少弐頼尚
| しょうに・よりひさ | 1293(永仁元)-1371(応安4/建徳2) |
親族 | 父:少弐貞経 子:少弐忠資・少弐冬資・少弐頼澄・足利直冬の妻 |
官職 | 大宰少弐、筑後守 |
位階 | 従五位上 |
幕府 | 筑前・対馬・豊前・肥後守護
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生 涯 |
―尊氏と共に亡父の仇を討つ―
少弐氏は鎌倉以来北九州に根を張り、南北朝動乱では九州制覇の野望に燃えて無節操とも思える合従連衡を繰り広げた。その代表的存在が頼尚である。
頼尚の父・貞経(妙慧)は同じ九州豪族の菊池氏と倒幕挙兵の盟約を結びながら、いざ菊池が挙兵するとこれに応じず見殺しにし、情勢が一気に倒幕に傾くと慌てて挙兵して鎮西探題を滅ぼしている。『太平記』によればこのとき少弐氏の動きを察知した鎮西探題・赤橋英時は長岡六郎を偵察がてら貞経に会いに行かせたが、貞経の代わりに頼尚が応対した。少弐氏が戦闘の用意をしていることを悟った長岡は頼尚に斬りかかったが頼尚は冷静に碁盤で刀を受け止め、家臣たちに長岡を殺させている。建武政権下では少弐氏は筑前・筑後・豊前の守護職を得たが本来の野心からいえば満足のいくものではなく、やがて建武政権に反旗をひるがえした足利尊氏に味方することとなる。
そんな少弐一族に絶好のチャンスがやってきた。建武3年(延元元、1336)2月、京都攻防戦と摂津での戦いに敗れた足利尊氏がいったん九州へ落ち延びてきたのだ。少弐氏はこれを九州に迎え入れるべく準備をし、2月25日に頼尚は尊氏を迎えに海を渡って赤間関(山口県・下関市)に赴いて、尊氏・直義のために直垂を献上している。
ところが頼尚が留守にしている間の2月29日、手薄な隙を狙って菊池武敏の軍勢が肥後から大宰府に押し寄せ、貞経とその一族郎党はそろって自害して果てた。この知らせはただちに足利軍に届いたが、当初頼尚は味方を気落ちさせまいと「それは虚報である」と尊氏らに言って気丈にふるまっていたという。
やがて3月1日に筑前の芦屋浦に上陸した尊氏は宗像氏範と合流、ここで貞経自害と太宰府陥落を聞き、大いに動揺した。だが頼尚は「国人の大部分は味方に参りましょう。菊池武敏はこの頼尚が自ら斬り捨てます」と周囲を励まし、翌日の多々良浜の戦いでは奮戦して足利軍の逆転勝利のきっかけを作った。戦後に直義は貞経の死を悼んで喪に服してひきこもり、兵たちに声高に騒がぬよう命じたが、頼尚は酒と肉を持ち込んで直義を訪ね、「主君の為に命を捨てたのは亡父だけではありませぬ。お気持ちは大変ありがたいですが、急ぎ菊池を討つことも忘れてはなりませぬ」と自ら魚や鳥をすすめ、酒を注いだので、直義もやむなくその夜は酒を飲み明かし、人々にも対面するようになったという(「梅松論」)。
尊氏は貞経の戦死と頼尚の軍功を称えて恩賞を与え、東上の軍にも頼尚率いる少弐勢を加えている。途中で尊氏が水路、直義が陸路を進むことにしたのも頼尚の提案とされ、5月25日の湊川の戦い、続く後醍醐側の軍との京をめぐる争奪戦でも少弐軍が多いに活躍している。
以上の描写はすべて「梅松論」による。この本は尊氏の側近が書いたものと推測されているが、頼尚の奮戦や言動についても詳細に記しており、この間の頼尚のはたらきが足利軍の逆転勝利に大いに貢献したことは確かなようだ。この功績に対し尊氏は頼尚に筑前・対馬に加えて豊前・肥後の守護職を与え、多くの所領を恩賞として与えている。
だが一方で、尊氏は九州を離れるにあたって一族の一色範氏を鎮西探題(九州探題)として九州に残してその統治にあたらせ、九州制覇の野心をもつ少弐頼尚をわざわざ九州から連れ出したようでもある。こののち頼尚は「目の上のたんこぶ」である一色範氏を九州から追い出すことに全力を注ぐことになる。
―制覇のためなら手段を選ばず―
貞和5年(正平4、1349)、中央では高師直と足利直義の対立が激化し、8月に師直らのクーデターが起こって直義は失脚した。直義の養子(尊氏の庶子)である足利直冬は長門探題として備後にいたが、師直から刺客を送られて九州・肥後へと逃れた。肥後に入った直冬は九州各地の武士に味方に来るよう呼びかけ、中央の支配に不満を抱いていた少弐氏、大友氏など有力武士たちがこれに応じた。中でも頼尚は娘を直冬に嫁がせて「婿」としたとされ(「太平記」)、直冬を盟主にして尊氏側の一色範氏に対抗し、直義・直冬が南朝に下るとそのまま南朝方ともなった。観応2年(正平6、1351)には中央で直義派が勝利を収めたため直冬も公式に鎮西探題に任じられ、頼尚のもくろみは成功したかに見えた。
だが間もなく尊氏・直義が決裂、九州でもそれを受けて尊氏派の一色範氏と南朝の懐良親王・菊池氏が手を組んで直冬・頼尚に圧迫をかけてきた。文和元年(正平7、1352)2月に直義が鎌倉で急死すると直冬の九州における立場はますます悪くなり、ついにこの年の暮れに直冬は大宰府を失い、九州から脱出して中国地方へと入った。
