山名時氏
| やまな・ときうじ | 1303(嘉元元)-1371(応安4/建徳2) |
親族 | 父:山名政氏 母:上杉重房の娘 兄弟:山名兼義
子:山名師義・山名義理・山名氏冬・山名氏清・山名時義・山名義数・山名義継・山名氏重・山名高義・山名義治・山名氏頼 |
官職 | 伊豆守、弾正少弼、左京大夫 |
位階 | 従五位下 |
幕府 | 侍所頭人、引付頭人、評定衆、伯耆・因幡・丹波・出雲・丹後・美作守護 |
生 涯 |
新田系とされる山名一族の出身ながら足利氏について幕府建設に功を挙げ、さらにその後の複雑な南北朝動乱を巧みに遊泳して山陰に領土を拡大、室町時代の名門・山名家の基礎を築いた、南北朝きっての「国盗り梟雄」である。
―「民百姓」同然の暮らしから大出世?―
山名氏は新田義重の子・義範が上野の山名郷に入ったことに起源を持つが、義範は実は養子で足利義清の子であったともいう。そのせいか源頼朝の挙兵の際に義範は腰の重い父を置いて真っ先に駆けつけ、足利氏ともども頼朝に重んぜられ、鎌倉時代を通じて新田氏とは独立した御家人扱いであった。山名政氏は上杉重房の娘をめとって時氏を生んでいるが、重房の娘には足利家時の母もおり、足利尊氏の母・清子も上杉重房の孫娘である。つまり山名時氏は尊氏の生母の「いとこ」にあたり、上杉氏同様に「準足利一門」の扱いを受けていたと想像される。
だが今川了俊の回想録『難太平記』にはこんな逸話が載る。晩年の山名時氏が自身の生涯をふりかえって「わしは建武以来足利家のおかげで人並みとなったが、元弘以前は民百姓のようにして上野の山名というところから出て来たもので、世渡りの悲しさや自分の身の程というものを良く知っている。また戦いの苦しさというものも知っている。(中略)それに比べて息子たちの代になったら主君の恩も親の恩も忘れて自分の栄達ばかりを思っておごりたかぶり、将軍から敵視されるようになるだろう」と息子たちに語った、というものだ。了俊は「はたしてその通りになった。この人は文字もろくに読めなかったが(一文字不通)良いことを言ったものである」と記しており、時氏が文字も読めない庶民並みの暮らしをしていた苦労人だったと述べている。これは山名時氏という人物を同時代人が語っているためよく引き合いに出されるが、れっきとした御家人であり足利氏とも近かった山名家の実態がそんなものだったとは思えないとの異論もあり、了俊は意図的に山名家をおとしめているのではないかとの意見もある。だがこのくだりの了俊の趣旨は時氏を模範として自らも子孫に戒めておくというものであって特におとしめる理由はなく、時氏が相当な苦労人であったこと自体は事実なのではないかと思われる。鎌倉末期の御家人の実態を考える上でも検証が必要な証言である。
元弘3年(正慶2、1333)に楠木正成がこもる千早城を攻略する幕府軍の中に新田一族らと共に「山名伊豆入道跡(山名義範の子孫)」の名がみえ(「楠木合戦注文」)、これが山名時氏か政氏であると見られる。鎌倉幕府滅亡時、時氏は父・政氏と行動を共にしていたとされるが、足利尊氏に従って六波羅攻略に参加したとする説と、新田義貞に従って鎌倉攻略に参加したとする説とがあり、はっきりしていない。いずれにしても建武政権成立以後は足利尊氏につき従っていたことは確実である。
建武2年(1335)秋、足利尊氏は中先代の乱を平定するために関東へ下り、そのまま鎌倉に居座って建武政権から離反、新田義貞を主力とする征討軍の攻撃を受けた。このとき山名時氏も足利軍に加わっており、12月11日に行われた足利対新田の竹ノ下の戦いでは足利軍にあって「日の大将(その日の指揮官)」を務めていたことが野本鶴寿丸の軍忠状から判明している。この時点ですでに時氏が足利軍の中で重要な地位を占めていたことがうかがえ、年が明けて建武3年(延元元、1336)正月3日の近江・伊幾寿宮の戦いでも時氏が仁木頼章と共に味方の武士の軍功を確認している。
その後の尊氏の九州への敗走、多々良浜の戦いから東上しての湊川の戦い、京都の再占領と一連の戦いに時氏も尊氏の部将の一人として参加していたとみられる。6月30日の京市内での新田勢との攻防戦で平子重嗣という武士が「大将軍」山名時氏の指揮下で戦い、その軍功を時氏に承認された軍忠状も残されている。
