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しぶかわ〜しんこう

渋川(しぶかわ)氏
 足利氏の支流のひとつ。足利泰氏の子・義顕が鎌倉初期に上野国渋川郷に入って「渋川氏」を称したことに始まり、足利一門の中では高い家格として扱われた。南北朝時代には足利直義の妻、および足利義詮の妻が渋川氏であったため足利将軍家との結びつきも強く、幕府や関東の有力者となった系統や、備後守護・九州探題を世襲職とした系統もある。いずれも戦国時代には滅んでしまっている。

足利泰氏┬頼氏惣領





└義顕─義春─貞頼義季───直頼義行満頼




足利直義室幸子
├義長







└満行

渋川直頼しぶかわ・なおより1335(建武2)-1356(延文元/正平11)
親族父:渋川義季 母:佐介朝房の娘
兄弟姉妹:渋川幸子(足利義詮正室)
妻:高師直の娘 子:渋川義行
官職中務大輔
生 涯
―若死にした渋川当主―

 足利一門である渋川氏の第五代当主で、渋川義季の子。幼名を幸若丸という。彼が生まれた年に父・義季は「中先代の乱」で北条残党軍との戦いで戦死しており、その代償として足利一門の中でも重きを置かれて育ったものとみられる。伯母が足利直義の妻(本光院殿)で、姉・幸子は第二代将軍・足利義詮の正室となった。

 成人した頃に幕府の内戦「観応の擾乱」が勃発したが、直頼は伯母が直義の妻ながら、姉が義詮の妻、自身の妻も高師直の娘ということで尊氏・義詮側に属して戦っている。
 「観応の擾乱」も一段落した観応3年(=文和元年、正平7、1352)6月29日付で息子の金王丸(渋川義行)への所領の譲状をしたためており(賀上文書に写しが残っている)、下野国足利荘の板倉郷、武蔵国蕨郷、備後国御調別宮、山南郷など12か国に22箇所の所領があったことが知られる。それらの土地には室町、戦国時代にかけて彼の子孫たちが土着することになる。
 延文元年(1356、正平11)7月17日に22歳の若さで没した(「系図纂要」)。その4年前に18歳の若さで譲状を作成したのも病弱であったからかもしれない。

渋川満頼しぶかわ・みつより1372(応安5/文中元)-1446(文安3)
親族父:渋川義行 
兄弟姉妹:渋川義長・渋川満行・吉良満貞室
子:渋川義俊
官職左近衛将監・右兵衛佐
位階従五位下
幕府備中・摂津・安芸・肥前守護、九州探題
生 涯
―九州探題世襲の始まり―

 九州探題をつとめた渋川義行の子で、幼名は「長寿丸」。義行の次男とされる。永和元年(天授元、1375)8月に父・義行が28歳の若さで死去し、まだ4歳の幼さで家督を継いだ。康暦元年(天授5、1379)に摂津守護、応永元年(1394)から安芸守護をつとめた。応永2年(1395)に将軍・足利義満今川了俊を九州探題の地位から解任すると、翌年その了俊の後任に義行が任じられた。了俊の前任者が義行の父・満頼であったこと、九州平定に成功して外交・貿易も握った了俊を義満が警戒したこと、了俊の後釜を狙った大内義弘の讒言などがこの人事の背景にあったとみられる。

 九州平定を実現させた了俊に帰服していた九州武士たちにとっては後任の渋川満頼は煙たい存在でしかなく、もともと南朝方であった菊池氏や阿蘇氏、また本来九州支配者を自任し了俊とも対立していた少弐氏などは満頼の赴任に反発した。九州支配の要である筑前は少弐氏が支配しており、満頼は守護国となっていた肥前を拠点にして九州統治を進めなければならなかった。
 満頼は大内義弘の援助を受けて困難な九州統治を進めつつ、朝鮮との外交・交易にも精を出した。「九州都督」「鎮西節度使」といった肩書で、朝鮮王朝から貿易を許可する「図書」を与えられた「受図書人」ともなっている。

 応永13年(1406)に出家し、「道鎮」と号した。さらに応永26年(1419)に九州探題職を息子の渋川義俊に譲ったが、この年の6月に朝鮮軍が倭寇本拠地とみなした対馬へ侵攻する事件(応永の外寇、己亥東征)が発生し、満頼・義俊父子はその対応に追われた。翌応永27年(1420)に朝鮮から室町幕府へ宋希mが使者として派遣され、満頼・義俊父子は博多で宋希mの行き帰りに二度面会してねぎらっている(『老松堂日本行録』)
 その後京都に帰り、文安3年(1446)3月13日に死去。法名は「瑞祥院道鎮秀岳」。

渋川幸子しぶかわ・ゆきこ(さちこ?)1332(正慶元/元弘2)?-1392(明徳3/元中9)
親族父:渋川義季 兄弟:渋川直頼 
夫:足利義詮
子:千寿王
位階従一位
生 涯
―室町政界に影響力を持った女傑―

 渋川義季の娘で、正慶元年(元弘2、1332)の生まれとされる(翌年の生まれとする説もある)。伯母に足利直義の妻・本光院殿がおり、父の義季は建武2年(1335)7月の中先代の乱で戦死している。渋川氏はもともと足利一門の中でも家格が高かったが、こうした事情もあって南北朝時代には特に重きを置かれた。幸子が足利尊氏の嫡男である足利義詮の正室となった時期は不明だが、恐らく義詮が鎌倉で青春時代を過ごした康永〜貞和年間(1342〜1349)の事と推測される。幸子が義詮の妻に選ばれたのは、当時幕府政治の中心にあり、渋川氏の妻をもつ足利直義の意向が大きかったと思われる。

 貞和5年(正平4、1349)に高師直派のクーデターにより足利直義が失脚、足利義詮が鎌倉から京に呼び出されて直義の地位を引き継いで政務にあたることとなった。幸子もこの時から京都住まいになったと思われる。その後「観応の擾乱」と呼ばれる幕府の内戦のさなかに幸子は身ごもり、観応2年(正平6、1351)7月27日に男子を出産した。この男子は義詮の幼名と同じく「千寿王」と名付けられ、光厳上皇から祝いの太刀も賜っているが、この時期はちょうど尊氏・直義両派の一時的和睦が決裂し、直義が京を出奔、尊氏・義詮が出陣の態勢をとるという実に慌ただしい状況であった。
 その後も尊氏の関東出陣、たび重なる南朝軍の京都占領など情勢は変転を繰り返し、そのさなかの文和4年(正平10、1355)7月22日に千寿王は5歳で夭折してしまっている。結局幸子はその後子宝には恵まれなかった。

 後継ぎとなるべき男子を失ったことで義詮も幸子だけをあてにはできなくなったのだろう。延文元年(正平11、1356)ごろから善法寺通清の娘、紀良子を側室とし、翌延文2年(正平12、1357)5月に良子が男子を産んでいる(これが柏庭清祖とみられる)。だが正室である幸子の立場は強固なままで、良子はあくまで義詮の「愛物」(現代語の「愛人」のニュアンスに近い)と見られていたことが公家の日記から知られる。義詮も幸子をはばかって良子の扱いを軽いものとしていたのかもしれない。さらに翌延文3年(正平13、1358)8月に良子は春王、のちの足利義満を産み、結局この義満が義詮の後継者となるのだが、幸子は義詮正室であると同時に義満およびその同母弟満詮の公式な「母親」として振る舞い、義詮が病弱ということもあって政界における影響力をむしろ高めていたようである。貞治4年(正平20、1365)8月に幸子の甥の渋川義行が18歳の若さで九州探題に任じられているのも幸子の意向が大きかったとみられている(ただし義行は九州に入ることすらできず何ら成果を上げられなかった)

 貞治6年(正平22、1367)12月7日に足利義詮が死去、三代将軍義満の時代となった。これ以後幸子は出家して「大方禅尼」あるいは「大御所渋川殿」と呼ばれ、将軍義満の養母・後見役としていっそうその重要性を増した。義満も生母よりも公式な「母」である幸子に孝養を尽くしたとされ、応安7年(文中3、1374)6月に良子が出奔騒動を起こしたのも幸子との関係で不満があったためと見られる。
 幼い義満の政治面での後見役にして父親代わりは管領の細川頼之であったが、幸子は頼之の政敵である斯波義将と深く結びつき、頼之に対抗して幕政に大きな影響力を持った。特に彼女の存在が大きく浮かびあがったのは、応安3年(建徳元、1370)に起こった北朝の皇位継承問題の時である。この時在位していた後光厳天皇は、かつて南朝軍に兄の崇光上皇らが拉致された際に緊急措置として即位させられた経緯があり、崇光上皇側は次の天皇には崇光の子・栄仁親王を望んでいた。だが後光厳は自身の子・緒仁親王の即位を望んで激しく対立していたのである。後光厳は緒仁即位の意向を書状で頼之に示し、頼之がその書状の内容を「尼二品」こと幸子にも教えたらしいとの推測を後光厳自身が日記に記している。
 ところが崇光側も逆襲し、特に幸子に強く働きかけた。これにより幸子は栄仁即位を支持するようになり、幸子に影響された大名たち(ほぼ斯波派であろう)も緒仁即位に傾く頼之を「えこひいき」と非難した。そこで頼之は10月1日に後光厳に申し入れて、崇光・後光厳の父親である光厳上皇の遺言書を借り受け、これを幸子に直接見せて説得した(後光厳の日記による)。これに幸子も折れて緒仁(後円融天皇)の即位が決定した。結果的には頼之に押し切られたとはいえ、幸子の影響力の大きさが良く分かる逸話である。
 この年には幸子の甥・義行が九州探題を解任され、後任に頼之の腹心である今川了俊が任じられる一幕もあり、これも頼之と幸子の権力闘争の一コマと言えよう。のち康暦元年(天授5、1379)に細川頼之が失脚、斯波義将が管領となる「政権交代」が起こるが、直接的史料はないものの、その背後に幸子の存在があった可能性は高い。

 永徳元年(弘和元、1381)3月に後円融天皇が将軍邸・室町第に行幸し、このとき幸子は義満の姑である日野宣子と共に「従一位」を授けられ位を極めた。これも義満の公式の「母親」であったためである(生母の良子はこのとき従二位を授けられた)
 明徳3年(元中9、1392)6月25日に死去、享年六十一とされる(同年に宿敵ともいえる細川頼之も死去した)。等持院で荼毘に付され、嵯峨香厳院に葬られて「香厳院殿」と贈り名された。南北朝合一が成るのはこの年の閏10月のことである。

参考文献
佐藤進一『南北朝の動乱』(中公文庫)
臼井信義『足利義満』(吉川弘文館・人物叢書)
小川信『細川頼之』(吉川弘文館・人物叢書)
小川剛生『足利義満・公武に君臨した室町将軍』ほか
歴史小説では足利義満を主人公とする平岩弓枝『獅子の座』で、皇位継承問題に幸子が絡む部分がある。 

渋川義季しぶかわ・よしすえ1314(正和3)-1335(建武2)
親族父:渋川貞頼 兄弟:足利直義の妻(本光院殿) 
子:渋川直頼・渋川幸子(足利義詮正室)
官職式部丞、刑部大輔
位階従五位下
建武の新政鎌倉将軍府関東廂番一番頭人
生 涯
―中先代の乱で散った直義義弟―

 足利一門である渋川氏の第四代当主で、渋川貞頼の子。7歳年上の姉は足利直義の妻となっており、足利兄弟にとっては義理の弟にあたる武将であった。
 鎌倉幕府打倒に足利尊氏が立ち上がった時に一門としてこれに参加したとみられるが、それを示す直接的な資料はない。幕府滅亡後、建武政権により鎌倉に置かれた鎌倉将軍府のもとで関東廂番の一番頭人となり、鎌倉将軍府の実質的首脳であった義兄の足利直義を補佐した。建武元年(1334)3月9日に北条残党の本間・渋谷一族らが鎌倉奪還を目指して侵入する事件が起こり、このとき渋川義季が兵を率いてこれを極楽寺前にて撃退している。

