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よしえこしろう〜よしみよしよ

吉江小四郎よしえ・こしろう生没年不詳
生 涯
―高師泰暗殺の実行者―

 詳細は不明だが、上杉氏家臣になっていた武蔵七党・三浦一族の武士と思われる。「太平記」によれば同族の三浦八郎左衛門と共に高師直師泰兄弟らを襲撃し、師泰を槍で一突きにしている。新潮古典文学大系の注では「頼房」とするが、現時点では根拠未確認。吉江氏は戦国時代でも上杉家臣として残っている。
NHK大河ドラマ「太平記」第47回に登場(演:俵一)。三浦八郎と共に師直・師泰暗殺シーンで登場している。見る限りでは師直を直接斬っているのが吉江小四郎らしい。

義貞の正室よしさだのせいしつ
 NHK大河ドラマ「太平記」の登場人物(演:あめくみちこ)。鎌倉を攻め落とした夫のもとへ駆けつけてきて、状況をまるでわかっておらず夫が征夷大将軍か執権になるものと思いこんでいる。「新田義貞ここにありとはっきり申されませ。足利殿におくれをとってはなりませぬぞ!」と激励(?)するが、義貞はこの妻を持て余して少々ウンザリしている様子。
 史実の義貞の正室は安藤重保の娘で新田義顕の母であるが、このドラマではとくに意識したわけではなさそう。このあと登場する勾当内侍との対比を狙った登場であったと思われる。

吉田兼好よしだ・けんこう
兼好(けんこう)を見よ。

吉田定房
よしだ・さだふさ1274(文永11)-1338(暦応元/延元3)
親族父:吉田経長 母:葉室定嗣の娘
兄弟:吉田冬方・吉田隆長・清閑寺資房
子:吉田宗房・吉田守房・大炊御門冬信室
官職讃岐守、皇后宮権大進、中宮権大進、蔵人、右少弁、東宮大進、左少弁、権右中弁、右中弁、修理右宮城使、左中弁、修理左宮城使、蔵人頭、参議、右兵衛督、検非違使別当、伊予権守、右衛門督、権中納言、権大納言、准大臣、内大臣、民部卿
位階従五位下→従五位上→正五位下→正五位上→従四位下→従四位上→正四位下→従三位→正三位→従二位→正二位→従一位
生 涯
―直言の忠臣―

 父は大覚寺統に仕えて亀山・後宇多の院政で重用され、権大納言までのぼった吉田経長。その子の定房も後宇多上皇の院政のもとで重用され、その評定衆の一人に加えられ、皇位継承問題などでしばしば鎌倉に赴き、朝廷と幕府の連絡役をつとめている。尊治親王、のちの後醍醐天皇を幼少時から預かる「乳父(めのと)」となっており、運命の悪戯で尊治が天皇になってしまったことから、その腹心・相談相手としていっそう重きを置かれるようになる。後醍醐の朝廷にあって北畠親房万里小路宣房と並んで「後の三房」と呼ばれた(白河天皇時代の藤原伊房・大江匡房・藤原為房が「三房」と呼ばれるのにちなむ)
 元亨元年(1321)10月、後宇多上皇は院政を停止して子の後醍醐による天皇親政に移行することを決定した(実際には後醍醐が迫った可能性が高い)。この意向を幕府に伝えて意見を求めるため、吉田定房が鎌倉に向かい、12月に京に帰還している。

 このころ、定房は後醍醐に対して十ヶ条の奏上を提出している。「王者は仁愛の心をもって政治をすべきで武力にたよるべきではない」「民を苦しめる大工事をしてはならない」「民の命を大切にしなければならない」「天の時は地の利にしかず、地の利は人の和にしかず」と四ヶ条が続き、その後の五〜八ヶ条は中国古代における「革命」「征服」の故事を並べて「いま関東は朝廷に逆らう気もなく、特に悪政もしかず、国民も不満を持ってはいない」として討幕計画を「不可」と戒める。そして「歴史的にみて天皇家の権力衰退・武士の台頭は明らかな流れであり、うかつに討幕の挙兵をしては皇室の存在そのものを危うくしかねない」「いま皇室は二つに分裂し幕府も権勢をほこっているが、時期を待てばうまくおさまるはずだ」と残りの二ヶ条でまとめている。要するに後醍醐が武力を用いて幕府を倒そうと計画しているのを必死になって諫めているのだ。
 この本文の最後に「この意見は去年六月二十一日に出して宮中にあるが、そのままになっているので改めて書いた。おおむね同じ内容である」という趣旨の言葉がついていて、つまり同じ諫奏を前年にも行ったことが分かる。この「去年」がいつなのかが問題で、従来は元弘の変が起こる直前の元徳2年(1330)ではないかと考えられていたが、本文中に「革命の今時」という表現が「甲子革命」(甲子の年に革命・兵乱が起こりやすいという俗信)を指すと見て正中元年(1324)とする説、もっとさかのぼって後醍醐が親政に突き進む元亨元年(1321)とみる説とがあり、少なくとも「正中の変」以前の段階の可能性が高い。後醍醐は親政開始の時点ではっきりと武力による倒幕を計画し、老臣・定房がそれを必死に諫める、という構図があったことになる。
 これと対応する記録が花園上皇の日記の元亨元年(「1321)4月23日条にもある。定房が後醍醐に対して重大な諫言を行ったそうだと花園は伝聞を日記に記し、「定房卿は常に直言をする人物だ。まさに忠臣というべきである。伝え聞いただけでも大いに感じいった」と賛嘆している。

