菊池武敏 | きくち・たけとし | 生没年不詳 |
親族 | 父:菊池武時 兄弟:菊池武重・菊池頼隆・菊池武茂・菊池隆舜・菊池武澄・菊池武吉・菊池武豊・菊池武光・菊池武隆・菊池武士・菊池武尚・菊池武義ほか
子:菊池武世・菊池武本・菊池武平・菊池時基 |
官職 | 掃部助 |
位階 | 贈従三位 |
生 涯 |
―多々良浜で尊氏に敗北―
菊池武時の子。「菊池九郎」の通称がある。生母については判然としないが、その後の経緯からすると少なくとも嫡子ではなかったと推測される。
父・武時が敗死したとはいえ後醍醐天皇に呼応して挙兵したため、その恩賞として建武政権から掃部助の官職を授けられた。兄であり時の当主である菊池武重は都にのぼって武者所に属し、そのまま新田義貞に従って足利尊氏の反乱の討伐にあたることになり、武敏は兄が不在の肥後・菊池においてその「留守当主」のような立場で一族を率いた。
建武2年(1335)末に足利尊氏が建武政権に反旗を翻すと、各地でこれに呼応し挙兵する動きが起こり、九州でも大宰府に拠点をおく少弐頼尚が足利方で兵を挙げた。武敏は12月30日に少弐を討つべく大宰府目指して進撃したが、少弐軍に敗れて逆に本拠地・菊池まで攻め込まれて居城まで奪われ、やむなく玖珠や阿蘇に隠れた。
その後中央での戦いは激しく変転し、建武3年(1336)2月に足利軍はいったん京で敗北して九州まで逃れて態勢を立て直そうとした。これを知った武敏と阿蘇惟直は軍勢を整えて筑後へ進出、尊氏を迎えに出かけた頼尚が留守で手薄になっていた大宰府を急襲した。大宰府を守っていたのは頼尚の父・少弐貞経(妙恵)で、2月28日に大宰府は陥落、貞経は有智山城へたてこもった。翌日に武敏らは少弐軍の一部の内応を誘ってこれを陥落させ、貞経を自害に追い込んだ。勢いに乗った菊池・阿蘇軍は味方を増やし、九州へとやってくる尊氏を大軍で待ち受けた。
2月29日に尊氏は九州に上陸、翌3月1日に宗像に入り、大宰府の陥落を知った。足利軍はひとまず博多に入ろうと移動を始め、それを察知した武敏は博多に入る前に尊氏のとどめを刺そうと大軍で出陣した。かくして3月2日に両軍は多々良川を挟んだ干潟、多々良浜に対峙することになる。
このときの両軍の規模は、『太平記』では菊池軍3万対足利軍300、『梅松論』では菊池軍6万対足利軍1000と記されている。どちらもかなり誇張があるとみられるが、菊池軍が足利軍の10倍ほどの規模を誇っていたことは事実のようである。この圧倒的大差を見て尊氏は戦意を喪失し自害しかけたとまで『太平記』は伝える。しかし菊池の大軍もこの時代によくある「勝ってる側にとりあえず合流しておこう」という武士たちの寄せ集めにすぎず、大半は実質「傍観者」であったと見られている。
戦闘が始まると、強い北風が砂塵と共に菊池軍に吹きつけ、その戦意をそいだ。また丘陵地に陣を敷いた足利軍が地形を利用して善戦、一時は尊氏の弟で前線で戦っていた足利直義が命の危険にさらされるほどの接戦にもなったが、いつしか情勢は菊池軍不利に傾いていった。これを見た松浦党が菊池方から足利方に寝返り、それをきっかけに菊池軍は一気に崩壊、阿蘇惟直はじめ菊池軍に加わっていた有力武将は各地で戦死してしまい、武敏も命からがら菊池へと逃れた。
この戦いでひとまず九州を平定した尊氏は間もなく京を目指して東上していった。すると武敏は再び活動を再開し、尊氏が九州支配のために残していった仁木義長・一色範氏らとその年の秋まで一進一退の攻防を繰り広げた。しかし本拠地菊池まで何度も攻め込まれるなど、武敏の統率力・指揮能力は今一つだったようである。これは彼が妾腹の子であったため当主ほどの支持を集められなかったためではないかとの推測もある。
延元元年(建武3、1336)の年末までに京付近で転戦していた当主・武重が菊池に帰還した。武重のもとで菊池氏はまた息を吹き返し、延元2年(建武4、1337)4月には肥後へ攻め込んで来た一色範氏を犬塚原の戦いで撃破している。この戦いでは武敏も重傷を負う奮戦を見せたと言われている。
ところが延元3年(暦応元、1338)の暮れごろに武重が急死してしまう。当主の座は嫡出の弟である菊池武士が引き継いだがまだ幼く、武敏がその後見となったとみられる。延元4年(暦応2、1339)から興国2年(暦応4、1331)にかけて足利方が討伐の対象に武士と共に武敏の名を挙げていることがその証拠である。
しかしこの武士・武敏時代は菊池氏にとって「冬の時代」であった。足利方に押されっぱなしのまま武士は一族の中でも孤立して興国5年(康永3、1344)に隠居に追い込まれている。この前後から武敏の動静も全く伝わらず、武士の隠居以前に死去したのではないかとみられている。
参考文献
杉本尚雄「菊池氏三代」(吉川弘文館人物叢書)ほか
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大河ドラマ「太平記」 | 尊氏が主役なので本来なら多々良浜の戦いで登場するはずだったが、予算と時間の都合で九州落ちがまるまるカットされたため武敏の登場もなかった。それをフォローする形で旅コーナー「太平記のふるさと」でその経緯がやや詳しく紹介された。
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歴史小説では | 多々良浜の戦いのくだりで登場する例が多い。 |
漫画作品では | 岡村賢二「劇画・私本太平記」の連載終盤、掲載誌を「戦国武将列伝」に移してからの多々良浜合戦の回でちゃんと登場していた。しかし残念ながらこの部分は単行本化されていない。 |
PCエンジンCD版 | 兄の武重が義貞と一緒に山城にいるため、肥後国主として登場する。初登場時の能力は統率77・戦闘85・忠誠75・婆沙羅34。 |
メガドライブ版 | 足利帖でプレイすると「多々良浜合戦」のシナリオで敵方に登場。なぜか楠木・新田帖でも白旗城の戦いや湊川の戦いで登場する。能力は体力82・武力134・智力120・人徳75・戦闘力115。 |