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ひがしぼうじょう〜ひろさわしげたか

東坊城秀長
ひがしぼうじょう・ひでなが1338(暦応元/延元3)-1411(応永18)
親族父:東坊城長綱
兄弟姉妹:東坊城富長・東坊城言長・二条師嗣室
子:東坊城長遠・東坊城長頼・東坊城茂子・一条経嗣妾(一条兼良母)
官職少納言・大学頭・文章博士・右大弁・参議・土佐権守・式部大輔・備後権守・因幡権守
位階従三位→正三位→従二位→正二位
生 涯
―義満の国書を起草した学者公卿―

 東坊城家は菅原氏の流れをくみ、紀伝道(歴史・文学専門)を家業として天皇に学問を講義する「侍読」役をつとめていた。秀長の祖父の茂長の時から「坊城」を家名とし、秀長・言長の兄弟がそれぞれ「東坊城」「西坊城」に分家したため、「東坊城家」の祖は秀長ということにもなる。
 秀長はとくに漢学にすぐれ、康暦2年(天授6、1380)に後円融天皇の「侍読」となったほか、2月に行われた将軍・足利義満の「読書始」の講師役となって「貞観政要」を講義している。特に義満は「室町殿文談」と呼ばれる学者を招いての講読会を熱心に行っており、そこでも秀長が漢籍の解説をしばしば行っている。その漢学の知識を生かして改元の際には元号候補の選定にたびたび携わり、「嘉慶」「康応」「明徳」といった元号は、いずれも東坊城秀長が候補を選定、実質的決定権をもつ義満と協議の上で定まったものである。
 明徳元年(元中7、1390)に参議に昇った。南北朝統一が成った明徳3年(1392)の12月から後円融の次の後小松天皇の「読書始」でも講師を務め、以後応永16年(1409)に至るまで長く侍読をつとめた。

 明徳5年(1392)2月に、南朝最後の天皇で南北朝合体以後は京にあった後亀山天皇に対して「太上天皇(上皇)」の尊号をたてまつることになり、その尊号宣下の詔書も秀長が起草している。後亀山に尊号を与える件については、そもそも南朝の存在自体を認めない北朝公家社会は否定的だったが、義満はかなり積極的で、後亀山自身も義満に尊号獲得のための働きかけていた。秀長は義満の強い意向を受け、天皇に即位したことのない人物に「上皇」の尊号を贈った先例を調査したうえで詔書を起草している。

 この明徳5年(1394)、前年の後円融の死去を受けて改元が行われることとなり、秀長は「正永」「永吉」「安慶」「興徳」「宝暦」「正禄」「応仁」の7案を室町第に持ち込んで義満に提示した。ところが義満が「大明の『洪武』はすでに二十年以上続いていて縁起がいい。「洪」の字の元号案をつくって興徳と入れ替えるように」と言い出したため、秀長は急いで帰宅して『文選』から「洪徳」「洪業」「洪化」の3案を選びだし、その日のうちにまた室町第を尋ねて義満に案を見せた。義満は秀長の忠実な働きぶりを称賛したが、秀長はこの直後に娘婿の一条経嗣に会い、「室町殿が『洪』の字に固執されるのは異朝で行われているから、というだけだ。恐らく五山の僧たち(漢籍に通じ外交に携わる者が多かった)の入れ知恵であろう。しかし室町殿の厳命とあっては案を出さざるを得なかった」と、内心義満の強引な提案を不愉快に思いつつも義満に忠実にふるまわねばならない自身の立場を愚痴っている。それでも秀長は義満の意向に沿って「洪徳」を元号案に押し込んだ。
 だが元号選定にあたっては「洪の字は洪水を招く恐れあり」とか「徳の字の元号が続くと不吉な先例あり」といった反対意見が強く、義満の意を受けた秀長も自らの案を推すのはルール違反ということもあって反論はできず、結局新元号は「応永」に決定した。義満が「洪」字にこだわったのはいずれ明の冊封体制に参入するための地ならしであった可能性があるが結局それは果たせず、その意趣返しのつもりなのか以後「応永」の元号を延々と変えさせず、それは義満死後も続いて「応永」は35年も続けられることとなった。

 応永8年(1401)5月、義満は明へ正式に使節を派遣した。このとき国書の起草にあたったのが、やはり東坊城秀長であった。「日本国准三后源道義、上書大明皇帝陛下」に始まるこの国書で、義満は日本が昔から中国を尊敬してきたこと、自らが国内を平定したことを伝え、貢物と倭寇にさらわれた明人を送り届けることを記している。秀長の起草ではあるが、当然義満の意向を強く受けた文面である。これに対し明の建文帝は義満を「日本国王」に冊封する使節を送って来た。
 応永10年(1403)に義満はさらに遣明使節を仕立て、「日本国王臣源」と名乗る国書を送ることになるが、この時は秀長は起草にタッチせず、彼が嫌っていたらしい五山僧の絶海中津(もしくは堅中奎密)が起草している。以後、国書は五山僧が担当するのが原則となった。

 応永9年(1402)に秀長は正二位に昇った。応永14年(1407)に義満の妻・日野康子が後小松の「母」となして女院宣下を受け、初めて後小松と対面する「入内始」が挙行された際には、義満の命でその模様を記録した「入内記」を著している。
 義満死去後の応永18年(1411)8月6日に74歳で死去した。日記『迎陽記』は当時の政治事情を知る重要な記録となっている。

参考文献
今谷明『室町の王権・足利義満の王権簒奪計画』(中公新書)
小川剛生『足利義満・公武に君臨した室町将軍』(中公新書)
森茂暁『闇の歴史・後南朝 後醍醐流の抵抗と終焉』(角川選書)

光王ひかりおう
 初代関東公方・足利基氏の幼名。→足利基氏(あしかが・もとうじ)を見よ。

彦部十郎ひこべ・じゅうろう
 NHK大河ドラマ「太平記」の第41回・42回に登場する架空人物(演:田口トモロヲ)高師直の部下として活動し、公家の娘・二条の君を師直のもとへ連れてきたり、塩冶高貞の弱みを握ろうと情報収集を行ったりしている。
 彦部十郎という実在人物は確認できないが、彦部氏は高一族と同じ高階姓で、足利家譜代の家臣。古典『太平記』では師直・師泰兄弟らが惨殺される場面で師直の部下「彦部七郎」の戦死が描かれている。これを参考にしたか。

久明親王
ひさあき・しんのう1276(建治2)-1328(嘉暦3)
親族父:後深草天皇 母:三条房子 妻:惟康親王の娘、冷泉為相の娘 子:守邦親王・久良親王
官職征夷大将軍(1289-1308)、式部卿
生 涯
―鎌倉幕府第8代将軍―

 後深草天皇の第6皇子。鎌倉幕府の首長・征夷大将軍となった人物だが、いわゆる「宮将軍」という象徴的首長に過ぎず、実権はなんら持っていなかった。幼少期に将軍に担ぎ出され、成人すると解任されるというパターンが繰り返され、久明親王もその典型である。
 正応2年(1289)9月に鎌倉幕府第7代将軍・惟康親王が北条氏の意向で解任され都に送還されると、その後任として久明親王が10月に元服し、そのまま第8代征夷大将軍として鎌倉へとくだった。以後徳治3年(1308)まで19年間の長きにわたり将軍職にあった。前任者の惟康親王の娘を妻に迎えて「将軍」同士の血縁も引き継いでいる。
 久明親王が将軍職にあった時期の幕府はちょうど北条貞時の時代で、北条得宗家への権力集中を進めていた時期にあたり、粛清・政変に事欠かなかったが、久明自身が関わることは一切なかった。しかし久明が30代に入ると例のパターンが起こって徳治3年(1308)8月4日に解任された上、京に送還された。後任の将軍職はまだ8歳の息子・守邦親王に引き継がれ、彼が鎌倉幕府最後の将軍となる。
 京にもどった久明はその後20年生きて、嘉暦3年(1328)10月14日にこの世を去っている。
大河ドラマ「太平記」本編への登場はないが、第1回で嘉元3年(1305)に鎌倉にやって来た足利貞氏が将軍に謁見しようとして長崎円喜に「将軍はお風邪」と邪魔されるシーンがある。

久枝掃部助ひさえだ・かもんのすけ生没年不詳
生 涯
 細川頼之の家臣の一人だが、久枝氏はもともと伊予の豪族・河野氏の傍流である。
 康安2=貞治元年(正平17、1362)、前年に幕府で失脚し南朝と結んだ細川清氏が四国へと渡り、従兄弟の細川頼之はその討伐を命じられた。このとき頼之の率いる兵力は多くはなかったようで、3月に伊予の河野通盛に援軍を要請したが、このとき使者に立てられたのが久枝掃部助入道であった。彼について詳しいことは分からないが、河野氏と同族であるために使者役に選ばれたものとみられる。このとき頼之が通盛に送った書状の内容は河野氏の記録『予章記』にそのまま載っており、その中で久枝掃部助が両者の主張を口頭で伝える役目を務めていたことがうかがえる。
 しかし河野通盛はかねてより伊予支配をめぐって細川頼之とは宿敵の間柄であり、援軍要請には容易に応じなかった。頼之は伊予守護職や河野氏旧領の返還を承知して4月、さらに7月と繰り返し久枝を通盛のもとへ派遣したが、とうとう通盛は援軍要請を無視し続けた。結局頼之は独力で清氏と対決、勝利することになる。

参考文献
小川信『細川頼之』(吉川弘文館・人物総書)

久子ひさこ
 楠木正成の妻の名としてよく使われる名前。ただし学術的な根拠はまったくない。→楠木正成の妻(くすのき・まさしげのつま)を見よ。

日野(ひの)家
 藤原北家の藤原真夏の子孫、資業から「日野家」を称するようになる。学問の家として知られ、鎌倉末期には本流の資朝と傍流の俊基が宋学に熱中し、後醍醐天皇の側近として活躍した。だが資朝の兄弟の資名や資明、賢俊らは持明院統=北朝方で活動し、業子が足利義満の正室となったことをきっかけに足利将軍家と代々縁組みして外戚として権勢をふるうようになった。権力に接近し過ぎたために何度か断絶の危機もあったが再興し、明治に華族となるまで続いている。、











氏光











宣子
┌栄子










名子西園寺実俊康子
日野資業┬有綱┌範綱





資名時光資康───重光

├有信┼有範─親鸞




資朝邦光資教───有光

└有定└実光┬資長
─兼光
┬資実─家光
─資宣俊光資明柳原業子└秀光





└頼資
→広橋

浄俊
└資国───→日野西








賢俊





└資憲─基光─基定─邦俊─邦行─種範俊基



日野有光
ひの・ありみつ1385(至徳2/元中2)-1443(嘉吉3)
親族父:日野資教
兄弟姉妹:日野秀光
子:日野資親・女子(後花園後宮権典侍)
官職蔵人頭・左大弁・参議・美作権守・権中納言・右衛門督・検非違使別当・院執権・権大納言
位階正四位上→正三位→従二位→正二位→従一位
生 涯
―神器奪取事件に関与―

 父は足利義満の側近でもあった権大納言・日野資教。蔵人頭・左大弁を経て応永18年(1411)に参議となる。応永20年(1413)に権中納言、応永22年(1415)に検非違使別当となり、応永24年(1417)に従二位に昇って後小松上皇の院執権となった。
 応永28年(1421)に権大納言、応永32年(1425)2月に従一位に昇ったが、直後の3月に官を辞し出家し「祐光」と号した。この出家は表向き母の三十三回忌の追善のためとされたが、実は足利義持の勘気を受けて強制されたものとも言われる(「看聞日記」)
 日野家と言えば足利将軍正室を代々出す家柄だが、有光は第六代将軍・足利義教にも嫌われたようで、永享4年(1432)に義教の意に反したことを理由に日野家が代々所有してきた能登国若松荘を取り上げられている。また永享6年(1434)に義教の妻・日野重子(裏松家)が男子(のちの義勝)を産んだので有光が裏松家に祝いに行くと、なぜか義教の怒りを買ったため有光が逐電、やはり所領を取り上げられる事件が起こっている。義教が「嘉吉の変」で暗殺され、足利義勝が七代将軍となると赦免を受けたが、こうしたいきさつが有光が幕府に恨みを抱き、やがて後南朝勢力と結びつく遠因となったとも言われている。
 
 義勝が急死し、弟の足利義政が新将軍に立てられた直後の嘉吉3年(1443)9月23日、南朝皇胤の金蔵主を首謀者とする後南朝勢力が後花園天皇の住む土御門内裏を襲撃、内裏に火を放った上に「三種の神器」のうちの宝剣と神璽(勾玉)を奪い取るという大事件が発生した(禁闕の変)。この凶徒の一団に日野有光も加わっていたのである。
 金蔵主と有光らは比叡山延暦寺に逃れ、その根本中堂に立てこもった。幕府軍が出動し、後花園が比叡山に朝敵討伐の綸旨を発したため、9月26日に比叡山の僧兵たちが根本中堂を攻撃、金蔵主と有光は討ち取られてしまった。事件と関係していたかは不明だが、幕府は有光の子・資親も捕えて9月28日に家臣50余名と共に斬罪に処している。この事件は謎が多く、北朝系の公家である有光がなぜ参加していたのか当時の人も首をかしげているが、一時の思いつきによる突発的なものではなく、有光なりに一定の勝算を考慮した行動だったとの見方もある。
 なお、この時奪われた神器のうち宝剣はすぐ清水寺で発見されたが神璽は他の南朝皇胤によって持ち去られ、赤松家家臣によって奪回されるのは実に15年後のことである。