足利幕府が樹立されると、時氏はその功績を認められ、伯耆国の守護に任じられている(建武4年には確認できる。同時期に因幡守護説もある)。暦応4年(興国2、1341)3月に出雲守護の塩冶高貞が無断で京を離れる事件(「太平記」で高師直に陥れられたとする有名なもの)が起こると、時氏は桃井直常と共にその追撃を足利直義から命じられ、播磨国影山で高貞を自害に追いこんだ。さらに康永2年(興国4、1343)3月に丹波で荻野朝忠の反乱が起こると、平定に失敗した丹波守護・仁木頼章に代わって時氏が平定を命じられ、朝忠を降伏させることに成功し、この年12月に丹波守護にもなっている。
貞和元年(興国6、1345)8月の天竜寺落慶法要では時氏は華やかな鎧に身を固めた三百騎を率いて尊氏の先陣をつとめている(天竜寺供養日記、太平記)。このころ侍所頭人ともなって幕政にも参加し、幕府内での地位をますます高めていった。
―変転する情勢のなかで―
貞和3年(正平2、1347)8月、南朝の楠木正行が河内方面で活動を開始し、幕府方の河内守護・細川顕氏を破った。足利直義は山名時氏を住吉に派遣して顕氏と共に正行軍と戦わせたが、11月26日の戦いで山名軍は大敗を喫し、時氏自らも全身に七カ所も負傷して命からがら逃走、弟の山名兼義らを戦死させるという悲運に見舞われた。この敗戦を受けて高師直が出陣、翌年正月の四条畷の戦いで楠木軍を撃破することになる。
この時の戦いや、先の塩冶高貞の追撃など、時氏は直義派に属する武将たちと共に出陣する例が目立ち、後年直義の養子・直冬を擁することから、どちらかというと幕府内では直義派だったのではとの見方もある。しかしやがて始まる幕府の内戦「観応の擾乱」では少なくとも当初は師直=尊氏方として活動している。
貞和5年(正平4、1349)8月12日夜、折からの直義派と師直派の対立は発火点に達し、双方の屋敷にはそれぞれの派に属する武将たちが集結した。『太平記』ではこのとき師直邸に駆けつけた武将の筆頭に山名時氏の名を挙げている。この時の師直派によるクーデターの成功で直義は失脚するが、翌観応元年(正平5、1350)11月に直義は南朝に降伏して逆襲に転じ、観応2年(正平6、1351)正月の京の攻防戦で尊氏・師直方の敗北が確定的になる。このとき時氏は初めは尊氏方の先鋒として京へ突入しているが、間もなく尊氏を見限って直義のもとに走っている。
やがて尊氏と直義が和解(実質的には尊氏の投降)し、師直が殺されて直義派がひとまず勝利を収めた。この年4月3日に直義は尊氏の子・足利義詮の屋敷に泊まりに行ってすぐに帰って来てしまったという話が洞院公賢の日記『園太暦』に出てくるが、このとき直義が山名時氏の屋敷に滞在していたことが読み取れる。
やがて直義と尊氏の反目は再燃し、8月1日に直義は京から越前へ逃れた。このとき直義派の武将たちもこれに付き従い、時氏も若狭を経て伯耆に戻っている。このあと直義の関東への没落、尊氏の南朝との和睦(正平の一統)、翌年2月の直義の投降と鎌倉での急死と事態は急展開して行くが、時氏は直義の没落を察したか伯耆に居座って動かなかった。この間、息子の師義(初名師氏)は京にあって義詮のために男山八幡や伊勢方面で南朝軍と戦っており、時氏もひとまず義詮につくことにしたようである。
―反幕府勢力の巨頭として―
しかしそれも長くは続かなかった。文和元年(正平7、1352)の8月に師義が恩賞の所領問題で佐々木道誉と対立して京を飛び出し伯耆の時氏のもとに合流、間もなく時氏・師義父子は南朝側に投じて各地の旧直義派と連携を取り始める。もともと山名氏と道誉は出雲守護職をめぐって争っており、幕府から離反した時氏はさっそく出雲に兵を送って事実上ここを制圧している。
翌文和2年(正平8、1353)6月、南朝軍の四条隆俊・楠木正儀、旧直義派で南朝に投じた吉良満貞・石塔頼房らが南から京に迫り、これと呼応する形で山名時氏も山陰の大軍を率いて因幡から丹波に進出、京へと迫った。このとき洞院公賢は日記『園太暦』の中で「山名軍には女の騎馬武者が多いそうだ」と不思議な噂を記している。また丹波の荻野朝忠らが師直の遺児・高師詮を立てて山名軍の進撃を阻止しようとしたがかなわず、師詮は自害に追い込まれている。