直冬が九州から去ったことで九州における直冬派は事実上消滅。文和2年(正平8、1353)正月には頼尚も一色氏に攻められて大宰府の浦城に包囲される危機に陥った。一色氏優勢の事態を見た菊池氏の当主・菊池武光は、九州における足利方の駆逐を優先し、長年の怨念を封じて頼尚を助けることにした。2月2日に鉢摺原(はりすりばら)の戦いで菊池軍は一色軍を破り、頼尚を救出する。感激した頼尚は「これから七代のちの孫に至るまで、菊池に対して弓は引かぬ」との熊野午王への起請文(誓いの文)を菊池武光に差し出すことになる。
それから数年間、九州では南朝の懐良親王を奉じた菊池軍による勝利が続き、延文3年(正平13、1358)には一色氏をほぼ一掃して南朝勢による九州制覇を達成する。少弐頼尚はこの間おとなしく南朝軍に協力していたが、ひそかにじっと反撃の機会をうかがっていた。一色氏さえいなくなれば南朝・菊池氏との連合など彼にとっては無意味であり、次は菊池を倒して自らが九州を制覇しようと考えるのは彼にとってはそれなりに一貫した姿勢だったのだ。
延文3年(1358)12月、頼尚は大友氏時と密約して打倒菊池の策謀を開始する。まず大友氏が菊池に反旗をひるがえして挙兵し、これに菊池氏の目を向けさせているうちに隙をついて少弐軍が挙兵する、という段取りだった。だが菊池武光ももともと少弐・大友を信用していなかったのだろう、慎重に立ち回って彼らの思い通りにはさせなかった。
延文4年(正平14、1359)8月6日、筑後川をはさんだ大保原(おおほばる)で菊池を主力とする南朝軍、少弐・大友の連合軍が決戦を行った。菊池勢は鉢摺原の戦いの直後に頼尚が書いた「七代のちまで菊池には弓を引かぬ」という起請文をふりかざして頼尚の無節操をあざ笑ってから戦闘を開始したという(「太平記」)。この合戦は激戦となったが菊池武光・懐良親王ら自らの奮戦もあって南朝軍の圧勝に終わり、少弐軍は嫡子・直資を失うなど致命的な敗北を喫して、ここに九州における南朝軍(征西将軍府)の覇権は決定的なものとなった。
翌延文5年(正平15、1360)4月には菊池軍は各地で少弐側を破って大宰府に迫った。頼尚は家督を息子の冬資に譲って出家し、大友氏を頼って豊後へと落ち延びる。少弐軍は冬資の指揮のもとで翌年までしぶとく抵抗を続けたが、翌康安元年(正平16、1361)8月に菊池軍は筑前全域から少弐勢を一掃し、ついに懐良親王が大宰府に入った。
その後、貞治6年(正平22、1367)に頼尚は京に赴いた。情勢を打開しようと将軍・義詮に幕府軍の九州派遣を要請するためであったと見られる。だが幕府も九州平定にはなかなか手が打てず、頼尚は失意のうちに応安4年(建徳2、1371)京で没した。79歳の長寿であったが、彼の野望は結果的には名族・少弐氏の衰退をもたらしただけだったと言えるかもしれない。
頼尚の無節操な行動がたたったか、ようやく幕府から九州平定のために派遣された今川了俊は、頼尚の子・冬資を九州平定の邪魔として殺害してしまうことになる。
参考文献
渡辺誠「少弐頼尚」(歴史と旅・臨時増刊「太平記の100人」所収)
三木靖「九州の戦雲」(学習研究社「ピクトリアル足利尊氏2南北朝の争乱」所収)
杉本尚雄「菊池氏三代」(吉川弘文館・人物叢書)
瀬野精一郎「足利直冬」(吉川弘文館・人物叢書)ほか
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大河ドラマ「太平記」 | 第46回に登場(演:加持健太郎)。直冬が九州に下り、頼尚の婿として迎えられる場面で大友氏時、阿蘇惟時と共に顔を見せている。尊氏の九州落ち、多々良浜の戦いはドラマでは完全にカットされたため、その部分での登場はいっさいない。 |
歴史小説では | 懐良親王と菊池武光を主人公とする北方謙三「武王の門」では当然の如く敵方武将として登場。
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PCエンジンCD版 | 豊後(北九州全域)の北朝方独立君主として登場する。初登場時の能力は統率75・戦闘77・忠誠76・婆沙羅63。こちらが当主扱いで父・貞経が家臣にいる。 |
PCエンジンHu版 | シナリオ2で筑前大宰府に北朝方として登場。能力は「弓2」。 |
メガドライブ版 | 多々良浜合戦と湊川合戦のシナリオで足利軍に登場。能力は体力92・武力114・智力132・人徳77・攻撃力100 |
SSボードゲーム版 | 中立武将の「武将」クラスで登場、勢力地域は「北九州」。合戦能力1・采配能力6で采配はかなり高め。ユニット裏は子の少弐冬資。 |