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やなぎわら〜やまもとときつな

柳原(やなぎわら)家
 藤原北家・日野家から南北朝時代の資明を祖として分家、その邸宅「柳原殿」からとって「柳原家」と称した。家格は「名家」で、土御門家、武者小路家などがさらに分家した。

日野俊光┬資名日野



├資朝




資明┬宗光┌日野町資藤─忠秀

├浄俊忠光資衡忠秀─資綱─量光

└賢俊教光→武者小路



├保光
→土御門



光済



柳原資明
やなぎわら・すけあき1297(永仁5)-1353(文和2/正平8)
親族父:日野俊光 母:三位局(亀山院女房)
兄弟:日野資朝・日野(柳原)資明・律師浄俊・三宝院賢俊ほか
子:柳原忠光・柳原宗光・土御門保光・武者小路教光・光済・土御門通房室
官職蔵人・右大弁・左大弁・参議・権中納言・権大納言・検非違使別当・院別当
位階従五位下→従三位→正三位→正二位
生 涯
―柳原家の祖―

 権大納言・日野俊光の四男。兄弟には後醍醐天皇の側近となった日野資朝護良親王の側近・浄俊もいるが、資明資名賢俊は持明院統=北朝側として活動している。
 元弘の乱が起こって持明院統の光厳天皇が即位すると、兄の資名と共にその側近として活動、正三位・権中納言まで昇進している。正慶2年(元弘3、1333)3月に後醍醐派の赤松円心の軍勢が京に迫った際、兄の資名と同じ牛車に乗って参内、まったく無防備状態に置かれていた光厳を六波羅探題に動座させた(「太平記」)。その後光厳に供奉して六波羅勢と共に関東を目指して近江まで逃れたが番場宿で六波羅勢の集団自決に立ちあい、そのまま倒幕派に拘束された(「増鏡」)
 後醍醐が復位して「建武の新政」が開始されると光厳朝での人事は否定され、資明も解官されている。建武3年(延元元、1336)5月に足利尊氏が湊川の戦いに勝利して入京した際には後醍醐に供奉して比叡山に避難しているが(「太平記」)、同時に兄の資名は光厳の足利本陣入りにつき従い、弟の賢俊は光厳の院宣を尊氏にもたらす役目をつとめているため資明も内々に光厳側についていたとみられる。

 光明天皇の即位、光厳による院政が開始されると権中納言に復し、建武4年(延元2、1337)に権大納言に昇進した。以後光厳上皇のブレーン評定衆となり、貞和2年(正平元、1346)にいったん辞職引退したが、貞和4年(正平3、1348)から院別当となって院政を支えている。
 『太平記』には光厳の有力ブレーンであった資明と勧修寺経顕とが、何かにつけて対立し、互いに正反対の意見をぶつけあっていた逸話が二つ載せられている。貞和元年(興国6、1345)に天竜寺の落成法要に光厳が行幸することになったが比叡山延暦寺が強硬に反対した。経顕は比叡山の要求など拒否すべきと主張したが、資明は比叡山が王城鎮護の聖地であることを述べてその要求を受け入れることを主張、結局光厳は法要そのものには参加せず翌日に参詣という対応がとられた。
 また貞和4年(正平3、1348)ごろの話として、壇ノ浦の戦いで失われた宝剣が伊勢の海で発見され、その宝剣が資明のもとに持ち込まれて資明が平野社の神官と共に「本物」と鑑定して吉兆であると献上を企てるが、経顕が「凶兆」と断じて内裏への持ち込みを阻止する逸話が唐突に出て来る。この逸話では資明と経顕はいつも意見を対立させながらも主君に耳の痛いことも直言する学識豊かな公家として高く評価されており、史実かどうかはともかくとして資明が光厳院政で重要な地位を占めていたことは確かなようである。

 そんな資明であったが、「観応の擾乱」のなかで観応2年(正平6、1351)10月に北朝が南朝に接収される「正平の一統」が起こった時にはかなり慌てたようである。北朝公家たちは地位保持のため南朝の後村上天皇のいる賀名生参りに繰り出したが、資明は病のために動けず、息子の土御門保光を南朝との窓口役になっていた洞院公賢のもとへつかわし、「賀名生に馳せ参じないとまずいことになると昨夜耳にした。自分の代わりに保明を賀名生に行かせようと思うが、保光は崇光天皇のそばに仕えてるから許されないのではないか」と公賢に質問させている(「園太暦」)
 文和2年(正平8、1353)7月27日に赤痢により死去。享年57。資明の子孫はその邸宅「柳原殿」からとった「柳原家」となって近代まで存続し、資明の子からは土御門家、武者小路家が分家している。

参考文献
林屋辰三郎『内乱のなかの貴族・南北朝と「園太暦」の世界』(角川選書)
深津睦夫著『光厳天皇』(ミネルヴァ書房・日本評伝選)ほか

柳原資衡
やなぎわら・すけひら1363(貞治2/正平18)-1405(応永12)
親族父:柳原忠光 母:祝部成国の娘
兄弟:日野町資藤・定忠(三宝院門跡)
妻:紀文子  養子:柳原忠秀
官職左少弁・右中弁・左衛門権佐・蔵人・左中弁・蔵人頭・左大弁・参議・右衛門督・検非違使別当・権中納言・
位階従三位→正二位
生 涯
―義満の命令で妻と離婚―

 権大納言・柳原忠光の子で柳原家三代目当主。永和4年(天授4、1378)に左少弁、その後右中弁、左衛門権佐、蔵人、左中弁、蔵人頭を経て、嘉慶2年(元中5、1388)に左大弁および参議に任じられる。明徳元年(元中7、1390)に従三位に叙せられて右衛門督・検非違使別当を兼任した。

 康応元年(元中6、1389)3月に将軍・足利義満が厳島神社への参詣を行い、多くの有力大名がこれにつき従ったが、その中に公家から柳原資衡も加わっており、義満の乗船に同乗するなど重い扱いを受けていることから義満の側近と言っていい立場だったとみられる。南北朝合体が実現した年の明徳3年(元中9、1392)8月には権中納言に昇った。
 ところが応永7年(1400)8月22日、資衡は義満の命令を受けて、23年も連れ添った妻・紀文子(紀俊長の妹)と離婚させられた(「吉田家日次記」)。義満が彼女を気に入って奪い取ってしまったというのが真相のようで、義満が他人の妻を奪い取った数多い実例の一つとして挙げられる。文子はその後内裏に入って義満の接待役をしていたようで、恐らく他の同様のケースと同じく、義満の寵愛を受けながら元夫のために運動することも多かったと思われる。
 応永10年(1403)6月に権大納言に昇進。応永11年(1404)正月に正二位に叙せられ直後の正月19日に出家。翌応永12年(1405)12月に死去。享年43。実子がいなかったのか、甥の忠秀(初名は行光。日野町資藤の子)を養子にとって跡を継がせている。

参考文献
小川剛生『足利義満・公武に君臨した室町将軍』(中公新書)ほか

柳原忠光
やなぎわら・ただみつ1334(建武元)-1379(康暦元/天授5)
親族父:柳原資明 
兄弟:柳原宗光・武者小路教光・土御門保光・光済・土御門通房室
子:柳原資衡・日野町資藤・定忠(三宝院門跡)
官職蔵人頭・参議・左大弁・権中納言・権大納言・院執権
位階正三位→従一位
生 涯
―「義満」の名付け親―

 権大納言・柳原資明の子で柳原家二代目当主。康永2年(興国4、1343)に叙爵、蔵人や文章博士を経て康安元年(正平16、1361)に参議兼左大弁となる。貞治2年(正平18、1363)には権中納言に昇進した。忠光は後光厳天皇を支える議定衆のメンバーに加わり、伝奏を兼ねて幕府との連絡役もつとめている。
 貞治5年(正平21、1366)12月7日に将軍・足利義詮の子・春王に後光厳から名を与えることとなったが、このとき朝廷の会議で柳原忠光が「義満」を提案、もう一つの案「尊義」を退けてこちらが採用されている。形式から言えばあくまで間接的だが、忠光が義満のいわば「名付け親」ということになる。
 応安3年(建徳元、1370)8月19日、後光厳が子の緒仁親王(後円融天皇)への譲位を決意し、忠光を勅使として幕府に派遣している。このとき兄弟の武者小路教光は、後光厳と対立する崇光上皇の腹心として幕府にはたらきかけをおこなって兄弟同士で対立派閥の連絡役をつとめることとなった。忠光を通した幕府と後光厳の折衝を経て、後円融践祚は実現した。
 応安4年(建徳2、1371)12月に興福寺衆徒の強訴により春日大社の神木が京に持ち込まれ、藤原氏の公家たちが出仕できないため朝廷の政務がマヒしただけでなく、柳原忠光は広橋仲光らともども藤原氏から除名する「放氏」処分まで受けている。応安7年(文中3、1374)に後光厳が死去して神木も帰座するとその処分も解かれ、応安8年(天授元、1375)2月の後円融即位礼にともなう改元では、忠光が新元号に「永和」を勘申している。直後の3月に正三位に叙され、11月には権大納言に昇った。
 永和5=康暦元年(天授5、1379)正月19日に46歳で死去。同日のうちに従一位に叙されている。

山名(やまな)氏
 清和源氏・新田一門。新田氏の祖・義重の子・義範が上野国多胡郡山名に住したことから「山名氏」を称した。新田一門ではあるが南北朝初期に山名時氏が足利尊氏と母方の従兄弟である縁で足利方として活躍、上昇のきっかけをつかんだ。時氏はその後南朝方につくなど巧みに立ち回って実力で山陰地方に領土を拡大、やがて山名一門で11か国の守護をつとめ「六分一衆」と呼ばれるほどの大大名に成長して室町馬腹の「四職」の一角を占めた。だが足利義満の策謀により「明徳の乱」を起こして一時大きく勢力を削がれた。山名持豊(宗全)の代で再び力を取り戻し、「応仁の乱」の一方の主役ともなる。戦国時代には衰退し、江戸時代には高家の一つに遇されて存続した。

新田義重┬義兼新田





師義
義幸


├義範
─義節┬重国─重村
─義長─義俊─政氏
時氏

氏之
─熙之

├義俊
→里見
└重家



兼義
├義熙


└義季








満幸










義理
─義清
─教清









氏冬
氏家
─熙貴









氏清
時清
→宮田










満氏











├氏利











氏義










時義
時熙
┬満時









├義数
氏之
├持熙









├義継

└持豊(宗全)









