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いいおよしつら〜いわまつつねいえ

飯尾吉連
いいお・よしつら生没年不詳
官職隼人
幕府
引付方奉行人
生 涯
―尊氏九州落ちに同行した官僚武士―

 飯尾氏はもともと三善氏の流れを汲み、鎌倉時代に阿波国麻植郡飯尾に拠点をもったことから「飯尾氏」を名乗るようになった。鎌倉時代から室町時代にかけて「官僚武士」として活躍する一族である。
 系図がはっきりしないため、飯尾吉連の系譜については正確なところは不明。早くから足利尊氏に付き従い、建武3年(延元元、1336)2月にいったん尊氏が九州まで敗走した際に吉連が同行していることが確認できる。足利幕府の開設後は幕府官僚に加わり、康永3年(興国5、1344)には引付方二番の奉行人にその名がみられる。
 幕府の内戦「観応の擾乱」が始まると、家臣で麻植郡の所領の代官をつとめていた光吉心蔵を阿波守護の細川軍に参加させ、南朝勢力と戦わせている。

伊賀兼光いが・かねみつ生没年不詳
親族父:伊賀光政(実父は伊賀光盛?)
官職伊勢守・土佐守・図書頭・若狭国司・大蔵少輔
幕府六波羅探題の引付頭人・評定衆
建武の新政雑訴決断所・窪所
生 涯
―六波羅探題の内通者?―

 伊賀氏は藤原北家、藤原秀郷の流れをくみ、鎌倉時代に北条氏の姻族となって「伊賀」を名字とした。幕府の実務官僚を代々務める家であったと考えられている。兼光の生没年は不明だが、鎌倉末期に京都の六波羅探題で引付頭人・評定衆を務めていることが確認できる。父の光政が山城守であったことから「山城兼光」の通り名もあった。『尊卑分脈』の頭注によれば兼光は光政の養子で、実父は同族の伊賀光盛であるとの記述がある。

 謎の多い人物だが、早い段階から後醍醐天皇一派と深く関わっていたことが推測されている。元亨4=正中元年(1324)3月、大和国般若寺に奉納された文殊菩薩像の胎内墨書に施主として「藤原兼光」の名が、願主で後醍醐の腹心である文観の名と共に記され、「金輪聖主御願成就」と祈願が書かれている。これは後醍醐の討幕計画の成功を願ったものと考えられ、事実、この年9月に後醍醐の最初の討幕計画が露見する「正中の変」が勃発している。伊賀兼光と文観の関わりに注目した網野善彦は、さらに時期をさかのぼった延慶2年(1309)に醍醐寺・三宝院流の継承争いで幕府中枢の人物として名前が浮上する、文観と「他に異なる」深い関係にあったという「伊勢前司」も伊賀兼光であろうと断定している。

 正中の変の失敗以後、元弘の乱から幕府滅亡までの期間における兼光の行動は不明。しかし建武政権が成立すると若狭国司と守護に任じられ、図書頭兼土佐守、大蔵少輔にも補せられた。雑訴決断所や窪所など実務の要職にも抜擢されており、楠木正成名和長年ら「三木一草」と同様の重用を受けていることは兼光が討幕戦の中で目に見えない重要な功績をあげていたことを想像させる。網野善彦は兼光が幕府の中枢にありながら後醍醐一派のスパイという危険な役割を果たしていたのではないかと推測している。
 建武政権崩壊後はその消息がまったく不明となる。『保暦間記』は兼光を「三木一草」と並べて建武政権崩壊と共に戦死もしくは没落したように表現している。

参考文献
網野善彦『異形の王権』ほか
大河ドラマ「太平記」建武の新政期の第31回・第33回に登場している(演・ト字たかお。35回では単に「武将」とクレジット)。しかしどこに出ているのかわからない状態で、名和長年らとともに公家風のみなりで尊氏追討を主張する場面ではないかと思われる。
PCエンジンCD版「山城兼光」として南朝方武将として土佐に登場する(土佐守に任じられていたためだろう)。初登場時のデータは統率60、戦闘41、忠誠23、婆沙羅48。

伊賀高光いが・たかみつ生没年不詳
親族父:伊賀兼長
官職掃部助
生 涯
―細川清氏を討ちとった備後武士―

 藤原秀郷系の武士で、備前国長田荘に土着した庶流の子孫。
 貞治元年(正平17、1362)、前年に幕府で失脚し、南朝に走って一時は京を占領した細川清氏が讃岐に渡って再起を図った。従兄弟の中国大将であった細川頼之がその討伐を命じられて山陽道の武士を率いて讃岐に渡るが、伊賀高光もこれに従っていた。
 7月24日の両軍の決戦で清氏はいつもの猛将ぶりを発揮して戦場で暴れまわり、敵将・真壁孫四郎を馬から引きずりおろしてその馬に乗ろうとしていた。すでに敵二騎を斬って落としながら「清氏はどこだ」と探していた伊賀高光はこれを見て「ただ者ではない。きっと相模守殿(清氏)に違いない」と思い、まっすぐに接近して組み打ちの末に清氏を三太刀刺し、清氏を討ちとった(「太平記」)
 この功績により讃岐国阿野郡千疋ノ巴に領地を与えられ、その地の山田下(香川県綾歌郡綾川町山田下)に城を与えられ、その城は「伊賀城」の呼び名で伝えられている。

一宮善民部太夫いぐぜ・みんぶだゆう生没年不詳
官職民部太夫
生 涯
―赤坂城攻めに参加した官僚系武将―

 一宮善氏は三善氏の一族で、鎌倉幕府を支える官僚武将の一翼を担っていた。「民部太夫」については実名や経歴は不明ながら、元亨3年(1323)10月に行われた北条貞時十三回忌法要の参列者の中に名が見える。
 元徳3年(元弘元、1331)に後醍醐天皇楠木正成が倒幕の挙兵をし、鎌倉幕府が大軍を畿内へ派遣したが、その軍の中にも彼の名前が見える(「太平記」)。それ以後のことは全く不明である。

印具兵庫助いぐ・ひょうごのすけ生没年不詳
官職兵庫助
生 涯
―赤坂城攻めに参加した北条一門?―

 『太平記』流布本の巻三、鎌倉幕府が畿内へ派遣した大軍の中に名前が見える武将だが、古態である西源院本にはその名がない。流布本の武将名列挙では明らかに北条一門の位置づけになっており、「印具」=「伊具」で、北条氏伊具流(北条義時の四男・有時の子孫)の誰かであろうと推測されるが、他史料と照らし合わせても該当する人物が見当たらず、実際にそのような人物がこの時出陣していたのか疑問もある。

池田親連いけだ・ちかつら生没年不詳
親族父:中原政連
官職出雲介
生 涯
―義貞挙兵のきっかけを作ってしまった男―

 美濃池田氏は紀氏の流れを汲み、ある時点から有力な得宗被官となっていたらしい。『尊卑分脈』によればこの親連は中原氏から入った養子で、実父・中原出雲介政連は北条貞時に向け政治倫理を説いた諌奏文を残している(従来「平政連諌草」と呼ばれる)。『太平記』に登場する「出雲介親連」はその子であると考えられ、彼の名で出された幕府の御教書も複数確認されている。
 『太平記』によれば、元弘3年(正慶2、1333)5月に幕府の使者として「出雲介親連」は黒沼彦四郎とともに新田荘に赴き、「五日の内に六万貫」の戦費を要求、強制徴発を行った。これに怒った新田義貞は黒沼を斬首、親連を捕縛して、反北条の挙兵に踏み切ることになる。黒沼が斬られた一方で親連が生かされたのは幕府の重臣の地位にあったからではないかと見られている。その後の親連の消息は不明。鑁阿寺「新田足利両家系図」によると「出雲介は船田入道一族」とあり、同じ紀氏の流れをくむ縁者の義貞の執事・船田義昌の助命嘆願で助けられ長浜六郎左衛門尉に預けられたとある。

参考文献
佐藤進一・網野善彦・笠松宏至「日本中世史を見直す」(平凡社)ほか
大河ドラマ「太平記」第21回「京都攻略」ではなぜか「明石出雲介」として登場しており(演・平野恒雄)、黒沼の背後にいるだけで特に目立った芝居もない。
歴史小説では「太平記」の記述に従い名前は出てくるが、斬られた黒沼に比べると印象には残らない。新田次郎『新田義貞』では「金沢出雲介親連」となっている。桜田晋也の小説『足利高氏(尊氏)』ではなぜか親連が斬られて黒沼が捕縛とアベコベになっている。

不知哉丸いざやまる
吉川英治「私本太平記」、およびそれを原作とする大河ドラマ「太平記」における足利直冬の幼名。
→「足利直冬(あしかが・ただふゆ)」を見よ。

いし
大河ドラマ「太平記」に登場する架空人物。→「ましらの石」を見よ。

いし
 河部真道の漫画作品「バンデット-偽伝太平記-」の主人公となる架空人物。元亨2年(1322)の初登場時は十五歳の少年で、奴隷のようにこき使われる「下人」の立場であった。荷物を輸送する途中で赤松一族に荷を奪われ、謎の男「猿冠者」と行動を共にしたことから赤松氏、護良親王、足利氏と関わるようになる。やがて車借をしていた楠木正成に拾われ、楠木一党のもとでたくましく成長、強力な弓の使い手となる。
 元弘の乱が起こると正成や他の悪党集団と共に「俺たちの国」を作る夢のために各地を転戦。連載の事情で六波羅探題攻撃がクライマックスとなり、石たち悪党集団が水攻めという奇策により六波羅を陥落させる。その後京に乗り込んできた足利高氏と対面し、「戦のない世をつくりたい」という高氏に向かって「そんな世は数千年こねぇ」と啖呵を切り、大暴れの末に去っていく。当初の構想ではより長期にわたり尊氏と対決する予定だったのかもしれない。
 NHK大河ドラマ「太平記」に登場する架空人物「ましらの石」と名前だけでなく立ち位置がよく似ており、参考にした可能性はある。

石堂十馬いしどう・とうま
 吉川英治『私本太平記』に登場する足利尊氏の家臣。建武政権期に尊氏が護良親王派の放った刺客に襲われる場面で救援にやってくる。「石堂」は「石塔」とも書くので足利一門の石塔氏という設定なのかもしれない。
大河ドラマ「太平記」 大河ドラマ「太平記」第25回にのみ登場。演じたのは和泉昌司(→その後「いずみ尚」として舞台・声優でも活躍)。どこで出てくるのか分からないぐらいなのだが、尊氏が護良親王の放った刺客(楠木正季ら)に襲われたときに「との!」と駆けつけてくる家臣の一人が「石堂か」と尊氏に声をかけられている。細かいところで吉川原作に忠実に映像化してる一例。
その他の映像・舞台昭和39年(1964)の歌舞伎「私本太平記」では上村吉弥(五代目)が演じている。尊氏が刺客に襲われるシーンがあったと見られる。

石塔頼房いしどう・よりふさ生没年不詳
親族父:石塔義房 子:石塔頼世
官職中務大輔・右馬頭、刑部卿(南朝)
幕府引付頭人・伊勢守護
生 涯
―長く南朝に仕えた直義派武将―

 父の石塔義房と共に足利一門として各地で転戦していたが、貞和5年(正平4、1349)8月、高師直師泰らが反直義のクーデターを起こした時にはただちに足利直義邸に馳せ参じており、父・義房と共に直義の腹心であったと考えられる。このクーデターで直義は失脚、出家隠遁に追い込まれたが、翌観応元年(正平5、1350)10月に直義が京を脱出し南朝に降って挙兵すると、頼房もただちにこれに応じて軍を起こし京都へ攻め込んでいる。尊氏の軍を破り師直・師泰の殺害して一時返り咲いた直義のもとで幕府の引付頭人となったが、間もなく南朝の総帥・北畠親房との関係が悪化、親房の拠点である伊勢国の守護となってこれを牽制しようとしている。やがて南朝と結んだ尊氏が巻き返し、直義が北陸から関東へ敗退すると石塔父子もこれに従っている。尊氏と直義の最終決戦となった駿河・薩タ(土垂)山の戦い(観応2年12月)にも父子そろって参戦したが敗北、直義らと共に尊氏に投降した。翌文和元年(正平7、1352)2月26日に直義は鎌倉で急死する。

 直義の死と前後して、南朝軍は畿内と関東で一斉に蜂起し関東では新田義貞の遺児・新田義宗義興らが鎌倉目指して兵をあげた。義宗らは鎌倉にいた直義党の大名らに内通を呼びかけ、義房はこれに応じて尊氏を鎌倉で襲撃しようと図る。義房が頼房にこの計画を打ち明けると頼房は憤然として「将軍に信頼された者としてそれに後ろから弓を引くようなまねはできませぬ。父子の縁もこれまでです」と拒絶してそのまま尊氏の本陣へ向かい計画を暴露したと「太平記」は伝える。しかし直前まで義房と共に直義派で尊氏相手に戦っていた者のセリフとしてはかなり不自然で、事実かどうかは疑わしい。頼房はその後まもなく義房ともども畿内に戻って南朝方で活動しており、この逸話はあくまで父のいちかばちかの計画を危ぶんで暴露することでやめさせたというあたりが真相ではなかろうか。
 畿内に戻った頼房は南朝朝廷の近くか伊勢にあったと思われ、南朝から刑部卿に任じられている。文和2年(正平8、1353)に山名時氏が幕府から離反して南朝方として京を攻撃した時にもこれに呼応した。九州から追われた直義の養子・直冬の南朝投降を仲介したのも頼房だったらしく、文和4年(正平10、1355)には直冬を盟主として桃井直常・山名時氏らと共に京を一時占領した。延文4年にも近江の佐々木氏を攻撃している。

 康安元年(正平16、1361)に幕府の執事・細川清氏佐々木道誉の謀略にかかって幕府から離反すると、頼房は清氏からの連絡を受けてその南朝投降を仲介した。そして清氏、楠木正儀らと共に京へ突入、一時これを占拠した。しかし長く維持することはできず、間もなく奪い返されている。その翌年にも摂津で北朝方として戦っている。
 だがそれから間もなく山名時氏・大内弘世ら南朝方の大勢力が相次いで幕府に帰順し、幕府政治の安定が見え始めるとさすがに南朝を見限った。貞治3年(1364)ごろには幕府に帰順していたらしい。子の頼世は三代将軍・足利義満の馬廻を務めている。
大河ドラマ「太平記」第46回から最終回までの4回に登場(演:内山森彦)。直義が反師直の挙兵をする場面から直義派武将が集まる場面で必ず顔を出している。第46回では南朝の綸旨を直義たちに読み上げ、第48回では敗北した尊氏の落ちぶれた姿を「わしらは負けんでよかった」と嘲笑するが、その直後に尊氏から「この席にわしの許さぬ者が来ておる」と名指しで退出を命じられてスゴスゴと引き上げる場面がある。
PCエンジンCD版北朝方武将として北陸の斯波高経の配下扱いで父・義房と共に登場する。初登場時のデータは統率63・戦闘31・忠誠74・婆沙羅69
メガドライブ版足利軍武将として父義房と共に登場。能力は体力68・武力60・智力43・人徳54・攻撃力34。 

石の家来いしのけらい
大河ドラマ「太平記」の第26回に登場する二人組(演:大阪百万円・和田英雄)。倒幕戦で功績をあげ武士となったましらの石が、日野俊基から与えると約束された和泉の土地へ向かう時になけなしの金をはたいて雇った。しかしその土地にはすでに別の公家の領地となっており、その家人の武士たちによって石は追い返されてしまう。これを見た家来二人は「こりゃ、あかんで」と言って逃げ出してしまった。

伊勢貞継いせ・さだつぐ1309(延慶2)-1391(明徳2/元中8)
親族父:伊勢盛継 養子:伊勢貞信
官職勘解由左衛門尉、伊勢守
幕府政所執事
生 涯
―室町幕府草創期の官僚武将―

 初名は「十郎時貞」、出家して「照禅」と号した。上総国守護代として足利家に代々仕えた伊勢氏の当主として南北朝動乱期の大半を生き抜き、足利尊氏足利義詮足利義満の将軍三代に仕えて草創期の室町幕府で重きをなした。
 伊勢氏の家伝によると貞継は尊氏の父・足利貞氏の烏帽子子であり、尊氏の養育にあたったというが、貞継は尊氏より年下であるから養育というより少年期から尊氏の側に仕えて一緒に育った、というあたりが正しいのではなかろうか。尊氏側近の一人ではあるが戦闘に関与する機会は少なかったようで、南北朝動乱を通して戦場での活動は全く見られない。故実に明るい政務官僚としての活動がもっぱらだったようである。

