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すこうてんのう〜すわよりつぐ

崇光天皇すこう・てんのう1334(建武元)-1398(応永5)
親族父:光厳天皇 母:正親町秀子(陽禄門院)
兄弟:後光厳天皇
妃:庭田資子・三条局ほか
子:栄仁親王・興信法親王・弘助法親王・瑞宝女王
立太子1338(暦応元/延元3)8月
在位(北朝第3代)1348年(貞和4/正平3)10月〜1351年(観応2/正平6)11月
生 涯
―廃位・拉致された天皇―

 名ははじめ「益仁(ますひと)」、のちに「興仁(おきひと)」と改めている。持明院統の光厳天皇と正親町公秀の娘・秀子との間に、建武元年(1334)4月22日に誕生した。この時点では大覚寺統の後醍醐天皇が鎌倉幕府を打倒して皇位に返り咲き、光厳は即位そのものが否定されて、形式上「上皇」の尊号が奉られている状態であった。崇光は持明院統がまさにどん底の状態にある時に生を受けたわけである。
 その後情勢は激しく変転し、建武3年(1336)に足利尊氏が光厳の院宣を受けて建武政権を打倒し、光厳の弟の光明天皇が即位した。直後に後醍醐はいったんは和睦に応じて「両統迭立」の原則に従い光明天皇の皇太子には後醍醐の皇子・成良親王が立てられた。しかしその年の暮れに後醍醐は吉野に逃れて南朝を開き、「南北朝時代」の幕が開くことになる。

 暦応元年(延元3、1338)8月8日に興仁は親王宣下を受け、同月13日に光明の皇太子に立てられた。このころには足利幕府=北朝側の軍事的優勢はゆるがなくなっており、もはや両統迭立の原則を守る必要もあるまいと判断しての措置であったと思われる。
 十年後の貞和4年(正平3、1348)10月27日に興仁は光明からの譲位を受けて践祚、崇光天皇となった。その皇太子には花園法皇の皇子・直仁親王が立てられたが、実は直仁は光厳の子であったといい、光厳は以後はこの直仁の系統が皇位を継承すべしとの意志を示していた。崇光はあくまで「中継ぎ」であり、その子孫は全て僧籍に入るよう指示が出されている。

 崇光在位の間は光厳による院政が行われているため、崇光自身の政治的活動はほとんどない。だがその間に、北朝の危機は気づかぬうちにひたひたと迫りつつあった。
 貞和5年(正平4、1349)から足利幕府内の激しい内戦が始まり、翌年には将軍・足利尊氏とその弟・足利直義とが争う「観応の擾乱」へと発展したのだ。紆余曲折の末に観応2年(正平6、1351)10月には尊氏が北朝を放り出して南朝に降伏してしまい、北朝が存在そのものを抹殺される「正平の一統」と呼ばれる事態となってしまう。11月7日をもって南朝の後村上天皇は崇光天皇および皇太子直仁を廃し、12月23日には北朝が所持してきた「三種の神器」を「偽物」と呼びながらも接収してしまう。南朝側は自分たちが三種の神器の本物を所有していて、光明・崇光は後醍醐が計略で渡した偽物の神器で即位したのだから在位そのものが無効である、との立場であったが、前後の状況からすると光明・崇光が本物の神器で即位しており、後村上の方が神器なしで即位した可能性が高い。それもあってか後村上は北朝皇族に対してぞんざいな扱いはせず、12月28日に即位を否定している光明と崇光に対して「太上天皇(上皇)」の尊号を贈っている。

