川了俊(貞世)による九州攻略が始まり、了俊の息子・今川義範が豊後に、弟の今川仲秋が肥前に上陸した。武政は義範を豊後高崎山に攻めたが攻めきれずに父・武光が応援にかけつけることになり、翌文中元年(応安5、1372)には肥前に転じて烏帽子岳で仲秋の軍を阻止しようとして敗れ、かえって仲秋軍を筑前に招き入れてしまう。この年8月12日に大宰府も敵の手に落ち、菊池軍は高良山に陣を構えることになった。

 大宰府失陥の前後から武光の消息が史料上途絶えるため、大宰府での戦いで武光が戦死していたとの見解もある(「菊池系図」では文中2年11月16日死去)。文中2年(応安6、1373)2月に武政が従兄弟の武安と夜陰に乗じて筑後川を渡って肥前本折城を攻め、さらに各地の今川方の城を攻めるなど攻勢に出たが、了俊らの動きを止めるのが精一杯で反撃には程遠かった。
 武政は妻の兄でもある阿蘇惟武に対してこの年の2月、5月、閏10月と繰り返し援軍要請の手紙を送っている。この中で武政は懐良親王ともども高良山を捨てて菊池に帰り、再挙をはからねばならないと訴え、「天下の御大事、私の浮沈、この時にて候。御同心候はば、鎮西大事も仔細候はじと存じ候(天下の大事と私個人の命運も今この時にかかっております。あなたの御協力をいただければ九州を治めることも問題なくできましょう)」と必死に呼びかけた。彼のこの手紙でも父・武光のことは一切触れられておらず、すでに死んでいる、あるいは瀕死の状態になっていることを戦意喪失を恐れて隠していたのかもしれない。

 偉大な父を失って菊池惣領をいきなり継いだプレッシャーからか、あるいは彼自身もどこかで戦傷を負っていたためか、翌文中3年(応安7、1374)5月には武政は死の床についてしまったらしく、5月22日付で自身の後世供養のために正観寺に寄進をしたあと、26日に高良山の陣中で死去した。享年33と伝わる。武光・武政を相次いで失ったことで、菊池一族と征西将軍府はますます苦難の道を歩むことになる。

参考文献
杉本尚雄「菊池氏三代」(吉川弘文館人物叢書)ほか

菊池武光きくち・たけみつ?-1373(文中2/応安6)
親族父:菊池武時 兄弟:菊池武重・菊池頼隆・菊池武茂・菊池隆舜・菊池武澄・菊池武吉・菊池武豊・菊池武敏・菊池武隆・菊池武士・菊池武尚・菊池武義ほか
子:菊池武政・菊池良政
官職肥後守
位階贈従三位(明治35)
生 涯
 菊池武時の子で、兄弟の中では庶流の出ながら実力で菊池惣領の地位を手にし、懐良親王とのコンビで果敢な激闘を繰り広げて九州を制覇、南朝征西将軍府の黄金期を築いた猛将。菊池一族の歴史の中でも特筆されるべき人物である。

―実力で惣領を獲得―

 通名を「豊田十郎」といい、肥後南部の益城郡豊田荘の地頭となっていたことからその名がある。武時には多くの子がいたが、武光は十男と遅い子で合った上に菊池氏の拠点から遠くの地に配置され、兄弟達の中でも明らかに庶流と見なされ、悪く言えば疎外、よく言えば独立性が高い立場にあったとみられる。

 興国5年(康永3、1344)に弟の菊池武士が惣領の地位を務めきれずに出家・引退し、菊池氏は一時惣領不在の状態になり団結を欠いた。少弐・大友など幕府方の攻勢にもさらされ、興国6年(貞和元、1345)3月には隙を突いて攻めてきた合志幸隆により菊池氏の中心拠点のひとつ深川城を奪取されてしまった。このとき武光は豊田荘から出陣し、阿蘇氏庶流の恵良惟澄の応援を受けて3月12日から6日間合志軍と戦い、深川城の奪回に成功する。この実績をテコに武光は菊池惣領を実力で勝ち取ることになるのだが、先代の惣領・武士が兄弟のうち乙阿迦丸、あるいは武隆を次代の惣領候補に指名しており、その二人をさしおいて候補者指名もされていない武光が惣領を獲得するにあたってはかなりの無理もあったようである。通例では惣領になるには先代の「譲り状」が必要だが武光にはそれがなく、戦いでの実績と南朝から「肥後守」に任じられるといった既成事実の積み重ねで惣領となったわけだが、一族のうち一部には反発する動きもあったようである。

