宇都宮公綱 | うつのみや・きんつな | 1302(乾元元)-1356(延文元/正平11) |
親族 | 父:宇都宮貞綱 母:北条長時の娘 兄弟:宇都宮綱世・宇都宮冬綱・芳賀高貞
妻:千葉宗胤の娘 子:宇都宮氏綱・宇都宮家綱 |
官職 | 左馬権頭・治部大輔・兵部少輔・左近衛府少将・左少将(南朝) |
位階 | 正四位下 |
建武の新政 | 雑訴決断所 |
幕府 | 鎌倉幕府引付衆? |
生 涯 |
下野の有力御家人・宇都宮氏の第9代当主で、南北朝動乱の前半を生きた。『太平記』でも要所要所で登場し、良くも悪くも印象に残る名物男でもある。
―楠木正成との名勝負(?)―
宇都宮氏は宇都宮明神(現二荒山神社)の神官職から有力御家人となった一族。鎌倉幕府の草創期から配下の紀(益子)・清(芳賀)両党を率いて「坂東一の弓取り」と武勇の誉れが高かった。宇都宮公綱は初名は「高綱」だったとされ、これは当然北条高時の一字を与えられたものである。「公綱」への改名時期は不明だが、鎌倉幕府滅亡後と考えるのが自然ではなかろうか。混乱の内容、以下は全て「公綱」で統一する。
元弘2年(正慶元、1332)11月、楠木正成が前年に失った赤坂城を奪回して再び活動を開始した。翌年正月には楠木軍は天王寺方面まで進出し、六波羅軍を破って兵糧を確保した。これを討つべく関東からやってきていた宇都宮公綱が紀・清両党を率いて出馬することになる。『太平記』では両者の対決を講談調に面白く語っているが、時期が前年の7月にさかのぼらされており、内容をそのまま信用できるわけではない。
それでも一応『太平記』に沿って対決の展開を述べると、元弘3年(正慶2、1333)正月22日に宇都宮公綱は六波羅探題・北条仲時の指名を受けてあえて自分一人、数百の小勢を率いて天王寺へ出陣した。正成は「宇都宮が小勢で出て来たのは決死の覚悟であろう。しかも宇都宮といえば坂東一の弓取りである。紀・清両党も戦場では命知らずの連中だ。そんな軍と戦ってはこちらも大きな被害を受けよう。この戦いで全てが決するわけでもない」と言って戦わずに金剛山方面に退却した。この「宇都宮出陣を受けて楠木軍が退却した」事実は公家の二条道平が正月23日の日記の中で「仙洞(上皇の御所)の女房から聞いた」と書いており、都でかなり評判となっていたことがわかる。
勢いに乗った公綱は放火・略奪などの威嚇行動をしながら楠木軍の城(赤坂城か?)へ迫ったが、このとき正成が味方の野伏らに夜の山でかがり火をたかせ、あたかも楠木軍が大軍であるかのように見せかけたため宇都宮軍は恐れを抱き、こちらも戦わずに撤退してしまう。ただし信用のおける戦闘記録である『楠木合戦注文』では23日に宇都宮の「家の子」の「左近蔵人・その弟右近蔵人・大井左衛門以下十二人」が楠木の城へ攻め入り、かえって生け捕りにされてしまったとの記事がみえ、結局戦況が悪いので2月2日にひとまず京都に帰ったというのが真相のようである。
この年閏2月から千早城の戦いが始まる。楠木軍の奮戦でまともな戦闘はひと月足らずで終わり、あとは持久戦となった。『太平記』によればこのとき再び宇都宮公綱が紀清両党を率いて出陣し、一時は敵城に肉薄するほどの奮戦を見せ、それがうまくいかないとみると前面に兵を置いて防戦させながら、スキ・クワを手に山城そのものを掘り崩して突破を図ろうとしたという(坑道戦を試みた可能性もあるが、「太平記」本文ではそうは読み取れない)。昼夜の作業を続けるうち三日のうちに大手の櫓を崩すことに成功したため、他の武士たちも「最初からそうすればよかったんだ!」とみんなクワを手に土木作業に打ち込み始めた。しかしさすがに山一つを崩すまでには時間が足らず結局無駄に終わってしまった…と『太平記』は記すのだが、このあたりの描写は「面白さ優先」の感が強く、そのまま事実と見るわけにもいかない。
5月7日に足利高氏により六波羅探題が攻め落とされ、5月9日にそのことを知った千早城包囲軍は崩壊した。その主力はひとまず奈良に入って6月まで様子をうかがったが、当初奈良の入り口の般若寺の守りに入っていた公綱は投降を呼びかける後醍醐天皇の綸旨を受け取って一足先に京に入っている(「太平記」)。幕府軍の有力武将である公綱にわざわざ綸旨が出されたのは奇異にみえるが、同族の宇都宮通綱が5月18日に後醍醐側に投降して後醍醐の京都凱旋にも付き従っており、早くから投降のための工作をしていたらしい。宇都宮氏は関東の有力御家人であり、北条一門でもなかったので投降させた方が得策、という後醍醐側の思惑もあっただろう。