 翌建武2年(1335)7月に北条時行諏訪頼重らに奉じられて信濃で挙兵、たちまち大軍となって鎌倉へ押し寄せた(中先代の乱)。直義を支える腹心として、廂番一番頭人の義季と二番頭人の岩松経家が迎撃に出たが、7月22日に武蔵国女影原で戦って敗北、二人そろって自害して果てた。義季はまだこのとき22歳の若武者であった。『太平記』異本の一つに伝わる挿話によると、義季は自害にあたって新参者の家臣の一人に「お前は私に仕えて間もないし見知ったものもいないだろうから、一緒に死ぬには及ばぬ。合戦と私の最期の模様を直義どのに伝えてくれ。あとは好きにせよ」と命じたが、その家臣は「情けないことをおっしゃる。武士に古参も新参もありますまい。私を未練がましい者とお思いか」と真っ先に腹を切ったという。
 義季の生涯はこうしてあっけなく幕を閉じたが、その死に対する褒賞として渋川氏はその後も足利一門の中で重視された。娘の渋川幸子は尊氏の嫡男で室町幕府第二代将軍・足利義詮の正室となり、三代将軍・義満時代に権勢をふるうことうになる。

参考文献
佐藤進一「南北朝の動乱」(中公文庫)ほか
大河ドラマ「太平記」ドラマ中への登場はないが第31回の中先代の乱の情報が伝わるくだりで岩松らと共に名前が言及される。
PCエンジンCD版ゲーム開始時点ではすでに戦死しているはずだが、なぜかゲーム途中から足利軍の中に出現する。初登場時のデータは統率39・戦闘89・忠誠37・婆沙羅50
メガドライブ版足利帖でプレイすると、なぜか六波羅攻撃のシナリオと、その次の中先代の乱のシナリオで登場する。能力は体力65・武力131・智力50・人徳19・攻撃力112。人徳が異様に低い理由は不明。 

渋川義行しぶかわ・よしゆき1348(貞和4/正平3)-1375(永和元/天授元)
親族父:渋川直頼 母:高師直の娘
子:渋川満頼・渋川義長・渋川満行・吉良満貞室
官職右兵衛佐・武蔵守
幕府備後・備中守護、九州探題
生 涯
―九州に入れなかった九州探題―

 渋川直頼の子で幼名は「金王丸」。延文元年(1356、正平11)7月に父が22歳で若死にし、9歳で家督を継ぐ。伯母に二代将軍・足利義詮の正室・幸子があって幕政に影響力を持っていたため、義行は貞治4年(正平20、1365)8月に18歳の若さで九州探題に抜擢されている。
 ただしこの時期、幕府の九州支配を任されるはずの九州探題は有名無実の存在であった。当時九州では南朝の懐良親王の征西将軍府の勢いが盛んで、一色範氏一色直氏斯波氏経と九州探題は三代続けて九州から追い出される状況であった。義行は備後・備中の守護職にも任じられて、ここを拠点に九州侵攻を企図したようだが、九州各地の武士に書状を送って「いずれ九州入りする」と呼びかけるだけで、一向に実現できなかった。懐良親王と菊池氏の勢いもさることながら、やはり若年の義行には荷が重すぎる任務だったのだろう。
 結局応安3年(建徳2、1370)に義行は成果のないまま九州探題を解任され、京へ戻った。後任が今川了俊で、彼が九州入りするなり目覚ましい成果をあげることからも、義行の無能さが際立つ結果となっている。

 それから5年後の永和元年(天授元、1375)8月11日に28歳の若さで死去した。法名を「道祐」という。息子の満頼がのちに了俊の後任として九州探題になり、備後守護職ともども渋川氏の世襲となってゆく。

島津(しまづ)氏
 鎌倉時代以来、幕末に至るまで薩摩・大隅を息長く支配し続けた大名家。源頼朝に薩摩・大隅・日向三国の守護職を任された島津忠久に始まり、南北朝時代には主に北朝方に属して戦うが、一方で室町幕府の支配には抵抗する独立志向も見せた。南北朝期に「総州家」「奥州家」に分割相続され対立も起こったが、室町時代に再統一され、戦国時代に勢力を拡大、最盛期には九州全土を支配する勢いとなったが豊臣秀吉に降伏。関ヶ原の戦いでは西軍に属したが薩摩・大隅支配は維持され、まもなく琉球王国をも支配下に置いた。江戸時代には薩摩藩として雄藩の一角をなし、幕末には江戸幕府打倒・明治政府樹立の中心となった。





┌頼久→川上

島津忠久┬ 忠綱→越前島津
宗久



└ 忠時┬忠経─俊忠→伊集院師久伊久─守久─久世


└久経─忠宗
貞久氏久元久




├忠氏─→和泉└久豊─忠国─立久



├忠光─→佐多





├時久─→新納





├資久─→樺山





├資忠─→北郷





└久泰─→石坂



島津氏久しまづ・うじひさ1328(嘉暦3)-1387(嘉慶元/元中4)
親族父:島津貞久 母:大友親時の娘
兄弟:川上頼久・島津宗久・島津師久
妻:伊集院忠国の娘・佐多忠光の娘
子:島津元久・島津久豊
官職左衛門尉・修理亮・越後守・陸奥守
幕府大隅守護
生 涯
―島津奥州家初代―

 島津貞久の四男で、母親は大友親時の娘。同母兄弟に島津宗久島津師久がいる。通り名は「又三郎」。九州の南北朝動乱では父に従って足利尊氏方につき、南朝の懐良親王菊池武光足利直義の養子である足利直冬らの勢力と対抗して南九州各地で戦った。懐良の南朝勢が優勢となると、旧直義派の日向守護・畠山直顕に対抗する必要から、延文元年(正平11、1356)10月ごろ兄の師久と共に一時的に南朝側について行動したこともあったが、延文5年(正平15、1360)に幕府側に帰参した。

 貞治2年(正平18、1363)4月に死期の迫った父・貞氏から大隅守護職および薩摩国鹿児島や指宿の地頭職を譲られる。兄の師久は薩摩守護職と島津家家督を譲り受け、上総介である師久の系統は「総州家」、陸奥守である氏久の系統は「奥州家」と呼ばれ、島津家はこの両家が薩摩・大隅を分担する二頭体制となった。氏久は居城を大隅の大姶良城に置き、さらに日向の志布志城へも進出して勢力を拡大した。
 応安5年(文中元、1372)に薩摩の南朝勢力が攻勢に出て師久の碇山城を囲むと、氏久は志布志から碇山に救援に駆けつけ、総州家の危機を救っている。

 この年、幕府から九州平定の任務を帯びて下向してきた今川了俊が大宰府を攻め落とし、懐良親王の南朝方を圧倒し始める。氏久や師久とその子・伊久ら島津一族もこれに呼応し、特に氏久は了俊と密接に連絡をとりあい、部下たちの所領安堵を幕府に仲介するよう求めたり、先祖の錦の直垂の使用許可を求めるなどしている。この時期、師久はすでに出家していてしかも健康を害していた可能性があり、その子・伊久も若かったことから、了俊は氏久を島津一族の実質的指導者とみて優遇していたようである。
 
 この時期、氏久は明との交易に乗り出すという行動まで見せている。明の洪武7年(1374=応安7/文中3)6月に「島津越後守臣氏久」と名乗る者が派遣した僧・道幸と通事(通訳)・尤虔らの使節が首都・南京を訪れたとの記録が明側にあるのだ。明側は基本的に「臣下に外交なし」という原則をとっていて、同じ月に来明した足利義満の使節すら門前払いしており、地方領主に過ぎない氏久の使節も当然追い返された。ただし遠路の来訪をねぎらって文綺・紗羅や銭布などの品物を下賜されており、交易についてはまったく無駄になったようでもない。
 この時期、明では懐良親王のことと思われる「良懐」を「日本国王」と認めており、それ以外の者が送って来る使節は正式なものと認めていなかった。氏久の使節が追い返されたのち、「日本国王良懐」名義の使節が何度も明に派遣されているが、この時期には懐良の南朝勢力も衰退の一途をたどっていてとても外交使節を送る余裕はありそうになく、実際には「良懐」の名を称した別人が派遣したものとみられている。中でも洪武12年(1379)閏5月に来明した「良懐」派遣の使節のなかに以前氏久使節に参加していた「通事・尤虔」の名があり、これも実際には氏久が派遣したものと推測されている。このほかの「良懐」使節にも氏久が関与していた可能性はあり、氏久がなぜここまで積極的に外交・交易活動に入れ込んでいたのか、興味深いところではある。

―水島の変で激怒、今川了俊との対立―

 永和元年(天授元、1375)7月、了俊は肥後水島に布陣して南朝方の菊池氏にとどめを刺そうとした。了俊はこの重要な局面に「九州三人衆」と呼ばれた島津・大友・少弐の三者を招集し、氏久もこれに応じて大友親世と共に8月11日に水島に参陣した。ところが少弐冬は了俊の真意を疑ったか参陣せず、了俊は氏久に冬資を呼び出すよう依頼した。氏久はどうにか冬資を説得して水島に参陣させることに成功するが、8月26日、到着した資冬をねぎらう宴の席で、了俊はいきなり冬資を殺害してしまう(水島の変)
 了俊の背信行為に氏久は「九州三人、面目を失う」と激怒し、すぐさま軍を率いて大隅へ帰ってしまった。了俊は筑後守護職をエサに説得を試みたが氏久をひきとめることはできず、大友親世をひきとめるのが精一杯だった。翌永和2年(天授2、1376)8月までに了俊は氏久および伊久の説得をあきらめて「凶徒」と呼び、両者から薩摩・大隅守護職を取り上げて自らがその職を兼任した。そして息子の今川満範を南九州に派遣し、その指揮下に禰寝氏ら大隅国内の反島津勢力に一揆を結ばせて氏久に抵抗させた。

 氏久は了俊とは激しく対立しつつも完全に南朝方についたというわけでもなく、永和3年(天授3、1377)末には日向守護職を餌にちらつかせた了俊に帰参する姿勢を示したり、翌永和4年(天授4、1378)には知人の僧侶を通じて探題を通さず幕府に直接はたらきかけて守護職を取り戻す運動を行うなど、複雑な動きを見せてもいる。このころ氏久は出家して「玄久」と号している。
 永和5年(天授5、1379)3月、今川満範が大隅国人一揆勢力を率いて、島津一族の北郷義久らの守る都之城を包囲した。氏久は志布志から出陣して都之城救援に向かい、激戦の末に今川軍を退けた(蓑原の戦い)

 永徳元年(弘和元、1381)中ごろまで了俊と敵対関係にあった氏久だったが、この年の暮には了俊と和解の姿勢を見せたようで、永徳2年(弘和2、1382)に入ると伊久と共にひとまず幕府方に帰参した。ただし了俊は伊久に薩摩守護職を任せつつ氏久には大隅守護職を認めず、大隅の武士たちを率いることなく氏久もしくは息子の元久が自軍のみを率いて八代の南朝方を攻撃せよと命じる(氏久が応じた気配はない)など、その野心に対する警戒を解かなかった。結局至徳元年(元中元、1384)になって元久に大隅守護職が認められているが、翌至徳2年(元中2、1385)にはまた南朝方についたとして元久は守護職を再び取り上げられている。
 このように了俊とつかず離れずの巧みな渡り合いを繰り広げた氏久は、大隅国内の反島津国人一揆を崩壊に追い込み、大隅を自身の守護領国へと変えて行った。

 嘉慶元年(元中4、1387)閏5月4日、氏久は鹿児島において60歳で死去した。法名は「玄久齢岳」といい、墓は志布志の即心院跡、大姶良の竜翔寺跡、鹿児島の福昌寺跡にある。馬術の名手としても知られ、『在轡集』という著作も残した。

参考文献
佐藤進一「室町幕府守護制度の研究(下)」(東京大学出版会)
川添昭二「今川了俊」(吉川弘文館人物叢書)
西山正徳「薩摩・大隅守護職」(高城書房)ほか
歴史小説では西山正徳『薩摩・大隅守護職』で登場しており、父・貞久死後は氏久が実質的な主役となっていて、了俊との渡り合いや明との交易などが簡単ながら描かれている。
PCエンジンHu版シナリオ2「南北朝の大乱」で薩摩・千台城に北朝方武将として登場する。能力は「長刀4」

島津伊久しまづ・これひさ1347(貞和3/正平2)-1407(応永14)
親族父:島津師久
兄弟:碇山久安・新納久吉
子:島津守久・島津忠朝・島津久照
官職上総介
幕府薩摩守護
生 涯
―薩摩の領国化を進める―