6月9日に山名軍は南朝軍らと合流して京に突入、京を守っていた義詮は後光厳天皇を擁して近江、さらに美濃へと逃れた(南朝軍の第二回京都占領)。しかし義詮は美濃で態勢を立て直し、播磨の赤松則祐と東西から挟み撃ちして京奪回を目指した。南朝側ももともと寄り合い所帯で指揮統一を欠いた上に(太平記によれば時氏は四条隆俊が主導権をとるのを不愉快に思っていたようである)、北朝公家への強硬な態度、兵糧にも事欠いたための略奪行為などで京の世論の反発を買っていて長期占領は不可能となり、7月下旬にはそれぞれ京を捨てて撤退を余儀なくされた。
このころ、尊氏の庶子で直義の養子である足利直冬が九州を追われて周防の大内氏を頼り、南朝から惣追捕使に任じられて石見へと進出していた。山名時氏は直冬を総大将に立てて旧直義派の結集を図り、文和3年(正平9、1354)の暮れには北陸の斯波高経・桃井直常、河内方面からの南朝勢と呼応して、丹波経由で再び京都へ進撃した。これに先立って関東から戻って来ていた尊氏は後光厳天皇を奉じていったん近江へ逃れて京を南朝軍に明け渡し、播磨に進軍していた義詮と挟撃する作戦に出た。年が明けて文和4年(正平10、1355)正月に直冬を総大将とする南朝軍は京を占領したが(南朝軍の第三回京都占領)、再突入してきた尊氏・義詮軍と京をめぐって激しい攻防を繰り広げた。とくに神南の義詮本陣への山名軍突入の模様は『太平記』が詳しく語るところで、特に時氏・師義父子が佐々木道誉の旗印を見て「もとはといえば道誉の無礼に始まったこと。他の敵には目もくれるな、あいつの首をとれ」と激しく攻め立て、師義が目を矢で射られる重傷を負うなど死闘の末に退却を余儀なくされている。
結局この京都占領も前回同様長くは続かず、3月12日に直冬以下それぞれ京を撤退することになった。このとき直冬が本陣を置いていた東寺の門に直冬配下の武将たちをからかう落首が掲げられたが、その中に「深き海 高き山名と 頼なよ 昔もさりし 人とこそきけ(深い海、高い山と人をあてにしてはいけない。昔からそういう奴だったじゃないか」と変転を繰り返した山名時氏を皮肉るものもあったという(「太平記」)。
京都占領には失敗した時氏だったが、山陰における勢力拡大はとどまるところを知らなかった。すでに支配下に置いていた伯耆・因幡・出雲に加えて、康安元年(正平16、1361)には赤松貞範が守護をつとめる美作へ進出して完全に制圧、赤松則祐の播磨へもしきりに兵を出した。さらに丹後・丹波・石見へも手を伸ばして山陰地方全体をほぼ支配下に置いてしまった。それだけでなく貞治元年(正平17、1362)11月には直冬と合流して備後、備中など山陽方面にも進出し、この方面の幕府軍を指揮していた細川頼之とせめぎあった。こうした山名時氏の積極的な軍事行動による勢力拡大傾向は後年の戦国大名の先駆をなすものだったとも見える。
―「六分一衆」への道―
このころには南朝勢力を圧倒し、政治的にも混乱を脱して安定政権となりつつあった足利幕府だったが、南朝方である大内氏と山名氏が押さえる中国地方と、南朝征西将軍府の懐良親王が押さえる九州については支配下におけぬままだった。九州の懐良はともかくとして大内・山名両氏はそろそろ潮時と幕府との妥協を図ろうとしており、幕府側も両氏の懐柔にとりかかった。貞治2年(正平18、1363)春にまず大内弘世が周防・長門の守護職を認めることを条件に幕府に投降した。
そして同時期に山名時氏にも義詮から投降(実質和睦)の呼びかけが始まった。それを提案し、実際に使者を送ったのは時氏と長らく対峙していた細川頼之であったとも言われる(「山名家譜略纂補」。一色詮光を使者にしたとの異説あり)。時氏はこの年8月に自らが支配下に置いた因幡・伯耆・丹波・丹後・美作の五国の守護を認められることを条件に幕府への投降に合意した。それまで時氏が形式的に主君と仰いでいた直冬は立場を失い、備後から石見へ逃亡、その後ほとんど活動を見せなくなる(ただその後の経緯からすると山名氏が義詮に取り次いで直冬の安全を保証してやった可能性もある)。
翌貞治3年(正平19、1364)3月にまず息子の師義・氏冬・時義らが上京し、8月25日に時氏自身が満を持して上京、将軍義詮に謁見した。時氏は広大な所領を認められた上に評定衆、引付頭人となって幕府内でも有数の実力者となり、このため人々は「領地を増やしたいと思ったら敵になればよいのだな」と陰口をたたいたという(「太平記」)。
