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はがぜんか〜はるひとおう

芳賀禅可
はが・ぜんか1291(正応4)-1372(応安5/文中元)
親族父:芳賀高久 兄弟:岡本富高 子:芳賀高貞(公頼?)・芳賀高家
官職左兵衛尉
位階従五位下
生 涯
 俗名は「高名(たかな)」。下野国の有力御家人・宇都宮氏の家臣筋だが時に主家もしのぐほどの勢いを持ち、南北朝動乱を奔放に生きた勇将である。

―宇都宮氏重臣の勇将―


 芳賀氏は下野国芳賀郡(現栃木県真岡市・芳賀郡)に拠点を置いた清原氏の子孫で、その一党は「清党」と呼ばれ、宇都宮氏と主従関係を結んで「紀党(益子氏)」と共に「紀・清両党」と並び称せられた。その武勇は鎌倉初期から有名で、『太平記』でも「宇都宮と紀・清両党」はいつもセットで登場している。芳賀禅可(高名)の父・芳賀高久は宇都宮氏から芳賀氏に養子に入ったもので、芳賀氏は宇都宮氏の重臣であると同時に事実上の一門という立場にもあった。

 南北朝動乱が始まった時、芳賀禅可はすでに40代に入っていた。主筋である宇都宮公綱元弘の乱に際して幕府軍の一将として出陣し、楠木正成との名勝負を繰り広げたことで知られるが、その軍事力である「紀・清両党」も当然これに同行しており、史料的な確認はできないものの芳賀禅可もこの戦いに参加していた可能性は高い。

 幕府滅亡後、宇都宮公綱は都にとどまって建武政権の一員に加わり、建武政権に反旗を翻した足利尊氏を討つべく派遣された新田義貞の討伐軍にも加わっている。このとき奥州から北畠顕家の軍が足利軍を追って京まで遠征し、下野に残っていた「紀・清両党」もこれに加わった。ところが大津まで着いたところで公綱がすでに足利方に寝返っていることを知って北畠軍の諸将に挨拶をすませてから敵陣に移動した逸話が『太平記』に載るが、もしかするとこの中に禅可もいたかもしれない。
 公綱はその後また足利軍から後醍醐天皇側に「とんぼ返り」し、後醍醐天皇が吉野にこもって南朝を作るとすぐそこへ駆けつけ、以後は基本的に南朝方の姿勢を取り続ける。しかし禅可の方は宇都宮一門存続のためには足利方につくべきとの決意をすでに固めていたようである。

 建武4年(延元2、1337)8月、奥州の北畠顕家が再度の畿内への長征に乗り出した。この北畠軍が下野に入ると、禅可は主君・公綱の意向に逆らい、公綱の嫡子でこの時まだ十二歳の加賀寿丸(のちの氏綱)を擁して宇都宮城に籠城し、北畠軍に抵抗を示した。『太平記』によれば北畠の大軍の猛攻の前に禅可はたった三日で降参(ただし一時逃れの)をしたことになっているのだが、史実では北畠軍は下野攻略に3ヶ月以上手間取っていたらしく、禅可の抵抗は実際にはかなり頑強なものであったと推測される(禅可だけでなく小山氏も北畠軍に抵抗している)
 『太平記』によると紀・清両党はひとまず北畠軍に降参して公綱とともに畿内への遠征に旅立ったが、禅可は仮病をつかってこれに同行せず、あとから足利方について清党を率いて北畠軍の後を追ったという。そして建武5年(延元3、1338)正月28日に行われた美濃・青野原の戦いにも参加、主筋の宇都宮公綱を敵に回して奮戦している。
 北畠顕家軍がこの年の5月に畿内において壊滅すると、今度はその父・北畠親房が関東にやってきて南朝勢力の拡大に努めた。暦応2年(延元4、1339)から親房の同族の春日顕国の軍勢が常陸から下野方面へ攻略を進め、暦応4年(興国2、1341)には芳賀禅可の居城・飛山城も顕国軍によって攻め落とされてしまった。だが禅可はまもなくこれを奪回し、親房ら常陸南朝勢力の活動はしばらく続いたものの康永2年(興国4、1343)11月の関・大宝両城の陥落によってとどめをさされた。

―老いの一徹で鎌倉府に抵抗―

 足利幕府の内戦「観応の擾乱」が始まり、観応2年(正平6、1351)に足利直義が関東に下ってきてここを拠点に兄・尊氏に対抗しようとした。尊氏は南朝と一時的に手を組んで(正平の一統)関東へと攻め下り、直義と駿河・薩タ山で決戦を行った。このとき宇都宮勢は尊氏側に味方して直義を背後から牽制し、芳賀一族も出陣して直義派の猛将・桃井直常らと戦っている。結局直義派は敗れて翌年には直義も急死し、関東は尊氏とその子・足利基氏のもとにほぼ平定される形となった。
 このとき基氏の育ての親でもある直義派武将・上杉憲顕は尊氏に抵抗して新田一族らと手を組んだために上野・越後の守護職をとりあげられ、それらは宇都宮氏に恩賞として与えられることになった。芳賀禅可の子、高貞高家の二人が上野・越後の守護代に任じられて実質的に父の禅可がその執務を仕切っていたとされる。成長した宇都宮氏綱も禅可には頭が上がらなかったらしく、『太平記』の書きぶりを見てもこのころの禅可はもはや宇都宮氏の代表といっていい存在になっていたことがわかる。

 尊氏も死去して室町幕府が二代将軍・足利義詮の時代に入って間もない延文4年(正平14、1359)11月、関東執事(関東管領)の畠山国清が関東から大軍を率いて河内・紀伊へ進撃、南朝に対する大攻勢に乗り出した。この軍には芳賀禅可とその息子たちも参加しており、翌年4月に幕府側の劣勢が続くなか、芳賀勢が紀伊へ侵攻した時の詳しい描写が『太平記』にある。
 それによると、このとき禅可(このときすでに70歳)は天王寺の本陣にとどまって息子の公頼(高貞と同一人物?)らを紀伊へ出陣させたが、禅可は息子を涙ながらに見送りながら「東国に名のある武士は多いが、弓矢の道において人に後ろ指をさされるようなことをしていないのは我ら一党だけである。先の戦いで味方が負けて敵に勢いがついているから今度の戦いは苦戦であろう。もし戦を仕損じて退却したら全くの二の舞であり、敵に勢いをつけるだけでなく仁木義長などに笑われて大恥である。だから敵を打ち破るまでは生きて顔を合わせることはないと覚悟せよ。これは円覚寺の長老からいただいた袈裟じゃ。これを母衣(ほろ)につけて、いつ死んでもいいようにしておけ」と言い渡した。はたして公頼は南朝方の大将・四条隆俊を見事に打ち破って凱旋し、禅可は大いに喜んだという(「太平記」巻34「二度紀伊国軍の事つけたり住吉楠折るる事」)。禅可と「清党」の武勇、そしてそれを彼ら自身が強く誇りとしていたことがうかがえる逸話である。
 禅可の言葉に仁木義長の名が憎々しげに言及されているが、この直後に畠山国清・細川清氏らによって仁木義長打倒の兵が挙げられる。禅可もこれに参加しており、国清に従っての行動であったようだ。義長はこれで失脚するが、南朝への攻勢は結局何の成果もあがらぬまま、国清ら関東勢は国元へ帰ることになる。

 ところが翌康安元年(正平16、1361)11月に関東武士たちの不満を背景に関東公方・足利基氏が畠山国清を執事職から解任する。そして貞治2年(正平18、1363)3月に基氏は十年浪人していた上杉憲顕を関東管領職に復帰させ、越後・上野守護職を宇都宮氏からとりあげて憲顕に返してしまった。
 芳賀禅可は当然これに激怒した。『太平記』によると禅可は「降参した不忠者の上杉に、我らが忠義を行っていただいた恩賞の地を与えられるとは何事か」と怒って、越後国内で上杉側と小競り合いを始めた。しかし結局敗れたため「いっそ世の中が乱れればよい。上杉とひと合戦してこの恨みを晴らしてやる」と機会をうかがい、憲顕が関東管領となるため越後から鎌倉へ行く途上で襲撃しようと上野・板鼻に兵を出した。『太平記』が禅可を越後守護と記しているのは史実としては誤りだが、禅可が「事実上の越後守護」だと周囲がみており、また当時の宇都宮一族の実権を禅可一人が握っていたことの表れでもあろう。

 しかしこの禅可の行動に対し、足利基氏は断固たる処置をとった。自ら軍を率いて宇都宮攻撃に乗り出したのである。禅可は「ならば鎌倉どのと戦おう」とこれに果敢に挑み、禅可の息子たち、孫たちが武蔵国・苦林野(現埼玉県坂戸市周辺)において6月17日に基氏軍と激突した。激戦の末に芳賀軍は敗走、基氏はこれを追って下野国・小山まで進出した。ここで宇都宮氏綱が基氏のもとへ参陣し、「このたびの禅可の行いは、わたくしはいっさい同意しておりません。主君に意向に逆らった罪はのがれがたく、禅可はすでに逐電(逃亡)してしまいました。これ以上兵を向けても無意味かと思います」と述べたので、基氏は宇都宮には寛大な措置をとってすぐに鎌倉に引き返してしまったという(「太平記」巻39「芳賀兵衛入道軍の事」)。しかし守護職を奪われた当事者は氏綱であり、彼が禅可の行動に同意していなかったとは考えにくく、罪を禅可一人に押し付ける(あるいは禅可が承知で罪をかぶる)ことで宇都宮本家の安泰を図ったというあたりが真相であろう。基氏もそれを百も承知で諸大名に対する一罰百戒の形でそれ以上の追及をしなかったのだと思われる。『太平記』は禅可の行動を「思慮なき老害」と批判しており、それが結果的に基氏の評判をあげることになったと皮肉っぽく記している。

 この一件でさしもの禅可も引退を余儀なくされたようで、以後の消息は伝わらない。ただその没年月日は応安5年(文中元、1372)11月30日、享年82歳の長寿であったと伝えられている。真岡市海潮寺に肖像画が伝わっている。
大河ドラマ「太平記」ドラマ中への登場はないが、第13回の「太平記のふるさと」コーナーで宇都宮公綱と共にやや詳しく紹介された。海潮寺の禅可肖像画や映され、彼が一貫して尊氏派であり、尊氏を武家の棟梁と信頼していたのだろうとまとめる内容になっていた。

はぎ
 大河ドラマ「太平記」に登場する架空人物(演:神野三鈴)。楠木家の次女の一人で、脚本の設定では元弘の乱勃発時(1331)で23歳。年下の小岩、中年の虎女と共に侍女トリオを組み、楠木家に漂うのんびりムードに一役買っている。特に目立つ言動はなく、好奇心いっぱいの小岩とコミカルな虎女に対するツッコミ役をつとめている。第11回で楠木館を訪れた万里小路藤房を興味深げに覗き見し、第17〜18回では千早城籠城戦に参加している。第29回では正成の妻・久子正行と共に京都見物をしていた。