 島津総州家の初代・島津師久の子。応安元年(正平23、1368)に父・師久の出家を受けて薩摩守護職を引き継いだ。父と同様に薩摩の幕府方の中心として、南朝方の渋谷氏らと戦った。
 永和元年(天授元、1375)8月、九州探題・今川了俊が水島の陣に呼び出した少弐冬を殺害、冬資との仲介にあたった大隅守護・島津氏久(伊久の叔父)はこれに激怒して了俊と敵対関係となった。薩摩の伊久も氏久に同調して了俊に背いて南朝側にまわったため、薩摩守護職を了俊に奪われている。永和2年(天授2、1376)3月に師久が死去し、奥州家の家督を相続する。
 了俊は伊久に薩摩守護職をちらつかせて伊久と氏久を対立させようとしたが、伊久はそれに乗らず、了俊は薩摩の渋谷氏など反島津勢力を糾合させ伊久・氏久を牽制した。

 永和3年(天授3、1377)3月、南朝方の菊池武朝からの書状で了俊の肥後での優勢を知った伊久は再び了俊に味方し、翌永和4年(天授4、1378)9月の託摩原の戦いに弟の碇山久安新納久吉を派遣して了俊を応援している。しかし大隅の氏久ともども完全に了俊に服属する姿勢は見せず、和解と敵対の姿勢を繰り返した。
 永徳2年(弘和2、1382)に伊久はまたも氏久ともども幕府方に帰参し、八代の南朝方攻撃に息子を参加させ、その功績を認められて薩摩守護職を取り返した。その後嘉慶元年(元中4、1387)にまた南朝方にまわって守護職を奪われるが、九州南朝勢力がほぼ再起不能なまでに追い込まれたのを見て、明徳元年(元中7、1390)にはまた幕府方に帰参して薩摩守護に復帰している。

 さて伊久はこのころまでにそれまでの居城・碇山城を嫡男の守久に譲り、自らは川辺郡の平山城に移っていた。一説にこれも伊久・守久父子の間で不和があったためともいい、伊久はひそかに次男の忠朝に家督を譲ろうとしていたともいう。明徳4年(1393)に守久が突然兵を率いて平山城に押し寄せ、父を包囲するという挙に出たのも、そのような動きが実際にあった可能性を感じさせる。
 このとき奥州家の元久が平山に駆けつけて守久を説得、包囲を解かせた。伊久はその恩返しに島津家に伝わる家宝を元久に譲ったとされていて、これがのちのち島津家が奥州家のもとに統一される遠因ともなる。

 南北朝合体が成って九州での戦乱がひとまず終息したのちも、了俊と島津氏の対立は続いた。応永元年(1394)8月にはまたも薩摩守護職は伊久から了俊の手に戻り、了俊は幕府にはたらきかけて島津伊久および元久(氏久の子)の討伐を実行しようとしていた。それと連動するのかどうか、応永2年(1395)4月に伊久は「藤伊久」の名前で朝鮮に使者を贈り、倭寇に拉致された朝鮮被虜人たちを送還し、朝鮮に交渉を求めている(「朝鮮王朝実録」太祖4年4月)。この時期対朝鮮外交も了俊が握るところで、それへの対抗という意図もあったかもしれない。
 その直後の閏7月、今川了俊は足利義満から突然京都に召喚され、そのまま九州探題職を解任された。義満が了俊の九州における権勢を危険視したためと見られるが、大友・島津・大内といった九州の有力大名たちも排除運動をひそかに進めていたようである。8月に島津伊久は大友親世と了俊の解任を喜びあう書状を交わしていて、その中で「水島の陣の面目を回復して本望を達した」とまで書いている。了俊の重しがなくなった伊久は渋谷氏など反島津勢力への攻勢を強めて、薩摩一国の島津家領国化を進めてゆく。

 それまで常に一体で行動してきた総州・奥州の島津両家だったが、南北朝動乱も終わり、了俊も九州から去ったことで共通の敵がいなくなり、奥州家側が鹿児島の清水城に拠点を構えて大隅のみならず薩摩方面へも支配を強めてきたこともあって次第に対立が深まって来た。応永7年(1400)には元久の養子となっていた伊久の三男・久照が離縁されて実家に帰され、翌応永8年(1401)9月にはついに伊久側についた渋谷氏と元久が軍勢を率いて直接合戦に及ぶ事態にもなってしまう。応永11年(1404)に幕府から和睦を進める使者が送られ、一応の和解が成った。

 応永14年(1407)5月4日(4月6日との説もある)、川辺群平佐城において61歳で死去している。

参考文献
佐藤進一「室町幕府守護制度の研究(下)」(東京大学出版会)
川添昭二「今川了俊」(吉川弘文館人物叢書)
西山正徳「薩摩・大隅守護職」(高城書房)ほか
歴史小説では西山正徳『薩摩・大隅守護職』で終盤に登場している。

島津貞久しまづ・さだひさ1269(文永6)-1363(貞治2/正平18)
親族父:島津忠宗 母:三池道智の娘
兄弟:和泉忠氏・佐多忠光・新納時久・樺山資久・北郷資忠・石坂久泰
妻:大友親時の娘
子:川上頼久・島津宗久・島津師久・島津氏久
官職左衛門尉・上総介
幕府薩摩・大隅守護
生 涯
―長命で鎌倉〜南北朝を生き抜く―

 島津氏第五代当主で、第四代当主・島津忠宗の嫡男。文保2年(1318)3月に父・忠宗から家督と所領を譲られたが、このときすでに貞久は49歳と当時の感覚ではかなりの高齢であった。忠宗の死は正中2年(1325)のことである。時期は不明だが出家して「道鑑」の法名を名乗っている。
 元弘3年(正慶2、1333)4月、足利高氏が鎌倉幕府打倒の意思を固め、各地の有力武士に味方につくよう密書を送ったが、このとき島津貞久にもそれが届いた。貞久は少弐貞経大友貞宗らと合流して博多を攻撃、鎮西探題の赤橋英時を攻め滅ぼした。この功績により建武政権から薩摩と豊後に所領を与えられたほか、それまでの薩摩国に加えて日向・大隅の二国の守護職を認められ、島津氏の宿願を実現した。

 建武2年(1335)12月、足利尊氏が関東で建武政権に反旗を翻したため新田義貞を主力とする追討軍が発せられ、島津貞久もその中に加わっている(『太平記』)。だがその後の箱根・竹之下の戦いで追討軍側が敗北、翌建武3年(延元元、1336)正月の京都の攻防戦が展開されるなか、恐らくは尊氏からの誘いを受けてであろう、貞久は足利方に鞍替えした。尊氏がいったん敗北して九州へと落ちる際にも同行し、尊氏から薩摩・大隅の守護職を保証されて九州制圧に協力、尊氏の東上巻き返しを支援した。その後建武4年(延元2、1337)ごろから貞久は在京して嫡男の宗久と共に畿内周辺の戦いに参加していたようである。

 南九州では鎌倉初期に東国から守護として入って来た島津氏の支配に対して、平安以来の在地官人系の豪族たちが不満を抱き南朝側について抵抗するという構図があった。薩摩では谷山隆信指宿忠篤そして島津一門である伊集院忠国、大隅では肝付兼重が南朝方で、吉野の後醍醐天皇のもとから公家の三条泰季が薩摩に派遣されて彼らの指揮をとっていた。京にあった貞久は本国の息子たちに指示を送り、日向守護の畠山直顕と協力して南朝方と戦わせている。

 暦応3年(興国元、1340)正月に貞久は薩摩に帰国し、直後に嫡男の宗久を不慮の事故で失うという悲劇に見舞われながらも、翌年には東福寺城を落とすなど南朝方へ激しい攻勢をかけた。しかし南朝方の抵抗も強く、康永元年(興国3、1342)には後醍醐の皇子で「征西将軍宮」と呼ばれた懐良親王が薩摩に上陸し、谷山城に入って九州各地の南朝方を奮起させた。すでに七十を越していた貞久は自ら軍を率いて転戦、翌康永2年(興国4、1343)11月には南朝方の拠点のひとつ催馬楽城を奪取して自らの攻勢の拠点とした。
 貞和3年(正平2、1347)6月、南朝に味方する熊野水軍が薩摩に現れ、これと呼応して懐良親王らの南朝方が東福寺城を狙って攻勢を開始した。貞久は南朝軍と一進一退の攻防を繰り広げ、結果的に陸路で肥後入りを目指していた懐良はそれを断念、11月になって海路で肥後入りすることとなった。

 貞和5年(正平4、1349)、足利幕府内で政務をつかさどっていた足利直義高師直のクーデターにより失脚、直義の養子の足利直冬は肥後に逃れた。この直冬を少弐頼尚が擁立し、「観応の擾乱」期の九州は九州探題の一色範氏らの尊氏派、日向の畠山直顕らの直義・直冬派、懐良親王の南朝方と三者鼎立の状態となった。島津貞久は主に尊氏派に属し、尊氏が南朝に投降して「正平の一統」が実現すると南朝方と手を組んで直義派の畠山直顕と戦った。観応3年(=文和元・正平7、1352)7月に直顕が出した書状では「島津上総入道道鑑(貞久)が肥後宮(懐良)の令旨を受けて攻めて来ている」との記述があり、一時的にせよ貞久が懐良の指示を仰いでいた時期もあったようだ。

 このころ貞久はすで80歳を越す高齢であり、文和元年(正平7、1352)には体調不良のために息子の師久氏久それぞれ薩摩・大隅の守護の事務を務めていることが文書から確認できる。文和3年(正平9、1354)の敵味方交名注進も師久・氏久が取り仕切っており、貞久は守護の地位自体は手放さなかったものの守護としての実務は息子たちに譲られていたようである。
 ただ延文元年(正平11、1356)10月に氏久が南朝に投降して三条泰季らと連合し、延文5年(正平15、1360)まで南朝方で活動していた事実があり、貞久自身もそれと無関係でいたとは思われない。ただ貞久が幕府から薩摩・大隅の守護職を取り上げられたことは確認できないという。この時期の九州は懐良親王・菊池武光の南朝方が圧倒的に優勢となっており、元直義派の畠山直顕との対抗上、島津氏は南朝と手を組まざるを得なかったようである。
 康安元年(正平16、1361)6月、貞久は九州探題・斯波氏経に奪われた薩摩・大隅での半済(荘園の収穫の半分を兵糧として守護が徴収する)の権限を元に戻してくれるよう幕府に要請している。結局幕府から色よい返事はなく、これが貞久の守護としての活動の確認できる最後のものとなった。

 貞治2年(正平18、1363)4月、貞久は死が間近に迫ったことを確信したのか置文と譲状を作成した。その中で師久を島津家総領として薩摩守護職を譲ること、氏久には大隅守護職を譲ること、さらに各地の所領の相続についても細かく定めている。全ての手続きを無事に終えたうえで、同年7月3日に貞久は死去した。実に95歳、およそ一世紀にわたる長寿であった(あまりに長命のため出生年を疑う意見もある)。墓は初代忠久からの歴代当主四代が葬られた感応寺(出水市野田)に建てられた。

参考文献
佐藤進一「室町幕府守護制度の研究(下)」(東京大学出版会)
瀬野精一郎「足利直冬」(吉川弘文館人物叢書)
西山正徳「薩摩・大隅守護職」(高城書房)ほか
歴史小説では参考文献にも挙げた西山正徳『薩摩・大隅守護職』は南北朝時代の島津氏の動向を概観したものだが体裁としてはフィクションこみの歴史小説になっていて、ほぼ島津貞久が主役である。
PCエンジンCD版北朝方の有力な独立君主で「薩摩大隅」に登場する。初登場時のデータは統率86・戦闘79・忠誠62・婆沙羅43
PCエンジンHu版シナリオ1「鎌倉幕府の滅亡」で、朝廷方武将として薩摩・千台城に登場する。能力は「長刀6」でかなり強力。
メガドライブ版足利帖でプレイすると多々良浜合戦と湊川合戦、楠木・新田帖でプレイすると湊川合戦のシナリオで足利軍武将として登場する。能力は体力61・武力114・智力85・人徳65・攻撃力90
SSボードゲーム版「武将」クラスで「南九州」地域に登場する。能力は合戦能力1・采配能力6。ユニット裏は三男の島津師久。

島津宗久しまづ・むねひさ1322(元亨2)-1340(暦応2/興国元)
親族父:島津貞久 母:大友親時の娘
兄弟:川上頼久・島津師久・島津氏久
官職左衛門尉
生 涯
―あっけなく若死にした貞久嫡男―