参考文献
森茂暁『闇の歴史・後南朝 後醍醐流の抵抗と終焉』(角川選書)
桜井英治『室町人の精神』(講談社学術文庫)ほか
その他の映像・舞台1994年放送のNHK大河ドラマ「花の乱」の第1回のみに登場している。演じたのは夏八木勲で、少女時代の日野富子が過ごす「椿の庄」に内裏から神璽を奪ってきた有光が訪ねて来るという設定だった。しかも有光は山名持豊(宗全)の軍に追われており、神璽を椿の庄の国人に託すと自害してしまう。

日野氏光
ひの・うじみつ?-1335(建武2)
親族父:日野資名
兄弟姉妹:日野房光・日野時光・日野名子・日野宣子
官職左衛門佐・春宮大進
位階正五位下
生 涯
―後醍醐暗殺計画に連座して処刑―

 日野資名の次男。その履歴について詳しいことは分からないが、氏光が関与した西園寺公宗による陰謀が発覚した建武2年(1335)6月の時点で左衛門佐となっていた。父の日野資名は持明院統・後伏見上皇光厳天皇の側近であり、氏光も兄の房光ともども持明院統を支えた。
 正慶2年(元弘3、1333)5月に六波羅探題が足利高氏の攻撃で陥落、持明院統皇族らが六波羅勢と共に関東を目指した際にも氏光は資名・房光と同行しており、このとき攻撃を受けて流れ矢に当たって負傷している(姉妹の名子の著『竹向きが記』に記述がある)。結局一行は近江・番場で捕らわれ、資名・房光は出家、氏光も京へと連れ戻された。

 資名・氏光ら持明院統派の公家は建武政権の成立により冷遇される立場となった。資名の娘婿である西園寺公宗も代々鎌倉幕府との連絡役を務めていた関係で建武政権で冷遇され、このため両者は北条残党と結びついて後醍醐天皇の暗殺、建武政権転覆を計画したと考えられる。
 建武2年(1335)6月22日、陰謀が発覚して公宗および資名とともに資名の子・氏光も逮捕された。『小槻匡遠記』によると首謀者は公宗だが氏光も深く関与しており、父親の資名は「子息・氏光の陰謀を知りながら同意して通報しなかった」ことが罪とされている。『尊卑分脈』の氏光の項には「公宗の命により院宣を書いた」との注があり、恐らく建武政権打倒を呼びかける内容の後伏見上皇の院宣を氏光が書かされたのだろう。実際に後伏見上皇も陰謀の背後にあったとの見方もあるが、形式的には公宗と氏光が勝手に院宣を偽造した、ということで処理されたようである。
 この陰謀発覚の直後、関東で北条残党が挙兵する(中先代の乱)。両者が連携したものとみた後醍醐は8月2日に公宗と氏光をそろって処刑した(「尊卑分脈」)。公宗は公卿(三位以上)の死刑が平治の乱以来なかったため「流刑のところを誤って処刑した」という形をとったようだが、氏光については特に問題とされることなく処刑が執行された様子である。

日野邦光
ひの・くにみつ1320(元応2)?-1363(貞治2/正平18)?
親族父:日野資朝 
兄弟姉妹:日野朝光・慈俊・女子
子:日野資茂
官職右大弁・左兵衛権佐・左兵衛佐・左兵衛督・参議・中納言(いずれも南朝)
位階贈正三位(大正4)
生 涯
―十三歳で仇討ち―

 後醍醐天皇の腹心で「正中の変」の首謀者として佐渡に流刑となり、やがて処刑された日野資朝の子。『尊卑分脈』では「邦光」とあるが、『太平記』では「国光」と表記している。『太平記』巻二の伝える仇討ち物語により、幼名の「阿新(くまわか)」の方が広く知られている。
 『太平記』は「日野の中納言、そのころは阿新殿とて、歳十三にしておはしける」と記しており、のちに南朝の中納言となったことをふまえて書いていることが『太平記』の執筆時期の問題とも絡み、また資朝処刑時(元弘2=1332)に13歳とあることから邦光の生まれが元応2年(1320)と推定できる。ただし『太平記』は物語上の構成から資朝の処刑を前年の元弘元年(1331)に前倒しして語っているため、一年ほどのずれは考慮しなければならない。

 日野資朝が京に子を残していることは『増鏡』でも言及されているが、「阿新の仇討ち」説話は『太平記』のみが語っている。『太平記』によれば、父・資朝が逮捕・流刑となってから阿新は母と仁和寺の近くに隠れるように住んでいたが、資朝の処刑決定を知った阿新は母親の反対を押し切り、従者一人を連れて佐渡へと渡る。そして資朝をあずかる佐渡の守護代・本間山城入道の館へ直接赴き、処刑の前に父と対面したいと申し入れたが、本間はその心情は理解して丁重に迎え入れつつも幕府への聞こえを気にして対面させず、結局一度も会わせぬまま資朝を処刑してしまう。阿新はこれを恨み、父の遺骨を従者に持たせて高野山の奥の院に納めるよう指示し、自身は病と称して佐渡に居残り「仇討ち」の機会を狙った。

 風雨の激しい夜に乗じて阿新は本間の館に忍びこみ、本間山城入道の寝所を襲おうと狙った。しかしこの夜山城入道本人は寝所を変えていて姿は見えず、代わりに近くの部屋にいた山城入道の息子・本間三郎が寝ているのを発見する。三郎は資朝の斬首を実行した当人で、阿新は「これも親のかたきと言っていい」と彼の殺害を決意する。部屋の燈明がともされていたので気付かれてはまずいと阿新は一計を案じ、障子を少し開けて蛾を招き寄せて燈明の灯りを消した。そして三郎の枕元にあった刀を抜き、(寝ている相手を殺しては死人を刺すのと同じ)と考えて枕を蹴飛ばして三郎を起こし、すぐさま一突きで三郎を畳まで貫いて殺してしまった。
 はじめは仇討ちを済ませたら自害するつもりだった阿新だが、やはり生き延びて帝のために働くことが父の遺志にかなうものだと考え直し、竹をよじ登って堀を越え、麻のしげみに隠れて日中をやり過ごし、夜になってから港へと向かった。途中で出会った老山伏に事情を打ち明け、共に港についたが船はすでに沖に出て帆を上げようとしているところだった。山伏が祈ると悪風が吹いて船がひっくり返りそうになったので船はあわてて港に戻り、阿新たちを載せると順風に乗って佐渡から去った。かくして阿新は追手を振り切り、無事に都へ帰ることができたのである。

 以上の物語は他の史料にはまったく見えず、また独立した物語としてよくまとまっていることもあって、そのまま事実であるかは疑わしい。一方で実在した人物を主役にまったくの絵空事を挿入するとも考えにくく、何か素材になるような事実が存在した可能性もある。

―南朝の忠臣として各地で活躍―

 阿新、すなわち日野邦光のその後の人生については断片的な記録しか残っていない。建武政権が誕生すると父の功績を買われたようで、左兵衛権佐となっている(「石清水臨時祭之記」)
 南北朝内乱に突入すると、一貫して南朝の公家武将として活動している。南朝が後村上天皇時代となった興国元年(暦応3、1340)8月18日に石見国で「日野左兵衛佐邦光」新田義氏と共に同国の南朝拠点、美濃郡豊田城に救援に駆けつけて足利方の守護・上野頼兼と交戦している(「萩藩閥閲録」所収益田家什書)。この時期の幕府方の史料では「当国先国司日野宰相」「御敵日野左兵衛佐」「凶徒日野左兵衛権督」などと表現されており、邦光が南朝から石見国司に任じられていること(「先国司」とあるので建武政権期に任じられた可能性もある)、この地方の南朝方の総帥とみなされていたことがうかがえる。翌興国2年(暦応4、1341)2月18日にも石見邦稲積城にこもった邦光が上野頼兼の攻撃を受けている(益田家什書)
 その後、正平5年(観応元、1350)10月21日には、肥後国に姿を現し、南朝方の恵良(宇治)惟時のもとへ「左兵衛督」の邦光が勅使としておもむいて挙兵をうながしている(「阿蘇文書」)

 邦光について確実なことが言えるのはここまでで、あとはあまり信用できない情報しかない。『太平記』版本のひとつ「天正本」は人名を中心に独自の記述が含まれるが、正平16年(康安元、1361)に細川清氏楠木正儀らの南朝軍が四度目の京都占領を行った際に、「日野中納言国光」が南朝軍に加わっていたことになっている。これが事実とすれば「中納言」になっていることなど阿新の仇討ち物語とつながってくるのだが、天正本以外には見えない記述で、天正本の作り手が「有名な阿新が中納言になって再登場しないとおかしい」と勝手に付け加えた可能性も高い。『太平記』原本の書き手は邦光が中納言になったことを知っていることになるが、その時期はまったくわからない。

 『尊卑分脈』では「南山(南朝)に候す。右大弁」とあり、『日野一流系図』では正平9年(文和3、1354)4月に参議・正四位上、12月に従三位、翌正平10年(文和4、1355)2月に左兵衛督、正平15年(延文5、1360)に権中納言、そして正平18年(貞治2、1363)に死去としているが、他の史料と食い違うほか南朝に仕えた人物の常で詳しい履歴の記事はかえって怪しくもある。死去の時期はおおむねその頃で不自然ではないが…。
 『尊卑分脈』によると息子に日野資茂があり、やはり南朝に仕えたという。

参考文献
岡見正雄「太平記」補注(角川文庫)ほか
その他の映像・舞台1940年(昭和15)の映画『阿新丸』で日高竹子が演じている。
歴史小説では「阿新丸の仇討ち」があまりに有名なので、南北朝・太平記を扱った小説で登場例がいくつかある。例えば吉川英治『私本太平記』では本筋からほぼ脱線しながらも彼の仇討ち話に触れ、尊氏の側近である一色右馬介が阿新救出に活躍する展開になっている。
漫画作品では「太平記」の漫画版ならほぼ確実に仇討ち話が描写されている。

日野重光
ひの・しげみつ1370(応安3/建徳元)-1413(応永20)
親族父:日野資康 母:池尻殿
兄弟姉妹:烏丸豊光・日野業子(足利義満正室)・日野栄子(足利義持正室)
子:日野義資・日野宗子(足利義教室)・日野重子(足利義教室)
官職蔵人頭・右大弁・遠江権守・参議・権中納言・左衛門督・権大納言・武家伝奏・南都伝奏・院執権
位階正四位上→従三位→正三位→従二位→正二位→従一位
生 涯
―義満縁戚として権勢をふるう―

 権大納言・日野資康の子。母親は「池尻殿」と呼ばれる女性で、同母の姉に足利義満の二人目の正室となった日野康子がいる。また異母妹に足利義持の正室となり五代将軍・足利義量を産んだ日野栄子がいる。
 明徳元年(元中7、1390)8月に父・資康が死去して跡を継いだ。日野家の中でも重光のいた系統は庶流とされており、重光から「裏松家」を称するようになっている。しかし重光の二人の姉妹が将軍正室になり、後年重光の娘も将軍の生母となったことから一時裏松家が日野流の中心となってゆく。
 南北朝合体が実現した明徳3年(元中8、1392)に蔵人頭および参議となり、翌明徳4年(1393)に従三位に進んだ。明徳5年(1394)に改元が行われた際、義満は「洪徳」を強く希望したが反対があって果たせず、代わりに採用されたのは重光が提案した「応永」であった(なお、重光はこのとき「慶応」も提案している)

 応永元年(1394)に権中納言、応永3年(1396)に権大納言と順調に出世した。このころ妹の栄子が義持の正室となったとみられ、重光は二重に足利将軍家と縁組みしたことで大いに権勢をふるった。「武家伝奏」となって義満と天皇の連絡役も務めたほか、「南都伝奏」として寺社と朝廷の連絡役も務めている。
 応永13年(1406)3月、将軍義持が義満から叱責をこうむり、妻の兄である重光の屋敷に駆け込んでとりなしを頼むという事件が起こった。詳しい事情は不明だが、義満・義持父子の関係が微妙になっていたこと、その二人の妻の兄弟である重光が両者の調停役を務めていたことをうかがわせる。

