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うえすぎ〜うつのみやきんつな

上杉(うえすぎ)氏
 藤原北家勧修寺流の公家で、重房のときに鎌倉幕府の将軍となった宗尊親王に従って鎌倉に下り、丹波国上杉荘を領地としたので「上杉」を称するようになった。その後は武士化がすすみ、とくに足利家と縁組を重ねて足利家時や足利尊氏の生母を出したため、上杉氏は足利一門同然の処遇を受けた。観応の擾乱では直義派について没落しかけたが、その後は関東において確固たる地位を築いて多くの支流を生み出し、とくに山内上杉家が関東管領の地位を世襲するようになる。戦国時代に家臣筋の長尾家から出た上杉謙信が山内上杉家を継ぎ、この系統が江戸時代の米沢藩主となってゆく。

藤原清房─上杉重房┬頼重───重顕──朝定──扇谷上杉憲英深谷上杉


頼成──千秋上杉
憲栄越後上杉


憲房───────憲顕──憲方┬憲重→山浦上杉


清子──足利尊氏憲春憲定山内上杉


├日静足利直義憲将├房方─憲実


└加賀局─重能能憲憲孝


├山名政氏室山名時氏└重兼憲藤──朝房




朝宗─禅秀→犬懸上杉


└足利頼氏室足利家時
├重行──顕能





重能──能憲憲孝





顕能





重兼───能俊宅間上杉

上杉顕能うえすぎ・あきよし生没年不詳
親族父:上杉重行 養父:上杉重能 義理の兄弟:上杉顕能
幕府備後守護
生 涯
―高師直殺害―

 上杉重行の子で、叔父にあたる上杉重能の養子となった。同じく重能の養子となり義理の兄弟関係となった上杉能憲は従兄弟の関係でもある。
 貞和5年(正平4、1349)に足利直義の腹心として政敵・高師直暗殺を謀った重能は越前に流刑にされたうえ配所で暗殺された。翌観応元年(正平5、1350)に直義が南朝に与して挙兵すると顕能もこれに従い、観応2年(正平6、1351)2月に足利尊氏高師直の軍に勝利して師直らの出家隠遁を条件に講和した直後、2月26日に摂津国武庫川で兄弟の能憲と共に師直一族を襲撃、高一族を殺戮して養父の仇を討った。
 この年のうちに殺された高師夏の後任として備後守護になったことが確認されるが、間もなく直義が没落、やがて尊氏に敗れて滅ぶため守護職は奪われたと見られる。その後の行方は不明。

上杉清子うえすぎ・きよこ1270(文永7)?-1343(康永元・興国3)
親族父:上杉頼重 夫:足利貞氏 子:足利尊氏・足利直義 
兄弟:上杉憲房・上杉重顕・上杉頼房・日静・加賀局
位階従三位→贈従二位
生 涯
―尊氏・直義の生母―

 足利貞氏の妻で尊氏直義兄弟の母。上杉氏はもともと藤原北家勧修寺流の公家で、丹波上杉荘を所領としたことから上杉を名乗るようになった。宗尊親王が鎌倉将軍として下向した際に上杉重房が同行し、以後は武家として関東に根を張った。重房は娘を足利頼氏の「家の女房」として嫁がせ、これが足利家時を産んだことから足利氏との縁が生じた。清子は重房の孫にあたり、叔母に続いて足利家に嫁いだが、家時の子・足利貞氏には北条(金沢)貞顕の妹「釈迦堂殿」が正室として嫁して長男・高義を産んでおり、清子は側室(叔母と同じく「家の女房」)であったと思われる。
 のちに尊氏の護持僧としてその家族の健康祈願もした三宝院賢俊の日記には、暦応5年(興国3、1342)に「大方殿(清子)」の年齢が「七十三」と明記されており、これが本当なら清子の生年は文永7年(1270)、貞氏より三歳年上だったことになる。

 清子が後の足利尊氏、「又太郎」を産んだのは嘉元3年(1305)。上記の清子の生年を文永7年とすると尊氏を産んだ時に満36歳であった計算になる。かなり高齢の出産といえ、貞氏の側室なってからなかなか子宝に恵まれなかったということだろうか。
 清子が出産にあたって紀州粉河寺の観音に安産祈願をしており、尊氏が天下をとった1336年にそのお礼として寄進を行っている。だがその出産の場所は不明で、足利氏が常住していた鎌倉とするのが一般的だが、清子の実家の所領である丹波国八田郷上杉(現・京都府綾部市)とする伝承もある。ここにある光福寺(のち丹波安国寺)について清子自身が「自分の生まれ育った所」と明記する書状があり、現在も丹波安国寺には「尊氏産湯の井戸」なるものがあり、清子・尊氏・登子の墓(分骨したもの)が並んでいたりすることがその根拠となっている(村松剛「帝王後醍醐」に詳しい)。この時代には女性が出産時に実家に帰ることはよくあったし、清子は側室であるから北条氏の正室への遠慮もあって丹波で尊氏を産んだ可能性はないとは言い切れない。尊氏誕生の翌年、徳治元年(1306)に清子は早くも二番目の男子を産んだ。これがのちの足利直義である(一年遅らせる異説あり)

 その後、事情は不明だが高義は若くして死に、「釈迦堂殿」もおそらく早く亡くなったものと思われ、又太郎高氏が嫡子となったことで清子は事実上貞氏の正室となった。夫・貞氏は元弘の乱が勃発した元弘元年(1331)に死去し、その後高氏・直義兄弟の天下取りの戦いが続けられることになるが、その間の清子の事跡はほとんど伝わらない。高氏の妻・登子や子の千寿王(義詮)が幕府に人質にとられているが、清子については不明である(未確認だが高氏が京に同行し、丹波に護衛兵つきでかくまわれていたとする説があるらしい)
 その後、尊氏が建武政権に反旗を翻した「建武の乱」のなかで、清子の兄である上杉憲房が建武3年(延元元、1336)正月の京都攻防戦で戦死している。尊氏がいったん九州へ落ち延びることになった2月23日に清子は帰依する比丘尼坊に願文を送り、息子たちの無事を祈って「願いがかなったら仁王像を寄進する」と記しているという。このことからこの時期清子は戦況のわかる丹波あたりに潜んでいたと推測される。

 建武5年(延元3、1338)5月に北畠顕家の軍勢が東北から長駆して畿内へ突入し、高師直らに敗れて和泉・堺で戦死した。この経緯を上杉一族に報告する清子の書状が残されており、その中で清子は顕家の戦死の状況とその首が都に届けられたことを詳しく記して「一筋に神々の御計らいにて候」と喜び、「これは細川顕氏と高師直の戦功ということです。例の軍勢は逃げましたがこの二人がやってくれたのです」と伝える。不安定な情勢の中で清子が戦況の推移に大いに関心をはらっていたことをうかがわせる。
 尊氏が征夷大将軍となり、直義が「副将軍」として幕府を創設すると、当然清子はその二人の生母として重んじられ、「大方殿」あるいは住居から「錦小路殿」と呼ばれた。『風雅和歌集』(1346年撰)にも和歌が入選し、生前に従三位に叙せられた。

 康永元年(興国3)12月23日(=1343年1月20日)に京都で死去。その4か月前の8月13日に書かれた清子の手紙が残っており、迫る死を予感して生まれ故郷の光福寺(安国寺)に土地の寄進を行いたいむね甥の上杉朝定に申し出ている(この書状は中世の女性の仮名書状として貴重な資料となっている)。征夷大将軍の生母として北朝朝廷は従二位を贈り、喪に服して行事を停止した。10年後に尊氏・直義兄弟は骨肉の争い「観応の擾乱」へと突入し、上杉氏も多くの犠牲者を出すことになるが、その悲劇を見ずにこの世を去ったことは清子にとっては幸いだったかもしれない。諡号は「果証院雪庭貞公」、墓は足利将軍歴代の墓所となった京都・等持院にある。

参考文献
「歴史読本」1991年4月号特集「女太平記」掲載の安西篤子氏の「上杉清子」
清水克行「足利尊氏の家族」(新人物往来社「足利尊氏のすべて」所収)
村松剛「帝王後醍醐」ほか
大河ドラマ「太平記」藤村志保が演じ、足利一家のホームドラマ部分の要となっていた。夫・貞氏役の緒形拳とは大河「太閤記」でも夫婦役で、「一字だけの違いで縁があるのかしら」と発言していた。尊氏・直義兄弟に都の雅な文化に触れさせ、地蔵菩薩信仰を勧めるなど父・貞氏とはまた違った精神面での影響を与えたことになっており、建武政権期には息子たちと共に京に滞在し、偶然「孫」である不知哉丸(直冬)の存在を知る。中先代の乱がおこると鎌倉に下り、母を失った不知哉丸を引き取って寺に入れさせた。ところが不知哉丸が京へ頼ってきて直義の養子・直冬となるとこれを溺愛し、そのために尊氏の妻・登子と「嫁姑の争い」を演じる一幕もあった。なお、第1回・第2回のみオープニングで「足利清子」と表示されていたが当時は妻が夫の姓を名乗るのはおかしいという指摘があったのか、第4回から「清子」で統一されるようになる。
歴史小説では やや意外だが古典「太平記」ではいっさい登場しない。
 尊氏・直義兄弟の母親なので尊氏を主人公とする歴史小説作品ならたいてい登場する。しかし事跡はほとんど不明なのであまり深くは描かれない。だが吉川英治は『私本太平記』を書くにあたって尊氏の武将らしくない筆跡を見て「お公家さん出身のお母さんの影響かしらん」と、尊氏に文化的な影響を与えたのは清子と推測、父の貞氏が病弱でほとんど登場しない代わりに母の清子が尊氏に「家時の置文」を見せるなど重要な役割を与えている。また尊氏の親族と伝わる琵琶法師・覚一の母「草心尼」を創作し、これを清子の義妹としている。
漫画では 尊氏をとりあげた学習マンガでは父・貞氏はたいてい出てくるのに母・清子が登場した例はない。
 吉川英治の小説を原作とする岡村賢二の劇画「私本太平記」では序盤のみ登場する。

上杉重顕うえすぎ・しげあき生没年不詳
親族父:上杉頼重 兄弟:上杉頼成・上杉憲房・上杉清子・日静・加賀局
子:上杉重藤・上杉朝定
官職修理亮・左近将監
生 涯
―扇谷上杉家のルーツ―

 上杉頼重の子。姉妹に足利尊氏の母・上杉清子がおり、尊氏の母方の伯父にあたる。
 伏見天皇の蔵人を務めたとされ、鎌倉歌壇で活躍、『玉葉和歌集』『新千載和歌集』『風雅和歌集』に彼の和歌が採られている。
 重顕自身の事績はほとんど伝わらないが、彼の子孫が「扇谷上杉家」となる。

上杉重能うえすぎ・しげよし?-1350(貞和5/正平4)
親族父:勧修寺道宏 母:加賀局(上杉頼重娘) 養父:上杉憲房 養子:上杉能憲・上杉顕能
官職伊豆守
幕府伊豆守護代・武蔵守護代・伊豆守護・一番引付頭人・内談方頭人
生 涯
―師直に抹殺された直義の腹心―