 だがこの父親代わりの直言の老臣の諫言をもってしても、後醍醐の野望を止めることはできなかった。元亨4年(1324)9月に後醍醐の討幕計画が発覚、中心になっていた日野資朝日野俊基が逮捕され、軍事力として加わっていた美濃源氏らが討伐された(正中の変)。「太平記」では後醍醐が定房に幕府への釈明書を書かせ、万里小路宣房に鎌倉まで届けさせたことになっているが、花園上皇の日記によると実際にはその文面は異様なまでに強圧的で後醍醐好みの「宋風」であったとされるので、定房以外の人物が書いた可能性が高そうだ。

―討幕計画を密告―

 「正中の変」は日野資朝一人が流刑になることで後醍醐自身は無事だったが、これを教訓に後醍醐はじっくりと再度の討幕計画を進めて行く。比叡山延暦寺や奈良・興福寺などの寺院勢力を味方につけ、文観円観らに幕府呪詛の祈祷を行わせ、楠木正成など各地の武士たちと連絡をとっていたのがこのころのことだ。

 だが元徳3年(=元弘元年、1331)4月、またも討幕計画が幕府に露見した。計画ありと幕府に密告したのはほかならぬ後醍醐の乳父・吉田定房その人だった。これは『鎌倉年代記』裏書4月29日条に「主上(後醍醐)が世を乱そうとしている。俊基朝臣が中心となってやっていることだ。定房卿が内々に伝えてきた」とはっきりと書かれている。この密告により、主犯と名指しされた日野俊基、呪詛を行っていた文観らが逮捕された。そしてこの事件はこの年8月の後醍醐挙兵につながっていく。
 
 定房がなぜ密告をしたのかについては諸説ある。正中の変以前の段階ですでに後醍醐に武力による倒幕をいましめ、幕府の力の強大さを説いていることから(定房は何度も鎌倉に行った人物である)、挙兵は必ず敗北に終わると考え、密告により蜂起を事前に阻止し、後醍醐にあきらめさせようとした、というのが広く言われる通説である。また単に定房が後醍醐がどうなろうと吉田家の安泰を優先したのではないかとみる見解もある。
 だが幕府への密告で定房が日野俊基を名指ししていることに若干のひっかかりがある。俊基が捕縛を逃れようと内裏に駆け込んだとき、後醍醐が病のために意識不明で一切顔を出さなかったという「増鏡」の記述から、定房の密告は実は後醍醐の意思によるもので、討幕計画がばれそうになったので俊基一人に罪を負わせて自らは無関係を装う気だったのではないか、との見方も有力。このあと笠置山で挙兵して幕府軍に捕らえられても「魔がさしただけだ。寛大な処置を」とヌケヌケと言った後醍醐である、それは十分ありうるのではないか。

―死ぬまで後醍醐に忠節―

 後醍醐が挙兵に失敗して隠岐に流刑となった後、密告者ということで幕府も定房を持明院統に推薦し、後醍醐のあとを受けた光厳天皇のもとにも定房は仕えることになる。
 ところがその翌年には鎌倉幕府が滅んでしまい、後醍醐は隠岐から帰還した。定房はさぞや冷遇されたはず…と思いきや、さにあらず。以前にも増して後醍醐の厚い信任を受け、建武元年(1334)には内大臣に昇進、建武政権においても雑訴決断所、恩賞方、伝奏と重要な職務についているのだ。この事実も「密告」が実は後醍醐の意を受けたものだったのでは、との推理の根拠になっている。

 建武政権もあっという間に崩壊し、延元元年(建武3、1336)末に後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝を開くことになる。定房はしばらく京にとどまって北朝朝廷に仕えているが、翌年7月に京を離れ、後醍醐を追って吉野に入った。このときすでに定房64歳。もしかすると自身の余命がもう長くないことを悟って、育てたわが子に等しい後醍醐のもとで一生を終えようと考えたのかもしれない。
 翌延元3年(暦応元、1338)正月23日に定房は吉野でその生涯を終えた。享年65。この2ヶ月後に後醍醐のもう一人の側近であった坊門清忠も吉野で没し、後醍醐は二人を失った悲しみの歌を詠んだ。
 「事問はん 人さえまれに なりにけり わが世の末の ほどぞ知らるる」(相談相手となる人さえ少なくなってしまった。私の人生ももう先が見えてきたのだろうか)
 後醍醐がこの世を去るのは、この翌年8月のことである。 