柏庭清祖はくてい・せいそ?-1398(応永5)
親族父:足利義詮 
兄弟:足利義満・足利満詮・廷用宗器・宝鏡寺殿
生 涯
―義満の兄?とされる禅僧―

 室町初期の禅僧で、室町幕府第二代将軍・足利義詮の子。第三代将軍の足利義満との関係については、『延宝伝燈録』に義満の「庶弟」とあるものの、仲芳中正による仏事法語に「累代覇王之長子」とか「公は乃ち其家の長子」といった表現があるため、義満の兄とする意見が有力である。

 生母については定かではなく、義満の生母・紀良子が延文2年(正平12、1357)5月5日に義満の兄になる男子を産んだ記録がありながらその後の消息が不明であるため、この男子が柏庭清祖では、との見方もある。柏庭の享年については「四十年」「四十五年」とする史料があり、この男子誕生とほぼ同時期であることも傍証となっている。しかし義詮の長男でありながら出家させられ、同母弟の義満が後継者に立てられたことが不自然となる。人物叢書『足利義満』の著者・臼井信義は、仮に柏庭が義満の同母兄だとすれば「性格が温和に過ぎたのであろう」とする推測を記している。
 一方、『祇園執行日記』応安4年(1371)9月21日の記事に「将軍御舎兄僧ノ御母儀」が「赤松中津河」「細川御局」「八幡殿」らと共に湯山に集っていたとの記述がある。「将軍御舎兄僧」すなわち義満の兄の僧となれば柏庭清祖の可能性が非常に高く、その「母儀(母親)」という表現がわざわざざなされていることからこの女性が義満の生母とは考えにくい。やはり柏庭清祖は義満の兄ではあるものの母親の身分が紀良子に比べて低かったために後継者とは早くから見なされていなかった、と考えるべきであろうか。

 柏庭清祖は、時期は不明ながら父・義詮の立ち会いのもと、足利氏の菩提寺である等持寺において、夢窓疎石の後継者であり足利家とも縁の深い春屋妙葩を戒師として出家・剃髪したとされる。柏庭はやはり夢窓の弟子である青山慈永の法統を嗣ぎ、天竜寺の塔頭・香厳院(義母・渋川幸子の塔所)の開祖となって、以後この香厳院に代々足利将軍家の子息が入る端緒となったほか、青山の開いた建仁寺・大統庵の住持ともなった。
 のちにそこに嘉陰軒を開いて隠棲し、応永5年(1398)6月28日にここで没した。前述のようにこのときの享年が「四十年」あるいは「四十五年」であったとされる。後年、「仏運禅師」とおくり名された。

参考文献
臼井信義『足利義満』(吉川弘文館・人物叢書)ほか

橋本正員はしもと・まさかず?-1336(建武3/延元元)
生 涯
―湊川で正成に殉じる―

 楠木一族の一人と思われるが、その事跡は全くの不明。『太平記』は湊川の戦いで楠木正成と共に自害した一族の中に「橋本八郎正員」の名を記しているが、それ以外に登場する場面はない。名前から楠木一族に連なる和田氏系で、現在の大阪府貝塚市橋本に在住した武士と考えられる。
 詳細は全く不明ながら『太平記』に正成と共に散華したとその名が明記されたことで後世正成と共に称揚されることとなった。神戸にある広巌寺にある「楠木一族霊牌」にもその名があるが後世の作の可能性が高い。正成を神として祭る湊川神社が創建されると他の戦死者と共に橋本正員も神として合祀されることになった。
大河ドラマ「太平記」第36回「湊川の決戦」と第37回「正成自刃」の2回のみ登場した(演:長澤隆)。他の一族キャラがドラマ前半から登場しているなか正員はここだけの登場で、あくまで正成の自害につきあう大勢の一人という扱いなので全く目立たない。
その他の映像作品大正15年(1926)の映画「大楠公」で尾上華丈が演じた。変わったところでは1928年に公開された日活映画「続水戸黄門」中村紅果に演じられ登場している。まず現存しない映画と思われるなのでどのように登場したのか確認しようがないが、キャストを見ると他の楠木一族も登場しているので、楠公を慕って湊川に来た水戸黄門が歴史的場面を空想するシーンで登場したかと推測される。
歴史小説では上記のように湊川で自害という以外何も分からないのだが、正成をとりあげた作品では一族・家臣の一人としてよく顔を出す。

橋本正督はしもと・まさたか?-1380(康暦2/天授6)
官職民部大輔・宮内少輔
生 涯
―和泉・紀伊の南朝主力―

 橋本氏は和泉国橋本(現・大阪府貝塚市橋本)を拠点とする武士で、楠木氏とは同族関係であったと見られる。不明なことが多い楠木一族のなかで橋本正督は「宮内少輔」「民部大輔」の官名と共に実名が史料的にはっきり確認できる人物だが、江戸時代以後の作成と思われる系図類に「正督」とは別に「橋本正高」の名があり、それに基づいたらしい水戸藩の『大日本史』では「正高」と「正督」を別人として扱い、「正高」を南朝の忠臣として列伝に加えている。しかしその活動の時期や範囲から「正督」と「正高」は同一人物と判断する(そもそも「正高」の存在自体が怪しい)のが通説となっている。
 橋本一族では『太平記』の湊川合戦のくだりで「橋本正員」が登場しているが、正督との続柄は不明である。後世の系図類で正督を正員の孫とするものがあるが、あまりあてにならない。

 橋本氏は和泉における楠木・南朝勢力の中心として活動し、正平8年(文和2、1353)に北朝方の日根野氏から土丸城を奪取して自らの拠点としている。
 しかし正平24年(応安2、1369)正月に主筋である楠木正儀が足利幕府に投降。この直後に正督は南朝から正儀に代わって河内・和泉守護職を任されたとみられ、「民部大輔」の名で正平24〜建徳元年(応安3、1370)に守護の立場で文書を発給している。そして同族の和田氏らと共に幕府側に寝返った正儀に対して攻勢をかけている。
 文中2年(応安6、1373)8月に天野金剛寺の南朝皇居が幕府軍に攻略され、南朝は河内から撤退。これを機に正儀が和泉の橋本・和田らにも幕府への投降を呼びかけ、正督もこれに応じた。翌応安7年(文中3、1374)7月26日付の文書から北朝年号の「応安」を使用していることが確認でき(和田文書)、この文書で正督は同族で南朝方についていた和田助氏に幕府への投降を呼びかけていて、助氏も間もなく幕府側に鞍替えしたようである。楠木正儀が幕府から和泉守護と認められたことで正督は彼の下の守護代として和泉統治にあたったとみられる。
 翌永和元年(天授元、1375)8月25日、正督は幕府の命を受けて紀伊に出兵、紀伊守護・細川業秀の指揮を受けて南朝方の湯浅氏を攻撃している(花営三代記)。当時の幕府は管領・細川頼之が政権を握っており、正儀もその頼之を後ろ盾にしていて、正督が細川業秀の指揮下に入ったのも頼之との関係があったためであろう。

 しかし幕府内では反頼之派の勢いが次第に増し、頼之の政治的影響力は衰えてゆく。それは楠木正儀や橋本正督ら元南朝方の立場も危うくなることを意味した。いったんは幕府方に投降した正督も先行きに不安を感じていたのかもしれない。
 永和4年(天授4、1378)11月2日、正督は再び南朝方に鞍替えして紀伊で蜂起、細川業秀の陣を急襲した。幕府はただちに細川頼基山名義理山名氏清赤松義則らを討伐に派遣したが、正督はほとんど戦わずにいったん敗走、幕府軍の主力が引き上げた隙に一気に攻勢をかけて12月13日に細川業秀を破ってこれを淡路に追い出している。
 正督率いる南朝軍の勢いはかなりのものだったらしく、幕府では正儀では鎮圧できないと判断、反頼之派の山名義理を紀伊守護、山名氏清を和泉守護に任じ、義満自身も東寺までながら自ら武装して出陣し幕府軍を送り出した。翌天授5年(康暦元、1379)正月22日に山名義理・山名氏清が正督の甥がこもる土山城を攻略、翌日に攻め落とした。山名軍は紀伊まで侵攻し、正督らの動きを完全に封じ込めた。
 翌天授6年(康暦2、1380)7月17日、正督は山名氏清軍に敗れ戦死。『花営三代記』によれば討ち取ったのは山名氏の家臣・高山尾張守の若党・上田次郎左衛門尉であった。正督を含めた11名の首級が京に送られ、20日にさらし首にされている。

 後年、『大日本史』などによる南朝正統論の高まりにより、「橋本正高」を南朝に殉じた忠臣として顕彰する動きが起こり、大正から昭和にかけて貝塚市など各地に顕彰碑が建てられている。だがいずれも『大日本史』をもとにした史実検証の曖昧なもので、大半が「正督」とは別人扱いで一時北朝側についたことなど無視されている。

畠山(はたけやま)氏
 清和源氏、足利氏の一門。もともとの秩父氏は坂東八平氏の一つで、源平合戦時代の畠山重忠が名高いが、その重忠が北条氏に討たれた後、その未亡人と足利義純が結婚、畠山氏の名跡を継ぐことになった。南北朝時代には足利一門として各地で活躍、本来の惣領家は奥州に下り、二本松畠山氏となり、傍流であった系統が室町幕府の中核をなす「三管領」の一角を占める地位に成長する。また日向を中心に九州で活動した系統もある。

新田義兼───────女子







┌義氏惣領  ||───時兼岩松高国国氏国詮二本松畠山満慶

├義氏桃井 ||


義深基国──満家
足利義兼┴──────義純



├清渓尼足利氏満




    ||──┬時国───┴貞国─家国国清─義清───満長
北条時政───────女子└義生────義方─宗義┬宗生





||



├宗国─直宗



畠山重忠



直顕┬重隆









└宗泰

畠山国詮はたけやま・くにあき生没年不詳
親族父:畠山国氏 兄弟:畠山国澄
子:畠山満国・畠山満詮・畠山満泰
官職修理大夫・上総介・宮内大輔
幕府奥州管領
生 涯
―幼少から苦労した二本松畠山の祖―

 奥州管領となった畠山国氏の子。幼名は「大石丸」あるいは「王石丸」「平石丸」と伝えられる。
 観応2年(正平6、1351)2月、「観応の擾乱」の波及で足利直義派でもう一人の奥州管領である吉良貞家が畠山国氏に攻撃をかけ、岩切城の戦いで国氏とその父・高国ら畠山一族郎党の多くが戦死。国氏の子・大石丸(のちの国詮)はかろうじて逃げのび、蘆名氏など南奥州の武士たちに保護されていたらしい。文和3年(正平9、1354)5月22日付で結城朝常あてに書状を出し、自らが奥州管領であると表明しているが、当時まだ元服前だった国詮は証判は記していない(結城文書)
 この文和3年には幕府から奥州管領に任じられた斯波家兼が奥州入りし、奥州では斯波(のちの大崎氏)・吉良・石塔・畠山の四氏がそれぞれに支配権を主張して乱立する複雑な情勢となった。国詮は足利義詮が二代将軍となった時期に元服したとみられ(その一字を受けているため)、父以来の本来の奥州管領であるとの強い自負をもって勢力回復につとめた。

