日野資朝
| ひの・すけとも | 1290(正応3)-1332(正慶元/元弘2) |
親族 | 父:日野俊光 兄弟:日野資名・日野(柳原)資明・律師浄俊・三宝院賢俊
子:日野朝光・日野邦光(阿新丸)・慈俊・女子 |
官職 | 蔵人・右少弁・左少弁・文章博士・記録所寄人・権右中弁・春宮亮・蔵人頭・右兵衛督・参議・左兵衛督・山城権守・検非違使別当・権中納言 |
位階 | 従五位下→従四位下→従四位上→正四位下→正四位上→従三位→贈従二位(明治17年) |
生 涯 |
後醍醐天皇の腹心となり、その討幕計画の先駆けとなって悲劇的な最期を遂げたことで有名な公家。ある意味南北朝動乱は彼によって幕を開けるとも言える。
―異端の青年公家―
日野家は代々儒学を家業とする家柄であるが、資朝はかなり血気盛んな異端児であったらしい。兼好法師『徒然草』は第152〜154段に資朝の性格を伝える逸話を紹介している。
正和4年(1315)12月、歌人として知られる持明院派の公家・京極為兼が幕府に対する陰謀の疑いで逮捕され、佐渡島へ配流となっている。為兼が武士たちに囲まれ六波羅探題に連行される姿を一条付近で見た当時26歳の資朝は「ああ羨ましい。この世に生きた思い出に、あのようになりたいものだ」と口走ったという(153段)。ただこの話はその後の資朝がまさにその通りの結果になることを念頭においた創作の可能性もある。
あるとき西大寺の静然上人が内裏に参上した。その腰が曲がり眉も白い姿に西園寺実衡が「なんと尊いお姿か」とあがめたてると、資朝は「年を取ってるからですよ」と身もフタもないことを口にした。後日、毛も抜けて汚く老いさらばえた犬を連れて来て「このお姿は尊いではありませんか」と実衡に見せてからかった(152段)。
あるとき東寺の門で雨宿りをしていた資朝は、そこにたむろしていた障害者たちの異様な姿を「たぐいなき曲者なり、もっとも愛するに足れり(他に例のない変わり者たちだ。これこそ珍重すべきではないか)」とじっくり鑑賞していた。しかし見ているうちに興味を失い気分が悪くなって来て、「素直で珍しくないものが一番いい」と帰宅した。そして「これまで枝や幹が異様に曲がった鉢植えを見て楽しんでいたのは、あの障害者たちを見ていたのと同じであったか」と不快を感じ、鉢植えをすべて捨ててしまった(154段)。
一連の逸話は資朝という人物が、権威を認めぬどころか嘲笑し、一般人とはいささか異なる感性を持ち激情型の「過激派青年公家」だったことを物語る。
日野資朝の家は代々持明院統派の公家で、このため資朝も当初は持明院統派に属し、とくに学問好きの花園上皇と勉強会を通じて親しく交流していて、花園上皇の日記にも何度か登場している。元応2年(1320)ごろには玄恵の説く宋学(当時最新の外来学説で、大義名分・理論と実践を重んじる)の研究会に熱心に通うようになり、このつながりで日野俊基(同じ日野家で遠い親戚だが資朝より家格はかなり落ちる)らと共に後醍醐天皇に接近するようになった。その一方で花園との交流も続いており、宋学論議や禅宗論議を花園と楽しんでいた様子も花園の日記からうかがえる。
しかし元応3年(1321)から後醍醐の親政が開始されると蔵人頭さらに参議に抜擢され、そのブレーンとして完全に大覚寺統派に属すことになり、怒った父・俊光は元亨2年(1322)11月に資朝を勘当し、父子の縁を断ってしまった。やはり後醍醐の側近となる千種忠顕も同様に父から勘当されており、洞院実世も父・公賢と袂を分かっている。後醍醐周辺はこのような異端児・勘当息子たちのたちの吹き溜まりとなっていたようだ。
なお、「元亨」という元号の制定には資朝が深くかかわっていたともされる。
―正中の変の首謀者に―
元亨3年(1323)の年明けに、資朝は京の市政・警察を担当する検非違使の別当(長官)となった。前任者は同じく後醍醐腹心の北畠親房で、この人事は親政推進に向け京の支配強化を狙う後醍醐の意図があったとみられている。このころ室町院領の問題や皇位継承問題で幕府の存在を敵視するようになった後醍醐の周辺では討幕計画が具体的に寝られ始め、資朝はその中心となったらしい。この年の11月に資朝は勅使として鎌倉に下っており、花園はその意図を日記で怪しんでいる。『増鏡』によればこのころ資朝は山伏に変装して東国をめぐり、討幕の協力者を探していたとされる。
恐らく資朝が引きこんだのだろう、美濃源氏の土岐頼兼・頼員・多治見国長らの武士たちが討幕計画に参加した。資朝と俊基、四条隆資、洞院実世ら公家たちと土岐・多治見ら武士たちは計画の密談を始めるが、幕府に怪しまれぬようにと「無礼講」つまり半裸の女性が乱舞する乱痴気騒ぎのパーティーを装ったことが『太平記』そして花園上皇の日記に見える(この無礼講には後醍醐自身の参加もあったと思しい)。無礼講ばかりではかえって怪しまれると玄恵を呼んで漢学講座のようなこともしたと『太平記』は伝える。