 藤原北家の公家である勧修寺家の生まれだが、母方の伯父である上杉憲房の養子となった。上杉家ももともと勧修寺家から出た家である。母の加賀局および伯父で養父の上杉憲房、そして尊氏直義兄弟の母・清子はいずれも上杉頼重の子であり、重能は血縁でも尊氏・直義兄弟とは母方の従兄弟同士の関係にある。
 養父の憲房ともども早くから尊氏の重臣(足利一門に準じる)として活動しており、元弘3年(正慶2、1333)4月に後醍醐側への寝返りを決断した尊氏が上洛する途上で重能と細川和氏が伯耆・船上山にいる後醍醐天皇のもとへ派遣され、討幕の綸旨を受け取って近江鏡宿で尊氏に届けたことが「梅松論」にみえる。

 建武政権が成立すると建武元年(1334)2月の段階で伊豆守に任じられていることが確認でき、尊氏が守護を務める伊豆の守護代となっていたと推測される。関東廂番の一員として直義と共に鎌倉に下向しており、建武2年(1335)の中先代の乱でも直義のそばにあった。続く新田義貞軍との戦いでも直義と行動を共にし、「太平記」では鎌倉に敗走してきた直義が尊氏の出家の意思を聞いて仰天していると、重能が「出家した者でも許さぬ」という偽の綸旨を作る機転を見せ、尊氏はこれにだまされて出陣を決意したことになっている。偽綸旨の件は事実とはとうてい思えないが、重能が説得役を務めたことはあったかもしれない。
 その後の京都攻防戦で養父・憲房が戦死し、重能は尊氏と共に九州まで下向した。九州平定後の東上にも尊氏の水軍に加わっており、「今渡船」という名の船に乗っていたことが「梅松論」にみえる(その船の船頭・孫七が播磨灘で追い風を見立てた逸話が載る)。その後の京都攻防戦でも重能は東寺の尊氏本陣にあって参戦しており、「太平記」では義貞が尊氏に一騎打ちを申し入れた際に、受けて立とうとした尊氏を諫めてやめさせる役回りが重能に与えられている。幕府が創設されると重能は伊豆守護となり、とくに直義の腹心の一人として幕政に重要な位置を占めるようになる。

 やがて主に政務を担当する直義一派と、軍事的実績でのしあがってきた高師直一派との幕府内対立が激化すると、重能は同じく直義の腹心の畠山直宗と共に師直の排除をはかる。貞和5年(正平4、1349)閏6月に直義一派の圧力で師直は執事職を解任されるが、おそらくその直前に重能・直宗は師直を直義邸に招いて彼の暗殺を謀った。しかし実行の直前に粟飯原清胤が師直に目配せして逃がしてしまい、その夜のうちに暗殺計画の主犯を重能・直宗と密告する。これを聞いた師直はこの二人だけは絶対に許さぬと怒った。
 同年8月12日、師直一派がクーデターを起こし、直義は重能ら腹心を引き連れ尊氏邸に逃げ込んだ。このクーデターは直義の引退、師直の執事復帰という形で師直派の圧勝に終わり、重能と直宗は出家した上で流刑に処せられた。しかしこの二人を憎悪する師直は刺客を放ち、重能は配流先の越前国江守荘で殺害された。『太平記』によれば先に直宗が腹を切り、抜いた刀を重能に渡して果てたが、重能は妻との別れを惜しんで呆然としたまま腹を切れず、そのまま追手に殺された。重能の妻は夫の後を追って川に身を投げようとしたが僧に止められ、尼となって夫の菩提を弔ったという。ただしこの逸話は『太平記』古本にはなく、そのまま事実かは疑わしい。重能の殺害については「東寺王代記」は10月26日、「大乗院記録抜書」は8月24日、「常楽記」は12月20日と記録もまちまちである。
 重能には実子がなく、義理の兄である上杉憲顕(重能の実の従兄弟)の子・能憲を養子にしている。観応2年(1351)2月にこの能憲が師直・師泰を暗殺し、養父の仇を報じた。
大河ドラマ「太平記」第39回、直義派と師直派の対立が目に見えてくるあたりから登場する(演:谷嶋俊)。第44回では師直暗殺を決断するよう直義に迫る場面もあった。師直軍による尊氏邸包囲シーンで顔を見せたのが最後で、その殺害までは描かれなかった。
歴史小説では古典「太平記」でいくつか印象的な場面で登場することから歴史小説でもよく顔を出している。古いものでは直木三十五『足利尊氏』(1932)のラストは偽綸旨で尊氏をだまして出陣させた重能が自身の髪を詰め(これは、謀書に対しての、詫びでござります)と心の中で叫ぶ描写で締めくくられる。もっともこの小説は検閲で大幅に削除を受け結局中断に追い込まれたものらしく、ここで完結の予定ではなかったのかもしれない。
SSボードゲーム版武家方の「武将」クラスで、勢力地域は「南関東」。合戦能力1・采配能力5。ユニット裏は養子の上杉能憲。

上杉朝定うえすぎ・ともさだ1321(元亨2)-1352(文和元/正平7)
親族父:上杉重顕 妻:足利高義の娘
子:上杉朝顕 養子:上杉顕定
官職左近将監・弾正少弼
位階従五位下
幕府引付頭人、丹後守護
生 涯
―直義に与した扇谷上杉の祖―

 上杉重顕の子で、足利尊氏直義兄弟とは従兄弟どうしになる。また、朝定の妻は尊氏の異母兄・足利高義の娘であったといい、結びつきは強かった。重顕の系統の上杉氏は「二橋家」と呼ばれ、在京していたようである。
 上杉一門の一人として足利兄弟に従い、足利幕府が成立すると建武4年(延元2、1337)に丹後守護、康永3年(興国4、1344)には幕府の引付四番頭人となって幕政に携わった。『上杉家譜』によると高師直と共に幕府の執事をつとめたこともあるという。康永元年(興国3、1342)には死を間近に控えた叔母の上杉清子(尊氏・直義の母)から寺への寄進を申し出る仮名の手紙を受け取っている。
 他の上杉一門同様に足利直義に近く、観応の擾乱が起こると直義派に属した。その一方で直義が失脚した翌年の観応元年(正平5、1350)7月28日に尊氏の子・足利義詮が朝定の屋敷を訪れ会談したとの記録(「祇園執行日記」)もあり、両派の調停役を務めていた可能性もある。
 翌観応2年(正平6、1351)に幕府の内戦はいったん直義派優勢のうちに和睦となったが、7月にまた決裂すると朝定は直義に従って北陸方面を転戦した。観応3=文和元年(正平7、1352)2月に直義が鎌倉で急死、直義派一党が動揺するなか、3月9日に朝定は信濃国御原で32歳の若さで死去している。その死は戦死であるとも病死であるともいい、はっきりしない。
 彼の養子・上杉顕定は後に関東に下って足利氏満に仕え、後年力をもつ「扇谷上杉」の祖となった。

上杉朝房うえすぎ・ともふさ1335(建武2)?-1391(明徳2/元中8)?
親族父:上杉憲藤 兄弟:上杉朝宗 妻:上杉憲顕の娘
子:山吉行盛室 養子:上杉房方
官職左馬助・中務少輔・弾正少弼
幕府関東管領、上総・信濃守護
生 涯
―再出家した越後上杉家の祖―

 上杉憲藤の長男で幼名を「幸松丸」といい、「上杉三郎」の通称がある。暦応元年(延元3、1338)に父が北畠顕家との戦いで摂津で戦死したときまだ4歳であったと思われ(「鎌倉大草子」に14歳だったとあるが、そのとき父は21歳である)、弟の朝宗ともども家臣の石川覚道に養育された。貞治3年(正平19、1364)に上総守護、貞治5年(正平21、1366)には信濃守護に任じられている。
 将軍と鎌倉公方が代替わりした直後の応安元年(正平23、1368)に関東管領・上杉憲顕に反発する武蔵平一揆の反乱が起こると伯父であり舅でもある憲顕と共にその鎮圧にあたり、この年9月の憲顕の死後、憲顕の子・上杉能憲と共に関東管領となり、「両管領」「両上杉」と呼ばれる二頭体制で幼い足利氏満を支えた。
 応安2年(正平24、1369)、朝定は信濃守護として村上氏らを討つため信濃の善光寺方面に出陣、命に従わない栗田氏を栗田城(現・長野市栗田)に攻めたが敗退した。翌応安3年(建徳元、1370)8月4日に関東管領を辞任しているが、それはこの敗戦も一因と言われる(その一方で辞任はしていなかったとの説もある)。上総守護職を弟の朝宗に譲り、永和3年(天授3、1377)ごろ上洛して在京のまま信濃の国務を見ているが、それ以後信濃守護を務めていた事例が確認できない。
 明徳2年(元中8、1391)に京都・四条で死去したとも伝わるが、これも確証がない。法号を常真得元という。

上杉朝宗うえすぎ・ともむね1337(建武4/延元2)?-1414(応永21)
親族父:上杉憲藤 兄弟:上杉朝房
子:上杉氏憲(禅秀)・上杉氏顕・上杉氏朝
官職修理亮・中務少輔
幕府関東管領、上総・武蔵守護
生 涯
―再出家した越後上杉家の祖―

 上杉憲藤の次男で、暦応元年(延元3、1338)に父が北畠顕家との戦いで摂津で戦死したときまだ2歳であったという(「鎌倉大草子」に12歳だったとあるが、そのとき父は21歳である。また父の戦死の翌年の生まれとの説もある)。幼少時は兄の上杉朝房ともども家臣の石川覚道に養育された。
 貞和4年(正平20、1365)から永和2年(天授2、1376)までの間に兄・朝房から上総守護職を譲られ、恐らくそれとほぼ同時に犬懸上杉家の家督も兄から引き継いでいる。応永2年(1395)3月9日に関東管領、ほぼ同時期に武蔵守護となり、鎌倉公方の足利氏満、その子・満兼を支えた。応永6年(1399)に大内義弘が起こした「応永の乱」の際に満兼が呼応して挙兵しようとした際には関東管領として諌める役割をになったとみられる。
 応永12年(1405)9月12日に関東管領を辞任。応永16年(1409)に満兼が死去すると出家して「禅助」と号し、家督を息子の氏憲に譲って自らは上総国長柄山胎蔵寺に隠遁した。
 応永21年(1414)8月25日に死去。享年八十一とするものがあり、それを信じると建武元年(1334)の生まれとなるが享年七十六とするものもあってはっきりしない。息子の氏憲がその後まもなく乱を起こして滅ぼされる「上杉禅秀」その人である。

上杉憲顕うえすぎ・のりあき1306(徳治元)-1368(応安元/正平23)
親族父:上杉憲房 兄弟:上杉憲藤・上杉重行
子:上杉能憲・上杉憲将・上杉憲方・上杉憲春・上杉憲英・上杉憲栄・上杉朝房室
官職越後守・安房守・民部大輔
位階従五位下
建武の新政関東廂番衆
幕府上野・越後・武蔵守護、関東執事→関東管領
生 涯
―尊氏・直義の母方のいとこ―

 上杉憲房の子で、足利尊氏足利直義兄弟とは従兄弟どうし、年齢もほぼ同じである。父・憲房は尊氏の父・貞氏の時から反北条の挙兵を勧めていたとされ、尊氏の挙兵決断にも深く関わったとされることから憲顕も同世代の従兄弟たちと恐らくは少年時代から行動を共にしていたと思われる。
 鎌倉幕府が倒れて建武政権が始まり、足利直義が成良親王を奉じて関東に下って鎌倉にミニ幕府を作ると、憲顕はこれに従い関東廂番の一人となっている。直義と憲顕の深い関わりはここから始まったものとみられる。その後の中先代の乱、尊氏の建武政権からの離反から始まる建武の乱と、上杉一族は足利軍の主力として各地で戦い(「太平記」では憲顕は巻14の新田義貞を迎え撃つ直義軍の中に初登場する)、父・憲房は建武3年(延元元、1336)正月の京都攻防戦で戦死している。