 貞和元年(興国6、1345)8月の天竜寺供養では尊氏・直義兄弟に随行する武将たちの中に名前が見える(「太平記」)。その後貞和5年(正平4、1349)8月、足利幕府内の内紛が頂点に達し、高師直派・足利直義派がそれぞれの邸宅に結集した際、伊勢貞継は高師直の側に馳せ参じている(「太平記」)。「観応の擾乱」では目立った活動はしていないが一貫して尊氏側に属していた。

 尊氏が死去した延文3年(正平13、1358)の8月22日、のちの三代将軍足利義満が春日東洞院にあった伊勢貞継の屋敷で生まれている。義満の母親は義詮の側室・紀良子で、それ以前から貞継邸で良子を預かっていたものと推測され、義満は幼児期を貞継の屋敷で過ごすこととなった。このことは貞継に対する義詮の信任の厚さを示しており、また結果的に義満が将軍となったことで貞継は「将軍の育ての親」となり、幕府内での地位を高めることとなる。このころすでに出家し「伊勢入道」と呼ばれている。
 康安元年(正平16、1361)10月、かねて執事の細川清氏と対立していた佐々木道誉は、清氏が義詮の病死の祈った願文なるものを手に入れ、それを伊勢貞継に渡している。貞継は「筆跡は知らないが花押は確かに清氏のもの」と認めつつ、「こういうことには謀略がありがちだ」と考えて義詮には見せず、ひそかに箱にしまっておいた。しかし道誉が義詮に直接伝えたため義詮は貞継を呼び出し、願文を読むことになった(「太平記」)。結局これがきっかけで清氏は失脚、南朝に走るのだが、貞継も考えたようにこれは道誉の謀略であったと見られている。

 その後義詮が死去して義満時代となり、その義満を補佐していた細川頼之が康暦元年(天授5、1379)に「康暦の政変」で失脚すると、貞継は幕府政所の執事職に起用された。父代わりであった頼之を失った義満としては「育ての親」である貞継を頼りとして幕府首脳にすえたのかもしれない。
 南北朝統一を翌年に控えた明徳2年(元中8、1391)3月29日に83歳の高齢で死去した。政所執事職は翌々年に養子の伊勢貞信が引き継ぎ、これ以後、室町幕府の安定と共に政所執事職は伊勢氏が代々世襲することになる。伊勢氏は貞継の代から作法の故実に詳しく、のちにこれが伊勢流の作法として大成されてゆくことになる。
歴史小説では足利義満の幼少期の養育にあたっているため、平岩弓枝「獅子の座」など、義満を主人公とする小説で登場している。とくに印象に残るものではないが。
PCエンジンCD版北朝方武将としてなぜか尾張国に登場する(伊勢守だからか?)。初登場時のデータは統率28・戦闘83・忠誠54・婆沙羅37。意外と武闘派。

一条経嗣
いちじょう・つねつぐ1358(延文3/正平13)-1418(応永25)
親族実父:二条良基 養父:一条房経 子:一条経輔・一条兼良
官職内大臣・左大臣・関白・准三后
位階正五位下→従三位→従一位
生 涯
―義満時代の関白―

 一条経嗣は南北朝時代の北朝を代表する公家で関白を務めた二条良基の三男であるが、一条房経が後継ぎのないまま死去して一条家が断絶しかけたため、経嗣が房経の養子として一条家を継いだ。当初良基は一条経通の隠し子が田舎で暮らしているとの情報を流してそれを一条家の後継ぎとするよう工作し、後光厳天皇足利義詮の承認を得てその「経通の子」として自分の三男をまんまと一条家の後継ぎとすることに成功した。経嗣擁立に加担させられた吉田兼熙九条経教はだまされたことに怒ったが、決まってしまった以上どうにもならなかったようである。
 貞治6年(正平22、1367)に十歳で元服して正五位下に叙せられ、翌年には従三位。嘉慶2年(元中5、1388)に内大臣、明徳2年(元中8、1391)に従一位、南北朝統一後の応永元年(1394)に左大臣、さらに関白となった。その後応永6年、応永17年と三度にわたって関白職に就き、足利義満時代の上級公家を代表する存在となった。南北朝動乱の間にすたれた公家社会の故実・伝統の復活再編にも努力したことで知られる。

 関白としての経嗣は、公家社会にも君臨しつつある義満と向き合わねばならなかった。彼の日記『荒暦』には義満にまつわる逸話が数多く記録されており、その中ではまるで「上皇」のようにふるまう義満の姿を後世に伝えている(詳しくは義満の項を参照)。公家の代表者として先例を次々と乗り越え君臨してゆく義満を苦々しく思いながらも、それに抵抗することもできない自分のことを経嗣は自虐的に記しもした。
 南朝の後亀山天皇に対して「上皇」の尊号を贈ることについて経嗣は激しく反対したが義満に押し切られ、「言語道断」と日記に不満をぶちまけている。その一方で義満が応永6年(1399)9月に盛大に営んだ相国寺大塔の落慶法要の記録『相国寺塔供養記』も経嗣の手になる文章で、その中で経嗣は義満の愛童・慶御丸の美少年ぶりを「光源氏も及ばない」とほめちぎり、ひいては義満をも賞賛している。
 有名なのは、応永13年(1406)に後小松天皇の生母・三条厳子が危篤となった際、義満が「在位中の二度の諒闇(服喪)は不吉」と言い出し、天皇の代わりの母「准母」を立てるべきだと言い出した時の逸話である。義満は自分の妻・日野康子を准母とするよう強引に話を進めたが、表向きはその真意を隠して公家たちの方からそう具申させようと仕向けていた。関白として意見を求められた一条経嗣は内心憤りながらも結局は自分から「康子様を准母に立てては」と義満に意見し、義満を上機嫌にさせている。その日の日記に経嗣は「愚かな私はひたすらご機嫌取りばかり。ああ、悲しいかな、悲しいかな」と悔しさをぶちまけた。
 応永15年(1408)5月6日に義満が急死すると、経嗣らはただちに義満に「太上天皇」の尊号を贈ることを決定したが、これは幕府側から辞退された。

 応永17年(1410)12月に三度目の関白就任となり、現職のまま応永25年(1418)11月17日に61歳で死去した。「成恩寺関白」の別称もある。一条家の家督は三男の一条兼良が継ぎ、父譲りの学才で後世に名を残すことになる。

参考文献
今谷明『室町の王権』(中公新書)
早島大祐『室町幕府論』(講談社選書メチエ)ほか
歴史小説では足利義満を主人公とする平岩弓枝『獅子の座』などに登場している。
漫画作品では石ノ森章太郎『萬画・日本の歴史』の義満時代の部分で登場している。出番がかなりあるのは『室町の王権』を参考に『荒暦』に書かれたエピソードをふんだんに取り入れているため。

一条行房
いちじょう・ゆきふさ?-1337(建武4/延元2)
親族父:世尊寺経尹(実父は世尊寺経名?) 弟:一条行尹 娘か妹:勾当内侍
官職蔵人頭・大膳大夫・右京大夫・左中将
位階四位
生 涯
―後醍醐に殉じた能書家公家―

 後醍醐天皇の側近となった公家の一人。藤原北家世尊寺流は書道を伝える家柄で、行房はその当主・経尹の子とされるが、実際にはその子・経名の子で祖父の養子とされたともいう。正和2年(1313)に完成した勅撰和歌集『玉葉集』に歌が選ばれているのが史料上の初登場。早くから後醍醐天皇の腹心の一人となっており、元弘の乱(1331)で挙兵に失敗した後醍醐が隠岐へ流されたとき、千種忠顕と共に隠岐まで同行した。南朝で編纂された『新葉和歌集』に載る「かへりみる都のかたも雲とぢてなほ遠ざかる五月雨の空」は行房が隠岐滞在中に詠んだものと推定されている。

 この年の10月に京では持明院統の新帝・光厳天皇の大嘗会が行われたが、儀式の中で屏風に歌を書く能書家がいなかった。そこで代々の能書家である世尊寺流の行房を隠岐から呼び返そうという話になり、その噂が隠岐に伝わると後醍醐は夜中に行房と一対一で昔話をするうちに「もしお前が召還されるということになったら、実にうらやましいことだな」と涙し、行房は「なんで帰れましょうか」と思いつつ悲しみで声に出せない、という印象的な描写が『増鏡』にある。ただしこの大嘗会でその役を務めたのは行房の弟・行尹らだったことが花園上皇の日記で確認されるので行房がこのとき都に帰ったかどうかは判然としない。ただその後の後醍醐の隠岐脱出にあたって同行の公家は千種忠顕の名前しか出てこないので行房は先に京へ帰っていたのかも知れない。

 建武政権では千種忠顕ともども一時の栄華をほこった。新田義貞との恋物語で有名な勾当内侍は行房の妹、あるいは娘とされ、これが縁で義貞とも深く結びついたと推測される。延元元年(建武3、1336)、足利尊氏の反乱により建武政権が崩壊、比叡山にたてこもっていた後醍醐が尊氏といったん和睦して下山するおりに、義貞が恒良親王を「天皇」として奉じて北陸へ下向したが、行房はこれに同行している。
 北陸に向かった義貞軍は越前金ヶ崎城に籠城したが、高師泰ら足利軍の包囲を受けて延元2年(建武4、1337)3月6日ついに陥落した。恒良・世良両親王は捕えられ、尊良親王新田義顕は自害した。行房も彼らと共に自害している。
大河ドラマ「太平記」相原一夫が演じ、第15回の捕縛・幽閉された後醍醐のそばに千種忠顕と一緒に控えている場面で初登場、以後隠岐配流と脱出、建武政権の公家勢ぞろいの場面など中盤ではほぼ毎回登場していた。しかし義貞の北陸下向には同行しておらず、後醍醐が吉野に南朝を開いた場面で他の公家たちと一緒に顔を出していた。勾当内侍との関係も全く描かれず、あくまで「大勢の公家」の中の一人といった扱いでほとんど没個性だったが、天皇に謁見しようとする名和長年から懐に砂金(?)を押しこまれてニヤリとする場面だけ妙に印象的だった。
その他の映像作品1924年(大正13)に制作された日活の無声映画「桜」は劇中劇に児島高徳の「桜の木」の伝説をとりこんでおり、この中で一条行房が中村吉十郎に演じられて登場している。
歴史小説では後醍醐の側近として隠岐まで同行していること、勾当内侍の父か兄とされていることから小説で登場することは多い。だが同じ境遇の千種忠顕に比べると印象は薄く、とくに目立った個性は与えられておらず、名前が出てくるだけ、というケースがほとんど。

一色(いっしき)氏
 足利氏支流の名門。足利泰氏の子・公深が三河国吉良荘一色に分家し、一色氏を称したことに始まる。足利尊氏による幕府創設期に公深の子・範氏が初代の九州探題として九州に置かれたが、南朝勢力により駆逐された。その後、若狭・丹後を中心に守護大名として勢力を拡大、京極・赤松・山名と共に幕府侍所頭人をつとめる「四職」の一つにのしあがった。しかし義貫が足利義教に殺害されたころから衰退が始まり、戦国時代には下剋上にあってさらに弱まり、信長・秀吉時代に完全に滅亡してしまった。その一族の幸手一色氏や尾張の丹羽氏など江戸時代まで続いた家もある。

足利泰氏┬家氏斯波





├義顕
渋川





├頼氏惣領





├頼茂石塔頼行─行義



├公深───範氏直氏─氏兼
┌持範

├義弁上野
範光詮範満範┴義範

├賢宝小俣
└範房└詮光└範貞

└基氏加古





一色詮範いっしき・あきのり?-1406(応永13)
親族父:一色範光 子:一色満範
官職兵部少輔・右馬頭・左京大夫
幕府三河・若狭・尾張二郡守護、侍所頭人
生 涯
―明徳・応永の乱で武勲―

 室町幕府草創期に活躍し若狭・三河守護となった一色範光の子。生年は不明だが暦応3年(興国4、1340)ごろと推測されている。応安2年(正平24、1369)以降に父の守護国の若狭で一色氏の支配に抵抗する国人一揆が起こると、詮範は父の命を受けて若狭に向かい、これを鎮圧している。
 永徳元年(弘和元、1381)から同3年まで幕府の侍所頭人を務めた。嘉慶2年(元中5、1388)に父・範光が死去すると三河・若狭守護職を引き継ぎ、とくに若狭での支配を強めた。康応元年(元中6、1389)に伊勢の南朝方・北畠顕泰が北伊勢を攻撃すると、これを仁木満長らと共に撃退している。

 明徳2年(元中8、1391)12月、山名氏清ら山名一族が将軍足利義満の挑発に対して挙兵し京へと迫った(明徳の乱)。義満は花の御所を出て詮範の屋敷に入り、詮範が戦いの軍奉行をつとめた。氏清の軍が二条大宮に進出して奮戦、幕府軍が苦戦を強いられたため、一色詮範は自ら義満に申し出て加勢に向かった。詮範は氏清と一騎打ちに及び、すでに負傷して弱っていた氏清は馬から落とされた。すぐさま詮範の息子・一色満範が馬から下りて氏清に斬りつけ、詮範も馬から下りて父子二人がかりで氏清の首を挙げ、翌日義満のもとへ届けて実検させた(「明徳記」)。この戦功により満範に丹後守護職、詮範には尾張国の知多郡・海東郡の守護職が与えられた。
 若狭と丹後を得たことで一色氏は大きな利益をあげ、京の一色邸はその豪勢ぶりが記録されるほどであった(吉田兼敦「応永十年記」)。また義満が丹後の天橋立や若狭の小浜を数回旅した際にはその接待役を務めている。

 応永元年(1394)には大和国で小夫宗清が乱を起こすと、その平定に当たった。応永2年(1395)に義満が出家すると、多くの大名・公家がそれにならって出家したが一色詮範も同様で、剃髪して「信将」と号した。
 応永6年(1399)に大内義弘「応永の乱」を起こすと、諸大名の一員として堺に出陣し、再び息子の満範と共に大内弘茂(義弘の弟)を破る功績をあげた。応永12年(1405)に再び侍所頭人になったとみられる。
 応永13年(1406)6月7日に死去。数々の武勲を残した彼らしく、法名は「長慶寺大勇信将」という。墓地は不明だが「長慶寺」は守護を務めた尾張知多郡にあることから(父・範光の墓も同郡にある)、そちらに葬られたらしい。

一色右馬介いっしき・うまのすけ生没年不詳
生 涯
―いちおう実在人物―

 今川了俊の書いた『難太平記』で、足利尊氏の篠村八幡宮での反北条挙兵の折りに尊氏・直義両名が奉献した矢を進めた「役人」として今川範氏と並んで「一色右馬介」の名がみえる。今川と並んでいることからも足利一門の一色氏の当主クラスの人物であると考えられ、一色頼行ではないかと推測されている。
 しかし実際は誰かということはさておき、複数の小説等では正体不明なのをいいことに尊氏側近の便利キャラとして使われていて、そちらで有名になってしまった事実上の架空キャラである。
大河ドラマ「太平記」大河ドラマ「太平記」は『私本太平記』を原作としているが右馬介のキャラクターはさらに手が加えられた。北条氏に滅ぼされた塩屋一族の生き残りとされ、足利貞氏にかくまわれて三河で成長、少年高氏の守役となる。しかし実は足利のために情報収集をする「忍び」でもあるという設定で、原作以上に各地で大活躍、ほぼ全編にわたって登場している。鎌倉から尊氏の妻子を逃がす役目も彼がつとめたため、史実および原作にある篠村八幡の挙兵の現場には立ち会わないことになってしまった。最終回でかつて自分が見守った直冬を説得に赴いて殺されるが、自らの命と引き換えに直冬の戦意を失わせた。演じたのは大地康雄で、脚本を読んだ大地は「これは『ゴッドファーザー』のトムだ!」と思ったという(補足:「ゴッドファーザー」のトムはマフィア一家に拾われてファミリーの弁護士兼相談役となり、主人公マイケルの兄貴分にして腹心となる)
その他の映像・舞台昭和39年(1964)の歌舞伎「私本太平記」では実川延若(三代目)が演じた。
歴史小説では山岡荘八『新太平記』では尊氏の周囲にしばしば登場するが没個性。吉川英治は『私本太平記』で右馬介を尊氏の守役として冒頭から登場させ、やがて尊氏のもとを離れて各地に出没、佐渡で阿新丸の仇討に協力したり具足師・柳斎に身をやつして藤夜叉とその子・不知哉丸(直冬)を見守ったりもしている。途中からほとんど登場しなくなるが、物語の結末、尊氏の死後に再び登場して時代を総括する役割を演じている。林青悟『足利尊氏』にも腹心の一人として登場するがとくに印象に残らない。
漫画では吉川英治の原作を岡村賢二により劇画化した『私本太平記』にほぼ原作準拠で登場。ただし原作をかなり大急ぎで消化する展開になっていくため途中からほとんど存在が忘れられているような…
PCエンジンCD版足利尊氏がいる国に直属の家臣として登場。統率32・戦闘95・忠誠95・婆沙羅19で、大軍を率いることはできないが個人の戦闘能力の高い忠実な側近というキャラクターをうまく表現していた。