 翌観応3年(正平7、1352)閏2月21日、南朝軍は足利側との和議を破って京を攻撃・占領した。直後に南朝側は光厳・光明・崇光の三上皇および直仁親王を南朝軍が拠点を構える石清水八幡に移した。このとき牛車の手配がつかず、四人は一台の牛車にまとめて詰め込まれたという。「戦乱をさけて安全を守るため」というのが南朝側の言い分であったが、これが足利による北朝再建を阻止する狙いで行われたことは明らかだった。
 3月に入り足利軍が京を奪回したが、南朝側は北朝皇族たちを楠木一族の拠点である河内・東条へと移した。足利側は南朝に上皇らの返還を交渉したが失敗、やむなく崇光の同母弟で妙法院に入室する予定となっていた弥仁王を引っ張りだして、祖母の広義門院(西園寺寧子)の「院宣」により神器なしで即位させる(後光厳天皇)という非常措置をとった。崇光らはさらに賀名生へと移され、文和3年(正平9、1354)には河内・金剛寺へと移される。
 延文2年(正平12、1357)2月、光厳と崇光、直仁は南朝から解放され5年ぶりに京に帰り、伏見殿に入った(光明は先に解放されていた)。しかしすでに北朝朝廷は崇光の弟である後光厳のもとで再建されており、自分たちが留守の間にこうした状況を作っていた北朝公家たちに対して光厳や崇光は強い不信感を抱いたようである。貞治3年(1364)に光厳が亡くなったが、光厳は持明院統に引き継がれてきた長講堂領や琵琶の秘曲、相伝の文書類を崇光に伝え、こちらこそが正統であることを明確に示そうとしている。

 応安3年(建徳元、1370)8月、後光厳は我が子・緒仁親王(後円融天皇)に譲位したいとの意向を幕府に申し出た。これを知った崇光は後光厳の即位は本来非常の措置であり、持明院統の嫡流は自分の系統であると主張、自分の子・栄仁親王の立太子を幕府に働きかけた。当時の幕政を仕切っていた管領の細川頼之は「皇位のことは天皇の聖断に任すべき」として崇光の主張をやんわりと退けたが、崇光の一派はあきらめず、足利義詮の未亡人で強い影響力を持っていた渋川幸子にはたらきかけて運動を続けた。一時は幸子が運動したことで諸大名も栄仁擁立になびきかけたが、頼之は「光厳上皇の遺勅」なるものを持ち出し、そこに後光厳系統が皇位を継承するようにとの光厳の遺志が記されていたとして緒仁擁立で事態を収拾してしまった。崇光にとっては痛恨の結果であり、崇光の孫の貞成親王は『椿葉記』の中で「武家(幕府)が一方をひいきしてはどうにもならない」と記している。
 その後、永徳2年(弘和2、1382)に後円融が子の幹仁親王(後小松天皇)に譲位した際にも、崇光らは栄仁擁立の動きを見せたが、すでに朝廷における実力者となっていた足利義満によりいとも簡単に阻止されてしまった。

 南北朝合体が成った直後の明徳3年(1392)11月30日、崇光も時代の変化を感じたのだろうか、伏見殿において出家している。そしておよそ5年後の応永5年(1398)正月13日に享年65歳で病没した。崇光の死に伴い、栄仁親王は出家させられ完全に皇位への望みを断たれることとなってしまった。
 しかし崇光系、「伏見宮家」にはその後も「天照大神以来の嫡流」との意識が強く残り、皇統奪回への執念は続いた。その執念が結果的に実り、後小松の皇子が全て死去したことで崇光のひ孫が後小松の猶子という形で後花園天皇となる。現代に至る皇統直系、および近代まで続いた伏見宮系の宮家はいずれも崇光の子孫なのである。

参考文献
河内祥輔・新田一郎「天皇と中世の武家」(講談社「天皇の歴史」04)
小川信「細川頼之」(吉川弘文館・人物叢書)
飯倉晴武『地獄を二度も見た天皇 光厳院』(吉川弘文館・歴史文化ライブラリー147、2002)ほか
歴史小説では「南北朝」の状態を作ることになるので即位について触れられることは多いが特に個性が描かれることはない。光厳天皇を主人公とする森真沙子『廃帝』(2004)で搭乗している。