―あっちにいったり、こっちにきたり―
後醍醐天皇による親政「建武の新政」が始まると、公綱は有力武家として重んじられ、土地問題処理を目的とした「雑訴決断所」の奉行メンバーに名を連ねた。彼は畿内担当の一番に配置されているが、ここにはかつて名勝負(?)をした楠木正成も配置されている。
しかし新政は長くは続かなかった。建武2年(1335)11月、関東で建武政権からの離脱の意志を示した足利尊氏に対し、新田義貞を司令官とする討伐軍が派遣され、公綱もその一翼を担った。東海道を関東へ攻め下る途中の手越河原の戦いでは、足利方についていた同族の宇都宮遠江入道(貞泰?)が惣領の公綱を頼って新田軍に投降している。快進撃を続けた新田軍だったが箱根・竹之下の戦いで大敗、今度は足利軍に追われて西へと戻るはめになった。このとき公綱が義貞に「京に近いところで防いだほうがいい」と意見し、ひとまず尾張まで退却したことが『太平記』で語られている。
しかしまもなく西国でも赤松円心や細川定禅が挙兵して京をうかがったため、義貞らは急ぎ京に戻って防衛体制を敷いた。建武3年(1336)正月10日の戦いで山崎・大渡の防衛ラインが突破され足利軍の京占領が確実となると、公綱はもはやこれまでとみたか、大友氏泰らと共に足利軍に降参した。この寝返りを怒った新田義顕は他には目もくれず彼らめがけて攻めかかったという(「太平記」)。
ところが13日、奥州から怒涛の勢いで北畠顕家の軍勢が後醍醐勢の救援に駆けつけて来た。『太平記』によれば、この北畠軍には関東に残っていた宇都宮配下の紀・清両党の兵たちも合流していたのだが、大津まで着いてみれば主君の公綱は足利方に降参していた。それを知った彼らはそれまで味方として同行してきた北畠軍の武将たちにきちんと別れの挨拶を済ました上で離脱、そのまま京に入って公綱と合流している。彼らの行動原理があくまで主君に従うことであり、周囲もそれを決して「裏切り」とはみなさなかった(裏切った主君当人は別として)ことがうかがえる逸話である。奥州勢が大軍であると聞いた尊氏が「その多くは紀・清両党であろう。主君の公綱がこちらにいると知ればみんなこっちに来るさ」とたかをくくった発言をしたことも『太平記』は記している。
その後の京都攻防戦では公綱は足利軍の一翼を担ってよく奮戦している。しかし正月末についに足利軍は形勢不利となって京を放棄、丹波から摂津に逃れて態勢を立て直そうとした。このとき公綱は足利軍敗北を悟ったか、途中から引き返してまたまた後醍醐側に復帰している。直後の豊島河原の戦いでは二度の寝返りの面目を晴らそうとしてか、宇都宮勢はかなり奮戦、尊氏をついに遠く九州まで追いやることになる。
新田義貞はようやく3月末になって尊氏を追うべく山陽道へ出陣、これに宇都宮公綱も主力として加わり、備前方面まで進撃している。ところが九州で態勢を立て直した尊氏が大軍を率いて水陸両軍で東上してくると、公綱は新田軍と共に撤退を余儀なくされ、5月25日の湊川の戦いに臨むこととなる。この戦いで楠木正成が戦死、公綱は義貞や脇屋義助らと奮戦するも衆寡敵せず京へと撤退した。そして後醍醐天皇と共に比叡山にたてこもり、ここから義貞らと出撃して京で足利軍と攻防を繰り広げた。
10月に後醍醐は尊氏からの講和の申し入れを受け入れて比叡山をおり、京にもどった。この一行の中に宇都宮公綱も含まれている。同族の宇都宮泰藤は義貞と共に北陸へくだっており、公綱と一緒に捕虜になった菊池武重は隙を見て脱出したが、公綱自身はほとんど「放召人(かなり自由な軟禁状態)」で逃げようと思えばいくらでも隙があるにも関わらず出家して何の動きも見せなかった。これをからかって、何者かが公綱の宿所の門に山雀(やまがら)の絵を描いて、その下に「山がらが さのみもどりを うつのみや 都に入りて 出でもやらぬは(山雀のように籠の中を行ったり来たりするばかりで、都に入ったまま外に出ようともしないじゃないか。「もどりをうつ=いったりきたり」に「うつのみや」を掛けている)」という落首を書き添えていったという(「太平記」)。
―南朝のために奮戦―