氏重











高義



山名氏家
やまな・うじいえ生没年不詳
親族父:山名氏冬 
子:山名熙貴
官職中務大輔
幕府
因幡守護
生 涯
―気乗りせぬまま明徳の乱に参戦―

 山名氏冬の子。父の氏冬が応安3年(建徳元、1370)正月に死去した時点ではまだ幼かったためか、因幡守護職は叔父の山名氏重が継いでいる。だがこの氏重もまもなく死去したらしく、時期は不明だが氏家が因幡守護職を継いだとみられる。

 明徳2年(元中8、1391)12月末に山名氏清を中心に山名一族が団結して「明徳の乱」を起こすが、この時氏家は京都にあり、はじめは氏清に味方する気はなかったらしい。しかし因幡守護代の入沢行氏が「一族が団結しているのですから行かぬわけにはいきますいまい」と言い捨てて男山八幡の山名氏清の陣営に馳せ参じてしまったため、「こうなっては仕方ない」と氏家も12月23日に男山へ参陣した。12月30日の合戦では未明のうちに京を目指して淀の渡りを越えはしたものの道に不案内のため深田にはまる者が続出、ばたばたしているうちに「行く手で敵の大軍が待ち受けている」との情報が入ったため、「このまま進軍しては犬死にだ。引き返して後続部隊と合流しよう」と後方へ引きさがってしまった(「明徳記」)。まもなく始まった戦闘では氏清に従って交戦しているが氏清が戦死して山名軍は大敗し、氏家は因幡へと逃亡した。
 おそらく氏家は初めから氏清らの敗北を予想し、義満側と実際に戦闘になるのは必死に避けたのであろう。『明徳記』では合戦の翌日に氏家が義満に書き送った弁明をそのまま写した記述があり、そこで氏家は「入沢が勝手に参陣したので連れ戻すために男山に行ったところ、氏清に涙ながらに説得されて参戦せざるをえなくなりました。途中で離脱するつもりだったが実際に合戦ともなると顔見知りを見捨てるにしのびなく、一戦をしてしまいました」と釈明している。

 この弁明を受けて義満はただちに氏家を赦免した。喜んだ氏家は上京しようとしたが、乱の首謀者でもある従兄弟の山名満幸が因幡の青屋荘に潜伏していて、上京途中の氏家を襲撃しようとしているとの情報が入った。氏家は「望むところだ。襲ってきたらひと合戦して帰参の手土産にしてやる」と言ってそのまま出発した。満幸は結局襲撃をあきらめて出家してしまっている。
 氏家の死去の時期は不明だが、応永7年(1400)までは守護として活動していることが確認でき、応永18年(1411)から「山名上総介」という別人が守護になっているので、その間に死去したと推測される。なお、氏家の子・熙貴「嘉吉の変」足利義教暗殺現場に居合わせて殺されている。

山名氏清
やまな・うじきよ1344(康永3/興国4)-1392(明徳2/元中8)
親族父:山名時氏 
兄弟:山名師義・山名義理・山名氏冬・山名時義・山名義数・山名義継・山名氏重・山名高義・山名義治・山名氏頼
妻:藤原保脩の娘 子:宮田時清・山名満氏・山名氏利・山名満幸室・山名時熙室
官職民部少輔・陸奥守
幕府
丹波・和泉・山城・但馬守護、侍所頭人
生 涯
 「明徳の乱」の中心人物となった武将。勇将として知られ、対南朝戦に大きな功績を挙げたが、山名一族の勢威を恐れた義満の策謀にかかって反乱を起こし壮絶に散った。「南北朝時代」最後の戦乱の主人公ともいえる。

―対南朝戦の活躍で台頭―

 山名時氏の四男。応安4年(建徳2、1371)に父・時氏が死去すると、その守護国のうち丹波を継承した。
 永和3年(天授3、1377)に幕府の侍所頭人をつとめる。翌永和4年(天授4、1378)末にいったんは幕府側に投降していた橋本正督が南朝に舞い戻って蜂起したため、11月に幕府は細川頼基・赤松義則らとともに氏清と兄の義理を討伐に派遣した。そこでの活躍を評価して将軍・足利義満12月に氏清を和泉守護、義理を紀伊守護に任じてその掃討にあたらせた。康暦元年(天授5、1379)正月23日に氏清らは紀伊・土山城を攻め落として橋本正督の動きをほぼ封じ込め、翌年の康暦2年(天授6、1380)7月17日に氏清軍はついに正督を討ち取る殊勲を挙げた。9月には紀伊国生地城を攻め落としている。

 こうした氏清の活躍の間に山名氏にとって政敵であった管領・細川頼之が失脚(康暦の政変)、頼之を後ろ盾としていた楠木正儀は立場を失って南朝に帰参している。そもそも山名氏清が獲得した和泉守護・摂津の住吉東生両郡守護の地位は正儀が保持していたものであった。氏清は楠木勢の殲滅を図り、永徳2年(弘和2、1382)に河内へ侵攻して閏正月24日の平尾の戦いで楠木軍を撃破、楠木一族六名に家臣百六十余名を討ち取って楠木軍をほぼ再起不能に追い込み、金剛山へと逃げ込ませた。
 こうした対南朝戦でのめざましい活躍を評価され、至徳2年(元中2、1385)12月に新設された山城国守護職を任される。氏清は笠置山に城を築いて周辺の荘園を横領し、領主である興福寺を震撼させてもいる。氏清が山城守護を兼任したことで山名一族の守護領国は全11か国にのぼり、全国の6分の1を占めることから山名一族は「六分一衆」「六分一殿」という異名を奉られることとなった。

 康応元年(元中6、1389)5月、山名一族の惣領で氏清の弟である山名時義が死去した。山名総領の地位は時義の子・時熙に引き継がれることとなったが、実力で地位を上昇させてきた氏清や、その甥にして娘婿で本来惣領と自認する満幸はこれに不満を抱き、「六分一衆」と呼ばれた山名一族の中に亀裂が生じた。かねて山名一族の強大な勢力を危険視していた足利義満は、この内紛につけこんで山名つぶしの工作を開始する。
 翌明徳元年(元中7、1390)3月、義満は時義が生前に専横のふるまいをしたとの理由でその子・時熙と氏之の討伐を命じ、彼らと対立する氏清・満幸にその実行を命じた。氏清は出陣にあたって「彼らが許しを乞うてくることがあっても、決してお許しにはなりませんように」と義満に約束させてから但馬の時熙を攻撃、そのまま但馬の守護におさまった。
 この事件の直前に義満は美濃の土岐一族の内紛を利用してその勢力を削ぐことに成功している。氏清も義満の真の狙いに全く気付かなかったわけでもないのだろうが、「土岐氏は愚かだったからあのような目にあったのだ。我が家と彼らを比較すれば将軍も違ったお考えをするだろう」と言っていたという(「明徳記」)

―明徳の乱に散る―

 明徳2年(元中8、1391)4月、斯波義将が失脚して細川頼之が幕政に復帰した。かねて頼之と対立している山名一族にとっては不安を感じる政変であったろうし、実際に頼之と義満はこれ以前から山名つぶしの策謀を共に練っていたとみられている。
 この年の10月11日に氏清は義満を宇治の紅葉狩りに招いた。その前夜に満幸が淀まで来ていた氏清を訪ねて、時熙・氏之兄弟が清水付近に潜伏して義満に赦免を願い出ようとしているとの情報を伝え、義満は宇治の紅葉狩りを機に氏清の目の前で彼らを赦免する気だ、宇治へ行ってはならないと忠告した。氏清は前年の約束を義満が反故にしようとしていると考え、急病を理由に紅葉狩り参加をとりやめ和泉へと引き返した。
 11月になると義満は、後円融上皇の領地を横領したことを理由に満幸を京から追放処分とし、入れ替わりに時熙・氏之の赦免を実行した。満幸はこれに怒って和泉の氏清のもとへ駆けつけ、「将軍は何としても我が家を滅ぼすつもりなのだ。山名一族が一致団結して挙兵すれば立ち向かえる者はあるまい。将軍への謀反で差支えがあるなら頼之への恨みということにすればよいではないか」と挙兵を説得、氏清も即座に同意し(「明徳記」ではもともと天下に野心があったとする)、満幸の丹後と自身の和泉の二方面で12月を期して挙兵し、宇治八幡で合流して京を攻めようと話を決めて満幸を丹後へ向かわせた。
 直後に義満側も氏清の挙兵を予想して討伐を実施しようとしたが、氏清は時間稼ぎのために「異心などまったくない」と起請文を送っている。また一族の長老格である兄の義理を紀伊に訪ねて説得、勝ち目はないとためらう義理をなんとか出陣に同意させた。12月23日までに氏清は和泉勢を率いて男山八幡に陣し、満幸は丹後勢を率いて丹波方面から京に迫り、義理は紀伊勢を率いて天王寺へ進出、あまり乗り気ではなかった山名氏家も男山に駆けつけ、時熙・氏之以外の山名一族はほぼ結束して義満に挑む形となった。この勢いに幕府内では和睦をはかる声も出たが、義満は「足利家と山名家の運を天の照覧に任せる」と言って全面対決の方針を示した。
 山名側は12月27日を期して合戦すると決めていたが、義満から説得の書状を受けた義理の紀伊勢の到着が遅れ、和泉勢も河内で妨害を受けたために開戦は30日まで延期された。またこれと同時に氏清は大義名分を得るため南朝に連絡を取り、南朝から「錦の御旗」をくだされていたという(「明徳記」)。だが腹心の部下である小林義繁から開戦前夜に「この戦いには道理がない」と批判されるなど、味方の中でもこの挙兵に納得していない者は少なくなかったようである。