 島津貞久の次男で、母親は大友親時の娘。同母弟に島津師久島津氏久がいる。異母兄に川上頼久がいるが母親の身分から宗久が当初から嫡男とみなされていた。幼名は生松丸という。
 建武4年(延元2、1337)12月に足利直義から要請を受けて大和に出陣して南朝方と戦っている。その後父・貞久と共に母国の薩摩に戻ったが、暦応2年(興国元、1340)正月24日に19歳の若さで急逝した。軍勢を率いて薩摩郡平佐へ赴く途中で落馬したことが原因であったとされる。この不慮の事故により島津家嫡子の座は同母弟の師久にまわることとなった。
 墓は川内隈之城跡にあったが、現在は鹿児島福昌寺跡に改装されているという。

参考文献
西山正徳「薩摩・大隅守護職」(高城書房)ほか
歴史小説では西山正徳『薩摩・大隅守護職』で一部に登場しており、父の貞氏との対話がこまやかに描写されている。その不慮の死も描かれているが、貞氏らが悲嘆にくれたとあるだけで特に細かくは書かれていない。
PCエンジンCD版1337年に元服して父・貞久のいる国に登場する。初登場時のデータは統率73・戦闘87・忠誠88・婆沙羅46

島津元久しまづ・もとひさ1363(貞治2/正平18)-1411(応永18)
親族父:島津氏久 母:伊集院忠国の娘
兄弟:島津元豊
子:守邦仲翁
官職陸奥守
幕府大隅・薩摩・日向守護
生 涯
―南九州三国の守護―

 島津奥州家の初代・島津氏久の子。通り名が「又三郎」、初めは「孝久」と名乗っていた。氏久と共に大隅における島津支配の確立のために戦い、九州探題の今川了俊と対立と接近を繰り返した。至徳元年(元中元、1384)に大隅守護となるが、翌年には幕府に敵対したとして守護職を取り上げられている。嘉慶元年(元中4、1387)に氏久が死去して奥州家を継ぎ、明徳2年(元中8、1391)8月までに幕府方に帰参して大隅守護職を取り戻し、さらには日向守護職まで与えられた。島津氏としては初めての日向守護職だが、これは父の氏久にいずれ与えるとの約束を了俊がしていたためと見られる。

 明徳4年(1393)に薩摩の総州家で内紛が起こり、当主の島津伊久を息子の守久が平山城に包囲するという事件が起こった。元久は平山におもむいて守久を説得して包囲を解かせ、これに感謝した伊久は島津家の家宝を元久に譲ったという。これがのちのち島津家が奥州家により統一される根拠ともされた。

 翌応永元年(1394)に鹿児島に島津家菩提寺となる福昌寺を創建し、一族出身の禅僧・石屋真梁を開山として招いた。また息子で早くから出家していた守邦仲翁を真梁に弟子入りさせて、のちにこの寺の三世としている。彼以外に男子はなく、元久は伊久の三男・氏照を養子に取っていた。このころまでは元久と伊久の関係は良好で、共に出陣して薩摩国内の反島津勢力の討伐にあたってもいる。

 しかし元久が鹿児島の清水城に拠点を構えて薩摩への影響力を強めるようになると、奥州・総州両家は激しく対立し始める。応永7年(1400)に元久は久照と父子の縁を切って実家へ帰してしまう。翌応永8年(1401)9月にはついに元久は伊久側についた渋谷氏と直接合戦に及ぶこととなった。紛争はは額続いたが、応永11年(1404)に幕府から和睦を進める使者が送られて一応の和解が成った。
 応永14年(1407)に伊久が死去すると、応永16年(1409)から元久が薩摩守護職を兼ね、ここに島津家としては初めて薩摩・大隅・日向三国の守護を兼ねることとなった。

 応永17年(1410)6月に元久は上洛して将軍・足利義持に謁見したが、その旅路の途中の日向油津で、長らく不和であった異母弟の久豊と対面し和解する一幕があった。この時点で元久には後継者がなく、親族の伊集院氏から養子をとる話もあったが、久豊はこの和解により奥州家の有力な後継候補として浮上することになる。京に入った元久は6月29日に自らの宿舎に将軍義持を招き、当時名手として名高かった世阿弥の能を共に鑑賞している。大名が将軍を能上演でもてなす初期の例として知られ、元久は七尺の太刀を褒美として世阿弥に与えた。
 翌応永18年(1411)、入来方面へ出陣中に病を得て、8月6日に鹿児島で死去した。享年四十九。法名は「恕翁玄忠」で、墓は自身が創建した福昌寺にある。なお元久の葬儀の場に弟の久豊が乱入して元久の位牌を奪い取り、自ら葬儀を仕切って元久の後継者の地位を確保、やがて伊集院氏の反乱を鎮圧、さらに総州家も滅亡に追い込んで島津氏を統一することになる。

参考文献
佐藤進一「室町幕府守護制度の研究(下)」(東京大学出版会)
川添昭二「今川了俊」(吉川弘文館人物叢書)
今泉淑夫「世阿弥」(吉川弘文館人物叢書)
西山正徳「薩摩・大隅守護職」(高城書房)ほか
歴史小説では西山正徳『薩摩・大隅守護職』で終盤に登場している。

島津師久しまづ・もろひさ1325(正中2)-1376(永和2/天授2)
親族父:島津貞久 母:大友親時の娘
兄弟:川上頼久・島津宗久・島津氏久
子:島津伊久・碇山久安・新納久吉
官職左衛門尉・大夫判官・上総介
幕府薩摩守護
生 涯
―島津総州家初代―

 島津貞久の三男で、母親は大友親時の娘。同母兄弟に島津宗久島津氏久がいる。幼名は生駒丸という。嫡男であった兄の宗久が落馬で急逝してしまったため彼に嫡男の地位が回って来た。
 文和元年(正平7、1352)に父・貞久が体調不良のため(貞久はすでに80歳を越えていた)薩摩守護の職務を代行している。以後、実質的な薩摩守護として行動しているが、父の貞氏の最晩年まで守護の地位にはついていない。弟の氏久も同様に父に代わって大隅の守護の職務を代行している。

 九州では懐良親王菊池武光の率いる南朝勢が優勢となり、日向守護で旧直義派の畠山直顕に対抗する必要から、延文元年(正平11、1356)10月ごろから師久・氏久の島津兄弟は南朝側について行動している。延文5年(正平15、1360)には幕府側に帰参した。
 貞治2年(正平18、1363)4月10日付で父・貞久から薩摩守護職を譲られた。同年7月3日に貞久が死去し、師久が島津家惣領の地位を引き継ぐ。薩摩の師久の子孫は代々「上総介」を称したので「総州家」と呼ばれた。師久は居城をそれまでの木牟礼城から川内の碇山城に移した。
 応安元年(正平23、1368)に師久は出家して「道貞」と号し、息子の島津伊久に薩摩守護職を譲った。応安5年(文中元、1372)に南朝方の渋谷重門らが島津氏の峰城を攻略し、さらに他の南朝勢力を糾合して師久の拠点である碇山城を包囲する事態となり、師久は弟の大隅守護・氏久の救援を受けてこの苦境を乗り切っている。

 この年に九州探題・今川了俊が九州に上陸して各地の武将に味方につくよう呼びかけると、師久・伊久・氏久ら島津一族もこれに呼応した。しかし永和元年(天授元、1375)8月に了俊が「水島の陣」で少弐冬を殺害すると、冬資の仲介役であった氏久は面目を失ったと激怒して了俊に反抗、師久・伊久の奥州家もこれに同調した。
 翌永和2年(天授2、1376)3月21日に碇山城において死去。享年52。墓所ははじめ川内隈之城の称名寺跡にあったが、のちに鹿児島の福昌寺跡に移されている。

参考文献
西山正徳「薩摩・大隅守護職」(高城書房)ほか
歴史小説では西山正徳『薩摩・大隅守護職』で登場しているが、惣領の割に出番は少ない。
SSボードゲーム版父・島津貞久のユニット裏、「武将」クラスで「南九州」地域に登場する。能力は合戦能力1・采配能力5

持明院統(じみょういんとう)=北朝皇室
 後嵯峨天皇の子・後深草天皇から始まる皇室の系統で、北朝および現在にいたる皇室の血脈となる。名前の由来は後深草天皇が持明院家の邸内に住んだことから。鎌倉時代以来幕府寄りであったとされ、天皇親政傾向をもつ大覚寺統(のちの南朝)と対立し、幕府の調停で両統で交互に皇位継承していた。大覚寺統の後醍醐天皇が幕府を打倒して親政を実現すると、持明院統は足利尊氏と連携して皇位を奪還、以後京都にあって後醍醐が吉野に開いた南朝と対抗した。「正平の一統」の際には三種の神器および上皇らを南朝に拉致される危機に陥り、その正統性に弱みを抱えただけでなく持明院統内でも崇光系・後光厳系に分裂して対立することとなった。足利義満により後小松天皇のときに南北朝合体を果たし、その後後小松の子孫が絶えたため崇光系の子孫が皇位を継承して現在にまで至っている。しかし明治以後は南朝が正統という公式見解がとられたため、北朝天皇は歴代天皇表では別扱いにされていることが多い。

後嵯峨(88)後深草(89)伏見(92)後伏見(93)光厳(北1)──崇光(北3)栄仁親王──治仁王┌貞常親王→伏見宮家

光明(北2)
貞成親王───┴後花園(102)

├長助入道親王後光厳(北4)後円融(北5)後小松(北6・100)─称光(101)

尊道入道親王




└c子内親王





花園(95)─直仁親王




└尊円法親王





└久明親王守邦親王





亀山(90)大覚寺統






└宗尊親王┬惟康親王







└真覚──
稙田宮






持明院保世じみょういん・やすよ(やすとき?)生没年不詳
親族父:持明院保有
兄弟:持明院保脩・持明院保冬
娘:細川頼之の妻(玉淵)
官職侍従
生 涯
―細川頼之の舅―

 「持明院家」は藤原北家、藤原道長の次男・頼宗を祖とする中御門流の支流で、11世紀に生きた藤原基頼の子孫を、その邸内に作られた持仏堂が「持明院」と呼んだことからその名がある。この持明院家の屋敷が後深草天皇の御所となったことから、その子孫の皇統を「持明院統」と呼ぶことにもつながっている。

 保世は従二位権中納言・持明院保有の子だが、『尊卑分脈』によると官位は「侍従」としか書かれておらず、母親の身分が低かったとみられる。また「又出家、但還俗人也」との書き込みもあり、いったん出家して還俗した経歴を持つことも分かる。
 彼自身についての情報はこのくらいしかないが、彼の娘が管領・細川頼之の妻であり、足利義満の乳母となった女性である。彼女と頼之がいかなる縁で結ばれたのかは分からないが、保世の弟・保脩の娘も山名氏清に嫁いでいるので、こうした中流公家の女性が有力武将に嫁ぐケースは多かったということかもしれない。

釈迦堂殿しゃかどうどの?-1338(暦応元/延元3)
親族父:金沢顕時 母:無着(安達泰盛の娘) 
兄弟姉妹:金沢貞顕、顕弁、甘縄顕実、式部大夫時雄、顕景、名越時如室、千葉胤宗室
夫:足利貞氏 子:足利高義
生 涯
―足利貞氏の正室―

 北条一族・金沢氏に生まれ、足利貞氏に嫁いだ女性。名は伝わらず、「釈迦堂殿」というおくり名だけが伝わる。貞和5年(正平4、1349)6月11日付の「資寿院置文」(夢窓疎石の署名がある)によれば金沢顕時安達泰盛の娘「無着尼」の間に生まれたことになり、短期間執権となった金沢貞顕の姉妹である。結婚の時期は不明だが、貞氏の年齢からいって永仁年間(1293-1298)ではないかと推測される。足利氏は歴代北条家と政略結婚をしており、これもその一例で、当然彼女は正室とされたはずである。
 二人の間には嫡男・足利高義が生まれているが、これも生まれた時期が不明である。高義の数少ない事跡から永仁の末ごろではないかと推測される。この高義は足利家督を継ぐまでに成長したが、それから間もなく文保元年(1318)ごろに死去したらしい。貞氏のあとを継いだ高氏(のちの尊氏)は貞氏の側室・上杉清子が産んだ子である。
 「釈迦堂殿」は息子・高義の菩提を弔うため鎌倉浄妙寺の隣に「延福寺」を建立している。その後の事跡はまったく伝わらないが、暦応元年(延文3、1338)9月9日に亡くなったことが「稲荷山浄妙禅寺略記」に記されている。夫・貞氏は元弘元年(1331)に死去、それらから二年足らずのうちに足利家の寝返りで北条一族は滅亡した。そして義理の息子である尊氏が征夷大将軍に就任するのを見届けてからこの世を去ったことになる。