 憲房が任じられていた上野守護職は憲顕が引き継ぎ、建武4年(延元2、1337)には憲顕が上野に下って統治にあたっていた。この年5月19日付の憲顕あての手紙の中で、直義は「ご下向の後、国内が平穏となってありがたい。諸国の守護たちの非法ばかり耳にする中で上野では正しい法治が行われていると皆が口をそろえて言っており、大変喜んでいる。お父上の戦死を大いに嘆いていたが、このように政治が見事に行われていると聞くとお父上が生き返られたようで喜ばしい」と憲顕の政治を絶賛している。直義が理想とする法にのっとり秩序だった政治を憲顕が行っていたということであり、二人の信頼関係が大変深いものであったこともうかがえる。

 その後、北畠顕家率いる南朝奥州軍が関東に進出すると憲顕はその迎撃にあたり、顕家軍が鎌倉を占領して翌暦応元年(延元3、1338)正月に畿内へと西上するとこれを追って美濃・青野原の戦いにも参加した。関東執事となっていた弟の上杉憲藤が3月に顕家軍との戦いで摂津で戦死すると、この年の12月に憲顕は直義に呼び出されて京へ上った。この時に憲顕が弟の後を継いで関東執事になることが決まったと見られ、遅くとも暦応3年(興国元、1340)には鎌倉に下って尊氏の嫡男・足利義詮を補佐する関東執事の地位にあった。ただし高師冬(高師直の従兄弟)と二人で関東執事を務めるという二頭体制で、これはすでに幕府内で主導権争いを始めつつあった直義と師直の関東における代理人という立場であった。
 暦応4年(興国2、1341)に上野で新田義宗(義貞の子)が南朝勢力を率いて蠢動すると、上野守護である憲顕はその鎮圧にあたった。このころ越後守護ともなっているが上野も越後も新田一族の力が残る地域であり、その鎮圧は憲顕に課せられた重大な任務であった。

―関東直義派として奮戦―

 貞和5年(正平4、 1349)8月に高師直派のクーデターにより直義が失脚、鎌倉から義詮が京に呼び出されて直義から政務を引き継ぐ一方、尊氏の四男でまだ10歳の足利基氏が入れ替わりに鎌倉に下って来た。憲顕は師冬と共に基氏を支えることになったが、翌観応元年(正平5、1350)10月に直義が南朝に下って挙兵するとこれに呼応、息子の上杉能憲が反乱を起こしたのでそれを討伐するという口実で12月に上野に出陣し、そのまま高師冬と対決する姿勢をとった。慌てた師冬は基氏を擁して鎌倉を脱出したが、相模国毛利荘湯山で憲顕と内通した者たちが基氏を奪取、憲顕は12月29日に基氏を擁して鎌倉に戻った。直後に師冬は甲斐で諏訪氏に滅ぼされ、さらに高師直・師泰らも翌観応2年(正平6、1351)2月に能憲の手により武庫川で虐殺された。「観応の擾乱」は関東でも畿内でもひとまず直義派の勝利となる。

 しかし尊氏・直義の対立はすぐ再燃し、尊氏は南朝と手を組んで(正平の一統)直義を撃ち破る。直義は尊氏からの和議の呼びかけを蹴って北陸経由で11月15日に鎌倉に逃れてきた。憲顕は直義を迎え入れて東下してくる尊氏軍を迎撃する態勢をとり、憲顕自身が大手の大将となって大軍を率い、11月末から12月末にかけて駿河・薩タ山で対峙した。ところが背後から宇都宮・小山勢が駆けつけてきたため直義軍は敗北、憲顕は信濃へと逃亡した。尊氏に投降した直義は翌観応3=文和元年(正平7、1352)2月26日に鎌倉で急死する。

 直義の死の直後の閏2月、南朝は尊氏との講和を破って畿内と関東で同時作戦を開始した。上野では新田義貞の遺児・新田義宗新田義興が挙兵し、義興は一時鎌倉を占領した。信濃から南朝の宗良親王も加わって笛吹峠の戦いで尊氏軍と激突したが、このとき義顕も信濃から出て南朝軍に加わり、尊氏相手に戦っている。この時代によくある「敵の敵は味方」の組み合わせだが、とくに憲顕は直義を殺された怨念が強く、長年の敵であるはずの南朝・新田一族と手を組む気にもなったのだろう。
 『太平記』によるとこの笛吹峠の戦いで憲顕配下の長尾弾正根津小次郎の二名が尊氏の殺害を狙って敵陣に忍び込んだが果たせず、という場面があったらしい。しかしこの戦いは南朝軍の敗北に終わり、憲顕は再び信濃へと逃亡した。完全に敵にまわった(しかも尊氏殺害作戦にも関与した可能性が高い)憲顕を尊氏が許すはずもなく、上野・越後守護職はとりあげられ宇都宮氏綱に与えられた。

―関東政界への復帰―

 その後およそ十年、憲顕の行方ははっきりしなくなる。この間に出家して「道昌」と号し、越後のどこかに隠れ住んでいたらしい。
 この間、鎌倉公方の基氏は上野・信濃への牽制のため入間川に在陣を続け、補佐役には畠山国清がついていた。国清は新田義興を矢口渡で謀殺し、畿内へ出兵して南朝への攻勢をかけるなど積極的に動いたが、その強圧的な姿勢が関東武士たちの恨みを買い、康安元年(正平16、1361)11月に武士たちの集団要請を受けた基氏は国清を解任、入間川から追放した。そして関東支配の補佐役として憲顕の再登板を求めたのである。
 基氏は幼い時期に憲顕の補佐を受け、かつ叔父の直義を慕っていたとされることから政治姿勢では憲顕に親近感を覚えていたらしい。憲顕を南朝方に追い込んだ尊氏もすでに世を去っており、憲顕復帰の機は熟していた。貞治元年(正平17、1362)に憲顕は越後守護、翌貞治2年(正平18、1363)に上野守護職も取り返した。逆に越後・上野守護職を奪われた宇都宮氏綱は怒り、守護代の芳賀禅可は義顕の鎌倉行きを阻止しようと出陣した。これに対して基氏は宇都宮・芳賀氏を討つべく自ら出陣して憲顕を救い、憲顕は10年ぶりに鎌倉に入って関東管領職に復帰する。翌年には上洛して将軍義詮とも面会して公的な立場を完全に取り戻した。

 貞治6年(正平22、1367)4月26日に足利基氏が28歳の若さで急死した。基氏からその子・氏満への引き継ぎのため京から佐々木道誉が鎌倉にやって来て政務をとり、入れ替わりに憲顕が京へ行って義詮と今後の協議をしている(7月6日に京に入っていることが『師守記』に記されている)。その後まもなく憲顕は鎌倉に戻ったが、この年の暮に義詮も死んで子の義満が跡を継ぎ、翌応安元年(正平23、1368)正月25日に憲顕は氏満の名代として義満の相続祝いのためまたも京に上っている。
 憲顕の留守を突いて、3月にかねて憲顕の支配(武蔵守護でもあった)に不満を抱いていた武蔵の河越氏が「平一揆」の反乱を起こした。さらに上野の新田一族も再び活動し始めたため、憲顕は急いで関東に戻り、河越で戦って平一揆の乱を鎮圧した。だが老骨に鞭打っての東奔西走が体にこたえたか、この年の9月19日に憲顕は足利の陣中で63歳の波乱の生涯に幕を閉じた。自身が創建した伊豆の国清寺に墓がある。
 
 憲顕の死後、その子・能憲、憲春憲方が関東管領をつとめ、その子孫は居館の住所から「山内上杉家」と呼ばれ、関東管領職を独占した。山内上杉氏が関東の名族となったのもその祖・憲顕の活躍によるところが大きいのである。

参考文献
田辺久子『関東公方足利氏四代』(吉川弘文館)
小川信監修『南北朝史100話』(立風書房)
関幸彦『その後の東国武士団・源平合戦以後』(吉川弘文館・歴史文化ライブラリー327)ほか
歴史小説では南北朝ものの長編小説では名前が出てくることは多いが、特に印象に残る描かれ方をされたものはない
PCエンジンCD版ゲーム開始時に父・憲房と共に武蔵に登場。能力は統率80・戦闘74・忠誠74・婆沙羅50
PCエンジンHu版シナリオ2「南北朝の大乱」で上野・沼田城に北朝武将として登場する。能力は「長刀2」
SSボードゲーム版武家方の「武将」クラス、勢力地域「北関東」で登場。合戦能力2、采配能力3。ユニット裏は息子の上杉憲方。

上杉憲方うえすぎ・のりかた1335(建武2)-1394(応永元)
親族父:上杉憲顕 兄弟:上杉憲将・上杉能憲・上杉憲春・上杉憲英・上杉憲栄
子:上杉憲孝・上杉房方・上杉憲定・上杉憲重
官職左京亮・安房守
幕府関東管領、上野・武蔵・伊豆・下野・安房守護
生 涯
―氏満時代の関東管領―

 上杉憲顕の子。父の死後、家督と関東管領職は兄の上杉能憲が継いだが、永和4年(天授4、1378)に能憲が死ぬと家督と上野守護職、所領などは憲方が引き継いだ。ただし関東管領職には庶兄の上杉憲春がつき、上野守護も所領もそのまま憲春が保持していた。このため兄弟間で対立があったのでは、との見方もある。
 康暦元年(天授5、1379)2月、京では管領・細川頼之に反発する斯波義将一派が軍事行動を起こし、閏4月に頼之を失脚に追い込んだ(康暦の政変)。このとき鎌倉公方・足利氏満も将軍の地位を望み、呼応して行動を起こそうとしたが関東管領の憲春が諌死したため思いとどまることになったと伝わる。ただし実際には憲方が義満と連絡をとって氏満挙兵を阻止し、憲方に詰め腹を切らせたものではないかとの説も有力である。憲春自殺の直後に憲方は氏満の命を受けて義満救援のために伊豆・三島まで出兵したがここで待機し、間もなく義満から指示を受けて鎌倉に戻って関東管領に就任しているのがその証拠と見られている。
 なおこの年に憲方は鎌倉の山内の地に邸宅を構え、以後彼の子孫は「山内上杉家」と呼ばれることになる。

 永徳2年(弘和2、1382)正月に憲方はいったん関東管領を辞任したが、すぐに6月には再任された。この間、康暦2年(天授6、1380)から小山義政の反乱、その子・若犬丸の抵抗があり、憲方は氏満を助けてその鎮圧にあたった。父・兄から引き継いだ上野・武蔵・伊豆のほか、下野・安房の守護もつとめ、山内上杉家の地位を確固たるものとした。
 南北朝時代最後の年の明徳3年(1392)4月22日に老齢と病身を理由に子の憲孝を名代に立てて第一線から退いた。応永元年(1394)10月24日に死去、享年60。自身が創建した鎌倉明月院に墓がある。

参考文献
田辺久子『関東公方足利氏四代』(吉川弘文館)
小川信監修『南北朝史100話』(立風書房)ほか
SSボードゲーム版上杉憲顕のユニット裏で、「武将」クラスとして北関東に登場。能力は合戦能力1・采配能力3

上杉憲定うえすぎ・のりさだ1375(永和元/天授元)-1412(応永19)
親族父:上杉憲方 兄弟:上杉憲重・上杉房方・上杉憲孝
子:上杉憲基・佐竹義人
官職右京亮・安房守
幕府関東管領、上野・伊豆守護
生 涯
―満兼・持氏時代の関東管領―