 応永13年(1405)12月2日、重光邸に放火があった。この時期、義満やその側近の邸宅に放火事件が続発しており、義満らに不満を持つ勢力による犯行が疑われている。その直後の12月26日に後小松天皇の生母・三条厳子が危篤となり、義満は後小松が在位中に二度の諒闇(両親のために一年服喪すること)を行うのは不吉であると主張し、後小松の仮の母「准母」を立てようと重光らに提案する。誰を准母に立てるかについて義満は名指しをしなかったが、重光は義満が自身の妻・日野康子(重光の姉でもある)を准母に立てようとしていると察し、関白・一条経嗣らに義満の意向を伝えて運動し、厳子の死の直後に康子を「准母」とすることに成功する。翌年に康子に女院号が贈られ、直後に盛大に執り行われた「入内始」も重光が責任者として挙行している。
 康子が天皇の「母」となったことで、その夫の義満は天皇の父も同然となる。この件を義満が強引に推し進めたのは義満が「上皇=治天」の地位を得ようとしていた、いわゆる「簒奪説」に立つと、重光は義満に追従し走狗となって走り回ったことになるのだが、実際には義満が内心願望していたのは「太上天皇」の尊号であり、重光はその真意を察しつつ「准母」の方を実現することで巧みに阻止、あるいは先送りしたのだとの見解も出されている(小川剛生『足利義満』)。その一方で直後の義満・康子の伊勢神宮参詣に同行するなど、「義理の兄弟」かつ「忠実な側近」としてしばしば行動を共にしていたのも事実である。

 応永15年(1408)に従一位。応永18年(1411)には大納言に昇った。応永20年(1413)には後小松上皇の院執権となったが、同年3月16日に死去した。享年44。後に娘の重子が六代将軍・足利義教の妻となり、七代将軍・足利義勝、八代将軍・足利義政を産んだため、将軍の外祖父ということで文安2年(1445)に左大臣を追贈されている。

日野資朝
ひの・すけとも1290(正応3)-1332(正慶元/元弘2)
親族父:日野俊光 兄弟:日野資名・日野(柳原)資明・律師浄俊・三宝院賢俊 
子:日野朝光・日野邦光(阿新丸)・慈俊・女子
官職蔵人・右少弁・左少弁・文章博士・記録所寄人・権右中弁・春宮亮・蔵人頭・右兵衛督・参議・左兵衛督・山城権守・検非違使別当・権中納言
位階従五位下→従四位下→従四位上→正四位下→正四位上→従三位→贈従二位(明治17年)
生 涯
 後醍醐天皇の腹心となり、その討幕計画の先駆けとなって悲劇的な最期を遂げたことで有名な公家。ある意味南北朝動乱は彼によって幕を開けるとも言える。

―異端の青年公家―

 日野家は代々儒学を家業とする家柄であるが、資朝はかなり血気盛んな異端児であったらしい。兼好法師『徒然草』は第152〜154段に資朝の性格を伝える逸話を紹介している。

 正和4年(1315)12月、歌人として知られる持明院派の公家・京極為兼が幕府に対する陰謀の疑いで逮捕され、佐渡島へ配流となっている。為兼が武士たちに囲まれ六波羅探題に連行される姿を一条付近で見た当時26歳の資朝は「ああ羨ましい。この世に生きた思い出に、あのようになりたいものだ」と口走ったという(153段)。ただこの話はその後の資朝がまさにその通りの結果になることを念頭においた創作の可能性もある。
 あるとき西大寺の静然上人が内裏に参上した。その腰が曲がり眉も白い姿に西園寺実衡「なんと尊いお姿か」とあがめたてると、資朝は「年を取ってるからですよ」と身もフタもないことを口にした。後日、毛も抜けて汚く老いさらばえた犬を連れて来て「このお姿は尊いではありませんか」と実衡に見せてからかった(152段)
 あるとき東寺の門で雨宿りをしていた資朝は、そこにたむろしていた障害者たちの異様な姿を「たぐいなき曲者なり、もっとも愛するに足れり(他に例のない変わり者たちだ。これこそ珍重すべきではないか)」とじっくり鑑賞していた。しかし見ているうちに興味を失い気分が悪くなって来て、「素直で珍しくないものが一番いい」と帰宅した。そして「これまで枝や幹が異様に曲がった鉢植えを見て楽しんでいたのは、あの障害者たちを見ていたのと同じであったか」と不快を感じ、鉢植えをすべて捨ててしまった(154段)
 一連の逸話は資朝という人物が、権威を認めぬどころか嘲笑し、一般人とはいささか異なる感性を持ち激情型の「過激派青年公家」だったことを物語る。

 日野資朝の家は代々持明院統派の公家で、このため資朝も当初は持明院統派に属し、とくに学問好きの花園上皇と勉強会を通じて親しく交流していて、花園上皇の日記にも何度か登場している。元応2年(1320)ごろには玄恵の説く宋学(当時最新の外来学説で、大義名分・理論と実践を重んじる)の研究会に熱心に通うようになり、このつながりで日野俊基(同じ日野家で遠い親戚だが資朝より家格はかなり落ちる)らと共に後醍醐天皇に接近するようになった。その一方で花園との交流も続いており、宋学論議や禅宗論議を花園と楽しんでいた様子も花園の日記からうかがえる。
 しかし元応3年(1321)から後醍醐の親政が開始されると蔵人頭さらに参議に抜擢され、そのブレーンとして完全に大覚寺統派に属すことになり、怒った父・俊光は元亨2年(1322)11月に資朝を勘当し、父子の縁を断ってしまった。やはり後醍醐の側近となる千種忠顕も同様に父から勘当されており、洞院実世も父・公賢と袂を分かっている。後醍醐周辺はこのような異端児・勘当息子たちのたちの吹き溜まりとなっていたようだ。
 なお、「元亨」という元号の制定には資朝が深くかかわっていたともされる。

―正中の変の首謀者に―

 元亨3年(1323)の年明けに、資朝は京の市政・警察を担当する検非違使の別当(長官)となった。前任者は同じく後醍醐腹心の北畠親房で、この人事は親政推進に向け京の支配強化を狙う後醍醐の意図があったとみられている。このころ室町院領の問題や皇位継承問題で幕府の存在を敵視するようになった後醍醐の周辺では討幕計画が具体的に寝られ始め、資朝はその中心となったらしい。この年の11月に資朝は勅使として鎌倉に下っており、花園はその意図を日記で怪しんでいる。『増鏡』によればこのころ資朝は山伏に変装して東国をめぐり、討幕の協力者を探していたとされる。

 恐らく資朝が引きこんだのだろう、美濃源氏の土岐頼兼頼員多治見国長らの武士たちが討幕計画に参加した。資朝と俊基、四条隆資、洞院実世ら公家たちと土岐・多治見ら武士たちは計画の密談を始めるが、幕府に怪しまれぬようにと「無礼講」つまり半裸の女性が乱舞する乱痴気騒ぎのパーティーを装ったことが『太平記』そして花園上皇の日記に見える(この無礼講には後醍醐自身の参加もあったと思しい)。無礼講ばかりではかえって怪しまれると玄恵を呼んで漢学講座のようなこともしたと『太平記』は伝える。

 資朝らは元亨4年(1324)9月23日に行われる北野社の祭礼で六波羅の兵備が手薄になるのを機に一挙に軍事行動を起こそうと計画を練った。しかし計画の失敗を恐れた土岐頼員が六波羅探題に密告、9月19日早朝に六波羅軍は土岐頼兼・多治見国長邸を襲撃して両名を討ち取った。六波羅探題は午後には首謀者として日野資朝・俊基の引き渡しを朝廷に求め、深夜二時ごろになって資朝は六波羅に出頭、俊基ともども逮捕された。二人は鎌倉に送られて訊問を受けたが、罪の一切を資朝がかぶり、後醍醐は事件に無関係にされ、俊基も証拠不十分として釈放された。資朝のみが事件の首謀者として佐渡島に流刑となった。この事件は厳密には「元亨」の年号のうちに起きたのだが、直後の改元をとって「正中の変」と呼ばれる。

―佐渡の刑場の露と消える―

 その後、嘉暦元年(1326)5月に父・俊光がこの世を去った。5年後の元徳元年(1331)に資朝は亡き父母の供養のため自筆の法華経を佐渡の妙宣寺に奉納している。そしてこの年8月、後醍醐天皇の二度目の討幕計画が発覚、笠置山の挙兵に至るがひとまず敗北に終わる。翌元弘2年(正慶元)3月に後醍醐は隠岐へ配流となり、6月には日野俊基や北畠具行など後醍醐側近の公家らが相次いで処刑される。

 佐渡の日野資朝に対しても処刑命令が下り、6月2日に斬刑に処された。『太平記』では父が処刑されると知った資朝の子・阿新丸(くまわかまる)が佐渡に渡り、処刑の前に一目会おうとしたが果たせず、夜中に守護の本間山城入道の屋敷に忍び込んで、斬首をした本間三郎を殺して仇討をしたという有名なエピソードが語られている。この阿新丸はのちに日野邦光として南朝の中核となったとされるのだが、資朝の処刑を元弘の乱勃発前にずらしたうえに独立した説話の性格が強く、そのまま史実であるかはかなり疑わしい。

 『増鏡』によると処刑直前に資朝は「四大本無主 五蘊本来空 将頭傾白刃 但如鑚夏風(四つの元素にもともと主はなく、五つの感覚ももともと空(くう)である。さあ白刃に首を傾けよう、一瞬の夏風が吹くようなものだ)」と辞世の頌(じゅ)を詠んだとされる。これは中国・晋の肇法師が秦王に処刑される時に詠んだ「四大元無主 五陰本来空 将頭臨白刃 猶似斬夏風」をもじったもの。元の使者として来日し北条時宗に斬られた何文着が詠んだ頌「四大元無主 五蘊悉皆空 両国生霊苦 今日斬秋風」もこれを下敷きにしており、資朝の宋学への傾倒をうかがわせる。なお『太平記』では「五蘊仮成形 四大今帰空 将首当白刃 截断一陣風」となっていて大意は同じだが季語がないなど微妙な違いがある。

 資朝の墓は自身が法華経を収めた佐渡・妙宣寺にある。のちに資朝は後醍醐による「建武中興」の先駆け(最初の犠牲者)として南朝正統論の広まりと共に評価が高くなり、明治になって「南朝忠臣」が軒並み神格化されるなか、明治9年(1876)に佐渡・真野宮に祭神として合祀された。さらに同じ佐渡の大膳神社、後醍醐を祭る奈良の吉野神宮にも合祀されている。
 資朝の長男・朝光の子の資夏と、資朝の子で仇討ちで名高い「阿新」こと邦光は南朝に仕えた。一方で資朝の兄・資名と弟の三宝院賢俊は持明院統=北朝貴族の中心となって足利家との連携に奔走し、やがて足利将軍家と度重なる縁組をして室町時代の有力貴族となる基礎を築くことになる。

参考文献
森茂暁「太平記の群像」
村松剛「帝王後醍醐」ほか
大河ドラマ「太平記」第5回のみの登場(演:佐藤文裕)。正中の変の直後、日野俊基(演:榎木孝明)と共に鎌倉に護送されてくる場面で姿を見せるだけで、ここでも俊基の陰に隠れてしまった形。
その他の映像・舞台1983年のアニメ「まんが日本史」では森功至が声を演じた。
歴史小説ではかなり面白い人物なのだが、南北朝動乱の序盤で退場してしまうため、小説類では意外なほど印象が薄い登場しかしていない。二度の討幕計画に関与し楠木正成と関わることにされやすい日野俊基に食われてしまった感もある。『太平記』で印象の強い阿新丸の仇討は歴史小説でもそのまま採用されてる例が多いが、資朝はあくまで「阿新丸の父」として出てくるにすぎない。
漫画作品では最初の正中の変に関わっていることもあって、俊基ともども登場率はかなり高い。学習漫画系の南北朝もの、太平記ものではまず皆勤。ただ特に個性が描かれているわけではない。

日野資名
ひの・すけな1286(弘安9)-1338(暦応元/延元3)
親族父:日野俊光 母:藤原寛子 妻:芝禅尼(後室) 兄弟:日野資朝・日野(柳原)資明・律師浄俊・三宝院賢俊
子:日野時光・日野房光・日野氏光・日野名子(西園寺公宗室、「竹むきが記」作者)・日野宣子・女子(鷹司冬雅室)・大津山資基? 
官職文章博士・参議・権中納言・権大納言
位階正二位
生 涯
―持明院統の有力公家―

 代々儒学を家業とする日野家の嫡男として生まれる。次男だが長男が早世したらしい。父の俊光は持明院統派に属する公家として活躍しており、伏見上皇の信任を得て文保元年(1317)にそれまで日野家の上限とされた中納言を越えて権大納言に昇進しており、嫡男の資名も同時に権中納言となっている。しかし弟(恐らく異母弟)資朝は対立する大覚寺統の後醍醐天皇の側近となったため元亨2年(1322)に父・俊光から勘当され、2年後に発覚した「正中の変」で佐渡に流罪になっている。
 俊光は嘉暦元年(1326)に使者として赴いた鎌倉で急死し、資名は鎌倉に急行してその弔いを行い、父を引き継いで持明院統の有力公家として活動した。元徳2年(1330)に正二位に叙せられている。