参考文献
清水克行「足利尊氏の家族」(新人物往来社『足利尊氏のすべて』所収)
永井晋『金沢貞顕』(吉川弘文館人物叢書)
山家浩樹 「無外如大と無着」(『金沢文庫研究』第301号)
大河ドラマ「太平記」第1回に「貞氏の正室」の役名で登場(演:横山リエ)。足利貞氏が金沢貞顕の館を訪ねると酒を飲み侍女と双六に興じる正室の姿が目に入る。精神を病んでいるかのようにも見える。貞顕のセリフでは彼の妹であり、貞氏にすでに家女房として上杉清子がいたのに北条貞時によって強引に結婚させられ、結局性格不一致で別居したらしい。ドラマではカットされたが当初のシナリオでは、貞顕は子供のころから貞氏と妹の性格を知りぬいていて結婚の破綻を予想していたこと、貞氏は自邸に引き取ろうとしているが貞顕が妹の精神のためにもここにいた方がいいと答えるセリフがあった。

周孟仁しゅうもうじん生没年不詳
生 涯
―高麗への使僧―

 九州探題・今川了俊に近い人物と思われるが詳細は不明である。名前から察するに中国からの渡来人で、博多に在住していたものと思われる。当時明の成立で朱元璋に敗れた勢力の関係者が日本に亡命するケースがあったので、彼もそんな亡命者の一人であったのかもしれない。
 永和3年(天授3、1377)に倭寇禁圧を求めるため鄭夢周らの使者が博多を訪れた。了俊は彼を大いに歓待し、翌永和4年(天授4、1378)7月に鄭夢周が帰国するにあたってこの周孟仁を使者として同行させ、倭寇にさらわれた高麗人数百人を送還している(「高麗史」)。周孟仁がなぜ起用されたか、具体的に何をしたのかは不明だが、恐らく中国人で漢文による外交交渉ができることを買われたものと思われる。

参考文献
関周一『「中華」の再建と南北朝内乱』(吉川弘文館「日本の対外関係4・倭寇と「日本国王」所収)
川添昭二『今川了俊』(吉川弘文館・人物叢書)ほか

春屋妙葩しゅんおく・みょうは1311(応長元)-1388(嘉慶2/元中5)
親族叔父:夢窓疎石
生 涯
―権勢をふるった夢窓の甥にして後継者―

 甲斐国出身で、鎌倉末から南北朝時代に絶大な尊崇を集めた禅僧・夢窓疎石が母方の伯父にあたる。三歳の時に母に連れられて甲斐の浄居寺に行き、母の兄弟である夢窓に初めて出会う。七歳の時に美濃国の永保寺にいた夢窓を訪ねてその童僧として仕えるようになった。夢窓に従って三浦に移り、一時故郷に帰ったが正中2年(1324)に夢窓が後醍醐天皇に招かれて京の南禅寺の住持となると春屋もそれに従った。嘉暦2年(1327)から鎌倉・浄智寺で元からの渡来禅僧・竺仙梵僊に学んだほか、清拙正澄らのもとで学んで高い学識を得た。建武2年(1335)より再び京の南禅寺に戻って夢窓を補佐、夢窓の天龍寺創建など実務で力をふるって夢窓派の権勢拡大に大いに貢献した。

 観応2年(正平6、1351)9月に夢窓が死去すると、天龍寺二世住持の無極志玄を補佐し、夢窓後継者への階段を昇ってゆく。延文2年(1357)に等持寺の住持となり、翌延文3年(正平13、1358)に天龍寺が火災に見舞われると春屋はその再建の指揮にあたった。延文4年(正平14、1359)には鎌倉公方・足利基氏の要請を受けて義堂周信ら夢窓派禅僧を関東に派遣している。
 康安元年(正平16、1361)に今度は臨川寺が火災に見舞われるとその住持となって、やはりその復興に尽力して寺院経営の手腕を示した。貞治2年(1363)9月には大光明寺、さらに11月には天龍寺の十世住持となったが、貞治6年(正平22、1367)3月に天龍寺がまた火災に見舞われたため、その再建指揮にもあたっている。
 応安元年(正平23、1368)12月には二代将軍・足利義詮の一周忌法要の導師をつとめ、三代将軍・足利義満の帰依を得て当時の禅宗のみならず仏教界全体でももっとも権勢をふるう立場となった。

―細川頼之との確執―

 しかしこうした春屋、および臨済宗勢力の台頭に対しては、旧仏教勢力の反発も強かった。応安元年(正平23、1368)に臨済宗五山のひとつ南禅寺の住持・定山祖禅が比叡山延暦寺を批判する書を著したため、比叡山側は建設されたばかりの南禅寺楼門の破壊と定山および春屋の流刑を要求、ついには日吉神社の神輿をかついで京へ強訴に及ぶ事態となった。春屋は管領の細川頼之と手を組んで幕府の力を借りて比叡山の要求を拒絶し強訴を阻止したが、翌応安2年(正平24、1369)にまた比叡山側が強訴に及んで内裏に神輿を投げ込む事態となり、やむなく頼之は比叡山側に妥協し、7月に南禅寺楼門の破壊を決定した。
 臨済宗側はこれに猛反発して「五山」すべての住持が引退を表明、春屋も天龍寺住持の座を下りて勝光庵にこもって抗議の意を示して細川頼之と決別した。

 応安4年(建徳2、1371)11月に頼之は春屋との和解をはかり、南禅寺住持着任を要請するため何度も春屋と面会しようとしたが、春屋は拒絶を繰り返したあげく丹後の雲門寺に逃げ出した。春屋の弟子たちもそろって頼之との面会を拒絶したため、ついにあきらめた頼之は春屋一派の僧籍を剥奪した。こうした頼之の強硬姿勢に対し、頼之に反発する勢力は春屋に接近し、春屋は反頼之勢力の宗教面でのシンボル的存在となってゆく。春屋は雲門寺に隠棲中は明の使節・趙秩仲猷祖闡無逸克勤らも含めた各方面の人々と詩文のやりとりをするなど文学にいそしみ、それらの作品は『雲門一曲』にまとめられた。

 康暦元年(天授5、1379)閏4月14日、斯波義将ら反頼之派によるクーデター「康暦の政変」が起こって細川頼之が管領職を解任され四国へ去ると、すぐその翌日に丹後波に隠棲していたはずの春屋が早くも京の天龍寺に入っている。このことから春屋は政変を事前に知っていたと思われ、以前から反頼之派と連絡をとりあっていたことがうかがえる。閏4月19日に将軍・義満が天龍寺に春屋を訪問、春屋一派は完全に復権して、頼之時代の宗教政策は全て白紙に戻された。
 この年の6月に春屋は義満に請われて南禅寺の住持になる。また京の「五山十刹」の禅宗寺院を統括するために幕府に設けられた「僧録」の初代ともなった。その後も東福寺、宝幡寺、鹿王院など多くの寺の住持を兼任し、絶大な権勢をふるった。

 永徳2年(弘和3、1382)に義満が「相国寺」の創建を思いたち、春屋にその開山となることを要請した。春屋は相国寺の開山にはあくまで師の夢窓をすえることを求め(有名な故人を形式上の「開山」とするケースは多く、とくに夢窓の例が多い)、自らは二世住持となり事実上の開山として協力を約束した。相国寺の完成には十年の歳月がかかり、結局春屋はその完成を見届けることはできなかった。
 翌永徳3年(弘和3、1383)9月に康暦の政変以来初めて細川頼之が上洛、景徳寺で夢窓疎石の三十三回忌法要を行い、春屋がその導師をつとめた。翌年にはやはり頼之によりその父・細川頼春の三十三回忌法要が営まれ、ここでも春屋が導師をつとめているので、このころには両者の対立はひとまず解消していたようである。

 嘉慶2年(元中5、1388)8月13日に七十八歳で死去。後円融天皇から「智覚普明国師」の謚号が贈られている。著書に『雲門一曲』『智覚普明国師語録』があり、五山での出版事業にも力を入れていた。

参考文献
小川信『細川頼之』(吉川弘文館人物叢書)
本郷恵子『将軍権力の発見』(講談社選書メチエ)ほか

春渓尼しゅんけいに
 吉川英治「私本太平記」およびそれを原作とするNHK大河ドラマ「太平記」に登場する人物。
 小説では常葉範貞の妹、なおかつ高時の側室・常葉の前の妹ということになっている。ただ常葉の前は実際には五大院宗繁の妹である。「春渓尼」というキャラクターに何か素材があるのかは確認できないが、吉川自身の「随筆私本太平記」を読むと高時の最期を飾るために創作された人物という空気がある。小説中の説明では姉が高時の側室となったが、彼女も何やら三角関係になっていたと思しく、直後に高時の母・覚海尼のもとで髪をおろして尼となったことになっている。鎌倉が炎上して高時が最期を迎えた時に覚海尼から使者として使わされ、高時の自害を看取る。小説ではこのあと円覚寺で覚海尼ともども自害したことになっている(覚海は実際には自害していない)
 大河ドラマでは第22回「鎌倉炎上」の回のみ登場(演:木村夏江)。吉川の原作とほぼ同じ描写で、高時の最期の舞に謡を歌い、その自害を見とどけてから、円喜にうながされて立ち去っていく。

定快
じょうかい
生没年不詳
生 涯
―笠置防戦にも参加した比叡山の悪僧―

 比叡山延暦寺の悪僧(荒法師)の人。西塔の勝行房に属し、『太平記』では「侍従竪者定快」と記されている。元弘元年(元徳3、1331)8月末に後醍醐天皇が倒幕の挙兵を決意、比叡山がこれに呼応して六波羅探題の軍勢と琵琶湖西岸の唐崎浜で戦った際に参加した僧兵たちの中に定快の名がある。
 その後、当初比叡山に登ったとされた後醍醐が別人であることが発覚したため比叡山は失望、六波羅との戦闘をやめてしまった。だが定快は一部の悪僧らと共に後醍醐がこもる笠置山に馳せ参じ、幕府軍との戦いを続けている。
 笠置落城後の消息は不明。

定山祖禅じょうざん・そぜん1298(永仁6)-1374(応安7/文中3)
生 涯
―比叡山に悪口雑言でケンカを売る―

 相模出身の臨済宗聖一派の禅僧。出家ののち三十年以上の遍歴の末に東福寺の双峰宗源に師事する。後醍醐天皇在位初期の元亨年間に一条経通が東福寺の塔頭であった芬陀院を禅寺に変えて創設し、定山がその開山となっている。その後、大聖寺や博多の承天寺の住持を経て東福寺の第二十七世住持となる。

 さらに京都の臨済宗五山の筆頭である南禅寺の住持となったが、京都仏教界における禅宗の勢力拡大は比叡山延暦寺をはじめとする旧仏教勢力との激しい対立を招いていた。貞治6年(正平22、1367)に延暦寺系の園城寺(三井寺)の童僧が南禅寺の設けた関所を関銭を払わずに通ろうとして殺され、その報復として園城寺側が関所を襲撃して南禅寺の僧二人を殺すという事件が起こった。さらなる報復として南禅寺は幕府にはたらきかけて園城寺の関所を破却させたため、臨済宗と天台宗の対立は頂点に達しようとしていた。

 応安元年(正平23、1368)に定山は『続正法論』を著し、天台宗を含めた他宗派八派を激しく論難した。折も折なのでその筆鋒はすさまじく、「延暦寺の法師らは七社の獮猴(サル)に過ぎぬ。人に似て人に非ず」(延暦寺に属する日吉神社が猿を守り神としていることにひっかけている)とか「園城寺の悪党らは三井の蝦蟇(ガマ)である。畜生の中でももっとも劣る者だ」と悪口の限りを尽くした。
 当然延暦寺側は激高し、8月に定山および臨済宗の指導的立場である春屋妙葩の流刑、および造営中の南禅寺楼門の破壊を朝廷に要求した。朝廷は延暦寺の強訴を恐れてこれを受け入れようとしたが幕府の管領・細川頼之は拒絶し、延暦寺僧兵たちが日吉神社の神輿をかついで京へ強訴に及ぶ事態となった。延暦寺をなだめるために朝廷と幕府は定山の流刑のみは受け入れることとしたため、11月27日に定山は遠江に配流となった。しかしこの騒ぎはおさまらず、最終的に南禅寺楼門の破却が実行されることとなり、春屋一派と頼之の亀裂をも招くこととなった。

