吉田定房
| よしだ・さだふさ | 1274(文永11)-1338(暦応元/延元3) |
親族 | 父:吉田経長 母:葉室定嗣の娘
兄弟:吉田冬方・吉田隆長・清閑寺資房
子:吉田宗房・吉田守房・大炊御門冬信室 |
官職 | 讃岐守、皇后宮権大進、中宮権大進、蔵人、右少弁、東宮大進、左少弁、権右中弁、右中弁、修理右宮城使、左中弁、修理左宮城使、蔵人頭、参議、右兵衛督、検非違使別当、伊予権守、右衛門督、権中納言、権大納言、准大臣、内大臣、民部卿 |
位階 | 従五位下→従五位上→正五位下→正五位上→従四位下→従四位上→正四位下→従三位→正三位→従二位→正二位→従一位 |
生 涯 |
―直言の忠臣―
父は大覚寺統に仕えて亀山・後宇多の院政で重用され、権大納言までのぼった吉田経長。その子の定房も後宇多上皇の院政のもとで重用され、その評定衆の一人に加えられ、皇位継承問題などでしばしば鎌倉に赴き、朝廷と幕府の連絡役をつとめている。尊治親王、のちの後醍醐天皇を幼少時から預かる「乳父(めのと)」となっており、運命の悪戯で尊治が天皇になってしまったことから、その腹心・相談相手としていっそう重きを置かれるようになる。後醍醐の朝廷にあって北畠親房・万里小路宣房と並んで「後の三房」と呼ばれた(白河天皇時代の藤原伊房・大江匡房・藤原為房が「三房」と呼ばれるのにちなむ)。
元亨元年(1321)10月、後宇多上皇は院政を停止して子の後醍醐による天皇親政に移行することを決定した(実際には後醍醐が迫った可能性が高い)。この意向を幕府に伝えて意見を求めるため、吉田定房が鎌倉に向かい、12月に京に帰還している。
このころ、定房は後醍醐に対して十ヶ条の奏上を提出している。「王者は仁愛の心をもって政治をすべきで武力にたよるべきではない」「民を苦しめる大工事をしてはならない」「民の命を大切にしなければならない」「天の時は地の利にしかず、地の利は人の和にしかず」と四ヶ条が続き、その後の五〜八ヶ条は中国古代における「革命」「征服」の故事を並べて「いま関東は朝廷に逆らう気もなく、特に悪政もしかず、国民も不満を持ってはいない」として討幕計画を「不可」と戒める。そして「歴史的にみて天皇家の権力衰退・武士の台頭は明らかな流れであり、うかつに討幕の挙兵をしては皇室の存在そのものを危うくしかねない」「いま皇室は二つに分裂し幕府も権勢をほこっているが、時期を待てばうまくおさまるはずだ」と残りの二ヶ条でまとめている。要するに後醍醐が武力を用いて幕府を倒そうと計画しているのを必死になって諫めているのだ。
この本文の最後に「この意見は去年六月二十一日に出して宮中にあるが、そのままになっているので改めて書いた。おおむね同じ内容である」という趣旨の言葉がついていて、つまり同じ諫奏を前年にも行ったことが分かる。この「去年」がいつなのかが問題で、従来は元弘の変が起こる直前の元徳2年(1330)ではないかと考えられていたが、本文中に「革命の今時」という表現が「甲子革命」(甲子の年に革命・兵乱が起こりやすいという俗信)を指すと見て正中元年(1324)とする説、もっとさかのぼって後醍醐が親政に突き進む元亨元年(1321)とみる説とがあり、少なくとも「正中の変」以前の段階の可能性が高い。後醍醐は親政開始の時点ではっきりと武力による倒幕を計画し、老臣・定房がそれを必死に諫める、という構図があったことになる。
これと対応する記録が花園上皇の日記の元亨元年(「1321)4月23日条にもある。定房が後醍醐に対して重大な諫言を行ったそうだと花園は伝聞を日記に記し、「定房卿は常に直言をする人物だ。まさに忠臣というべきである。伝え聞いただけでも大いに感じいった」と賛嘆している。
だがこの父親代わりの直言の老臣の諫言をもってしても、後醍醐の野望を止めることはできなかった。元亨4年(1324)9月に後醍醐の討幕計画が発覚、中心になっていた日野資朝・日野俊基が逮捕され、軍事力として加わっていた美濃源氏らが討伐された(正中の変)。「太平記」では後醍醐が定房に幕府への釈明書を書かせ、万里小路宣房に鎌倉まで届けさせたことになっているが、花園上皇の日記によると実際にはその文面は異様なまでに強圧的で後醍醐好みの「宋風」であったとされるので、定房以外の人物が書いた可能性が高そうだ。
―討幕計画を密告―
「正中の変」は日野資朝一人が流刑になることで後醍醐自身は無事だったが、これを教訓に後醍醐はじっくりと再度の討幕計画を進めて行く。比叡山延暦寺や奈良・興福寺などの寺院勢力を味方につけ、文観・円観らに幕府呪詛の祈祷を行わせ、楠木正成など各地の武士たちと連絡をとっていたのがこのころのことだ。