 元弘元年(1331)8月に後醍醐天皇が討幕の挙兵をして笠置山に立てこもると、鎌倉幕府は後醍醐を廃位して大覚寺統の光厳天皇を擁立した。9月末に笠置山は陥落して逃亡した後醍醐は捕えられ、10月4日に京・六波羅に連行されてくると、花園上皇の意向を受けた日野資名が後醍醐の持つ神器(剣と勾玉)を受け取るため六波羅を訪れている。このとき資名は花園の院政を助ける「院の執権」をつとめており、翌正慶元年(1332、元弘2)に資名は権大納言に出世し、父子二代続けての昇進に大いに喜んだことが『増鏡』に書かれている。

 しかし栄華は長くなかった。わずか1年後の正慶2年(1333、元弘3)初頭には後醍醐の隠岐脱出、楠木正成護良親王赤松円心ら後醍醐派の攻勢も強まり、資名は持明院統の皇族・公家らと共に六波羅探題に移った。ついに5月には幕府の重鎮である足利高氏が後醍醐側に鞍替えして六波羅を攻撃、5月7日に六波羅は陥落した。持明院統皇族と公家たちは北条仲時に連れられて関東を目指して逃亡を図ったが、『増鏡』によると資名は同行はしたものの足を悪くして東山周辺でとどまったという噂があったらしい(「…など言ひしはいかがありけん(というのだが、どうだったのだろう)」と表現されている)。だが『増鏡』は一行が行き詰まった番場の宿まで同行した公家の中に資名と弟の資明の名を入れている。

 結局六波羅の一行は近江・番場宿で行く手を阻まれ、武士たちは集団自決して果てた。同行していた公家たちも絶望し、資名らはその場で髻(もとどり)を切って出家してしまった。
 『太平記』はここで短い小噺を挿入している。資名は辺りの辻堂にいた遊行の聖(ひじり)を呼んで、これを戒師として出家しようとした。聖が髪を剃ろうとすると資名が「出家の時は、なにやら四句の偈(げ=韻文)を唱えると聞きましたが」と言いだし、そんなものを知らなかった聖は適当に「汝是畜生発菩提心(お前は畜生である。菩提心を起こせ)」の一句を口にした。一緒に出家しようと髪を洗って待機していた三河守友俊がこれを聞いて「命惜しさに出家しようというところへ『お前は畜生だ』と言われるとは、まったく悲しくなるなぁ」とツボにはまって大笑いした、という話である。凄惨な集団自決場面のあとに入る、息抜きとも感じるユーモラスな場面で、持明院統派の公家たちの没落ぶりをあざわらうような一幕となっている。

―足利と結びつき隆盛―

 後醍醐天皇が復権して建武の新政が始まると、当然ながら資名ら持明院統派は逼塞を余儀なくされた。弟の律師浄俊は護良親王の側近として一時力をもったらしいが、護良が尊氏と対立した末に後醍醐の指示で逮捕されると建武元年(1334)12月に攻撃を受け殺害されている(『尊卑分脈』)

 建武2年(1335)6月に資名の娘・名子の夫である西園寺公宗北条泰家(高時の弟)と共に後醍醐暗殺未遂を計画するが、弟の公重の密告で発覚し、6月22日に関係者は一斉に検挙された。このとき西園寺公宗と共に日野資名とその息子氏光がそろって逮捕されている(下級公家・小槻匡遠の日記に明記)。公宗は間もなく事故にかこつけて処刑され、氏光も処刑されるが、資名については何らかの処分がなされかどうか確認できない(小槻匡遠の日記では「息子の陰謀を知りながら同意し通報しなかった」ことが罪状に挙げられてはいる)。実子と娘婿がそろって処刑されているので無事では済まなかったと思われるが、直接的な処分を受けた形跡がないところからすると彼自身は陰謀に直接関与はしていなかったのかもしれない。

 間もなく足利尊氏が建武政権に反旗を翻し、いったん京を占領するが敗れて九州へと下ったが、このとき尊氏は持明院統に接触、光厳上皇の院宣を得ることに成功する。この院宣獲得には日野資名らが深く関わったとされ、尊氏のもとへ院宣を届けたのは資名の弟・三宝院賢俊だった。この経緯からすると日野家は以前から尊氏と接点を持っていたと推測される。
 やがて尊氏は九州から東上、湊川の戦いに勝利して京を再占領した。後醍醐らは比叡山に逃れて光厳ら持明院統の皇族も同行させようとしたが、光厳たちは途中で病を装って離脱、尊氏が本陣を置く東寺に駆けこんだ。このときも日野資名が光厳らに同行している。この直後に光厳の弟・豊仁親王が即位、光明天皇となる。

 その後、後醍醐と尊氏のいったんの和議、後醍醐が吉野に脱出して南北朝動乱の始まりと事態は変転していくが、日野家は「北朝」の立役者および足利家との連絡役としてその地位を高めた。それを見とどけつつ資名は建武5年(1338、延元3)5月2日に享年53歳で死去した。
 資名の後妻「芝禅尼」は資名死去直前に生まれた光厳の皇子・弥仁親王の乳母となり、この弥仁が運命の悪戯で後光厳天皇になる。弟の賢俊は尊氏の護持僧となってその腹心として権勢をふるった。嫡子・時光の娘の業子足利義満の正室となるなど日野家隆盛の時代が築かれていくことになる。

参考文献
森茂暁「太平記の群像」ほか
大河ドラマ「太平記」第30回に登場(演:須永慶)。この回の冒頭では西園寺公宗の後醍醐暗殺計画の顛末が描かれており、公宗・公重・泰家らと密談するシーンがある。襲撃してきた新田義貞(史実ではない)に公宗らとともに逮捕される場面でも顔を見せている。
歴史小説では小説類では光厳の側近の一人として名前が出てくるだけで、とくに印象に残るものではない。
PCエンジンCD版なぜか佐々木道誉の配下武将として近江に登場する。初登場時の能力は統率46・戦闘41・忠誠81・婆沙羅69
メガドライブ版なぜか「足利帖」でプレイすると後半シナリオで足利方武将として登場する。能力は体力60・武力50・智力85・人徳56・攻撃力31

日野資教
ひの・すけのり1356(延文元/正平11)-1428(正長元)
親族父:日野時光
兄弟姉妹:日野(裏松)資康・日野業子(足利義満正室)・日野西資国・洞院公定室・甘露寺兼長室
子:日野有光・日野秀光  養子:日野西資子(後小松後宮)
官職蔵人・権右中弁・蔵人頭・参議・院執権・検非違使別当・右衛門督・左衛門督・権中納言・権大納言
位階正四位下→従三位→正三位→従二位→正二位→従一位
生 涯
―義満の義兄弟として権勢をふるう―

 権大納言・日野時光の子。異腹の兄に日野(裏松)資康がいるが資教が嫡男とされ、貞治6年(正平22、1367)の父の急逝により日野家の家督を継いだ。叔母の日野宣子は宮中に強い影響力を持ち、同腹の姉妹・業子はその宣子の仲介で永和元年(天授元、1375)ごろに三代将軍足利義満の正室となっており、資教も義満の義理の兄弟という立場を生かして義満の側近としてふるまうようになる。永和3年(天授3、1377)に後円融天皇の第一皇子・幹仁親王(後の後小松天皇)が生まれると、日野資教がその乳父となり、親王を自宅に引き取って養育に当たっている。

 永和4年(天授4、1378)3月24日の徐目で資教は五位蔵人からひとっ飛びに蔵人頭に異例の昇進を遂げた(通例なら四位蔵人にいったんなる)。この出世について三条公忠は日記の中で「武家(将軍)と結びつき、その推薦によるもので、道理や先例をわきまえぬ人事だ」と憤慨している(後愚昧記)。またこの時期、資教の家臣で業子の乳父でもあった能登武士・本庄宗成が能登守護職を望んで騒ぎを起こしており、これも義満ひいては資教の権勢を後ろ盾にした行動として周囲からは煙たがられていたようである。
 この年の暮れに資教はさらに参議に任じられ、以後、検非違使別当・右衛門督・左衛門督・権中納言と順調に出世していった。永徳2年(弘和2、1382)に後円融の院政が始まると、院執権をつとめている。

 明徳3年(1392)に南北朝合一が成立、閏10月2日に南朝の後亀山天皇が京都・大覚寺に入ると、翌日に資教ら北朝の上級公家数名が大覚寺につかわされ、「三種の神器」を受け取って北朝の皇居・土御門内裏へ運びこんでいる。この年から資教は権大納言に任じられ、十年間つとめている。
 明徳5年(1394)に改元が行われることとなり、義満が「洪徳」を強く希望したため、資教はその意を受けて会議で「洪徳」を強く主張した。しかし坊門俊任が「洪の字は不吉」と強く反対すると「一言に及ばず」黙りこんでしまった。結局この時の改元では甥の日野重光が提案した「応永」が採用されている。

 応永7年(1400)には姪の日野西資子を自身の養女としたうえで後小松天皇の後宮に入れ、この資子が称光天皇らを産んだため天皇の外戚の地位も得ることとなった。
 応永12年(1405)には従一位に叙せられ、これを「上がり」として11月(尊卑分脈では7月)に出家、「性光」と号した。しかし引退後も義満の義兄弟として一定の影響力を保持したようである。応永27年(1420)に後小松の子・小川宮が「奇行」を起こして後小松の逆鱗に触れるという事件があり、小川宮は一時逐電して母・資子の養父である資教の屋敷に身を寄せている。

 応永28年(1421)、資教の子・日野有光が大納言に任じられ、同じ日野流になる広橋宣光がその拝賀につき従うことを命じられたが、宣光の父で資教とはライバル関係にあった広橋兼宣がそれを拒絶するという事件が起こる。資教はこの兼宣の態度に怒って後小松上皇と将軍足利義持に訴え、兼宣を一時謹慎、所領の一部没収に追い込んでいる。
 さらに応永32年(1425)に兼宣が出家引退と同時に「准大臣」の宣下を受けることが内定すると、資教は「兼宣に官位を越されるのは恥辱」とごね出して後小松に運動、結局兼宣と同日の4月27日に「准大臣」宣下を受けた。ただし資教はすでに出家しているため、手続き上は彼の出家時(つまり20年も前)の時点で宣下を受けたことにされている。
 正長元年(1428)5月1日に73歳で死去した。日野家本流は息子の有光が継いだが、有光はのちに南朝残党と組んで神器奪取事件を起こし、処刑されることとなる。

日野資康
ひの・すけやす1348(貞和4/正平3)-1390(明徳元/元中7)
親族父:日野時光
兄弟姉妹:日野資教・日野業子(足利義満正室)・日野西資国・洞院公定室・甘露寺兼長室
妻:池尻殿(慈隆)・西向
子:日野(裏松)重光・烏丸豊光・日野康子(足利義満正室)・日野栄子(足利義持正室)
官職蔵人頭・左大弁・参議・権中納言・按察使・院執権・左衛門督・検非違使別当・権大納言
位階正四位上→従三位→正三位→従二位→正二位→従一位
生 涯
―将軍正室を輩出した裏松家のルーツ―

 権大納言・日野時光の子。資康の方が兄だったが生母は「家女房」とされ、もともと嫡子とはみなされなかったらしい。貞治6年(正平22、1367)に時光が急逝すると異母弟の資教が家督を継いでおり、資康の系統は日野家の中でも「裏松家」と称されるようになる。姉妹の日野業子が三代将軍足利義満の正室になったほか、叔母の日野宣子が宮中に影響力を持っており、兄弟の資教ともども義満の側近公家として活動している。

 永和元年(天授元、1375)11月23日に後円融天皇の即位後初の新嘗祭「大嘗会」が催され、資康は担当奉行に任じられていた。にもかかわらず当日、資康は北野の斎場に遅刻して到着、後円融を待たせてしまった上に、人手不足からかなり省略した形の儀式にさざるをえなくしてしまった。
 永和4年(天授4、1378)に参議に昇進。永徳2年(弘和2、1382)4月に後円融が子の後小松天皇に譲位して院政を開始すると資康は院執権となってそれを補佐、また伝奏として幕府と院の連絡役もつとめた。翌永徳3年(弘和3、1383)2月に後円融が妃の三条厳子按察局らと義満の密通を疑って騒動を起こすと、義満の弁明を伝えるべく日野資康・広橋仲光が使者として後円融のもとへ向かったが、後円融は使者たちと会うことを拒絶、しかも自身が流刑になるのではとの噂を聞いたこともあって錯乱し、持仏堂にこもって自殺をくわだてる騒ぎにまでなっている。
 永徳3年(弘和3、1383)に権大納言、明徳元年(元中7、1390)に従一位に昇ってその年の8月10日に死去した。日野家の系図では「烏丸一位」あるいは「真浄院」と称されている。
 子の重光も義満の腹心となり、娘の康子は義満の二人目の正室、もう一人の娘・栄子も足利義持の正室となり、日野家の主流も裏松家に移って歴代の将軍正室を出すことが恒例となってゆく。なお、資康の妻で重光・康子の生母となった「池尻殿」と呼ばれる女性がおり、義満の愛妾でその子を産んだ女性にも「池尻殿」がいることから同一人物とみる説もあるが、年齢的に無理があるため縁戚関係のある別人と見た方がよさそうである。