 12月30日の未明から山名軍は京へ突入、小林義繁と氏清の弟・山名高義が二条大宮で大内義弘軍と激突して両名とも戦死してしまう。続いて満幸の軍勢が内野(大内裏跡の空き地)に突入したが義満方に撃破され、満幸は逃亡した。進軍中にこの二つの敗報を知った氏清は敗北を悟って決死の覚悟を決め、家臣の撤退の進言にも耳を貸さずに京へと突入した。氏清軍は二条大宮付近で大内義弘・赤松義則・山名時熙らの軍と激闘を交え、氏清自らたびたび突撃を繰り返し、大内・赤松勢はその勢いに押され気味で義満に援軍を求めるほどであった。
 義満は一色詮範の軍を新手に差し向け、これによりさすがの氏清軍も劣勢に陥った。覚悟を決めた氏清は息子の宮田時清山名満氏を説得して丹波方面へ落ち延びさせ、自身は押小路大宮の辺りで自害の用意までしていたが、一色詮範の姿を見かけて「中途半端な敵と戦うよりは彼と戦って討ち死にしよう」と一騎打ちを挑んだ。だが氏清はすでに眉の上を負傷して血が両目に入って思うように戦えず、詮範に切りつけられて落馬、そこへかけつけた詮範に子・満範に切りつけられて、詮範に首をとられてしまった。このとき養子の山名小次郎氏義という少年が殉じて戦死している。
 氏清の首は詮範によって義満の前に差し出され、義満は氏清の首を見て「天も許さぬ謀反を起こした者の成れの果てをみよ」と諸大名に言いつつ、哀れも催して涙を浮かべたという。氏清の遺骸は戦場にさらされていたが、交流のあった善応寺の正範禅師が義満に願い出て引き取り、荼毘に付した。

 氏清の戦死後、満幸も逃亡の末に捕えられて処刑され、山名一族は義満側についた時熙・氏之の系統が残るもその守護国は大きく減らされ、「六分一衆」と呼ばれた栄光は過去のものとなった。
 『明徳記』には氏清の実子は男女合わせて四十人以上もいたとの記述がある。のちに息長男の時清・満氏は応永の乱の際に父の仇を討とうと義満に挑戦している。そのほか山名満氏は安芸守護、山名氏利は石見守護となった。
漫画作品では
日本史の学習漫画で「明徳の乱」を扱う部分でほぼ確実に登場する。

山名氏清の妻
やまな・うじきよのつま?-1392(明徳3/元中9)
親族父:持明院保脩 夫:山名氏清
子:宮田時清・山名満氏
生 涯
―夫のあとを追って自害した烈女―

 『山名系図』に「左中将藤保脩女」とあり、持明院保脩の娘であることが知られる。ちなみに従姉妹に細川頼之の妻がいる。
 明徳2年(元中8、1392)12月30日に夫の山名氏清「明徳の乱」を起こして京で戦死した。出陣前に氏清から万一の場合の覚悟を言い渡されていた彼女だったが、合戦の翌日の元旦に氏清からつかわされた時衆の僧と息子の宮田時清からの使者から夫の死を聞かされて激しく悲嘆にくれた。息子二人が生き延びたことは内心嬉しかったが、二人が父親を見捨てて逃げてしまったことを嘆きもしていた。

 周囲の者とともに幕府の追手を逃れて紀伊へと向かう途中、日根野に来たところで彼女は輿の中で自害をはかった。しかし死に切れぬまま正月4日に紀伊の根来へ運び込まれた。そこへ逃亡中の息子たち、時清・満氏の二人が母の自害未遂を聞きつけて正月7日の暮れに駆けつけ、母に面会を求めた。侍女からそれを聞いた彼女は「武士の子に生まれて二十歳を過ぎながら、父と共に戦場に出て目の前で親の討ち死を見捨て、さらに出家してしまうというだけでも情けないのに、女ながらに自害を図って死に行こうとしている母に一目会いたいとは何事か。養子の小次郎(氏義)は討ち死にして敵味方に賞賛されているのに恥ずかしくないのか。そのような情けない者を子とは思わぬ。今生で会うことは叶わぬ」と面会を拒絶した。

 正月13日になって彼女は大切に手にしていた書状に何か書きつけてついに絶命した。その書状は氏清が12月27日付で妻に送った最後の手紙で、その末尾に「かへらずば きえぬとおもへ 梓弓 ひくはうき居の みちしばの露」(「取りえずばきえぬとおもへ梓弓ひきてかえらぬ」とする本もある)という歌が添えられていた。そして彼女がその脇に「しづむとも おなじくこえん まてしばし 涙の川の 夢のうきはし」(沈んでしまうとしても涙の川の夢の浮橋を一緒に渡りましょう。ちょっとお待ちください)と歌を添えていた。それを見た人々は哀れのあまり袖を濡らしたという(「明徳記」)
 以上は『明徳記』の記す哀話であるが、彼女はその後三年間は生きていたとする記述が「ウィキペディア」などネット上で見られる。情報源は未確認。

山名氏重
やまな・うじしげ生没年不詳
親族父:山名時氏 
兄弟:山名師義・山名義理・山名氏冬・山名氏清・山名時義・山名義数・山名義継・山名高義・山名義治・山名氏頼
官職右馬助?駿河守?
幕府
因幡守護
生 涯
―因幡守護として父を弔う―

 山名時氏の八男か九男。その事跡はほとんど不明であるが、兄の氏冬が応安3年(建徳元、1370)正月に死去したあとにその因幡守護職を引き継いでいる。氏冬には息子の氏家がいたが、その時点ではまだ幼かったのかもしれない。
 応安4年(建徳2、1371)2月に時氏が死去すると、その年の4月28日に氏重は因幡国一行寺に父の供養塔を建立した。その銘文には「因幡太守孝子源氏重」とあり、氏重が因幡守護を務めていた唯一の証拠となっている。
 『山名系図』では氏重について「早世」としているが、その没年は不明。『明徳記』に登場する山名氏清の養子・山名小次郎(熙氏?)の父が「右馬頭」とされ和泉の土丸城の戦いで戦死したとされていて、これが「右馬助」と伝わる氏重の可能性があるが、系図類で氏重を戦死としているものはない。
 因幡守護職はおよそ20年後の明徳2年(元中8、1391)の時点で氏家がつとめていることが確認できる。

山名氏冬
やまな・うじふゆ?-1370(応安3/建徳元)
親族父:山名時氏 
兄弟:山名師義・山名義理・山名氏清・山名時義・山名義数・山名義継・山名氏重・山名高義・山名義治・山名氏頼
子:山名氏家
官職治部大輔・中務大輔
幕府
因幡守護
生 涯
―因幡守護となるも父に先立つ―

 山名時氏の三男。父の時氏が足利直冬をかついで南朝方につくと氏冬も一軍を率いて幕府方との戦いに姿を見せている(「氏冬」の名乗りも直冬から一字を与えられたものと思われる)。正平16年(康安元、1361)7月には父に従って美作に出陣、赤松方の倉懸城を攻略、翌正平17年(貞治元、1362)には兄の師義らと共に但馬へ侵攻するなど、山名一族の領国拡大に貢献している。
 貞治2年(正平18、1363)8月に山名時氏は自身の征服した領国をそのまま維持することを条件に将軍・足利義詮に投降した。翌貞治3年(正平19、1364)3月に氏冬ら時氏の息子たちが先に上洛して義詮に対面、義詮の態度を確かめたうえで8月に時氏が上洛している。この時に因幡守護職が時氏に与えられ、翌貞治4年(正平20、1365)にはその因幡守護職は時氏から氏冬に譲られている。
 だが氏冬の寿命はあまり長くなかった。応安3年(建徳元、1370)正月5日に父に先立って死去している。

山名氏之
やまな・うじゆき生没年不詳
親族父:山名師義 養父:山名時義
兄弟:山名義幸・山名満幸・山名義熙・山名時熙(義兄)
子:山名熙之
官職右馬頭・隠岐守・大膳大夫
幕府
伯耆守護
生 涯
―守護を奪われ、奪い返し―

 山名師義の次男で、叔父の山名時義の養子となった。「氏幸」と表記されていることも多いが、「明徳の乱」前後で改名した可能性がある。
 康応元年(元中6、1389)5月に養父の時義が死去し、義兄の時熙が山名惣領の地位および但馬、氏之が伯耆の守護職を継承した。しかし伯父の山名氏清、氏之にとっては実弟である満幸は時熙の惣領相続に不満を抱き、この一族の内紛が将軍・足利義満に利用されることとなる。
 明徳元年(元中7、1390)3月、義満は時義の生前の専横を非難し、その息子である時熙・氏之の討伐を氏清・満幸に命じた。氏之のいる伯耆には実弟の満幸が攻め込み、氏之は時熙と備後へと逃亡した。伯耆守護職はそのまま満幸に奪われてしまった。
 しかしその翌年の明徳2年(元中8、1391)10月には時熙と共に京都・清水寺周辺に潜伏し、自分たちにまったく野心はない、一族の者たちの讒言にあったのだと弁明して義満に赦免を願い出て許されている。義満が氏之らを許したことに氏清・満幸が反発し、これがこの年の暮れの「明徳の乱」の原因となった。
 「明徳の乱」の結果、満幸が没落すると伯耆守護職は再び氏之のものとされた。「応永の乱」時に氏清の遺児、宮田時清山名満氏らが挙兵すると丹波に出陣して満氏を討ったともいう(「山名家譜」)。ただし満氏はその後も生存していたとも思われるので討ち取ることまではしなかったのかもしれない。
 応永31年(1424)までおよそ三十年にわたって伯耆守護をつとめ、晩年は出家して「源賛」と号した。没年は不明だが記録が途絶える応永31年から3年以内とみられる。息子の熙之に先立たれたのか、跡を継いだのは孫の山名教之であった。

山名氏義
やまな・うじよし1375(永和元/天授元)-1392(明徳2/元中8)
親族父:山名右馬頭?
義兄弟:宮田時清・山名満氏・山名氏利
生 涯
―養父に殉じた十七歳の若武者―

 『明徳記』「山名小次郎」とあり、一部版本により「氏義」との明記がある。ただし『山名系図』では同じ人物を「熙氏」としており、どちらが正しいかは断定できない。ここでは一応「氏義」として記述する。
 『明徳記』によれば彼の父は和泉・土丸城での南朝勢力との戦いで戦死した「山名右馬頭」(あるいは左馬頭)とされる。「右馬頭」で該当する人物が見当たらないが山名時氏の子の中に「山名氏重」がいて「右馬助」とされているのが一番近い。だが系図類では氏重は「早世」とされるだけで戦死したとは書かれていない。ともあれこの「山名右馬頭」が「御後見と申しし思人(おもいびと)」と表現される女性に産ませたのが氏義であったといい(つまり正式な子と認知されない)、このため父の戦死後も氏義は但馬の地で母親一人の手で育てられたという。成長後に伯父の山名氏清がその凛々しい姿に感心して引き取って養子にし、「明徳の乱」の際も同行していた。このとき十七歳であったという。