 応安7年(文中3、1374)11月26日に七十七歳で死去。勅命により「普応円融禅師」と謚された。

参考文献
小川信『細川頼之』(吉川弘文館人物叢書)ほか

成就坊律師じょうじゅぼうりっし生没年不詳
生 涯
―後醍醐に楠木正成を紹介?―

 『太平記』巻三に登場する僧。笠置寺の「衆徒」であったといい、僧兵を率いる存在だったかもしれない。元弘元年(元徳3、1331)8月に後醍醐天皇が京を脱出、笠置山に立てこもって討幕の兵を挙げたとき、後醍醐が「南の木の下に天子の座がある」という夢のお告げを受けて「南の木=楠」と解いて、成就坊律師を呼び出して「このあたりに楠という者はいないか」と尋ねたところ、成就坊は「この近くでそのような者はいないが、河内国金剛山に楠木正成という武勇の士がおります」と答えた、と『太平記』は伝える。この場面で成就坊は正成の名だけでなく、その先祖や生まれた経緯、幼名までも語っていて、正成登場の神秘性を増す役割を演じている。
 むろん夢のお告げが事実とは思えず、後醍醐は以前から正成を知っていた可能性が高い。成就坊も恐らく実在人物で、文観の人脈を通じて正成を良く知っており、そうした背景からこの逸話が生み出されたのだと思われる。

浄俊じょうしゅん?-1334(建武元)
親族父:日野俊光
兄弟:日野資名・日野資朝・柳原資明・三宝院賢俊
生 涯
―粛清された護良親王腹心―

 権大納言・日野俊光の子。父の俊光は持明院統派公家の重鎮だったが、息子たちのうち日野資朝とこの浄俊は大覚寺統=後醍醐天皇派として活動している。
 浄俊についてはその前歴がほとんど不明だが、討幕戦の司令官となった護良親王の側近の一人であったことは間違いなく、『尊卑分脈』に「律師」と表されていることから、他の護良腹心同様に護良が天台座主として比叡山延暦寺にいたころからそのそばにあったものと思われる(似た立場の者に二条家出身の殿ノ法印良忠がいる)。ただし護良と部下たちの活躍を詳細に描く『太平記』に浄俊はまったく登場していない。
 鎌倉幕府が滅ぼされ、後醍醐による親政が開始されると、護良は一時は征夷大将軍に任じられるもののすぐに解任され、足利尊氏阿野廉子らとの対立により次第にその立場を悪くしていった。そして建武元年(1334)10月に護良は後醍醐の命令で捕縛され、11月に鎌倉へ配流となる。主を失った護良側近たちは一定の軍事力も持っていたため建武政権から強く警戒されたらしく、12月に入って一斉に粛清された。『尊卑分脈』では「建武元年十二月誅せられる」とだけ記しており処刑されたことが分かるが、同じく護良腹心の四条隆貞が「打死」と記されていることから、あるいは拠点を襲撃され殺害されるといった状況だったのかもしれない。

聖尋しょうじん生没年不詳
親族父:鷹司基忠
生 涯
―笠置山籠城に加わった高僧―

 関白・太政大臣をつとめた鷹司基忠の子。醍醐寺三宝院に入って出家し、真言宗を学んで阿闍梨(あじゃり)となり、その後奈良に移って東大寺東南院に入った。元応2年(1320)ごろに大伝法院座主、元亨2年(1322)から東大寺別当、これと並行して正中元年(1324)から醍醐寺座主、嘉暦2年(1327)からは東寺長者と、当時の有力な真言系寺院および総合寺院・東大寺の頂点にあった。関白の子という身分も大きかっただろうが、真言密教と深くかかわった後宇多後醍醐の大覚寺統の皇室との結びつきがあったものと考えられる。

 討幕を目指す後醍醐は東大寺・興福寺といった奈良の有力寺院を味方につけようと工作していた。元弘元年(1331)8月に京を脱出した後醍醐はいったん奈良を目指したが、東大寺・興福寺ともに味方につかないことを知って笠置山に立てこもった。後醍醐と連絡をとっていた聖尋は東大寺を動かすことができず(東大寺内でも激しい派閥抗争があったため)、それでやむなく後醍醐に同行して笠置山に入っている。

 9月末に笠置山は幕府軍の攻撃の前に陥落、後醍醐以下多くの公家たち同様に、聖尋も捕えられた。翌年三月ごろに流刑になったことは確実だが、配流先については「太平記」は下総とし、花園上皇の日記や「武家年代記裏書」文観同様に硫黄島(鹿児島県)に、「東南院務次第」は長門としていて、正確なところが分からない。
 幕府滅亡後に帰還して東大寺別当に返り咲いたとする史料もあるらしいが、「東大寺別当次第」にそのような記載はなく、配流後の彼の消息は全く不明というしかない。
大河ドラマ「太平記」第11回に登場(演:寺田宗丸)。笠置山にこもった後醍醐たちが「楠木はまだか」とざわめくなか、「隣国の者ゆえ、その人となりは存じております」と発言、使者をつかわせば味方にくるはず、と進言していた。
歴史小説では吉川英治「私本太平記」の笠置山の場面で登場。上記の大河ドラマの登場シーンはほぼそれをそのまま映像化したもの。

静尊法親王じょうそん(せいそん)・ほうしんのう生没年不詳
親族父:後醍醐天皇 母:遊義門院一条局
生 涯
―但馬に流刑となり大将に奉じられる―

 後醍醐天皇の皇子の一人。『太平記』「第四の宮」とし、護良親王と母親を同じくするとしているが、実際には世良親王と同じく橋本実俊の娘・遊義門院一条局を母親として生まれたものと推定されている。のちに「恵尊」と改名したという。
 早くに出家して聖護院に入り、覚助法親王(後嵯峨天皇皇子)に師事した。聖護院第二十四世門跡となったが、元弘元年(1331)に後醍醐天皇が倒幕の挙兵をして失敗し隠岐に流されると、成人していた皇子は全て流刑に処され、静尊も但馬へ流されて但馬守護の太田守延に預けられた。
 元弘3年(正慶2、1333)に入ると後醍醐が隠岐を脱出し、山陰の武士を味方につけて千種忠顕を大将に京へと攻め寄せると、但馬の太田守延は素早く静尊を奉じて後醍醐方につき、丹波・篠村で忠顕ら山陰軍に合流した。忠顕はこれを喜んで静尊を総大将に押し立てて彼の名で令旨を発行して武士たちの挙兵を促したという(「太平記」)
 ただし『太平記』本文のこのくだりでは静尊のことを「第六の宮」としており、前段と矛盾を生じている(元弘の時に但馬に流された皇子とはしている)。またこのとき実際に「但馬宮」と呼ばれる人物の令旨を受けた武士の軍忠状も存在するが、この「但馬宮」は静尊とは別人とする説もある。
 ともあれ、この「但馬宮」を形式的な総大将とする山陰軍は忠顕の采配のまずさもあって京攻略に失敗する。以後の静尊についての消息は不明である。

参考文献
赤坂恒明「但馬宮令旨考」(「埼玉学園大学紀要」人文学部篇13号)

承鎮法親王しょうちん・ほうしんのう生没年不詳
親族父:彦仁王 母:藤原公親の娘
生 涯
―護良親王の師となった天台座主―

 承久の乱で流刑となった順徳天皇の孫・源彦仁(彦仁王)の子。ただし『天台座主記』『諸門跡伝』では実際は忠房親王(彦仁の子)の子であるとしている。
 天台宗・梶井門跡(現・三千院)の尊忠(承鎮の叔父にあたる)について出家し、正和6年(1317)に後宇多上皇の猶子となって「親王」号を得た(兄弟もしくは父とされる忠房も同じ扱いを受けた)。梶井門跡十八世となって後醍醐天皇皇子・護良親王を弟子に迎え、正中2年(1325)11月に梶井門跡を護良に譲り(このとき所領を護良に譲った譲り状が現存する)、自身は翌正中3年(1326)から比叡山の天台座主百十四世となった。没年は不明。

少弐(しょうに)氏
 平安時代末に武藤資頼が大宰府の次官・「大宰少弐」に任じられ、その子孫が「少弐氏」を称するようになった。元寇の際に奮戦してその功により北九州五カ国の守護をつとめるまでに成長したが、北条氏の鎮西探題に頭を押さえられて対立するようになり、最後には倒幕戦に参加した。南北朝動乱でははじめ足利=北朝方で行動したが、自ら北九州を支配するという野心を隠さず、観応の擾乱では足利直冬を擁立するなど独自の行動も目立ち、南朝の懐良親王・菊池氏と同盟・離反を繰り返した。室町時代から戦国時代にかけても周辺勢力との戦いで滅亡寸前になる事態を繰り返し、ついに永禄年間に竜造寺氏の攻撃で滅亡してしまっている。

少弐資頼─資能┬経資┬盛経貞経頼尚直資┬頼国


└景資
├時経└資法└経貞冬資└頼興



└盛氏

頼澄貞頼─満貞






└頼光


少弐貞経
しょうに・さだつね1272(文永9)-1336(建武3/延元元)
親族父:少弐盛経 子:少弐頼尚
官職大宰少弐、筑後守
建武の新政筑前・筑後・豊前守護
生 涯
―情勢変化に機敏だったが―

 鎌倉以来北九州に根を張った豪族・少弐氏は、蒙古襲来後に鎮西探題を置いて九州支配に乗り出した北条氏に深い敵意を抱いていた。そんな時代に当主となった少弐貞経(出家して「妙慧」と号した)は、後醍醐天皇による倒幕運動が盛り上がりを見せた正慶2年(元弘3、1333)3月に菊池武時阿蘇惟直大友貞宗らと示し合わせて鎮西探題・赤橋英時を攻撃する計画を立てた。3月13日に菊池・阿蘇軍は博多で挙兵し、事前の約束に従って少弐・大友両氏に決起を促す使者を送ったが、貞経はその使者二名を殺害してその首を鎮西探題に届けてしまう。この時点では畿内の後醍醐方が六波羅探題を攻めあぐねて苦戦との情報が伝わっており、少弐・大友はまだ倒幕の時期ではないと判断し逆に鎮西探題に味方して菊池・阿蘇を討って保身を図ろうとしたのである。結局彼らが敵に回ったことで菊池・阿蘇軍は壊滅的な敗北をし、武時も戦死してしまった。
 ところが5月に入り、足利高氏(尊氏)の挙兵により六波羅探題が攻め滅ぼされたとの情報が入った。慌てた貞経は大友貞宗と共に再び鎮西探題攻撃を決意する(菊池氏にも声をかけたが拒絶されたという)。5月25日に少弐・大友軍および九州各地の武士たちが集結して鎮西探題を攻撃、赤橋英時以下一族郎党340人が自害して果てている。この功績により貞経は建武政権から筑前・筑後・豊前の守護職を認められたが、あまりの節操のなさに菊池氏はもちろん、世間の人々も非難をしたと『太平記』は伝えている。

 建武政権はまもなく破綻し、建武2年(1335)には足利尊氏が反旗を翻した。少弐貞経は素早くこれに呼応し、翌建武3年(延元元、1336)2月に尊氏が京都攻防戦に敗れて九州へと落ちのびてくると、貞経はこれを迎え入れる態勢を整え、息子の頼尚を赤間関(現・下関市)まで迎えに行かせた。ところがその留守中の2月28日に建武政権方の菊池武敏・阿蘇惟直の攻撃を受け、拠点の大宰府から有智山(内山)の山寺に移って抗戦した。しかし翌29日についにここは陥落し、貞経は自害して果てた。享年65歳。貞経は死に際して寺の僧に息子・頼尚への遺言を託した。「わしは将軍(尊氏)のために命を捨てる。供養などしてなくてよい。頼尚ら生き残った者たちで心を一つにして将軍に天下を取らせよ。それが一番の供養であり、わしもあの世で浮かばれよう」(「梅松論」)
 貞経の死と同日に尊氏は九州に上陸、3月2日の多々良浜の戦いで菊池軍を破り、九州平定の足がかりを作った。尊氏は貞経の死を悼み、菩提寺に寄進を行っている。

参考文献
杉本尚雄「菊池氏三代」(吉川弘文館・人物叢書)ほか
大河ドラマ「太平記」ドラマでは尊氏の九州平定戦が全てカットされたため登場していない。その代わり第35回の「太平記のふるさと」コーナーでその流れが解説され、少弐貞経が尊氏に呼応し菊池氏に攻め滅ぼされた逸話が紹介されていた。
歴史小説では特に主要人物になるわけではないが、鎮西探題の滅亡時と多々良浜合戦の前後で登場する例は多い。
PCエンジンCD版息子の頼尚に当主を譲っているということなのか、豊後で頼尚の家臣として登場する。初登場時の能力は統率66・戦闘81・忠誠79・婆沙羅40
PCエンジンHu版シナリオ1で筑前大宰府に朝廷方として登場。能力は「騎馬2」