参考文献
早島大佑『室町幕府論』ほか

日野時光
ひの・ときみつ1328(嘉暦3)-1367(貞治6/正平22)
親族父:日野資名
兄弟姉妹:日野房光・日野氏光・日野名子・日野宣子
子:日野資教・日野資康・日野西資国・日野業子(足利義満正室)ほか
官職蔵人頭・左中弁・参議・右大弁・左大弁・越前権守・右衛門督・検非違使別当・権中納言・左衛門督・権大納言
位階従四位上→従三位→正三位
生 涯
―死後に義満の舅となる―

 権大納言・日野資名の子で、日野家第19代当主。初名は「栄光」といった。父の資名は持明院統の重臣だったが暦応元年(延元3、1338)に死去しており、時光の兄・房光は幕府滅亡時に出家、もう一人の兄・氏光は建武2年(1335)の西園寺公宗事件に連座して処刑されている。時光が日野家を引き継いだのはまだ11歳の時であった。
 延文3年(正平13、1358)に参議となり、翌延文4年(正平14、1359)に検非違使別当、さらに延文5年(正平15、1360)に権中納言に昇った。貞治3年(正平19、1364)に正三位に叙せられた。後光厳天皇の信任を得て伝奏・議定衆をつとめて朝廷と幕府の間の連絡役を務めた。
 貞治6年(正平22、1367)の5月から病の床につき、重態となったため9月19日の小徐目で権大納言に任じられ、9月25日に享年40歳で死去した(「愚管記」「公卿補任」)
 彼の死後のことであるが、娘の業子が三代将軍・足利義満の正室となり、日野家が足利将軍家と結びついて隆盛するきっかけを作ることになる。

日野俊光
ひの・としみつ1260(文応元)-1326(嘉暦元)
親族父:日野資宣 母:賀茂神社・県主能継の娘
妻:阿野寛子
子:日野資名・日野資朝・日野(柳原)資明・日野資冬・日野雅光・律師浄俊・三宝院賢俊
官職宮内権大輔・春宮権大進・文章博士・蔵人・越中介・中宮大進・春宮大進・右少弁・左少弁・右中弁・右宮城使・左中弁・右大弁・蔵人頭・左大弁・造東大寺長官・参議・修理大夫・権中納言・右兵衛督・検非違使別当・治部卿・大宰権帥・按察使・権大納言・兵部卿
位階従五位下→従五位上→正五位下→従四位下→従四位上→正四位下→正四位上→従三位→正三位→従二位→正二位
生 涯
―たびたび鎌倉に赴き客死―

 権中納言・日野資宣の子で、日野家第17代当主となった。皇室の両統対立の情勢の中では主に持明院統側に立ち、伏見天皇の側近として活動した。後伏見花園光明の持明院統の三天皇が俊光を乳父としている。一方で大覚寺統の後宇多上皇の院政を院司として補佐したこともある。俊光の息子たちも、資名資明賢俊は持明院統、資朝浄俊は大覚寺統、とそれぞれ分かれて活動している。
 永仁3年(1295)に参議、永仁5年(1297)に権中納言、文保元年(1317)にそれまでの日野家の極官を越える権大納言まで昇進し、同年に辞職。元亨元年(1321)10月22日に後伏見上皇の使者として鎌倉に赴いているが、これはその数日前に後宇多上皇が吉田定房を鎌倉に派遣して後醍醐天皇の親政開始を幕府に伝えており、それに対抗して持明院統側から幕府に働きかけを行うためだったとみられる。
 正中元年(1324)3月23日にも俊光は花園上皇の命でまたも鎌倉に向かい、室町院の遺領に関して幕府に問い合わせをしている。なお、俊光はこれ以前に、花園上皇が後宇多に所領を奪われた件で自身にも反省すべき点があるという態度を示したことに「馬鹿げたことを」と批判したとの逸話がある(「花園天皇日記」)

 この正中元年の8月に後醍醐天皇による倒幕計画が発覚、俊光の息子・資朝はその首謀者として捕えられ、佐渡へ流刑となった。この大覚寺統の失点を見逃さず、後伏見は翌正中2年(1325)6月30日にまたも俊光を鎌倉に派遣し、皇太子問題について幕府に運動を行っている。俊光は10月に帰京したが、翌嘉暦元年(1326)3月に皇太子・邦良親王(大覚寺統・後二条天皇の皇子)が急死したため、4月28日にまたまた鎌倉に派遣された。こうした鎌倉への使者派遣を朝廷の各派が行い、当時の人々はそのありさまを「競馬(くらべうま)」とからかったという。
 たびたびの鎌倉下向の旅がたたったのか、5月15日に俊光は鎌倉で客死してしまった。享年67。嫡男の日野資名が急報を受けて鎌倉に向かい、その弔いを行っている。

日野俊基
ひの・としもと?-1332(正慶元/元弘2)
親族父:日野種範 
官職大内記・蔵人・右少弁・左少弁・右中弁
位階五位→正五位下→従四位下→贈従三位(明治20年)
生 涯
 後醍醐天皇の腹心となり、その討幕計画の先駆けとなって正中の変・元弘の変の首謀者として悲劇的な最期を遂げたことで有名な公家。

―後醍醐腹心の下級公家―

 代々儒学を家業とする日野家の生まれだが、同じ後醍醐の側近である日野資朝とは遠い親戚ではあるものの俊基は傍系に属し、家格はかなり低かった。生年が不明であるのもそのためであろう。
 彼がどのようにして後醍醐天皇に接近したのかは明確ではないが、恐らく同族の日野資朝と共に宋学の勉強会に参加するうちに頭角を現し後醍醐の目にとまったものと思われる。元応2年(1320)9月7日の花園上皇(持明院統)の日記には近頃宮中で儒学ブームが起こっていることを称賛し、そのなかで吉田冬方と日野俊基が特に目立つと記されている。

 後醍醐の親政が開始されて二年目の元亨3年(1323)6月、俊基は蔵人(天皇の秘書官役)に抜擢される。俊基の家格ではありえない大抜擢で、当時公家社会でかなりの批判があったことが花園上皇の日記からうかがえる。だが花園は交友のある資朝から後醍醐の名君ぶりを吹き込まれていたからか、「俊基の才能については知らないが、有能な者を抜擢するのはよいことだ」として批判の声に対する批判を記している。

 俊基が異例の抜擢を受けたのはその才能もさることながら後醍醐がこのころ倒幕の決心を固め、資朝と俊基がその中心人物となったためと思われる。『太平記』によれば俊基は朝議でわざと漢字を読み間違えて「恥じ入って謹慎」と装い、ひそかに山伏に変装して各地の要害や人物を探索し、倒幕戦の情報収集をしたとされる。『増鏡』では山伏に変装するのは資朝になっているが、俊基も「紀伊に湯浴みに行く」と称して畿内を探索したとされている。

 このような情報収集と味方となる武士のスカウトを進め、資朝と俊基は「無礼講」あるいは「破仏講」とされる乱痴気騒ぎの宴会を開き、そこで討幕計画を具体的に話し合っていた。この宴会には後醍醐自身も参加していたと推測される。そして元亨4年(1324)9月23日に北野社の祭礼に合わせて決起する計画を立てた。
 しかしこの計画は同志に加わっていた土岐頼員の密告(やはり同志だった峰の祐雅の密告もあったとされる)で幕府に漏れ、9月19日早朝に六波羅探題の軍勢が土岐頼兼・多治見国長の宿所を襲撃して両名を討ち取った(正中の変)。六波羅探題は計画の首謀者として資朝・俊基の引き渡しを朝廷に求め、夜八時ごろになって俊基は六波羅に出頭した。そのまま俊基と資朝は鎌倉へ送られ、尋問を受けることになった。このとき資朝と俊基のあいだで事前の打ち合わせでもあったのか、すべての責任は資朝が負って佐渡島へ流刑となり、俊基は無罪として釈放された。

―無念の刑死―

  正中の変の責任をとる形で直後に蔵人を辞した俊基はしばらく謹慎の身となっていたらしくおよそ6年間動静が全く伝わらない。だがひとまず幕府から退位を迫られる危機を脱した後醍醐は慎重に再度の倒幕計画をすすめ、その中心にやはり俊基がいたと考えられる。元徳2年(1330)末から俊基は右少弁・左少弁・右中弁を歴任、元弘元年(1331)3月に従四位下に叙せられるなど朝廷内での復権を進めており、それと同時に倒幕計画を再び具体化していった。

 しかしこの年の4月末、計画は再び密告によって露見する。それも後醍醐の親代わりともいえる乳父・吉田定房が計画を密告し、日野俊基を首謀者と名指ししていた。幕府は鎌倉から長崎高貞南条高直を京に派遣、5月11日に京に入ってただちに俊基ら計画の関係者の逮捕にとりかかった。『増鏡』によれば俊基は直前に察知したのか内裏へと逃げ込んだ。内裏の中ならさすがに幕府も手が出せないとみたのだが、追手の武士たちは内裏の中まで入って衛府の陣(皇居警備事務所)のあたりまで侵入して声を上げて大騒ぎした。このとき後醍醐は熱病のために寝込んでいて朦朧として事態を把握できない状態で、その間に俊基の身柄は六波羅探題に引き渡されたと『増鏡』は書いているのだが、後醍醐は俊基引き渡し後に意識を取り戻しており、追及が自分に及ばぬよう熱病を装って俊基を見殺しにしたのではないかとの見方も根強い。定房の密告も後醍醐の指示との説もあり、その後も後醍醐は保身のために腹心を平気で切り捨てる例が複数ある。

 捕縛された俊基は鎌倉へと送られた。二度目の逮捕であり今度ばかりは無罪というわけにはいくまいと覚悟して京を離れる模様は『太平記』の「道行き文」に描かれ、リズミカルな名文と知られる。『太平記』ではそのまま鎌倉に入って直後に処刑されたように書いているが、『常楽記』では処刑の日はほぼ一年後の「正慶元年(1332)6月3日」とある。後醍醐が挙兵に一時失敗して隠岐に流されたあと、この6月に後醍醐側近の公家たちの処刑・処分がいっせいに行われているので俊基の処刑も実際にはこの時期のことと思われる。ほぼ一年の抑留生活を俊基がどのように送ったかは分からないが、後醍醐の挙兵とその敗北を聞いた上の処刑であり、絶望的な思いで死んでいったのではないだろうか。

 『太平記』によれば俊基の処刑は工藤高景の立ち合いのもとで鎌倉・葛原が岡で執行された。このとき俊基の従者・後藤助光が処刑直前の俊基に面会して俊基の妻からの手紙を届け、俊基は自身の髪を切りそれを妻に届けるよう命じたという。辞世の頌は「古来一句 無死無生 万里雲尽 長江水清(古来より「死もなく生もない」という一句がある。万里に雲が尽き、長江の水が清らかなように私の心は爽やかだ)」というものであった。この前日に佐渡では同志の資朝も処刑され、やはり死もなく生もないという禅宗にも通じる気分をうたった辞世を詠んでいる。
 助光は俊基の遺髪と遺骨を俊基の妻に届け、これを見た妻は悲しみのあまり気絶、四十九日の仏事ののち出家して尼となり亡父の菩提を弔った。助光も出家して高野山に入り亡君の冥福を祈ったと『太平記』は伝える。俊基の死のおよそ一年後には形勢は逆転して鎌倉幕府は滅亡するのだが、それから間もなく後醍醐の新政も崩壊していくので、それを見ずに死んだだけ俊基は幸福だったかも知れない。

 日野俊基は江戸時代以降に南朝顕彰の機運が高まるなかで「建武中興」の先駆けとして称揚されるようになり、明治20年(1887)には明治天皇の発意ということで従三位が贈られ、俊基を祭神とする葛原岡神社が創建された。現在、その神社の南に「俊基墓所」があるが、そこに建つ印塔は室町初期の様式で、しかも近代になってから周囲にあった石を寄せ集めて作ったものであるという。