 内野の戦いで奮戦するも敗北を覚悟した氏清は息子の宮田時清山名満氏らを丹波へ逃がし、氏義にも彼らと一緒に落ちろと命じた。しかし氏義は「もし義父上がお腹を召されることになって息子が誰もそばにいなかったら、世の人は息子たちは臆病風に吹かれて逃げたのだとそしりましょう。それは武士の恥。私がここに残ります」と言って氏清を感動させた。氏義は戦いの前から「自分は本来僧にでもなるしかないところを養子として一門に加えていただいた恩義がある。今度の合戦で命を捨ててでも恩返しがしたい」と周囲に語っていたとされ、落ち延びる味方に「但馬に行かれる方がいたら、私の母に小次郎は殿と一緒に討ち死にしたとお伝えしてくだされ」と頼んだという。
 奮戦の末に氏清が一色詮範に討ち取られ、首を取られたのを目撃すると、氏義は氏清の遺骸のそばに寄って切腹しようとした。そこへ一色の家臣・河崎帯刀が襲いかかり、二太刀切りつけてから顔見れば紅顔の美少年であったので哀れになり「助けてやる。名を名乗れ」と言ったが、氏義は名乗らず「名乗るほどの者ではないが、大将のそばを離れず死んだ者の首と言って聞いて回れば見知った者もいよう」とだけ言って帯刀をせかして首を打たせた。果たして河崎が尋ねて回ったところ氏清の甥で養子の氏義だと分かったという。

山名兼義
やまな・かねよし?-1347(貞和3/正平2)
親族父:山名政氏
兄弟:山名時氏
官職
三河守
生 涯
―楠木正行に敗れ戦死―

 山名政氏の子で山名時氏の弟。『太平記』では「山名三河守」として登場しており、山名氏の系図で「兼義」としている。兄・時氏と共に鎌倉幕府滅亡以来足利軍の一員として活動していたとみられるが、記録上は確認できない。
 貞和3年(正平2、1347)8月、南朝の楠木正行が河内で活動を開始し、山名時氏にその討伐が命じられた。11月26日、住吉の時氏の陣に楠木軍が突入し、楠木軍の和田賢秀阿間了源ら猛将たちがただ二人で切り込んできて、兼義は「一騎打ちではかなわぬ」と見て大勢で取り囲もうとした。これを見て正行軍が突撃し、時氏が重傷を負って撤退、このとき兼義が猛追してくる楠木軍に立ち向かって戦死した。兼義の戦死を知って家臣の小松原刑部左衛門が自害して跡を追っている。

山名高義
やまな・たかよし?-1392(明徳2/元中8)
親族父:山名時氏
兄弟:山名師義・山名義理・山名氏冬・山名氏清・山名時義・山名義数・山名義継・山名氏重・山名義治、山名氏頼
官職上総介
生 涯
―明徳の乱で戦死―

 山名時氏の九男か。『明徳記』の版本によっては、山名氏清軍に参加している「山名上総介」「高義」と明記している。『山名系図』では高義は「修理亮」とし、兄弟の山名義数を「上総介」とし、どちらも明徳の乱で戦死したと注を入れて『明徳記』に戦死描写がある「上総介」は義数のこととする。このあたり情報の混乱がある可能性があるが、この項目では一応「高義」ということで記事をまとめる。
 明徳2年(元中8)12月30日(西暦では1392年になる)「明徳の乱」では兄の氏清と行動を共にしていて、氏清の家臣・小林義繁が氏清に「この戦は無理がある」と諫言して退出したあとで氏清が高義を呼び寄せ「小林のあの表情ではきっと死に急ぐだろう。一緒に行って何事も相談してやってくれ」と命じた。高義も内心では勝ち目はないと覚悟していたが命令を受け入れた。
 小林義繁と山名高義の隊は山名軍の先陣を切って京へ突入、二条大宮付近で大内義弘軍と激突して義繁は戦死する。高義は周囲の兵たちがみな馬から下りている中を馬で駆け抜け、義満の本陣への突入を図ったが、中御門大宮で古築地を馬で乗り越えようとしたときに馬が転んで落とされてしまい、そこへ駆けつけた富永筑後守に討ち取られてしまった。
 義繁と高義がそろって戦死したことを聞いた氏清は彼らが死ぬ気だったと嘆き、自身も覚悟を決めて奮戦、戦死してしまうこととなる。

山名時氏
やまな・ときうじ1303(嘉元元)-1371(応安4/建徳2)
親族父:山名政氏 母:上杉重房の娘 兄弟:山名兼義 
子:山名師義・山名義理・山名氏冬・山名氏清・山名時義・山名義数・山名義継・山名氏重・山名高義・山名義治・山名氏頼
官職伊豆守、弾正少弼、左京大夫
位階従五位下
幕府侍所頭人、引付頭人、評定衆、伯耆・因幡・丹波・出雲・丹後・美作守護
生 涯
 新田系とされる山名一族の出身ながら足利氏について幕府建設に功を挙げ、さらにその後の複雑な南北朝動乱を巧みに遊泳して山陰に領土を拡大、室町時代の名門・山名家の基礎を築いた、南北朝きっての「国盗り梟雄」である。

―「民百姓」同然の暮らしから大出世?―


 山名氏は新田義重の子・義範が上野の山名郷に入ったことに起源を持つが、義範は実は養子で足利義清の子であったともいう。そのせいか源頼朝の挙兵の際に義範は腰の重い父を置いて真っ先に駆けつけ、足利氏ともども頼朝に重んぜられ、鎌倉時代を通じて新田氏とは独立した御家人扱いであった。山名政氏上杉重房の娘をめとって時氏を生んでいるが、重房の娘には足利家時の母もおり、足利尊氏の母・清子も上杉重房の孫娘である。つまり山名時氏は尊氏の生母の「いとこ」にあたり、上杉氏同様に「準足利一門」の扱いを受けていたと想像される。
 
 だが今川了俊の回想録『難太平記』にはこんな逸話が載る。晩年の山名時氏が自身の生涯をふりかえって「わしは建武以来足利家のおかげで人並みとなったが、元弘以前は民百姓のようにして上野の山名というところから出て来たもので、世渡りの悲しさや自分の身の程というものを良く知っている。また戦いの苦しさというものも知っている。(中略)それに比べて息子たちの代になったら主君の恩も親の恩も忘れて自分の栄達ばかりを思っておごりたかぶり、将軍から敵視されるようになるだろう」と息子たちに語った、というものだ。了俊は「はたしてその通りになった。この人は文字もろくに読めなかったが(一文字不通)良いことを言ったものである」と記しており、時氏が文字も読めない庶民並みの暮らしをしていた苦労人だったと述べている。これは山名時氏という人物を同時代人が語っているためよく引き合いに出されるが、れっきとした御家人であり足利氏とも近かった山名家の実態がそんなものだったとは思えないとの異論もあり、了俊は意図的に山名家をおとしめているのではないかとの意見もある。だがこのくだりの了俊の趣旨は時氏を模範として自らも子孫に戒めておくというものであって特におとしめる理由はなく、時氏が相当な苦労人であったこと自体は事実なのではないかと思われる。鎌倉末期の御家人の実態を考える上でも検証が必要な証言である。

 元弘3年(正慶2、1333)に楠木正成がこもる千早城を攻略する幕府軍の中に新田一族らと共に「山名伊豆入道跡(山名義範の子孫)」の名がみえ(「楠木合戦注文」)、これが山名時氏か政氏であると見られる。鎌倉幕府滅亡時、時氏は父・政氏と行動を共にしていたとされるが、足利尊氏に従って六波羅攻略に参加したとする説と、新田義貞に従って鎌倉攻略に参加したとする説とがあり、はっきりしていない。いずれにしても建武政権成立以後は足利尊氏につき従っていたことは確実である。

 建武2年(1335)秋、足利尊氏は中先代の乱を平定するために関東へ下り、そのまま鎌倉に居座って建武政権から離反、新田義貞を主力とする征討軍の攻撃を受けた。このとき山名時氏も足利軍に加わっており、12月11日に行われた足利対新田の竹ノ下の戦いでは足利軍にあって「日の大将(その日の指揮官)」を務めていたことが野本鶴寿丸の軍忠状から判明している。この時点ですでに時氏が足利軍の中で重要な地位を占めていたことがうかがえ、年が明けて建武3年(延元元、1336)正月3日の近江・伊幾寿宮の戦いでも時氏が仁木頼章と共に味方の武士の軍功を確認している。
 その後の尊氏の九州への敗走、多々良浜の戦いから東上しての湊川の戦い、京都の再占領と一連の戦いに時氏も尊氏の部将の一人として参加していたとみられる。6月30日の京市内での新田勢との攻防戦で平子重嗣という武士が「大将軍」山名時氏の指揮下で戦い、その軍功を時氏に承認された軍忠状も残されている。

 足利幕府が樹立されると、時氏はその功績を認められ、伯耆国の守護に任じられている(建武4年には確認できる。同時期に因幡守護説もある)。暦応4年(興国2、1341)3月に出雲守護の塩冶高貞が無断で京を離れる事件(「太平記」で高師直に陥れられたとする有名なもの)が起こると、時氏は桃井直常と共にその追撃を足利直義から命じられ、播磨国影山で高貞を自害に追いこんだ。さらに康永2年(興国4、1343)3月に丹波で荻野朝忠の反乱が起こると、平定に失敗した丹波守護・仁木頼章に代わって時氏が平定を命じられ、朝忠を降伏させることに成功し、この年12月に丹波守護にもなっている。
 貞和元年(興国6、1345)8月の天竜寺落慶法要では時氏は華やかな鎧に身を固めた三百騎を率いて尊氏の先陣をつとめている(天竜寺供養日記、太平記)。このころ侍所頭人ともなって幕政にも参加し、幕府内での地位をますます高めていった。

―変転する情勢のなかで―

 貞和3年(正平2、1347)8月、南朝の楠木正行が河内方面で活動を開始し、幕府方の河内守護・細川顕氏を破った。足利直義は山名時氏を住吉に派遣して顕氏と共に正行軍と戦わせたが、11月26日の戦いで山名軍は大敗を喫し、時氏自らも全身に七カ所も負傷して命からがら逃走、弟の山名兼義らを戦死させるという悲運に見舞われた。この敗戦を受けて高師直が出陣、翌年正月の四条畷の戦いで楠木軍を撃破することになる。
 この時の戦いや、先の塩冶高貞の追撃など、時氏は直義派に属する武将たちと共に出陣する例が目立ち、後年直義の養子・直冬を擁することから、どちらかというと幕府内では直義派だったのではとの見方もある。しかしやがて始まる幕府の内戦「観応の擾乱」では少なくとも当初は師直=尊氏方として活動している。