 まさに実力で惣領の地位を手に入れた武光は、このあとの軍事的成功を背景にそれまで兄弟間相続の目立った菊池惣領を武光の子孫の系統に一本化させてゆく。また重臣たち「寄合衆」の合議制から惣領権力の強化も実現させていった。

―懐良親王を奉じる―

 後醍醐天皇の皇子・懐良親王は幼少の時から「征西将軍宮」として、九州平定を自らの使命としていた。懐良が九州に上陸したのは興国2年(暦応4、1341)のことで、薩摩国谷山城に長くあった。以前から肥後入りする計画であったが、阿蘇氏・菊池氏ともにまとまりを欠いていたため長引いていた。新惣領武光は菊池氏をまとめると谷山に家臣を派遣して懐良の肥後入りをはたらきかけ、吉野の南朝朝廷にも使者を送って懐良の恩賞権限などについて確認を行っている。正平2年(貞和3、1347)11月27日に懐良は南朝方の水軍を利用して海路谷山を出発、年が明けて正平3年(貞和4、1348)正月2日に肥後の宇土港に上陸、武光は自ら宇土まで出迎えに行き、ここに長年の主従、というより盟友となる二人が初めて顔を合わすことになった。
 懐良はその月のうちに菊池氏の拠点・隈府城に入ったが、頼みとしている阿蘇氏の方は惣領の阿蘇惟時が態度をはっきりさせず、かねて主戦派の恵良惟澄も恩賞問題を理由に懐良の呼びかけに応じようとしなかったため、懐良も武光もすぐに動き出すことはできなかった。

 しかし思わぬところからチャンスがめぐってくる。正平4年(貞和5、1349)に足利幕府内で足利直義派と高師直派の内紛が勃発し、直義の養子足利直冬(尊氏の庶子)が肥後の武士河尻幸俊に奉じられて九州に落ちのびて来たのである。直冬のもとには九州探題・一色範氏の支配に不満を抱く少弐頼尚ら九州武士が多く集まり、「佐殿(すけどの)方」と呼ばれる一大勢力となった。その後の「観応の擾乱」の過程で九州は懐良・武光らの宮方(南朝方)、一色氏ら探題方、直冬の佐殿方の三者が複雑に離合集散を繰り返すことになる。
 まず優勢となったのは佐殿方で、武光らはひとまず一色範氏と手を組んで直冬を攻めることとし、正平6年(観応2、1351)8月から肥後で直冬軍と戦い、9月には恵良惟澄も合流して筑後に進出し溝口城を落として瀬高まで進んだ。ところがその頃中央では足利直義が失脚、翌正平7年(文和元、1352)2月に鎌倉で急逝してしまい、直冬も一気に支持を失ってこの年の11月に九州を追われる。
 すると今度は一色氏ら探題方が勢いづき、一色・大友軍に拠点の古浦城を攻められ危機に陥った元佐殿方の少弐頼尚は菊池武光に救援を求めた。武光はこの求めに応じて援軍を出し、正平8年(文和2、1353)2月2日に針摺原の戦い一色直氏らの軍を撃破して古浦城の頼尚を救った。頼尚は「以後子孫七代まで菊池に弓をひかぬ」と誓詞をしたためて感謝の意を表したが、それはあくまで一時の表面的な態度であった。