 関東管領・上杉憲方の子。応永元年(1394)に父・憲方が死去するとその翌年に山内上杉家の家督と武蔵・伊豆守護を引き継いだ。
 応永6年(1399)に大内義弘応永の乱を起こして将軍足利義満に挑戦した際、今川了俊が仲介役となって鎌倉公方・足利満兼と結び、東西から京を挟撃しようとした。満兼はすっかり乗り気になって実際に(義満援護のためと称して)武蔵、下野へ出陣したが、義弘があっけなく戦死したため空振りに終わったが、このとき関東管領の上杉朝宗、上杉氏の嫡流である山内上杉家当主の憲定が懸命に満兼を諌めてその行動を遅らせたと言われる。とくに憲定は義満から書状で満兼の動きについて質問されており、あきらめきれずに足利荘に在陣を続ける満兼に鎌倉に帰るよう要請もしている。また、義弘と満兼の連絡役となった今川了俊について、義満は憲定にその追討を命じたが、憲定は了俊に投降をうながし、その助命を運動して結果的に無罪放免(政治生命は絶たれたが)にしてやっている。
 
 応永12年(1405)10月8日に関東管領となり、満兼を支えた。応永16年(1409)に満兼が死ぬと、続けてその子・足利幸若丸(持氏)を補佐したが、翌応永17年(1410)に持氏の叔父・足利満隆に陰謀の疑いが起こって幸若丸が憲定の屋敷に難を避け、憲定が両者の調停に当たって丸く収めるという事件が起こった。この事件は満隆と上杉氏憲(禅秀)が組んで仕組んだものと言われ、この事件後憲定は関東管領を氏憲に譲っている(「鎌倉大草子」には翌応永18年正月に辞したとあるが、前年が正しいらしい)
 応永19年(1412)12月18日に死去、38歳であった。法号を「光照寺大全長基」という。
 
参考文献
田辺久子『関東公方足利氏四代』(吉川弘文館)ほか
漫画作品では小学館版「少年少女日本の歴史」(あおむら純・画)の「南朝と北朝」の巻の義満時代を描く第四章で、応永の乱に際して挙兵をする満兼を必死にとどめる姿が描かれている。このときは関東管領ではなかったため「側近」と表現されている。

上杉憲孝うえすぎ・のりたか1366(貞治5/正平21)?-1394(応永元)?
親族父:上杉憲方 養父:上杉能憲 兄弟:上杉房方・上杉憲定・上杉憲重
官職兵庫頭助
幕府関東管領
生 涯
―短命の関東管領―

 上杉憲方の子で、伯父で宅間上杉家に養子で入った上杉能憲の養子となり、宅間上杉家を継ぐことになった。
 至徳3年(元中3、1386)以後の小山若犬丸の反乱の鎮圧で戦功をあげる。明徳3年(1392)4月に実父の憲方が老齢と病身を理由に関東管領を辞任した際にその跡を引き継いだ。だが応永元年(1394)11月3日に彼自身が病のために関東管領を辞任する。その後まもなく死去したらしいが詳細は不明(なぜか明徳元年=1391に26歳で死去、との説があるらしい)。宅間上杉家は上杉重兼が継いでいる。

上杉憲春うえすぎ・のりはる?-1379(康暦元/天授5)
親族父:上杉憲顕 兄弟:上杉憲将・上杉能憲・上杉憲方・上杉憲英・上杉憲栄
子:上杉憲孝・上杉房方・上杉憲定・上杉憲重
官職左近将監・刑部大輔
幕府関東管領、上野・武蔵守護
生 涯
―氏満の野望を諌死で阻止?―

 上杉憲顕の子だが、母親の身分のためか兄弟の中では冷遇された存在だったらしい。足利義満が将軍となった応安元年(正平23、1368)に、父・憲顕の留守を突いて武蔵の平一揆や新田一族が挙兵すると、憲春は兄・能憲と共に出陣してその鎮圧にあたった。
 応安4年(建徳2、1371)には上野守護となっている。しかし兄・能憲がその死に臨んで山内上杉家の家督を弟の憲方に譲った際に所領や上野守護職もそこに含めていたが、憲春はそのまま上野守護職にあり続けた上に永和4年(天授4、1378)には関東管領(前年とする史料もある)、さらに武蔵守護職も兼ねることとなった。憲春を関東管領に指名したのは鎌倉公方の足利氏満自身であったとされ、上杉氏が京の将軍・足利義満と連絡をとって鎌倉公方を監視・牽制する役割を担っていることに不満を抱いた氏満が、上杉氏内で弱い立場であった憲春を抜擢して手駒とすることで対抗しようとしたのでは、との見方もある。

 康暦元年(天授5、1379)、京では幕政を仕切っていた管領・細川頼之が反対派の軍事行動で失脚に追い込まれる「康暦の政変」が起こった。このとき氏満はこの混乱に乗じて将軍位を狙おうとし、憲春が再三諌めても聞かず、行動を起こそうとした。やむなく憲春は自らの死をもって氏満の行動を阻止しようと考え、妻に「尼になる用意をしておけ」と言い置いてから3月5日に鎌倉山内の自邸内で自害した。法号は「大沢院高源道珍」という。
 結局氏満は行動を思いとどまるのだが、憲春自害の情報が京に届くと義満はじめ幕府では氏満が野心を抱いているのではとかえって疑うようになったという。

 氏満の野望を阻止するための諌死、という通説は戦国期に書かれた『鎌倉大草子』によるものだが、真相はいささか異なるとの見方も強い。上杉氏内で弱い立場の憲春が氏満に抜擢された経緯から考えると憲春はむしろ氏満の腹心としてその野望を推し進める立場にあった可能性が高く、義満と連絡をとった弟の憲方にそれを阻止されて氏満を生かすために「詰め腹」を切らされたのだ、という推理がある。憲春の死によって関東管領職は嫡流の憲方が継ぐことになった。

参考文献
田辺久子『関東公方足利氏四代』(吉川弘文館)
小川信監修『南北朝史100話』(立風書房)ほか

上杉憲房うえすぎ・のりふさ?-1336(建武3/延元元)
親族父:上杉頼重 兄弟姉妹:上杉重顕・上杉顕成・加賀局(重能の母)・上杉清子(尊氏の母)・日静
子:上杉憲顕・上杉憲藤・高師秋室 養子:上杉重能・上杉重行・上杉重兼
官職兵庫頭・永嘉門院蔵人
建武の新政雑訴決断所
幕府上野守護
生 涯
―壮絶に散った尊氏の伯父―

 法名は「道勲」足利尊氏直義兄弟の生母清子の兄、尊氏らの母方の伯父にあたる。尊氏の祖父・家時の生母が上杉家の女性で、その姪の清子が足利貞氏に嫁いで高氏(尊氏)を産んだことでいっそう結びつきを強めていた。今川了俊『難太平記』によると家時・貞氏はすでに北条打倒の宿願を抱いていたが姻族の上杉にだけ相談していたという。
 元弘3年(正慶2、1333)年に高氏が幕府の命を受けて鎌倉を出発する前から、この伯父・憲房(すでに出家しており、法名「道勲」。「上杉兵庫入道」と呼ばれた)が反北条の挙兵を勧めていたという。決断した高氏は憲房を使者として一門の重鎮・吉良貞義のもとにつかわし意向を伝えさせている。上洛の途上で高氏が船上山にいる後醍醐天皇から綸旨を受け取るべく派遣した上杉重能は憲房の養子である。

 鎌倉幕府が滅び、建武政権が成立すると、土地訴訟問題処理のために設置された「雑訴決断所」第二番(東海道担当)の奉行人に名を連ねている。尊氏自身は建武政権に一定の距離を置いて「尊氏なし」とささやかれるなか、高師直引田妙玄とともに足利家臣代表として出仕したものとみられる。
 建武2年(1335)に中先代の乱が起こると尊氏と共に関東へ下った。乱の平定後の尊氏側独自の人事で憲房は上野国守護に任じられている。上野は新田義貞の本拠地であり、これが義貞の怒りを買ったともいう。その後の尊氏の反乱、西上、京都占領まで従軍したが、建武3年(延元元、1336)1月に奥州から攻めのぼった北畠顕家らが加わった後醍醐方との激戦が京都市内で続くなか、1月27日に戦死した。「梅松論」によれば鴨川の四条河原付近の戦闘で、敵軍の攻撃を受け危うくなった尊氏・直義兄弟を撤退させるため、他の武将らと共にその前に立ち、引き返し引き返し戦った末の壮絶な死で、「かの人々、命を捨て忠節を致しけるこそ有難けれ」と記されている。かなり後になって編纂された『鎌倉大草紙』では中御門京極に立ちふさがって防戦し、郎党らがみな戦死したうえ自身も重傷を負ったため、祇陀林地蔵堂に入って自害したと伝える。
 後年、直義は憲房の子・憲顕にあてた書状の中で、憲顕の上野守護としての仕事ぶりをほめて「まるでお父上が生き返られたようだ」と記している。直義にとってこの伯父は彼好みの実直で有能な官僚タイプの武将だったようである。
大河ドラマ「太平記」演じたのは藤木悠で、第3回から登場。京都へ訪ねてきた高氏に上杉家の家系を延々と説明して高氏を閉口させる場面でとぼけた持ち味の演技をみせた。第13回で笠置攻略のために上洛した高氏を再度自邸に泊め、そこへ北畠顕家が訪問してくると高氏に気をつけるよう忠告する場面もあった。登場はこれが最後で、建武の乱での戦死はまったく描かれなかった。
歴史小説では吉川英治『私本太平記』では憲房は六波羅探題の評定衆の一人として京都に在住していることになっていて、物語の冒頭、若き日の高氏がこの伯父をたよって京都を訪ねている。
PCエンジンCD版ゲーム開始時に高師直らと共に武蔵に登場。能力は統率75・戦闘78・忠誠87・婆沙羅41
メガドライブ版足利軍武将として登場。能力は体力59・武力100・智力115・人徳83・攻撃力82。 

上杉憲英うえすぎ・のりふさ?-1404(応永11)
親族父:上杉憲顕 兄弟:上杉憲将・上杉憲春・上杉能憲・上杉憲方・上杉憲栄
子:上杉憲光
幕府上野守護?、奥州管領
生 涯
―深谷上杉家の祖―

 上杉憲顕の六男。康応年間(1389-90)に上野の南朝勢力、新田一族を牽制するため深谷に庁鼻和(こばなわ)城を築き、その城主となった。このため「庁鼻和上杉家」の名があるが、子孫は後に深谷城に入って「深谷上杉家」となる。
 明徳元年(元中7、1390)に庁鼻和城域に国済寺を創建。息子の憲光と二代続けて奥州管領を務めている。応永11年(1404)8月2日に死去、墓は歴代深谷上杉家のものと並んで国済寺にある。

上杉憲藤うえすぎ・のりふじ1318(文保2)-1338(建武5/延元3)
親族父:上杉憲房 兄弟:上杉憲顕・上杉重行
子:上杉朝房・上杉朝宗・三浦貞清室
官職中務大輔・修理亮
幕府関東執事
生 涯
―若くして戦死した犬懸上杉家の祖―