 戦国期成立の記録『余目氏旧記』によると国詮は宿敵の吉良氏を打倒すべく長岡郡沢田(現宮城県大崎氏古川)まで進出したが斯波氏が吉良に味方したため後退、竹城保長田(宮城県松島)で合戦に敗れて海路逃れ、以後は二本松の地に拠点を構えるようになったとされている。この史料はかなり後の時代に編纂されたこともあり細かい事情には伝承に基づいた誤りも散見されるため注意を要するが(例えば国詮の父・国氏の戦死状況も史実と食い違う)、国詮以後の畠山氏が「二本松殿」と認識されるようになった経緯の説明なので大筋ではそういうことだったのだろう。
 国詮は息子と娘を蘆名氏と縁組させていて、蘆名氏のような南奥州の有力氏族と結びついてその協力を得ながら勢力の挽回に努力していたようである。至徳元年(元中元、1384)には石川荘(現福島県石川)の八幡神社の領地を安堵する判書を発行しており、「奥州管領」としての一定の権威をもった政治活動をしていたことをうかがわせる。

 嘉慶元年(元中4、1387)に祖父・高国と父・国氏の供養のため、二本松・満腹寺に地蔵菩薩を納めた嘉慶堂を建立している。このとき鎌倉腰越の満福寺から僧を呼んで法要を行ったので、以後この寺は満福寺と称されるようになったという。
 明徳2年(元中8、1391)6月27日付で将軍・足利義満伊達政宗葛西陸奥守(満良?)あてに御教書を出し、大崎詮持が畠山国詮の所領である加美・黒川両郡を「横領」しているとして、伊達・葛西両氏にその接収と国詮側への引き渡しを指示している(伊達家文書)。このころ奥州は鎌倉府の直轄下におかれることとなって「奥州管領」はほぼ無意味となるが、国詮としては一定の勢力挽回を実現できたと言っていいだろう。祖父・父を討たれた岩切城の戦いから苦節40年が経過していた。
 南北朝合体実現後の応永元年(1394)には嫡子の畠山満泰が当主としての活動を見せていることから、国詮はその直前に家督を譲って引退した可能性がある。それから19年後の応永20年(1413)7月に鎌倉公方・足利持氏の指示で「畠山修理大夫」が伊達持宗討伐に出陣し、苦闘の末に鎮圧したとの記事が『鎌倉大日記』にあってこれを国詮のこととする見方が多いが、さすがにこの時期の国詮は高齢だったはずとして息子の満泰のことと考える見解もある。
 いずれにしても国詮の没年は不明である。彼の子孫は「二本松氏」とも呼ばれ、戦国時代まで二本松領主として続くこととなる。

畠山国氏はたけやま・くにうじ?-1351(観応2/正平6)
親族父:畠山高国 兄弟:畠山直泰
子:畠山国詮・畠山国澄
官職左馬権頭・中務大輔
位階正五位上
幕府奥州管領
生 涯
―奥州管領同士の戦い―

 足利一門・畠山高国の子。
 貞和元年(興国6、1345)、吉良貞家と共に奥州管領に任じられ、父・高国らと共に奥州に下向。国氏と貞家の二人が任命されたのは当時の幕府内の高師直派・足利直義派の対立が背景にあり、同じ足利一門どうしながら国氏は師直派、貞家は直義派と目されていた。管領二人の役割分担については明白ではないが、吉良貞家が南朝勢力相手にしばしば出陣しているのに対し、国氏は自身が出陣した形跡がないため、後方支援あるいは非軍事分野を担当していたらしい。

 中央で足利直義が南朝と結びついて足利尊氏・高師直に戦いを挑むと、奥州でも二人の奥州管領同士で戦いが始まった。観応2年(正平6、1352)に入って間もなく吉良側が国氏のいる名生城へ攻勢をかけ、国氏は一族郎党と共に留守家任を頼って岩切城(宮城県仙台市)にたてこもって抵抗したが、2月12日に岩切城は陥落。国氏は父・高国、弟の直泰および家臣ら百余名と共に自害して果てた。
 息子の大石丸(国詮)は落ちのび、後に二本松に拠点を構えて、二本松畠山氏と呼ばれるようになる。

参考文献
大友幸男『史料解読・奥羽南北朝史』(三一書房)

畠山国清
はたけやま・くにきよ?-1362(貞治元/正平17)?
親族父:畠山家国 兄弟:畠山義深・清渓尼(足利基氏室・氏満母) 子:畠山義清
官職左近将監・阿波守・左京大夫・修理大夫
位階正五位下
幕府紀伊守護・関東執事(のちの関東管領)
生 涯
 足利一門に連なる畠山氏の中心人物として南北朝動乱を複雑に生きた武将。生年は不明だが恐らく足利尊氏と同世代と思われる。出家して「道誓(どうせい)」という。

―動乱を生き抜き関東執事に―


 その名が史上に初めて確認されるのは建武2年(1335)11月、建武政権に反旗をひるがえした足利尊氏に対し討伐軍が派遣され、これを足利直義が迎え撃った矢作川の戦いである。『太平記』によるとこの時の直義軍の中に「畠山左京大夫国清」が弟の深国と共に参加している。以後、尊氏の京都突入と九州への転進、さらに東上して京の再占領まで一門として常に付き従い、その功により紀伊国守護に任じられた。

 貞和5年(1349)に幕府内部の高師直派・足利直義派の対立が深刻化するなか、師直は河内・石川城に出陣していた兄弟・師泰を京へ呼んでクーデターを起こすが、このとき師泰が畠山国清を紀伊から呼んで石川城を託したと『太平記』は記している。畠山一族の中には直義の側近で反師直の急先鋒であった畠山直宗など直義派がいたが、師泰があっさり留守の城を預けているところをみるとこの時点での国清の立場はとくに直義派というわけではなかったらしい。しかしいったん失脚した直義が翌観応元年(1350)11月に京を脱出して南朝に投降し、拠点としたのはこの国清がいる石川城だった。

 直義が南朝と和睦して尊氏・師直に対して戦いを挑むと国清はその主力の一人となり、観応2年(1351)2月の摂津・打出浜の戦いで尊氏・師直軍を打ち破った。一時は自害を覚悟した尊氏らだったが、尊氏の側近の饗庭氏直がひそかに畠山国清のもとへ走って和議の交渉をし、高兄弟の出家ということで手を打つことが決まったと『太平記』は記す。その直後に高兄弟が殺害され、尊氏・直義の一時的な和解も破れて再び戦いが始まると、国清は当初は直義の主力として戦いつつも細川顕氏と共に和議をとりもとうともしている。国清自身は直義派に属しつつも尊氏相手に戦う気はもともとあまりなかったのかも知れない。畠山一族では本家筋の高国国氏の父子が尊氏側について直義派に攻め滅ぼされており、一族内で複雑な事情を抱えていた。

 観応2年(1351、正平6年)8月、尊氏が南朝に「降伏」して「正平の一統」を実現、近江で直義軍を打ち破った。10月に尊氏・直義は和議のための直接会談を行うが、このとき国清は直義に「政務を義詮に譲れ」と進言、直義がこれを拒絶したので細川顕氏と共に直義を見限って尊氏側に鞍替えする。直後に尊氏の推挙で北朝から国清に正五位下の位が授けられていて、これは事実上の「買収」だったとの指摘もある。
 このあと国清は、関東に下った直義を追う尊氏の軍に加わり、駿河・薩タ山の戦いで直義軍を破った。伊豆山中に追い詰められた直義に投降を呼びかける使者に仁木頼章義長兄弟と共に国清の姿が見える。この投降の直後、観応3年(1352、正平7)2月に直義は鎌倉で急死し、その後の鎌倉は尊氏の子・基氏が治めることとなった。国清はその関東公方・基氏の執事(のちの関東管領)を務めることになる。国清は妹を基氏の妻とし(年齢的に不自然として娘とみる見解もある)、関東の統治にあたることになった。

―南朝への攻勢と失脚―

 尊氏が没して二代将軍・義詮の時代に入った延文3年(1358、正平13)10月、関東における南朝勢力の中心であった新田義興(義貞の次男)が多摩川の矢口渡で謀殺されるが、これは畠山国清が指示を出していたとされる。

 延文4年(1359、正平14)11月、国清は関東から兵を率いて上洛した。義詮による南朝への攻勢に参加するためであったが、微妙な対立関係をはらんでいた義詮と基氏の間をとりもつ意図もあったと推測される。国清は仁木義長・細川清氏らと連携して、かつての拠点である河内、紀伊へと進出したが南朝側の抵抗も厳しく、そのうちに国清・清氏が仁木義長と対立して幕府内の内紛に発展、結局なんら成果を上げないまま国清は延文5年(1360、正平15)8月に無断で鎌倉へと帰ってしまう。このとき都では「御敵の 種をまきおき 畠山 打返すべき 世とは知ずや」「何程の 豆をまきてか 畠山 日本国をば 味噌になすらん」「畠山 狐の皮の 腰当に ばけの程こそ 顕れにけれ」といった落首が掲げられ、物笑いの種になったと『太平記』は記している。

 翌康安元年(1361、正平16)9月、義詮に謀反の疑いをかけられた執事・細川清氏が南朝に下った。その直後の11月に国清も基氏に追われて兄弟と共に伊豆・修善寺にたてこもっており、東西の執事の失脚劇は連動したものであった可能性がある。『太平記』によると先の畿内遠征で勝手に帰国したとして国清に罰せられそうになった関東武士たち千余人が一味神水の結束をして国清の解任を要求、基氏は「下克上の至りかな」と怒りつつやむなくその要求を認めたとされる。修善寺で基氏相手に孤立無援で戦うことになった国清は「新田義興を殺すのではなかったな」とぼやいたとも『太平記』は伝える。

 修善寺で抵抗を続けた国清だったが、翌貞治元年(1362、正平17)9月に基氏からの呼びかけに応じて投降した。しかし命を助けるとは嘘で実は基氏は国清を殺害するつもりだと知人から教えられ、時宗の僧侶らにまぎれて京へと逃亡した。京では七条道場に潜伏し、つてを頼って楠木正儀に南朝への投降を申し入れたが断られ、結局行くあてもなく奈良でのたれ死にすることになったと『太平記』は記している。「津川本畠山系図」では国清の死は同年9月25日とするが、「畠山家記」は国清の没年を2年後の貞治3年(1364)のこととしていて、最期の実際の模様は判然としない。なお、一時没落した畠山家は弟の義深が幕府の赦免を受けて再興する。
大河ドラマ「太平記」第46・47・49(最終回)に登場(演:久保忠郎)。直義が京を脱出して石川城に入り、南朝からの綸旨を受けた場面から登場し、以後直義派の武将として顔を見せる。上杉憲能との会話で師直に殺された畠山直宗が自分の父親のようなことを言っているが、脚本の勘違いか?尊氏側に寝返ったことは描かれず、その部分は細川顕氏がクローズアップされる形になった。
PCエンジンCD版北朝方武将として守護国紀伊に弟・義深と共に登場。初登場時の能力は統率80・戦闘76・忠誠93・婆沙羅55。北朝の尊氏でプレイすると足利直属ということで直接指示が出せる。
PCエンジンHu版シナリオ2「南北朝の大乱」で幕府方武将として紀伊・湯浅城に登場。能力は「弓2」
メガドライブ版足利軍武将の一員として登場。能力は体力88・武力90・智力107・人徳82・攻撃力77。  
SSボードゲーム版武家方の「武将」クラス、勢力地域は「南畿」。合戦能力2・采配能力3。ユニット裏は弟の畠山義深。