―征西将軍府の九州制覇―

 これ以後九州の南朝勢力は勢い盛んで、正平10年(文和4、1355)8月以降には懐良は菊池一族や少弐・有馬などの軍を肥前・豊後に送ってそれぞれの国府を占領、大友氏泰を投降させるなど勢力を拡大、さらに博多に攻め入って一色範氏を九州から長門へと追った。これと並行して武光も南九州を攻略し、この年のうちに九州全土はほぼ懐良ら南朝征西将軍府の支配下に入った。この勢いに南朝の後村上天皇も懐良に東上をうながしたし、足利尊氏ら幕府側でも懐良らが攻めてくるのではないかと戦々恐々とした。やがて尊氏は自ら九州遠征を企図したが、それを果たせぬまま正平13年(延文3、1358)に死去している。

 その年の11月、武光はしぶとく幕府側について抵抗していた日向の畠山直顕を攻め、穆佐・三股城を攻め落としてほぼ彼らを壊滅させた。しかしその隙に豊後の大友氏時が挙兵して武光の退路を断とうとした。武光は兵を返して豊後に入り、懐良と共に豊後高崎城に大友氏時を包囲した。正平14年(延文4、1359)3月までこの包囲戦が続いたが、大友の動きは実は少弐頼尚と連動したもので、4月になると頼尚も挙兵し、阿蘇惟村志賀氏房と共に懐良・武光に対する包囲網を形成、退路を断ってその壊滅をはかった。危険を察知した武光と懐良は阿蘇惟村の小国城を攻め落として包囲を突破し肥後に帰った。

 少弐・大友両軍はここで一気に菊池軍を挟撃、壊滅させようとしたが、肥後に侵攻した大友軍は恵良惟澄に阻まれ、この間に武光と懐良はほぼ全軍を挙げて北上、7月19日に筑後川に布陣して少弐軍と対峙した。このとき武光は以前頼尚が「以後子孫七代まで菊池に弓を引かぬ」と記した誓詞を掲げて頼尚の背信をあざわらったという(「太平記」)。両軍はにらみあったまま8月まで対峙したが、8月6日夜半に武光は三百ほどの少人数を率いて少弐軍の背後に回って奇襲をかけ、同時に本隊も正面から攻撃させた。この夜襲で少弐軍は大混乱に陥り、頼尚の嫡子・少弐直資が戦死したが、間もなく大勢を立て直して両軍入り乱れての激闘となる。武光自身もあわや討ちとられかねない危機に陥ったし、懐良自身も重傷を負って死亡説が流れるほどであった。最終的にこの決戦は菊池軍の勝利に終わり、懐良・菊池氏の優勢が確定した。この戦いは「筑後川の戦い」「大保原の戦い」と呼ばれ、このとき武光が血刀を洗ったという川には「太刀洗川」の名が残された。
 この南朝勢の勝利は京を震撼させ、幕府の要請を受けて北朝の後光厳天皇「鎮西宮(懐良)並びに菊池武光以下、凶徒追討の事」と懐良・武光を天皇自ら名指しで追討を命じる異例の綸旨を発している。
 
 翌正平15年(延文5、1360)は武光・懐良は負傷をいやすためか直接行動が見られず、一族の菊池武安らが肥前の平定を進めている。そして正平16年(康安元、1361)4月に武光らはいよいよ少弐氏の拠点大宰府への攻略にかかり、大友氏時もこれに参加した。武光はいったん日向方面に転戦したあとで7月に本格的に筑前へ攻勢をかけ、少弐軍を各地で連破してついに少弐頼尚を豊後に追い出し、8月には大宰府・博多を手中に収め、懐良はついに古代よりの九州の政治中心地・大宰府に入る宿願を果たした。

 この情勢を幕府側も黙って見ていたわけではなく、斯波氏経を新たな九州探題に任じて下向させ、大友氏時・少弐冬資・阿蘇惟村らと連携して大勢を挽回しようとした。これを見て武光は正平17年(貞治元、1362)8月に自ら豊前・豊後へと兵を進め豊後府中まで入ったが、その隙に斯波・少弐軍が大宰府を襲ったので兵を戻して兄弟の武義らを応援、9月21日の長者原の戦いで斯波・少弐軍を撃ち破った。翌年にかけて武光は豊前・豊後各地を攻略して幕府方を圧倒、ついに大友氏時も降伏し、斯波氏経は九州から追い出された。ここに南朝「征西将軍府」の九州制覇は名実ともに達成されたのである。