少弐貞頼
しょうに・さだより1372(応安5/文中元)?-1404(応永11)
親族父:少弐頼澄
子:少弐満貞
官職大宰少弐
幕府筑前守護
生 涯
―南北朝合一後も幕府に抵抗―

 少弐頼澄の子。叔父の少弐冬資が九州探題・今川了俊に殺され、父の頼澄は南朝について了俊に敗れ、少弐氏が存亡の危機にある状況で幼くして家督を継いだ。初めは父を継いで南朝方についたとみられるが、南朝勢力の衰退と共に了俊に投降するほかなかったらしい。至徳4=嘉慶元年(元中4、1387)8月に了俊は少弐家家臣の宗氏に筑前守護代の務めを命じ、同年10月10日付で「太宰少弐」宛てに指示を出しており、これが貞頼のこととみられる。
 貞頼としても了俊に複雑な感情はあっただろうが、一族存亡の危機を救ってもらった恩もあったためか大友氏や島津氏に比べれば了俊に従順な態度をとっている。南北朝合一実現後の応永2年(1395年)に了俊が突然京都に召喚され、そのまま探題職を解任された際にも、同じく元南朝方であった菊池武朝ともども了俊のために奔走もしている。

 このため了俊の後任の探題・渋川満頼とは折り合いが悪く、貞頼は菊池武朝と共に抵抗した。応永3年(1397)に幕府の名を受けて大内義弘が弟の大内満弘を派遣して貞頼らを討たせたが、逆に満弘が戦死することになってしまった。結局この戦いは足利義満の仲介により和睦に至るが、一説に貞頼・武朝の抵抗は義弘の力を削ぎたい義満が裏からけしかけたとも言われ、そう信じた義弘は応永6年(1399)に「応永の乱」を起こして敗死する。

 貞頼はその後も菊池氏と組んで渋川・大内両氏と抗争を続け、応永11年(1404)正月に渋川満頼を打ち破り、5月にも戦いを交えたが、その直後の6月21日に急逝した。一説に享年三十三という。
 貞頼の死後は息子の満貞が継ぎ、少弐・大内間の抗争は戦国時代にかけて延々と続いていくことになる。

参考文献
川添昭二『今川了俊』(吉川弘文館・人物叢書)ほか

少弐直資
しょうに・ただすけ?-1359(延文4/正平14)
親族父:少弐頼尚 兄弟:少弐冬資・少弐頼澄
子:少弐頼国・少弐頼興
官職大宰少弐
生 涯
―大保原合戦で戦死―

 少弐頼尚の長男。『太平記』には「忠資」と書かれているが、頼尚が婿に迎えて擁立した足利直冬から一字を授けられて「直資」と称したものとみられる。また同じく『太平記』では「新大宰少弐」と官職が書かれており、父から家督を譲られていたとみられる。
 延文4年(正平14、1359)8月6日に少弐軍は懐良親王菊池武光ら南朝軍と筑後川のほとり大保原で激突した。このとき菊池軍は先年に頼尚が「七代のちまで菊池には弓を引かぬ」と誓った起請文をつけた旗を掲げて嘲笑い、その旗を立てて菊池二郎(武明?)が先陣を切ると、直資が五十余騎を率いて迎え撃ったもののたちまち撃破され、退却戦のうちに直資自身も敵に組まれて討ち取られてしまった。『太平記』は「父が起請や子に負けん(父親の誓いが子にたたったのか)」と記している。
 系図類によると息子が二人いたとみられるが、家督は弟の冬資に引き継がれた。

参考文献
杉本尚雄「菊池氏三代」(吉川弘文館・人物叢書)ほか

少弐冬資
しょうに・ふゆすけ1333(正慶2/元弘3)?-1375(永和元/天授元)
親族父:少弐頼尚 兄弟:少弐直資・少弐頼澄
官職大宰少弐
幕府筑前・肥前・対馬守護
生 涯
―水島の陣で謀殺される―

 少弐頼尚の次男。通称を「孫次郎」、出家して「存覚」と号した。「冬資」の名は、一時頼尚が婿に迎えて擁立していた足利直冬の一字を与えられたものとみられる。延文4年(正平14、1359)8月の「大保原の戦い」で兄・直資が戦死したため少弐の家督を継ぐことになった。延文5年(正平15、1360)頃に父・頼尚が出家しており、康安元年(正平16、1361)から冬資が「大宰少弐」の官名で文書を発行している。しかしこの年に懐良親王菊池武光の南朝軍が大宰府を攻め落とし、九州における覇権を確立、少弐は押されっぱなしであった。
 幕府は九州探題として斯波氏経を派遣、冬資はこれと連携して態勢挽回をはかったが、貞治元年(正平17、1362)9月の長者原の戦いで敗北。氏経は九州から追い出され、10年ほど九州は南朝の征西将軍府の支配下に置かれた。

 冬資は豊前を拠点に失地回復をはかりつつ、幕府に新たな九州探題の派遣を求めた。しかし斯波氏経の後任の九州探題・渋川義行は一度も九州に入れないありさまで、冬資も幕府にはたらきかけるためか一度京に上っている(父の頼尚もこのころ京にいた)。応安3年(建徳元、1370)に新たな探題に今川了俊が決定し、冬資はその先触れとして11月に九州へと戻った。
 応安4年(建徳2、1371)末に了俊はついに九州に上陸、翌応安5年(文中元、1372)8月に大宰府を陥落させた。これは少弐氏にとってはかねてより念願の展開であったが、北九州の支配権確立が悲願である少弐氏にとっては了俊は新たな支配者、目の上のたんこぶでもあった。例えば応安6年(文中2、1373)に冬資は宗像大社から所領を横領したと訴えられ、了俊は宗像社側の主張をいれて冬資の行為を「押妨」と断じている。このほかにも筑前守護としてふるまおうとする冬資と九州全体の総指揮官である了俊は様々な場面で衝突を起こしていたとみられる。このため冬資は父・頼尚と同様にひそかに南朝方について了俊を排除する動きをしていた可能性も高い。少なくとも了俊はそれを疑っていた。

 永和元年(天授元、1375)7月、菊池氏ら南朝勢を本拠地・菊池に追い込んだ了俊は肥後・水島に陣を張った。そして「九州三人衆」である少弐冬資・大友親世島津氏久の三名を水島に召喚した。8月11日までに大友・島津の二名は水島に参陣したが、冬資だけは了俊の真意を疑ったのか赴かなかった。了俊に命じられた島津氏久が冬資を説得し、ようやく8月26日になって冬資は水島に参陣した。
 ところがまさにその直後、冬資の到着をねぎらう宴の席で、了俊の指示を受けた山内某が冬資に飛びかかって押し倒し、了俊の弟・今川仲秋が冬資を刺し殺してしまった。了俊は氏久らに対し、「冬資は南朝に通じている。九州の乱れの主な原因はこれである」と冬資殺害の理由を伝えたが、氏久は「九州三人衆の面目を失った」と激怒して帰国、以後了俊に敵対するようになる。了俊もこの事件のために菊池氏にとどめを刺せずに撤退を余儀なくされた(水島の変)

 了俊の冬資殺害は果断と言うより暴挙と言ってもよいものだが、それだけ少弐氏が厄介な存在であったということでもあろう。冬資の死後、少弐氏家督は南朝方についていた弟の頼澄が引き継いだ。

参考文献
川添昭二『今川了俊』(吉川弘文館・人物叢書)ほか
SSボードゲーム版父・頼尚のユニット裏で、中立の「武将」クラス、勢力範囲は北九州。合戦能力1・采配能力4

少弐頼澄
しょうに・よりずみ生没年不詳
親族父:少弐頼尚 兄弟:少弐直資・少弐冬資
官職大宰少弐
南朝筑前守護?
生 涯
―南朝方で奮戦―

 少弐頼尚の三男。詳細は不明ながら、兄・冬資が少弐氏当主になっている時期から兄に対抗して懐良親王ら南朝方に走っていた形跡がある(同様のケースは全国の氏族にみられる)。また少弐氏自体が幕府に対して反復常ない態度をとっていて、初めから南朝方と連絡をとる「二股」をかけていたのでは、との見方もある。実際、頼澄の行動は九州探題・今川了俊にはそう見えたようで、天授元年(天授元、1375)8月に水島の陣に冬資を招いて殺害してしまっている。
 兄の暗殺により少弐氏家督を引き継いだ頼澄だったが、翌天授2年(永和2、1376)正月にたてこもっていた大宰府有智山城を了俊および大内義弘大友親世らの連合軍に攻められて大敗、肥前方面に逃れてその後の消息は知れない。

参考文献
川添昭二『今川了俊』(吉川弘文館・人物叢書)ほか

少弐頼尚
しょうに・よりひさ1293(永仁元)-1371(応安4/建徳2)
親族父:少弐貞経 子:少弐忠資・少弐冬資・少弐頼澄・足利直冬の妻
官職大宰少弐、筑後守
位階従五位上
幕府筑前・対馬・豊前・肥後守護
生 涯
―尊氏と共に亡父の仇を討つ―

 少弐氏は鎌倉以来北九州に根を張り、南北朝動乱では九州制覇の野望に燃えて無節操とも思える合従連衡を繰り広げた。その代表的存在が頼尚である。
 頼尚の父・貞経(妙慧)は同じ九州豪族の菊池氏と倒幕挙兵の盟約を結びながら、いざ菊池が挙兵するとこれに応じず見殺しにし、情勢が一気に倒幕に傾くと慌てて挙兵して鎮西探題を滅ぼしている。『太平記』によればこのとき少弐氏の動きを察知した鎮西探題・赤橋英時長岡六郎を偵察がてら貞経に会いに行かせたが、貞経の代わりに頼尚が応対した。少弐氏が戦闘の用意をしていることを悟った長岡は頼尚に斬りかかったが頼尚は冷静に碁盤で刀を受け止め、家臣たちに長岡を殺させている。建武政権下では少弐氏は筑前・筑後・豊前の守護職を得たが本来の野心からいえば満足のいくものではなく、やがて建武政権に反旗をひるがえした足利尊氏に味方することとなる。
 そんな少弐一族に絶好のチャンスがやってきた。建武3年(延元元、1336)2月、京都攻防戦と摂津での戦いに敗れた足利尊氏がいったん九州へ落ち延びてきたのだ。少弐氏はこれを九州に迎え入れるべく準備をし、2月25日に頼尚は尊氏を迎えに海を渡って赤間関(山口県・下関市)に赴いて、尊氏・直義のために直垂を献上している。

 ところが頼尚が留守にしている間の2月29日、手薄な隙を狙って菊池武敏の軍勢が肥後から大宰府に押し寄せ、貞経とその一族郎党はそろって自害して果てた。この知らせはただちに足利軍に届いたが、当初頼尚は味方を気落ちさせまいと「それは虚報である」と尊氏らに言って気丈にふるまっていたという。
 やがて3月1日に筑前の芦屋浦に上陸した尊氏は宗像氏範と合流、ここで貞経自害と太宰府陥落を聞き、大いに動揺した。だが頼尚は「国人の大部分は味方に参りましょう。菊池武敏はこの頼尚が自ら斬り捨てます」と周囲を励まし、翌日の多々良浜の戦いでは奮戦して足利軍の逆転勝利のきっかけを作った。戦後に直義は貞経の死を悼んで喪に服してひきこもり、兵たちに声高に騒がぬよう命じたが、頼尚は酒と肉を持ち込んで直義を訪ね、「主君の為に命を捨てたのは亡父だけではありませぬ。お気持ちは大変ありがたいですが、急ぎ菊池を討つことも忘れてはなりませぬ」と自ら魚や鳥をすすめ、酒を注いだので、直義もやむなくその夜は酒を飲み明かし、人々にも対面するようになったという(「梅松論」)
 尊氏は貞経の戦死と頼尚の軍功を称えて恩賞を与え、東上の軍にも頼尚率いる少弐勢を加えている。途中で尊氏が水路、直義が陸路を進むことにしたのも頼尚の提案とされ、5月25日の湊川の戦い、続く後醍醐側の軍との京をめぐる争奪戦でも少弐軍が多いに活躍している。