 余談ながら、俊基はその手紙の内容からを患っていたことが判明している珍しい歴史人物である。

参考文献
森茂暁「太平記の群像」
御所見直好「日野俊基」(「歴史と旅」臨時増刊「太平記の100人」所収)ほか
大河ドラマ「太平記」吉川版を原作としているため、俊基はドラマ序盤の重要人物となった。演じたのは榎木孝明で、公家サンらしい上品さを醸しだしつつ、山伏に変装して格闘したり、高氏と二人乗りで馬にまたがってジャンプしたり、内裏で六波羅勢と大乱闘したりとアクションシーンも多かった。「私本」よりもずっと活躍の幅が広く、山伏に変装して鎌倉を調査して高氏や義貞と接触したり、正成や伊賀の悪党を倒幕計画に誘うなど登場人物たちを後醍醐に結びつける役割を果たした(ただし後醍醐との共演場面は意外にもない)。その刑死も高氏が見守るなか古典そのままに再現されたが、吉川原作に従ったため元弘の乱直前に処刑されることになっていた。
その他の映像・舞台1983年のアニメ「まんが日本史」で戸谷公次が声を演じている。
歴史小説では『太平記』で山伏に変装したとされること、道行き文で有名なことから資朝よりも小説類で登場する機会が多い。特に楠木正成を発掘して倒幕計画に誘ったのは俊基ではないかとの推測が早くからあり、戦前の直木三十五、大仏次郎らによる楠木正成小説ではいずれも俊基が正成を発掘する筋書きになっている。
 戦後でも吉川英治の大作『私本太平記』がこれを踏襲して正成と俊基を結びつけたほか、俊基が宋学を説く姿を京都見物中の高氏(尊氏)が目撃したり、処刑直前の俊基のもとを高氏が訪ねてきて酒を酌み交わすなど尊氏との接点も多く作られた。古典『太平記』では名が出てこない俊基の妻も「小右京」という美女に設定され、道誉がそれを狙うといった展開も加えられている。吉川英治は『増鏡』にもとづいて内裏に逃げ込んだ俊基が六波羅の兵士たちと大立ち回りの末に逮捕される劇的な場面を描き、その最期も印象的なものとしているが、古典「太平記」同様にその死を元弘の乱の直前としている。
漫画作品では南北朝を扱う学習漫画ではほぼ確実に登場。一般漫画作品では横山まさみち「コミック版太平記」の正成編や、岡村賢二「私本太平記」で印象的な登場をしている。

日野俊基の妻ひの・としもとのつま
生没年不詳
親族夫:日野俊基
生 涯
―夫を処刑された悲劇の妻―

 『太平記』巻2に、日野俊基の「北の方」として登場する女性。その経歴は全く不明である。
 元弘の変によって夫・俊基が捕えられ鎌倉に連行されると、彼女は家臣の後藤助光に守られて嵯峨に隠れ住んだ。夫の安否が不安でならなかった彼女は俊基への手紙をしたためて助光に鎌倉へと届けさせる。助光は鎌倉で処刑直前の俊基に対面して手紙を渡し、その返事と遺髪、および俊基の遺骨を抱えて京に戻った。俊基の妻は俊基が処刑されるとまでは思っていなかったのか、助光に「いつお戻りになるのか?」と問うたが、処刑の事実を聞かされ形見の品を渡されて悲嘆にくれたという。俊基の四十九日にあたる日に髪をおろして尼となり亡父の菩提を弔ったという。
 『太平記』のこの逸話は『平家物語』を参考に創作された可能性が高いとみられているが、そのような女性がいたことは十分に想像できる。
歴史小説では吉川英治『私本太平記』では「小右京の局」という名もつけられ、もと後宇多後宮にあった美女で、俊基と恋愛結婚したという設定になっている。その美貌に目を付けた佐々木道誉に狙われたりもする。
漫画作品では
岡村賢二・作画の『劇画・私本太平記』で吉川英治原作の展開に従って登場している。

日野業子
ひの・なりこ(ぎょうし)1351(観応2/正平6)-1405(応永12)
親族父:日野時光
兄弟姉妹:日野資教・日野(裏松)資康・日野西資国・洞院公定室・甘露寺兼長室
夫:足利義満
官職准后
位階従三位→従二位→従一位
生 涯
―義満最初の正室―

 権大納言・日野時光の娘。日野資教とは母を同じくする。もともと後円融天皇の後宮に入って典侍をつとめ「新典侍」と称されていたが、永和元年(天授元、1375)ごろに伯母で宮中に影響力を持っていた日野宣子の仲介により、将軍・足利義満の正室となった。当時業子が25歳、義満が18歳で、業子は七歳年上の「姉さん女房」であった。
 当初夫婦仲は円満であったらしく、永和3年(天授3、1377)正月に業子が中条兵庫頭邸で出産した際には義満が産所まで押しかけて同宿しており、異例のことと人々から驚かれている。将軍の初子誕生を期待して諸大名は祝いの品を用意して馳せ集まったが、このとき生まれたのは女児で、しかも死産であった。

 翌永和4年(天授4、1378)3月に新将軍邸「花の御所」(室町第)がほぼ完成すると、業子は義満ともどもここに移った。同時期に義満が権大納言となると業子も従三位に叙せられ、それまで業子について「大樹妾」「大樹寵人」といった表現をしていた公家たちの日記も彼女を「室家」「御台(みだい)」と表現するようになる。叙位によって公式に「将軍正室」と上流社会に認知されたのである。
 しかし女児の死産後は義満の寵愛が薄れたとみられる。この永和4年の10月に業子は出産のためとして室町第を出て産所の伊勢邸に移ったが、結局出産のないまま12月に室町第に戻っている。恐らく実際には妊娠もしておらず、自分に冷たくなってきた義満の気を引くために妊娠をいつわったのだろうと見られている。

 以後、義満は多くの女性を側室に迎えて多くの子女をもうけているが、業子には死産の女児以外に実子はいなかったと考えられる。義満の子とされる仁和寺門跡の法尊について『諸門跡伝』が母を業子としているが、単に義満の正室であったからそのような書き方にしたと見られる。義満との夫婦関係は冷却していたようだが、義満の正室としての地位・待遇は保たれ、公の場にも義満夫人として顔を出している。永徳元年(弘和元、1381)3月の後円融天皇の室町第行幸の際に従二位に叙せられた。

 南北朝統一後、応永元年(1394)に義満は嫡子の足利義持に将軍職を譲り、やがて出家して北山第を建設してそこへ移った。この頃には業子の姪・日野康子が義満の室となっていたとみられ、業子は北山第には同行せず将軍・義持と共に室町第に残った。義満の正室であることから業子は将軍義持の「准母」と扱われたようである。
 応永12年(1405)に入って業子は重い病を得た。7月9日に義満が自ら室町第に彼女を見舞うと、業子は出家の素懐を申し出て許された。それから間もない7月11日に55歳で死去した。その死にあたって、生前に授けたという形で従一位・准后に叙せられ、空谷明応により「定心院殿大喜性慶禅定尼」の法号が贈られた。
 業子の死後、姪の康子が義満正室を引き継ぎ、以後将軍正室は日野家から出ることが恒例化する。

参考文献
臼井信義『足利義満』(吉川弘文館・人物叢書)
小川剛生『足利義満・公武に君臨した室町将軍』ほか
歴史小説ではとくに目立つ描写があるわけではないが、義満を主人公とした平岩弓枝『獅子の座』などに登場している。
漫画作品では石ノ森章太郎『萬画・日本の歴史』の第20巻は義満時代全般が描かれており、業子がところどころに登場する。義満と業子の夫婦が室町第の庭を散策しながら状況説明をする場面が二回あり、夫婦仲のよい時期には義満が業子のために庭を花で埋め尽くし、それを見た業子が「花の御所となづけましょう」と口にしている。義満出家後にも夫婦で庭を散策するが、政治的な生臭い話ばかりする義満に業子が呆れる描写がある。

日野宣子
ひの・のぶこ(せんし)?-1382(永徳2/弘和2)
親族父:日野資名
兄弟姉妹:日野時光・日野房光・日野氏光・日野名子(西園寺公宗室)・鷹司冬雅室
夫:西園寺実俊
子:女子(後光厳典侍)・女子(九条忠基室)
官職准后
位階従二位→従一位
生 涯
―日野家繁栄の基をつくった女性―

 権大納言・日野時光の娘。文和元年(正平7、1352)に後光厳天皇が15歳で即位すると、すぐに典侍としてその後宮に入った。当時の日記類では宣子のことを「禁裏御介酌」とか「御乳母」と記しており、後光厳の妃というよりは身の回りの世話をするずっと年上の「育ての親」的な存在であったとみられる。このため後光厳は生涯宣子に頭が上がらなかった。
 宣子は姉の日野名子の子、すなわち甥である西園寺実俊と夫婦関係にあり、女子を一人もうけている。後光厳は宣子の面影を彼女の娘に求めたのか、譲位後は北山の西園寺邸をしきりに訪問してこの宣子の娘を寵愛している。また後光厳に仕える六位蔵人・物加波懐国は宣子の愛人であったとされ、宣子の権威を借りて増長し人々から嫌われたが、後光厳は見て見ぬふりをしていたという。

 応安3年(建徳元、1370)に後光厳が子の緒仁親王(後円融天皇)に譲位して院政を開始すると、宣子は後円融の妃に三条公忠の娘・三条厳子を入れるよう強く運動し、渋る公忠を口説き落として実現している。このとき宣子は、後円融の生母・広橋仲子の住む「局」を取り上げて厳子に与えるといったことまでしている。一方で永和元年(天授元、1373)ごろには後円融の典侍となっていた姪の日野業子を将軍・足利義満の正室とする工作に成功、のちに将軍正室が日野家から出される先例をつくることになった。
 当時すでに従二位に叙されていた宣子は「二位局」と呼ばれ、応安7年(文中3、1374)に後光厳が死去するとその法要が行われた天竜寺で春屋妙葩により落飾、出家して「無相定円」と号し、「二品尼」と呼ばれるようになった。無学祖元の法統を継ぐ意翁円浄・金潭素城といった尼僧に参禅して学んだという。
 宣子は上記のように縁組の仲介をするだけでなく、特に青年義満が公家社会に入って行くにあたって大きな影響力をあたえたらしく、義満はしばしば宣子のもとを訪ね、ほとんど実母同然に敬愛していた。とうとう義満は室町第の敷地内の「岡松殿」に安禅所を設けて彼女を迎え、以後彼女は「岡松殿」とも呼ばれる。

 永徳元年(弘和元、1381)3月に行われた後円融の室町第行幸に際して、宣子は義満の義母(足利義詮の正室)である渋川幸子と共に従一位に叙されている。このため宣子は「岡松一品」と呼ばれるようになった。
 翌永徳2年(弘和2、1382)6月14日に宣子は死去した。宣子は死ぬ前に自身の仏事一切を義満に託しており、義満はその翌日に正覚寺で荼毘に付し、春屋妙葩ら五山の僧千余名が参加する盛大な葬儀を挙行した。宣子の遺骨が安聖寺に安置されると義満は同寺に斎戒精進してこもり金剛経を書写したうえ、義堂周信らを招いて禅の講義を聴くなどして宣子の菩提をとむらい、一連の仏事をすませた7月19日夜にようやく室町第に帰った。その後も月命日に必ず法要を行い、自身の晩年まで宣子の菩提を弔うことを欠かさなかった。こうした扱いは肉親でも他に例がなく、義満にとって宣子の存在がいかに大きかったかをうかがわせる。
 彼女の遺言により岡松殿は尼寺となり、姪の玉巌悟心が引き継いで宣子を開山とした「大聖寺」となり、今日まで続いている。

参考文献
臼井信義『足利義満』(吉川弘文館・人物叢書)
小川剛生『足利義満・公武に君臨した室町将軍』(中公新書)ほか

日野名子
ひの・めいし(みょうし)1310(延慶3)?-1358(延文3/正平13)
親族父:日野資名
兄弟姉妹:日野時光・日野氏光・日野房光・日野宣子
夫:西園寺公宗
子:西園寺実俊
位階従三位
生 涯
―光厳天皇の母親代わり―

 権大納言・日野資名の娘。初名は父の名の上の字を継いで「資子」といったが(「花園天皇日記」)、同名の女王がいたためか父の名の下の字をとった「名子」に改名したとみられる。父の資名は持明院統を支持する有力公家であり、名子も持明院統と深くかかわり続けた。
 量仁親王(のちの光厳天皇)の典侍として後宮に入ったが、花園天皇の日記で彼女を「乳母」と表現していることから、量仁親王の「母親代わり」「育ての親」の立場であったと見られる。彼女自身が後年記した回想録『竹向きが記』は、自身が育てた量仁親王の元服の日(元徳元年=1329年12月28日)から書き始められており、名子はその儀式の場の縮図を書くことを命じられたという。
 元弘元年(1331)8月、後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を目指して笠置山で挙兵し、9月20日に光厳が践祚した。間もなく後醍醐が捕えられ、後醍醐が持ち去っていた「三種の神器」のうち剣と勾玉も10月6日に光厳側に引き渡されたが、このとき典侍の名子が剣と勾玉を受け取って包みを取り換え、「夜の御殿(おとど)」に安置するという重要な役目を受け持っている。光厳の即位式は翌正慶元年(元弘2、1332)3月22日に挙行され、名子はこの儀式でも天皇の御簾をかかげる「蹇帳(けんちょう)」の右側をつとめた(「職掌録」)