一色直氏いっしき・なおうじ生没年不詳
親族父:一色範氏 兄弟:一色範光、一色範房 子:一色氏兼
官職宮内少輔・右京権大夫・右京大夫
幕府九州探題(鎮西探題)・肥前・筑前・肥後・日向・筑後守護
生 涯
―九州を追われた九州探題―

 初代九州探題の一色範氏の長男。通称「孫太郎」、出家して「道勝」と号した。貞和2年(正平元、1346)8月に直氏は幕府の命で苦戦する父を助けるため九州に渡り、同年12月に父に代わって二代目の九州探題となったが、実質的には父の範氏が依然として指揮権を握っていたようである。
 やがて幕府内の内戦「観応の擾乱」が起こると、九州は一色氏の「探題方」、足利直冬を奉じる少弐頼尚らの「佐殿方」、南朝の懐良親王を奉じる菊池武光らの三者が鼎立し、中央の情勢と呼応して複雑な離合集散を繰り返した。直冬が優勢になると一色氏と懐良軍が手を結び、直冬が没落して一色氏が優勢になると少弐氏と懐良軍が手を結ぶ、といった具合である。

 文和元年(正平7、1352)11月、直氏は範氏の命を受けて少弐頼尚を古浦城に包囲して窮地に陥れた。頼尚は懐良・菊池武光に救援を求め、翌文和2年(正平8、1353)に懐良・菊池軍はこれに応じて援軍に駆けつけた。慌てた直氏は古浦城の包囲を解いて撤退したが、2月2日に大宰府の南、針摺原の戦いで懐良・菊池軍に大敗を喫した。ここに九州では南朝勢力の優勢が確定的となり、二年後の文和4年(正平10、1355)10月に懐良軍が博多を攻め落とし、範氏と直氏は九州を追われて長門へ逃亡した。
 翌延文元年(正平11、1356)9月、直氏は弟の範光と共に長門から豊前にわたり、九州奪回を企図した。しかし筑前麻生山の戦いで菊池主水正に敗れ、また長門に逃げ帰った。そのまま九州に渡ることもできないまま延文3年(正平13、1358)春に京へと戻った。このとき尊氏自身が九州へ出陣しようとしたが病を発して断念、そのまま4月30日に死去している。
 その後の直氏の消息は不明で、一色氏の家督は弟の範光が継ぎ、直氏の子孫は幸手一色氏、丹羽氏などにつながっていった。
SSボードゲーム版父の一色範氏のユニット裏で登場。武家方の「武将」クラスで、勢力地域は「北九州」。合戦能力1・采配能力3。

一色範氏いっしき・のりうじ?-1369(応安2/正平24)
親族父:一色公深 母:今川国氏の娘 兄弟:一色頼行
子:一色直氏・一色範光・一色範房
官職宮内少輔
幕府九州探題(鎮西探題)
生 涯
―苦闘続きの初代九州探題―

 一色公深の子で、母は今川国氏の娘。出家して「道猷」と号した。「一色二郎」の通名があり、一色頼行は庶兄であったらしい。
 生年は不明だが、建武政権期に武蔵守護となった足利尊氏の代官として武蔵統治にあたっている。尊氏が建武政権に反旗を翻して挙兵するとこれに従い、建武3年(延元元、1336)には尊氏の九州落ちに同行。3月2日の多々良浜の戦いに勝利した尊氏は東上するにあたって、範氏を九州平定の指揮官として九州に残した。このことをもって範氏が室町幕府最初の「九州探題(鎮西探題、鎮西大将軍)」となったとみなされる。本拠地とした博多は鎌倉幕府滅亡時に焼かれたため探題の館がなく、聖福寺の直指庵を仮の館とした。

 しかし範氏による九州平定の道は険しかった。範氏は兄弟の頼行や仁木義長と共に各地に転戦して菊池氏など南朝勢力と戦ったが一進一退を繰り返し、建武4年(延元2、1337)4月19日に犬塚原の戦い菊池武重阿蘇惟澄の軍に大敗、頼行初め多くの部将を戦死させ、範氏自身も川尻から海路筑前へと逃げ帰るはめとなった。
 範氏が頼みとするのは北朝方である「九州三人衆」、少弐・大友・島津の有力守護たちだったが、彼らは九州探題の支配下に置かれることを嫌って独自行動をとりがちであった。また範氏自身が九州に持つ直轄地もわずかなもので、部下たちを養う経済力もないため多くの部下が逃げ出し、直接指揮下にある部下はたった二十数名というありさま。さらに自身が守護として号令をかけられる国もないため九州平定などできるはずもない。こうした事情を範氏は何度となく幕府に訴え、暦応3年(興国元、1340)に記した彼の悲鳴のような手紙によると、探題をやめさせて九州から引き揚げさせてほしいとすでに九回も願い出て却下されていたことが知られる。幕府はあくまでも範氏に九州平定の任務を強制し、貞和2年(正平元、1346)には範氏の子の一色直氏一色範光を九州に派遣して父を助けさせた。この年から公式の九州探題は直氏が引き継いだが、範氏も実質的司令官であり続けた。

 やがて幕府内の内戦「観応の擾乱」が始まると、足利直義の養子・足利直冬が九州に上陸、少弐頼尚がこれを旗頭にかついで尊氏派の範氏に対抗し、さらに同じころ肥後に入った懐良親王菊池武光に奉じられ、九州は探題方(尊氏派)、佐殿方(直冬派)、宮方(南朝)の三者鼎立の複雑な情勢となった。直冬の勢力が増してきたため観応元年(正平5、1350)に範氏は京の尊氏に九州への出馬を要請し、尊氏もそれに応じて出陣したが、その隙に直義が南朝と結んで挙兵したため引き返した。翌観応2年(正平6、1351)2月に尊氏と直義の戦いは直義の勝利に終わり、九州探題の地位は直冬のものとなる。すると範氏は今度は懐良親王ら南朝側と同盟を結んで共同で直冬を攻めた(中央で尊氏が南朝と和睦したことと連動したものと思われる)。さらに翌文和元年(正平7、1352)になると直義が急死し、さらに尊氏と南朝の和睦も破れたため九州の情勢はさらに変転する。
 九州では直冬の勢いが一気に衰え、この年の暮れには範氏の攻勢で拠点大宰府を失い、九州を捨てて長門へと逃れた。直冬をかついでいた少弐頼尚は一色軍に古浦城を攻撃されて窮地に陥り、懐良・菊池勢に援軍を求めた。文和2年(正平8、1353)2月2日、筑前の針摺原の戦いで一色軍は懐良・菊池軍に大敗、ここに懐良・菊池勢の優勢が始まる。そして文和4年(正平10、1355)10月についに懐良軍が博多を攻め落とし、範氏と息子たちは長門へと逃亡した。範氏はそのまま京都へ引き上げ、何も得る所のないままおよそ20年にわたる苦闘の九州統治に終止符を打つことになった。

 以後、息子たちが九州奪回をはかるも失敗し、範氏はそのまま京で長い隠遁状態を過ごすことになる。応安2年(正平24、1369)2月18日に死去した(異説もある)

参考文献
佐藤進一『南北朝の動乱』(中公文庫)
杉本尚雄『菊池氏三代』(吉川弘文館・人物叢書)ほか
歴史小説では懐良親王を主人公とする北方謙三『武王の門』で敵側のキャラクターとして登場している。
PCエンジンCD版北朝武将としてゲーム開始段階でなぜか甲斐にいる。初登場時の能力は統率78、戦闘54、忠誠37、婆沙羅41
PCエンジンHu版シナリオ2で北朝方武将として筑前博多城に登場、能力は「弓4」と結構強力。
SSボードゲーム版武家方の「武将」クラスで、勢力地域は「北九州」。合戦能力1・采配能力4。ユニット裏は嫡子の一色直氏。

一色範光いっしき・のりみつ1324(正中元)-1388(嘉慶2/元中5)
親族父:一色範氏 兄弟:一色直氏 子:一色詮範
官職右馬権頭・修理権大夫
幕府三河・若狭守護
生 涯
―一色氏上昇の始まり―

 初代の九州探題・一色範氏の子で通称「五郎」。父・範氏と兄で二代目の九州探題・一色直氏が九州統治に苦闘するなか、貞和4年(正平3、1348)に九州にわたり父・兄を助けて各地で奮戦した。しかし奮闘空しく文和4年(正平10、1355)10月に懐良親王の南朝軍に博多を攻め落とされ、一色父子は長門へと逃れた。
 翌延文元年(正平11、1356)9月に兄・直氏と共に長門から豊前に渡って九州回復を狙ったが、筑前麻生山で菊池軍に敗北、また長門に逃げ帰り、二度と九州の地を踏めなかった。翌延文2年(正平12、1357)に京に帰り、貞治5年(正平21、1366)に斯波高経が失脚して若狭守護職を奪われるとその後任の若狭守護に任じられ、のち康暦年間に三河守護職も加えられた。時期は不明だが兄・直氏が隠居するか死んだかしたため一色氏の家督を継いでいる。

 九州統治に失敗した一色氏は守護国となった三河・若狭の支配に力を注いだ。とくに若狭では応安2年(正平24、1369)以降に起こった反一色の国人一揆を息子・詮範を派遣して鎮圧し、守護領国支配を強めている。この若狭支配が息子や孫の代での一色氏の地位上昇の手掛かりとなった。
 貞治6年(正平22、1367)以降の時期に出家し「信伝」と号した。嘉慶2年(元中5、1388)正月25日に享年六十四で死去。尾張国知多郡岡田の慈雲寺に墓がある。

一色満範いっしき・みつのり?-1409(応永16)
親族父:一色詮範 子:一色持範・一色義範・一色持信
官職兵部少輔・右馬権頭・修理大夫
幕府丹後・三河・若狭・尾張二郡守護、侍所頭人
生 涯
―「四職」の地位を固める―

 足利義満の時代に侍所頭人をつとめた一色詮範の子。生年は不明。
 明徳2年(元中8、1391)12月、山名氏清ら山名一族が明徳の乱を起こすと、父・詮範と共に出陣し、父と共に敵の大将・氏清を自ら討ちとってその首を挙げる殊勲を立て、恩賞として丹後国守護職を与えられた。義満はたびたび丹後・若狭を旅しているが、そのとき満範は父・詮範と共にその接待役を務めて義満に喜ばれている。
 応永6年(1399)に大内義弘が応永の乱を起こすと、ふたたび父と共に出陣して戦功をあげた。応永8年(1401)に出家し、「道範」と号した。

 応永13年(1406)に父・詮範が死去すると三河・若狭および尾張の知多郡・海東郡の守護職を引き継ぎ、丹後を加えた三国と二郡の守護となった。一色氏は彼の時代に京極・赤松・山名と共に侍所頭人を交代で務める「四職」の地位を確立したと言われる。またこの年10月、家臣で三河・若狭・尾張知多郡守護代をつとめていた小笠原長春(明鎮)とその子・長頼を京の屋敷内で捕え、守護代職を奪った上で丹後の石川城内に幽閉しているが、これは台頭してきた小笠原氏を警戒しての行動と見られている。
 応永15年(1408)6月22日、若狭国小浜に「南蛮船」(東南アジアから来た船)が到着した。これは亜烈進卿(アラジン?中国系の説もある)という帝王が送って来たとされる船で、使者たちは満範を通して幕府に象・山馬・クジャク、オウムなど珍しい動物類を贈った。彼らの船が11月に嵐のために打ち上げられて破損したため満範は船を新たに造らせて帰国させている(「若狭国税所今富名領主代々次第」)。この年12月、三河の小笠原一族が反乱を起こしたため、兵を送ってこれを平定している。
 応永16年(1409)正月6日に死去。彼の死後、長男の一色持範と次男の一色義範(のち義貫)が家督相続と所領分配をめぐって争い、一色氏は一時混乱した。

一色頼行いっしき・よりゆき?-1337(建武4/延元2)
親族父:一色公深 兄弟:一色範氏 子:一色行義
官職右馬権頭
建武の新政関東廂結番四番人
生 涯
―九州で活躍、戦死―

 一色公深の子。異母弟に一色範氏がいて、その母親が今川氏の娘ということもあってこちらが嫡子扱いされ、頼行は庶子扱いされていたようである(実際は頼行の方が弟、との説もある)
 元弘3年(正慶2、1333)4月に足利高氏が丹波・篠村八幡で討幕の挙兵した際、今川範氏と共に「一色右馬介」なる者が高氏・直義の矢の奉献を進めた「役人」をつとめたと今川了俊『難太平記』にあり、これは一色頼行のことではないかと推測されている(実際には頼行は右馬権頭のため確定できず、このことが複数の小説で「一色右馬介」が架空の便利キャラにされる原因となっている)
 建武政権では足利直義に従って鎌倉に下り、関東廂結番の四番としてその名がある。尊氏が建武政権に背いて挙兵するとそれに従って京都を攻め、九州への敗走にも同行した。建武3年(延元元、1336)3月2日に尊氏が多々良浜の戦い菊池武敏を破って九州を平定すると、同月13日頼行は豊前・豊後・肥前の武士たちを率いて南朝方の大友貞順がこもる豊後・玖珠城を攻略、8ヶ月に及ぶ戦いの末10月12日に陥落させている。尊氏は東上するにあたって一色範氏を初代の九州探題に任じて九州統治にあたらせ、頼行は範氏を助けて各地に転戦した。
 翌建武4年(延元2、1337)、範氏と頼行は肥後の南朝方・菊池氏を攻略すべく兵を進めたが、4月19日に菊池武重阿蘇惟澄犬塚原の戦いで大敗、頼行は戦死してしまった。頼行の跡は子の行義が継いでいる。

一忠いっちゅう?-1354(文和3/正平9)
生 涯
―能楽のルーツとなった田楽役者―

 南北朝時代前期に活躍した田楽役者で、伝説的な名人として知られた。能楽の大成者・観阿弥をして「我が風体の師」と言わしめ、その子・世阿弥もその芸を直接見ることはできなかったが佐々木道誉南阿弥を通してその芸を伝え聞き、大きな影響を受けて「此道の聖」「三体相応の達人」と賞賛し、能楽成立のルーツとなった「当道の先祖」四人のうちの一人に挙げている。
 その詳しい伝記は伝わらないが、世阿弥が『申楽談義』の中で逸話を紹介している。一忠は「本座」の看板役者、トップスターであった。貞和5年(正平4、1349)6月11日に京の四条河原で四条架橋の勧進(募金活動)のための田楽興行でライバルの田楽一座「新座」と共に出演し、「新座」のトップスター・花夜叉と「立合(たちあい)」と呼ばれる「踊り対決」を行った。山場の場面で一忠はわざと咳をして扇を取り出して汗をぬぐい、花夜叉のリズムを狂わせてセリフをとちらせ、万座の恥をかかせて「勝利」したという。なお、この田楽興行には将軍足利尊氏(大の田楽好きであった)はじめ上流階級も押しかけ、観客は熱狂して気絶者も出る有様で、おまけに桟敷が倒壊して多くの死傷者が出る騒ぎとなってしまった(この事件は『太平記』にも記述があるが一忠・花夜叉の対決には触れていない)
 別名を「石松法師」といったらしく、『常楽記』によれば文和3年(正平9、1354)5月に「田楽石松法師」が死去したとあるので、これが彼の没年であるらしい。世阿弥のライバルともいえる道阿弥(犬王)も一忠の弟子であったという。

参考文献
表章校註『申楽談義』(岩波文庫)

伊藤彦次郎
いとう・ひこじろう?-1324(正中元)
生 涯
―親子兄弟そろってあえなく戦死―

 『太平記』最初の合戦である「正中の変」で登場する武士。元亨4=正中元年(1324)9月19日に多治見国長の宿所を攻撃した六波羅探題の軍に参加していた。
 このとき多治見勢はすでに決死の覚悟を決め、門にかんぬきをかけ庭に武装して出そろって六波羅軍の突入を待ち受けていた。このため六波羅軍もなかなか中へ突入できずにいたが、伊藤彦次郎の親子兄弟四人は果敢にも門のわずかな破れ目から這って中へと入りこんだ。しかし中に入り込んだとたんに多治見勢に襲われ、斬り合うこともできぬままあっさりと四人そろって戦死してしまう。