 上杉憲房の子で、上杉憲顕の弟。足利尊氏直義兄弟の母方の従兄弟でもある。
 尊氏が建武政権を打倒した翌年の建武4年(延元2、1337)にまだ20歳という若さで関東執事に任じられ、まだ幼い足利義詮を補佐した。共に関東執事となっていた斯波家長はさらに若い17歳で、彼ら年少者に十人を任せた理由はよく分からない。この建武4年の末に奥州から北畠顕家の軍が鎌倉に押し寄せ、家長は戦死、義詮・憲藤も鎌倉を奪われて逃亡した。
 翌建武5年(延元3、1338)正月に北畠軍は畿内へと向かい、2月に憲藤は尊氏の命を受けて上洛し、北畠軍を追った。3月15日に摂津国渡辺川付近で北畠軍と激闘の末に戦死(「鎌倉大草子」は信濃で戦死とする)、まだ21歳の若さであった。その2か月後に北畠顕家も戦死するが、偶然にも憲藤と同年生まれの同年戦死である。
 憲藤の遺児上杉朝房上杉朝宗は後年関東管領職にもつき、その子孫は「犬懸上杉家」と呼ばれることになる。

上杉憲将うえすぎ・のりまさ?-1366(貞治5/正平21)
親族父:上杉憲顕 兄弟:上杉憲春・上杉能憲・上杉憲方・上杉憲英・上杉憲栄
子:久庵僧可
官職兵庫頭
幕府武蔵・越後守護代?
生 涯
―父に先立った憲顕の嫡男―

 上杉憲顕の嫡男とされる(「上杉系図大概」ほか)。康永元年12月(興国3、1343)に大叔母であり足利尊氏直義の生母の上杉清子が亡くなった際には、越後で南朝勢と戦う父・憲顕の代理として弔問を行った。
 観応元年(正平5、1350)に尊氏・高師直派と直義派による「観応の擾乱」が始まると父・憲顕と共に直義派について越後で戦い、翌観応2年(正平6、1351)正月には甲斐に逃れた高師冬(師直の従兄弟)を攻めて滅亡に追い込んだ。その直後に上洛して直義軍に加わり、内戦が一時直義派の勝利で落ちつくと鎌倉に帰った。このとき憲将の将兵に恩賞の土地を与えるよう、直義が憲顕に指示している。この年9月に憲将が武蔵で守護同然の立場で発給している文書が確認されるが、実際には守護は憲顕で、憲将はその息子として父の代理(守護代)をつとめていた可能性が高い。

 この年7月に尊氏・直義の和解は破れ、直義は鎌倉に逃れて憲顕と合流し、12月に駿河・薩タ山の戦いで尊氏に敗北、翌観応3=文和元年(正平7、1352)2月に鎌倉で急死した。憲顕・憲将は信濃方面に逃れて南朝方として活動、正平10年(文和4、1355)に憲将は越後の顕法寺城(現・上越市)で宇佐美氏らと挙兵したが破れ、信濃に転じて翌年にかけて同国守護・小笠原氏と戦っている。

 貞治元年(正平17、1362)に父・憲顕が鎌倉公方足利基氏の要請で関東政界に復帰、越後守護を奪回すると、憲将は父の代理人として越後守護代の役割を務めている。
 順調にいけば彼が憲顕の跡を継いだのだろうが、貞治5年(正平21、1366)6月26日に父に先立って死去した(「上杉系図大概」)。父の跡は弟の能憲憲方憲春に引き継がれてゆく。

上杉憲栄うえすぎ・のりよし1350(観応元/正平5)-1422(応永29)
親族父:上杉憲顕 兄弟:上杉憲将・上杉憲春・上杉能憲・上杉憲方・上杉憲英
子:山吉行盛室 養子:上杉房方
官職左近将監
幕府越後守護
生 涯
―再出家した越後上杉家の祖―

 上杉憲顕の末子。幼名は「龍樹丸」だったという。父がもっていた越後守護職をその死(応安元年=1368)の後に引き継いだが、この前後に理由は不明だが自ら望んで世を捨て、出家して僧となり「道久」と号していたらしい(上杉憲実の「越後国衙職相伝由緒置文」)。しかし将軍足利義満の命令で還俗、越後守護を在京のままつとめさせられたという(「上杉系図大概」)。一族の上杉朝房の領地を引き継いだともいう。
 だが結局世を捨てる意志は変わらず、永和4年(天授4、1378)ごろに再出家。越後守護職は甥の房方(憲方の子)に引き継がれた。出家後は但馬で月庵宗光に学び、さらに伊豆国大見郷に隠棲して如意輪寺を創建した。康暦2年(天授6、1380)に甲斐の向嶽寺で父・憲顕の十三回忌法要を行い、長い余生の末に応永29年(1422)10月26日に如意輪寺で死去した。

上杉能憲うえすぎ・よしのり1333(正慶2/元弘3)-1378(永和4/天授4)
親族父:上杉憲顕 養父:上杉重能 
兄弟:上杉憲将・上杉憲春・上杉憲方・上杉憲英・上杉憲栄
養子:上杉憲孝
官職左衛門蔵人・兵部少輔
幕府関東管領、武蔵・上野・伊豆守護
生 涯
―師直を暗殺した関東管領―

 通名「三郎」。上杉憲顕の子で、叔父の重能の養子となった。しかし養父・重能は足利直義の腹心として高師直の抹殺を図ったため、貞和5年(正平4、1349)に師直のクーデターにより失脚、越前へ流されたうえに暗殺された。養子の能憲は京を逃れて実の父で鎌倉府の執事を務めていた憲顕を頼った。「太平記」によると能憲は実父・憲顕の代官として上野国の守護代をつとめていたというが、実際には常陸国信太荘(現・茨城県土浦市)に入っていたようだ。
 やがて尊氏と直義が直接対決する「観応の擾乱」に突入すると、能憲は憲顕と示し合わせて「謀反」の芝居を打ち、これを討つと称して出陣した憲顕と合流、関東における高一族のまとめ役であった高師冬を攻撃して、観応2年(正平6、1351)正月に師冬を甲斐国で滅亡に追い込んだ。
 能憲はそのまま兵を率いて畿内に向かい、直義と合流して打出浜の合戦で尊氏・師直軍を撃破した。敗れた尊氏は師直一族の出家引退と助命を条件に直義と和睦、実質的な投降をする。

 観応2年(正平6、1351)2月26日、出家した師直ら高一族は尊氏につき従って京へと向かったが、その途中の摂津国武庫川で能憲とその従兄弟でやはり重能の養子である上杉顕能らの兵がこれを襲撃、師直・師泰兄弟以下の高一族を皆殺しにしてしまった。能憲としては養父の仇である師直をなんとしても殺害しようと考えていたのだろう。若さゆえの暴発(当時能憲はまだ十代)とも見えるが、状況からすれば直義と了解した上での行動であったと見るのが自然だろう。
 しかし京に戻った後でこの師直以下惨殺を知らされた尊氏は激怒した。このときの尊氏は敗者の立場であったにも関わらず直義一派に対して不思議なほど強い態度で臨み、なかでも和睦の約束を破って師直らを殺害した能憲の死罪を強く求めた。これには直義らも驚いたが、必死になだめて死罪から流罪に減刑させている(「園太暦」)。能憲としてはまことに奇奇怪怪な展開であったことだろう。
 その後しばらく消息が判然としないが、流罪が実際に行われたかどうかは怪しい。流罪の直後に尊氏・直義の戦いが再発し、実父の憲顕が一貫して直義派につき、直義死後も南朝勢力と連携までして長いあいだ反尊氏の抵抗を続けて関東の政界に復帰できなかったことも能憲の消息が判然としない一因かもしれない。

 その後、尊氏がこの世を去って義詮から義満へと時代は移り、関東管領に復帰していた実父憲顕が応安元年(正平23、1368)に死ぬと、その後継として能憲が従兄弟の上杉朝房と共に関東管領に任じられ、憲顕の武蔵・上野守護職も引き継いだ。このとき存命だった憲顕の息子たちのなかで能憲が最年長であったためと思われる。以後は朝房と共に「両上杉」として鎌倉公方・足利氏満を補佐して関東支配にあたり、その後ながく関東管領を世襲する上杉氏の基盤を固めた。このときすでに出家しており、「道エン(言+煙の右側)」と号していた。
 能憲は鎌倉に報恩寺を建立して義堂周信(夢窓疎石の弟子)を住持に招き、深い親交を結んでいる。永和2年(天授2、1376)5月に重い病の床についた能憲は死を覚悟して義堂を介して氏満に管領辞職を申し出、氏満はかなり渋った末にこれを許諾した。ところがその途端に能憲は健康を回復してしまい、それに怒ったのか氏満は8月に能憲に管領職への復帰を命じた。間に立った義堂は困惑したが、すったもんだの末に結局能憲は管領に復帰している。
 
 永和4年(天授4、1378)4月17日に享年46歳で死去した。親交のあった義堂はこのときたまたま熱海に湯治に行っており、急報を聞いて能憲の遺体を見ている。その顔は「柔和で美しく生けるが如く」であったという(「空華日用工夫略集」)。男子がなかったようで能憲は死の直前に家督を弟の憲方に譲っており、関東管領職もまた弟の憲春に引き継がせている。甥の憲孝(憲方の子)を養子にしていたが、これはまだ幼かったらしい。

参考文献
田辺久子「関東公方・足利氏四代」ほか
大河ドラマ「太平記」ドラマ終盤の第47回から登場。続く48、49回(最終回)にも登場している(演:梶原浩二)。第47回で直義軍の合戦前の酒宴の場で初登場。その次の48回では尊氏から死罪をつきつけられたと直義から聞かされて「それがしが死罪でござるか?」と驚愕する場面があった。
SSボードゲーム版養父・上杉重能のユニット裏で登場。武家方の「武将」クラスで、勢力地域は「南関東」。合戦能力1・采配能力5

上杉頼成うえすぎ・よりなり?-1346(貞和2/興国7)
親族父:上杉頼重 兄弟:上杉重顕・上杉憲房・上杉清子・日静・加賀局
妻:長尾景基の娘
子:上杉藤成・上杉藤氏・長尾藤景・長尾藤明・荻原氏明
官職蔵人・越前守・左近将監
位階従四位下
幕府御厨奉行、相模・丹後守護代
生 涯
―長尾家に結びつく尊氏の伯父―

 上杉頼重の子。姉妹に足利尊氏の母・上杉清子がおり、尊氏の母方の伯父にあたる。
 甥の尊氏に従って各地を転戦、足利幕府が成立すると建武4年(延元2、1337)2月5日に甥の足利直義から御厨奉行を任せられている(上椙古文書)。相模・丹後の守護代にもなった。建武5=暦応元年(延元3、1338)に南朝の北畠顕家軍が奥州から畿内に入り、奈良から京を目指した際、これを迎撃して退けている。
 晩年は将軍尊氏の伯父として尊重され、兄弟同様歌人としても活動し、勅撰集『風雅和歌集』のほか小倉実教の私撰集『藤葉集』に和歌が採られている。
 頼成の系統は「千秋上杉家」と呼ばれる。頼成は上杉家臣筋の長尾家の娘をめとり、子の藤景藤明は後継ぎの絶えた長尾家を継いだとする史料がある(後年長尾家出身の上杉謙信が上杉家を継ぐ一つの根拠ともなったが、史実かどうかは疑問符も付く)。孫の顕定は扇谷上杉に養子に入ってそちらの家督を継いでいる。

氏家美作守
うじいえ・みまさかのかみ生没年不詳
生 涯
―笠置・赤坂攻めに参加―

 氏家氏は藤原北家系・宇都宮氏の分流で、下野国芳賀郡氏家郷を領したことからこの名字を名乗った。『太平記』流布本巻三で鎌倉幕府が畿内へ派遣した大軍の中に彼の名がふくまれるが、「美作守」にあたる人物が誰なのか、氏家氏の系図などでも確認できない。
 『太平記』の古態である西源院本ではこの個所は「小山出羽入道、おなじき美作守」となっていて、そもそも氏家氏が出陣していたのかも怪しくなっている。