参考文献
佐藤進一・網野善彦・笠松宏至「日本中世史を見直す」
中村吾郎「吉田定房」(歴史と旅・臨時増刊「太平記の100人」所収)
樋口州男「天皇側近の公家衆」(別冊歴史読本「後醍醐天皇・ばさらの帝王」所収)
村松剛「帝王後醍醐」(中公文庫)
森茂暁「太平記の群像・軍記物語の虚構と真実」(角川選書)
大河ドラマ「太平記」 第4回と第25回に登場する(演:垂水悟郎)。第4回では正中の変直後の内裏での朝議の場面で登場し、他の公家たちが立ち去った後で後醍醐から「そちは朕の乳父…」と呼びかけられ、「まだ幕府を倒せる時期ではない」と諫める。第9・10回で元弘の変での定房の密告はナレーションで済まされ、日野俊基が内裏で捕えられる時に「なぜだ!なぜ吉田定房殿は!」と叫ぶ場面はなんとなく意味深でもある。建武新政期を描く第25回でさりげなく再登場し、「尊氏」の名を賜る場面で顔を見せている。
その他の映像・舞台1966年のTVドラマ「怒涛日本史」で久米明が演じたという。
歴史小説では後醍醐側近なのでよく登場するのは当然だが、基本的に元弘の変における「密告」の件でクローズアップされる。
漫画作品では「太平記」では吉田定房の密告が出てこないため、「太平記」の漫画版ではほとんど登場せず、南北朝時代を扱った学習漫画系で登場する。ここでもやはり後醍醐の暴走を恐れて「密告」をする役どころ。

吉田隆長よしだ・たかなが
1277(建治3)-1350(貞和6/正平5)
親族父:吉田経長 母:葉室定嗣の娘
兄弟:吉田定房・吉田冬方・清閑寺資房
子:甘露寺藤長・吉田俊長・吉田房長・坊城俊実室
官職
東宮亮・蔵人頭・参議・権中納言・左兵衛督・検非違使別当・阿波権守・民部卿
位階
正三位
生 涯
―北朝に残った吉田家―

 吉田経長の次男で、後醍醐天皇の乳父である吉田定房の同母弟。後醍醐の皇太子時代に東宮亮をつとめ、文保2年(1318)に後醍醐が天皇になると蔵人頭、さらに参議へと昇進した。元応2年(1320)に権中納言・左兵衛督および京の治安管理に当たる検非違使別当に任じられたが、延暦寺に属する日吉神社の神人を逮捕したことから比叡山の抗議を受け阿波権守に左遷され一時的に阿波へ追放された(年末には帰京)。翌元亨元年(1321)には民部卿となり、元亨3年(1323)6月に辞任。正中2年(1325)6月23日に出家し、「覚源」と号した。
 その後の建武政権の成立と崩壊、南北朝分裂という動乱のなかで兄の定房とその息子らは南朝に従ったが、隆長は嫡子の藤長と共に北朝に残った。当時の公家ではよくあることだが一族の中での「本家争い」は吉田家にもあり、隆長の子・藤長は貞和4年(正平3、1348)から「甘露寺」を家名として南朝の吉田家に対して自らが嫡流との意識を示している。
 貞和6年(正平5、1350)に病に倒れて死期を悟り、『唯識論』の書写をしている。その中で北朝に残っている吉田家の者が自身と息子・藤長しかいないことに不安を感じつつも家門の繁栄を願った。それから間もない2月22日に74歳で死去した。著作に兄・定房の言行や有職故実をまとめた『吉口伝』がある。

吉田冬方よしだ・ふゆかた1285(弘安8)-?
親族父:吉田経長 母:葉室定嗣の娘
兄弟:吉田定房・吉田隆長・清閑寺資房
官職
参議・権中納言
位階
従二位
生 涯
―金沢貞顕と交流した公卿―

 吉田経長の三男で、後醍醐天皇の乳父である吉田定房の同母弟。六波羅探題時代の金沢貞顕と深い交流があったとされ、貞顕の子・貞冬の「冬」字は冬方から授けたものとの推測がある。
 後醍醐治世に入って元亨3年(1323)正月に参議となる。恐らく兄・定房との関わりから後醍醐が自らの政権固めを狙ったのかもしれない。翌正中元年(1324)9月に後醍醐の討幕計画が発覚する「正中の変」が起こるが、『太平記』古本では事件の直後に後醍醐に相談されて鎌倉幕府への釈明書を書く役を引き受けるのは「吉田中納言冬方」になっている。ただしこれは兄の定房のしたことを誤ったのではとの推測もある。なお冬方が権中納言に昇進したのは正中3=嘉暦元年(1326)2月である。
 元徳元年(1329)9月10日に出家、「端昭」と号した。その後の消息は不明である。