―征西将軍府の栄光と没落―

 懐良・武光の「征西将軍府」が九州を制覇した黄金時代はおよそ十年続いた。幕府は斯波氏経に代えて渋川義行を九州探題に任じて下向させたが、彼は九州に入ることすらできなかった。全国的に衰退著しい南朝勢力の中で唯一意気盛んな征西将軍府に対して南朝から東上の催促もあり、懐良自身もその意図がなかったわけではないようだが、現実には実行するまでの余力はなかったようである。このころ懐良は自身の後継者の派遣を南朝に求め、後村上の皇子・良成親王が「後征西将軍宮」として九州に派遣された。
 このころ伊予の河野通直細川頼之に四国を追われて大宰府に落ちのび、懐良・武光に伊予奪回のための援軍を求めて来た。懐良らは良成を通直と共に四国に派遣して伊予に足がかりを築こうとしたが、結果的にあまり成功せず良成は九州に戻った。

 この間に足利将軍は二代目義詮から三代目義満に代わり、ほぼ同時に南朝も後村上が死去して長慶天皇に代わった。そして建徳元年(応安3、1370)、義満の補佐をつとめた管領・細川頼之は九州平定の切り札として盟友の今川了俊(貞世)を九州探題に任じた。了俊は翌建徳2年(応安4、1371)3月に京を発ったが、自身に先立って弟の今川仲秋を肥前に、息子の今川義範を豊後に派遣し、各方面から大宰府へ攻勢をかける作戦を実行した。
 7月に今川義範は豊後・高崎山城に入り、武光はまず息子の菊池武政にこれを攻めさせたが、苦戦とみて8月に自ら出陣して高崎山城を攻めた。このとき武光は「伊倉宮」と呼ばれる皇族を奉じたとされるが、これが何者であるかは全く分からない。いわば懐良の代理として士気を挙げるために連れて来たとみられるが、それだけ武光が了俊の巧みな攻勢に焦りを覚えていたとも思える。実際高崎山城は武光の猛攻を半年以上耐え抜き、この間に11月に仲秋が肥前に、12月に了俊が豊前に上陸して一気に大宰府攻略を開始した。

 文中元年(応安5、1372)正月、大宰府の危機を知った武光は高崎山城の包囲を解いて大宰府に帰還した。了俊は巧みに味方を増やして三方からじりじりと慎重に大宰府攻略を進め、武光らはこれに必死に対抗したが敗戦を重ねた。そしてついに8月10日から了俊らの大宰府攻撃が始まり、天山城・有智山城を相次いで攻め落とされ、ついに12日には懐良・武光は大宰府を放棄して要害の高良山に陣を移した。
 この時期を境に武光の消息は史料上確認できなくなる。菊池軍は高良山に本拠を置いて大宰府奪回をはかったが、文中2年(応安6、1373)2月以降の菊池軍は武光の子・武政が指揮をとっており、武政が阿蘇惟武に繰り返し送った援軍要請の手紙にも武光のことは一切出てこない。大宰府陥落時にすでに戦死していたか、再起不能の重傷を負って伏せっていた可能性が高い。「菊池系図」では文中2年11月16日死去、年齢不詳、法名は「聖厳」で菊池の正観寺に葬ったと記されている。ただし現在残る武光の墓は江戸時代の南朝正統論隆盛のなかで地元の儒者たちが菊池氏称揚のために楠木正成のものにならって「再建」したものである。
 武光の死後まもなく、そのあとを追うように息子の武政も急逝してしまい、了俊の攻勢にさらされて菊池氏は衰退の一途をたどることになる。盟友の懐良親王も武光を失ったあとはほとんど戦意を失ったかのようにその消息を絶ってゆく。
 現在、熊本県菊池市の菊池市民広場には、市のシンボルとして菊池武光の巨大な騎馬銅像が建てられている。また筑後川の古戦場の「太刀洗公園」にも銅像がある。