畠山高国はたけやま・たかくに1305(嘉元3)-1351(観応2/正平6)
親族父:畠山時国 兄弟:畠山貞国
子:畠山国氏・畠山直泰
官職蔵人・上野介
幕府伊勢守護
生 涯
―奥州畠山氏のルーツ―

 足利一門・畠山時国の子。生まれは足利尊氏とほぼ同じだが、畠山氏の系図ではかなり前の世代に位置づけられ、同時代を生きた同族・畠山国清が、兄弟の畠山貞国の孫にあたることになるという不自然さもある。「高国」の「高」は北条高時の一字を受けたものと思われ、その父・貞時の一字を受けた貞国が兄弟にいるのもやや奇妙で、系図には若干の疑いを抱かざるをえない。

 ともあれ、畠山氏の中ではこの高国の系統が本家筋とされていて、南北朝動乱初期から足利尊氏に従い、建武3年(延元元、1336)正月の京都攻防戦の中で淀方面の部隊を任されている(梅松論)。この年の後半にも足利尊氏軍と後醍醐天皇側との間で京都攻防戦が繰り広げられるが、高国もこれに参加していて6月〜9月に遠江の天野遠政や山城の小枝道忍らを率いて戦っていたことが軍忠状類から確認できる。
 その後、後醍醐側近の北畠親房が伊勢を拠点に活動を始めたため、建武3年の暮れに伊勢守護に任じられてその対応にあたった。翌建武4年(延元2、1337)の4月に伊勢多気郡黒部浜で、7月には度会郡岩出で南朝方と戦っている。なお、この時期の高国は書状類で「上野禅門」「上野入道」と記されており、すでに出家していたことが分かる。法名は「信元」といった。
 しかし翌建武5年(延元3、1338)9月以前の段階で伊勢守護を更迭され、高師秋に交代させられている。理由は定かではないが、この年に北畠顕家が奥州から大軍を率いて襲来し、伊勢を経由して大和に入っている。この動きを伊勢守護として阻止できなかったことが更迭の理由だったと見られる。

 その後しばらく要職につけなかったが、動乱も一時鎮まった貞和元年(興国6、1345)に息子の畠山国氏吉良貞家と共に奥州管領に任じられたため、高国も息子の後見人として奥州に赴くこととなった。奥州に旅立つにあたって高国は当時幕政を仕切っていた足利直義に面会したが、このとき直義から「かつては戦争続きで船中や馬上で数え切れぬほどの苦労をした。いま安楽な暮らしをしていてもそのことを忘れぬように」として、「みな人の うかりし方の わすれずば 望みのうえの のぞみあらめや」(誰でも苦労した時のことを忘れなければ思ってもみない望みがかなえられよう)と激励(?)の歌を贈られている(砂巌記)

 高国は奥州に入って国氏と共に統治にあたったが、中央で起こった幕府の内戦「観応の擾乱」が奥州にも波及、高国・国氏は尊氏派に、吉良貞家は直義派に属して合戦となった。観応2年(正平6、1351)2月12日に高国・国氏父子は岩切城(宮城県仙台市)に立てこもったが吉良貞家軍の攻撃を受け、家臣ら100余名と共に自害して果てた。
 高国の孫の畠山国詮は生き延び、二本松を拠点にしてその子孫は「二本松氏」とも呼ばれるようになるが、本来の畠山主流の地位は失われた。戦国期まで続いたこの二本松畠山氏のルーツは高国ということになる。

参考文献
佐藤進一「室町幕府守護制度の研究・上」(東京大学出版会)ほか
PCエンジンHu版シナリオ2「南北朝の大乱」に北朝方武将として陸奥・二本松城に登場する。能力は「長刀4」

畠山直顕はたけやま・ただあき生没年不詳
親族父:畠山宗義 兄弟:畠山宗生・畠山宗国
子:畠山重隆・畠山宗泰
官職修理亮・治部大輔
幕府日向守護
生 涯
―日向直冬党として奮闘―

 足利一門・畠山氏の傍流になる畠山宗義の子。通り名は「七郎」で、初めは「義顕」と名乗ったとされる。建武の乱の際に足利尊氏に従って九州に下ったが、多々良浜の戦いで尊氏が菊池氏に勝利して中央へ戻る際に彼を「日向国大将」として日向に送り込んだ。これは日向に尊氏の直轄地があり、南九州の有力者・島津氏を牽制する狙いがあったとみられている。康永4=貞和元年(興国6、1345)から日向守護に任じられ、幕府内では足利直義と結びつき(「直顕」への改名もそのためとみられる)、甥の畠山直宗は直義の腹心となっていた。

 幕府の内戦「観応の擾乱」が始まると、足利直義の養子・足利直冬が九州に上陸して少弐頼尚らの支援を受けて勢力を拡大した。観応元年(正平5、1350)9月までに直顕も直冬に味方することを表明し、書状では北朝が改元した「観応」を認めず「貞和」年号を使うようになる。直顕は直冬を旗頭として尊氏派の一色範氏に対抗、さらには日向を越えて大隅支配をねらって禰寝清成を支援し、大隅守護の島津氏とも激しく対立した。
 観応2年(正平6、1351)2月に中央では高師直一族が滅ぼされ、足利直義派が一時的にせよ勝利を収めた。直義派である直顕はこれを大いに喜び、この年の4月22日付の種子島時基あての軍勢催促状の中で師直の滅亡により天下泰平となったと喜ぶ表現をしている。義父の勝利により直冬も九州において地位を高め、家臣の尾張義冬を日向・大隅に派遣して直顕と協力して支配を進めようとした。

 しかし間もなく尊氏が南朝と手を結んで「正平の一統」が実現、観応3=文和元年(正平7、1352)2月には尊氏に敗れた直義が鎌倉で急死した。そしてその年のうちに直顕は日向守護職を一色直氏に奪われ、幕府から追討を受ける身となってしまう。島津氏も懐良親王の南朝勢力と結んで大隅に攻勢をかけてきて、直義=直冬派の九州での衰退傾向のなか、直顕は必死に日向・大隅の支配を維持しようと奮闘を続け、延文元年(正平11、1356)には幕府方に帰参している。
 延文3年(正平13、1358)11月、南朝方の菊池武光が日向に侵攻、直顕のこもる穆佐城を攻撃した。直顕はかなわず城を捨てて逃亡、三俣城に移って息子の重隆と共に菊池軍に抵抗したがここも間もなく陥落し、直顕父子はどこへともなく逃亡した。菊池軍はさらに大隅の志布志地方まで進撃し、畠山直顕の勢力圏を一時的にせよ一掃してしまった。

 それでも直顕は復活をあきらめず、翌延文4年(正平14、1359)には日向守護に復職し、肥後の相良定頼と連携して島津氏に対抗するなど、しばらく日向・大隅回復に動いている。しかし島津氏が南朝方から幕府方に戻ると、延文5年(正平15、1360)6月に直顕は長らく敵対してきた島津氏久に書状を送って「公私同心の思いをなして凶徒(南朝方)と戦おう」と連携を呼びかけてもいる。しかし九州はしばらく懐良親王と菊池氏の南朝征西将軍府の優勢が続き、直顕の存在感は衰える一方であった。
 その状況を変えることになったのが九州探題に任じられた今川了俊の九州上陸である。了俊の九州入りすると直顕から奪い取る形で日向守護となったが、それでも応安5年(文中元、1372)5月に直顕が了俊に服従を表明していることが確認できるので、もはや手も足も出ない状況になっていたのだろう。この年に南朝征西将軍府の拠点・大宰府が陥落して九州の情勢が大きく変わることになるのだが、直顕のその後の消息は不明となっている。

参考文献
瀬野精一郎『足利直冬』(吉川弘文館・人物叢書)
川添昭二『菊池武光』(戎光祥出版・中世武士選書)
佐藤進一『室町幕府守護制度の研究(下)』(東京大学出版会)
PCエンジンCD版薩摩大隅に北朝方武将として登場するが、史実では宿敵であった島津氏の配下武将扱いにされている。初登場時の能力は采配71・戦闘85・忠誠79・婆沙羅36
PCエンジンHu版シナリオ2「南北朝の大乱」で、日向・油津城に北朝方武将として登場。ただし「義顕」名義となっている。能力は「長刀2」

畠山直宗はたけやま・ただむね?-1349(貞和5/正平4)
親族父:畠山宗国
官職大蔵少輔
生 涯
―師直に暗殺された直義側近―

 足利直義の側近で、観応の擾乱を招いた人物の一人とされるが、それ以外の詳しい事跡は伝わらない。
 上杉重能と並んで直義の腹心であったことは間違いなく、「直宗」の名も直義の字を与えられたものと推測される。『太平記』によれば重能や僧・妙吉と共に直義に高師直に対する讒言を吹き込み、対立をあおり立てた(「太平記」は智教上人の怨霊が重能・直宗の心に吹き込んだとされる)。貞和5年(1349)6月、直宗・重能の進言を入れた直義は尊氏に迫って師直を執事職から解任、さらに師直を自邸に呼びつけて暗殺しようとまでした。
 難を逃れた師直は翌月に直義打倒のクーデターを起こし、直義一派が逃げ込んだ尊氏邸を包囲した。師直は包囲を解く条件として直義の引退と直宗・重能の身柄の引き渡しを要求し、直義らは二人の命の保証を確認して引き渡しに応じ、包囲は解かれた。このクーデターは実は師直と尊氏が示し合わせた狂言であったともみられるが、ともあれ直義はこれにより失脚に追いこまれた。

 畠山直宗と上杉重能は所領没収のうえ越前国に流刑となった。しかし師直の指示により二人とも暗殺された。『太平記』では師直が越前守護代の八木光勝に指示を出し、光勝は直宗ら一行をだまして加賀方面へ向かわせ、周辺の野伏らに一行の行く手を阻ませた。進退きわまった直宗は切腹し、引き抜いた刀を重能の前に置いて「あなたの腰の刀はちと長い。これでご自害を」と言い残して果てたという。ただしこの逸話は『太平記』古本にはなく、そのまま事実かは疑わしい。直宗・重能の殺害については「東寺王代記」は10月26日、「大乗院記録抜書」は8月24日、「常楽記」は12月20日と記録もまちまちである。
大河ドラマ「太平記」27、33、41、42、44、45と意外に多くの回に登場している(演:安達義也)。41回以降は観応の擾乱への展開で直義側近として史実どおりに活動しているが、その前の建武政権期でも足利武将の一人として顔を見せている。

畠山満家はたけやま・みついえ1372(応安5/文中元)-1433(永享5)
親族父:畠山基国 兄弟:畠山満慶
子:畠山持国・畠山持永・畠山持富
官職弾正少弼・尾張守・左衛門督
位階従五位上
幕府河内・紀伊・越中・伊勢・山城守護、管領
生 涯
―義持・義教時代の管領―