資朝らは元亨4年(1324)9月23日に行われる北野社の祭礼で六波羅の兵備が手薄になるのを機に一挙に軍事行動を起こそうと計画を練った。しかし計画の失敗を恐れた土岐頼員が六波羅探題に密告、9月19日早朝に六波羅軍は土岐頼兼・多治見国長邸を襲撃して両名を討ち取った。六波羅探題は午後には首謀者として日野資朝・俊基の引き渡しを朝廷に求め、深夜二時ごろになって資朝は六波羅に出頭、俊基ともども逮捕された。二人は鎌倉に送られて訊問を受けたが、罪の一切を資朝がかぶり、後醍醐は事件に無関係にされ、俊基も証拠不十分として釈放された。資朝のみが事件の首謀者として佐渡島に流刑となった。この事件は厳密には「元亨」の年号のうちに起きたのだが、直後の改元をとって「正中の変」と呼ばれる。
―佐渡の刑場の露と消える―
その後、嘉暦元年(1326)5月に父・俊光がこの世を去った。5年後の元徳元年(1331)に資朝は亡き父母の供養のため自筆の法華経を佐渡の妙宣寺に奉納している。そしてこの年8月、後醍醐天皇の二度目の討幕計画が発覚、笠置山の挙兵に至るがひとまず敗北に終わる。翌元弘2年(正慶元)3月に後醍醐は隠岐へ配流となり、6月には日野俊基や北畠具行など後醍醐側近の公家らが相次いで処刑される。
佐渡の日野資朝に対しても処刑命令が下り、6月2日に斬刑に処された。『太平記』では父が処刑されると知った資朝の子・阿新丸(くまわかまる)が佐渡に渡り、処刑の前に一目会おうとしたが果たせず、夜中に守護の本間山城入道の屋敷に忍び込んで、斬首をした本間三郎を殺して仇討をしたという有名なエピソードが語られている。この阿新丸はのちに日野邦光として南朝の中核となったとされるのだが、資朝の処刑を元弘の乱勃発前にずらしたうえに独立した説話の性格が強く、そのまま史実であるかはかなり疑わしい。
『増鏡』によると処刑直前に資朝は「四大本無主 五蘊本来空 将頭傾白刃 但如鑚夏風(四つの元素にもともと主はなく、五つの感覚ももともと空(くう)である。さあ白刃に首を傾けよう、一瞬の夏風が吹くようなものだ)」と辞世の頌(じゅ)を詠んだとされる。これは中国・晋の肇法師が秦王に処刑される時に詠んだ「四大元無主 五陰本来空 将頭臨白刃 猶似斬夏風」をもじったもの。元の使者として来日し北条時宗に斬られた何文着が詠んだ頌「四大元無主 五蘊悉皆空 両国生霊苦 今日斬秋風」もこれを下敷きにしており、資朝の宋学への傾倒をうかがわせる。なお『太平記』では「五蘊仮成形 四大今帰空 将首当白刃 截断一陣風」となっていて大意は同じだが季語がないなど微妙な違いがある。
資朝の墓は自身が法華経を収めた佐渡・妙宣寺にある。のちに資朝は後醍醐による「建武中興」の先駆け(最初の犠牲者)として南朝正統論の広まりと共に評価が高くなり、明治になって「南朝忠臣」が軒並み神格化されるなか、明治9年(1876)に佐渡・真野宮に祭神として合祀された。さらに同じ佐渡の大膳神社、後醍醐を祭る奈良の吉野神宮にも合祀されている。
資朝の長男・朝光の子の資夏と、資朝の子で仇討ちで名高い「阿新」こと邦光は南朝に仕えた。一方で資朝の兄・資名と弟の三宝院賢俊は持明院統=北朝貴族の中心となって足利家との連携に奔走し、やがて足利将軍家と度重なる縁組をして室町時代の有力貴族となる基礎を築くことになる。
参考文献
森茂暁「太平記の群像」
村松剛「帝王後醍醐」ほか
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大河ドラマ「太平記」 | 第5回のみの登場(演:佐藤文裕)。正中の変の直後、日野俊基(演:榎木孝明)と共に鎌倉に護送されてくる場面で姿を見せるだけで、ここでも俊基の陰に隠れてしまった形。
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その他の映像・舞台 | 1983年のアニメ「まんが日本史」では森功至が声を演じた。 |
歴史小説では | かなり面白い人物なのだが、南北朝動乱の序盤で退場してしまうため、小説類では意外なほど印象が薄い登場しかしていない。二度の討幕計画に関与し楠木正成と関わることにされやすい日野俊基に食われてしまった感もある。『太平記』で印象の強い阿新丸の仇討は歴史小説でもそのまま採用されてる例が多いが、資朝はあくまで「阿新丸の父」として出てくるにすぎない。
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漫画作品では | 最初の正中の変に関わっていることもあって、俊基ともども登場率はかなり高い。学習漫画系の南北朝もの、太平記ものではまず皆勤。ただ特に個性が描かれているわけではない。 |