だが元徳3年(=元弘元年、1331)4月、またも討幕計画が幕府に露見した。計画ありと幕府に密告したのはほかならぬ後醍醐の乳父・吉田定房その人だった。これは『鎌倉年代記』裏書4月29日条に「主上(後醍醐)が世を乱そうとしている。俊基朝臣が中心となってやっていることだ。定房卿が内々に伝えてきた」とはっきりと書かれている。この密告により、主犯と名指しされた日野俊基、呪詛を行っていた文観らが逮捕された。そしてこの事件はこの年8月の後醍醐挙兵につながっていく。
定房がなぜ密告をしたのかについては諸説ある。正中の変以前の段階ですでに後醍醐に武力による倒幕をいましめ、幕府の力の強大さを説いていることから(定房は何度も鎌倉に行った人物である)、挙兵は必ず敗北に終わると考え、密告により蜂起を事前に阻止し、後醍醐にあきらめさせようとした、というのが広く言われる通説である。また単に定房が後醍醐がどうなろうと吉田家の安泰を優先したのではないかとみる見解もある。
だが幕府への密告で定房が日野俊基を名指ししていることに若干のひっかかりがある。俊基が捕縛を逃れようと内裏に駆け込んだとき、後醍醐が病のために意識不明で一切顔を出さなかったという「増鏡」の記述から、定房の密告は実は後醍醐の意思によるもので、討幕計画がばれそうになったので俊基一人に罪を負わせて自らは無関係を装う気だったのではないか、との見方も有力。このあと笠置山で挙兵して幕府軍に捕らえられても「魔がさしただけだ。寛大な処置を」とヌケヌケと言った後醍醐である、それは十分ありうるのではないか。
―死ぬまで後醍醐に忠節―
後醍醐が挙兵に失敗して隠岐に流刑となった後、密告者ということで幕府も定房を持明院統に推薦し、後醍醐のあとを受けた光厳天皇のもとにも定房は仕えることになる。
ところがその翌年には鎌倉幕府が滅んでしまい、後醍醐は隠岐から帰還した。定房はさぞや冷遇されたはず…と思いきや、さにあらず。以前にも増して後醍醐の厚い信任を受け、建武元年(1334)には内大臣に昇進、建武政権においても雑訴決断所、恩賞方、伝奏と重要な職務についているのだ。この事実も「密告」が実は後醍醐の意を受けたものだったのでは、との推理の根拠になっている。
建武政権もあっという間に崩壊し、延元元年(建武3、1336)末に後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝を開くことになる。定房はしばらく京にとどまって北朝朝廷に仕えているが、翌年7月に京を離れ、後醍醐を追って吉野に入った。このときすでに定房64歳。もしかすると自身の余命がもう長くないことを悟って、育てたわが子に等しい後醍醐のもとで一生を終えようと考えたのかもしれない。
翌延元3年(暦応元、1338)正月23日に定房は吉野でその生涯を終えた。享年65。この2ヶ月後に後醍醐のもう一人の側近であった坊門清忠も吉野で没し、後醍醐は二人を失った悲しみの歌を詠んだ。
「事問はん 人さえまれに なりにけり わが世の末の ほどぞ知らるる」(相談相手となる人さえ少なくなってしまった。私の人生ももう先が見えてきたのだろうか)
後醍醐がこの世を去るのは、この翌年8月のことである。
参考文献
佐藤進一・網野善彦・笠松宏至「日本中世史を見直す」
中村吾郎「吉田定房」(歴史と旅・臨時増刊「太平記の100人」所収)
樋口州男「天皇側近の公家衆」(別冊歴史読本「後醍醐天皇・ばさらの帝王」所収)
村松剛「帝王後醍醐」(中公文庫)
森茂暁「太平記の群像・軍記物語の虚構と真実」(角川選書)
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大河ドラマ「太平記」 | 第4回と第25回に登場する(演:垂水悟郎)。第4回では正中の変直後の内裏での朝議の場面で登場し、他の公家たちが立ち去った後で後醍醐から「そちは朕の乳父…」と呼びかけられ、「まだ幕府を倒せる時期ではない」と諫める。第9・10回で元弘の変での定房の密告はナレーションで済まされ、日野俊基が内裏で捕えられる時に「なぜだ!なぜ吉田定房殿は!」と叫ぶ場面はなんとなく意味深でもある。建武新政期を描く第25回でさりげなく再登場し、「尊氏」の名を賜る場面で顔を見せている。
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その他の映像・舞台 | 1966年のTVドラマ「怒涛日本史」で久米明が演じたという。 |
歴史小説では | 後醍醐側近なのでよく登場するのは当然だが、基本的に元弘の変における「密告」の件でクローズアップされる。
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漫画作品では | 「太平記」では吉田定房の密告が出てこないため、「太平記」の漫画版ではほとんど登場せず、南北朝時代を扱った学習漫画系で登場する。ここでもやはり後醍醐の暴走を恐れて「密告」をする役どころ。 |