 足利義満時代に管領をつとめた畠山基国の嫡男。
 明徳2年(元中8、1391)暮れの山名一族の反乱「明徳の乱」では父・基国と共に出陣(明徳記)。応永6年(1399)10月に大内義弘が堺を要塞化してたてこもり「応永の乱」を起こした際にも満家は父にして現職管領の基国と共に出陣し、12月21日の決戦では満家の部隊が敵将・大内義弘と正面から激突して、互いに奮戦の末に義弘の首級を挙げる武勲を立てた。この功績により畠山氏は大内氏が持っていた紀伊守護職を獲得する。

 しかし義満の勘気をこうむって蟄居させられ(原因不明。応永の乱以前のこととする書籍もあるが状況から乱後の可能性が高い)、応永13年(1406)に父・基国が死去した際もその家督を相続できず、弟の畠山満慶がいったん家督を継いでいる。応永15年(1408)に義満が死去すると満慶から家督や各国守護職を返上され復権、応永17年(1410)6月に幕府の管領となり、応永19年(1412)3月までつとめて将軍・足利義持を支えた。
 応永19年(1412)に持明院統(北朝)の後小松天皇が息子の称光天皇に譲位して南北朝合体時の約束「両統迭立」を反故にすると、南畿の旧南朝勢力が反発。応永21年(1414)には河内で楠木・和田一族らが蜂起し、河内守護である満家はその鎮圧にあたり、翌年までに掃討に成功している。応永31年(1424)に伊勢守護にもなったが、これは応永35年(1428)に北畠満雅が後南朝運動の反乱を起こしたために土岐氏に交代している。

 将軍義持の満家に対する信頼は深く、満家は義持時代を通して室町政界で強い影響力を持った。応永28年(1421)8月から再び管領に就任し、おもに紛争を避ける調整役的な手腕にたけた政治家として活躍する一方、他の管領家である細川・斯波両氏に対抗する将軍直轄軍に近い役割を担っていたとする評価もある。
 応永35年(1428)正月18日に義持が死去した際、その後継者を「くじ引き」で決定することになったが、このとき候補者名を書いた四本のくじを石清水八幡宮に持参して一本を引き抜き、持ち帰ったのが管領・畠山満家であった。このくじ引きの結果、義持の同母弟足利義教が次代将軍に選ばれることとなるが、満家はもともと義教を推していたとみられ、「くじ引き八百長説」では満家が八百長工作の当人と疑われている。ただし満家は読み書きもまともにできなかったともいい、工作など不可能とする意見が強い。

 義教が将軍となって間もなく永享元年(1429)8月に管領職を辞任するが、以後もその死まで幕府内に強い影響力を持ち、義教とは衝突を繰り返しつつもその抑え役として重視もされた。永享5年(1433)9月19日に62歳で死去、法名は「真観寺殿真源道端」という。彼の死後、抑えの利かなくなった義教は「恐怖政治」へと突き進むこととなる。

参考文献
桜井英治『室町人の精神』(講談社学術文庫「日本の歴史」12巻)

畠山満慶はたけやま・みつのり?-1432(永享4)
親族父:畠山基国 兄弟:畠山満家
子:畠山義忠・畠山教国
官職左馬助、修理大夫
幕府河内・紀伊・越中・能登守護、相伴衆
生 涯
―能登畠山氏の祖―

 足利義満時代に管領をつとめた畠山基国の次男。「満則(みつのり)」と書かれることもある。
 明徳2年(元中8、1391)暮れの山名一族の反乱「明徳の乱」では父・基国や兄・満家と共に出陣している(明徳記)
 兄・満家が義満の勘気をこうむって蟄居させられると代わりに基国の後継者とされ、応永9年(1402)の義満の伊勢神宮参詣に父と共に供奉している。応永13年(1406)に父・基国が死去すると家督を相続、河内・紀伊・越中・能登の守護となった。しかし応永15年(1408)に義満が死去すると満慶は兄・満家に家督や守護国を返上したいと将軍足利義持に申し出て、人々から「天下の美挙」と称賛されたという(満慶の肖像画の賛にある)。満家も恩に着て、守護国のひとつ能登国を満慶に譲り、以後満慶の子孫は能登守護を相続する「能登畠山氏」となる。

 兄の満家が管領となるなど義持時代の幕府政治の重鎮となると、満慶も兄をよく補佐して幕政で活躍した。しかし応永23年(1416)に関東で「上杉禅秀の乱」が起こり、これと連動して義持の弟・足利義嗣に謀反の疑いがかかると、義嗣をひそかに支持していたとする大名たちの中に満慶の名が挙がった。兄の満家のおかげで深く追及されずに済んだが、満慶は出家させられ、一時的に大原に蟄居した。その後も兄と共に幕政の中心にあり、義持の死後に将軍となった足利義教の還俗時にその理髪役をつとめている。
 永享4年(1432)6月27日に死去、法名は「勝禅寺殿真源道祐大居士」という。

参考文献
桜井英治『室町人の精神』(講談社学術文庫「日本の歴史」12巻)ほか

畠山基国
はたけやま・もとくに1352(文和元/正平7)-1406(応永13)
親族父:畠山義深
子:畠山満家・畠山満慶
官職右兵衛督
位階従四位下
幕府越前・越中・能登・河内・紀伊・山城守護、侍所頭人、管領
生 涯
―畠山氏最初の管領―

 畠山義深の子で通り名は「三郎」。「観応の擾乱」と南朝の攻勢といった混乱の中で父が各地に奔走していた時期に生まれている。父の義深は一時鎌倉公方と敵対、失脚したこともあったが、二代将軍・足利義詮のもとで越前守護になるなどして復権、基国が成人するころには足利一門・畠山氏の主流にのしあがっていた。
 永和2年(天授2、1376)に侍所頭人。康暦元年(天授5、1379)正月に父・義深が死去して越前守護職を引き継ぐ。直後に「康暦の政変」が起こって、もともと越前守護であった斯波義将が復権して管領になると、基国は越前を斯波氏に返還し、その見返りに越中の守護となった。以後、戦国期にいたるまで越中は畠山氏の分国となる。

 永徳2年(弘和2、1382)に一時幕府方に参じて河内守護になっていた楠木正儀が再び南朝に転じると、基国が代わって河内守護職を獲得、以後河内も畠山氏の分国にして拠点となり、基国の系統を「河内畠山氏」と呼ぶ原因ともなる。また明徳2年(元中8、1391)末までに能登守護ともなっており、この年の暮れに起こった山名一族の反乱「明徳の乱」で基国は息子の畠山満家満慶、能登武士たちを率いて参戦し、功績をあげている(明徳記)
 南北朝合体が成った翌明徳3年(1392)から再び侍所頭人となり、山城守護も兼任。応永5年(1398)6月からは畠山氏としては初めて管領に就任し、これ以後「細川」「斯波」「畠山」を「三管領」とする慣習が定着する。
 応永6年(1399)の大内義弘の反乱「応永の乱」では息子の畠山満家らと共に堺に出陣、満家が敵の大将・義弘を討ち取る殊勲を挙げている(応永記)。この功績により義弘が持っていた紀伊守護職も獲得した。

 応永11年(1404)に管領職を辞し、応永13年(1406)正月17日に死去。享年五十五、法名は「長禅寺殿春岩徳元」という。

畠山義深
はたけやま・よしとお(よしふか)1331(元徳3/元弘元)-1379(康暦元/天授5)
親族父:畠山家国 兄弟:畠山国清・清渓尼(足利基氏室・氏満母) 
子:畠山基国・畠山深秋
官職尾張守
位階正五位下
幕府越前守護、摂津西成郡守護
生 涯
―畠山一族の主流に―

 畠山家国の子で、関東執事にもなった畠山国清の弟。通り名は「三郎」であった。
 観応元年(正平5、1350)に足利幕府の内戦「観応の擾乱」が始まると、畠山国清ははじめ足利直義派に属し、義深も兄に従った。直義が一時的に勝利を収めていた観応2年(正平6、1351)に義深は尾張守に任ぜられている。このあと国清は足利尊氏側に寝返り、やがて関東に降って南朝方と交戦、さらに鎌倉公方・足利基氏を支える関東執事(関東管領)の職につくことになるが、義深も常に兄に従って行動している。
 文和4年(正平10、1355)に足利直冬の南朝軍が京都を占領した際には、義深が関東勢を率いて上洛し、尊氏の京奪回を助けている。延文4年(正平14、1359)に国清が関東から大軍を率いて南朝に攻勢をかけた時にも従軍し、翌延文5年(正平15、1360)4月には義深自身が白旗一揆・平一揆・諏訪氏・千葉氏ら関東勢を率いて南朝の四条隆俊と紀伊・竜門山で戦っている(太平記)
 
 康安元年(1361、正平16)11月に国清が関東武士たちの反発にあって失脚、足利基氏の追討を受けて伊豆の修善寺にこもると、義深も行動を共にした。『太平記』ではこのとき義深が信濃へ赴いて諏訪氏との連携をはかろうとしているとの「噂」が広がったことになっている。しかしこの工作は失敗だったようで国清・義深らは孤立無援のまま修善寺にたてこもり、結局、翌貞治元年(1362、正平17)9月に基氏からの呼びかけに応じて投降した。ここで国清は許されぬと恐れて逃亡してしまうが、投降した義深は間もなく赦免され、京にのぼって将軍・足利義詮に仕えることとなった。

 貞治5年(正平21、1366)に幕府の実力者であった斯波高経が失脚して根拠地の越前へ下ると、足利義詮はその追討を命じ、斯波氏が持っていた越前守護職を畠山義深に与えている。義深はこれと前後して摂津国西成郡の分郡守護も任されている。ここに畠山氏は守護大名として復権し、以後は義深の子孫が畠山家の本流とみなされるようになって、義深の官名「尾張守」を代々名乗るようになる。
 応安元年(正平23、1368)4月8日に「畠山尾張禅門」が越前に下向したとの記事が『花営三代記』にあり、これ以前に義深が出家したことが分かる(恐らく二代将軍義詮死去の時と思われる)

 永和5=康暦元年(天授5、1379)正月12日に死去。享年四十九。のちに子の畠山基国が河内守護となったために墓が移されたのか、大阪府河内長野市上田町に墓がある。追号は「増福寺殿」といい、普通なら菩提寺の名からとったと思われるが、同町にある当の増福寺の江戸時代の記録では義深が晩年に河内に隠遁した時点ですでに「増福寺殿」と呼ばれており、その菩提寺にその名をそのままつけたことにされているという。ただしこの記録では義深が畠山氏最初の河内守護だったとしているがそんな事実はなく(そのため晩年河内に隠遁というのも怪しい)、息子の基国との混同があるかもしれない。
PCエンジンCD版北朝方武将として守護国紀伊に兄・国清と共に登場。初登場時の能力は統率74・戦闘82・忠誠55・婆沙羅36
SSボードゲーム版兄・国清のユニット裏で、兄の死後に登場。武家方の「武将」クラス、勢力地域は「南畿」。合戦能力1・采配能力3