それでも後醍醐天皇が京を脱出して吉野に入り、自らを正統の天皇として諸国に号令を下すと(南朝の始まり)、公綱はすぐさま吉野に駆け付けたとされる(「太平記」)。後醍醐は大いに喜んで、出家していた公綱を還俗させたうえで正四位下・左少将に叙している。このあとどのように行ったかは不明だが、公綱は拠点の下野・宇都宮に帰還している。
延元2年(建武4、1337)8月に奥州の北畠顕家が再度の上洛軍を起こすと、公綱はこれに呼応し軍勢をひきいて合流した。ところが重臣の「清党」である芳賀禅可(高名)が公綱の嫡子・加賀寿丸(氏綱)を擁して宇都宮城にたてこもって足利方につき、北畠軍を妨害した。あくまで南朝につこうとする公綱に対して宇都宮一族の中でも批判の声があがっていたことがうかがえる。
結局公綱は顕家に従って西上、翌延元3(建武5、1338)の美濃・青野原の戦いにも参加している。その後北畠軍は奈良から河内・和泉へと転戦して5月に崩壊するのだが、この間公綱がどこで何をしていたかはよく分からない。少なくとも顕家ともども戦死したわけではなくどこかで生きていたはずだが、自身の拠点である下野では自身の子である氏綱とそれを助ける芳賀禅可が足利方の旗幟を鮮明にしていたため、帰るに帰れずにいたのではないかと想像される。こうした事情からこれ以後の公綱の消息はほとんど分からなくなってしまう。
『太平記』によると、正平7年(文和元、1352)に公綱は小山氏ともども後村上天皇から児島高徳を使者として「東国静謐」の勅命を受けている。これはちょうど当時足利幕府の内戦「観応の擾乱」に乗じて南朝側が勢いを巻き返していた時期で、関東にいた尊氏を討つよう各地の南朝勢力によびかける一環として公綱に声をかけたものである。しかし児島高徳の存在自体が少々怪しいものであるため物語上の創作とも思える。実際公綱が何か具体的な行動を起こしている様子はない。
『下野国志系図』に公綱について「法名理蓮、正眼庵と号す。延文元年(=正平11、1356)十一月廿五寂、五十五」との記事がある。没年はこの年で間違いないようだが、『諸家系図纂』では命日を10月20日とし、五月没とする史料もある。
宇都宮家代々がそうだが歌人としてもすぐれており、『新続古今和歌集』に歌が入選している。
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大河ドラマ「太平記」 | ドラマ中への登場はなく、せいぜい正成が関東の有力武士の名を挙げるなかで「宇都宮」と口にするのみ。しかし古典「太平記」の名物男を無視するのももったいないとみたか、番組の最後の「太平記のふるさと」コーナーでとりあげられている。第13回「攻防赤坂城」の同コーナーで「坂東武者」と題して宇都宮氏と紀清両党をテーマにおよそ3分という長尺が割かれ、宇都宮・益子・真岡の各所をめぐりながら公綱と芳賀禅可の活躍が紹介された。 |
歴史小説では | 楠木正成との名勝負があるため小説への登場例は多い。 |
漫画作品では | やはり正成との勝負の場面があるため、「太平記」の漫画版や正成を主役とする作品に登場例がある。
中でも河部真道『バンデット』においては顔に多くの傷を持つコワモテで、行く先々で調達(略奪)を繰り返して「協力に感謝する」と言葉だけは丁寧という、強烈なキャラに描かれた。千早城攻略では一人でトンネルを掘って正成の本陣までたどりつくが、その時には六波羅は陥落して戦いは終わっていたため、大威張りで降参して厚遇を要求し楠木勢を呆れさせていた。
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PCエンジンHu版 | シナリオ2「南北朝の動乱」で下野・宇都宮城に北朝方武将として「宇都宮広綱」なる武将が登場している。能力は「騎馬6」とかなり高く、公綱の誤りではないかとみられる。 |
PCエンジンCD版 | ゲーム開始時に陸奥国におり、北畠顕家の配下武将として登場する。能力は統率74・戦闘82・忠誠38・婆沙羅56。忠誠の低さと婆沙羅の高さはあきらかに「いったりきたり」したためであろう。 |
メガドライブ版 | 楠木・新田帖でプレイすると「天王寺の戦い2」のシナリオで幕府軍武将として登場する。能力は体力101・武力130・智力91・人徳57・攻撃力123。とかなり強力。 |