糸田貞義
いとだ・さだよし生没年不詳
親族
父:金沢政顕
兄弟姉妹:金沢種時・金沢家政・金沢顕茂・金沢時継・金沢師顕・糸田顕義・規矩高政・安達時顕室
官職
左馬頭?・左近将監
幕府
豊前守護
生 涯
―九州で挙兵した北条一門残党―

 北条一門・金沢流の金沢政顕の子。父・政顕が上総介であったため、「上総六郎」と呼ばれた。「糸田」の名字は豊前国田川郡糸田荘を領したことに由来し、兄の顕義がまず名乗ったとみられる。顕義が豊前守護をつとめ、元亨3年(1323)から糸田貞義が豊前守護を務めているので、おそらく同時期に顕義が死去して貞義がその跡を継ぐ形になったものと思われる。

 元徳3年(元弘元、1331)8月に後醍醐天皇が挙兵、楠木正成らが呼応すると、鎌倉幕府は大軍を畿内へと送った。『太平記』巻三にこの軍勢に参加した武将の名が列挙され、その中に「糸田左馬頭」の名がある。明らかに北条一門の位置づけで書かれていること、「糸田」を称する者はこの時点で他に見当たらないことから貞義である可能性がある。ただし『太平記』古態の西源院本には「糸田左馬頭」の名は見えず、他史料でも確認できないので実際に彼が出陣したかは微妙である。

 その後は領地のある豊前へ下り、鎮西探題のもとで反幕府勢力と対決したとみられるが、貞義その人の活動は史料上は確認できない。鎮西探題および鎌倉幕府滅亡後は兄の規矩高政と共に雌伏し、建武元年(1334)正月に高政と共に北条残党を集めて挙兵した。貞義は筑後国・三池郡堀口で兵を集めて戦ったが、少弐・大友らの軍によって3月までに鎮圧された。このとき戦死もしくは降伏して処刑されたかしたと思われるが、記録は一切残されていない。
PCエンジンHu版
シナリオ1「鎌倉幕府の滅亡」において豊前・吉富城に登場する。能力は「長刀4」

今岡通任いまおか・みちとう生没年不明
親族父:今岡通種 義兄(義父?義弟?):村上義弘
官職左衛門尉?
生 涯
―南朝方で活躍した伊予水軍―

 伊予国越智郡能島を拠点とする伊予水軍(海賊)の武将で、通名「四郎左衛門尉」。今岡通種の子で村上義弘の妹婿あるいは姉婿との伝承がある。
 元弘の乱が起こると後醍醐天皇に呼応して村上義弘とともに挙兵、元弘3年(正慶2、1333)2月に長門探題・金沢時直の船団を鞆の浦沖でさえぎり、これを撃退したとされる(ただし同時代史料では確認できない)。建武2年(1335)に北条残党の赤橋重時が伊予・立烏帽子城で挙兵すると、他の水軍と共にこれを攻め滅ぼしている。建武政権が足利尊氏の叛乱で崩壊したのちもほぼ一貫して南朝方で行動した。

 正平20年(貞治4、1365)7月、幕府方の細川頼之が伊予の河野通堯(通直)を攻めて追いつめると、通任は村上義弘と共に通堯を救出して彼と父子のちぎりを結び、翌月に大宰府の懐良親王のもとへ連れて行って南朝方に帰順させた。その後通堯と共に伊予に戻って籠屑城・花見山城を攻め落とし、一時伊予奪回に成功する。その後も九州で懐良のもとで各地を転戦、また伊予に戻って正平23年(応安元、1358)には伊予に侵攻してきた幕府方の仁木義尹と戦っている。
 天授3年(永和3、1377)ごろに因島の青陰(影)城に居住していたことが分かっているが、このころ北朝方に鞍替えしたらしく(河野通堯の北朝鞍替えと連動するか)、南朝方に残った村上師清(義弘の養子で北畠顕家の子とされるがほぼ信用できない)と釣島箱崎浦で交戦、敗北したとの伝承がある。その後の消息は不明であるが、戦国時代の河野氏家臣団に今岡氏がいることが確認できる。

今川(いまがわ)氏
 足利氏支流の名門。吉良氏の祖・長氏の二男国氏が三河国今川荘に分家したことからこの名があり、足利本家の次が吉良、その次が今川という高い家格におかれ、将軍家を継ぐ資格さえ認められていた。南北朝動乱では足利軍の主力として各地に転戦し、とくに今川了俊は歌人武将として知られ九州平定に功績を挙げた。今川本家は駿河守護を世襲し、東海の戦国大名として一時覇を唱えたが、桶狭間の戦いで義元を戦死させてから衰退、江戸時代には徳川家のもとで「高家」として遇された。

足利義氏┬泰氏惣領

頼貞






└長氏
┬満氏吉良┌頼国
┴頼兼氏家






└国氏─基氏範国範氏泰範─範政─範忠─義忠─氏親┬氏輝




├国満了俊貞臣



└義元




└頼周├貞継









├言世









├貞兼









└満範









氏兼蒲原









仲秋┬貞秋










├氏秋










├直秋










└国秋





今川氏家いまがわ・うじいえ?-1365(貞治5/正平21)?
親族父:今川範氏 兄弟:今川泰範
官職中務大輔
幕府駿河守護
生 涯
―短命だった駿河今川三代目―

 今川範氏の嫡男。父・範氏が貞治4年(正平20、1364)4月に死去すると、祖父の今川範国は駿河守護職を範氏の弟の貞世(了俊)に譲ろうとしたが、貞世は辞退して兄の子である氏家に引き継がせた。ところがすぐ翌年の貞治5年(正平21、1366)の末ごろに氏家も死去してしまう。生年は不明だが30歳前後だったと推測される。墓は藤枝の遍照寺にある。
 氏家は叔父の貞世に恩義を感じ、自身に子がなかったこともあって、死に際して駿河守護職を貞世の子・貞臣に譲ると遺言した。だが貞世・貞臣はまたこれを固辞し、寺に入っていた氏家の弟・泰範を還俗させて跡を継がせた。

今川氏兼いまがわ・うじかね?-応永5(1398)?
親族父:今川範国 兄弟:今川範氏・今川貞世(了俊)・今川仲秋
子:今川直忠・今川頼春・今川末兼
官職修理亮・弾正少弼・越後守
生 涯
―了俊の弟・蒲原氏の祖―

 今川範国の三男で通名「九郎」。後年「直世」と改名している。建武3年(1336)に一族本家筋の吉良義満から三河国・須美保の政所職を与えられ、暦応元年(延元3、1338)には三河国・幡豆郡の吉良西条・一色・今川のうち今川常氏と父・範国の旧領を吉良義貞から与えられているが、これらの文書で「今川九郎」としか書かれていないので1338年の時点で元服前と見られ、ここから逆算して元徳元年(1329)ごろの生まれではないかと推測されている。幼少期は鎌倉か三河で過ごしていたのだろう。「観応の擾乱」が起こると今川氏は一貫して足利尊氏側で戦い、氏兼は恐らく延文元年(正平11、1356)ごろまでに駿河国蒲原に領地を与えられ、これを拠点としたと見られる。
 康安元年(正平16、1361)9月、当時幕府の執事職にあった細川清氏佐々木道誉の謀略により反逆の疑いをかけられた。清氏はかねて今川貞世と親友であったが貞世が京にいなかったため、代わりに弟の氏兼をひそかに呼んで将軍足利義詮との仲介役を頼もうとしている。氏兼は恐れて応じなかったが(今川了俊「難太平記」)、このことは貞世ほどではないが氏兼も清氏と付き合いがあったことを推測させる。

 貞治3年(正平19、1364)に京都で父・範国の名代として越後守奉書を発するなど活動が確認され、このころ足利義詮らによって企画された歌会『一万首作者』の参加者の中に父・範国や兄・範氏と共に「源氏兼(今川越後守)」の名がある。
 応安3年(建徳元、1370)には管領・細川頼之の指示のもと河内に出陣して南朝方と戦って功績を挙げ、遠江国山梨郷を与えられ、越後守護代もつとめた。このころすでに出家しており、吉良満貞が彼に浜松荘嶋郷四分の一地頭職を預けた書状に「今川少弼入道」とある。その後越後守になったことから「今川越後入道」の名で史料上に登場する。

 応安3年7月に兄の今川了俊(貞世)が九州探題に任じられて弟の今川仲秋と共に九州平定に旅立つと、氏兼もやがてこれに従い翌応安4年(建徳2、1371)12月には肥前の武雄山で戦闘をしていることが確認できる。その後も各地で転戦し、とくに了俊から日向方面の統治をまかされ、肝付氏と協力して国人層の掌握に腐心している。
 応安7年(文中3、1374)に京に戻り、康応元年(1389)3月に行われた三代将軍足利義満の厳島参詣に了俊、仲秋らと兄弟そろってつき従っている。
 応永3年(1396)に「直世」と改名した。これは前年に兄の了俊が九州探題から解任され京へ召喚されたことと関わりがあると見られる。没年は明確ではないが応永5年(1398)ごろとみられ、墓所は所領の駿河国蒲原(現・静岡市清水区蒲原)に彼自身が創建したと伝えられる龍雲寺(延文2=1357創建と伝えられる)にある。彼の子孫は「蒲原氏(源姓)」を名乗り、戦国時代まで続いている。

参考文献
天野進「蒲原城の史料調査(上)補稿」(http://www.geocities.jp/yoochin22/link5.htm
川添昭二『今川了俊』(吉川弘文館・人物叢書)ほか

今川五郎いまがわ・ごろう
 大河ドラマ「太平記」の第45回「政変」の回のみに登場している人物(演:山伏雅文)。誰のことを指しているか判然としないが、この時期で「今川五郎」を名乗るのは今川範氏(範国の長男、了俊の兄)。ドラマではどこで出ているのかも分からないほどだが恐らく高師直派の武将の一人として出ているものと思われる。
 あるいは足利直冬の配下の武将であった今川五郎直貞か?しかしこの回には登場する機会がないような…。

今川貞臣いまがわ・さだおみ生没年不詳
親族父:今川貞世(了俊) 兄弟:名和貞継・今川言世・尾崎貞兼・今川満範
子:今川貞相
官職左京大夫・伊予守
幕府肥後守護
生 涯
―今川了俊の嫡男―

 今川了俊(貞世)の嫡男。幼名は孫松丸、はじめ祖父・今川範国の命名で義範と名乗った。これは一族親類の先祖で出世しなかった人物と同名をつけると縁起がいいという考えによるものであり、新田一族の義範(山名氏の祖)にちなんだという。彼は後に九州にいた時期に「貞臣」と改名したが(父・貞世にちなむか)、父の了俊は「不孝のこと」と批判的であった(『難太平記』)

 貞治5年(正平21、1366)に従兄弟で駿河守護の今川氏家が後継ぎのないまま死去した際、駿河守護職を貞臣に譲ると遺言していた。これはかつて貞世が兄・範氏の死に際して後継者にという話を断って氏家を立てた恩義に報いるものであったが、貞世は強く辞退して氏家の弟で寺に入っていた泰範を還俗させて跡を継がせている。
 応安4年(建徳2、1371)に父・了俊が九州探題に任じられて九州平定に赴くと貞臣(当時は義範)もこれに従い、同年7月に備後尾道から父に先発して九州に向かい、田原氏能らと共に豊後・高崎城に入った。貞臣は豊後で活動して大宰府の南朝方・菊池武光を背後からおびやかし、8月に武光の子・菊池武政が攻めてきて高崎城を包囲すると、翌年正月まで激しい攻防戦を展開し菊池軍を釘づけにした。この間に父の了俊が豊前に、叔父の仲秋が肥前に上陸して大宰府をうかがったため、菊池軍は高崎城の包囲を解いてこれに対峙した。包囲を解かれた貞臣は父・叔父と合流しようとしたが南朝方の大友氏継らに妨害される。結局この年8月に大宰府は陥落、九州における南朝征西将軍府の栄華は過去のものとなる。

 以後も了俊による九州平定の長い闘いは続き、貞臣は父・了俊の分身として主に豊後・豊前を転戦した。康応2年(元中7、1390)に肥後宇土城を攻め落として九州の南朝勢をほぼ全滅させている。翌明徳2年(元中8、1391)に肥後守護となるが、応永2年(1395)に了俊が九州探題を解任され京に召還されると貞臣も九州から引き上げたらしく、応永6年(1399)に遠江で国人に指示を出していることが確認できる。
 没年は不明。彼の子孫が遠江の堀越氏、瀬名氏となる。

参考文献
川添昭二『今川了俊』(吉川弘文館・人物叢書)ほか

今川貞世いまがわ・さだよ
 今川了俊の俗名。→今川了俊(いまがわ・りょうしゅん)を見よ。

今川仲秋いまがわ・なかあき生没年不詳
親族父:今川範国 兄弟:今川範氏・今川貞世(了俊)・今川氏兼
子:今川貞秋・今川氏秋・今川直秋・今川国秋
官職中務少輔・右衛門佐
位階従四位下
幕府侍所頭人、山城・肥後・遠江・尾張守護
生 涯
―了俊を支えた弟にして養子―

 今川範国の子。初め「国泰」と名乗り、九州下向の時期に「頼泰」に改名、南北朝時代の晩期にさらに「仲秋」へと改名している。ここでは混乱を避けるため、「仲秋」に統一して解説する。
 応安元年(正平23、1368)に兄の今川了俊(貞世)から引き継いで侍所頭人・兼山城守護となった。応安4年(建徳2、1371)に兄・了俊に従って九州平定に出陣する。当時九州は大宰府に拠点を置く南朝の懐良親王の征西将軍府の全盛期で、仲秋は了俊の指示を受けて11月に長門から肥前に渡り、松浦党と結んでこの方面の南朝方の攻略に当たった。このとき仲秋は長門で大内氏と縁結びをし、また肥前の千葉胤泰の娘を内室に迎えるなど、婚姻による協力関係を築いてもいる。
 肥前に上陸した仲秋は武雄、牟留井で戦って勢力を広げ、翌応安5年(文中元、1372)2月13日に仲秋を討ちに来た菊池武政の軍を烏帽子嶽に急襲して撃退、その勢いに乗って了俊の軍と合流、分散を繰り返して各地で南朝軍を破り、ついに8月12日に大宰府は陥落する。
 翌応安6年(文中2、1373)に仲秋は肥前の松浦党を組織して一揆(団結)の盟約を結ばせ、幕府方として結束させることに成功している。ただし仲秋はあくまで了俊の代理人という立場であり、松浦党から要求される恩賞などについても「自分の一存ではできない」と何事も兄・了俊の了解を必要とする書状を多く残している。

 永和元年(1375)8月26日、了俊は菊池氏に最終攻勢をかけるべく肥後の水島に陣を張り、「九州三人衆」の島津氏久大友親世少弐冬資を集合させた。このとき了俊はかねてより反復常なき少弐氏の抹殺を図り、酒宴の席で冬資を殺害したが、冬資を直接刺し殺したのが仲秋であった(『山田聖栄自記』『花営三代記』)。この一件は島津・大友の離反を招いて了俊の九州平定事業を一時後退させることになったが、6年後の永徳元年(弘和元、1381)6月に了俊と仲秋は菊池氏の本拠地・隈府を攻め落とし、その後も一部の抵抗が続くものの九州平定を実質的に達成することとなった。
 至徳3年(元中3、1386)ごろに京にもどり、嘉慶2年(元中5、1388)に遠江守護に任じられた。康応元年(1389)の足利義満の厳島参詣に了俊・氏兼と兄弟そろって同行している。山名一族の反乱「明徳の乱」(1392)の際には義満のもとで軍奉行の一人を務め、南北朝合一後の明徳4年(1393)には尾張守護となっている。