 貞和5年(正平4、1349)8月12日夜、折からの直義派と師直派の対立は発火点に達し、双方の屋敷にはそれぞれの派に属する武将たちが集結した。『太平記』ではこのとき師直邸に駆けつけた武将の筆頭に山名時氏の名を挙げている。この時の師直派によるクーデターの成功で直義は失脚するが、翌観応元年(正平5、1350)11月に直義は南朝に降伏して逆襲に転じ、観応2年(正平6、1351)正月の京の攻防戦で尊氏・師直方の敗北が確定的になる。このとき時氏は初めは尊氏方の先鋒として京へ突入しているが、間もなく尊氏を見限って直義のもとに走っている。
 やがて尊氏と直義が和解(実質的には尊氏の投降)し、師直が殺されて直義派がひとまず勝利を収めた。この年4月3日に直義は尊氏の子・足利義詮の屋敷に泊まりに行ってすぐに帰って来てしまったという話が洞院公賢の日記『園太暦』に出てくるが、このとき直義が山名時氏の屋敷に滞在していたことが読み取れる。

 やがて直義と尊氏の反目は再燃し、8月1日に直義は京から越前へ逃れた。このとき直義派の武将たちもこれに付き従い、時氏も若狭を経て伯耆に戻っている。このあと直義の関東への没落、尊氏の南朝との和睦(正平の一統)、翌年2月の直義の投降と鎌倉での急死と事態は急展開して行くが、時氏は直義の没落を察したか伯耆に居座って動かなかった。この間、息子の師義(初名師氏)は京にあって義詮のために男山八幡や伊勢方面で南朝軍と戦っており、時氏もひとまず義詮につくことにしたようである。

―反幕府勢力の巨頭として―

 しかしそれも長くは続かなかった。文和元年(正平7、1352)の8月に師義が恩賞の所領問題で佐々木道誉と対立して京を飛び出し伯耆の時氏のもとに合流、間もなく時氏・師義父子は南朝側に投じて各地の旧直義派と連携を取り始める。もともと山名氏と道誉は出雲守護職をめぐって争っており、幕府から離反した時氏はさっそく出雲に兵を送って事実上ここを制圧している。

 翌文和2年(正平8、1353)6月、南朝軍の四条隆俊楠木正儀、旧直義派で南朝に投じた吉良満貞石塔頼房らが南から京に迫り、これと呼応する形で山名時氏も山陰の大軍を率いて因幡から丹波に進出、京へと迫った。このとき洞院公賢は日記『園太暦』の中で「山名軍には女の騎馬武者が多いそうだ」と不思議な噂を記している。また丹波の荻野朝忠らが師直の遺児・高師詮を立てて山名軍の進撃を阻止しようとしたがかなわず、師詮は自害に追い込まれている。
 6月9日に山名軍は南朝軍らと合流して京に突入、京を守っていた義詮は後光厳天皇を擁して近江、さらに美濃へと逃れた(南朝軍の第二回京都占領)。しかし義詮は美濃で態勢を立て直し、播磨の赤松則祐と東西から挟み撃ちして京奪回を目指した。南朝側ももともと寄り合い所帯で指揮統一を欠いた上に(太平記によれば時氏は四条隆俊が主導権をとるのを不愉快に思っていたようである)、北朝公家への強硬な態度、兵糧にも事欠いたための略奪行為などで京の世論の反発を買っていて長期占領は不可能となり、7月下旬にはそれぞれ京を捨てて撤退を余儀なくされた。

 このころ、尊氏の庶子で直義の養子である足利直冬が九州を追われて周防の大内氏を頼り、南朝から惣追捕使に任じられて石見へと進出していた。山名時氏は直冬を総大将に立てて旧直義派の結集を図り、文和3年(正平9、1354)の暮れには北陸の斯波高経・桃井直常、河内方面からの南朝勢と呼応して、丹波経由で再び京都へ進撃した。これに先立って関東から戻って来ていた尊氏は後光厳天皇を奉じていったん近江へ逃れて京を南朝軍に明け渡し、播磨に進軍していた義詮と挟撃する作戦に出た。年が明けて文和4年(正平10、1355)正月に直冬を総大将とする南朝軍は京を占領したが(南朝軍の第三回京都占領)、再突入してきた尊氏・義詮軍と京をめぐって激しい攻防を繰り広げた。とくに神南の義詮本陣への山名軍突入の模様は『太平記』が詳しく語るところで、特に時氏・師義父子が佐々木道誉の旗印を見て「もとはといえば道誉の無礼に始まったこと。他の敵には目もくれるな、あいつの首をとれ」と激しく攻め立て、師義が目を矢で射られる重傷を負うなど死闘の末に退却を余儀なくされている。
 結局この京都占領も前回同様長くは続かず、3月12日に直冬以下それぞれ京を撤退することになった。このとき直冬が本陣を置いていた東寺の門に直冬配下の武将たちをからかう落首が掲げられたが、その中に「深き海 高き山名と 頼なよ 昔もさりし 人とこそきけ(深い海、高い山と人をあてにしてはいけない。昔からそういう奴だったじゃないか」と変転を繰り返した山名時氏を皮肉るものもあったという(「太平記」)

 京都占領には失敗した時氏だったが、山陰における勢力拡大はとどまるところを知らなかった。すでに支配下に置いていた伯耆・因幡・出雲に加えて、康安元年(正平16、1361)には赤松貞範が守護をつとめる美作へ進出して完全に制圧、赤松則祐の播磨へもしきりに兵を出した。さらに丹後・丹波・石見へも手を伸ばして山陰地方全体をほぼ支配下に置いてしまった。それだけでなく貞治元年(正平17、1362)11月には直冬と合流して備後、備中など山陽方面にも進出し、この方面の幕府軍を指揮していた細川頼之とせめぎあった。こうした山名時氏の積極的な軍事行動による勢力拡大傾向は後年の戦国大名の先駆をなすものだったとも見える。

―「六分一衆」への道―

 このころには南朝勢力を圧倒し、政治的にも混乱を脱して安定政権となりつつあった足利幕府だったが、南朝方である大内氏と山名氏が押さえる中国地方と、南朝征西将軍府の懐良親王が押さえる九州については支配下におけぬままだった。九州の懐良はともかくとして大内・山名両氏はそろそろ潮時と幕府との妥協を図ろうとしており、幕府側も両氏の懐柔にとりかかった。貞治2年(正平18、1363)春にまず大内弘世が周防・長門の守護職を認めることを条件に幕府に投降した。

 そして同時期に山名時氏にも義詮から投降(実質和睦)の呼びかけが始まった。それを提案し、実際に使者を送ったのは時氏と長らく対峙していた細川頼之であったとも言われる(「山名家譜略纂補」。一色詮光を使者にしたとの異説あり)。時氏はこの年8月に自らが支配下に置いた因幡・伯耆・丹波・丹後・美作の五国の守護を認められることを条件に幕府への投降に合意した。それまで時氏が形式的に主君と仰いでいた直冬は立場を失い、備後から石見へ逃亡、その後ほとんど活動を見せなくなる(ただその後の経緯からすると山名氏が義詮に取り次いで直冬の安全を保証してやった可能性もある)
  翌貞治3年(正平19、1364)3月にまず息子の師義・氏冬時義らが上京し、8月25日に時氏自身が満を持して上京、将軍義詮に謁見した。時氏は広大な所領を認められた上に評定衆、引付頭人となって幕府内でも有数の実力者となり、このため人々は「領地を増やしたいと思ったら敵になればよいのだな」と陰口をたたいたという(「太平記」)

 貞治5年(正平21、1366)8月に佐々木道誉の策謀によりそれまで幕政を仕切っていた斯波高経・義将が失脚するが、このとき時氏自身の直接の関与は確認できないものの息子の氏冬が斯波父子打倒の実行者に名を連ねているので、長年道誉と対立してきた山名氏もこのときは道誉に同調したことが分かる。だが高経が死に義将が幕政に復帰すると、時氏は幕府内ではもっぱら斯波派に属して活動している。また、このころ60代も半ばにさしかかった時氏は出家し、「道静」と号している。

 翌貞治6年(正平22、1367)9月、斯波義将に対抗させるべく道誉が細川頼之を四国から軍を率いて上京させ、彼を管領職につけようとすると、京では山名時氏と細川頼之の間で合戦が起こるのではとの噂が広まったという(「愚管記」)。結局合戦は起こらなかったのだが、宿敵の道誉に担ぎ出された頼之に時氏が敵意を見せたことは事実なのだろう。
 この年11月に義詮は病に倒れて危篤となり、将軍職を子の義満に譲り、細川頼之を義満の親代わりの管領に任じてから世を去った。頼之と時氏の対立も将軍の代替わりという事態の前にひとまず矛を収めた形になり、翌応安元年(正平23、1368)4月の義満の元服、評定始といった一連の行事では時氏も頼之の指揮下で重要な役を務めている。頼之も管領として幕政を主導するうえで時氏の協力が不可欠であり、政策的にもかなり妥協をしたとみられる。だが細川家と山名家の対立関係はその後も根強く尾を引いていくことになる。

 応安3年(建徳元、1370)12月、すでに68歳となっていた老将・時氏はついに引退を表明し息子の師義に家督を譲った。冒頭に挙げた時氏の息子たちへの訓戒は、このころのことではなかっただろうか。時氏が一代で築いたといっていい山名一族の勢力はこの時点で但馬・隠岐も加えた七ヶ国を支配し、その後も拡大の一途をたどってついには十一カ国の守護をつとめ「六分一衆」(全国66カ国の6分の1を占めるため)などと呼ばれることになるのだが、老いた時氏には息子や孫たちの世代の増長が不安だったのかもしれない。
 翌応安4年(建徳2、1371)2月28日(18日説、3月28日説あり)、山名時氏は69歳で死去した(1299年生まれの73歳説もある)。丹波で荼毘に付されて伯耆の光孝寺に葬られ、「光孝寺殿」と呼ばれた。現在、島根県倉吉市の「山名寺」に時氏の墓といわれるものが残っている。