吉田宗房よしだ・むねふさ生没年不詳
親族父:吉田定房 母:四条隆顕の娘
兄弟姉妹:吉田守房・大炊御門冬信室
官職
右近衛少将・右近衛中将・参議(南朝)・中納言(南朝)・大納言(南朝)・右大臣(南朝)
位階
従四位下→正三位
生 涯
―南朝の歴史と共に歩んだ公卿―

 後醍醐天皇の乳父・側近であった吉田定房の子。生年は不明だが、元徳2年(1330)にようやく従四位下・右近衛少将に任じられているので、定房にとってはかなり遅い子であったと予想される。
 南北朝分裂に際しては父・定房と共に後醍醐に従って吉野に入り、延元3年(暦応元、1338)正月に父・定房が死去するとその跡を継いで南朝首脳の一人となった。幕府の内戦「観応の擾乱」が起こってまず足利直義が南朝と講和、続いて足利尊氏が南朝と講和し一時的に朝廷が統一された「正平の一統」の時点では参議であった。この間、直義や尊氏との交渉役として宗房が時々登板している。
 「正平の一統」で勢いに乗った南朝は、翌正平7年(文和元、1352)2月、尊氏が関東に下っている隙に軍事行動を起こして京都占領を狙った。『太平記』によると後村上天皇自ら住吉大社まで進出した際、住吉大社内の松が風もないのに突然折れるという事件があり、それが後村上に報告されると伝奏役の「吉田中納言宗房」が「妖は徳に勝たず」(怪異なものも徳には勝てない」という言葉を口にして大したことではないと主張したとされる。しかし物語の上ではこれは明らかに凶兆で、南朝の京都占領がすぐに終わることを示唆する逸話で、宗房は判断能力の甘い公卿役(この逸話で南朝の中納言になっていることが分かる)をつとめさせられていることになる。
 その後南朝軍が一時京を占領し、宗房も南朝首脳の一人として京に入り北朝公家との折衝に当たっている。しかし南朝の占領は長くは続かず、5月に拠点の男山八幡が陥落して後村上ら南朝首脳は賀名生へと逃げ帰った。宗房もこれに同行したが、その後後村上の怒りを買って謹慎したとの風聞が京都に聞こえている(「園太暦」文和2年(1353)正月8日条)

 その後も南朝有力公卿の一人であり続けたのだろうが、南朝関連の常で活動の詳細については分からない。南朝の和歌集『新葉和歌集』では「前大納言宗房」として和歌6首が載る。
 ようやく彼の活動が明らかになるのは実に元中9年(明徳3、1392)に「南北朝合体」の交渉時で、南朝側の代表として「吉田右府禅門」すなわち宗房が登場した。この肩書から宗房が南朝で右大臣まで昇ったこと、この時点ですでに出家していることとが判明する。宗房はこの時点でさすがに高齢であったと推測されるが、南朝創設以来の元老として交渉代表の任務を受けたものと思われる。
 宗房と阿野実為が幕府側と交渉した結果、「南北朝合体」が実現、この年の閏10月に後亀山天皇や宗房ら南朝首脳は三種の神器と共に京都に入った。この時の南朝首脳の中で南北朝分裂以前の京都にいた経験があったのは宗房だけではなかっただろうか。その後の消息は不明で、吉田家の彼の系統も彼の代で事実上絶えたようである。
漫画作品では
学習漫画などで「南北朝合体」の交渉場面があれば名が出ないまでも確実に登場する。石ノ森章太郎「萬画日本の歴史」ではちゃんと名前を明記されたうえで登場している。

良成親王よしなり・しんのう生没年不詳
親族父:後村上天皇
官職征西大将軍
生 涯
―最後まで抵抗を続けた征西将軍宮―

 懐良親王の後継者となって九州にくだり、「後征西将軍宮」と呼ばれた人物。後村上天皇の皇子ではあることはほぼ確実だが、その名が「良成」である証拠は全くない。他に泰成親王、師成親王という説もあり、後村上の皇子の中で「そうであってもおかしくはない」と考えられる程度の話なのだが、近代以後は便宜的に「通説」とされている。この項目でも「後征西将軍宮=良成」とした上で記述する。