 『竹向きが記』の記述から、名子が西園寺公宗と恋愛関係になったのは元弘元年の11月ごろからとみられる。公宗は幕府と朝廷の連絡役で持明院統とも深くかかわり、元弘の乱でも捕縛された後醍醐本人を確認する役割を果たした。持明院統の宮中にもしばしば出入りしており、その時に名子と関係ができたとみられる(公家社会では特に珍しい話ではない)。『竹向きが記』に公宗が登場するのは、その年の11月1日の夜、雪が積もるなか火のそばから動こうとしない名子に公宗が「どうしたんです、雪を怖がっているのかな」と声をかけた場面である。以後二人は逢瀬と和歌の贈答を繰り返して愛をはぐくんでいった。

 二人が正式に夫婦関係になったのは正慶2年(元弘3、1333)の正月ごろとみられている。西園寺家と日野家ではかなりの家格差があったが、公宗は名子を正室として迎えている。
 しかし直後に情勢は暗転する。後醍醐が配流先の隠岐から脱出、後醍醐に呼応した軍勢が京に攻め入る事態となり、光厳ら持明院統皇室は六波羅探題に避難した。そこへ関東から足利高氏の軍がやって来たので、光厳周辺は援軍来たりと喜んだが、その高氏が後醍醐方に寝返り、六波羅探題を攻撃したのである。『竹向きが記』ではその時の光厳周辺の恐慌ぶりを生々しく記していて、その急転直下ぶりを「浅ましともいみじとも言はん方なし」(あきれたとかひどいとかいった言葉では言い表せない)と記している。
 やがて六波羅勢と共に関東を目指した光厳は近江で捕らわれ、同行していた名子の父・資名や兄の房光はその場で出家してしまった。名子の驚きと嘆きをよそに、後醍醐が復位して建武の新政が開始される。

―目の前で夫を惨殺される―

 建武の新政において、光厳朝を支えた公家たちは当然のごとく冷遇された。名子の夫・西園寺公宗は幕府との交渉役であったからやはり冷遇されており、北条高時の弟・泰時が頼ってくるとそれをかくまい、建武政権の混乱ぶりを横目に後醍醐暗殺と持明院統の復権の陰謀をめぐらし始める。
 しかし建武2年(1335)6月22日に陰謀が露見して公宗と日野資名・氏光父子らがそろって逮捕された。陰謀を密告したのは公宗の弟・西園寺公重であった。直後にこれと連動するかのように北条時行が関東で挙兵(中先代の乱)、慌てた後醍醐は8月2日に公宗および日野氏光を処刑してしまう。

 『太平記』は名子と公宗の夫婦の別れを劇的に描写している。当初公宗は出雲への流刑と発表され、中院定平の屋敷に身柄を監禁されており、名子は定平のはからいで配流前日に公宗と面会できた。このとき名子は妊娠中で、公宗は「生まれてくる子が男子であれば、将来を悲観せずにしっかり育ててやってくれ」と名子に諭し、家伝の琵琶の秘曲の楽譜を渡した。名子はますます悲しみがつのって言葉も出ず、顔も上げられずに泣くばかりであったという。
 やがて名和長年が兵を連れて公宗の身柄を引き取りに来たので、名子は垣根の裏に隠れて様子をうかがった。すると定平が長年に「早(はや!)」と声をかけ、これを「早く殺せ」の意味ととった長年は公宗にのしかかってその首をかき切ってしまった。夫の惨殺を目撃してしまった名子は「あっ」と叫んで気絶、侍女たちに抱えられて北山の西園寺邸へ帰って行った。
 まもなく西園寺邸は公重に奪い取られ、名子は仁和寺の近くの粗末な家に移り住んだ。そして公宗の死から百日目に名子は無事に男子を産んだ。間もなく中院定平が使者を送って「男児ならば引き渡せ」と伝えてきたが、公宗の母・春日局が「生まれはしたが母親の状態が悪かったためにすぐ死んでしまった」とごまかし、どうにか公宗の忘れ形見を守りきることができた。この男子が西園寺実俊となるわけだが、『太平記』のこの記述はきわめて劇的かつ詳しい描写で、そのまま事実を書いているのかどうか疑問もある。一方、名子本人の手になる『竹向きが記』上下巻は建武政権期の三年間を完全に飛ばしており、公宗の死と実俊の誕生について名子自身が語る部分がない。このため『太平記』のこの部分は『竹向きが記』に本来書かれていたが失われた部分(中巻?)を引き移したものではないか、との説も存在する。

―息子・実俊の復権を実現―

 やがて足利尊氏の反乱により建武政権は崩壊。後醍醐が南朝を立てるものの、京都では持明院統の朝廷が復活した。これにともない公宗の遺児・実俊も復権することとなり、建武4年(延元2、1337)に三歳の実俊は洞院公賢の屋敷で「真名の祝い」を行って公家社会に復帰した。名子の『竹向きが記』の下巻はこの場面から書き起こされている。
 暦応3年(興国元、1340)には名子と実俊はようやく北山の西園寺邸に戻ることとなった。暦応4年(興国2、1341)12月に実俊が7歳で元服、西園寺家家督も公重から奪い返した。名子は西園寺邸の中の「竹向殿」に居住するようになり、人々から「竹向」と呼ばれ、これが回想録の題の由来ともなっている。
 名子はここにひとまずの宿願を果たすこととなった。しかし夫・公宗の菩提を弔う仏道に専念したい思いもありながら、同時にまだ幼い実俊の後見役として家内安全に気を配らねばならず、公家社会の人づきあいはこなしつつも花鳥風月を愛でる心の余裕はなかった。その気持ちを名子は「なほ晴れ難き心の闇」と『竹向きが記』のなかで表現している。
 貞和5年(正平4、1349)正月に光厳・光明の二上皇が北山の西園寺邸を訪問、実俊は権中納言に昇った。この栄光の記事をもって『竹向きが記』は完結となり、名子はそのしめくくりにこう歌った。

 「もしほ草 かきてあつむる いたづらに うき世をわたる あまのすさみに」
(「この世を生き抜いてきた女が、その思い出をあれこれと思いつくまま書きとめた」の意。「もしほ草」は塩をとるためにかき集める海藻のことで、「書き集める」に掛けている。「あま」も「尼」と同時に「海人」に掛ける)
 「なき跡に うき名やとめん かき捨つる 浦の藻屑の 散り残りなば」
(あの人が死んでしまったあともこの世にとどまり、あれこれと書き散らしてしまったものだ)

 しかしその後も西園寺家は波乱が続いた。幕府の内戦「観応の擾乱」のなかで南朝が一時北朝を接収する「正平の一統」があり、南朝にとりいった公重により実俊はまたも北山邸と西園寺家家督を奪われてしまう。結局、南朝軍の敗走と公重の南朝帰参で実俊は家督と屋敷を取り返しているが。

 延文3年(正平13、1358)2月23日、名子は波乱の生涯を閉じた(「愚管記」)。享年は不明だが延慶3年(1310)生まれとの説を採れば49歳ということになる。息子の実俊は24歳の立派な成人となっていた。
 名子の死の翌年に編纂された『新千載和歌集』の恋の部には、名子の歌が一首採られている。

「忘れじよ 我だに人の 面影を 身にそへてこそ 形見とも見め」
 ―私だけでも、あの人の面影を忘れずにいよう。その面影をいつも自分と共にして形見としていよう―

参考文献
五條小枝子「『竹むきが記』研究」(広島女学院大学博士論文)
松本寧至「西園寺名子」(歴史読本1991年4月号「特集『女太平記』南北朝の女性たち」所収)
深津睦男『光厳天皇』(ミネルヴァ書房・日本評伝選)
歴史小説ではそれこそ小説の主人公にできぞうな、劇的な生涯の女性なのだが、今のところ主役にしたものは存在しない模様。森真沙子『廃帝』(2004)は光厳天皇を主人公とした異色の小説だが、光厳の目から見た名子が印象的に描かれる。

日野康子
ひの・やすこ1368(応安元/正平23)-1419(応永26)
親族父:日野資康
兄弟姉妹:日野(裏松)重光・烏丸豊光・日野栄子(足利義持正室)
夫:足利義満
養子:足利義嗣・聖久(喝食御所)・後小松天皇
官職准三后
位階従二位
生 涯
―天皇の「母」となった義満第二の正室―

 権大納言・日野資康の娘。叔母に足利義満の最初の正室である日野業子がいる。父の資康、弟の重光はいずれも義満の側近公家であり、康子も早くから義満と接触があったと考えられる。
 康子が義満の妻妾の一人に加わったのは応永元年(1394)ごろと見られる。応永2年(1395)4月に義満が父・義詮の供養のために相国寺で法華八講に捧げ物を献じた「裏松殿」が康子のことと推測され、応永7年(1400)4月28日に義満が広橋仲子(後円融の生母、崇賢門院)と共に広橋邸を訪れた際に、重光の姉と明記された「二品局」が同行したと『吉田家日次記』に記されているのが確実な史料上の初出という。「二品」とあることからこの時点ですでに従二位に叙されていたと考えられ(応永9年頃にも「二位殿」と書かれている)、すでに義満と別居していた叔母・業子に代わって周囲からは事実上の正室の扱いを受けていたようである。
 康子は義満が建設した「北山第」内に住まいを与えられ、そのために「寝殿」「南御所」などと呼ばれている。前述の広橋仲子のほか、義満の側室たち、義満の娘・喝食御所らとは親しいつきあいをしていたようで、彼女たちと共に義満に同行して各地への旅行に出かけている。また義満の愛妾の一人「池尻殿」とは同族かかなり近い縁者だったとみられ(康子の生母説もあるがやはり無理がある)、しばしば行動を共にしている。
 応永12年(1405)に業子が死去すると、その跡を継いで正式に義満の正室となった。

 応永13年(1406)12月26日、後小松天皇の生母・三条厳子(通陽門院)が危篤となった。義満は「天皇が一代のうちに二度の諒闇(父母のために一年服喪すること)を行うのは不吉」と強弁し、それを避けるために後小松に仮の母、「准母」を立てることを日野重光や一条経嗣ら公家衆に提案した。重光らは後小松の祖母・仲子を准母に立てようと提案したが義満は却下、直接口にはしないものの自身の妻・康子を准母に立てるのが彼の真の狙いであった。
 公家たちはその意向を汲み、翌27日に厳子が死去すると、その夜のうちに康子を後小松の「准母」に立て准三后に叙する宣下が出された。これにより康子は後小松天皇の「母親」の立場となり、翌応永14年(1407)3月5日には「北山院」の女院号が贈られることとなる。3月23日に女院となった康子の「入内始」が挙行され、北山第から内裏まで華美な大行列を作って康子は参内し、「息子」となった後小松天皇と対面している。
 この年の2月に康子は義満・喝食御所と共に奈良へ旅し、女院となった直後の4月にはやはり義満・喝食と共に伊勢神宮に参詣し、5月には丹後、10月には高尾で紅葉狩りと、義満と夫婦そろって各地に行楽に出かけている。義満には数多くの側室がいたが、愛娘ともども何かと旅に連れ出しているところをみると正室康子との仲は円満なものであったようだ。ただし康子には生涯子は生まれず、義満が溺愛した義嗣や喝食御所を養子としている。とくに義嗣は寺から戻され還俗すると康子の住む南御所に入って養育され、「南御所若公」などと呼ばれている。

 翌応永15年(1408)5月6日、その栄華の絶頂で義満は急死した。康子は北山第にそのままとどまり女院「北山院」として遇せられてはいたが、義満のあとを継いだ足利義持は何かにつけ義満時代を否定する政策をとり、康子に対しても冷たかった。なお義持の正室は康子の実妹・日野栄子だったが彼女が夫と姉の間を取り持った様子はない。
 義満死後の康子の周囲はかなり寂しいものであったらしい。彼女の養子でもある義嗣も兄・義持との長い確執の末に応永25年(1418)に殺害されている。そして翌応永26年11月11日に康子は51歳で死去した。嵯峨の真浄院で荼毘に付されたが葬儀は「天皇の母」にしては簡素なもので、「息子」である後小松もいっさい仏事に関与せず、諒闇も行われなかった。法名を「北山院殿雲岳真高禅定尼」という。
 「北山院」康子の死を待っていたかのように、義持はその死の一カ月後に北山第の解体を開始する。多くの御所が解体あるいは移築され、舎利殿金閣など一部を残して「鹿苑寺」となるのである。

参考文献
臼井信義『足利義満』(吉川弘文館・人物叢書)
小川剛生『足利義満・公武に君臨した室町将軍』(中公新書)
今谷明『室町の王権』(中公新書)ほか
歴史小説では足利義満を主人公とし、いわゆる「皇位簒奪計画」に触れたものであれば少なくとも名前は登場する。ただし個性のあるキャラとして描かれてはいない。
漫画作品では石ノ森章太郎『萬画・日本の歴史』第20巻は義満時代をテーマとしており、「准母」の一件のくだりでチラッと康子が登場している。

