畠山国清
| はたけやま・くにきよ | ?-1362(貞治元/正平17)? |
親族 | 父:畠山家国 兄弟:畠山義深・清渓尼(足利基氏室・氏満母) 子:畠山義清 |
官職 | 左近将監・阿波守・左京大夫・修理大夫 |
位階 | 正五位下 |
幕府 | 紀伊守護・関東執事(のちの関東管領) |
生 涯 |
足利一門に連なる畠山氏の中心人物として南北朝動乱を複雑に生きた武将。生年は不明だが恐らく足利尊氏と同世代と思われる。出家して「道誓(どうせい)」という。
―動乱を生き抜き関東執事に―
その名が史上に初めて確認されるのは建武2年(1335)11月、建武政権に反旗をひるがえした足利尊氏に対し討伐軍が派遣され、これを足利直義が迎え撃った矢作川の戦いである。『太平記』によるとこの時の直義軍の中に「畠山左京大夫国清」が弟の深国と共に参加している。以後、尊氏の京都突入と九州への転進、さらに東上して京の再占領まで一門として常に付き従い、その功により紀伊国守護に任じられた。
貞和5年(1349)に幕府内部の高師直派・足利直義派の対立が深刻化するなか、師直は河内・石川城に出陣していた兄弟・師泰を京へ呼んでクーデターを起こすが、このとき師泰が畠山国清を紀伊から呼んで石川城を託したと『太平記』は記している。畠山一族の中には直義の側近で反師直の急先鋒であった畠山直宗など直義派がいたが、師泰があっさり留守の城を預けているところをみるとこの時点での国清の立場はとくに直義派というわけではなかったらしい。しかしいったん失脚した直義が翌観応元年(1350)11月に京を脱出して南朝に投降し、拠点としたのはこの国清がいる石川城だった。
直義が南朝と和睦して尊氏・師直に対して戦いを挑むと国清はその主力の一人となり、観応2年(1351)2月の摂津・打出浜の戦いで尊氏・師直軍を打ち破った。一時は自害を覚悟した尊氏らだったが、尊氏の側近の饗庭氏直がひそかに畠山国清のもとへ走って和議の交渉をし、高兄弟の出家ということで手を打つことが決まったと『太平記』は記す。その直後に高兄弟が殺害され、尊氏・直義の一時的な和解も破れて再び戦いが始まると、国清は当初は直義の主力として戦いつつも細川顕氏と共に和議をとりもとうともしている。国清自身は直義派に属しつつも尊氏相手に戦う気はもともとあまりなかったのかも知れない。畠山一族では本家筋の高国・国氏の父子が尊氏側について直義派に攻め滅ぼされており、一族内で複雑な事情を抱えていた。
観応2年(1351、正平6年)8月、尊氏が南朝に「降伏」して「正平の一統」を実現、近江で直義軍を打ち破った。10月に尊氏・直義は和議のための直接会談を行うが、このとき国清は直義に「政務を義詮に譲れ」と進言、直義がこれを拒絶したので細川顕氏と共に直義を見限って尊氏側に鞍替えする。直後に尊氏の推挙で北朝から国清に正五位下の位が授けられていて、これは事実上の「買収」だったとの指摘もある。
このあと国清は、関東に下った直義を追う尊氏の軍に加わり、駿河・薩タ山の戦いで直義軍を破った。伊豆山中に追い詰められた直義に投降を呼びかける使者に仁木頼章・義長兄弟と共に国清の姿が見える。この投降の直後、観応3年(1352、正平7)2月に直義は鎌倉で急死し、その後の鎌倉は尊氏の子・基氏が治めることとなった。国清はその関東公方・基氏の執事(のちの関東管領)を務めることになる。国清は妹を基氏の妻とし(年齢的に不自然として娘とみる見解もある)、関東の統治にあたることになった。
―南朝への攻勢と失脚―
尊氏が没して二代将軍・義詮の時代に入った延文3年(1358、正平13)10月、関東における南朝勢力の中心であった新田義興(義貞の次男)が多摩川の矢口渡で謀殺されるが、これは畠山国清が指示を出していたとされる。
延文4年(1359、正平14)11月、国清は関東から兵を率いて上洛した。義詮による南朝への攻勢に参加するためであったが、微妙な対立関係をはらんでいた義詮と基氏の間をとりもつ意図もあったと推測される。国清は仁木義長・細川清氏らと連携して、かつての拠点である河内、紀伊へと進出したが南朝側の抵抗も厳しく、そのうちに国清・清氏が仁木義長と対立して幕府内の内紛に発展、結局なんら成果を上げないまま国清は延文5年(1360、正平15)8月に無断で鎌倉へと帰ってしまう。このとき都では「御敵の 種をまきおき 畠山 打返すべき 世とは知ずや」「何程の 豆をまきてか 畠山 日本国をば 味噌になすらん」「畠山 狐の皮の 腰当に ばけの程こそ 顕れにけれ」といった落首が掲げられ、物笑いの種になったと『太平記』は記している。
翌康安元年(1361、正平16)9月、義詮に謀反の疑いをかけられた執事・細川清氏が南朝に下った。その直後の11月に国清も基氏に追われて兄弟と共に伊豆・修善寺にたてこもっており、東西の執事の失脚劇は連動したものであった可能性がある。『太平記』によると先の畿内遠征で勝手に帰国したとして国清に罰せられそうになった関東武士たち千余人が一味神水の結束をして国清の解任を要求、基氏は「下克上の至りかな」と怒りつつやむなくその要求を認めたとされる。修善寺で基氏相手に孤立無援で戦うことになった国清は「新田義興を殺すのではなかったな」とぼやいたとも『太平記』は伝える。
修善寺で抵抗を続けた国清だったが、翌貞治元年(1362、正平17)9月に基氏からの呼びかけに応じて投降した。しかし命を助けるとは嘘で実は基氏は国清を殺害するつもりだと知人から教えられ、時宗の僧侶らにまぎれて京へと逃亡した。京では七条道場に潜伏し、つてを頼って楠木正儀に南朝への投降を申し入れたが断られ、結局行くあてもなく奈良でのたれ死にすることになったと『太平記』は記している。「津川本畠山系図」では国清の死は同年9月25日とするが、「畠山家記」は国清の没年を2年後の貞治3年(1364)のこととしていて、最期の実際の模様は判然としない。なお、一時没落した畠山家は弟の義深が幕府の赦免を受けて再興する。
|
大河ドラマ「太平記」 | 第46・47・49(最終回)に登場(演:久保忠郎)。直義が京を脱出して石川城に入り、南朝からの綸旨を受けた場面から登場し、以後直義派の武将として顔を見せる。上杉憲能との会話で師直に殺された畠山直宗が自分の父親のようなことを言っているが、脚本の勘違いか?尊氏側に寝返ったことは描かれず、その部分は細川顕氏がクローズアップされる形になった。
|
PCエンジンCD版 | 北朝方武将として守護国紀伊に弟・義深と共に登場。初登場時の能力は統率80・戦闘76・忠誠93・婆沙羅55。北朝の尊氏でプレイすると足利直属ということで直接指示が出せる。 |
PCエンジンHu版 | シナリオ2「南北朝の大乱」で幕府方武将として紀伊・湯浅城に登場。能力は「弓2」。 |
メガドライブ版 | 足利軍武将の一員として登場。能力は体力88・武力90・智力107・人徳82・攻撃力77。 |
SSボードゲーム版 | 武家方の「武将」クラス、勢力地域は「南畿」。合戦能力2・采配能力3。ユニット裏は弟の畠山義深。 |