波多野宣通はたの・のぶみち生没年不詳
親族
父:波多野宣茂
官職
上野介
幕府
六波羅探題評定衆
 相模国・波多野(秦野)を拠点とした波多野一族の武士。左近将監となった波多野宣茂の子で、六波羅探題の評定衆をつとめていた。
 元徳3年(元弘元、1331)8月末に後醍醐天皇が宮中を脱出して倒幕の兵を挙げると、六波羅探題は当初後醍醐が向かったとされた比叡山延暦寺を攻撃、このとき東坂本(琵琶湖西岸)に出陣した武将の中に「波多野上野前司宣通」の名がある(「太平記」「光明寺残篇」)。『太平記』によればこの戦闘で波多野の郎党十三騎が戦死している。
 笠置山が陥落して後醍醐一派が捕えられると、三条公明洞院実世の身柄を佐々木時信と共に一時預かっている。

秦久武はた・ひさたけ生没年不詳
官職
随身
 渡来系とされる秦氏の一人だが「久武」の系譜、伝記については全く不明。秦氏からは上皇や高位貴族の護衛をつとめる「随身」が多く出ており、久武もその一人であった。
 元徳3=元弘元年(1331)8月24日、後醍醐天皇が倒幕の挙兵を決意して宮中をひそかに出発した際、急なことで天皇の輿をかつぐ者がいなかったため、随身の秦久武や楽人の豊原兼秋らが天皇の輿をかついだ、という記述が『太平記』巻2にある。久武のその後については記述がない。

服部清次はっとり・きよつぐ
能楽の大成者・観阿弥の実名とされる名。それが正しいかどうかは議論もある。→観阿弥(かんあみ)を見よ。

服部小六はっとり・ころく
NHK大河ドラマ「太平記」の第9回のみに登場する架空人物(演:森川正太)。伊賀国の悪党という設定で、脚本では元弘の乱直前の時点で36歳と明記されている。ましらの石(演:柳葉敏郎)らを引き連れて荘園の下司を襲い、物資を略奪して住民たちに分け与えていた。山伏姿でやってきた日野俊基とも会っており、後醍醐天皇の倒幕計画に関わっている。「楠木と縁がある」とのセリフもあり、楠木正成の姉妹が服部家に嫁いで観阿弥を産んだとする説をヒントに創作された人物と思われる(ドラマでは正成の妹・花夜叉が服部元成と結婚して観阿弥を産む)。小六自身の登場はこれだけだが、後醍醐天皇が笠置山に立てこもるとこれに呼応して馳せ参じている(石が笠置山に入っていることから推測)

服部元成はっとり・もとなり生没年不詳

親族
父:服部(上嶋)景守? 妻:橘(楠木)正遠の娘? 子:観阿弥?
生 涯
―観阿弥の実父?―

 能楽の大成者・観阿弥の父とされる伊賀国の人物。ただし観阿弥が伊賀・服部家につらなる者である可能性はあるが確定した話ではなく、その父についても諸説あり、服部(上嶋)元成とするのはそのうちの一つの説にすぎないことに注意。
 観阿弥の父の名を服部(上嶋)元成とするのは、1962年に発見された「上嶋家文書」(江戸時代末写本)のみである。それによれば伊賀国阿蘇田の領主・上嶋景守の次男が治郎左衛門元成で、彼が河内国玉櫛庄の橘正遠の娘をめとり生まれた三男が観阿弥になるという。この上嶋文書は江戸末期の写本であるが他の傍証からも史料価値が高いと判断する研究者もおり、とくに「橘正遠」が楠木正成の父親である可能性が高いことが注目されている。
大河ドラマ「太平記」吉川英治の原作に基づくが設定はかなり変えており、正成の妹・卯木=花夜叉が駆け落ちした猿楽舞は元成とは別人として死別したことにされ、建武政権期に花夜叉一座に「猿楽舞の名手」である元成が加わり、湊川の戦いの直前に花夜叉と元成が正成のもとを訪れて結婚を伝える展開になった。演じたのは深水三章で、33・34・36回に登場する。
歴史小説では上嶋文書に基づいて楠木正成と観阿弥の血縁関係を推定する説が郷土史家・久保文武によって発表されると、作家・吉川英治はすぐにこれに飛びつき、『私本太平記』において正成の妹・卯木を創作、猿楽師の服部元成と駆け落ちして千早城攻防戦のさなかに観阿弥を産むストーリーに仕立てた。
 他の作家も正成を扱う場合は無視できないことが多く、正成の妹あるいは姉が伊賀の服部家に嫁いでいる設定がしばしばみられる。

花園天皇はなぞの・てんのう1297(永仁5)-1348(貞和4/正平3)
親族父:伏見天皇 母:洞院季子
兄弟:後伏見天皇・恵助法親王・寛性法親王・尊円法親王・尊凞法親王・璹子内親王・誉子内親王・延子内親王ほか
妃:正親町実子・一条局・葉室頼子ほか
子:覚誉法親王・源性法親王・直仁親王・寿子内親王(光厳妃)・儀子内親王ほか
立太子1301(正安3)8月
在位1308年(延慶元)11月〜1318年(文保2)2月
生 涯
―学問熱心な「道学天皇」―

 名は「富仁(とみひと)」といい、持明院統の伏見天皇洞院実雄の娘・季子の間に永仁5年(1297)7月25日に生まれた。伏見天皇の第四皇子である。異母兄の後伏見天皇の猶子(養子)扱いとされ、伏見の中宮・西園寺鏱子(永福門院)のもとで養育されている。
 正安3年(1301)正月に後伏見が大覚寺統の後二条天皇に譲位すると、このころすでに固定されていた「両統迭立」の原則から後二条の次の天皇には富仁が立てられることとなり、同年8月に親王宣下を受け、後二条の皇太子となった。富仁が皇太子とされたのは兄・後伏見(14歳)にまだ子がなかったためで、父・伏見上皇はあくまで富仁を後伏見に子が生まれ、それが皇位を継ぐまでの「中継ぎ」と位置づけていた。 
 徳治3年(1308)8月に後二条が急死し、富仁が即位して花園天皇となり、持明院統の政権奪回となった。「両統迭立」の原則に従い、花園の皇太子には大覚寺統から尊治親王(後醍醐天皇)が立てられたが、こちらも後二条の子・邦良親王が成人するまでの「中継ぎ」という位置づけで、偶然にも花園とよく似た立場にあった。このとき花園は12歳、後醍醐は21歳。天皇より皇太子の方が一回り年上という異例の組み合わせであった。

 花園の在位期間中は形の上では兄・後伏見の、実質的には父・伏見による院政が行われ、花園自身が特に政治活動をしていたわけではない。ただ花園自身は熱心に学問に取り組み、毎日和漢の書籍を二巻、過去の天皇や貴族の日記を一巻読むことを日課としていたといい、自身が国の君主・天皇であることを儒教的に強く意識し、在位中に「異国侵略」の噂がたったときなどは「自分に徳がないからか」と日記で嘆じることもあった。

 文保元年(1317)9月に父・伏見法皇が死去した。持明院統は大黒柱を失い、大覚寺統の攻勢と幕府の仲介のもとで、文保2年(1318)2月に花園から後醍醐への譲位、邦良親王の立太子が決まる(文保の和談)。邦良の次には後伏見の子・量仁親王(光厳天皇)を立てるとの約束はあったが保証の限りではなく、持明院統にとってはかなり不利な状況であった。花園自身も皇位を去ることに不満はあったようだが(完成間近な里内裏を見ずに退位することを「第一の遺恨事」としている)、ここでも「十年の在位は後伏見・後二条より長い。自分には徳がないし、皇太子は自分の父のような年齢で学問もあるのだから」と日記の中で自らを納得させている。退位した花園は兄の後伏見がいる持明院殿へ移った。
 上皇となった花園は間もなく自身が病気がちであったこと(脚気の持病があった)、また上皇としての生活費を得るための自身所有の荘園が少ないこともあって、花園はいっそ出家し隠居した方がいいかとまで考え、後伏見から制止されている。その少ない荘園の一部を大覚寺統の後宇多法皇に強引に奪われるという事態もあったが、このとき花園は「むしろ自分に反省点がある」と抗議もせず、その態度を持明院統の重鎮公家である日野俊光から「馬鹿げたことを」と批判されている。見かねた後伏見が荘園の一部を花園に譲ろうとしても再三にわたってこれを断わったため、逆に「何か野心でもあるのではないか」とか「すねているのだろう」といった陰口が叩かれたが、花園は日記に「燕雀あに鴻鵠の志を知らんや、小人嘲ることなかれ(ツバメやスズメに大鳥の気持ちがわかるものか。つまらぬ奴らめ、あざけるでない)」と思いのたけをぶつけている。

 花園自身も上皇となってからはますます学問、とくに儒学への精進を深め、学問仲間を集めて講読会もしばしば開いた。花園の学問仲間で特に親しくしていたのが日野俊光の息子であり、花園の院庁の奉行院司をつとめていた日野資朝で、上皇の日記にはしばしば資朝が訪ねてきて徹夜で道義について語り合ったことが記されている。また花園は資朝の影響で当時は中国渡来の新仏教であった禅宗や、やはり中国渡来の新思想・朱子学にも深い関心を示している。
 この資朝、父親の日野俊光は持明院統派の重鎮だったのだが朱子学の研究を通じて後醍醐天皇と接近、その側近となってゆくが、花園もこの資朝に感化されるところがあったようで、対立する大覚寺統である後醍醐に対して政治にも学問にもすぐれ周辺にも人物が多い「聖君」ではないかとの期待を抱き、周辺で聞こえてくる後醍醐への批判に対してかえって後醍醐を擁護する記述も日記にある(その父後宇多については批判的だった)。ただ後醍醐が後宇多や邦良と不和で、自分の子孫で皇位を継承しようと画策していることは察していたらしく、それがいずれ混乱を招くのではないかとの危惧も抱いていたようである。

―「土崩瓦解」への予感―

 正中元年(1324)8月、後醍醐天皇とその側近による討幕計画が発覚、土岐一族が京で討たれ、日野資朝が捕えられ佐渡に流刑になるという事件が起きた(正中の変)。この事件は後醍醐に期待していた花園にとっても大きな衝撃であり、その日記に事件の詳細を詳しく記している。後醍醐側近たちが密議のカモフラージュのため「破仏講」を行っていたことや、事件後に後醍醐が幕府に出した「弁明書」が実は幕府を非難する内容であったことなどは花園の日記によって今日に知られるのである。

