不知哉丸 | いざやまる | |
吉川英治「私本太平記」、およびそれを原作とする大河ドラマ「太平記」における足利直冬の幼名。 →「足利直冬(あしかが・ただふゆ)」を見よ。 |
石 | いし | |
大河ドラマ「太平記」に登場する架空人物。→「ましらの石」を見よ。 |
石の家来 | いしのけらい | |
大河ドラマ「太平記」の第26回に登場する二人組(演:大阪百万円・和田英雄)。倒幕戦で功績をあげ武士となったましらの石が、日野俊基から与えると約束された和泉の土地へ向かう時になけなしの金をはたいて雇った。しかしその土地にはすでに別の公家の領地となっており、その家人の武士たちによって石は追い返されてしまう。これを見た家来二人は「こりゃ、あかんで」と言って逃げ出してしまった。 |
一色(いっしき)氏 |
足利泰氏 | ┬家氏 | →斯波 | |||||
├義顕 | →渋川 | ||||||
├頼氏 | →惣領 | ||||||
├頼茂 | →石塔 | ┌頼行 | ─行義 | ||||
├公深 | ─── | ┴範氏 | ┬直氏 | ─氏兼 | ┌持範 | ||
├義弁 | →上野 | ├範光 | ┬詮範 | ┬満範 | ┴義範 | ||
├賢宝 | →小俣 | └範房 | └詮光 | └範貞 | |||
└基氏 | →加古 |
今川(いまがわ)氏 |
足利義氏 | ┬泰氏 | →惣領 | ┌頼貞 | ||||||||
└長氏 | ┬満氏 | →吉良 | ┌頼国 | ┴頼兼 | ┌氏家 | ||||||
└国氏 | ─基氏 | ┼範国 | ┬範氏 | ┴泰範 | ─範政 | ─範忠 | ─義忠 | ─氏親 | ┬氏輝 | ||
├国満 | ├了俊 | ┬貞臣 | └義元 | ||||||||
└頼周 | │ | ├貞継 | |||||||||
│ | ├言世 | ||||||||||
│ | ├貞兼 | ||||||||||
│ | └満範 | ||||||||||
├氏兼 | →蒲原 | ||||||||||
└仲秋 | ┬貞秋 | ||||||||||
├氏秋 | |||||||||||
├直秋 | |||||||||||
└国秋 |
今川氏兼 | いまがわ・うじかね | ?-応永5(1398)? |
親族 | 父:今川範国 兄弟:今川範氏・今川貞世(了俊)・今川仲秋 子:今川直忠・今川頼春・今川末兼 | |
官職 | 修理亮・弾正少弼・越後守 | |
生 涯 | ||
―了俊の弟・蒲原氏の祖― 今川範国の三男で通名「九郎」。後年「直世」と改名している。建武3年(1336)に一族本家筋の吉良義満から三河国・須美保の政所職を与えられ、暦応元年(延元3、1338)には三河国・幡豆郡の吉良西条・一色・今川のうち今川常氏と父・範国の旧領を吉良義貞から与えられているが、これらの文書で「今川九郎」としか書かれていないので1338年の時点で元服前と見られ、ここから逆算して元徳元年(1329)ごろの生まれではないかと推測されている。幼少期は鎌倉か三河で過ごしていたのだろう。「観応の擾乱」が起こると今川氏は一貫して足利尊氏側で戦い、氏兼は恐らく延文元年(正平11、1356)ごろまでに駿河国蒲原に領地を与えられ、これを拠点としたと見られる。 康安元年(正平16、1361)9月、当時幕府の執事職にあった細川清氏が佐々木道誉の謀略により反逆の疑いをかけられた。清氏はかねて今川貞世と親友であったが貞世が京にいなかったため、代わりに弟の氏兼をひそかに呼んで将軍足利義詮との仲介役を頼もうとしている。氏兼は恐れて応じなかったが(今川了俊「難太平記」)、このことは貞世ほどではないが氏兼も清氏と付き合いがあったことを推測させる。 貞治3年(正平19、1364)に京都で父・範国の名代として越後守奉書を発するなど活動が確認され、このころ足利義詮らによって企画された歌会『一万首作者』の参加者の中に父・範国や兄・範氏と共に「源氏兼(今川越後守)」の名がある。 応安3年(建徳元、1370)には管領・細川頼之の指示のもと河内に出陣して南朝方と戦って功績を挙げ、遠江国山梨郷を与えられ、越後守護代もつとめた。このころすでに出家しており、吉良満貞が彼に浜松荘嶋郷四分の一地頭職を預けた書状に「今川少弼入道」とある。その後越後守になったことから「今川越後入道」の名で史料上に登場する。 応安3年7月に兄の今川了俊(貞世)が九州探題に任じられて弟の今川仲秋と共に九州平定に旅立つと、氏兼もやがてこれに従い翌応安4年(建徳2、1371)12月には肥前の武雄山で戦闘をしていることが確認できる。その後も各地で転戦し、とくに了俊から日向方面の統治をまかされ、肝付氏と協力して国人層の掌握に腐心している。 応安7年(文中3、1374)に京に戻り、康応元年(1389)3月に行われた三代将軍足利義満の厳島参詣に了俊、仲秋らと兄弟そろってつき従っている。 応永3年(1396)に「直世」と改名した。これは前年に兄の了俊が九州探題から解任され京へ召喚されたことと関わりがあると見られる。没年は明確ではないが応永5年(1398)ごろとみられ、墓所は所領の駿河国蒲原(現・静岡市清水区蒲原)に彼自身が創建したと伝えられる龍雲寺(延文2=1357創建と伝えられる)にある。彼の子孫は「蒲原氏(源姓)」を名乗り、戦国時代まで続いている。 参考文献 天野進「蒲原城の史料調査(上)補稿」(http://www.geocities.jp/yoochin22/link5.htm) 川添昭二『今川了俊』(吉川弘文館・人物叢書)ほか |
今川貞世 | いまがわ・さだよ | |
今川了俊の俗名。→今川了俊(いまがわ・りょうしゅん)を見よ。 |
今出川(いまでがわ)家 |
西園寺実兼 | ┬公衡→西園寺 | ||||
├西園寺公顕 | ─実顕 | ─公冬 | |||
└今出川兼季 | ─実尹 | ┬公直 | ─公行 | ─実冨 | |
└実直 |