 応永2年(1395)、義満の出家につきあって出家し、「仲高」と号した。この年に兄・了俊が九州探題を解任されて駿河・遠江それぞれ半国の守護とされ、仲秋は了俊と遠江守護を分け合う形となった。その後、大内義弘応永の乱(1399)を起こした際に了俊がこれと連動して策動したこと、また仲秋が義弘の縁者であったため、了俊・仲秋ともに甥の今川泰範に駿河と遠江の守護職を奪われてしまった。
 それ以後の時期か、仲秋は了俊の養子となり、自身は了俊の実子・今川貞臣の養育にあたった。応永19年(1412)に了俊が仲秋に政治道徳を説くべく与えたと伝えられるのが『今川状』で、これは江戸時代から明治初期まで寺子屋で教科書がわりに使用され広く知られた存在となった。ただし実際に了俊がどこまで書いたのか、また時期が本当に応永19年なのかは疑問もある。
 仲秋の没年は不明。仲秋が千葉胤泰の娘との間に生んだ息子の今川国秋は九州に残り、この系統が肥前今川氏、ひいては持永氏として佐賀藩家臣となってゆく。

参考文献
川添昭二『今川了俊』(吉川弘文館・人物叢書)ほか
歴史小説では懐良親王を主人公とする北方謙三『武王の門』でちょこっと顔を出している。

今川範氏いまがわ・のりうじ1316(正和5)-1365(貞治4/正平20)
親族父:今川範国 兄弟:今川貞世(了俊)・今川氏兼・今川仲秋
子:今川氏家・今川泰範
官職上総介・中務大輔
位階従五位下
幕府遠江・駿河守護
生 涯
―今川氏駿河支配の確立―

 今川範国の嫡男で通名は「五郎」(父・範国と同じ)。足利幕府の内戦「観応の擾乱」では父と共に足利尊氏方で戦い、尊氏と直義が対決した駿河・薩タ山の戦いでは大いに勝利に貢献し、尊氏から「一人当千の働き」と感状が与えられている。
 文和元年(正平7、1352)2月に父から譲られる形で遠江守護となったが、およそ半年後の文和2年(正平8、1353)に父と入れ替わって駿河守護となっている。弟の今川貞世(了俊)の語る所によると、当初範国は駿河を貞世に譲ろうとしていたが、範氏が駿河を欲していることに気付いた貞世が兄に譲ったのだという(『難太平記』)
 駿河守護となった範氏は国内にいた南朝勢力の駆逐に力を注いだ。延文4年(正平14、1359)12月には二代将軍足利義詮に従って弟の貞世と共に南朝攻撃に出陣。翌年7月に天王寺で南朝軍と戦っている。
 貞治4年(正平20、1365)4月30日に父に先立って死去、享年五十。駿河国大草村(現・島田市大草)の慶寿寺に墓があるほか、自身が文和3年(正平9、1354)に創建した遍照寺(藤枝市)にも息子の氏家(範氏を追うようにすぐ翌年死去)と共に墓がある。
PCエンジンCD版父・範国のいる駿河に最初から登場する。初登場時の能力は統率75、戦闘80、忠誠86、婆沙羅35
SSボードゲーム版父・今川範国のユニット裏で武家方・東海の「武将」クラス。合戦能力1、采配能力3

今川範国いまがわ・のりくに1295(永仁3)?-1384(至徳元/元中元)
親族父:今川基氏 母:香雲院 兄弟:今川頼国(頼基)・今川国満・今川頼周
子:今川範氏・今川貞世(了俊)・今川氏兼・今川仲秋
官職上総介
位階従五位下
幕府駿河・遠江守護、引付頭人
生 涯
―足利幕府草創期を支えた一門の重鎮―

 足利一門の名門・今川家発展の基礎を築いた武将で、戦国時代まで続く駿河今川家の祖となる。息子の今川貞世(了俊)がその著書『難太平記』(もともと今川一族の功績を主張する書である)で父について詳しく書いており、それによれば幼名は「松丸」、「今川五郎」と名乗る。長男ではないが早くから父・基氏より後継者扱いされていたらしい。嘉暦元年(1326)に北条高時が病を得て出家したのに従って多くの武士が出家したが、範国もこのとき出家している。『難太平記』はこのとき範国がまだ「廿三(23)」歳であったと記しており、それが本当なら嘉元2年(1304)の生まれ(尊氏より一つ上)となるはずだが異説もある。
 今川家は吉良氏・斯波氏と共に足利一門の中でも重きを置かれる一族であり、範国も足利高氏(尊氏)の倒幕の挙兵から付き従い、各地で転戦している。『難太平記』によれば尊氏の祖父・足利家時の「三代のうちに天下をとらせたまえ」との置文を今川範国・貞世父子も直接目撃したことがあるという(いつのことかは不明)

 建武2年(1335)、「中先代の乱」が起こり足利尊氏が関東へ下ると範国もこれに従軍した。兄の頼国が相模川での北条軍との戦いで戦死するとその遺骸を川底から回収している。その後、尊氏を討つべく東下してくる新田義貞軍を足利直義が迎え撃った手越河原の戦いに参加、大敗した直義に細川定禅「今こそ討ち死にすべし」と言ったのに対して範国は「今は討ち死にする時ではない。退却して味方をまとめ後日の合戦で勝ちましょう」と進言して直義の乗馬の口をとらえて強引に向きを変えさせ、自らは殿(しんがり)をつとめて足利軍を無事に退却させた。
 翌建武3年(延元元、1336)2月、京都攻防戦に敗れた足利軍は兵庫魚御堂にのがれ、ここで細川定禅は「早く船にお乗ってお逃げください」と尊氏・直義らに勧めたが、範国は「ここで腹を切るべし」と主張したという。後日、直義はこのときを振り返って「この二度の絶体絶命のとき、両人の主張はまるで正反対であった。清き武者の心は同じであると思っていたがこのように異なるとは不思議なことだ」と語ったという(『難太平記』)

 暦応元年(延元3、1338)、奥州から後醍醐天皇の呼びかけに応じて北畠顕家の大軍が京都目指して攻めのぼって来た。範国は東海道各地でこれを防いで戦ったが後退を続け、美濃の青野原(関ヶ原)で土岐頼遠・桃井直常らと合流、ここで北畠軍を阻止するべく決戦を行った。激戦となり範国も自ら敵将を数名を打ち取ったが勢いに勝る北畠軍にはかなわず、夜になって杭瀬川の堤防にあった非人の家で休んだ。家臣らが味方の軍勢との合流を求めたが範国は「ここで明日まで待とう」と答え、これに怒った家臣の一人が「このような愚かな大将は焼き殺してしまえ」と家に火を放ったため、やむなく家を出て味方と合流した。この戦いで武名を挙げた桃井直常について範国は批判的だったようで、「桃井は強い敵には何度も負けているような男だ。人の天命というのは故実(セオリー)のようにはいかぬもの。まず戦ってみて、自らの力が尽きたら退けばいいのだ」と息子の貞世に語っており(これも『難太平記』の記述)、戦の上手・下手というよりは現実的で柔軟な処世術を心得ていた人物のようである。足利家の内紛である「観応の擾乱」の際には一貫して高師直・尊氏派について戦っている。

 尊氏が世を去り、二代将軍足利義詮の時代となった康安元年(正平16、1361)、幕府の執事をつとめる細川清氏が、対立する佐々木道誉の謀略により反逆の願文を書いた疑いをかけられ、南朝への投降を余儀なくされた。このとき範国は問題の願文を直接見ており、それが道誉の謀略であることを確信したが口には出さず、将軍・義詮に、清氏の親友である息子・貞世を清氏説得に行かせ、場合によっては刺し違えさせたいと進言している。この提案は実行されなかったものの息子を犠牲にしてでも天下の安泰(ひいては今川家の安泰)を図ろうとしたということで、貞世(了俊)当人はその発言を称賛しつつも、やや複雑な感情をのぞかせた記述をしている。
 この事件ののち、範国は隠居した(法制史料上「隠居」の初見とされる)。範国から始まる駿河の守護職は嫡男の範氏に引き継がれたが、範氏は貞治4年(正平20、1365)に父に先立って死去した。その長男・氏家もすぐに亡くなったため、範国は出家していた範氏の次男・泰範を還俗させ、あとを継がせた。至徳元年(元中元、1384)5月19日に亡くなり、『常楽記』「九十歳卒去」と記すことから生年が永仁3年と推定されるのだが、前出のように息子の了俊が記す出家の年齢から嘉元2年説もある。いずれにせよ80を超える高齢を全うしたことは間違いない。

 有職故実にも通じて足利義詮に指導もしており、母から手ほどきを受けたという和歌の才能は息子の貞世(了俊)に受け継がれ、花開いた。了俊が伝えるところによれば範国は身の回りのあらゆるものから貪欲に知識を得ようとしており、古反故の紙の裏をノートにして携帯し、知らないことをすぐに人に聞いてはメモをとる習慣を持っていたという。息子の了俊も「学問は道の辻」と父・範国の教えを著書に書き記している。

参考文献
川添昭二著『今川了俊』(吉川弘文館・人物叢書)ほか
大河ドラマ「太平記」ドン貫太郎が演じた。第20回「足利決起」で高氏が足利一門を一堂に集めて倒幕挙兵の意思を告げる場面で初登場、吉良貞満と共に一門の代表といった扱いを受けていた。その後も建武政権期を中心に尊氏のそばで何度か登場しているが、「重臣の一人」というだけで特に印象には残らない。
歴史小説では世阿弥を主人公とする杉本苑子『華の碑文』で登場、南朝方とつながりをもつ観阿弥の命を狙い、刺し違える展開となっている。これは観阿弥が楠木氏の縁戚であったとの説と、範国と観阿弥の命日が全く同じ日であることとを結びつけた創作である。
PCエンジンCD版駿河に拠点を置く北朝系独立君主として登場。初登場時の能力は統率81、戦闘79、忠誠52、婆沙羅28とかなり強い。
PCエンジンHu版シナリオ2で北朝方武将として遠江に登場、能力は「騎馬2」
メガドライブ版足利軍武将として登場。能力は体力81・武力85・智力88・人徳65・攻撃力62。  
SSボードゲーム版武家方の「武将」クラスで、勢力地域は「東海」。合戦能力2・采配能力3。ユニット裏は嫡子の今川範氏。

今川泰範いまがわ・やすのり1334(建武元)?-1409(応永16)?
親族父:今川範氏 兄弟:今川氏家 正室:上杉朝顕の娘
子:今川範政・今川泰国・今川範信
官職宮内少輔・上総介・左馬介
位階従四位下
幕府侍所頭人、遠江・駿河守護
生 涯
―叔父・了俊との愛憎劇―

 駿河守護・今川範氏の子。当初は後継ぎになる予定はなく建長寺に入って僧侶となっていたが、貞治4年(正平20、1365)に父・範氏が、翌貞治5年(正平21、1366)に兄・氏家が死去してしまう。氏家は以前叔父の今川貞世(了俊)に駿河守護にさせてもらった恩義があったことから遺言で貞世の子・貞臣に駿河守護を譲ったが、貞世・貞臣はあくまで辞退し、寺に入っていた泰範をわざわざ還俗させて兄の跡を継がせた。このことを貞世の友人であった幕府の管領・細川頼之は「世にためしなし」と激賞したという(『難太平記』)。遅くとも応安2年(正平24、1369)5月には泰範が駿河守護として活動していることが確認できる。
 永和4年(天授4、1378)には侍所頭人となり、幕政にもたずさわっている。嘉慶2年(元中5、1388)に三代将軍足利義満が富士遊覧の旅に出ると、駿河守護としてこれを接待し、田子の浦、三保ノ松原など名所を案内している。山名一族の叛乱「明徳の乱」(1392)が起こると出陣して功を挙げた。

 南北朝合体ののち応永2年(1395)に叔父の了俊が九州探題から解任され、駿河半国の守護に任じられ、泰範と駿河を分け合う形となった。泰範はこれを了俊の希望によるものと疑い、義満に了俊に野心があると讒言するなど叔父・甥の間で激しい対立を起こした。
 応永6年(1399)に大内義弘応永の乱を起こすと息子たちと出陣し、大内弘茂が守る東陣へ突撃をかけてこれを攻め破る功績を挙げ、鞍に首を三つぶらさげ返り血で真っ赤に染まる奮戦ぶりであったという。この乱では叔父・了俊は大内義弘と鎌倉公方・足利満兼を結び付ける策動をしており、これを機に泰範は了俊・仲秋の叔父二人から駿河・遠江二国の守護職を奪い取った。だが了俊が義満に討伐されそうになるとその助命に奔走して結果的にその命を救っており、かつての恩義を忘れたわけではなかったらしい。
 『今川家譜』によると応永16年(1409)9月26日に七十六歳で死去したというが異論もある。墓は彼が創建した藤枝の長慶寺にある(そのすぐ隣に戦国期の軍師として有名な大原雪斎の墓がある)。彼の子孫がその後の駿河戦国大名・今川氏となってゆくのである。

参考文献
川添昭二著『今川了俊』(吉川弘文館・人物叢書)ほか

今川頼貞いまがわ・よりさだ生没年不明
親族父:今川頼国 兄弟:今川頼兼・今川見世・今川宮内少輔
官職駿河守
生 涯
―師直邸へ馳せ参じた今川一族―

 今川頼国の子。父・頼国は今川範国の兄だが母親の出自の問題か今川当主の座を継げず、建武2年(1335)の中先代の乱における相模川の戦いで戦死している。頼貞はその子で、駿河守であったと伝えられる(「太平記」「難太平記」)
 父を失ったのちは叔父の範国に着き従っていたらしく、貞和5年(正平4、1349)8月の高師直による足利直義打倒のクーデターの際には範国と共に師直邸にすぐさま馳せ参じたことが『太平記』に記述されている。
 しかしその後の消息はほとんど不明。従兄弟の今川了俊は回想録『難太平記』で、頼貞の兄弟たちについてすべて「遁世してうせにけり」とのみ記しており、早くに出家したか早世したものと推測される。
大河ドラマ「太平記」ドラマ中に登場はしないが、第44回「下剋上」で師直邸に集結した武士の名前が列挙されるなかに彼の名が挙がっている。古典「太平記」でもその箇所に名前が出てくるからであろう。

今川了俊いまがわ・りょうしゅん1326(嘉暦元)-応永25(1418)以前?
親族父:今川範国 兄弟:今川範氏・今川氏兼・今川仲秋
正室:土岐頼雄の娘?
子:今川貞臣・名和貞継・今川言世・尾崎貞兼・今川満範・吉良俊氏室
養子:今川仲秋
官職左京亮・伊予守
位階従五位下
幕府引付頭人、侍所頭人、山城・安芸・遠江半国・駿河半国守護、九州探題
生 涯
 二十年をかけ九州平定に力を注ぎ、九十歳前後の長命をたもって動乱の南北朝時代をまるごと生き抜いた武将。歌人・文章家としても当代一流の文化人で、まさに文武両道を絵にかいたような名将である。またその著述により貴重な同時代の証言者ともなった。

―文武両道の成長―

 今川貞世、のちの了俊今川範国の子として嘉暦元年(1326)に生まれた。生年については後年に編纂された『今川家譜』に正中2年(1325)生まれとあるが、応永年間に了俊自身が年齢を記した史料から嘉暦元年が正しいと見られる。生まれた場所は不明だが、今川氏の拠点のある三河か鎌倉であったと推測される。幼少期の事跡は伝わらないが、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊、足利尊氏による幕府成立といった激動のなか、父や一族が奮戦するのを横目に見て育ったのだろう。ひとまず世の中が落ち着いた暦応元年(延元3、1338)に父・範国と共に駿河の富士浅間神社に参拝していることが本人の回想録『難太平記』に書かれている。
 貞世は祖母・香雲院に12歳ごろから和歌の手ほどきを受け、また父・範国の和歌好きも影響し、16歳の時に平安時代の歌人・源経信の幻から「人は歌をよむべき」と諭されたこともあってますます歌道にのめりこんだ。歌の師は京極為基で、その養父・京極為兼の流れをくむ京極風の和歌を学んでいる。貞和2年(1346)に勅撰集『風雅和歌集』春部が完成したが、その雑部上に為基の推薦で了俊の歌が一首採られている。当時貞世は21歳、若き歌人の誕生である。このころ冷泉為秀の門下となり冷泉派歌人としてめきめきと頭角を現すようになる。またこの時期に和歌を通じて吉田兼好と交流を持ち、その没後に兼好の弟子・命松丸を引き取っていることから『徒然草』の編纂に貞世が関わっているとの説もある。

 一方で貞世は当然武士の子であり、彼の青春期に起こった「観応の擾乱」において戦闘に参加している。観応2年(正平6、1351)11月に足利尊氏と足利直義が戦った駿河・薩タ山の戦いに父・範国と共に尊氏方で参加したことが『太平記』に記されている。その後文和4年(正平10、1355)に直義の養子・足利直冬が南朝方として京に攻め込んだが、3月に行われた東寺での攻防戦で貞世は細川清氏の指揮のもと戦闘に参加した。了俊は清氏と「内外なく申し承る者」、つまり非常に親しい友人であったが(了俊自身が「難太平記」に書いている)、この時の戦闘で清氏は貞世に恩賞を約束しながらなかなか果たさず、のちに貞世は怒って遠江に去るという行動を起こしている。