 良成親王が、征西将軍宮・懐良から後継者として九州に招かれたのは正平21年(貞治5、1366)ごろのことである。この時期、懐良と菊池武光が率いる征西将軍府は大宰府に拠点を定めて九州に「南朝王国」を築き上げていた。懐良には子がなかったと思われ、また畿内の南朝との結びつきを強めておく必要を感じて皇子の下向を求めたとみられる。この時点で良成はまだ幼少であったと推測され、懐良がその父代わりとして良成の養育に当たりたいという狙いもあっただろう。
 正平24年(応安2、1369)12月13日に良成は四国に渡海するにあたってその無事を阿蘇社に祈願している。このとき細川頼之に伊予を追われていた河野通直が懐良の支援を受けて伊予奪回に奮闘しており、良成は伊予南朝軍のシンボル的総司令官として四国に渡ったようである(懐良もそうだが幼少の皇子を象徴的総大将に奉じる例はこの時代非常に多い)

 四国からいつ戻ったのかは不明だが、天授元年(永和元、1375)10月3日付で「征西将軍宮」として令旨を出しているのは良成である。この間に九州探題・今川了俊の攻勢で南朝方は大宰府を失陥、菊池武光も急死して懐良も肥後へと撤退を続け、征西将軍府の栄光は過去のものとなりつつあった。この年の6月まで懐良が令旨を発行しているので、それから10月までの間に懐良から良成への「征西将軍」の引継ぎが行われあと推測される。ただし菊池武朝(武光の孫)が南朝に提出した『菊池武朝申状』では良成のことを「故大王御代官」、つまり懐良の「代官」と表現していて、公式な交代は行われていなかったのかもしれない。ほかにも武朝が良成を奉じて懐良と対立、分派行動をとったとの見方もある。

 天授3年(永和3、1377)正月13日の蜷打の戦いで菊池軍は大敗して肥後から出られなくなり、天授4年(永和4、1378)9月の詫摩原の戦いでは武朝が重傷を負い、良成自身も出撃して集める奮戦をしてどうにか一時的勝利を得たものの、弘和元年(永徳元、1381)には菊池氏の本拠地・隈部城が陥落、良成が拠っていた染土城も陥落し、良成・武朝は宇土へと移った。この間に懐良は弘和3年(永徳3、1383)3月に矢部の山中でひっそりと世を去っている。
 元中4年(嘉慶元、1387)にはさらに八代の名和顕興を頼ったが、元中8年(明徳2、1391)8月に今川軍の攻勢に耐えかねて八代城は陥落、良成と顕興は今川軍に投降、武朝は逃亡した。ここに九州南朝勢力は消滅したといっていい。そして翌元中9年(明徳3、1392)10月に「南北朝合一」が成り、南北朝時代そのものが終焉した。

 良成親王はその後矢部の五条頼治を頼り、あくまで南朝の「元中」年号を使用し続けて明徳4年(1393)に阿蘇惟政あてに日向・豊後守護職などを餌に挙兵をうながす令旨を出すなどしている。しかし菊池武朝も今川了俊と講和し、味方につく武士は五条氏以外は存在しなかった。応永2年(1395)10月に大友一族が矢部を攻撃し、五条良量(頼治の子)が奮戦して撃退したことを賞する10月20日付の自筆感状が良成の最後の消息となる。これ以後の活動が確認できないためか後世の複数の資料では良成がこの応永2年3月をもって死去したとするが、いずれも推測で書いたものである。いずれにしてもこの応永年間のうちに矢部の地で静かに余生を送ったと思われる。
 八女市矢部村北矢部字御側にある墓が明治時代に良成親王墓所と治定され、宮内庁管理下で整備されている。

参考文献
杉本尚雄『菊池氏三代』(吉川弘文館・人物叢書)ほか

栄仁親王よしひと・しんのう1351(観応2/正平6)-1416(応永23)
親族父:崇光天皇 母:庭田資子 
兄弟姉妹:興信法親王・瑞宝女王・弘助法親王
妃:阿野治子・宝珠庵・東御方・廓御方
子:治仁王・貞成親王・周乾・恵舜・権野寺主・洪蔭
位階
二品
生 涯
―天皇になれなかった伏見宮家初代―

 北朝の崇光天皇の第一皇子。生母は庭田重資の娘で「按察使典侍」と呼ばれた資子
 栄仁が生まれた年の10月に「正平の一統」が成って北朝は廃止され、父の崇光は天皇の地位を否定された。さらに翌観応3=文和元年(正平7、1352)閏2月21日に南朝軍が京都を占領し、崇光を含めた北朝の皇族を拉致してしまう。南朝軍を追い出した足利幕府はやむなく光厳上皇の皇子で寺に入る予定だった弥仁王を即位させて(後光厳天皇)北朝を再建した。
 延文2年(正平12、1357)2月に崇光は解放されて京に戻ってきたが、すでに弟の後光厳が天皇となっており復位するわけにもいかなかった。だが後光厳の即位はあくまで非常措置であり、本来は崇光の皇子である栄仁こそが持明院統(北朝)の嫡流であるとの意識は栄仁とその周辺に強く抱かれることとなった。