歌夜叉うたやしゃ
大河ドラマ「太平記」に登場する架空人物(演:平吉佐千子)花夜叉率いる田楽一座の一員で、藤夜叉乙夜叉子夜叉と共に舞を舞う。第1回から15回まで花夜叉一座が登場すると必ず顔を見せていた。大柄な乙夜叉、少女の子夜叉にはさまる細身の若い女というバランスで配置されたと思われる。第14回で若干セリフがある。

卯木うつぎ
 吉川英治の小説『私本太平記』に登場する架空人物。ただし厳密には全くの架空というわけではなく、芸人の服部元成と駆け落ちした楠木正成の妹で、能楽の大成者・観阿弥の母となる女性である。これは観阿弥の系図とされる「上嶋家文書」で「観阿弥の母は河内国玉櫛の橘正遠の娘」とあることから「観阿弥は楠木正成の甥だった」とする説に依拠したもので、いまだに賛否両論あるが吉川英治はそれをいち早く小説にとりこんだ。観阿弥の誕生が1333年と推定されることから千早城籠城戦の最中に卯木が観阿弥を生む展開になっている。
 「私本太平記」を原作とする歌舞伎二作にも登場しており、1964年の「私本太平記」で澤村訥升、1991年の「私本太平記 尊氏と正成」で中村芝雀が演じている。
 「私本太平記」を原作とするNHK大河ドラマ「太平記」ではさらに込み入った創作が加えられた。「正成の妹で観阿弥の母の卯木」は重要人物として登場するが、同時に女スパイとして活動する田楽一座の座長「花夜叉」としても活躍する(演:樋口可南子)
→このドラマ用のキャラクターについては花夜叉(はなやしゃ)を見よ。

宇都宮(うつのみや)氏
 下野国の有力氏族で、二荒山神社の神職「宇都宮別当」であったことからその名字を称した。藤原北家の子孫と称しているが、実際には中原氏とも下野の豪族の出であるともいう。鎌倉時代からお誤氏と共に下野の有力勢力であり、南北朝・室町・戦国と息長く威勢を保った。しかし戦国期になると家臣団との内紛が続発して衰退、豊臣政権に一度は所領を安堵されるも間もなく改易されて大名としての宇都宮氏本流の歴史は終焉した。各地に分家した庶流も多く、伊予・豊前・筑後などに根を張って各地の南北朝動乱で顔を見せている。

藤原宗円
┬八田宗綱
┬宇都宮朝綱─成綱─頼綱
─泰綱
─景綱
┬貞綱公綱氏綱
基綱
満綱


├八田知家





└冬綱
└家綱
└氏広



└寒河尼




└泰宗
┬時綱
┬氏泰
─綱家
─持綱









泰藤










貞泰
貞宗
豊房 宗泰









└貞久
┬懐久
─久憲










└貞邦


└中原宗房─宇都宮信房─景房
─信景
─道房
─頼房
冬綱
─家綱
─直綱









├豊房











└宗泰





宇都宮安芸前司
うつのみや・あきのぜんじ生没年不詳
官職
安芸守
生 涯
―笠置・赤坂攻めに参加―

 『太平記』巻三で、鎌倉幕府が畿内へ派遣した大軍の中に名が見える人物。宇都宮一族の誰かではあろうが特定はできない。

宇都宮氏綱うつのみや・うじつな1326(嘉暦元)-1370(応安3/建徳元)?
親族父:宇都宮公綱 母:千葉宗胤の娘
兄弟:宇都宮家綱・大掾重幹室
妻:斯波高経の娘
子:宇都宮基綱・宇都宮氏広・今泉元朝室
官職下野守・伊予守
位階
従五位下
幕府
下野・上野・越後守護
生 涯
―鎌倉府にたびたび対抗した第十代当主―

 宇都宮氏第9代当主・宇都宮公綱の嫡男。幼名は「加賀寿丸」といった。
 建武4年(延元2、1337)、北畠顕家率いる奥州南朝軍が畿内を目指して下野に進軍すると、公綱はこれに呼応したが、当時12歳の加賀寿丸は家臣の芳賀禅可に擁されて足利方につき、宇都宮城にこもって北畠軍に抵抗した。以後、父・公綱は南朝方として活動を続けるようになり、宇都宮家の当主は加賀寿丸が継ぐこととなる。元服して名乗った「氏綱」の「氏」の字は、その態度を評価して足利尊氏から与えられたものという。

 以後、氏綱は宇都宮家当主として関東北部にあって足利義詮足利基氏と続く鎌倉公方を支えた。「観応の擾乱」が起こると一貫して足利尊氏方で活動し、足利直義派の上杉憲顕と戦い、観応2年(正平6、1351)12月の駿河・薩埵山の戦いでは下野から出陣して直義軍を背後からおびやかす働きをした。この結果、翌年に上杉憲顕から取り上げられた上野・越後両国の守護職が氏綱に与えられることとなった。

 しかし基氏が成長すると上杉憲顕の復権を画策するようになり、貞治元年(正平17、1362)に憲顕を越後守護職を、さらに上野守護職に再任し、完全に自身の執事として復権させた。二国の守護職を奪われた氏綱はおさまらず、芳賀禅可と共に憲顕を討とうとしたが、基氏自身が出馬しての追討を受けることになっていまった。貞治2年(正平18、1363)8月に武蔵国岩殿山の戦いで宇都宮勢は敗北、宇都宮にとどまっていた氏綱は下野に進軍してきた基氏に小山・天王宿に対面して降参した。この際に下野守護職を息子の基綱に譲らされたらしい。

 足利基氏が死去した直後の応安元年(正平23、1368)に武蔵平一揆や新田一族などの反鎌倉公方勢力の蜂起があり、宇都宮氏綱もこれに呼応して蜂起した。しかし基氏の跡を継いだ鎌倉公方・足利氏満とそれを擁した上杉氏の軍の追討を受け、9月に宇都宮城を包囲攻略されててあえなく降伏した。氏満はその生命と地位、本領などは安堵されたものの、観応の擾乱以降に獲得した領地を手放すよう強いられたとみられる。

 その後の氏綱の消息は判然としない。応安3年(建徳元、1370)7月5日に享年45で死去、それも幕府軍の一将として紀伊に出陣中にと後世に編纂された史書『桜雲記』にあるが、あまり信用できない。『空華日用工夫略衆』応安6年(建徳4、1373)5月4日条に氏綱と思われる「宇都宮三郎」が出家したとの記録もあり、その直後あたりに没した可能性もある。
  
参考文献
杉山一弥「宇都宮氏綱の乱と鎌倉府の体制転換」(東京学芸大学紀要、2016)ほか
SSボードゲーム版
「武将」クラスで、北関東に登場。合戦能力2・采配能力4。ユニット裏は息子の基綱。

宇都宮公綱うつのみや・きんつな1302(乾元元)-1356(延文元/正平11)
親族父:宇都宮貞綱 母:北条長時の娘 兄弟:宇都宮綱世・宇都宮冬綱・芳賀高貞
妻:千葉宗胤の娘 子:宇都宮氏綱・宇都宮家綱
官職左馬権頭・治部大輔・兵部少輔・左近衛府少将・左少将(南朝)
位階正四位下
建武の新政雑訴決断所
幕府鎌倉幕府引付衆?
生 涯
 下野の有力御家人・宇都宮氏の第9代当主で、南北朝動乱の前半を生きた。『太平記』でも要所要所で登場し、良くも悪くも印象に残る名物男でもある。

―楠木正成との名勝負(?)―

 宇都宮氏は宇都宮明神(現二荒山神社)の神官職から有力御家人となった一族。鎌倉幕府の草創期から配下の紀(益子)・清(芳賀)両党を率いて「坂東一の弓取り」と武勇の誉れが高かった。宇都宮公綱は初名は「高綱」だったとされ、これは当然北条高時の一字を与えられたものである。「公綱」への改名時期は不明だが、鎌倉幕府滅亡後と考えるのが自然ではなかろうか。混乱の内容、以下は全て「公綱」で統一する。
 元弘2年(正慶元、1332)11月、楠木正成が前年に失った赤坂城を奪回して再び活動を開始した。翌年正月には楠木軍は天王寺方面まで進出し、六波羅軍を破って兵糧を確保した。これを討つべく関東からやってきていた宇都宮公綱が紀・清両党を率いて出馬することになる。『太平記』では両者の対決を講談調に面白く語っているが、時期が前年の7月にさかのぼらされており、内容をそのまま信用できるわけではない。
 それでも一応『太平記』に沿って対決の展開を述べると、元弘3年(正慶2、1333)正月22日に宇都宮公綱は六波羅探題・北条仲時の指名を受けてあえて自分一人、数百の小勢を率いて天王寺へ出陣した。正成は「宇都宮が小勢で出て来たのは決死の覚悟であろう。しかも宇都宮といえば坂東一の弓取りである。紀・清両党も戦場では命知らずの連中だ。そんな軍と戦ってはこちらも大きな被害を受けよう。この戦いで全てが決するわけでもない」と言って戦わずに金剛山方面に退却した。この「宇都宮出陣を受けて楠木軍が退却した」事実は公家の二条道平が正月23日の日記の中で「仙洞(上皇の御所)の女房から聞いた」と書いており、都でかなり評判となっていたことがわかる。
 勢いに乗った公綱は放火・略奪などの威嚇行動をしながら楠木軍の城(赤坂城か?)へ迫ったが、このとき正成が味方の野伏らに夜の山でかがり火をたかせ、あたかも楠木軍が大軍であるかのように見せかけたため宇都宮軍は恐れを抱き、こちらも戦わずに撤退してしまう。ただし信用のおける戦闘記録である『楠木合戦注文』では23日に宇都宮の「家の子」の「左近蔵人・その弟右近蔵人・大井左衛門以下十二人」が楠木の城へ攻め入り、かえって生け捕りにされてしまったとの記事がみえ、結局戦況が悪いので2月2日にひとまず京都に帰ったというのが真相のようである。

 この年閏2月から千早城の戦いが始まる。楠木軍の奮戦でまともな戦闘はひと月足らずで終わり、あとは持久戦となった。『太平記』によればこのとき再び宇都宮公綱が紀清両党を率いて出陣し、一時は敵城に肉薄するほどの奮戦を見せ、それがうまくいかないとみると前面に兵を置いて防戦させながら、スキ・クワを手に山城そのものを掘り崩して突破を図ろうとしたという(坑道戦を試みた可能性もあるが、「太平記」本文ではそうは読み取れない)。昼夜の作業を続けるうち三日のうちに大手の櫓を崩すことに成功したため、他の武士たちも「最初からそうすればよかったんだ!」とみんなクワを手に土木作業に打ち込み始めた。しかしさすがに山一つを崩すまでには時間が足らず結局無駄に終わってしまった…と『太平記』は記すのだが、このあたりの描写は「面白さ優先」の感が強く、そのまま事実と見るわけにもいかない。

 5月7日に足利高氏により六波羅探題が攻め落とされ、5月9日にそのことを知った千早城包囲軍は崩壊した。その主力はひとまず奈良に入って6月まで様子をうかがったが、当初奈良の入り口の般若寺の守りに入っていた公綱は投降を呼びかける後醍醐天皇の綸旨を受け取って一足先に京に入っている(「太平記」)。幕府軍の有力武将である公綱にわざわざ綸旨が出されたのは奇異にみえるが、同族の宇都宮通綱が5月18日に後醍醐側に投降して後醍醐の京都凱旋にも付き従っており、早くから投降のための工作をしていたらしい。宇都宮氏は関東の有力御家人であり、北条一門でもなかったので投降させた方が得策、という後醍醐側の思惑もあっただろう。