―幕政の中心へ―

 延文3年(正平13、1358)に足利尊氏が死去し、足利義詮が二代将軍となった。翌延文4年(正平14、1359)12月に義詮は自ら出陣して南朝への攻勢をかけ、貞世も兄・範氏と共に天王寺まで出陣している。
 康安元年(正平16、1361)9月、幕府の執事となっていた細川清氏が佐々木道誉の謀略により義詮から反逆の疑いをもたれる事態となった。ちょうどこのとき貞世は先述の恩賞の件で不満を抱き遠江に行って留守で、清氏はやむなく貞世の弟の今川氏兼を呼び出して仲介役を頼もうとしたが断られている。そのとき清氏は「貞世が在京していてくれれば、私の無実を信じて来てくれたろうに」楽所信秋に漏らしたというから、恩賞の件で行き違いはありながらも貞世と清氏が心通じあう仲であったことは確かであろう。
 このことを聞き知った範国は使者を出して遠江から貞世を呼び戻す一方、義詮に「貞世と清氏を対面させ、刺し違えさせましょう」と提案している。結局貞世は三河まで来たところで清氏が若狭へ逃亡したとの知らせを受け清氏との対面は実現しなかったが、この父の提案について貞世は後年「息子を犠牲にしてまで忠義を果たそうとした美談」として語り、これが『太平記』に記されていないことに大いに不満を述べている(「難太平記」)。しかしこの範国の提案は実際には貞世と清氏が無二の親友であるために今川氏が義詮から疑われるのを避けるための一策であったと見られ、どうも貞世もそれを知った上で複雑な胸中をのぞかせるような表現をしている。少なくとも「清氏に野心はなかった。ある人(暗に道誉を指す)に陥れられたのだ」と貞世は語っている。

 若狭も追われた清氏は南朝に投降し、12月に楠木正儀ら南朝勢を率いて京へ突入した。このとき貞世は山崎に布陣して防衛にあたったが、清氏は南朝軍の軍議で「今川伊予守(貞世)は一戦もしないだろう」と予言し、実際貞世は戦わずに退却している(「太平記」巻37)。これもあるいは貞世が直接対決を避けたということだろうか。京はいったん南朝軍に占領されるがたちまち幕府軍に奪い返され、このとき貞世もその先陣に加わっている。こののち清氏は四国に渡って再起を図ったが7月に讃岐・白峰の戦いで従兄弟の細川頼之に敗れて戦死することとなる。この間に山陰の南朝方・山名時氏の軍が丹波方面に攻め込んだため、貞世は丹波に出陣してこれと対戦している。

 こののち南朝方の大名、大内・山名両氏が幕府に投降したこともあって幕府政治は一応の安定を見るようになる。この時期に貞世は和歌の面でも一段と存在感を増し、二条良基について連歌にも通じる一方、さらに貞治5年(正平21、1366)までに侍所頭人兼山城守護となって京都とその周辺の治安維持にあたる重職を担って幕政の中枢に加わり始める。翌貞治6年(正平22、1367)には父・範国を引き継いで引付頭人も兼任した。父の範国の存在も大きかったと思われるが、貞世自身の行政処理能力が高かったのも確かだろう。
 あくまで貞世自身の語るところであるが、父・範国は嫡男の範氏よりも貞世の能力を買い、駿河守護職を貞世に譲るつもりだったという。しかし貞世は兄が駿河を望んでいることを察して身を引いた。貞治4年(正平20、1365)に範氏が死去すると範国は再び貞世に駿河守護を譲ろうとしたが貞世はまた辞退して範氏の子・氏家に継がせた。氏家がそのすぐ翌年に亡くなり、貞世の子・貞臣(当時は義範)に駿河を譲るよう遺言したが、了俊は出家していた氏家の弟・泰範をわざわざ還俗させて駿河守護を継がせた。このことを貞世の友人である細川頼之は「世にためしなし」と絶賛したという(「難太平記」)

―九州平定に向かう―

 貞治6年(正平22、1367)12月、足利義詮が死去し、幼い足利義満があとを継いだ。それを代わりに補佐し、管領として幕政を仕切ることになったのは細川頼之であった。義詮の死に殉じる形で貞世は出家し、このときから「了俊」の法名で史料上に現れる(以下、「了俊」に統一する)。出家しても幕政の中枢にあって腕をふるい続けていた了俊だったが(応安元年=1368に侍所頭人は弟の仲秋に譲っている)、細川頼之はこの了俊に幕府にとって長年の懸案であった「九州平定」という大役を任せることを決断する。

 この時期、すでに南朝勢力は全国で衰退の一途にあったが、唯一九州だけは懐良親王菊池武光が率いる南朝の征西将軍府が強力に支配していた。幕府の九州探題は一色範氏一色直氏斯波氏経と三代続けて九州から追い出され、その後任の渋川義行にいたっては九州に上陸すらできないありさまであった。懐良親王は独自の対外交渉も始めており、「全国政権」たる幕府としては九州平定が緊急の課題となっていたが、その難事業達成のための人選は難航した。紆余曲折の末に頼之がこの九州探題の大役を了俊に任せることを決定したのは応安3年(建徳元、1370)6月ごろのことであった。
 大役を任された了俊は9月に侍所頭人を辞めて準備のためいったん遠江に帰り、10月に京に戻ってから、翌応安4年(建徳2、1371)2月19日に九州平定への長い旅路についた。京を去るにあたって了俊は頼之に「何となく 心にかけて 思ふかな 浜名の橋の 秋の夕暮れ」という歌を贈って自身の守護国・遠江についての不安を示唆したが、頼之はこれに対して「御分国(守護国)のことは絶対に間違いはない」との確約で応じた。後顧の憂いを絶った了俊は九州平定をするまでは生きて帰らぬ覚悟を固めて旅立ったのである。

 了俊が豊前・門司に上陸し始めて九州の土を踏んだのはこの年の12月19日のことだった。京を出発してからまるまる十ヶ月に及ぶ旅路を了俊は紀行文『道ゆきぶり』に記しているが、各地の歌枕や名所旧跡をまわり、感動を和歌に詠むという表面的にはのんびりした優雅な旅であった。あまりの遅さに北朝方の九州豪族たちがしびれを切らすほどであったが、この間に了俊は中国・九州の武士たちと綿密に連絡をとって組織化し、弟の仲秋を肥前、息子の貞臣(当時は義範)を豊後に先発させ二方面から攻略を進め、最後に了俊自身が上陸して三手から征西将軍府の拠点・大宰府を攻略するという大戦略を構想、推進していたのである。
 九州に上陸した了俊は2月のうちに筑前の多良宮・鷹見城を陥落させ、宗像、博多へと進出、4月には肥前を攻略してきた仲秋軍と合流して大宰府のすぐ北・佐野山に布陣した。それでもすぐに大宰府を攻めることはせず北九州各地の平定にじっくりと力を注いだうえで、ついに8月に大宰府攻略にとりかかった。8月10日に天拝山城、翌11日に有智山城と大宰府の支城を攻め落とし、ついに12日に懐良親王と菊池武光を逃亡させ、大宰府を占領した。12年間幕府軍を寄せ付けなかった征西将軍府も了俊の念には念の入った大戦略の前に敗れ去ったのである。

 しかし大宰府を失ったとはいえ、菊池氏の主力は温存されており、九州各地の南朝方はまだまだ健在で、了俊は長く苦しい戦いを強いられる。筑後川をはさんで菊池軍と攻防を繰り返す一方、弟の仲秋・氏兼、息子の貞臣・満範を九州各地に派遣して豪族たちの調略、南朝方との戦闘に明け暮れた。応安7年(文中3、1374)10月、ついに菊池軍は筑後川に望む要害・高良山城を放棄して肥後に撤退。了俊はこれを追って肥後に進軍する一方で、阿蘇惟村を通じてまだ幼い菊池氏当主・菊池賀々丸(のちの武朝)に本領安堵を約束して投降を呼びかけてもいる。賀々丸はこれに応じず、また菊池氏の本拠地・隈部もかなりの要害であったため了俊はまたもじっくり腰を据えた肥後攻略を進めねばならなかった。

―水島の陣〜九州平定の苦闘―

 永和元年(天授元、1375)7月、了俊は菊池氏本拠を攻撃するべく肥後・水島に陣を張り、「九州三人衆」の島津氏久大友親世少弐冬資に参陣を求めた。大友・島津両氏は参陣したが、少弐冬資が参陣を渋り、了俊は島津氏久に冬資の参陣を促させた。ようやく重い腰をあげて冬資は水島に参陣したが、8月26日に了俊は冬資を酒宴に招き、宴の最中に家臣の山内某に冬資を押し倒させ、弟の仲秋に刺殺させた。了俊が突然かつ大胆な暗殺を実行した理由は、少弐氏が先代の頼尚以来幕府の支配を嫌って独立行動をとりがちで、時には南朝とすら手を組む派違反常なき存在であったためと見られる。それにしてもこの九州平定の総仕上げ目前という段階で騙し討ちの形で暗殺を実行したのは果断に過ぎた。
 了俊はただちに島津・大友両氏に冬資暗殺を知らせ、「彼は南朝に内通し、九州の混乱の原因となっているから」と殺した理由を伝えたが、了俊に殺させるために冬資を呼び出した形になってしまった島津氏久は「九州三人面目を失う」と激怒し、水島から帰ってしまった。大友親世はどうにか了俊の引き留めに応じたが、了俊に対する不信感を根深く抱いた。了俊軍の兵士たちの士気も下がり、これに乗じた菊池軍が攻勢をかけて了俊配下の多くを戦死させ、了俊はやむなく9月8日に水島の陣を引き払うこととなった。
 万事に慎重で計算高い了俊にしては意外な行動であるが、計算高いだけに「九州平定の障害」である少弐氏を完全に抑え込まねばと考えたのだろう。彼としてはここで一気に南朝勢力を滅ぼし、同時に九州三人衆も完全に幕府の支配下に置くつもりだったのだろうが、そのもくろみは完全に裏目に出てしまったのである。ただその後の経緯をみると少弐氏を復活不能なまでに追い込んだことは結果的には正解だったとも言える(少弐氏が絡む外交権を奪うためだったとの見方もある)

 窮地に立たされた了俊は義満の弟・満詮の九州下向を幕府に求め、義満もこれに応じたが結局これは実行されなかった。その代わり周防の大内義弘が援軍として九州に上陸、了俊は大友氏と共に少弐氏を討ってその動きを封じ、永和3年(天授3、1377)には肥前に進出してきた菊池氏の軍を蜷打の戦いで大破して肥後に追い返して、どうにか北九州については支配下に置くことができた。南九州については息子の満範を派遣して豪族たちの調略を進め、他の息子の貞臣には豊前・豊後、弟の仲秋は肥前、氏兼は日向といったように一族を代理人として九州各地に派遣し、それぞれ分担して九州支配を進めていった。
 そして永徳元年(1381)6月、ついに了俊と仲秋は菊池武朝の拠点・隈部城と、征西将軍良成親王(懐良の後継者)の染土城を攻め落とした。武朝と良成は宇土、八代を転々と逃れ、最後には筑後の山間部矢部にこもって抵抗を続けるが、もはや南朝勢力の復活は不可能となった。南九州では相良氏や島津氏が背反常なき態度を続けたが、嘉慶元年(元中4、1387)に島津氏久が死去したことで抵抗する有力者もいなくなり、了俊の九州平定はほぼ達成された状況となった。

 九州平定の長い戦いの間も歌人・了俊の文化活動は健在で、『万葉集』の九州の歌枕の地を訪問してその検証を行ったり、九州の有力者たちに和歌の指導を行うなどしている。了俊がのちに書いた『落書露顕』によると、了俊が和歌愛好家たちに「三代集(古今集・後撰集・拾遺集)」や「万葉集」について質問されると聞かれるままに「秘説」とされることまであらかた教えていたところ、了俊と九州まで同行していた兼好の弟子・命松丸が「そのような秘説をあっさり教えてしまってはもったいないではありませんか」と忠告した。すると了俊は「それももっともだが、和歌の道に志のある人々に対してはあながち隠すものでもない」と答えたという。また京にいる二条良基と書状をやり取りして連歌論を深めてゆき、良基から「すぐれた点者(採点者)」と認められ、九州での連歌指導に力を入れてもいた。

―対外交渉〜九州探題解任―

 この九州平定の長い苦闘と並行して、了俊は日本の外国に向けた窓口である九州の首長として対外交渉にも務めている。九州上陸の翌年、応安5年(文中元、1372)4月に博多を占領した直後、懐良親王(明側では「良懐」としていた)を「日本国王」に冊封するための明の使者が博多にやってきたため了俊はこれを拘束し、翌年京都に向かわせている。

 当時の東アジアでは九州地方を出発地とする「倭寇」の害が深刻で、とくに彼らに拉致された被虜人を奪還することが明・高麗両政府の重大な課題となっていた。明・高麗はこの時期倭寇問題解決を日本に求めるためにしばしば使者を派遣し、その応対に了俊があたることとなる。
 なかでも永和3年(天授3、1377)に来日した鄭夢周は高麗の名臣・文化人として著名な人物で、了俊は肥後で菊池軍と戦闘中だったが切り上げて博多に戻り鄭夢周と対面、大いに歓待している。このとき了俊が鄭夢周に日本酒を贈っていることが鄭夢周自身の詩から知られるが、了俊のほうも高麗から贈られた当時の日本にはない蒸留酒(焼酎)を飲んでその製法について記し「一杯飲めば七日は酔えると言い、露ばかり舐めても気に当たる。香りはいい酒に似てるが味はさしてなく、舌がひりひりする」とその味を評している(「言塵集」)。鄭夢周の帰国には了俊のそばにあった中国人と思われる周孟仁という人物が高麗への使者として同行した。
 了俊は高麗側の倭寇対策の要求に対して被虜者の送還を実行したほか、高麗に使僧信弘と共に兵を送って倭寇鎮圧にあたらせてもいる(この兵はわずか69人であり、結局あまり結果は出せずに帰国しているが)。了俊は倭寇の発進地である九州においても倭寇鎮圧のために各地の海賊勢力の討伐と掌握に力を注いでいるが、これは倭寇勢力に南朝方と結びつくものが多かったことも大きな理由であったようだ。了俊は高麗に送った手紙に「倭寇の禁圧は容易ではない」と率直に答え、海賊たちが南朝勢力と結びつくことを強く警戒する書状も残しているように、九州平定事業ともども倭寇対策を困難ながらも重大な問題とみて取り組んでいたようである。

 倭寇対策と並行して了俊は高麗と物品の贈答を繰り返し、高麗が版をもつ大蔵経(仏教総合全書といったもの)をたびたび求めるなど、文化交流と貿易活動も行っている。日本で南北朝合体が実現した明徳3年(1392)に李成桂(倭寇討伐で名を挙げた武将である)が高麗王朝から禅譲を受けて新たに朝鮮王朝を開くが(このとき鄭夢周は李成桂の子・李芳遠に暗殺されている)、了俊は朝鮮王朝とも被虜者の送還、大蔵経の要求といった交流を続けている。
 了俊と明との交流については確かな史料はないが、この時期明に「日本国王良懐」名義で使者が何度か来ており、この一部は了俊が送ったものではないかとの見方もある。将軍の代理人、九州探題の立場で外交・貿易にたずさわって存在感を増して行った了俊だったが、そんな彼を将軍義満は警戒するようになってゆく。

 南北朝合体を間近に控えた康応元年(元中6、1389)3月に義満は厳島神社を参詣、これに了俊も兄弟たちと共に加わって久しぶりに義満に対面した(この旅を了俊は紀行文『鹿苑院殿厳島詣記』にまとめている)。この厳島参詣は「康暦の政変」(1379)で一時失脚していた細川頼之の政界復帰という了俊にとっても重要な意味を持っていたが、同時に義満にとっては勢力を増してきた了俊の牽制を意図したデモンストレーションでもあった。海路が荒れたために実行しなかったが当初義満が九州上陸をするつもりだったことにもその意図が垣間見える。