 応安元年(正平23、1368)正月に栄仁は親王宣下を受け、ここでようやく「栄仁」の名を賜った。応安3年(建徳元、1370)に後光厳が息子の緒仁親王に譲位したいとの意向を示すと、崇光側は猛反発して栄仁への皇位継承を幕府にはたらきかけた。特に二代将軍・足利義詮の未亡人で影響力の大きかった渋川幸子を味方に引き込んで一時は有利な情勢にもなったが、管領の細川頼之が後光厳の意向を受けて立ち回り、光厳の遺言状なるものを引っ張り出して栄仁即位の動きを完全に封じて緒仁の即位(後円融天皇)が実現してしまう。この件について栄仁の子・貞成親王は「幕府が一方をひいきしていたのだからどうしようもない」と後年批判している。

 永和元年(天授元、1375)11月に加冠(元服)して二品に叙せられた。永徳2年(弘和2、1382)に今度は後円融が息子の幹仁親王(後小松天皇)への譲位を希望し、崇光派はまたも栄仁擁立の運動を起こしたが、将軍・足利義満に阻止されてしまう。二度の失敗により、栄仁の即位はますます絶望的状況となっていった。
 応永5年(1398)正月に崇光が死去。その直後に栄仁らはそれまで所有していた長講堂領・法金剛院領など広大な所領を後小松に召し上げられてしまう。崇光が生きている内は持明院統の嫡流としてこれら所領の継承が認められていたが崇光が死去したことでその権利を失った、とみなされたのである。
 その年の5月に栄仁も大光明寺指月庵に入って出家、「通智」と号した。この出家は父の死や所領の喪失をはかなんだものとも、天皇候補者を減らすための足利義満や北朝の圧力とも言われる。この年の8月にはそれまで居住した伏見御所を義満が山荘にする名目で奪い取り、洛北の萩原殿に移住させられた。翌応永6年(1399)12月に伏見御所へ戻るが応永8年(1401)に火事になったため、今度は義満の生母・紀良子の山荘である嵯峨の洪恩院に移った。応永10年(1403)にはさらに斯波義将の有栖川山荘へ移転させられ、「有栖川殿」と呼ばれるようになった。
 応永15年(1408)3月に盛大に行われた後小松の北山第行幸では、栄仁も出席し家業の琵琶の演奏を披露している。その翌年の応永16年(1409)6月に伏見に戻ることになったが御所は居住できない状態で、やむなく宝厳院という尼寺を仮御所とする有様であった。
 
 応永23年(1416)6月に栄仁は残された所領の嫡子・治仁王への相続を認める院宣を出してもらおうと、後小松上皇に持明院統伝来の名笛「柯亭」を献上している。それまでなかなか色よい返事をもらえなかったが、内裏の勾当内侍から名笛の献上を提案され、家臣たちの惜しむ声を押しのけての行動であった。本来は持明院統嫡流を自負する彼にとっては屈辱的なご機嫌取りであるが、栄仁も老いて病がちになり焦っていたのだろう。この献上は功を奏したがちょうど院の御所が火災になるというアクシデントもあって一部の所領の相続を認める院宣は9月になってようやく出た。
 その年の11月20日に66歳で死去、「大通院」の法号を贈られた。伏見の深草北陵の法華堂に墓所がある。栄仁を初代とする宮家は「伏見宮家」と呼ばれ、栄仁の孫が後花園天皇となって皇位を継承、その弟の子孫も延々と世襲する「世襲宮家」となって日本の太平洋戦争敗戦直後まで存続した。

参考文献
横井清『室町時代の位一皇族の生涯・「看聞日記」の世界』(講談社学術文庫)
桜井英治『室町人の精神』(講談社学術文庫「日本の歴史」12)ほか

吉見(よしみ)氏
 源頼朝の弟、源範頼を祖とする。範頼の子・範円が武蔵国横見郡吉見荘に入ったことから「吉見」を名字とした。頼朝にもつながる源氏の名門として重んじられたが、吉見義世が北条氏に対して反乱を起こした容疑で処刑され、武蔵の吉見本家は断絶。能登に分家した一族は南北朝時代に能登守護として活躍したが、やがて能登守護職も奪われた。他に石見や伊勢に分家した吉見氏もおり、幕府で活動した者もいる。
(注:吉見氏の系譜は不明確な点も多く、下の系図もあくまで一つの説である)
源範頼
─範円─為頼┬義春
義世
─尊頼