 公家の三条公忠は日記『後愚昧記』のなかで時氏の死について、「無道の勇士、命もって終わる。結句また短命に非ず、大幸の者なり(さんざん悪事を働いた勇将もついにこの世を去った。結局短命に終わらず長寿を保てたとは非常に幸運な男である)」と、かなり辛辣な評を加えている。上級貴族の彼からすれば「下剋上」を絵に描いたような成りあがり者の時氏など「無道の勇士」でしかなかったのだろうが、時氏が聞けばそれはむしろ誉め言葉と受け取ったかもしれない。
 時氏の晩年の不安は的中し、勢力を拡大しすぎた山名一族は足利義満の分断工作と挑発にかかって「明徳の乱」を起こし、その勢力を大きく減退させた。しかし後に山名宗全によって勢力を取り戻し、戦国時代まで生き抜くのである。貞治3年(正平19、1364)3月

参考文献
久保田順一「新田一族の盛衰」(あかぎ出版)
山本隆司「新田義貞」(ミネルヴァ日本評伝選)
佐藤進一「南北朝の動乱」(中公文庫)
高柳光寿「足利尊氏」(春秋社)
岡見正雄校注「太平記」解説(角川文庫)
小川信「細川頼之」(吉川弘文館人物叢書)
小川信監修「南北朝史100話」(立風書房)ほか
大河ドラマ「太平記」ドラマ中には登場しないが、第44回の高師直によるクーデターの場面で師直邸に駆けつけた武将の筆頭として、その名がナレーションで語られている。古典「太平記」の記述を引き移したためと見られる。
PCエンジンCD版因幡但馬の北朝系独立勢力の君主として登場。初登場時の能力は統率78・戦闘83・忠誠54・婆沙羅63。戦闘力がかなり高い。
PCエンジンHu版シナリオ2「南北朝の動乱」で幕府方武将として丹後・亀岡城に登場。能力は「長刀4」でかなり強め。
SSボードゲーム版武家方の「武将」クラス、勢力地域は「山陰」。合戦能力2・采配能力6。ユニット裏は息子の山名師義。

山名時熙
やまな・ときひろ1367(貞治6/正平22)-1435(永享7)
親族父:山名時義
兄弟:山名氏之(義弟)・山名義時
妻:山名氏清の娘 子:山名満時・山名持熙・山名持豊(宗全)
官職右衛門佐・右衛門督・宮内少輔
幕府
但馬・備後・安芸・伊賀守護、相伴衆、侍所頭人
生 涯
―義持・義教時代の宿老―

 山名一族の惣領・山名時義の長男。康応元年(元中6、1389)3月に将軍・足利義満が諸大名を引き連れて厳島参詣を実施したが、このとき時義は病の床にあったため代理として時熙が備後で義満一行に合流している。それから間もない5月9日に時義は但馬で死去、時熙は但馬守護職と山名惣領の地位を継ぐこととなった。
 しかし時義が山名惣領を継いだ時点で、その兄で実力随一の山名氏清や、もともと惣領であった師義の子・満幸などが不満を抱いていた。時義の死によりこの対立が再浮上し、この山名一族の内紛が、山名一族の勢力削減を狙う義満に利用されることとなる。

 明徳元年(元中7、1390)3月に義満は突然「生前の時義に専横のふるまいが多かった」とし、その子である時熙・氏之の悪行も挙げてその討伐を氏清・満幸に命じた。時熙のいる但馬へは氏清の軍が、氏之のいる伯耆には満幸の軍が侵攻し、時熙・氏之は逃亡した。但馬・伯耆の守護職はそのまま氏清・満幸に与えられたが、時熙らは出家(「常熙」と号した)したうえで翌年8月までにひそかに京に入って清水付近に潜伏、義満に対して「自分たちに野心はありません。一族の者たちの讒言に陥れられたのです」と弁明の書状を送り、、10月に氏清の主催で義満を迎えて行う宇治での紅葉狩りで義満が直々に彼らを赦免するというところまで話が進んだ。氏清・満幸はこれを義満の背信、山名一族つぶしの策謀だと怒って紅葉狩り参加をとりやめ、11月に義満は正式に時熙らを赦免する一方で満幸を京から追放した。
 
 12月になって氏清は和泉で、満幸は丹後で挙兵し、「明徳の乱」が勃発する。山名一族のうち紀伊守護の山名義理、因幡守護の山名氏家ら多くが氏清らに呼応したが、時熙・氏之兄弟はわずかな手勢ながら義満側に馳せ参じた。12月30日の内野の戦いでは時熙は「この乱の原因は我らにあると言われてしまっては、討ち死にするよりほかない。つまらぬ敵に当たるより伯父の奥州(氏清)と戦って死んでやろう」と五十騎ばかりを率いて氏清の軍へと突入した。氏清も時熙に気付いて「討ち取れ」と命じ、時熙は奮戦するも次々と味方を失って危うく討たれるところだったが、家臣の垣谷弾正滑良兵庫の二人が命を捨てて時熙を逃がし、時熙は大内義弘の軍に飛び込んで九死に一生を得た(「明徳記」)
 この戦いは氏清の戦死、満幸の逃亡で終わり、論功行賞で時熙は但馬守護と山名惣領の地位を取り返す。しかし一族で11か国の守護となり「六分一衆」とまで呼ばれた山名一族も但馬・伯耆・因幡の三カ国に抑え込まれてしまう。

 応永6年(1399)に大内義弘が和泉で挙兵し「応永の乱」となったが、このとき氏清の子・宮田時清山名満氏が丹波で挙兵した。時熙は義満の命を受けて彼らの討伐のため丹波に出陣し、すばやくこれを平定した。このとき時清・満氏兄弟を討ち取ったとする資料もあるが、実際には討ち取りはしなかったようで満氏は後に時熙のもとで安芸守護代をつとめたとみられている。また時熙の軍は義弘のこもる和泉・堺城の攻撃にも参加し、城の北側から攻めて大内方の杉備中守を討ち取る戦果を挙げている(「応永記」)。これらの功績により守護国に備後・安芸を加えられ、幕府への抵抗を続ける大内盛見に圧力を与える役割をつとめた。

 義満の死後、四代将軍足利義持の時代には幕府の重鎮としての地位を固め、山名氏は一色・京極・赤松と並ぶ「四職」の一角を占めるようになった。応永34年(1427)に赤松満祐が義持に恨みを抱いて京の自邸を焼いて勝手に帰国する事件が起こり、義持の命を受けて赤松討伐に出陣したこともある。応永35年(1428)正月に義持が死去し、その後継者を「くじ引き」で決定した際には時熙が候補者の名を書いた紙に封をする役を務めている。
 そのくじ引きで将軍惟選ばれた足利義教時代にも幕府宿老として重きをなしたが、永享6年(1434)6月に遣明使の輸出品である硫黄を横領した疑いをかけられて失脚に追い込まれた。その情報をリークして時熙を引退に追い込んだのは他らならぬ彼の息子、山名持豊(のちの宗全)であった。
 失脚から一年後の永享7年(1435)7月4日に69歳で死去。但馬の大明寺に葬られ、同寺には父・時義ともども木像が残されている。

参考文献
桜井英治『室町人の精神』(講談社学術文庫「日本の歴史」12)ほか

山名時義
やまな・ときよし1356(貞和2/正平元)-1389(康応元/元中6)
親族父:山名時氏
兄弟:山名師義・山名義理・山名氏冬・山名氏清・山名義数・山名義継・山名氏重・山名高義・山名義治・山名氏頼
子:山名時熙・山名氏之(養子)
官職弾正少弼・伊予守
幕府
但馬・備後・美作・伯耆守護、侍所頭人、小侍所別当
生 涯
―「六分一衆」の全盛期を築く―

 山名時氏の五男。父の時氏が足利直冬を奉じて南朝方についていた時期にその領土拡張戦に参加、『山名家譜』では正平16年(康安元、1361)に美作方面の戦いで16歳で初陣したと伝えている。貞治3年(正平19、1364)3月には幕府に投降を表明した父に先立って兄弟の師義氏冬らと共に上京し将軍・足利義詮に謁見している。応安4年(建徳2、1371)2月に時氏が死去するが、それに先立って守護国のうち伯耆国を相続している。幕府では永和元年(天授元、1375)に侍所頭人・小侍所別当を務めた。

 永和2年(天授2、1376)3月に兄で惣領を継承していた山名師義が死去した。本来ならその嫡男である山名義幸が惣領を継承すべきであったが、義幸は病弱のため辞退し、結局時義が惣領の地位を継ぐこととなった。生母の格の問題があったのだろうが、兄の氏清や義幸の弟の満幸は不満を抱いたとされる。このことが後年の山名一族の内紛、ひいては「明徳の乱」の遠因となった。
 なお、この年の7月19日に時義の家臣が「芋洗橋」(京都南部、巨椋池にあった)で地下人らと戦って8名が死亡、怒った時義が翌日に兵を繰り出そうとして将軍足利義満に止められるという事件が起きている(「後愚昧記」)

 当時の幕府は管領・細川頼之が義満の父代わりとして政権を担っていたが、山名氏はもともと中国地方で細川氏と争っていた経緯もあり斯波義将ら反細川派に与していた。細川氏が和泉・紀伊の南朝方の平定に失敗した直後の永和4年(天授4、1378)末に時義・氏清・義理ら山名一族が出陣を命じられ、橋本正督ら南朝勢を平定して氏清が和泉、義理が紀伊の守護となって頼之の面目を失わせた。その直後の康暦元年(天授5、1379)閏4月の「康暦の政変」で頼之が失脚すると、時義は頼之の盟友・今川了俊から備後守護を奪い取り、氏清が山城守護となったことで山名一族の守護国は11か国に及び、全国の6分の1を占めて「六分一衆」「六分一殿」という異名を奉られることとなった。
 失脚した頼之に対して幕府は討伐令を発し、時義も備後から四国の頼之を攻めようとしたものの、頼之の四国における支配は強固で時義の軍は渡海することさえできなかった。永徳元年(弘和元、1381)に頼之の弟で養子の細川頼元が赦免されて上洛した際には時義は斯波義将に同調して一戦も辞さぬ態度を見せたが義満に説得され表面的には和解している。至徳元年(元中元、1384)には再び侍所頭人に任じられた。

 その後病を得て守護国の但馬に戻ったらしく、康応元年(元中6、1389)3月に義満が諸大名を引き連れて厳島参詣を挙行した際には時義は病のため参加できず、代理に息子の時熙を備後から参加させている。それから間もない5月4日に時義は但馬の地で44歳で死去した。自身が創建した但馬竹野(現・兵庫県豊岡市)の円通寺に葬られた。
 時義の死去により息子の時熙が惣領を引き継いだが、これが山名一族の内紛に火をつけた。義満はそれを利用して「時義は生前に専横のふるまいがあった」として時熙らを討伐、それをきっかけに「明徳の乱」が起こることとなる。