 明徳2年(元中8、1391)の「明徳の乱」で大大名・山名氏の勢力を削いだ義満は、翌明徳3年(1392)に南北朝合体を実現させた。このころ了俊と共に九州平定に活躍し、明徳の乱でも戦功をあげた大内義弘は了俊にこうささやいた。「いま御所(義満)のやり方を見ていると、弱い者は罪がなくても疑いをかけられて倒され、強い者は意に背いていてもそのままにしている。あなたも弱い立場では不名誉なことも起こりましょう。私も身に余るほど得た広い所領を守りたい。あなたと私と大友とで連合を組んで強くなれば将軍ににらまれても大丈夫ですよ」(難太平記より大意)義弘は義満の次の標的が了俊か自分に向かってくると察知し、了俊に連合を求めたのである。しかし了俊は「将軍に忠節をつくしていれば大丈夫」と答えて応じなかったため、義弘は大友親世と組んで、逆に了俊を九州から追い出す工作を始めた。一方、幕府でも了俊の盟友・細川頼之が死去して斯波義将が管領となり、南北朝合体実現によって安定を目指す政治姿勢がとられつつあり、了俊の政治的立場は心細いものとなっていた。

 応永2年(1395)閏7月、了俊は突然義満から京への召喚命令を受けた。あまりに突然であったため了俊は警戒してはじめ拒否しようとすらしたが、結局8月15、16日頃に肥前小城に慌ただしく一族郎党を終結させ、海路京へと出発した。了俊は8月下旬には京に入り、25日に和歌会に出席していることが確認できる。了俊が九州探題として九州に下ってから24年、長い苦闘の末ようやく九州平定が達成されようとしていたまさにその時に義満は了俊を召還し、問答無用で九州探題から解任したのである。
 義満は了俊の長年の苦労に対して恩賞も出さないばかりか、了俊を駿河半国(甥の泰範と分ける)・遠江半国(弟の仲秋と分ける)の守護に任じて遠江に追い出してしまう。了俊はそれでも翌年には九州探題に再任されるものと期待していたようだが、翌応永3年(1396)3月に渋川満頼が新九州探題に任じられその望みも絶たれてしまった。おまけに甥の泰範が了俊が駿河半国守護を自分で望んだものと疑って了俊と不和になり、義満に了俊のことを何かと讒言するようになる。これは義満が過去に土岐氏、山名氏に対して使って来た一族の内紛を起こさせるいつもの手だったのだろう。

―復讐の大バクチ〜文化人としての余生―

 了俊を九州から追い払うことに成功して大友氏や島津氏は大喜びした。了俊追い出しに一役買った大内義弘は了俊のあとがまとして朝鮮と交渉し、交易で大きな利益をあげることになったが、望んでいた九州探題にはなれず不満も抱いた。そして彼がかつて予想したとおり、義満は義弘を次のターゲットにし、少弐氏や菊池氏をけしかけて義弘と戦わせるなど工作を行った。
 義弘は義満に対抗するべく、代々将軍家と対立する鎌倉公方の足利満兼と連絡をとり、東西から義満を挟撃する大戦略をたてた。その仲介役となったのが、かつて義弘の連合の誘いを蹴った了俊だった。すでに70歳を超えていた了俊だが、恨み重なる義満に復讐するべく義弘の話に乗り、危険かつ大きな賭けに乗りだしたのである。

 応永6年(1399)10月、大内義弘は軍を率いて和泉・堺に上陸、ここを要塞化して義満への対決姿勢を示した。同時に関東で足利満兼も軍を起こし、美濃の土岐、近江の京極両氏も呼応したが、義満が諸大名に堺を攻撃させて12月21日に義弘を戦死させた。これが「応永の乱」であるが、了俊や義弘の思惑を大きく外し、たった2ヶ月で乱は鎮圧されてしまったのである。
 足利満兼はただちに義満に恭順の意を示し、満兼と行動を共にするつもりだった了俊は藤沢に身をひそめたが、義満は年明け早々に鎌倉にいる上杉憲定に了俊の討伐を命じている。憲定は了俊に投降を呼びかけ、了俊はこれに応じていったん遠江に戻り、7月には義満に反逆の意図はなかったと弁明する書状を送って降参を申し入れた。対立していた甥の泰範も駿河・遠江二国の守護職を了俊・仲秋から奪いはしたが了俊の命だけは救おうと奔走してくれ、一時は「海賊舟に一人乗せて九州に流してしまうか」とまで言っていた義満も了俊の功績をそれなりに考慮したらしく、京にもどって今後の政治生命を一切絶つことを条件に了俊を許してやった。
 了俊は翌応永8年(1401)10月に京で和歌の本の書写をしているのでそれ以前に京に戻っていたと思われる。翌応永9年(1402)に了俊は子孫たちへの教訓として今川家のことや南北朝動乱についての回想をしたためた『難太平記』(この名前は後の人が勝手につけたもの)を著しているが、その中で応永の乱については自分は全く関与していないと必死に書きつつも、義満の政治を悪行無道とさんざんにこきおろして根深い怨念を吐露している。

 このとき了俊はすでに77歳。当時としては十分長寿で、いつ死んでもおかしくない年であったが、了俊の余生はそれからもまだまだ長く続く。政治生命は絶たれたが、執念ともいえる生命力の強さを保ち、歌人・文化人として多くの著作をものすこととなる。
 冷泉派歌人として二条派を批判した『二言抄』(1403)、総合的な歌論書『言塵集』(1406)、歌論に源氏物語論も加えた『師説自見集』(1408)、歌の入門指導書『了俊一子伝』(1409)、和歌・連歌を論じた『了俊歌学書』(1410)と、了俊は80代になっても精力的に著作を次々と書いた。了俊が弟で養子の仲秋に政治道徳を説いた『今川状』は応永19年(1412)、了俊八十七歳の時の作と伝えられ、それをそのまま鵜呑みにはできないものの、この『今川状』は江戸時代には寺子屋の教科書として使われ、世に広く知れ渡ることになる。
 了俊の著作で年代が確定できる最後のものは応永19年(1412)3月に書いた歌論書『了俊日記』である。また年代の明記はないが同時期に書かれたと推測される和歌・連歌の書に『落書露顕』があり、これは冷泉派への批判に対する反論を主として当初匿名で『落書記』として発表されたが了俊の作とばれたので「露顕」がついたという経緯がある。この中で了俊は「この両道(和歌・連歌)については、八、九十歳にいたるまで執念のあることなので、数寄の志を皆さんもあわれと思って、少々の悪口は許していただきたい」と記し、「今年中に必ず死去するような心地がする」とも書いて87歳まで生きた自分にもさすがに寿命がきたことを自覚している。それでも歌への執念は凄まじく、『了俊日記』には「二、三十歳のころから自分で良い歌だと思ったものを集めていたが、八十を過ぎてみると一首も良い歌はないので全部火に投じた」と凄いことも書いている。

 『落書露顕』を書きあげたのち、了俊は京を離れて遠江へ去り、同国堀越(現・静岡県袋井市)の地で最期の時を迎えることにしたらしい。ただ彼が予見したように「今年中」だったかは不明。『今川家譜』では応永27年(1420)8月に96歳で死去したことになっているが、了俊と交流のあった清巌正徹が応永25年(1418)の時点で「故伊予入道了俊在世の時」という表現をしていることからこの年以前に死去したものと見られている。
 いずれにしても90歳前後という当時としては異例の長命で、南北朝動乱の始まりからその終焉、室町時代の安定期までまるごと見届ける人生であった。袋井市にある了俊創建と伝えられる海蔵寺に墓(寛延2=1749建立のもの)がある。
 
参考文献
川添昭二『今川了俊』(吉川弘文館・人物叢書)ほか
歴史小説では吉川英治『私本太平記』では駆け足の終盤で「その後」がまとめられるが、主要人物であった兼好と命松丸の後日談として『徒然草』誕生の逸話が短く入り、そこで了俊が登場している。
北方謙三『武王の門』は懐良親王を主人公とする小説で、終盤に懐良・菊池武光の夢を打ち砕いていく存在として了俊が登場する。
漫画作品では学習漫画で登場例がある。昭和40年代の集英社版「日本の歴史」(カゴ直利・画)の第6巻「たちあがる民衆」の第一章は足利義満の栄華を語る内容で、義満に九州探題を解任され泣いてショックを受ける了俊が描かれている(ただし出家姿ではない)。駿河に甥の泰範がいると困惑するセリフもある。
小学館版「少年少女日本の歴史」(あおむら純・画)第8巻「南北朝の争い」では義満時代を描く第4章、康暦の政変後の全国情勢を説明する画面の中で九州を平定する武装姿の了俊が描かれている。
石ノ森章太郎「萬画日本の歴史」の第20巻「足利義満、「日本国王」となる」では了俊の九州平定戦と九州探題解任の過程がそこそこ詳しく描かれている。
PCエンジンCD版父・範国のいる駿河に「今川貞世」として1337年以降登場する。初登場時の能力は統率75、戦闘87、忠誠88、婆沙羅71と戦闘力がかなり強い。婆沙羅が妙に高いのは「歌人」という性格がそうさせているのか?

今出川(いまでがわ)家
 藤原北家閑院流で、鎌倉末期に西園寺家から分家した。西園寺公顕が今出川(河)殿を邸宅として「今出川」と号したのが始まりだが、その弟で養子となった兼季が初代と見なされている。この「今出川殿」の庭に菊の花が多くあったことから「菊亭」の異名が生まれ、これが今出川家の別名となり、大臣になるまでは「菊亭」、大臣以後は「今出川」を名乗るという使い分けもされるようになった。明治以後に侯爵家となり「菊亭」に一本化されている。

西園寺実兼
公衡西園寺




西園寺公顕
実顕
公冬



今出川兼季
実尹公直
公行
─実冨



実直



今出川兼季いまでがわ・かねすえ1281(弘安4)?-1339(暦応2/延元4)
親族父:西園寺実兼 母:藤原孝子
兄弟姉妹:西園寺公衡・西園寺公顕・覚円(興福寺別当)・性守(天台座主)・道意(東寺長者)・西園寺鏱子(伏見妃)・西園寺瑛子(亀山妃)・西園寺禧子(後醍醐妃)ほか
妻:西園寺公顕の娘
子:西園寺実尹・今出川尹季・妙菊(日陣の母)  養子:西園寺実顕
官職侍従・左少将・左中将・中宮権亮・蔵人頭・春宮権亮・参議・左衛門督・検非違使別当・春宮権大夫・権中納言・権大納言・右近衛大将・大納言・右大臣・後院別当・太政大臣
位階
正五位下→従四位下→従四位上→正四位下→従三位→正三位→従二位→正二位→従一位
生 涯
―世の変転に翻弄された琵琶の名手―

 太政大臣・西園寺実兼の四男で、母は実兼の家女房であった藤原孝泰の娘・孝子後醍醐天皇の中宮となった西園寺禧子とは同母とされる。
 弘安4年(1281)に誕生、弘安9年(1286)に叙爵され、正応3年(1290)に侍従に任じられる。左少将・左中将・蔵人頭などを経て正安3年(1299)に参議となる。正和4年(1315)には権大納言に昇進、翌正和5年(1316)には春宮権大夫として皇太子・尊治親王(のちの後醍醐)に仕えた。

 兼季は西園寺家の家業である雅楽に秀で、笛と琵琶の名手として知られていた。特に笛では御遊において後二条天皇と共に演奏したり、花園天皇の笛の師を勤めた記録がある。父の実兼は家業のうち琵琶は次男の公顕に、笛を四男の兼季に継承させる意向を持っていたようで、文保元年(1317)に置文を作成して兼季を公顕の猶子(養子)とし、その時点では兼季に子がなかったため公顕の子・実顕を兼季の養子にとらせ、公顕・兼季兄弟を一つの家系にまとめるよう指示している。しかし公顕は病がちで琵琶の役を勤めなくなり元応3年(1321)に死去してしまったため、兼季が琵琶も継承することとなった。

 後醍醐天皇が即位した文保2年(1318)の11月24日に催された「清暑堂御遊」において、兼季が得意の琵琶を披露したとの逸話が『徒然草』第70段に見える。このとき兼季は琵琶の名器「牧馬」を弾くことになっていたが、演奏の直前に何者かが「牧馬」の柱を一つ折る細工をしてしまった。演奏を失敗させようとたくらんだ何者かがいたことになるが、兼季は用意しておいた糊を懐から取り出して柱をすぐに接着、無事に演奏を終えることができた。兼季が日頃から万一に備えていたことを称える逸話とも読めるのだが、演奏のあとにまた何者か(女性あるいは女装)が「牧馬」に再び元のように壊したとの記述があり、何か政治的背景があるようにも読める不思議な一段となっている。
 兼季は後醍醐治世の元応元年(1319)に大納言、元亨2年(1322)には右大臣へと順調に昇進している。この元亨2年に兼季は家伝の秘曲「啄木」を後醍醐天皇に伝授している。一方で持明院統の皇太子・量仁親王(のちの光厳)の琵琶の師ともなっており、嘉暦2年(1327)に後院別当となって花園上皇に仕えるようになり、明確な態度ではないがやや持明院統よりの立場をとっていた気配がある。嘉暦4年(1329)には従一位に叙せられた。

 元徳3年(元弘元、1331)8月24日に後醍醐が京都を脱出して倒幕の挙兵に踏み切ると、27日に持明院統の後伏見上皇および量仁親王は六波羅探題に移り幕府の保護下に入った。このとき兼季も同族の西園寺公宗らと共に後伏見らに供奉し、そのまま量仁=光厳天皇の践祚にも関わった。後醍醐が隠岐へ流されたのちの正慶元年(元弘2、1332)11月18日に太政大臣に任じられている。
 ところが翌正慶2年(元弘3、1333)5月に鎌倉幕府は滅亡、隠岐から帰還して復位した後醍醐は光厳治下での人事を全て否定し、兼季も太政大臣任命自体を「なかった」ことにされ「前右大臣」ということにされてしまった。その後の建武新政の混乱と崩壊、南北朝並立と世の変転が続くが、兼季が太政大臣に戻ることはなかった。
 この年の9月に養子としていた実顕(公顕の子)が死去、兼季が遅くにもうけた実子・実尹が跡を継ぐことになった。これに不満を抱いたためか、実顕の子・公冬は後に南朝に走っている。

 暦応元年(延元3、1338)12月12日に病のため出家、「覚静」と号した。年が明けた暦応2年(延元4、1339)1月16日に死去。享年59(「諸家知譜拙記」)。ただし『公卿補任』では出家時に55歳、『尊卑分脈』は死去時に55歳としており、それらに従えば弘安7年あるいは8年の生まれということになる。
 前述のように兼季は兄・公顕の養子となっており、公顕が「今出川殿」を邸宅として「今出川」の家名を号していたため、それを引き継いだ兼季の子孫は「今出川家」を称するようになり、兼季がその祖とみなされるようになった。今出川家はのちに「菊亭家」とも呼ばれるようになるが、一説にはこれも兼季が今出川殿の庭に菊を植えさせたためともいう。

参考文献
豊永聡美「中世における天皇と音楽」(東京音楽大学研究紀要19)ほか

今出川公直いまでがわ・きんなお1335(建武2)-1396(応永3)?
親族父:今出川実尹 母:御子左為基の娘
兄弟:今出川実直
子:凉宵院(彦山座主有忠室)  養子:今出川実直
官職侍従・左近衛少将・左近衛中将・春宮権亮・権中納言・左衛門督・検非違使別当・権大納言・大納言・右近衛大将・補内教坊別当・右馬寮御監・内大臣・右大臣・左大臣
位階
従五位下→従五位上→正五位下→従四位下→従四位上→正四位下→従三位→正三位→従二位→正二位→従一位
生 涯
―天皇家から秘曲を「返し伝授」される―

 権大納言・今出川実尹の長男。建武4年(延元2、1337)に従五位下に叙され、侍従・左近衛少将・左近衛中将を経て、貞和5年(正平4、1349)に従三位に叙され翌観応元年(正平5、1350)に参議となる。その後権中納言・左衛門督・検非違使別当・権大納言・大納言・右近衛大将などを歴任して、永和4年(天授4、1378)には内大臣、南北朝合一後の応永元年(1394)に右大臣、翌年4月には左大臣まで昇進した。ところが同年6月20日に足利義満が出家したため他の多くの有力者同様に義満にならって6月26日に出家、左大臣職も2カ月で辞さねばならなかった。法名は「素懐」という。
 その翌年の応永3年(1396)5月に62歳で死去。ただし『尊卑分脈』では応永4年の没とする。いずれにせよ南北朝分裂の時代をほぼまるごと生き抜いたことになる。