└頼宗
┬頼有
─頼継
─範直




├頼為
─頼顕





頼隆氏頼─詮頼

吉見氏頼
よしみ・うじより?-1296(永仁4)
親族父:吉見頼隆 兄弟:吉見頼重
子:吉見詮頼
官職
掃部助・三河守・右馬頭
幕府
能登守護
生 涯
―能登守護の争奪戦―

 越中・能登守護をつとめた吉見頼隆の長男。父を補佐して能登守護代を長く務め、貞和2年(正平元、1346)春には越中から侵攻した南朝方の井上俊清と木尾嶽で戦い、貞和4年(正平3、1348)までには父から能登守護を引き継いだとみられる。その後、貞和5年(正平5、1349)に桃井盛義に能登守護を奪われるが、氏頼は「観応の擾乱」足利尊氏方について越中の桃井や越前の斯波高経など周辺国の足利直義派・直冬派<a href="yo.html#ujiyori"target="b">よしみうじより</a><br>
<br>と戦い、彼らを牽制する役割を担ったことで文和元年(正平7、1352)に能登守護を奪回した。文和2年(正平8、1353)と文和4年(正平10、1355)の二度、能登島の金頸城にこもる南朝方・長胤連と攻防戦を繰り広げてついに攻め落としている。
 応安2年(建徳元、1370)4月には幕府に反旗を翻した桃井直常が越中から能登に侵攻、氏頼は6月まで戦ってこれを撃退したが、桃井勢が今度は加賀へ侵攻したため氏頼は加賀に進軍して加賀守護・富樫昌家と協力して8月から9月まで桃井軍と戦い、ようやく彼らを越中へと追い返した。翌年には越中の桃井勢の反乱は平定されることとなる。

 応安3年(建徳元、1370)には幕府の引付頭人となる。応安4年(建徳2、1371)までに出家して「道源」と号した。
 永和3年(天授3、1377)8月に能登出身の武士・本庄宗成が将軍・足利義満にねだって能登守護職を獲得しようとする事件が起こり、在京していてこれを聞いた氏頼は激怒、8月10日に宗成を襲撃して討ち取る計画まで立てた(「後愚昧記」)。氏頼は当時の政界では管領・細川頼之の一派に属して、反頼之派の首領である越前の斯波義将を牽制する立場にあり、この事件はこうした幕府内の派閥抗争も絡んでいたらしい。結局頼之が義満をいさめて氏頼はそのまま能登守護の地位を守った。

 ところが康暦元年(天授5、1379)に「康暦の政変」が起こって頼之が失脚すると、さっそく本庄宗成が氏頼から能登守護を奪い取ってしまう。およそ十年後の明徳2年(元中8、1391)になって頼之は幕政に復帰して本庄氏から能登守護を奪い取ったが、後任には吉見氏ではなく畠山基国が入り、以後能登は畠山守護国となる。以後、能登吉見氏は守護に復帰することはできず、幕府の奉公衆や畠山氏の家臣として存続している。

参考文献
「石川県の歴史」(山川出版社)
佐藤進一『室町幕府守護制度の研究・上』(東京大学出版会)
ウェブサイト「吉見太平記〜忘れられた能登守護家 能登吉見氏〜」 

吉見義世よしみ・よしよ(よしとき?)?-1296(永仁4)
親族父:吉見義春?もしくは吉見頼氏? 子:渋川義宗(のち尊頼。養子に出された)
生 涯
―反北条挙兵を計画?した源氏一族―

 吉見氏は源頼朝の弟・源範頼を祖とし、武蔵国吉見荘(埼玉県比企郡吉見町)に拠点を置いた一族。範頼は兄・頼朝によって粛清されたが、その子孫の吉見氏は名門の血を引く御家人として幕府内で一定の存在感を有していたらしい。
 吉見義世は通称「孫太郎」といい、範頼から4代のちの子孫。その父親については吉見義春とするものもあるが、鎌倉後期政治史に詳しい史料「保暦間記」「吉見孫太郎義世、三河守範頼四代孫、吉見三郎入道頼氏男」と記し父を吉見頼氏とする。

 永仁4年(1296)11月20日、義世は「謀反の疑いあり」として捕えられ、竜の口で斬首された(「保暦間記」「鎌倉年代記裏書」)。事件の詳細は不明だが「鎌倉年代記裏書」には「世間騒動」とあり、いずれの史料も良基僧正なる人物が陰謀に加わったために奥州に流刑になったとしており、大がかりな反北条得宗家の挙兵が直前で阻止されたとの見方もある。吉見氏は北条氏のうち名越系との血縁があり、その背景もあるのではないかとの推測もある。
 吉見本家の系統はこの事件により途絶えた。義世の実子・義宗(尊頼)は足利一門の渋川氏に養子に出されている。また北陸に移った吉見氏の別系統は越中・能登の守護をつとめて南北朝時代にも活躍している。
大河ドラマ「太平記」本編には登場しないが、第1回で幕府軍に追われて足利荘に逃げ込んで来る塩屋宗春(架空人物)は「吉見孫太郎の一族」とされ、足利家臣たちのセリフの中で吉見孫太郎は源氏の一門として反北条の挙兵をしようとしていたと語られている。