参考文献
ウェブサイト「山名氏史料館『山名蔵』」ほか

山名満氏やまな・みつうじ生没年不詳
親族父:山名氏清 母:藤原保脩の娘
兄弟:宮田時清・山名氏利・山名氏義(義弟)
官職
民部少輔
幕府
安芸守護
生 涯
―二度の反乱でも許され守護代に?―

 「明徳の乱」で敗死した山名氏清の次男。『明徳記』では「七郎満氏」として登場。氏清の長男・宮田時清とは同母兄弟である。義弟の山名氏義から「北殿」と呼ばれる描写があり、『山名系図』にも「北七郎」という注がある。「北」という土地に所領をもったためとみられるがどこなのかは未確認(丹波国桑田郡北荘?)
 「明徳の乱」では父・兄に従って参戦したが敗北、父の命により戦線離脱をして丹波に逃れ、さらに有馬温泉の奥へと逃げて出家した。尼崎から海路で紀伊に渡り伯父の山名義理を頼ったが「目の前で父が討たれるのを見捨てて逃げてくるような不覚者を親類といえど受け入れるわけにはいかん」と面会もせず拒絶したため、やむなく熊野へと逃れた。その後母親(『山名系図』によると藤原保脩の娘)が自害を図って死にかけていると聞いて兄の時清と共に根来に母を訪ねに行ったが、母からも会うことを拒絶されてしまう。その後消息が知れなくなるが、おそらく丹波に潜伏していたのであろう。

 応永6年(1399)に大内義弘「応永の乱」を起こすと、兄・時清と共に呼応して挙兵、丹波から京へ攻め込んで足利義満の陣営までうかがったが敗北する。義満は山名時熙に時清・満氏の討伐を命じ、『山名家譜』では満氏は山名氏之に討ち取られ、時清も戦死したとされている。しかしこの兄弟が本当にこのとき討ち取られたかは史料的に疑念もあり、実際この兄弟がその後も生きていたととれる史料もある。

 応永11年(1404)に安芸国守護・山名時熙の守護代として「山名民部少輔満氏」なる人物が活動している(「福原文書」)。このころ安芸では義弘の弟・大内盛見に味方する安芸国人らが「一揆」を組み、守護・山名氏の支配に激しく抵抗しており、満氏は彼らの平定に手を焼いている。結局応永13年(1406)6月に時熙は国人一揆の要求に応じて満氏を守護代から解任、召喚させることで彼らの懐柔に成功した。『山名系図』にも満氏は「民部少輔」とされており、この「満氏」が氏清の子の満氏と同一人物である可能性は高い。同じく氏清の子である山名氏利が同時期に石見守護をつとめていることとも合わせて満氏は二度反乱に参加しながらも赦免を受けていたのかもしれない。

山名満幸やまな・みつゆき?-1395(応永2)
親族:山名師義
兄弟:山名義幸・山名義熙・山名氏之  妻:山名氏清の娘
官職
播磨守・弾正小弼
幕府
出雲・丹後・伯耆・隠岐守護
生 涯
―明徳の乱を引き起こす―

 山名師義(師氏)の四男。山名一族の惣領であった師義は永和2年(天授2、1376)3月に死去し、その長男である山名義幸は病弱を理由に惣領を引き継ぐことを辞退し、師義の弟である山名時義が惣領となった。
義幸の弟である満幸は病気の兄の守護代をつとめて事実上師義の後継者としてふるまっており、自分こそが本家筋と自認して時義の惣領継承に不満を抱いたとされる。また満幸は叔父で勇将として知られた山名氏清の娘を妻に迎えており、そのことも彼の自身と野心につながったと思われる。また満幸は幼少時から在京して足利義満に近習としてそばに仕えており(「明徳記」)、義満の一字「満」を賜っていることも彼の自負の根拠となっていたらしい。
 至徳3年(元中3、1386)までに義幸は引退し、その守護国である丹後・出雲・隠岐は満幸が継承した。康応元年(元中6、1389)3月の義満の厳島参詣にも同行、すでに死の床にあったために参加できなかった時義と対照をなした。5月に時義が死去してその子・時熙が惣領の地位を継ぐと満幸の不満はいっそう高まり、おそらくこの頃から義満の耳に時熙についての讒言をしきりにささやき、討伐をうながしたとみられる。だが義満は利用されるふりをして満幸を利用しようと考えていた。

 明徳元年(元中7、1390)3月、義満は「時義は生前に専横のふるまいがあった」としてその子・時熙・氏之(満幸の実兄で時義の養子になった)の討伐を命じた。討伐を命じられたのは満幸と氏清で、満幸は氏之の守護国・伯耆へ攻め込み、氏之を追い出して伯耆守護職を奪い取った。これによって満幸は四か国の守護となり、山名一族の事実上の惣領の地位を獲得したかに見えた。
 しかし翌明徳2年(元中8、1391)10月、時熙と氏之は京都の清水付近に潜伏して義満に赦免を求め、義満はそれを受け入れる姿勢を見せた。これを聞き知った満幸は10月10日の夜半に、義満を迎えての紅葉狩りのため宇治に向かっていた氏清のもとへ駆けつけ、「明日の宇治行きはよくよくお考えを。時熙と氏之が上洛していて、将軍はそれを許すことに決めていて、明日それを宇治でじきじきにお話になるとか。病気にかこつけて欠席なさい」と忠告した。氏清もこれを義満の背信と怒り、満幸の言うとおりに病気と称して紅葉狩りを欠席、これが義満の不興を買うこととなった。

 直後の11月、満幸の守護国の出雲で、後円融上皇の所領である横田荘が満幸配下によって横領されるという事件が発覚する。義満はこれに激怒して満幸から出雲守護職を剥奪、「在京しても用いるところなし」として京から追放、丹後へ下るよう命じ、入れ替わりに時熙・氏之の赦免を発表する。満幸はただちに和泉・堺に氏清を訪ね、「近頃の将軍のやり方をどうお考えか。とにかくこれを機に我が一族を滅ぼそうというお考えなのです。我ら一族が結束して諸国の兵を集めれば在京の大名で敵対できる者はなく、まず都を攻め落としてしまえばみな付き従いましょう。土岐や小山、南朝などは大喜びで味方につきます。ご謀反というのが聞こえが悪ければ、武州禅門(頼之)への恨みということで合戦をすればよろしい」と挙兵をうながした。氏清も挙兵に同意し、満幸は丹後に帰って12月を期してそれぞれ挙兵して同時に京へ攻め寄せるという計画が定まった。

 12月17日に満幸は丹後国内の寺社本所領の代官らを追放、丹後・出雲・伯耆の兵を集めて丹波路から京へと押し寄せ、京の西・峰の堂に陣した。同時に氏清も和泉で挙兵し、一族の山名義理山名氏家も参加して京の南・男山八幡に陣した。その勢いに幕府側では和睦案も出たとされるが義満は断固として鎮圧するとの意思を示し、12月30日に内野(古代の大内裏跡の空き地)で決戦が行われることとなる。
 12月30日にまず氏清軍の先発部隊が二条大宮に押し寄せて合戦が始まった。満幸軍はこれと同時に京へ攻め込むべく前夜のうちから公道を開始していたが、闇夜の山中を不案内のまま進んだため大将の満幸が道に迷って行方不明になるという珍事が発生、大将を見失って満幸軍が動けぬうちに小林義繁山名高義ら先発隊の将は二人とも戦死してしまった。満幸はようやく内野へ突入して義満方諸大名の軍と激闘したが敗北、丹波路へと逃亡して桂川付近であやうく討たれかけながら家臣たちが命を捨てて彼を逃がした。しかし満幸は彼らのことを一度も振り向きもせず一目散に逃げたとされ、『明徳記』では「見苦しい」と非難されている。
 
 満幸は丹後へ逃れてここで幕府軍を迎え撃とうとしたが、国人らがまったく味方につかなかったためさらに伯耆へと逃れた。出雲では守護代の塩冶駿河守(満清?)が攻め滅ぼされ、伯耆も保てなくなった満幸は因幡国青屋荘へと逃れた。因幡守護は従兄弟の山名氏家であったが氏家はさっさと義満に投降して上京しようとしており、怒った満幸はその途上を襲撃しようとも考えたが結局実行できず、満幸は2月18日に青屋荘で出家し、五人ばかりを引き連れていずこへともなく逃亡していった。
 その後明徳4年(1393)に出雲・伯耆で再起を図ったが味方が集まらずまた逃亡、各地を放浪して応永2年(1395)までにひそかに京へ舞い戻った。五条高倉の粗末な小屋に宿をとっているうちに所在が幕府に知られ、3月10日に侍所頭人の佐々木(京極)高詮が宿を襲撃、満幸は討ち取られてしまった(「明徳記」は応永元年ごろとするが「荒暦」に応永2年とある)。その首を見た義満は「内野の合戦の時に氏清と一緒に戦死していればまだいくらか評判を残せたろうに、逃亡の果てにまた京に来て討たれることになるとは、まさに天罰というものだな」と言ったという。
漫画作品では
学習漫画などで「明徳の乱」が描かれると登場していることが多い(氏清ほどではないが)。はっきりと出てくる例として石ノ森章太郎「萬画日本の歴史」など。

山名師義やまな・もろよし1328(嘉暦3)-1376(永和3/天授3)
親族父:山名時氏
兄弟:山名義理・山名氏冬・山名氏清・山名時義・山名義数・山名義継・山名氏重・山名高義・山名義治・山名氏頼
子:山名義幸・山名義熙・山名氏之・山名満幸
官職
左馬権頭・右衛門佐
幕府
丹後・但馬守護
生 涯
―片目を射られながら奮戦―