 公直は日記を残しており、その中で祖父・兼季から光厳上皇に伝授された琵琶の秘曲を、光厳から公直に伝授してもらう約束になっていたが、「正平の一統」の混乱で光厳が南朝に拉致され、帰還後も隠遁してしまったtまえに約束を果たしてもらえず、その後光厳の子・崇光上皇から改めて伝授を受けたとの記述がある。この縁があったためか今出川家は崇光上皇の家系「伏見宮家」と深く関わるようになり、崇光の孫・貞成親王も幼児期に公直のもとで養育されている。

参考文献
豊永聡美「中世における天皇と音楽」(東京音楽大学研究紀要19)ほか

今出川公冬いまでがわ・きんふゆ1330(元徳2)-1380(康暦2/天授6)
親族父:西園寺実顕  養父:今出川兼季
官職侍従・左近衛少将・美作権介・左近衛中将・蔵人頭・春宮権亮・参議・土佐権守・左近衛大将(南朝)
位階
従五位下→従五位上→正五位下→従四位下→従四位上→正四位下→従三位
生 涯
―今出川家で唯一南朝に走る―

 参議・西園寺実顕の子。母は「家女房」であったという。父の実顕は叔父である今出川兼季の養子となってその跡を継ぐことになっていたが、兼季に先立って死去しており、まだ幼かった公冬もまた兼季の養子なり「今出川」を称するようになっていた。
 まだ幼児であった建武政権下で侍従となり、康永元年(興国3、1342)に左近衛少将。美作権介を経て貞和2年(正平元、1346)に左近衛中将、翌貞和3年(正平2、1347)に従三位となって公卿入りし、貞和4年(正平3、1348)に参議となる。左近衛中将と参議を兼ねたことで「今出川宰相中将」と呼ばれていた。

 正平6年(観応2、1351)11月に南朝が足利尊氏と和睦し北朝を接収する「正平の一統」が成ると、公冬はすばやく南朝の後村上天皇のもとへ馳せ参じてその信任を得た。他の公家たちも南朝参りをしているが公冬は特に後村上の信用を得たものらしく、恐らく公冬自身が今出川家の中にあって傍流、日陰者であったことが背景にあるのだろう。自身の地位を上昇させる逆転劇を演じるために南朝に取り入った例は他家でもみられる。
 正平7年(文和元、1352)2月に後村上は京を目指して賀名生を出発、住吉大社に入ったが、このとき公冬も供奉していたことが『園太暦』に記されている。それによれば後村上に供奉する者たちはむな武装していたが公冬のみは衣冠をまとい「剣璽」(三種の神器のうち剣と勾玉)を奉じていたといい、公冬が重用されていることをうかがわせる。
 その後後村上は男山八幡に入り、一時南朝軍が京を占領したものの足利幕府軍が奪還、男山八幡での籠城戦が続いたが5月に陥落して後村上らは命からがら逃亡した。このとき公冬が土岐勢に生け捕られ処刑されるらしいとの噂が流れたがこれは誤報で、実際には流れ矢に当たりながらも無事に逃げおおせたという(「園太暦」)。翌正平8年(文和2、1353)6月〜7月の南朝軍二度目の京都占領でも公冬は京まで出てきている。

 それ以後、公冬は南朝で左近衛大将に任じられたkと、南朝公家の一員として南朝の歌合わせに参加していることくらいしか情報がない。南朝の准勅撰和歌集である『新葉和歌集』には「今出河前左近大将」として彼の和歌数首が収録されている。その詞書きによれば正平8年(文和2、1353)、正平20年(貞治4、1365)、文中元年(応安5、1372)の歌合わせに参加していることが確認でき、『新葉和歌集』編纂時点で左近衛大将は辞したことになる。『公卿諸家系図』の「絶家伝」を見ると公冬について「出家」との説明があり、あるいはこのころ出家していたのかもしれない。
 天授6年(康暦2、1380)に51歳で死去したとされるが、文中3年(応安7、1374)死去とする史料ある。

今出川公行いまでがわ・きんゆき?-1421(応永28)
親族父:今出川公直 養父:今出川実直
子:今出川実冨・円尋
官職参議・備後権守・権中納言・権大納言・右近衛大将・内大臣・右大臣・左大臣
位階
従三位→正三位→従二位→正二位→従一位
生 涯
―義持の介入に振り回される―

 右大臣・今出川実直の子とされるが、系図類では実際には実直の兄・今出川公直の子で、実直の養子となったものである。
 永徳元年(弘和元、1381)に従三位に叙されて公卿となり、永徳3年(弘和3、1383)4月に参議になる。備後権守、権中納言、権大納言、右近衛大将、内大臣などを歴任して応永10年(1403)8月に右大臣となる。応永16年(1409)には従一位に叙せられた。
 父・公直以来、今出川家は伏見宮家とは深い関わりがあり、応永18年(1411)4月4日に伏見宮栄仁親王から琵琶の秘曲の伝授を受け、同日に栄仁の子・貞成親王の元服式に参加している。また公行もまた貞成に秘曲の伝授を行っている。同月に左大臣に昇任。このため公行は「後今出川左大臣」と呼ばれた(実父公直が「今出川左大臣」)

 応永21年(1414)12月に称光天皇の即位式にあたって後小松上皇から式を監督する「内弁」を務めるよう命じられる。公行は再三辞退したが後小松の強い意向に逆らえずしぶしぶ引き受けることにした。ところがその用意をしている最中に将軍・足利義持九条満教を内弁役に推挙してきて、強引に公行を引きずりおろしてしまった。公行とは関係の深い貞成親王はこの件を日記に書き、一度は決定したことを将軍が口を出して軽々しく改変したと批判している。

 応永25年(1418)12月に左大臣を辞職。応永28年(1421)6月13日(23日説もある)に、折から都で流行した疫病にかかり死去。この時今出川家の屋敷の住人で多くの犠牲者が出ており、幼児から今出川家で育ち公行と深い交流のあった貞成親王は大いに悲嘆したことを日記に記している。

参考文献
横井清『室町時代の一皇族の生涯・看聞御記の世界』(講談社学術文庫)ほか

今出川実尹いまでがわ・さねただ1318(文保2)?-1342(康永元/興国3)
親族父:今出川兼季 母:西園寺公顕の娘
妻:三条実忠の娘・御子左為基の娘
子:今出川公直・今出川実直
官職近江介・左近衛中将・権中納言・中宮権大夫・雅楽頭・春宮権大夫・権大納言・春宮正大夫
位階
正四位下→従三位→正三位→従二位→正二位
生 涯
―早世した今出川家二代目―

 今出川兼季の子で今出川家(菊亭家)の二代目。母親は西園寺公顕の娘で、両親は叔父と姪の関係でもある。生年は家譜では正和5年(1316)の生まれとなるが、『公卿補任』の記す享年から逆算すると文保2年(1318)の生まれとなる。文保元年(1317)に実尹の祖父・西園寺実兼が作成した置文に「兼季には子がない」という文言があることから文保2年生まれと考えるのが妥当と思われる。
 いずれにせよ兼季が息子・実尹をもうけたのは三十代後半の頃である。実兼の置文により兼季は甥の実顕を養子としていたが、その実顕は正慶2年(1333)に死去し、実尹が今出川家を継承することとなった。

 嘉暦2年(1327)に」正四位下・近江介となり、翌嘉暦3年(1328)に従三位・左近衛中将となって公卿の列に加わる。元徳3年(元弘元、1331)に権中納言となる。「元弘の乱」が起こった翌年、正慶元年(元弘2、1332)4月22日の賀茂祭に持明院統皇族がこぞって忍びで参加した際、当時15歳ごろの実尹が車寄せに駆けつける様子が『増鏡』『花園天皇日記』に軽く触れられている。
 建武政権期には中宮権大夫、雅楽頭を務め、南北朝分裂後の暦応2年(延元4、1339)に権大納言に昇任した。
 父・兼季の死後から三年後の康永元年(興国3、1342)8月21日に死去。享年ははっきりしないが二十代半ばの若さであったことは間違いない。

今出川実直いまでがわ・さねなお1342(康永元/興国3)-1396(応永3)
親族父:今出川実尹 養父:今出川公直
兄弟:今出川公直
養子:今出川公行
官職周防権守・参議・権中納言・権大納言・内教坊別当・左近衛大将・右大臣
位階
従三位→正三位→従二位→正二位→従一位
生 涯
―養父の兄と同月に死去?―

 権大納言・今出川実尹の次男。実直が父が死去した年に生まれており、兄の公直に男子がなかったこともあって公直の養子となった。
 康永3年(興国4、1344)に叙爵、延文3年(正平13、1358)に従三位に叙されて公卿となり、貞治元年(正平17、1362)に参議。権中納言・権大納言などを経て、南北朝合一後の応永元年(1394)12に右大臣に昇った。翌応永2年(1395)3月に右大臣を辞し、6月に従一位に叙せられた。
 応永3年(1396)5月15日に55歳で死去。兄で養父の公直も同じ月に死去したとみられる。

岩城願真いわき・がんしん生没年不詳
生 涯
―内管領の長崎氏に接近?―

 桓武平氏・岩城氏の一人で史料上では「岩城次郎入道」として登場、「願真」は法名である。名は「常朝」あるいはその子「清胤とする説があるが明確ではない。
 元亨元年(1322)10月、相馬一族の所領の一部を長崎思元が没収することとなり、その引き渡しを岩城願真(ちょうどこの年に出家したらしい)結城宗広が請け負っている。ところが幕府で内管領をつとめる実力者である長崎氏の機嫌をとろうとでもしたのか岩城・結城の二人は本来の境界を越えて土地を接収してしまい、相馬重胤が幕府に訴え出て長崎思元と対決する裁判沙汰にまで発展してしまっている。

 元徳3年(元弘元、1331)8月に後醍醐天皇が倒幕の兵を起こすと、岩城願真は同族の岩崎・高久氏や、結城宗広らと共に幕府軍に動員されて畿内へ出陣している(「太平記」)
 幕府滅亡後は建武政権に従い、建武元年(1334)3月28日付で北条残党の取り締まりを指示する書状の送りて「沙弥」は岩城願真のこととみられる。また同年に陸奥国司・北畠顕家から、焼失した好島荘の飯野八幡宮の再建を命じられていて、ここで「岩城次郎入道願真」と名前が明記されている。

岩崎弾正左衛門いわさき・だんじょうざえもん生没年不詳
生 涯
―赤坂城攻めに参加―

 『太平記』巻三で、鎌倉幕府が笠置・赤坂城攻めのため畿内に派遣した大軍の中に名が見える人物。版本により「左衛門尉」、あるいは流布本のように続く「高久」の二字を彼の実名と見なしてそこで文を切るものもあるが、「高久」は「たかく」と読んで続く人物たちの名字ととるべきであろう。「岩崎」も「高久」も同じ桓武平氏の岩城氏の一族である。
 その事跡は『太平記』のこの時のものしか伝わらないが、同時期に「岩崎弾正左衛門尉」あるいは「岩城弾正左衛門尉」なる人物は実在が確認できる。『飯野八幡文書』の元亨四年文書に「岩崎弾正左衛門尉隆衡」の名があり、建武元年3月28日付の『沙弥某遵行状』では奥州岩城郡の検断職として「岩城弾正左衛門尉隆胤」の名が記されていて、この両者は同一人物もしくは近親者の可能性がある。

岩松経家いわまつ・つねいえ?-1335(建武2)
親族父:岩松政経 弟:岩松頼宥(経政) 子:岩松頼国
官職兵部大輔・飛騨守
建武の新政鎌倉将軍府関東廂番二番頭人
生 涯
―足利と新田のはざまで―

  岩松氏は新田・足利両家の混血の家系と言える。足利尊氏の七代前の先祖・足利義兼が遊女に産ませた息子・義純新田義貞の六代前にあたる新田義重に預け、この義純と義重の孫娘が結婚、岩松家の祖となる時兼が生まれた。その後この夫婦は離縁して義純は断絶した畠山氏に婿入りし、その実子である時兼は新田一族の一員として岩松郷に領地をもった。こうした事情で岩松家は新田一族とされつつも男系では足利家の血をひくという微妙な立場で、新田宗家が次第に没落していく中で足利氏と共に幕府中枢につながりをもち、宗家をしのぐ勢力を持つようになっていった。新田義貞が当主となって間もない元亨2年(1322)には岩松政経大館宗氏(これも新田一族)が水争いを起こし、主家の義貞ではなく幕府の裁定を受けていることもその現われである。

 その政経の子が経家で、「新田下野五郎」とも呼ばれた。ところで経家の父・政経は阿波国生夷庄に領地をもっていることが確認でき(正木文書)、元亨4年(1324)4月27日付で「阿波国の海賊について幕府と六波羅探題からのお達しを拝見した。我が領内の勝浦・新庄・小松島の船は無関係である。偽りがあれば神罰を受けよう」と書かれた「肥後守経家」の署名の文書が残っている(紀伊田辺町・小山文書)。これらの文書と、後に経家が主筋の義貞よりも早く後醍醐から恩賞を受けることを根拠に、「岩松経家は阿波の海賊を率いて後醍醐隠岐脱出を助けた」とする説が戦中に出ているが(島田泉山「阿波に隠れたる建武の忠臣岩松経家」)、この「肥後守経家」が岩松経家であるという確証はない。

 元弘3年(1333)5月8日の新田義貞の生品明神での挙兵に参加した一族の中にその名がみえる(『太平記』)。しかし経家はそれ以前、4月の段階で足利高氏と内々の連絡をとっており、高氏の子・千寿王(義詮)の鎌倉脱出や北条打倒の挙兵について指示を受けていたと推測される。これは後年、彼の子孫が室町幕府に祖先の功績の証明書類を提出していることから判明するもので、子孫たちは経家は新田義貞と並ぶ「両大将」として鎌倉攻めを行ったと主張していた。「両大将」だったかは怪しいが義貞とは連携しつつも高氏の指示を独自に受けるという両属的立場にあったことはうかがえる。そして鎌倉陥落直後の7月に宗家の義貞に先立って兵部大輔・飛騨守に任官され恩賞も与えられているのも、高氏が彼のために朝廷に運動したためとみられている。鎌倉をめぐって足利氏と対立した義貞が上洛したのちも経家は鎌倉にとどまり、鎌倉将軍府の廂番二番頭人として事実上足利氏の武将として活動している。

 建武2年(1335)7月、北条時行ひきいる北条残党が信濃で挙兵、「中先代の乱」を起こした。北条軍は信濃から上野に進撃して鎌倉を目指して南下、鎌倉将軍府の足利直義渋川義季小山秀朝・岩松経家らを出陣させてこれを迎え撃った。経家は上野国鏑川で北条軍を防ごうとしたが敗れ、武蔵国女影ヶ原(現・埼玉県日高市高麗川付近)に退き、ここで壊滅的な敗北を喫して渋川義季もろとも戦死した。このとき経家の兄弟二人(名は不明)も共に戦死したという。
大河ドラマ「太平記」 「私本〜」に準拠して隠岐脱出の工作は「海賊の弟」(原作の岩松吉致に当たる)に任せている。演じたのは赤塚真人で、第16回の足利貞氏の葬儀に根津甚八演じる義貞と共に初登場し、高氏と義貞のあいだをとりもって挙兵をけしかけつつ、海賊の弟と連絡して後醍醐の隠岐脱出の計画を進めていた。その後は義貞のそばにあって挙兵にも立ち会い、鎌倉攻めに参加している。建武政権が発足すると史実と異なり義貞と共に上洛したことになっていて、第27回の尊氏主催の武家会議や第28回の護良親王の密談の宴に義貞と共に顔を見せている。義貞に「足利の御家人として生きる道もある」とささやく場面が最後で、中先代の乱では女影ヶ原の戦いについては触れながらも岩松経家の戦死については全く描かれなかった。ただ第31回でヤケ酒をあおる高師直のセリフで「岩松殿、渋川殿…」と戦死者として触れられている。
歴史小説では 吉川英治『私本太平記』では岩松氏は上野・新田だけでなく阿波にも領地をもち、海賊衆まで抱えている設定で、岩松経家と千種忠顕は以前から顔見知りということになっている。この設定は上述の「阿波に隠れたる建武の忠臣岩松経家」に基づくもので、経家が後醍醐の隠岐脱出を助けつつ義貞の挙兵にも立ち会うという活躍を見せている。
 新田次郎『新田義貞』では岩松氏は義貞と何かと敵対する親戚という扱いで、経家ではなくその父・政経が前半で何度か登場、鎌倉攻めにも関与しており経家の役回りを代行する形になっている。経家は中先代の乱での戦死者として触れられるだけ。


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