貞治5年(正平21、1366)8月に佐々木道誉の策謀によりそれまで幕政を仕切っていた斯波高経・義将が失脚するが、このとき時氏自身の直接の関与は確認できないものの息子の氏冬が斯波父子打倒の実行者に名を連ねているので、長年道誉と対立してきた山名氏もこのときは道誉に同調したことが分かる。だが高経が死に義将が幕政に復帰すると、時氏は幕府内ではもっぱら斯波派に属して活動している。また、このころ60代も半ばにさしかかった時氏は出家し、「道静」と号している。
翌貞治6年(正平22、1367)9月、斯波義将に対抗させるべく道誉が細川頼之を四国から軍を率いて上京させ、彼を管領職につけようとすると、京では山名時氏と細川頼之の間で合戦が起こるのではとの噂が広まったという(「愚管記」)。結局合戦は起こらなかったのだが、宿敵の道誉に担ぎ出された頼之に時氏が敵意を見せたことは事実なのだろう。
この年11月に義詮は病に倒れて危篤となり、将軍職を子の義満に譲り、細川頼之を義満の親代わりの管領に任じてから世を去った。頼之と時氏の対立も将軍の代替わりという事態の前にひとまず矛を収めた形になり、翌応安元年(正平23、1368)4月の義満の元服、評定始といった一連の行事では時氏も頼之の指揮下で重要な役を務めている。頼之も管領として幕政を主導するうえで時氏の協力が不可欠であり、政策的にもかなり妥協をしたとみられる。だが細川家と山名家の対立関係はその後も根強く尾を引いていくことになる。
応安3年(建徳元、1370)12月、すでに68歳となっていた老将・時氏はついに引退を表明し息子の師義に家督を譲った。冒頭に挙げた時氏の息子たちへの訓戒は、このころのことではなかっただろうか。時氏が一代で築いたといっていい山名一族の勢力はこの時点で但馬・隠岐も加えた七ヶ国を支配し、その後も拡大の一途をたどってついには十一カ国の守護をつとめ「六分一衆」(全国66カ国の6分の1を占めるため)などと呼ばれることになるのだが、老いた時氏には息子や孫たちの世代の増長が不安だったのかもしれない。
翌応安4年(建徳2、1371)2月28日(18日説、3月28日説あり)、山名時氏は69歳で死去した(1299年生まれの73歳説もある)。丹波で荼毘に付されて伯耆の光孝寺に葬られ、「光孝寺殿」と呼ばれた。現在、島根県倉吉市の「山名寺」に時氏の墓といわれるものが残っている。
公家の三条公忠は日記『後愚昧記』のなかで時氏の死について、「無道の勇士、命もって終わる。結句また短命に非ず、大幸の者なり(さんざん悪事を働いた勇将もついにこの世を去った。結局短命に終わらず長寿を保てたとは非常に幸運な男である)」と、かなり辛辣な評を加えている。上級貴族の彼からすれば「下剋上」を絵に描いたような成りあがり者の時氏など「無道の勇士」でしかなかったのだろうが、時氏が聞けばそれはむしろ誉め言葉と受け取ったかもしれない。
時氏の晩年の不安は的中し、勢力を拡大しすぎた山名一族は足利義満の分断工作と挑発にかかって「明徳の乱」を起こし、その勢力を大きく減退させた。しかし後に山名宗全によって勢力を取り戻し、戦国時代まで生き抜くのである。貞治3年(正平19、1364)3月
参考文献
久保田順一「新田一族の盛衰」(あかぎ出版)
山本隆司「新田義貞」(ミネルヴァ日本評伝選)
佐藤進一「南北朝の動乱」(中公文庫)
高柳光寿「足利尊氏」(春秋社)
岡見正雄校注「太平記」解説(角川文庫)
小川信「細川頼之」(吉川弘文館人物叢書)
小川信監修「南北朝史100話」(立風書房)ほか
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大河ドラマ「太平記」 | ドラマ中には登場しないが、第44回の高師直によるクーデターの場面で師直邸に駆けつけた武将の筆頭として、その名がナレーションで語られている。古典「太平記」の記述を引き移したためと見られる。
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PCエンジンCD版 | 因幡但馬の北朝系独立勢力の君主として登場。初登場時の能力は統率78・戦闘83・忠誠54・婆沙羅63。戦闘力がかなり高い。 |
PCエンジンHu版 | シナリオ2「南北朝の動乱」で幕府方武将として丹後・亀岡城に登場。能力は「長刀4」でかなり強め。 |
SSボードゲーム版 | 武家方の「武将」クラス、勢力地域は「山陰」。合戦能力2・采配能力6。ユニット裏は息子の山名師義。 |