参考文献
藤田明「征西将軍宮」(東京宝文館)
杉本尚雄「菊池氏三代」(吉川弘文館人物叢書)
阿蘇品保夫「菊池一族」(新人物往来社)ほか
歴史小説では北方謙三「武王の門」は懐良親王を主人公とした歴史小説だが、武光もその盟友として主役級で登場、なかなか男くさい猛将として描かれている。その謎めいた最期についても小説独自の推理が提示されている。
PCエンジンCD版1336年になると元服して肥後に登場する。初登場時の能力は統率84・戦闘94・忠誠80・婆沙羅19。戦闘力の高さと婆沙羅の低さは全武将中でもトップクラス。

菊池武茂きくち・たけもち生没年不詳
親族父:菊池武時 兄弟:菊池武重・菊池頼隆・菊池武士・菊池隆舜・菊池武澄・菊池武豊・菊池武敏・菊池武光・菊池武隆・菊池武吉・菊池武尚・菊池武義ほか
子:木野武貞・木野武直・木野武郷・木野武方
官職対馬守
生 涯
―後世に有名な起請文を残す―

 菊池武時の子。通名は「五郎」であったとされ、木野(現・山鹿市菊鹿町木野)に拠点を構えたため「木野氏」の祖として「木野武茂」とも呼ばれる。あくまで庶流で、兄弟の中でも地位は高くはなかった。元弘3年(正慶2、1333)3月の菊池武時の鎮西探題攻撃に参加していた可能性はあるが、史料的には確定できない。鎌倉幕府打倒後、建武政権から「対馬守」に任じられている。

 延元3年(暦応元、1338)8月15日、武茂は聖護寺に以下のような冒頭から始まる起請文を納めた。
「武茂弓箭の家に生まれて、朝家に仕ふる身たる間、天道に應じて正直の理を以て、家の名をあげ、朝恩に浴して身を立せんことは、三宝の御ゆるされをかうぶるべく候。その外私の名聞己欲のために義を忘れ恥をかへりみず、當世にへつらへる武士の心をながく離るべく候(私は武士の家に生まれて朝廷に仕える身なので、天の道に従って正義のもとに家名をあげ、朝廷からの御恩を受けて出世することは仏様も認めて下さるであろう。そして自身の名誉や欲のために正義を忘れ恥をかえりみずに世間にへつらう武士どものような心とは決別いたします)
 このとき聖護寺には兄・武重が招いた大智禅師がおり、菊池一族の精神的な相談役の立場で大きな影響を与えていた。この武茂起請文も大智の影響を濃厚に受けたものとされ、上記の後には「自分がおのれの欲のために道徳に背くようなことをすれば生きる価値などなく、そのような時は大智の戒めで正道に戻ることができよう」と書かれている。この特に冒頭部分が理想的な武士のあり方を端的にまとめたものとして名高く、後世この起請文は南朝正統論と菊池氏称揚の流れの中で「天皇への忠節」をメインに据えて広く喧伝され、戦前では多くの人に知られるものとなった。

 父・武時亡きあとの菊池惣領である兄・武重が死ぬと、その同腹の弟・武士が惣領となり、まず武敏がその補佐をした。武敏は興国3年(康永元、1342)前半に死去したらしく、その後は武茂が武士を補佐している。この年の8月10日に書かれた「武士起請文」では「対馬殿」と書かれる武茂が菊池一族の中心となる「寄合衆」四人の一人であり、そのリーダーの「管領」であると名指しされている。ただし管領といっても武茂も他の寄合衆三人の同意を得なければ重要事項を決定できないという規定もあった。