吉見頼隆
よしみ・よりたか生没年不詳
親族父:吉見頼隆 兄弟:吉見頼重
子:吉見詮頼
官職
三河守・大蔵大輔
幕府
越中・能登守護
生 涯
―能登幕府方として奮戦―

 吉見頼宗の子。通称は「七郎」。足利尊氏が建武政権を打倒した直後の建武3年(延元元、1336)12月に能登の、翌建武4年(延元2、1337)正月には越中の守護をつとめていることが確認される。能登守護の前任者は頼隆の甥とされる吉見頼顕だが、その交代の事情は不明である。越中守護職の方はわずか半年ほどで井上(普門)俊清に交代し、頼隆は能登一国の守護として国内の南朝方と戦っている。頼隆は能登武士を率いて越前にも出陣して暦応4年(興国2、1341)まで脇屋義助ら南朝方相手に転戦してもいる。
 康永4年(興国5、1344)10月には越中で反乱を起こした井上俊清の討伐を尊氏から命じられ、翌年7月に越中国堀江荘の滑川・高月で戦い、勝利している。
 貞和4年(正平3、1348)までには息子の吉見氏頼に能登守護を譲った。没年は不明。

参考文献
「石川県の歴史」(山川出版社)
佐藤進一『室町幕府守護制度の研究・上』(東京大学出版会)
ウェブサイト「吉見太平記〜忘れられた能登守護家 能登吉見氏〜」 

四辻季顕
よつつじ・すえあき1353(文和2/正平8)-?
親族父:室町実郷 母:三条公秀の娘
子:四辻実茂・四辻季保
官職
権大納言
位階
従三位→正二位
生 涯
―「室町」の屋敷も家名も譲る―

 左近衛少将・室町実郷の子。初めは「公全」と名乗った。家名はもともと「室町」であったのは屋敷が室町小路と今出川に挟まれた「室町亭」であったためだが、二代将軍・足利義詮がこの室町亭を季顕から買い上げて足利家の別邸とした。これが三代将軍・足利義満により周囲の地区も合わせて「花の御所」「室町第」として整備され、足利将軍の「官邸」となり、将軍を「室町殿」、後年その幕府を「室町幕府」と呼ぶ理由となるのだが、もともと「室町」を名乗っていた季顕は「室町殿」の名が定着するとこれをはばかって、家の別名であった「四辻」に家名を改めた。これをまた「室町」に戻すことになるのは明治時代のこととなる。
 応安6年(文中2、1373)に従三位に叙せられる。正二位・権大納言にまで昇ったが、義満の側近的立場にあったらしく、応永2年(1395)6月20日に義満が室町第で絶海中津の剃髪により出家すると、その直後にやはり絶海の剃髪により義満の目の前で出家し、義満への忠誠をアピールしている。没年は不明。

世良親王
よよし(ときよし?)・しんのう?-元徳2(1330)
親族父:後醍醐天皇 母:遊義門院一条局
同母兄弟姉妹:静尊法親王
官職
大宰帥・上野太守
位階
二品
生 涯
―早世した後醍醐期待の皇子―

 後醍醐天皇の第二皇子。母親は橋本実俊の娘・遊義門院一条局。『系図纂要』では元徳2年(1330)に19歳で亡くなったとするので逆算すると正和元年(1312)の生まれになるが、それでは「二の宮」と明確にされていることと矛盾する。恐らく後醍醐の長男・尊良親王の生まれた直後、徳治年間(1306〜1308)に生まれたものと推測されている。なお、『太平記』では世良の存在は完全に無視されている。
 『増鏡』によれば、亀山天皇の皇女・喜子内親王(昭慶門院)によって育てられ、後醍醐の腹心である北畠親房が乳父をつとめたという。兄の尊良に比べて才能を光らせていたらしく、後醍醐が自身の後継者として将来を期待していたと言われている。名の「世良」の「世」も後醍醐の父・後宇多天皇の諱「世仁」の一字を授けられたものとみられる。
 正中元年(1324)3月に元服、二品に叙せられ上野太守に任じられた。直後に昭慶門院が死去するとその所領18か所を譲与された。
 しかし元徳2年(1330)9月17日に病のためあっけなく早世した。遺言によりその住居は禅寺とされ、これが臨川寺の由来となった。世良の遺言を聞き取り最期を看取った北畠親房は世良を悼んでその日のうちに出家している。

参考文献
森茂曉『皇子たちの南北朝・後醍醐天皇の分身』(中公文庫)ほか


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