 嘉暦元年(1326)3月、皇太子・邦良が急死した。その代わりをめぐって三派によるレースが展開されるが、結局7月に後伏見の子・量仁が太子に立てられることとなった。量仁は花園の「猶子」という形がとられ、量仁が幼い時からその教育を担当していた花園は次期天皇となった彼に対し儒教的な「帝王教育」をほどこしてゆく。
 元徳2年(1330)12月に量仁が17歳で元服するのに合わせて、花園は量仁に太子としての心がけを諭す「誡太子書」を授けた。このなかで花園は「我が国の皇室は一統で簒奪されることもなく安泰であるとされるがそれは誤りである。まだ乱は起きていないがその兆しが現れている」と強い危機感を訴え、「恐らく数年のうちに乱が起こる。いったん起これば賢い君主でも収めるのは困難だ。凡庸な君主であればなおさらで、日に日に国は衰え、政治は乱れ、土崩瓦解に至ってしまうだろう。太子が即位する時にはそのような衰乱の時運にあたっているだろう」と予感し、太子に道義をわきまえた徳のある君主たれ、と諭した。後醍醐の行動を横目に見ていたからだけでなく、花園には世の中全体の不穏な空気がひしひしと感じ取られたのだろう。

 その翌年、元徳3年(元弘元、1331)8月24日、後醍醐天皇はついに京を脱出し、笠置山に討幕の兵を挙げた。後伏見・花園・量仁は六波羅探題北方に移って幕府軍の保護下に入り、9月20日に後伏見の命令(院宣)によって量仁が践祚、「三種の神器」を後醍醐に持ち去られたまま光厳天皇となった。間もなく後醍醐は捕えられて神器も引き渡されるが、そのみじめな捕えられ方と「寛大な処置を」などとぬけぬけと言う後醍醐の態度を聞いて、花園はかつて期待した人物だけに激しい失望を覚えている。
 後醍醐は翌年に隠岐に流されたがその後も倒幕運動が各地で活発化し、花園の日記にも護良親王楠木正成らの活動が活発化していることが記されている。そして正慶2年(元弘3)3月12日には後醍醐方の赤松円心の軍が京へ侵攻、後伏見・花園・光厳ら皇族たちは混乱のなか六波羅北方に避難した。そして4月に関東から援軍にやって来た足利高氏が後醍醐側に寝返り、六波羅を攻撃。六波羅探題の北条仲時らは持明院統皇族を引き連れて関東へ逃れようとする。

 しかし一行は行く手を守良親王(亀山天皇の第五皇子)に率いられた野伏たちに阻まれ、光厳が流れ矢で負傷するなど逃亡は困難を極めた。そして5月9日に近江・番場で進退きわまり、仲時以下400名以上が集団自決してしまう。その凄惨な光景に茫然とするほかなかった後伏見ら皇族たちも守良勢に身柄を捕えられ、近江太平護国寺に幽閉された。そして5月22日には鎌倉が攻め落とされ、幕府そのものが滅びてしまった。
 5月28日に後伏見・花園・光厳らは京にもどり、持明院殿に入った。絶望した後伏見は直後に出家してしまったが、以前から出家の希望を持っていた花園も恐らく出家を勧められたと見られるが、ひとまず見合わせている(光厳も出家を進められたが断っている)。後伏見が世を捨てた後は自らが持明院統を支えねばならないという気持ちがあったのかもしれない。なお花園の日記はこの元徳3年以降は伝わっておらず、彼の心境をうかがい知ることはできない。

 その後、後醍醐が始めた「建武の新政」はわずか二年で行き詰まり、建武2年(1335)末には足利尊氏が新政への反旗を翻した。むしろ持明院統にとってはチャンスがめぐってくることになるのだが、その年の11月22日に花園は法勝寺の円観慧鎮を戒師として出家、「遍行」と号している。このとき花園は39歳、生真面目な彼の性格からするとさらなる動乱の始まりを憂い、そこに巻き込まれることを嫌って出家したものかもしれない。あるいはすでに病んでいたと思われる兄・後伏見のためでもあっただろうか。後伏見の死は翌年4月6日のことである。
 翌建武3年(1336)、正月にいったん今日を占領した足利尊氏だったが、敗北して九州まで西走、この途上で光厳の院宣を手に入れる。そして九州を平定して東上し、5月に湊川の戦いに勝利して京へ再突入した。後醍醐は比叡山へ避難する際に花園・光厳ら持明院統皇族も連れ出そうとしたが、彼らは途中で離脱して尊氏の陣営に迎え入れられた。そして光厳の院宣により後伏見の第二皇子・豊仁親王(光明天皇)が践祚した。後醍醐もいったんは光明の即位を認めて和睦したがその年の暮れに吉野に逃れ、両朝併立の「南北朝時代」の幕が開くことになる。だが花園はすでに世捨て人のつもりであったのか、この激動の間に政治的な動向は一切見せず、もっぱら和歌と学問と信仰とに専念していたようである。
 
 暦応年間(1338-1342)のうちに花園はそれまでの住まいであった持明院殿を出て、京の西・仁和寺のかたらわの花園の地に萩原殿を作って隠棲している(贈り名もこれに由来する)。康永元年(興国3、1342)正月に花園はこの「花園御所」を僧・関山慧玄に与えて管理させるが、これが妙心寺の由来となる。
 貞和4年(正平3、1348)10月27日、光明が光厳の子・興仁親王(崇光天皇)に譲位し、その皇太子には花園と妃の正親町実子の間に生まれた皇子である14歳の直仁親王が立てられた。形の上では後伏見・花園兄弟の息子たちが皇位を譲り合って継承するものであったが、実は直仁親王は光厳と実子の間に生まれた子であることが光厳自身の置文により判明している。その事実を花園が承知していたかどうかは定かではない。
 崇光践祚の直前、10月16日に花園の娘(儀子内親王か?)が病死し、花園を大いに悲しませた。その悲嘆からか崇光践祚、息子直仁の立太子が進む間も持病の脚気を再発させて病んでいたが、とくに重病という様子ではなかったようである。ところが11月11日午の刻にとくに苦しむ様子もなく息を引き取った。享年52歳。遺体は二日後に京・東山の十楽院の後山に葬られた。
 花園の死の翌年から足利幕府の内紛「観応の擾乱」が始まり、そのなかで南朝が一時北朝を接収する「正平の一統」が成って光厳・光明・崇光・直仁らが南朝に拉致されるという悲劇が起こるのだが、それを見ずにこの世を去った花園は幸運であったかもしれない。

 花園が書きつづった日記は、「花園天皇宸記」と呼ばれ(本人は「等閑記」と名付けていたらしい)、彼が14歳から37歳の時点までかなりの部分が後世に伝わっており、天皇自身が内面をさらけだし世間や人物を批評をする特殊な内容もあいまって、同時代を知る貴重な資料となった。また、この日記には花園当人の手になる挿絵も入っており、なかなかの腕前である。「東北院職人歌合絵巻」の曼珠院本は花園自筆のものとされ、その絵も花園自身によるものと伝えられている。

参考文献
岩橋小弥太「花園天皇」(吉川弘文館・人物叢書)
伊藤喜良「南北朝動乱と王権」(東京堂出版「教養の日本史」)
網野善彦「蒙古襲来・転換する社会」(小学館文庫)
飯倉晴武「地獄を二度も見た天皇・光厳院」(吉川弘文館・歴史文化ライブラリー147)
河内祥輔・新田一郎「天皇と中世の武家」(講談社「天皇の歴史」04)ほか
歴史小説では光厳を主人公とした森真沙子「廃帝」で、その学問の師として登場している。

花夜叉はなやしゃ生没年不詳
生 涯
―南北朝の人気芸人―

 南北朝時代に実在した田楽舞。「新座」のトップスターであったと思われる。貞和5年(1349、正平4)6月11日に京の四条河原で四条架橋の勧進(募金活動)のため「本座」「新座」の二大劇団が競演する田楽興業が催されたが、その最初の番組で「新座」代表の花夜叉と「本座」代表の一忠が「立合(たちあい)」と呼ばれる「踊り対決」を行っている。クライマックスのセリフの途中で一忠が咳払いして扇を取り出し汗をぬぐったため花夜叉はリズムを乱され、セリフを言い間違えて万座の恥をかいたという。この逸話は世阿弥『申楽談義』に伝えているもの。
 この田楽興業は将軍・足利尊氏ら上流階級も見物に押しかけ、観衆がこぞって熱狂したが、その熱狂の余りか桟敷席が倒壊、多数の死傷者を出す騒ぎになった。この一件は直後の観応の擾乱の前触れとして天狗が仕掛けたものと『太平記』は記しており、その熱狂ぶりがリアルに表現されている。『太平記』に花夜叉の名は見えないが、「新座の彦夜叉」が乱拍子を担当したとあり、新座では「〜夜叉」という芸名が多くあったのではないかと推測される。
大河ドラマ「太平記」『私本太平記』を原作とするNHK大河ドラマ「太平記」では花夜叉を女性に変更し、楠木正成の妹で観阿弥の母となる卯木(うつぎ)と同一人物の設定となった(演:樋口可南子)。このドラマのせいで花夜叉を架空人物、あるいは女性と誤解してる人も少なくないらしい。→下にあるドラマの「花夜叉」の項目を参照。
歴史小説では吉川英治『私本太平記』ではこの花夜叉当人がヒロイン藤夜叉の育ての親という設定で、名前だけはチラチラと登場する。森村誠一『太平記』でもチラッと登場している。

花夜叉はなやしゃ
 NHK大河ドラマ「太平記」に登場する架空人物(演:樋口可南子)。原型となった吉川英治の原作に登場する卯木(うつぎ)についてはその項目を参照のこと。
 田楽一座の座長をつとめる謎の美女で、一座を引き連れて各地を放浪している。実は楠木正成の妹で本名を「卯木」といい、殺伐とした武士の家を嫌って猿楽舞と駆け落ちし、実家とは縁を切られた状態になっている。その後駆け落ちした相手は亡くなり、その一座を率いることになったと推測される。孤児の藤夜叉ましらの石を拾って育てている。
 一座ごと佐々木道誉のお抱えになっているらしく道誉と共に京・鎌倉を移動している。道誉が花夜叉について「わしが死ねと言えば死ぬ女」と言っていることから道誉の愛人となっていると思しい。その一方で忍者的な技能をもつ一座メンバーと共に独自の情報収集をしており、それを兄の正成のもとへ送っている。

 元弘の乱で正成が赤坂城から脱出するときにこれを助け、足利高氏の協力をあおいで一座の中に正成を紛れ込ませて伊賀から逃亡させた。これは全くのフィクションだが、正成と伊賀のつながり、高氏が伊賀掃討にあたった史実、そして正成が田楽一座にまぎれて東国を探索したとする説話(『太平記秘伝理尽鈔』)を結びつけたものと思われる。
 ドラマの中盤、鎌倉幕府滅亡の過程と建武政権期の部分でしばらく登場しなくなるが、藤夜叉が死んだあとで再登場。尊氏に頼まれて正成との密会を仲介する。そして湊川の合戦直前に猿楽舞の名手・服部元成と夫婦となり、正成にそれを報告した。

 その後しばらく登場しないが、第48回で再登場。観応の擾乱で苦悩する尊氏の前に現われて尊氏を慰め、その進むべき道を示唆する。すでに成人になったと思われる息子・清次(演:西岡秀記)を同行しており、これが観阿弥その人である(ただし観阿弥は元弘3年の生まれとされるのでやや不自然)
 楠木正季からは「姉上」と呼ばれているので、正成と正季の間に生まれていることが分かる(吉川英治は卯木を末の妹に設定)。なお「花夜叉」は当時実在した男性の田楽舞の名前で、詳細は上の実在の「花夜叉」の項目を参照のこと。