 興国4年(康永2、1343)5月に武茂は中院義定らと竹井城(現・久留米市北野町吉木)を守って九州探題・一色範氏の軍の攻撃を防いだが、7月に城を攻め落とされた。これと同時に菊池氏は大友氏にも攻撃を受けて防戦一方の状態であり、一族内からも武士・武茂の指揮に対する不満の声が上がり、この年の末には武士への引退勧告が出されている。
 武士は興国5年(康永3、1344)は引退に追い込まれ、それを補佐していた武茂も活動が確認できなくなる。入れ換わりに弟の武光が実力で惣領の地位を奪取したため、影響力を失ったものとみられる。以後、彼の子孫の木野氏は菊池氏の重臣の一つとして本家を支えて行くことになる。

参考文献
杉本尚雄「菊池氏三代」(吉川弘文館人物叢書)
阿蘇品保夫「菊池一族」(新人物往来社)ほか

菊池武吉きくち・たけよし?-1336(建武3/延元元)
親族父:菊池武時 兄弟:菊池武重・菊池頼隆・菊池武茂・菊池隆舜・菊池武澄・菊池武豊・菊池武敏・菊池武光・菊池武隆・菊池武士・菊池武尚・菊池武義ほか
位階贈従三位
生 涯
―楠木一党につきあって自害―

 菊池武時の子。通称「菊池七郎」。活動開始の時期は不明だが、足利尊氏が建武政権に反旗を翻したころには兄の菊池武重に従って建武政権側で各地に転戦していたとみられる。
 延元元年(建武3、1336)5月25日の湊川の戦いにおいて、武吉新田義貞と行動を共にしていた武重の命令で須磨口方面に偵察に出た。そのころ会下山に陣をとって少人数で足利の大軍相手に孤軍奮闘していた楠木正成ら一党はついに見切りをつけて民家に入り、炎の中でそろって自害を遂げていた。武吉はこれを目撃して感動し、「おめおめと見捨てて帰ることなどできようか」と考えたか、その場で自らも自害して炎の中に倒れたという。
 以上の話は『太平記』のみに出てくるもので、『太平記』の多くの版本は名前を「武朝」としている。後年の「菊池武朝申状」によると楠木正成が鎌倉幕府滅亡直後に、戦死した菊池武時の功績を第一とすべきと発言したとされており、もしかすると武吉の行動はその恩義に応えたものであったかもしれない。

参考文献
杉本尚雄「菊池氏三代」(吉川弘文館人物叢書)ほか
PCエンジンCD版湊川でのエピソードが有名なせいか菊池軍ではなく南朝方・楠木軍の一員として伊賀大和に登場する。初登場時の能力は統率69・戦闘74・忠誠89・婆沙羅35
メガドライブ版足利帖、新田・楠木帖いずれでプレイしてもラストの「湊川合戦」のシナリオで新田・楠木軍に登場する。能力は体力100・武力133・智力68・人徳45・戦闘力105。 

菊池武義きくち・たけよし?-1377(永和3/天授3)
親族父:菊池武時 兄弟:菊池武重・菊池武吉・菊池武茂・菊池頼隆・菊池武澄・菊池武豊・菊池武敏・菊池武光・菊池隆舜・菊池武士・菊池武尚・菊池武義ほか
生 涯
幼い惣領を補佐するも戦死―

 菊池武時の子で通名「彦四郎」。武時の多くの子の中でもかなり下であったとみられ、菊池武光が惣領の時代以降にその活躍が見られる。正平17年(貞治元、1362)に武光が豊後へ出陣しているあいだ武義は大宰府の留守をつとめていたが、九州探題の斯波氏経の軍がその隙を突いて攻撃してきたため、武義は長者原に出陣してこれを防ごうとした。しかし武義の軍は大敗を喫し、一族の城武顕の智略と豊後から救援にきた武光のおかげで勝利を得ることができたという(『菊池風土記』)

 その後武光、その子・武政が相次いで死ぬと、幼い惣領・菊池賀々丸(武朝)を甥の菊池武安と共に補佐し、九州探題・今川了俊の攻勢に押される菊池一族を必死に支えた。
 菊池氏を滅亡寸前まで追い込んだ了俊が水島の陣で味方の離反を招くと菊池氏は反撃に出て、一時勢力を盛り返した。その勢いで天授3年(永和3、1377)に菊池軍は肥前に進出したが、正月13日の蜷打の戦いで大敗、この戦いで武義は武安と共に戦死してしまった。以後菊池軍は肥後から出られず、衰退の一途をたどることになる。