陶山義高すやま・よしたか生没年不詳
親族父:陶山重高?
官職備中守?
生 涯
―笠置山を陥落させた殊勲者―

 備中国陶山(現・岡山県笠岡市)の武士。『太平記』巻三には「陶山藤三義高」として現れる。元弘元年(1331)、後醍醐天皇が笠置山に挙兵すると、それを攻める幕府軍に加わっている。
 笠置山は難攻不落の要害で、幕府の大軍相手に後醍醐方はよく善戦し20日間以上も抵抗を続けた。陶山義高は同じ備中武士の小宮山次郎と語らって抜け駆けの功名を狙い、9月28日夜に50人ばかりの兵を率いて風の中をおして笠置山裏手の絶壁をよじ登り、後醍醐の行在所に火を放って後醍醐方を混乱におとしいれた。この混乱をみて正面から幕府軍も突入し、笠置山は陥落、後醍醐らは逃亡したが間もなく捕えられた。笠置山が背後の断崖からの奇襲で陥落したことは他資料でも確認できるが、陶山・小見山の名については『太平記』のみが記すことで確認ができない。
 その後、赤松円心軍が後醍醐側で挙兵して京都を攻めた時に「陶山次郎」なる者がこれを破り、その功績によって「備中守」となるが、足利高氏の寝返りによって六波羅探題が攻め落とされ、北条仲時以下探題の一行が近江・番場で集団自決した時に、この陶山次郎も運命を共にしている。これを陶山義高のこととする人も多いが『太平記』では別人扱いのようである。
 笠岡では「陶山神社」があり、義高が祭られている。
大河ドラマ「太平記」第12回「笠置陥落」の回のみ登場(演:新みのる→現・新実)。風の中崖をよじ登って笠置の行在所に火を放つ場面だけの登場で、セリフらしいものもほとんどない。
歴史小説では笠置山陥落の戦功者ということで小説などでも名前はよく出てくるが、ほとんどそれだけである。
漫画作品では登場はしないのだが、沢田ひろふみ「山賊王」に触れておく。この漫画では笠置陥落は大幅にアレンジされており、絶壁を登って奇襲するアイデアは足利高氏が提案、しかも後醍醐側は計略により笠置をひそかに脱出して幕府軍に罠を仕掛ける展開になっている。ここで崖を登って罠にはまる武士が陶山義高かもしれない。

諏訪(すわ)氏
 信濃国諏訪大社の神官「大祝」が武士化した一族で、諏訪上社の「神氏」と諏訪下社の「金刺氏」の二系統があったとみられる。源平合戦期からその活動が知られるが、その系譜については判然としない部分も多い。鎌倉時代には北条得宗家の被官となり、鎌倉幕府滅亡後は北条時行を奉じて中先代の乱を起こし、その後も南朝方あるいは直義派について戦い、信濃守護の小笠原氏に対抗した。戦国時代も信濃の有力勢力として生き残ったが、甲斐から侵攻した武田信玄によって滅ぼされた。
 (下の系図、直性と頼重以前の系譜は諸説あって判然とせず、便宜的に横並びにした)
盛重?─盛経(真性)直性盛高
盛重?頼重───時継頼継

├継宗┌信有
└信嗣直頼┴頼貞

諏訪円忠すわ・えんちゅう1295(永仁3)-1364(貞治3/正平19)
親族子:諏訪康嗣
幕府政所職員(鎌倉)、評定衆・引付衆(室町)
建武の新政雑訴決断所寄人
生 涯
―貴重な記録を残した幕府官僚―
 
 諏訪大社の神職である諏訪氏のうち、庶流の小坂氏の出身で「小坂円忠」とも呼ばれる。一説に諏訪敦忠の曾孫という。諏訪一族は北条得宗家の家臣となっており、円忠も鎌倉幕府末期に政所の職員をつとめていた。政務能力を買われたらしく、幕府滅亡後に建武政権でも雑訴決断所・第三番(東山道担当)の寄人をつとめた。さらに足利尊氏が幕府をつくると、夢窓疎石の推薦を受けて尊氏の右筆衆(秘書官)に加わっている。このように政治実務の能力から鎌倉幕府・建武政権・室町幕府と政治中枢を渡り歩くケースは他にも例があり、特に珍しいものではない。一方で諏訪本家は中先代の乱を起こし、南朝方につくなど足利氏とは長らく敵対関係にあり、円忠が幕府中枢で働いていたために存続ができたという見方もある。

 暦応2年(延元4、1339)8月に後醍醐天皇が吉野で死去すると、直後に足利尊氏はその慰霊のために天竜寺創建を計画、その指揮にあたる奉行人五人に高師直細川和氏といった腹心の有力者に加えて諏訪円忠を選んでいる。また動乱による死者を弔うため全国に安国寺を建立することになった際も、円忠が自身の領地のある諏訪に建立している。