 山名時氏の長男で、はじめ「師氏」と名乗っていた。父の時氏は足利尊氏に挙兵以来従っており、『山名家譜』では建武の乱の時期から師氏(師義)も足利軍に参加したように書いているがさすがに年齢的に無理がある。暦応4年(興国2、1341)3月に塩冶高貞が京を出奔、その追手に時氏・師氏父子が送られて高貞を自害に追い込んだとする『太平記』の記述が師義の最初の圧胴とみるべきであろう。
 文和元年(正平7、1352)閏2月に南朝軍が足利尊氏直義兄弟の紛争の隙を突いて京都を占領した。このとき山名師氏は出雲・因幡・伯耆の軍勢を率いて京に駆けつけ、足利義詮を助けて南朝軍のこもる男山八幡への攻撃に参加している(「太平記」)
 この戦功により師義は若狭国税所の今富荘を恩賞として与えると約束されていた。その引き渡しを求めて師氏は幕府の実力者・佐々木道誉のもとをしばしば訪ねたが、道誉は「今日は連歌会」「今日は茶会」と称して会おうともしなかった。師氏はこの扱いにとうとう激怒し、8月26日の夜に無断で伯耆に帰って父の時氏に話すと、時氏も立腹して父子そろって南朝方につき幕府に反旗をひるがえすことを決めた。以上は『太平記』が記す経緯であるが実際には山名氏と道誉は山陰地方の守護国をめぐって争いを起こしており、道誉の扱いもそれを意図したものであったろうし、山名側もむしろこれを機として領土拡大を図る狙いがあったと思われる。


 山名父子は出雲の道誉家臣の守護代を追い出し、出雲・隠岐・伯耆・因幡の山陰四国を手中に収めて南朝に投降を申し入れた。そして翌正平8年(文和2、1353)5月7日に山陰勢を率いて伯耆を出発、6月9日に南朝軍と示し合わせて京へ突入し義詮を追い出した(南朝の第二回京都占領)。『太平記』では師氏がこのとき戦場で奮戦する様子が描かれ、京の占領で恨みを晴らしたと記しているが、この占領は一か月しか続かず山名勢は伯耆へと帰った。
 正平9年(文和3、1354)12月に山名父子は今度は足利直冬を大将に奉じ、旧直義党や南朝軍と合流して再び京へ攻め寄せた。年明け正月に京をまた占領したが足利尊氏・義詮が再奪回を狙い、2月6日の神内の戦いでは山名勢が義詮の陣営へ突撃して激闘となった。師氏はこの戦いで赤松朝範に兜を切りつけられ、撤退時の奮戦中に矢で「左の眼を小耳の根まで」射ぬかれて気を失いかけ、さらに矢の雨を浴びて馬も失っため自害をしようとしたが家臣の河村弾正が駆けつけて自分の馬に師氏を乗せてやり、仲間の福間三郎にその馬を引いて戦線離脱させると、自らはその場で斬り死にした。師氏は流れる血で周囲が見えぬまま「敵の方へ向かえ。河村と一緒に死ぬのだ」と命じたが福間は「こちらが敵の方です」と言って味方の陣まで師氏を運び込んだ。
 師氏はこの戦いで死んだ者の名を全員書き記し、それを因幡の岩常谷の道場へ持って行かせて菩提を弔った。そして自らの身代わりで死んだ河村の首を敵から請い受けて涙にくれ、愛用の馬と太刀を聖に与えて河村の菩提を弔わせたという(「太平記」巻32)

 その後も師氏は父・時氏のもとで領土拡張戦に奔走し、美作・備前・備中・但馬など各地を転戦している。しかし貞治2年(正平18、1363)に時氏は実力で得た諸国をそのまま認めることを条件に幕府への投降を決め、翌
貞治3年(正平19、1364)3月に師氏・時義・氏冬ら時氏の息子たちが先に上京して将軍義詮に謁見した(この前後に師義に改名するか)
 応安4年(建徳2、1371)2月に時氏が死去し、師義は山名惣領の地位と共に丹後・但馬守護を継承した。その5年後の永和2年(天授2、1376)3月11日に49歳で死去。その年の閏7月5日には彼の妻も後を追うように死去している。
SSボードゲーム版
父・時氏のユニット裏で、中立の「武将」クラス、勢力地域は山陰。能力は合戦能力1・采配能力6

山名義理やまな・よしただ(よしまさ?)1337(建武4/延元2)-?
親族父:山名時氏
兄弟:山名師義・山名氏冬・山名氏清・山名時義・山名義数・山名義継・山名氏重・山名高義・山名義治・山名氏頼
子:山名義清・山名氏親・山名時理
官職
修理大夫・弾正小弼
幕府
美作・紀伊守護
生 涯
―明徳の乱で消息不明に―

 山名時氏の次男。父・時氏が実力で切り従え幕府に認めさせた守護国のうち美作守護を継承した。応安3年(建徳元、1370)には幕府の内談衆となっている。永和2年(天授2、1376)3月に惣領で兄の山名師義が死去し、弟の山名時義が惣領を引き継いだが、義理が惣領になれなかったのは恐らく生母の格の問題があったのだろう。その代わり義理は一族の長老格として敬われてはいたようである。
 永和4年(天授4、1378)末に一度は幕府に帰順した和泉の橋本正督が南朝に舞い戻って活動し始めた。将軍・足利義満は山名一族にその平定を命じ、とくに義理・氏清兄弟がめざましい戦果を挙げたため、12月に義理には紀伊、氏清には和泉の守護職が与えられた。

 康応元年(元中6、1389)5月に惣領の時義が死去すると、山名一族は惣領の座をめぐって内紛を起こす。これを義満が利用して氏清・満幸らの「明徳の乱」が起こることとなるが、義理はあくまで長老格としてこの紛争には首を突っ込まないでいた。しかし明徳2年(元中8、1391)12月に挙兵を決意した氏清が紀伊に義理を訪ねて共に戦ってくれと求めてきた。義理は「千に一つも勝ち目はない。命を懸けるまでの恨みか。お前たちがそんなことをしでかしては我らまで反乱に与したとして滅ぼされてしまう。思いとどまれ」と氏清を諭したが、氏清から見捨てるのかと懇願されてついに参戦に同意した。
 『明徳記』によれば義理は一族の「親方」であり、「穏便の仁」として知られていたため、義満は義理に自筆の書状を送って翻意を促している。しかし義理は「もはや氏清・満幸の動きは止めようもない。一族が反乱を起こして私一人が将軍のもとへ参じても面目を失うだけでしょう」と返事をしたためてやんわりと断っている。しかし義理自身にもあまり戦意はなかったようで、紀伊勢を率いて上京を目指すも到着しないうちに12月30日に内野の戦いが行われて山名軍は敗北、氏清は戦死、満幸は逃走した。

 その後、逃亡していた氏清の子・宮田時清山名満氏が紀伊の義理を頼って来たが、義理は「目の前で父を討たれて逃げてくるような不覚者を受け入れることはできぬ」と拒絶した。義理は一戦もせずに紀伊に引き上げて義満に赦免を願い出ており、氏清の息子たちを受け入れるわけにもいかなかったのだろう。しかし義満は自らの説得の書状も拒絶した義理を「氏清と同罪」と許さず、義理の守護国の紀伊を大内義弘に、美作を赤松義則に与えてそれぞれの国の平定を命じた。このため義理についていた武士たちは逃げ散ってしまい、義理はやむなく海賊の梶原の船に一族郎党で便乗して海上に逃れたが、海賊たちの態度が怪しくなったため紀伊・由良湊に上陸、2月28日にこの地の興国寺で一族ともども出家した。『明徳記』がこのとき義理の年齢を「五十六歳」と明記しているため彼の生年が判明している。
 その後の義理の消息は不明。息子の義清の子・教清は「嘉吉の乱」の際に同族の山名持豊(宗全)らと赤松討伐に活躍、祖父の持っていた美作守護職を奪回している。

山名義幸やまな・よしゆき生没年不詳
親族父:山名師義
兄弟:山名義熙・山名氏之・山名満幸
子:山名師幸
官職
民部少輔・隠岐守
幕府
丹後・出雲・隠岐守護
生 涯
―病弱のため惣領を辞退―

 山名一族の惣領であった山名師義の嫡男。父の死の前年の永和元年(天授元、1375)7月には丹後守護としての活動が確認できるので、師義が病となり守護を譲られたとみられる。翌永和2年(天授2、1376)3月に師義が死去すると、本来なら義幸が山名惣領を引き継ぐはずであったが病弱を理由に辞退、惣領の地位は叔父の山名時義が引き継いだ。このことが後年の「明徳の乱」の遠因となる。義幸が病弱であったことは『明徳記』にも見え、弟の満幸が守護代となって実質的な守護の職務を代行していたとされる。
 康暦元年(天授5、1379)に「康暦の政変」が起こって細川頼之が失脚して四国に下ると、頼之討伐の命が山名一族に下って、義幸も時義に従って備後まで出陣している。しかし頼之の四国支配は強固で山名軍は海を渡れず、やがて頼之が赦免されたため引き上げている。
 至徳3年(元中3、1386)までに義幸は引退し、守護国は弟の満幸に引き継がれた。義幸は伯耆国日野郡に隠居し、その子孫は日野氏を名乗るようになったとされる。

山本時綱やまもとときつな生没年不詳
生 涯
―正中の変で軍功―

 古典「太平記」では「山本九郎時綱」。詳細は全く不明だが、恐らく「正中の変」時点での六波羅探題常葉範貞の被官(家臣)ではなかったかと推測される。
 元亨4年(1324)9月、後醍醐天皇とその側近らによって進められていた倒幕挙兵計画が発覚、六波羅探題は悪党討伐のためとして兵を集め、19日早朝に兵を動かして計画に参加していた土岐頼兼多治見国長の京屋敷を急襲した。「太平記」によると三条堀川の土岐頼の屋敷を襲撃したのが山本時綱だった。時綱は大軍で押し寄せては逃げられることもありうると考えて軍勢を三条河原に待機させ、中間二人だけを連れて自ら土岐邸に侵入、起床したばかりで整髪をしていた頼兼をいきなり襲った。時綱は頼兼と切り結んで庭に誘い出したが、そこへ軍勢も駆けつけてきたため、頼兼は部屋に逃げ込んで切腹。時綱は頼兼の首を刀の先に貫いて六波羅に帰還したという(以上、「太平記」による。ただし「太平記」では「土岐頼貞」となっている)
 ただし花園上皇の日記によるといきなりの襲撃ではなく事前に何度か出頭を求めたが、やがて土岐側から矢を射かけてきたため攻撃にかかったとされている。
大河ドラマ「太平記」第4回の正中の変の部分で登場(演:下坂泰雄)。土岐頼兼邸襲撃シーンは古典「太平記」の描写をほぼそのまま再現している。セリフは「謀反人、土岐頼兼!鎌倉殿の御命で参った!」のみ。


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