参考文献
杉本尚雄「菊池氏三代」(吉川弘文館人物叢書)ほか

菊池頼隆きくち・よりたか?-1333(正慶2/元弘3)
親族父:菊池武時 兄弟:菊池武重・菊池武吉・菊池武茂・菊池隆舜・菊池武澄・菊池武豊・菊池武敏・菊池武光・菊池武隆・菊池武士・菊池武尚・菊池武義ほか
生 涯
―父・武時と共に戦死―

 菊池武時の子で通名は「三郎」。『太平記』は「肥後三郎」とする。元弘3年(正慶2、1333)3月13日に鎮西探題の館を攻撃して犬射馬場で父・武時と共に討ち取られた。その首は武時および叔父の覚勝の首と共にさらしものにされた。

参考文献
杉本尚雄「菊池氏三代」(吉川弘文館人物叢書)ほか

菊池隆舜きくち・りゅうしゅん?-1333(正慶2/元弘3)
親族父:菊池武時 兄弟:菊池武重・菊池武吉・菊池武茂・菊池頼隆・菊池武澄・菊池武豊・菊池武敏・菊池武光・菊池武隆・菊池武士・菊池武尚・菊池武義ほか
生 涯
―鎮西探題との戦いで戦死―

 菊池武時の子。「隆舜」は法名で、「阿日坊隆舜」とも。詳細は不明だが早くに出家していたと見られる。
 元弘3年(正慶2、1333)3月の父・武時の鎮西探題攻撃に加わり、その敗走後の鎮西探題側による掃討戦で戦死したらしく、この年の4月25日戦死とする史料がある。

喜春きしゅん生没年不詳
生 涯
―義満初の遣明使の一人―

 詳細な経歴はまったく不明。外交知識のある禅宗の僧であったと思われる。応安6年(文中2、1373)に足利義満は明の使者・仲猷祖闡無逸克勤に対面、彼らを帰国させる際に返礼使として聞渓円宣子建浄業喜春らを明に派遣した。明側の記録ではこの三人は「宣聞渓・浄業・喜春」となっていて、喜春のみフルネームが分からない。
 この室町幕府最初の遣明使は正式の外交使節ではないということで洪武帝に退けられたが、遠路の到来をねぎらって織物などを授けられるなどそう悪い待遇は受けていない。

北野義綱きたの・よしつな生没年不詳
生 涯
―幼い義満を連れて脱出―

 初名は「行綱」天隠龍沢が記した『翠竹真如集』で事績が伝わる武士で、播磨国揖東郡神岡郷(現・兵庫県たつの市神岡)の出身。建武政権期に播磨守護であった新田義貞に従って戦ったが、建武政権崩壊後に帰依していた蘭洲良芳のとりなしで赤松則祐の家臣となり、領地を安堵された。
 康安元年(正平16、1361)12月3日、細川清氏楠木正儀らの南朝軍が京都を占領した際、まだ4歳の春王(のちの義満)は建仁寺大龍庵の蘭洲良芳のもとに身を隠し、5日後に蘭洲は赤松家臣の北野行綱に幼い春王を託し、行綱は商人の姿に扮して春王を赤松則祐の居城・播磨白旗城まで無事送り届けたという(恐らく春王とは商人父子という外見にしたのだろう)
 のちに義満は将軍になってからこのときの功績を称えて彼に一字を与え、「義綱」と名乗らせた。北野義綱はその後赤松氏家臣として活躍、白旗城の軍師にまでなったという。一連の逸話はおよそ一世紀ほどのちに書かれたものだが、作者が播磨の人で赤松氏とも関わりが深いのである程度信憑性はあるようだ。

参考文献
高坂好『赤松円心・満祐』(吉川弘文館・人物叢書)ほか


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