 延文元年(正平11、1356)、円忠は諏訪大社の由来をまとめた絵巻物『諏訪大明神絵詞』全12巻を完成させている。この作成のために円忠は素材について洞院公賢吉田兼豊といった公家たちに質問しているほか(「園太暦」)後光厳天皇による外題、足利尊氏による奥書への証判をつけるなど大いに力を入れている。現在この絵詞は絵は失われて文章のみが伝えられているが、諏訪大社の歴史を知る上での貴重な資料であり、なおかつこの中で諏訪大明神の神威として紹介される鎌倉幕府末期の「蝦夷大乱」(安藤氏の乱)の記述は、中世の北方情報(津軽・北海道以北)を書いた史料としても注目されている。
 この絵詞製作も諏訪本家の懐柔策のひとつだったともいわれ、それから間もない延文3年(正平13、1358)に諏訪大祝家の当主・諏訪直頼は幕府に投降しており、恐らくは円忠が仲介したものとみられている。

 貞治3年(正平19、1364)に七十歳で死去。和歌集「新千載和歌集」「新後拾遺集」、連歌集「莬玖玻集」に作品が載るなど、文化人としても幅広く活動している。

参考文献
石井裕一朗「中世後期京都における諏訪氏と諏訪信仰─『諏訪大明神絵詞』の再検討」(武蔵大学人文学会雑誌41巻2号)ほか

諏訪直性すわ・じきしょう?-1333(正慶2/元弘3)
親族父:諏訪盛経? 子:諏訪盛高?
官職左衛門尉
幕府侍所、越訴奉行、寄合衆
生 涯
―北条一族に殉じる―

 諏訪氏は内容の異なる系図がいくつも伝えられ、『太平記』に登場するこの諏訪直性についてもその実名・系統は複数の説が出されている。『太平記』版本によっては「真性」となっているために混乱があるが、「真性」と号したのは諏訪盛経で、これは活動時期から直性の父と見られる。名は「宗経」あるいは「宗秀」(徳治2年=1307の「鳥ノ餅日記」に「左衛門尉宗秀」の記述がある)とみるのが有力だが、後世の諏訪氏系図類では直性を「弘重・左馬助」としているものがあるが、直性のことと思われる人物は「左衛門入道」とされるので「弘重」はあるいは直性の子かもしれない。
 のちに中先代の乱を起こし、その後の諏訪氏の先祖となる諏訪頼重との関係は不明。兄弟とする系図もあるが確たるものではない。仮に兄弟として、「真性」と「直性」の名前の類似などから直性の方が本来嫡流であったのでは、との指摘もある。

 妻が北条貞時の娘の乳母を務めたといい、北条得宗家臣の「御内人」の有力者として終盤の鎌倉幕府中枢にあった。正安元年(1299)6月に侍所職員、正安2年(1300)10月に越訴奉行。寄合衆のメンバーでもあったとみられる。元亨3年(1323)10月の貞時十三回忌法要の記録では「諏訪左衛門入道」として銭百貫と徳行品を納めている。
 元弘元年(1331)に後醍醐天皇の討幕計画が露見、その首謀者とされた日野俊基が鎌倉に連行されたが、『太平記』では「諏訪左衛門」すなわち直性がその身柄を預かったと記されている。

 『太平記』巻十の鎌倉幕府滅亡のくだりで「諏訪入道直性」が登場する。最期を覚悟し、北条一門や長崎氏ら御内人は東勝寺に集まったが、そこへ最後の奮戦を終えてきた長崎高重が帰ってくる。高重は盃をあおるとそれを摂津親鑑の前に置いて「これを肴にせよ」と腹を切り、親鑑もその盃を半分あおってそれを直性の前に置くと続けて腹を切った。直性はさらにその盃を心静かに三度あおってから北条高時の前に置くと、「若者どもがなかなかに芸をこらしてくれたのだ、年寄りだからといって負けるわけにはいかぬ。ここから先は皆、これを送り肴(死ぬ前の馳走)にしなされ」と言って腹を十文字に切った。このあと高時らが次々とあとを追い、東勝寺は凄惨な集団自決の場となった。