―あっちにいったり、こっちにきたり―

 後醍醐天皇による親政「建武の新政」が始まると、公綱は有力武家として重んじられ、土地問題処理を目的とした「雑訴決断所」の奉行メンバーに名を連ねた。彼は畿内担当の一番に配置されているが、ここにはかつて名勝負(?)をした楠木正成も配置されている。
 しかし新政は長くは続かなかった。建武2年(1335)11月、関東で建武政権からの離脱の意志を示した足利尊氏に対し、新田義貞を司令官とする討伐軍が派遣され、公綱もその一翼を担った。東海道を関東へ攻め下る途中の手越河原の戦いでは、足利方についていた同族の宇都宮遠江入道(貞泰?)が惣領の公綱を頼って新田軍に投降している。快進撃を続けた新田軍だったが箱根・竹之下の戦いで大敗、今度は足利軍に追われて西へと戻るはめになった。このとき公綱が義貞に「京に近いところで防いだほうがいい」と意見し、ひとまず尾張まで退却したことが『太平記』で語られている。
 しかしまもなく西国でも赤松円心細川定禅が挙兵して京をうかがったため、義貞らは急ぎ京に戻って防衛体制を敷いた。建武3年(1336)正月10日の戦いで山崎・大渡の防衛ラインが突破され足利軍の京占領が確実となると、公綱はもはやこれまでとみたか、大友氏泰らと共に足利軍に降参した。この寝返りを怒った新田義顕は他には目もくれず彼らめがけて攻めかかったという(「太平記」)
 ところが13日、奥州から怒涛の勢いで北畠顕家の軍勢が後醍醐勢の救援に駆けつけて来た。『太平記』によれば、この北畠軍には関東に残っていた宇都宮配下の紀・清両党の兵たちも合流していたのだが、大津まで着いてみれば主君の公綱は足利方に降参していた。それを知った彼らはそれまで味方として同行してきた北畠軍の武将たちにきちんと別れの挨拶を済ました上で離脱、そのまま京に入って公綱と合流している。彼らの行動原理があくまで主君に従うことであり、周囲もそれを決して「裏切り」とはみなさなかった(裏切った主君当人は別として)ことがうかがえる逸話である。奥州勢が大軍であると聞いた尊氏が「その多くは紀・清両党であろう。主君の公綱がこちらにいると知ればみんなこっちに来るさ」とたかをくくった発言をしたことも『太平記』は記している。

 その後の京都攻防戦では公綱は足利軍の一翼を担ってよく奮戦している。しかし正月末についに足利軍は形勢不利となって京を放棄、丹波から摂津に逃れて態勢を立て直そうとした。このとき公綱は足利軍敗北を悟ったか、途中から引き返してまたまた後醍醐側に復帰している。直後の豊島河原の戦いでは二度の寝返りの面目を晴らそうとしてか、宇都宮勢はかなり奮戦、尊氏をついに遠く九州まで追いやることになる。
 新田義貞はようやく3月末になって尊氏を追うべく山陽道へ出陣、これに宇都宮公綱も主力として加わり、備前方面まで進撃している。ところが九州で態勢を立て直した尊氏が大軍を率いて水陸両軍で東上してくると、公綱は新田軍と共に撤退を余儀なくされ、5月25日の湊川の戦いに臨むこととなる。この戦いで楠木正成が戦死、公綱は義貞や脇屋義助らと奮戦するも衆寡敵せず京へと撤退した。そして後醍醐天皇と共に比叡山にたてこもり、ここから義貞らと出撃して京で足利軍と攻防を繰り広げた。

 10月に後醍醐は尊氏からの講和の申し入れを受け入れて比叡山をおり、京にもどった。この一行の中に宇都宮公綱も含まれている。同族の宇都宮泰藤は義貞と共に北陸へくだっており、公綱と一緒に捕虜になった菊池武重は隙を見て脱出したが、公綱自身はほとんど「放召人(かなり自由な軟禁状態)」で逃げようと思えばいくらでも隙があるにも関わらず出家して何の動きも見せなかった。これをからかって、何者かが公綱の宿所の門に山雀(やまがら)の絵を描いて、その下に「山がらが さのみもどりを うつのみや 都に入りて 出でもやらぬは(山雀のように籠の中を行ったり来たりするばかりで、都に入ったまま外に出ようともしないじゃないか。「もどりをうつ=いったりきたり」に「うつのみや」を掛けている)」という落首を書き添えていったという(「太平記」)

―南朝のために奮戦―

 それでも後醍醐天皇が京を脱出して吉野に入り、自らを正統の天皇として諸国に号令を下すと(南朝の始まり)、公綱はすぐさま吉野に駆け付けたとされる(「太平記」)。後醍醐は大いに喜んで、出家していた公綱を還俗させたうえで正四位下・左少将に叙している。このあとどのように行ったかは不明だが、公綱は拠点の下野・宇都宮に帰還している。
 延元2年(建武4、1337)8月に奥州の北畠顕家が再度の上洛軍を起こすと、公綱はこれに呼応し軍勢をひきいて合流した。ところが重臣の「清党」である芳賀禅可(高名)が公綱の嫡子・加賀寿丸(氏綱)を擁して宇都宮城にたてこもって足利方につき、北畠軍を妨害した。あくまで南朝につこうとする公綱に対して宇都宮一族の中でも批判の声があがっていたことがうかがえる。
 結局公綱は顕家に従って西上、翌延元3(建武5、1338)の美濃・青野原の戦いにも参加している。その後北畠軍は奈良から河内・和泉へと転戦して5月に崩壊するのだが、この間公綱がどこで何をしていたかはよく分からない。少なくとも顕家ともども戦死したわけではなくどこかで生きていたはずだが、自身の拠点である下野では自身の子である氏綱とそれを助ける芳賀禅可が足利方の旗幟を鮮明にしていたため、帰るに帰れずにいたのではないかと想像される。こうした事情からこれ以後の公綱の消息はほとんど分からなくなってしまう。

 『太平記』によると、正平7年(文和元、1352)に公綱は小山氏ともども後村上天皇から児島高徳を使者として「東国静謐」の勅命を受けている。これはちょうど当時足利幕府の内戦「観応の擾乱」に乗じて南朝側が勢いを巻き返していた時期で、関東にいた尊氏を討つよう各地の南朝勢力によびかける一環として公綱に声をかけたものである。しかし児島高徳の存在自体が少々怪しいものであるため物語上の創作とも思える。実際公綱が何か具体的な行動を起こしている様子はない。
 『下野国志系図』に公綱について「法名理蓮、正眼庵と号す。延文元年(=正平11、1356)十一月廿五寂、五十五」との記事がある。没年はこの年で間違いないようだが、『諸家系図纂』では命日を10月20日とし、五月没とする史料もある。
 宇都宮家代々がそうだが歌人としてもすぐれており、『新続古今和歌集』に歌が入選している。
大河ドラマ「太平記」ドラマ中への登場はなく、せいぜい正成が関東の有力武士の名を挙げるなかで「宇都宮」と口にするのみ。しかし古典「太平記」の名物男を無視するのももったいないとみたか、番組の最後の「太平記のふるさと」コーナーでとりあげられている。第13回「攻防赤坂城」の同コーナーで「坂東武者」と題して宇都宮氏と紀清両党をテーマにおよそ3分という長尺が割かれ、宇都宮・益子・真岡の各所をめぐりながら公綱と芳賀禅可の活躍が紹介された。
歴史小説では楠木正成との名勝負があるため小説への登場例は多い。
漫画作品ではやはり正成との勝負の場面があるため、「太平記」の漫画版や正成を主役とする作品に登場例がある。
中でも河部真道『バンデット』においては顔に多くの傷を持つコワモテで、行く先々で調達(略奪)を繰り返して「協力に感謝する」と言葉だけは丁寧という、強烈なキャラに描かれた。千早城攻略では一人でトンネルを掘って正成の本陣までたどりつくが、その時には六波羅は陥落して戦いは終わっていたため、大威張りで降参して厚遇を要求し楠木勢を呆れさせていた。
PCエンジンHu版シナリオ2「南北朝の動乱」で下野・宇都宮城に北朝方武将として「宇都宮広綱」なる武将が登場している。能力は「騎馬6」とかなり高く、公綱の誤りではないかとみられる。
PCエンジンCD版ゲーム開始時に陸奥国におり、北畠顕家の配下武将として登場する。能力は統率74・戦闘82・忠誠38・婆沙羅56。忠誠の低さと婆沙羅の高さはあきらかに「いったりきたり」したためであろう。
メガドライブ版楠木・新田帖でプレイすると「天王寺の戦い2」のシナリオで幕府軍武将として登場する。能力は体力101・武力130・智力91・人徳57・攻撃力123。とかなり強力。 

宇都宮貞宗うつのみや・さだむね生没年不詳
親族父:宇都宮貞泰(景泰) 兄弟:宇都宮宗泰 養子:宇都宮豊房
官職三河権守・三河守
幕府伊予守護
生 涯
―伊予宇都宮氏のルーツ―

 宇都宮氏は下野国(栃木県)の有力豪族であるが、鎌倉時代に伊予守護職を得て一族が伊予に移り、伊予宇都宮氏が起こった。貞宗の経歴については不明確なところが多いが、同時期の史料、とくに『太平記』でしばしば名が現れる「宇都宮三河入道」「宇都宮三河三郎」は貞宗のことではないかと推測される。なお彼の名を「貞宗」とするのは『尊卑分脈』で、『下野国誌』の武茂系図で「時景」とされる人物が彼と同一人物であるとみられる。

 元応元年(1319)に六波羅探題が小早川美作民部大夫に出した感状に、彼の軍功を六波羅に上申したのが「伊予国守護人狩野三河貞宗」とあり、これが宇都宮貞宗の名の初出とされる。
 元弘元年(1331)に後醍醐天皇が討幕の兵を挙げ、鎌倉幕府が鎮圧の軍を畿内へ差し向けるが、その武将リストの中に「宇都宮三河権守」が伊予から来たことが記されている(「光明寺残篇」)。さらに翌年に楠木正成護良親王の活動を鎮圧すべく派遣された幕府軍の中にも「宇都宮三河守」がいる(「太平記」)
 翌元弘3年(正慶2、1333)に天皇方についた伊予水軍の忽那重清らが「守護三河権守貞宗」を攻撃していることが軍忠状から知られ、彼が畿内へ出陣した留守中に忽那氏らに本拠地を攻められたものと見られる。
 貞宗の本拠地は伊予国大洲(大津)で、現在大洲市田口にある天満神社はその由来を正慶2年(元弘3、1333)8月22日に「大洲地蔵嶽城主宇都宮三河三郎」が大津城の鬼門の守りとして、京都北野天満宮を勧請し「大津天満宮」と称したとしている。その由来が正確なものであるとすれば、貞宗は鎌倉幕府滅亡直後にこの神社を創建したことになる。
 
 貞治3年(正平2、1347)秋に楠木正行の南朝軍が攻勢に出ると、足利幕府は細川顕氏らを鎮圧のために派遣したが、この中に「宇都宮三河入道」の名がある(「太平記」)。藤井寺で合戦となったが、このときは楠木軍の勝利に終わった。
 貞治5年(正平4、1349)8月に足利幕府内での対立が頂点に達し、高師直一派が足利直義派を打倒するためのクーデターを起こすが、このとき高師直邸に集った武将の中に「宇都宮三河入道」がいる(「太平記」)
 