 以上の描写はすべて「梅松論」による。この本は尊氏の側近が書いたものと推測されているが、頼尚の奮戦や言動についても詳細に記しており、この間の頼尚のはたらきが足利軍の逆転勝利に大いに貢献したことは確かなようだ。この功績に対し尊氏は頼尚に筑前・対馬に加えて豊前・肥後の守護職を与え、多くの所領を恩賞として与えている。
 だが一方で、尊氏は九州を離れるにあたって一族の一色範氏を鎮西探題(九州探題)として九州に残してその統治にあたらせ、九州制覇の野心をもつ少弐頼尚をわざわざ九州から連れ出したようでもある。こののち頼尚は「目の上のたんこぶ」である一色範氏を九州から追い出すことに全力を注ぐことになる。

―制覇のためなら手段を選ばず―

 貞和5年(正平4、1349)、中央では高師直と足利直義の対立が激化し、8月に師直らのクーデターが起こって直義は失脚した。直義の養子(尊氏の庶子)である足利直冬は長門探題として備後にいたが、師直から刺客を送られて九州・肥後へと逃れた。肥後に入った直冬は九州各地の武士に味方に来るよう呼びかけ、中央の支配に不満を抱いていた少弐氏、大友氏など有力武士たちがこれに応じた。中でも頼尚は娘を直冬に嫁がせて「婿」としたとされ(「太平記」)、直冬を盟主にして尊氏側の一色範氏に対抗し、直義・直冬が南朝に下るとそのまま南朝方ともなった。観応2年(正平6、1351)には中央で直義派が勝利を収めたため直冬も公式に鎮西探題に任じられ、頼尚のもくろみは成功したかに見えた。

 だが間もなく尊氏・直義が決裂、九州でもそれを受けて尊氏派の一色範氏と南朝の懐良親王・菊池氏が手を組んで直冬・頼尚に圧迫をかけてきた。文和元年(正平7、1352)2月に直義が鎌倉で急死すると直冬の九州における立場はますます悪くなり、ついにこの年の暮れに直冬は大宰府を失い、九州から脱出して中国地方へと入った。

 直冬が九州から去ったことで九州における直冬派は事実上消滅。文和2年(正平8、1353)正月には頼尚も一色氏に攻められて大宰府の浦城に包囲される危機に陥った。一色氏優勢の事態を見た菊池氏の当主・菊池武光は、九州における足利方の駆逐を優先し、長年の怨念を封じて頼尚を助けることにした。2月2日に鉢摺原(はりすりばら)の戦いで菊池軍は一色軍を破り、頼尚を救出する。感激した頼尚は「これから七代のちの孫に至るまで、菊池に対して弓は引かぬ」との熊野午王への起請文(誓いの文)を菊池武光に差し出すことになる。
 それから数年間、九州では南朝の懐良親王を奉じた菊池軍による勝利が続き、延文3年(正平13、1358)には一色氏をほぼ一掃して南朝勢による九州制覇を達成する。少弐頼尚はこの間おとなしく南朝軍に協力していたが、ひそかにじっと反撃の機会をうかがっていた。一色氏さえいなくなれば南朝・菊池氏との連合など彼にとっては無意味であり、次は菊池を倒して自らが九州を制覇しようと考えるのは彼にとってはそれなりに一貫した姿勢だったのだ。

 延文3年(1358)12月、頼尚は大友氏時と密約して打倒菊池の策謀を開始する。まず大友氏が菊池に反旗をひるがえして挙兵し、これに菊池氏の目を向けさせているうちに隙をついて少弐軍が挙兵する、という段取りだった。だが菊池武光ももともと少弐・大友を信用していなかったのだろう、慎重に立ち回って彼らの思い通りにはさせなかった。
 延文4年(正平14、1359)8月6日、筑後川をはさんだ大保原(おおほばる)で菊池を主力とする南朝軍、少弐・大友の連合軍が決戦を行った。菊池勢は鉢摺原の戦いの直後に頼尚が書いた「七代のちまで菊池には弓を引かぬ」という起請文をふりかざして頼尚の無節操をあざ笑ってから戦闘を開始したという(「太平記」)。この合戦は激戦となったが菊池武光・懐良親王ら自らの奮戦もあって南朝軍の圧勝に終わり、少弐軍は嫡子・直資を失うなど致命的な敗北を喫して、ここに九州における南朝軍(征西将軍府)の覇権は決定的なものとなった。

 翌延文5年(正平15、1360)4月には菊池軍は各地で少弐側を破って大宰府に迫った。頼尚は家督を息子の冬資に譲って出家し、大友氏を頼って豊後へと落ち延びる。少弐軍は冬資の指揮のもとで翌年までしぶとく抵抗を続けたが、翌康安元年(正平16、1361)8月に菊池軍は筑前全域から少弐勢を一掃し、ついに懐良親王が大宰府に入った。
 その後、貞治6年(正平22、1367)に頼尚は京に赴いた。情勢を打開しようと将軍・義詮に幕府軍の九州派遣を要請するためであったと見られる。だが幕府も九州平定にはなかなか手が打てず、頼尚は失意のうちに応安4年(建徳2、1371)京で没した。79歳の長寿であったが、彼の野望は結果的には名族・少弐氏の衰退をもたらしただけだったと言えるかもしれない。
 頼尚の無節操な行動がたたったか、ようやく幕府から九州平定のために派遣された今川了俊は、頼尚の子・冬資を九州平定の邪魔として殺害してしまうことになる。

参考文献
渡辺誠「少弐頼尚」(歴史と旅・臨時増刊「太平記の100人」所収)
三木靖「九州の戦雲」(学習研究社「ピクトリアル足利尊氏2南北朝の争乱」所収)
杉本尚雄「菊池氏三代」(吉川弘文館・人物叢書)
瀬野精一郎「足利直冬」(吉川弘文館・人物叢書)ほか
大河ドラマ「太平記」第46回に登場(演:加持健太郎)。直冬が九州に下り、頼尚の婿として迎えられる場面で大友氏時、阿蘇惟時と共に顔を見せている。尊氏の九州落ち、多々良浜の戦いはドラマでは完全にカットされたため、その部分での登場はいっさいない。
歴史小説では懐良親王と菊池武光を主人公とする北方謙三「武王の門」では当然の如く敵方武将として登場。
PCエンジンCD版豊後(北九州全域)の北朝方独立君主として登場する。初登場時の能力は統率75・戦闘77・忠誠76・婆沙羅63。こちらが当主扱いで父・貞経が家臣にいる。 
PCエンジンHu版シナリオ2で筑前大宰府に北朝方として登場。能力は「弓2」
メガドライブ版多々良浜合戦と湊川合戦のシナリオで足利軍に登場。能力は体力92・武力114・智力132・人徳77・攻撃力100
SSボードゲーム版中立武将の「武将」クラスで登場、勢力地域は「北九州」。合戦能力1・采配能力6で采配はかなり高め。ユニット裏は子の少弐冬資。

新開真行
しんかい・さねゆき(まさゆき?)生没年不詳
親族父:新開頼行
子:新開忠重
官職遠江守
生 涯
―細川頼之腹心として活躍―

 新開氏は秦氏の子孫とされるが、鎌倉初期に土肥実平の子・実重が養子に入っている。新田義貞の鎌倉攻めの際に北条泰家の軍の中に「新開左衛門入道」の名がみえる。また観応2年(正平6、1351)に「新開兵衛尉」という者が阿波牛牧荘の雑掌から乱妨で訴えられていることが知られ、文和3年(正平9、1354)には伊予で足利直冬家臣の「新開左衛門尉」が幕府から追討を受けている。これらの新開一族と阿波守護代である新開真行との関係はまったく分からない。
 文和5=延文元年(正平11、1356)2月7日付の阿波守護・細川頼之の書状により「新開遠江守」が阿波で守護代を務めていることが確認できる。『市原系図』によれば真行と同一人物と思われる「直行」が牛牧荘(徳島県阿南市)を領有していたという。真行は阿波守護代にして頼之の腹心の家臣として、頼之を支えて各方面で活躍する。

 康安元年(正平16、1361)に幕府の執事・細川清氏が失脚、南朝に走って一時京都を占領するも奪回され、再起を図って四国へと渡った。康安2=貞治元年(正平17、1362)に清氏は讃岐に入り、当時備中にいた細川頼之も清氏を討つべく讃岐に渡り、両者は宇多津城と白峰山の麓とでにらみあった。清氏には阿波の南朝方小笠原頼清や水軍の飽浦信胤が味方につき、頼之軍は不利な情勢に追い込まれていた。新開真行は守護代として阿波で頼之の留守を守っていたとみられるが、頼之の危機を見て讃岐へ援軍に駆けつけたのだろう。

 この頼之と清氏による白峰の戦い『太平記』巻三十八は実に詳細に記している。7月23日の朝、頼之は新開真行をそばへ呼び、清氏方の中院源少将がこもる西長尾城を攻めるかのように陽動を起こせば清氏が軍勢を割いてそちらにさしむける、そして清氏の本陣が手薄になったところを全力で攻撃して清氏を倒す、という作戦をささやいた(『太平記』版本の一部には真行自身が頼之に献策したことにしているものもある)
 この作戦に従い真行は兵を率いて西長尾へ押し寄せ、城周辺の民家を焼き払って形だけ城攻めの布陣をした。すると案の定、清氏はこの陽動にひっかかって軍勢を割いて弟の頼和らを西長尾の支援に向かわせ、西長尾の城兵たちも新開勢を迎え撃とうと勇み立った。
 だが真行は陣にかがり火だけを残して敵の目を欺き、間道を抜けて翌24日の朝に清氏の本陣・白峰へと押し寄せた。頼之も同時に動いて搦め手から白峰へ押し寄せ、これを見た清氏は自らの武勇をたのんで出陣、結果的にそのまま戦死することとなった。

 以上のように『太平記』ではなかなか印象的な活躍を見せる新開真行だが(名を「真行」とするのも『太平記』のみ)、その後のことは全く不明である。ただ彼の子孫の新開氏は室町時代を通じて細川氏の重臣としてしばしば史料上に姿を現している。

参考文献
小川信『細川頼之』(吉川弘文館人物叢書)ほか

神宮寺正房じんぐうじ・まさふさ?-1336(建武3/延元元)
生 涯
―楠木正成と共に奮戦―

 楠木一族の一人と思われるが、その事跡は全くの不明。「太平記」では湊川の戦いで楠木正成と共に自害した者のなかに「神宮寺太郎兵衛正師(まさもろ?」の名を記している。『和田文書』には湊川合戦で奮戦した者の名として「神宮寺新判官正房」を記しており、史料的にはこちらが信用できるとして後世の歴史書や小説では「正房」とするのが一般的。湊川神社では「太平記」に従って「正師」として合祀している。
大河ドラマ「太平記」第11回から第37回まで、楠木家臣キャラの一人としてレギュラー出演(演:でんでん)
その他の映像・舞台 1928年の映画「続水戸黄門」ではなぜか「神宮寺正家」の役名で岡崎晴夫が演じている。1933年の映画「楠正成」では堀内尚平、1936年の映画「小楠公とその母」で春岡正造、1940年の日活映画「大楠公」福井松之助が「正師」名で演じた。
 昭和39年(1964)の歌舞伎「私本太平記」では「正師」として坂東蓑助(七代目)が演じた。
歴史小説では「太平記」に正成家臣として明記があるだけに、登場例は多い。だが特に個性が描かれるわけでもない。
メガドライブ版楠木軍に登場。能力は体力63・武力93・智力80・人徳49・攻撃力66。  

信弘しんこう生没年不詳
生 涯
―倭寇討伐のため渡海した僧侶―

 九州探題・今川了俊側近の僧侶であったと思われるが詳細は不明である。永和3年(天授3、1377)に倭寇禁圧を求めるため鄭夢周らの使者が博多を訪れ、了俊はこれに応じて同年8月に信弘を使者として高麗に派遣、倭寇禁圧は容易なことではないと書状で伝えさせている。
 翌永和4年(天授4、1378)6月、了俊は再び信弘を高麗へ送り、同時に六十九人の兵をこれにつけた。彼らは全羅道・兆陽浦で倭寇と戦ってその船を奪い、捕虜となっていた男女二十余人を救出した。しかし慶尚道の赤田浦での戦いに敗れ、そのまま日本に帰国している。

参考文献
関周一『「中華」の再建と南北朝内乱』(吉川弘文館「日本の対外関係4・倭寇と「日本国王」所収)
川添昭二『今川了俊』(吉川弘文館・人物叢書)ほか


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