参考文献
細川重男『鎌倉幕府の滅亡』(吉川弘文館・歴史文化ライブラリー316)ほか

諏訪時継すわ・ときつぐ?-1335(建武2)
親族父:諏訪頼重 子:諏訪頼継・諏訪継宗・諏訪信嗣
官職安芸守
生 涯
―中先代の乱で自害―

 諏訪頼重の嫡男で、諏訪大社をつかさどる「大祝」をつとめていた。元弘2年(1332)正月11日付で寄進状を残しているので、これ以前の段階で当主の座を父から譲られていたはずであるが、父が実質的に一族を指揮していたのだろう。
 諏訪氏は鎌倉時代は北条得宗家の家臣となっており、正慶2年(元弘3、1333)5月に鎌倉幕府が滅びると、北条高時の遺児・時行をかくまって機会を待った。
 
 建武2年(1335)7月14日、時継は父・頼重と共に時行を報じて挙兵、各地の北条残党や建武政権に反感を抱く勢力を糾合して一気に鎌倉を占領した。しかし間もなく足利尊氏の大軍が東海道を攻め下って来て、8月19日に鎌倉は奪回された。時継は頼重らと共に鎌倉の勝長寿院で自害した。子の頼継は諏訪郡原山に逃亡して一族の命脈をつないでいる。

参考文献
「長野県の歴史」(山川出版社)ほか

諏訪直頼すわ・なおより生没年不詳
親族父:諏訪信嗣 子:諏訪信有
官職信濃守
生 涯
―直義に味方した諏訪氏大祝―

 諏訪大社・上社の神官「大祝」をつとめる諏訪氏(神氏)の惣領。諏訪氏は鎌倉時代に北条得宗家の被官(家臣)となっており、直頼の曾祖父・諏訪頼重、祖父・諏訪時継北条時行を奉じて「中先代の乱」を起こして敗れている。その後北条時行が南朝に下ると諏訪氏も南朝方となり、北朝=足利方の信濃守護・小笠原氏と対決を続けた。直頼が諏訪氏の惣領となった時期は不明だが、南朝の正平年間はじめ(1340年代半ば)ごろかと思われる。

 正平5年(観応元、1350)に足利直義が南朝に投降して足利尊氏高師直一派の打倒を呼びかけると、もともと南朝方であった諏訪直頼らは直義派として軍事行動を起こして尊氏派の守護小笠原氏への攻勢をかけ、翌正平6年(観応2、1351)1月には更級郡船山の守護所を攻め、府中(現松本市)の放光寺を攻め落とした。さらに諏訪勢は関東における高一族の中心であった高師冬を甲斐国須沢城に攻めて自害に追い込んでいる(『太平記』によればこの時の諏訪勢は「諏訪下宮祝部」に率いられており、諏訪下社の金刺氏の当主とみられる)
 この直後の2月26日に高師直一族が殺害されて尊氏・直義兄弟はいったん和睦にこぎつけたが、信濃では小笠原と諏訪の対立がくすぶり、6月から8月にかけて富部原・善光寺・米山城などで直頼の代官禰津宗貞ら諏訪勢と小笠原為経ら小笠原勢の戦闘が続いた。こうした情勢のなか尊氏と直義は再び決裂し、直義は北陸を経由して関東に逃れるが、『太平記』ではそのとき頼りにした「無二の味方」として信濃の諏訪氏の名も挙げられている。

 正平6年(観応2、1351)11月に尊氏が南朝に投降、「正平の一統」を実現させて直義討伐のため関東に下った。尊氏に敗れた直義は翌正平7年(観応3、1352)2月に鎌倉で急死し、「観応の擾乱」はひとまず終焉するが、勢いに乗った南朝側は畿内と関東で足利勢を一掃する同時作戦を開始、諏訪直頼らも宗良親王に率いられて笛吹峠・小手指原で尊氏軍と戦った。この戦いも結局敗れるが、諏訪氏はその後もしばらく宗良親王を総帥と仰いで信濃国内で小笠原氏と戦い、一時はかなりの勢いをもった。しかし正平10年(文和4、1355)8月に筑摩郡桔梗原(現塩尻市)の戦いで大敗、信濃国内南朝勢の衰退は決定的なものとなる。