 康安元年(正平16、1361)、失脚した細川清氏が南朝軍と共に京へ攻めよせた際、「宇都宮三河三郎」が足利義詮に命じられて大渡で防戦にあたり、さらに南朝軍を京から追い落とす際にも「宇都宮三河入道」の軍が活躍したと「太平記」は記しており、これは同一人物としか思えない。これより先、観応3年(正平7、1352)に新田義宗ら関東の南朝勢が挙兵し、鎌倉を攻めた際に「外様」の武将として「宇都宮三河三郎」が新田軍に加わったと「太平記」が記すが、これはさすがに貞宗のこととは思えず、宇都宮公綱と混同したものかもしれない。

 貞宗の没年は不明だが、子はなかったようで親戚の豊前宇都宮氏から豊房を養子にとって跡を継がせている(ただし豊房もほぼ同年齢とみられる)。その豊房の跡は貞宗の弟の宗泰が継ぎ、伊予宇都宮氏の系譜が戦国時代まで続いてゆく。
 足利義満の時代に「宇都宮三河入道」なる者が当代きっての刀剣鑑定家として知られ、応永年間に「秘談抄」なる刀剣鑑定書を著したとされるが、元応年間にすでに伊予守護となっていた人物が応永年間にも健在だったとは考えにくい。あるいは刀剣鑑定で彼の名が知られていて、作者に仮託されたものかもしれない。
大河ドラマ「太平記」ドラマ中への登場はないが、第44回「下剋上」のなかで高師直邸に集まった武将の一人として「宇都宮三河入道」の名前が挙げられている。古典「太平記」でその名が出てくるのでそれにならったものと見られる。

宇都宮貞泰うつのみや・さだやす生没年不詳
親族父:宇都宮泰宗
子:宇都宮貞宗・宇都宮宗泰・宇都宮貞久・宇都宮貞邦
官職遠江守・美濃守
位階
従五位下
生 涯
―足利軍から新田軍へ鞍替え―

 宇都宮一族の傍流で「武茂貞泰」とも呼ばれる。出家して法名は「蓮智」という。伊予宇都宮氏系図では、もともと下野・宇都宮の住人であったとされ通り名が「六郎」、はじめ「景泰」と名乗り、美濃守・遠江守であったと記されており、『太平記』巻三、元徳3年(元弘元、1331)に鎌倉幕府が畿内の討幕派掃討のために派遣した大軍の中に名がある「宇都宮美濃入道」とは貞泰のことかもしれない。この戦いでは息子の宇都宮貞宗と思われる「宇都宮三河権守」も伊予から出陣しており、この年に貞泰が伊予国喜多郡の地頭となっていることから、貞泰も伊予から出陣したのかもしれない。

 建武2年(1335)に足利尊氏が北条残党の反乱「中先代の乱」を討つため関東へ下った際に貞泰もこれに加わり、その後足利討伐のため新田義貞率いる官軍が東下すると、それを迎え撃つべく出陣した足利直義の軍にも加わっている。しかし新田軍が足利軍を連破して伊豆国府に入ると、貞泰は足利方に勝ち目はないと見切って新田軍にいた一族惣領の宇都宮公綱を頼って新田側に寝返った。その後しばらく彼の動向は不明となるが、おそらく公綱と行動を共にしてその後の京都攻防戦にも参加し、情勢の変転にともなって足利方・後醍醐方と忙しく所属を変えたものと思われる。建武3年(1336)末にいったん足利方の勝利が確定すると足利方に投降したものと推測される。

 文和4年(正平9、1354)2月2日付で足利尊氏が伊予守護の河野通朝に送った書状の中で、「宇都宮遠江守蓮智の報告によれば堺右衛門太入道や仙波又太郎ら凶徒や足利直冬の腹心らが喜多郡に押し入って城郭を構えるなどしているから対峙するように」と伝えていて、この時期、貞泰が伊予にあって尊氏派で活動していたことが知られる。伊予宇都宮市系図では貞泰について「後京都に住す」と書かれ、『下野国誌』所収の「武茂系図」にも「京都守護と為し烏丸に住す」と書かれているので、あるいはこの時期に貞泰は伊予ではなく京都に在住しており、伊予の所領で起こった問題を尊氏に報告した、ということかもしれない。
 貞泰の没年は不明で、系図類でもその位置づけに微妙に異同があって、その事跡が息子の貞宗と混同されている可能性もある。貞泰の子・貞宗および宗泰は伊予宇都宮家を継承したほか、貞泰の子とされる貞久貞邦らは九州・筑後に移って南朝の懐良親王に味方したという。

宇都宮通綱
うつのみや・みちつな
生没年不詳
官職
肥後権守
生 涯
―笠置・赤坂攻めに参加―

 下野宇都宮氏のうち、「綱」を名乗ることから本家筋に近い人物と思われるが、系図類では名前が確認できず系統不明である。『太平記』巻三で、鎌倉幕府が畿内へ派遣した大軍の中に名が見えるが、同書での登場はここだけである。
 元弘3年(正慶2、1333)5月18日に、六波羅探題が攻め落とされて間もない京へ向かい、京を管理下においていた足利高氏のもとへ馳せ参じた。この時の同日20日に発行され高氏が花押を添えた「着到状」が伝えられており、それによれば「宇都宮肥後権守通綱」は茅屋城(所在不明。同時期の南部正行の文書にも同名の城が出てくる)から一族ともども5月18日に京へ馳せ参じたことが確認される。
 『太平記』巻11で後醍醐天皇が京へ凱旋する際、付き従う者の中に「宇都宮五百余騎」とあり、これは宇都宮通綱のことであるとも考えられる。一族の惣領である宇都宮公綱は千早城攻めに参加していて他の幕府軍と共に奈良に会ったが、後醍醐から投降を促す綸旨を受けて一足先に投降しているのも、先に投降した通綱のはたらきかけがあったのかもしれない。

宇都宮満綱うつのみや・みつつな1376(永和2/天授2)-1407(応永14)
親族父:宇都宮基綱  母:細川頼元の娘  子:宇都宮持綱室
官職下野守
生 涯
―南北朝合一期の第12代当主―

 宇都宮氏第11代当主・宇都宮基綱の嫡男。父・基綱は康暦2年(天授6、1380)に小山義政との戦いで戦死してしまっている。まだ幼少であった満綱には叔父の宇都宮氏広が後見について当主代行をつとめ、満綱が元服するまで中継ぎ役を務めている。
 応永6年(1399)、就任したばかりの鎌倉公方・足利満兼のもとで、鎌倉府を支える八つの大名「関東八屋形」が定められ、宇都宮氏もその一角を占めた。しかし満綱は応永14年(1407)に32歳の若さで鎌倉で病没してしまう。彼には男子がなく、同族の武茂氏出身の持綱が満綱の娘の婿に迎えられ、宇都宮本家を継承することとなった。

宇都宮美濃入道
うつのみや・みののにゅうどう生没年不詳
官職
美濃守?
生 涯
―笠置・赤坂攻めに参加―

 『太平記』巻三で、鎌倉幕府が畿内へ派遣した大軍の中に名が見える人物。宇都宮一族の誰かではあろうが特定はできない。ただ宇都宮貞泰が美濃守・遠江守であったとする系図があるため、あるいは貞泰(景泰とも)か。

宇都宮基綱うつのみや・もとつな1350(観応元/正平5)-1380(康暦2/天授6)
親族父:宇都宮氏綱  兄弟:宇都宮氏広・今泉元朝室
妻:細川頼元の娘  子:宇都宮満綱
官職下野守
位階
従五位下
幕府
下野守護
生 涯
―小山氏の乱で戦死した第11代当主―

 宇都宮氏第10代当主・宇都宮氏綱の嫡男。父の氏綱は基綱が誕生したころ起こった「観応の擾乱」に乗じて下野に加えて上野・越後の守護職を手に入れたが、その後貞治2年(正平18、1363)に鎌倉公方・足利基氏に反抗して討伐を受け、降伏したが上野・越後守護職を奪われた。この時に下野守護職についても息子の基綱に譲らされた形跡がある。ただし基綱はまだ少年であったため氏綱が当主の地位を保ったものとみられる。基綱の「基」はもちろん足利基氏の一字を与えられたものである。
 氏綱は応安元年(正平23、1368)にも鎌倉公方に反抗して討伐を受けて降伏した。これより数年以内に氏綱が死去して基綱が家督を継いだとみられる。

 康暦2年(天授6、1380)、下野国において宇都宮氏のライバルであり、守護の機能を分け合う相手でもあった小山義政が鎌倉府に反抗する動きを見せ、基綱は鎌倉公方・足利氏満の指示を受けてその討伐に向かった。しかし5月16日の裳原の戦いで基氏は戦死してしまう。まだ31歳の若さであった。
SSb-度ゲーム版
父・氏綱のユニット裏で、「武将」クラスの北関東勢力。合戦能力1・采配能力4

宇都宮泰藤うつのみや・やすふじ生没年不詳
親族父:宇都宮時綱
官職将監
生 涯
―新田義貞に従い各地に転戦―

 下野宇都宮氏のうち、傍流となる武茂系で、宇都宮時綱の子。『太平記』では「宇都宮美濃将監」と表記されている。
 建武2年(1335)に足利尊氏が建武政権に反旗を翻し、その年の暮れから翌年明けにかけて京をめぐって攻防戦が繰り広げられるが、このとき泰藤は脇屋義助の指揮下にあって山崎方面での防衛などにあたっている。その後の尊氏の西下、再上洛しての京都攻防でも泰藤は一貫して新田軍と行動を共にしていて、時によりあっちについたりこっちについたりする同族の宇都宮公綱と対比をなすが、率いている武士たちはどちらも「紀・清両党」の者たちである。

 延元元年(建武3、1336)10月に後醍醐天皇が足利尊氏と一時和睦し、比叡山から京に戻った際に供奉した武将の中に泰藤の名が見える(「太平記」)。このときいったん足利方に投降したと思われ、『太平記』ではその後新田義貞がたてこもる敦賀の金ケ崎城を攻める足利軍の中にいたことになっている。このとき天野政貞らとの雑談するうち、新田の家紋「大中黒」と足利の家紋「二つ匹両」の優劣が議論になり、泰藤は「優劣はさておき、吉凶を占うと大中黒が一番縁起がいい。前代(北条)の家紋は三つ鱗(うろこ)ですでに滅び、今は二つ匹両の世になった。それを滅ぼすのは一本筋の大中黒だろう」と論じた。この雑談を耳にした瓜生保は弟たちと共に新田方に寝返ろうと考えていたため、さっそく泰藤と政貞に共に新田方につこうと誘った。泰藤らはすぐに賛同し、瓜生保と共に足利軍から脱走して瓜生一族の杣山城に入り、以後は新田軍の武将として越前各地で戦い続けることとなる。

 延元3年(暦応元、1338)閏7月、新田義貞が藤島で戦死してしまい、泰藤ら新田方の武将らは義貞の弟・脇屋義助に従って勢力の挽回をはかった。しかし越前を維持することはできず、義助は美濃に移り、さらに吉野参内を経て伊予へと移動していった。泰藤も義助に従ったものと推測されるがどこまで行動を共にしていたかは分からない。以後、泰藤についての消息は途絶える。
 徳川家家臣の大久保家は、この泰藤が三河国大久保の地に落ちのびて来て自分たちの祖先になったという伝承を持っているが、あまり信用できるものではない。


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