平井九郎ひらい・くろう?-1331(元徳3/元弘元)
生 涯
―比叡山との戦いで戦死した近江武士―

 近江国平井(現・滋賀県愛知郡愛荘町平居)の武士。『太平記』の流布本に元徳3年(元弘元、1331)8月28日の唐崎浜の戦いにおける六波羅探題側の戦死者として名が出ているが、古態である西源院本には同じ場面の戦死者として「平井九郎」ではなく「平井四郎康景」と「平井又八」の名がある。また流布本では「平井九郎主従二騎」が戦死とあるが、西源院本ではまた異なる記述になっている。

平井又八ひらい・またはち?-1331(元徳3/元弘元)
生 涯
―比叡山との戦いで戦死した近江武士―

 近江国平井(現・滋賀県愛知郡愛荘町平居)の武士。『太平記』の古態を残す西源院本にその名が出ているが、流布本では彼の名の代わりに「平井九郎」の名がある。近江守護である佐々木時信の配下として元徳3年(元弘元、1331)8月28日の唐崎浜の戦いに出陣、比叡山延暦寺の僧兵らと戦ううち、地形に不案内であったため僧兵らに討ち取られてしまった。

平井康景ひらい・やすかげ?-1331(元徳3/元弘元)
生 涯
―比叡山との戦いで戦死した近江武士―

 近江国平井(現・滋賀県愛知郡愛荘町平居)の武士。『太平記』の古態を残す西源院本に「平井四郎康景」とフルネームが載っているが、流布本では彼の名はなく「平井九郎」という人物が登場している。近江守護である佐々木時信の配下として元徳3年(元弘元、1331)8月28日の唐崎浜の戦いに出陣、比叡山延暦寺の僧兵らと戦ううち、地形に不案内であったため主従八騎まとめて僧兵らに討ち取られてしまった。

広橋経泰
ひろはし・つねやす生没年不詳
官職修理亮・肥後権守?
位階従五位下→従四位下?
生 涯
―顕家配下で奥州で活躍―

 北畠顕家配下として活動している人武うtだが、その出自はまったく不明である。だが「広橋」と言うと藤原北家・日野流の広橋家が考えられ、顕家に従って奥州に下った「公家武将」の一人であった可能性がある。
 建武政権発足直後の元弘3年(正慶2、1333)に顕家が義良親王を奉じて奥州に下ると、その奉行の一人として活動している。建武2年(1335)足利尊氏が関東で挙兵し、顕家がそれを追って大軍で上洛すると、その留守を守って奥州にとどまったらしい。

 「広橋修理亮経泰」の活動が確認できるのは延元元年(建武3、1336)3月8日に経泰が陸奥国伊達郡河俣城を攻撃したとする『相馬文書』の記録からである。経泰は南朝方の相馬胤平と合流して3月15日に信夫郡荒井城を落とし、小高城にこもる北朝方の相馬光胤と対峙した。5月には顕家が畿内から戻って来て小高城を攻め落とし、8月に入ると経泰・胤平は常陸に進出して北朝方の佐竹貞義と対決する。
 このとき常陸では那珂郡瓜連城に南朝方の楠木正家那珂通辰がこもり、北朝方の佐竹氏と対決していた。経泰・胤平および常陸の南朝方・小田治久はその支援に向かい、佐竹側についた伊賀盛光らと戦っている。しかしこの年いっぱいの常陸での戦いは南朝方の敗北に終わり、瓜連城も12月に陥落した。

 翌延元2年(建武4、1337)4月9日に経泰は国魂行泰らを率いて、小高城に拠る中賀野義長相馬胤時らを攻撃した(相馬文書)。同年6月24日にも小高城を攻撃したが(大国魂神社文書)、以後の消息は知れなくなる。ただし『結城文書』の興国3年(康永元、1342)に現れる「広橋肥後権守」が同一人物の可能性ありと指摘されている。

参考文献
大島延次郎『北畠顕家・奥州を席巻した南朝の貴族将軍』(戎光祥出版・中世武士選書22)
『茨城県の歴史』(山川出版社)ほか
PCエンジンCD版南朝方・北畠顕家の配下武将として陸前に登場する。初登場時の能力は統率61・戦闘48・忠誠77・婆沙羅73。南朝武将にしては婆沙羅高め。

広橋仲子
ひろはし・なかこ1339(暦応2/延元4)?-1427(応永34)
親族父:善法寺通清 母:智泉聖通 養父:広橋兼綱
兄弟姉妹:紀良子(足利義満生母)・輪王寺殿(伊達政宗正室)
夫:後光厳天皇
子:後円融天皇・永助入道親王・尭仁法親王・尭性法親王
官職准三后
生 涯
―長寿だった後円融天皇の生母―

 石清水八幡宮の神官・善法寺通清の娘。本来は「紀」姓であるため「紀仲子」と表記されることもある。二代将軍・足利義詮の側室で三代将軍・足利義満の生母となった紀良子とは実の姉妹である。
 広橋兼綱の養女となり、後光厳天皇の後宮に典侍として入った。はじめ「三位局」と呼ばれた仲子は後光厳の深い寵愛を得て、緒仁親王(=後円融天皇)ほか四人の皇子を産んでいる。このおかげで養父の広橋兼綱は広橋家としては初の権大納言にまで昇進した。
 応安4年(建徳2、1371)3月に後光厳が緒仁に譲位し、仲子は「国母」となった。院政を始めた後光厳だったが応安7年(文中3、1374)正月に死去し、以後は後円融の親政となり、仲子はその生母として影響力を持った。康暦2年(天授6、1380)に准三后となり、北山にあるその住まいの名から「梅町殿」とも呼ばれた。

 後円融が子の後小松天皇に譲位して院政を始めた直後の永徳3年(弘和3、1383)2月1日、後円融が寵妃・三条厳子(後小松の生母)を太刀で峰打ちにし、大怪我を負わせるという事件が起こった。厳子は出産のため実家に里帰りしてから戻ってきた直後で、このとき後円融の呼び出しに応じなかったために後円融が激高したとされるが、その後の経緯からすると後円融は厳子と義満の密通を疑った可能性も高い。
 厳子が運び出されたあとも後円融は興奮して太刀を手にしたまま一室に閉じこもった。このとき生母の仲子が駆けつけ、後円融に酒を一献進めてひとまず落ち着かせ、その隙に女官たちが太刀をとりあげている。仲子は重傷を負った厳子を実家の三条邸に帰らせ、騒ぎを収拾した。

 その後も後円融は按察局という妃が義満と密通したと疑って御所から追い出している。2月15日に義満側からの弁明を伝えるべく日野資康広橋仲光(仲子の義理の兄弟)が御所にやって来ると、後円融は義満が自分を流刑にするのではと思いこんで錯乱し、持仏堂にたてこもって「自害する」と騒ぎだした。ここで再び仲子がやって来て後円融をなだめすかし、ひとまず自身の住まいである梅町殿へと連れ帰った。その後も事態の収拾には仲子の力が大きかったようで、母の説得で後円融も気持ちを落ち着け、義満も密通をしていないと誓う起誓文を出して和解にこぎつけた。
 この事態収拾を評価されたから、というのはうがった見方かもしれないが、それから間もない4月25日に仲子は「崇賢門院」の女院号を宣下されている。

 明徳4年(1393)4月26日に後円融が36歳の若さで死去した。すでに南北朝も統一し、世は足利義満が絶大な権勢をふるう時代となっていた。仲子としては後円融の件では義満に複雑な感情を持っていたかもしれないが、義満とは叔母・甥の関係でもあり、義満の妻妾らも含めた家族ぐるみの交流は盛んに行っている。やがて仲子の住む北山の地に義満が壮大な「北山第」を建設し、仲子の住む「梅町殿」はその敷地内に含まれてしまうこととなる。応永8年(1401)には義満の7歳になる娘・聖久が仲子のもとに喝食として預けられ、以後「喝食御所」と呼ばれるようになる。
 後小松の祖母ということで朝廷でも一定の影響力を保持していたようで、応永13年(1406)12月に後小松の生母・厳子が死去した際に後小松の「准母」を決めねばならないと義満が言い出した折には、公家たちからその候補として仲子の名が挙がっている。しかし義満は仲子が後小松の実の祖母であることを理由に退け、結局は義満の妻・日野康子が准母に立てられることとなった。

 応永15年(1408)5月に義満が死去、応永20年(1413)7月には姉妹の紀良子も死去した。仲子は当時としてはかなりの長命を保ち、90歳前後まで生き延びている。
 応永31年(1424)正月に真乗院の塔主・恵明が夢の中で「彦仁王は優れた人物で皇位を継ぐにふさわしい」と何者かに言われ、それを仲子に話すという「事件」があった(「看聞御記」)彦仁王とは崇光天皇の曾孫で、崇光系の伏見宮家は後光厳系と皇位継承をめぐって対立してきた経緯があった。しかしこのとき在位していた後小松の子・称光天皇は病弱で子もなく、彦仁王が次期天皇有力候補として浮上して来ていたのである。そんな折にこの夢の話が出たのはたぶんに政治的背景があったろうし、後光厳系のゴッドマザーである仲子がその夢の話を聞いてかなり乗り気になって周囲に広めたとされることは、彼女もそれしか皇位継承の方法がないと決意したことを示していると思われる。称光自身がこうした動きに反発したこともあり、しばらく話は先送りにされたが、後に称光が死ぬと彦仁が即位、後花園天皇となる。

 応永34年(1427)5月20日、崇賢門院・仲子はついにその長い生涯をとじた。92歳であったとされ、それならば生年は建武3年(延元元、1336)ということになるが、同年に姉妹の良子も生まれているのでやや不自然である。89歳説、94歳説もあり、どちらが正しいかで良子との姉妹関係も変わって来る。

参考文献
臼井信義『足利義満』(吉川弘文館・人物叢書)
今谷明『室町の王権』(中公新書)ほか
小川剛生『足利義満・公武に君臨した室町将軍』(中公新書)
桜井英治『室町人の精神』(講談社学術文庫)
歴史小説では足利義満を主人公とする平岩弓枝『獅子の座』に登場、実はかなりの重要人物となっている。

広橋仲光
ひろはし・なかみつ1342(康永元/興国3)-1406(応永13)
親族父:広橋兼綱
兄弟姉妹:広橋忠業・広橋綱厳・広橋仲子(崇賢門院・後円融生母)
妻:日野幸子
子:広橋兼宣・広橋兼時・広橋兼俊ほか
官職蔵人・右少弁・左少弁・権右中弁・左中弁・蔵人頭・参議・権中納言・大宰権帥・南都伝奏・権大納言
位階従四位下→従四位上→正四位下→正四位上→従三位→正三位→従二位→従一位
生 涯
―義姉のおかげで大出世―

 権大納言・広橋兼綱の子。義理の姉(兼綱の養女)後光厳天皇の寵妃で後円融天皇の母となった広橋仲子(崇賢門院)がいる。
 延文3年(正平13、1358)に元服。蔵人、右少弁、左少弁を経て、応安7年(文中3、1374)には権右中弁、左中弁と進み、位階も従四位下から一気に正四位下へと上がった。この速い出世も義姉の仲子が後円融天皇の生母であったためである。なお仲光の正室・日野幸子日野資名の娘で、仲子同様に後光厳の後宮に典侍として入っていたが、仲光と彼女が「密通」し、結局幸子を正室に迎えたという経緯があったという(「公豊公記」康暦2年6月24日条)
 永和2年(天授2、1376)に蔵人頭、永和4年(天授4、1378)には従三位・参議、さらには権中納言へと昇り、後円融朝廷の中核となってゆく。永徳元年(弘和元、1381)には従二位に叙されて大宰権帥も兼ねる。
 永徳3年(弘和3、1383)2月に後円融が妃の三条厳子を太刀で打ちすえる事件を起こし、按察局という妃を義満と密通した疑いで追放すると、義満側から弁明の使者として日野資康と共に広橋仲光が派遣されている。このとき後円融は自分を流刑にする使者だと思いこんで錯乱、自害すると騒ぎ出す事態になってしまった。

 嘉慶2年(元中5、1388)に権大納言に昇進し、南北朝統一後の応永2年(1395)に辞任。翌応永3年(1396)10月20日に従一位に叙せられ、その翌日に全ての官位を辞して出家、「曇寂」と号した。ただし応永年間には奈良の寺社との連絡役である南都伝奏を務めて義満の政治を支えている。
 それからおよそ十年後の応永13年(1406)2月12日に65歳で死去した。

参考文献
小川剛生『足利義満・公武に君臨した室町将軍』ほか

広沢重高ひろさわ・しげたか
 NHK大河ドラマ「太平記」の第19回に登場する武士(演:小寺大介)「広沢十郎」の名で役名表に載っているが「広沢十郎重高」と名乗っている。上野国広沢郷(現・桐生市広沢)の武士で、幕府の命を受けて出陣の準備に追われる足利屋敷に到着を告げる場面のみの登場。上野広沢郷は足利の所領の一つで、ここに入った分家が広沢氏を名乗っている。


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