 翌正平11年(延元元、1356)に足利幕府の奉行人であった諏訪円忠により諏訪大明神を称える『諏訪大明神絵詞』が作成されているが、これは尊氏による諏訪氏懐柔策であったらしい。結局尊氏死後の延文3年(正平13、1358)、諏訪直頼は高梨氏らと共に二代将軍・足利義詮に投降した。延文4年(正平14、1359)12月の義詮による南朝への大攻勢には諏訪直頼自身も兵を率いて出陣したと考えられる(「太平記」に「諏訪信濃守」の名があるが、当人かどうかはやや疑問もある)。また義詮は諏訪下社に天下静謐の祈祷も行わせている。
 しかし貞治4年(正平20、1365)12月に直頼は再び信濃守護・小笠原長基と塩尻金屋で合戦に及び、翌貞治5年(正平21、1366)には村上・香坂・春日・長沼氏ら北信濃の武士たちを糾合して小笠原軍を破っている。これをもって直頼がまた南朝方になったとする見方もあるが、どうやら足利氏に恭順しつつも長年の宿敵である小笠原氏には対抗するという姿勢であったようだ。

参考文献
「長野県の歴史」(山川出版社)ほか
大河ドラマ「太平記」ドラマ中に登場はしないが、第48回の終盤で佐々木道誉が「小笠原と諏訪直頼が合戦に及んだ」と発言している。
SSボードゲーム版なぜか北条時行のユニット裏(時行死後の後継者)。武将身分で東山地域、合戦4、采配2

諏訪盛高すわ・もりたか生没年不詳
親族父:諏訪直性?
生 涯
―北条時行を救出―

 『太平記』によれば諏訪左馬助入道の子で、通り名が「三郎」。「諏訪左馬助入道」は版本により「左衛門入道」となっており、「左衛門」が正しいとすれば盛高は諏訪直性の子となる(「太平記」は直性については「諏訪入道」としか書いていない)。これが有力な見解なのだが、諏訪氏の系図類では「左馬助弘重」の子とするものがあり、直性が高齢であることを考え合わせると直性の孫の可能性もあるかもしれない。いずれにしても盛高はほぼ『太平記』にしか記録がなく、実態不明の部分が多い。『太平記』の書きぶりからすると北条泰家(高時の弟)の家臣となっていたらしい。

 正慶2年(元弘3、1333)5月22日、新田義貞の軍勢が鎌倉に突入、鎌倉陥落は決定的となった。このとき盛高はもはやこれまでと覚悟し、主君と共に自害しようと泰家の屋敷へ駆けつけた。すると泰家は人払いをして盛高に「お前はなんとしても生きながらえて、甥の亀寿をかくまってくれ」と命じ、後日の再起をうながした。盛高は感涙にむせんで命に従い、亀寿の生母である高時側室・二位殿の局のもとへと向かった。盛高は「敵の手にかかるよりは大殿(高時)の手にかけて殺すべき」と嘘をついて幼い時行を奪い取り、追いすがる女たちを涙ながらにふりきって逃げた。

 盛高は亀寿を守って諏訪へ逃れた。亀寿は北条時行となり、わずか二年後の建武2年(1335)7月に諏訪頼重らと中先代の乱を起こして一時鎌倉を奪回することになる。だが盛高の姿はそこには見えず、彼の消息は全く不明である。
メガドライブ版諏訪頼重と混同したのだろうか、「足利帖」でプレイすると中先代の乱のシナリオ4編に盛高が登場する。能力は体力79・武力76・智力69・人徳78・攻撃力63

諏訪頼重すわ・よりしげ?-1335(建武2)
親族父:諏訪盛重?諏訪宗経? 子:諏訪時継
官職三河守
生 涯
―中先代の乱の実行者―

 諏訪氏は軍神を祭る諏訪大社の神官を務めてきた一族で、武士としても平安時代から活躍を続けてきた歴史がある。鎌倉時代には信濃守護となった北条氏に仕えてその有力家臣「御内人」となっている。元亨3年(1323)10月の北条貞時十三回忌の法要の記録に「諏方三河権守」として彼の名前がみえる。時期は不明だが出家して法名を「照雲」と号している。
 鎌倉幕府の滅亡に際して、諏訪一族でも北条氏に殉じて自害した者も出た。一方で諏訪盛高のように後日の再起を期して北条高時の遺児・時行を連れて鎌倉を脱出した者もいた。諏訪頼重はその時行を諏訪に迎え入れ、これをかくまっていたようである。