葉室(はむろ)家
 藤原北家・勧修寺流。白河上皇の側近・藤原顕隆を祖とし、三代目の光頼が別荘を西京葉室に置いたことから「葉室」が家名となった。本家筋は北朝に仕えて明治まで存続することとなったが、支流の光親は承久の乱の責任を問われて処刑され、その子孫には後醍醐天皇や南朝に仕える者も出た。

藤原顕隆┬顕長→姉小路









└顕頼┬光頼─┬宗頼─宗方─資頼─季頼─頼親─頼藤─長隆─長光─長宗


└成頼└光雅─光親─定嗣
─定藤─光定光顕光資


葉室光顕はむろ・はるあき(みつあき?)?-1336(建武3/延元元)?
親族父:葉室光定 子:葉室光資
官職尾張守・右兵衛督・勘解由次官・春宮権大進・大膳大夫・蔵人・右衛門権佐・右少弁・左少弁・権右中弁・右中弁・左中弁・右宮城使・左宮城使・右京大夫・蔵人頭・左兵衛督・参議・出羽守
位階従五位下→従五位上→正五位下→正五位上→従四位下→従四位上→正四位下→従三位→正三位
生 涯
―出羽で反乱軍に処刑された公家―

 葉室光定の子。初めの名は「為嗣」であったという。「光顕」の読みについては『大徳寺文書』にある光顕の奉書に「はる顕」と記すものがあることから「はるあき」が正しいとされる。
 延慶2年(1309)に従五位下に叙され、尾張守などを経て後醍醐天皇治世の元亨4=正中元年(1324)に蔵人、嘉暦4年(1329)に左中弁、元徳2年(1330)に蔵人頭から左兵衛督となり、元徳3=元弘元年(1331)に参議に昇進して公卿となる。この年に後醍醐が倒幕の挙兵をして失敗、持明院統の光厳天皇が践祚して10月6日に後醍醐が所持していた神器を六波羅探題から皇居に運ぶ「剣璽渡御の儀」が行われたが、そこでは光顕が上卿として参加していた(花園天皇日記)
 しかし12月に参議を辞し、翌元弘2年(正慶元、1332)2月6日に光顕は六波羅探題に逮捕された。その理由は明確ではないが、状況からすると「後醍醐派公家」とみなされ後醍醐挙兵への関与が疑われたためであろう。後醍醐が隠岐へ配流となり、その側近たちが死刑・流刑となるなか、6月25日に光顕も出羽国へ流刑となっている。出羽は光顕の父・光定の知行国でもともと縁があったためとみられ、比較的軽い処罰と見ることもできる。

 翌元弘3年(正慶2、1333)に鎌倉幕府が滅亡して後醍醐が復権すると、光顕もいったん京に戻ったとみられ参議に復している。だが同年8月に出羽守および秋田城介(鎌倉幕府では安達氏がこの任にあった)に任じられて出羽を統治する立場となり、11月に立石寺に院主・別当職の安堵を行う国宣を発するなど積極的に活動を始めている。この直後に参議を辞し、従三位に昇進して出羽に現地入りしたらしい(あるいはそのまま現地にいたのかもしれない)
 その後の活動については史料を欠くためほとんど分からないが、公家ながらも建武政権の東北統治のために努力していたとみられ、建武2年(1335)11月には正三位に昇進している。しかしこのころすでに建武政権は武士たちの支持を失って各地で反乱が起こり、出羽もその例外ではなかった。

 『公卿補任』『元弘日記裏書』によれば延元元年(建武3、1336)5月21日に光顕は出羽国で処刑されたとある。ただし『尊卑分脈』では「建武二年冬斬首」とあり、その死の時期は半年ほど早かった可能性もある。この時期はさまざまな勢力が建武政権に反旗をひるがえしているため何者が光顕を殺したかは断定できないが、出羽はもともと安達氏の支配国でもあり、鎌倉幕府残党による反乱によって殺された可能性が高いとみられる。
 息子の光資は南朝の重臣となっている。

葉室光資はむろ・はるすけ(みつすけ?)生没年不詳
親族父:葉室光顕 子:葉室光暁
官職右衛門佐・右大弁・民部卿(いずれも南朝)
生 涯
―南朝代表で講和交渉―

 葉室光顕の子。父の光顕は建武政権期に出羽国司として現地に赴いたが、そこで反乱にあい殺害されている。その子の光資後醍醐天皇と密接な関係にあったらしく、南朝創設時からの南朝公家の一員として活動している。
 正平6年(観応2、1351)9月28日付の後村上天皇綸旨(東大寺百合文書)に奉者として花押を添えた「右衛門佐」が葉室光資である。この直後に南朝と足利尊氏が講和して北朝を接収する「正平の一統」が実現するが、光資はいわば後村上の秘書室長的立場で京都に後村上の指示を伝える役割を担っている。翌正平7年(文和元、1352)の後村上綸旨、さらに正平12年(延文2、1357)に杵築大社の国造に出した後村上綸旨三通も「右大弁光資」が奉者となっている。
 
 やがて南朝の軍事的な不利が明らかとなり、幕府政治も安定の気配を見せるようになると、南朝も講和を模索し始める。南朝からは楠木正儀、幕府からは佐々木道誉が交渉役となって講和交渉は具体的に進み、ついに正平22年(1367)4月27日に南朝の使者として光資が京都に入り、医師・但馬道仙の屋敷に宿泊した。29日には光資が将軍・足利義詮に直接面会するところまでこぎつけたが、光資が持参した後村上の綸旨のなかに「義詮の降参」という文言があったため義詮が激怒して交渉は打ち切りとなった。光資は5月2日に京都を出て住吉へと帰った(師守記)
 それでも義詮は光資をねぎらって馬一頭に太刀一振りの引き出物を与えており、交渉自体は間もなく再開されている。しかしこの年に義詮が、翌年には後村上が死去し、南朝では強硬派の長慶天皇が即位したこともあって南北講和は大きく遠のいた。

 長慶時代にも「民部卿」として南朝の中核にあり、南朝の准勅撰和歌集『新葉和歌集』にも「民部卿光資」として多くの歌が採られている。元中3年(至徳3、1386)4月5日付長慶上皇院宣(二見文書)にも奉者として「民部卿」とあり、これも光資とみられる。そうだとすると光資は南北朝合体時(1392)まで生きていた可能性もあるが、彼の消息を示す史料はない。

頓宮四郎左衛門はやみ・しろうざえもん生没年不詳
生 涯
―恩義ある主君をあっさり見限る―

 「頓宮」は「とんぐう」とも読まれる。もともと備前国福岡荘の武士で、備前福岡城は鎌倉末期に彼が建てたと地元では伝えられている。
 『太平記』巻三十六によれば、頓宮四郎左衛門(尉)はしばらく軍忠が途絶えたため(一族に新田方に加わった者がいるので一時南朝方だったのかもしれない)、所領の福岡荘を赤松則祐に奪われていた。その後頓宮は細川清氏に従って功績をあげてその信頼を勝ちえ、やがて幕府の執事(管領)となった清氏は則祐に所領を頓宮に返還するよう命じた。しかし則祐は舅の佐々木道誉の権勢を後ろ盾に返還に応じず、このことが清氏と道誉の対立の一因となったという。

 頓宮四郎左衛門は同じ『太平記』巻三十六に若狭国守護代として登場する。特に説明はないが清氏から「重恩」を受けたとあるので、清氏が若狭国の守護となった際に、福岡荘を取り返せなかった代わりに彼を守護代に任じて若狭に送りこんだと考えられる。
 康安元年(正平16、1361)9月、清氏は将軍・足利義詮から謀反の疑いをかけられ、守護国の若狭へと逃亡した。頓宮は同国の小浜に堅牢な城を築き、ここに数万石の兵糧もたくわえていたため、清氏はここなら数年はもつと小浜城に入って幕府の追討軍を迎え撃つ態勢を取った。10月29日に越前から斯波氏頼の討伐軍が迫ると清氏は留守を頓宮に任せて小浜から出撃したが、清氏が全幅の信頼を置いていたはずの頓宮が突然心変わりし、旗を上げて城門を開き、斯波軍を裏から城内に入れてしまった。頓宮の寝返りの理由は不明だが、若狭の武士たちがもともと状況不利な清氏に味方することを望んでいなかったため、その総意を受けて頓宮が決断したとみられる。この寝返りで清氏軍は四散、清氏はやむなく南朝に走ることとなる(太平記)
 『若狭国今富名領主次第』という史料では清氏の代官として「頓宮左衛門尉」と書かれ、「後に大和守と称す」と補足されている。

治仁王はるひと・おう1371(応安4/建徳2)-1417(応永24)
親族父:栄仁親王 母:阿野治子 
兄弟姉妹:貞成親王・周乾・恵舜・権野寺主・洪蔭
妃:今上臈 子:智観女王・眞栄女王・智久女王
生 涯
―謎の急死を遂げた崇光の孫―

 崇光天皇の子である伏見宮・栄仁親王の長男。弟の貞成親王の日記『看聞日記』でその享年を「卅七」(37)と書いているため永徳元年(弘和元、1381)生まれで実際には貞成の弟、とする見解もあったが、貞成自身が治仁を「一宮」と記しているため「卅七」は誤記で実際は四十七歳だったと考えられている。

 応永15年(1408)12月20日に元服。このときすでに38歳ということになりかなり遅いが、貞成も応永18年(1411)4月に40歳でようやく元服しているので傍系宮家の皇子たちにはよくあることだったのだろう。なおこの貞成の元服式で治仁は「加冠」の役をつとめ、形式的には貞成を自身の猶子としている。治仁は絶海中津に学び、家業である琵琶を得意としたと伝わる。
 応永23年(1416)11月20日に父・栄仁が死去したため家督を継いで伏見宮家の二代目となる。しかし治仁は翌年正月には博打に興じてばかりいて貞成が『看聞日記』に「けしからんことだ」と書くほどであったという。

 ところがそれから間もない応永24年(1417)2月11日、雷雨が降りしきる中で治仁は急死した。死因は「中風」とされているが、あまりに唐突な死であったために倒れていた現場に一人だけ居合わせた貞成による毒殺まで疑われた。貞成の日記にも治仁の死の四日前に異様な風体の男が「良薬」を治仁に献じ、貞成が倒れた治仁にその「良薬」を飲ませたことが記されており、治仁が病気持ちでもなかったこともあって疑われても仕方のない状況ではあった。結局この「毒殺説」は決定的証拠もなかったたうえ貞成もあれこれ運動して弁明したため自然消滅している。
 2月15日に治仁は荼毘に付され、17日の「収骨」の日に、治仁の三人目の娘が誕生している。この子が女子であったために、伏見宮家は貞成が継承することとなった。治仁には「葆光院」の院号が贈られ、大光明寺に葬られた。

参考文献
横井清『室町時代の一皇族の生涯・「看聞日記」の世界』(講談社学術文庫)
桜井英治『室町人の精神』(講談社学術文庫「日本の歴史」12)ほか


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