 鎌倉幕府滅亡後、建武政権は信濃守護職を小笠原貞宗に与えた。このことがこれまで信濃で支配的立場にあった諏訪氏を刺激し、挙兵の一因となったとみられる。やがて建武政権にほころびが目立ち始め、各地で不満を持った武士たちが反乱をおこすようになると、高時の弟・北条泰家は京に潜入して西園寺公宗後醍醐天皇の暗殺を計画、これに呼応して諏訪氏も時行を奉じて挙兵する決意を固めた。
 結局暗殺計画は事前に発覚して失敗したが、建武2年(1335)7月14日に諏訪頼重は息子の時継、滋野一族らと共に北条時行を総大将として諏訪に挙兵し、小笠原軍と戦った。『梅松論』によると一時は木曽から尾張へ進出するのではないかとの観測もあったようだが、彼らは鎌倉を目指して進撃を始めた。そのスピードは迅速で、しかも各地から北条残党、あるいは建武政権に不満をもつ武士らを糾合して一気に大軍にふくれあがり、迎撃に来た渋川義季小山秀朝らを撃破して戦死させ、7月末には足利直義を追い出して鎌倉を占領してしまった(中先代の乱)

 しかし鎌倉占領は長くは続かなかった。間もなく京を出陣した足利尊氏の大軍が関東へ押し寄せ、東海道の各地で北条軍を撃破して鎌倉に迫り、ついに8月19日に鎌倉を奪回した。このとき諏訪頼重は鎌倉・勝長寿院で息子の時継らと共に自害して果てた(「太平記」「梅松論」「足利宰相関東下向宿次」)『太平記』ではこのとき頼重らは時行を逃がし、自分たちの遺体の顔の皮をはがせて誰の遺体かわからないようにし、時行の死を装ったという。
大河ドラマ「太平記」ドラマ中に登場はしないが、中先代の乱のくだりでナレーションで名前が言及される。
歴史小説では中先代の乱の部分で名前が出てくるという程度。
漫画作品では学習漫画では中先代の乱のところで登場する例が多い。小学館版「少年少女日本の歴史」で時行に呼応して「オーッ」と掛け声をかけているのが印象に残る。
PCエンジンCD版このゲームの開始時点は中先代の乱の直後なので、とっくに死んでるはずなのだがなぜか時行ともども中部地方に浪人として登場する。初登場時の能力は統率65・戦闘83・忠誠73・婆沙羅37

諏訪頼継すわ・よりつぐ生没年不詳
親族父:諏訪頼重 子:諏訪頼継・諏訪継宗・諏訪信嗣
生 涯
―時行を助けて南朝方―

 諏訪時継の嫡男。建武2年(1335)に祖父の諏訪頼重と父・時継が北条時行を奉じて「中先代の乱」を起こし、一時鎌倉を占領するがすぐに足利尊氏に奪回され、父子そろって戦死する。若年であったと推測される頼継は鎌倉までは出陣していなかったらしいが、信濃守護の小笠原氏の追及を逃れて諏訪郡原山に逃亡している。諏訪大祝職は同族ながらかなり遠い藤沢政頼が継いだが、翌建武3年(延元元、1336)正月に信濃守護の小笠原氏と甲斐守護の武田氏が政頼を追って頼継を大祝にすえた(「諏訪大明神絵詞」)。ただし以上のことは諏訪一族のまとめた「諏訪大明神絵詞」の追加部分にある記述で、その後の展開とそぐわない点もあるため史実の歪曲があるとの意見もある。

 暦応3年(興国元、1340)6月、越後から南朝方の新田義宗が信濃に侵入、これに呼応して頼継は時行と連携して南朝方として行動を起こしているが、結局は小笠原貞宗に抑え込まれたとみられる(これについても史料的に疑問視する意見あり)
 早死にしたのか、弟の信嗣が当主を継ぎ、その子孫が諏訪氏大祝を引き継いでいる。

参考文献
「長野県の歴史」(山川出版社)ほか


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